淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
永禄十六年(1573年) 七月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木綾
七夕の翌朝、庭に残っていた雨の雫が、軒先からぽつりぽつりと落ちていた。昨日は幸いにも空が持ち直し、予定していた能興行を無事に終えることが出来た。城の者達は今朝になっても舞台の話をしている。子供達も同じらしく、文机の前に座ってから何度か笛の話が出ていた。
今朝は竹若丸と松千代、それに辰と篠の四人の手習いを見ている。部屋には墨の匂いが漂い、紙の上を筆が走る音がする。同じ部屋にいても、学ぶことも筆を運ぶ速さも随分と違っていた。
辰は私が示した短い歌を書き写し、篠は習った文字を使って文を作っている。二人とも年長なだけあって、手本を確かめながら自分の仕事を進められる。松千代は一字ずつ筆を運んでいるが、気になるのは隣にいる兄の紙らしい。少し身を寄せて覗き込み、私と目が合うと慌てて自分の手本に戻る。そんなことを、先程から繰り返していた。
竹若丸には、昨日の能で覚えていることを文章にしてもらっている。既に短い文なら自分で考えて書けるのだから、今は見聞きしたことをどう並べ、読む人に何を伝えるかを考える稽古だ。書いては立ち止まり、紙に目を落としている。文字を覚えるだけだった頃とは、悩むところも変わってきた。
「御婆さま。ここまで書けました」
差し出された紙には、七夕の能を見たこと、松千代が笛の音を気に入っていたことが書かれていた。字の大きさにはまだ不揃いなところもあるが、読むのに困るほどではない。何より、自分が面白いと思ったことだけでなく、弟が喜んでいたことまで書き添えているのが、竹若丸らしかった。
「よく書けていますね。ただ、こちらの文は、誰が笛を吹いていたのか分かるようにすると、もっと良くなりますよ」
「舞っていた人とは、別の人です」
「ええ。でしたら、それも書いてみましょう」
「はい」
竹若丸は紙を受け取っても、すぐには筆を下ろさなかった。紙に書いた言葉を目で追い、それから庭の方へ顔を向けた。舞っていた者の姿と、傍らで笛を吹いていた者の姿を、思い出しているのかもしれない。
「ぼくも、ふえ」
隣から松千代が口を挟んだ。
「松千代も笛が好きだったね」
竹若丸が答えると、松千代は嬉しそうに頷いた。昨日は笛の音が聞こえるたびに、舞台の端で囃している者達を目で追っていた。舞の筋はまだ分からずとも、響く音や人の動きは覚えているのだろう。兄の言葉に満足したのか、松千代は自分の紙に筆を下ろしかけたが、すぐにまた兄の手元へ目を向けた。
「でも、松千代。先に自分の字を書こうね」
「うん」
松千代はようやく兄の紙から目を離した。篠がそれを見て小さく笑い、辰も筆を止めてこちらを眺めている。
「辰殿も、昨日の笛が気に入りましたか」
「はい。舞も綺麗でございました。来年も見られるのでしょうか」
「弥五郎は節句ごとに催すと申しておりました。変わりがなければ、また見ることが出来るでしょう」
「それなら楽しみです」
辰は微笑んでから、再び筆に向かった。昨日の興行には敏満寺座が招かれ、約束どおり五番の能が演じられた。弥五郎は五月の端午にも興行を催し、その折に節句ごとの開催を決めたという。戦で自身が不在なら竹若丸の名で行わせる。そう言い残して出陣したのだった。
初めて聞いた時は、弥五郎がなぜそのようなことまで決めたのか、不思議だった。国を治め、戦の備えを整えるだけでも忙しいはずなのに、能や猿楽にまで気を配る。けれど昨日は城の者達が顔を揃え、普段は別々の務めに就く者も一緒になって笑っていた。今朝も子供達はその続きをしているようなものだ。手習いの合間に思い出話をしては、また筆に向かう。戦が続いているからといって、城の暮らしまで戦一色にする必要はないのだろう。
「御婆さま」
竹若丸が、書き直しかけた紙から顔を上げた。
「昨日の能は、私の名で催したのですよね」
「ええ。父上がお留守の間は、そのようにと決めておかれたのです」
「父上が帰ってきたら、父上の名に戻るのですか?」
「それは弥五郎が決めることでしょう。どうして、そのようなことを?」
「私の名でも、父上の名でも、来る人は同じかと思いまして」
意外な問いだったが、竹若丸の顔つきは真剣そのものだった。
「能を楽しみに来る者は、どちらの名であっても参りましょう。ただ、誰の名で催すかを気に掛ける者もいるでしょうね」
「そうなのですね」
「名を出す以上、その催しに責任を持つということでもありますよ」
「……はい。昨日は皆が楽しそうで良かったです」
竹若丸はそう言って、もう一度紙を見た。自分の名で催したのだと聞いて、ただ喜んでいるばかりではないらしい。名前が違っても客は同じなのか。そのようなことを確かめようとするところに、ふと幼い頃の弥五郎を思い出し、胸の奥が冷えるような心地になった。
だが、目の前の竹若丸は、弟が筆を動かすだけで気になって仕方のない子でもある。松千代の文字が曲がれば一緒に笑い、昨日の能でも弟が楽しんだことを真っ先に書こうとする。私は、そうした姿を幼い頃から見てきた。思いがけぬ問いに驚くことはあっても、孫の顔まで弥五郎と重ねて見てしまいたくはなかった。
竹若丸が筆を置いて、こちらを見た。
「御婆さま。父上から、またお文は届きますか」
「届くと思いますよ。先日も戦の様子を知らせてきたでしょう」
「宇津の城を取ったというお話ですか?」
「ええ」
六月の初め、弥五郎の軍は丹波の宇津城と宇津嶽山城を押さえたという。小野庄と山国庄の禁裏御料は回復され、朝廷から命じられた務めは果たした。宇津右近大夫は逃れたままだが、川勝大膳亮は朽木に服属したとも聞いている。半兵衛殿が知らせてくれた時、私はこれでようやく弥五郎も帰って来るのではないかと思った。朝廷へお返しすべき土地は取り戻せたのだから、ひとまずは終わりなのだろう、と。
ところが弥五郎は丹波での攻めを一旦切り上げ、今度は丹後へ向かうという。私に戦の細かなことは分からないが、一色家がなお抵抗を続け、帰還の見込みが立っていないことだけは分かった。朝廷の御料が戻ったという喜ばしい知らせを受けても、帰りを待つ身には気掛かりが残る。
「城を取ったのに、父上はまだ帰らないのですね」
「そうですね。宇津を討つよう命じられたのは朝廷からですが、それだけで済む戦ではなくなったようです」
「丹後でも戦っているからですか?」
「ええ。まだ片付けなければならないことがあるのでしょう」
竹若丸は黙って頷いた。先程までの能の話とは違い、今は松千代も兄の方を見ている。
「父上は、いつ帰ってくるのですか?」
「それは、まだ分かりません」
そう答えると、竹若丸は弟の方へ向き直った。
「戦が終わったら帰ってくるよ。父上はそう約束したわけじゃないけれど、きっと帰ろうとしていると思う」
「ちちうえ、かえる?」
「うん。だから、帰ってきたら昨日のお能のお話をしようね」
松千代は満足したのか、また筆を取った。兄の言葉を疑うことなど思いも寄らぬように、手本の字へ向き直っている。竹若丸はしばらく弟を見ていたが、やがて自分の紙を引き寄せた。
私は二人を見つめながら、半兵衛殿の報告を受けた時のことを思い返した。宇津の城を取り、朝廷の御料を戻し、川勝も服属した。家にとって良い知らせだとは分かっている。それでも弥五郎の帰りが延びたと知った時は、素直に喜びきれなかった。
弥五郎の無事を願う気持ちに偽りはない。それでも、帰って来たあの子を母としてどのような顔で迎えればよいのか、私には分からなかった。親しく名を呼び、労ってやりたいと幾度も思う。だが本人を前にすると心が強張り、愛そうと努めても思うようにはならない。そのことを考えるたび、自分が情けなくなる。
一方、竹若丸にはそんな思いを抱かずに済む。初めて筆を持った頃から、少しずつ書ける字が増えていくところを見てきた。思うように出来ず口を結ぶ姿も、弟を気遣って笑う姿も知っている。時折弥五郎に似た鋭さを感じても、目の前の孫を愛おしいと思う気持ちは変わらない。
「御婆さま、これでどうでしょう」
考え込んでいたところへ声を掛けられた。竹若丸が差し出した紙には、笛を吹く者と舞う者が別々に書き分けられていた。私が先程伝えたことを、自分なりに直したのだろう。最後にはもう一つ短い文が加わっている。
『父上にも、この能を見てほしかった。』
私はそこに目を留めた。興行を自分の名で催したことも、来た者達が喜んでいたことも書かれている。それでも、最後に思い浮かべたのは戦に出ている父親だったのだ。
「……ええ。良くなりましたね」
「父上に見せてもいいですか」
「もちろんです。ただ、こちらの字を一つ直してからにしましょう」
「はい」
私が指した箇所を確かめ、竹若丸は筆を持ち直した。父の帰りを気に掛けていたかと思えば、もう一字ずつ丁寧に書き直している。私の声に頷いて紙へ向き直る横顔は、普段の手習いの時と少しも変わらない。
窓の外では、軒先の雫がいつの間にか止んでいた。松千代が自分の書いた字を兄に見せ、篠が笑いを堪えている。辰も二人のやり取りに目を細めていた。昨日の能を、弥五郎も見られたなら良かったのに。そんなことを考えた自分に、少し驚いた。
帰って来たなら、竹若丸の文を見せてやろう。弥五郎がどんな顔をするかは、私にも分からない。私自身も、上手く話せるかどうか分からない。それでも、孫が父を待ち、父にも能を見てほしいと思っていたことだけは、伝えてやりたかった。
元亀元年(1573年) 八月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木綾
簾を下ろしていても、昼の暑さが部屋に籠もっていた。女房が用意した冷たい水には、まだ手を付けていない。文机には京から届いた書状が幾通か置かれており、私はそのうちの一通をもう一度広げた。
妹の目々典侍からの文だった。山国庄と小野庄が朝廷に戻ったことを喜び、宮中の方々も安堵しておられると綴ってある。同じような感謝の文は、ほかの方々からも届いていた。長く失われていた御料が戻るというのは、それほど大きなことだったのだろう。私も朝廷に縁ある家で育った身だ。皆の喜びはよく分かる。
それに重なるように届いたのが、弥五郎への叙任の知らせだった。
正四位下、左近衛権少将。
従四位下から従四位上を飛び越えての昇進である。越階はそう容易に許されるものではない。丹後から帰ったばかりの弥五郎に、このような御沙汰が下るとは。祝いの言葉を綴った文に目を通すうち、私まで少し胸が温かくなった。弥五郎が朝廷から高く評価されたことは、確かに目出度い。
私は書状を畳み、机の端へ寄せた。丹後から弥五郎が帰って来た時は、ほっとしたものだ。七夕の頃には、一色家との戦がいつ終わるかも分からなかった。それが一色家の降伏によって決着し、弥五郎自身も無事に戻った。城の者達も皆、喜んでいたというのに。
帰還と戦の終わりは、同じではなかった。丹波にはなお従わぬ者達が残り、弥五郎は月末にも兵を率いて出るつもりだという。喜ばしい知らせが幾つも重なっても、次の出陣が近づいていると思えば、胸の内に重いものが残った。
障子の向こうから、女房と話す小さな声が聞こえてきた。私は書状を揃え、そちらへ顔を向けた。
「御婆さま。竹若丸です」
「お入りなさい」
竹若丸が一礼して入って来た。手には筆も紙も持っていない。いつもの手習いの時間ではなく、何か用事があって訪ねて来たらしい。私は向かいの座を示した。
「どうしましたか」
「父上のお位が上がったと聞きました。御婆さまに、お尋ねしたいことがあります」
「まあ。何でしょう」
竹若丸は膝を揃え、一度口を結んでから話し始めた。聞きたいことを先に考えて来たのだろう。
「父上は、正四位下左近衛権少将になられたのですよね。どちらも、お位の名前なのですか」
「いいえ。正四位下は位階、左近衛権少将は官職の名です。別のものなのですよ」
「位階と官職……」
「位階は朝廷での御身分の高さを示すものです。官職は、その方に与えられた役目の名と思えばよいでしょう」
竹若丸は二つの言葉を小さく繰り返した。初めて聞くものではなかったのかもしれないが、並べて説明されると違いが分かりにくいのだろう。難しい言葉を重ねすぎぬよう、私も気を付けた。
「では、父上は二つとも新しくなったのですか」
「そうですね。特に位階は、以前より随分高くなりました。途中の位を一つ飛び越えたのですよ」
「飛び越えても、よいのですか」
「いつでも出来ることではありません。此度の御働きを、朝廷がそれほど高く評価なさったということでしょう」
竹若丸は頷いたが、すぐには次の問いを出さなかった。途中の位を飛び越すというのが、思ったより不思議だったのかもしれない。やがて顔を上げ、父の働きの話に戻ってきた。
「それは、丹波で朝廷の土地を取り戻したからですか」
「それが大きいと思いますよ。山国庄も小野庄も、長く朝廷へ戻らなかった土地ですからね」
私が机の端に寄せた文を見ると、竹若丸もそちらへ目を向けた。畳んだ紙が少し開いていたので押さえると、孫はその文を眺めながら尋ねてきた。
「京から届いたお文ですか」
「ええ。私の妹からです。取り戻された御料のことを、たいそう喜んでおりました」
「それなら、良かったです」
父の働きで喜ぶ人がいる。それを聞いて嬉しいのだろう。竹若丸は口元を和らげたが、すぐには立たず、また私の方を見た。まだ確かめたいことがあるらしい。
「御婆さま。父上のお位は、公方様より高くなったのですか」
思わず、書状を押さえていた手に力が入った。そういえば春にも、この子は将軍宣下の話を半兵衛殿から聞いていた。将軍としての御立場と、諸大名が実際に従うかどうかは別なのだと教わったという。今回の位階の話も、そこへ結び付いたのだろうか。
「位階だけを比べれば、今は弥五郎殿の方が上になります」
「それなら、父上の方が公方様より偉いのですか」
「そう簡単には申せません。公方様は征夷大将軍、武家を束ねる御立場におられます。位階が高くなったからといって、その御役目まで代わるわけではないのですよ」
「……そうなのですね」
竹若丸はすぐには頷かなかった。将軍は将軍のままで、父の位階だけが上がる。二つの話がうまく重ならないのだろう。少し首を傾げ、それから私の顔を見た。
「では、父上のお位が高くなっても、公方様は公方様のままなのですね」
「ええ。その通りです」
私は頷いたが、胸の内は晴れなかった。位階と将軍職が別のものだということは、朝廷に近い家で育った私には当然の話である。けれど、どちらも人の立場を示すからこそ、比べようとする者はいる。まして将軍宣下を受けたばかりの公方様より、弥五郎の位階が高くなったのだ。公方様がその話を聞いて、何とも思われぬだろうか。
妹の文に、そこまで露わなことが書いてあるわけではない。宮中では公方様が朝廷への奉仕に熱心でないとも聞くが、改元の後を選んだ今回の叙任に、どのような思惑があったかまでは分からぬ。ただ、弥五郎と公方様の仲が以前から良くないことは知っている。朝廷の方々が喜ぶ一方で、将軍家に不満が残るようでは、かえって厄介なことにならぬだろうか。私は畳んだ文の端を揃えながら、考え込んでいた。
「御婆さま」
呼ばれて顔を上げると、竹若丸が私を見つめていた。いつからそうしていたのか、こちらの顔色を窺うような目である。
「お疲れですか」
「いいえ。少し考え事をしていただけですよ」
「お顔が、あまり嬉しそうではなかったので」
そう言われ、思わず口を閉じた。祝いの話をしていたはずなのに、気付けば私の方が黙り込んでいたらしい。
「父上のお位が上がったのは、お目出度いことなのでしょう?」
「ええ。もちろんです」
「でしたら、何かほかに心配なことがあるのですか」
どこまで話すべきだろう。公方様との不和や朝廷の思惑を、今ここで竹若丸に詳しく説明する必要はあるまい。だが、目の前で心配そうにしている孫に、何もないと言い切る気にもなれなかった。私は書状を畳み直し、口に出来ることを一つ選んだ。
「弥五郎殿は、月の終わりにはまた戦に出られるそうです。それが少し気掛かりでしてね」
「丹波へ行かれるのでしたね」
「ええ」
竹若丸は膝の上に置いた手を見下ろした。指先が衣の端を摘んでいる。
「父上は、帰って来られたばかりなのに……」
七夕の能の話をした時、この子は父がいつ帰るのかと尋ねた。今は帰って来ている。ようやくその願いが叶ったというのに、間を置かず次の別れが決まっているのだ。私はその小さな声に、何と返せばよいのか分からなかった。
「父上が行かなければ、いけないのですか」
「私には、戦のことは分かりません。ただ、弥五郎殿が必要と考えておられるのでしょう」
丹波の国人達がどう動こうとしているのか、私は知らない。母だからといって、息子の考えまですべて分かるものではない。竹若丸もそれ以上は尋ねず、膝の上に目を落としたまま黙っていた。
「御婆さまも、父上が御無事に戻られることを願っておられるのですね」
私はすぐに答えられなかった。無事に戻ってほしい。戦で傷つくことなく、家族の待つこの城へ帰ってほしい。その願いに偽りはない。けれど、私は弥五郎を母として愛そうと努めても、今なお愛せずにいる。丹後から戻ったと聞いた時も安堵はしたが、本人に向かってどのような言葉を掛けたらよいのか分からなかった。無事を願う気持ちが、そのまま親しさに変わってくれるなら、どれほど楽だっただろう。
そのようなことを竹若丸に話すわけにはいかない。孫はただ、私も父親の無事を願っているのかと尋ねただけなのだ。私は一度息を整え、その問いに答えることにした。
「……ええ。御無事であってほしいと思っています」
「私もです」
竹若丸は顔を上げた。沈んでいた表情が少し和らいで見える。祖母も同じように父の無事を願っている。それだけで、今は足りたのかもしれない。
「父上がまたお出かけになる前に、お話ししておきたいことがあります」
「どのようなことですか」
「七夕の能のお話です。父上は見られなかったので、私が書いたものを見ていただきたいのです」
「まあ。まだお見せしていなかったのですか」
「はい。戻られてからも、お忙しそうだったので」
私は書状を脇へ寄せた。七夕の翌日に見せてもらった文を思い出す。笛を吹く者と舞う者を書き分け、最後に父にも能を見てほしかったと記した一枚だ。弥五郎が忙しくしている間、竹若丸はその紙をしまっておいたのだろう。
「では、お渡し出来る時まで、大切に取っておきましょう。弥五郎殿も、きっとお読みになるでしょう」
「はい」
竹若丸は頷いたが、すぐには立たなかった。私の方を見たまま、もう一つ言葉を探しているようだ。
「御婆さま。父上がお出かけになっても、またお文が届いたら、一緒に読んでいただけますか」
「もちろんですよ」
そう答えると、竹若丸はようやく笑った。私はその頭に手を伸ばしかけ、少しずれていた襟元を直してやった。手習いの時にも、慌てて立ち上がっては衣を乱していることがある。落ち着いて見えても、まだ六つの子なのだ。襟を整えている間、竹若丸はじっとしていたが、終わると小さく頭を下げた。
弥五郎の位階が高くなったところで、私達の間にあるものが変わるわけではない。今月の末にはまた兵を率いて出てゆく。そのことを止める力は私にはない。だが竹若丸が父を待つ間、こうして話を聞き、文を一緒に読むことなら出来る。せめて、その小さな務めを疎かにはしたくなかった。
竹若丸が礼を述べて退出すると、部屋には再び静けさが戻った。私は妹からの文を広げ、御料の回復を喜ぶ言葉に目を通した。そのすぐ後には弥五郎への感謝が綴られている。朝廷では、この知らせがどれほど待たれたことだろう。私はそれを喜ばしいと思いながら、月末にはまた息子を戦場へ送り出すのだと考えていた。
どうか無事に帰って来てほしい。文を閉じた後も、私は暫くその上に手を置いていた。
元亀元年(1573年) 十月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 竹中半兵衛
丹波から急使が着いたと聞いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。八月末の出陣から既にひと月半ほどになる。桑田郡では御屋形様の軍が国人達を従えながら攻めを進め、船井郡や何鹿郡へも兵を向ける手筈だと聞いていた。城が一つ降るごとに報告は届くが、次の知らせがいつ来るかまでは分からぬ。八幡城に残る我らは、届いた情報を確かめ、必要な物資や書状を送り返すほかなかった。
その日も山口新太郎殿と輸送の件を相談していたところへ、取次ぎの者が駆け込んできた。丹波の陣から使いが戻り、至急知らせたいことがあるという。よほど急いだのか、使いの者は土埃に汚れ、息を切らしていた。私は文机の上を片付け、まず口上を聞くことにした。
「御屋形様が、敵の忍びに襲われました」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。新太郎殿も動きを止めた。使いの者は顔を上げず、続けた。
「鉄砲で撃たれましたが、御命に別状はございませぬ。お怪我も無く、今も軍の指揮を執っておられます」
ようやく息が出来た気がした。だが、安堵したからといって、最初の言葉を聞かなかったことには出来ない。御屋形様が敵に撃たれた。しかも戦場で敵と向かい合ったのではなく、忍びに襲われたというのだ。
「詳しく聞かせてくれ。どこで、何が起きた」
「夜半、野営中の陣で騒ぎが起きました。そこへ紛れ込んだ者達が御本陣近くまで迫り、御屋形様の寝所へ鉄砲を撃ちかけたのでございます」
「近くまで、と申すのは……」
「寝所が狙えるところまでにございます。鉄砲は三丁、一発が御屋形様に当たったと聞きました」
新太郎殿が低く息を呑んだ。私も同じ心地だった。三丁の鉄砲が本陣に持ち込まれ、そのうちの一発が御屋形様に命中した。御無事と聞いた後でも、背筋に冷たいものが走る。
「御屋形様は南蛮鎧をお召しのまま休まれており、弾は鎧が防ぎました。胸を撃たれ、衝撃で倒れられたものの、傷は無いとのことにございます」
「御自分で立ち、家臣達に指図なさったのか」
「はい。騒ぎは収まり、陣も保たれております。詳しい追跡のことは、まだ調べているところと承りました」
差し出された書状にも、御屋形様が御無事である旨が記されていた。私は何度か読み返した。伝令の口上と書状の内容に食い違いはない。少なくとも、陣中からこの文が発せられた時には、御屋形様は御無事であった。しかし、胸に弾丸が当たったという一文が、いつまでも目に残った。
鉄砲を三丁も持ち込み、本陣に潜り込む。それだけの備えをした者達が、偶然御屋形様の寝所を見付けたとは思えない。騒ぎを起こして警護の目を引き、別の者が狙いを定めたのだろう。敵の手際を考えるほど、鎧が無ければどうなっていたかという思いが湧いてくる。
私は書状を畳んだ。考えなければならぬことは、ほかにもある。
「新太郎殿。大方様と小夜殿、雪乃殿には、御屋形様が御無事であることを先に伝えていただきたい。撃たれたことだけが先に広まれば、要らぬ混乱を招きます」
「承知しました。城の留守を預かる方々にも、知らせを通しておきます」
「頼みます。出入りの見張りについても、今一度確かめておきたい」
「進藤山城守殿達と相談いたしましょう」
新太郎殿は使いの者に水と休む場所を手配すると、早速動き出した。私も丹波の陣へ返す書状を用意した。御屋形様の御無事を喜ぶ言葉だけでは足りぬ。陣中の警護をどう立て直されたのか、御身に後から不調が出ていないか、こちらに知らせていただかねばならない。
筆を執ると、いつもより書き出しに迷った。死ぬところであった、と書くわけにはいかぬ。だが、その通りだったのかもしれない。少し筆を休めていると、若君のことが頭に浮かんだ。
春の評定を終えた日、日置五郎衛門殿が若君に挨拶なさったと聞いている。その折、若君が御屋形様と五郎衛門殿の無事な帰りを願っておられたことも、後に若君から伺った。それから随分と日が過ぎ、若君は父親が丹後から一度帰還したことを喜び、また丹波へ出て行かれるのを案じておられた。
今度の知らせを、どう伝えたものだろう。何も知らせずにおくことは出来ない。いずれ城中に知れ渡るだろうし、若君だけが知らぬままでは、かえって不安を募らせることになる。それに、御屋形様が御無事であるという確かな知らせが、今は手元にあるのだ。
書状を仕上げて使いに託した後、私は若君への取次ぎを頼んだ。
部屋へ通されると、竹若丸様は文机の前に座っておられた。紙には何か書きかけの文があり、私が入ると筆を置かれた。いつものように膝を揃え、こちらを見られる。
「半兵衛。どうしたの?」
その御声を聞き、私は伝える順番を決めた。
「若君。まず、御屋形様は御無事にございます。丹波の陣から、その知らせが届きました」
「……父上が?」
若君の顔が少し強張った。無事だという言葉の後に、何か良くないことが続くと察されたのだろう。
「何かあったの?」
「先日の夜、陣中で敵の忍びに襲われたのでございます。御屋形様に向けて鉄砲が撃たれましたが、お召しになっていた南蛮鎧が弾を防ぎ、お怪我はございませぬ」
「鉄砲が……父上に当たったの?」
「はい。胸に当たったそうでございます。ただ、鎧のおかげで傷は無く、陣の指揮も続けておられます」
若君は何も仰らなかった。膝の上で揃えていた手を、ぎゅっと握られる。そのまま私を見ていたが、やがて視線を落とされた。
私は言葉を足すのを控えた。襲撃を受けたと聞くだけでも恐ろしいのに、胸に弾丸が当たったとまで知らされたのだ。いくら御無事だと言われても、すぐには心が追いつかぬだろう。
「……父上は、痛くなかったの?」
「衝撃で倒れられたとは聞いております。どれほどのお痛みだったかまでは、まだ分かりませぬ。ですが、書状にはお怪我は無いとございます」
「倒れたのに?」
「鉄砲の弾が当たれば、鎧が防いでも強く押されることがございます。御屋形様は立ち直られ、御自身で指図をなさっております」
「……そうなんだ」
若君は膝の上の手をほどかれたが、今度は袖の端を押さえておられた。私が最初にお伝えした無事という言葉を、何度も確かめておられるように見えた。
「半兵衛。忍びは、また来るの?」
「その恐れはございます。ですから陣の警護を改めて確かめておられましょうし、八幡城でも見張りに気を配ります」
若君は袖を押さえたまま、しばらく考え込まれた。怖い思いをなさっているのだろうと思ったが、顔を上げられると、別の問いが続いた。
「……父上に戦で勝てないと思ったら、忍びを使って父上だけを狙う人もいるの?」
「そう考える者もおりましょう。軍と戦って勝てぬと見れば、それを率いる御屋形様を討とうとする者が出ても不思議ではございませぬ。ただ、此度襲った者達が何を考えていたのか、誰に命じられたのかまでは、まだ分かっておりませぬ」
「父上が戦に勝つほど、そういう人も増えるかもしれないんだね」
「その恐れはございます。負けを認めず、別の手立てを考える者もいるでしょう。無論、皆がそのようなことをするわけではございませんが」
若君は小さく頷かれた。春には、朽木が大きくなれば守る者も増えるという御屋形様の言葉を、よく覚えておられた。その朽木が戦に勝ち、領地を広げることは、必ずしも危険が減ることを意味しない。若君は今、そのことに気づかれたのかもしれない。
「戦に勝っても、父上が安全になるとは限らないんだね」
「はい。だからこそ御屋形様も備えを怠らず、我ら家臣も出来る限りのことをいたします」
「父上は、まだ丹波にいるんだよね」
「はい。今のところ、お戻りになるという知らせはございませぬ」
若君は再び袖の端へ目を落とされた。理屈では分かったとしても、それで父親を案じる気持ちが収まるわけではないのだろう。
「この前、五郎衛門に、皆が無事に帰ってきてほしいって言ったんだ」
「伺っております」
「でも、父上は撃たれたんだね」
私は頷いた。御無事であったことを重ねて伝えることは出来る。しかし、撃たれなかったことには出来ぬ。
「そうでございます。戦に出れば、守りを固めていても危ういことは起こり得ます。御屋形様も、此度のことを軽くはお考えにならぬでしょう」
「……皆が、ちゃんと帰って来るのは難しいんだね」
思えば、春には将軍家の権威について尋ねられ、御屋形様が何のために将軍家を支えるのかと問われた。年の割に物事をよく見ておられる若君だが、今は父親の身を案じている六歳の子である。私は、何か気の利いた言葉で慰めようとするのを止めた。
「御屋形様の御無事は、間違いなく確認しております。それ以上のことは、分かり次第お伝えいたします」
「うん。ありがとう、半兵衛」
若君はそう言って、机の上の紙に目を落とされた。墨は既に乾きかけている。何を書いていたのかを尋ねるべきか迷っていると、若君が自分から口を開かれた。
「父上に、お文を書いてもいい?」
「もちろんでございます。次に陣へ送る書状と一緒に、お届けいたしましょう」
「七夕の能のお話も、まだちゃんとお渡し出来ていないんだ。父上が帰って来られた時、お忙しそうだったから」
「左様でございましたか。でしたら、そのこともお書きになってはいかがでしょう」
若君は頷かれた。少し考えてから、新しい紙を手元に引き寄せられた。私は筆を持つ邪魔にならぬよう、少し離れた場所に座り直した。
若君が書かれる間、部屋には紙を擦る音だけがした。途中で筆を止め、しばらく考え込まれる。先程のことを何と書けばよいのか、迷っておられるのかもしれない。それでも私に代わりの言葉を求めることはなかった。
やがて、若君が紙を差し出された。
『父上が御無事と聞いて、安心しました。七夕の能のお話を、今度こそ聞いてほしいです。どうか気を付けてお帰りください。』
丁寧に書かれているが、字の大きさにはまだ少し違いがある。私はその文を読み、若君へ返した。
「御屋形様も、お喜びになるでしょう」
「そうだといいな」
若君は文を畳もうとして手を止め、もう一度だけ読み返された。それから私を見られる。
「半兵衛。このお文、本当に父上に届く?」
「はい。責任を持って、お届けいたします」
「……ありがとう」
私は頭を下げて文を受け取った。廊下へ出ると、城内は普段どおりのように見えた。女房達が行き交い、遠くでは荷を運ぶ声も聞こえる。だが、ここにいる誰もが、御屋形様の御無事を当たり前と思ってよいわけではない。城を守ることも、戦場へ必要な物を送り続けることも、すべて御屋形様が帰って来られる日まで続く務めなのだ。
御屋形様を狙った者達が誰で、なぜ本陣に近づけたのか。まだ分からぬことは多い。これから届く報告を確かめ、二度と同じ隙を生まぬようにせねばならない。
私は預かった文を袖の内で確かめた。若君が父の身を案じて書いた言葉は、何としても御屋形様へ届けたい。文をお読みになった時の御顔を想像しながら、私は足を早めた。