スミカは、トライデント、オデュッセイア海洋高等学校における風紀委員会に所属している。同じトライデントの1年生にうっすら舐められ呼び捨てにされたり、面倒事の気配を察知すれば真っ先に逃げ出すような小心者の性格もあって頼りなくみられることが多いそんな生徒である。
そんな彼女が今、アイランドの艦長である海路ミナトに呼び出され、生徒会室へと足を運んでいた。
室内には、すでに二人の人物が待ち構えている。
一人は、呼び出しの張本人であるアイランドの部長にして旗艦、オリュンポス号の艦長、海路ミナト。そしてもう一人は、その副艦長を務めるアミだ。
二人とも席に着いていたが、スミカが入室しても、すぐに用件を切り出そうとはしなかった。
静かな室内。机の向こうから注がれる視線。
——そして、妙に張り詰めた空気。
スミカは、扉を閉めた姿勢のまま、じわじわと背中に冷たい汗が流れていくのを感じていた。
「さて、小森スミカさん。なぜここに呼び出されたかわかりますね?」
やがて、アミが口を開いた。穏やかな声音だった。口元には微笑みさえ浮かんでいる。
しかし、スミカにはわかる。
これは駄目なやつだ。
笑顔なのに怖い。声を荒らげているわけでもないのに、逃げ道を塞がれているような圧迫感がある。
(ひえぇ……。今日の艦長、ものすごい凄みを感じる……!)
その横の艦長も黙っているだけなのに圧がすごい……
スミカは必死に頭を回転させた。
(な、何がバレたんだろう……? ゲヘナ学園のトップが乗ってた船を沈めたこと? そのために砲弾を無駄にしたこと? それとも、先生の腰を痛めた件を改めて怒られるとか……?)
思い当たる節が多すぎた。一つに絞れないどころか、考えれば考えるほど、芋づる式に余罪が浮かび上がってくる。
こういうとき、下手に言い訳をすれば、かえって事態を悪化させる。しかし、何も言わずに黙っているのも怖い。
スミカの中で、大きな恐怖と小さなプライドが激しいせめぎ合いを繰り広げた。
そして数秒後。
「何のことかわかんないですけど、す、すみません!!」
スミカは勢いよく床に両手をつき、そのまま見事な土下座を披露した。
不祥事がバレることへの恐怖が己の誇りをあっさりと上回った。
「わぁ、すごい綺麗な土下座」
感心したような声を上げたのは、ミナトだった。
その感想に、スミカは顔を上げることもできず、ただ床に額をつけたまま震えている。
「はぁ……」
アミは小さくため息をついた。
「艦長は今回、別に叱ろうと思って呼び出したわけではありませんよ。小森外交特使さん」
「……外交、特使?」
スミカは、恐る恐る顔を上げた。
どうやら、今すぐ処罰されるわけではないらしい。
それどころか艦長直々に肩書きがいただけた。
——外交特使。
その聞き慣れない肩書きに、彼女の頭には嫌な記憶がよみがえってきた。
「以前の騒動のあと、トライデントのトオル副部長の指示で、外交特使としてゲヘナに赴いたと聞いています」
「あ、あれは……」
ミナトの言葉を受け、スミカは視線を泳がせた。
あれは忘れもしない、以前のゲヘナ訪問。
パンデモニウムの議長である羽沼マコトに、改めて謝罪をしてくるようトオル副部長から命じられたのが始まりだった。外交特使という大層な肩書きを与えられたものの、スミカ本人としては、単に謝罪の使者として送り出されたという認識しかない。
それもいざゲヘナに到着してみれば、議長は火山にいるという話だった。
仕方なく、暑さに耐えながら山道を登り、ひいこら言いながら目的地を目指した。そうしてようやくたどり着いた先に、議長の姿はなかった。
代わりに待っていたのは、目つきの鋭い、恐ろしい少女だったのだ。
あのときの暑さと疲労、そして精神的な消耗は、今思い出しても胃が痛くなるほどだった。
(まさか……。外交はアイランドの仕事だから、トライデントが勝手に口を出すな、という話でしょうか……?)
スミカの顔から、みるみる血の気が引いていく。
しかし、すぐにアミの言葉を思い出した。
(……いや、叱るために呼び出したわけではないって言ってましたね)
それなら、一体何の用なのだろう。
恐る恐る姿勢を正したスミカは、できるだけ無難な表情を取り繕いながら尋ねた。
「それで……私に何を?」
「トライデントが挨拶に行ったのに、アイランドが挨拶をしないのでは面目が立ちません」
アミは、まるで当たり前のことを説明するように、淡々と答えた。
「ですので、今度はアイランド代表としてゲヘナに挨拶に行ってきてください。スミカ外交特使」
そう言って、ミナトはにっこりと微笑んだ。
その笑顔を見て、スミカはようやく今回の呼び出しの目的を理解した。要するに、もう一度ゲヘナへ行けということらしい。
ただし、今度はトライデントの人間としてではなく、オデュッセイア海洋高等学校を代表する外交特使として。
「それに、以前の挨拶ではゲヘナの最大戦力である風紀委員会に失礼を働いたとか……」
「そ、それは……! あのときは登山と暑さで頭が回っていなかったと言いますか……!」
ミナトの追及に、スミカは慌てて弁明した。
あのとき代わりに待っていたのは、目つきの鋭い、恐ろしい少女。彼女はゲヘナ学園の風紀を守る風紀委員のボスだったのだ。そのときは知らなかったし、暑さと疲労でまともな判断ができる状態ではなかった。そう主張したいところだが、だからといって失礼を働いた事実が消えるわけでもない。
言い訳を続けるほど、自分の立場が悪くなる気がする。
「では、その謝罪も合わせて、こちらを議長さんと風紀委員長に挨拶とともにお渡しください」
そう言って、ミナトはアミに目配せした。
アミは静かに立ち上がると、部屋の後方に設置された棚へと向かった。棚の中をしばらく探り、やがて二つの包みを取り出す。
どちらもそこそこの大きさがあり、丁寧に包装されていた。添えられた便箋も、見るからに上等な品だ。
アミはそれらを両手で抱え、スミカの前に並べて置いた。
「こちらが議長さん宛て、こちらが風紀委員長宛てです。取り扱いには気をつけてくださいね」
「は、はい……!」
スミカは包みを見つめながら、こくこくと頷いた。
これを持ってゲヘナへ行き、議長と風紀委員長に挨拶する。言葉にすれば、ただそれだけの仕事だ。
余計なことをしなければ、すぐに終わるそれだけのこと。
「なにか質問等ありますか?」
ミナトに尋ねられ、スミカは背筋を伸ばした。
「いえ! ありません!」
即答だった。
……が、すぐに何かを思い出したように、彼女はおずおずと手を挙げた。
「あ、あの、一つだけいいですか?」
「はい、どうぞ」
「なんで私なんですか? あ、いえ! 嫌ってわけではないですけど……。私、この前ゲヘナでやらかしたばっかですよ?」
スミカとしては、至極まっとうな疑問だった。
外交特使として他校を訪問するのなら、もっと適任者がいるのではないか。
なにしろ自分は、ついこの間、その訪問先で問題を起こしたばかりなのだ。自分で言うのもアレだが再び送り込むには、いささか不安の残る人選ではないだろうか。
ところが、ミナトはそんな疑問を聞いても、まったく動じなかった。
「ああ、簡単な話ですよ」
彼女は指を組み、にこやかに答えた。
「今のオデュッセイアで、気軽に動かせるネームドがあなただけだからです」
「…………」
スミカは黙った。
なるほど。よくわかった。
自分が選ばれたのは、能力や実績を評価されたからではない。
大人の事情ってやつだ。
(ひどくないですか!?)
心の中で叫びながらも、スミカは差し出された二つの包みを受け取った。
◇
——ゲヘナ学園。
広大な学園都市の入り口に立ったスミカは、目の前に広がる街並みを見上げていた。
「き、来ちゃいました、ゲヘナ学園……。こんな短期間で二回も来ることになるとは……」
手元には、ミナトから預かった二つの包み。それらを落とさないように抱え直し、スミカは大きく息を吐いた。
以前の訪問は、暑さと登山と恐ろしい少女の記憶ばかりが残る、できることなら、もうしばらくは訪れたくなかった場所である。
しかし、今回は学校を代表した外交任務だ。
オデュッセイアの代表として、失礼のないように振る舞わなければならない。
(大丈夫、大丈夫……。今回は挨拶をして、お土産を渡して、帰るだけです。余計なことはしない。騒動にも巻き込まれない。よし!)
自分に言い聞かせると、スミカは気を引き締めて歩き出した。
最初の目的地は、パンデモニウム。前回訪問した際に場所を把握しているため、まずは議長のもとへ向かうのが確実だろう。
陸地に築かれた街というだけあって、その景観はアイランドやクルーズ運営部の船内施設にも引けを取らない。整然と並ぶ建物や広々とした通りは、まるで一つの巨大な都市そのものだ。
もちろん、オデュッセイアの生徒としては、海上の施設の方が魅力的であると主張したいところだが。
(それにしても……。陸の街って、本当に広いですね……)
スミカは、通りの先を眺めながら歩いていた。
そして、ふと足元に意識を向ける。船旅を終えて陸地に降り立ったときに感じる、あの独特の違和感。
地面は動いていないはずなのに、身体だけがいつまでも揺れ続けているような感覚が、まだ抜けきっていなかった。
歩くたびに、ふわふわと足元が頼りなく感じられる。
海の上で過ごす時間が長いオデュッセイアの生徒にとっては、ある程度慣れ親しんだ感覚ではある。しかし、だからといって快適なものではない。むしろかなり不快です……
(うぅ……。やっぱり、陸酔いがひどいです……)
スミカはとうとう歩みを止めた。少し休もう。幸い、通りの脇には木陰がある。
彼女は人通りの邪魔にならない場所まで移動すると、包みを抱えたまま、木の根元に腰を下ろした。
涼しい潮風が頬を撫でる。それだけで、少しだけ気分が落ち着いた。
「体調悪そうだけど、大丈夫?」
不意に、頭上から声が降ってきた。
「大丈夫です……。ちょっと陸酔いがひどくてですね……」
スミカは顔を上げずに答えた。すると、目の前に影が差した。
誰かが、心配そうにこちらを覗き込んでいるらしい。スミカがゆっくりと視線を上げると、そこにはゲヘナの生徒が立っていた。
頭部には、ゲヘナの生徒に特徴的な立派な角が二本。
そして、優しそうな雰囲気を漂わせている少女だった。
「陸酔い?」
少女は一度、不思議そうに首を傾げた。角にかけた髪の毛が顔を覆う。それを払うと何かに思い当たったらしい。
「ああ、漁師さんなんですね! いつも美味しいお魚ありがとうございます。あ、私、給食部のフウカです」
「……漁師?」
スミカは思わず聞き返しかけた。間違っている。しかし、せっかく親切に声をかけてくれた相手だ。ここで話をややこしくする必要もない。
それに、今の自分は外交特使。初対面の相手に対しても、きちんと礼儀正しく振る舞わなければ。
スミカはよろよろと立ち上がると、抱えていた包みを落とさないように気をつけながら、できる限り丁寧に頭を下げた。
「私はオデュッセイア海洋高等学校の外交特使兼トライデント所属、小森スミカです! 本日は羽沼議長様と空崎風紀委員長様にご挨拶をするために参りました!」
自己紹介を聞いたフウカは、ぱちりと瞬きをした。
「羽沼……。ああ、マコト議長と風紀委員長に会いに来たのね」
そう言って、彼女はスミカの顔色を改めて確かめた。まだ少し青白い。立っているだけでもつらそうだ。
フウカは通りの先に目を向けた。
「うーん……。ここからパンデモニウムまで、かなり距離があるし……」
それから、もう一度スミカへと視線を戻す。
「ひとまず、うちに来ない? 体調の悪そうな人を見過ごせないし、部室まで行けば、酔い直しくらいあるわ」
「…………」
スミカは、目の前の少女を見つめた。
体調を気遣ってくれる。休める場所まで提供してくれる。
それも初対面なのに。
(……女神様ですか?)
オデュッセイアでは何かと雑な扱いをされがちな彼女の心に、感動が押し寄せた。
「女神さま!ぜひお願いします!」
「ただの生徒ですけど……」
フウカは、なんとも言えない顔で返した。
その表情には、困惑と、ほんの少しの呆れが混ざっていた。
◇
――給食部。
「広っ……」
食堂に足を踏み入れたスミカは、思わず呟いた。そこは、一般的な食堂と呼ぶにはあまりにも広大な空間だった。調理場に食材の保管スペース、そして大勢の生徒が食事を取れるだけのテーブルと椅子。
数百人、いや、千人規模の生徒が一度に利用してもおかしくないほどの広さがある。給食部という名前から、もう少しこぢんまりとした場所を想像していたスミカにとっては、ちょっとした衝撃だった。
「スミカさん、どうぞ。陸酔いにどのくらい効くかはわからないですけど、ジンジャーエールです」
そう言って、フウカが生姜の爽やかな香りが、ほのかに鼻をくすぐるグラスを差し出した。
「あ、ありがとうございます……!」
スミカは両手でグラスを受け取ると、さっそくストローに口をつけた。
冷たい炭酸が喉を通り抜ける。
それだけで、さっきまでの不快感が少し和らいだ気がした。
「おかげで生き返りました……」
「それならよかった」
フウカはほっとしたように微笑んだ。
「私たちはこれから給食を作るから、ちょっと忙しくなるけど……。スミカさんは好きなだけ休んでくれていいわよ」
「ありがとうございます……!」
スミカは深々と頭を下げた。
そして、近くのテーブルに腰を下ろす。
小柄な彼女の足は床に届かず、椅子に座ると自然にぶらぶらと揺れてしまう。スミカはそんな足を揺らしながら、もう一度ジンジャーエールを啜った。
(うぅ……。前回と違って涼しいし、優しい人もいるし……。ここは天国ですか……?)
冷房の効いた快適な室内。
冷たい飲み物。
そして、自分を気遣ってくれる優しい少女。
前回の地獄のような記憶を思えば、ここはまさしく楽園だった。
(いえ、天国です……)
スミカは満足げに息を吐くと、テーブルに身を投げ出した。
もう少しだけ、このまま休ませてもらおう。
外交特使としての仕事は、そのあとでいい。
そんなことを考えながら、彼女がすっかり気を抜いていた――そのとき。
ドォォォンッ!!
「きゃっ!? な、何事ですか!?」
突如として、部室の入り口から轟音が響き渡った。
ゲヘナ編まではプロットあるのでそこまでは失踪する予定はありません