カレンブーケドールは筋書きどおりに咲かない 作:Lagavulin
次のレースまで、あと4日だった。
ブーケは練習ノートと一緒に、小さな箱を持ってトレーナー室へ来た。三戸は机の資料をよけ、彼女が置ける場所を作った。
「壊れもの?」
「少し。見ていただきたくて」
蓋を開けると、乾かした黄色い花が入っていた。周りに淡い色の小花が添えてあり、内側の縁には細いリボンが留めてある。
「これ、もしかして」
「最初にいただいたガーベラです」
三戸は、箱へ顔を近づけた。
贈ったときより色は落ち着いていたが、花びらが重なっている形はよく分かった。リボンにも、見覚えがある。
「こんなふうに残せるんだね」
「崩れないようにするのに、少し時間がかかってしまって」
「ありがとう。大事にしてくれて」
ブーケが頷いた。彼も、彼女からもらったガーベラを乾かしていた。ただ、花を下げる場所が悪かったのか、片側が少し曲がってしまった。
「俺のは、こんなにうまくできなかったな」
「今度、見せていただけますか。小さく飾るなら、少しくらい曲がっていても大丈夫ですよ」
「じゃあ、お願いしようかな」
彼女は嬉しそうに箱へ目を戻した。
「お互いに残しているのって、少し照れますね」
三戸は、もう一度、黄色い花を見た。
「最初は、1本だけじゃ少ないかと思ったんだ」
ブーケの指が、箱の縁で止まった。
「そうだったんですか?」
「うん。花束の方がいいのかなとか。でも、いきなり大きいのを渡しても、持って帰るのに困るだろうし」
話しながら、三戸はあの日の店先を思い出した。値札を見て、どれを指せばよいか少し迷った。
ブーケは、彼を見ていた。
「でも、1本だから、その……伝わるものもありますし」
「そうなの?」
彼女が、小さく瞬きをした。
三戸は箱の中を見た。1本だと、花の形がよく見えることだろうか。
「本数にも、意味があるってこと?」
そう聞くと、ブーケの表情が止まった。
*
最初は、話が少しずれただけだと思った。
どちらかが別のものを思い浮かべていて、言い直せば分かる。いつものように、そうなるはずだった。
「あの日、花言葉をご存じだと、仰っていましたよね」
「うん。希望とか、常に前進とか。選抜レースのあとだったから、君に合うと思って」
希望。
それも、ガーベラの花言葉だった。
知っている。自分も、ちゃんと知っていた。
「そちらの、意味だったんですね」
三戸が、少し椅子を寄せた。
「ブーケ?」
箱を閉じようとして、指がリボンに触れた。挟まないように戻す。そんなことは、いつも通りできた。
「私、1本のガーベラを贈る意味のことだと思っていました」
彼は黙って続きを待った。
今、口にするのは恥ずかしかった。けれど、ここで曖昧にしたら、何を間違えたのかも分からなくなる。
「あなたが私の運命の人、という……」
三戸は、すぐには何も言わなかった。
ブーケはその顔を見て、分かってしまった。
彼は今、初めてその意味を知った。
「では、私がお返ししたのも」
問いかける声が、自分のものではないように遠かった。
「お花のお返し、と」
「……うん。君が、同じ花を選んでくれたんだと」
頷こうとして、できなかった。
そう受け取っても、おかしくない言葉で渡した。これからよろしくお願いしますと言ったのも、担当契約を結んで間もないころだった。
ブーケは膝の上で、両手を重ねた。
お花の意味を取り違えていました。そう言って、この箱をしまえたら。勘違いしたのは、贈り物のことだけだったと思ってもらえたら。
けれど、それでは、彼に手を差し出した理由も、帰り道を長くしたかった理由も伝わらない。
「私、お付き合いしているのだと、思っていました」
部屋の外で、誰かが廊下を通った。話し声が近づいて、遠ざかる。
扉が開かなくてよかったと、どうでもいいことを考えた。
「花をいただいて、私も同じお返事をして。それで……」
試着室の前で、またその服を着てほしいと言った。駅へ早く着く道を知っていて、遠い方から帰りたいと頼んだ。
恋人だから、少しくらい甘えてもいい。そう思って、普段なら引っ込めてしまう願いを口にした。そのたびに、彼は全部分かっていて受け止めてくれていると、安心していた。
彼が、こちらを見ている。
今の話で、あの日、何を考えていたかまで知られてしまった。自分だけが先に恋人になって、彼の隣へ寄っていたことも。
「すみません」
三戸が顔を上げた。
「勝手に、そんなふうに思って。ずっと」
「待って。ブーケだけが謝ることじゃない」
彼が何か言おうとして、一度口を閉じた。
「俺も、気づかずに……」
その先が続かない。
ブーケは、顔を上げたまま待てなかった。
「手をつないでほしいとか、もう少し一緒にいたいとか。困らせてしまいましたよね」
「困ってない」
今度は、すぐに返ってきた。
「あれは、俺も楽しかった。手をつないだのも、君に頼まれたから仕方なく、じゃない」
彼の声は、いつもより少し速かった。
「君と出かけるのを楽しみにしてたし、服だって、着て見せたかった。勝ったときも、君が来てくれて嬉しかった」
ブーケは顔を上げた。
それなら、と聞きたかった。
それなら、何だったのだろう。
三戸も、同じところで言葉を探しているように見えた。
いつもなら、彼が落ち着いて答えてくれると思って待てた。今日は、何か言いたそうにするたび、続きを聞きたい気持ちと、もう何も聞かずに帰りたい気持ちが交互に来た。
*
三戸は、自分の右手を見た。
川沿いで、ブーケが触れた袖の近く。あのとき、手を出すことに迷いはなかった。
彼女の方に、どんな気持ちがあるのか考えなかったわけではない。自分を親しく思ってくれているのだとは感じていた。それを嬉しいと思い、その先を確かめずにいた。
ブーケは、もう、その先にいた。
「俺は、恋人になったつもりではなかった」
そこだけは、曖昧にしたら更に傷つけてしまう気がした。
彼女の指が、膝の上で重なる。
「……はい」
その返事を聞くと、今すぐ何か言いたくなった。このまま帰してはいけない。悲しませたままにしたくない。
けれど、今日初めて知った彼女の気持ちに押されて、足りない言葉をまた渡すのは違うと思った。
君のことが。
そこから先を、今ここで言えばいいのか。
三戸は顔を上げた。
「ごめん。今、うまく言えない」
ブーケは黙っていた。
「君がそう思ってくれていたことは、嬉しい。でも、それだけで答えたくない。自分がどう思って、一緒にいたのか、ちゃんと考えてから伝えたい」
彼女がゆっくりと彼を見た。
「少し、時間をもらってもいい?」
長い間に感じた。机の時計の秒針が動く音が、やけにはっきり聞こえた。
やがて、ブーケが頷いた。
「はい」
それから、箱の蓋を指で押さえた。
「私も、今すぐ何かを言われたら、たぶん、ちゃんと聞けないので」
三戸は頷いた。
「ありがとう」
彼女が鞄へ箱をしまう。途中で引っかかった持ち手を、彼は直そうとしたが、ブーケの手の方が早かった。
何を手伝っていいのか、分からなかった。
立ち上がった彼女が、机に残ったノートへ目を向ける。
「明日は、いつもの時間でよろしいですか」
三戸は予定表を見ずに答えた。
「うん。15時半。練習の前に、今日の疲れが残ってないか確かめよう」
「分かりました」
そこだけ、いつもの話し方になった。
ブーケがノートを鞄へ入れ、扉の前で振り返る。
「トレーナー」
「うん」
「お花をいただいたのは、嬉しかったです」
彼女は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「その……意味が違っていても。私に選んでくださったのは、本当ですから」
三戸は、彼女を見た。
「うん。本当だよ」
ブーケは小さく頷いて、部屋を出た。
*
寮へ戻ると、ブーケは箱を机に置いた。蓋を開ける。中のガーベラは、持っていったときと同じ向きをしていた。添えた小花も崩れていない。
花に間違いがあったわけではなかった。
嫌いになれれば、しまっておけるのかもしれない。けれど、昼休みに花を差し出してくれた顔も、家で飾った写真を送ってくれたことも、嬉しかったままだった。
彼が一緒に歩きたかったと言ったのも、嘘ではないと思う。
思うから、今度は、ちゃんと聞きたかった。
ブーケは手帳を開いた。花を返した日の、小さな絵が目に入る。
三戸さんと。
あの夜は、この続きさえ恥ずかしくて書けなかった。2人だけの秘密ができたと思って、何度もページを開いた。
彼も知っているつもりで、大切にしていた秘密だった。
続きまで書かなくてよかった、とは思えなかった。あの日の自分は、確かに嬉しかったのだから。
ページをめくり、明日の練習を確かめる。
15時半。
消す予定は、何もなかった。
けれど、明日、最初にどんな顔をすればいいかは、まだ分からなかった。