カレンブーケドールは筋書きどおりに咲かない 作:Lagavulin
翌日の15時半、ブーケは練習場に来た。
「こんにちは」
「こんにちは。昨日は、眠れた?」
聞いてから、三戸は少し言葉を選び直したくなった。いつも体調を確かめるために聞いていることが、今日は別の意味にも聞こえる。
「少し、寝つくのが遅くなりました。でも、朝はいつもの時間に」
「そうか。今日は、動いてみて重かったら教えて」
「はい」
彼女は隣へ鞄を置き、準備を始めた。
ストレッチの間、三戸は今日の予定を短く話した。予定通り進める部分と、様子を見て減らす部分。ブーケは靴ひもを結び直しながら聞いていた。
走り始めると、思っていたほど会話には困らなかった。
向かい風の区間で少し肩が上がる。戻ってきた彼女に伝えると、本人も気になっていたと言う。次に走るときは、そこを確かめる。
時計を押す。数字を見せる。走っていたときの感覚を聞く。
ブーケが考えている間は、待つ。
これまで一緒にしてきたことは、今日もできた。
「今の方が、楽でした」
最後の1本を終えた彼女が、息を整えて言う。
「うん。見ていても、そっちの方が自然だった」
「最初から、そうすればよかったですね」
「最初に試したから、分かったんじゃないかな」
ブーケは少し笑い、ノートへ目を落とした。
その笑顔にほっとしたことを、三戸は自覚した。
片づけを終えると、話すことがなくなった。
いつもなら、ここから彼女が花壇のことを話したり、三戸が週末に見つけた店の話をしたりする。今日は、ブーケが先に鞄を持った。
「では、また明日」
「うん。また明日」
彼女は一度こちらを見てから、校舎へ向かった。
三戸はストップウォッチをしまい、閉めた鞄をもう一度開けた。忘れ物はなかった。ただ、手が空いたことに慣れなかった。
*
レースの2日前は雨で、室内で映像を見た。
次のレースに向けて確かめたいのは、前へ出たあとの走りだった。デビュー戦ではうまく息を入れられたが、相手が変われば、同じところで落ち着けるとは限らない。
ブーケは椅子を少し寄せ、画面を指した。
「ここで外へ来られたら、前を譲った方がいいでしょうか」
「相手の速さにもよる。無理に張り合うより、後ろで運べるならそれもいい。ただ、今の君なら、すぐ下がると決めなくてもいいと思う」
三戸が別の箇所へ戻す。
「このとき、どのくらい余裕があった?」
ブーケは映像の中の自分を見た。走っていたときの息の入り方を思い出し、言葉にする。
彼がメモへ書き足す間、その手元を見ていた。
初めてここへノートを持ってきた日も、こうして話を聞いてもらった。
花をもらう前から、相談したかった。恋人だと思っていたのは勘違いだったけれど、ここで一緒に考えたい気持ちは変わらなかった。
「ブーケ?」
「はい」
「ここ、もう1回見る?」
「お願いします」
彼女が顔を上げると、三戸も画面へ向き直った。
窓の外で、雨が少し強くなった。庇を叩く音に混じって、映像の実況が小さく聞こえる。
休憩のとき、三戸が温かい飲み物を置いてくれた。
「熱いから、気をつけて」
「ありがとうございます」
カップを両手で包んだ。いつも通りの気遣いを、今は一つずつ受け取り直している気がした。
恋人だから、ではなかった。
けれど、優しかったのは、本当だった。
「トレーナーの方も、まだ熱そうですよ」
彼がカップを口へ運びかけたので、ブーケは声をかけた。
三戸は動きを止め、そっと机へ戻す。
「ありがとう。人には言ったのに」
ブーケは、久しぶりに何も考えず笑った。
映像を見終えるころには、雨も弱くなっていた。もう少しここにいたくて窓を見たが、傘を差せば帰れるくらいの降り方だった。
前なら、もう少し話していたいと言えた。今日はカップを返しながら、明日の練習場所を確かめた。場所は、ノートにも書いてある。
*
三戸は、家へ帰ってから、窓辺の鉢を見た。買ったときより、葉が少し増えている。最初は気のせいかと思ったが、前の写真と比べると、真ん中から新しい葉が出ていた。
写真を撮り、ブーケとの連絡画面を開く。
そこで、指が止まった。
次のレースのことで聞くべきことは、今日はもうない。今送ると、返事を待たせているのに、何もなかったように話しかけてしまう気がした。
画面を閉じる。
白い鉢は、自分の部屋によく馴染んでいた。
これを選ぶとき、ブーケはカーテンの色まで聞いてくれた。花を育ててみたいと言っただけで、彼女には確かめることがいくつもあった。
棚から、買った園芸の本を取る。薄い青の袖口が、視界に入った。
今日は休みではない。帰宅して着替えるとき、手前にあったこのシャツを選んだだけだ。そう思いかけて、三戸は自分の袖を見た。
洗って、アイロンをかけて、いちばん取り出しやすい場所へ掛けておいたのは、自分だった。
試着室の前で、ブーケがこちらを見た顔を思い出した。
三戸は本を閉じ、スマートフォンを取り直した。さっきの写真を添え、短く書いた。
『新しい葉が出たみたい。今度、見てもらってもいい?』
送信してから、返事を待つ間も、画面を見続けそうになった。
台所へ行き、夕食の支度を始める。野菜を切ったところで、通知が鳴った。
『本当ですね。真ん中の、小さい葉です。見せていただけたら嬉しいです』
三戸は手を拭き、もう一度読んだ。
嬉しかった。
そう思うのに、今度は理由を探さなかった。
*
返事を送ったあとも、ブーケは写真を開いていた。
最初は、元気そうでよかったです、とだけ書くつもりだった。けれど、真ん中の小さな葉が気になって、写真を大きくした。まだ先が内側へ巻いている。
あの白い鉢は、今も彼の机にある。こんな葉が出ましたよ、と教えてもらうだけで、練習のあとの、言葉を探してしまう時間が少し遠くなった。
見せていただけたら嬉しいです。
送ったばかりの文を読み返す。花を育てる手伝いができるから、だけではなかった。彼が家で見つけたことを、こうして知らせてくれるのが嬉しかった。
ブーケは入力欄を開いた。
『この葉が開いたら、またお写真を見せてください』
これからも、というお願いになる。しばらく送信の印を見ていたが、文は消さなかった。
返事は、少しして届いた。
『分かった。今朝までは気づかなかったから、明日からちゃんと見てみる』
ブーケは写真へ戻った。自分も、次に見せてもらうのを楽しみに待とうと思った。
*
レース前日、練習場には夕方の光が長く差していた。
強い練習は終え、ブーケは軽く体を動かすだけにした。三戸は時計を見るよりも、彼女の足取りを見ていた。
終わって戻ってくると、ブーケが先に聞いた。
「どうでしたか」
「いいと思う。力が抜けてる」
「自分でも、今日は楽でした」
彼女がタオルを受け取り、額へ当てる。三戸は言おうと決めていたことを、鞄を持つ前に口にした。
「レースが終わったあと、少し時間をもらえる?」
ブーケがこちらを見た。
「この間の、続きですか」
「うん。待たせてごめん。ちゃんと話したい」
彼女はタオルを畳んだ。角を合わせてから、ゆっくり頷く。
「分かりました」
それから、少しためらって尋ねた。
「勝てなかったら……」
「結果で変える話じゃないよ」
そこは、すぐに伝えたかった。
ブーケは三戸を見たまま、もう一度頷いた。
「はい。では、終わったあとに」
帰る支度をし、並んで練習場を出る。
校舎の前で分かれる少し前に、ブーケが立ち止まった。
「トレーナー。勝てたときは」
「うん」
「また、喜んでくださいね」
三戸は、彼女がデビュー戦のあとに見せた顔を思い出した。
「もちろん。一緒に喜ぼう」
彼女が笑った。
その顔を見て、三戸はレースまでの時間を、丁寧に過ごそうと思った。
*
その日の帰り道、三戸は駅前の花屋へ寄った。
黄色いガーベラが、バケツに何本か並んでいる。
初めて来たときと、同じ場所だった。
「1本、お願いします」
店員が花を取り、長さを確かめた。
「贈り物ですか?」
「はい。明日、渡したくて」
持ち歩く時間を聞かれ、三戸は答えた。包み方を相談し、家ではいったん水につけておくことにする。
選ぶ理由を、今度は自分で全部知っていた。
花を受け取り、店の外へ出る。
ブーケに渡す言葉は、まだ少しまとまっていない。けれど、何を伝えたいかは、もう決まっていた。