淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
永禄十三年(1570年) 九月中旬 伊勢国度会郡大湊村 朽木基綱
陣の外では、兵達が荷をまとめる声がしている。海に近いせいか風には潮の匂いが混じっていた。九月も半ば、大湊での用は大方片付いた。次は桑名だ。そこまで済ませれば、ようやく清水山へ戻る見込みも立つ。
そもそもの始まりは三月末だった。長島の一向一揆が朽木領の北伊勢へ攻め込み、桑名郡を中心に二十人以上の国人達が呼応した。俺は兵を率いて北伊勢へ向かい、員弁郡、三重郡、朝明郡と反乱者の城を落とし、桑名郡まで押し返した。六月に清水山へ戻る頃には反乱の大半を鎮めたが、城を失った国人達は長島へ逃げ込んでいた。肝心の一揆勢には手を付けられず、むしろ敵を増やしたようなものだ。
長島は川と海に囲まれた厄介な土地だ。六月の軍議で地図を広げてみても、正面から攻めれば損害が大きいのは明らかだった。渡河する兵を支える船を集め、九鬼の水軍で海を封じ、長島へ物資が入らぬようにする。そうして敵の力を削ってから攻める方針を決めた。七月から八月にかけても伊勢や北畠の動きを探り、長島を揺さぶる手は打ってきた。
ところが、肝心の船が思うように集まらん。大湊をはじめ松坂、山田、宇治などの町は、朽木領でありながら荷止めの命令に従わず、長島との商いを続けている。北畠も裏で一揆勢に手を貸しているらしい。いくら長島の周りに兵を並べても、海から物が運び込まれれば封鎖の意味がない。まずこちらの命令を聞かぬ町々を押さえねば、長島攻めの支度さえ整わんのだ。
そこで九月、改めて伊勢へ兵を出した。総勢三万五千のうち、二万は桑名郡に残して長島の一揆勢を警戒させる。梅戸左衛門大夫達に任せてある。
俺が率いた残りの一万五千が向かったのは、長島の城ではなく、こちらに従わぬ町々だった。まず松坂を押さえ、それから大湊へ進んだ。今は大湊での処置も終わり、山田と宇治は要求を受け入れ、志摩の海賊衆も降った。後は北へ向かい、桑名の出方を確かめることになる。
何とも嫌な話だ。
松坂では、命令を無視して長島と取引を続けた商人を処罰した。さらに町の自治を取り上げ、朽木の代官を置くことを申し渡したところ、抗議した商人達にも処罰を下すことになった。大湊でも同じだ。人を殺し、財産を没収し、家族を追放した。見せしめであることは否定しない。それでようやく、町を取り仕切る者達が朽木の命令を聞くようになった。
俺だって、こんなやり方を好んでいるわけではない。だが、取引を禁じても破られ、船を出せと命じても知らぬ顔をされる。そうして長島へ物資が流れ続ければ、春に反乱した国人達を討った意味がなくなる。朽木の支配を受け入れると言いながら、都合の良い時だけ自治を盾にする。それを許すわけにはいかん。
大湊が早く折れたのは、九鬼孫次郎が先に海を封じていたからでもある。封鎖を破ろうとする船には容赦しなかったと聞く。湊の者達も、海から逃れることが出来ぬと悟ったのだろう。会合衆は自治の廃止にも矢銭の支払いにも抵抗せず、長島に関わる商人の処罰を受け入れた。今度こそ船を出すという返事も取った。
山田と宇治も、最初は謝罪と矢銭で済ませようとした。そうではない。俺が欲しいのは銭だけではなく、この先も命令が通る仕組みだ。自治を取り上げ、代官を受け入れることを求めたところ、ようやく承知した。長島に協力した商人の追放も認めさせた。
これで伊勢の町々を押さえる目途は立った。もっとも、従うと答えたからといって、心まで服したと思ってはならん。今は軍勢が近くにいる。刃向かえばどうなるかを目の前で見たばかりだ。兵が去った後も同じように動くかどうかは、これからの治め方に懸かっている。
「殿、桑名へ向かう兵の割り振りにございます」
顔を上げると、蒲生下野守が文を持って入って来た。傍には竹中半兵衛もいる。二人に座るよう促し、文を受け取った。
「長島への押さえは動かさぬ。桑名が大人しく従えば戦は避けられる。だが、そうでなければ別だ」
「その点は承知しておりまする。ただ、町を押さえた後の守りも決めねばなりませぬ」
「うむ。兵を残したところで、代官と話が合わねば厄介だ。現地で何を決め、何を清水山へ伺うのか、はっきりさせておこう」
下野守が頷いた。俺は文に目を落とし、兵を置く場所と役目について幾つか確かめた。半兵衛はしばらく聞いていたが、書状の一つに目を向けた。
「大湊から出す船の方はいかがなさいますか」
「約束はさせた。九鬼にも話は通してある。だが、必要な船を揃えれば済むというものではないな」
「兵糧を運ぶ船も要りましょう。それに、船を動かす者達が長島に心を寄せていては困りまする」
「そうだ。町を服属させるだけで海まで自由になると思ったら大間違いだ。九鬼にも目を光らせてもらわんとな」
半兵衛が頷くと、下野守が船の手配に関する文を一枚取り上げた。必要なのは船の数だけではない。大湊から出す船を九鬼の水軍とどう動かすか、誰に荷を運ばせ、誰に目を光らせるか。町が従うと約束した今こそ、そうした手配を詰めねばならん。
「志摩の方は、九鬼に任せてよいでしょうな」
「降伏した海賊衆は九鬼の下に付くと約束した。奪った所領を返し、人質も差し出す。ならば、まずは九鬼に扱わせるのが筋だろう」
「九鬼も苦労いたしましょう」
「そうだな。敵だった連中を纏めるのだ。だが、九鬼にはその力を付けてもらわねば困る」
志摩の海賊衆がこちらの攻撃を待たずに降ったのは助かった。九鬼と争った相手をそのまま放置するわけにはいかんが、皆殺しにする必要もない。九鬼の指示に従い、海で働くなら使い道はいくらでもある。ただ、長く敵同士だった者達を従えるのは簡単ではあるまい。
下野守が手元の文を閉じた。
「北畠の方は、しばらく静かになりましょうか」
「静かになるなら有難いが、そうは思えんな。権中納言殿は諦めの悪い御仁だ」
大湊で差し出させた文には、北畠権中納言が長島に力を貸すよう商人達に求めたものがあった。朽木の命令を無視しろという文まである。前年の和議で剣を収めたというのに、その裏でこれだ。北畠を放置すれば、長島の一揆が続く限り伊勢は落ち着かん。
もっとも、北畠の者が皆同じ考えというわけでもない。
右近大夫将監と次郎には、大湊で顔を合わせた。次郎にはすでに越前の鯖江で新たに家を立てる話をしてある。兄の右近大夫将監には、父親のせいで命を落としかねん事情があった。二人を清水山へ送るよう命じたのは、罪を問うためというより、まず北畠の家中から離すためだ。
右近大夫将監は、戦よりも諸国の怪異の話を集めることに興味があると言っていた。あの体格なら戦場での働きを期待されるのも分かるが、本人の向き不向きは別だ。父親が望む当主になれなかったからといって、何の役にも立たぬというわけではない。
そのことを思い出すと、少しばかり気が重くなる。
人の使い道は一つではない。分かっているつもりでも、周囲が勝手に役目を決め、それに合わなければ出来損ないと呼ぶ。北畠の家を見ていると、つくづく厄介なことだと思う。もっとも、俺も右近大夫将監と次郎を守るために、北畠の当主としての立場を利用した。綺麗な話で済ませるつもりはない。
「殿、桑名の町の扱いはいかがいたしましょう」
半兵衛に問われ、考えを戻した。
「まずは向こうの出方を見る。大湊までのことは届いている筈だ。こちらが近付けば、何らかの返事は寄越すだろう」
「抵抗するようでしたら」
「必要な手は打つ。だが、桑名は他の町と同じに扱うわけにはいかん。元は禁裏御料だ。今でも朝廷との縁がある」
「承知いたしました」
桑名は長島に近い。商人達が一揆勢と無関係でいられるはずもないが、町ごと潰しては後が厄介になる。それに朝廷との関係も考えねばならん。力を見せることと、無闇に敵を増やすことは違う。
下野守達ともう少し話を詰め、今後の手配を任せた。二人が出て行くと、陣幕の中は急に静かになった。外からは馬の嘶きと、荷を運ぶ兵の掛け声が聞こえている。
桑名での用が済めば、一旦清水山へ戻ろう。長島の一揆を攻めるには、まだ整えるものが多い。今のうちに船と兵糧を揃え、敵へ流れる物資を断つ。こちらの準備が整わぬまま攻め込んでも、いたずらに兵を失うだけだ。
戻れば、伊勢以外の仕事も山ほど待っている。若狭の動きも気になるし、諸国から届く報告にも目を通さねばならん。綾ママや小夜達にも、ろくに顔を見せられていない。子供達は元気だろうか。
……竹若丸の傅役のこともあったな。
六月に小夜と話した時、人選は俺が考えると約束した。兵を出す支度に追われ、その後も伊勢のことで手が塞がっていた。忘れたわけではないが、具体的な話を進められずにいる。
先ほど半兵衛と話していても思ったことだ。軍略、兵糧、町の統治。それぞれに向いた者がいる。竹若丸の傅役も、一人に何もかも求める必要はないのだろう。
北畠の兄弟を見て、家の跡を継ぐ子供に大人が何を求めるのか、考えさせられた。竹若丸にも朽木の嫡男として果たすべき役目はある。だからこそ、あの子自身の良さを潰さぬよう、傍に置く者をよく選ばねばならん。
さて、誰を付けるか。
すぐに答えが出るなら、六月のうちに決めている。家中には良い者が多い。だが、その中の誰なら息子を安心して任せられるのか、まだ見極めねばならん。帰ったら小夜とも改めて話そう。綾ママの意見を聞くのも良い。あの子の普段の姿を一番よく知っているのは、傍にいる者達なのだから。
そういえば、竹若丸は『父上』の字を書けるようになっただろうか。小夜から聞いた時は『母上』しか上手く書けないという話だったが、もう三月も経っている。帰ったら見せてもらおう。小さな手でどんな字を書くのか、楽しみではある。
俺は机の上の文をまとめ、桑名へ持って行くものと清水山へ送るものに分けた。伊勢の始末が終わらぬ以上、気を抜くわけにはいかん。だが、戻ってから何をするかは、今のうちに考えておこう。
戦の支度も、息子のための人選も、誰かに任せればそれで済む話ではないからな。
永禄十三年(1570年) 十二月上旬 近江高島郡安井川村 清水山城 朽木綾
竹若丸が、書き終えた紙を前にして筆を置いた。
「おばばさま、この『山』は、書き直した方が良いですか」
紙には『山に木がある』と書かれている。竹若丸が自分で言葉を考え、習った字を使って書いた文だ。文字の大きさは揃っていないし、『山』の真ん中の線は随分と長い。それでも、何と書いてあるかは分かる。
「少し線が長くなりましたね。でも、書き直さなくても読めますよ」
「……はい。次は、気を付けます」
竹若丸は自分の字をもう一度眺め、紙の端を揃えて脇へ寄せた。悔しそうにするわけでも、すぐに次の紙へ向かうわけでもない。どこが違うのかを確かめているのだろう。
初めて手習いをした二月には、仮名を一つ書くにも苦労していた。それが今では、短い文なら自分で考えて書くようになった。六月に『母上』と書いて小夜殿を喜ばせた頃からも、随分と進んだものだ。もっとも、頭の中で言葉が出来ていても、小さな手が思うように動くとは限らない。筆を握り続けて疲れてしまうこともある。
字ばかりではない。言葉遣いも変わってきた。私に何かを頼む時には「教えてください」と言い、返事も「はい」とすることが増えた。松千代と遊ぶ時には、まだ幼い子供らしい言葉も出る。相手によって話し方を選んでいるのかもしれない。礼儀を身に付け始めたことは喜ばしいが、私の前でまで無理をすることはないのにとも思う。
「少し休みましょうか。指が疲れたでしょう」
「……少し。でも、もう一つ、読んでも良いですか」
「ええ。読むだけなら構いませんよ」
私は別の紙に『山の上に雲がある』と書いてみせた。竹若丸は私の筆先を見つめ、書き終わると、字を一つずつ指で追っていった。
「『山の上に』……その後の字は、まだ習っていません」
「これは『雲』と書きます。『くも』と読むのですよ」
「雲……あの、空の雲ですか」
竹若丸は窓の方へ顔を向けた。庭の向こうには冬枯れの木々があり、その上には白い雲が浮かんでいる。
「ええ。あの雲です」
「では、『山の上に雲がある』……ですね」
「よく読めました」
竹若丸は小さく頷いた。目元が僅かに和らいでいる。褒められると嬉しいのだろう。それでも、すぐに何かを言うのではなく、もう一度『雲』の字を見つめていた。
「『雲』は、書くのが難しそうです」
「今日は読めるようになっただけで十分です。書くのは、また今度にしましょうね」
「はい」
あの子には、幼い頃の弥五郎を思い出させるところがある。口数が少なく、周りの様子をよく見ている。けれど、竹若丸は竹若丸だ。書いた字が上手くいかなければ困った顔をするし、知らない字を教われば嬉しそうにする。何でも一度で覚えるわけではない。その当たり前のことに、私は時折ほっとする。
「おばばさま」
「何ですか」
「ほかの場所の名前も、字で書けますか」
竹若丸は窓の外を指した。山の向こうに何があるのか、考えているのだろうか。
「ええ。村にもお城にも、名前がありますからね」
「京も、ですか」
「そうですよ。京は、このように書きます」
私は紙の端に『京』と記した。
「この字が、京ですか」
「ええ。『みやこ』とも『きょう』とも読みますよ」
「……母上が、京からお客様が来たと話していました」
ああ、先月のことを覚えていたのだ。十一月の末、京から二人の女房が清水山城を訪れた。勾当内侍殿と、目々典侍を務める妹の千津である。二人は帝にお仕えしており、帝が案じておられることを弥五郎に知らせようと訪ねて来たのだ。
千津と顔を合わせたのは久し振りだった。幼い頃から知る妹も、今は宮中に仕える身だ。私は朽木家で息子や孫と暮らしている。立場も住まいも違うが、二人で話しているうちに、昔のことが次々と思い出された。顔を合わせる機会が少ないからこそ、あの時間は有難かった。
「来た方の一人は、おばばさまの妹なのですか」
「ええ。千津と申します。私の妹ですよ」
「もう一人は?」
「勾当内侍殿といって、その方も帝のお傍にお仕えしているのです」
「二人とも、京から来たのですね」
「そうです」
竹若丸は『京』の字へ目を落とした。
「……妹なのに、どうして父上のところへ来たのですか」
なるほど。この子には、私の妹が訪ねて来たのに、なぜ弥五郎に用があるのか不思議なのだろう。
「千津は私の妹ですが、帝にお仕えする役目があります。今回は、帝が案じておられることを弥五郎殿にお伝えするために来たのですよ」
「父上に、御用があったのですね」
「ええ。桑名のことや、京で将軍になられる御方のことです」
竹若丸は少し考えた後、頷いた。何が話し合われたのかまでは分からないだろう。私も今のこの子に詳しく教えようとは思わない。
「遠くに住んでいても、大切な用があれば人を遣わすことがあるのです」
「……妹でも、お仕事の時は、違うのですね」
「そうですね。千津は私の妹であると同時に、帝にお仕えする者でもあるのですよ」
その答えを聞くと、竹若丸はもう一度『京』の字を見た。
「おばばさまは、妹に会えましたか」
「ええ。久し振りでしたから、沢山お話ししましたよ」
「それは、良かったです」
その言葉に、思わず笑みが浮かんだ。京からの使者が何を告げたかより、私が妹に会えたかどうかを気にしてくれたらしい。相手への言葉遣いは大人びてきたが、こうしたところには幼い子なりの優しさがある。
けれど、私には千津の話が忘れられない。足利義助殿への将軍宣下が、なかなか進まぬのは弥五郎のためだという。帝は、弥五郎がこれまで朝廷を支えてきたことを忘れておられず、義助殿を将軍にすれば弥五郎が不快に思うのではないかと案じておられるそうだ。妹から聞いた時には、耳を疑った。
帝までもが、弥五郎に遠慮しておられる。
息子がそこまで大きな力を持つようになったのか。幼くして家督を継ぎ、幾度もの戦を経て、今の朽木家を築いたのは弥五郎だ。帝がその働きを重んじてくださる。母として、誇りに思うべきことなのだろう。
けれど、そうは思えなかった。
妹の話を聞いて最初に胸に浮かんだのは、あの子が立派になったという喜びではなかった。
……恐ろしい。
そう感じた自分に、私は驚いた。弥五郎は私の息子だ。幼い頃の顔も、父を失ってから急に大人びた姿も覚えている。あの子が今の地位を得るまでに苦労を重ねたことも知っているつもりだ。
それなのに、今の弥五郎をどう受け止めればよいのか分からない。自分の子のはずなのに、どこか知らぬ人のように思えてしまう。あの子が私に恐ろしいことをしたわけではない。それでも、息子のことを考えると、時折、身がすくむような心地になるのだ。
母親失格なのだろうか。
我が子の立身を喜ぶどころか、恐れるなど。そう思った途端、弥五郎に申し訳なくなった。帝に遠慮されるほどの立場にまでなったのは、あの子が望んで得たことばかりではあるまい。私まであの子を遠くから眺めるだけでいてよいのか。
弥五郎は、帝に自分への遠慮は無用だと申し上げたそうだ。それを聞いて安堵したものの、そう言わねばならないほどの重みを、あの子の言葉が持つようになったことが、また心に引っ掛かった。
そんな折、弥五郎が私と千津に、昔のように呼んでよいと言ってくれた。
親子なのだから水臭い、と。
有難い言葉だった。母親である私に、親しくしてほしいと言ってくれたのだ。かつては当たり前に呼んでいた名だというのに、私はいつの間にか官途名で呼ぶことに慣れてしまっていた。大きな御家の当主となったあの子に、母だからといって昔の名で呼び掛けてよいものかと、言葉を選ぶようになっていたのだ。
だが、いざ弥五郎殿と呼ぼうとすると、どうにも馴染めない。つい「大膳大夫殿」と呼びそうになり、言葉を飲み込むこともある。気を遣わずに呼んでほしいという息子の心遣いが有難いだけに、余計に情けなかった。
長く官途名を使ってきたせいだと、自分に言い聞かせてみる。けれど、きっとそれだけではない。母と子の間に隔たりを作っているのは、弥五郎ではなく、今のあの子を恐れている私の方なのかもしれない。
かさりと紙の音がした。竹若丸が、先ほど私が『京』と書いた紙を少し引き寄せている。
「おばばさま?」
顔を上げると、竹若丸が私を見ていた。いつの間にか長く黙り込んでいたらしい。
「どうしました」
「……疲れましたか」
「いいえ。少し、昔のことを思い出していただけですよ」
「そうですか」
竹若丸はそれ以上尋ねなかった。ただ、私の手元へ目を向け、まだ広げたままの『京』の字を指した。
「この字も、書いてみたいです」
「今日は読むだけにして、書くのはまた今度にしましょう。手も疲れたでしょう?」
「はい。少しだけ」
竹若丸は指を開いてみせた。私はその小さな手に触れ、無理をしなくてよいと伝えた。
「では、最後に一つ。こちらは何と書いてありましたか」
先ほどの『山の上に雲がある』の紙を前へ寄せた。竹若丸は指で一字ずつ追い、途中で少し間を置きながら、最後まで読んでみせた。
「よく出来ましたね」
「ありがとうございます。明日も、読んで良いですか」
「ええ。明日も一緒に読みましょう」
竹若丸は小さく笑い、使った紙を重ねて机の端へ置いた。立ち上がる前に、私へ丁寧に一礼する。まだ数え五つの子なのに、その仕草は時折、もっと年長の子のように見える。竹若丸も、いずれは朽木の家を背負うことになる。けれど今は、書いた『山』の線の長さを気にし、『京』の字から私が妹に会えたかどうかを尋ねる子供だ。今のこの子に、何もかも急いで覚えさせる必要はない。
私は紙を片付けながら、窓の外へ目を向けた。空に浮かぶ雲は、先ほどより少し流れている。明日も竹若丸はここへ来るだろう。今日より一つ新しい字を覚え、また何かを尋ねるのかもしれない。弥五郎のことを思うと、今でも胸が落ち着かなくなる。けれど、せめてこの子には、分からぬことを分からぬまま尋ねられる時間を、大切にしてやりたかった。
永禄十四年(1571年) 一月中旬 近江高島郡安井川村 清水山城 朽木小夜
「母上、これでよろしいでしょうか」
竹若丸が両手を少し広げて立っている。新年の席に出るため、いつもより改まった小袖を着せたところだ。襟元を整えてやると、竹若丸は動かずに待っていた。
「ええ。よく似合っていますよ」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる。最近の竹若丸は、私や大方様にもこうした言葉遣いをすることが増えた。家臣の方々には殊に気を付けているらしい。まだ数え六つ、昨年の暮れに四歳になったばかりだというのに、こちらの方が戸惑うこともある。
今日は清水山城で、家中の者達を交えた新年の宴がある。松千代や竹姫は幼いので部屋に残るが、竹若丸だけは殿のお許しを得て、宴の初めのしばらくの間、席に加わることになった。嫡男なのだから少しずつ人前に慣れた方がよい、と殿は仰った。もちろん、長く座らせるつもりはない。挨拶が済み、疲れた様子なら戻してよいとも言われている。
「にいさま、どこ?」
松千代が竹若丸の袖を引いた。いつもと違う姿が気になるのだろう。竹姫は女房に抱かれ、兄達を見ている。
「父上のところへ行くんだよ。あとで戻るから」
「ぼくも」
「松千代は、お部屋で待っていてね」
竹若丸は弟の手をそっと袖から外した。松千代は不満そうに口を尖らせたが、女房が毬を差し出すと、そちらへ気を取られた。
「竹若丸、御挨拶は覚えていますか」
「はい。初めに父上に御挨拶して、それから皆様に、今年もよろしくお願いいたします、と」
「そうです。慌てなくても大丈夫ですよ」
「……はい」
返事はいつもどおり静かだった。けれど、裾を確かめる指先が僅かに動いている。やはり緊張しているのだろう。私は手を取ってやった。
「分からなくなったら、私を見るとよいのですよ」
「母上も、同じお部屋にいますか」
「ええ。大方様も御一緒です」
「それなら、大丈夫です」
その言葉に、少し胸が温かくなった。何事にも落ち着いて見える子だが、まだ母親が傍にいることで安心する年頃なのだ。
廊下へ出ると、宴の支度を終えた者達が行き交っていた。遠くから笑い声が聞こえてくる。今年の年明けは、昨年とは随分と違う。
昨年は長島の一向一揆に呼応した北伊勢の国人達が反乱を起こし、殿はそれを鎮めるため幾度も兵を率いて伊勢へ向かわれた。九月には松坂や大湊を従わせ、桑名も服属したと聞く。それでも長島の一揆は残っている。
戦は終わっていないが、暮れには足利義助様への将軍宣下があり、二月には帝の第一皇子、誠仁様の親王宣下と立太子礼が予定されている。費用は朽木の御家が受け持つそうだ。朝廷の慶事が続くため、しばらく兵を動かすのは控えるという。殿が家族と過ごす時間を取れるのは有難かった。
廊下を曲がると、大方様に仕える女房が一礼して通り過ぎた。昨年の暮れには御隠居様の一周忌も営まれた。あの方がお亡くなりになって、もう一年になる。今日の竹若丸を御覧になったなら、何と仰っただろう。そんなことを考えているうちに、宴の部屋へ着いた。
すでに家臣の方々が集まり、年始の挨拶を交わしておられる。殿は上座に着き、近くに大方様のお姿も見えた。私が入ると、殿は竹若丸へ目を向けられた。
「来たか、竹若丸」
「はい、父上」
竹若丸は私の手を離し、教えられたところで膝をついた。先ほどまで裾を気にしていたのに、座る時には迷わなかった。
「新しい年になりました。父上、本年もよろしくお願いいたします」
ゆっくりと頭を下げる。少し長い間があり、顔を上げた。
「ああ。こちらこそよろしく頼む。今日は皆の顔と名を覚えるつもりでいればよい。難しいことは考えんでよいぞ」
「はい」
殿は僅かに笑われた。家臣の方々へ目を向けられると、竹若丸も続いて頭を下げた。
「竹若丸です。本年もよろしくお願いいたします」
何人かの方が笑顔で頷かれた。蒲生下野守殿も、穏やかな声で挨拶を返してくださった。
「若君も、年が明けて一つ大きくなられましたな」
「はい。数えで六つになりました」
「左様でございますか。御手習いにも励んでおられるとか」
「大方様に教えていただいています。まだ、上手に書けない字もあります」
「それはこれから覚えていけばよろしいのですよ」
竹若丸は真面目な顔で頷いた。自分が褒められたと思ったのかどうかは分からない。ただ、相手の言葉を最後まで聞いてから答える様子に、六月の頃より一層の落ち着きが感じられた。
役目を終えた竹若丸は、私の近くに用意された席へ戻った。私が膝の上の裾を直してやると、小さく「ありがとうございます」と言う。隣に座る大方様が、その姿を静かに見ておられた。宴が進むにつれ、部屋は少しずつ賑やかになった。杯が運ばれ、祝いの膳が並ぶ。家臣の方々も、今日は幾分肩の力を抜いておられるようだ。
「これほど穏やかな正月を迎えられるとは、去年の今頃には思いませなんだな」
「長島はまだ残っておりますが、今は朝廷の御慶事をお祝いする時でございましょう」
少し離れたところからそんな声が聞こえた。皆、戦のことを忘れているわけではない。ただ、今日だけは杯を傾け、無事に新しい年を迎えられたことを喜んでいるのだろう。
竹若丸も話を聞いていたが、難しいことを尋ねてくる様子はなかった。膳に手を伸ばす時も、私の顔を見てからそっと取っている。初めての席で何をしてよいのか、気を付けているのかもしれない。
「竹若丸、お食事は口に合いますか」
「はい。美味しいです」
小さく答えたあと、竹若丸は杯を掲げる大人達の方へ目を向けた。あちらこちらで笑い声が上がる。少し驚いたように瞬きをして、また膳へ戻る。その仕草を見ると、やはり見慣れぬ席なのだと分かる。
「疲れていませんか」
「……少しだけ」
竹若丸は私にだけ聞こえる声で言った。膝の上に置いた手を動かし、座り直している。先ほどから同じ姿勢を保とうと、気を張っていたのだろう。
「もう十分ですよ。殿に御挨拶して、部屋へ戻りましょうか」
「はい。でも、皆様がまだ……」
「竹若丸の役目はもう済みました。殿も、疲れたら戻ってよいと仰っていたでしょう」
そう告げると、竹若丸は少し息を吐いた。無理をしていたのだろうか。そう思うと、よく頑張りましたねと言って抱き寄せたくなる。だが、ここは人前である。私はただ、背筋を伸ばして座り直すのを待った。殿に戻る旨を伝えると、すぐに頷いてくださった。
「もうよいぞ、竹若丸。皆への挨拶は出来たな」
「はい。ありがとうございました」
「うむ。大方様の手習いと同じだ。一度に何もかも覚える必要はない。また少しずつ慣れればよい」
「はい、父上」
殿は竹若丸の頭にそっと手を置かれた。竹若丸は少しだけ目を細めたが、嬉しいとも恥ずかしいとも口にしなかった。大方様へも挨拶してから、私達は部屋を出た。廊下へ出たところで、竹若丸の歩みが少し速くなる。
「そんなに急がなくてもよいのですよ」
「……すみません。足が、少し痛くなりました」
「長く座っていましたものね。部屋へ戻ったら楽にしてよいのですよ」
「はい」
言い終えると、竹若丸は私の手を取った。自分から手を求めてくることは、近頃少なくなっている。その温もりに、思わず指を握り返した。
「今日は立派でしたね」
「……間違えませんでしたか」
「ええ。皆様、きちんと聞いてくださいましたよ」
「それなら、良かったです」
竹若丸はほっとしたように頷いた。
部屋に戻ると、松千代が真っ先に駆け寄ってきた。
「にいさま!」
「松千代。ただいま」
「なにした?」
「父上と、皆に新年の挨拶をしたよ」
「ぼくも、する」
「うん。あとで一緒にしよう」
兄弟のそんなやり取りを聞いて、私は小さく笑った。大勢の家臣の前では丁寧に話していた竹若丸も、弟を前にすると自然に言葉が柔らかくなる。竹若丸は腰を下ろし、松千代の差し出した毬を受け取った。私が先ほどの小袖の裾を緩めてやると、ようやく肩の力が抜けたように見えた。
私の傍で生まれ、まだ幼いと思っていた竹若丸が、今日は家臣の方々の前に進み、自分で頭を下げた。六月に傅役のことを殿に御相談した時には、いつか私の傍を離れていくのだろうと考えただけだった。今日はその先を、少しだけ見た気がする。
嬉しくないはずがない。けれど、殿の前で一人頭を下げた背中を思い出すと、胸の奥に小さな寂しさが残った。竹若丸はまだ私の傍にいる。それでも、朽木の嫡男として歩き出しているのだ。
「母上」
竹若丸がこちらを見ていた。
「今日は、ありがとうございました」
「何を言うのです。よく頑張りましたね」
私が答えると、竹若丸は安心したように小さく頷き、松千代が転がした毬を拾った。弟と向き合う横顔は、つい先ほどまで宴の座にいた子と同じなのに、どこか幼く見える。今はまだ、この子にはこうして過ごす時間も必要なのだろう。
私は兄弟の様子を見守りながら、遠くで続いている宴の声に耳を澄ませた。