淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
永禄十四年(1571年) 一月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 竹中半兵衛
殿からお召しがあったと聞いた時、長島攻めのことだろうと思った。年が明けてから大きな戦はないが、あの一揆が収まったわけではない。春に兵を動かすなら、船も兵糧も今のうちから手を打っておかねばならぬ。
ところが、呼ばれたのは私一人ではなかった。山口新太郎殿も一緒だという。軍略方の私と兵糧方の新太郎殿が同時に呼ばれるのは不思議ではないが、それなら評定の席で話があってもよい。何か急ぎの用件でも生じたのだろうか。
廊下を進むと、向こうから新太郎殿が歩いて来た。互いに挨拶を交わし、並んで殿の部屋へ向かう。
「半兵衛殿も、お呼びを受けられましたか」
「ええ。長島の件かと考えておりましたが、何かお聞きですか」
「いえ、私も用向きまでは。ただ、二人で来るようにとのことでした」
「では、伺ってみるほかありませんね」
新太郎殿は頷いた。落ち着いた方だが、その表情からも用件を推し量ることは出来なかった。兵を動かす前には、考えるべきことが幾らでもある。私は頭の中で、今朝までに届いていた報告を順に確かめた。
部屋へ通されると、殿は文を脇へ寄せて我らを迎えられた。
「二人とも、よく来た。座ってくれ」
「はっ」
「急に呼び立てて済まんな。今日は長島の話ではない。お前達に頼みたいことがある」
思いがけない言葉に、私は新太郎殿と顔を見合わせた。殿がわざわざ二人だけを呼ばれたのだ。軽い用向きではあるまい。居住まいを正し、次の言葉を待った。
「竹若丸の傅役を任せたい。半兵衛、新太郎、二人にだ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
傅役。若君の傍にあって、その成長を助け、将来を支える役目である。学問や武芸を教えるだけでは済まぬ。人との接し方も、家臣を使う難しさも、やがては知っていただかねばならない。そのような大任を、私と新太郎殿に。
「……我らに、でございますか」
「ああ。二人なら任せられると思っている」
殿は何でもないことのように仰ったが、私には容易に返事が出来なかった。軍略方として意見を求められることはある。たとえ考えが違っても、申し上げるべきことは申し上げてきた。だが、若君を預かるとなれば話は別だ。隣では新太郎殿が膝の上に置いた手を揃え、殿を見つめている。
「恐れながら、若君には、もっと相応しい御方がおられるのではございませぬか」
口にしてから、失礼なことを申し上げたかとも思った。だが、不安を抱えたままお引き受けすることこそ無責任だろう。殿は気を悪くされた様子もなく、こちらを見ておられる。
「誰を付けるかは、随分考えた。学問に通じた者、武芸に優れた者はほかにもいる。だが、俺が求めているのは、それだけではない」
「と、仰いますと」
「竹若丸には、いずれ朽木を背負ってもらう。だからといって、今から何もかも押し付けるつもりはない。まだ幼い子だ。覚えることも多いが、遊ぶ時間も要るだろう」
「半兵衛は軍略を、新太郎は兵糧のことを知っている。だが、それ以上に二人の人柄を信じている。間違っていると思えば俺にも意見を言うし、任せた仕事を疎かにせん。竹若丸の前でも、そうであってほしい」
胸の奥が熱くなった。
戦で策が当たれば褒められる。しくじれば責めを受ける。それは分かりやすい。だが、これまでの自分の言葉や振る舞いを見て、殿が若君を任せられると考えてくださったとは。
新太郎殿が深く頭を下げた。
「身に余るお言葉にございます。ただ、若君をお預かりする以上、学ぶべきことは我らにも多うございましょう」
「そうだな。俺も人の子を育てることについて、偉そうなことは言えん。小夜や母上の方が、普段の竹若丸をよく見ている」
「大方様からは、既に手習いを教わっておられると伺っております」
「ああ。今では覚えた字を使って短い文も書くそうだ。小夜も喜んでいた」
殿の口元が少し緩んだ。若君の話になると、この方も父親なのだと分かる。伊勢の町々へ厳しい処置を下した時と、同じ御方であることが不思議に思えるほどだ。
「ですが、私は幼子を教えたことが多いとは申せませぬ」
殿は、私の不安を承知しておられたのだろう。頷いて答えられた。
「承知している。だから二人で頼むのだ。一人で全てを教える必要はない。それに、まだ先の長い話だ。最初から軍略や兵糧の難しいことを教え込もうなどと思わんでくれ」
「はい」
「知らぬことを尋ねた時には、分かるように話してやってほしい。答えられぬことがあれば、調べればよい。あの子が何を考えているのか、まず聞いてやってくれ」
私は頷いた。若君がどのような子なのか、詳しく知っているわけではない。先日の新年の席で家臣達に丁寧な挨拶をされたことは聞いているが、人前の姿だけでその子の全てが分かるものでもあるまい。もっとも、分からぬことを尋ねてよいと言っていただけたのは有難かった。教える側だからといって、何でも知っているふりをするのは危うい。殿はそれも含めて、我らを選ばれたのだろう。
「もう一つ、半兵衛」
名を呼ばれ、私は背筋を伸ばした。
「半兵衛、お前は身体が丈夫な方ではない。軍略方の仕事は今後も頼むが、これからは城で考える仕事を中心にしてくれ。戦場に出るのは、なるべくほかの者に任せたい」
「……私を、でございますか」
「不服か」
「滅相もございませぬ。ただ、長島の戦も控えております。軍略方としてのお役目を果たさずにいてよいものかと」
「役目を外すとは言っておらん。軍略を考える仕事は、戦場に立たねば出来ぬものばかりではないだろう。それに、竹若丸の傍に置く者がいつも戦に出ていては、傅役にならん」
確かに、そのとおりだった。私の身体のことまで案じていただいているのは有難いが、長島攻めを前に城へ残るのは、やはり気に掛かる。軍略方なら戦場でこそ働きを示さねばならぬと考えていた。だが、殿は違う役目を与えようとしておられる。幼い若君を育てながら、城で戦の備えを考える。それも朽木を支える仕事なのだ。
殿は、私の働きが不要になったからそう仰っているのではない。戦場で働く者を城から支え、そのうえで若君をお預かりする。新たに与えられた役目の重さを、考えずにはいられなかった。
ふと、以前の暮らしを思い出した。私は一度、仕える家と自分の立つ場所を失った。新太郎殿も同じような苦労をされたと聞いている。家を失うとは、そこに生きる者の行く末がどうなるかも分からぬということだ。若君がこれから何を学び、どのように人を使うか。そのことは、ただ一人の将来に留まらない。
だからこそ、恐ろしくもあった。
「殿」
顔を上げた時には、迷いよりも殿の信頼に応えたいという思いが勝っていた。
「御信頼を賜り、身に余る光栄にございます。若君にお教えするには、まだ我ら自身も至らぬところがございましょう。それでも、出来る限りのお力になりとう存じます」
「私も同じ思いにございます」
新太郎殿が続いた。
「兵糧方の仕事も疎かにはいたしませぬ。若君には、米一俵を運ぶにも多くの者の働きがあることを、いずれお伝え出来ればと存じます」
「うむ。そういうことも教えてやってくれ」
殿は我らを順に見て、静かに頷かれた。
「頼んだぞ。竹若丸を、立派な男に育ててやってほしい」
私は新太郎殿とともに、深く頭を下げた。
「はっ。謹んでお引き受けいたします」
その言葉を口にして、ようやく自分が何を任されたのかが、胸の内に定まった気がした。軍略であれば、地図を広げ、敵の動きを考えることから始められる。だが幼い若君の教育は、まず本人を知るところから始めねばならぬ。
しばらく今後の勤め方について話を伺い、我らは退出した。廊下に出ると、部屋の中で張り詰めていたものが少し緩んだ。新太郎殿も息を吐き、こちらへ向き直る。
「半兵衛殿。まずは小夜様へ御挨拶に伺うのがよろしいでしょうな」
「ええ。若君をお預かりする以上、御母堂に御挨拶もせずにはおられません」
「大方様にも、いずれ御挨拶を申し上げねばなりませぬな」
「そうですな。若君のことは、我らより御二方の方がよく御存じでしょう」
新太郎殿は頷き、女房に取次ぎを頼むため歩き出した。私もその後に続く。殿は、若君に何を教えるかよりも、まずその子の話を聞けと仰った。言われてみれば、私はまだ若君と落ち着いて言葉を交わしたことがない。家督を継ぐお方として知っていることと、一人の幼い子供として知っていることは、同じではないのだろう。
若君は、どのようなことをお尋ねになるのか。
その時、私には何をお答え出来るだろうか。
考えているうちに、小夜様の居所へ通じる廊下が見えてきた。
永禄十四年(1571年) 一月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 山口新太郎
小夜様への取次ぎを頼むと、女房はしばらくお待ちくださいと言って奥へ入った。竹中半兵衛殿と並んで廊下に控えながら、私は先ほど殿から賜ったお言葉を思い返していた。
竹若丸様の傅役を、半兵衛殿と私に。引き受けると申し上げた時には、ただ有難いと思った。だが、殿の部屋を出て、こうして御母堂への挨拶を待っていると、ようやく事の重さが実感されてきた。
私は兵糧方として、米や銭、船の手配だけでなく、物資の輸送や街道の整備にも携わっている。何をどれほど運ぶか、道は使えるか、人足や船は揃うか。一つずつ確かめて、ようやく必要な物を届けられる。思いどおりに進まぬことも多いが、それでも仕事の成否を確かめる手立てはある。
子供を育てるとなれば、そうはいくまい。
何を教えればよいかということだけではない。言葉一つが若君にどう伝わるのか。今日の教えが何年も先にどのような形で表れるのか。そんなことは、今の私には見当も付かなかった。
「新太郎殿」
半兵衛殿に呼ばれ、顔を上げた。
「随分と難しいお顔をしておられますな」
「半兵衛殿こそ。先ほどから口数が少のうございます」
「これは一本取られました」
半兵衛殿が僅かに笑われた。私もつられて頬が緩んだが、すぐにまた背筋を正した。
「若君の御母堂へ御挨拶するとなると、どうにも緊張いたします」
「私も同じです。ですが、今から二人揃って堅くなっていては、若君にまで気を遣わせてしまいそうですな」
「……それもそうですな」
確かに、我らがこれほど構えていては、幼い若君も落ち着かぬだろう。やがて女房が戻り、小夜様がお会いになるとのことだった。案内に従って部屋へ入ると、小夜様はすでに座って我らを待っておられた。傍らには手習いの紙を納める文箱が置かれている。
「急なお訪ねをお許しくださいませ」
半兵衛殿とともに頭を下げると、小夜様は静かに頷かれた。
「どうぞ、お顔を上げてください。殿から何かお話がございましたか」
「はい。ただいま殿より、竹若丸様の傅役を仰せ付かりました」
「……お二人が、ですか」
小夜様は一度我らを見てから、膝の上に揃えた手へ目を落とされた。その間に、私は次の言葉を待った。傅役を望んでおられることは聞いていたが、人選まで御存じだったかどうかは分からない。
「半兵衛殿と新太郎殿であれば、心強うございます。どうぞ竹若丸のこと、よろしくお願いいたします」
小夜様は深く頭を下げられた。
「お顔をお上げください。若君の御成長のため、微力ながら力を尽くす所存にございます」
「私からもお願い申し上げます」
半兵衛殿が続く。小夜様は顔を上げられたが、すぐには言葉を発されなかった。文箱の方へ一度目を向け、それから我らを見られた。
「竹若丸は大方様のもとで手習いを進めております。近頃は私にも随分丁寧な言葉を使うようになり、殿や家臣の方々の前では、殊に失礼のないよう気にしているようでございます」
「年始の席でも、御挨拶をなさったと伺いました」
「ええ。けれど部屋に戻る頃には、足が痛いと申しておりました。まだ数え六つの子なのです」
小夜様はその時、僅かに表情を緩められた。殿も小夜様も、若君が出来ることばかりを誇られるわけではない。筆が思うように動かぬことも、長く座れば疲れることも、同じように気に掛けておられる。私が預かるのは朽木の跡を継ぐ御方であると同時に、まだ数え六つの子なのだ。
「一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「何なりとお申し付けください」
「竹若丸は、人の話が終わるまで待つことが多うございます。何か尋ねたいことがあっても、相手が忙しそうにしていると、そのまま黙ってしまうこともあります。どうか、折に触れて声を掛けてやってくださいませ」
「心得ました。こちらからも話を伺うようにいたします」
小夜様は礼を述べられた。若君が何も仰らぬ時にも、尋ねたいことがあるのかもしれない。そう教えていただけたことは、我らにとって有難かった。
「よろしければ、竹若丸にも会っていただけますか」
「是非に。御挨拶を申し上げとうございます」
女房が呼びに行き、程なくして竹若丸様が姿を見せられた。改まった衣装ではなく、部屋で過ごしておられた時のままなのだろう。小さな手には、紙を数枚重ねて持っておられた。
「竹若丸、こちらへ」
小夜様に呼ばれると、若君は持っていた紙を女房に預け、我らの前へ進まれた。私と半兵衛殿を順に見てから、座って頭を下げられる。
「竹若丸です。よろしくお願いいたします」
落ち着いた御挨拶だった。ただ、顔を上げられてから、小夜様の方へ一度目を向けられた。傅役として改めて向き合う我らに、少し緊張しておられるようにも見えた。
「山口新太郎教高にございます。これより竹中半兵衛殿とともに、若君の御学問などのお手伝いをさせていただくことになりました」
「竹中半兵衛重治にございます。よろしくお願い申し上げます」
半兵衛殿も一礼された。若君は我らの顔を見比べ、確かめるように名を繰り返された。
「半兵衛殿と、新太郎殿ですね」
「若君、我らの名に『殿』は要りませぬ。どうか半兵衛とお呼びください」
「私も新太郎で結構にございます。それから、我らの前ではそうかしこまらず、普段どおりにお話しくだされば」
「……半兵衛と、新太郎?」
「はい。それで結構にございます」
「じゃあ、これから二人が教えてくれるの?」
「左様でございます。ですが、急いで何もかも覚える必要はございませぬ。少しずつ、一緒に学んでまいりましょう」
頷かれると、膝の上に揃えていた手が少し緩んだ。先ほどより言葉も柔らかい。我らの申し出を受け入れてくださったようだ。
「若君は、大方様と手習いをなさっておられるそうですな」
半兵衛殿が尋ねると、竹若丸様は顔を向けられた。
「うん。字を読むのと、書くのを教わっているよ」
「それは結構なことでございます。お好きな字はございますか」
「……まだ、よく分からない。でも、知らなかった字が読めると、嬉しい」
答えるまでに少し間があったが、半兵衛殿は急かされなかった。私も小夜様から伺った話を思い出していると、今度はこちらへ目を向けられた。
「新太郎は、父上の仕事を手伝っているの?」
「はい。兵糧方という役目を務めております」
「兵糧方……。どんな仕事なの?」
私は一瞬、答えを考えた。兵糧方の仕事を一つ残らず説明しては、幼い御方には分かりにくかろう。だが、単に米を集める役目と申し上げるだけでは、それも少し違う。
「戦へ行く兵達に、食べ物や必要な物を届ける仕事でございます。米を集め、運ぶ者や船を手配し、街道を整えることもあります」
「道も、直すの?」
「ええ。道が悪ければ、荷を運ぶ者達も困りますから」
「お米を、遠くまで運ぶの?」
「そうです。兵達が遠くへ行っても、食事が出来るようにするのです」
竹若丸様は暫く黙っておられた。私が言葉を足そうとすると、若君がそっと顔を上げられた。
「お米を運ぶ人も、戦へ行くの?」
「戦う者とは別に、荷を運ぶ者も参ります。道が遠ければ、幾日も掛かることがございます」
「……その人達も、ご飯を食べるよね」
「はい。その者達の分も考えておかねばなりませぬ」
返事を聞いた竹若丸様は小さく頷かれた。兵の食事のために働く者にも、食べ物が要る。仕事に慣れた私は、そんな当たり前のことを説明せずに済ませるところだった。
「色々な人が、働いているんだね」
「ええ。米を作る者、集める者、運ぶ者。それぞれの働きがあって、ようやく兵の口へ届きます」
話を聞き終えると、竹若丸様はゆっくり頭を下げられた。
「教えてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、よいことを尋ねていただきました」
そう申し上げると、竹若丸様は少し目元を和らげられた。小夜様も、傍らで穏やかに見守っておられる。説明が分かりやすかったかどうか、自信はなかった。だが、尋ねられたことに一つずつ答えるなら、私にも出来るだろう。
半兵衛殿が若君へ言葉を掛けられた。
「本日は御挨拶に伺いました。これから御一緒に学ぶことも増えましょうが、お疲れになった時には、遠慮なく仰ってください」
「うん。ありがとう」
そこで若君は少し間を置き、小夜様の方を見られた。
「母上、もう戻ってもよろしいですか」
「ええ。お二人へ御挨拶は出来ましたね」
「はい」
竹若丸様は再び我らに頭を下げ、女房とともに奥へ戻られた。小さな背中が見えなくなると、小夜様は膝の上で手を重ね直された。
「何か失礼がございましたら、お許しくださいませ」
「とんでもございませぬ。若君は礼節を心得ておられますな」
「まだ覚えたばかりのことばかりでございます」
小夜様の声には、我が子の話をなさる時の柔らかな響きがあった。
「私達も、竹若丸のことを何もかも知っているわけではございません。お二人から見て、気になることがございましたら、どうかお聞かせください」
私は半兵衛殿と顔を見合わせた。
「承知いたしました。若君の御様子は、その都度お伝えいたします。こちらからも、御母堂や大方様に伺いたいことが出てまいりましょう」
「はい。私で分かることでしたら、何でもお話しします」
小夜様はゆっくりと頭を下げられた。我らも礼を返し、ほどなく退出した。廊下へ出ると、半兵衛殿が足を緩められた。
「新太郎殿。若君とお話しして、いかがでしたか」
「御行儀のよい御方だと思いました。それに、尋ねられることをよく考えておられるようです」
「私もそう感じました。ですが、まだ分からぬことばかりですな」
「ええ。これから少しずつ知っていかねばなりませぬ」
先ほどの若君のお言葉が、ふと頭に浮かんだ。お米を運ぶ人も、ご飯を食べるよね。兵糧方としては、ごく当たり前のことだ。だが、あのように問い掛けられてみると、誰の働きによって仕事が成り立っているのか、改めて考えさせられる。
私は一度、仕える家を失った。仕事を失い、先の見えぬ時もあった。そのような苦労を、幼い若君に今から詳しくお話しする必要はあるまい。けれど、どのような人にも暮らしがあり、それを支える仕事があることは、折に触れて伝えていきたい。
半兵衛殿と並んで歩きながら、次に若君から何を尋ねられるだろうかと考えた。その時には、今日より少しでも分かりやすく答えたい。まずはそれを、一つずつ重ねていこう。
永禄十四年(1571年) 三月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 竹中半兵衛
伊勢から届いた書状を広げると、長島を囲む船についての報告が目に入った。九鬼孫次郎殿の船が海の出入りを見張っている。長島は物資を求めて雑賀や堺へも働きかけているという。封鎖の効果は出ているらしいが、海の道を完全に断てたと考えるのは早い。まして敵が窮したからといって、難なく城を落とせるわけではなかった。
二月には誠仁様の親王宣下と立太子礼も行われた。朝廷の慶事が続く間は兵を動かすことが控えられていたが、今は長島への備えを詰める時期に戻っている。
書状には、殿が三月中旬に伊勢の塩浜村で下野守殿や真田弾正殿、九鬼殿と話し合われたことも記されていた。長島は幾筋もの川と水路に囲まれている。船を揃えればよいというものではなく、兵をどこへ寄せるか、逃げようとする者をどう扱うかまで考えねばならない。殿は現地でそれらを確かめ、城に残る我らにも準備を怠るなと命じておられた。
私は書状を閉じ、目の前の地図へ視線を移した。伊勢の道筋には、新太郎殿が書き入れた荷の集積場所や船着き場の印がある。私の手元にあるのは紙の上の線だが、実際には川も道も天候によって姿を変える。軍勢を送り込むことばかりに目を向ければ、その後が続かぬ。
「半兵衛殿、こちらも御覧いただけますか」
山口新太郎殿が新たな帳面を差し出した。今日は軍略方と兵糧方の者が集まり、長島攻めに向けた残りの手配を確かめている。殿が現地で御判断されることは多いが、城で出来る準備は我らが進めねばならなかった。
席には真田源五郎昌幸殿と、増田仁右衛門長盛殿の姿もある。近頃、軍略方と兵糧方には新たな人が加わった。軍略方では芦田源十郎信蕃殿らも働いておられるし、兵糧方にも増員があった。顔触れが変われば、これまでのやり方を説明し直さねばならぬこともあるが、その分だけ違う目で不足を指摘してもらえる。
「この道は、先日の雨で荷車が通りにくくなったと聞いております」
新太郎殿が地図の一か所を指した。仁右衛門殿が帳面を開き、積み出す荷の量を読み上げる。
「人足を増やせば運べる量は増えましょうが、道の悪い所へ人ばかり集めても、先へ進めませぬ。こちらの道へ分けてはいかがでしょう」
「遠回りにはなりますな」
源五郎殿が地図を覗き込んだ。
「だが、一か所で荷が詰まるよりはよい。雨が続けば、兵が通る道と荷を運ぶ道を分けることも考えねばなりません」
「その場合は船着き場からの運び方も変わります。米を積み替える場所を確かめておきましょう」
新太郎殿はそう言い、仁右衛門殿と帳面を突き合わせた。荷を運ぶ道を変えれば、軍勢を進める時刻も考え直さねばならない。二人が数字を直す間、私は地図の上で兵の動きを確かめた。
「源五郎殿、兵を先へ進めるとしたら、どの道を使われますか」
「こちらが最も早いでしょう。ただし、荷が滞れば兵だけが先に着くことになります。半兵衛殿は、どう御覧になりますか」
「先に着いた兵が待つだけでは済まぬかもしれませんな。敵に動かれた時、食べ物も替えの矢も届かぬのでは困ります」
源五郎殿は頷き、道筋の横へ印を付けた。自分の考えを述べるだけでなく、こちらの意見にも耳を傾ける。若いが、頼もしい御方だ。軍略方に加わった者達の働きを見ていると、殿が人を増やされた理由がよく分かる。
以前なら、こうした地図を前にすると、戦の場で自分がどこに立つかまで考えていた。敵の動きを読み、味方の兵をどう動かすか。軍略方として、それが当然の務めだと思っていたからだ。
だが、この春は違う。
殿は私を軍略方に置いたまま、なるべく戦場へ出さぬと仰った。竹若丸様の傅役を任せる以上、城で考える仕事をしてほしいというお考えだった。初めは、長島攻めを前にして自分だけ後ろに残ることに戸惑った。けれど、目の前の帳面と地図に向かっていると、ここにも戦があるのだと思う。
「半兵衛殿?」
呼ばれて顔を上げると、源五郎殿が私を見ていた。
「失礼。何かございましたか」
「船着き場を増やすなら、その分だけ警固も要りましょう。兵をどれほど回せるか、殿へ伺う必要があるかと」
「そうですな。こちらで勝手に決めず、まず現地の様子を確かめましょう。船の数が揃っても、守る者が足りぬのでは困ります」
私は殿へ尋ねる事柄を書き付けた。警固の兵数は現地で確かめてもらい、城では必要な荷と船の手配を進める。返書が届けば、こちらの案もまた改めることになるだろう。
話が一段落したところで、仁右衛門殿が新太郎殿へ何か尋ねた。二人は帳面を手に、部屋の隅で小声で確かめ合っている。源五郎殿も別の地図を取り、残る道筋を検討し始めた。私はそれを見ながら、軍略方の役目が少しずつ変わっていくのを感じた。
真田弾正殿は長島の戦が終われば副将を辞したいと申し出ておられるそうだ。後を担うのは明智十兵衛殿と聞く。弾正殿がすぐに軍を離れるわけではないが、今後はまた新しい顔触れで戦を進めることになるのだろう。
それでも、御家の仕事がなくなるわけではない。誰か一人が抜ければ何も出来なくなるようでは、殿も安心して軍を動かせまい。新しく加わった者が意見を出し、経験のある者が確かめる。今の評定には、そのような働き方が生まれつつあった。
私は地図の端へ書き加えた印を見た。自分が戦場にいなくとも、誰かがこの印を見て道を選び、荷を動かす。正しいことを残せれば役に立つが、誤りがあれば、遠くにいる者達が困ることになる。城にいるから責任が軽いわけではないのだ。
「半兵衛殿、お手数ですが、先ほどの御指摘を一度書き付けていただけますか」
源五郎殿の言葉に、私は頷いた。
「承知しました。ですが、私の考えも間違っているかもしれません。実際に道を使う者から、もう一度聞いておいた方がよろしいでしょう」
「では、現地からの返書を待って確かめましょう」
源五郎殿は当然のことのように答え、再び地図へ向かった。その横顔を見て、私は少し安堵した。意見を出す者が増えれば、誤りに気付く者も増える。御家にとっては喜ばしいことだ。
評定を終える頃には、日が傾き始めていた。帳面を抱えた新太郎殿と廊下へ出ると、昼間の忙しさが少し遠のいた気がした。
「今日も随分と書き付けが増えましたな」
「ええ。ですが、道を整えて荷を運ぶ手配は、まだ終わっておりませぬ」
「殿へお尋ねすることもございます。忙しくなりますな」
「半兵衛殿も、お疲れでございましょう。今日はこの後、若君のところへ?」
「少しだけ顔を出すつもりです。手習いの様子を伺う約束をしておりますので」
新太郎殿が頷かれた。傅役となってから二月ほど、若君と話す機会も幾度かあった。大方様が教えておられる字のことを尋ねられる日もあれば、こちらの仕事について聞かれる日もある。まだ幼いだけに、長く話していると疲れた様子を見せることもあった。
先日、若君に簡単な道筋を書いて見せたことがある。村から城へ米を運ぶ道だと言うと、若君は紙をじっと見つめてから、川を渡るところを指された。
「橋がないときは、どうするの?」
私は、船で渡ることもあると答えた。すると若君は、「船がなかったら?」と尋ねられた。遠回りをすることもあると申し上げると、今度はその道を指で辿っておられた。幼い子の問いは、一つ答えればそれで済むものでもない。けれど、だからこそ、こちらも分かるように考え直すことになる。
道を描いた紙を見て、若君は川の向こうへどう渡るかを尋ねられた。私なら当然知っていると思っていた道筋も、初めて見る子供には一つずつ確かめたい事柄なのだろう。
「何か考え事でございますか」
新太郎殿の声に、私は顔を上げた。
「いえ、若君に以前尋ねられたことを思い出しておりました。人に教えようとすると、知っているつもりだったことにも、改めて答えを探すものですな」
「左様でございますな。私も兵糧の話をするたび、何をどこから話せばよいものか迷います」
「次に道筋を描いてお見せする時は、若君にもどの道を通るか考えていただきましょうか」
新太郎殿は静かに頷かれた。
私はこれまで、戦で働くことこそ御家への奉公だと思っていた。今も、その考えを捨てたわけではない。けれど、ここで地図を広げて準備を整えることも、若君が知らぬことを尋ねた時に答えて差し上げることも、同じ御家の先へつながっている。
戦場に立てぬ寂しさは、今もある。だが、私一人に頼らず戦を進められることは、御家にとって喜ばしいことなのだろう。新たな者達が育ち、役目を受け継いでいく。その中で私にも、ここで果たすべき務めがある。
若君も、いずれ多くの者とともに朽木を支える日を迎えられる。その時に必要なのは、全ての答えを一人で知っていることではない。人の言葉を聞き、自分に分からぬことを確かめ、任せるべき者を信じられることだ。
次に若君と道筋を広げたなら、私から答えを示す前に、どの道を選びたいかを聞いてみよう。なぜそう考えたのかも、ゆっくり尋ねてみたい。
廊下の向こうから、子供の笑い声が聞こえた。若君の声かどうかは分からない。ただ、書状を閉じた時よりも足取りは軽くなっていた。