カレンブーケドールは筋書きどおりに咲かない 作:Lagavulin
待ち合わせの時計は、約束の時刻まであと12分あることを示していた。ブーケは駅前の植え込みを見ているふりをしながら、ガラスに映った自分を確かめた。髪は、寮を出る前に整えたまま。鞄も、ちゃんと閉まっている。
土曜日に着る服は、昨夜のうちに決めた。それなのに今朝、もう一度出し直してしまった。今着ている淡い色のワンピースは、結局、最初に選んだものだ。
「ブーケ。お待たせ」
振り向くと、三戸が少し速足で歩いてきた。グレーのシャツに、肩から下げた小さな鞄。学園で見るときより、髪が柔らかく見えた。
「いえ。私も、早く着いてしまって」
「よかった。かなり待たせたかと思った」
少し息を整えた彼が、ブーケを見て微笑む。
「その服、似合うね」
「ありがとうございます」
昨夜と今朝、迷ったことが報われた。けれど、嬉しい顔をしすぎたら、まだ伝えていないお返事まで分かってしまうだろうか。
こんなふうに、何気ない言葉のやりとりで自分の気持ちが伝わるかもしれないと思ったことはない。三戸はただ褒めてくれただけかもしれないのに、こちらは、お礼を言ったあとの顔まで気になってしまう。
「トレーナーも……」
似合っています、と返せばいい。それだけなのに、視線が襟元で止まる。
「学園の外だと、少し違って見えますね」
「ネクタイがないからかな。変じゃない?」
「はい。素敵だと思います」
言ってから、鞄の持ち手を握り直した。三戸はほっとしたように自分の袖を見た。
「よかった。休みの日は、いつも似たようなのを着ちゃうんだ」
ブーケは、グレーの袖を覚えておこうと思った。
*
映画にしようと決めたのは、前日の練習のあとだった。
走るときの彼女のことは少しずつ分かってきたが、それ以外のことを三戸はまだあまり知らない。何をして過ごすのが好きかと聞いたら、花の世話と、映画を観ること、と返ってきた。
最近の作品が並ぶ上映表を見ながら、ブーケは1つずつ短い紹介をしてくれた。その下のリバイバル上映の欄で、三戸の方が声を上げた。
昔、家族と何度も観たコメディだった。
「それにしましょう」
ブーケがすぐに言ったので、彼は少しためらった。彼女の方に、観たい映画があったのかもしれない。
上映が始まってからも、最初はそれが気になった。
けれど、主人公が大切な招待状を洗濯してしまう場面で、隣から小さく笑う声がした。三戸もそこで笑った。次に何が起こるか知っていたのに、乾かした招待状を真剣な顔でアイロンがけする姿に、また笑ってしまう。
暗い客席の中、ブーケがこちらを見た。彼も顔を向けたが、もうスクリーンに戻っていた。
一緒に笑えたのが嬉しくて、三戸は座席に深く座り直した。
映画館を出たあと、ブーケはしばらく思い出し笑いをしていた。
「招待状、最後まで読めませんでしたね」
「あそこまで頑張ったのにね」
「お隣の人に聞けば、すぐ分かったでしょうに」
「見栄を張っちゃったから、もう聞けないんだよ」
「途中で、聞いてしまえばよかったのに」
「そう。観るたびにそう思う」
交差点で信号が変わるのを待ちながら、三戸は少し先の路地を見た。
「この近くに、喫茶店があるんだ。寄っていかない?」
「はい。まだ、映画のお話もしたいです」
「よかった。プリンがおいしいところで」
そう言うと、ブーケが楽しそうに彼を見た。
「お好きなんですか?」
「うん。かなり」
「では、私も同じものを」
勧める前に決まった。三戸は信号が青になるのを待って、彼女と店へ向かった。
*
喫茶店で向かい合って座ると、映画館よりも三戸の顔がよく見えた。
こういうお誘いに慣れた人なら、もう少し落ち着いて話せるのだろうか。ブーケには、どこまで好意を見せていいのかも分からない。彼がこちらを見るたび、何か聞かれるのではないかと身構えてしまう。
今も、メニューを見せるために少し近づいただけなのに、声までいつもより近く感じた。そんなことで意識するから、次に顔を見ると、また落ち着かなくなる。
「申し訳ありません。プリンは、先ほど売り切れてしまって」
店員の言葉に、三戸の指がメニューの上で止まった。
「あ、そうなんですね」
返事は落ち着いていた。けれど、さっきまでブーケに説明していた、少し苦めのカラメルの話は、そこで途切れてしまった。
「少々、お待ちください」
三戸がそう頼み、店員が離れてから、ブーケはメニューを手前へ寄せた。
「残念でしたね」
「うん。君にも食べてほしかったな」
彼はもう一度、プリンの写真を見ている。
「トレーナーも、食べたかったですよね」
「……かなり」
映画館の外でも聞いた答えだった。今度は声が少し低くて、ブーケは堪えきれず笑った。
自分はさっきから、言葉の裏まで気にしていたのに。彼は本当に、プリンを楽しみにしていた。
「すみません」
「いや。こんなに楽しみにしてたとは、自分でも」
三戸も笑い、メニューの次のページを開いた。
「チーズケーキも、おいしかったと思う。だいぶ前だけど」
「いつもプリンなんですね」
「うん」
結局、彼はチーズケーキ、ブーケはリンゴのタルトを頼んだ。飲み物が届くまでの間、映画で好きだった場面を話す。
三戸は、招待状を失った主人公よりも、その隣人が好きなのだと言った。頼まれてもいないのに手伝いに来て、たいてい事態を悪くする人だった。
「最後には、ちゃんと助けてくれるでしょう」
「ご自分で壊した扉を、直しているんですよね」
「うん。あそこも好き」
ブーケは運ばれてきたタルトにフォークを入れた。薄く重なったリンゴが崩れないように切り分け、一口食べる。温められた生地から、バターの香りがした。
「おいしいです」
「よかった」
三戸の皿のチーズケーキも、少しずつ小さくなっていく。プリンのことは残念でも、こちらも気に入ったようだった。
「トレーナーは、昔からああいう映画がお好きだったんですか」
「子どものころは、追いかけっこのところばかり観てた。今日観たら、お父さん役が出勤する場面が身につまされたけど」
「寝坊してしまうところですか?」
「急いでいるときに限って、靴下が片方ないところ」
「トレーナーも?」
「洗濯したときは、2つあるんだよ」
ブーケはカップを置いた。今笑ったら、飲めなくなりそうだった。
練習では、三戸は靴ひもの緩みも、前日に書いた時計もよく覚えている。そんな人にも、朝、靴下を探す時間がある。
「私も、髪留めを探すことはあります」
「それ、いつもどこにある?」
「大抵は、使おうと思って出しておいたところに」
「ああ。それは俺もやる」
今日は、昨日の練習の話をまだしていなかった。
朝の靴下と、売り切れたプリンと、映画の隣人。話さなくても困らないことを聞いているうちに、ブーケはもっと聞きたくなった。
目の前の人が次に何を言うのか、楽しみに待っている自分がいた。
*
店を出ると、行きより少し日が傾いていた。
「このあとは、どうしようか。何か見たいものはある?」
駅へ向かう道には、小さな店が何軒も並んでいる。けれど、ここから何か選ばなくても、ブーケには伝えたいことができていた。
「あの、トレーナー」
「うん」
「今度は、もう少し早い時間に来ませんか」
三戸が喫茶店の看板を振り返った。
「プリン?」
「はい。食べてみたいですし」
そこまでは、すぐ言えた。
「また、ご一緒したいので」
彼はブーケへ向き直った。
「ぜひ。今度こそ食べよう」
次の約束ができた。日付はまだ決まっていないけれど、今日の続きを、また一緒に過ごせる。
ブーケは並んで歩き始めた。車道側へ回った三戸が、前から来た自転車に気づき、少し彼女の方へ寄る。肩が近くなり、さっきまで話せていたのに、急に言葉が出なくなった。
今日の自分は、少しおかしい。花をもらう前なら、こんなに意識しなかったかもしれない。初めてのことばかりで落ち着かないせいか、彼の横顔を見るだけでも、前より素敵に見えてしまう。
でも、もう少し離れて歩こうとは思わなかった。
花をもらった日に、すぐ返事ができなかったことを思い出す。
あの日は、お付き合いという言葉が先に浮かんで、どう振る舞えばいいか分からなくなった。今も、分かっているわけではない。
でも、もう一度映画を観たい。プリンを食べられたときの顔も見たい。学園で会う以外にも、この人と過ごす時間が欲しい。
「今日は、誘ってくださってありがとうございました」
「こちらこそ。映画、俺の好みに付き合わせちゃったけど」
「私も好きでした。あのお隣の方」
「扉、壊すよ?」
「直してくださるのでしょう?」
三戸が笑った。ブーケも、つられて笑う。
答えは、もう決まっている気がした。
あとは、それをちゃんと渡せるようにしたい。
駅前で別れたあと、ブーケは寮へ帰る途中の花屋へ寄った。店頭のガーベラには、白も、ピンクも、黄色もあった。
黄色い花を見つけて、その前で少し立ち止まる。
買うのは、会う日の朝にしよう。
そう決めるだけで、明後日の練習が、いつもと違う予定になった。