鈴木悟の分身がオーバーロード世界にいたら   作:分身分身影写し

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第1話 死の支配者、聖王国に生まれる

燭台の灯りを半分ほど落とした子供部屋で、母は俺の寝台の端に腰を下ろして、この国の子供なら誰もが一度は聞かされるという古い物語を語っていた。

はるか昔に北の地を死で覆い尽くした不死者の王を、白銀の鎧をまとった聖騎士が聖なる剣で討ち果たすという筋書きの英雄譚である。

柔らかく抑えた母の声が物語の山場へと差し掛かるにつれて、俺は掛け布の中でじわじわと居心地の悪さを覚え始めていた。

 

「そうして聖騎士様の剣が振り下ろされると、不死者の王の骨はまばゆい光の中で粉々に砕け散って、二度と蘇ることはなかったのです」

 

骨が砕け散るというくだりで、俺は掛け布の下で思わず自分の小さな手を握りしめていた。

その手は柔らかな肉と薄い皮膚に包まれた五歳の人間の子供のものであり、白く乾いた骨の指などどこにも見当たらない。

それでも砕かれていく骨の王の姿をどうしても他人事だと思えないのは、俺自身がかつてその骨の王と大差のない存在だったからに他ならなかった。

 

かつて死の支配者(オーバーロード)と呼ばれた俺が、アンデッドを何より憎むこの聖王国の貴族の家に生まれてから五年が経った。

この五年間に母から聞かされた寝物語のうち、少なくとも半分は聖騎士がアンデッドを退治する話だったと記憶している。

ナザリックに攻め込んできた数え切れないほどの侵入者を返り討ちにしてきた俺が、今では毎晩のように同類の退治される話を子守唄代わりにして眠っているのだから、人生というのはまったくわからないものだ。

 

「……ねえ、母上。その不死者の王は、何か悪いことをしたのですか?」

「もちろんですとも。不死者は命あるものを憎んで、生きている人をみんな死の側へ引きずり込もうとするのですよ」

 

母は少しも迷うことなくそう答えると、寝癖のついた俺の前髪を指先で優しく撫でつけた。

この国において不死者が悪であるというのは、太陽が東から昇るのと同じくらい疑う余地のない事実として扱われているのだ。

異形種というだけで面白半分に狩られていた頃の記憶がほんの少しだけ胸の奥でうずいたが、俺は五歳の子供らしく素直に頷いておくことにした。

 

扉が控えめに叩かれたのは、母が物語の結びの祈りを唱え終えた直後のことだった。

顔を覗かせたのは長城での務めから戻ったばかりの父で、その大きな身体からは今夜も鉄と革と馬の匂いがかすかに漂っていた。

 

「起きていたか、モモン。ちょうどいい、お前にも話しておくことがある」

「まあ、あなた。この子はもう眠るところですのに」

「なに、すぐに済む……来週の朝、王都へ発つことになった」

 

父は寝台の脇に片膝をつくと、剣だこだらけの手で俺の頭を少しばかり乱暴に撫で回した。

王都という言葉に俺が首を傾げてみせると、父はいかつい顔をほころばせながら旅の目的を語り始めた。

 

「五つの歳を無事に迎えた子は、神殿で四大神の祝福を授かる。それは知っているな? 今年はそれが特別でな、王女殿下がお生まれになったのと同じ年に生まれた貴族や名家の子らが、王都ホバンスの大神殿に集められて揃って祝福を受けることになったのだ」

「王女殿下と、同じ年……」

「そうだ。お前は殿下と同じ年にこの世に生を受けた。胸を張って、殿下と並んで五歳の祝福の儀に臨むがいい」

 

誇らしげな父の声を聞きながら、俺は王女が自分と同じ年に生まれたという話を初めて耳にした日のことを思い出していた。

それは俺がこの世界に生まれ落ちてまだ間もない、泣くことしかできなかった頃のことだ。

 

両親が部屋を出ていくと、燭台に残された小さな火だけが天井に頼りない影を揺らしていた。

俺は暗がりの中でそっと目を閉じて、この世界で最初に目を覚ましたあの日のことを思い返した。

 

 

 

最初に感じたのは、四方から全身を押し潰されるような圧迫感と、肺など持たない骨の身体では一度も味わったことのない息苦しさだった。

やがて狭い場所から押し出されるような感覚とともにまぶたの向こうが白く弾けて、ひやりとした空気が濡れた肌を容赦なく刺した。

 

「なんだ、ここは」

 

そう口にしたはずの俺の声は言葉の形をまるで成さず、甲高く震える泣き声となって部屋中に響き渡った。

 

慌てて口をつぐもうとしても喉の奥からは意思と無関係に泣き声が溢れ出し、手足は糸の切れた操り人形のようにばたつくばかりだった。

反射的に空中を指でなぞってコンソールを呼び出そうとしたが、あの半透明のウィンドウは一向に開かず、そもそも指が思った方向へ動いてくれない。

ぼやけた視界の端を横切ったのは、見慣れた白い骨の指ではなく、赤く湿った小さな人間の手だった。

 

「お生まれになりましたよ、奥様! 元気な男の御子です!」

「ああ……よかった……本当に、よかった……」

 

頭上から降ってくる女たちの声は、不思議なことにひとつ残らずその意味が理解できた。

ひどく疲れ切った女の声には安堵と喜びが滲んでいて、それに応えるように周りの大人たちが口々に祝いの言葉を並べ立てている。

状況を飲み込めないまま泣き続けるしかなかった俺は、それでもしばらくすると自分なりの結論に辿り着いた。

 

どうやらユグドラシルの続編は、作成したキャラクターを赤ん坊の状態から育てていく方式であるらしい。

ゲーム開始と同時に産声を上げさせる演出まで用意しているとは、あの運営もずいぶんと凝った真似をしてくれるものだ。

 

だが顔のすぐ近くまで覗き込んでくる女たちを眺めているうちに、俺は奇妙なことに気がついた。

耳に届く言葉はすんなりと日本語として理解できるのに、ぼやけた視界に映る唇の動きはその言葉とまるで噛み合っていなかったのである。

 

「あらあら、こんなに泣いて。きっとお強い若様になられますわ」

 

若様と聞こえた言葉を発したはずの唇は、明らかにまったく別の音の形を作っていた。

口の形は見知らぬ言語を話しているのに、耳に入ってくる音だけが勝手に日本語へと置き換えられているのだ。

吹き替えの同期がずれているのだろうとあたりをつけた俺は、サービス開始直後の新作にありがちな不具合だと呆れ半分に片付けることにした。

 

しかし新作の不具合を笑っていられるだけの余裕は、そう長くは続かなかった。

腹の底から突き上げてくるような空腹と、濡れた肌から容赦なく体温を奪っていく空気の冷たさは、どう考えてもゲームの演出の域を超えていたのである。

 

「お腹が空いたのね。さあ、お乳をあげましょうね」

 

やがて口元に含まされた乳の生ぬるい甘さが舌の上に広がり、鼻の奥には乳と汗と洗い立ての布の匂いがいっぺんに流れ込んできた。

その瞬間、俺の頭の中では冷たい警報のようなものがけたたましく鳴り響いた。

DMMO-RPGでは嗅覚と味覚の再現が法律で固く禁じられていて、ユグドラシルの料理アイテムにも見た目と効果があるだけで味などまるでなかったはずなのだ。

 

ひとたび気づいてしまえば、違和感は次から次へと押し寄せてきた。

俺を抱く女の目尻には細かな皺が寄り、こめかみを汗の粒が伝い落ち、喜びに震える唇の端はかすかに引きつっている。

ユグドラシルのアバターは顔の表情ひとつ変えることができず、だからこそ俺たちは感情を伝えるためにわざわざ頭の上にアイコンを浮かべていたのだ。

 

匂いがあり、味があり、凍えるような寒さと泣き叫びたくなるほどの空腹がある。

そして目の前の大人たちは、どんなゲームにも再現できなかったはずの細やかな表情で笑い、涙ぐみ、まだ名前すら持たない俺に向かって懸命に語りかけてくる。

どれほど認めたくなくとも、これはもうゲームなどではないのだと結論づけるしかなかった。

 

分身作成とは新作のキャラクターを作ることなどではなく、この世界にひとりの人間として生まれ直すことだったのだ。

そう理解した瞬間、胸の奥でせき止められていた何かが音を立てて決壊した。

 

ナザリックも、玉座の間に掲げられた四十一枚の旗も、仲間たちが去ったあとでたったひとりで守り続けてきたあの場所も、もう二度と手の届かない彼方へ行ってしまったのだ。

それどころか翌朝四時に鳴るはずだった目覚ましも、すし詰めの通勤電車も、顔を合わせるたびに胃の痛くなった上司の小言すらも、俺の前からはきれいに消え失せていた。

 

気づけば俺は泣いていて、それは赤ん坊の身体が勝手に泣いているのではなく、鈴木悟という一人の人間が泣いているのだとはっきりわかった。

失ったものを数え上げるたびに涙は勢いを増していき、小さな胸は今にも張り裂けそうなほど激しく波打った。

 

白い空間で何度も訪れたあの不自然な凪が、もうすぐ来るはずだった。

膨らみかけた感情がふっと平らにならされていくあの奇妙な感覚を、俺は泣きじゃくりながらひたすら待ち続けた。

だがどれほど待っても凪は訪れず、悲しみは波のように何度でも押し寄せては、俺の小さな身体を内側から揺さぶり続けた。

 

そこでようやく、俺はあの凪の正体に思い当たった。

ユグドラシルのアンデッドには精神作用を無効化する種族特性があり、白い空間にいた俺はまだモモンガのアバター、つまりアンデッドの身体のままだったのだ。

あの凪は疲れのせいなどではなく、骨の身体に備わった特性が俺の心そのものに働きかけていたのかもしれない。

 

そして今の俺は、もはやアンデッドなどではなかった。

荒れ狂う感情を鎮めてくれる骨の身体はどこにもなく、ここにいるのは泣くことしかできないちっぽけな人間の赤ん坊なのだ。

 

「どうしたの、どうしたの。怖い夢でも見たのかしら」

 

泣き止まない俺を抱き上げたのは、まだ顔色の戻りきらない母だった。

産婆や侍女たちが休むようにと止めるのも聞かず、母は俺を胸に抱いたまま部屋の中をゆっくりと歩き回り、少しばかり調子の外れた子守唄を口ずさみ続けた。

 

「大丈夫、大丈夫よ。お母さまは、ずっとここにいますからね」

 

頬に触れる確かな体温と、汗と乳の混じった甘い匂いに包まれているうちに、俺の脳裏には長いあいだ思い出さないようにしてきた光景が浮かび上がった。

それはまだ幼かった頃のある朝に目にした、狭い台所の床に倒れたまま二度と起き上がることのなかった前の世界の母の姿だった。

擦り切れるまで働き続けていた母は、俺の好物を作ってやろうとして台所に立ち、そのまま力尽きてしまったのだ。

 

あの朝からずっと、俺はその呼び名を誰に向けることもなく生きてきた。

呼べば応えてくれる人がもうどこにもいないのなら、その言葉は胸の底に沈めておくしかなかったのである。

 

「……母さん」

 

声にならないその呼びかけはやはり弱々しい泣き声にしかならなかったが、俺を抱く腕はそれに応えるように少しだけ力を強めた。

その夜、俺は泣き疲れて眠りに落ちるまで母の腕の中にいた。

どれほど泣いても凪は最後まで訪れなかったが、代わりに俺を包む温もりもまた、最後までそこから離れていくことはなかった。

 

父が長城から戻ってきたのは、俺が生まれてから十日ほど経った日の夕暮れだった。

扉が開いた瞬間に部屋へ流れ込んできたのは、鉄と油と革と馬の汗が入り混じった、むせ返るような戦場帰りの匂いだった。

 

「遅くなってすまん。交代の隊が丘陵の亜人どもとの小競り合いで足止めを食ってな、どうしても持ち場を離れられなかった」

「お帰りなさいませ、あなた。ご無事で何よりですわ」

 

父は大股で寝台へ歩み寄ると、無精髭の伸びた顔を俺の目の前までぐっと近づけてきた。

日に焼けた岩のような顔には鋭い眼光と額を斜めに走る古傷が刻まれていて、正直に言えば生まれたばかりの赤ん坊に見せていい顔ではなかった。

 

「……小さいな。赤子というのは、こんなにも小さいものなのか」

 

だが俺を覗き込むその目は、いかつい顔立ちに似合わないほど不器用に揺れていた。

父が分厚い指先をおそるおそる伸ばして俺の手のひらに触れると、赤ん坊の身体は反射的にその指をきゅっと握り返し、父は息を呑んだまましばらく固まってしまった。

 

「見ろ、握り返したぞ。こいつはきっと強い男になる」

「まあ、気の早いこと。まだ生まれて十日ですのよ」

「気の早いものか。我が家は代々、アベリオン丘陵の亜人どもから聖王国の北を守るために、長城へ兵を出し続けてきた家だ。こいつもいずれはその務めを継ぐのだからな」

 

聖王国という言葉が耳に飛び込んできた瞬間、泣き疲れてぼんやりしていた俺の頭は一気に冴え渡った。

それから両親が交わす言葉を繋ぎ合わせていくうちに、ここがローブル聖王国という国の北部であり、亜人の部族がひしめく丘陵との境には長大な城壁が築かれていることが少しずつわかってきた。

父の家はその長城の守りに兵を出している貴族であり、俺はどうやらその家の長男として生まれたらしかった。

 

「そういえば、王都からの早馬が知らせを運んできていた。王家にも先日、姫君がお生まれになったそうだ」

「まあ、王女殿下が? それではこの子は、殿下と同じ年の生まれになるのですね」

「ああ、めでたい年に生まれたものだ。……それで、名前はもう決めたのか」

 

母は少しだけ恥ずかしそうに微笑むと、この子が生まれる前の晩に見たという不思議な夢の話を始めた。

夢の中では顔の見えない誰かがお腹の子に向かってある名前を呼びかけていて、目を覚ましてからもその響きがどうしても耳から離れないのだという。

 

「モモン、と。その方は確かに、そう呼んでいたのです」

「モモン……聞かぬ響きだが、悪くない。短くて呼びやすいし、戦場でもよく通る名だ」

 

もし自由に動かせるものなら、俺は母の腕の中で盛大に頭を抱えていたことだろう。

分身作成の最後に表示された一覧の名前の欄には、引き継ぎという注記とともにモモンガとはっきり記されていたのだ。

運営がシステムの仕様で無理やり名前を寄せてきたとしか思えなかったが、だとすれば最後の一文字だけをいったいどこへやってしまったのかと、俺は声にならない声で抗議した。

 

「お前の名はモモンだ。強く、優しく、この国を守れる男になれ」

 

父の大きな手が、壊れ物に触れるような慎重さで俺の小さな頭をそっと包み込んだ。

こうして俺はローブル聖王国北部の貴族の嫡男モモンとして、二度目の人生を歩み始めることになったのである。

 

 

 

それからの五年間を、俺は新作ゲームの攻略記録をつけるような気持ちで過ごしてきた。

ステータス画面もヘルプも攻略サイトも存在しない以上、この世界の仕様は自分の目と耳でひとつずつ確かめていくしかなかったのだ。

 

最初に取りかかったのは文字だった。

話し言葉は生まれたときから自動的に意味が通じていたが、文字のほうはまるで読めず、屋敷の書棚に並ぶ本の背表紙はどれも見知らぬ記号の羅列にしか見えなかった。

しかも耳に届く言葉は勝手に日本語へ置き換えられてしまうため、文字と音とを結びつけて覚えるという当たり前のやり方がまるで使えなかったのである。

 

そこで俺は母に絵本を読んでもらうたびに、母の指がなぞる文字の形と耳に届く言葉の意味とを一語ずつ照らし合わせていくことにした。

音ではなく意味から文字を逆算していくそのやり方は、勉強というよりもほとんど暗号の解読に近い作業だった。

それでも天才の看板は伊達ではなかったらしく、二度目の冬を越える頃には簡単な文章ならおおよそ読めるようになっていた。

 

ただし俺は、覚えた成果をそのまま表に出すような真似はしなかった。

二歳の子供が本をすらすらと読み上げれば神童だと騒がれるのは目に見えていて、噂というものは必ず届いてほしくない相手の耳にまで届くものだからだ。

手の内を晒した者から順に狩られていくのがPvPの鉄則であり、俺は普通の子供らしさを装いながら、身につけた力を少しずつ小出しにしていくことに決めた。

 

問題は、俺が普通の子供というものをまるで知らなかったことだ。

二歳の子供がどの程度喋りどの程度ものを理解するのかという基準など、前の世界で暮らしていた頃には身につける機会がまったくなかったのである。

仕方なく庭師の息子や料理番の娘をこっそり観察して平均値を割り出したのだが、その作業は敵対ギルドの戦力分析とほとんど変わらなかった。

 

次に確かめたのは魔法の仕組みだった。

三つになった年の春、稽古中に腕を深く切った兵士のもとへ屋敷付きの神官が駆けつけて、血の滲む傷口に静かに手をかざしたのである。

 

「〈軽傷治癒(ライト・ヒーリング)〉」

 

神官の掌からこぼれた淡い光が傷口を塞いでいくのを見て、俺は危うく声を上げそうになった。

それはユグドラシルにおける第一位階の治癒魔法と、寸分違わぬ名前と効果だったのだ。

少なくとも位階魔法の体系はユグドラシルと共通していて、それはこの世界でも俺の積み上げてきた知識がある程度は通用するということを意味していた。

 

ところが同じ年の夏に、厨房の使用人が空の水差しの前で短い呪文を唱えるのを見たとき、その確信は少しばかり揺らいだ。

彼女の指先から澄んだ水がちょろちょろと滴り落ちていくのを、周りの者たちは誰ひとり驚くこともなく眺めていたのである。

 

「これは零位階の魔法でございますよ、坊ちゃま。飲み水を少しばかり出せるだけの、つまらない生活魔法ですけれど」

 

ユグドラシルの位階は第一位階から第十位階、そしてその上の超位魔法までであり、第一位階のさらに下にもう一段あるなどという話は聞いたこともない。

つまりこの世界はユグドラシルと同じ仕組みを土台にしながら、そこへ独自の要素を継ぎ足して成り立っているのだ。

前作の知識だけで攻略しきれるほど甘い作りではないと悟って、俺は頭の中の攻略記録の一番上に大きく注意書きを書き加えた。

 

そして何よりも俺の心を躍らせたのは、父の兵たちが毎朝中庭で行う稽古の光景だった。

古参の兵士長が大盾を構えて低く何かを呟いた次の瞬間、若い兵の渾身の振り下ろしが、まるで城壁にでも打ち当たったかのような鈍い音を立てて弾き返されたのだ。

 

「今のは〈要塞〉という武技でございます、坊ちゃま。正面から受けた一撃を、城壁のごとく受け止める技でしてな」

 

武技という言葉は、ユグドラシルでは一度も耳にしたことがないものだった。

戦士職のスキルともどこか違っていて、使用回数の表示もクールタイムの概念もなく、兵士たちは己の技量と気力だけを頼りにそれを繰り出しているように見えた。

 

「武技ってのはね、坊ちゃま。この地に生まれた者が、汗と血を流してようやく掴み取るもんなんです」

 

兵士長は誇らしげにそう言って、傷だらけの手で大盾を軽く叩いてみせた。

その何気ない一言が持つ本当の重みを俺が知るのは、まだずっと先のことになる。

 

一方で、この国の仕組みを知れば知るほど、俺の攻略計画には暗い影が差していった。

聖王国の民の多くは神殿の教えのもとでアンデッドを心の底から忌み嫌っていて、この国で魔法詠唱者といえば、そのほとんどが神殿に仕える神官のことを指すのだという。

しかも国は神殿との釣り合いを保つために神官には爵位を与えないと定めていて、魔法の道を本気で歩もうとすれば、長男として家を継ぐ道とはどうしても両立しにくいのだった。

 

「坊ちゃまは嫡男でいらっしゃいますからね。神官の道に進まれるわけにはまいりませんよ」

 

屋敷付きの神官は穏やかに笑ってそう言ったが、俺の内心は穏やかどころではなかった。

魔力系の魔法詠唱者として死霊系統の魔法を極めてきた俺にとって、この国はあらゆる意味で最悪の初期配置だったのである。

 

とどめを刺したのは、ある晩の夕食の席で父の口から何気なく語られた徴兵制の話だった。

スープの皿を空にしながら、父はまるで明日の天気の話でもするような口ぶりでそれを切り出したのである。

 

「この国ではな、一定の年になれば体の動く者は男も女も皆、兵役に就くのだ。たとえ貴族の子であろうと、長城の守りに立つ務めからは逃れられん」

 

つまりこの国に生まれた以上、俺はいずれ必ず誰かの指揮の下で働かされることになる。

分身作成の最後にタレントの欄へ書き込んだ、腹の立つ上司の下で働いているというあのマイナス設定は、どうやらこの国では制度として手厚く保証されていたらしい。

 

「……運営め」

「ん? 何か言ったか、モモン」

「いいえ、父上。今日のパンはおいしいなと思っただけです」

 

継承品の存在を知ったのは、四つになった年の春に父が王都の式典へ出かける支度をしていたときのことだった。

父は使用人に運ばせた古い木箱の蓋を開けると、中に収められていた銀細工の装身具を取り出して、礼装の胸元へと丁寧に留めた。

 

「これは我が家に代々伝わる家宝だ。身分の証にもなる大切な品でな、式典の折にはこうして身につけることになっている」

 

父はそう言って、胸元で鈍く光る家宝を太い指先でそっと撫でた。

 

「いつかお前が成人したら、これはお前に継がせる。それまでは、お前がいずれ背負うものの重さだと思って覚えておけ」

 

ユグドラシルの頃の癖で思わず鑑定の魔法を唱えかけたが、当然ながら今の俺には第一位階の魔法ひとつ使うことができなかった。

それでも父の胸元に留められたその品を見つめていると、レアアイテムを前にしたときのコレクターの勘がざわざわと騒ぎ出すのを抑えられなかった。

 

最後に残った課題は、自分の強さを測る手段がまるで見つからないことだった。

この世界にはステータス画面もレベルを表示してくれるウィンドウもなく、自分が今何レベルなのか、それどころか自分にどんなクラスが宿っているのかさえ確かめようがない。

限界レベル三十五に能力値は天才と、数字の上では申し分のないビルドを組んだはずなのに、肝心のその数字を確かめる方法がどこにもないのである。

 

「まずは、レベルを測る方法を探すところからか……」

 

五歳の誕生日を迎えた夜にそう呟いたとき、母は寝物語の続きをせがまれたのだと勘違いして、またしても聖騎士がアンデッドを退治する話を始めたのだった。

 

 

 

数日の馬車旅の末に辿り着いた王都ホバンスは、北部のどの町とも比べものにならないほどの人と石と鐘の音で満ちていた。

中でも都の中心にそびえる大神殿は白い石を幾重にも積み上げた荘厳な建物で、正面の大扉の上には四大神を象った巨大な浮き彫りが朝日を浴びて輝いていた。

 

礼拝堂には、俺と同じ年に生まれた子供たちが親に付き添われて数十人ほど集められていた。

北部の貴族の子らと南部の貴族の子らは示し合わせたように左右へ分かれて並んでいて、五歳の子供の並び順にまでこの国の事情が透けて見えることに、俺は妙な感心を覚えた。

父は今日のために磨き上げた礼装の胸に例の家宝を留めていて、通りすがる貴族たちはときおりそれに目を留めては、俺たち親子に小さく会釈を寄越していった。

 

最前列の中央に座っていたのは、陽の光をそのまま紡いだような金色の髪を背中まで垂らした小さな女の子だった。

周りの大人たちが声を潜めて、まるで天使のようだ、ローブルの至宝とはまさにこのことだと囁き合うのを聞いて、俺はその子こそが自分と同じ年に生まれた王女カルカ・ベサーレス殿下なのだと知った。

 

儀式そのものは、老いた高位の神官が子供たちの額に一人ずつ手をかざして四大神の祝福を祈るという素朴なものだった。

だが自分の番が近づくにつれて、俺の背中には冷たい汗がじわじわと滲み始めていた。

 

ユグドラシルにおいて神聖属性の光はアンデッドの大きな弱点であり、正の力を浴びた骨の身体がどれほど脆く崩れていくかを俺は嫌というほど知っている。

もし俺の魂の奥にまだ死の支配者の名残のようなものが沈んでいたなら、祝福の光に触れた瞬間にすべてが白日の下に晒されてしまうのではないか。

母の寝物語で砕け散っていった骨の王の姿が脳裏をよぎり、俺は小さな拳を握りしめたまま自分の名が呼ばれるのを待った。

 

「次の子、モモン殿。前へ」

 

一歩ずつ祭壇の前へと進み出ると、皺だらけの神官の手がゆっくりと俺の額の上にかざされた。

 

「四大神の御名において、この幼き子の行く道に光あらんことを」

 

神官の掌から淡い光がこぼれ落ちて、俺は思わず目を閉じて奥歯を噛みしめた。

しかし額に降りてきたのは焼けつくような痛みではなく、春の陽だまりのような柔らかな温もりだけであり、それ以上のことは何ひとつ起こらなかった。

考えてみれば当たり前の話で、今の俺は骨の王などではなく、ただの人間の子供にすぎないのだ。

 

列へ戻る途中でふと視線を感じて顔を上げると、最前列の王女がこちらを振り返り、不思議そうに小首を傾げていた。

澄んだ水のような薄青い瞳とまともに目が合ってしまい、俺は慌てて五歳の子供らしい無邪気な笑みを顔に貼り付けた。

 

儀式が終わると、大人たちが挨拶を交わし合うあいだ、子供たちは神殿の奥にある中庭で待たされることになった。

噴水の周りでは早くも北と南の子供たちがそれぞれに輪を作っていて、侍女や従者たちは少し離れた回廊からその様子を見守っていた。

 

小さな悲鳴が上がったのは、俺が噴水の縁に腰かけて、周りの子供たちの家柄や性格をひそかに頭の中の名簿へ書き込んでいたときのことだ。

南部の輪から少し外れていた小柄な男の子が石畳につまずいて転び、擦りむいた膝を抱えて火がついたように泣き出したのである。

 

「いたい……いたいよう……」

 

南部の子供たちは顔を見合わせるばかりで、誰ひとりその子に手を差し伸べようとはしなかった。

手を貸すべきか、それとも目立たないように放っておくべきかと俺が頭の中で損得を計算し始めたそのとき、金色の髪をなびかせた小さな影が誰よりも早く石畳の上を駆けていった。

 

「だいじょうぶ? ほら、見せて。……血が出ているわね」

 

王女は泣きじゃくる男の子の前にためらいなく膝をつくと、上等な衣装の裾が汚れるのもかまわずに、その小さな手で膝についた砂を払ってやった。

王女自らが南部の子供のもとへ駆け寄るという光景に、周りの子供たちも回廊の大人たちもしばし言葉を失っていた。

俺は懐から母に持たされていた手巾を取り出すと、我ながら計算の遅さに苛立ちながら二人のそばへ歩み寄った。

 

「これ、使ってください。きれいな布です」

「ありがとう。あなた、やさしいのね」

 

王女は手巾を受け取ると擦りむいた膝にそっと押し当てて、男の子が泣き止むまで根気よく声をかけ続けた。

やがて駆けつけた従者に男の子が連れられていくと、王女は裾についた砂を払いながら、改めて俺のほうへ向き直った。

 

「わたし、カルカ。あなたのお名前は?」

「モモンです。北の、長城の近くから来ました」

「モモン。すてきなお名前ね。……ねえ、さっき祝福のとき、とってもこわそうな顔をしていたでしょう?」

 

不意を突かれて、俺は思わず言葉に詰まった。

誰にも気取られないように振る舞っていたつもりだったが、この王女は最前列から振り返ったあの一瞬で、俺の強張りを見抜いていたのだ。

 

「……少しだけ、こわかったです」

「わたしもね、ほんとうは少しこわかったの。でも、神官さまの手はとってもあたたかかったでしょう?」

 

カルカはそう言って、陽だまりのような笑みを浮かべた。

それから噴水の水面に視線を落とすと、まるで大切な秘密を打ち明けるように少しだけ声を小さくした。

 

「わたしね、だれも泣かない国にしたいの。さっきの子みたいに、いたくて泣いている子がいたら、すぐにかけつけて治してあげられるような、そんな国」

 

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥のどこかがかすかに軋んだ。

五年前のあの日、俺は凪の訪れない夜の中で、泣き止む術も知らずにただ泣き続けることしかできなかった。

同じ年に生まれたこの小さな王女は、誰かが泣いているところへ迷わず駆けていき、その涙を止めてやりたいと本気で願っているのだ。

 

「……いい国ですね、それ」

「でしょう? だからね、わたし、神さまのお勉強をいっぱいするの。魔法も、たくさんたくさん覚えるのよ」

 

真っ直ぐな瞳でそう言い切るカルカを見て、俺は根拠もなく、けれど確かに、彼女の中に眠っている才能の大きさを感じ取っていた。

ゲーマーとしての勘が、この少女は自分と同じ側の存在だと告げていたのである。

 

「おい、そこのお前!」

 

鋭い声とともに、木と石がぶつかる乾いた音が中庭に響き渡った。

振り返った先に立っていたのは、白い髪留めで栗色の短い髪を押さえて額をむき出しにした女の子で、その手にはどこに隠し持っていたのか、子供の背丈ほどもある木剣が握られていた。

刃物の切っ先のように鋭いその目つきは、とても五歳の子供のものとは思えなかった。

 

「お前、さっきから王女さまのとなりで何をしている! あやしいやつめ、わたしと勝負しろ!」

「いえ、僕は別にあやしい者では……」

 

言い終わるより早く、少女は石畳を蹴って一直線に間合いを詰めてきた。

五歳の子供とは思えない踏み込みの鋭さに驚きながらも、俺の身体は考えるより先に半歩だけ横へとずれていた。

振り下ろされた木剣が鼻先をかすめて空を切ると、少女は目を丸くしてから、むしろ嬉しそうに口の端を吊り上げた。

 

「よけたな! もう一回だ!」

 

二撃目は横薙ぎで、三撃目は踏み込みからの突きだった。

どちらも子供の遊びとは思えない速さだったが、狙いがあまりにも正直すぎて、肩の向きと足の運びさえ見ていれば次にどこへ来るのかは手に取るようにわかった。

ユグドラシルで数え切れないほどの対人戦をこなしてきた俺にとって、殺気の矛先を隠そうともしない攻撃ほど読みやすいものはないのだ。

 

だが四撃目をかわしたところで、俺は回廊の大人たちがざわつき始めていることに気がついた。

五歳の子供が木剣の連撃を紙一重でかわし続けている光景など、どう考えても目立ちすぎている。

神童と騒がれるのは情報漏洩だと自分に言い聞かせてきたこの五年間の努力が、こんなところで水の泡になってはたまらなかった。

 

俺は五撃目の振り下ろしに合わせて足をもつれさせたふりをしながら、肩口でわざとその一撃を受け止めた。

手加減という概念をまるで持ち合わせていないその一撃は、五歳の少女の細腕から放たれたとは思えないほど重く、目の奥に白い火花が散った俺はそのまま石畳の上に尻もちをついた。

 

「いっ……たぁ……」

 

演技のつもりで漏らした呻き声は、途中から完全に本物の悲鳴へと変わっていた。

少女は木剣を肩に担いだまま、尻もちをついた俺をじっと見下ろしていた。

勝ち誇った顔をするかと思いきや、その眉はなぜか不満げに寄せられていて、鋭い目が俺の顔の奥を探るように覗き込んできた。

 

「お前、今わざと当たったな?」

 

心臓が跳ね上がるのを、俺はどうにか顔に出さずに堪えた。

理屈も計算も持ち合わせていないはずの五歳の少女が、ただ剣を交えた勘だけで、俺の芝居をあっさりと見抜いてみせたのだ。

 

「な、何のことですか。本当に足がもつれただけで……」

「うそだ。だってお前、それまでぜんぶ見えてるって顔してた」

 

少女はそう言い切ると、ふいにぱっと顔を輝かせた。

それは獲物を見つけた狩人のようでもあり、とびきりの宝物を見つけた子供のようでもある、ひどく危なっかしい笑顔だった。

 

「気に入った! お前、わたしの家来にしてやる!」

 

その宣言を聞いた瞬間、俺の脳裏にはあの白い空間で書き込んだ一文が、入力欄の枠ごと鮮やかに蘇っていた。

 

『入力:まったく助けてくれない腹の立つ上司の指示を受けて働いている』

 

「……まさか、な」

「だめよ、そんなに乱暴にしたら」

 

尻もちをついたままの俺と木剣を担いだ少女のあいだに、カルカが小さな両手を広げて割って入った。

 

「あなたが王女さまか!」

「ええ、カルカよ。あなたは?」

「レメディオス! レメディオス・カストディオだ! いつか聖王国でいちばん強い聖騎士になる!」

「レメディオスね。あなたも今日、祝福を受けたのでしょう? お誕生日はいつなの?」

「えっとな、母上が言ってたのは……」

 

レメディオスが指を折りながら口にした日付を聞いて、カルカはまあ、と両手で口元を覆った。

二人の誕生日は、ほんの数日しか離れていなかったのである。

 

「わたしたち、お誕生日がとっても近いのね!」

「近いのか! じゃあ、お前……じゃなくてカルカさまは、わたしの、えっと……」

「お友だち、ね」

 

カルカがそう言って微笑むと、レメディオスは一瞬だけ目を瞬かせてから、木剣を放り出してカルカの手を両手でぎゅっと握りしめた。

誕生日が近いというただそれだけの理由で二人はあっという間に打ち解けてしまい、噴水の周りには場違いなほど明るい笑い声が響いた。

その輪の外で一人肩口の痛みに耐えている俺のことなど、どうやら二人ともすっかり忘れてしまったようだった。

 

ふと視線を感じて振り向くと、レメディオスによく似た顔立ちの小さな女の子が、回廊の柱の陰からこちらをじっと覗き込んでいた。

姉と同じ栗色の髪を白い髪留めで押さえていたが、前髪は額を隠すように下ろされていて、口元にはどこか考え事をしているような薄い笑みが浮かんでいる。

 

「ケラルト! こっちに来い、王女さまだぞ!」

 

姉に呼ばれた女の子はとことこと駆けてくると、その背中に半分だけ身を隠したまま、カルカではなく俺のほうをじっと見上げた。

二つ年下の妹だというから、まだ三つになったばかりのはずだ。

それなのにその丸い瞳は、まるで初めて見る魔物の生態を記録するかのように、俺の顔と肩口の汚れと噴水の縁に残された手巾とを順番に眺めていった。

 

「……ねえさま。このひと、へん」

「へんじゃない! わたしの家来だ!」

「家来になった覚えはありません」

 

三歳の女の子に値踏みされるという初めての経験に、俺の背中には再び冷たい汗が滲んでいた。

この姉妹は片方が勘で、もう片方が観察で、それぞれまったく別の方向から人の本性へと迫ってくる類の人間らしい。

 

「モモンも、わたしのお友だちになってくれる?」

「……はい。喜んで、殿下」

 

家来だ家来だと言い張るレメディオスの声を聞き流しながら、俺はカルカが差し出した小さな手をそっと握り返した。

同じ年に生まれた心優しい王女と、剣の申し子のような少女と、その背中から俺を観察し続ける幼い妹の三人は、こうして五年かけて作り上げてきた頭の中の名簿の、最も重要な欄に書き加えられることになった。

 

 

 

祝宴は王城の大広間で開かれ、着飾った大人たちが杯を片手にあちらこちらで談笑の輪を作っていた。

子供たちは早々に退屈して侍女に連れ出されていったが、俺は果実水の杯を抱えたまま父の背中に隠れて、大人たちの会話にじっと耳を澄ませていた。

情報こそが最大の武器だというのは、ユグドラシルの頃から何ひとつ変わることのない俺の信条なのだ。

 

南部の貴族たちは長城の維持にかかる費用の多さに不満を漏らし、北部の貴族たちは丘陵の亜人の動きに眉をひそめている。

そうした話題の合間に、近くにいた老貴族が声を潜めて口にした名前が、俺の耳に引っかかった。

 

「聞いたか。帝国のフールーダ・パラダインが、また新たな魔法を編み出したらしい」

「あの怪物か。三系統もの魔法を操り、人の身で第六位階にまで至ったという……」

「帝国の全軍に匹敵するとまで言われる、人の域を逸脱した大魔法使いだ。あれがいる限り、どこの国も帝国にはうかつに手を出せんよ」

 

フールーダという名前を耳にした瞬間、俺の手の中で果実水の杯がかすかに揺れた。

それは分身作成の画面でコネクションの説明を読んでいたとき、国王級の人物と並べてフールーダとかいう実力者と記されていた、あの名前と同じだったのだ。

 

あのとき見知らぬ名前として読み流したものが、この世界では誰もが知る生ける伝説として語られている。

だとすれば、あの説明文に並んでいたブレインやンフィーやイビルアイ、ツアーや真なる竜王といった名前もまた運営のでっち上げなどではなく、この世界に実在する人物や勢力を指していたことになる。

悪ふざけのような口調で書き連ねられていたあの長い説明文こそが、この世界で唯一の攻略情報だったのだ。

 

 

 

長城の務めを長く空けられない父の意向で、俺たちは祝宴が終わるとすぐに帰りの馬車へ乗り込んだ。

王都の門をくぐる頃には陽はすでに西へ傾いていて、向かいの席では母が膝に掛け布を広げ、父は俺が王女殿下と言葉を交わしたことを何度目かわからないほど嬉しそうに語っていた。

 

「父上、ひとつ聞いてもいいですか」

「おう、何でも聞け」

「魔導国という国を、知っていますか」

 

父は太い眉を寄せてしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと首を横に振った。

 

「聞いたことがないな。王国でも帝国でも法国でもない国か?」

「では、ナザリックという場所は。アインズという人は」

「ナザリック……アインズ……いや、どちらも知らん。お前はどうだ?」

「いいえ、わたしも初めて聞く名前ですわ。どこでそんな名前を覚えたの、モモン?」

「……夢の中で、誰かが話していた気がして」

「まあ。きっと生まれる前の晩に夢に出てきてくださった方が、今度はモモンのところに会いに来てくださったのね」

 

嬉しそうに微笑む母に曖昧な笑みを返しながら、俺は窓の外を流れていく景色へと視線を移した。

フールーダは実在するのに、この国の貴族である父でさえ、ナザリックやアインズや魔導国という名前は一度も耳にしたことがないという。

ならば答えはひとつしかなく、あの説明文に絶対的な強者として記されていた勢力は、まだこの世界のどこにも姿を現していないのだ。

 

今は、まだ。

 

そしていつかナザリックがこの世界に現れるのなら、あの日ダイスが決めた俺のラスボスもまた、どこかで静かに動き出すことになる。

ユリにルプスレギナにナーベラルにソリュシャンにシズにエントマと、最後の瞬間まで玉座の間で膝をついていたメイドたちが、俺の前に敵として立ちはだかる日がきっと来るのだ。

分身作成の説明文には、自分の住む国へ魔導国が攻めてきたならどんな分身を作ろうと勝ち目はない、という一文まで添えられていたはずだった。

 

その一文を思い出した途端に背筋を冷たいものが走ったが、俺は膝の上で小さな拳を握りしめて、その寒気をどうにか押し返した。

生まれたあの日のように何もできずにただ泣いているだけの子供でいるつもりは、もう俺にはなかったのだ。

 

「父上。僕、強くなります」

「ほう?」

「長城を守れるくらいに……いいえ、もっとずっと強く」

 

父は一瞬だけ目を丸くしてから、馬車の天井が震えるほどの大きな声で笑った。

 

「はっはっは! 頼もしいことを言うようになったものだ。だがな、モモン、そう気負うことはないぞ。長城がある限り、丘陵の亜人どもがこの国の土を踏むことなど決してないのだからな」

 

父の言葉には一片の迷いもなく、母もまたその隣で安心しきったように微笑んでいた。

背後の西の空は茜色に燃えているのに、馬車が向かう長城の方角の空はすでに夜の色へ沈み始めていて、その暗さがなぜだか少しだけ俺の胸をざわつかせた。

 

俺が手に入れなければならない力は、二つある。

ひとつはこの温かな家族と、誰も泣かない国を夢見るあの王女のいるこの国を守り抜くための力であり、もうひとつはいつか自分の足でナザリックの扉を叩くための力だ。

限界レベル三十五の天才というこのビルドがどこまで届くのかはまだわからないが、少なくともそれを確かめるための時間だけはたっぷりと残されているはずだった。

 

「……まずは、レベルの測り方からだな」

 

小さく漏れた呟きは馬車の車輪の音にかき消されて、両親の耳には届かなかったようだった。

それが五歳になった俺が王都からの帰り道に立てた、二度目の人生における最初の攻略目標だった。

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