鈴木悟の分身がオーバーロード世界にいたら 作:分身分身影写し
燭台の火を小さく絞った自室の机に向かって、俺は白い空間で六枚のカードを並べたあのときと同じように、頭の中に自分の手札を一枚ずつ並べていた。
机の端には王家の封蝋が押された書状が置かれたままで、朝の広間に響いた父の豪快な笑い声も母の嬉しそうな顔も上司の得意げな胸張りも、今はもう屋敷の静けさの向こうへ引っ込んでいる。
長城の務めを長くは空けられない父は明日の朝には北へ発つことになっていて、王城へ上がる俺を見送るのは、母と使用人たちと、例によって夜明け前に小石を投げてくる誰かだけになりそうだった。
まずは検算からだ、と俺は自分に言い聞かせた。
天才だと知られることで俺がいったい何を失うのかを、あの白い空間で能力値の欄にSのカードを置いたときと同じやり方で、ひとつずつ数字に置き換えていくのである。
能力値の補正は限界レベルに対する割合で掛かるものであり、手の内が知られたからといってその割合が目減りすることはない。
目減りするのは出身の上乗せだけで、それも三十五から二十を引いた十五に〇・一を掛けた一・五にすぎず、実質五十四レベル相当が五十二・五になるだけの話だった。
天才の看板を背負ったまま王城に上がったとしても、俺が支払う代償はたったの一・五なのである。
「……なんだ。たったそれだけか」
PvPで本当に命取りになるのは、強いと知られることではなく、何ができるのかを知られることだった。
ステータスの高さだけが割れたところで対策の立てようなどないが、スキルの構成が割れてしまえばどれほどの格上であろうと狩る方法はいくらでも見つかるのだ。
隠すべきは才能ではなく手札のほうであり、九年かけて磨き上げてきた子供らしい偽装は、どうやら守らなくてもいいものまで必死に抱え込んでいたらしい。
俺は頭の中の手札を、三つの山に仕分けていった。
剣と指揮と学問は、見せてもかまわない札である。
魔力系の魔法と死霊系統、それに前世とユグドラシルにまつわる知識は、何があろうと伏せておかなければならない札だった。
困ったことに、そのどちらの山にも置き場の決まらない札が何枚か残った。
魔法についての知識や聖なる光に思わず身構えてしまう癖、それに今もこっそり練習を続けている0位階の生活魔法がそれであり、俺はそれらをひとまず未定の山に積んでおくことにした。
本当の問題は、見せる札をどこまで見せればいいのかという加減のほうだった。
二つの頃の俺はこの世界における普通の子供というものの基準を知らなかったので、庭師の息子や料理番の娘をこっそり観察して平均値を割り出したものだが、今度はほどほどの天才というものの平均値を割り出さなければならないのである。
もっとも王都には、その物差しにうってつけの子供がひとりだけいた。
八つで正式に位階魔法を学び始めた王女殿下は、王族としても異例のその才で、すでに王都じゅうに神童の名を轟かせている。
殿下と同じくらいの出来に留めておけば、大人たちもいちいち目を剥いたりはしないだろう。
そう結論づけて燭台の火を吹き消した俺は、その計算から盤面の外にある数値がひとつ抜け落ちていることに、まだ気づいていなかった。
初めて王城に上がる日の朝も、鎧戸には律儀に小石が当たった。
窓を開けると、朝露に濡れた中庭の真ん中で上司が木剣を肩に担ぎ、誇らしげに胸を張っていた。
「今日から王城だな、モモン! わたしも行くぞ!」
「レメディオスは召し出されていないはずですが」
「カルカさまの護衛だ! カルカさまに聞いたら、いいって言った!」
カルカさまが行くところならどこへだってついていくと、上司は一年ほど前の露台で確かにそう宣言していた。
許しを出したのが王女殿下ご本人だというのなら、家来に口を挟む余地などあるはずもない。
午前の稽古場でその話を伝えると、グスターボはいつものように胃のあたりへそっと手を当てた。
「午後は王城に、レメディオス殿もご一緒に……」
「はい。護衛だそうです」
「……王城の方々の胃が、心配です」
昼過ぎに王城の門をくぐると、出迎えに立っていたのはあの白髪の侍従の老人だった。
老人は俺に丁寧な礼をしてから上司の肩の木剣に目を留め、召し出しの朝よりもさらに一段白い顔になった。
「……レメディオス殿。本日は、なにゆえ木剣を」
「護衛だからな!」
「左様でございますか」
老人に案内されて庭を抜けるとき、その中央に立つ聖騎士の像が目に入った。
天へ掲げられた聖なる剣は剣先の指一本分だけが周りと色の違う新しい石で継がれていて、遠目にもそこだけが白く浮いて見えた。
はるか昔に不死者の王を討ったという英雄の剣を欠いたのは上司の一撃で、その一撃をかわしたのはかつて死の支配者と呼ばれた俺なのだから、この継ぎ目ほど皮肉の詰まった石もほかにないだろう。
「見ろ、モモン! 直ってるぞ!」
「レメディオス殿、どうか像にはお近づきになられませぬよう」
像に向かって元気よく手を振る上司を見て、老人の唇が小さく祈りの言葉を紡いだのを、俺は聞かなかったことにした。
聖王陛下への目通りは、玉座の間ではなく陽の差し込む小さな謁見の間で行われた。
陛下は殿下と同じ金色の髪に白いものを混ぜた穏やかな面差しの方で、俺が膝をつくなり、面白いものを見つけたという顔で椅子から身を乗り出してきた。
「面を上げよ、トーレス伯の嫡男。聖騎士団の模擬戦の話は、カルカから耳にたこができるほど聞かされた」
「恐れ入ります、陛下」
「なんの。ひとつだけ聞かせてくれ。そなたは始めから終わりまで、藁束の上から一度も降りなかったそうだな。なぜだ」
謁見の間の空気が、ほんのわずかに張り詰めた気がした。
グスターボに同じことを聞かれたあの日、俺はとっさに苦しい言い訳を並べ立て、最後は上司のひと言でそのすべてを根元からへし折られている。
見せてもいい札だと決めたばかりとはいえ、聖王陛下の御前でいきなり気の利いた答えを返せば神童の看板に余計な箔を貼るだけなので、俺はあの日とまったく同じ答えを繰り返すことにした。
「……高いところが、好きなので」
陛下は一瞬きょとんとしてから、謁見の間の天井が震えるほどの声で笑った。
傍らに控えていたカルカが慌てて口元を押さえ、その細い肩が小刻みに揺れているのが見えた。
「高いところ、か。なるほど、将たる者は高きところを離れぬものよ。王もまた、そうでなくてはならぬ……その歳で、それを知っておるか」
居並ぶ廷臣たちが感じ入ったように頷き合うのを見て、俺は膝をついたまま気が遠くなりかけた。
違います本当にただの言い訳です、と心の中でいくら叫んだところで、それが届く相手はこの部屋にひとりもいない。
天才だと知られた子供の言い訳は、どうやらもう言い訳として受け取ってもらえないものらしかった。
殿下の学友として集められたのは、北と南の貴族の家から選ばれた同じ年頃の子供が、俺のほかに四人だった。
そのうちのひとりに見覚えがあって、俺は頭の中の名簿を急いでめくった。
五つの祝福の儀の日に大神殿の中庭で転んで泣き、殿下に膝の砂を払ってもらっていた、あの南部の小柄な男の子である。
「南部の、ベルトラン子爵家のルシオです。あの……五つのときの手巾は、トーレス殿のものだったと聞きました」
「モモンです。もう、膝は痛みませんか」
「は、はい……四年も前のことですから」
ルシオは困ったように小さく笑ってから、南の家の子供たちが固まって座る席のほうへ戻っていった。
その背中を迎える南の子供たちの目がどこか冷ややかだったことを、俺は名簿の端に小さく書き留めておいた。
講義が始まると、上司は学びの間の扉の前に木剣を立て、宣言どおり王女殿下の護衛として仁王立ちになった。
扉の前の九つの少女ににらまれた学友たちは怯えきり、本物の衛兵たちはどう扱えばいいのかわからないという顔で互いに目配せを交わし合っていた。
最初の数日で、俺は自分の計算がふたつの点で間違っていたことを思い知らされた。
ひとつ目は、物差しに選んだ王女殿下が本物の天才だったことである。
殿下は歴史の年代を一度聞いただけで覚え、算術の問題を俺とほとんど変わらない速さで解き、神さまの教えの話になれば老いた教師が言葉に詰まるほど深いところまで問い返していく。
前の世界で生きた年月と『天才』の補正でどうにか底上げしている俺とは違って、殿下の才はまるごと殿下自身のものであり、五つのあの日に感じた自分と同じ側の存在だという直感は正しかったのだと俺は素直に舌を巻いた。
ふたつ目は、その殿下に並ぶということの意味だった。
「王女殿下と並ぶとは、北の伯爵家の子も大したものですな」
「トーレス伯は、よい駒を王城に送り込まれた」
講義を見物に来る大人たちのささやきは、子供の耳にも十分に届く大きさだった。
王女殿下はこの宮廷において中立の物差しなどではなく、その隣に並ぶこと自体が、どの家がどこに立とうとしているのかを示すひとつの表明になってしまうのである。
南の学友たちの横目を浴びながら、俺は身分という盤面の外の数値を計算に入れていなかったことを、遅まきながら認めるほかなかった。
二週目の初め、政(まつりごと)の講義で、教師は学友たちにひとつの問いを投げかけた。
教師は南部の出だという白い髭の老学匠で、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、子供ひとりひとりの答えに丁寧に耳を傾ける人物だった。
「王家と貴族の務めとは何か。思うところを、順にお聞かせ願いましょう」
南の子供たちは領地を豊かに保つことだと答え、北の子供たちは長城を守り抜くことだと答えた。
ルシオは小さな声で民を飢えさせないことですと答え、俺は当たり障りなく、それぞれの家がそれぞれの持ち場を守ることだと答えておいた。
そして最後に、カルカが静かに口を開いた。
「わたしは、長城で傷ついた兵士さんたちを、癒やしに行きたいです」
学びの間の空気が、すっと冷えた気がした。
「北の人たちが、いちばん怪我をするのでしょう。誰も泣かない国にするなら、いちばん痛い場所から始めないと」
一年ほど前の露台で俺と上司にだけ打ち明けてくれた夢を、殿下は大人たちの前でまっすぐに言い切ったのである。
教師はしばらく黙って白い髭を撫でていたが、やがて静かに首を横に振った。
「殿下のお優しさは、まことに尊うございます。ですが王家のお務めは、祈りを捧げ、民の前に立つ象徴であられること。長城の兵の傷は北の貴族と神殿の務めにございますし、まして殿下は姫君であらせられる。王家の女性が戦場の真似事をなさるなど、南の者は誰ひとり望みますまい」
棘のある言い方ではなかったが、それはまぎれもなく、子供の夢を子供の夢として退けるための言葉だった。
女性が上に立つことを北部は認めても南部の貴族の多くは嫌うのだという話を、俺は大人たちの噂話で何度も耳にしている。
南の子供たちが小さく頷き、北の子供たちは気まずそうに目を伏せた。
「……はい、先生」
カルカは、いつもの陽だまりのような笑顔でそう答えた。
けれど隣の席の俺には、机の下で殿下の手が小さな革の袋を握りしめているのが見えていた。
二年前の誕生日に上司が贈り、殿下がずっと持ち歩くと約束した、あの手当て袋である。
誰も泣かない国を夢見る王女殿下は、自分が傷ついたときには、笑ったまま袋を握りしめることしかできないのだ。
それを見た瞬間、俺の頭の中ではいつもの冷たい計算が、こんなときに限って都合のいい答えを弾き出した。
見せ札を切るのなら、殿下の願いの盾にするのがいちばん効率のいい使い方である、と。
もっとも本当に俺の手を動かしたのが計算のほうではないことくらい、自分でもわかっていた。
「先生」
気づけば俺は、手を挙げていた。
「殿下の願いが王家のお務めになりうるかどうか、三日、いただけませんか」
教師の白い眉が、ゆっくりと持ち上がった。
「伯爵家のご嫡男が、殿下の夢に筋道をおつけになると」
「筋道がつかなければ、僕が笑われるだけです」
「……よろしい。三日後、殿下の御前で聞かせていただきましょう」
南の子供たちがあからさまに鼻で笑い、カルカは大きな目をさらに丸くして俺の顔を見つめていた。
聖騎士団の稽古場では型を覚えたことを隠すために三日かけて覚えたふりをしたものだが、今度の三日は見せるために使うことになるらしい。
ついでに言えば、課題を出してくる大人をひとり、自分から増やしてしまったことにもなる。
ちなみに扉の前の上司は、このやりとりのあいだじゅう窓の外の鳩をにらみつけていて何ひとつ聞いていなかったのだと、あとで衛兵がこっそり教えてくれた。
侍従の老人に頼み込むと、老人は深い溜め息をひとつついてから、王城の書庫の鍵を開けてくれた。
「長城からの報告の写しでしたら、奥の棚にございます。それと、くれぐれも書庫の中で木剣を振られませぬよう」
「僕は振りません」
「存じております」
老人の目は、明らかに俺の肩越しの誰かに向けられていた。
それからの三日間、俺は午後の講義が終わるたびに書庫へ籠もり、長城から王家へ届けられた報告の写しを片端から読み漁った。
季節ごとの負傷者の数と手当てが間に合わずに命を落とした兵の数、砦ごとに詰めている神官の数、そして後方の町までの道のりを、俺は一枚ずつ書きつけに写していった。
聖騎士団の模擬戦の前に年長組の大将の癖を洗い出したのと同じで、これは俺にとって戦う前の下調べだった。
数字の列を追っていくうちに、俺の指はある砦の名前の上でぴたりと止まった。
それは父が兵を率いて守っている持ち場の名前であり、その下に並ぶ死者の数の一つひとつが、父の兵の誰かだった。
鉄と革と馬の匂いをさせて帰ってくる父の背中にはこんな数字がいつも乗っていたのだと思うと、紙の上の数字はもうただの数字には見えなかった。
上司はといえば、手伝うと言って書庫までついてきたものの、半刻もしないうちに文字ばかりの本には飽きてしまった。
挿絵の多い本ばかりを選んでは俺の机に積み上げ、そのたびに書庫番に青い顔をさせていたのだが、やがて上司は棚の奥から両腕で抱えるのもやっとというほど分厚い一冊を引きずり出してきた。
「見ろ、モモン! 聖騎士さまの本だ! 長城の話も載ってるかもしれないぞ!」
革の表紙には、白銀の鎧をまとって聖なる剣を天へ掲げる聖騎士の姿が金の箔で押されていた。
王城の庭の像と同じ、母の寝物語に出てくるあの英雄である。
長城の話など載っているはずもなかったが、上司の得意げな顔を前にして閉じるわけにもいかず、俺は形ばかりのつもりで最初の頁をめくった。
それは聖王国が建てられた頃に編まれた、古い年代記だった。
二百年前、この世界の外から来たと伝えられる魔神と呼ばれる者たちが各地で暴れ回り、数えきれないほどの国を滅ぼしたのだという。
この国はその時代が終わったあとに建てられたもので、北の地を死で覆い尽くした不死者の王もまた、その魔神の一柱であったらしい。
寝物語でしか知らなかった英雄譚の古い形を追っていた俺の指は、不死者の王の最期を記したくだりで止まった。
『不死者の王は聖騎士の剣に貫かれしのち、天を仰ぎ、己を創りし主の名を呼ばわった。されどその名を知る者は、この地に一人としてなかった』
「……創りし、主」
思わず漏れた呟きに、上司が不思議そうに首を傾げた。
だがそのときの俺には、上司の顔を見る余裕などまったく残っていなかった。
自分を創った主の名を呼ぶ不死者と聞いて、俺はひとつ思い当たるものがあった。
誰かの手で設定を書き込まれ、誰かの手で拠点に配置され、その誰かが去ったあとも命じられた場所を守り続ける者たち、つまりNPCである。
二百年前のこの地には主を失ったNPCがいて、その主の名を呼びながら滅んでいったのだ。
分身作成の説明文に記されていたプレイヤーという言葉を、俺はずっと、今この世界のどこかにいる者たちのことだと思っていた。
だがこの世界にプレイヤーとNPCが現れたのは、どうやら今度が初めてではなかったらしい。
玉座の間で膝をついていたアルベドやプレアデスの姿が脳裏をよぎり、ナザリックにはアインズという主がいるはずだと、俺は自分に言い聞かせた。
少なくとも、あの説明文の上では。
不死者を命あるものの敵として憎むこの国の寝物語は、主の名を呼びながら滅んだ、ひとりぼっちの不死者から始まっていたのである。
その話を子守唄代わりにして眠ってきた俺は、分厚い年代記を閉じたあとも、しばらく表紙の聖騎士から目を離すことができなかった。
二日目の夕方、レベルの測り方の手がかりを求めて魔法にまつわる棚を漁っていた俺は、帝国の魔法学院の学者が書いたという覚え書きの写しを見つけた。
人の才について記したその覚え書きは、生まれながらの異能、いわゆるタレントとは別に、天稟(てんぴん)とでも呼ぶべきものを持つ者がいると説いていた。
『天稟を持つ者は、学ぶことの速さが常人と異なる。剣と書の二つの道を修めても、そのいずれの基礎も痩せることがない。魔法詠唱者であれば、同じ位階の者よりわずかに多くの呪文を修めるという』
「……これは、能力値のことか」
能力値Sの『天才』には成長の速さが上がると書かれていたし、二つの道を修めても基礎が痩せないというのなら、魔法戦士を目指すと決めた俺にとってこれ以上の裏づけはない。
十日足らずで〈要塞〉を発動させてみせた上司も、きっと能力値の高い側の人間なのだろう。
聖騎士団の本営へ続くあの坂道で信じた自分のビルドはやはり間違っていなかったのだと、俺は覚え書きの写しを棚に戻しながらひそかに胸を撫で下ろした。
もっとも、その安堵が理屈のうえでは半分しか当たっていなかったことを俺が知るのは、まだずっと先のことになる。
「……モモンさま」
不意に背後から声をかけられて、俺は危うく棚の本を取り落としそうになった。
振り返ると、書庫の隅の長椅子で膝の上に分厚い本を広げていたケラルトが、いつもの薄い笑みを浮かべてこちらを見上げていた。
姉を迎えに来たついでに、大神殿の書庫にはない本を読ませてもらっているのだという。
「その本、長城のことは、書いてないですよ」
「……少し、探しものをしていただけです」
「そうですか」
ケラルトはそれ以上何も聞かずに、自分の本へと目を戻した。
剣より本を読むときのほうが楽しそうだと一年ほど前に言い当てた小さな観察者は、どうやら俺がどの棚の前で足を止めるのかまで、しっかりと見ていたらしい。
三日目の夕方、書きつけの束を抱えて書庫を出たところへ、カルカがぱたぱたと駆け寄ってきた。
「モモン、明日のことをお父さまにお話ししたの。そうしたら、お父さまも聞きに来てくださるって!」
俺の腕の中で、三日分の書きつけの束がかすかに震えた。
殿下はやはり、悪気なく話を王のもとまで運んでしまう方なのだった。
翌日の学びの間には教師と学友たちのほかに廷臣が何人も詰めかけていて、いちばん後ろの椅子には聖王陛下ご本人が腰を下ろしていた。
廷臣の中には南の家の紋を胸に下げた者もいて、その目には、伯爵家の子供の思い上がりをこの場で見届けてやろうという色がはっきりと浮かんでいた。
扉の前では、今日も上司が木剣を立てて仁王立ちになっている。
前に進み出た俺の頭の中には、まだもうひとつの道が残されていた。
三日かけて調べたことの半分だけを九つの子供らしい拙さで並べてみせれば、大人たちは微笑ましいと笑って、それですべてを終わりにしてくれるだろう。
そう考えかけたとき、頭の中に見覚えのある四角い枠が音もなく浮かび上がった。
『見せ札を使用します。この操作は取り消せません。よろしいですか? はい/いいえ』
あの白い空間で、俺は一度だけ『いいえ』を押している。
それは誰かに縋るための札を切らず、強くなって自分の足で歩いていくと決めるための『いいえ』だった。
俺は最前列に座るカルカを見て、その膝の上で今日も手当て袋を握っている小さな手を見て、それから頭の中の『はい』に指を伸ばした。
俺はまず、長城の報告から拾い出した数字を読み上げた。
この一年で長城の兵が負った傷の数と、そのうち手当てが間に合わずに命を落とした者の数であり、二つ目の数字を読み上げたとき、北の廷臣の何人かが顔をこわばらせた。
「亡くなった兵の多くは、傷そのものではなく、手当てを待つあいだに命を落としています。砦の神官様の数が、傷を負う兵の数に追いついていないのです」
ざわめきが静まるのを待ってから、俺はギルド戦で回復役を配置するときの鉄則を、そのまま九つの子供の言葉に置き換えて口にした。
「ですから、殿下ご自身が長城へ行かれるのは、最善ではありません。回復役は、前に出してはいけないのです。回復役が倒れれば、そのあとは全員が倒れます」
代わりに俺が示したのは、長城から下がった北部の要の町カリンシャに手当ての拠点を置くという筋書きだった。
傷を負った兵は荷馬車で順に後ろへ運び、神官は拠点に交代で詰めて、魔力の戻る夜を必ず挟むようにする。
そして殿下には長城ではなくその拠点に立っていただき、殿下の名のもとに人と寄付を集めていただくのである。
「殿下の名は、どんな魔法よりも人を動かす札になります。殿下が祈る場所には、人も寄付も集まります。先生が仰った象徴というお務めこそが、殿下の願いを動かすいちばん大きな力になるはずです」
教師が初めて、髭を撫でる手を止めた。
廷臣たちのざわめきの色が変わったのを感じて、俺は勢いに任せたまま交代の段取りの説明へと移った。
それが失敗だった。
「第一位階の〈軽傷治癒(ライト・ヒーリング)〉なら、神官様おひとりが一日に使える回数はおおよそ決まっていますし、第二位階の〈中傷治癒(ミドル・キュアウーンズ)〉なら回数はさらに減ります。魔力は休まなければ戻りませんから、詰める神官様の数は、使える回数から逆算して」
「待たれよ」
口を挟んだのは、南の紋を下げた廷臣のひとりだった。
「伯爵家のご子息が、神官の魔法の事情を、どこでそれほど詳しくお知りになった」
背中を、冷たいものが滑り落ちていった。
扱いを決めかねて未定の山に積んでおいた札が、見せ札の陰から一枚、勝手に滑り出していたのである。
ユグドラシルで数え切れないほど回復役の魔力を管理してきた癖が、九つの子供の口からそのまま漏れ出していた。
「それは……殿下が、神殿で教わったことを、話してくださるので」
とっさにそう答えてから、俺は当の殿下が目の前の最前列に座っていることに思い至り、その場で凍りついた。
カルカは何も言わなかった。
ただ、いつもの陽だまりのような笑みを、ほんの少しだけ深くしてみせただけだった。
大人たちはそれを肯定と受け取ったらしく、問いを投げた廷臣も、なるほど殿下からかと呟いて引き下がった。
王女殿下は、嘘をつかなかった。
黙って笑っただけで、俺の秘密をひとつ隠してくれたのである。
だが本当の反撃は、そのあとに来た。
最後まで黙って聞いていた教師が、白い髭を撫でながらゆっくりと立ち上がったのである。
「よく調べられましたな、モモン殿。数字は正しく、筋道も通っておる。ただし、足りぬものが三つほどございます」
教師は節くれ立った指を、一本ずつ折っていった。
「ひとつ。神官は神殿に属する者。王家が勝手に動かせば、神殿の面目を潰しましょう。この国が神官に爵位を与えぬのも、その釣り合いを保つためにございます。ふたつ。荷馬車も拠点も、ただでは動きませぬ。南の者はすでに、長城の費えを南の民の税で賄うことを快く思っておりませぬ。みっつ。北の伯爵家のご嫡男が、王女殿下の事業を組み立てる。南の目には、それが北の策としか映りますまい」
俺も流石に言い返せなかった。
ギルド戦の回復役はいつだって同じギルドの仲間で、作戦に組み込むのに誰かの許しを得る必要などなかったが、この国の回復役は神殿という別のギルドに属しているのだ。
費用にしても、足りない分は夏のボーナスでどうにかすればいいと考えかけてから、この世界には課金という仕組みそのものが存在しないことを思い出した。
そう、ここはゲーム内ではない。
人の集う社会は数字と筋道だけでは解けない盤面がある。
俺は以前会社で知っていたはずだったが、この世界に来て初めて思い知らされていた。
更に最前列からもうひとつの声が上がった。
「それにモモン。ひとつだけ、違うの」
カルカだった。
「わたしは、後ろにはいないわ。後ろにいたら、誰の涙も見えないもの」
「ですが殿下、回復役が倒れたら、全員が……」
「だから、倒れないくらい強くなるの」
殿下はそう言って、まっすぐに俺の目を見つめた。
回復役は前に出さないというギルド戦の鉄則と、いちばん痛い場所から始めたいという殿下の願いは、どちらも譲れないまま学びの間の真ん中で静かにぶつかり合っていた。
「教師の申すことは、もっともだ」
そんな最中、いちばん後ろの椅子から陛下の穏やかな声が響いた。
「だが、それはカルカの願いを笑う理由にはならぬ。トーレス伯の嫡男よ、神殿と南、そしてカルカが頷く筋書きを、カルカと二人で考えてみよ。急がずともよい。答えが出たら、いつでも持ってまいれ」
「……謹んで、お受けいたします」
膝をついて頭を下げながら、俺は殿下の添え書きに綴られていた一文を思い出していた。
これからはいっしょにお勉強ができますね、という殿下の楽しみは、どうやら王の宿題という形で叶えられることになったらしい。
そして南の紋を下げた廷臣たちが、王女殿下の隣に並ぶ北の伯爵家の子供を来たときよりもずっと長く見つめていることにも、俺はちゃんと気づいていた。
講義が終わって廊下に出ると、ルシオが俺の袖をそっと引いた。
「……父上たちが長城の費えを嫌がるのは、北のために南の民が税を払うからです。南には、南の暮らしがあるので」
「はい。今日、それがよくわかりました」
「でも」
ルシオは少し迷うように目を伏せてから、言葉を継いだ。
「五つのあの日、中庭の僕のところへ走ってきてくださったのは、殿下だけでした。南の子は、誰も来なかったのに」
それだけ言うと、ルシオは南の子供たちが待つほうへ小走りに戻っていった。
南と北のあいだに横たわる溝は深いが、その縁に立って向こう岸を眺めている子供が、少なくともひとりはいるらしかった。
閑話
その日の夕刻、聖王の執務室では、白髪の侍従の老人が主の前で深々と頭を垂れていた。
窓から差し込む傾いた陽が、老いた侍従の顔に刻まれた皺をひとつ残らずくっきりと浮かび上がらせていた。
「申し上げにくいことながら、陛下。像の剣先を欠いたカストディオの娘が、毎日殿下の扉の前に立っております。北の伯爵家のご嫡男は殿下の隣に座り、今日はとうとう殿下の事業まで組み立ててみせました。南の方々のお顔は、陛下もご覧になったはずでございます」
「見たとも。だが、九つの子供だ」
「九つは、すぐに十五になります」
聖王はしばらく黙り込み、やがて喉の奥で低く笑った。
「あの子はな、話し始める前に一度だけ黙り込んだのだ。書きつけを半分ほど伏せかけて、それからカルカの顔を見て、伏せるのをやめた。聖騎士団の見立てどおり、あれは才を隠すことを知っている子供だ。その子供が、カルカのために隠すのをやめたのだ」
侍従は答えに窮したように口をつぐんだ。
聖王は窓辺へ歩み寄ると、夕陽を受けて白く光る大神殿の鐘楼へ目をやった。
「神殿はな、カルカの才をことのほか喜んでおる。あの子らの宿題は、いずれ神殿との綱引きになろう。南との綱引きにもな」
「……陛下。わたくしめは、胃が痛うございます」
聖王は声を上げて笑い、侍従は胃のあたりを押さえたまま、もう一度深々と頭を下げた。
稽古場の若い聖騎士に続いて、王城にもまたひとり胃痛に悩む者が生まれていたことを、北の伯爵家の嫡男はまだ知らない。
夕陽が王都の屋根を赤く染める頃、俺はカルカに誘われて王城の露台に出ていた。
一年ほど前に、誰も泣かない国の続きを聞かせてもらったあの露台である。
上司は階段の下で見張りに立っていたが、夕陽の暖かさに負けたのか、さっきから木剣を抱えたままこっくりこっくりと船を漕いでいた。
「モモン」
金色の髪を夕陽に透かしながら、カルカは手すりに両手を載せたまま俺の名を呼んだ。
「今日は、わたしのために、隠すのをやめてくれたのね」
思わず息を呑んだ俺を見て、殿下は小さく笑った。
「モモンはいつも、本当の答えのひとつ手前で止まっていたもの。講義でも、稽古のお話をするときも。だから今日、最後までお話ししてくれたのが、とてもうれしかったの」
「……殿下は、いつから」
「ずっと前からよ。でも、言わなかったの。モモンが困ると思ったから」
殿下はそれから、いたずらを打ち明ける子供のような顔で俺を覗き込んだ。
「だから今日は、わたしも少しだけ隠してあげたの。わたし、嘘はついていないわよ。笑っただけ」
返す言葉が見つからずにいる俺に、殿下はもうひとつだけ付け加えた。
「でも、魔法の回数のことなんて、モモンにお話ししたことはなかったわね」
俺は黙って、夕陽に目を細めることしかできなかった。
殿下はそれ以上を問い詰めようとはせず、祝福の儀の日や最初の患者になった日と同じように、俺の沈黙をそのまま受け止めてくれた。
「魔法のお話をしているときのあなた、少しだけ、楽しそうだったわ」
カルカはそう言って手すりから手を離し、俺のほうへ向き直った。
「いつか、あなたが本当に好きなものも、見せてね」
頭の中で、俺はあの四角い枠を呼び出そうとした。
見せ札を切ったときと同じように、伏せ札の山から一枚を摘み上げようとしたのである。
けれど確認のウィンドウは、いつまで待っても浮かんではこなかった。
その札だけは、まだ選択肢にすらなっていないのだ。
不死者を憎むこの国で、誰も泣かない国を夢見る王女殿下に、自分がかつて寝物語の中で砕け散っていく側の存在だったと明かす日のことを、今の俺にはどうしても思い描くことができなかった。
年代記の中で主の名を呼びながら滅んでいった不死者の王の姿が、なぜか夕陽の向こうで自分の影と重なって見えた。
五つのあの日、お友だちになってくれるかと聞かれた俺は、喜んでと迷わずに答えている。
けれど今の俺の口からこぼれたのは、それよりもずっと頼りない言葉だった。
「……いつか」
それでもカルカは、陽だまりのように笑って頷いてくれた。
「うん。待ってるわ」
屋敷へ帰る道すがら、すっかり目を覚ました上司は俺の隣を歩きながら、得意げに胸を張っていた。
「今日の家来は、すごかったらしいな! カルカさまが言ってた! さすがわたしの家来だ!」
今日も扉の前で鳩とにらみ合っていた上司は、もちろん何ひとつ聞いていない。
「でもな、モモン。カルカさまを後ろに下げるのはだめだぞ」
「回復役が前に出るのは、危ないので」
「だから、わたしが守る。カルカさまはわたしが守るから、前でいいんだ!」
夕暮れの石畳に、上司の迷いのない声が響いた。
回復役が倒れれば全員が倒れるという理屈も、自分が守るから前でいいという理屈も、どちらも間違ってはいない。
だから俺は、その言葉にも何ひとつ答えることができなかった。
屋敷の門が見えてきたところで、俺は指を折りながら、自分に仕事を振ってくる相手を数えてみた。
夜明けの中庭と聖騎士団の稽古場と王城の扉の前にいる上司、課題を出してくる教師、それに宿題を出してくる聖王陛下である。
才が知られれば知られるほど仕事を振ってくる上司が増えていくのだとすれば本当にきりがない。
それに陛下の宿題を解くためには、神官を動かすしかない。
そして神官を動かすためには、神官を抱える神殿そのものを頷かせるしかないのである。
つまり元アンデッドの俺は、これからこの国でいちばん聖なる光に満ちた場所へ、自分の足で交渉に出向かなければならないということになる。
胃が痛くなりそうだ。
「……次は、神殿の攻略か」
小さく漏れた呟きは、隣で木剣を振り回しながら明日の稽古の段取りを語る上司の声にかき消されて、誰の耳にも届かなかったようだった。