カレンブーケドールは筋書きどおりに咲かない   作:Lagavulin

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やり直し

 花を入れた紙袋の口を、三戸はもう一度確かめた。

 

 中で倒れないように、昨夜、家で何度か置き方を変えた。持ち運ぶための包みもつけ直してある。今は、関係者用の控室の隅で、彼の鞄と並んでいた。

 

 中を覗こうとして、やめる。

 

 今日はまず、ブーケが走る日だ。

 

 三戸は紙袋から離れ、練習ノートを持った。

 

 ブーケは入口の近くで、靴の踵を確かめていた。彼に気づくと立ち上がる。

 

「準備できました」

「うん。行こうか」

 

 外へ出ると、明るい日差しがあった。風は弱い。ブーケが空を見上げ、少し目を細める。

 

「走りやすそうですね」

「そうだね。今の感じは?」

「大丈夫です。緊張は、していますけれど」

「俺も」

 

 彼女がこちらを見た。

 

「最初のときも、仰っていましたね」

「何度目で慣れるんだろう」

「慣れないかもしれません」

「じゃあ、毎回だね」

 

 ブーケが少し笑った。

 

 次のレースに向けて、試したことはある。話したことも、十分にある。三戸は、ここでもう一度全部を説明し直さなかった。

 

「自分で見て、選んでおいで」

「はい」

 

 彼女が顔を上げた。

 

「行ってきます、トレーナー」

 

 見送りながら、三戸は手の中のノートを閉じた。

 

  *

 

 前の2人が動いたとき、ブーケはすぐには追わなかった。

 

 今ついていけば、同じように前へ出られるかもしれない。けれど、動いた相手の脚の運びは速かった。ここで自分も上げれば、そのあとまで保つか分からない。

 

 外から、もう1人が来る。

 

 一瞬、選抜レースの日のことが浮かんだ。待っているうちに、出るところがなくなった。

 

 ブーケは、目の前と、その先を見た。

 

 今はまだ、閉じていない。

 

 速さを保ったまま少し外へ寄せ、動ける場所を残した。無理に前の2人へ並びかけず、けれど、後ろにも下がらない。

 

 コーナーを回る間に、先頭との距離が少し変わった。

 

 前が遠い。

 

 でも、まだ届く。

 

 直線の入口で、ブーケは体を前へ運んだ。

 

 脚が動く。苦しくなる前に、もう一歩を大きく出す。先に仕掛けた相手の1人が、少しずつ近づいてきた。

 

 追いつき、並ぶ。

 

 前には、まだ1人。

 

 観客の声が聞こえた。自分の名前も、その中にあったかもしれない。けれど、今は聞き分けられなかった。

 

 ただ、ゴールへ向かって走った。

 

 先頭の相手にも追いつき、肩を並べた。さらに踏み込むと、その肩がわずかに後ろへ下がった。

 

 隣から、もう一度迫る足音がする。前へ出ても、それで終わりではない。

 

 腕を振る。

 

 次の一歩を、出す。

 

 ゴールの線を越えたとき、ブーケは自分の前に誰もいないことを知っていた。

 

 減速して、息を吸う。うまく入らず、もう一度、大きく吸った。

 

 脚は重い。胸も苦しい。

 

 息を整えるより先に、笑みがこぼれた。

 

 会いに行きたい人がいた。

 

 今日は、何と呼べるかを考えるより先に、その顔が浮かんだ。

 

  *

 

 三戸は、戻ってきた彼女の姿を見て名前を呼んだ。

 

「ブーケ!」

 

 彼女が顔を上げる。

 

 タオルは、今度は肩に掛けていた。両手が空いていることを確かめる必要もなく、三戸は彼女へ手を伸ばした。

 

 ブーケが近づいて、一度だけ足を緩めた。

 

 彼は、腕を開いたまま待った。

 

 次の一歩で、彼女が胸元へ来た。

 

「勝ったね」

「はい」

 

 肩へ触れる手に、少し力がこもる。

 

「今度も、勝てました」

「うん。最後まで、自分で走ったね」

 

 彼女が頷くのが分かった。三戸は背中へ回した手を少し緩め、息が整うのを待った。

 

 離れたとき、ブーケは笑っていた。

 

「おめでとう」

「ありがとうございます」

 

 タオルを渡す。彼女は顔へ当ててから、まだ何か言いたそうにこちらを見た。

 

「まだ、少し先に、やることがあるね」

 

 三戸が言うと、彼女も思い出したように頷いた。

 

「はい」

「落ち着いたら、時間をもらってもいい?」

 

 ブーケは、今度は目を逸らさなかった。

 

「はい。私も、お話を聞きたいです」

 

  *

 

 一通りの予定を終え、着替えを済ませるころには、外の光が少し低くなっていた。帰る人の流れから離れたベンチに、三戸が座っていた。隣には鞄と、細長い紙袋がある。

 

 ブーケが近づくと、彼は立ち上がった。

 

「お疲れさま。体はどう?」

「大丈夫です。明日は、少し重いかもしれませんけれど」

「うん。明日も確かめよう」

 

 いつもの話をしてから、彼がベンチの隣を空けた。

 

 ブーケは座り、鞄を膝へ置いた。三戸も隣へ座る。

 

 しばらく、遠くの話し声だけが聞こえた。

 

 彼が口を開いた。

 

「待ってくれて、ありがとう」

 

 ブーケは膝の上の鞄から、手を離した。

 

「最初に花を渡したときは、話した通りだった。君の走りを応援したくて、花言葉を調べた。あのとき、恋人になってほしいと思って渡したわけじゃなかった」

「はい」

 

 そこは、もう聞けた。

 

 彼が今、話そうとしている続きの方を、聞きたかった。

 

「でも、そのあともずっと、同じ気持ちだったわけじゃない」

 

 三戸は自分の手を見て、少し笑った。言葉を探すときの顔にも似ていたが、今度は話を続けた。

 

「この間、家で、あの青いシャツを着てたんだ。君と出かけるときに着ようと思って買ったのに、普段も、いちばん取りやすいところに掛けてて」

 

 ブーケは試着室の前を思い出した。

 

 あの日、自分がどんな顔をしたかは分からない。けれど、彼が鏡を見直したことは覚えている。

 

「似合うって言ってもらえたのが、嬉しかった。次に会うときに、もう一度見てほしかった。そういうことを、担当と仲良くなれて嬉しいんだと思ってた」

 

 彼がブーケを見る。

 

「それだけなら、土曜日まで、あんなに長く感じなかったと思う」

 

 ブーケの指が、鞄の縁へ触れた。

 

「川沿いで、手をつないだ日も」

 

 彼の声が、少し柔らかくなる。

 

「人が少なくなっても、離したくなかった。遠い方から帰りたいって言われて、俺もそっちがいいと思った。駅に着いたら、もう少し歩けたのになって」

 

 ブーケは彼を見た。

 

「……私だけでは、なかったんですね」

「うん。君だけじゃなかった」

 

 返事を聞いて、ブーケは自分の左手を見た。別れたあとも、何度か指を曲げたり伸ばしたりした、あの手。

 

「でも、あの日は、ずっと落ち着いていらしたので」

「そう見えた?」

「はい。私が慣れるのを、待ってくださっているのかと」

 

 三戸が少し首を振った。

 

「手をつないだら、本の話の続きが出てこなくなったんだ。それまでは普通に話してたのに。君が鳥の話をしてくれて、助かった」

「……そうだったんですか」

「うん。けっこう緊張してた」

 

 あの静かな横顔を、余裕があるのだと思って見ていた。自分ばかりが落ち着かなくて、恥ずかしかったのに。

 

 彼も、手を離したくないまま、話すことを探していた。

 

 ブーケは少し笑った。隣にいる人の顔が、さっきより見やすくなった。

 

「思い返したら、途中からは、もう好きだったんだ」

 

 三戸が言った。

 

「いつからなのか、きれいには言えないけど。少なくとも、君が恋人だと思ってくれてたのを知ったから、急にそうなったんじゃない。その前から、君に会いたかった」

 

 ブーケは、一度、目を伏せた。

 

 嬉しいのに、そのまま頷く前に、少しだけ言いたいことがあった。

 

「気づくのが、遅いです」

 

 三戸が小さく息を吐いた。

 

「うん。遅かった」

「私は、もっと前から、そのつもりでした」

「うん」

 

 責めたいわけではなかった。けれど、そこまで言うと、花をもらった日から少しずつ溜めていたものが、ようやく出ていく気がした。

 

 ブーケは顔を上げた。

 

「でも、聞けてよかったです」

 

 三戸が隣の紙袋へ手を伸ばした。

 

 出てきた包みの中に、黄色い花があった。

 

 一輪の、ガーベラだった。

 

「昨日、選んだ。今日の結果がどうでも、渡そうと思って」

 

 彼は花の向きを確かめ、ブーケへ差し出した。

 

「今度は、一輪の意味も知ってる」

 

 彼女は花を見た。最初の一輪と、よく似ている。けれど、花びらの重なり方も、茎の曲がり方も、少しずつ違った。

 

 同じ日に戻るのではないのだと、思った。

 

「恋人として、これからも一緒にいてほしい」

 

 花だけではなく、言葉があった。

 

 ブーケは両手を伸ばして、受け取った。包みが、指の間で小さく鳴る。

 

「はい」

 

 三戸を見て、続けた。

 

「もちろん、そのつもりです。よろしくお願いします」

 

 彼の顔が、ようやくほころんだ。

 

 契約をお願いしたときも、こんなふうに笑ってくれた。あの日のことまで、今、改めて嬉しくなった。

 

「……よかった」

 

 三戸の声を聞き、ブーケは花の上から彼を見た。

 

「お返事、分かりませんでした?」

「分かる気はしたけど、ちゃんと聞くまでは」

 

 ブーケは少し笑った。

 

 自分も、そうだった。

 

 彼が何を言ってくれるのか、期待はしていた。声で聞けた今は、そのときとは違う。

 

「最初のお花は、勘違いでしたね」

 

 包みのリボンを指先で直しながら言う。

 

「うん」

「でも、一緒にいて嬉しかったのは、私だけではなくて」

「うん」

 

 ブーケは花から顔を上げた。

 

「そちらは、勘違いではなかったんですね」

 

 三戸が頷いた。

 

「そっちは、合ってた」

 

 それを確かめられたら、前の手帳をもう一度開ける気がした。

 

 間違っていたところはある。けれど、全部を消してしまわなくてもいい。

 

 ブーケはガーベラを片腕へ寄せ、空いた手を膝の上に置いた。

 

 三戸が、その手を見る。

 

「つないでもいい?」

 

 今度は、彼からだった。

 

「はい」

 

 重なった手は、前にも知っている温かさだった。

 

 少しだけ、握り直す。

 

 今、彼も同じつもりでいることを、ブーケは知っていた。

 

  *

 

 帰るために立ち上がったとき、ブーケは花を持ち直した。

 

「これも、大切に飾りますね」

「うん。今度のも、あとで箱に入れる?」

「きれいに残せたら。最初のものと、並べたいです」

 

 三戸は、自分の家の少し曲がったガーベラを思い出した。

 

「俺のも、まだ見てもらってないね」

「はい。そちらも、今度」

 

 今度、と言っていいことが、また増えた。

 

 駅へ向かう道で、ブーケが彼を見上げた。

 

「それから、花畑のことも」

 

 三戸は頷いた。書店で見た、大きな写真が浮かぶ。

 

「行こう。次の休みに、体の疲れが取れていたら」

「お天気も、確かめないといけませんね」

「そうだね」

 

 ブーケは花を見て、それから彼の手を見た。

 

 出かける約束は、これまでも何度かした。

 

 なのに、今度の約束は、口にしたあとで少し照れた。

 

 三戸も、つないだ手を見てから前を向いた。

 

 2人とも、駅の方角は知っていた。歩き出すまでに、少しだけ時間がかかった。

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