淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
しばらくは原作沿いです。
永禄十二年(1569年) 十一月上旬 近江高島郡安井川村 清水山城 朽木綾
庭の木々が色付き始めていた。朝夕は冷えるようになったものの、日が差せば部屋の中はまだ暖かい。障子を少し開けておくと、風に揺れる枝の影が畳に落ちた。私は京へ出す文をしたため、最後の一画を収めて筆を置いた。京の公家・飛鳥井家で育った頃から、筆を執る時間だけは好きだった。紙に残る墨の濃淡を確かめ、端の余白に手を触れぬよう文を脇へ寄せる。墨が乾くのを待っていると、廊下から幾人かの足音が近付いて来た。
「母上、少しよろしいですか」
入って来たのは大膳大夫だった。小夜殿に続いて竹若丸が顔を覗かせ、女房に抱かれた松千代も一緒だ。伊勢から戻ったと聞いた時には、ようやく一息つけるのかと思ったが、あの子のもとには今も使いが絶えない。顔を合わせるたび、こちらの近況を尋ねながらも、話が済むと次の用事へ向かっていく。今日は家族を連れて来てくれたことが、何より嬉しかった。
「お入りなさい。皆、一緒なのですね」
「御爺と大叔父上に話が有りますので。その間、小夜達をお願い出来ますか」
「勿論ですよ。御義父様は今朝もお加減が良さそうでした。お話を楽しみにしておられましょう」
「そうですか。それは良かった」
大膳大夫の顔が少し和らいだ。けれど、何やら気になることも有るらしい。伊勢の戦は片付いたと聞いているが、近頃は京からも伊勢からも使いが絶えないという。戻って来ても、落ち着いて過ごせる日はなかなか無いようだ。
「小夜、子供達を頼む」
「はい。殿もあまりお遅くなられませぬよう」
「御爺と話し始めると、つい長くなるからな」
そう言って大膳大夫は出て行った。御義父様と、その弟の惟綱様に話があるらしい。廊下を曲がる姿を見送ってから、私は小夜殿に座るよう勧めた。女房に茶を頼むと、竹若丸が私の傍へ来て、ちょこんと頭を下げた。
「おばばさま」
「まあ、御挨拶が上手になりましたね。よくいらっしゃいました」
「うん」
顔を上げた竹若丸は、私を見て小さく頷いた。もうじき三つになる。以前は女房に手を引かれていた子が、今日は自分の足で部屋に入り、言われる前に頭を下げた。表情はあまり変わらない。それでも私の袖に指を掛け、もう一度顔を見上げてから小夜殿の隣に座る。その短い仕草が、竹若丸なりの親しみなのだろうと思うと、こちらから無理に抱き寄せる気にはならなかった。
「小夜殿、お変わりはありませんか。松千代も随分大きくなりましたね」
「お陰様で。近頃は目を離すと、すぐに何かを掴もうとするものですから」
「それは大変。けれど、元気な証でもありますね」
松千代は小夜殿の膝の傍に座らされ、女房が差し出した布の毬へ両手を伸ばしていた。毬が手に収まると、指を開いたり閉じたりして布の感触を確かめている。やがて口へ持っていこうとするので、小夜殿が慌てて手を添えた。松千代は邪魔をされたと思ったのか不満そうな声を出し、すぐまた毬を握り直す。その一つ一つが可笑しくも懐かしく、私は小夜殿と顔を見合わせて笑ってしまった。
「竹若丸殿も、このくらいの頃には同じようにしていたのでしょうか」
「ええ。ただ、この子は何かを手にすると、随分長く眺めていることが多かったように思います。松千代はすぐ別の物が気になるようで」
「兄弟でも違うものですね」
「はい。顔立ちも、気性も」
小夜殿が竹若丸に目を向けると、竹若丸は松千代の持つ毬を見ていた。弟の手から毬が転がり落ちると、すぐ手を伸ばして拾い、小夜殿の前へ置いた。小夜殿が渡そうとするより早く松千代が身を乗り出したので、竹若丸はその手元まで毬を運んでやる。弟が握り直すまで見届けると、もう自分の役目は済んだという顔で手を引いた。褒められたいからというより、困っているのが目に入ったから動いたように見えた。
「竹若丸、ありがとう。松千代も嬉しいでしょう」
小夜殿の声に竹若丸が小さく頷いた。松千代は毬を握るのに夢中で、兄が拾ってくれたことなど分かっていないのかもしれない。竹若丸はそれを気にする様子もなく、今度は私の文机の方へ目を向けた。
「おばばさま、ふみ?」
「ええ。京へ出すお文ですよ」
「これも?」
竹若丸は机の端に置いた筆を指した。
「それは筆です。文を書く時に使うのですよ」
「かく?」
私が頷くと、竹若丸は紙と筆を交互に見た。文字の並んだ紙へ顔を近付け、何かを確かめるように首を傾げる。まだ墨の乾いていないところへ指が伸びかけたので、私は文を少し脇へ寄せた。机に黒い墨の跡が付いているのに気付くと、竹若丸は伸ばした手を止め、今度は筆の先を見つめている。
「こちらは触るとお手々が黒くなります。もう少し大きくなったら、使い方を教えてあげましょう」
「おおきくなったら?」
「ええ。その時には、一緒に書きましょうね」
竹若丸は紙をしばらく見つめていたが、やがて私の方を向いて頷いた。何をどこまで分かっているのかは分からない。それでも、気になるものを見つけては短く尋ね、答えを聞いて確かめようとする。小夜殿から近頃そういうことが増えたと聞いていたが、なるほどと思った。
「この子は文を見るのが好きなのです。殿が読んでおられると、傍へ行っては何をしているのかと尋ねることがございます」
「大膳大夫殿は答えてやるのですか?」
「はい。仕事の邪魔になってしまう時もあるようですが、出来るだけ相手をしてくださいます」
「そうですか」
私が幼い大膳大夫に、こうして筆や文のことを教えたことがあっただろうか。思い返しても、あの子が何かを尋ねてくる姿はあまり浮かばなかった。滅多に泣かず、遊びに誘っても静かに座っていることの多い子だった。手が掛からないと周りは言ったが、私は何を望んでいるのか分からず、声の掛け方に迷うこともあった。あの頃の自分の戸惑いを、久しぶりに思い出した。
竹若丸は今、筆には触れず、紙の上に並んだ文字を見ている。こちらが話し掛ければ答えるし、気になることがあれば自分から尋ねる。静かではあっても、大膳大夫と何もかも同じというわけではないのだろう。
「ところで、雪乃殿はお元気ですか。大膳大夫が竹姫と名付けた子も、無事に育っておいででしょうね」
「はい。雪乃殿も、竹姫も息災にございます。殿がお戻りになった時には少し騒ぎになりましたけれど」
「まあ、何かあったのですか」
「雪乃殿が懐妊したことをお知らせしておりませんでしたので。殿はお生まれになった娘を御覧になって、たいそう驚かれたのです」
「そうでしょうね。あの子は戦に出ていれば、こちらのことは文でしか分かりませんもの」
雪乃殿も戦の最中に余計な心配を掛けまいとしたのだろう。小夜殿はその時のことを思い出したのか、少し困ったように笑っている。
「今では殿も、竹姫をよく抱いておいでです」
「それなら何よりです。子供はすぐ大きくなってしまいますからね」
言ってから、私は松千代を見た。小夜殿の膝に片手を掛け、毬を持ったまま立とうとしている。小夜殿が身体を支えると、松千代は嬉しそうに声を上げた。竹若丸も弟の方を向いたが、手を貸そうとはせず、そのまま様子を見ている。
「松千代も、もう少ししたら歩き始めるのでしょうね」
「そうなれば、ますます目が離せなくなります」
「竹若丸に追い付こうとして、走り回るようになるかもしれませんよ」
「それは困ります。今でも二人を追い掛けるだけで精一杯ですもの」
二人で笑った。子供達の声が重なると、先ほどまで静かだった部屋が急に賑やかになる。
女房が新しい茶を運んで来た。熱い茶碗を小夜殿に差し出しながら、御義父様のお部屋へも茶を届けたと教えてくれる。大膳大夫と大叔父上の話は、まだ続いているそうだ。伊勢の戦が収まっても、使いの往来は多い。相談事が尽きないのだろう。それでも今日は御義父様のお声もよく通っていたと聞き、私もほっとした。
「御義父様も、お話し相手が揃ってお喜びでしょう」
「はい。殿も清水山へ来ると、御隠居様とお話しするのを楽しみにしておられます」
「昔からそうなのですよ。あの子は御義父様にはよく話します」
小夜殿が静かに頷いた。私が知らない大膳大夫の話も、御義父様は随分御存じなのだろう。母として寂しくないと言えば嘘になる。けれど、御義父様があの子を支えてくださったからこそ、今がある。それは忘れてはならないことだった。
「御義父様には、後で竹若丸達にも会っていただきましょう。曾孫の顔を御覧になれば、また喜ばれますよ」
「はい。竹若丸も、こちらへ参るのを楽しみにしておりました」
小夜殿がそう言うと、竹若丸がこちらを向いた。
「おじじさま、いる?」
「ええ。父上達とお話ししておられますよ」
「あとで、あえる?」
「会えますよ。お話が終わったら御挨拶に参りましょう」
竹若丸は頷き、また文机に目を向けた。筆が気になるらしいが、先ほど注意されたからか、もう触れようとはしない。
庭では風が吹き、色付き始めた葉が何枚か落ちていった。御義父様は近頃、お話しになった後には早めに横になることが増えている。それでも今日は朝からお加減が良く、大膳大夫や大叔父上を迎えるのを楽しみにしておられた。話が済めば曾孫達の顔も御覧になるだろう。松千代を抱いてみたいと仰るかもしれない。その時には、疲れぬよう私が傍に付いていようと思った。
私は文机の筆を片付け、竹若丸の方へ手を差し出した。
「こちらへいらっしゃい。御義父様のお話が終わるまで、もう少し一緒に過ごしましょう」
「うん」
竹若丸は私の手を取ると、隣に座った。松千代は小夜殿の膝の傍で毬を握っている。廊下の向こうでは、まだ大膳大夫達の話が続いているのだろう。私は竹若丸の小さな手を握り返し、今しばらくはこの賑やかさに耳を傾けていようと思った。
永禄十二年(1569年) 十二月下旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 朽木小夜
城でも正月を迎える支度が始まっていた。女房達は朝から忙しく、廊下では新しい畳表や布を運ぶ者と何度も擦れ違った。片方では正月の膳に使う器を数え、別の部屋では敷物を取り替えているらしい。雪はまだ積もっていないものの、琵琶湖から吹く風は冷たく、障子の隙間から入り込む風に火鉢の灰がかすかに揺れた。私は女房に戸を閉めてもらい、用意された茶を雪乃殿に勧めた。久しぶりに二人でゆっくり話せるのだから、出来れば邪魔が入らぬうちにと思った。
「ようやく少し落ち着きましたね」
「はい。今年は何かと慌ただしゅうございましたから」
雪乃殿は湯気の立つ茶碗を両手で包んだ。竹姫を産んでから二月ほどになる。顔色も良く、以前のようにゆっくり話せるようになったのが嬉しかった。
竹若丸は、鈴殿と遊びに行っている。鈴殿がこの城へ来られてから、まだひと月ほどだ。初めのうちは部屋から出るにも遠慮がちで、こちらから声を掛けても返事は短かった。それでも最近は竹若丸が訪ねていくと、一緒に遊んでくださるようになった。今日も二人は別の部屋へ行き、女房が付き添っている。松千代も竹姫もそれぞれ乳母達に預けていた。いつもなら竹若丸が私の袖を引き、松千代の声に女房達が走る部屋なのに、今は火鉢の炭が小さく音を立てるばかりだ。こうして雪乃殿と二人だけで過ごすのは、随分と久しぶりのことだった。
「竹若丸様は、鈴殿がお好きなのですね」
「ええ。あの子は自分から誰かを遊びに誘うことが少ないのですけれど、鈴殿のところへはよく行きたがります」
「鈴殿も、少しずつお顔が明るくなられたように思います」
「そうだと良いのですけれど」
鈴殿は、長野家から迎えた十歳の娘だ。名目の上では殿の側室ということになっているが、まだ幼い。長野家は北畠からの報復を恐れ、朽木との結び付きを強めようとして鈴殿を送り出したのだという。鈴殿自身も父君や祖父君を亡くされたと聞いている。こちらに来たばかりの頃、何を尋ねても失礼にならぬ答えを選ぼうとなさるので、かえって気の毒になった。殿は決して粗略には扱わぬと仰った。私もそのつもりだが、慣れぬ城で年を越す鈴殿の心細さを、私達がどこまで分かっているのだろう。傍に女房が付いていても、故郷の家族と離れた寂しさまでは消せまい。
「雪乃殿が初めてこちらへおいでになった頃を思い出します」
「私の時とは随分違いますよ。私は自分で決めて参りましたもの。鈴殿は、お家のためにこちらへ来るしかなかったのでしょう」
「そうですね……」
雪乃殿の言うとおりだ。たとえ鈴殿が行儀良く振る舞い、何も困っていないと仰ったとしても、それだけで安心してはならないのだろう。
「私が鈴殿くらいの年頃には、まだ父や母に甘えておりました。あのような事情で家を離れることなど、考えたこともありません」
「私もです。ですから、せめてこの城では、年相応に過ごしていただきたいと思います」
「竹若丸と遊んでいる間だけでも、その助けになると良いのですが」
「なっていると思いますよ。昨日、二人で布の毬を転がしておられるのを見ました。鈴殿が転がすと竹若丸様が拾い、またお返しになるのです。何度も繰り返しておいででした」
「まあ。あの子は飽きなかったのですか」
「ええ。むしろ鈴殿の方が、いつまで続くのかと笑っておられました」
私もつられて笑った。竹若丸は気に入ったことがあると、同じことを何度でも繰り返したがる時がある。けれど、一人で黙々と遊ぶばかりではない。相手がいることを楽しんでいるらしい。その姿を、私は少しずつ知るようになった。
「三つになりましたものね」
「竹若丸様のことですか」
「ええ。去年はまだ、私の傍から離れたがらないこともございました。それが今では、遊びに行く前に行き先を告げて、戻る時にも女房と一緒に来るのですよ」
「それは安心ですね」
「けれど、時々寂しくもなるのです。少し前まで、抱いてほしいと袖を引いていた子ですのに」
雪乃殿は茶碗を置き、静かに頷いた。私も竹若丸が一人で部屋を出て行く姿を思い返していた。ほんの少し前まで、外へ行くにも女房の手を頼り、私の顔を見上げてから歩き出していたのに。嬉しいことのはずだが、見送るたび、呼び止めたいような気持ちになることがある。
「竹若丸様は、今も奥方様のお傍がお好きですよ。甘え方が変わられたのでしょう」
「そうかもしれません。こちらの顔色を見て、何かを尋ねることも増えました。教えたことをよく覚えているのには、時々驚かされます」
「私が竹姫を産んだ時にも、随分と気遣ってくださいました」
「後で伺いました。『ねてて』と言ったのでしょう」
「ええ。私が少し痛そうにしたものですから。お休みなさいと言われてしまいました」
雪乃殿が笑う。あの時、産後間もない雪乃殿のもとへ竹若丸が行ったと聞き、私は長居をして迷惑を掛けなかったかと気を揉んだ。けれど雪乃殿は、あの子が顔を見に来てくれたことが嬉しかったと何度も話してくださった。
「竹姫も、よく育っていますね」
「お陰様で。近頃は起きている時間が少し増えました。私の顔を見てくださっているのか、それとも灯りが気になるだけなのか……まだ分かりませんけれど」
「竹若丸の時もそうでした。何を考えているのか分からず、ただ見つめ返しておりました」
「奥方様でも、そうだったのですか」
「ええ。初めての子でしたもの」
二人で顔を見合わせた。今では子供が三人いる。竹若丸と松千代、それに雪乃殿の竹姫。去年の今頃には、雪乃殿との間にこうして竹姫の話が出来る日が来るなど、思いもしなかった。不思議なものだ。
「それにしても、殿には本当に驚かされました」
「……竹姫の時のことですか?」
「ええ。城へお戻りになり、雪乃殿の腕の赤子を御覧になって、まず誰の子かと尋ねられたでしょう。私は一瞬、何を仰っているのか分かりませんでした」
「私も、あそこまで驚かれるとは思いませんでした。知らせなかったのは私ですのに、つい腹を立ててしまって」
「殿も気が付かれると、随分慌てておいででしたね」
「今では笑えますけれど、あの時は泣いてしまいました」
雪乃殿の言葉に、私は改めてその顔を見た。出産までの間、どれほど不安な思いをしていたのだろう。殿が伊勢で戦っていると知っていたからこそ、知らせを控えた。その気持ちは分かる。けれど、知らせぬまま待つのも、容易なことではなかったはずだ。
「雪乃殿。あの時は、私も驚くばかりで……」
「いいえ、奥方様には本当にお世話になりました。お産のことも、女房達のことも。奥方様がおられなければ、私はもっと心細かったと思います」
「私に出来たのは、以前のことを話すくらいですよ」
「それが有難かったのです」
雪乃殿は言い切った。私は返す言葉が見つからず、茶碗へ目を落とした。竹若丸を産んだ時には、殿が遠くにおられた。松千代の時もそうだった。出産の苦しさだけでなく、終わった後に夫の顔が見られぬ寂しさを、私は知っている。だからこそ雪乃殿には、せめて一人で待っていると思わせたくなかった。
「今年は伊勢の戦もありましたものね。殿はようやくお戻りになりましたが、今度はその後始末でお忙しい御様子です」
「年が改まっても、すぐには落ち着かないのでしょうか」
「どうでしょう。伊勢からは今も文が届いておりますし、城を預かる方々とのやり取りも続いていると伺っています。和議が成立したからといって、すべて終わりとはいかぬのでしょう」
殿から伺ったところでは、伊勢の大河内城に籠もった北畠勢は兵糧を失い、勝敗はすでに決していたという。だが、そこへ足利義秋様の使者が仲裁に入り、形の上では和議となった。殿は北畠の本家を近江へ移そうとお考えだったが、それも叶わず、所領を減らして伊勢に残ることが認められたらしい。北畠に従ってきた者達も多く、殿は再び争いが起きることを案じておられる。
「北畠とのことも、気に掛かりますね」
「ええ。それに長野家のこともございます。鈴殿を迎えたのは、そのためでもあるのですから」
鈴殿の話に戻ると、雪乃殿も少し表情を引き締めた。伊勢で戦が収まったことと、あの娘が安心して暮らせることは、同じではない。北伊勢の城を預かった家臣や、道を行き来する使者のことは、殿からも時折伺っていた。武士達が戦場から戻っても、城を守り、人と兵糧を動かし続ける仕事は残るのだという。殿は長野家を守ると約束なさった。その約束を守るためにも、また多くの人が働き続けねばならないのだろう。
「鈴殿には、無理に笑っていただく必要はないと思うのです」
「私もそう思います。寂しい時には寂しいと仰っていただければ良いのですが」
「そうですね。ただ、こちらから何度もお尋ねしては、却って困らせてしまうかもしれません」
「では、今は一緒にお食事をしたり、竹若丸様と遊んでいただいたり。そういうことから始めましょうか」
「ええ。私達も、急いで慣れていただこうとしない方が良いのでしょう」
雪乃殿と話しているうちに、肩の力が少し抜けた気がした。鈴殿のことばかりではない。雪乃殿自身、竹姫を産んでまだ日が浅く、無理をしてはならない身だ。私達も初めからこのように話せたわけではない。互いに気を遣い、言葉を選び、少しずつ今の距離になった。鈴殿にも、こちらから答えを急がずにいられる時間が必要なのだろう。
廊下の向こうから、年の支度をする者達の足音が聞こえてきた。正月が来れば、竹若丸もまた少し大きくなる。松千代は今よりしっかり歩くようになっているかもしれないし、竹姫も声を出して笑うようになるだろう。鈴殿がその輪の中で穏やかに過ごせるなら、嬉しい。
「そういえば、先月は清水山へおいでになりましたね」
「ええ。竹若丸も松千代も、御隠居様には随分可愛がっていただきました」
「綾様もお喜びだったでしょう」
「はい。竹若丸が御隠居様のお部屋へ行きたがって、何度も女房に尋ねておりました」
あの日、殿は祖父の稙綱様や大叔父様とのお話が長くなり、私達は綾様のお部屋でゆっくり過ごした。竹若丸は文机の筆が気になったようで、帰り道にも「おばばさま、かく」と繰り返していた。綾様が大きくなったら教えてくださると約束してくださったことを、覚えているのだろう。私には御隠居様が後から竹若丸を招き寄せ、松千代と一緒に顔を覗き込んでおられた姿も思い出された。まだ幼い二人を前に、何度も目を細めてくださった。年が明けたら、また二人をお連れしよう。そう思うと、御隠居様に会える日が少し楽しみになった。
「大方様は書筆のお上手な方ですもの。竹若丸様が教わる日も、きっと楽しゅうございましょうね」
「そうですね。ただ、まだ三つですから、まずは筆を持つところからでしょうけれど」
「それでも、興味を持っておられるのは良いことだと思います」
雪乃殿は穏やかに答えた。私も頷く。今の竹若丸に何が出来るかより、あの子が何に目を向け、何を覚えていくのか。それを見守ってやりたいと思う。
茶はすっかり冷めていた。竹若丸と鈴殿が戻ってくるまで、もう少し雪乃殿と話していよう。そう思って茶碗を置いた時、廊下を急ぐ足音が近付いて来た。
戸口に現れた女房は、いつになく強張った顔をしていた。
「奥方様、清水山城から急ぎのお知らせがございます」
「清水山から? 何事です」
女房は一度口を開きかけ、言葉を呑み込んだ。雪乃殿も茶碗を置いている。
「構いません。お話しなさい」
「……御隠居様が、お亡くなりになったとのことにございます」
耳にした言葉が、すぐには理解できなかった。先月、竹若丸と松千代を迎えて笑ってくださった御隠居様の顔が浮かぶ。冷めた茶碗へ手を伸ばしかけたまま、指が止まった。何か尋ねなければと思うのに、何を聞けばよいのか分からない。つい先ほどまで来年の話をしていたのに、私は何も言えず、女房を見つめていた。