偽りの英雄は、素顔の君を愛したい 作:佐藤
1
事件の翌朝。
朝倉陸(あさくら りく)は、いつもの冴えない姿で通勤電車の揺れに身を任せていた。
つり革を掴む右手。その皮膚の感覚、指の関節を曲げる動作ひとつに、陸はかすかな違和感を覚えていた。
昨夜、怪異を切り裂いたあの感触が、まだ手袋越しのように皮膚の奥に残っている気がするのだ。
(夢じゃ……なかったんだ)
スーツの胸ポケットに収められた小さなスケッチブックの輪郭を、上着越しに指先で確かめる。
28年間の惨めな人生で、初めて手にした圧倒的な力。あの「アルタ」という完璧な存在が、自分の内側に眠っているという事実だけで、いつもは胃を押し潰す通勤ラッシュの息苦しさが、どこか遠い出来事のように思えた。
オフィスに到着すると、フロア内は異様な熱気に包まれていた。
「聞いたか? 昨日の夜、南口の路地裏で爆破事故があったらしいぞ」
「事故っていうか、怪奇現象だよ。壁が綺麗に切断されてたって、ネットで噂になってる」
「『銀色のヒーローを見た』って投稿もSNSに上がってるぜ」
社員たちが給湯室やデスク越しに興奮気味に噂話を交わしている。
昨夜の怪異とアルタの戦いは、世間では「原因不明の器物破損事故」と「SNSの都市伝説」として処理され始めていた。
「おはようございます、朝倉先輩」
自分のデスクに着くと、隣から透き通るような声が聞こえた。
振り返ると、新島葵が少し顔色を蒼白にさせつつも、安堵したような複雑な表情で立っていた。
「あ……新島さん、おはよう。……何かあった? 少し顔色が悪い気がするけど」
「あ……はい。あの、朝倉先輩……引かないで聞いてくれますか? 実は昨夜、買い物の帰りに、すごく怖い目にあって……」
葵は周囲を気にするように声をひそめ、陸の顔を真剣な瞳で見つめた。
「私、助けられたんです。SNSで噂になってる、あの『銀色のヒーロー』に」
「え……? 銀色の……?」
陸は動揺を悟られぬよう、必死に初耳だという驚きの表情を作った。胸の奥が、ドクンと大きく跳ねる。
「本当にいたんです。すごく強くて、綺麗で……『ここからは私の領域だ』って言われて。……私、あの声と背中、一生忘れないと思います」
葵は頬をかすかに赤らめ、どこか遠くを見るような瞳で語った。
その表情を見た瞬間、陸の心臓が激しく脈打った。
(葵さんが……僕を……いや、『アルタ』を思って顔を赤くしている)
いつも自分を哀れみ、慰めてくれていた彼女が、いま目の前で「アルタ」に対して憧れの情を抱いている。正体が自分だとは言えない。言えるはずがない。だが、その秘密の快感は、陸の脳髄を痺れさせるほど甘美なものだった。
「へえ……すごいね。無事で本当によかったよ」
「はい! だから私、今日からもっと頑張ろうって思えたんです。あの人に恥ずかしくないように」
葵は爽やかに微笑み、自分の仕事へと向かっていった。
陸は自分の手元を見つめた。
ただの冴えない先輩として優しくされるのと、一人の男(ヒーロー)として憧れられることの決定的な違い。陸の腹の底で、暗い欲望の芽がぐんぐんと根を伸ばし始めていた。
2
その日の午後。営業部でちょっとしたトラブルが発生した。
「おい、どういうことだ! 先方から『契約内容が話と違う』ってクレームが入ってるぞ!」
吉村課長が汗を撒き散らしながら怒鳴り声を上げていた。
トラブルを起こしたのは、営業のエースである神谷だった。大型案件の契約を焦るあまり、細かい特約事項の確認を怠り、クライアントの法務担当者を激怒させてしまったらしい。
「す、すみません……先方の担当者がかなり気難しくて、こちらの説明を聞いてくれなくて……」
珍しく神谷が顔を青くし、汗を拭っている。
普段は陸を見下し、完璧を気取っている男が、激しい焦燥感に苛まれている姿。
フロア全体に重苦しい空気が立ち込め、吉村課長も神谷も、どう打開すべきか頭を抱えていた。
(神谷があんなに追い詰められている……)
陸は自分のデスクで、静かに書類を整理しながらその光景を見ていた。
以前の自分なら、「神谷でも失敗するんだ」とどこかスカッとする反面、職場の嫌な空気にビクビクして縮こまっていたはずだ。
だが、今の陸には――『力』があった。
(……試してみるか)
陸はすっと立ち上がり、「ちょっとトイレに行ってきます」と告げてフロアを出た。
ビルの階上、誰も来ない非常階段の踊り場へと向かう。
胸ポケットからスケッチブックを取り出し、目を閉じる。
昨夜、身体に刻み込まれたあの全能感を、意識の底から手繰り寄せた。
(全身を変身させる必要はない。あの『アルタ』の持つ、絶対的な説得力とカリスマの領域(オーラ)だけを、声に……僕の存在に重ねる。どうしてかは分からないけど、やれる気がする。)
『――同調(シンクロ)』
脳裏で、冷たい光が弾けた。
腕の皮膚が一瞬だけ銀色に光り、すぐに元に戻る。だが、陸の感覚は劇的に変貌していた。背筋が自然と伸び、視界がクリアになり、腹の底から湧き上がるような絶対的な自信が全身を満たす。
陸は静かな足取りでオフィスへと戻った。
「だから、そこをなんとか……! いえ、ですから弊社の法務としては――」
オフィスの中央で、神谷が顔を真っ青にして受話器を握りしめていた。
受話器の向こうからは、耳を刺すような相手の法務担当者の怒声が漏れ聞こえてくる。
『何度も言わせるな! 神谷さん、君の持って来た案はウチの社内規定の第12条と第18条、さらに過去三年間の取引データの矛盾すらクリアできていない! これ以上話すつもりはない、今回の契約は白紙だ!』
ガチャリ、と一方的に電話を切られそうになり、神谷は「あ、待ってください……!」と情けない声を上げて絶句した。
相手が突きつけてきたのは、常識的に考えれば何日もかけて膨大な過去データを再計算し、社内規定を読み込まなければ回答不可能な難題だ。神谷の額から、嫌な汗がダラダラと垂れ落ちる。
完璧を気取っていた営業エースの、惨めな敗北。
吉村課長をはじめ、フロア全体が「万策尽きた」と重苦しい絶望感に包み込まれていた。
「神谷、受話器を代わってくれ」
静かな声が、静寂を切り裂いた。
「は……? 朝倉……お前、なに言っちゃって――」
「早くしろ。切られる」
陸は呆然とする神谷の手から、滑らかな動作で受話器を奪い取ると、自分の耳へと当てた。
『なんだね!? もう話すことは――』
『〇〇様。大変失礼いたします、ミライプランニングの朝倉です。――お切りになる前に、先ほどご指摘された二点について回答させてください』
陸の口から滑り出したのは、ただの平社員のそれとは到底思えない、低く洗練された静かな声だった。
その瞬間、陸の脳内では――アルタの思考補正(潜在記憶の100%引き出しと超高速並列処理)が発動していた。
(――思考加速。僕が過去六年間、社内データベースの整理作業で目に通した四万件の取引ログ、および相手企業の公表IRデータ・社内規定改定履歴を脳内から完全解凍)
普通なら脳の奥底に埋もれて忘れてしまう膨大なデータが、一瞬でクリアに蘇り、光の束となって頭の中で連結されていく。
陸は迷いなく、まるでAIのような精度と、人間味のある洗練されたトーンで即答した。
「御社の規定第12条B項における免責特例、および2023年4月改定の第18条第3項の但し書きを参照してください。弊社の過去三年間の取引データ全四千二百件のうち、該当するエラー値は『0.02%』。これは御社の社内規定で認められている許容誤差の範囲内に完全に収まります」
『な……なに……!?』
「さらに、御社が昨年11月にプレスリリースされた新事業の会計基準に当てはめた場合、今回の契約内容は御社に年間二千四百万円の節税効果をもたらします。契約書第7条の数値を『12.5%』から『12.1%』へコンマ四ポイント微調整するだけで、御社の監査も一発で通ります」
電話の向こうで、完全な静寂が訪れた。
相手の法務担当者が、手元で狂ったように資料をめくるカサカサという音だけが聞こえる。
『ば、バカな……! ウチの社内規定のマイナー改定の但し書きまで把握しているのか!? 過去のデータをすべて頭の中で計算したというのか……!?』
「いかがでしょうか。今この瞬間から、一切の矛盾なく契約を成立させられます」
『つ……通過だ! 完璧だ! 文句のつけようがない! 朝倉さん、君は一体何者なんだ……!?』
「ただの担当です。では、修正版を今すぐお送りいたします。失礼いたします」
陸が静かに受話器を置いた時、オフィスは恐怖すら混ざった静寂に包まれていた。
神谷は信じられないものを見る目で、自分のデスクのPC画面と陸の顔を交互に見つめていた。
膨大な資料とデータベースを頭の中だけで一瞬で連結し、完璧な答えを即答してみせた陸。それはもはや「仕事ができる」という次元を超えた、人間の領域を逸脱した不気味な凄みだった。
「あ……相手の頑固な法務が、一瞬で納得した……? お前、一体なにをやったんだ……!?」
吉村課長が慄くように陸を見つめている。
神谷は顔を蒼白にし、自分の立場が完全に崩れ去った衝撃と屈辱で、言葉を失っていた。
「朝倉先輩……すごすぎます……! まるで魔法みたい……!」
葵が感極まった声を上げる。
陸は「たまたま記憶にあっただけです」と軽く一礼し、自分のデスクへと戻っていった。
(あは……あはは! 見ただろ、神谷。僕に敵うわけがないんだ。この完璧な脳(アルタ)がある限り――!)
胸の奥でドロドロと渦巻く、狂おしいほどの歓喜と優越感。
真面目に地道に書類を整理してきた過去の努力すらも、アルタの力と結びつくことで最高の武器へと変貌していた。
自分が「持たざる者」から「持てる者」へと昇華した快感が、陸の胸を焦がしていた。
3
その夜。
陸は自室の姿見の前に立っていた。
安アパートの狭い部屋。散らかった室内の中で、陸はスケッチブックを掲げ、再びその身に『アルタ』の装甲を纏った。
眩い銀色の光が部屋を満たし、一瞬で姿見の中に「完璧なヒーロー」が現れる。
頭身が高く、洗練された容姿。傷一つない美しい甲冑。
陸は仮面越しに自分の手を見つめ、握りしめた。
「完璧だ……僕は、完璧なんだ……」
仮面の奥から漏れた声は、やはり魅惑的で美しいアルタの声だった。
この姿になれば、怪異を一撃で倒せる。
この力を少し応用するだけで、職場でも無双できる。葵さんからも憧れられ、神谷に見下されることもない。
「もう……惨めな朝倉陸に戻る必要なんて、ないんじゃないか?」
陸は鏡の中のアルタに向かって呟いた。
仕事の出来が平均以下で、要領が悪く、誰からも必要とされない28歳の冴えない男。そんな「素顔の自分」など、最初からいなかったことにすればいい。この完璧な仮面さえあれば、自分はどこまででも高みへ行ける。
万能感に酔いしれる陸。
しかし――鏡の中のアルタの瞳が、かすかに青く明滅した瞬間。
(……え?)
陸の頭の中に、一瞬だけ激しい「ノイズ」が走った。
自分の小学生時代の記憶。
母親に褒められた記憶。高校の時に部活で挫折した記憶。
それらの「朝倉陸」としての個人的で泥臭い記憶の断片が、まるで古い写真を水に浸したように、一瞬だけ白くモヤがかかって見えなくなった。
「あ……れ……? 僕の……通っていた小学校の名前、なんだっけ……?」
陸は頭を押さえた。
変身を解除すると、ドッと猛烈な疲労感が押し寄せ、床に倒れ込んだ。
「ハぁ……ハぁ……!」
冷たいフローリングに頬を押し付けながら、陸は荒い息を吐く。
脳裏をよぎる、微かな違和感と恐怖。
だが、それ以上に「アルタでいる時の全能感」が勝っていた。
「大丈夫……ただの疲れだ。明日も……明日も、アルタになればいいんだから……」
陸は暗い部屋の中で、抱きしめたスケッチブックにすがるように目を閉じた。
完璧な虚構の蜜の味を知った男は、自らが深淵へと落ちていく足音に、まだ気づいていなかった。