カレンブーケドールは筋書きどおりに咲かない 作:Lagavulin
月曜日の朝、ブーケは花屋の時計を3度見た。店が開く時刻は調べてあった。ここから学園までも、十分に間に合う。花を選ぶのに時間をかけすぎなければ、大丈夫だ。
「黄色いガーベラを、1本お願いします」
口に出してみると、それだけのことだった。
店員が花を選んで見せてくれた。花びらの先まで明るい黄色で、まっすぐな茎についている。
「こちらで、よろしいですか?」
「はい。あの、包んでいただけますか」
渡す相手を聞かれるのではないかと思ったが、店員はリボンの色を尋ねただけだった。ブーケは何色か見せてもらい、薄い緑を選ぶ。
受け取って、鞄と反対の手に持つ。
帰り道で傷めないようにすることよりも、教室へ持っていったとき、誰かに聞かれることの方が気になった。
別の日にしようとは思わなかった。
*
その日の練習では、前へ出る場所をあらかじめ2つ決めた。
合同練習に参加するウマ娘たちにも協力を頼み、ブーケが後ろから追いつく形を作る。最初はコーナーの出口。次は、そこへ入る少し前。
2本目を終えたブーケは、息を整えながら、三戸の隣へ戻ってきた。
「今の方が、最後は苦しかったです」
「うん。時計にも出てる。ただ、前へ出るところはよかった」
三戸はストップウォッチの記録を見せた。動き出したあとの区間は、1本目より速い。終わりの区間では、少し遅れていた。
「早く出た分、ずっと速く走ろうとした?」
「はい。抜いたあとに、追いつかれたくなくて」
「そこでもう一度力が入ってた。前に出たら少し落ち着く練習も、必要だね」
ブーケは頷き、ノートに書こうとして、ペンを探した。三戸が持っていたものを渡すと、彼女は礼を言って受け取った。
ブーケの右手の甲に、花の形をした小さなシールがついていた。
「それ、ノートの?」
「え?」
彼がシールを指すと、ブーケも手元を見た。
「あ……はい。付箋の代わりに、使っていて」
シールを剥がし、ノートの端へ戻す。そこには今日の日付が書かれていた。
「何かの目印?」
「忘れないように、と思って」
何を、と聞く前に、彼女がノートを閉じた。
「今日は、これで終わりでしょうか」
「あとは、ゆっくり動いて整えよう。試したのは2本だけど、負荷はかかってるから」
「はい」
追加でもう1本と言われるかと思ったが、ブーケは素直に頷いた。最初に話したことを、覚えていてくれたのだろう。
三戸は走り始めた彼女を見送り、次回の予定へ書き込んだ。早めに動くことと、そのあとをどう走るか。分けて確かめたい。
彼女のノートが、こちらの机にあるのが当たり前になりつつあった。
*
トレーナー室へ戻る前に、ブーケは教室へ寄った。
ガーベラは、朝、用意しておいた瓶に挿してある。昼休みにも水を確かめた。花びらはきれいなままで、茎も曲がっていない。
包みを整え、薄緑のリボンを結び直す。うまく結べた方を表へ向けた。
ノートの花形のシールは、必要なかったかもしれない。
今日は一度も、忘れていなかった。
廊下で人とすれ違うたびに、花を自分の方へ寄せてしまう。隠すものではないと持ち直した直後、また同じことをした。
トレーナー室の前に着き、息を吸った。
「失礼します」
「お疲れさま。ちょうど、今日の映像を取り込んでたところ」
三戸が画面から目を上げた。ブーケの手元を見て、椅子を少し回す。
「ガーベラ?」
「はい」
まず、花を渡す。
何と言うかは、さっき教室でも考えた。いくつかあった言葉の中で、いちばん言えそうなものを選んだ。
「先日のお返しです。受け取って、いただけますか」
三戸が立ち上がり、両手を伸ばす。
「ありがとう。きれいだね」
花が、彼の手へ移った。
同じ黄色を選んだことも、1本にしたことも、きっと分かるはずだ。自分がそうだったように。
けれど、花だけ渡して黙ってしまうのは、少し足りない気がした。
「この間は、すぐに言えなかったので」
三戸が顔を上げた。
「これから、よろしくお願いします」
最後は少し、小さな声になった。
彼は、手にしたガーベラを見てから、もう一度ブーケを見た。
「こちらこそ。俺も、君からもらえて嬉しい」
それを聞いたら、次の言葉は出てこなかった。
こちらは、用意してきた短い言葉を伝えるだけで精いっぱいだった。花を渡し終えても、胸の音がなかなか静かにならない。それなのに三戸は、まっすぐこちらを見て、嬉しいと言ってくれる。
こんなときでも、落ち着いているように見えた。
自分ばかりが緊張しているのが少し恥ずかしくて、けれど、慌てずに受け止めてもらえたことにはほっとした。やっぱり、大人だと思った。
ブーケは頷いた。もう一度頷いてしまいそうになり、代わりに、彼の机を見た。白い花の入った瓶の隣に、少しだけ場所がある。
「お部屋に、飾っていただけたら」
「うん。持って帰るよ。帰り道、ちょっと緊張するな」
お返事を受け取るより、お花を持ち帰る方が緊張するのだろうか。ブーケは彼の顔を見てから、ようやく花へ目を移した。
「傾けすぎなければ、大丈夫です。お水も、つけてもらっていますから」
「ありがとう。家に、花瓶あったかな」
彼が思い出すように天井を見た。
「なくても、口の細い瓶などで。よろしければ、明日、お持ちします」
「そこまでしてもらったら、お返しがまた増えちゃうね」
そう言われて、ブーケも少し笑えた。自分が落ち着けるように、いつも通り話してくれているのかもしれない。
そう思うと、花瓶の話をしている彼まで、頼もしく見えてきた。
「では、まず、探してみてください」
「そうする」
部屋を出るとき、三戸が呼び止めた。
「ブーケ」
振り返る。彼は包みのリボンを、指先で直していた。
「土曜日、楽しかったよ。また出かけよう」
今度は、すぐに返事ができた。
「はい。ぜひ」
*
家に帰って、三戸は台所の棚を開けた。
花瓶らしいものはない。使っていないコップはいくつかあったが、口が広くて、ガーベラが横を向いてしまう。
結局、乾かしてあった小さな空き瓶をもう一度洗った。ラベルの糊を落とすのに少し手間がかかったが、一輪を挿すと、これでよかったと思えた。
机へ置き、写真を撮って送る。
『これで大丈夫かな』
ほどなく、返事が届いた。
『はい。きれいです。お水は、もう少し少なくても大丈夫ですよ』
三戸は瓶を台所へ持っていき、少し水を減らした。
花のことを聞くときは、ブーケが先生になる。さっきまで走り方の相談を受けていたのに、今は彼女の返事を待っている。
写真をもう一度送ると、今度は丸を作った手の絵が届いた。
笑ってから、三戸は練習ノートを開いた。今日、彼女が出ると決めた瞬間には、もう迷いがなかった。あの感覚を、次も確かめたい。
ふと顔を上げると、机に花がある。
家へ持ち帰ってまで、担当ができたことを実感するとは思わなかった。
*
ブーケはスマートフォンを伏せて、また表にした。
写真のガーベラは、三戸の家の机に飾られていた。後ろに時計があり、その脇には、丸めたイヤホンが置かれている。
知らなかった部屋に、自分が選んだ花がある。
自分の机にも、同じ黄色い花がある。最初にもらった日の包みは、皺を伸ばして引き出しにしまっていた。
お返事は、届いた。
ブーケは今日の日付を手帳で探した。練習の予定の下に、小さく花を描く。それだけでは何の日だったか、あとで分からなくなるだろうか。
しばらく迷って、隣へ書き足した。
三戸さんと。
何を、とまでは、まだ書けなかった。
明日会う人は、担当のトレーナーで、それから、恋人。
そこまで考えて、ブーケはペンを置いた。
友人と出かけるときでさえ、行きたい場所があっても、先に皆の希望を聞くことが多い。お誘いを受ける方なら慣れているけれど、自分から何かを望むとなると、一度考えてしまう。
そんな自分が、今日は朝から花を買いに行った。あの人の恋人になりたくて、リボンまで選んで、放課後に届けた。
思い返すと、ずいぶん大胆なことをした気がする。渡すまでは、言葉を間違えずに伝えることばかり考えていたのに。
もし明日、友人に週末のことを聞かれたら、三戸と映画へ行ったとは話せる。でも、その人とお付き合いを始めた、とまでは、とても言えそうにない。
普段は同じ教室で過ごしている皆が、誰も知らない。今夜、自分の机と彼の部屋に、同じ花が飾られていることも。
写真を見直したくなって、スマートフォンへ手を伸ばしかけた。さっき見たばかりなのに。また見たところで、花が増えるわけでもないのに。
ブーケは手を膝へ戻し、少し俯いた。
こんなに浮かれているところを、三戸には見せられない。あちらは落ち着いて花瓶を探していたのに、こちらは、1枚の写真を何度も見たがっている。
けれど、今日、花を渡さなければよかったとは、少しも思わなかった。
手帳を閉じて、机に置く。明日はいつも通りに挨拶をして、練習の話をしよう。彼の顔を見た途端に、今日のお返事を思い出してしまわなければいい。
その顔を想像してしまい、ブーケは閉じたばかりの手帳を、もう一度だけ開いた。