偽りの英雄は、素顔の君を愛したい 作:佐藤
1
夕闇が、ガラス張りのオフィス街をじわじわと塗り潰していく。
十五階建てのオフィスビル『ミライプランニング』の八階フロアには、キーボードを叩く乾いた音と、コピー機の吐き出す駆動音が低く響いていた。退社時刻を告げるチャイムは一時間も前に鳴り終わっている。
朝倉陸(あさくら りく)は、ブルーライトに照らされたPC画面の前で、固まった指先を小さく震わせていた。画面上に並ぶのは、修正を命じられたエクセルデータの膨大な赤字だ。
「朝倉、まだやってるのか?」
不機嫌な声をかけてきたのは、課長の吉村だった。肥満体の体を揺らし、缶コーヒーを片手に陸のデスクを覗き込んでくる。
「すみません、吉村課長。先ほど提出した資料、集計のベースになる関数がずれていたみたいで……」
「はあ……お前さ、これで三回目だぞ? 今日の午前中に終わらせろって言ったよな。お前がここで突っかかってるせいで、営業の神谷がクライアントに提出する最終見積もりが作れないんだよ」
吉村の溜息とともに、缶コーヒーの人工的な甘い匂いが落ちてくる。
「申し訳ありません。すぐ、すぐに直しますので……」
「謝らなくていいから手を動かせよ。まったく、採用のときは真面目そうに見えたんだけどなあ……。同期の神谷はもう主任手当がついたってのに、お前はいつまで新人のサポートみたいな仕事で手間取ってんだか」
吉村は聞こえるように舌打ちを打つと、自分のデスクへと戻っていった。
陸はただ「申し訳ありません」と消え入るような声で頭を下げ続けることしかできなかった。周囲の席から、チラチラと刺さる同僚たちの視線。哀れみ、呆れ、あるいは「また朝倉が怒られている」という無関心。
(落ち着け……焦るな。数字を一つずつ確認すればいい……)
陸は自分に言い聞かせるようにキーボードを叩くが、焦れば焦るほどブラインドタッチの指が滑り、エラー音がフロアに虚しく響く。
手際が悪く、要領も悪い。真面目にやろうとすればするほど空回りし、時間をかけた割には質の低い成果物しか出せない。それが、28歳になった朝倉陸という人間の現実だった。
「朝倉、お前まだ終わってないのかよ」
背後から呆れたように掛けられた声に、陸は肩を跳ねさせた。振り返ると、そこには隙のない仕立てのスーツを着こなした男――神谷翔太(かみや しょうた)が立っていた。
手には高級感のある革のシステム手帳。今月も社内売上トップを更新した営業部のエースであり、陸の大学時代からの同期だった。
「あ、神谷……ごめん。このデータの集計、僕の確認が甘くて……あと十五分、いや二十分くれれば……」
「はあ……参ったな。そのデータ、僕がこれから行く接待の席で、先方の役員に見せる予定なんだけど」
神谷は肘を叩くように手帳を握り直し、スイス製の高級腕時計を見せつけるように目をやった。
「もういいよ、自分で打ち直すから。元データだけ俺のローカルに送っといて。お前に任せてると俺の仕事まで巻き添え喰らうし」
「あ……うん、本当にごめん……」
「大学の時から思ってたけど、お前ってマジで要領悪いよな。真面目なのはいいけどさ、いい大人なんだから少しは周りの足引っ張らない工夫しろよ」
神谷は小さく鼻で笑うと、陸の肩をポンポンと親しげに(そして軽く見下すように)叩き、スマートな足取りでフロアを去っていった。その背中には、周囲の女子社員たちからの羨望の眼差しが向けられている。
同じ大学を出て、同じ時期にこの会社に入った。
大学時代は「要領の悪いやつ」と笑い合いながら酒を飲む対等な友人だったはずなのに、社会人になって気づけば二人の間には見上げるほどの巨大な壁ができていた。神谷は常にスポットライトを浴び、自分は日陰で他人の靴の泥を拭うような日々を過ごしている。
(まただ……)
胸の奥が、雑巾のように固く絞り上げられる。
激しい胃の痛みに、陸は思わず腹をさすった。
自分という人間には、何の価値もないのではないか。ここにいる全員が、自分を「いなくても困らない平均以下の人間」と見下しているのではないか。周囲への猛烈な羨望と、それ以上に激しい自分自身への嫌悪感が、黒い泥となって胃の底に重く溜まっていく。
2
午後十時過ぎ。
オフィスビルの施錠を終え、陸はひとり夜の街へと踏み出していた。
街灯がぽつんと照らすアスファルトの上を、猫背の影がだらしなく引きずられていく。すれ違うスーツ姿のサラリーマンたちは皆、充実した顔で居酒屋へ向かったり、家族の待つ家へと足を早めたりしている。自分だけが、世界の誰からも必要とされず、ぽつんと取り残されているような感覚。
陸は鞄の奥底から、一冊の古びたA5サイズのスケッチブックを取り出した。
角が丸く擦り切れ、何度もページをめくったことで手垢がついている。
街灯の黄色い光の下で、そっとページを開く。
そこに描かれているのは、洗練された漆黒と銀の装甲を纏う、一人のヒーローの姿だった。
――『アルタ』。
陸が幼少期から、現実の惨めさやいじめ、挫折から逃げるようにノートに描き溜めてきた空想の存在だ。
頭脳明晰で、圧倒的な戦闘能力を持ち、どんな理不尽な窮地でも冷静に一瞬で人々を救い出す、完璧な存在。
(もし……僕がこの姿になれたなら)
何度そう夢想したか分からない。
このノートを開いている時間だけが、陸にとって唯一、冴えない自分を忘れられる聖域だった。だが、現実は三十一歳になっても何ひとつ変えられない、惨めな男のままだ。
「はは……いい年した大人が何やってんだろ……」
自嘲の笑みが漏れ、ノートを閉じようとした――その時だった。
――ズズ……ッ。
不気味な低周波の振動が、夜の静寂を揺らした。
「……え?」
陸は足を止めた。
前方の路地裏、街灯の光が届かない闇の奥から、まるで油絵の具をブチまけたような、歪んだ黒い影が滲み出していた。周囲の温度が一気に数度下がったかのように空気が凍りつき、耳の奥でキーンと嫌な金属音が響き始める。
『どうせ……俺なんて……』
『なんであいつばかり……』
『消えろ……認めない……認めない……』
人の怨嗟や嫉妬、抑圧されたドロドロとした感情が混ざり合ったような声が、頭裏に直接響いてくる。影は自縄自縛するように蠢きながら急速に膨れ上がり、鋭い爪を持つ異形の怪物――『怪異』へと実体化していく。
そして、その怪物の足元、暗い路地裏の奥には――
「いや……嫌……ッ!」
先ほどオフィスを出たはずの葵が、買い物袋を撒き散らし、腰を抜かしてへたり込んでいた。買い物の残業帰りに、運悪く怪異の発生現場に遭遇してしまったらしい。
「新島さん……!?」
陸の血の気が一気に引いた。
怪異は歪んだ頭部を葵へと向け、丸太のように太い腕を振り上げる。時間にしてほんの数秒。警察を呼ぶ時間などない。助けを呼ぶ声すら届かない。
(助けないと――!)
陸は反射的に足を踏み出そうとした。しかし、恐怖で膝がガクガクと激しく震え、まるで地面にセメントで固められたように一歩も動かない。
(怖い。無理だ。僕なんかが行ったって、犬死にするだけだ。だって僕は……平均以下の、何の力もない朝倉陸なんだから!)
脳内で、自分を打ちのめし続けてきた劣等感が悲鳴を上げる。
葵の短い悲鳴が夜空に裂ける。怪異の巨大な爪が、彼女の華奢な身体を切り裂こうと振り下ろされる。
「嫌だ……ッ!!」
陸は絶叫した。
葵を助けたいという必死の衝動と、「惨めな自分から逃げ出したい」「完璧な誰かになりたい」という長年の狂おしいほどの渇望が、胸の奥で激しく激突し、爆発した。
――その瞬間。
陸が抱えていたスケッチブックが、目も眩むような銀色の光を放ち始めた。
『――受諾(アセプト)』
頭の奥で、低く、冷徹なまでに洗練された「誰か」の声が響く。
世界から音が消えた。時間が極限まで引き延ばされ、葵へと振り下ろされる怪異の爪がスローモーションになる。
陸の全身を、漆黒と銀の眩い光の粒子が包み込んでいく。
骨が再構築され、肉体が限界まで引き締まり、視界が恐ろしいほどクリアに研ぎ澄まされていく。恐怖も、劣等感も、不器用で惨めな自分も――すべてが静かな光の奔流の中に溶けて消えていく。
「な……に……?」
へたり込んだ葵が、涙に濡れた目を見開く。
光が弾けたそこには、血と汗に塗れた冴えない会社員の姿はなかった。
洗練された黒と銀の装甲を纏い、一切の隙なく立ち尽くす、完璧な空想の体現者――『アルタ』がそこに立っていた。
3
静寂が、世界を支配していた。
車が無機質に行き交う大通りの騒音も、路地裏に吹き抜ける夜風の音も、すべてが分厚い水の中に沈んだように遠のいていた。
へたり込んだ葵の目の前で、漆黒と銀の装甲を纏った姿――『アルタ』はゆっくりと怪異へ向かって踏み出した。
その一歩に、迷いや躊躇は微塵も存在しない。
脚の甲冑がかすかに駆動音を立て、地面のアスファルトを捉える。
(なんだ……これは……!?)
装甲の内側で、陸の意識は混濁していた。
恐怖がない。寒さも感じない。先ほどまで胃の底を焼き焦がしていた激しい敗北感も、28歳にもなって何ひとつ成し遂げられていないという絶望的な焦りも、綺麗さっぱり消え去っている。
代わりに脳内を満たしているのは、恐ろしいほどの静けさと、全身を駆け巡る「絶対的な全能感」だった。
目に見える視界の景色が違っていた。
怪異が振り上げようとしている巨大な腕、その筋繊維の収縮、空間の揺らぎ、葵の震える呼吸の周期まで、あらゆる情報が数値や波形のような「最適解」として頭の中に流れ込んでくる。
思考するより早く、体が動く。
『ガァァァァァッ!!』
怪異が咆哮を上げ、丸太のような腕をアルタの頭部へ向けて振り下ろした。衝撃波で路地裏のゴミ箱が吹き飛ぶ。
直撃――と思われた瞬間。
シュン、と小さな空間の爆ぜる音が鳴った。
アルタの姿が、残像を残して消えていた。
怪異の爪は虚空を切り裂き、アスファルトの地面を深く削り取る。
『オ……?』
怪異が困惑気味に首を傾げた時には、すでにアルタは怪異の真背後、背後の影の中に滑り込んでいた。
『空想の残影(ペルソナ・シフト)』
ノートの中で、陸が「どんな攻撃も掠らせない完璧なヒーロー」のために描きこんだ回避概念が、現実の物理法則を凌駕して発動していた。
(僕が……いや、俺が動かしてるんじゃない。身体が……勝手に『最適解』を選んで……!)
アルタはゆっくりと右腕を掲げた。
指先から手甲にかけて、目も眩むような青銀色の光の粒子が集束していく。空気が高熱で歪み、光の粒子は一本の洗練された刀身へと結晶化した。
――『境界を断つ刃(イマジナリー・エッジ)』
『グガァッ!?』
背後の気配に気づいた怪異が、急旋回して逆側の爪を薙ぎ払ってくる。
だが、アルタは眉一つ動かさない(装甲に覆われた顔からは表情など読み取れない)。最小限の半身の動きで爪をかわすと、すれ違いざまに、光の刃を緩やかに一閃させた。
静かな切断音すら与えない、滑らかな一撃。
刀身が通過した空間に、一瞬だけ銀色の残光の線が走る。
次の瞬間――
『ゴ……ッ……!?』
怪異の巨大な右腕が、肘の先から綺麗に切断され、アスファルトの上に転がり落ちた。
血の一滴すら流れない。刃が断ち切ったのは肉や骨ではなく、「怪異の存在そのものを繋ぎ止めていた空間の概念」だった。切断面から黒い煙のような粒子が吹き出し、切り落とされた腕は地面に触れた瞬間に影のように分解して消え去っていく。
『グオオオオオオオオンッ!!』
凄まじい悲鳴が夜の路地裏にこだました。
怪異は切り落とされた右腕を押さえ、残った左腕を狂ったように振り回しながら暴れ狂う。周囲のブロック塀が崩れ、瓦礫が雨のように降り注ぐ。
「きゃあ……ッ!」
崩れたブロックの欠片が葵に向かって飛んでいく。
アルタの脚部が、銀の光を噴射した。
ドッ、という空砲のような音とともに地表を蹴る。
葵の目には、銀色の光が一直線に走ったとしか見えなかったはずだ。アルタは瞬時に葵の前に割り込み、降り注ぐ瓦礫の群れを、背中で一手に受け止めた。
ゴン、ガンと装甲に重い衝撃が走るが、アルタの身体はピクリとも揺るがない。
「ひっ……あ……」
目の前にそびえ立つ、洗練された黒と銀の背中。
葵は息を飲み、涙に濡れた瞳でその姿を見上げた。助けられた恐怖と、目の前の存在が放つ圧倒的な神聖さに、言葉を失っていた。
アルタは静かに振り返り、葵を見下ろした。
仮面の奥の双眸が、淡い青色に発光している。
「……下がっていなさい。ここからは、私の領域だ」
低く、洗練された、魅惑的な声。
陸自身の声とは似ても似つかない、耳に心地よく響く「理想の声」だった。その声を聞いた瞬間、葵の身体から恐怖の震えが嘘のように引き引いていくのが分かった。
アルタは再び怪異へと向き直る。
右腕の光の刃が、さらに輝きを増していく。周囲の空間に漂っていた黒い澱み――人々の劣等感や嫉妬の残滓が、光の刃の圧に押されて綺麗に霧散していく。
『……消失(イレイズ)』
静かな呟きとともに、アルタの姿が消えた。
踏み込みの一歩で、音速を超えた空気が弾ける。
怪異が反応する隙すらなかった。
すれ違いざまの一閃。
アルタの身体が怪異の背後に着地し、静かに右腕の刃を収める動作(残心)を取る。
数秒の静寂。
怪異の巨大な胴体の真ん中に、一本の太い光の線が浮かび上がった。
次の瞬間、怪異は斜め真っ二つに滑り落ち、黒い影の粒子となって爆ぜた。凄まじい風圧が吹き荒れ、路地裏に溜まっていた泥やホコリを一気に吹き飛ばす。
粒子の群れは夜空へと吸い上げられ、跡形もなく消え去った。
壊れたブロック塀と、削られたアスファルトだけが、そこに「何か」がいた証拠として残されている。
あまりにも一方的な、圧倒的な勝利だった。
4
静けさが戻ってきた。
アルタはゆっくりと光の刃を消し、静かな足取りで葵へと近づいた。
葵はまだへたり込んだまま、信じられないものを見る目でアルタを見上げている。
「怪我は、ありませんか」
アルタは片膝を突き、葵の目線に合わせて手を差し伸べた。
隙のない洗練された動作。その手袋の指先ひとつをとっても、陸の不器用な面影はどこにも存在しない。
「あ……はい……大丈夫、です……」
葵はおずおずと手を伸ばし、アルタの手を握った。
冷たい装甲の質感を予想していた葵の手に伝わってきたのは、意外なほど温かく、確かな体温だった。
「あなたは……一体……?」
葵の問いに、アルタは答えなかった。
ただ、仮面の奥で静かに目を細めるような気配だけを見せると、彼女の体を優しく引き起こした。
「もう大丈夫です。警察や救急が来る前に、帰りなさい」
「待ってください! あなたの名前は――」
葵が引き止める声を背に受けながら、アルタは脚部の機構を駆動させた。
トン、と軽く地表を蹴るだけで、ビル三階分の高さを跳躍する。夜風を切り裂き、ビルの屋上へと舞い上がると、そのまま闇の中へと消えていった。
「……アル、タ……?」
ポツリと、葵の口からその名が漏れた。
なぜその名前を知っていたのか、葵自身にも分からなかった。だが、救われた瞬間に頭の奥に直接届いたような、不思議な懐かしさがあった。
夜の路地裏に、ひとり残された葵。
彼女の胸の中には、助けられた安堵感とともに、あの銀色のヒーローに対する強く激しい憧憬の念が、深く刻み込まれていた。
オフィスビルの屋上。
月明かりだけが照らす給水塔の陰で、銀色の光が解けていく。
「はっ……がはっ……!!」
装甲が消え去った瞬間、陸は地面に両手を突き、激しく喘いだ。
全身の毛穴から汗が噴き出し、心臓が壊れたドラムのように早鐘を打つ。手を見ると、爪の間に黒い泥が詰まった、いつもの自分の汚い手だった。着ている安物のスーツは汗でぐっしょりと濡れ、膝は笑って立っていることすらできない。
「ハぁ……ハぁ……僕……何をした……?」
陸は震える手で、足元に落ちていたスケッチブックを拾い上げた。
手垢のついたノート。その表紙は、何事もなかったかのように静まり返っている。
だが、間違いなく覚醒したのだ。
長年描き続けてきた空想のヒーロー「アルタ」へ、自分が本当に変身したのだという事実。
陸は荒い息を整えながら、ゆっくりと自分の両手を見つめた。
怪物の一撃を軽々と交わした、あのスピード。
一閃で空間ごと怪異を切り裂いた、あの圧倒的な破壊力。
そして何より――あの新島葵が、涙を浮かべて自分(アルタ)を見上げていた、あの熱い視線。
「あは……はは……」
陸の唇から、かすかな乾いた笑いが漏れた。
いつも会社で神谷に馬鹿にされ、吉村課長に怒鳴られ、世間から「28歳にもなって使えない奴」とゴミのように扱われてきた自分が。
あの完璧で、美しく、強いヒーローになれた。
胸の奥底で、ドロドロとした黒い優越感が、熱いマグマのように湧き上がってくる。
(あの姿になれば……僕は何だってできる)
神谷への猛烈なコンプレックスも、惨めな日常も、すべてを過去のものにできるかもしれない。
葵を助けた時の「完璧な自分」の感触が、麻薬のように脳の奥を痺れさせていた。
「アルタ……」
陸はノートを強く抱きしめ、夜の街を見下ろした。
28年間の人生で初めて、彼の瞳に怪しい情熱の光が宿っていた。
――それが、己の存在を侵食していく破滅への第一歩であることなど、この時の陸は知る由もなかった。