淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
ちょっと長め。
永禄十一年(1568年) 十一月上旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 朽木基綱
北陸を発ってから、塩津浜へ戻る日を指折り数えていたわけではない。それでも城門が見えた時には、ようやく帰って来たと思った。越中、能登、飛騨と兵を動かし続け、出陣した五月から五か月余りが過ぎている。兵達にも休ませる時間が要る。俺も例外ではないが、城に戻れば戻ったで、片付けねばならぬ仕事が山ほど有るのは分かっていた。
家臣達への挨拶を済ませ、旅装を解いてから小夜の部屋へ向かった。途中、廊下を行く女房に声を掛けると、小夜も生まれた子も息災だという。文では聞いていたが、顔を見るまでは落ち着かない。生まれた時に父親が遠くにいるなど、竹若丸の時と何も変わらぬ。子が増えても、こういうことだけは一向に上手くならん。
「殿、お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま。そなたも無事で何よりだ」
「お陰様で。お疲れでございましょう」
「疲れたが、まずは顔を見せてくれ。松千代は何処だ?」
小夜が傍らの寝具へ目を向けた。薄い布に包まれた赤子が、小さな口を動かしながら眠っている。男児だと知らせを受けた時には安堵したが、こうして見れば男も女も有るものか。手を伸ばすにも気を遣うほど小さい。
「松千代と名付けました。よく乳を飲みますし、元気な子でございます」
「そうか。小夜、よく頑張ってくれた」
「竹若丸の時ほどは慌てずに済みました。女房達にも助けられましたから」
「だが俺はまた留守だった。すまんな」
「殿のお帰りが間に合わぬことは、覚悟しておりました。それでも、こうしてお二人とも無事にお戻りになったのですから」
小夜に促され、松千代の顔を近くから覗いた。目は閉じたままだが、鼻筋や口元が竹若丸とは少し違って見える。小夜に似ているのかもしれぬ。もっとも、生まれて間もない子の顔はこれから幾らでも変わるだろう。
「抱いてみますか」
「起こさぬか?」
「大丈夫だと思いますよ」
小夜が松千代をそっと抱き上げ、俺の腕へと渡した。恐る恐る受け取ると、拍子抜けするほど軽かった。抱き直すと小さく身じろぎしたが、目を覚ます様子はない。竹若丸も最初はこんなものだったのか。大きくなった姿ばかり見ていると、忘れてしまうな。
その竹若丸は何処にいるのかと尋ねようとした時、廊下から女房の声がした。
「奥方様、竹若丸様をお連れいたしました」
戸口に立った竹若丸を見て、少し驚いた。出陣前はまだ足元が危なっかしかった筈だが、今は女房の手を借りずに歩いている。俺の顔をじっと見つめたまま敷居を越え、少し離れたところで立ち止まった。
「竹若丸、父だぞ。覚えているか?」
すぐには答えが無い。忘れられたかと思ったところで、竹若丸が口を開いた。
「ととさま」
「おう。そうだ、父だ」
竹若丸はそのまま近寄り、俺の着物の袖を掴んだ。顔を見上げているが、笑うでも泣くでもない。それでも袖を離そうとはしなかった。長く会わなかった分、どう接してよいのか少し迷っているようにも見えた。
「殿、松千代をお預かりいたしますね」
小夜に赤子を返すと、竹若丸が袖を引いた。
「ととさま、だっこ」
「そうか、抱いて欲しいのか。よし、来い」
両脇に手を入れて抱き上げると、竹若丸は俺の肩に片手を置いた。随分重くなっている。出陣の時、小夜から部屋の端まで歩けるようになったと聞いてはいたが、今ではこんなにはっきり言葉まで出る。親が留守にしている間にも、子は勝手に育つらしい。少々寂しい話だ。
「竹若丸、よく歩けるようになったな」
「あるく」
「ああ、見たぞ。今度は父と一緒に歩いてみるか?」
「うん」
小夜がこちらを見ていた。
「この子は近頃、覚えた言葉を口にしたがります。松千代の名も呼べるようになったのですよ」
「ほう。竹若丸、あれが誰だか分かるか?」
寝具に戻された松千代を指すと、竹若丸もそちらを向いた。
「まつちよ」
「そうだ。そなたの弟だぞ」
分かったかどうかは怪しい。だが竹若丸は弟を見てから、もう一度俺の顔を見た。小夜の腹に赤子がいると教えられた時も、気になった様子だったという。母の腹に手を伸ばしていた子が、今はこうして弟の名を呼んでいる。俺が見ていない間に、二人の間にも少しずつ関わりが出来ていたのだ。
「殿がいらっしゃらない間、竹若丸はよく私の傍におりました」
「手が掛かったか?」
「松千代が泣き出すと、私の袖を離さないことはございます。でも、この子もまだ幼いのですもの」
「当たり前だ。兄になったからといって、急に大人になれるものでもない」
俺は竹若丸を抱いたまま腰を下ろした。竹若丸は膝に落ち着き、着物の縫い目を指でなぞり始めた。こちらの話など聞いていないようにも見える。だが俺が手を離すと、今度はその手を握った。何を考えているかは分からんが、ここにいたいということだけは伝わってくる。それで十分だろう。
「そういえば、舅殿はよく顔を見せて下さったのか」
「はい。私の具合を案じて何度も来て下さいました。竹若丸と遊んでいるうちに、帰る時刻を忘れてしまわれることも」
「それは舅殿らしいな」
小夜が笑った。舅殿には文でも世話になった。夏の終わり、六角左京大夫が旧臣達を誘った折、進藤と目賀田からの知らせを取り次ぎ、確かなことと伝聞を分けて伝えてくださった。
北陸で戦っている最中に南近江の者を疑い始めては、こちらの方が敵の思う壺だ。俺は小倉と永田を疑わぬと返書を送り、進藤と目賀田にも遠慮せず知らせて欲しいと伝えた。報告が早かったからこそ、余計な疑心暗鬼を生まずに済んだ。四人の働きも、間に入ってくれた舅殿の気遣いも、決して小さなことではない。
「舅殿には礼を言わねばな。家のことも、南近江のことも世話になった」
「父上に申し伝えます。けれど、何かございましたの?」
「六角のことで少しな。だが皆、早く知らせてくれた。心配することは無い」
「そうでしたか。私には父が竹若丸に会いたくて来ているように見えましたけれど」
「そちらも本当だろう。舅殿も孫には甘いからな」
小夜がまた笑った。俺の膝の上では竹若丸が小さく欠伸をしている。随分と眠そうだな。だが下ろそうとすると、着物を握る手に力が入った。
「眠いのではないか?」
「ねむくない」
「そうか。ならもう少しここにいろ」
言うことと身体の様子が一致しないのも幼い子らしい。俺も笑いそうになった。出陣前には会えば離れ難くなると思って顔を見ずに出たが、確かにこれは離れ難い。戦の間、こちらが知らなかった幾つもの日常が、この小さな身体に積もっている。
「少しはゆっくり出来ますか」
小夜が松千代の寝具を整えながら尋ねた。
「年が明けるまでは、大きく兵を動かすつもりは無い。兵も疲れているし、俺も領内のことを見ておきたい」
「大和におられる義秋様からは、三好との戦を求める使者が何度か来ておりますが」
「ああ、聞いている。今すぐ三好と戦う気は無い。能登も落ち着いたとは言えんからな」
七尾城を落とし、かつて能登から追われた畠山家を国主に戻したところで戦は終わった。しかし国が治まったわけではない。七尾城から周囲に広がった疫病は、夏が終わる頃には収まった。だが、病を恐れて能登を離れた住民は、まだ戻っていない。越中や能登で戦って得たものを、ここで無駄にするわけにはいかぬ。大和からの催促に応じて新たな戦を始める余裕など、今の朽木には無かった。
「では、しばらくはお城においでなのですね」
「そうなる。もっとも、朝から晩まで暇というわけにはいかんぞ」
「存じております。それでも、殿が戻られたと思うだけで違います」
小夜は静かに答えた。松千代は眠ったままで、竹若丸も俺の膝に寄り掛かり始めている。こいつもそろそろ限界だろう。
「竹若丸、寝るなら小夜のところへ行くか?」
「いや」
「俺の膝が良いのか?」
「ととさま」
それだけ言って、竹若丸は俺の手を握り直した。なるほど、言葉は増えたが、話したいことを何でも説明出来るわけではないらしい。それでも今は、何を望んでいるかくらいなら分かる気がする。
しばらくすると、竹若丸の頭が俺の腕にもたれ、指の力が緩んだ。眠ったらしい。小夜がそっと手を伸ばしたが、俺は首を横に振った。このくらいは抱いていられる。
明日になれば、また文と人と用件に追い立てられるだろう。だが今夜ばかりは、子を起こさぬように座っているのも悪くない。遠くの戦で片付いたこと、まだ片付かぬこと。そのどちらも考える必要がある。それでも、膝の上の重みを確かめるくらいの時間は、父親に残しておきたかった。
永禄十二年(1569年) 一月中旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 雪乃
正月を過ぎても寒さは緩まなかった。廊下を歩いていると、庭から吹き込む風に思わず袖を合わせた。北陸から殿がお戻りになって二月余り。城では二月に予定されている伊勢攻めの支度が進み、兵糧方の者や南近江からの使いが頻繁に出入りしている。先ほども帳面を抱えた者と擦れ違った。年が改まっても、殿のお仕事は一向に減らないらしい。
今日は奥方様のご機嫌を伺いに来た。松千代様が生まれた頃は、奥方様もまだ身体が辛そうで、長くお邪魔するのを控えていた。今は大分お元気になられたと聞く。それでも小さなお子様がお二人では、お休みになる暇もないだろう。
「奥方様、雪乃にございます」
「雪乃殿、どうぞ。寒かったでしょう」
「いいえ。このくらいは。お身体の具合は如何ですか?」
「もう随分と楽になりました。心配を掛けましたね」
奥方様は松千代様の寝具の傍に座っておられた。松千代様は小さな手を布の外へ出し、気持ち良さそうに眠っている。私が顔を近付けても起きる気配はなかった。秋に生まれたばかりと聞いていたのに、頬も手も以前よりふっくらとしている。
「よくお休みでいらっしゃいますね」
「先ほど乳を飲んだところなのです。昨夜は何度も起きましたから、今はぐっすり」
「それでは奥方様も眠れなかったのでは?」
「少しだけ。でも竹若丸の時にも経験したことですし、女房達が助けてくれますから」
奥方様はそう仰って笑われた。慣れたとはいっても、疲れがないわけではあるまい。私は持って来た包みを膝に置いた。中には女房と縫った小さな綿入れがある。
「松千代様に、と思いまして。少し大きめに仕立ててございます」
「まあ、綺麗な布ですね。雪乃殿が?」
「女房にも手を借りました。私だけでは、なかなか綺麗に縫えませんもの」
「ありがとうございます。寒いうちは重宝いたします」
嬉しそうに受け取っていただき、ほっとした。その時、奥方様の隣に座っていた竹若丸様が、包みから顔を上げた。最初に挨拶した時から、ずっとこちらの手元を見ておいでだったのだ。
「ゆきのさま」
「はい、竹若丸様」
「それ、まつちよの?」
「そうですよ。松千代様のお召し物です」
「ちいさい」
「ええ。竹若丸様のお召し物より、ずっと小さいですね」
「いつ、きる?」
「もう少し大きくなられたら、でしょうか。今はお袖が長いのです」
「まつちよ、おおきくなる?」
「ええ。竹若丸様も、去年よりずっと大きくなられたでしょう」
竹若丸様は綿入れの袖口をしばらく見つめ、それから私の手へ目を移された。歩いて来るうちに冷えていたのだろう、指先がまだ少し赤い。竹若丸様はためらわずに私の指に触れ、顔を見上げられた。
「つめたい」
「そうなのです。廊下は寒くて」
「ひばち」
そう仰って、少し離れた火鉢を指された。なるほど、手を温めたらよいということか。思わず笑うと、竹若丸様も火鉢の方へ顔を向ける。
「お気遣いありがとうございます。でも近くへ行き過ぎてはなりませんよ」
「うん」
「この子、火鉢には近付き過ぎないようにと何度も言われているのです。雪乃殿が寒そうなのを見て思い出したのでしょうか」
奥方様がそう仰ると、竹若丸様は私の手を離された。今度は奥方様の傍へ戻り、少し間を空けて座られる。以前お会いした時には奥方様の膝を求めておられたこともあったが、今日は膝元へ行こうとはなさらなかった。代わりに、布の包みをもう一度覗き込んでおいでだ。
「竹若丸様は、随分とお話しになるようになりましたね」
「ええ。それに近頃は、前ほど抱いてとはせがまなくなりました。気になるものがあると、そちらへ行ってしまうのです」
「先ほども、お召し物をいつ着るのかと尋ねて下さいました」
「まだ何でも『どうして』と聞くほどではないのですけれど。初めて見る物や、いつもと違うことには『これは?』『どこ?』と。こちらが答えると、今度は別のことを尋ねることもございます」
「そうなのですね」
「昨日も殿がお読みになっている文を指して『なに?』と。文だと教えられると、今度は文箱を指して尋ねておりました」
「殿は何と?」
「一つずつ答えておられましたよ。けれど終いには竹若丸を抱き上げて、文箱を遠くへ置いてしまわれました」
奥方様が可笑しそうに話されるので、私も笑ってしまった。殿が竹若丸様を抱いている姿は何度か見掛けたが、政務の文を片付けてまで相手をなさるとは。もっとも、あの方は御自分で決めたことをなさる時、周囲が驚くほどきっぱりしておいでだ。子供にせがまれると案外弱いのかもしれない。
「ととさま、ふみ」
「そうですね、父上は文をお読みになっていましたね」
「いっぱい」
「まあ、そんなに沢山ありましたか」
奥方様が問い掛けると、竹若丸様は両手を広げられた。どれほどの文があったのかは分からないが、少なくとも竹若丸様には随分と多く見えたようだ。
殿の元へ届く文は、北陸遠征が終わっても絶えない。伊勢へ進む軍の兵糧をどこに集め、どの道から運ぶか。兵糧方の者達が、近江から伊勢へ抜ける八風街道や千種街道の名を口にするのを、私も耳にしていた。
伊勢を押さえれば、越前から近江を経て伊勢へ通じる道が整い、商いも盛んになるという。長島の一向一揆を牽制する狙いもあるらしい。
南近江の国人衆も年末から何度となく城へ参っている。以前、六角の家に仕えていた方々には、なお気に掛かることもあるのだろう。能登の様子も落ち着いたとは聞かない。私には詳しい事情までは分からないが、伊勢攻め一つとっても、兵を出すまでに多くの者が働いていることは分かった。
「年が明けても、殿はお忙しそうですね」
「ええ。お正月の間は竹若丸と過ごす時間もありましたけれど、伊勢攻めの支度でまたお使いが増えて参りました」
「今朝も南近江からの方をお見掛けしました。道や兵糧のことも、お決めにならねばならないのでしょうね」
「そう聞いています。殿は、兵を動かす前に整えねばならぬことが多いと仰っていました。南近江の方々にもお力を借りるそうです」
話しているうちに、竹若丸様が松千代様の寝具を指された。私もそちらを見ると、眠っている松千代様の小さな手が布の外に出ている。先ほどから出ていたものだが、竹若丸様はその手をじっと見ておいでだった。
「まつちよ、て」
「ええ、お手々が出ていますね」
「さむい?」
奥方様はその言葉に頷き、松千代様の手をそっと布の中へ戻された。松千代様は目を覚まさない。竹若丸様は母上の手元を見届けてから、弟の顔へ目を移された。
「まつちよ、ねてる」
「ええ。静かにしてあげましょうね」
「しずかに」
竹若丸様は小さな声で繰り返された。それから私の方へ向き直り、松千代様の寝顔をもう一度確かめてから、同じように声を落として尋ねられた。
「ゆきのさま、またくる?」
「もちろんです。奥方様がよろしければ、また伺いますよ」
「いつ?」
「そうですね……また近いうちに」
はっきりと日を言えずにいると、竹若丸様は私を見つめたまま待っておいでだった。奥方様が口を開かれる。
「雪乃殿にも御用があるのですよ。毎日こちらへ来ていただくわけにはいきません」
「まいにち、だめ?」
「毎日は難しいですね。でも、お会い出来ないわけではありませんよ」
そう答えると、竹若丸様は少し考えるように目を伏せ、それから私の顔を見上げられた。
「じゃあ、またね」
「はい。またお会いしましょう」
思い掛けず約束をしたような気分になった。竹若丸様はそれで納得なさったのか、今度は奥方様の傍に置かれた布を指先で触っている。もう私の方は見ていない。
「すみません、雪乃殿。いつも自分の聞きたいことばかりで」
「いいえ。私が来るのを覚えていて下さったのでしょう。嬉しゅうございます」
その言葉に嘘はなかった。こちらが一方的に気を遣うばかりだと思っていたのに、竹若丸様はまた来るのかと尋ねて下さった。何か特別なことをして差し上げた覚えはない。今日も、ただ奥方様の様子を伺いに来ただけなのに。
私の手が冷えているのを見て火鉢を指し、今度は弟の手が寒くないかと尋ねられた。先ほど気づいたことを、別のことにも当てはめておられるのだろうか。竹若丸様はもう松千代様の寝顔を見ておいでだった。
お暇を告げる前に、松千代様の寝顔をもう一度見た。まだ眠っておられる。奥方様は竹若丸様の手を取り、綿入れを広げて見せておられた。竹若丸様は布の端をつまみ、何か小さく話している。
部屋を出れば、また冷たい廊下が待っている。その先では殿に届ける文を抱えた者が行き交っているだろう。城の中には、それぞれの役目があり、休む間もなく動いている人がいる。だが、今日この部屋で交わした「またね」という言葉は、私にとって思いのほか嬉しいものだった。
永禄十二年(1569年) 十月中旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 雪乃
障子の向こうから、女房達が行き交う足音が聞こえていた。昨日は湯や布を運ぶ者の声が絶えなかったが、今朝は足音も幾分落ち着いている。私は枕に頭を預け、深く息を吐いた。出産の痛みは昨日ほどではないものの、身体を動かそうとするとまだ辛い。何もせず横になっていることが、こんなに難しいとは思わなかった。
枕元の小さな寝具には、昨日生まれた娘が眠っている。産声を聞いた時には、無事に生まれたことが嬉しくて、男か女かなど気にも留めなかった。女の子だと告げられても、すぐには返事が出来なかったほどだ。今になってそっと顔を覗くと、皺の寄った小さな顔が、時折何かを探すように動いている。
「姫様はよくお休みでございますね」
「ええ。先ほどは随分と泣いていましたのに」
「お腹が空けば、またお声を聞かせてくださいますよ。雪乃様も今はお休みください」
女房が寝具の端を整えてくれた。頼みたいことは幾つもあるのに、自分では思うように動けない。娘をもう一度抱きたいと言い掛けたが、女房の顔を見ると、今は言うことを聞いた方が良さそうだった。
二月に殿が伊勢へ出陣されてから、城には戦の知らせが絶えなかった。北伊勢の城が幾つも朽木に下り、殿はいったん能登へ向かわれたと聞く。昨年国主に戻された畠山家が、重臣の温井・三宅を殺し、領民にも重い負担を強いていたためだという。殿が軍を進めると畠山家は人々に見放され、今は朽木が能登を治めることになったそうだ。
夏には再び伊勢へ兵を進め、南伊勢を治める北畠家との戦が続いた。近頃になって、北畠との戦も一段落したとの知らせが届いた。それでも殿はまだお戻りにならない。戦が終わればそれで済むわけではないのでしょう。
私のお腹が大きくなるにつれ、女房達には殿へ文を出すよう勧められた。けれど戦の最中に気を揉ませたくなくて、その度にもう少し待ってほしいと言ってきた。無事に生まれた今は知らせるべきなのだろうが、近くお戻りになるかもしれぬとも聞いている。早く顔を見せたい。けれど、ここまで知らせずにいたのだから、出来れば殿がお戻りになった時、自分の口から伝えたいと思っていた。
「雪乃様、奥方様からお見舞いのお言葉を頂いております。お加減がよろしければ、後ほどこちらへお越しになるそうですが」
「有難いことです。でも、奥方様にも松千代様のお世話がございます。今日は私が落ち着いているとだけ、お伝えしてください」
「承知いたしました」
奥方様は私の身体が重くなってから、何度も様子を見に来てくださった。松千代様の時のことを教えていただいたり、女房達の手配を気に掛けていただいたりもした。初めての出産を迎える私にとって、あれほど心強いことはなかった。落ち着いたら、改めて礼を言わねばならない。
女房が部屋を出ようとしたところで、廊下から小さな話し声が聞こえた。女房が戸口で誰かと話している。聞き慣れた幼い声が混じっているような気がして耳を澄ませると、すぐに声を掛けられた。
「雪乃様、竹若丸様がお見えですが、如何いたしましょう」
「竹若丸様が?」
「雪乃様と赤子の様子が気になると仰って、こちらまでおいでになりました。長くはお通ししない方がよろしいかと」
「ええ。少しだけなら。こちらへどうぞ」
女房に付き添われ、竹若丸様が戸口に現れた。城内でお会いするたびに、背も伸び、足取りもしっかりしていくのが分かる。今日も女房の手を借りずに敷居を越えたが、私の方を見ると少し離れたところで立ち止まった。寝具の傍に置かれた湯や布を見てから、女房の顔を見上げておいでだ。
「ゆきのさま」
「はい。よく来てくださいましたね」
「ねてるの?」
「ええ。今日は起き上がるのが少し辛いのです」
「おかげん、わるい?」
思い掛けない言葉に、私は竹若丸様の顔を見た。女房が私の具合を案じているのを聞いて、覚えたのかもしれない。けれど、普段とは違って寝ている私を見て、確かめたかったのだろう。
「赤子を産んだので、少し疲れたのです。でも大丈夫ですよ」
「いたい?」
「少しだけ。もう大分良くなりました」
竹若丸様は私の顔を見つめ、それから枕元の寝具へ目を向けられた。女房が赤子を見やすいように布を少し下げると、そっと近付いて覗き込む。
「あかちゃん?」
「はい。女の子なのですよ」
「おんなのこ」
竹若丸様は小さく繰り返された。眠っている娘が口を動かすと、少し身を引かれたが、泣き出さないと分かるとまた顔を近付けられた。
「まつちよより、ちいさい」
「そうですね。松千代様も、お生まれになった時はこのくらいだったのでしょう」
竹若丸様は娘の顔と、私の顔を交互に見ておられる。まだ眠っている赤子の小さな手に触れようとなさったので、女房がそっと手を添えた。竹若丸様は無理に触ろうとはせず、開いた指をそのまま眺めていた。
「ゆきのさま、だっこ、できる?」
「今はまだ難しいですね。少し休んだら抱いてあげますよ」
「どうして?」
「産んだばかりで、身体が疲れているからです」
そう答えると、竹若丸様はしばらく黙っておいでだった。言葉の意味をどこまで分かっているかは知らない。その時、私が娘の方へ身を寄せようとすると、腹の奥が痛み、思わず顔を顰めた。竹若丸様はその様子を見ると、赤子に伸ばしかけた手を引っ込められた。
「ねてて」
「え?」
「ゆきのさま、ねてて」
子供に寝ていなさいと言われて、思わず笑ってしまった。女房も口元を押さえている。私は頷いて、枕に頭を戻した。
「そうですね。竹若丸様のお言葉に従います」
「うん」
満足されたのかどうかは分からないが、竹若丸様はそれ以上起きるようには仰らなかった。代わりに寝具の傍へ腰を下ろし、私の娘を見ておられる。以前は気になったものへすぐ手を伸ばしていたのに、今は女房が何かをするのを待てるようになったらしい。
「竹若丸様、姫様もお休みになりますから、そろそろ参りましょう」
付き添いの女房が声を掛けた。竹若丸様は娘の顔をもう一度見た後、立ち上がって私の方へ向き直られた。
「ゆきのさま、またくる」
「ええ。元気になったら、ゆっくりお話ししましょう」
「あかちゃんも?」
「もちろん。今度は起きているかもしれませんね」
竹若丸様は頷き、戸口まで歩いてから一度振り返られた。
「おだいじに」
今度こそ声を上げて笑いそうになった。女房が教えた言葉をそのまま使われたのだろう。けれど私を案じてここまで来てくださったことは、確かなのだと思えた。
廊下の足音が遠ざかると、部屋はまた静かになった。枕元では娘が眠っている。私はその寝顔を眺めながら、一月に竹若丸様が「また来るのか」と尋ねてくださったことを思い出した。あれから何度かお会いしたが、今日のように私の身を案じる言葉を聞くとは思わなかった。まだ幼いのに、少しずつ人の様子を見るようになっておられるのだろう。
「雪乃様、やはり殿へお知らせいたしましょうか」
女房が小さな声で尋ねた。先ほどまで笑っていた私は、娘の寝顔を見つめたまま考えた。
「……お帰りになるまで、もう少し待ちましょう。お会いした時に、私からお伝えしたいのです」
「よろしいのでございますか」
「ええ。でも、何も言わずにいたと知れば、お叱りになるかもしれませんね」
そう言うと女房は困ったように笑った。私も少し可笑しくなったが、殿がお戻りになったら、きちんとお詫びしなくてはなるまい。戦の間に何度も案じていたことを話し、この子を抱いていただこう。
そっと娘の手に指を近付けると、小さな指が動いて触れた。殿はどのような顔をなさるだろう。まずは驚かれるに違いない。そう思いながら、私はようやく目を閉じた。
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