鈴木悟の分身がオーバーロード世界にいたら 作:分身分身影写し
窓の鎧戸に小石の当たる乾いた音で目を覚ましたのは、東の空がようやく白み始めたばかり。
大神殿の一番鐘すらまだ鳴っていない時刻のことだった。
寝台の上で身を起こしてしばらく耳を澄ませていると、こつんという控えめな音の間隔は少しずつ短くなっていき、やがて小石とは呼べそうにない鈍く重たい音までが混じり始めた。
夜明け前のこの屋敷の窓に石を投げてよこす人間など、王都ホバンスの広さをもってしても、俺にはたった一人しか心当たりがなかった。
鎧戸を押し開けると、薄青い朝靄の立ちこめる庭の真ん中で、白い髪留めで栗色の髪を押さえて額をむき出しにした少女が、子供の背丈ほどもある木剣を肩に担いで仁王立ちしていた。
空いているほうの手には次に投げるつもりだったらしい拳ほどの石がしっかりと握られていて、俺はあと少し起きるのが遅ければ鎧戸の板が一枚犠牲になっていたことを悟った。
「モモン、起きろ! 今日はすごい日だぞ!」
「……おはようございます、レメディオス。それで、何がすごいのですか」
「だから、すごいんだ! 早く降りてこい、家来!」
肝心の中身をすっかり言い忘れたまま胸を張る少女を見下ろして、俺は寝癖のついた頭をかきながら、朝靄よりも白い溜め息をひとつ吐き出した。
王都の大神殿の中庭でレメディオス・カストディオの家来にされてから、今年でもう四年になる。
四年も同じ上司の下で働いていれば扱い方くらいは嫌でも身につくもので、俺の頭の中にはいつの間にか、一冊の分厚い取扱説明書ができあがっていた。
その一頁目をめくる前に、まずは俺がこの王都で暮らすことになった経緯から振り返っておかなければならないだろう。
すべての始まりは、五つの冬に父が下したひとつの決断だった。
祝福の儀から半年ほどが過ぎた五つの冬、俺は母とともに北部の領地を離れて、王都ホバンスにあるトーレス伯爵家の屋敷へ移り住むことになった。
王女殿下と言葉を交わしたという一件がよほど誇らしかったのか、父はそのご縁を大切にするためにも、嫡男には王都でしかるべき教育を受けさせるべきだと言い出したのである。
長城の務めを預かる父自身は北の領地と王都とを行き来する暮らしになり、王都の屋敷には母と俺、領地から連れてきた数人の使用人たちだけが住まうことになった。
「長城を空けられん父を許せ、モモン。その代わり、王都で学べることはすべて学んでこい」
「はい、父上……父上も、どうかご無事で」
領地を発つ朝、父は馬車の窓越しに剣だこだらけの手を伸ばして俺の頭をくしゃくしゃに撫で回し、それから少しだけ寂しそうに笑った。
遠ざかっていく父の姿に手を振りながら、しおらしく寂しげな顔を作るのにずいぶんと苦労したことを、俺はここで正直に白状しておく。
王都は人と物と噂の集まるこの国の心臓、情報こそ最大の武器だと信じる俺にとってそこに住めるということはギルドの拠点を辺境の砦から首都の一等地へ移すのにも等しい幸運だったのだ。
大神殿の書庫、王城で交わされる噂話、他国から流れてくる商人たちの土産話と、あの白い空間の説明文の続きを探し、レベルの測り方の手がかりを掴むのに、これほど都合のいい場所はほかに思いつかなかった。
ところが新しい屋敷で迎えた最初の朝、俺の綿密な攻略計画は門の前でいきなり盛大に躓くことになった。
まだ荷解きも終わっていない屋敷の玄関に、顔色を変えた門番が転がり込むようにして駆け込んできたのである。
王都の流儀に不慣れな北部育ちの門番は、言葉を選びあぐねるように何度か口をぱくぱくさせてから、ようやく母に向かって用件を告げた。
「お、奥様。門の前に、木剣を担いだ小さなお嬢様がおいでで……カストディオ家の御息女だと名乗っておられるのですが、その、坊ちゃまの主人だから坊ちゃまを出せと」
「まあ。主人、ですって?」
母が目を丸くしてこちらを振り返ったが、俺には弁解の言葉を探すだけの時間すら与えられなかった。
門の外から響いてきたのは、半年前に大神殿の中庭で聞いたのとまったく同じ、冬の朝の冷たい空気をまっすぐに貫くよく通る声だったのだ。
「家来! いるのはわかってるぞ! 出てこい!」
門を開けると、白い髪留めで額をむき出しにした少女が、半年前と同じ木剣を担いでそこに立っていた。
吐く息を白く弾ませた頬は寒さで林檎のように赤く染まっていて、どうやら夜明けを待ちきれずに家を飛び出してきたらしかった。
「……どうして、僕がここに来たことを知っているのですか」
「カルカさまに聞いた! モモンが王都に来るってカルカさまが教えてくれたんだ。わたしの家はあっちの通りの先だから、これで毎日来られるぞ!」
毎日、という不穏な一言に俺が返す言葉を失っていると、背後で母が口元を押さえて肩を小刻みに震わせ始めた。
カストディオ家は代々聖騎士を輩出してきた誉れ高い家柄だと聞いていたが、家格でいえばトーレス伯爵家のほうがはるかに上であり、ついてきた使用人たちは格下の家の娘が嫡男を家来呼ばわりする光景にすっかり青ざめていた。
それでも母は使用人たちをそっと手で制すると、いつものおっとりとした笑みを浮かべて、小さな来訪者の前にしゃがみ込んだ。
「あなたがレメディオスね。モモンからお話は聞いていますよ。この子と仲良くしてくれるのかしら」
「仲良くじゃない。家来にしてやったんだ!」
「まあまあ。それは頼もしいご主人様ができたものね、モモン」
母上、そこは笑っていないで否定してくださいという俺の心の叫びは、残念ながら誰の耳にも届かなかった。
こうして俺の王都での新生活は情報収集の拠点作りよりも先に、上司が毎朝家来の屋敷へ出勤してくるという前代未聞の勤務形態から幕を開けることになったのである。
取扱説明書その一、上司の朝は早い。
レメディオスは宣言どおり、その翌朝からも夜明けとともに屋敷の門を叩き続けた。
雨の日も雪の日も、大神殿の一番鐘より先に響くその小さな拳の音は、やがてトーレス家の屋敷にとって、雄鶏の鳴き声と何ら変わらない朝の合図になっていった。
門番は最初のひと月こそ毎朝青い顔で母のもとへ走っていたが、ふた月目からは黙って門を開けるようになり、三月目には少女の木剣の朝露をあらかじめ拭って待つようにまでなっていた。
たまに長城から戻ってくる父に至っては、嫡男が聖騎士の家の娘に家来扱いされていると聞くなり、腹を抱えて笑い転げていた。
それから急に真顔になって、ならば主人を守れる家来になれと俺の肩を叩くと、そのまま上機嫌で北へ帰っていったのである。
稽古の中身はいたって単純で、中庭で木剣を構えたレメディオスが、ひたすら俺に打ちかかってくるだけのものだった。
俺は六歳の子供らしく見える程度に避け、六歳の子供らしく見える程度に受けて、ときどき六歳の子供らしく見える程度に負けてやった。
問題は、この上司が子供らしく見える程度の手加減というものを、ただの一度も見逃してはくれないことだった。
「お前、また今わざと負けたな」
「……気のせいですよ」
「気のせいじゃない。顔に書いてある」
六つになった年の春のある朝、打ち合いの合間に肩で息をする少女を眺めながら、俺はつい余計なことを口にしてしまった。
連日の稽古で太刀筋を見慣れるうちに、彼女の動きの中に潜む小さな癖が、どうにも気になって仕方がなくなっていたのだ。
この辺りの事が打ち合いの中で自然と理解できるということが、恐らく『天才』の影響なのだろう。
「レメディオスは大きく振りかぶるとき、必ず右の肩が先に上がりますね。あれでは、次にどこへ打ち込むのかを相手に教えているようなものですよ」
言ってしまってから、それが六歳の子供の口から出てくるべき台詞ではなかったことに気づいて、俺は内心で頭を抱えた。
ギルドで後から加わった仲間たちに対人戦の立ち回りを教えていた頃の癖が、よりにもよってこの勘の鋭い少女の前で顔を出してしまったのである。
だがレメディオスは俺を怪しむどころか、木剣を構え直したまま、しばらく自分の右肩を親の仇でも見るような目つきで睨みつけていた。
「……右の肩か」
その日の夕暮れ、門番がもはや困り顔すら作らずに、カストディオ家のお嬢様がまたお見えですと告げに来た。
門の前で待っていたレメディオスは汗と土埃にまみれた顔のまま木剣を構えると、俺の目の前で一度だけ大きく振りかぶってみせた。
「直したぞ。どうだ」
その振りかぶりからは、朝まで確かにあったはずの右の肩の癖が、きれいさっぱり消え失せていた。
迎えに来たカストディオ家の侍女がこっそり教えてくれたところによれば、少女は朝の稽古から帰るなり昼餉も忘れて裏庭で素振りを繰り返し、たった半日で身体に染みついた癖を自分の力だけで叩き直してしまったのだという。
「……はい。もう、どこに来るのかわかりません」
「よし! じゃあモモン、明日からは毎朝、その日のわたしの悪いところを言え!」
それ以来、打ち合いの合間に家来が上司の悪いところをひとつ挙げ、上司がそれをその日のうちに直してくるというのが、俺たちの朝の決まりごとになった。
門を叩く音とともに始まり、家来の指摘とともに終わる朝の稽古は、季節がいくつ巡ってもただの一日も途切れることがなかった。
「モモン、今日のわたしの悪いところを言え」
「踏み込んだあと、左の足が外へ流れています。あれでは二撃目が遅れますよ」
「わかった、夕方までに直す」
指摘された欠点を言い訳ひとつせずに呑み込み、その日のうちに自分の血肉へ変えて木剣を振るってくる少女を見ていると、俺はかつてギルドで仲間に戦術を教えていた頃のことをよく思い出した。
ぷにっと萌えさんの教えを噛み砕いて伝えた仲間が、それを使って初めての勝ちを拾ってきたあの夜の、自分のことのように嬉しかった感覚が、六歳の子供の身体の中で静かに蘇ってくるのである。
もっとも上司が伸びていく速さは、教える側の想定をいつも少しずつ上回っていた。
半年も経つ頃には、子供らしく見える程度の手加減ではもう上司の木剣を受けきれなくなり、七つになる頃には、屋敷の衛兵たちまでが上司の打ち込みを受けるたびに手首を押さえて顔をしかめるようになっていた。
ときおり姉にくっついて屋敷へやってくるケラルトは、中庭の隅の石段に腰を下ろして膝に頬杖をつき、俺たちの打ち合いを最初から最後まで黙って眺めていた。
そして帰り際、姉が門の外へ駆け出していったのを見計らったように、俺の袖をそっと引くのだった。
「……きょうも、手加減してた」
四つになったばかりの子供にそう囁かれるたびに、俺の背中には冷たい汗が一筋流れ落ちた。
姉が勘で暴くものを、この妹は目で暴いてくるのである。
取扱説明書その二、考える仕事はすべて俺に回ってくる。
七つになる頃には、レメディオスにとっての俺は稽古相手であると同時に、頭を使うことなら何でも押しつけられる便利な家来になっていた。
王都の探検の計画を立てるのも、探検の帰りが遅くなった言い訳を大人に向けて考えるのも、上司の中ではすべて家来の仕事ということに決まっていたのだ。
「モモン、明日は大神殿の鐘楼に登るぞ。計画を立てろ」
「……鐘楼は神殿の管理です。子供が勝手に登れば、神官様に叱られますよ」
「だから、叱られない計画を立てろと言っている」
俺は渋々、鐘撞きの老人が昼の鐘を撞き終えたあとで決まって居眠りを始める頃合いと、神官たちの目が夕べの祈りの支度に向く時刻とを調べ上げ、子供二人が誰にも見咎められずに鐘楼の天辺まで辿り着ける経路を組み立てた。
敵対ギルドの拠点に潜入する経路を洗い出すのとやっていることは何ひとつ変わらず、その作業がまた妙に楽しかったことは、正直に認めなければならないだろう。
鐘楼の天辺から見下ろした王都ホバンスは、石の屋根が波のように果てしなく連なっていて、その果ての東の空の下には、長城へと続く街道が細い糸のように伸びていた。
レメディオスは欄干から身を乗り出すと、冷たい風に栗色の髪をなぶらせながら、王都じゅうに聞こえそうな大声を張り上げた。
「決めたぞ、モモン! ここから見える全部、いつかわたしが守る!」
「……全部、ですか」
「全部だ! モモンも入ってるぞ!」
守られる側に数えられているのか、それとも守る側に数えられているのか、俺にはとうとう最後まで判断がつかなかった。
もちろん鐘楼から降りてくる頃にはとうに日が傾いていて、カストディオ家の門限は跡形もなく過ぎ去っていた。
「モモン、母上に出す詫び状を書け」
「それは、レメディオスが自分で書くべきだと思いますが」
「わたしが書くと、母上は字が汚いと言って余計に怒るんだ」
俺は渋々筆を取ると、七つの少女が自分で書いたように見えるよう、わざと字の形を崩してところどころ綴りまで間違えた詫び状を書き上げた。
反省の言葉と事の経緯と二度と同じことはしないという誓いとを、子供らしい言葉づかいのまま、読む側の怒りが自然と収まっていく順番に並べられたのは、前の世界で数え切れないほど始末書を書かされてきた会社員の悲しい経験の賜物だった。
翌朝、レメディオスは詫び状のおかげで母上の雷が半分で済んだと上機嫌で報告してきたが、その背中に隠れてついてきたケラルトは、薄く笑ったまま俺の顔をじっと見上げていた。
姉が中庭へ駆け込んでいったあとも、妹はその場に残って、俺にだけ聞こえるような小さな声でそっと口を開いた。
「……あのおてがみ、ねえさまの字じゃなかった」
「何のことでしょう?」
「わざと、まちがえてた。ねえさまは、あんなにじょうずにまちがえない」
五つの子供に始末書の偽装をあっさりと見破られるという屈辱に、俺は返す言葉もなく王都の空を仰いだ。
当の上司本人がまったく気づいていないことだけが、せめてもの救いだった。
カルカの七つの誕生日が近づいたある日、レメディオスはいつになく真剣な顔で、稽古の時間でもないのに屋敷へ駆け込んできた。
その顔つきときたら、亜人の大軍を前にした長城の兵士もかくやというほどの、悲壮な決意に満ちていた。
「モモン、カルカさまへの贈り物を決めろ!」
「レメディオスは、何を贈りたいのですか」
「木剣だ! わたしとおそろいのやつ!」
木剣を握りしめた王女殿下が王城の中庭で嬉々として誰かに打ちかかっていく光景を思い浮かべて、俺は即座にその案を却下した。
王女の誕生日ともなれば国じゅうの貴族から宝石や絹や細工物が山のように届くはずであり、子供の贈り物がその山に埋もれずに殿下の心まで届くためには、値段ではなく意味で勝負するしかない。
俺は殿下が大神殿の中庭で語ってくれた夢を思い出し、小さな革の手当て袋に洗い立ての白い手巾を何枚も詰めたものを贈ってはどうかと提案した。
「殿下はいつか、泣いている人のところへ駆けつけて治してあげたいとおっしゃっていました。そのときに、きれいな布がいつでも手元にあるように、です」
「……それ、いいな! すごくいい!」
誕生日の祝いの席は王城の小広間で開かれ、着飾った貴族の子女たちが順番に殿下の前へ進み出ては、きらびやかな贈り物を恭しく差し出していった。
やがて自分の番が回ってくると、レメディオスは革袋を両手で高々と掲げ、広間の隅々にまで響き渡るような大声で言い放った。
「カルカさま、お誕生日おめでとう! これは手当て袋だ! カルカさまが泣いてる人のところへ走っていくとき、きれいな布がいつでもあるように! 選んだのはモモンだ!」
広間の空気が、一瞬だけぴたりと止まったような気がした。
だが上司は周りの大人たちが目を瞬かせているのにもかまわず、胸を張ったまま、俺が袋を選んだときの理屈を一から十まで得意げに披露し始めたのである。
「ほかのやつらはみんな宝石とかを贈るから、宝石だと山に埋もれてカルカさまの目に留まらないって、モモンが言ってたんだ! だから値段じゃなくて、意味で勝負するんだって!」
広間のあちこちで大人たちが顔を見合わせ、つい先ほど宝石を贈ったばかりの貴族の何人かが、気まずそうに咳払いをするのが聞こえた。
俺は足元の床の模様を数えることに全神経を注ぎながら、上司が家来の手柄を横取りするどころか、家来の頭の中身まで丸ごと広間にぶちまけてくれたことに気が遠くなりかけていた。
ついでに言えば、俺はやつらなどという言葉はただの一度も使っていない。
だがカルカは革袋を両手で大切そうに受け取ると、中から白い手巾を一枚取り出して、それをそっと胸に抱き寄せた。
そして何かを思い出したように、澄んだ薄青い瞳を俺のほうへまっすぐに向けた。
「……あのときの手巾ね。大神殿の中庭で、モモンが貸してくれた」
「は、はい……覚えていてくださったのですか」
「忘れるはずがないわ。ありがとう、レメディオス。ありがとう、モモン。わたし、これをずっと持ち歩くわね」
殿下が浮かべた花のほころぶような笑顔に、広間の大人たちの強張った視線も、ひとつ、またひとつと柔らかくほどけていった。
それでも何人かの大人たちが、七つの子供にしては妙に理屈の通った贈り物の選び方をした北部の伯爵家の嫡男へ、ほんの少しだけ長く視線を留めていたことを、俺は見逃さなかった。
手柄を横取りしない上司というのは、隠しごとの多い家来にとって、手柄を横取りする上司よりもずっと厄介な存在なのかもしれない。
取扱説明書その三、ただし、責任だけは自分で取る。
あれは八つになる少し前の秋、王城の庭でとんでもないものを壊してしまったときのことだ。
カルカの午後の講義が終わるのを待つあいだ、庭の外れで始めた打ち合いが、いつものように少しずつ熱を帯びていったのがすべての始まりだった。
その庭の中央には、はるか昔に北の地を死で覆い尽くした不死者の王を討ち果たしたという、白銀の鎧の聖騎士の石像が立っていた。
母の寝物語に何度となく登場したあの英雄であり、聖なる剣を天へ掲げたその勇ましい姿を見上げるたびに、元不死者の王である俺はなんとも言えない居心地の悪さを覚えたものだった。
その日に限って、レメディオスの踏み込みはいつもより半歩深かった。
読み違えた俺の身体は考えるより先に大きく後ろへ跳んでいて、行き場を失った渾身の振り下ろしは、俺の背後にそびえていた石像の剣先へと吸い込まれるように叩き込まれた。
乾いた音とともに白い石の欠片が宙を舞い、天を指していたはずの聖騎士の剣は、その先端の指一本分ほどを失っていた。
俺とレメディオスは揃ってぽかんと口を開けたまま、芝の上に転がった小さな石の剣先を見下ろした。
かつて不死者の王を討ったという英雄の剣を、元不死者の王がかわした一撃が欠いてしまったのだから、皮肉にしてもあまりに出来すぎた話である。
「何をしておるか、子供たち!」
庭の向こうから血相を変えて駆けつけてきたのは王城の侍従を束ねる白髪の老人で、その顔は欠けた石像よりもよほど白く血の気を失っていた。
老人の後ろからは庭師や衛兵たちまでもがぞろぞろと集まってきて、俺たちはあっという間に大人たちの輪の中へ閉じ込められてしまった。
「この国をお守りくださった聖騎士様の御像に、なんということを……! 誰がやったのです、正直に申しなさい」
避けた俺にも責任の半分はあると考えて、俺は覚悟を決めて一歩前へ出ようとした。
だがそれより早く、レメディオスが俺の前に飛び出して、小さな両腕を目いっぱいに広げていた。
「わたしがやった! わたしが振った剣が当たったんだ! モモンは関係ない!」
「いえ、僕が避けたせいで……」
「お前は黙ってろ! 避けるのはモモンの仕事で、当てたのはわたしだ!」
小さな背中が、俺の目の前で精一杯に胸を張っていた。
その背中を見つめているうちに、俺の脳裏にはまったく別の、もっと大きな背中が重なって見えた。
ユグドラシルを始めたばかりの頃、異形種というだけで面白半分に追い回され、とうとう逃げ場を失った俺の前に立ちはだかって、追っ手の刃をひとりで引き受けてくれた白く輝く鎧の騎士の背中だ。
たっち・みーさんは、困っている誰かを助けるのに理由などいらないとでも言うように当たり前の顔で振り返り、そのまま俺を仲間の輪の中へと誘ってくれたのである。
前の世界で俺の上に立った上司たちは、ひとりの例外もなく、失敗の責任を部下へ押しつけては手柄だけを自分のものにしていく人間ばかりだった。
だからこそ俺は、あの白い空間の入力欄に、まったく助けてくれない腹の立つ上司という一文を何の迷いもなく書き込むことができたのだ。
それなのにこの上司ときたら、頭を使う仕事では本当に何ひとつ助けてくれないくせに、いちばん大事な場面でだけは家来の前に立って、誰よりも先に責任を引き受けてしまうのである。
結局、レメディオスはひと月のあいだ王城の庭で剣を振ることを禁じられ、そのうえ毎朝、欠けた石像を布で磨き上げる罰を言い渡された。
俺が手伝うと申し出ても、上司は布を握りしめたまま、頑として首を縦に振らなかった。
「家来の手は借りない。わたしがやったことだからな」
その夜、寝台の中で天井を見上げながら、俺はこの上司をどうしても拒めない本当の理由を、ようやく自覚することになった。
毎朝、家来に自分の悪いところを言わせては、それをその日のうちに直してくるような少女は、きっと自分のしでかした失敗からも決して目を逸らさないのだ。
腹は立つし、気苦労は絶えないし、取扱説明書の頁は増える一方だったが、それでも俺はこの上司のことをどうしても嫌いになれそうになかった。
取扱説明書その四、上司の友人は、家来の味方である。
八つになったカルカは、大神殿で信仰系魔法の手ほどきを受けるようになっていた。
王族とはいえ八つの子供が神殿で正式に位階魔法を学ぶのは異例のことらしく、王城の廊下では、殿下の才を讃える囁きがあちこちで交わされるようになっていた。
ある日の午後、レメディオスとの稽古を終えて王城の回廊で殿下を待っていると、講義を終えて駆けてきたカルカが、俺の腕に目を留めてぴたりと足を止めた。
袖口から覗いた俺の腕には、その朝上司の木剣を受け損ねてできた青黒い痣が、くっきりと浮かび上がっていたのである。
「モモン、その腕……またレメディオスね」
「いえ、これは僕が受け損ねただけで」
「じっとしていて。わたし、昨日やっと使えるようになったの」
カルカは俺の腕を両手でそっと包み込むと、目を閉じて、短い祈りの言葉を静かに紡いだ。
その小さな手のひらは、稽古で火照った俺の肌よりもなお温かかった。
「〈軽傷治癒(ライト・ヒーリング)〉」
殿下の掌から柔らかな緑の光がこぼれ落ちた瞬間、俺の身体は考えるより先に石のように強張っていた。
正の力を宿したその光は、かつての骨の身体であれば癒やすどころか焼き焦がしていたはずのものであり、三年前の祝福の儀のときと同じく、魂の底に沈んだ死の支配者(オーバーロード)の名残が勝手に身構えてしまったのである。
だが光が肌に触れても、そこに広がっていったのは、春の陽だまりのような穏やかな温もりだけだった。
青黒く腫れていた痣は見る間に薄れていき、やがて跡形もなく消え去った。
「……治った。モモン、もう痛くない?」
「はい……ありがとうございます、殿下」
「ふふ。モモンが、わたしの最初の患者よ」
カルカは嬉しそうに微笑んだが、その薄青い瞳は、光が触れた瞬間に俺の腕がかすかに震えたのを見逃してはいなかったようだった。
殿下は少しだけ首を傾げると、大切な秘密をそっと確かめるような小さな声で問いかけてきた。
「ねえ、モモン。あなた、祝福の儀のときもそういう顔をしていたわね。聖なる光が、こわいの?」
「こわいというより……少し、びっくりしてしまうんです。昔から」
嘘ではないが本当でもない俺の答えに、カルカはそれ以上何も聞かず、ただ小さく頷いてくれた。
問い詰めることも笑うこともせず、相手の言葉をそのまま受け取ってくれるこの王女の優しさに、俺はこれまで何度救われてきたかわからない。
そこへ遅れて駆けつけてきたレメディオスは、俺の腕を掴んで右へ左へとひっくり返し、痣が本当に消えているのを確かめてから目をまんまるに見開いた。
それから殿下の顔と俺の腕とを何度も見比べて、ぱっと顔を輝かせた。
「カルカさま、もうモモンを治せるのか! すごい! じゃあこれからは、もっと思いきり打ち込んでもいいな!」
「レメディオス。モモンが困っているわ」
穏やかな声でそう諭された途端、あれほど勢いづいていた上司はぴたりと口をつぐみ、叱られた子犬のようにしゅんと肩を落とした。
この王都で、暴走する上司を言葉ひとつで止められる人間は、俺の知る限りカルカ・ベサーレス殿下ただ一人しかいない。
それからというもの、俺と殿下のあいだには、口に出さずとも通じ合う奇妙な連帯感のようなものが生まれていった。
レメディオスが王都の噴水に飛び込もうとすれば俺が理屈で止め、理屈で止まらなければ殿下がひと言で止め、それでも止まらなければ二人がかりでずぶ濡れの上司を引き上げるのである。
俺たちはいつしか互いのことを、同じ上司の面倒を見る仲間として、言葉にしないまま認め合うようになっていた。
ある夕暮れ、王城の露台に三人並んで沈んでいく陽を眺めていたとき、カルカはあの日の中庭での話の続きを聞かせてくれた。
茜色に染まった殿下の横顔は五つの頃よりもずっと大人びて見えたが、夢を語るときの声の真っ直ぐさだけは、あの日から少しも変わっていなかった。
「わたしね、魔法をたくさん覚えたら、長城の兵士さんたちのところにも行きたいの。北の人たちが、いちばん怪我をするのでしょう?」
「……はい。父上の兵も、毎年何人も怪我をして帰ってきます」
「だから行きたいの。誰も泣かない国にするなら、いちばん痛い場所から始めないと」
レメディオスは難しい話はわからないという顔で欄干に頬杖をついていたが、殿下のその言葉にだけは、力強く何度も頷いていた。
そして欄干から勢いよく身体を起こすと、沈んでいく夕陽に向かってまっすぐに木剣を突き出した。
「じゃあ、わたしはカルカさまを守る聖騎士になる! カルカさまが行くところなら、どこへだってついていく!」
「そうしたら、モモンは?」
「モモンは、わたしについてくるに決まってる!」
当たり前のように頭数に入れられたことに苦笑しながらも、俺はその役回りを不思議と悪くないと思っていた。
誰も泣かない国を夢見る王女と、その王女を守ると誓う聖騎士の卵と、そのどちらにも振り回される家来という三人組は、ギルドの仲間たちと過ごしたあの騒がしい日々に、ほんの少しだけ似ていたのだ。
姉と殿下の背中を追いかけるようにして、その年からケラルトも大神殿へ通うようになった。
剣を振る姉とは別の道を選んだその妹は、神殿の書庫で大人でも音を上げそうな分厚い書物を読みふけっていると、神官たちのあいだでもっぱらの評判になっていた。
「……モモンさまも、神殿にくればいいのに」
「僕は嫡男ですから、神官にはなれないんですよ」
「しってる……でも、モモンさまは、剣をふるときより、本をよむときのほうがたのしそう」
六つの子供の何気ない一言に、俺は今度こそ返す言葉を見つけられなかった。
剣を振っているときよりも書物を開いているときのほうが楽しそうだというのは、魔法詠唱者として生きてきた俺の本性そのものを、まっすぐに言い当てていたからだ。
取扱説明書には、もちろん書けない頁もある。
上司が眠り、屋敷の使用人たちも寝静まった夜更けになると、俺は寝台をそっと抜け出して、誰にも明かすことのできない独学を続けていた。
始まりは三つの夏に厨房で見た、飲み水を出すだけの0位階の生活魔法だった。
王都へ移ってからも、俺は水差しの前で呪文を唱える使用人たちの口の動きと指の運びと、その瞬間に空気がかすかに震えるような気配とを、何十回となく盗み見ては頭の中に書き留めていった。
ユグドラシルにおいて魔法とは、レベルが上がるたびに一覧の中から選んで覚えるものであり、発動もアイコンをひとつ押すだけで事足りていた。
だがこの世界には一覧もアイコンもなく、俺は自分の身体のどこに魔力と呼ぶべきものが流れているのかを探るところから、何もかもを始めなければならなかったのである。
目を閉じて呼吸を数え、指先に意識を集め、何ひとつ起こらない夜を数え切れないほど積み重ねた末に、ようやく指先から一滴の水がこぼれ落ちたのは、七つの冬の終わりのことだった。
一滴がやがて杯一杯になり、杯一杯が水差し一杯になる頃には、俺は自分の内側を流れるその力の手触りを、おぼろげながら掴みかけていた。
そこから先は、ユグドラシルで数え切れないほど唱えてきた魔法の記憶が、闇夜の道しるべになってくれた。
第一位階の魔力系魔法の中で最も単純で、最も多く使い、最も深く俺の中に染みついている攻撃魔法といえば、思い浮かぶものはひとつしかなかった。
そして八つの夏の終わりの夜、俺は物置の奥から引っ張り出してきた古い木箱を、屋敷の裏庭の古井戸から十歩ほど離れた暗がりに据えた。
指先を木箱へまっすぐに向けて呼吸を整えると、俺はついにその名を口にした。
「〈魔法の矢(マジック・アロー)〉」
指先から放たれた淡い光の矢は、夜の空気を細く切り裂いて、的にしていた古い木箱の板を音もなく撃ち抜いた。
板に開いた小さな穴から月の光がまっすぐに差し込むのを見た瞬間、俺は危うく声を上げて笑い出しそうになり、慌てて両手で自分の口を塞いだ。
ユグドラシルを始めたばかりの頃には湯水のように撃ち放ち、強くなってからも牽制や小手調べに三重化して使っていた、第一位階の初歩の初歩にすぎない魔法である。
それなのに、八年かけてようやく取り戻したたった一本の光の矢が、なぜだかたまらなく誇らしかった。
骨の指でアイコンを押すだけだったあの頃には一度も味わったことのない、自分の身体の奥から何かを確かに掴み取ったという手応えが、そこには間違いなくあったのだ。
だが胸の熱さが少しずつ引いていくにつれて、冷たい現実もまた静かに戻ってきた。
アンデッドを忌み嫌い、魔法詠唱者といえば神官のことを指すこの国で、神殿の外でひとり魔力系の攻撃魔法を身につけた伯爵家の嫡男がどんな目で見られるかは、考えるまでもないことだった。
ましてや俺の本領は、この国の人々が最も憎む死霊系統の魔法なのである。
それに、たった一本の矢を撃てるようになったところで、自分が今何レベルなのかはやはりわからないままだった。
この一歩がどのクラスに何レベル分積み上げられたのか、限界の三十五のうちどれだけをすでに使ってしまったのかを確かめる術は、相変わらずどこにも見つかっていない。
俺は木箱に開いた穴を泥で塗り込めて隠すと、その夜の出来事を、誰にも明かすことのできない一枚の札として胸の奥の一番深い場所へしまい込んだ。
取扱説明書のどこにも書けないその札が、いつか俺の命を拾う日が来るのかどうかは、まだ誰にもわからなかった。
「モモン! まだか! 早くしないと、すごい日が終わっちゃうだろ!」
庭から飛んできた上司の怒鳴り声に、俺は頭の中で四年分の頁をぱたりと閉じた。
慌てて身支度を整えて中庭へ降りていくと、レメディオスは待ちきれないというように足踏みを繰り返していて、門の陰ではいつものようにケラルトが、姉の背中に半分だけ身を隠すようにしてこちらの様子をうかがっていた。
「それで、すごい日というのは、結局何なのですか」
「聞いて驚け、モモン!」
レメディオスは木剣を夜明けの空へ高々と突き上げると、王都じゅうに触れ回るような勢いで、勝ち誇ったように胸を張った。
その瞳は、大神殿の中庭で初めて出会った五つの日と同じように、とびきりの宝物を見つけた子供の輝きに満ちていた。
「今日から、わたしたちも聖騎士団の稽古に出ていいんだ! お前もだぞ、モモン!」
「……はい?」
聞き返した俺の声は、九年かけて磨き上げてきた子供らしい偽装をすっかり忘れたように、素っ頓狂に裏返っていた。
聖騎士団といえば、邪悪なる者を討つことを誇りとするこの国の聖戦士たちの総本山であり、剣の腕も人を見る目も、王都の子供たちや屋敷の衛兵とは比べものにならない大人たちがひしめいている場所なのである。
門の陰からとことこと歩み出てきたケラルトが、姉と揃いの白い髪留めに指先を添えながら、いつもの薄い笑みを浮かべて俺を見上げた。
その笑みは中庭の石段から俺の手加減を見抜いていたときと、何ひとつ変わっていなかった。
「……モモンさま。きょうからは、手加減するの、たいへんですね」
七つの少女のその一言に、俺は夜明けの冷たい空気を、ゆっくりと肺の奥まで吸い込んだ。
秘密を山ほど抱えた家来にとって、目の肥えた大人の聖騎士たちが居並ぶ稽古場ほど危険な戦場は、この王都のどこを探してもほかにあるはずがなかった。
大神殿の一番鐘が、ちょうどそのとき、白み始めた王都の空に高らかに鳴り響いた。
それは俺の取扱説明書に、まったく新しい章が書き加えられる始まりの合図だった。
レメディオス、性格改善への道
え、全く改善されていない? そうですね……