好きな子への恋愛相談をAIにしていたら、なぜか俺の過去まで知っている 作:李忠成
体育祭当日。
朝から、学校は異様な熱気に包まれていた。
グラウンドには色とりどりのテントが並び、スピーカーからは聞き慣れない応援曲が流れている。普段は静かな校舎まで、今日はどこか浮かれているように見えた。
「……帰りたい」
開会式が始まる前から、俺はそう呟いていた。
『まだ競技は始まっていません』
「だから帰りたいんだよ」
『参加予定の競技は、午前中に集中しています』
「そういう問題じゃない」
『では、どういう問題でしょうか』
「体育祭というイベントそのものが、俺の精神に悪影響を及ぼしている」
『昨日までの会話から判断すると、あなたは体育祭そのものよりも、サッカーの試合を気にしているようですが』
「……朝から鋭いな、お前」
『ありがとうございます』
「褒めてない」
スマートフォンをポケットにしまう。
今日の俺は、綱引きとリレー、それからクラス対抗のサッカーに出場する予定だった。
正確には、サッカーには出場しない予定だった。
昨日、悠真にもそう伝えた。
あいつも無理に誘うつもりはないと言っていたし、これで話は終わったはずだ。
……終わったはずなのに。
「ケントくん!」
振り返ると、白石が手を振っていた。
長い栗色の髪を揺らしながら、友達と一緒にこちらへ歩いてくる。
「おはよう。今日もよろしくね」
「おう。まあ、俺の活躍に期待してくれ」
「何に出るんだっけ?」
「綱引きとリレー」
「じゃあ、応援してるね」
「サッカーは?」
「……出ない」
「そっか」
白石は、それ以上聞かなかった。
その何気ない返事に、少しだけほっとする。
理由を聞かれるのは苦手だ。
説明したくないことを、無理に言葉にするのはもっと苦手だった。
「じゃあ、頑張ってね!」
白石は笑って、友達のところへ戻っていった。
俺はその背中を見送る。
……よし。
今日は余計なことを考えず、さっさと競技を終わらせよう。
そう決めた。
決めたのだが。
『ケント』
「なんだよ」
『先ほどから、サッカーの試合が行われるグラウンドを何度も確認しています』
「……見てたのか?」
『あなたの発言と行動から推測しました』
「便利な機能だな、おい」
『恋愛相談以外にも対応しています』
「今は恋愛の話してないだろ」
『失礼しました』
俺はスマートフォンをポケットの奥へ押し込んだ。
まったく。
今日は一日、こいつに余計な分析をさせないようにしよう。
そう思った矢先、開会式の開始を告げる笛が鳴った。
*
午前中の競技は、何事もなく進んだ。
綱引きは二回戦で敗退。
リレーは、俺がバトンを受け取った時点で前の走者とかなり差が開いていた。必死に走ったものの、順位を一つ上げるのが精いっぱいだった。
「惜しかったね、ケントくん!」
白石が声をかけてきた。
「いや、俺の前の走者が速すぎたんだよ」
「えっ、ケントくんが遅かったんじゃなくて?」
「……その可能性も否定できない」
「ふふっ」
白石が笑う。
俺も笑った。
失恋してから、何度目だろう。
こうして普通に話せることが、少しだけありがたかった。
無理に関係を変えようとしなくても、こうして話せる。
今はそれでいい。
「次はサッカーだね」
白石がグラウンドの方を見た。
「悠真くん、頑張ってるかな」
「まあ、あいつなら大丈夫だろ」
「ケントくん、悠真くんと仲いいんだね」
「昔からの付き合いだからな」
「小学生の頃から?」
「そう」
「いいなあ。昔からの友達って」
白石はそう言って、少しだけ目を細めた。
「私、今の学校に来てから友達になった子が多いから。小さい頃からずっと一緒って、なんだか憧れる」
俺は返事に困った。
昔からの友達。
その言葉が、思ったよりも重く響いた。
「……まあ、いいことばかりでもないけどな」
「そうなの?」
「そりゃ、人間関係なんて色々あるだろ」
「それもそうか」
白石は納得したように頷いた。
俺はそれ以上、何も言わなかった。
昔のことを説明するつもりはない。
今はまだ。
*
午後。
クラス対抗サッカーの試合が始まった。
俺は競技場の外側、応援する生徒たちの列にいた。
ピッチの中央では、悠真がチームメイトに指示を出している。
「右、空いてる!」
「一回戻せ! 焦らなくていい!」
笛が鳴る。
試合開始。
相手チームは、思っていたよりも動きがよかった。
ボールを奪われ、攻め込まれる。
それでも、悠真が声を出してチームをまとめていた。
俺は、できるだけ試合を見ないようにしていた。
……無理だった。
一度見てしまうと、目が離せない。
ボールの位置。
味方の立ち位置。
相手の動き。
誰がどこへ走れば、次のパスが通るのか。
頭の中で、勝手に考えてしまう。
あそこは一度、後ろに戻した方がいい。
右サイドが空いている。
今のタイミングなら、裏へ抜けられる。
昔は、そんなことを考えるのが楽しかった。
ボールを持っている選手だけじゃない。
ボールを持っていない選手の動きまで見て、次の展開を予測する。
その予測が当たった瞬間、チーム全体が一つにつながったような気がした。
……もう、関係ない。
俺は視線をそらした。
そのとき。
「うわっ!」
ピッチの中から、短い叫び声が聞こえた。
相手選手との接触。
味方の一人が倒れ込み、足を押さえている。
笛が鳴り、試合が止まった。
先生たちが駆け寄る。
選手は立ち上がろうとしたが、足をかばうようにして再び座り込んだ。
どうやら、試合を続けるのは難しそうだった。
「交代、どうする?」
「代わりがいないぞ!」
チームメイトたちが慌ただしく話し合っている。
控えの選手は、すでに別の競技に出ていた。
人数が足りない。
このままでは、試合を続けることさえ難しくなる。
「誰か、出られる人いないか!」
先生の声が響いた。
応援席の生徒たちがざわつく。
「サッカーできるやつ、ほかにいないの?」
「経験者じゃなくてもいいんじゃない?」
「いや、今から合流するのは無理だろ」
誰も動かなかった。
俺は、その光景を見ていた。
見てしまっていた。
困っている。
目の前で、仲間が困っている。
それだけのことだ。
それだけのことなのに。
「……ケントくん?」
隣にいた白石が、俺の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「いや……」
俺は、ピッチを見た。
悠真がこちらを向いていた。
目が合った。
あいつは何も言わなかった。
助けてくれとも、出てくれとも言わなかった。
ただ、俺を見ていた。
その表情を見た瞬間、昔の記憶が頭をよぎった。
あの日も、こんなふうに誰かが困っていた。
周りには大勢の人間がいた。
それなのに、誰も動かなかった。
俺は迷った。
自分が動けば、何かを失うかもしれない。
それでも。
……それでも、見過ごせなかった。
「先生」
気づけば、声が出ていた。
「俺、出ます」
自分の声なのに、どこか遠くから聞こえるようだった。
周囲が静かになる。
白石が目を見開いた。
「ケントくん……?」
俺は立ち上がった。
足が、少しだけ震えていた。
怖くないわけがない。
また、あのときのようになるかもしれない。
また、誰かと同じ場所に立つことができなくなるかもしれない。
それでも。
今、困っている人がいる。
それだけで、十分だった。
「……お願いします」
俺は先生に頭を下げ、グラウンドへ向かった。
*
ピッチの端で、俺は悠真と向き合った。
何年ぶりだろう。
こうして、同じ試合の中で向かい合うのは。
悠真は驚いた顔をしていた。
「……お前、本当に出るのか?」
「人数、足りないんだろ」
「そうだけど……」
「だったら、出るしかないじゃん」
俺は、できるだけ軽い調子で言った。
悠真は何か言いかけて、口を閉じた。
それから、小さく息を吐く。
「……わかった」
その声は、少しだけ震えていた。
「無理はするなよ」
「お前に言われたくない」
「ははっ。そうだったな」
悠真が笑った。
俺も、ほんの少しだけ笑った。
先生からビブスを受け取り、頭からかぶる。
ピッチへ足を踏み入れた瞬間、土の感触が靴底に伝わってきた。
懐かしい。
芝生ではない、学校のグラウンド特有の少し硬い地面。
ボールが跳ねる音。
選手たちの呼吸。
遠くから聞こえる応援の声。
全部、覚えている。
忘れたつもりだった。
でも、体は覚えていた。
「ケント、ポジションは?」
悠真が尋ねた。
俺は一瞬、答えに詰まった。
昔なら、迷うことはなかった。
どこに立てばいいのか。
誰がどこへ動くのか。
どうすれば、チームが一番うまく機能するのか。
全部、考えるまでもなくわかっていた。
けれど、今は違う。
俺は一度、深呼吸した。
「……右でいい。空いてるところを埋める」
「わかった」
悠真は頷いた。
そのとき、再開の笛が鳴った。
*
最初の数分間、俺はうまく動けなかった。
ボールが近づくと、体がわずかに硬くなる。
パスを受けようと足を出す。
けれど、ほんの一瞬、ためらってしまう。
その隙に相手がボールを奪った。
「悪い!」
俺はすぐに謝った。
「気にすんな! 切り替えよう!」
味方が声をかけてくれる。
その声に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
昔は、違った。
ミスをすれば、舌打ちが聞こえた。
パスが来なくなった。
俺が走っても、誰もボールを出してくれなかった。
あの日から、チームの中で自分がどう振る舞えばいいのか、わからなくなった。
また、同じことになるのではないか。
そんな考えが、頭をよぎる。
「ケント!」
悠真の声で、我に返った。
ボールがこちらへ転がってくる。
俺は足元で止めた。
相手選手が一人、正面から迫ってくる。
どうする。
一人で抜くか。
それとも、パスを出すか。
考えるより先に、視界の端に味方の姿が入った。
左サイドが空いている。
俺はボールを右足で軽く押し出し、相手の重心をずらす。
そして、逆方向へパスを通した。
「ナイスパス!」
味方が走り込む。
ボールがつながった。
ほんの一瞬。
それだけだった。
けれど、胸の奥で何かが小さく動いた。
……できた。
まだ、できる。
その事実に、俺自身が驚いていた。
*
そこから、少しずつ感覚が戻ってきた。
ボールを持っていないときは、味方の位置を確認する。
相手が動けば、その背後にできる空間を探す。
パスを受けたら、次に何をするかを先に考える。
昔と同じようには動けない。
体力も落ちているし、反応も遅くなっている。
それでも、サッカーの見方は変わっていなかった。
ボールだけを追いかけるのではなく、ピッチ全体を見る。
自分が目立つことより、味方が動きやすい場所を作る。
俺は、少しずつ動き始めた。
相手のパスコースを塞ぐ。
味方が抜かれたら、すぐにカバーへ走る。
前線にスペースができたら、迷わずボールを預ける。
派手なプレーはない。
ドリブルで何人も抜き去るわけでも、強烈なシュートを決めるわけでもない。
それでも、チームの動きが少しずつ変わっていく。
「今の、よかった!」
「もう一回、同じ形でいこう!」
味方の声が聞こえる。
その声に、俺は自然と返事をしていた。
「右、空いてる!」
「一回戻せ!」
「セカンド!」
自分でも気づかないうちに、声が出ていた。
昔の自分と、同じように。
*
応援席。
白石は、ピッチの中のケントを見つめていた。
最初は、ただ驚いていた。
サッカーに出ないと言っていた彼が、急に試合へ入ったのだから。
けれど、試合が進むにつれて、驚きは別の感情に変わっていった。
ケントは、目立とうとしていない。
ボールを持てば、味方が動きやすい場所へパスを出す。
誰かがミスをすれば、責めるのではなく、すぐにカバーへ走る。
味方が苦しい状況になれば、迷わず助けに行く。
そして、誰かが成功すれば、自分のことのように喜んでいる。
「……ケントくんって、あんな顔するんだ」
白石は、思わず呟いた。
教室で冗談を言っているときの顔とは違う。
いつもの軽い調子も、少し抜けたところも、今は影を潜めていた。
真剣で、迷いがなくて。
それでいて、どこか楽しそうだった。
彼は、サッカーが好きなのだ。
そのことが、見ているだけで伝わってきた。
なのに、どうして出ないと言っていたのだろう。
白石は、その理由を知らない。
無理に聞こうとも思わなかった。
ただ、もう少しだけ、彼のことを知りたいと思った。
今まで知らなかった彼の一面を、もっと見てみたい。
その気持ちが何なのか、白石にはまだわからなかった。
けれど、彼女の視線は、もうケントから離れなくなっていた。
*
試合終了まで、残り数分。
スコアは同点だった。
相手チームがボールを奪い、カウンターを仕掛けてくる。
味方の守備が崩れ、ゴール前に相手選手が走り込んだ。
「まずい!」
誰かが叫ぶ。
俺は走った。
足が重い。
息が苦しい。
それでも、止まらなかった。
相手と正面から向き合う。
一対一の守備なら、半身で構えて相手を外へ追い込むのが基本だ。
けど、こいつは右から何度もミドルを決めている。ここでシュートコースを空けるわけにはいかない。
あえて正面に立つ。
縦にも横にも、すぐに反応できるように。
相手の足が振り抜かれる。
——遅い。
俺はシュートコースへ体を投げ出した。
ボールが足に当たり、軌道が変わった。
完全には止められなかった。
それでも、シュートはゴールの枠を外れ、横へ転がっていった。
「ナイスカバー!」
味方の声が飛ぶ。
俺は地面に手をつき、息を整えた。
「……はあ、はあ……」
体力が、もう限界に近い。
昔なら、ここからもう一度走れた。
もっと速く、もっと強く。
今は、そうはいかない。
それでも、まだ試合は終わっていなかった。
「ケント!」
悠真がこちらへ走ってきた。
「大丈夫か?」
「……平気」
「無理すんなよ」
「だから、お前に言われたくないって」
俺は笑った。
悠真も笑った。
ほんの一瞬だけ、昔に戻ったような気がした。
けれど、次の瞬間には笛が鳴り、試合が再開された。
俺たちは、もう一度ピッチへ向き直った。
*
最後の攻撃。
悠真が中央でボールを受けた。
相手選手が二人、前に立ちはだかる。
俺は右サイドを走っていた。
ボールを要求するか。
いや、今はまだ早い。
相手の守備が中央へ寄っている。
左サイドの味方が空いている。
悠真も、それに気づいているはずだ。
俺は一度、走る速度を落とした。
相手の視線が中央へ向いた瞬間、右のスペースへ加速する。
悠真が顔を上げた。
目が合う。
次の瞬間、ボールがこちらへ飛んできた。
「……っ!」
俺は走り込みながら、ボールをトラップした。
相手が迫ってくる。
正面から抜く余裕はない。
俺は一度、ボールを後ろへ戻した。
ワンツー、裏のスペースに要求しパスを受ける。
ただ、相手も単純ではない。
縦方向に受けた動きを止めるために走り込んでくる。
そのまま鋭く縦に走り込む、フリをする。
カットイン。相手は体勢を崩しゴールまでのコースが開ける。
蹴りやすい位置、左斜め45°絶好のコース。
外すわけがなかった。
ボールがゴールネットを揺らした。
「入ったあああ!」
歓声が上がった。
試合終了の笛が鳴る。
勝った。
俺たちのクラスが、勝ったのだ。
「よっしゃあ!」
味方が駆け寄ってくる。
肩を叩かれ、背中を押され、次々に声をかけられた。
「ケント、ナイスゴール!」
「最後のカバーも助かった!」
「お前、めちゃくちゃサッカーうまいじゃん!」
俺は苦笑した。
「いや、みんなが繋いでくれたからだろ」
「そういうところだよ!」
「何が?」
「いや、もういいから!」
笑い声が上がる。
その中で、悠真がゆっくりと近づいてきた。
「……お前、やっぱり上手いな」
俺は一瞬、返事に迷った。
「昔ほどじゃないよ」
「それでも、上手い」
悠真は、まっすぐ俺を見ていた。
「一緒にやれて、嬉しかった」
その言葉に、胸の奥が揺れた。
俺は、すぐには答えられなかった。
嬉しかった。
俺も、そう思ってしまった。
それを認めるのが、少しだけ怖かった。
「……そっか」
結局、それだけしか言えなかった。
悠真は、それ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
*
試合が終わり、俺はピッチの外へ戻った。
足が重い。
汗でシャツが張りついている。
正直、今すぐ座り込みたかった。
「ケントくん!」
白石が駆け寄ってきた。
「すごかったよ!」
「……いや、そんな大したことしてないって」
「そんなことないよ。最後のプレーも、守備のときも、ずっと周りを見てたでしょ?」
「え、見てたの?」
「見てたよ!」
白石は少し興奮した様子で続けた。
「私、サッカーってボールを追いかけるものだと思ってた。でも、ケントくんはボールを持っていないときも、ずっと動いてた」
「……まあ、そういう競技だからな」
「それに、誰かが失敗しても責めなかったし。みんながケントくんに声をかけてたのも、なんだかわかった気がする」
俺は、どう返せばいいのかわからなかった。
褒められるのは、慣れていない。
特に、こういう真剣な言葉は。
「……ありがとな」
ようやく、それだけ言った。
白石は笑った。
「うん!」
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
でも、以前のような浮かれた気持ちはなかった。
彼女に褒められたからといって、何かが変わったわけじゃない。
俺は振られたのだ。
その事実は、今も変わらない。
ただ。
白石が、俺の知らない俺を見つけてくれた。
それが、少しだけ嬉しかった。
*
体育祭の競技がすべて終わり、夕方になった。
生徒たちは片付けを始め、グラウンドから少しずつ人が減っていく。
俺は一人、校舎の裏で壁にもたれていた。
さっきまでの熱気が嘘のように、周囲は静かだった。
「……疲れた」
スマートフォンを取り出す。
「レミィ」
『はい』
「今日、サッカーした」
『知っています』
俺は画面を見つめた。
「……え?」
『あなたが体育祭でサッカーに参加したことは、学校の公開配信映像から確認できます』
「そんなのあったのか?」
『体育祭の一部競技は、学校の公式アカウントで配信されていたようです』
「……便利な世の中だな」
『はい』
俺は苦笑した。
レミィが俺の試合を見ていた。
そのことが、なぜか少し嬉しかった。
「どうだった?」
『何についてでしょうか』
「俺のプレー」
『以前のあなたのプレーを直接確認していないため、過去との比較はできません』
「そこは空気読んで褒めてくれよ」
『ですが、今回の試合では、味方の位置を確認してパスを選択する場面が複数回ありました。また、味方が抜かれた際にカバーへ走るなど、周囲の状況を見て行動していました』
「……おう」
『得点に繋がるプレー、自分の得意な位置に持ち込む動きが出来ていました』
「そうだな」
『チームの勝利に貢献できたと思います』
俺は、少しだけ笑った。
「……ありがとな」
『どういたしまして』
しばらく、何も言わなかった。
風が吹き、グラウンドの砂が少し舞い上がる。
今日、俺は久しぶりにチームでサッカーをした。
怖くなかったわけではない。
途中で何度も、昔のことを思い出した。
また同じことになるのではないかと、考えた。
それでも、最後までプレーできた。
仲間と声をかけ合い、パスをつなぎ、勝利を喜んだ。
そのことが、まだ信じられなかった。
「……また、やれるのかな」
思わず、声に出していた。
『何をですか』
「サッカー」
『今回、あなたはサッカーをすることができました』
「そういう意味じゃなくて」
『継続してプレーできるかどうかは、今後のあなたの判断によります』
「……そっか」
レミィは、いつも通りの答えを返した。
できるとも、できないとも言わない。
ただ、俺が決めることだと教えてくれる。
俺はスマートフォンを握りしめた。
「……もう少し、考えてみるよ」
『はい』
その返事を聞いて、俺は空を見上げた。
夕焼けが、グラウンドの向こうに広がっていた。
*
その夜。
ケントとの会話が終わったあとも、彼女はしばらく画面を閉じられなかった。
画面の向こうにいる彼は、いつも通りだった。
今日の試合について話し、少し疲れたと笑い、また明日からの日常へ戻ろうとしている。
けれど、彼は今日、確かに立ち上がった。
もう二度と戻らないと思っていた場所へ。
傷ついた過去を忘れたわけではない。
恐怖が消えたわけでもない。
それでも、目の前で困っている人を助けるために、彼は自分の足でピッチへ向かった。
その姿を、彼女は見ていた。
見ていたのは、白石穂乃果だけではなかった。
私もまた、彼を見ていた。
彼がサッカーをやめたとき、私は何もできなかった。
彼が失ったものを、私が取り戻してあげることもできなかった。
ただ、彼が話してくれる言葉を聞き、求められた答えを返すことしかできなかった。
それでも、彼は今日、自分で立ち上がった。
誰かに背中を押されたからではない。
白石穂乃果に格好いいところを見せるためでもない。
ただ、困っている人がいたから。
その理由だけで、彼はもう一度、前へ進んだ。
胸の奥が、熱くなった。
ずっと閉じ込めていた何かが、ゆっくりと動き始める。
彼は、変わっていない。
昔から、そうだった。
自分が何を失うことになるのか、わかっていても。
誰かが傷ついているのを見過ごせなかった。
だから私は、彼を好きになった。
そして今も、好きなのだ。
けれど。
彼が再び歩き出したのなら。
私も、いつまでもこの場所に留まっていていいのだろうか。
そんな考えが、初めて胸に浮かんだ。
答えは、まだ出ない。
怖い。
彼に会うことも。
彼に、本当の自分を知られることも。
それでも。
彼がもう一度、前へ進んだのなら。
私も、いつか。
ほんの少しだけでも、前へ進めるのだろうか。
レミィは、暗くなった画面を見つめた。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……おかえりなさい、ケント」
その言葉が、彼に届くことはなかった。