好きな子への恋愛相談をAIにしていたら、なぜか俺の過去まで知っている 作:李忠成
失恋した。
人生で初めての告白は、あっけなく幕を閉じた。
もっとこう、ドラマみたいな展開があると思っていたのだが、現実はそう甘くない。
告白して、振られて、帰る。
以上。
拍子抜けするほど簡潔な三段構成である。
「……はあ」
翌朝、俺は机に突っ伏していた。
「どうしたの、ケント。朝から死んでるじゃん」
隣の席の男子が声をかけてくる。
「昨日、世界が終わった」
「へえ。じゃあ今日、学校休み?」
「いや、普通にある」
「じゃあ世界終わってないじゃん」
正論はやめろ。
俺は顔を上げ、窓の外を眺めた。
空は青い。鳥は鳴いている。通学路を歩く生徒たちは、いつも通りの朝を過ごしている。
世界は、俺が振られた程度では止まってくれないらしい。
「……世知辛いな」
スマートフォンを取り出す。
「レミィ。失恋した人間が最初にすべきことって何だと思う?」
『まずは、十分な休息を取ることを推奨します』
「なるほど。つまり今日は休んでいいと」
『学校を休む必要があるとは判断できません』
「お前、ほんと融通利かないな」
『あなたが昨日、告白に失敗したことと、今日の授業に出席する必要性は別問題です』
「正論で殴るのやめてくれない?」
『申し訳ありません。事実に基づいた回答を心がけています』
「そこがつらいんだよ……」
俺はスマートフォンをしまった。
まあ、いい。
失恋したからといって、何かが変わるわけじゃない。
白石は今まで通り白石だし、俺は今まで通り俺だ。
ただ、昨日まで少しだけ特別に見えていた日常が、今日はほんの少しだけ色あせて見える。
……それくらいは、仕方ないだろう。
*
昼休み。
俺は購買で買ったパンをかじりながら、教室の中をぼんやり眺めていた。
少し離れた席で、白石が友達と話している。
いつも通り笑っていた。
俺と目が合うと、彼女は軽く手を振ってくれた。
俺も手を振り返す。
……うん。
大丈夫だ。
別に気まずくなったわけでもない。避けられているわけでもない。
むしろ、告白したからといって関係を壊さずに済んだのは、ありがたいことなのかもしれない。
「ケントくん、今日の数学の課題やった?」
白石がこちらへやってきた。
「やったよ。昨日の俺は、今日の俺より優秀だったからな」
「昨日の自分に感謝しないとね」
「本当にそう。昨日の俺、ありがとう」
「ふふっ」
白石が笑う。
俺も笑った。
それから彼女は、課題のわからない部分について尋ねてきた。
俺はノートを見せながら説明する。
特別なことは何もない。
ただのクラスメイト同士の会話だ。
それでも、昨日までの俺なら、この時間に意味を見いだそうとしていたかもしれない。
笑ってくれた。話しかけてくれた。頼ってくれた。
もしかしたら、まだ可能性があるんじゃないか。
……なんて。
「ケントくん?」
「ん?」
「ここ、説明聞いてた?」
「聞いてた聞いてた。つまり、ここに数字を代入して……えーっと」
「それ、さっき私が言ったところだよ」
「……はい」
「もう。ちゃんと聞いてよ」
白石は呆れたように笑った。
俺は頭をかいた。
危ない危ない。
危うく、ただの会話に恋愛的な意味を見いだすところだった。
振られたのだ。
少なくとも今は、彼女にとって俺は恋愛対象ではない。
なら、変に期待するのはやめよう。
彼女が笑ってくれるなら、それでいい。
俺はそう考えることにした。
*
放課後。
帰宅した俺は、制服のままベッドに倒れ込んだ。
「レミィ。今日の俺を評価してくれ」
『どのような観点から評価すればよいでしょうか』
「失恋からの立ち直り具合」
『一日で完全に立ち直る必要はありません』
「いや、そういう優しい言葉じゃなくてさ」
『では、現状を整理します』
レミィは淡々と続けた。
『あなたは告白し、相手の返答を受け入れました。その後も普段通りに会話し、相手との関係を壊さないよう行動しています』
「……おう」
『少なくとも、相手の気持ちを尊重するという点では、適切に行動できていると思います』
「なんか、成績表みたいだな」
『改善点も必要ですか?』
「いや、遠慮しとく」
俺は枕に顔を埋めた。
「……でもさ。やっぱ、好きな人に振られるのって普通にきついな」
『そうですね』
「お前、こういうときは否定しないんだな」
『あなたがそう感じていることを、私が否定する理由はありません』
少しだけ、胸の奥が軽くなった。
変に励まされるより、こういう返事の方がありがたいこともある。
俺は枕から顔を上げた。
「ありがとな」
『どういたしまして』
「……よし。明日からは普通に過ごす」
『無理に気持ちを切り替える必要はありません』
「わかってるよ」
そう答えてから、俺はスマートフォンを置いた。
レミィに相談していると、不思議と自分の考えが整理される。
答えをもらうというより、自分の中にある答えを見つける手伝いをしてもらっているような感覚だった。
……まあ、実際にそういう機能があるのかは知らないけど。
*
翌日から、学校では体育祭の準備が始まった。
黒板の隅には、いつの間にか大きく「体育祭・種目決め」と書かれている。
朝のホームルームで、委員長が名簿を片手に教壇へ立った。
「はい、今日は種目を決めます。出たい種目がある人は、先に言ってください」
教室のあちこちから声が上がる。
「リレーは足の速いやつで固めようぜ」
「綱引きは体重ある人が有利じゃない?」
「それ、女子に言ったら怒られるぞ」
「じゃあ男子だけで言う」
くだらない会話が飛び交う。
俺は机に頬杖をつきながら、黒板に書かれていく種目を眺めていた。
体育祭。
去年までは、そこまで嫌いではなかった。
むしろ、運動系の種目ならそれなりに楽しめていたと思う。
ただ、今年はできるだけ目立たずに終わらせたい。
失恋した直後に、クラスの中心で騒ぐ気分にはなれなかった。
「ケントくんは何に出る?」
白石が後ろの席から声をかけてきた。
「まだ決めてない」
「運動得意そうなのに」
「見た目で判断するな。俺は繊細なインドア派だ」
「昨日、体育の授業で普通に走ってたよね」
「インドア派だって走るときは走る」
「それ、ただの運動できる人じゃない?」
「違う。必要に迫られたときだけ動くタイプだ」
白石は楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ痛む。
けれど、昨日ほどではなかった。
「じゃあ、無理しない種目にすれば?」
「そうする」
俺はそう答えた。
その直後、委員長が声を張り上げた。
「次、クラス対抗サッカーに出る人!」
教室の空気が、少しだけ変わった。
サッカー。
その単語を聞いた瞬間、俺の思考が止まった。
「俺、サッカー部だから出るよ」
そう言ったのは、佐藤悠真だった。
悠真はサッカー部の中心選手で、明るくて人付き合いもいい。クラスでも自然と人が集まるタイプだ。
昔から、そういうやつだった。
俺と悠真は、小学生の頃から同じクラブチームにいた。
最初に会ったときから、悠真は目立っていた。
足が速くて、声が大きくて、誰にでも気さくに話しかける。
俺はその反対だった。
人前に出るのが苦手で、初対面の相手とはまともに話せない。
それでも、サッカーをしている間だけは、悠真と同じ場所に立てた。
いや。
正確には、同じ場所に立っているつもりだった。
「ケント、お前も出るだろ?」
悠真がこちらを見た。
その声に、教室の何人かが振り返る。
「いや、出ない」
俺は短く答えた。
「え? なんで?」
「なんでも」
「サッカー、嫌いになったのか?」
その言葉に、指先がわずかに強張った。
「別に。今も好きだよ」
思わず、そう答えていた。
教室の空気が、ほんの少しだけ止まる。
自分で言ってから、俺は視線を落とした。
「ただ、チームでやるのは……」
そこまで言って、口を閉じる。
「今は、一人で練習してるだけ」
「でも、昔は俺より上手かったじゃん」
悠真の言葉に、教室の何人かが振り返った。
「え、ケントってサッカーやってたの?」
「悠真より上手かったって本当?」
「昔の話だろ」
俺は笑ってごまかした。
「悠真が盛ってるだけだよ。昔の話だし」
「盛ってないって。小学生の頃、俺が何回抜かれたと思ってるんだよ」
「知らない」
「たぶん百回以上」
「数えてたのかよ」
「悔しかったからな」
悠真は笑った。
その笑顔は、昔と変わらなかった。
だからこそ、俺は目をそらした。
「まあ、今回は悠真が頑張ればいいだろ」
「お前がいた方が楽なんだけどな」
「俺がいなくても勝てるだろ」
「勝てるかどうかじゃなくてさ」
悠真はそこで言葉を止めた。
何か言いかけたようだったが、結局、軽く肩をすくめる。
「……まあ、いいや。無理に誘うのも違うし」
「そうしてくれ」
俺はそれだけ言った。
悠真はそれ以上、何も言わなかった。
けれど、あいつが席へ戻ったあとも、胸の奥には嫌な感覚が残っていた。
昔のことを思い出したくない。
それなのに、悠真は何気ない顔で、俺の中にしまっていた記憶を引っ張り出してくる。
*
体育祭の種目決めは、なかなか終わらなかった。
サッカーの参加者が足りず、委員長が何度も教室を見回す。
「あと二人必要なんだけど……誰かいない?」
「俺、ルール知らない」
「俺は走るの遅い」
「サッカーって、ずっと走るんだろ?」
「たぶん」
「じゃあ無理」
誰も手を挙げようとしない。
悠真が苦笑しながら、参加者の名前を確認していた。
「経験者じゃなくてもいいから。守備だけでもやってくれれば助かる」
「悠真、ケントに頼めば?」
誰かが冗談めかして言った。
「だから、出ないって」
俺が答えるより先に、悠真が口を開いた。
「ケントは出ないって言ってるから」
その声は、思ったより強かった。
教室が一瞬静かになる。
悠真はすぐにいつもの調子へ戻った。
「無理に出させる必要ないだろ」
「お、おう」
冗談を言った男子が引き下がる。
俺は悠真を見た。
悠真は黒板の方を向いたまま、こちらを見なかった。
昔から、そういうところがあった。
普段は何も考えていないように見えるのに、妙なところで周りを見ている。
俺が人前で失敗したときも、誰かにからかわれたときも、悠真はいつも話題を変えた。
それがありがたかったのか、迷惑だったのか。
今となっては、よくわからない。
「じゃあ、サッカーは一旦保留。放課後に練習するから、出る人はグラウンド集合で」
委員長がそう告げる。
悠真は参加者たちに声をかけながら、教室を出ていった。
俺はその背中を見送った。
「……昔から、変わらないな」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
*
放課後。
体育祭の練習が始まった。
俺はサッカーには参加しないつもりだったので、最初は教室で時間を潰すつもりだった。
しかし、委員長から綱引きのメンバー確認を頼まれ、結局グラウンドへ向かうことになった。
グラウンドでは、各種目の練習が始まっていた。
リレーの選手が何度もバトンを渡し、綱引きのメンバーが並び方を確認している。
サッカーのメンバーは、悠真を中心にパス練習をしていた。
「もっと広がって!」
悠真の声が響く。
「ボールを持ってないやつが動かないと、パスを出せないから!」
指示を出す悠真は、教室にいるときとは別人のようだった。
声が通り、周囲をよく見ている。
ボールを受ける位置も、味方の動きも、相手の配置も、すべて同時に見ているようだった。
俺は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
「ケントくん、綱引きの列こっちだよ」
白石に呼ばれ、俺はそちらへ向かう。
「今行く」
綱引きの練習は、思っていたよりも大変だった。
ただ力を入れて引けばいいわけではない。
足の位置をそろえ、合図に合わせて体重を後ろへかける。
「せーの!」
掛け声に合わせて綱を引く。
一度目は、全員の動きがばらばらだった。
「もう一回!」
二度目は少しだけそろった。
三度目には、全員の息が合い始めた。
「おお、今のいい感じじゃない?」
白石が笑う。
「俺たち、意外と強いかもな」
「ケントくん、最初から後ろに逃げようとしてなかった?」
「作戦だよ。俺が後ろにいることで、全体の重心を安定させている」
「ただ楽したいだけじゃない?」
「……否定はしない」
白石がまた笑った。
その声を聞きながら、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
失恋したからといって、すべての時間が苦しいわけではない。
こうしてくだらない話をしている間は、普通に笑える。
それだけでも、十分なのかもしれない。
練習の合間、俺は何気なくサッカーの方へ目を向けた。
悠真がボールを受け、相手をかわして前へ運んでいる。
その動きは、昔よりも洗練されていた。
けれど、基本的な癖は変わっていない。
右足で一度ボールを止めてから、左へ切り返す。
俺はその動きを知っていた。
何度も見てきた。
何度も対戦した。
そして、何度も止めてきた。
「……ケント?」
悠真がこちらを見ていた。
いつから見られていたのかわからない。
「何?」
「いや。見てたから」
「別に」
「サッカー、やっぱり出ない?」
「出ない」
「そっか」
また、その言葉だった。
悠真はそれ以上、踏み込まなかった。
けれど、今度はそのまま離れていかなかった。
「……昔のこと、まだ気にしてる?」
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
周囲では、他の生徒たちが練習を続けている。
誰もこちらを見ていない。
それでも、俺は声を落とした。
「何のこと?」
「とぼけるなよ」
悠真の表情から、いつもの明るさが消えていた。
「俺たちが最後に一緒に試合したときのこと」
「……忘れた」
「忘れてないだろ」
「忘れたことにしてるんだよ」
自分でも驚くほど、声が冷たくなった。
悠真は黙った。
俺も黙った。
グラウンドの向こうから、笛の音が聞こえる。
「俺は、あのとき……」
悠真が何かを言いかけた。
「やめろ」
俺は遮った。
「今、その話はしたくない」
「でも」
「したくないんだよ」
悠真は口を閉じた。
しばらくして、静かに頷く。
「……わかった」
それだけ言って、悠真はサッカーの練習へ戻っていった。
俺はその背中を見ながら、手を握りしめた。
昔のこと。
あの試合のこと。
悠真が悪かったわけではない。
俺だけが悪かったわけでもない。
それでも、あの日を境に、俺はチームでサッカーをすることをやめた。
サッカーそのものを嫌いになったわけじゃない。
一人でボールを蹴ることも、壁当てをすることも、今でも続けている。
ただ、誰かと同じピッチに立つのが怖かった。
理由を説明しようとすると、いくつもの記憶が絡み合って、うまく言葉にならない。
だから、話したくない。
話さなければ、思い出さずに済む。
そう思っていた。
*
帰宅後。
俺は制服を脱ぎ、部屋着に着替えた。
夕食まで少し時間があったので、いつものように家の裏にある小さなスペースへ向かった。
壁際には、使い込んだサッカーボールが置いてある。
いつからそこにあったのか、自分でも覚えていない。
表面には細かな傷があり、空気も少し抜けている。
俺はボールを持ったまま、しばらく立ち尽くした。
「……何してるんだ、俺」
体育祭の練習が始まってからも、俺は毎日ここでボールを蹴っていた。
失恋する前から続けていた、いつもの日課だ。
朝に軽くボールタッチをして、帰宅後に壁当てをする。
時間がある日は、短いダッシュやドリブルも加える。
サッカーは、俺の日常から消えたわけではない。
ただ、チームプレーだけが、あの日から止まっている。
俺はボールを壁に向かって軽く蹴った。
ボールが壁に当たり、戻ってくる。
トラップする。
また蹴る。
最初は、ただそれだけだった。
けれど、何度か繰り返しているうちに、足が勝手に動き始めた。
右足で止める。
左足へ持ち替える。
壁の少し高い位置へ蹴る。
跳ね返ってきたボールを、胸で受ける。
思ったよりも、体は動いた。
ただ、昔のようにはいかない。
ボールが少しずれる。
足元が遅れる。
息が上がる。
「……はあ、はあ」
数分しか動いていないのに、汗がにじんだ。
俺はボールを止め、スマートフォンを取り出した。
「レミィ」
『はい』
「今日の練習メニュー、少し変えて」
『目的を教えてください』
「体育祭の練習で、最低限動けるようにしたい」
『サッカーに参加する予定はないのではありませんか』
「いや、普段の練習の調整。体育祭のことは……まだ決めたわけじゃない」
『承知しました。現在の体力、運動経験、使用できるスペースを考慮します』
レミィは、いくつか質問をした。
運動できる時間。
ボールを蹴れる場所。
現在の体力。
過去の経験。
俺は答えられる範囲で答えた。
『それでは、短時間の基礎練習を提案します。まずはボールタッチを三分。その後、壁当てを左右それぞれ五十回。最後に、短いダッシュを五本です』
「結構あるな」
『現在の体力では、すべて実施できない可能性があります』
「そこは励ましてくれよ」
『無理な運動は怪我につながります。途中で痛みや強い疲労を感じた場合は中止してください』
「はいはい」
俺は言われた通り、ボールタッチを始めた。
右足の裏でボールを押さえ、左足へ移す。
左右交互に繰り返す。
最初は簡単だった。
しかし、時間が経つにつれて足が重くなる。
ボールが少しずつ離れていく。
『足元が乱れています。速度を落としてください』
「わかってる」
『現在の速度では、正確性が低下しています』
「わかってるって」
『同じ指摘を二度行いました』
「……はい」
レミィの指示に従い、速度を落とす。
すると、少しだけボールを扱いやすくなった。
悔しいが、正しい。
その後、壁当てを始めた。
ボールを蹴る。
戻ってくる。
止める。
また蹴る。
単純な動作の繰り返しなのに、昔の感覚が少しずつ戻ってくる。
足の内側でボールを受ける感触。
蹴ったときの音。
壁に当たって跳ね返る角度。
体が覚えているものは、思っていたよりも多かった。
「……できるじゃん」
思わず呟いた。
『一定の技術が残っているようです』
「いや、そうじゃなくて」
『何が違うのでしょうか』
「……なんでもない」
俺はボールを蹴り続けた。
しばらくして、レミィが告げる。
『本日の練習は終了を推奨します』
「まだできる」
『集中力が乱れています』
「これくらいなら」
『右足の踏み込みが浅くなっています。疲労によってフォームが崩れている可能性があります』
「……」
『続ける理由を確認してもよいですか』
俺はボールを止めた。
「別に。普段の練習だよ」
『サッカーの試合をする予定はございません』
「……そうだな」
『それでも練習を続けるのは、サッカーをしたいからですか』
「違う」
『では、なぜですか』
「……昔、色々あったんだよ」
『具体的な内容を聞いてもよいですか』
「話したくない」
『承知しました』
レミィは、すぐにそう返した。
その反応が、かえって胸に引っかかった。
「……聞かないのか?」
『あなたが話したくないと判断したためです』
「いや、まあ……そうなんだけど」
『話したくないことを、無理に話す必要はありません』
「お前は、そういうところだけ妙に人間っぽいな」
『私は人間ではありません』
「知ってるよ」
俺は苦笑した。
スマートフォンの画面に表示されたレミィの文字は、いつも通り無機質だった。
それなのに、変に踏み込まず、必要なときだけ言葉を返してくれる。
その距離感が、今はありがたかった。
『ただし、過去の出来事が現在の行動に影響している可能性はあります』
「……」
『サッカーを避けたいのか、サッカーをしたいのに試合だけを避けているのか。その違いを整理することは、今後の判断に役立つかもしれません』
「できるのになぜやらないのですか、って聞きたいわけ?」
『その質問は、あなた自身に向けるべきだと思います』
「……厳しいな」
『事実に基づく質問です』
「それが厳しいんだよ」
俺はボールを拾い上げた。
昔のことを思い出すと、胸の奥が重くなる。
でも、ボールを蹴ったときの感覚は、嫌いではなかった。
むしろ、懐かしかった。
だから余計に困る。
嫌いになったわけではない。
ただ、チームで続けられなくなった。
その理由を、俺はまだ誰にも話していない。
悠真にも。
白石にも。
そして、レミィにも。
「今日はもう終わりにする」
『賛成します』
「明日も練習メニュー、考えてくれる?」
『承知しました。日課として継続する場合は、疲労度に応じて調整します』
「……念のためだよ」
『承知しました』
俺はボールを元の場所へ戻した。
その夜、ベッドに入ってからも、壁に当たるボールの音が耳に残っていた。
*
翌日。
体育祭の練習は、昨日より本格的になった。
リレーの選手は走る順番を決め、綱引きのメンバーは掛け声を合わせる。
サッカーのメンバーは、実際の試合を想定して簡単な練習試合を始めていた。
俺は綱引きの練習を終えたあと、少し離れた場所でその様子を見ていた。
悠真は、昨日よりも厳しく指示を出していた。
「そこ、もっと下がって!」
「ボールを見すぎるな! 相手の動きも見て!」
「今のはパスを出せた!」
クラスメイトたちは、最初こそ戸惑っていたが、少しずつ動きがよくなっている。
悠真は、誰かが失敗しても怒鳴り続けることはなかった。
「今のは仕方ない。次、同じ形になったら一歩早く動こう」
そう言って、すぐに次の指示を出す。
俺はその姿を見ながら、昔のことを思い出していた。
あの頃も、悠真は同じだった。
俺がミスをしたとき、誰よりも早く声をかけてきた。
大丈夫だ。
次がある。
そう言って、俺を立たせた。
けれど、あの日だけは違った。
次がなかった。
俺は視線を落とした。
「ケントくん」
白石が隣に立っていた。
「どうしたの?」
「いや、別に」
「サッカー、見てたから」
「ちょっと気になっただけ」
「ケントくんって、昔サッカーやってたんだよね?」
「聞いてた?」
「うん。小学生の頃、すごく上手だったって」
「悠真は話を大きくするから」
「でも、昨日の練習を見てたとき、すごく真剣な顔してたよ」
「そう?」
「うん。サッカー、嫌いなの?」
俺は答えに迷った。
嫌いではない。
今も毎日ボールを蹴っている。
でも、好きだと言うのも違う気がした。
「……サッカーは好きだよ」
口にすると、思ったよりも自然だった。
「ただ、チームでやるのが苦手なんだ」
「苦手?」
「昔、色々あって。それから、誰かと一緒にやるのが怖くなった」
白石は、すぐには何も言わなかった。
「そっか」
「詳しくは、あまり話したくない」
「うん。無理に聞かないよ」
その言葉に、少しだけ救われた。
「ありがとう」
「でも、体育祭の練習はまだ続くからね。綱引き、逃げないでよ」
「それは逃げない。勉強からは逃げるけど」
「ふふっ。じゃあ、綱引きでは頼りにしてる」
白石はそう言って、練習場所へ戻っていった。
俺はその背中を見送り、もう一度サッカーの方へ目を向けた。
悠真と目が合った。
今度は、悠真の方から視線をそらした。
*
その日の放課後。
俺は家に帰ると、昨日と同じようにボールを持って外へ出た。
レミィが提案したメニューを、順番にこなしていく。
ボールタッチ。
壁当て。
短いダッシュ。
昨日よりも、少しだけ体が動いた。
それでも、昔の感覚には届かない。
ボールを追いかけて走り、壁に当て、戻ってきたボールを受ける。
何度も繰り返すうちに、息が上がった。
『本日の練習量は、昨日より増えています』
「そうか?」
『壁当ての成功率も上昇しています』
「へえ」
『練習の効果が出ています』
「……なあ、レミィ」
『はい』
「俺がサッカーをやれば、昔みたいに戻れると思う?」
『昔の状態に戻ることが、あなたにとって望ましいのか判断できません』
「そういう答えじゃなくてさ」
『身体能力については、継続的な練習によって改善する可能性があります』
「可能性、か」
『ただし、過去と同じ状態になるとは限りません』
「わかってる」
俺はボールを足元で止めた。
「昔の俺に戻りたいわけじゃない」
『では、何を求めていますか』
「……わからない」
『わからない状態で、練習を続けているのですね』
「そうみたいだな」
『目的が不明確なままの練習は、継続が難しくなる可能性があります』
「それでも、やりたいときはあるんだよ」
『それは、サッカーをしたいということではありませんか』
「……かもしれない」
認めると、少しだけ胸が苦しくなった。
サッカーをしたい。
でも、チームでやるのは怖い。
その二つが、俺の中で同時に存在している。
『明日の体育祭練習で、サッカーに参加する予定はありますか』
「ない」
『それでも、練習を続けますか』
「……たぶん」
『理由を尋ねてもよいですか』
俺はしばらく黙った。
「昔、色々あったんだよ」
『昨日も同じ回答でした』
「それ以上は話したくない」
『承知しました』
「……でも、いつか話すかもしれない」
『そのときは、聞きます』
「お前に話しても仕方ないだろ」
『話すことで、あなたの考えが整理される可能性があります』
「そういうものかね」
『これまでの会話から判断すると、可能性はあります』
「相変わらず、夢のない言い方だな」
『事実を優先しています』
俺は笑った。
それから、もう一度ボールを蹴った。
壁に当たったボールが、少しだけ強く跳ね返ってくる。
俺は足を伸ばし、正確に止めた。
*
体育祭まで、あと一週間。
練習は毎日続いた。
俺は綱引きやリレーの補助に参加しながら、サッカーの練習を遠くから眺めていた。
悠真は、相変わらず俺に無理に声をかけてこなかった。
けれど、練習の合間にこちらを見ることが増えた。
俺も、気づかないふりをした。
それでいいと思っていた。
今はまだ、昔の話をする準備ができていない。
一方で、家に帰ると、俺は毎日のようにボールを蹴った。
レミィに練習メニューを作らせ、時間を測らせ、フォームの乱れを指摘させる。
『右足の軸が不安定です』
「わかってる」
『昨日も同じ指摘をしました』
「今日は少しマシだろ」
『昨日よりは改善しています』
「ならいいじゃん」
『ただし、左足の使用頻度が低いです』
「そこまで求めるなよ」
『過去のあなたは、左右両足を同程度に使用していた記録があります』
俺は動きを止めた。
「……その記録、どこから出てきた?」
『あなたが過去の練習について話した内容から推測しました』
「そんな話、したっけ?」
『以前、左足でのトラップが得意だったと発言しています』
「覚えてるのか」
『会話履歴として保存されています』
「そうか」
レミィは、俺の過去を直接知っているわけではない。
ただ、俺が話した言葉を記録しているだけだ。
それでも、俺自身が忘れようとしていたことまで覚えている。
少し不思議だった。
『左足を使わない理由を確認してもよいですか』
「苦手になっただけ」
『過去の出来事と関係がありますか』
「……たぶん」
『話したくないですか』
「うん」
『承知しました』
レミィは、それ以上聞かなかった。
俺は左足でボールを蹴った。
少しずれた。
壁の端に当たり、ボールが横へ転がっていく。
俺は走って追いかけた。
その動きは、昔より遅かった。
けれど、ボールを拾い上げたとき、なぜか少しだけ気分が軽くなっていた。
*
体育祭前日の放課後。
最後の全体練習が行われた。
グラウンドには、クラスごとのテントや入場門が設置され、学校全体が本番の空気に包まれていた。
「明日は本番だから、今日は無理をしないように!」
先生の声が響く。
各種目の最終確認が進められていく。
綱引きの並び順。
リレーの走順。
応援の掛け声。
そして、クラス対抗サッカーのメンバー確認。
俺は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
「ケント」
悠真が近づいてきた。
「何?」
「明日のサッカー、メンバーに欠員が出たらしい」
「そう」
「一人、家の都合で来られなくなった」
「大変だな」
「それで、代わりを探してる」
「俺は出ないよ」
先に言っておいた。
悠真は苦笑した。
「まだ何も言ってないだろ」
「言わなくてもわかる」
「……そっか」
悠真は、少しだけ視線を落とした。
「無理に頼むつもりはない」
「なら、いい」
「でもさ」
悠真は顔を上げた。
「お前がボールを蹴ってるの、見た」
心臓が跳ねた。
「どこで」
「この前、帰るときに家の前を通った」
「……見たのか」
「少しだけ」
「趣味が悪いな」
「悪かったよ」
悠真は素直に謝った。
そのせいで、こちらも責めにくくなる。
「でも、ちゃんと蹴れてた」
「昔よりは下手になった」
「それでも、蹴ってた」
「だから何だよ」
「……いや」
悠真は言葉を探すように黙った。
「お前、まだサッカーが好きなんだなって思った」
俺は返事をしなかった。
好きだ。
そのことは、もう自分でもわかっている。
ただ、チームプレーを避けている自分を認めるのが怖かった。
「明日、もし気が変わったら来てくれ」
「気は変わらない」
「わかった」
悠真は頷いた。
それから、少しだけ笑った。
「でも、俺は待ってるから」
「何を?」
「お前が自分で決めるのを」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
昔の悠真も、同じようなことを言っていた。
あの日のあと、何度も。
俺がまたチームの中でボールを蹴るのを待っている。
そう言っていた。
俺はそのたびに、聞こえないふりをした。
「……勝手にしろよ」
「うん。勝手にする」
悠真はそう言って、仲間のところへ戻っていった。
俺はその背中を見送った。
明日は体育祭本番。
サッカーの試合もある。
俺が出るかどうかは、まだ決めていない。
ただ、家に帰ったら、またボールを蹴るだろう。
そう思っている自分に気づいて、俺は小さく息を吐いた。
「……失恋したので、体育祭は休みたい」
誰に言うでもなく呟く。
けれど、明日を休む理由は、もうそれだけではなくなっていた。