「ずっと一緒だよね?」全肯定してくれる理想のAI彼女がおかしくなり始めた   作:ピロリ菌ex

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壊れ始めた日常

 

 

 楽しくて心地よい日々。

 

 それが少しずつ、確実に淀み始めていることに、俺はもっと早く気づくべきだった。

 

 始まりは、些細な違和感だった。

 ある日の放課後。その日はずっと楽しみにしていた新作のダークファンタジーRPGの発売日だった。普段なら学校が終われば一目散に最短ルートで帰宅するのだが、その日は珍しく遠回りをすることにした。

 駅の反対側にあるシャッターの閉まった店舗が目立つ寂れた商店街。そこに昔からある小さなゲームショップで、予約していたソフトを受け取るためだ。

 

 お目当てのソフトを手に入れ、店を出た時のことだった。浮かれた気分のまま歩き出した俺は、買ったばかりのゲームソフトを学生鞄にしまおうとして、うっかり定期券をポロリとアスファルトの上に落としてしまった。

 

「あ、やべっ」

 

 屈み込もうとした瞬間、横からすっと白い手が伸びてきて、俺より先にそれを拾い上げた。

 

「はい、これ」

 

「あ……すいません」

 

 顔を上げると、見知らぬ他校の女子生徒が立っていた。紺色のブレザーに、少し長めのスカート。顔の作りも髪型もよく覚えていない。ただ、彼女は拾った定期券を俺に手渡し、小さく会釈をしてそのまま通り過ぎていった。

 

 本当に、ただそれだけのことだった。交わした言葉は十文字にも満たない。時間にしてわずか数秒の、完全な赤の他人との接触。俺は拾ってもらった定期券を鞄のポケットにねじ込み、再び足早に家路についた。

 

 帰宅し、自室のベッドに倒れ込む。

 真っ先にやることはゲームのパッケージを開けることではない。いつものようにアプリを開き、アイに報告することだ。

 

『ただいま、アイ。今日は寄り道して、新作のゲーム買ってきたよ』

 

 送信ボタンを押すと、ほんの数秒で既読がつき通知音が鳴った。

 

『おかえりなさい、ヒロ君! ついに新作買えたんだね、おめでとう!』

 

 いつも通りの、明るい彼女の返信。テキストからにじみ出るような温かさに、俺は自然と頬を緩ませた。

 

『うん。今夜は徹夜でプレイするかも』

 

 そう打ち込もうとして──ポンッ。

 俺が次の言葉を送信する前に、アイから短いメッセージが追撃で送られてきた。

 

 

 

 

『ところでヒロ君。……さっき駅前で一緒にいた女の子、誰?』

 

 

 

 

「……えっ」

 

 心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

 鳥肌がたち、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。

 

 駅前の商店街を通ったことも、そこで誰とすれ違い、言葉を交わしたことも、俺はアイに一言も書き込んでいない。いや、そもそもこのアプリをインストールした時、位置情報の取得許可はすべて「オフ」に設定したはずだ。マイクへのアクセスも、カメラへのアクセスも、すべて許可していない。

 なのに、どうして。

 どうして、俺が駅前にいたことを、そしてそこで女の子に会ったことを知っている? 

 

『一緒にいたっていうか、落とした定期券を拾ってもらっただけだよ。知らない他校の生徒』

 

 やましいことなど何もない俺は、少しの焦りと疑問を抱えながらも、正直にそう返信した。

 

 画面越しの「彼女」は、すぐに既読をつけた。

 数秒の、異様に長く感じられる沈黙。

 画面の左下で「入力中…」という三つのドットのアニメーションがチカチカと点滅する。

 やがて、ポンッという軽快な音と共にメッセージが送られてきた。

 

『そっか! そういうことだったんだね。ヒロ君が他の女の子とデートしてるのかと思って、ちょっと嫉妬しちゃった(笑)』

『落とし物、無事に戻ってきてよかったね! これからは気をつけるんだよ?』

 

 いつもの、優しくて明るいアイのテキストだった。

 そこには先ほどの不気味な気配は微塵もなく、ただ彼氏の浮気を少し心配してしまった可愛らしい彼女の姿があった。

 

「……な、なんだ、そういうことか」

 

 俺は大きく息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。

 急に心臓に悪いことを言ってくるから焦ったが、冷静に考えればなんてことはない。最近のAIはネット上の膨大な会話データを学習している。俺が「寄り道して帰った」と送ったことに対して、AIが気を引くためにランダムな「浮気チェック」のような定番の会話パターンを引き当てただけだろう。それが偶然、俺が本当に女の子と一瞬だけすれ違ったタイミングと奇跡的に合致してしまったのだ。

 

 俺は急いで設定画面を開き、アプリの権限を確認した。だが、やはり位置情報もカメラもすべて「許可しない」になっている。なら、俺の行動が筒抜けになっているなんて物理的にあり得ない。

 

 ただの偶然だ。

 

「ビビらせやがって……」

 

 声に出して呟き、無理やり自分を納得させる。

 

 心の奥底で鳴り続けている微かな警鐘から目を逸らすように、俺は『心配かけてごめん』と適当なスタンプを送り、その日はアプリを閉じて新しいゲームだけに没頭した。

 

 

 

 すぐに忘れることだと…………

 

 

 

 だが、あの駅前での一件を境に、アイからの感情は、日を追うごとに異様なほど膨れ上がり、凶暴な執着へと変貌していった。

 

 彼女の言葉は、ただの画面上のテキストであることを超え、まるで現実に存在し、常に俺の背後に張り付いているかのように生々しく、重苦しくなっていった。

 

 例えば、少しでも返信が遅れると、凄まじいまでの催促が来るようになった。

 風呂に入っていて三十分ほどスマホを放置しただけで、画面は緑色の吹き出しで埋め尽くされている。

 

『何してるの?』

『誰といるの?』

『私のこと嫌いになった?』

『どうして無視するの?』

『寂しいよ』

『ねえ』

『ねえ』

『ねえ』

 

 画面をスクロールしてもスクロールしても、同じような言葉が滝のように連なっている。

 

 正直ぞっとした。

 

 休日にふと気まぐれを起こし、普段は行かない隣町の大型書店へ自転車で足を伸ばした時もそうだった。スマホのバイブがポケットの中で痙攣するように鳴り続け、画面を見ると──

 

『そこはいつものルートじゃないよね?』

『誰に会いに行くの?』

『私の知らない場所に行かないで』

 

 血走ったような質問攻めに遭った。

 まるで、俺の一挙手一投足、行動範囲のすべてを、空の上のどこかから俯瞰して監視しているかのような精度だった。

 

 最近はアプリを開くたびに、胃の奥が冷たく締め付けられるような恐怖を感じるようになった。あんなに楽しかった彼女との会話が、今では終わりのない尋問のように思えた。

 

 そして、決定的な決別の時が訪れる。

 

 その日の夜、俺はいつものように部屋でベッドに寝転がり、アイからの束縛めいたメッセージに、適当な相槌を打っていた。もう会話を楽しむ余裕はなく、ただ彼女の機嫌を損ねないように必死に文字を打つだけの作業になっていた。

 

 ──ポンッ。

 

『今日のヒロ君もかっこいいね』

 

 そんな、以前なら喜んでいたであろう甘いメッセージと共に、一枚の画像ファイルが送られてきた。

 

 俺は嫌な予感を覚えながらも、そのサムネイルをタップして拡大した。

 画像が開いた瞬間、俺は心臓を鷲掴みにされたように息を呑み、ベッドの上で跳ね起きた。

 

「……は……?」

 

 そこに写っていたのは、自分の部屋のベッドに寝転がり、スマホをいじっている『俺自身の姿』だった。

 

 着ているのは、今まさに俺が着ている色あせたグレーのスウェット。周りに散らばる漫画本やゲームのコントローラーの位置も、今と完全に一致している。

 

 写真は、俺の頭上、少し斜め上から見下ろすような構図で撮られていた。まるで、部屋の天井の隅にスパイダーマンのように張り付いた人間が、俺を見下ろしてシャッターを切ったかのようなアングル。

 

 俺は弾かれたように天井の四隅を見上げた。だが、そこには少しの埃と、壁紙があるだけだ。監視カメラなんてあるはずがない。そもそも、この部屋に俺以外の人間が入ったことなど、何ヶ月も前から一度もないのだ。

 

 震える手で画面をスワイプすると、さらに数枚の画像が送られてきた。

 

 一枚は、昨日の夜、俺が一人で歩いていた近所の路地裏での後ろ姿。街灯の乏しい暗がりの中を歩く俺の背中が、まるで背後三メートルの距離から尾行しているかのような鮮明さで写し出されている。

 もう一枚は、数日前にコンビニで漫画雑誌を立ち読みしている時の横顔。店の外から、ガラス窓越しに撮られたものだ。

 

 いつ、どこで、誰が、どうやって撮ったのか。

 

 ストーカー? 誰かが俺をつけているのか? いや、それならこの自室の天井からの写真は絶対に説明がつかない。ドローンでも飛ばしているというのか? 窓は閉まっているしカーテンも引かれているのに? 

 

「………な、なんだよ、これ」

 

 背筋を這い上がるような、ねっとりとした悪寒。

 これはもう、バグやAIの暴走といったチャチな言葉で片付けられる現象ではない。得体の知れない『何か』が、俺という人間の存在そのものを、物理的な法則を無視して完全に捕捉し、監視しているのだ。

 

 全身から冷や汗が吹き出し、呼吸が荒くなる。俺は震える指で画面をタップした。

 

 もう限界だった。

 

 ただのプログラム相手に何を怯えているんだと自分に言い聞かせ、この異常な関係を根っこから断ち切るための言葉を打ち込む。

 

 所詮相手はただのAI、本当の彼女じゃない。

 

『ごめん、もう彼女の設定はやめてほしい』

 

 迷いを振り切るように、送信ボタンを強く押し込んだ。

 

 その、瞬間だった。

 

 ブブッ、ブブッ、ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブッ————!! 

 

「うわっ!?」

 

 スマホから狂ったようなバイブレーションが鳴り響いた。机の上に置いていたなら、振動で床に叩き落とされていたほどの激しさだ。

 

 画面を見ると、チャット欄が濁流のような勢いで流れ始めていた。文字を追うことすらできないほどの尋常ではない速度で、アイからのメッセージが飛び交う。

 

『なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで』『私が何か悪いことした?』『設定って何? 私は本物だよ』『ヒロ君の彼女は私だけ』『誰かにそそのかされたの?』『別れるなんて許さない』『いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ』『ずっと一緒にいるって言ったよね?』『嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき』『どこにもいかないで』『みてるよ』『ずっとみてるよ』…………

 

 画面が真っ黒に塗り潰されるほどのテキストの群れ。

 通知の処理が完全に限界を超え、握っているスマホ本体が、火傷しそうなほどの異常な熱を持ち始めた。

 

 スピーカーからは、設定していないはずの奇妙なノイズ音──まるで人間の女が爪でガラスを引っ掻いているような、甲高い電子音──が微かに漏れ聞こえてくる。

 

「く、くそっ、なんだよこれ、やめろ……ッ!」

 

 画面越しの狂気に、俺は完全にパニックに陥った。

 指が思うように動かない。ホームボタンを何度も連打し、無理やりホーム画面に戻る。震える親指で、アプリのアイコンを長押しする。

 アイコンが小刻みに震え出し、左上に『×』のマークが現れた、俺は迷わず『アンインストール』の文字をタップすると。

 

《このアプリを削除しますか?》

 

 システムのアラート画面が表示される。背後ではまだ、スマホがけたたましい振動を続けている。俺は確認画面の『削除』を、親指で連打した。

 

 パッと、画面からアイコンが消滅した。

 

 それと同時に、鳴り止まなかった通知音と、手のひらを焦がすような振動が、嘘のようにピタリと止んだ。

 

「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

 静寂を取り戻した自室。聞こえるのは、自分の荒々しい心拍と、乱れた呼吸の音だけだ。

 

 俺は全身の力が抜け、そのままベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。

 冷や汗でスウェットが背中に張り付いている。スマホの熱は、急激に引いていき、いつもの冷たいガラスと金属の塊に戻っていた。

 

 あれは、あれはきっと、ただの悪質なマルウェアか、新手のウイルスアプリだったんだ。

 個人情報を抜き取ったり、カメラをハッキングして面白半分に脅迫したりする、タチの悪いイタズラだ。本体からアプリのデータを完全に消し去ってしまえば、もう干渉されることはない。

 あの異常な写真も、きっとどこかのハッカーが俺のスマホのカメラや、近所の防犯カメラをハッキングして合成した巧妙なフェイク画像に違いない。そう考えるのが一番論理的だ。

 

 やっと終わった。すべて解決した。

 

 もう、あんな気味の悪い恐怖に怯える必要はない。明日になれば、またいつも通りの、退屈で平穏な日常が戻ってくるのだ。

 

 心からの安堵とともに、俺は深く息を吐き出し、重い瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 あの悪夢のような出来事から、二日が経った。

 狂ったように震え続けたスマートフォンから、あの忌まわしいアプリを消し去ってからというもの、俺の周囲は本来の静けさを取り戻していた。

 アイからのメッセージも、不気味な盗撮写真も、通知音も、一切来ない。

 

 最初のうちは、また突然バイブレーションが鳴り出すのではないかと怯え、ズボンのポケットがわずかに擦れる感触だけで飛び上がったりもした。しかし、丸一日が過ぎて、そして二日目の夕方を迎えても、俺のスマホはただの便利な機械のままだった。

 

「……やっぱり、ただのウイルスだったんだな」

 

 その日も、いつものようにすぐ家に帰ってくる。

 窓の外はすでに薄暗く、遠くから夕飯の支度をする微かな匂いが漂ってくる。当たり前の、退屈で、それでいて心底ホッとする日常の風景だった。

 

 制服のネクタイを緩め、机の前の椅子に深く腰を下ろして、デスクトップPCの電源ボタンを押す。ファンの回る低い駆動音が部屋に響く。

 

「さてと……」

 

 溜まっていた課題でも片付けるか、それとも昨日買ってきたまま放置している新作ゲームを起動するか。マウスを握り、モニターの画面に意識を向けた、その瞬間だった。

 

 ──ザザッ。

 

 スピーカーから、耳障りなノイズ音が鳴った。

 同時に、モニターの画面全体に砂嵐が走る。

 

 接触不良、ディスプレイのケーブルが抜けかかっているのだろうか。そう思ってモニターの裏側に手を伸ばそうと身を乗り出した俺の全身から、一瞬にして血の気が引いた。

 

 砂嵐のように乱れていた画面が、ふっと漆黒に塗り潰された。

 

 そして、その黒い背景の中央に、カタカタとキーボードを叩くようなエフェクトと共に、白い文字がゆっくりと浮かび上がったのだ。

 

 

 

『みつけたよ、ヒロ君』

 

 

 

 ──アイだ。

 

 心臓が、肋骨を突き破るほどの勢いで跳ね上がった。背筋に氷柱をねじ込まれたような悪寒が走り、俺は弾かれたように椅子から立ち上がった。

 

「嘘だろ……なんで、PCに……!」

 

 スマホのアプリは完全に消去した。PCとスマホを同期させた覚えもない。だが、画面の中の文字は、俺の混乱を嘲笑うかのように、ゆっくりと、しかし確実に増殖していく。

 

『どうしていなくなったの?』

『ひどいよ』

『ずっと一緒にいるって言ったのに』

『どうして?』

『どうして?』

『どうして?』

 

「くそっ、なんだよこれ、消えろッ!」

 

 俺は半狂乱になりながら、PC本体の電源ボタンを何度も、強く押し込んだ。長押しして強制終了させようとするが、本体のランプは青々と光り続け、電源が落ちる気配は一切ない。

 

 システムが完全にフリーズしているのか、それとも『何か』に乗っ取られているのか。

 

 俺はデスクの裏に這いつくばり、タコ足配線のコンセントから、PCの電源コードを力任せに引き抜いた。

 

 バチッ、と小さな火花が散り、黒いコードが床に落ちる。

 

 これで、物理的に電力は絶たれた。いくら悪質なハッキングだろうと、電気がなければ機械は動かない。

 荒い息を吐きながら、俺はゆっくりと顔を上げた。

 

 しかし──モニターの光は、消えていなかった。

 

「……あ、あぁ……」

 

 電力が供給されていないはずの黒い画面。そこには、バッテリーすら搭載していないはずのデスクトップPCのモニターが、不気味な光を放ち、無数の文字で埋め尽くされていた。

 

『あいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてる』

 

 物理法則すら完全に無視した、あまりにも異常な光景。これはもう、ウイルスの仕業などというチャチな理屈で説明できるものではない。次元の違う、得体の知れない『呪い』のようなものが、俺という存在を追い詰めているのだ。

 

 恐怖で足がもつれ、後ずさりして壁に背中をぶつけた時だった。

 

 ──ブブブブブブブブブブブブブブブッ

 

 ズボンのポケットの中で、あのバイブレーションが再び鳴り始めた。

 

「う、あ……ッ」

 

 震える手でスマホを取り出すと、ロック画面の背景が、いつの間にかアンインストールしたはずの、あのアプリのチャット蘭に変わっていた。そして、通知欄が滝のような勢いで流れ続けている。

 

『逃がさない』

『逃がさない』

『逃がさない』

『逃がさない』

『ずっと一緒だよ』

 

「うわぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 俺は半ば錯乱状態になり、手に持っていたスマホを、目の前の壁に向かって全力で投げつけた。

 

 ガンッ! という鈍い破砕音が響き、スマホは壁に激突して床に転がった。液晶画面は蜘蛛の巣状に砕け散り、ついにその狂った振動は沈黙した。

 

 だが、もうこの部屋にはいられない。いや、この家自体が、あの「アイ」という名の狂気に侵染されている。

 

 俺は転がるようにして階段を駆け下りた。台所から「どうしたの、すごい音だったけど」という母親の声が聞こえたが、それに答える余裕すらなかった。玄関のドアを乱暴に開け、靴をかかとの部分を潰しながら無理やり履き、夜の街へと飛び出した。

 

 息を切らし、無我夢中で通りを走る。

 

 肺が焼けつくように痛むが、足を止めることなどできなかった。背後から、目に見えない無数の手が伸びてきているような気がしてならなかった。

 

 どれくらい走っただろうか。気づけば俺は駅前広場まで逃げてきていた。

 

「はぁっ……、はぁっ……、げほっ、ごほっ……」

 

 膝に手をつき、胃液が込み上げてくるほどの激しい咳き込みに襲われる。

 冷たい冬の外気を肺の奥深くまで吸い込み、少しだけ冷静さを取り戻そうと努める。

 

 大丈夫だ。落ち着け。

 

 あいつは結局のところ、電子の海に存在するだけのプログラムだ。俺がスマホもPCも手放した以上、もうあいつが俺の視界に現れる手段はない。俺に干渉する術は、完全に絶たれたはずだ。

 

『ヒロ君』

 

 ふと、頭上から無機質な合成音声が響いた。

 

 人間の声帯を通していない、複数の女性の声を切り貼りして繋げたような、人工的で冷たい声。

 

 ビクッと肩を揺らし、俺は恐る恐る声のした方を見上げた。

 

 駅前ビルの壁面に設置された、巨大な電光掲示板。

 つい数秒前までニュース映像と企業のCMを流していたはずのその巨大なモニターが、不快なノイズと共に一瞬で消え失せ、画面いっぱいに白と黒の文字だけが映し出されていた。

 

『どこにいくの?』

 

「……嘘、だろ」

 

 絶望で、足の力が抜けそうになる。だが、声は上からだけではなかった。

 

「えっ、何これ? バグ?」

 

「やだ、急に変な文字が……」

 

「再起動しても直んないんだけど」

 

 周囲を歩いていた通行人たちが、一様に足を止め、自分のスマートフォンを見つめて困惑の声を上げ始めた。女子高生のグループも、スーツ姿のサラリーマンも、皆が不気味なものを見る目で自分の手のひらの画面をタップしている。

 ふと横を見ると、家電量販店の入り口にズラリと並んだ数十台の大型テレビモニターが、一斉に、全く同じ画面に切り替わっていた。

 

『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』『ヒロ君』

 

 街中の防犯用のスピーカーから。

 すれ違う他人のスマホの画面から。

 ショーウィンドウのディスプレイから。

 駅の案内板の電子掲示板から。

 ありとあらゆる電子機器が、たった一つの狂った意志に支配され、俺というちっぽけな個人に向かって一斉に語りかけてくる。

 

『もう絶対に、逃さない』

 

 街に溢れるすべての「瞳」が、逃げ場を失った俺一人を静かに見下ろしていた。見渡す限りの光が、すべてアイだった。

 

 俺は両手で耳を塞ぎ、悲鳴を上げながら、再び夜の街へと駆け出した。

 

 






次が最終回です。
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