鈴木悟の分身がオーバーロード世界にいたら 作:分身分身影写し
神殿の書庫の片隅に据えられた写字台では、ひとりの小さな罪人が今日も罰の写しに励んでいた。
傷みかけた古い帳簿の頁を一行ずつ指でなぞっては真新しい紙の上へ同じ文字を写し取っていくその手つきには、罰を受けている者の悲壮さなどどこにも見当たらない。
指先どころか鼻の頭にまで黒いインクの染みをつけたケラルトは、羽根筆を握りしめたまま頁の上に小さな身体を乗り出していた。
「楽しそうですね、ケラルト」
「……罰なので、たのしくないです」
鼻の頭のインクを袖でさらに広げながらそう答えた口元は、言葉とは裏腹にどうにも言うことを聞いていなかった。
ひと月のあいだ奥の帳簿を読むことを禁じられ、代わりに傷んだ帳簿を毎日写すよう命じられたこの子にとって、それが罰になっていないことは誰の目にも明らかだった。
神殿が条件付きで頷いてくれてから、王女殿下が大神殿へ通う神殿の日はもう二度巡っていた。
陛下の宿題に残る壁は、南の諸侯の財布と王女殿下ご自身の二つである。
南のことなら帳簿の写しにつづきがあると、あの日の帰り道にこの子は確かにそう言ったのだ。
だから俺は今日も殿下のお供という名目で、元アンデッドにはいささか眩しすぎるこの神殿の門をくぐってきたのである。
「おばあさまが、宿題に要るところなら読んで聞かせてもいいって」
「それは、ありがたいですね」
「南のことはここからです」
ケラルトは写し終えたばかりの紙の束から一枚を抜き出すと、あの日と同じように癖の強い古い文字をつかえることなく読み上げた。
『建国三十七年。南の諸侯より書状来たる。北の戦は北の戦なり、南の麦をもって北の傷を癒やす謂れなし』
二百年前の癒やしの家が閉じられたのは、この書状が届いた翌年のことである。
ケラルトはさらに数枚をめくると、癒やしの家で手当てを受けた者たちの名と村の名が並ぶ名簿の写しを俺の前に広げてみせた。
「三十年ぶんの名簿です。ぜんぶ見ましたけど、南の名前はひとつもありません」
俺は名簿に目を落としたまま、しばらく口をきくことができなかった。
二百年前に北の地で亜人と刃を交えていたのは北の兵だけであり、南の諸侯は自分たちの子がひとりも傷ついていない戦のために麦を出せと言われていたのだ。
あの日の老学匠が数えてみせた南の財布の壁は、少なくとも二百年前にはけちではなく筋の通った拒みだったのである。
けれど今は、二百年前と同じではない。
長城が築かれたあとに定められた徴兵の決まりによって、この国では十六になれば北の者も南の者も男も女も、たとえ貴族の子であろうと長城の守りに立たなければならないのだ。
それは幼い頃に父から聞かされたことであり、老学匠の歴史の講義でその決まりが定められた年まで覚えさせられたことでもあった。
「二百年前と今とで、違うことがひとつだけありますね」
小さく漏れた俺の呟きに、ケラルトは羽根筆を置いて首を傾げた。
書庫を出たのは、夕べの祈りの鐘が鳴る少し前のことだった。
光の溢れる時刻と場所を避けて歩くことにかけては、この小さな案内役はもはや俺以上に心得ていて、今日も礼拝堂から遠い細い通路ばかりを選んで前を歩いてくれる。
その通路が癒やしの間の脇に差しかかったところで、ケラルトがふいに足を止めた。
癒やしの間の中では白い衣の神官たちに囲まれた王女殿下が、寝台に横たわる者たちの枕元をひとりずつ見舞っていた。
信仰系の魔法の手ほどきの締めくくりとして、殿下は神殿の日の終わりにこうして傷ついた者たちを見舞って回るのだという。
扉の脇では木剣を取り上げられたままの上司が、それでも護衛の務めは果たすとばかりに仁王立ちで控えていた。
殿下が足を止めたのは、窓際の寝台に横たわる若い兵士の前だった。
長城の務めを終えて湾の向こうの南へ帰る途中、船を待つあいだに傷が膿んで神殿へ運び込まれたのだと、付き添いの神官が殿下に説明している。
包帯を巻かれた太腿は遠目にもわかるほど腫れ上がっていたが、その兵士は寝台の上で背筋を伸ばし、殿下に向かって晴れやかな笑みを浮かべてみせた。
「大したことはございません、殿下。かすり傷です」
「そう……早くよくなってね。お家の方が、待っていらっしゃるのでしょう」
「はい。湾を渡れば、すぐですので」
殿下は兵士の手をそっと握ってから、神官たちに促されて次の寝台へと移っていった。
やがて殿下の一行とその後ろにぴたりとついた上司が癒やしの間を出ていくと、窓際の寝台からは押し殺したうめき声が漏れ始めた。
晴れやかだった笑みはもうどこにもなく、兵士は腫れ上がった脚を抱え込むようにして身体を丸め、誰にともなく母親を呼んでいた。
「あのひと、カルカさまの前でだけ笑ってました」
扉の陰から目を離さないまま、ケラルトが小さな声でそう言った。
その笑みが何なのかを、俺は誰よりもよく知っている。
九年かけて磨き上げてきた俺の子供らしい笑顔と、あれはまったく同じ種類のものだった。
隠している者には、隠している者がわかる。
いつか噴水の中庭でこの子が教えてくれたことを、俺は今度は自分の側から思い知らされていた。
ふと視線を感じて顔を上げると、癒やしの間の先の廊下で王女殿下がこちらを振り返っていた。
殿下は何も言わずにほんの少しだけ困ったように笑うと、神官たちと一緒に回廊の角を曲がっていった。
翌朝の聖騎士団の稽古場では、上司がいつものように年上の従者たちを相手に嵐を起こしていた。
その日、上司の打ち込みを真正面から肩で受けたのは、旗取りの模擬戦で真っ先に上司へ挑みかかってきたあの肩幅の広い年長組の大将だった。
並の従者なら砂の上を転げ回るほどの一撃だったが、大将は顔色ひとつ変えずに一礼すると、何事もなかったかのように列へ戻っていった。
「見たか、モモン! あいつ、痛いって言わなかったぞ!」
木剣を担いで戻ってきた上司は、なぜか自分のことのように胸を張っていた。
「南のやつらは、痛くても絶対に痛いって言わないんだ! 我慢強いんだな! わたしなら言うぞ、痛いって!」
あの大将が南の家の出だということを、俺はそのとき初めて知った。
ついでに言えば、この上司が脛を打った日に王都じゅうへ響く声で痛いと叫ぶことなら、四年来の家来である俺が誰よりもよく知っている。
「我慢強いのではありません……北の者の前では、言えないのですよ」
いつの間にかそばに立っていたグスターボが、胃のあたりに手を当てたまま列へ戻っていく大将の背中を目で追っていた。
「十六の年に、私も長城の砦に一年詰めておりました。南から来た若い兵は、傷を負っても、手当ての順番を待つあいだずっと笑っているんです。大丈夫だ、大したことはないと言って」
「……気づいたときには」
「遅いことが、多いのです」
上司は首を傾げていたが、俺の頭に浮かんでいたのは昨日の癒やしの間で見たあの晴れやかな笑みだった。
その日の講義が終わると、俺は王城の書庫に籠もって長城の報告の写しを今度は最初の頁から読み直した。
季節ごとの数字の列のあとには傷を負った兵と命を落とした兵の名前が延々と並んでいて、その一人ひとりの横には生まれた土地を記す欄が設けられていた。
ギルド戦の戦績表でも、本当に見るべきなのは合計の数字ではなく、誰がどこでどう倒れたのかを記した細かな欄のほうだった。
指が名簿の最後の頁に辿り着いたとき、俺の書きつけには合計の数字からは決して見えなかったものが浮かび上がっていた。
傷を負った者の数では、北の兵が南の兵の倍ほどもいる。
ところが手当てを待つあいだに命を落とした者に限ると、南の兵のほうが北の兵よりも多いのである。
傷を負った南の兵が手当ての順番を待ちきれずに死んでいく割合は、北の兵の二倍を超えていたことになる。
理由は、二つ考えられた。
北の兵であれば傷を負っても近くの町や自分の村へ運ばれて家族の手で看病を受けられるが、南の兵の家は湾の向こうにあって、砦の隅で神官の手が空くのを待つしかない。
そしてもうひとつはグスターボが言ったとおり、南の兵は北の者の前で痛いと言わないのだ。
痛みを隠す者の傷は、軽いものとして後回しにされる。
笑っている兵の順番が回ってくるのは、たいてい笑う力さえ尽きたあとだろう。
隠すことにかけては俺はこの国で数少ない専門家のひとりなのだから、それがどういうことなのかは考えるまでもなくわかった。
つまり癒やしの家がないせいでいちばん割を食っていたのは、北の兵ではなく南の子だったのだ。
南の目には北の策としか映らないはずの家が、本当は南のための家でもあったのである。
北の人たちがいちばん怪我をするのだという殿下の言葉は、どうやら半分しか当たっていなかったらしい。
書庫の隅の長椅子では、姉を迎えに来たついでに本を広げていたケラルトが、指で名簿をなぞる俺の手元を見て薄い笑みをほんの少しだけ深くしていた。
俺はその夜、長城の父に宛てて南から来た兵のことを尋ねる手紙を書いた。
数日後の政の講義のあと、俺は書きつけの束を抱えて老学匠のもとへ向かった。
あの日、節くれ立った指を一本ずつ折って三つの壁を数えてみせたこの老人にこそ、真っ先に見せるべきだと思ったのである。
「先生。先生のふたつ目とみっつ目のご指摘への、答えです」
老学匠は白い眉をわずかに上げると、俺の書きつけを受け取って一枚目から黙って読み始めた。
背筋をまっすぐに伸ばしたまま頁をめくる老人の手は、名簿の数字のところで一度だけ止まり、それから最後の一枚まで止まることはなかった。
「数字は、またしても正しい」
書きつけの束を揃えると、老学匠は白い髭をひと撫でしてから静かにそう言った。
だがその目に浮かんでいたのは感心の色ではなく、どこか痛ましいものを見るような色だった。
「ですがモモン殿。これを南の諸侯の前で、北の伯爵家のご嫡男が読み上げたなら、南の者は我が子が北の砦で泣くこともできずに死んでいたと、北の子に教えられることになります。それは南にとって、算盤で負けるよりも深い恥にございます」
老学匠は書きつけの束を俺の手に返すと、窓の外へ目をやった。
「わたしも十六の年に、長城に立ちました」
それきり老人は、自分の昔について何ひとつ語らなかった。
ただ窓の外を見つめたまま、ひとりごとのように言葉を継いだだけだった。
「南の痛みは、南の口からでなければ、南には届きませぬ」
学びの間を出たあとも、その言葉は俺の頭の中でしばらく鳴り止まなかった。
思い出していたのはギルド戦の鉄則ではなく、前の世界の会社の、あの息の詰まるような会議室のことだった。
同じ企画書でも部長の名前で出せば通り、俺の名前で出せば突き返されるのを、俺は何度も見てきたのである。
会議で決まることは、たいてい会議の前に決まっている。
中身が同じでも誰がその話を持っていくのか、誰に先に通しておくのかで、結果のほうが先に決まってしまうのだ。
根回しという仕事が、まさか二度目の人生で、それも王女殿下の宿題のために要ることになるとは思わなかった。
ユグドラシルの知識ではなく、冴えない会社員として過ごしたあの毎日が、どうやらこの盤面ではじめて役に立つらしい。
南の痛みは、南の口から語ってもらう。
俺の口で語ってよいのは痛みの中身ではなく、それをどう救うのかという仕組みのほうだけだと、俺は自分にそう線を引いた。
翌日の講義のあと、俺は回廊を歩くルシオの背中に声をかけた。
南の子供たちが固まって歩くその少し後ろを、ルシオはいつもひとりで歩いていて、振り返ったその顔の向こうからは南の子らの冷ややかな目がこちらへ向けられていた。
「トーレス殿?」
「ルシオ殿。少し、南のことを教えていただけませんか」
ルシオは驚いたように目を丸くしたが、南の子らが角を曲がって見えなくなるのを待ってから小さく頷いた。
人気のない回廊の窓辺に並んで腰を下ろすと、ルシオは窓の外の空を見上げながら自分の家のことを話し始めた。
「僕の家の領地は、湾の南の岸にある港町なんです。晴れた日には、向こう岸が見えるんです」
この王都のある北の岸のどこか遠くの浜辺を、この子は生まれたときから毎日眺めてきたのだという。
南と北のあいだに横たわる溝の縁に立って向こう岸を眺めている子供だと、いつか俺はこの子のことをそう思ったことがあったが、どうやらそれはたとえ話ではなかったらしい。
「毎年春になると、十六になった南の若い人たちが父上の港から船に乗って湾を渡っていきます。長城へ行くんです」
ルシオはそこでいったん言葉を切ると、膝の上で小さな拳を握った。
「帰りの船に乗る人は、行きより少ないんです」
俺は、何も言えなかった。
ルシオは窓の外の空を見上げたまま、少しだけ声を落として続けた。
「兄上も、今、長城にいます」
ベルトラン子爵家の上の息子は、十六になった春に父の港から湾を渡ったのだという。
ルシオはそれ以上兄のことを言わなかったが、窓の外を見上げるその横顔は、癒やしの間の窓際で笑っていたあの兵士の顔に少しだけ似ていた。
「南の者は、北で泣いてはいけないって教わるんです。北の人に、笑われるから」
グスターボの言葉と名簿の数字と癒やしの間の笑みが、そのひと言で一本の線につながった。
南の子らは泣かないのではなく、泣いてはいけないと教わって湾を渡っていくのだ。
そこまで聞いたところで、俺はふとルシオの言葉の端に引っかかりを覚えた。
春ごとに南の若者たちを乗せて湾を渡る船があるのなら、その船はいったい何を積んで行き来しているのだろう。
「ルシオ殿。その船は、帰りは何を積んでいるのですか」
「空いています。帰りに乗るのは長城の務めを終えた人だけですし、行きも、船倉は半分くらい空いてます」
輸送の依頼で走らせた荷車を、帰り道に空のまま走らせることほどもったいない話はないというのが、ユグドラシルの頃から変わらない俺の信条だった。
頭の中でこれまでばらばらに散らばっていた札が、音を立てて一枚の盤面に並んでいく。
殿下の名のもとに集める寄付で癒やしの家に要る麦と包帯の布を南から買い、それを春ごとに湾を渡る徴兵の船の空いた船倉に積んで運ぶ。
治った兵は、同じ船の帰りの便で南の家へ帰る。
二百年前の癒やしの家は南の財布から麦を取ったが、今度の家は南の財布に銀を払うことになるのだ。
「父上の港は、もともと南の麦を積み出す港です」
俺の話を聞き終えたルシオは、目を見開いたまま震える声でそう言った。
政の講義で王家と貴族の務めを問われたとき、この子が小さな声で答えたのは、民を飢えさせないことだった。
それが麦を積み出す港の子の答えだったのだと、俺は今になってようやく気がついた。
「ルシオ殿。陛下に宿題の答えをお持ちするとき、南のことは、あなたの口から話していただけませんか」
ルシオの顔から、すっと血の気が引いた。
「……そんなことをしたら、南の子たちに、北の犬と言われます」
無理もない話だった。
この子は今でさえ南の子らから冷ややかな目を向けられていて、そのうえ北の伯爵家の嫡男と並んで王の前に立てば、南の輪の中に戻る場所はもうなくなってしまうかもしれない。
しかし長い沈黙のあとで、ルシオは窓の外の空を見上げた。
「でも、五つのとき殿下は、誰に何を言われるかなんて考えずに、僕のところへ走ってきてくださいましたよね」
ルシオはそう言ってから、膝の上で握りしめていた拳をゆっくりとほどいた。
「なら……今度は、僕が湾を渡る番です」
父上には僕から話します、と付け加えたルシオの声は、もう震えてはいなかった。
長男を長城へ送り出している父親であれば、この話にはきっと耳を傾けてくれるはずだった。
その日の夕方、俺は殿下に誘われて王城の露台に出ていた。
上司は階段の下で見張りに立っていたが、西日の暖かさに負けたのか、木剣を抱えたまま早くもこっくりこっくりと船を漕いでいる。
手すりに両手を載せた殿下はしばらく黙って王都の屋根を眺めていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「ほらね、モモン。みんな、わたしの前では泣かないの」
癒やしの間の窓際の寝台のことを言っているのだと、すぐにわかった。
あの日廊下の先で振り返った殿下は、俺とケラルトが何を見ていたのかをとっくに知っていたのである。
「わたしが帰ったあとで泣くのよ。わたし、知ってるの。神殿でもお城でも、わたしが行く日だけ、どこもきれいになるの」
「……殿下」
「だから、後ろにはいたくないの。後ろにいたら、みんな、わたしのために笑ってくれるから」
殿下はそう言って、陽だまりのように笑った。
その笑みが、癒やしの間で兵士の手を握ったときとまったく同じ形をしていることに、俺はそこで初めて気がついた。
前の世界の会社では、偉い人が現場を見に来る日だけ床がぴかぴかに磨き上げられたものだった。
誰もが笑顔で挨拶をして本当の困りごとは一つ残らず物陰に隠され、偉い人が満足して帰っていった次の日には、またいつもの現場に戻るのである。
本当の現場を知っていたのは偉い人ではなく、毎日そこで働いている者たちだけだった。
殿下が嫌っていたのは、後ろという場所ではなかったのだ。
どこへ行っても涙を片づけられてしまうお客さまという立場のほうを、殿下はずっと嫌っていたのである。
「殿下は、前に出たいのではなく、お客さまでいたくないのですね」
殿下が、弾かれたように俺のほうを振り向いた。
澄んだ水のような薄青い瞳が、大きく見開かれていた。
「でしたら、お客さまをやめましょう。癒やしの家の帳簿に、王女殿下ではなく、ひとりの癒やし手として名前を載せていただくのです」
「ひとりの、癒やし手として……」
「殿下が見に来る日だけきれいになる家ではなく、殿下が当番で立つ家にすれば、誰も殿下の前で涙を隠せなくなります」
それから俺は、王城の書庫で見つけた名簿のことを殿下に話した。
傷を負う数では北の兵が多くても、手当てを待つあいだに命を落とす数では、痛いと言わずに笑っている南の兵のほうが多いのだ。
そう伝えると、殿下はしばらく何も言わずに手すりの上の自分の手を見つめていた。
「……南の子は、誰も来なかった」
殿下の唇から、小さな声がこぼれた。
五つのあの日、大神殿の中庭で転んだ南の男の子のもとへ駆け寄ったのは殿下ただひとりだった。
南の子らは誰も手を貸さず、大人たちは回廊から眺めているだけだったのだ。
「いちばん痛い場所って、ただいちばん怪我の多い場所じゃなかったのね。泣けない人のそばだったのね」
殿下は、自分の言葉で自分の夢を言い直した。
回復役は前に出してはいけないというギルド戦の鉄則と、いちばん痛い場所から始めたいという殿下の願いは、あの日の学びの間の真ん中でどちらも譲れないままぶつかり合っていた。
その二つが、今ようやく同じ方を向いたのである。
殿下は手すりから手を離すと、まっすぐに俺のほうへ向き直った。
「モモン。今日は、ひとつも違わないわ」
ひとつだけ違うのだと陛下の御前で譲らなかったあの日の殿下の声が、俺の耳の奥で静かに重なった。
殿下はそれから胸の前で両手を握り合わせ、少しだけ背伸びをするようにして言葉を続けた。
「わたし、癒やしの家で、倒れないくらい強くなるわ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、階段の下から威勢のいい声が跳ね上がった。
「癒やしの家だと! カルカさまが行くなら、わたしも行くぞ! 扉の前は、わたしの持ち場だ!」
木剣を抱えたまま階段を駆け上がってきた上司は、寝ぼけ眼をこすりながらも、聞くべきところだけはしっかりと聞いていたらしい。
上司は殿下の隣に並んで胸を張ると、俺の鼻先にびしりと指を突きつけた。
「それに、痛いなら痛いって言えばいいんだ! わたしがそう決める!」
考えるより先に答えへ辿り着いてしまうのが、この上司のいちばん厄介で、いちばん頼もしいところだった。
誰も涙を隠さなくていい家に、これほどふさわしい決まりもないだろう。
上司が殿下の隣で得意げに胸を張っているあいだに、殿下はふと俺の顔を覗き込んだ。
「モモンも、わたしの前では泣かないわね」
俺は、すぐには答えられなかった。
伏せたままの札を、この王女殿下の前ではまだ手放せてはいないのである。
「いいの。待ってるって、言ったでしょう」
殿下はそう言って、今度こそ本当に、心から、陽だまりのように笑った。
そんな殿下がぱたぱたと駆け寄ってきたのは、その翌日の講義のあとのことだった。
「モモン! お父さまにお話ししたら、三日後に聞いてくださるって!」
俺は抱えていた書きつけの束を、危うく取り落としそうになった。
殿下はやはり、悪気なく話を王のもとまで運んでしまう方なのである。
根回しの期限は、三日。
胃が痛い。
それからの三日間、俺は前の世界でしていた仕事に、二度目の人生では初めて手を染めることになった。
最初に訪ねたのは、書庫のいちばん奥の小さな部屋で羽根筆を走らせているあの老女だった。
俺が願い出たことは三つあった。
殿下の名を当番の帳簿に載せることと南の神殿の神官を交代に加えること、そして寄付と買い付けの帳簿を南の方々にも開くことである。
老女は羽根筆を止めると、長いあいだ黙って俺の顔を見つめていた。
「帳簿の上では、身分は書きませぬ。名と、詰める日と、治した数だけにございます」
「それで、かまいません」
「ただし、殿下を家より先へは、一歩もお出しいたしませぬ」
老女とはもうひとつ、いざというときのための札を決めておいた。
もっとも、その札を切らずに済むのならそれに越したことはない。
ベルトラン子爵には、ルシオが話を通してくれた。
長城から父の返事が届いたのは、二日目の夕方のことだった。
『お前の言うとおりだ。南から来た若い連中は、痛いとも言わずに最後まで笑っている。わが砦でも、気づいてやれなかった者がいる』
手紙の最後には、その家ができるならトーレスの兵も喜んで南の麦を担ぐだろうと、父らしい太い字で書き添えられていた。
老学匠だけは、俺が頭を下げても首を縦には振らなかった。
「お約束はできませぬ」
老人はそれだけ言うと、静かに学びの間の扉を閉めた。
三日後、陽の差し込む小さな謁見の間には、思っていた以上の顔ぶれが揃っていた。
いちばん奥の椅子には聖王陛下が腰を下ろし、その傍らでは白髪の侍従の老人が早くも胃のあたりに手を当てている。
北と南の廷臣たちが左右に分かれて並ぶなか、南の列の中ほどには老学匠とベルトラン子爵の姿があった。
神殿からは神官団長と、腰に鍵の束を下げた帳簿の老女が招かれていた。
南の列のいちばん前に立つ人物の顔を、俺はよく覚えていた。
陛下の御前で俺が手当ての筋書きを披露したあの日、神官の魔法の事情をどこでそれほど詳しく知ったのかと俺に問いを投げた、あの南の紋の廷臣である。
ボディポ侯爵というのが、その人の名前だった。
扉の前には、今日も上司が木剣を立てて仁王立ちになっていた。
俺はといえば、王城の書庫から借りてきた国の地図を丸めて抱え、いちばん後ろの壁際に立っていた。
南のことは南の口から、殿下のことは殿下の口から語ってもらうというのが、俺の立てた段取りだったのである。
最初に進み出たのは、殿下だった。
「お父さま。宿題の答えを、持ってまいりました」
殿下は陛下に向かって深く頭を下げてから、南の列のほうへ向き直った。
「わたしは、北の人たちがいちばん怪我をするのだと思っていました」
殿下はそこで一度だけ言葉を切り、それからはっきりと続けた。
「まちがえていました」
謁見の間の空気が、わずかに揺れた。
王女殿下が南の諸侯の前で自分の誤りを口にするところなど、おそらくこの宮廷の誰ひとり見たことがなかったのだろう。
次に進み出たのは、写しの束を胸に抱えたケラルトだった。
七つの女の子が大人たちの前にひとりで立ち、二百年前の帳簿の写しをつかえることなく読み上げていく。
癒やしの家が置かれたことと南の諸侯の書状、そして南の名がひとつもない名簿のことを読み終えると、ケラルトは写しの束から顔を上げた。
「二百年前の南の方々は、まちがっていませんでした」
南の列の何人かが、驚いたように顔を見合わせた。
北の者から二百年前の拒みを正しかったと認められるのは、南の諸侯にとって初めてのことだったのだろう。
三番目に進み出たのは、ルシオだった。
南の列の大人たちの訝しげな目をすべて正面から受けながら、ルシオは陛下の前でまっすぐに背筋を伸ばした。
「今は、南の子も、長城に立ちます」
ルシオは、父の港から春ごとに湾を渡っていく船のことを話した。
長城の報告の名簿で手当てを待つあいだに命を落とした者に南の兵が多いことを、南の子の口で語った。
そして最後に、兄が今その長城にいることを話した。
「帰りの船に乗る人は、行きより少ないんです。南の兵は、北の砦では泣きません」
謁見の間が、しんと静まり返った。
南の列に並ぶ大人たちは、誰ひとり口を開かなかった。
十六の年に湾を渡り、北の砦で寒い夜を過ごしたことのない者など、その列にはひとりもいないのである。
最後に殿下が、もう一度前に出た。
「ですから、わたしは癒やしの家を、もう一度建てたいのです。神殿の名で、南の子も北の子も、同じように手当てができる家を」
その言葉が終わらないうちに、南の列から乾いた拍手の音が響いた。
手を叩いていたのは、ボディポ侯爵だった。
「見事な筋書きですな。王女殿下と、聖騎士の家の娘御と、南の子と。聞いていて、胸が痛みましたぞ」
侯爵は口元に薄い笑みを浮かべたまま、ゆっくりと謁見の間を見回した。
「して、その家の費えは、どなたの財布から出るのですかな。二百年前と同じく、南の財布からとおっしゃるのか」
殿下が答えようと口を開きかけたとき、侯爵の目がふいに謁見の間のいちばん後ろへ向けられた。
「それに、もうひとつ気になることがございましてな。王女殿下と南の子に語らせて、北の伯爵家のご嫡男は、先ほどから壁際で黙っておられる」
居並ぶ大人たちの目が、一斉に俺のほうへ向けられた。
侯爵は笑みを崩さないまま、ゆっくりと首を傾げてみせた。
「……糸を引いておられるのは、どなたかな」
南のことは南の口から、殿下のことは殿下の口からという段取りは、何ひとつ間違ってはいなかった。
だがこの侯爵の目には、黙って壁際に立っている北の子供こそが、王女殿下と南の子を操る糸の持ち主に見えているのである。
となれば隠れていることそのものが、疑いになる。
ここで黙って壁際に立ち続ければ、為そうとする癒しの家は最後まで北の策にしか見えないだろう。
九年ものあいだ隠れることばかり考えて生きてきた俺に、それがわからないはずはない。
もちろん、そんなことをできるはずがなかった。
俺の頭の中にだけ、見覚えのある四角い枠が音もなく浮かび上がる。
『札を見せます。この操作は取り消せません。よろしいですか? はい/いいえ』
初めて札を見せたあの日、俺は最前列で手当て袋を握るカルカの手を見て、ようやくこの枠の『はい』に指を伸ばした。
今日は迷わなかった。
ケラルトに、殿下に、そしてルシオに話を通したときから、その覚悟はとうにできていた。
人は損得で動くことはできる、けれども損得だけでつないだ約束は儚く脆い。
かといって人は理想だけで、机上の空論で動くことはできない。
人が未来に向かって進むためには、理想を夢でもあると知りながら現実に向き合い、その上で損得を、欲望を乗り越えて前に進む旗手が必要なのだ。
そう、人は理想にのみ生きるのではない、ただ理想に夢を見ず、現実を知りながら違えることなく理想を歩まんとする人のためにこそ生きるのだ。
俺をいつか異形種狩りから救ってくれた、たっち・みーさんのように。
だから今日は、今日こそ俺はただの調整役ではなく旗手となろう。
そう決意し俺は壁際から一歩、前へ出た。
「はい、皆さんの糸を引いていたのは、僕です」
謁見の間に、ざわめきが走った。
扉の前の上司が、なぜか誇らしげに胸を張る気配がした。
俺は抱えていた地図を胸の前に掲げて、ボディポ侯爵の目をまっすぐに見返した。
「ですから、引いた糸の行き先を、すべての構図をお見せしましょう」
俺は陛下の御前に据えられた卓に歩み寄ると、横倒しの馬蹄の形をしたこの国の地図を端から端まで広げてみせた。
ナザリックの円卓を仲間たちと囲んで作戦を練った夜のことを、俺はふと思い出した。
もっとも、卓を囲む相手を頷かせるところから始めなければならない作戦会議は、これが初めてになるだろうか。
地図の真ん中では北と南を分かつ大きな湾が、青い絵の具で静かに口を開けていた。