淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
永禄十三年(1570年) 六月上旬 近江高島郡安井川村 清水山城 朽木小夜
殿がお戻りになってから、幾日かが過ぎた。清水山城には戦から帰った方々の姿が増え、廊下でも見知った家臣の声を聞くようになった。けれど、北伊勢から届く文は絶えず、殿も朝から人と会っておられる。長島に一揆勢が残っている以上、戦が終わったわけではないのだ。
それでも殿がお城にいらっしゃると思うだけで、心持ちは違った。松千代は時折、父親の姿を探して廊下へ出ようとする。竹若丸はそこまでしないが、殿と顔を合わせれば静かに挨拶をし、お忙しいかと尋ねることがある。元から自分で抱いてほしいとせがむことは少ない。寂しく思う時もあるけれど、父親を慕う気持ちまで薄れたわけではないと分かっている。
竹若丸が大方様のもとへ手習いに通うようになったのは、二月の半ばのことだった。初めは仮名を一つずつ覚え、筆を持つにも大方様に手を添えていただいていた。それが近頃は、よく使う仮名を読めるようになり、短い言葉なら自分でも書こうとするそうだ。大方様は少しずつ漢字も教えてくださっているらしい。
字を覚えたことも嬉しいが、それだけではなかった。以前は分からないことがあっても、じっと相手を見つめているばかりだった竹若丸が、今は尋ねたいことを言葉にするようになった。大方様がお話しになっている間は口を挟まず、終わるのを待ってから尋ねるのだという。手習いを始めてから、あの子は一層大人びてきたように思う。
昼も近くなった頃、竹若丸が女房に付き添われて戻って来た。手には紙を持っている。部屋へ入ると私に挨拶をし、松千代の相手をしていた私の傍で座った。すぐに話し掛けてくるかと思ったが、弟が毬を取り落とすのを見て、先にそれを拾って渡している。
「お帰りなさい、竹若丸。今日も大方様に教えていただいたのですか」
「うん。ははさま、あとでこれ、みてくれる?」
「ええ。今でも構いませんよ」
私が手を差し出すと、竹若丸は紙の端を両手で持ち、皺を付けぬように渡してきた。紙には大方様の整った字で『父上』『母上』と書かれ、その下には竹若丸が書いたらしい『母上』の二文字があった。いくらか線は揺れているが、手本を見ながら慎重に筆を運んだのだろう。
「まあ。漢字まで書いたのですか」
「『母』のじを、おばばさまにおしえてもらった」
「こちらは竹若丸が書いたのですね」
「うん。『上』も、かいた」
竹若丸は私の手元を見ていた。褒めてもらいたいのかと思ったが、何も言わない。私はもう一度その字を眺めた。『母』の字は線の長さが揃わず、『上』の横線も少し傾いている。それでも、書いてあるのが『母上』の二文字だとはっきり分かった。
「ちゃんと『母上』と読めますよ。よく書けましたね」
「……そう。よかった」
それだけ答えると、竹若丸は小さく頷いた。口元がわずかに緩んだように見える。大喜びするわけではないが、自分で書いたものが相手に伝わったことを嬉しく思っているのだろう。
「今度は『父上』も書くのですか」
「うん。『父』は、まだうまくかけない。だから、あしたもならう」
「そうですか。大方様もお喜びでしょうね」
それから三月余り。今では上手く書けないところも、自分で分かるようになったらしい。今日出来なかったことを明日もう一度試そうとするのは、あの子らしかった。
その時、松千代が私の持つ紙へ手を伸ばした。兄が大切そうにしていたので、気になったのだろう。竹若丸は弟の手を見てから、私に声を掛けた。
「ははさま、それ、しまっておいてくれる?」
「ええ。破れないよう、文箱に入れておきますね」
私は文箱の蓋を開け、紙を納めた。それでも松千代はまだこちらへ手を伸ばしている。竹若丸は弟の手を一度見てから、傍にあった毬を取って前へ置いた。
「まつちよ、こっち」
松千代が毬に手を伸ばすと、竹若丸は少し離れたところへ転がしてやった。弟はそれを追い、両手で抱えて戻って来る。竹若丸は毬を受け取って、また畳の上へ転がした。
せっかく書いた紙を取られたくなかったのだろう。それでも弟を叱らず、紙は私に預け、松千代には毬を渡した。あの子なりに、二人とも困らぬようにしたのかもしれない。もちろん、思うようにならず黙り込んでしまう日もある。まだ幼い子なのだ。
「松千代も、兄上が遊んでくれて嬉しいでしょうね」
「……うん」
竹若丸は弟へ目を向けて答えた。昔から口数の少ない子だったが、近頃は返事にも少し間がある。何を言うか考えているのか、それとも言うほどのことではないと思っているのか。私には分からない。それでも、こちらの話を聞いていないわけではないのだろう。
先日、殿が北伊勢からお戻りになった時のことを思い出した。城を幾つも落としたのに戦は終わらないと聞き、竹若丸はその理由を尋ねた。鈴殿の故郷が伊勢にあることまで気に掛けたのには、私も驚いた。戦のことを理解したわけではあるまい。けれど、聞いた話の中から分からないところを確かめ、自分の知っている人のことも忘れていなかった。
以前なら、あの子が何を考えているのか分からず、ただ心配することもあった。今でも表情は大きく変わらないし、幼い子らしく甘えてほしいと思う時もある。けれど、松千代に毬を渡し、私の様子まで気に掛ける姿を見ると、あの子なりに少しずつ思いを伝えられるようになったのだと感じる。
それだけに、これから先のことも考えずにはいられなかった。竹若丸は朽木家の嫡男だ。今は字を覚え、礼儀を教わるだけでもよい。だが、いずれ殿の跡を継ぐ者には、人の話を聞くことも、物事を判断することも、それを家臣達へ伝えることも求められる。今のあの子に、そこまで出来ると言うつもりはない。だからこそ、成長に合わせて教えてくださる方が要るのだろう。
私も母として教えられることは教えたいし、大方様も手習いを楽しんでくださっている。けれど、家臣の働きや領地の治め方、兵を率いることまで身内だけで教えられるわけではない。殿が幼くして家督を継がれた時には、御隠居様をはじめ多くの方が支えてくださったと伺っている。その御隠居様も昨年の暮れに亡くなられた。竹若丸が大方様のお慰めになっているのなら嬉しいが、これからの教育を全てお願いするわけにもいくまい。
「ははさま?」
声を掛けられて顔を上げると、竹若丸がこちらを見ていた。松千代は毬を抱えたまま、私の膝へ寄って来ている。考え事をしているうちに、随分と黙り込んでいたらしい。
「何でもありませんよ。二人とも、よく遊びましたね」
「ははさま、つかれてる?」
思いがけない問いに、私は竹若丸の顔を見た。そんなふうに見えたのだろうか。先ほどまで私が黙っていたのを、気にしてくれたのかもしれない。
「いいえ。少し考え事をしていただけです」
「そう。なら、よかった」
竹若丸はそれ以上聞かなかった。松千代の膝から毬が転がると、それを拾って渡した。あの子に気を遣わせてしまったと思う一方で、いつの間にこんなことまで尋ねるようになったのだろうとも思った。
傅役を付ければ、竹若丸が私の知らないことを学び、私の傍にいない時間も増えるだろう。少し前まで手を引いて歩いていたはずなのに、今では弟の相手をし、私の様子まで気に掛ける。それを喜ばしく思いながら、何処か寂しくもあった。
殿は今も北伊勢のことでお忙しい。それでも、竹若丸のこれからについては、早いうちに御相談した方がよいだろう。すぐに傅役を付けるかどうかは別として、どのような方から何を学ばせるのか。私一人で決められることではない。
私は文箱へ目を向けた。先ほどしまった紙には、まだ形の整わぬ『母上』の二文字がある。字を書く手はあんなに小さいのに、その子がいずれ朽木の家を背負うことになるのだ。あの子のために今出来ることを、殿と話してみよう。
永禄十三年(1570年) 六月上旬 近江高島郡安井川村 清水山城 朽木基綱
長島の地図はようやく出来上がった。黒野重蔵達が半年ほどかけて調べたものだが、地図があれば攻略出来るというわけではない。川を渡るには船が要る。長島への荷止めを命じても大湊などの町は従わず、船の調達も進んでいない。軍略方と相談した結果、まずは町を押さえて船を確保し、志摩を制してから九鬼の水軍で長島を海から封じる方針だ。そこまで持っていくにも、片付けねばならんことが山ほどある。
北伊勢で一揆に加担した国人達の後始末もある。それに、南伊勢の北畠も大人しくしているとは思えん。前年の和議があるからといって、こちらへの敵意まで消えたわけではないのだ。帰って来てからの方が、机に向かっている時間は長いかもしれんな。
昼を過ぎ、船の調達について家臣達との話を終えて書状を読み返していると、廊下から女房の声がした。
小夜が訪ねて来たらしい。急ぎの用ではないというので、手元の文を置いて中へ通させた。小夜は部屋に入ると軽く頭を下げ、机に積まれた書状へ目を向けた。
「お忙しいところ、申し訳ございません」
「構わん。丁度一区切りついたところだ。何かあったか」
向かいに座るよう促し、女房に茶を頼んだ。小夜がわざわざこちらへ来るのは珍しい。子供達に何かあったのかとも思ったが、落ち着いた様子なので急病ではあるまい。
「竹若丸達に変わりはないか」
「はい。皆、元気にしております。今日は竹若丸のことで、殿に御相談したいことがございます」
「竹若丸か。手習いでも嫌がり始めたか?」
「いいえ。むしろ、前より熱心になったようでございます」
小夜はそこで少し表情を緩めた。
「今日、大方様に『父上』『母上』の字を教えていただいたそうです。まだ形は整いませんけれど、『母上』だけは自分で書いて、私に見せてくれました」
「ほう。もう漢字まで書いているのか」
「ええ。読めると申し上げたら、安心したような顔をしておりました」
思わず口元が緩んだ。二月に手習いを始めたと聞いた時には、まだ筆を持つだけでも大変だろうと思っていたのだが、随分と進んだものだ。もっとも、覚えが早いことと、思うように書けることは別だろう。今の竹若丸の小さな手では、筆を運ぶだけでも一苦労の筈だ。
「で、『父上』の方はどうした?」
「そちらは、まだ上手く書けないそうです。明日また教わると申しておりました」
「そうか。俺の字は後回しか」
「殿、そのようなことを仰っては」
小夜が困ったようにこちらを見たので、冗談だと答えた。子供の手習いにまで張り合うつもりはない。それでも息子が父と母の字を覚えようとしていると聞けば、嬉しくなるのは仕方がないだろう。
「大方様も、竹若丸の手習いを楽しんでおいでです。それに、あの子は以前より人の話をよく聞くようになりました」
「元から静かな子ではあったな」
「ええ。けれど、ただ黙っているのとは違うようなのです。こちらの話が終わるのを待ち、それから尋ねたいことを口にします。松千代にも随分と気を配るようになりました」
帰還した日に俺が話した戦のことを、竹若丸が妙なところまで覚えていたのを思い出す。城を取ったのに戦が終わらないのは何故か。鈴の故郷は大丈夫なのか。あの時も、いきなり口を挟むのではなく、こちらの話を聞いてから尋ねていた。
俺が考えているより、あの子は周りを見ているのかもしれんな。
「それで、相談というのは?」
「……そろそろ竹若丸に傅役をお付けすることを、考えた方がよいのではないかと思いまして」
傅役か。
俺は茶に手を伸ばしかけ、そのまま止めた。竹若丸は数えでは五つ。だが、十二月生まれだから、俺の感覚ではまだ三歳半にもなっていない。今すぐ難しい学問や武芸を詰め込む必要はあるまい。だが朽木の嫡男として育てる以上、親や祖母が可愛がりながら教えるだけで済ませるわけにもいかん。誰をあの子の傍に置くか。言われてみれば、早いうちから考えておくべきことだった。
「小夜はもう、誰か心当たりがあるのか?」
「いいえ。私に決められることではございません。ただ、今のまま大方様にばかりお願いするのも、いかがなものかと思いまして」
「母上も、竹若丸と過ごすのは楽しみだろうがな」
「はい。ですから、手習いをおやめいただきたいのではありません。竹若丸がこれから学ばねばならないことは、ほかにもあるのではと……」
小夜は一度言葉を切った。すぐに適当な者を付けろと急かしに来たわけではないらしい。息子の成長を喜びながら、その先を考えているのだろう。
「早過ぎますでしょうか」
「いや。人を選ぶには時が掛かるし、誰でもよいというものではない。話を始めるには良い頃合いだと思う」
「そうですか」
小夜は湯呑みを両手で持ち、ようやく一口飲んだ。
「殿は、幼い頃、どのような方に教わられたのですか。傅役をお付けになったというお話は、伺ったことがありません」
「俺か。専任の傅役はいなかったな。付ける前に家督を継いだようなものだし、当時の朽木は八千石の国人領主だ。そんな余裕があったかどうかも怪しい」
口にしてから、改めて昔のことを思い出した。
俺が幼くして当主になった頃、御家を支えてくれたのは御爺だった。大叔父も日置五郎衛門も宮川新次郎もいた。誰か一人が決まった時刻に学問を教えてくれたというわけではない。だが、評定で人が何を言い、どんな顔で黙るか。城や村から届いた報告をどう受け止めるか。そういうことは、傍にいる大人達の振る舞いから覚えた部分も大きい。
もちろん、俺の場合は少々事情が違う。自分の幼少期を、そのまま竹若丸の手本には出来ん。それでも、人は一人で当主になれるわけではないということなら、身に染みている。
「御爺が後見してくれたし、大叔父達にも世話になった。傅役という名はなくても、教えてもらったことは多かったな」
「御隠居様は、竹若丸にもよくお声を掛けてくださいましたね」
「ああ。もう少し長生きしてほしかった」
御爺が亡くなってから、まだ半年ほどしか経っていない。清水山へ住まいを移し、小夜や子供達が一緒に過ごすようになってから、綾ママも以前より表情が和らいだように見える。竹若丸が手習いへ通うことも、多少は慰めになっているのだろう。だが、御爺の代わりになる者はいない。
小夜もそのことを考えているのか、しばらく湯呑みへ目を落としていた。
「竹若丸には、どのようなことを教えてくださる方が良いのでしょう」
「そうだな。まずは人柄だろう。あの子の傍にいる時間が長い者になる。学問や武芸が出来ても、気に入らぬことがあれば子供に当たるような者では困る」
「それは、もちろんでございます」
「それから、俺や竹若丸に間違いがあれば、きちんと指摘出来る者が良い」
小夜が顔を上げた。
「殿にも、でございますか?」
「俺の息子の傅役だからといって、俺の言うことに何でも頷くようでは困る。親が誤れば子も誤る。あの子のためにならんと思ったなら、そう言える者でなければな」
朽木の家は以前の八千石とは違う。領地が広がるほど、当主の機嫌を損ねまいと口をつぐむ者も増える。竹若丸が嫡男として育てば、いずれあの子にも遠慮する者が出るだろう。だからこそ、身近で教える者まで追従するようでは困る。
「それに、学問だけでは足りんな。兵を率いることも、領地を治めることも、結局は人を動かすことだ。兵糧が足りなくなれば何が起きるか。村から年貢を集めるにも、ただ命じれば済むものではない。いずれそういうことを教えてくれる者も要る」
「では、武芸にも明るく、学問も出来て、誠実な方が望ましいのでしょうね」
「随分と難しい注文だぞ。それだけ揃った者がすぐ見つかるなら、俺も苦労せん」
「ですが、竹若丸のことでございますもの。出来るだけ良い方をと願うのは、いけませぬか」
小夜は真面目な顔でそう言った。俺は思わず笑ってしまった。
「いや、いかんとは言わん。むしろ当然だな」
「殿はすぐ、そのようにお笑いになります」
「悪かった。だが、親ならそう思うのが当たり前だろう」
小夜は少しだけ口元を緩めた。
あの子の問いがよく筋立っているからといって、今から何もかも分かっているわけではない。先日の長島の話にしても、城を取れば何故勝ちなのか、負けた者はどうなるのか、そんなところを気にするのは面白い。鈴の故郷を心配したことも嬉しかった。だが、それだけで戦の苦労や領民の暮らしが分かるわけではない。知らぬことは、これから覚えればよい。
小夜が教えてくれた『母上』の字もそうだ。書こうと思い、上手くいかなければ明日また習う。その気持ちを損なわずに、学ぶべきことの多さを知っていければ良いのだが。
「譜代の方からお選びになりますか」
「譜代に限ることはあるまい。親族にも譜代にも良い者はいるが、それだけで決めるつもりはない」
「御家の方々は、気になさらないでしょうか」
「気にする者はいるだろうな。だが、誰の家に面目を立てるかではなく、竹若丸に誰を付けるのが良いかで決める。理由も説明すれば良い」
小夜は頷いたものの、すぐには何も言わなかった。傅役に選ばれれば家中での立場にも関わる。選ばれなかった者が不満を持つこともあるだろう。そうした波風への備えは、俺の仕事だ。
「一人で何もかも教える必要もあるまい。学問に向いた者と、兵の扱いをよく知る者は違う。幾人かで役割を分けることも出来るだろう」
「そのような形でも、よろしいのでしょうか」
「竹若丸のためになるならな。ただし、互いに違うことを教えてあの子を困らせるのも良くない。そこは考えねばならん」
小夜は一度頷き、湯呑みを置いた。少しためらってから、こちらを見る。
「傅役をお付けすれば、いずれ竹若丸も私の部屋を離れるのでしょうね」
そうか。小夜は人選のことだけを考えていたわけではないのだな。
「何も、明日から離すわけではあるまい。数えでは五つだが、まだ幼いぞ」
「はい。承知しております。ただ……この頃は、以前よりずっと大人びてまいりましたので」
小夜の声は落ち着いていたが、言葉を選んでいるのが分かった。俺もあの子の変化には気付いている。元々、こちらへ駆け寄って甘えるような子ではなかった。それが近頃は、俺が忙しくしていないかと尋ね、松千代にも気を配るようになった。口数は相変わらず少ないが、以前より自分の考えを言葉にすることが増えている。
子供が親から離れていくのは当たり前のことだ。頭では分かっている。だが、そんな変化が思ったより早く訪れると、父親として少々複雑でもある。
「小夜が寂しいと思うのは、別におかしなことではないぞ」
「……殿も、そう思われますか」
「思うとも。あの子にもう少し子供らしく甘えてほしいと思う時もある。だが、無理にそうさせるのも違うだろう」
「はい」
小夜は小さく頷いた。
「それでも、竹若丸が新しいことを覚えていくのを見るのは、嬉しゅうございます」
「ああ。俺もそうだ」
しばらく、二人とも口を閉じた。廊下の向こうから人の足音がし、遠くで誰かが呼び掛ける声が聞こえる。ここへ戻っても、城の仕事が途切れることはない。小夜もそれを承知しているから、今日はわざわざ時間を選んで訪ねて来たのだろう。
「小夜、一つだけ確かめておきたい」
「何でございましょう」
「傅役を付けても、あの子のことを傅役任せにはせん。俺達が話を聞き、どう育っているかを見てやらねばならん。それで良いな」
「もちろんでございます。私も、あの子から目を離すつもりはございません」
その返事を聞いて安心した。
教わったことを家で話せるか、師との間に困り事がないか。そうしたところも、俺達が気に掛けてやればよい。
「人選は俺の方でも考える。家中の者にも、適任と思う者がいないか話を聞いてみよう。少し時をくれ」
「お願いいたします」
小夜は丁寧に頭を下げた。茶もすっかり冷めたらしい。立ち上がる小夜を見送りかけて、ふと思い出した。
「そうだ。竹若丸が『父上』を書けるようになったら、俺にも見せてくれと伝えておいてくれ」
「はい。きっと喜びますよ」
「俺も楽しみにしている」
今度は小夜も笑ってから、部屋を出て行った。
机には長島の地図と書状が残っている。町をどう動かし、船をどう集めるか。考えねばならんことは相変わらず多い。俺は一度地図へ目を落とし、それから小夜が座っていた場所を見た。
竹若丸に傅役を付ける。口にすれば簡単だが、幼い当主だった俺が御爺達に支えられたように、あの子にも長く頼れる大人が要る。今の竹若丸がどれほど字を覚えても、まだ知らぬことの方が遥かに多い。それを教える者を選ぶのは、俺の役目だ。
急ぐ必要はない。だが、いつまでも後回しには出来んな。