淡海乃海 獅子の子が描く波紋   作:竹若丸

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第6話

永禄十三年(1570年) 二月中旬 近江高島郡安井川村 清水山城 朽木綾

 

「おばばさま、きょうはおふでをおしえてくれる?」

 

 竹若丸が私の文机を指して尋ねた。昨年の十一月、清水山城へ来た折に、もう少し大きくなったら一緒に書こうと約束した。それを覚えているらしい。今朝も小夜殿に連れられて来るなり、筆の置いてある方へ目を向けていた。

 

「ええ。少しだけ、お手習いをしてみましょうね」

「うん。まえに、いっしょにかくって、やくそくしたよね」

 

 私は頷いて文机の前に座った。竹若丸はその隣へ膝を寄せ、私が紙を広げるのをじっと見ている。小夜殿は「この子はそのお約束が余程楽しみだったようです」と笑い、松千代が目を覚ます頃に迎えに来ると言って部屋を出て行かれた。

 

 御義父様が亡くなられたのは昨年の暮れだった。正月には葬儀や弔問の応対が続き、落ち着かぬうちに二月も半ばとなった。御義父様のいらした部屋の前を通ると、今でもつい足を止めてしまう。長く一緒に暮らしてきたのだから、簡単には慣れぬものだろう。

 

 御義父様を亡くした私を一人にせぬよう、大膳大夫は小夜殿や子供達を連れ、塩津浜城から清水山城へ移ってくれた。それから廊下には人の往来が増えた。松千代の泣き声が聞こえたり、竹若丸が女房と一緒に歩いていたりする。その賑やかさが、今は有難かった。

 

「竹若丸殿、書く前に、まず字を読んでみましょう」

「かくまえに、よむの?」

「ええ。字には読み方があるのですよ。読めるようになれば、お文に何が書いてあるのかも分かります」

「ととさまの、おふみにも?」

「そうですね。父上のお文にも、同じ字が使われておりますよ」

 

 竹若丸は文机へ少し身を乗り出した。私は筆に墨を含ませ、紙に二つの仮名を縦に並べて書いた。

 

「これは『いし』と読みます」

「いし? おにわにある、いし?」

「ええ。あの飛び石も、同じ『いし』ですね」

 

 庭へ目を向けると、竹若丸もそちらを見た。しばらく飛び石を眺めてから紙へ戻り、二つの字を指している。

 

「うえが『い』で、したが『し』なの?」

「そうですよ。二つ続けて『いし』と読みます」

 

 今度は『し』だけを別のところへ書いてみせた。竹若丸は初めの紙と見比べ、少し考えてから「し」と答えた。上の字を尋ねると、今度はすぐには答えず、もう一度二つの字を見比べている。

 

「こっちは……『い』?」

「ええ、その通りです」

 

 よく聞いている。もっとも、たった今教えたばかりのことだ。明日も覚えているかどうかは分からない。それでも紙の上の字と庭の石を結び付けようとしているのは、見ていて楽しかった。

 

「ぼくも、かいてみたい」

「では、この『し』を書いてみましょうか」

 

 私は小ぶりの筆を選び、竹若丸の手に持たせた。指を添えて持ち方を教え、紙へ筆先を下ろすところまで一緒に動かす。ところが手を離すと、筆が大きく傾き、墨が丸く広がってしまった。

 

「あ……つよくおしちゃった」

「そうですね。もう少し力を抜いてみましょう」

 

 竹若丸は黒くなった紙を見つめていた。私は別の紙にゆっくりと『し』を書いてみせた。筆先を運び、終わりを少し曲げる。竹若丸は身を乗り出して、その動きを目で追っていた。

 

「おばばさまみたいに、かけるかな」

「初めから同じには書けませんよ。まずはやってごらんなさい」

 

 新しい紙を寄せると、竹若丸は筆を持ち直した。ゆっくり下へ動かしたものの、途中で線が横へ逸れ、終わりは大きく曲がってしまった。私の手本と並べてみると、随分と違う形になっている。

 

「……ぼくのは、ちがうね」

「初めてですもの。上手に書けなくても構いませんよ」

「もういちど、かいてみてもいい?」

「ええ。今度は筆をあまり強く押さずに」

 

 少しだけ手を添えてやると、竹若丸は先ほどより慎重に筆を動かした。やはり真っ直ぐな線にはならなかったが、今度は墨が大きく広がらずに済んだ。

 

「ほら。先ほどより上手になりましたね」

「さっきより、ちいさくかけた」

 

 竹若丸は二枚の紙を交互に眺めている。次にどう書けばよいか考えているのか、筆を持った手を動かしかけたので、私はそっと声を掛けた。

 

「今日はここまでにしましょう。手も疲れたでしょう」

「あと、ひとつだけかきたい」

「続きは明日にいたしましょう。毎日少しずつ習えばよいのですよ」

 

 竹若丸は自分の手を見た。墨の付いた指を開いたり閉じたりしてから、ようやく筆を渡してくれる。

 

「あしたも、おばばさまといっしょに?」

「ええ。明日もいたしましょう」

 

 女房に布を持って来てもらい、小さな指に付いた墨を拭いてやった。竹若丸は嫌がらずに手を預け、拭き終わると、自分の書いた紙へまた目を向けている。

 

 大膳大夫が幼かった頃には、こうして一緒に文机に向かったことはなかった。あの子にどう声を掛ければよいか迷っているうちに、いつの間にか私の方が気遣われるようになっていた。竹若丸も一つのことをじっと見つめるところは父親に似ているが、分からないことは自分から尋ね、上手く書けなければもう一度試そうとする。こちらが手を添えても嫌がらず、教えたことを確かめながら筆を動かしていた。大膳大夫とは出来なかったこんな時間を、今はこの子と過ごしているのだ。

 

「おばばさま、これ、ぼくのかいた『し』だよね」

「ええ。竹若丸殿が書いた字ですよ」

「おばばさまのとちがうけど、『し』ってわかる?」

「分かりますとも。少しずつ形を覚えていきましょうね」

 

 竹若丸はしばらく紙を眺めていたが、やがて私の袖を引いた。

 

「これ、ととさまにもみせたい。ぼくがかいたって、おはなしする」

「まあ。父上もきっと喜ばれますよ」

「うん」

 

 竹若丸は満足したように頷き、私の隣に座り直した。廊下の向こうから松千代の声が聞こえる。そろそろ小夜殿が迎えに来られる頃だろう。

 

「竹若丸殿、最後にもう一つだけ。こちらは何と読むのでしたか」

 

 初めに書いた紙を前へ寄せると、竹若丸は指先で二つの字を順に追った。

 

「うえが『い』、したが『し』。いっしょにすると、『いし』」

「そうですよ。よく覚えていましたね」

 

 私が褒めると、竹若丸は小さく頷き、袖を握る手に少し力を込めた。大膳大夫はこの字を見て、どのような顔をするだろう。私は小さな手に自分の手を重ね、竹若丸と並んで紙を眺めていた。

 

 

 

 

永禄十三年(1570年) 三月中旬 近江高島郡安井川村 清水山城 長野鈴

 

「篠殿、そちらは違うのではありませんか」

 

 私が声を掛けると、篠殿は手にした蛤の殻を、畳に伏せてある一枚と重ねた。けれど端が合わず、首を傾げた。傍には、まだ幾つもの殻が並んでいる。

 

「似ていると思ったのですけれど……」

「そうですね。少し形が違うようです」

 

 重ねた殻を離すと、内側に描かれた花も違っていた。篠殿は残念そうに貝を置き、もう一度並べられた殻へ目を向けた。向かいに座っていた辰殿が、その手をそっと止める。

 

「篠、急がなくてよいのよ。端の形をよく見てごらんなさい」

「従姉上は、すぐに見つけられるのに」

「私だって間違えるわ。さっきも一つ外したでしょう」

 

 そう言われて篠殿は顔を上げた。辰殿は能登の温井家の娘で八つ、篠殿は同じく能登の三宅家の娘で六つになる。二人は従姉妹で、故郷の能登を離れ、こちらへ身を寄せられたと聞いている。

 

 能登を治めていた畠山家によって、温井家と三宅家は一族の多くを殺されたという。お二人はそれぞれ家臣に匿われて難を逃れ、朽木が能登を治めるようになってから、こちらへ迎えられたそうだ。今は大方様が面倒を見てくださっている。

 

 辰殿が篠殿の世話を焼く姿は、まだ幼い妹を気遣う姉のようだった。

 

 貝合わせの道具は大方様が貸してくださった。蛤の殻の内側には草花が描かれ、形の合う二枚を合わせると絵も揃う。三月の初めに、大膳大夫様が貝合わせの相手をしてくださったことを、ふと思い出した。篠殿が遊んでみたいと仰った時、辰殿は少し迷っておられたが、今は一緒に身を乗り出して貝を選んでいる。

 

「鈴殿は、こういう遊びに慣れておられるのですか」

 

 辰殿に尋ねられ、私は首を振った。

 

「以前にも遊んだことはございますけれど、それほど上手ではありません。先ほども外しましたもの」

「でも、迷っておられるようには見えませんでした」

「迷ったまま手を伸ばしてしまったのです」

 

 篠殿がくすくすと笑い出した。辰殿も口元を押さえている。私は少し恥ずかしかったが、二人の間にあった遠慮が薄れたようで、ほっとした。

 

 辰殿と篠殿が清水山城へ来られた頃は、何を話しても丁寧な返事が戻るばかりだった。大方様の御前ではもちろん、私と三人だけになっても、遠慮しておられるように見えた。私も昨年の暮れに伊勢から朽木へ迎えられたばかりだ。小夜様も大方様も親切にしてくださるが、何をお願いしてよいのか分からないことは、今でもある。

 

「今度は鈴殿の番ですよ」

 

 辰殿に促され、私は一枚の貝を手に取った。似た形の殻を探していると、篠殿が膝を進め、私の手元を覗き込んだ。

 

「それなら、こちらではありませんか」

「篠、教えてしまっては鈴殿がお困りでしょう」

「でも、鈴殿はさっき私に教えてくださいました」

 

 辰殿は返す言葉が見つからないらしく、私と目を合わせた。篠殿の示した貝を重ねると、二つの殻はきれいに合った。

 

「篠殿のお陰で当たりました」

「では、次は私が探します」

 

 篠殿は嬉しそうに貝を選び始めた。今度はすぐに決めず、一枚ずつ端を確かめている。辰殿も口を出さずに見守っておられた。

 

「竹若丸様も、こういう遊びをなさるのでしょうか」

 

 篠殿が貝を並べながら尋ねた。

 

「竹若丸様ですか?」

「はい。まだ小さな方ですけれど、いつも静かにしておられますから」

 

 私も初めてお会いした時にはそう思った。御挨拶をすると丁寧に頭を下げてくださるが、すぐには言葉を続けられない。どうお相手をすればよいのか迷ったことを、今でも覚えている。

 

「塩津浜では毬で遊びました。私が転がすと、何度も拾って返してくださったのです」

「そうなのですか。御挨拶をした時は、ずいぶん落ち着いた方だと思いました」

「ええ。あまりお笑いにはなりませんけれど、次の毬を待っておられるのが分かりました」

 

 竹若丸様の表情は大きく変わらない。それでも一緒に遊んでいるうちに、嫌がっておられるわけではないのだと分かるようになった。

 

「大方様から、お字も習い始められたそうですよ」

「もうお字を?」

 

 辰殿が驚いたので、私は頷いた。

 

「小夜様から伺いました。まだ筆を持つところからだそうですけれど、御自分から書いてみたいと仰ったとか」

「私、筆は苦手です」

 

 篠殿が顔をしかめた。

 

「この前も墨をこぼしてしまったものね」

「従姉上だって、袖を汚したことがあるでしょう」

「それは……ありますけれど」

 

 二人の遣り取りに、つい頬が緩んだ。大方様がお呼びになればすぐに姿勢を正す二人が、こうして言い合うところを見るのは初めてだった。

 

 ところが、辰殿はふと手を止めた。篠殿が選んだ貝を見ていた目が、少し遠くへ向けられる。

 

「竹若丸様は、御両親と一緒にこちらへ移られたのですよね」

「ええ。大膳大夫様も小夜様も、御一緒です」

「それなら、心細くはありませんね」

 

 そう言ってから、辰殿は篠殿の方を見た。篠殿は気付かぬ様子で貝を探している。私はすぐに返事が出来なかった。竹若丸様にも慣れない城で困ることはあるだろうが、御父上も御母上も傍にいらっしゃる。私達とは違うのだ。

 

「竹若丸様にも、寂しい時はあるかもしれません。でも、何を思っておられるかは、御本人に伺わなければ分かりませんね」

「……そうですね」

 

 辰殿は小さく頷き、貝へ目を戻した。私はそれ以上尋ねなかった。お二人が家臣に匿われていた間、どのような思いをされたのかまでは知らない。私自身も長野の家のことを尋ねられると、何と答えればよいのか迷ってしまう。

 

「鈴殿」

 

 篠殿が私を呼んだ。手の中に貝を二枚持ち、困ったように見比べている。

 

「こちらと、こちらでは、どちらだと思われますか」

「合わせてみてはいかがです?」

「また違っていたら、恥ずかしいです」

 

 私が何か答えるより先に、辰殿が口を開いた。

 

「間違えても構わないわ。私達しかいないのですもの」

 

 篠殿は少し考えてから二つの殻を重ねた。ぴたりと合うと、顔を上げて私達を見た。

 

「合いました!」

「ええ。今度は当たりましたね」

 

 辰殿も嬉しそうに頷いた。篠殿はもう一度殻を開き、内側の花を確かめている。私もその隣へ膝を寄せた。

 

 伊勢のことを思い出さない日はない。叔父上は今頃どうしておられるだろう。長野の家の様子も気に掛かる。それでも、今日のように二人と貝を囲める時がある。ここへ来たばかりの頃には、そんな日が来るとは思わなかった。

 

「鈴殿、もう一度いたしましょう」

「ええ。今度は篠殿に負けぬようにしなくては」

「私も負けませんよ」

 

 辰殿の言葉に、篠殿は勢いよく頷いた。三人で貝を並べ直していると、廊下を女房が通る足音が聞こえた。竹若丸様は別の部屋で過ごしておられる。今は私達だけで、次の一枚を選ぶことに夢中になっていた。

 

 

 

 

永禄十三年(1570年) 六月上旬 近江高島郡安井川村 清水山城 朽木基綱

 

 ようやく清水山城へ戻って来た。昨年、北畠とは和議を結んだが、伊勢が落ち着いたわけではない。三月の終わりに長島の一向一揆が動き、北伊勢の国人衆もそれに呼応した。それから二月余り、反乱した者達の城を幾つも落としたが、手放しで勝ち戦とは言えん。

 

 出迎えの家臣達との挨拶を済ませ、俺は家族の待つ部屋へ向かった。戦の後始末も気になるが、まずは皆の顔を見たい。正月からこちら、綾ママを一人にせぬようにと清水山へ居を移していた。長く留守にした後だけに、城へ戻って来られたことに少し安堵した。

 

「大膳大夫殿、お帰りなさい。御無事で何よりです」

「ただいま戻りました、母上。お変わりはありませぬか」

「ええ。小夜殿も子供達も、よくしてくれておりますよ」

 

 綾ママの傍には小夜と竹若丸、松千代がいた。雪乃は竹姫を抱き、鈴、辰、篠も揃っている。皆の顔を見渡すと、竹若丸は小夜の隣に座ったままこちらを見ていた。目が合うと、静かに頭を下げる。

 

「ととさま、おかえりなさい」

「ああ、帰ったぞ。竹若丸も元気そうだな」

「うん。おばばさまに、おてならいをおしえてもらった」

「そうか。後で聞かせてくれ」

 

 竹若丸は小さく頷いた。表情はあまり変わらないが、返事をする声が少し弾んだように聞こえた。松千代は兄と違い、俺の方へ手を伸ばしている。留守の間に二人ともまた大きくなったようだ。竹姫も顔立ちが少しはっきりしてきた。子供というものは、親が戦に出ている間にもよく育つ。

 

「殿、北伊勢では随分と城を落とされたそうですね。皆で案じておりました」

「心配を掛けたな、小夜。大きな負傷もなく戻れたのは何よりだ」

「大方様も、御無事のお帰りを待っておられました」

 

 小夜がそう言うと、綾ママも頷いた。御爺が亡くなってから初めての大きな出陣だっただけに、余計な心配を掛けたのだろう。俺の方も、長く城を空けるのは気掛かりだった。

 

 鈴にも声を掛けた。伊勢では、鈴の叔父で長野家当主の慶四郎とも顔を合わせた。慶四郎が鈴の身を案じていたと伝えると、鈴はほっとしたように頭を下げた。辰と篠も元気そうだ。二人とも綾ママの傍で落ち着いて過ごしているらしい。

 

「殿、湯殿の支度が出来ております」

「そうか。それは有難い。先に汚れを落としてこよう」

 

 小夜にそう告げて席を外そうとすると、竹若丸がこちらを見上げた。声は掛けなかったが、俺が部屋を出るまで目で追っている。少しは一緒にいたいと思ってくれているのだろうか。そうであれば嬉しい。俺はすぐ戻ると声を掛け、小姓達と部屋を出た。

 

 湯を使い、少し身体を休めてから小夜の部屋へ行った。竹若丸は小夜の傍に座り、俺が入ると顔を上げた。松千代はすぐに寄って来たので、抱き上げて膝に乗せてやる。

 

「ととさま、もうつかれてない?」

「ああ。少し休んだからな。大丈夫だ」

「そう。よかった」

 

 竹若丸はそう答え、それ以上何も言わずに松千代の方を見た。もう自分から抱いてほしいとは言わなくなったらしい。少々寂しい気もするが、俺のことを気に掛けてくれているのは分かる。こちらも無理に呼び寄せることはあるまい。

 

「殿、兵の皆様もお戻りになられるのでしょうか」

「ああ。守りを残して、休ませる者は戻す。二月余りも戦を続けたのだからな」

「それでは、しばらくは落ち着くのでしょうか」

 

 小夜の問いに、俺は少し考えた。兵を休ませる必要はある。だが、それだけでは済まん。一向宗の門徒衆が拠点とする長島への備えもせねばならない。

 

「大方様は、今回も勝ち戦だと喜んでおられましたけれど、殿はあまりお喜びではないようでした」

「勝ってはいないからな」

「……あれほど城を落とされても、ですか?」

「北伊勢の反乱した者達の城は幾つも落とした。だが長島はそのままだ。逃げた国人達も、今はそこにいる」

 

 小夜が不思議そうに俺を見た。文では戦況を知らせてあったが、落とした城の数を聞けば勝ったと思うのも無理はない。北伊勢の支配を固めることは出来た。だが長島は残っている。

 

「長島というのは、それほど攻め難いところなのですか」

「ああ。川が幾つも流れ込み、その間に島がある。敵は島に籠もっているから、こちらは川を渡らねばならん。鎧や槍を持って渡るのは容易ではないし、渡っている最中に攻められれば大勢の兵を失う。今すぐ攻めても勝てるとは思えん」

「そうでしたか……」

 

 小夜が頷くと、傍で聞いていた竹若丸が俺の方を向いた。松千代をあやしている間も、こちらの話に耳を傾けていたらしい。

 

「ととさま、おしろをとったのに、かってないの?」

「城は取った。だが、そこから逃げた者達が長島にいる。敵が残っているうちは、戦が終わったとは言えん」

「……まだ、たたかうの?」

「いずれはな。今すぐというわけではないが」

 

 竹若丸は少し考えてから、別のことを尋ねた。

 

「すずどのの、おうちも、いせにあるんだよね」

「ああ。長野の家だな」

「まだたたかうなら、すずどの、しんぱいするかな?」

 

 思わぬ名が出た。鈴が故郷を離れてここにいることも、気に掛けていたらしい。

 

「そうだな。鈴も故郷のことは気になるだろう。だが慶四郎は無事だ。先ほど鈴にも知らせたし、長野の家のことはこちらでも気を配っている」

「……そう。なら、よかった」

 

 そう言って口を閉じたかと思うと、竹若丸が再び俺を見た。

 

「でも、ととさま。まだおわってないのに、どうしてかえってきたの?」

 

 小夜も竹若丸の方を見ている。長島を今攻めれば、兵を無駄に失うだけだ。だが確かに、敵が残っているのに俺が帰ったのは、子供には不思議だろう。

 

「今は攻めても勝てぬからだ。川を渡る支度も要るし、兵達も疲れている。勝てるように準備を整えねばならん」

「……そうなんだ」

 

 竹若丸はそれ以上尋ねなかった。松千代が俺の膝の上で毬に手を伸ばすと、落ちないように少しこちらへ寄せてやった。松千代は毬を握り、嬉しそうに声を上げている。

 

 俺は小夜と顔を見合わせた。小夜も竹若丸を見ていたが、すぐには何も言わなかった。

 

 三つの子供に戦の勝ち負けがどれほど分かるものか、俺には分からん。だが、城を落としても戦が終わらないと聞けばその理由を確かめようとし、鈴の故郷にまで気が向く。普段は静かにしていても、人の話を聞き流しているわけではないらしい。

 

 綾ママが手習いを始めてくださったと聞いた時には、まだ早いのではないかとも思った。だが、自分から知りたがるのなら、学ぶことも苦にはならんのだろう。あの子のことを、俺はまだよく分かっていなかったらしい。

 

「殿、どうかなさいましたか」

 

 小夜に声を掛けられ、俺は首を横に振った。

 

「いや。竹若丸も随分と話すようになったと思ってな」

「ええ。近頃は、聞いたことをよく覚えております。大方様も、手習いに熱心だと喜んでおいでです」

「そうか。母上が楽しんでくださるなら、それも良いな」

 

 御爺が亡くなってから、綾ママには何かと寂しい思いをさせている。竹若丸が傍にいることが、少しでも慰めになっているのなら有難い。だが俺にとっても、息子の成長を考えさせられる話だった。

 

 小夜が竹若丸の髪を撫でると、竹若丸は母親の方を見てから、松千代の持つ毬へ目を向けた。弟が毬を落とすと、座ったまま手を伸ばして拾い、戻してやる。松千代はもう一度掴もうとしたが上手くいかず、小夜が手を添えた。二人を眺めているうちに、俺も少し肩の力が抜けた。

 

 長島のことを考え始めれば、気の重い話ばかりだ。戦の支度を整えるには、まだ調べるべきことも多い。だが今は、子供達の様子を眺めていられる。竹若丸がどんなことを考える子なのか、俺はまだ知らぬことの方が多いらしい。父親としてそれを知る時間も、少しは作らねばならんな。

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