はた、とスミカは足を止めた。
視線の先を、七色の鱗粉をまき散らしながら、一匹の蝶がひらひらと横切っていく。光の加減で翅の色が刻々と変わり、まるで虹そのものが宙を舞っているかのようだった。
ゲヘナにしか生息していない固有種――反魂蝶。
図鑑でその存在を知ってはいたものの、実物を見るのは初めてだった。海の上で暮らすスミカにとって陸上の生き物はそれだけで珍しい。ましてや、これほど鮮やかで奇妙な蝶となれば、興味を惹かれないはずがなかった。
蝶はスミカのすぐ目の前を横切ると、木々の間へと消えていく。かと思えば、少し先で再び姿を現し、まるでこちらを誘うようにゆっくりと飛んでいた。
スミカは、腕に抱えた小包と、蝶の飛んでいった先とを交互に見比べる。
(ちょっとくらいいいですよね?慣れない他校ですし道に迷ったり、緊張ほぐしてから会わないと醜態を晒すことになっちゃいますし)
誰にともなく心の中で言い訳をすると、スミカは蝶の後を追いかけた。
もちろん、ほんの少しだけだ。珍しい生き物を観察したら、すぐに戻る。道順だって頭に入っているし、万魔殿までの最短ルートから多少外れたところで問題はない。
蝶に誘われるように木々の間を進み、茂みを抜けた先で、スミカは思わず息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、ゲヘナ学園でも独特な植生で知られるビオトープだった。
「ここが、あの有名なビオトープですか……!」
スミカの顔がぱっと輝いた。
そこは、まるで自然の一部を切り取って、そのまま別の場所へ移したかのような空間だった。
色鮮やかな花が咲いており、頭上を飛び交う虫たちは、どれも海上では当然母港でも見かけないものばかり。
透き通った翅を持つトンボは水面すれすれを飛んでおり、金属のような光沢を放つ甲虫が木の幹を登っている。
遠くからは鳥のさえずりが聞こえ、近くでは水が静かに流れている。
波の音と潮風に囲まれて暮らすスミカにとって、こうした陸地の自然は新鮮そのものだった。
「すごいです……! こんなにいろんな生き物がいるなんて……!」
思わず一歩、また一歩と足を進める。
目に留まった植物を観察し、飛んでいく虫を目で追い、水辺にしゃがみ込んでは水面を覗き込む。できることなら、ここで一日中過ごしていたい……
「そろそろ帰りましょうよー、イブキちゃん。マコト先輩も待ってますよぉ」
そのとき、少し離れた場所から少女の声が聞こえ、続いて聞き覚えのある明るい声が返ってくる。
「もうちょっとだけ! あっちにも面白いのがいるんだよ!」
「ええー……。さっきもそう言ってましたよね?」
声の主たちは、どうやらスミカと同じようにビオトープを散策しているらしい。
やがて木々の向こうから姿を現したのは、カメラを携えた少女と、その足元でしゃがみ込んでいる幼い少女だった。
「――おや? こんな所でお会いするとは!! お久しぶりです、スミカさん!」
先にスミカを見つけたのは、カメラを肩から提げた少女だった。
元宮チアキ。万魔殿の書記であり、趣味で『週刊万魔殿』を発行している少女だ。
彼女はスミカを見つけるなり、実に快活な声で挨拶をした。さらに、挨拶とほぼ同時にカメラを構え、スミカの姿をばっちりと写角に収めている。
パシャリ。
「えっ、あの、今撮りました!?」
「はい! いやあ、まさかこんなところでお会いできるとは! これは思いがけない出会いですね!」
チアキはにこにこと笑いながら、撮影した写真を確認している。
夏の海で出会ったとき、彼女は新聞を書くのが趣味だと言っていた。あのときは海での出来事が中心だったが、果たして彼女の新聞には、花や虫の話題も載るのだろうか。
そんな疑問が頭をよぎったものの、スミカはひとまず丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりです、チアキさん。お元気そうで何よりです」
「はい! おかげさまで! ところで、スミカさんもビオトープの調査ですか?」
「いえ、私はその……」
説明しようとしたところで、足元から声が上がった。
「んー? あ、スミカ! こんにちは! 珍しいね、陸で会うなんて!」
しゃがみ込んでいた幼い少女が顔を上げ、太陽のような笑顔を浮かべた。
「い、イブキさま!? お久しぶりです!」
スミカは危うく声を裏返らせた。
丹花イブキ。万魔殿に所属する少女であり、マコトをはじめとする万魔殿の面々から、たいそう可愛がられている存在だ。
先日の一件で、スミカはその溺愛っぷりを嫌というほど理解している。
マコト議長との関係を円滑にし、外交任務を成功させる。今回の訪問において、それは極めて重要な課題だ。
そして、そのマコト議長が大切にしているイブキと仲良くなれれば……。
(これは、もしかして、とんでもない好機なのでは……!?)
「むうー、さまは可愛くないっ! イブキちゃんって呼んで?」
「は、はい! わかりました、イブキちゃん!」
「うん! よろしい!」
イブキは満足そうに頷いた。そして、再び地面へと視線を落とす。
「イブキちゃんは何を見ていたんですか?」
「イブキはねぇ、アリさん見てた!」
「アリさんですか?」
スミカもつられて足元を覗き込んだ。
そこには、黒々としたアリの群れが、生きた黒い川のように進んで行進していた。
「ひぇっ!? グンタイアリじゃないですか!?」
思わず声が上ずる。
落ち葉の上を進み、木の根を越え、石の隙間を縫うようにして、アリたちが一糸乱れぬ列を作っていた。大きな個体は普通のアリよりもずっと存在感があり、発達した顎を忙しなく動かしている。
「グンタイアリさんって言うんだ! 可愛い名前だー!」
「か、可愛い……ですかね?」
名前の響きもだが、アマゾン最強の生物が当然のように目の前の光景はなかなかに恐ろしい……
「スミカちゃんもグンタイアリさん好きなの?」
イブキが顔を上げて尋ねる。
「私ですか? 私はグンタイアリというより、虫全般が好きですね。海にはあまりいませんし、船に出たときは緊急事態ですから」
「そうなんだー! ねぇ、じゃあ、あのちょうちょの名前はー?」
イブキはすぐさま別の方向を指差した。
指の先では黒い翅を持つ蝶が花の周囲を飛び回っている。
「あれはジャコウアゲハですね。毒があるので、イブキちゃんは触っちゃダメですよー」
「はーい! あ、ならなら! あっちは?」
「あれは……」
「イブキちゃん、一回落ち着きましょう!」
チアキがすかさず口を挟んだ。
イブキの好奇心に火がついたらしい。あちらの虫、こちらの花と、次々に目についたものを指差している。このままでは本当に日が暮れるまで帰れなくなりそうだ。
チアキは苦笑しながらイブキを促し、改めてスミカへと向き直った。
「それで、スミカさんは本日はどうしてゲヘナに?」
「あっ、そうでした!」
危うく忘れかけていた。
スミカは慌てて抱えていた小包を持ち直す。包み紙には丁寧な装飾が施され、贈り先を示す文字も添えられている。
「本日は、オデュッセイアを代表して万魔殿にご挨拶に伺いました。こちらは万魔殿への贈り物です」
外交特使としての口調を取り戻し、スミカは背筋を伸ばした。
「ん、苦しゅうない! じゃあ、これで用事はおしまいだね!」
「イブキちゃん、そういうわけにはいきませんよ。スミカさんはオデュッセイア海洋高等学校を代表して来ているんですから、ちゃんとマコト先輩に会わせないとダメですよ」
すかさずチアキがたしなめる。
「むぅ……」
イブキは頬を膨らませた。まだビオトープを見ていたかったのかもしれない。
けれど、納得したようでスミカの手を取るようにして笑った。
「じゃあ、早く帰ろ! スミカちゃんも一緒に行こ!」
「あ、はい! お供します!」
スミカは元気よく返事をした。
よかった。これで万魔殿まで案内してもらえる。しかも、イブキ本人と親しくなれる機会まで得られた。
寄り道して正解だった。私って外交の天才では?
***
――万魔殿、貴賓室。
「うぁー……すごい豪勢な部屋……」
通された貴賓室を前に、スミカは思わず小さく声を漏らした。
広々とした室内には、見るからに高価そうな調度品が並んでいた。壁には額装された絵画が飾られ、棚の上には精巧な装飾品が整然と置かれている。部屋の中央には大きなテーブルと上質なソファーがあり、足元には柔らかな絨毯が敷き詰められていた。
壺ひとつを取っても、スミカにはその価値など見当もつかない。だが、素人目にも相当な品であることだけは分かった。
(美術品には明るくないですけど……この壺とか絵画とか、傷のひとつでもつけたら大目玉を食らっちゃいますね……。絶対に近づかないようにしよっ)
この部屋は、ゲヘナを訪れた他校の生徒に、その威光を見せつけるために用意されたものなのだろう。
少なくとも、スミカにはそう思えた。
部屋の豪華さには、どことなく万魔殿議長・羽沼マコトの趣味が反映されているように見える。権威を示すためなら、目に見える形で徹底的に示す。そんな彼女の姿勢が、この部屋の隅々にまで行き渡っているようだった。
もっとも、スミカにとっては、その威光を感じ取る余裕などなかった。
ソファーに腰を下ろす際も、背もたれに体を預けることすらためらわれた。そっと、ほんの少しだけ座面に腰をかけ、背筋を伸ばす。手にした小包は膝の上に置き、周囲の家具には一切触れないようにする。
これでよし。
いや、よくない。緊張しすぎて、かえって不自然な姿勢になっている。
「スミカちゃん、大丈夫? すごい顔してるけど」
隣にいたイブキが、心配そうに顔を覗き込んだ。
「だ、だ大丈夫です! このくらいの部屋、クルーズ運営部への監査で見慣れてますから……!」
言いながら、スミカは自分の声がわずかに震えていることに気づいた。
見慣れている。そう、見慣れているのだ。
豪華な船室も、格式のある応接室も、仕事柄まったく縁がないわけではない。だから、別にこの程度の部屋で緊張する必要などない。
……ないはずなのだが。
視線の先にある壺が、妙に存在感を放っている。
あの壺、もし倒したらどうなるのだろう。弁償で済むのだろうか。それとも、外交問題に発展するのだろうか。いや、そもそも壺を倒れるという発想自体がよくない。想像してたら実際に起こってしまいそうだ。
「大丈夫そうには見えないけど……」
イブキは心配そうに首を傾げた。
「そうだ! 緊張をほぐすためにイブキがお茶入れてあげるね!」
「へっ? あ、ありがとうございます……!」
スミカは反射的に礼を言った。
イブキが自分のためにお茶を入れてくれるというのなら、ありがたく受け取ろう。この緊張のまま面会するのは不味い……
イブキが奥の部屋からカチャカチャと楽しげな音を立てながらティーセットを用意している音が聞こえて来たあと背伸びしながらティーワゴンを押してイブキちゃんは戻ってきた。
ポット、カップ、ソーサー。どれも上品な装飾が施されており、素人目にもかなり高価な品々であることがわかる。
イブキは背伸びをしながらポットに手を伸ばした。既にお湯が入っておりそれなりに重いポットを両手でしっかりと持ちプルプルとさせながらもカップの上でゆっくりと傾ける。
こぽ、こぽ、こぽ。
琥珀色のお茶が、カップの中へと注がれていった。
少し危なっかしいですが順調です。さすがイブキちゃん今のところ何も問題ありません。
スミカは心の中で自分を落ち着かせた。よくよく考えたら相手方の一番偉い子にお茶を淹れさせてるんです。もしやけどなんかさせたらと考えたら気を失いそう……かと言って止めさせるのも不敬だし……何事もなく終わってっ……
イブキは注ぎ終えたところで、カップの中身を覗き込んだ。
「んー……もうちょっとかな?」
そして、再びポットを傾けた。
スミカの心臓が跳ねた。
お茶がカップの縁ぎりぎりまで満ちていく。表面が小さく揺れ、今にもこぼれそうになったところで、イブキはようやくポットを起こした。
——セーフ。
続いてイブキは、カップを両手で持ち上げた。小さな手で慎重に支え、スミカの座るソファーへと運んでくる。
その途中、カップの中のお茶がちゃぷん、と揺れた。
スミカの肩がびくりと跳ねる。
ちゃぷん。
もう一度揺れた。
もし、雫でも絨毯にかかったら賠償金はいくらになるんでしょうか……いえ、お金で何とかなる範囲なんでしょうか……
スミカの指先が、ソファーの座面をぎゅっとつかんだ。
(お願いです、イブキちゃん。落ち着いて。ゆっくりでいいんです。お茶は逃げません。誰も急かしていませんから……!)
もちろん、そんなことを口に出せるはずもない。
相手はゲヘナの万魔殿に所属する大切な議員であり、何より自分に親切にしてくれている少女なのだ。ここで「危ないです!」などと声を上げれば、せっかくの好意を無下にすることになってしまう。
スミカは半泣きの笑顔を保ったまま、ただ祈るように見守ることしか出来ない。
「はい! どうぞ!」
「ありがとうございます……!」
スミカは両手でカップを受け取った。
お茶は一滴もこぼれていない。テーブルにも、イブキの服にも、万魔殿の高級絨毯にも被害はない。
完璧だ。
カップの中身は縁ぎりぎりまで注がれているし、ソーサーに少しこぼれてもいる。けれど、そんな些細なことはどうでもいい。
何より、この貴賓室が無事なのだ。
スミカは心の底から安堵した。
「えへへ、上手にできた!」
「はい! とっても上手です!」
一周まわって緊張は解け思わずタメ口で褒めてしまった。
——イブキは嬉しそうに笑うと、今度は自分の分を入れようとポットへ手を伸ばした。
スミカの笑顔が凍りついた。
(ま、待ってください。まだ続くんですか!?)