淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
永禄十六年(1573年) 三月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 竹中半兵衛
将軍宣下が終わってから、半月余りが過ぎた。
京で見た光景は、今も忘れ難い。二月二十五日、本国寺で足利左馬頭様が征夷大将軍に任じられた。朝廷からの宣下を受け、足利将軍家の新しい当主として武家を束ねることになられたのだ。
目出度いことである。少なくとも、本来ならばそうであった。
私は殿の御供として参列したが、あの日の本国寺には祝いの席とは思えぬ静けさがあった。諸大名には招きの文が送られていたものの、その多くが参列を辞退していたのだ。遠国ゆえ、領内が落ち着かぬゆえ、隣国との備えが必要なゆえ。理由はそれぞれだが、祝いの使者と品だけを寄越す者が多かった。
平島の大御所様と四国からの御一行が参られたことは、せめてもの救いであったろう。だが、将軍家を支えるべき管領や侍所頭人までもが姿を見せぬとなれば、誰しも何かあったのかと考える。
実際、何も無いわけではない。京では、新しい公方様と殿の仲が思わしくないという噂が広まっていた。私も殿の御傍でいくらか話を聞いている。だが、諸大名が何を恐れ、何を考えて参列を取りやめたのか、一人一人の胸中まで分かる筈もない。
ただ、空いた席の多さは、誰の目にも明らかであった。
将軍宣下に先立ち、勅使から平島の大御所様へ帝の御言葉が伝えられた。将軍職をお返しになる御決断を嘉するというものだ。大御所様は感激して涙ぐんでおられたが、その時、公方様は僅かに顔を顰められた。
もっとも、表情を乱されたのはその一度だけだった。その後は平静に振る舞っておられた。幕臣には険しい顔をした者もいたが、公方様が何をお考えだったのか、私には分からない。大御所様の御決断が無ければ、将軍家の争いはなおも続いたかもしれぬ。
祝いの席というのは、何とも難しいものだ。
文机に向かい、京での出来事を思い返していると、廊下から声が掛かった。竹若丸様が、私をお待ちだという。今日のお話は、先日から約束していた。将軍宣下が終わったら、その様子を聞かせてほしいと頼まれていたのだ。
私は文を片付け、若君の部屋へ向かった。
部屋に入ると、竹若丸様は机に向かっておられた。紙には幾つかの文字が並んでいる。私に気づかれると筆を置き、膝の上に手を揃えられた。
「半兵衛。来てくれてありがとう」
「お待たせいたしました、若君」
「京のお話を聞かせてくれる?」
「はい。そのために参りました」
若君は姿勢を正された。その目には、いつものように知りたいという気持ちが表れている。
「左馬頭様は、もう将軍様になられたの?」
「二月二十五日に、帝から征夷大将軍に任じられました。今は新しい公方様にございます」
「本国寺で?」
「はい。以前、新太郎殿からお聞きになったとおりです」
「じゃあ、大勢の大名の人達がお祝いに来たんだね」
私はすぐに答えられなかった。若君は、皆が集まって新しい将軍を迎えると教わっている。そのとおりになると考えていても不思議ではない。
「実は、参列なさらなかった大名が多かったのでございます」
「……来なかったの?」
「はい。御祝いの使者や品を送られた方は大勢おります。ですが、御本人は京へ来られぬという方が多うございました」
「どうして?」
「遠くにお住まいであったり、領内に気掛かりなことがあったりと、事情は様々です。それに、今の京では、どなたに近づき、どなたと距離を置くかを慎重に考える大名もおります」
「将軍様のお祝いなのに?」
若君は首を傾げられた。私は頷き、少し言葉を選んだ。
「将軍様のお祝いだからこそ、でございましょう。参列すれば、新しい公方様をお支えすると天下に示すことになります。ですが、京で争いが起これば、参列したことが後にどう受け取られるかを案じる方もおられます」
「お祝いに行くと、争いに巻き込まれるの?」
「必ずそうなるわけではございませぬ。ただ、そうなるかもしれぬと恐れれば、行くのを控える者も出てまいります」
若君には少々難しい話だろう。だが、参列しなかった者が皆、公方様を軽んじたとは限らない。事情を知らぬまま不忠と決め付けることも出来ぬ。
「来なかった人達は、将軍様に叱られないの?」
「叱られることもありましょう。ですが、言葉で咎めたからといって、その方々がすぐ京へ来るとは限りませぬ」
「……そうなんだ」
若君は膝の上に置いた手へ目を落とされた。しばらく待っていると、顔を上げてこちらを見られた。
「半兵衛。前に、新太郎と権威と権力のお話をしたんだ」
「左様でございますか」
「半兵衛にも、前に二つは同じじゃないって教えてもらったでしょう。新太郎は、どちらか一つだけということではないって」
「よく覚えておいでですな」
「それなら、将軍様は……大名の人達が来なかったから、権威が小さくなったの?」
難しい問いだった。
六つになったばかりの若君が、その言葉の意味をどこまでお分かりかは分からない。だが、以前教わったことと、今聞いた出来事を結び付けて考えておられることは確かだ。
「将軍に任じられたという御立場は、変わりませぬ。参列した方が少なかったからといって、帝から頂いた将軍職が消えてしまうわけではございません」
「うん」
「ですが、多くの武家が将軍の御言葉を重んじ、御命令に従おうと思っているかどうかは、また別の話でございます。御祝いに集まる方が少なければ、そのことを心配する者もおりましょう」
「将軍様なのに、言うことを聞いてくれる人が少ないかもしれない?」
「そういうことでございます」
若君は考え込まれた。しばらくして、また尋ねられた。
「父上は、お祝いに行かれたんだよね」
「はい。私も殿の御供をいたしました」
「それなら、父上は将軍様のお言葉を重んじているの?」
「殿が将軍家を支える働きを重ねてこられたのは、間違いございませぬ」
「それは公方様のため?」
思わぬ問いに、私は若君の顔を見た。父親の行いを責めているわけではなさそうだ。だが、今の私の答えを、そのまま受け入れてはおられぬらしい。
「父上は前に、朽木が大きくなると、守る人も増えるって言っていたんだ」
「左様でございましたか」
「父上は、その人達を守りたいんでしょう? だから、公方様をお助けするのも、朽木のためなのかなって」
若君は、殿と交わした話を覚えておられたのだ。将軍家への奉仕と朽木を守ること。その二つが、どう結び付くのかを確かめたいのであろう。しかし、殿が何を第一に考えておられるか、私に言い切れるものではない。
「殿が将軍家をお助けしてこられたのは事実にございます。ですが、それが公方様お一人のためなのか、朽木を守るためでもあるのか。殿のお心のすべてを、私が存じているわけではございませぬ」
「両方のため、ということもあるの?」
「はい。将軍家をお支えすることが、朽木のためにもなる場合はございましょう。ただ、此度のことを殿がどうお考えだったのかは、御本人に伺わねば分かりませぬ」
若君は少し考えてから、頷かれた。
「……今度、父上にも聞いてみる」
「それがよろしゅうございましょう」
若君は頷かれたが、なお思うところがあるようだった。殿のお考えについて、私が申し上げられるのはここまでだ。
ところが、若君は別のことを思い出されたらしい。
「そうだ。半兵衛、もう一つ聞いてもいい?」
「何でございましょう」
「父上は、小鼓を打たれたの?」
思わず笑みが漏れた。そういえば、若君は殿が小鼓を稽古なさっていたところを御覧になったと聞いている。
「はい。将軍宣下の翌日、能の席で新しい公方様から求められ、殿は小鼓を打たれました」
「上手に出来た?」
「……そうですな」
どう答えたものか。殿が随分と稽古を重ねておられたことは知っている。小鼓の音が見事であったかと問われれば、私にはそう申し上げることは出来ぬ。けれど、御本人がためらわれた様子は無かった。
「音曲に通じた方々と比べれば、まだ稽古を重ねる余地はございましょう。ですが、殿は公方様の御所望に応じ、最後までお打ちになりました」
「途中でやめなかったの?」
「はい」
「……よかった」
若君の口元が少し緩んだ。
「母上も、雪乃殿も、御婆さまも、父上のお稽古を見ていたんだ。何度も同じところを直していたから、上手く出来るといいなって思っていた」
「そうでしたか」
「私も笛を習っているけど、うまく音が出ないことがあるんだ。父上も大変だったと思う」
私は若君の顔を見た。御自分の手習いのことを思い出し、父親を案じておられたのだろう。何を考えておられたのか、先程までの難しい問いよりも、こちらの方が私にはよく分かる気がした。
「殿も、そのお言葉を聞かれればお喜びになりましょう」
「父上には、もう言ったんだ」
「ほう」
「お稽古を続ければ、今より良い音が出ると思うって」
「それは、心強いお励ましでしたな」
若君は少し恥ずかしそうに目を伏せられた。
公方様の御望みに応じて小鼓を打つことには、単に音を奏でる以上の意味がある。殿はそのことを十分に承知しておられよう。だが、若君が父の小鼓を気に掛けた理由は、もっと素直なものだった。難しいことを続けていた父親が、うまく出来たかどうか。それを知りたかったのである。
「半兵衛」
「はい」
「将軍様のお祝いは、あまり賑やかではなかったんだよね」
「左様にございます」
「でも、父上はちゃんと小鼓を打たれたんだね」
「はい。お引き受けになったお役目を、最後まで果たされました」
若君はそれを聞いて頷かれた。
それでも、若君は、将軍の宣下に集まる人々のことを尋ね、来なかった者達のことを考え、最後には父の小鼓を気に掛けておられた。その一つ一つを、忘れずにいてくださればよい。
「半兵衛。また分からないことがあったら、聞いてもいい?」
「もちろんにございます。私にも分からぬことはございましょうが、その時は御一緒に考えましょう」
若君は微かに笑って、頭を下げられた。
私も一礼して部屋を辞した。廊下にはまだ冬の名残を感じる冷気があったが、庭に差し込む日差しは少しずつ春のものに変わっている。
京で見た空席の多さを思い返した。新しい将軍が生まれたというのに、あの席に集まることをためらう者が少なくなかった。
世が落ち着くには、まだ時がかかるのだろう。
だからこそ、若君には、人の上に立つとはどういうことかを、ゆっくりと学んでいただきたい。
永禄十六年(1573年) 四月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
大広間に並ぶ顔を眺めて、随分と大所帯になったものだと思った。譜代だけではない。近江、若狭、越前、加賀、能登。それぞれの国で兵を預かる者達が、今はこの八幡城に集まっている。以前なら顔を見ればすぐに名が出たものだが、近頃は新たに仕えた国人達の顔を覚えるだけでも一苦労だ。
いや、当主がそんなことを言っていてはいかんな。
上段に腰を下ろすと、広間が静まった。皆が頭を下げる。俺が面を上げるように言うと、居並ぶ男達の視線が一斉にこちらへ向いた。
いよいよ丹波だ。
先月、関白殿下と話した時には、まだ勅命は出ていなかった。永仁様の親王宣下を先に済ませねばならんということだったからな。それがようやく整い、宇津右近大夫頼重の討伐と禁裏御料の回復を命じる勅が朽木に下った。
小野庄と山国庄。長らく禁裏の御料であった土地を宇津が押さえている。朝廷が自力で取り返せるのなら、俺に頼む必要など無い。だが、今の京にはそれだけの兵がない。
朝廷を守り、勅命に応じて武家を率いる。本来なら、武家の棟梁である将軍が担うべき役目だ。だが、義昭にはそれを果たせるだけの兵も、諸大名を動かす力も足りん。朝廷が宇津の討伐を命じた相手も、足利ではなく朽木だった。
だからこそ、この勅命は必ず果たさねばならん。朝廷の求めに応じて兵を動かし、禁裏御料を取り戻す。そうすれば諸大名も公家達も、誰が武家を束ね、朝廷を守れるのかを目の当たりにする。将軍の名は義昭にあっても、実際に兵を率いるのは朽木だ。足利に取って代わるなどと口にせずとも、実績を積めば天下の見る目は変わる。
もちろん、丹波を押さえることは朽木にとっても必要だ。朝廷の勅命と当家の利益が重なる以上、引き受けぬ理由はない。
しかも今は、こちらの力を疑う者までいる。土佐の一条家だ。先の将軍宣下に大名がほとんど集まらなかったことで、朽木にも大した力は無いと思ったらしい。伊勢で会おうと何度か申し入れたが、少将殿は応じない。厄介な誤解だが、口で言い聞かせても仕方がないだろう。
少将殿がどう受け取るかは分からん。だが、勅命を果たしたという事実は残る。もっとも、面子のために無理な戦をするつもりはない。
京を守ろうとすれば、その北にある丹波は放っておけない。摂津を安定させるにも同じことだ。俺が京や摂津へ兵を向けている間に、丹波の国人達が背後で動くようでは困る。
とはいえ、勅命一つで丹波が手に入るほど、世の中は甘くない。
「皆も承知の通り、朝廷より宇津右近大夫頼重を討ち、小野庄、山国庄を禁裏へ戻すよう勅が下った。朝廷から当家に任された役目だ。必ず果たすぞ。まずは丹波の情勢を聞いてもらう。上野之助」
沼田上野之助が一礼して立ち上がった。
「宇津一人を相手にするならば、さほど難しい戦にはなりますまい。ですが、宇津は波多野左衛門大夫、川勝大膳亮と結んでおります。両家が兵を出せば、宇津だけを討つというわけには参りませぬ」
その通りだ。宇津の城を落とせば終わり、という話なら評定にこれほど人を集める必要は無かった。
「赤井悪右衛門は如何だ」
誰かが尋ねると、上野之助は僅かに間を置いた。
「赤井悪右衛門は当家に味方すると申してきました。されど波多野とは縁戚にございます。状況次第では敵に回ることも考えられましょう」
悪右衛門には関白殿下からも話を通している。だが、味方になると言ったから必ず味方になるとは限らん。丹波で朽木に付けば有利だと思えば付くし、不利だと思えば敵に回るだろう。それを責める気はない。国人にとっては自分の家を残すことが第一だ。俺だって同じ立場なら、情勢を見て動く。
伊勢から参った千種三郎左衛門尉が顔を上げた。
「下手をすれば、丹波一国を相手にすることになりましょうか」
「その覚悟は要る」
俺が答えると、広間の空気が少し重くなった。上野之助に目配せをする。
「続けてくれ」
「はっ。さらに、丹後の一色は宇津や波多野らと文を交わし、戦支度を進めております。播磨では小寺、別所、赤松の動きが落ち着かず、本願寺も備えを増しております」
さすがに皆の顔つきが変わった。丹波で一戦するだけなら、朽木の兵力で押し切れる。だが、丹後から若狭を突かれ、摂津で本願寺が立ち上がり、播磨から兵が来るとなれば話は別だ。丹波を攻める兵を減らして各地へ回せば、肝心の勅命を果たせなくなる。
昨年から調べさせてきたことだが、こうして諸将の前で並べると、改めて面倒な話だと思う。
「一度に相手を増やすつもりはない」
俺が言うと、皆の視線が戻って来た。
「丹波、丹後で戦は終わらせる。摂津と播磨にまで火が広がるのを防ぐぞ」
まずは摂津だ。
「摂津には三万の兵を置く。田沢又兵衛、田沢小十郎、日置左門、守山作兵衛、真田源太郎、真田徳次郎。そなた達は平井加賀守を助け、摂津の守りを固めてくれ」
呼ばれた者達が揃って頭を下げた。
「本願寺は特に注意しろ。こちらが丹波に掛かりきりになったところを狙って来るかもしれん。播磨の動きも見逃すな。ただし、相手が兵を動かさぬうちから無用に挑発するなよ」
「はっ、承りました」
日置左門も頭を下げている。五郎衛門には後で別の役を頼むつもりだが、左門にはまず摂津をしっかり守ってもらわねばならん。摂津を守れば、それで背後の心配が消えるわけではない。だが、少なくとも本願寺や播磨の連中に、こちらの留守を好機と思わせぬだけの兵は置ける。
「次は丹後だ。備前守」
鯰江備前守が背筋を伸ばした。
「はっ」
「敦賀に置いている満介と小次郎を、高浜へ戻す。兵も連れて行かせる。それに三千を加える。俺が丹波へ入ったら、そちらは丹後へ兵を進めてくれ」
ざわめきが広がった。無理もない。朝廷から命じられたのは宇津の討伐だ。丹後の一色を攻めよとは言われていない。
「御屋形様。若狭から堀越峠を越えれば、宇津を南北から挟むことも出来るのでは?」
備前守が問い掛けてきた。もっともな意見だ。宇津だけを見れば、その方が早いかもしれない。
「伯父御、それをやっている間に一色が若狭へ入って来たらどうする。峠を越えた兵の背を突かれれば、挟まれるのはこちらだ」
「……なるほど」
「丹後の動きを放って丹波へ兵を集めるわけにはいかん」
広間の端から新庄刑部左衛門の声がした。
「されど、一色は幕府の侍所頭人にございます。攻めれば公方様より御咎めを受けるのではございませぬか」
それも当然の懸念だ。新しく将軍になった義昭が、朽木を好いていないのは分かっている。あの密書の一件だって忘れたわけではない。まして侍所頭人を攻めれば、向こうは喜んで非難してくるだろう。
だが、ここで引くつもりはなかった。
「丹後へ兵を出すのは俺の判断だ。朝廷から命じられたなどと申すつもりはない」
皆が黙っている。
「しかし一色は、朽木が勅命を受けて宇津を討つことを知っている。そのうえでこちらに何の話も無く、宇津らと連絡を取り、兵を整えている。黙って背後を突かれるのを待てというのか」
「いえ、そのようなことは」
「幕府から異議が出れば、その時に答える。勅命の遂行を妨げる動きに備えたと、事実を申し上げればよい。だが、こちらから際限なく戦を広げることもせん」
備前守に向き直った。
「進むのは伊佐津川までだ。そこで一色と丹波の動きを見てくれ。波多野や赤井が一色に加わるなら、無理に進まず守りを固めよ。誰も加わらぬ場合も、俺の命が届くまでは先へ出るな」
「承りました」
「状況次第では、そちらの兵の一部を丹波に回してもらう。そこは連絡を密にして決めよう」
「はっ」
これで一色は自由に動きにくくなるだろう。丹波の国人達も、丹後に朽木の兵がいるとなれば、そちらが気に掛かる筈だ。
上手くいけばな。
戦場では敵も考える。こちらの思惑通りに動いてくれるなどと当てにしてはならん。備前守がどこまで進むかを厳しく定めたのもそのためだ。
「さて、肝心の宇津攻めだ」
皆が居住まいを正した。
「此度は越前、加賀、能登の衆にも働いてもらう。五郎衛門、井口越前守、宮部善祥坊。そなた達はそれぞれ旗頭となり、兵をまとめてくれ」
三人が一斉に頭を下げた。日置五郎衛門は、少し驚いたようにも見えたが、すぐに表情を改めた。
「謹んでお受けいたしまする」
北陸の国人衆を畿内へ大きく動かすのは、これまで控えてきた。所領を守る役目もあり、遠征での兵糧や道の問題もあるからだ。しかし今回は北陸の兵も使う。丹波の国人達がまとまって立ちはだかるなら、こちらも十分な備えを持って当たらねばならない。
彼らにとっても、朽木の軍勢の一部として他国で戦う機会になる。土地ごとに事情の違う兵をまとめるのは容易ではない。だからこそ、実際に兵を預かって来た三人に任せる。
「無理に手柄を競う必要はない。まずは互いの兵が勝手に動かぬようにしてくれ。味方同士の行き違いで損害を出すような真似は御免だ」
「はっ」
五郎衛門らが顔を上げるのを見届け、次の名を呼んだ。
「新次郎」
「はっ」
「そなたは坂本で京を見ていてくれ。小泉宗三郎と市河孫三郎もそちらへ送る」
「承知いたしました」
京を守るため、と言えば聞こえは良い。だが、今は京で何が起きてもすぐ動けるようにしておくことの方が大切だ。義昭は将軍になった。それでおとなしくなるような男なら、将軍宣下の前にあんな密書を出すまい。
俺が勅命を果たして戻った時、京が別の連中の手に落ちていたなどというのは笑えない。新次郎には厄介な役を頼むが、あいつなら京の動きに目を配ってくれるだろう。
「進藤山城守、後藤壱岐守」
「はっ」
「二人は八幡城に入り、留守を頼む。竹中半兵衛と山口新太郎にも残ってもらう。政務と兵糧、武具や火薬の手配に滞りが出ぬよう、力を合わせてくれ」
「承りました」
半兵衛と新太郎も頭を下げた。
二人には竹若丸の傅役を任せている。だが、それだけが仕事ではない。半兵衛には戦場からの報告を受け、必要な策を考えてもらわねばならん。新太郎には米だけでなく、武具や矢、火薬の調達と輸送も頼む。兵糧方は普段から街道の整備や船荷の手配、物流の管理を担っている。城に残るというのは、戦に関わらぬという意味ではないのだ。
それに、竹若丸達を置いて行くことになる。ふと先日、半兵衛から聞いた話を思い出した。将軍宣下の話を聞いた竹若丸が、公方様を助けるのは本当に公方様のためなのかと尋ねたらしい。俺が以前、朽木の領地が増えれば守る者も増えると話したことを覚えていたという。
やれやれ。なかなか答えにくいところを突いてくる。
公方様を支えるのは、公方様お一人のためではない。将軍家を支えるふりをしながら、その権威を削いでいることを、あの子はまだ知らん。半兵衛も俺の本心を決め付けず、本人に聞くよう勧めたそうだ。あいつらしい。
いずれ、竹若丸にも話さねばならん日が来る。誰を助け、誰を退けるか。何を守るためにそうするか。だが、それを今から幼いあの子に背負わせるつもりはない。
まずは俺が、目の前の戦を片付けねばな。
「ほかに申しておくことはあるか」
広間を見回したが、誰も口を開かなかった。評定で決めるべきことは決めた。後はそれぞれの持ち場で支度を整えてもらう。兵糧や武具、火薬の輸送路は、新太郎らに改めて確認させよう。米一俵、矢の一束でも、届かなければ戦場の兵が困る。
「では、出陣は五月二十五日とする。兵を率いる者は、その二日前までに八幡へ集まってくれ。道中の支度を整え、遅れの無いように頼む」
諸将が揃って平伏した。
これで評定は終わりだ。もちろん、戦支度が終わったわけではない。部屋を出て行く者達の背を見ながら、俺は暫く上段に座っていた。
命を下すのは俺だが、それだけで勅命が果たせるわけではない。摂津を守る者、京を見張る者、丹後へ兵を進める者、宇津の城を攻める者。八幡では兵糧や武具、火薬を揃えて送り出し、各地に書状を届ける者達もいる。
それぞれの働きが揃わねば、俺の命令など紙に書いた文字と変わらん。
かつて朽木谷で兵を集めていた頃には、ここまで大勢の者に役目を割り振ることなど考えられなかった。大きくなったのは領国だけではない。俺が責任を負う相手も、随分と増えた。
さて、勝たねばな。
勅命を果たし、帰って来る。そのために出来る備えは、出陣までに全部やっておこう。
永禄十六年(1573年) 四月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 日置行近
評定を終えて大広間を出ても、御屋形様の御言葉が耳に残っていた。此度は越前、加賀、能登の衆も丹波へ向かう。その兵を纏める旗頭の一人に、儂が指名されたのだ。井口越前守殿、宮部善祥坊殿と役目を分かち、宇津を討つ。思っていたよりも大きな役目を仰せ付かった。
無論、嫌だというわけではない。兵を率いる者にとって、御屋形様から働きを期待されるほど名誉なことはない。だが、喜んでばかりもおれぬ。越前の兵と加賀の兵では、長年仕えてきた主も、軍を動かす時の習いも違う。能登の者達も同じであろう。御屋形様の命を皆に行き渡らせ、戦場では互いの動きを確かめながら進まねばならん。三人が勝手に手柄を競えば、思わぬ損害を出す。
廊下では、評定を終えた者達が幾人も行き交っていた。久しぶりに顔を合わせた者も多い。声を掛けてくれる者には応じたが、立ち止まってゆっくり話す気にはなれなかった。国元へ戻れば兵を集めねばならず、道中の支度もある。五月二十五日の出陣まで、日はあるようで少ない。
それにしても、大きな城になったものだ。外から眺めた時にも驚いたが、中を歩けばなおさらである。御屋形様が治められる土地も増え、仕える者も増えた。今や儂の知らぬ顔が廊下を行き交う。
ふと、竹若丸様のことを思い出した。せっかく八幡まで参ったのだ。次に御城へ伺えるのはいつになるか分からぬ。若君に御挨拶申し上げてから戻るのがよかろう。
近くにいた小者に取次ぎを頼むと、暫くして案内の者が戻って来た。今なら少しお会い出来るという。儂は礼を言い、後に従った。
案内された部屋の前で名を告げると、中から幼い声がした。
「どうぞ」
障子が開き、儂は一礼して部屋へ入った。
竹若丸様は文机の傍に座っておられた。机には筆と紙が置かれ、書きかけの文字が見える。立ち上がろうとなさったので、儂は慌てて頭を下げた。
「そのままで結構にございます。突然お伺いして申し訳ございませぬ」
「気にしないで。五郎衛門、来てくれてありがとう」
幼い御声だが、落ち着いた挨拶だった。若君は筆を置き、こちらに向き直られた。
「父上の御用で、八幡に来たの?」
「はい。今日は大勢の家臣が集まり、御屋形様から今度の戦について御指図を頂きました」
「父上は、また戦に行くんだね」
問いというより、確かめるような御言葉だった。
「左様にございます。五月には丹波へ兵を進めることになりましょう」
「五郎衛門も、一緒に行くの?」
「はい。儂も兵を率いて参ります。此度は旗頭を仰せ付かりました」
若君は少し考えられた。
「旗頭というのは、何をする人なの?」
「多くの兵を纏め、御屋形様の御命令を伝える役にございます。兵を率いる者達と相談し、いつ進み、どこで止まるかを確かめるのも仕事でございます」
「兵を率いる人にも、命令を伝えるの?」
「はい。此度は幾つもの国から兵が集まります。それぞれの者が別々に動けば、味方同士でも困ったことになりますからな」
若君はしばらく考え、机の上の筆へ目をやられた。
「新太郎がね、兵糧方はお米だけを運ぶんじゃないって言っていたんだ。矢や火薬も運ぶんだよね」
「左様にございます。戦にはどれも欠かせませぬ」
「戦がない時は、道を直したり、荷物を運んだりするんだって」
「はい。普段から街道や船荷を滞らせぬようにしておれば、戦の時にも必要な物を届けられます」
「五郎衛門は、兵をちゃんと動かす役目なんだね」
「はい。儂一人で全てを決めるわけではございませぬが、皆の動きを揃え、御屋形様の御命令を行き渡らせねばなりません」
若君は頷かれた。覚えたことを自分の言葉で確かめておられるのだろう。落ち着いて見えるが、机の前にちょこんと座る姿は、まだ幼い。
「五郎衛門は、戦が怖くないの?」
思いがけぬ問いに、一瞬返事が遅れた。
「怖くない、と申せば嘘になりますな」
「五郎衛門も?」
「はい。戦場では何が起きるか分かりませぬ。兵達にも帰る場所があり、待つ者がおります。だからこそ、無駄に命を失わせぬようにせねばならんのです」
若君は目を伏せ、膝の上の手を見つめられた。
「父上は前に、朽木が大きくなると、守る人も増えるって話していたんだ」
「左様でございましたか」
「でも、守るために戦に行くと、帰って来られない人もいるんだよね」
儂はすぐには答えられなかった。御屋形様が兵を出されるのは、当家と領国を守り、さらに大きくするためでもある。だが、戦で誰一人失わずに済むとは限らない。そのことを若君に偽って伝えるわけにはいかぬ。
「……その通りにございます。戦に出れば、戻れぬ者が出ることもございます」
「……そうなんだ」
若君はそれ以上は尋ねられなかった。儂も言葉を重ねず、暫く待った。
「だから五郎衛門は、皆が無事に帰れるように、旗頭の仕事をするんだね」
思わず背筋が伸びた。御屋形様の命を果たし、戦に勝つ。それが旗頭の役目だ。だが、勝ちさえすればよいというものでもない。兵達にはそれぞれ帰る場所がある。そのことを、若君の御言葉に改めて気づかされた。
「はい。そのためにも、よく考えて兵を動かすつもりでございます」
若君は顔を上げられた。
「父上も、五郎衛門も、どうか無事に戻ってきてほしい」
「有難き御言葉にございます」
儂は深く頭を下げた。必ず勝って戻ると申し上げたいところだ。しかし戦の先に何が待つかは、儂にも分からぬ。出来ぬ約束をするより、任された仕事を確かに果たすべきだろう。
「御屋形様の御命令を守り、お預かりした兵を率いて参ります。若君も、どうか御健やかにお過ごしください」
「うん。五郎衛門も気を付けて」
その御声に、ようやく少し笑みが戻った。儂はもう一度礼を述べ、退出した。
廊下へ出ると、先程よりも城内が慌ただしく感じられた。どこかで荷の積み出しや武具の手配について話す声が聞こえる。評定が終わったからといって、皆が休めるわけではない。これから支度を始める者の方が多いのだ。儂も同じだ。国へ戻れば、兵を集め、出陣までに済ませるべきことを一つずつ片付けねばならん。
歩きながら、竹若丸様の御言葉を思い返した。
「父上も、五郎衛門も、どうか無事に戻ってきてほしい」
若君が案じておられたのは、勝ち負けよりも戦に行く者達の帰りだった。その御言葉は、評定で御屋形様から役目を仰せ付かった時とは違った重みを持って胸に残っていた。
今はまだ、家督を継ぐには幼い御方である。だが、いつの日か若君がこの城で諸将に命じられる時が来るのだろう。その時、今日のように、兵の向こうにいる者達のことも思い起こしてくださればよい。
もっとも、それを御覧になるには、儂も長生きせねばならんな。思わず苦笑した。
まずは丹波だ。御屋形様の信頼に応え、預かった兵を率いて帰る。それを果たしてこそ、次のことを考えられる。
儂は足を早めた。