カレンブーケドールは筋書きどおりに咲かない   作:Lagavulin

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最初に会いたい人

 デビュー戦の前夜、ブーケは荷物を確認し終えてから、もう一度鞄を開いた。着替えも、タオルも入っている。書き込んだノートは、取り出しやすいところへ置いた。三戸から届いた連絡には、明日の集合時刻と、忘れ物があっても慌てなくていいという一文があった。

 

 その一文を読むと、かえって何か忘れていないか気になってしまう。

 

 机の上に、花瓶がある。

 

 最初にもらったガーベラは、もうそこにはなかった。きれいなうちに残しておきたくて、花を乾かし、小さな箱へ入れてある。今は花壇で分けてもらった別の花が、同じ場所に咲いていた。

 

 明日、勝ちたい。

 

 ノートの端には、初めて相談した日のメモが残っている。前が開くのを待つ。外へ出る。最後まで力を残す。

 

 何度も試し、うまくいかない日には、その理由を2人で探した。早く出れば必ずうまくいくわけでもなかったし、待つことが間違いとも限らなかった。

 

 三戸は、練習の終わりにいつも聞いた。

 

『今のは、どう感じた?』

 

 明日もきっと、聞かれる。

 

 そのとき、嬉しかったと答えられたらいい。

 

 ブーケは鞄を閉じ、届いていた連絡に返事をした。

 

『準備できました。明日はよろしくお願いします』

 

 少しして、画面が明るくなる。

 

『こちらこそ。俺も準備できた。おやすみ』

 

 同じように、今、鞄を閉じたのかもしれない。

 

 そう思うと、少し落ち着いて眠れそうだった。

 

  *

 

 当日の三戸は、ペンを2本持っていた。

 

 いつも使うものを胸ポケットへ入れたあと、もう1本を上着の内側へ差した。替えがあることを確かめたところで、ブーケの視線に気づく。

 

「心配で」

「私も、靴ひもを2度確認しました」

「それは大事。俺のは、今書くものが特にないのに」

 

 彼女が笑ったので、三戸は胸ポケットから手を離した。

 

 パドックへ向かう前に、最後の確認をする。

 

「練習で試した形は、いくつかある。でも、今日、同じ隙間ができるとは限らない」

「はい」

「前に出たら、そのまま力みすぎないこと。あと、動ける場所が見えたときは、自分で選んでいい」

 

 ブーケは頷いた。彼の手元のノートを見て、それから顔を上げる。

 

「もし、迷ったら」

「迷うと思う。そのときは、今の自分が動けるかを見て。周りだけじゃなくて」

 

 彼女は少し考え、足元を見た。軽く踵を上げて下ろす。

 

「今日は、動けそうです」

「うん。俺も、そう見える」

 

 そこまで話したら、もう言い足すことはなかった。

 

 いくら確認しても、彼女の代わりに走ることはできない。三戸はノートを閉じた。

 

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 

 ブーケが歩き出す。

 

 途中で一度だけ振り返り、彼がまだ見ていると分かると、少し手を上げた。

 

 三戸も、同じように返した。

 

  *

 

 ゲートが開いてから、最初のコーナーまでは、思っていたより速かった。

 

 ブーケは前のウマ娘の動きを見ながら、走る場所を決めた。すぐ前に2人。外にも、少し離れて1人いる。

 

 後ろから近づく足音がした。そこで速くなりかけた呼吸を、自分で戻す。

 

 まだ、急がなくていい。

 

 向こう正面で、先頭との距離が少し縮まった。前の相手のすぐ後ろへ入れば、無駄なく走れる。けれど、あとでどこへ出るかも考えておきたかった。

 

 コーナーに入る前、外にいた1人が前へ上がった。

 

 そのあとに、空いた場所がある。

 

 ここから動けば、少し外を回る。もっと待てば、内側が開くかもしれない。

 

 ブーケは足の運びを確かめた。

 

 苦しくはない。肩にも、まだ余計な力は入っていない。

 

 外へ出ると決めた。

 

 前の相手の背中から離れ、少しずつ並びかける。練習では、このあとに力みすぎたことがある。

 

 ここで全部、出してしまわない。

 

 コーナーの出口で、前にはまだ2人いた。近い。選抜レースの日より、ずっと近い。

 

 直線に入って、ブーケは踏み込んだ。

 

 1人の肩が後ろへ下がる。もう1人は、まだ前にいる。追いつこうとすると、相手も伸びる。

 

 息が苦しい。脚の動きが、さっきより重い。

 

 前へ出たい。

 

 並んだところで、彼女はもう、横を見なかった。

 

 ゴールを過ぎて、すぐには順位が分からなかった。走る速さを落としながら、顔を上げる。息を吸うと、胸が大きく動いた。

 

 掲示板に、自分の番号がいちばん上に出た。

 

 ブーケはもう一度見た。

 

 変わらない。

 

 勝った。

 

 最初に誰に言いたいか、考えるまでもなかった。

 

  *

 

 三戸は、彼女の姿が見える前に、タオルを広げていた。

 

 ゴールの瞬間は見た。掲示板も確かめた。けれど、息を弾ませてこちらへ戻ってくるブーケを見ると、そこでもう一度、初めて分かったような気持ちになった。

 

「トレーナー!」

 

 いつもより大きな声だった。

 

「勝ったね!」

 

 彼女が頷きながら近づく。

 

 三戸は、タオルを持ったまま両腕を開いていた。ブーケが一歩、大きく踏み出す。

 

 胸元に彼女の肩が触れた。三戸は足を少し引いて受け止め、背中へ手を回した。

 

「勝ちました」

「うん。見てた」

「外へ、出られたんです」

「出られた。ちゃんと、そのあとも走れてた」

 

 彼女の背中が、まだ呼吸に合わせて動いている。

 

 三戸も息を吐いた。自分まで走ったように胸が苦しくて、何を話すつもりだったか分からなくなった。

 

 ブーケが、少しだけ体を離した。

 

「あの、汗が」

「今さらだよ」

 

 そう言ってから、持ったままのタオルをようやく彼女へ渡した。

 

「おめでとう、ブーケ」

 

 彼女は両手でタオルを受け取った。顔に当てる前に、もう一度こちらを見る。

 

「ありがとうございます。トレーナーも」

 

 自分も祝われるのだと分かり、三戸はすぐに返事ができなかった。

 

「……ありがとう」

 

 ブーケが笑った。目元が少し濡れていて、けれど、今まで見た中でいちばん明るい顔だった。

 

 もう一度抱きしめたいと思ったが、次の予定を知らせる声が聞こえた。

 

 三戸は彼女の荷物を持ち直し、並んで歩き出した。

 

  *

 

 帰りの電車では、ブーケは窓側へ座った。

 

 鞄の上に手を置き、外を眺めている。三戸が、疲れたなら眠っていいと言うと、彼女は首を横に振った。

 

「まだ、眠りたくなくて」

「そうか」

 

 窓には、隣り合って座る2人が薄く映っていた。

 

 ブーケは、そこに映る彼の肩を見た。さっきは、あの近くへ自分から顔を寄せた。周りに人がいることも、汗をかいていることも、あとから思い出した。

 

 誰かに見られていただろうか。勝ったのが嬉しかっただけ、と言えば、それも本当だけれど。

 

 窓から目を離し、鞄の上の手を見た。もしもう一度、彼が両腕を開いて待っていたら、やっぱり同じように飛び込んでしまうと思う。

 

「今のうちに、少しだけ聞いてもいい?」

 

 三戸が尋ねる。ブーケは体を向けた。

 

「はい」

「外へ出るって決めたとき、どうだった?」

 

 いつもの質問だった。

 

 ブーケは、脚の軽さと、前にあった隙間のことを話した。待とうと思えば待てたことも、でも、今日は自分から行きたかったことも。

 

 三戸は途中で遮らず、聞いていた。

 

「そうか。そこ、自分で決められたんだね」

「はい」

 

 その返事ができたことも、嬉しかった。

 

 少し黙ってから、ブーケは鞄の上の手を見た。

 

「それから、戻ってきたときのことなんですけれど」

「うん」

「嬉しかったです」

 

 何を、と言う勇気はなかったが、三戸はすぐに答えた。

 

「俺も。ちょっと、はしゃぎすぎたかな」

「いえ」

 

 ブーケは、そこだけはすぐに答えた。

 

 彼も、人前だったことを気にしているのだろうか。次からは遠慮しようと思われたら、困る。

 

 そう思ってしまってから、自分が欲張りになっていることに気づいた。今度も勝ちたいし、あの腕の中へも戻りたい。

 

「また、勝ったら」

 

 そこまで言うと、三戸が微笑んだ。

 

「うん。また、一緒に喜ぼう」

 

 ブーケは頷いて、窓へ目を戻した。

 

 次に眠くなったときには、もう我慢しなかった。肩が少し彼の方へ傾く。三戸が動かずにいてくれるのが分かり、そのまま目を閉じた。

 

 寮へ戻ったら、今日は手帳に書くことがたくさんある。

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