鈴木悟の分身がオーバーロード世界にいたら 作:分身分身影写し
王都ホバンスの大神殿の大扉を見上げながら、俺はこの身体に生まれて九年目にして初めて胃痛というものを味わっていた。
白い石を幾重にも積み上げた正面の壁では四大神を象った巨大な浮き彫りが午後の陽を浴びて輝いていて、五つのあの日に俺が額へ祝福の光を受けたのもこの扉の向こうの礼拝堂でのことだった。
かつて死の支配者(オーバーロード)と呼ばれた元アンデッドがこの国でいちばん聖なる光に満ちた場所へ、今度は祝福のためではなく交渉の下見のために乗り込もうとしているのだから、胃のひとつくらい痛くなって当然だろう。
王女殿下が大神殿で信仰系の魔法の手ほどきを受ける日は、王城の講義が休みになる。
陛下から殿下と二人で考えるよう言いつけられた宿題を抱えた俺は、その空いた午後を使って殿下のお供という名目で神殿の門をくぐることにしたのだ。
もっとも一行の足は、大扉をくぐってすぐのところでさっそく止められることになった。
回廊の入り口に控えていた年配の神官が上司の肩に担がれた木剣を見るなり、両手を広げて行く手を塞いだのである。
「カストディオ家のお嬢様。神殿の奥へ、木剣はお持ち込みになれませぬ」
「なんでだ! わたしはカルカさまの護衛だぞ!」
「四年前にも同じようなものを持ち込まれて、中庭で振り回されましたでしょう。あの日のことは、神殿の者がみな覚えております」
「あれは、あやしいやつがいたからだ!」
その怪しいやつは今、上司のすぐ隣で胃のあたりを押さえている。
上司は木剣の柄を握りしめたまま、なおも神官に食ってかかった。
「それに、わたしはいつか聖騎士になるんだ! 不死者の王をやっつけたのだって、聖騎士さまなんだからな!」
「……その聖騎士様の傷を癒やしたのは、神官だったのですがな」
神官がぼそりと漏らした呟きは、どうやら上司の耳には届かなかったらしい。
だが続いて回廊の柱の陰から聞こえてきた小さな声は、上司の口をぴたりと閉じさせた。
「ねえさま。ここは、神殿ですよ」
柱の陰から姿を現したのは、姉と同じ栗色の髪を白い髪留めで押さえて前髪だけを額に下ろした小さな女の子だった。
上司はしばらく口をへの字に曲げていたが、やがて渋々といった様子で木剣を神官の手に預けた。
王城では毎日のように扉の前に木剣を立てて衛兵たちを困らせている上司が、二つ年下の妹のたったひと言で引き下がるのを俺は初めて目にした。
どうやら神殿という場所では、カストディオ家の力関係が外とはそっくり入れ替わるらしい。
ケラルトは姉の手から木剣が離れたのを見届けると、俺のほうへ向き直っていつもの薄い笑みを浮かべた。
「モモンさま。やっと、来ましたね」
一年ほど前に屋敷の中庭の石段で、この子は俺の袖を引いて、モモンさまも神殿にくればいいのにと言ったことがある。
嫡男は神官にはなれないのだと答えた俺に知っていると頷いてから、剣を振るときより本を読むときのほうが楽しそうだと言い当てたのだ。
あのとき聞き流したはずの誘いに、俺はどうやら一年越しで、それも陛下の宿題のおかげで応じることになったらしい。
そうしているあいだにも奥からは白い衣の神官たちが何人も急ぎ足で現れて、王女殿下の前にずらりと並んで頭を下げてから、殿下を取り囲むようにして神殿の奥へと案内していった。
上司は木剣のない肩をしきりに気にしながらも、護衛の務めは剣がなくても果たせると言い張ってその行列の後ろにぴたりとついていった。
「ケラルト、モモンをお願いね」
「はい、カルカさま」
振り返った殿下にそう答えるケラルトの横顔を見ながら、俺は数日前の講義のあとで殿下と交わした話を思い出していた。
神殿の神官たちを動かすなら殿下ご自身からお願いしていただくのがいちばんの近道ではないかと持ちかけた俺に、殿下は困ったように首を横に振ったのである。
「それがね、だめなの。神殿では、わたしはいつも、お客さまなの」
「お客さま、ですか」
「神官さまたちはとっても優しいけれど、わたしが行くと、どこもきれいに片づいていて、みんながにこにこしているの。奥のことは、見せてくださらないわ」
「なるほど」
「それに、わたしが神官さまにお願いしたら、それはもう王家のお願いになってしまうでしょう?」
殿下の言うとおりだった。
王家が神官を勝手に動かせば神殿の面目を潰すと、あの日の老学匠は真っ先にそう指摘したのである。
王女殿下ご本人が交渉の席に着いた時点で、それは子供のお願いではなく王家から神殿への申し入れになってしまうのだ。
「神殿の裏のことなら、ケラルトのほうがずっと詳しいわ。あの子は毎日、神殿の書庫にいるもの」
よそのギルドと話をつける前には、まずその拠点の造りと決まりごとと、誰が本当の決定権を握っているのかを洗い出しておくのが俺たちのやり方だった。
ギルド戦で言うところの、本交渉の前の下見である。
もっとも今回の下見で案内役を務めてくれるのは、腕利きの斥候でも名の知れた情報屋でもなく七つの女の子なのだが。
「カルカさまに、たのまれました。神殿の中を、案内します」
殿下の行列が見えなくなると、ケラルトはそう言ってから小さく首を傾げてみせた。
「でも案内料は、いただきます」
「案内料、ですか」
「質問ひとつです。いつ聞くかはわたしが決めます。答えたくなかったら、答えなくていいです。でも、うそはだめです」
ユグドラシルで名の知れた情報屋たちでさえ、ここまで高くつく値札は下げていなかった。
答えなくてもいいという逃げ道を残しておきながらうそという逃げ道だけはきっちり塞いでくるあたり、この子は交渉の急所というものをよくわかっている。
それでも案内役なしでよそのギルドの拠点を歩き回るよりはましだと判断して、俺は七つの情報屋の条件をのむことにした。
「わかりました。よろしくお願いします、ケラルト」
小さな歩幅で回廊を進むケラルトの足取りには、迷いというものがまるでなかった。
すれ違う神官たちは誰もが目元を緩めて声をかけてきて、ケラルトはそのたびに立ち止まって丁寧に頭を下げた。
「おや、ケラルト。今日はお友だちと一緒かい」
「こんにちは、神官さま。カルカさまの、ご学友のかたです」
「そうかい、そうかい。ほら、いつものだよ」
厨房のほうから出てきた丸顔の神官は、ケラルトの小さな手に蜂蜜を塗って焼いた菓子を二つ載せた。
ケラルトは丁寧にお礼を言うと、そのうちのひとつを懐から出した手巾にそっと包んだ。
「ねえさまのぶんです」
屋敷の中庭では石段の隅で膝に頬杖をつき、黙って俺を観察しているこの子が、神殿では誰からも可愛がられる常連であるらしい。
姉に負けず劣らず人の本性へ迫ってくる不気味な観察者だとばかり思っていた俺は、その落差にしばらく言葉を失った。
どれほど姉に手を焼いているように見えても、もらった菓子の半分を真っ先に姉のために取っておく子でもあるらしかった。
ケラルトの案内は、それからも的確だった。
礼拝堂と神官たちの住まいの場所を教えてくれたあとで、この子は傷を負った者たちが手当てを受ける癒やしの間へと俺を連れていった。
その待合に並ぶ人々の中に見覚えのある背中を見つけて、俺は思わず足を止めた。
灰色がかった薄茶色の髪を短く刈り込んだその青年は、右手でそっと胃のあたりを押さえていた。
「グスターボ様?」
「モモン殿。どうして、こんなところに」
「殿下のお供です。グスターボ様は」
「胃です」
ばつが悪そうに目を伏せたグスターボは、それから俺の隣に立つ小さな女の子に気づいて丁寧に頭を下げた。
「そちらは」
「ケラルト・カストディオです。ねえさまが、いつもお世話になっています」
カストディオという名を聞いた途端、グスターボの右手がまた胃のあたりへ戻っていった。
この若い聖騎士の胃の痛みには、どうやらその家名そのものが染みついているらしい。
「坊ちゃまも、どこかお悪いのですかな」
待合の世話をしていた神官に声をかけられて、俺は慌てて首を横に振った。
胃の痛みならちょうど今まさに抱えているのだが、ここで治してもらうためには治癒の光を浴びなければならない。
今は人だから違うと分かっていても、元アンデッドは神殿の真ん中にいることも、胃痛を治すこともできれば避けたいのだ。
「いいえ。なんでもありません」
ケラルトが横目でちらりと俺を見たような気がしたが、気のせいだと思うことにした。
癒やしの間を離れてしばらく行ったところで、礼拝堂のほうから鐘の音が響いてきた。
するとケラルトはふいに足を止めて、礼拝堂へ続く広い回廊とは反対の細い通路を指さした。
「こっちのほうが、ちかいです」
近道があるのなら、案内役に従うまでである。
俺は何も考えずに案内役の小さな背中を追って、細い通路へと曲がった。
「門のところの神官さま、怒ってましたね」
人気のない通路に入ったところで、ケラルトは声を潜めてそう言った。
「レメディオスが、木剣を持ち込もうとしたからでは」
「それもありますけど……神官さまたちは、聖騎士さまのお話が、あんまり好きじゃないんです」
「聖騎士の、話が?」
「寝物語でも、王城のお庭の像でも、ほめられるのは聖騎士さまばっかりなので。聖騎士さまの傷を治したのも、天使さまを呼んだのも、神官さまだったのに」
なるほど、と俺は胸の内で頷いた。
ギルド戦の勝利の記録に名前が残るのはいつだって敵の首を取った者たちで、後ろで回復を回し続けた者の名前などほとんど残らなかったものだ。
母の寝物語にも王城の庭の像にも聖騎士の姿しかないのだとすれば、この神殿の人々は二百年ものあいだ自分たちの手柄を英雄譚の外に置き去りにされてきたことになる。
それはこの国の神殿の誇りであり、同時に古傷でもあるのだろう。
面目を何より重んじる相手と話をつけるなら、その古傷の場所を知らずに踏み込むのは自殺行為に等しい。
「神官さまの割り振りを決めているのは、神官団長さまじゃないんです」
ケラルトはまるで今日の夕餉の献立でも話すような口ぶりで、俺がいちばん知りたかったことを口にした。
「……違うのですか?」
「書庫の奥で帳簿をつけているおばあさまです。帳簿に書いてあるとおりに、神官さまたちは動くので」
大きなギルドほど、本当の力を握っているのはギルド長ではなく倉庫と帳簿を預かっている古株だったりするものだ。
どれほど偉い肩書きの者が号令をかけようと、帳簿の上で人と物が動かなければ、命令は紙の上から一歩も外へ出られないのである。
「それから、王さまにやりなさいって言われるのは、神官さまたち、いちばんいやがります。おねがいされて、うけてあげるなら、だいじょうぶです」
命じられるのではなく、請われて受ける。
それがこの別のギルドの面目というものなのだろう。
思えばギルド間の交渉は、アインズ・ウール・ゴウンがもっとも苦手とした分野だった。
悪名高い異形種のPKギルドに好んで交渉を持ちかけてくる物好きなどほとんどおらず、話がこじれた先にはたいてい千五百人の討伐隊が待っていたのである。
この別のギルドの拠点においては俺のほうが右も左もわからない新人であり、前を行く七つの女の子のほうがよほど頼もしい古参なのだった。
神殿の書庫は王城の書庫よりも天井が高く、古い紙と蝋の匂いがした。
壁という壁を埋め尽くす書架のあいだには細い通路が迷路のように走っていて、高窓から差し込む光の筋の中を細かな埃がゆっくりと漂っている。
ケラルトは迷うことなく書架の迷路を抜けていき、いちばん奥の太い柱の陰で足を止めた。
柱と壁のあいだには小さな窓があり、その下には古びた長椅子がひとつ、誰かに忘れられたように置かれていた。
「ここは、わたしの場所です」
ケラルトはそう言って長椅子を俺にすすめると、自分は書架の脇から引きずってきた踏み台にちょこんと腰を下ろした。
自分の場所だと言っておきながら客に席を譲るあたり、この子は案内役の務めを大真面目に果たそうとしているらしい。
背後から乾いた咳払いが聞こえたのは、そのときだった。
振り返ると、腰の帯にいくつもの鍵を下げた背の曲がった老女が書架の陰からこちらをじっと見据えていた。
白い衣の上からでもわかるほど痩せた身体つきなのに、その目だけは年長組の大将の木剣よりもよほど鋭く俺を射抜いていた。
「ケラルト。その子は」
「トーレス伯爵家の、モモンさまです。カルカさまの、ご学友です」
「存じておりますよ。陛下から宿題を出されたという、北の伯爵家のご嫡男ですね」
王城の噂は、どうやら神殿の書庫の奥にまで届いているらしい。
老女は俺の頭のてっぺんから爪先までをゆっくりと眺めてから、皺だらけの口元をほとんど動かさずに言った。
「王家の宿題に、神殿の書庫をお使いになりますか」
「学ばせていただきに、参りました」
「神殿の書は、神殿の者のためのものにございます。棚の書をお読みになるのは結構。ただし、奥の帳簿には決して触れられませぬよう」
それだけ言うと、老女はケラルトのほうへ向き直った。
俺に向けたものとは違う、ほんの少しだけ柔らかな声だった。
「ケラルト。古い帳簿は、眺めるだけですよ。頁を傷めないように」
「はい、おばあさま」
老女の足音が書架の向こうへ遠ざかっていくと、ケラルトは小さく息を吐いてから、どこか誇らしげに俺を見上げた。
「おばあさまは、わたしにだけ、奥の古い帳簿を見せてくれるんです。さわる前にちゃんと手をふいて、一枚もいためないで返すので」
「それは、すごいですね」
「でも、外のひとには見せちゃだめって、言われてます」
あの老女こそが、ケラルトの言っていた帳簿のおばあさまなのだろう。
この神殿で神官たちを本当に動かしている人物は、書庫の奥で鍵の束を鳴らしていたのだ。
それから神殿の日が来るたびに、俺はほとんどの時間をこの書庫で過ごした。
棚に並ぶ記録の中から神殿が北の砦へ送り出してきた神官の数や交代の決まりを拾い出していく作業は、王城の書庫で長城の報告を洗い出したときとよく似ていた。
だがどれほど数字を積み上げても、王家の事業として組み立てた筋書きである限り、神殿の面目という壁を越える手だけはどうしても見つからなかった。
一方でケラルトの読み方は、俺のそれとはまるで違っていた。
この子は書架から引き抜いた本を最初の頁から最後の頁まで一枚も飛ばさずに、指で一行ずつなぞりながら読んでいくのである。
「その頁は、ただの目録のようですが」
「退屈な頁に、大事なことが書いてあるんです」
その言葉を聞いて、俺はギルドの仲間のひとりを思い出した。
タブラ・スマラグディナさんは誰も読まないような設定の隅々にまでこだわり抜く人で、アルベドの設定文にいたっては呆れるほどの長さを書き込んでいたものだ。
もっともその末尾の一文を最後の夜にこっそり書き換えたのは俺なので、あの人の前では今でも頭が上がらない気がする。
高い棚の本を取るときには踏み台を引きずってきて、背伸びをしながら両手で分厚い本を引き抜く。
埃の舞う棚に顔を近づけすぎて、小さなくしゃみをひとつすることもある。
そしてもうひとつ、俺はこの子が本を読んでいるあいだだけ、あの薄い笑みがきれいに消えていることに気がついた。
頁に目を落としているときのケラルトは、ただ真剣で、ただ楽しそうな、七つの女の子の顔をしていた。
いつも浮かべている考え事をしているような薄い笑みがなぜ本を前にしたときだけ消えるのか、そのときの俺にはまだわからなかった。
二度目の神殿の日の帰り際、俺は書庫の奥のある棚の前で足を止めていた。
背表紙に記されていたのは、不死者の見分け方と退け方について神殿の神官たちが代々書き継いできたという記録の題だった。
不死者を退けるための知識が詰まった棚なのだから、元死霊系統の魔法詠唱者にとってこれほど抗いがたい棚もない。
気づけば俺は一冊を引き抜いて、骸骨や死体の不死者の分類に目を走らせていた。
大まかな区分はユグドラシルの攻略情報とほとんど同じだったが、ところどころに明らかな思い違いが混じっていて、俺は危うく余白に訂正を書き込みかけたところで我に返った。
慌てて本を棚に戻して振り返ると、踏み台に座ったケラルトが本から顔を上げてこちらをじっと見ていた。
ケラルトは何も言わなかった。
ただいつもの薄い笑みを浮かべたまま、ゆっくりと自分の本へ目を戻しただけだった。
三度目の神殿の日、俺は書庫の長椅子の上で行き詰まっていた。
王家が神殿に神官を出してほしいと請う形にはできても、それでは結局のところ王家の事業を神殿に手伝わせているにすぎない。
面目の古傷を抱えた別のギルドに自分から頷いてもらうための決め手が、どうしても見つからなかったのである。
いっそ北の貴族たちから神殿へ神官の増員を願い出てもらうだけの、ありきたりな筋書きに落とすべきかと考えかけたときのことだった。
書架の迷路の向こうから、ケラルトが自分の胴ほどもある分厚い帳簿を両腕に抱えて、よろよろと歩いてきたのである。
「ケラルト、それは……」
「モモンさま、これです。神殿は、むかし、自分で北へ行っていたんです」
この子が話し始める前に必ず置いていたあの小さな間が、今日はどこにもなかった。
それだけ、この子は本気なのだろう。
「それは、奥の帳簿ではありませんか。外の者には見せてはいけないと」
「言われてます。でも、見せます。わたしが、きめました」
ケラルトは長椅子の上に帳簿を下ろすと、黄ばんだ頁を慎重に開いて古い文字の並ぶ一行を指でなぞった。
王城の書庫で見た年代記よりもさらに古い癖の強い書体で綴られたその文字を、俺はほとんど読むことができなかった。
だがケラルトは、それを一度もつかえることなく読み上げてみせたのである。
『建国七年。聖王陛下の請いを受け、神殿は北の地に癒やしの家を置く。神官は三十日ごとに交代し、夜は必ず休ませること』
俺は思わず息を呑んだ。
長城がまだ築かれていなかった頃、神殿は王の請いを受けて、北の戦場の後ろに傷ついた者を癒やすための家を置いていたのだ。
神官を交代で詰めさせて魔力の戻る夜を必ず挟むという決まりまで、俺が陛下の前で披露した筋書きとほとんど変わらなかった。
二百年前の神官たちはギルド戦の鉄則など何ひとつ知らないまま、俺と同じ答えにとっくに辿り着いていたのである。
ケラルトは頁をいくつかめくって、もうひとつの記録を指でなぞった。
『建国三十八年。南の諸侯、癒やしの家の費えを拒む。これをもって癒やしの家を閉ず』
三十年あまり続いた癒やしの家を終わらせたのは、亜人の牙でも神殿の怠慢でもなく南の諸侯の財布だった。
あの日の老学匠が指を折って数えた三つの壁のうち、費えと南北の溝の二つは、二百年前からまったく同じ形でこの国に立ちはだかっていたことになる。
それでも、これは紛れもない前例だった。
王家が神殿に新しい事業を押しつけるのではなく、神殿が自らの手で北を癒やしていた誇らしい伝統を二百年ぶりに取り戻す。
そういう筋書きであれば神殿の面目は潰れるどころか、英雄譚の外に置き去りにされてきた古傷の上に、ようやく自分たちの名前を刻み直すことができるのだ。
「……ケラルト。この帳簿を、どうやって見つけたのですか」
「奥の帳簿は、ぜんぶ読みました。北のことが書いてあるところは、ここだけです」
ぜんぶ、と俺は心の中で繰り返した。
あの老女は、古い帳簿は眺めるだけだと言っていたはずだ。
この子は眺めるふりをしながら、神官でさえ音を上げそうな古い文字の帳簿を一冊残らず読み込んでいたのである。
「調べもので、負けました」
本心からそう言うと、ケラルトは目を瞬かせた。
大人びた子だとか変わった子だとか言われることはあっても、自分の読んだものが誰かの役に立ったと言われたことは、もしかすると一度もなかったのかもしれない。
薄い笑みがふっとほどけて、その下から歳相応のくしゃりとした笑顔が一瞬だけ覗いた。
ケラルトは慌てたように帳簿を持ち上げて、その陰に顔を隠した。
帳簿の向こうから聞こえてきた声は、いつもの調子を取り戻そうとして、まるでうまくいっていなかった。
「……ふ、ふつうに、読んだだけです」
その様子を見ながら、俺は初めて気がついた。
この子がいつも浮かべている考え事をしているような薄い笑みは、もしかすると俺の子供らしさと同じ、ひとつの偽装なのではないか。
三つのこの子が大人の誰も気づかなかった俺の芝居を「へん」のひと言で見抜いてみせたのは、見抜いた側もまた何かを隠していたからではないのか。
だが今は、その問いを口にするときではなかった。
俺は帳簿の陰に隠れた案内役から目を逸らして、頭の中で筋書きを組み直していった。
癒やしの家は王家の事業ではなく、神殿の名のもとに建て直す。
王家は二百年前と同じように神殿へ請い、神殿がそれを受ける。
費えは殿下の名のもとに集める寄付で賄い、南の民の税には手をつけない。
神殿の面目という一つ目の壁は、これで越えられるかもしれない。
ただし前例を終わらせたのが南である以上、その先に待つ二つ目の壁はもう見えていた。
問題は、この前例をどうやって神殿に差し出すかだった。
外の者に見せてはならない帳簿の中身を伯爵家の嫡男が知っていれば、出どころは必ず問われることになる。
そのときは自分が勝手に書庫の奥へ忍び込んで読んだことにすればいいと、俺はひそかに心を決めた。
古い文字を読めたことにすれば神童の看板にまた余計な箔が貼られるが、作戦を立てた者が危ない橋を渡るのはギルド戦の頃からの俺の決まりごとだった。
帳簿の陰から目だけを覗かせたケラルトがそんな俺の顔をじっと見ていることには、気づかないふりをした。
ケラルトが奥の帳簿を元の棚へ戻しに行ったのは、夕べの祈りの鐘が鳴る少し前のことだった。
書庫で待っているのも手持ち無沙汰で、俺は殿下と上司の様子を見に行こうと礼拝堂の脇を抜ける回廊へ足を向けた。
そしてそれが、この神殿に来てから俺が犯したいちばんの失策になった。
礼拝堂の扉が開け放たれた瞬間、祭壇の前に並んだ神官たちが一斉に両手を掲げ、堂内は夕陽よりもまばゆい白い光に満たされた。
夕べの祝福の光が、扉の外の回廊にまで溢れ出してきたのである。
俺の身体は考えるより先に強張って、目をきつく閉じて奥歯を噛みしめていた。
額に触れた光は、やはり春の陽だまりのような温もりでしかなかった。
今の俺は骨の王ではなくただの人間の子供なのだから、それ以上のことなど何ひとつ起こるはずがない。
それでも聖なる光に骨の身体が崩れていくユグドラシルの光景を思い出してしまう癖だけは、九年経ってもどうしても抜けなかった。
「モモン殿は、五つのときも、光を怖がっておられましたな」
穏やかな声に目を開けると、礼拝堂の扉の脇に皺だらけの手をした老いた神官が立っていた。
五つの祝福の儀の日に俺の額へ手をかざして四大神の祝福を祈った、あの高位の神官である。
四年も前に何十人もの子供の額へ手をかざした老人が、そのうちのひとりの小さな強張りを今も覚えていたのだ。
背中を冷たい汗が伝い落ちた。
答える言葉を探して口を開きかけたそのとき、小さな手が俺の袖をくいと引いた。
「モモンさま、こっちです」
いつの間にか駆けつけていたケラルトは老神官に小さく頭を下げると、俺の袖を引いたまま回廊の奥へと歩き出した。
老神官は何も言わずに、ただ穏やかな目で俺たちの背中を見送っていた。
光の届かない回廊の角まで来たところで、俺はようやく気がついた。
初めて神殿に来た日も、それからの神殿の日も、礼拝堂から鐘の音が聞こえてくるたびに、この子は決まって近道だと言って道を変えていたのである。
「……ケラルト。もしかして、ずっと」
「モモンさまは、光がくると、目をつむるので」
ケラルトは前を向いたまま、それだけを答えた。
いつからそれに気づいていたのかは、聞くのが怖くて俺にはとても聞けなかった。
四度目の神殿の日、俺はケラルトに案内されて、書庫のいちばん奥にある小さな部屋の扉を叩いた。
天井まで帳簿が積み上げられたその部屋の奥で、あの老女は鍵の束を机の脇に置いて羽根筆を走らせていた。
「書庫で学ばせていただいたお礼に、ひとつお尋ねしたいことがあって参りました」
「なんでございましょう」
「神殿が昔、北の地で何かをなさったという記録が、建国のころの帳簿に残っていたりはしませんか」
前例の中身を俺の口から明かせば、それは外の者が見つけてきた話になってしまう。
神殿の古い帳簿から神殿の者自身が前例を見つけ出したという形にできれば、癒やしの家は最初から最後まで神殿の手柄になるはずだった。
老女の羽根筆が、ぴたりと止まった。
顔を上げた老女の目は書庫で初めて会ったときよりもさらに鋭く、俺の目の奥までまっすぐに射抜いてきた。
「なぜ、建国のころの帳簿に何かあると、ご存じなのです」
「それは……」
「あれは神官でない者には見せぬ決まり。しかも伯爵家のご嫡男が、あの古い文字をお読みになれるとは思えませぬ。どなたが、あなたに読み聞かせました」
この老女はたったひとつの問いかけから、俺が口にしなかったことまでを正確に掬い上げてみせたのだ。
人を見る目でグスターボの上を行く大人などそうはいないと思っていたが、この神殿の書庫の奥にはどうやらそのひとりが住んでいたらしい。
俺は用意しておいた答えを、そのまま口にしようとした。
「僕が、勝手に書庫の奥へ……」
その先を言い終えることは、できなかった。
いつの間にか俺の背中に半分隠れるようにして立っていた小さな身体が、すっと前へ出たのである。
姉の背中に半分隠れて人を観察してきた子が、今は誰の背中にも隠れず、自分の足で老女の前に立っていた。
話し始める前のあの小さな間は、今日もどこにもなかった。
「わたしです。わたしが読んで、モモンさまにお話ししました。きまりをやぶったのは、わたしです」
部屋の中が、しんと静まり返った。
老女はしばらくのあいだ、目の前の小さな女の子を黙って見下ろしていた。
「……ケラルト。あなた、あれを、読めるのですね」
「はい」
「眺めているだけだと、思っておりましたよ」
老女の声には、怒りよりも先に驚きのほうが滲んでいた。
七つの子が神官でさえ音を上げる古い文字の帳簿を読みこなして、その中から二百年前の前例を掘り当ててみせたのである。
「なぜです、ケラルト。なぜ決まりを破ってまで、この子に」
「カルカさまの、だれも泣かない国のためです」
ケラルトはそこでいったん言葉を切り、小さな拳をきゅっと握りしめてから続けた。
「それと……モモンさまが、ひとりで笑われようとしていたので」
負けたら笑われるのは作戦を立てた僕だと、筋道がつかなければ僕が笑われるだけだと、俺は稽古場でも学びの間でも確かに口にしていた。
どちらの場にもいなかったこの子がそれを知っているのは、上司と殿下がそれぞれの話を嬉しそうに聞かせたせいなのだろう。
「見ているだけなのは、もう、やめたんです」
老女は長いあいだ黙り込んでいたが、やがて深く息を吐いて羽根筆を机の上に置いた。
「決まりは決まりです。ケラルト、罰として、これからひと月のあいだ、奥の帳簿を勝手に読むことを禁じます」
ケラルトの肩が、目に見えてしょんぼりと下がった。
書庫の奥の帳簿を一冊残らず読み込んできた子にとってそれがどれほど重い罰なのかは、俺にも痛いほどよくわかった。
だが老女の言葉には、まだ続きがあった。
「ただし、傷んだ帳簿の写しを作る手が、この神殿にはまるで足りておりませぬ。罰として、毎日ここへ来てそれを写しなさい」
それは罰になっていない、と俺は思った。
ケラルトは厳しい顔を保とうとしているらしかったが、口元がどうしても言うことを聞かないらしく、むずむずと緩みかけていた。
老女はそれから、ようやく俺のほうへ向き直った。
「さて、トーレス伯のご嫡男。癒やしの家のことでございますね」
「……はい」
「前例とあらば、神殿は無下にはできませぬ。あれは神殿が自らの手で北を癒やした、誇らしい記録にございますゆえ。ただし」
老女は節くれだった指を、一本ずつ折っていった。
その仕草は、あの日の老学匠のそれとよく似ていた。
「ひとつ。王家から神殿へ、正式にお請いいただくこと。神殿は命じられて動くのではなく、請われて受けるのです」
「はい」
「ふたつ。癒やしの家は、神殿の名で建てること」
「はい」
「みっつ。王女殿下を前に出すことだけは、神殿として決して認められませぬ。殿下は、神殿の宝にございます」
三つ目の条件は、俺の筋書きともともと同じ向きを向いていた。
だがそれは同時に、カルカを後ろに置いておきたい大人がまたひとり増えたということでもあった。
陛下の宿題がカルカ自身の頷く筋書きを求めている以上、俺の宿題はひとつ解けた代わりに、別のところで少しだけ難しくなったことになる。
「それから」
老女は最後に、ほんのわずかに目を細めた。
「この前例が三十年で途絶えたわけも、お読みになりましたな」
「……はい。南の諸侯が、費えを拒んだと」
「この国の溝は、二百年経っても埋まっておりませぬ。神殿が頷けるのは、そこまででございますよ」
神殿の面目という一つ目の壁は、こうして条件付きで越えることができた。
だが老女の目は最後まで、俺ではなく俺の隣に立つ小さな女の子のほうに長く留まっていた。
眺めるだけだと思っていた子が本当は誰よりも深く読んでいたことを、この神殿でいちばん恐ろしい大人が知ってしまったのである。
帳簿の部屋を出た俺たちは、神殿の奥の中庭へと足を向けた。
噴水の水音が響くその中庭は、五つのあの日に王女殿下が転んだ南部の男の子のもとへ誰よりも早く駆け寄った場所であり、三つのケラルトが回廊の柱の陰から俺をじっと見ていた場所でもある。
噴水の縁に腰を下ろした俺は、そばに立つケラルトに向かってまず頭を下げた。
「ケラルト、すみませんでした。僕のせいで、罰を」
「わたしが決めたことです」
ケラルトは噴水の水面に目を落としたまま、きっぱりとそう言った。
家来の手は借りない、わたしがやったことだからなと、王城の庭の聖騎士像の前で胸を張った上司の姿がその横顔に重なった。
気性はまるで違う二人だが、こういうところはやはり姉妹らしい。
「……どうして、前に出てくれたのですか」
「モモンさまは、カルカさまのために、かくすのをやめたって、ねえさまが言いふらしていました。三日くらい、ずっと」
その光景が目に浮かぶようで、俺は思わず額を押さえた。
扉の前で窓の外の鳩をにらんでいて何ひとつ聞いていなかったはずの上司は、聞いてもいない話を三日も王都じゅうに触れ回っていたらしい。
「だから、わたしも、見ているだけなのを、やめてみようと思って」
ケラルトはそう言うと噴水の水面から顔を上げて、回廊の柱のほうへ目をやった。
四年前、三つのこの子が半分だけ身を隠していたあの柱だった。
「はじめて会ったときのこと、おぼえてますか」
「僕のことを、へんだと言いましたね」
「あのとき、モモンさまだけ、わざと当たっていたので」
俺は言葉に詰まった。
上司の五撃目にわざと当たったあの芝居を見抜いていたのは、上司の勘だけではなかったのだ。
「わたしにも、わざとしていることが、あったから。だから、わかったんです」
その「わざと」が何なのかを、ケラルトは口にしなかった。
だが帳簿の陰に隠れたあのくしゃりとした笑顔を見たあとの俺には、それがいつもの薄い笑みのことなのだと、なんとなくわかる気がした。
「それに、わたし、見ているだけじゃなかったです」
「……と、いうと」
「裏庭の古井戸のそばの木箱。泥がかわいて、ひびが入っていたので、ぬりなおしておきました」
今度こそ、俺の頭の中は真っ白になった。
八つの夏の終わりの夜に、俺は屋敷の裏庭の古井戸から十歩ほど離れた暗がりへ古い木箱を据えて、〈魔法の矢(マジック・アロー)〉で撃ち抜いた板の穴を泥で塗り込めて隠したのだ。
誰にも明かしていないはずのその穴にこの子はとっくに気づいていたばかりか、乾いてひび割れた泥を黙って塗り直してくれていたのである。
「……ケラルト、あれは」
「なにの穴かは、ききません」
ケラルトはそう言って、いつもの薄い笑みを浮かべた。
「でも、つぎは、もっとじょうずにかくしてください」
七つの女の子に、隠し方の甘さを叱られてしまった。
傍観者だとばかり思っていたこの子は、俺が気づくずっと前から誰にも言わずに俺の味方をしてくれていたのだ。
魔法の札の端を握っている者は、漏れた知識を黙って隠してくれた王女殿下に続いて、これで二人目になったことになる。
「……案内料のことですが」
俺がおそるおそる切り出すと、ケラルトは少しだけ考えるように首を傾げた。
「まだ、とっておきます。あの穴のことを聞きたくなったら、そのときに聞きます」
答えたくなければ答えなくていいが、うそだけはだめという約束つきの質問の札を、この子はまだ使わずに手の中に握っているのだ。
PvPで最も恐ろしいのは相手がまだ切っていない札だということを、俺は誰よりもよく知っている。
どうやら俺は、とんでもなく高くつく案内役を雇ってしまったらしい。
回廊の向こうから聞き慣れた足音が響いてきたのは、そのときだった。
「ケラルト! 罰を受けたって、本当か!」
木剣を取り上げられたままの上司が、回廊の石畳を蹴って一直線に駆けてきた。
神官たちの噂話は、どうやら王都の噂よりもずっと速く回るらしい。
「……うけていません」
「うそだ。顔に書いてある」
上司はかつて俺の手加減を見抜いたときとまったく同じ言い方でそう言い切ると、心底嬉しそうに胸を張った。
「そうか、お前も罰か! わたしと同じだな!」
「……ねえさまとは、ちがいます」
「同じだ!」
妹の抗議を一蹴して得意げに笑う上司と、なんとも言えない顔で黙り込むケラルトを見比べながら、俺は小さく息を吐いた。
勘で暴く姉と目で暴く妹は、どうやら揃ってうそをつくのが下手らしい。
閑話
その日の夕刻、ケラルト・カストディオは神殿の書庫の片隅に据えられた写字台に向かって、罰の写しに取りかかっていた。
目の前には傷みかけた古い帳簿が一冊、その隣には真新しい紙の束と、おばあさまが貸してくれた羽根筆が置かれている。
罰なのだから神妙な顔をしていなければと思うのに、羽根筆を握る手はさっきからずっと浮き立っていて、口元はどうしても言うことを聞かなかった。
ケラルトの顔にいつも浮かんでいる薄い笑みは、もとは笑みですらなかった。
三つか四つの頃、屋敷を訪れた客の大人が母に向けて口にしたうそを、ケラルトは何の気なしに言い当てたことがある。
そのとき大人たちが顔を見合わせて囁いた、かわいげのない子だという言葉を、ケラルトは今でもはっきりと覚えていた。
それからケラルトは、見抜いたことは胸にしまって笑っていることにした。
笑っている子供を前にすると、大人は安心して自分が見られていることを忘れてしまう。
見抜いたことを口にするのは、自分と同じように何かを「わざと」している人の前でだけにしようと、幼いケラルトは決めたのだ。
見ているだけでいれば、誰にも動かされずに済むことも知っていた。
剣を振れば誰より強い姉のまわりでも、神さまの教えを誰より深く問い返すカルカのまわりでも、大人たちは子供の才を見つけるなりその子をどこに置くかの相談を始める。
ケラルトはそれを、いつも二人のすぐ後ろの、いちばんよく見える場所から眺めてきた。
だからあの日、大神殿の中庭で木剣にわざと当たってみせた男の子を見つけたとき、ケラルトは驚いたのだ。
自分のほかにも、同じことをしている子がいた。
それがケラルトの口にした、へん、のほんとうの意味だった。
あの人はそれからもずっと、わざと負けて、わざと遅く覚えて、本当の力のずっと手前で止まり続けていた。
そのあの人がカルカのために隠すのをやめたのだと、姉は三日も同じ話を繰り返していた。
それなのに今日、あの人はまた、たったひとりで笑われる役を引き受けようとしていたのである。
だから、やめてみた。
やめてみたら、思っていたよりずっと、こわくなかった。
「ケラルト! 手伝ってやる!」
礼拝堂の中までは護衛として入れてもらえなかったらしい姉が、写字台の隣に椅子を引きずってきてどっかりと腰を下ろした。
ところが古い帳簿を覗き込んだ途端、姉の眉間には見る見るうちに深い皺が寄っていった。
「……なんだこれ。みみずが踊ってるみたいだぞ」
「……古い文字です、ねえさま」
「読めなくても手伝える! ここで見張っててやる!」
それから半刻もしないうちに、写字台の隣からは規則正しい寝息が聞こえてきた。
腕を枕にして眠り込んだ姉の横顔は、木剣を振っているときの鋭さが嘘のように幼かった。
ねえさまは本のことはまるでだめだけれど、頭が悪いわけではないのだと、ケラルトは知っている。
いちばん大事なことだけは、いつも勘で当ててしまうのだ。
「ケラルト……今日は……楽しそうだったな……」
寝言でそう呟いた姉に、ケラルトは自分の肩掛けをそっと掛けてやった。
それから写字台に向き直って、もう一度羽根筆を手に取った。
誰も見ていない書庫の片隅で、ケラルトの口元に浮かんでいたのは、薄くない笑みだった。
夕べの祈りを終えた王女殿下を神殿の門まで見送りに出たとき、西の空はすでに茜色に染まっていた。
門の前には王城からの迎えの馬車が待っていて、殿下は乗り込む前に俺のほうを振り返った。
「聞いたわ、モモン。神殿が、頷いてくれそうなのね」
「条件付きですが。癒やしの家は神殿の名で建てること、それに……」
「わたしを、前に出さないこと」
殿下はそう言って、陽だまりのような笑みを浮かべた。
「神殿も、わたしを後ろに置きたいのね」
その笑みにはひとかけらの翳りもなかったが、同時にひとかけらの譲歩もなかった。
それから殿下は書庫のほうへ目をやって、少しだけ声を落とした。
「それに、ケラルトが自分から前に出たって、神官さまたちから聞いたの。そんなこと、はじめてだわ」
「はじめて、ですか」
「あの子はいつも、わたしたちの後ろで、ぜんぶ見ていてくれる子だから」
殿下はそう言って、嬉しそうに目を細めた。
俺が同じ上司の面倒を見る仲間として殿下と言葉にせず認め合ってきたように、殿下とケラルトのあいだにもまた、俺の知らない年月が積み重なっているのだろう。
「でも、モモン。わたしは、まだ頷かないわよ」
馬車の扉に手をかけながら、殿下はいたずらっぽく笑った。
「みんなが頷く筋書きを、いっしょに考えるんでしょう?」
「……はい、殿下」
殿下の馬車が夕暮れの石畳の向こうへ見えなくなると、門の神官が預かっていた木剣を心底ほっとした顔で上司に返してくれた。
寝ぼけ眼をこすっていた上司は木剣の重みを肩に感じた途端に元気を取り戻し、それから妹が差し出した手巾の包みを見て目を輝かせた。
「ねえさまのぶんです」
「ケラルトはやさしいな!」
「とっておいただけです」
蜂蜜の菓子を頬張りながら木剣を振り回して前を行く上司の後ろを、俺とケラルトはゆっくりと歩いた。
今日のケラルトは、姉の背中に半分隠れてはいなかった。
自分の足で歩きながら、ときどき思い出したように、書庫で覚えた古い文字の綴りを指で宙に書いている。
俺は歩きながら、陛下の宿題を頭の中で数え直した。
神殿は条件付きで頷いてくれたが、残る壁はまだ二つある。
二百年前に癒やしの家を終わらせた南の諸侯の財布と、神殿にまで後ろへ下がれと言われてなお、いちばん痛い場所から始めたいと笑う王女殿下だ。
前例を終わらせたのが南である以上、次に向き合うべき相手はもう決まっていた。
脳裏をよぎったのは、王城の廊下で俺の袖を引いて、南には南の暮らしがあるのだと話してくれたルシオの顔だった。
「最後に残ったのは、南の攻略か」
小さく漏れたその呟きは、いつものように前を行く上司の大きな声にかき消されて、誰の耳にも届かないはずだった。
「隠し方の見直しは、まだ、とちゅうですね」
俺は思わず足を止めた。
召し出しの書状を受け取ったあの日の朝、王都の屋敷の広間で、俺は確かに隠し方の見直しからだと呟いている。
あのとき上司の背中に半分隠れていた小さな観察者だけが薄い笑みをほんの少しだけ深くしたような気がしたのは、どうやら気のせいではなかったらしい。
「南のことなら、帳簿の写しに、つづきがありますよ」
ケラルトは前を向いたまま、なんでもないことのようにそう付け加えた。
罰として毎日写すことになった古い帳簿は、そのまま次の攻略のための、この国でいちばん古い情報源になるらしい。
自分の呟きはいつだって誰の耳にも届かないものだと、俺はずっとそう思っていた。
その呟きに、今日初めて返事が返ってきたのだ。
上司の背中に隠れて俺を観察していた小さな観察者は、どうやらもう観察者ではいてくれないらしい。
夕暮れの石畳の上を、小さな案内役は誰の背中にも隠れずに、自分の足で歩いていた。