鈴木悟の分身がオーバーロード世界にいたら 作:分身分身影写し
大神殿の一番鐘の余韻がまだ王都の空に漂っているうちに、俺は上司の口からそのすごい日とやらの顛末を聞き出そうと試みた。
だが上司の説明というものはたいてい結論と感想だけでできていて、肝心の経緯がすっぽりと抜け落ちているのが常だった。
「どうして急に、聖騎士団の稽古に出られることになったのですか」
「わたしが強すぎるからだ!」
「レメディオス……もう少し、詳しくお願いします」
「子どもの稽古はつまらないし、聖騎士の大人はみんな手加減するし、従者のやつらとやったらみんな医務室に行っちゃったんだ。だから団長が、もう好きにしろって!」
「大人の聖騎士の方々が手加減してくださるなら、それはそれで良いのでは」
「良くない! 手加減されるのがいちばん腹が立つんだ!」
その言葉が家来の胸にちくりと刺さったことに、もちろん上司は気づいていない。
胸を張る上司の後ろで、ケラルトが小さく溜め息をついたような気がした。
姉の背中から半分だけ顔を出した七つの妹は、姉の説明では到底足りないと判断したのか、いつもの薄い笑みのまま静かに言葉を継いだ。
「ねえさまは、聖騎士の家の子が通う稽古では、もう相手がいなくて。大人の聖騎士さまは手加減しちゃうし、従者のひとたちだと、けが人がでるから」
「だから、わたしの相手はモモンしかいないんだ!」
「それでカルカさまが聖王陛下にお願いしてくださったんです。モモンさまといっしょなら、ねえさまが無茶をしないからって」
要するに、上司とまともに打ち合える相手はもうこの王都に俺しか残っておらず、大人の聖騎士は相手が子供だとつい手加減してしまい、年上の従者たちでは怪我人の山が築かれるばかりだったのである。
ならば家来ごと稽古場へ放り込んでしまえというのが大人たちの出した結論であり、最後の決め手になったのが王女殿下から聖王陛下へのひと言だったというわけだ。
もっとも、上司と互角に打ち合えるのが俺だけだという話がいつの間に大人たちの耳にまで届いていたのかと首を傾げかけて、俺はすぐにその答えに思い当たった。
「……レメディオス。僕があなたと互角だと、誰かに話しましたか」
「話したぞ! みんなに!」
上司は一片の悪びれもなくそう言い切ると、何がおかしいのかとでも言いたげに首を傾げてみせた。
手柄を横取りしないこの上司は、家来の実力を隠しておくという発想もまた、最初から持ち合わせていないのである。
それにしても、と俺は王女殿下の顔を思い浮かべた。
誰も泣かない国を夢見るあの王女は、上司が思うさま剣を振るえる場所を用意すると同時に、その上司が暴走しないための歯止めまでちゃっかりと一緒に送り込んでくれたのだ。
同じ上司の面倒を見る仲間として、これほど的確な采配はほかにないだろう。
こうして家来の勤務先は、トーレス家の屋敷の中庭に聖騎士団の稽古場を加えて、二か所に増えることになった。
王都に来た最初の朝に始まった前代未聞の勤務形態は、四年目にしてとうとう出向先まで抱え込んだらしい。
朝餉もそこそこに上司に袖を引かれて屋敷を出た俺は、聖騎士団の本営へと続く石畳の坂を上りながら、ずっと先送りにしてきたひとつの問題と向き合っていた。
大神殿へ向かうケラルトとは途中の辻で別れていて、隣では上司が木剣を担いだまま、今にも駆け出しそうな足取りで鼻歌を歌っている。
問題とは、ほかでもない俺自身の育て方のことだった。
ユグドラシルのクラスはレベルが上がるたびに一覧から選んで取るものだったが、この世界では何を鍛えてきたかによって身につくクラスが決まっていくように見える。
ならば聖騎士団の稽古場で剣を振り続ければ、限界の三十五のうち何レベルかが、俺の意思とは関わりなく戦士系のクラスへ持っていかれてしまうかもしれないのだ。
魔法詠唱者にとってレベルとは、行使できる位階の天井そのものである。
戦士のクラスにひとつ積むごとに、俺が死霊系統の高みへ届く日はそれだけ遠のいていき、しかも今の俺には自分のレベルを確かめる手段すらない。
数字の見えない盤面で限られた振り分けを賭けるのは、ゲーマーとしては悪手の中の悪手だった。
そもそもユグドラシルにおいても、魔法と剣の両方に手を出す魔法戦士という型は、どちらの道も中途半端な器用貧乏の代名詞として攻略掲示板でさんざんに笑われていたものだった。
レベルの上限が決まっている以上、二つの道に振り分ければそれぞれの頂は低くなり、同じレベルの純粋な魔法詠唱者にも純粋な戦士にも真正面からではまず勝てなくなるのが道理なのである。
だがPvPで俺が何より手を焼いたのは、ただ強いだけの相手ではなく、最後まで何者なのかわからない相手のほうだった。
だから俺は、剣を捨てるつもりはなかった。
詳しく言うと理由は四つある。
ひとつは、この国に生まれた以上、徴兵制からは決して逃れられないということだ。
いずれ長城に立つ日が来るのなら、剣のひとつも満足に振れない伯爵家の嫡男など、丘陵の亜人の前に差し出された生贄と大差がない。
ふたつ目は、剣士の顔が魔法を隠すための絶好の外套になるということだった。
聖騎士団で剣を振っている伯爵家の嫡男の裏に、魔力系の魔法詠唱者が潜んでいるなどと疑う者は、この国にはまずいないだろう。
手の内を晒した者から順に狩られていくのがPvPの鉄則である以上、表に見せる顔は分厚ければ分厚いほどいい。
三つ目は、武技の存在である。
ユグドラシルには影も形もなかったあの技術は、もしかするとこの地に生まれた者にしか扱えないものであり、だとすればいずれ現れるナザリックの者たちが決して持ちえない札になるかもしれない。
あの日、父の兵士長が何気なく口にした言葉が、ずっと胸の奥に引っかかっていたのだ。
そして四つ目は、最も単純で最も切実な理由だった。
刺客に懐へ潜り込まれたとき真っ先に命を落とすのは接近戦の心得を持たない魔法詠唱者であり、俺のラスボスはいずれ姉妹で連携して襲いかかってくるかもしれない戦闘メイドたちなのである。
剣も魔法も手放さず、そのどちらをも隠し札にしてこの世界を生き延びる。
限界レベル三十五という器を二つの道に分けるのは贅沢な選択だったが、『天才』の補正があればきっと届くはずだと、俺はもう一度だけ自分の組んだビルドを信じてみることにした。
「モモンという名の魔法戦士か……悪くない響きだ」
「ん? 何か言ったか、モモン」
「いいえ。今日は空が青いなと思っただけです」
上司は不思議そうに空を見上げてから、それもそうだなと大きく頷き、また鼻歌を歌いながら坂を上っていった。
九歳の独り言にしては少々芝居がかっていたかもしれないが、魔王のロールプレイで鍛えた俺の口は、こういうときに限って勝手に格好をつけたがるのだから仕方がない。
聖騎士団の本営の奥に広がる稽古場は、白い石壁に囲まれた広大な砂地だった。
騎乗の稽古に使う木の柵が砂地を斜めに区切り、藁束を巻きつけた打ち込み台が幾列にも並び、その向こうでは磨き上げた鎧の聖騎士たちと揃いの稽古着の従者たちが朝の冷たい空気の中で黙々と剣を振っていた。
かつて死の支配者と呼ばれた俺が、不死者を討つことを何よりの誇りとする聖戦士たちの稽古場へ自分の足で踏み込むのだから、運営の悪ふざけもここに極まれりといったところだろう。
子守役として俺たちの前に立たされたのは、まだ二十代の半ばと見える若い聖騎士だった。
灰色がかった薄茶色の髪を短く刈り込んだ実直そうな青年で、なぜか稽古が始まる前から、右手でそっと胃のあたりを押さえていた。
「本日よりおふたりの稽古をお預かりします、グスターボ・モンタニェスです。トーレス伯爵家のモモン殿と、カストディオ家のレメディオス殿ですね」
「トーレス家のモモンです。よろしくお願いします、グスターボ様」
「……どうか、お手柔らかに願います」
子供二人を前に深々と頭を下げるその姿に、俺は前の世界で何度も目にした、損な役回りばかり押しつけられる中間管理職の背中を見た気がした。
そしてその予感は、稽古が始まって半刻も経たないうちに的中することになる。
上司が手近な従者に片っ端から勝負を挑み、木剣のひと振りごとに年上の少年たちを砂の上へ転がしていったのである。
「次! 次は誰だ!」
「レメディオス殿、その方はもう立てません!」
俺とグスターボは、上司が新しい従者を転がすたびにその従者のもとへ駆け寄って、並んで頭を下げて回った。
伯爵家の嫡男と若い聖騎士が揃って謝罪して回るという奇妙な光景は、その日のうちに稽古場の名物になってしまったらしい。
五人目の従者を医務室へ送り出したあと、グスターボは稽古場の隅で胃を押さえたまま、深く長い溜め息をついた。
その眉間には、まだ二十代とは思えない苦労性の皺がうっすらと刻まれていた。
「……私は、胃が弱いのです。いつか信仰系の魔法を学べたら、真っ先にこの胃を治したいと思っているのですが」
「わかります」
「九つの子供に、胃の痛みの何がわかるのです?」
わかるのだ。
前の世界で毎朝顔を合わせていた上司の小言を思い出すたびに、俺の胃もまた、きりきりと音を立てて縮み上がっていたのだから。
今の身体にはまだ胃痛の覚えなどなかったが、それでもこの若い聖騎士とは長い付き合いになりそうな気がして、俺は勝手に彼を胃痛仲間の一人目に数えることにした。
それから数週間、俺はグスターボから剣の基礎と、武技の手ほどきを受けることになった。
最初に教わったのは、かつて父の兵士長が大盾で見せてくれた、あの〈要塞〉である。
「私の剣は団の中でも並ですから、型をお教えすることくらいしかできませんが。〈要塞〉は、相手の一撃を受けるその瞬間に、身体の芯へ城壁を一枚立てる武技です。足は大地に根を張るように、息は腹の底へ沈めて、受ける刹那にすべてを一点へ固めるのです」
言われたとおりに構えて呼吸を整え、打ち込まれる木剣を受ける刹那にすべてを固めようとすると、身体の奥で何かが噛み合いかけるような手応えだけは確かにあった。
だがその何かは最後の最後でするりと手の中から逃げていき、取っ手に指はかかっているのにどうしても回らない扉の前に立たされているような、もどかしい感覚だけが残された。
「最初はみな、そうです。私が初めて〈要塞〉を発動できたのも、従者になって三年目のことでしたから」
もっとも、最初はみなそうだというその慰めは、同じ型を教わった上司には少しも当てはまらなかった。
上司は十日も経たないうちに〈要塞〉を発動させてみせ、受け止めた木剣ごとグスターボの身体を後ろへ押し返して、子守役の胃にまた新しい痛みの種をひとつ増やしたのである。
同じこの地に生まれ、同じ型を同じ師から教わっているはずなのにと思うたびに、俺の頭の中にはあの日の兵士長の言葉が繰り返し蘇った。
武技とは、この地に生まれた者が汗と血を流してようやく掴み取るものだという。
俺は確かにこの地に生まれたが、足りないのが汗と血のほうなのか、それともまったく別の何かなのかを確かめる術は、今の俺にはまだなかった。
一方で、剣の握りや足の運びといった基礎のほうは、教わったその日のうちに身体が覚えてしまった。
おそらくこれも『天才』の恩恵なのだろうが、九歳の子供が一日で型を身につけたとなれば、それこそ神童の噂が王都じゅうを駆け巡ることになる。
俺は三日かけて少しずつ覚えていくふりをしながら、そのたびにグスターボが妙に静かな目でこちらを見ていることには気づかないふりをした。
けれども特別扱いの子供二人など、年上の従者たちにとって面白いはずがない。
従者の修行も経ずに団の稽古場へ出入りする伯爵家の坊ちゃまと聖騎士の家のお嬢様に向けられる視線は、日を追うごとに冷たく、棘を含んだものになっていった。
「子守付きのお遊戯とは、いいご身分だな」
聞こえよがしに吐き捨てられたその一言に上司はまるで気づかず、グスターボの胃だけが律儀に痛んでいた。
そしてその棘が木剣の形をとって俺に向けられたのは、稽古に加わって二週目の打ち合いのときだった。
型の稽古の相手を務めた年長の従者のひとりが、明らかに必要以上の力を込めて、俺の肩口めがけて木剣を振り下ろしてきたのである。
躱そうと思えば躱せたし、受け流そうと思えば受け流すこともできたが、年上の従者の本気の一撃を九歳の子供が鮮やかに捌いてみせれば、稽古場じゅうの目が俺に集まることになる。
俺は五つのあの日と同じようにわずかに足をもつれさせたふりをして、肩口でその一撃を受け止めた。
目の奥に白い火花が散り、砂の上に膝をついた俺を見下ろして、従者は鼻で笑いながら去っていった。
離れた場所で上司がグスターボに打ちかかっていたのは幸いで、もし上司がこの場面を見ていたなら、あの従者は今ごろ医務室の寝台の上で天井の染みを数えていたことだろう。
ただ上司の木剣を受けながらこちらへちらりと寄越されたグスターボの視線が、打たれた俺の肩ではなく打たれる直前の俺の足元に向けられていたような気がして、俺は肩の痛みよりもそちらのほうに冷たいものを覚えた。
年長の従者たちをまとめていたのは肩幅の広い十六の少年で、稽古の打ち合いとなると、彼は決まってその場でいちばん強い相手に真っ先に挑みかかっていった。
相手が先輩の聖騎士だろうと九つの少女だろうと強い者を見れば飛びかからずにいられないその癖を、俺は敵対ギルドの主力の癖を洗い出していた頃と同じ要領で、頭の中の名簿へと書き留めていった。
取扱説明書その五、上司は囮にすると喜ぶ。
稽古に加わって四週目のある朝、年長の従者たちと年少の従者たちに分かれて、旗取りの模擬戦が行われることになった。
砂地の両端に一本ずつ旗を立て、木剣で胴か頭を打たれた者はその場で膝をついて退き、先に相手の旗を抜いたほうが勝ちという、いたって単純な決まりである。
俺と上司が放り込まれたのは、十一から十三の少年少女ばかりが集められた年少組のほうだった。
年長組の狙いは誰の目にも明らかだった。
特別扱いの生意気な子供たちに、この機会に身の程を教えてやろうというのである。
「大将はわたしだ! 作戦は家来の仕事だからな、モモン、考えろ!」
大将に名乗り出るのと作戦を丸投げするのとをひと息に済ませた上司に、年少組の従者たちが不安そうな視線を向けてきた。
無理もない話で、年下の子供の立てる作戦に命運を預けろと言われて、素直に頷ける者などいるはずがない。
俺は溜め息をひとつ吐くと、拾った小枝で足元の砂に稽古場の見取り図を描き始めた。
「年長組の大将は、いちばん強い相手に真っ先に向かってくる癖があります。ですから、レメディオスにはいちばん目立つ正面に、ひとりで立っていてもらいます」
「わたしひとりで、あいつら全部と戦っていいのか!」
「倒さなくていいです。百を数えるあいだ、倒れないでいてください」
「倒しちゃだめなのか?」
「……倒してもいいです」
「待ってくれ。伯爵家の坊ちゃんの言うとおりに動いて負けたら、俺たちは年長組に一年は笑われるんだぞ」
「負けたら、笑われるのは作戦を立てた僕です。でも勝ったら、相手の旗を抜くのはあなたたちですよ」
年少組でいちばん年かさの少年が口にした当然の不満に、俺はできるだけ穏やかな声でそう答えた。
旗を抜いた者の名はきっとこの稽古場で長く語られることになるだろうし、手柄が俺以外の誰かのものになるのなら、こちらとしては願ったり叶ったりなのだ。
目を輝かせたまま木剣を振り回している上司を横目に、年少組の従者たちの顔からは少しずつ不安の色が引いていき、俺は見取り図に小枝で線を引きながら残りの役割を順番に割り振っていった。
四人には上司の背中だけを守ってもらい、決して前へは出ないこと。
三人は騎乗用の柵に沿って並ぶ藁束の陰に身を潜め、合図があるまで一歩も動かないこと。
合図は手と笛で出し、俺が拳を握っているあいだは待て、短く二度鳴ったら柵の陰から出て、長く一度鳴ったら迷わず相手の旗まで走ること。
旗を抜く役は、年少組でいちばん小柄で、いちばん足の速いそばかすの少女に任せた。
そして俺自身は、自陣の旗のそばに積み上げられた藁束の山の上から、最後まで一歩も動かないことにした。
試合の直前、俺は見物の列に加わっていたグスターボのもとへ行き、首から提げている笛を貸してほしいと頼んだ。
彼は一瞬だけ怪訝そうに眉を上げたが、何も聞かずに笛を外して、俺の手のひらに載せてくれた。
ギルド戦の頃なら仲間への指示はボイスチャットひとつで事足りたが、この世界にそんな便利なものはなく、笛と手の合図がその代わりというわけである。
開始の合図とともに、年長組の大将は案の定、まっすぐ上司めがけて砂を蹴った。
その後ろに年長組の主力がこぞって続き、彼らの旗の前に残ったのは、退屈そうに木剣を担いだ二人の番だけだった。
上司は笑っていた。
四方から振り下ろされる木剣を楽しげに弾き返し、踏み込んできた従者をひとり、またひとりと砂の上へ転がしていくその姿は、囮というよりも嵐そのものだった。
「もっとだ! もっと来い!」
その背中を守る四人の年少組は、上司の背後へ回り込もうとする年長の従者たちを必死に押しとどめていて、割り振られた役目をひとりも欠けることなく果たしていた。
背中に回り込む隙さえ与えなければ、この囮は百を数えるまで決して崩れない。
俺は藁束の山の上で拳を握ったまま、上司ではなく、相手の旗の前に立つ二人の番だけを見つめていた。
柵の陰では三人の年少組が息を殺して身を伏せていて、彼らの目もまた、俺の拳ひとつに注がれている。
やがて上司が年長組の大将の木剣を真正面から受け止め、稽古場じゅうに乾いた音が響き渡ったその瞬間、旗の番の二人がそろって首を巡らせて上司のほうを振り返った。
見物の聖騎士たちの目も年長組の主力の目も、そして本来なら旗から決して目を離してはならない番の目までもが、ただひとりの九つの少女に吸い寄せられていた。
俺は笛を口に当てて、短く二度、それから長く一度吹き鳴らした。
柵の陰から三つの小さな影が飛び出すと、振り返ったままの番の二人に年少組の二人がそれぞれ飛びかかり、その脇をそばかすの少女が砂煙を上げて駆け抜けた。
少女は小さな両手で旗竿を掴むと、力いっぱい砂地から引き抜いた。
年長組の大将が異変に気づいて振り返ったときには、もうすべてが終わっていた。
上司に言い渡した百を数えるどころか、その半分も数え終わらないうちのことである。
俺は藁束の山の上から、とうとう一歩も降りなかった。
笛を吹いた以外には木剣を振ることもなく、もちろん魔法など、ただのひとつも使ってはいない。
一瞬の静寂のあと、年少組の従者たちが歓声を上げて少女のもとへ駆け寄り、見物の列に並んでいた聖騎士たちのあいだからはどよめきとも呻きともつかない声が漏れた。
そして誰よりも早く我に返った上司が、木剣を空へ突き上げて稽古場じゅうに響き渡る声で叫んだ。
「見たか! 作戦を考えたのはモモンだ! わたしの家来はすごいんだ!」
藁束の山の上で、俺はゆっくりと天を仰いだ。
旗を抜いたのはそばかすの少女で、正面で嵐を起こしたのは上司であり、手柄はきちんと散らしておいたはずだったのに、上司のたったひと言でそのすべてが一か所に掻き集められてしまったのである。
もしこの上司が手柄を横取りするような人間であったなら、作戦はすべて大将である自分の手柄にして、俺は誰の目にも留まらずに済んだだろう。
そうなったかもしれない可能性を、その毒をすっかり抜いてしまったのは、ほかならぬ俺自身だった。
藁束の山から降りると、いつの間にかすぐそばにグスターボが立っていた。
彼は俺が差し出した笛を受け取りながら、相変わらず片手で胃のあたりを押さえていたが、その目はまったく笑っていなかった。
「モモン殿。あなたは始めから終わりまで、一度もあの藁束の上から降りませんでしたね」
「高いところが、好きなので……」
「なるほど。では、年長組の大将がまっすぐレメディオス殿へ向かうと、なぜわかったのです?」
「たまたまです。レメディオスは、目立ちますから」
「では、あの笛は。短く二度、それから長く一度。旗の番の二人がそろってレメディオス殿を振り返った、ちょうどその瞬間でした」
「あれは、レメディオスと遊ぶときに決めている合図で……」
「そんな合図、決めてないぞ?」
背後から飛んできた上司の無邪気な声に、俺の苦しい言い訳は根元からぽきりと折れた。
グスターボは胃を押さえたまま小さく息を吐くと、ほんのわずかに口の端を持ち上げた。
「……なるほど。よく、わかりました」
剣の腕は団の中でも並だと、彼は初めて型を教えてくれた日にそう言っていた。
だがこの数週間、俺の剣ではなく俺の目を見ていたのは、どうやらこの若い聖騎士ただひとりだったらしい。
背中を伝い落ちる冷たい汗は、四つのケラルトに手加減を見抜かれたあの日の比ではなかった。
「どうした、モモン。顔が真っ青だぞ?」
「……高いところに、少し長くいすぎたみたいです」
閑話
その日の夕刻、グスターボ・モンタニェスは聖騎士団の本営の長い廊下を、団長の執務室へと向かって歩いていた。
右手は今日も胃のあたりに添えられていて、窓から差し込む茜色の光がまだ若い聖騎士の横顔に年に似合わぬ疲れの色を浮かび上がらせていた。
彼は自分の剣が並の域を出ないことを、誰よりもよく知っていた。
そのかわり人を見る目にだけは少しばかり自信があり、団長が彼に子守役を押しつけたのも、おそらくはその目を買ってのことだったのだろう。
そしてその目がこの数週間、ずっとひとつの違和感を訴え続けていたのである。
レメディオス・カストディオが規格外であることは、誰の目にも明らかだった。
九つにして年上の従者たちを次々と砂に沈め、教わって十日で〈要塞〉まで発動させてみせたあの少女は、いずれこの国の聖騎士の頂に立つかもしれない正真正銘の剣の申し子だ。
だがグスターボの胃をきりきりと痛ませていたのは、むしろその隣でいつも申し訳なさそうに頭を下げて回っている、トーレス家の少年のほうだった。
教えた型を三日かけて覚えていく、どこにでもいる利発な子供。
少年はそう見えるように振る舞っていたが、グスターボは彼が初日の稽古の終わりにはもう型を完璧になぞれていたことにも、翌日からわざと足の運びを乱していることにも気づいていた。
年長の従者に肩口を打たれたあの日にしても、少年は打たれる直前に一度だけ、打たれずに済む場所へ確かに視線を走らせていたのである。
そして今日の模擬戦である。
年長組の大将の癖を読み、少女を囮に立て、柵と藁束の死角に伏兵を置き、旗の番の目が逸れるただ一瞬に笛を鳴らす。
それは子供の思いつきなどではなく、戦場を一枚の盤面として上から見下ろす者だけが組み立てられる、紛れもない指揮官の作戦だった。
何より彼の胃を痛ませたのは、あの少年がその才を必死に隠そうとしていたことだった。
苦しい言い訳を並べるあの声音は、褒められたい子供のそれではなく、見つかりたくない者のそれだったのである。
もっとも、その苦心の言い訳も隣の少女のひと言であっけなく崩れ去ってしまったのだが。
執務室の扉を叩くと、中から入れという低い声が返ってきた。
書類の山の向こうで顔を上げた団長は頬に古い剣の傷を刻んだ壮年の聖騎士で、グスターボが今日の模擬戦の顛末を報告するあいだ、ひと言も口を挟まずに耳を傾けていた。
「トーレス伯の嫡男か……実はな、昼過ぎに王城から使いが来た」
「王城から、ですか」
「カルカ殿下が、カストディオの娘から模擬戦の話を聞かれたそうでな。陛下にそれはそれは嬉しそうにお話しになったらしい。トーレス伯の嫡男とはどのような子かと、陛下直々のお尋ねだ」
「……あのお嬢さんは、半日で王城まで話を運んだのですか」
団長は喉の奥で低く笑うと、改めてグスターボの顔を正面から見据えた。
笑いを収めたその目は、すでに聖騎士団を束ねる者のそれに戻っていた。
「それで、お前の見立てはどうだ」
「剣の腕はまだわかりません。手加減を覚えた子供の剣は、測りようがありませんので。ですが、あの目は……あれは、戦場を上から見下ろす者の目です」
「九つでか」
「九つで、です」
団長はしばらく黙り込んだあと、陛下には今の言葉をそのままお伝えしようと言って、手元の書状にさらさらと筆を走らせた。
そして執務室を辞そうとするグスターボの背中に、ついでのような口ぶりで声をかけた。
「引き続き、あの二人の子守を頼むぞ」
「……かしこまりました」
扉を閉めた途端、グスターボの胃は今日いちばんの悲鳴を上げた。
その痛みがこれから先の長い年月にわたって、カストディオという名とともに続いていくことになるのを、若き聖騎士はまだ知らない。
王家からの使いがトーレス家の屋敷の門を叩いたのは、それから数日後の朝のことだった。
母と、数日前に長城から戻っていた父、それに夜明けの稽古を終えたばかりのレメディオスとケラルトまでが顔を揃えた広間で、使者はうやうやしく王家の封蝋が押された書状を広げた。
使者の顔に、俺は見覚えがあった。
王城の庭で聖騎士の像の剣先が欠けたあの日、欠けた石像よりもよほど白い顔をしていた、侍従を束ねる白髪の老人である。
「聖王陛下の御名において、トーレス伯爵家が嫡男モモン殿を、王女カルカ殿下のご学友として王城へ召し出すものとする。以上にございます」
老人は読み上げを終えると、なんとも言えない複雑な面持ちで俺と上司を見比べてから、小さく折りたたまれたもう一枚の紙片を俺の手にそっと載せた。
そこには少し丸みを帯びた子供らしい字で、短い言葉が綴られていた。
『モモンへ。レメディオスから模擬戦のお話を聞いて、とてもうれしくて、お父さまにたくさんお話ししてしまいました。これからはいっしょにお勉強ができますね。たのしみにしています。カルカ』
手紙を読み終えた俺は、自分の秘密が辿った道筋をはっきりと理解した。
稽古場から上司の口へ、上司の口から王女殿下の耳へ、そして王女殿下の口から聖王陛下の耳へと、俺の隠しごとはわずか半日のうちにこの国でいちばん高い場所まで運ばれていったのである。
同じ上司の面倒を見る仲間だとばかり思っていた王女殿下もまた、どうやら悪気なく秘密を運んでしまう側の人間だったらしい。
「でかしたぞ、モモン! 王女殿下のご学友とは、トーレス家の誉れだ!」
「まあ、あなた。そんなに大きな声を出さなくても」
父は広間の天井が震えるほどの声で笑い、母は口元に手を当てながらも、嬉しそうに目を細めていた。
やがて父は剣だこだらけの手で俺の頭をくしゃくしゃに撫で回すと、しみじみとした声で続けた。
「長城を守れるくらいに強くなるなどと言っていた子供が、剣より先に頭で王城に呼ばれるとはな!」
五つの帰り道の馬車で口にしたあの宣言を、父は今でもはっきりと覚えていたらしい。
目尻を下げる父の顔を見上げながら、俺は嬉しさと後ろめたさが半分ずつ入り混じったような、なんとも落ち着かない気持ちを持て余していた。
そして上司はといえば、まるで自分が召し出されたかのように誇らしげに胸を張っていた。
「当然だ! わたしの家来だからな!」
その背中に半分隠れたケラルトが、いつもの薄い笑みを浮かべたまま俺を見上げた。
丸い瞳は俺の顔に貼りついた引きつった笑みの奥まで、静かに見透かしているようだった。
「……モモンさま。もう、かくれられませんね」
俺は手の中の書状に目を落として、四年分の取扱説明書の頁を頭の中でめくり返した。
頭を使う仕事では何ひとつ助けてくれず、家来の秘密は王都じゅうに聞こえる声でばらしてしまい、そのくせいちばん大事な場面でだけは誰よりも先に家来の前に立って、責任を引き受けてしまう上司。
腹は立つのにどうしても嫌いになれないのだから、まったくもって始末に負えない。
俺はその取扱説明書に、新しい頁を一枚だけ書き加えた。
取扱説明書その六、上司は、家来の秘密を王城まで運んでいく、と。
九年かけて磨き上げてきたつもりの子供らしい偽装は、上司の勘にもケラルトの目にもグスターボの目にも、ほとんど通用していなかったのだ。
「……まずは、隠し方の見直しからか。何もかもを隠し通そうとするやり方は、ほとんど役に立たなかったみたいだからな」
小さく漏れた呟きは父の豪快な笑い声と上司の得意げな声にかき消されて、誰の耳にも届かなかったようだ。
それが九つになった俺が王都の屋敷で立てた、二度目の人生における二つ目の攻略目標だった。
ただひとり、上司の背中に半分隠れた小さな観察者だけが、薄い笑みをほんの少しだけ深くしたような気がした。