カレンブーケドールは筋書きどおりに咲かない 作:Lagavulin
練習ノートの最後のページまで使い切った日、三戸は、初めの方を少し読み返した。コーナーの出口。外へ出るタイミング。前へ出てから、力を使いすぎないこと。狭い余白に書き足した文字は、どちらのものかすぐに分かった。ブーケの字は小さくても揃っていて、三戸の字は、あとから読む人のことをあまり考えていない。
「ここ、何と書いてあるんでしょう」
隣から指された箇所を見て、三戸は黙った。
「……何だろう」
「ご自分の字ですよ」
「急いでたんだと思う」
ブーケが笑い、前後のページをめくった。やがて練習の日付から見当がつき、別の紙に内容を書き直してくれる。
こうして残した記録も、ずいぶん増えた。
勝ったレースのあとには、次に試したいことを書いた。負けた日は、帰りの電車で話せなかったことを、翌日の練習で聞いた。
一度、直線で前へ出たあと、ゴールの手前で差し返されたことがある。
あの日のブーケは、映像を止めたまま、長く黙っていた。三戸も隣で待った。やがて彼女が口にしたのは、慰めてほしいという言葉ではなかった。
『もう1回、初めから見てもいいですか』
悔しさが薄れるまで待つより、今、何が足りなかったか知りたかったのだと思う。
次に勝ったときは、戻ってくる彼女の顔を見ただけで、三戸まで笑ってしまった。
休みの日には出かけた。
約束していた花畑にも行った。ブーケが花の名前を教えてくれて、三戸は帰るころには半分ほど忘れていた。撮った写真を見せると、彼女はもう一度教えてくれた。
今も、トレーナー室の棚には、その日の写真が1枚ある。
その隣へ、新しい練習ノートを置く。
これから目指すレースの欄には、オークスの名前が入っていた。東京の芝2400メートル。2人で初めて挑むGⅠだった。
「ここまで、来ましたね」
ブーケが予定表を見て言った。
「うん」
三戸も同じ欄を見た。
初めて彼女の走りを見たときには、まだ、こんなふうに隣で予定を立てることも決まっていなかった。
「ここでも、勝とう」
「はい」
彼女はすぐに答え、それから鞄の中を探した。
「あの、その前に、見ていただきたいものがあるんです」
出てきたのは、練習ノートよりも大きな紙だった。
*
勝負服のデザインを人に見せるのは、これが初めてだった。
ブーケは紙の角を揃え、三戸の前へ置いた。描き直したものは寮に残してある。まだ迷っているところもあったが、今日は、今いちばん着たいと思うものを持ってきた。
白と黒を重ねたドレス。腰には大きなリボンを添え、裾の内側には、黄色い花を描いてある。
三戸は紙を引き寄せた。
「ブーケが考えたの?」
「はい。まだ、形にできるか相談しているところなのですが」
彼は上から順に見て、最後に裾のあたりで目を止めた。
「ここにも花があるんだ」
「動いたときに、見えるようにしたくて。立っているときだけではなく、走っているところも、きれいに見えたらと思ったんです」
三戸が紙を少し傾ける。
そのまま黙って見ているので、ブーケは自分も描いた線へ目を戻した。やはり、少し飾りが多いだろうか。もう少し落ち着いた形の方が――。
「早く、着たところを見たいな」
顔を上げた。
「……そう、思ってくださいますか」
「うん。紙だと、どう動くのかまでは分からないから。走っているところも見たい」
ブーケは、紙の端を押さえていた手を緩めた。
「できあがったら、最初にお見せしますね」
その約束を果たせたのは、しばらくあとのことだった。
布になって初めて気づいたところを直し、走るときに腕や脚が動かしにくくないかも確かめた。裾の広がり方を見てもらうために、同じ距離を何度か走った日もある。
完成した勝負服に着替えると、鏡の中に、いつもと違う自分がいた。
ブーケは横を向き、腰のリボンを確かめた。手袋の指先まで整えてから、三戸の待つ部屋へ向かう。
扉を開ける直前になって、足が止まった。
あの青いシャツを着た彼が、試着室のカーテンを開けてくれた日のことを思い出した。
見てもらいたくて着たのに、見られると思うと、急に落ち着かない。
「お待たせしました」
三戸が顔を上げた。
返事がなかった。
ブーケは部屋へ入り、扉を閉めてから、もう一度彼を見た。
「あの……いかがでしょうか」
三戸が立ち上がる。
「きれいだ」
短い言葉だった。けれど、そのあともこちらを見ているので、ブーケは、何か別の話をしたくなった。
「裾は、動くと、このように」
少し体の向きを変える。白い布の下から黄色が広がり、重なった花が見えた。
三戸の目が、そちらへ移る。
「本当だ。花束みたいだね」
「はい。そんなふうに見えたら、嬉しいと思って」
描いたときから、ずっと考えていた。
この服を着て、誰よりも先にゴールを駆け抜けたい。その姿を、彼に見つけてほしい。
三戸は少し離れたところから、もう一度全体を見た。
「こんな花束、両手で抱えられるかな」
ブーケは裾から手を離した。
彼が、何でもないことのように自分の両手を見ている。
自分を抱える話をしていると気づいたのは、そのあとだった。
「……あまり、勢いよく戻らないようにします」
「そこは、気をつけてもらえると」
真面目に返されたので、つい笑ってしまった。
三戸も笑った。ブーケは胸元の飾りへ目を落とし、少しだけ声を小さくした。
「では、勝てたら。受け取ってくださいね」
「うん。待ってる」
彼の前で、もう一度裾を広げた。
今度は、先ほどよりも長く、顔を上げていられた。
*
オークス当日、観客席の声は、控室へ向かう通路にまで届いていた。
ブーケは扉の前で立ち止まり、外を見た。
この人たちの前で走る。
その中に、自分の名前を呼んでくれる人もいる。
手袋をした指を、ゆっくり曲げて伸ばした。
「きついところはない?」
三戸に聞かれ、首を横に振る。
「大丈夫です」
「足元は?」
「そちらも」
彼は頷いた。いつものようにノートを開こうとして、やめる。
今日までに話したことは、もう、ブーケの方でも思い出せた。
相手が動いたからといって、必ずついていく必要はない。待つと決めても、前が開くのをただ待つわけではない。
どこを走りたいか。そのために、今、何ができるか。
勝つために考えることは、こんなにたくさんあった。
「トレーナー」
「うん」
「今日は、ちゃんと見つけてくださいね」
言ってから、少しおかしなお願いだと思った。彼が、自分を見ていないはずはない。
けれど、三戸は笑わなかった。
「見てるよ」
ブーケは頷いた。
「行ってきます」
歩き出すと、裾の内側が脚に触れた。見下ろさなくても、そこに花があることは分かった。
ゲートの中へ入ったころには、三戸の姿はもう見えなかった。
前を見る。
扉が開いた。
*
最後のコーナーで、前の相手が動いた。
ブーケも速さを上げた。隣にいたウマ娘の肩が近づき、走る場所が狭くなる。
外へ回れば、進める。
けれど、今から大きく膨らめば、前の相手まで届かないかもしれない。
ブーケは半歩だけ位置を下げ、前の2人の間を見た。直線へ向かうにつれ、並んでいた背中が少しずつずれていく。
そこへ、踏み込んだ。
風が顔に当たる。
前が、開けた。
『さあ、最後の直線! カレンブーケドール、間を割って伸びてきた!』
先頭はまだ遠かった。前を行く背中は、あの日、ゴールの手前で差し返してきた相手のものだった。
直線に入っても、坂は続いていた。追いつこうと踏み込むたび、脚に重さが返ってくる。ブーケは前を見たまま、腕を振り続けた。
坂を上り切る。残り300メートル。
前の背中が、少しずつ近づく。観客席の声が大きくなったが、何を言っているかまでは分からない。
もう少し。
肩が並んだ。
相手がもう一度伸びる。あの日と同じだった。
『並んだ! 2人の競り合い! カレンブーケドール、ここから伸びるか!』
けれど、今日はまだ脚が動いた。並ぶまでに、全部を使ってしまわずに来られた。
ブーケは、もう一歩踏み込んだ。裾が大きく翻るのが、視界の端に見えた。
相手の肩が、少し後ろへ下がる。
『カレンブーケドールが出た! カレンブーケドール先頭!』
ゴールまで、その肩を前へ出させなかった。
線を越えても、しばらく脚を止められなかった。
『カレンブーケドール、ゴールイン! オークスを制しました! GⅠ初制覇です!』
息を整えながら振り返り、掲示板を見る。
自分の番号があった。
いちばん上に。
ブーケは口元を押さえかけ、その手を下ろした。もう一度、数字を確かめる。
勝った。
この服で、勝てた。
顔を上げると、観客席のあちこちで手が振られていた。自分も手を上げた。声をかけてくれる方へ、何度か頭を下げる。
その間も、早く戻りたかった。
待っていてくれる人に、見せたかった。
*
三戸を見つけたとき、ブーケは少しだけ歩く速さを上げた。
彼もこちらに気づき、持っていた荷物を置く。
「トレーナー」
もっと大きな声で呼ぶつもりだったのに、うまく出なかった。
三戸は頷き、両腕を開いた。
ブーケは、その前で足を緩めた。勢いよく戻らないと約束したことを、まだ覚えていた。
最後の一歩だけ、小さくする。
肩に彼の手が触れ、背中へ回った。
「おめでとう」
耳元で言われると、掲示板を見たときよりも、勝ったことがはっきり分かった。
「ありがとうございます」
「うん」
「見て、いただけましたか」
「見てた。最後まで」
ブーケは彼の上着へ手を添えた。
話したいことが、いくつもあった。
直線で前へ出られたこと。最後に並んだとき、もう一度脚が動いたこと。ゴールを過ぎてから、観客席があんなに明るく見えたこと。
けれど、今は、頷くだけで精いっぱいだった。
三戸が少し体を離し、ブーケを見る。
彼の手は、まだ背中にあった。
「こんなにきれいな花束をもらったの、生まれて初めてだ」
ブーケは顔を上げたまま、止まった。
冗談にしては、真剣な表情だった。
「……トレーナー」
続きが出ない。
三戸がこちらを見ているので、ますます何も言えなくなった。さっきまで話したかったレースのことも、全部、遠くへ行ってしまった。
ブーケは彼の上着へ額を寄せた。
「今は、顔を見ないでください」
「ごめん」
「謝っていただくことでも、ないんですけれど」
声が上着にこもった。
彼の手が背中に触れたまま、動かなくなる。その気遣いにも、また照れてしまう。
勝って戻ってきたところまでは、よかった。
受け取ってもらうところまで、自分でお願いした。
でも、あんなふうに言われることまでは、考えていなかった。
「……ちゃんと、抱えられましたか」
ようやく聞くと、三戸が小さく笑った。
「うん。大丈夫だった」
ブーケは上着から少しだけ顔を離した。彼の目を見るのはまだ難しくて、襟元を見ながら答える。
「それなら、よかったです」
自分でも、ずいぶん小さな声だと思った。
*
表彰や取材を終えるころには、ようやく落ち着いて話せるようになっていた。
ブーケは控室の椅子へ座り、膝に掛かる裾を整えた。三戸が差し出してくれた飲み物を受け取る。
机の上には、今日の出走表があった。
自分の名前の隣に、彼の書いた小さな丸がついている。
「まだ、このままでいい?」
三戸が勝負服を見て尋ねた。
「はい。もう少しだけ」
着替えは用意してある。けれど、脱いでしまうと、今日が終わりに近づくような気がした。
彼も隣へ腰を下ろした。
「裾の花、よく見えたよ」
「走っているときですか?」
「うん。最後、前へ出たところで」
ブーケは膝の上を見る。
描いた紙を初めて見せた日には、まだ、ここに座っている自分をうまく想像できなかった。
でも、彼に見てほしいとは思っていた。
「この服にして、よかったです」
三戸が頷く。
しばらく、2人で今日のレースの話をした。三戸が外から見ていたことと、ブーケが走りながら感じたこと。少し違っていたところも、話してみると分かった。
聞いてほしかったことを伝え終え、ブーケはカップを机へ置いた。
「トレーナー」
「うん」
「GⅠの勝利を、お届けできました」
三戸がこちらを見て、頷いた。
「うん。ありがとう」
初めて勝った日も、その次も、彼は同じように喜んでくれた。その顔を、これからも見たかった。
「私、これからも、あなたに届けたいです」
三戸が、黙って続きを待ってくれる。
「今日みたいな勝利を、もっと。両手にあふれるくらい、たくさん束ねて」
途中で少し照れたけれど、目は逸らさなかった。
「黄金に輝く花束を、これからも、あなたに」
彼が微笑んだ。
ブーケは膝の上で手を揃える。担当をお願いした日に、きちんと顔を上げたことを思い出した。
あのときより、頼みたいことは増えている。
見ていてほしい。話を聞いてほしい。一緒に考えて、また、一緒に喜んでほしい。
「ですから、これからも。私の隣で、いてくださいね」
三戸はすぐに頷いた。
「もちろん。そのつもりだよ」
どこかで聞いた返事だった。
ブーケが笑うと、彼も少し笑った。
「ただ、今日だけでも、ずいぶん嬉しかったから」
「はい」
「両手にあふれるくらいになったら、どうしようかな」
ブーケは彼の手を見た。
さっき、自分を受け止めてくれた手だった。
「そのときは、私も持ちます」
「一緒に?」
「はい。2人で勝った分ですから」
三戸が、机の上の出走表へ目を向けた。
「じゃあ、まだまだ増やせるね」
「ええ」
ブーケは頷いた。
今度の約束には、花言葉はいらなかった。