淡海乃海 獅子の子が描く波紋   作:竹若丸

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遂に主人公が話します。

※2026/10/22 17:30
平井定武の一人称を修正:「儂」→「私」


第3話

永禄十一年(1568年) 五月下旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 朽木小夜

 

 朝から城の中が騒がしかった。廊下を行き交う足音が絶えず、遠くからは馬の嘶きも聞こえてくる。殿が北陸へ出陣なさる日なのだ。前の戦から戻られてまだ幾らも経たぬように思うが、越中では上杉方と一向一揆などの争いが続いていると伺っている。殿も上杉勢と力を合わせ、北陸へ兵を進められるのだ。戦が続くことには慣れたつもりでも、見送る朝だけはどうにも落ち着かなかった。

 

 私は膨らみ始めた腹にそっと手を置いた。竹若丸を産んだ時も、殿は越前におられた。今度こそお傍にいていただきたいと思う一方、遠くへ出られる理由も分かっている。夫を引き留める言葉など口に出来るはずもなかった。隣では、殿の側室である雪乃殿が静かに待っている。

 

 ほどなく殿が入って来られた。支度はすでに整っており、傍には兜が置かれている。こちらへ歩み寄ると、まず私の腹の辺りを見て、それから顔を上げられた。

 

「小夜、身体に無理をするなよ」

「はい。殿も、どうかお怪我などなさいませんように」

「大丈夫だと言いたいが、戦だからな。出来る限り気を付ける」

「それを聞けただけでも、少し安心いたしました」

 

 夫は小さく笑われたが、すぐに表情を改められた。生まれてくる子のこと、竹若丸のこと、留守の間に気を付けること。仰る内容はいつもの殿らしく、短く、はっきりとしていた。けれど、私の腹に置かれた手は、しばらく動かなかった。

 

「竹若丸はどうしている?」

「女房と一緒におります。今朝も早く目を覚ましまして、部屋の中を一人で歩き回っておりました」

「もうそんなに歩けるのか」

「ええ。まだ時々転びますが、部屋の端から端まで行ってしまうのですよ」

「帰る頃には、走り回っているかもしれんな」

「言葉も少し覚えました。私のことを『かかさま』と呼んでくれますし、殿のことも『ととさま』と」

「俺のことも呼ぶのか。そうか……」

 

 殿はしばらく黙っておられたが、口元がわずかに緩んだ。私は、今からでも竹若丸を連れて来ようかと考えた。近頃は父親の顔を見ると自分から近寄るようになっている。長く会えなくなるのなら、少しだけでも抱いていただきたい。

 

「竹若丸を呼びましょうか」

「いや、今日はよそう」

「……よろしいのですか」

「あいつの顔を見たら、ここを離れ難くなる。出立前にそれは困る」

 

 冗談めかしたお言葉だったが、殿は廊下の方を見ようとはなさらなかった。竹若丸はまだ、出陣が何を意味するのか分からない。今会えなくても、父を見送れなかったと悲しむことはないのだろう。それでも私は、会わせて差し上げたかった。けれど、それも私の気持ちに過ぎないのかもしれない。

 

「戻られましたら、今度はゆっくり竹若丸と遊んでくださいませ」

「ああ。小夜も生まれてくる子も、元気でいてくれ」

「はい。お帰りをお待ちしております」

 

 雪乃殿も言葉を添え、私達は殿を見送った。廊下へ出て行かれる背中を、姿が見えなくなるまで見つめる。やがて遠くで幾つもの声が重なり、城全体が動き始めたように感じられた。私はその場からしばらく離れられなかった。

 

 竹若丸のいる部屋へ戻ると、女房が竹若丸の後ろを少し離れて歩いていた。竹若丸は畳の上を一人で歩いている。昨年の春には寝具の上から人を目で追っていた子が、今では自分の足で部屋を行ったり来たりする。足元がふらつくことはあるものの、端まで行くと柱に手を添えて向きを変え、また歩き始めた。

 

「奥方様、お戻りでございますか」

「ええ。竹若丸はずっとこうしていたのですか」

「先ほどから何度も部屋を行ったり来たりしておいでです。時々足を取られますので、目が離せません」

「まあ。目を離せなくなりましたね」

 

 私の声が聞こえたのだろうか。竹若丸は足を止め、こちらへ顔を向けた。女房が手を差し出そうとするのを待たずに、私の方へ歩いて来る。途中で少しふらついたものの、足を踏み直して歩き続け、私の膝に身体を預けた。

 

「かかさま」

 

 小さな声で呼ばれ、私は竹若丸の肩に手を添えた。まだはっきり言える言葉は多くないが、この呼び方は随分と聞き慣れた。竹若丸は私の膝に寄り掛かったまま、ふと腹の辺りに目を落とした。少し丸くなってきたところへ手を伸ばし、衣の上から指先で触れている。

 

「どうしました、竹若丸。ここが気になるのですか」

 

 竹若丸は答えず、私の顔を見上げた。腹に添えた小さな手を見ていると、つい教えたくなる。

 

「ここには、赤子がいるのですよ。竹若丸の弟か妹になる子です」

 

 分かったかどうかは分からない。竹若丸はもう一度腹を見てから、私の手に触れた。私がその手をそっと包むと、しばらくじっとしていた。

 

「上手に歩けるようになりましたね、竹若丸。でも、急いではいけませんよ」

 

 頭を撫でると、竹若丸は私を見上げた。殿がいらっしゃれば、いつも自分からそちらへ行こうとする。嬉しいのかどうかは分からないが、父親の姿を見つけると近付いていくのだ。けれど、今日はその声がない。廊下で人の走る音がすると、竹若丸は身体を起こして入口の方を向いた。

 

 女房が呼びかけても、すぐにはこちらへ戻らない。私の膝から離れて入口まで歩いて行き、敷居の手前で立ち止まった。廊下には誰もいない。竹若丸はそこをしばらく見てから、小さく口を開いた。

 

「ととさま」

 

 その言葉に、私は思わず顔を上げた。父親を呼んだのだろうか。

 

「竹若丸、父上はお出掛けになったのですよ」

 

 竹若丸は振り返らず、もう一度廊下を見た。出陣のことまで分かっているとは思えない。ただ、いつもなら会えるはずの父が、今日は姿を見せないことに気付いているのかもしれない。そう思うと、私は何と声を掛ければよいのか分からなかった。

 

「奥方様、若君をお連れいたしましょうか」

「いいえ。私が参ります」

 

 私は立ち上がり、入口の傍まで歩いた。腹が重くなり始めているせいで、以前のように身を屈めるのも少し億劫になっている。竹若丸の前へ手を差し出すと、小さな指が私の手を握った。もう一度だけ廊下を見てから、竹若丸は私と一緒に部屋へ戻り始めた。

 

 途中で手を離すと、竹若丸は一人で歩いて行った。私は転ばぬようすぐ傍をついて行ったが、足を止めることなく、先ほど座っていた場所まで戻ることが出来た。私は隣に腰を下ろし、小さな背をそっと撫でた。歩き方はまだ危なっかしいが、こうして一人で戻れるまでになったのだ。

 

 殿は、次に会う時の竹若丸をどれほど大きくなったと驚かれるだろう。生まれてくる子の顔も、その頃には御覧になれるかもしれない。そう思うと、嬉しいはずの成長を夫と一緒に見守れないことが、今は少し惜しかった。

 

 竹若丸は私の傍で腰を下ろし、指先で畳を軽く叩き始めた。私はもう一度だけ廊下へ目を向ける。殿が無事に戻られたら、今日この子が一人で部屋を歩き回っていたことをお話ししよう。それから、廊下に向かって「ととさま」と呼んだことも。殿はきっと、嬉しそうに聞いてくださるだろう。

 

 

 

 

永禄十一年(1568年) 八月下旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 平井加賀守定武

 

 八月も終わりに近いというのに、塩津浜はまだ暑かった。庭先では蝉が鳴き、開け放した障子から生温い風が入ってくる。殿が北陸へ出陣されて三月ほどになる。七月の終わりには越中を平定されたとの報せが届き、今は上杉勢などと共に能登を攻めておられる。能登で抵抗する遊佐美作守と長対馬守は七尾城に兵を集め、上杉・椎名・神保の軍勢がこれを囲んでいる。殿の軍は、その間に能登の各地を押さえているそうだ。戦は順調と聞くものの、七尾城の決着も、帰還の時期も、まだ分からぬ。戦の知らせが届く度、まず無事であったかと確かめるのが、この頃の私の習いになっていた。

 

 塩津浜城へ足を運ぶことも増えた。殿の留守に、身重の小夜を放っておくわけにはいかぬ。城には女房達も家臣達もいるし、私が来たところで産の苦しみを代わってやれるわけでもない。それでも娘の顔を見ると、幾分は安心出来るのだ。

 

「父上、またお越し下さったのですか」

「来てはならぬか」

「そのようなことは。けれど、御用もおありでしょうに」

「なに、少し顔を見に来ただけよ。具合はどうだ?」

「お陰様で変わりなく。近頃は随分と身体が重くなりましたけれど」

 

 小夜は笑って答えたが、座り直すにもゆっくりと身体を動かしていた。竹若丸様を産んだ時も、殿は戦で留守にしておられた。今度もそうなるやもしれぬ。夫の帰りを待ちながら出産の日を迎える娘を思えば、気が休まるものではなかった。

 

 竹若丸様は母親の傍から離れ、部屋の中を歩いていた。随分と足取りが確かになったものだ。私の前まで来ると一度立ち止まり、顔を見上げている。何を考えているのやら。こちらから手を差し出すと、少し迷うように指先を眺め、それから私の手に触れた。

 

「竹若丸様は爺の顔を忘れたかな?」

「まだ幼いのですもの。忘れることもございますよ」

「それは困るな。もっと足を運ばねばなるまい」

 

 小夜が声を立てて笑うと、竹若丸様はそちらを向いた。母親が手招くと、私の指から手を離し、歩いて戻っていく。着物の裾に触れたところで小夜を見上げ、小さな声を出した。

 

「かかさま」

「はい、ここにおりますよ」

 

 小夜はその手を取って傍らに座らせた。竹若丸様は大して表情を変えなかったが、母親の袖はしばらく離さなかった。幼い子というのはよく分からぬものだ。甘えているのか、ただそこにいたいのか。だが小夜は、何も問い詰めることなく自然に相手をしている。私が案ずるほど、この母子は頼りないわけではないのだろう。

 

 

 昼過ぎ、あてがわれた部屋で休んでいると、朽木の評定衆を務める進藤山城守殿と目賀田次郎左衛門尉殿からの文が届けられた。二人の連名である。何事かと思って開き、すぐに姿勢を正した。昨年朽木に敗れた六角左京大夫が、南近江の国人達を再び味方に引き入れようとしているという。

 

 文によれば、誘いを受けたのは小倉左近将監高治殿と永田備中守賢弘殿の二人だった。どちらも六角の旧臣で、今は朽木に従っている。

 

 小倉殿は目賀田殿に、永田殿は進藤殿に、それぞれ事情を明かしていた。二人とも左京大夫の誘いに応じるつもりはないという。しかし、断っても使者は容易に引き下がらぬ様子だと書かれていた。

 

「使いの者はまだおるか」

「はい。御返事をお待ちするよう申し付かっております」

「山城守殿と次郎左衛門尉殿は、このことを他にも知らせたのか」

「詳しいことは承っておりませぬ。ただ、殿へお伝えするには、まず加賀守様にお頼みしたいとのことでございました」

 

 私は文を置き、しばらく考えた。小倉左近将監殿は、かつて左京大夫の命で小倉本家を継いだ。その恩を持ち出されれば、きっぱり断ったとしても、周囲がどう受け取るかは分からぬ。永田備中守殿にも、高島の永田家との縁がある。六角の使者がそこに目を付けたのだろう。

 

 問題は二人が誘いを拒んだことだけでは済まぬ。殿は今、北陸におられる。南近江から遠いところで戦っている主君の耳に、事情を知らぬ者の噂だけが入ったらどうなるか。進藤殿も目賀田殿も、かつては六角に仕えた身だ。彼らが旧臣の潔白を訴えても、身内を庇っていると疑う者が出ないとは限らない。

 

 それで私か。なるほど、二人ともよく考えておられる。私は小夜の父であり、竹若丸様の祖父でもある。朽木に害を成すと疑われることは、まずあるまい。もっとも、血縁だけで何もかも信じてもらえるなどと考えてはならぬ。殿が私の言葉に耳を傾けて下さるのなら、それだけ慎重に伝える必要がある。

 

「左近将監殿も備中守殿も、自ら相談に参ったのだな」

「そのように伺っております」

「ならば、そのことをまず記しておこう。誘われたというだけで疑われては気の毒だ」

 

 かつての主に背を向けるのは、容易なことではあるまい。しかし家を存続させ、領民の暮らしを守るには、昔の恩だけを頼りにするわけにもいかぬ。朽木の下に入ってから、南近江では税が軽くなり、商いも以前より盛んだと聞く。人々は今の暮らしを捨ててまで、行方の定まらぬ六角に従おうとは思わぬだろう。

 

 それなのに左京大夫は、なお旧臣達を呼び戻せると思っているのか。昨年、命を助けられて領外へ去った時に、何を見ていたのだろう。私も長く六角家に関わってきたが、今更あの頃に戻りたいとは思わぬ。娘は朽木に嫁ぎ、竹若丸様も生まれた。私にとって守るべきものは、とうに定まっている。

 

「紙と筆を用意してくれ」

「はっ」

「山城守殿と次郎左衛門尉殿には、私が責任を持って大膳大夫殿へ知らせると伝えよ。左近将監殿と備中守殿にも、余計なことをせず、まず落ち着いていていただきたいとな」

 

 ただ安心せよと申し送るだけでは足りぬ。二人がいつ、誰から話を持ち掛けられ、どう答えたかを文に記しておかなければならない。私自身が確かめていないこともある。その点は分けて書くべきだろう。殿に判断を仰ぐ以上、こちらの思い込みを事実として伝えるわけにはいかぬ。

 

 筆を執り、まず進藤殿と目賀田殿が自ら申し出たことを記した。次に小倉殿と永田殿が使者を断ったこと、なお接触が続くおそれのあることを書き添える。最後に、四人が疑いを受けぬよう、早いうちに御沙汰をいただきたいと願った。殿ならば、これを読んで何をなすべきか判断されるだろう。私に出来るのは、その判断を誤らせぬよう事情を整えることまでだ。

 

 文を封じ、使いを呼んだ。北陸までは日数が掛かる。急がせねばならぬが、途中で失われても困る。届け先と道中の手配を確かめ、念を押して送り出した。これで済んだわけではない。返事が届くまで、南近江の様子を注意して見ておく必要がある。

 

 用を終えて廊下へ出ると、遠くから竹若丸様の足音が聞こえた。女房が少し後ろを歩き、小夜は部屋の入口に座って見守っている。竹若丸様は私の方まで来ると足を止め、それから母親の方へ引き返した。さっきより少し歩くのが速くなったようにも見える。

 

「父上、もうお帰りですか」

「いや、もうしばらくおる。急ぎの文を出したところでな」

「そうでございましたか。お忙しい中、いつもありがとうございます」

「気にするな。今は身体のことだけ考えておれ」

 

 小夜は頷き、竹若丸様の手を取った。私は二人の姿を見てから、北陸へ向かった文のことを思った。殿が戻られるまで、まだ何が起きるか分からぬ。だが、この城には帰りを待つ者がいる。余計な疑いで家中を乱すことだけは、避けねばならなかった。

 

 

 

 

永禄十一年(1568年) 十一月上旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 朽木小夜

 

 朝夕の冷え込みが増し、部屋には火鉢を置くようになった。庭の木々も葉を落とし始め、障子を開けておく時間は日に日に短くなっている。松千代が生まれてから、私の一日はこの子の泣き声とともに過ぎていくようになった。まだ身体は思うように動かないが、二度目だからだろうか、竹若丸の時ほど何もかもに慌てずに済んでいた。

 

 松千代は腕の中で眠っている。少し前までむずかっていたのに、今では口を小さく開け、何事もなかったような顔をしている。竹若丸もこんなに小さかったのだ。そう思うと、二年にも満たない間に随分と大きくなったものだと不思議になる。

 

「奥方様、竹若丸様がおいでです」

「ええ。こちらへどうぞ」

 

 女房の後ろから、竹若丸が歩いて来た。春には足を運ぶたびにふらついていたが、今は敷居の手前で一度立ち止まり、足元を確かめるようにして越えることが出来る。私の傍まで来ると松千代を見下ろし、少し離れたところに腰を下ろした。

 

「竹若丸。松千代は眠っていますよ」

 

 呼びかけると、竹若丸は私を見上げた。それからもう一度、腕の中の松千代へ目を戻す。弟が生まれてから、こうして傍へ来ることが増えた。まだ小さな赤子が何者なのか、どこまで分かっているのかは知らない。時には触れようと手を伸ばし、女房に止められて不思議そうな顔をすることもあった。

 

「まつちよ」

 

 小さな声に、私は思わず竹若丸を見た。近頃は人の名や目にした物を少しずつ口にするようになったが、松千代の名も覚えたらしい。

 

「そうです。松千代ですよ。よく覚えましたね」

 

 竹若丸は私の言葉には答えず、弟を包んだ布の端に指を置き、すぐに離した。ちょうど松千代が口をすぼめ、鼻の辺りに皺を寄せる。竹若丸は首を傾げて、その顔を覗き込んだ。

 

「へんなかお」

 

 思い掛けない一言に、私は笑いそうになった。

 

「まあ、変なお顔だなんて。赤子は時々、こんなお顔になるのですよ」

 

 竹若丸は表情を変えず、なおも弟を見つめている。私は空いている方の手でその頭を撫でた。

 

 やがて松千代が身じろぎをし、眉を寄せて泣き始めた。竹若丸は小さく肩を動かし、一歩後ろへ下がった。私が松千代を抱き直すと、泣き声はかえって大きくなる。女房が襁褓を確かめに来てくれたが、どうやらまた乳が欲しいらしい。

 

「竹若丸様、こちらへ参りましょうか」

「かかさま、だっこ」

 

 女房の差し出した手には触れず、竹若丸は私の袖を握った。普段なら呼べばこちらへ来る子だが、今は離れたくないらしい。私の膝には松千代がいる。二人を同時に抱き上げることは出来ず、私は竹若丸の手に自分の手を重ねた。

 

「ここにおりますよ、竹若丸。松千代に乳をあげたら、あなたも抱いてあげますからね」

 

 竹若丸は返事をせず、袖を握ったまま座り込んだ。指先に力が入っている。こういう時、何を言えば納得してくれるのだろう。静かな子だからといって、何も求めないわけではない。こちらの都合で待たせているのだと思うと、申し訳ない気持ちになった。

 

「奥方様、私が若君をお連れいたしましょうか」

「いいえ。しばらくこのままにしておいてください。竹若丸も傍にいたいのでしょう」

 

 女房は頷いて下がった。松千代が乳を飲み始めると、さっきまで部屋に響いていた声が途絶えた。竹若丸は袖から手を離したものの、私のすぐ傍に座っている。弟を見ているのか、私が抱き終えるのを待っているのか。どちらとも分からぬまま、時折こちらへ顔を向けていた。

 

 松千代が落ち着くのを待って、女房に預けた。竹若丸へ手を伸ばすと、すぐに立ち上がってこちらへ来る。少し身体を支えて膝に乗せてやると、私の胸元に頬を寄せた。もう松千代のように片腕だけでは抱いていられない。ずっしりとした重みに、この子が一人で歩けるほど大きくなったことを改めて思い知らされた。

 

「待たせてしまいましたね」

「かかさま」

「ええ。母ですよ」

 

 竹若丸の背をゆっくり撫でた。松千代が生まれる前は、こうして私を独り占めに出来る時間がもっとあった。今は弟が泣けば、どうしてもそちらへ手が掛かってしまう。竹若丸は不満を声に出すことが少ない。それでも、さっき袖を握っていた小さな手の強さを、私は忘れずにいたかった。

 

「こうして見ると、お二人のお顔立ちは違いますね。竹若丸様は殿に、松千代様は奥方様に似ておいでです」

「竹若丸は殿によく似ていますものね。松千代の目元は、私に似たのかもしれません」

「にてない」

 

 竹若丸は自分の頬に指を当て、それから松千代を指さした。私と女房は顔を見合わせる。どうやら、自分と弟の顔が似ていないと言っているらしい。

 

「そうですね。竹若丸と松千代は、あまり似ていませんね」

「ちいさい」

 

 竹若丸は今度は弟の身体を指した。確かに大きさも随分と違う。私は頷き、膝の上の竹若丸を少し抱き直した。

 

「松千代様は、これからお顔も変わって参りましょう」

「ええ。竹若丸も、少し前まではこんなに小さかったのですもの」

 

 女房の腕の中で、松千代が小さく口を動かした。竹若丸もそちらを向いたが、私の膝から下りようとはしない。私は無理に勧めず、そのまま抱いていた。兄になったといっても、竹若丸自身がまだ甘えたい盛りなのだ。弟が生まれたからといって、母を求める気持ちまで変わるわけではないのだろう。

 

 しばらくして竹若丸が身体を起こし、女房の方を指さした。松千代を見たいのかと尋ねると、小さく頷いたように見える。女房に近くへ来てもらい、膝の上から弟の顔を見せてやった。竹若丸は身を乗り出したが、私が腰を支えるとそのままじっとしていた。

 

「松千代はまだ、竹若丸のように歩けないのですよ」

 

 竹若丸は松千代の手を見ている。小さな指が開いたり閉じたりするのを、しばらく飽きずに眺めていた。やがて自分の手を差し出しかけたので、私はその指をそっと支え、松千代の手に触れさせてやった。松千代の指が動くと、竹若丸はすぐに手を引いた。

 

「驚きましたか?」

「うごいた」

 

 そう言うと、竹若丸はもう一度弟の手元へ顔を近付けた。驚いたのかどうかは分からないが、指の動きは気になるらしい。あまり近付きすぎぬように支えていると、今度は私の方を振り返る。その顔を見て、私は少し笑ってしまった。

 

 先日、北陸から殿が帰途に就かれたとの報せが届いた。五月にお見送りした時、殿は帰る頃には竹若丸も走り回っているかもしれぬと仰っていた。まだ走るほどではないが、一人で部屋を歩き回り、言葉も少しずつ覚えている。殿が会われたら、驚かれるに違いない。

 

 そして今は松千代もいる。殿にこの子を抱いていただく日を思うと、待ち遠しくてならなかった。竹若丸が父の姿を見つけたら、今度はどうするだろう。二人を交互に見ながら考えてみたが、やはり会ってみなければ分からない。

 

「竹若丸、父上がもうすぐお帰りになりますよ」

「ととさま?」

 

 竹若丸は私を見上げた。名前を聞いて父を思い出したのだろうか。私が頷くと、また松千代の方へ目を戻した。帰還の時期まで分かっているとは思えない。それでも、殿がお戻りになった時には、まず竹若丸を抱いていただこう。久しぶりに父と会ったこの子が、どんな顔をするのか。私もその様子を見ていたかった。

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