鈴木悟の分身がオーバーロード世界にいたら 作:分身分身影写し
陛下の御前に据えられた卓の上で、横倒しの馬蹄の形をしたこの国の地図が、窓から差し込む陽を受けて静かに光っていた。
居並ぶ大人たちの目が地図と俺の顔とのあいだを行き来するなかで、俺は北と南を分かつ青い湾の縁にそっと指を置いた。
「この国の溝は、湾の形をしています」
南の列の大人たちの何人かが、わずかに眉をひそめた。
九つの子供が地図を指さして国の溝を語るなど、本来なら笑い飛ばされても仕方のない光景だろう。
「南の方々の痛みは、もう南の方の口からお聞きいただきました。ですから僕の口からお話しするのは、痛みの中身ではなく、それをどう救うのかという仕組みのほうです」
俺はまず、ボディポ侯爵が最初に投げた問いに答えることにした。
家の費えはどなたの財布から出るのか、二百年前と同じく南の財布からなのかという、あの問いである。
「二百年前の家は、南の財布から麦を取りました。今度の家は、南の財布に銀を払います」
侯爵の口元に浮かんでいた薄い笑みが、ほんのわずかに形を変えた。
「家の費えは、殿下の名のもとに集める寄付で賄います。そして家に要る麦と包帯の布は、南から買い入れます」
俺は湾の南の岸に描かれた小さな港の印へ、指を滑らせた。
晴れた日には向こう岸が見えるのだと、ルシオが窓の外の空を見上げながら教えてくれたあの港町である。
「毎年の春、十六になった南の若者たちを乗せた船が、この港から湾を渡ります。行きの船倉は、半分ほど空いています」
指先で湾を北へ横切り、北の岸から長城の手前のカリンシャまでを一本の線でなぞる。
二百年前に神殿が癒やしの家を置いたその町に、今度の家も建て直すつもりだった。
「行きの船に、麦と布を。帰りの船に、治った兵を乗せます」
南の列の中ほどで、ベルトラン子爵が小さく頷くのが見えた。
春ごとに若者たちを乗せて湾を渡る船は、ほかならぬあの子爵の港から出ていくのである。
「家は、神殿の名で建てます。王家が請い、神殿が受ける、二百年前と同じ形です」
神官団長が、静かに目を閉じて頷いた。
英雄譚の外に置き去りにされてきた古傷の上に、神殿が自分たちの名前をもう一度刻み直す話なのだから、ここで頷いてもらえなければ困る。
「南の神殿の神官の方々にも、当番の交代に加わっていただきます。そして寄付と買い付けの帳簿は神殿がつけ、毎年、南の方々にもお見せします」
そこまで話したところで、俺は謁見の間の脇に控える帳簿の老女へ目をやった。
三日のあいだに老女と決めておいた、いざというときのための札である。
前の俺なら、この札は最後の最後まで伏せておいただろう。
誰かに問い詰められたところで、さも神殿が自ら言い出したかのように切ってみせるのが、いちばん効く使い方だからだ。
だが今日の俺は、引いた糸の行き先をすべて見せると、この口で言ったのである。
「そのために、神殿にはひとつ、お願いをしてあります。三日のうちに、僕がお願いしたことです」
老女は腰の帯に下げた鍵の束を鳴らして一歩前に出ると、節くれ立った指でその中から一本を外した。
「この家の帳簿の鍵を、一本、南の方にお預けいたしましょう。帳簿は、うそをつきませぬ」
差し出された古い鉄の鍵は、まっすぐに南の列のいちばん前へ向けられていた。
侯爵はすぐには手を伸ばさず、その鍵と俺の顔とを見比べた。
「……ほう。糸の結び目まで、お見せになるか」
「すべてお見せすると、申し上げましたので」
侯爵は鍵を受け取らないまま、ゆっくりと首を傾げてみせた。
預かるかどうかは、話を聞いてから決めるということなのだろう。
「では、伺いましょう。寄付というものは、いずれ細るものです。細ればそのときは結局、南の税に手が伸びよう。北はいつもそうだ」
「そのときは、家が小さくなるだけです。南の税に銅貨一枚でも手が伸びれば、その年の帳簿に残ります。その帳簿の鍵を、南の方にお預けするのです」
「姫君を北へ出すおつもりか。南は、王家の姫君の戦場の真似事など、望みませぬぞ」
答えたのは、俺ではなかった。
いつの間にか卓のそばまで進み出ていた殿下が、胸の前で両手を握り合わせたまま、侯爵の目をまっすぐに見返していた。
「わたしは、前には出ません。お客さまでもありません。帳簿に名前のある癒やし手のひとりとして、長城の後ろの家に立ちます」
「家より先へは、一歩もお出しいたしませぬ」
老女が静かにそう添えると、俺は南の列の中ほどに立つ老学匠へ向き直った。
「先生は、王家のお務めは祈りを捧げることだとおっしゃいました。殿下の祈りは、手のひらから光になって出るのです」
老学匠の白い眉が、ほんのわずかに動いた。
侯爵は小さく鼻を鳴らすと、最後の問いを投げてよこした。
「だが、これは北の子の算盤だ。北の得にならぬはずがない」
「はい。救われる兵の数そのものは、北のほうが多くなります」
俺はあっさりと頷いた。
ここで北の得を隠してしまえば、それこそ北の策になる。
「北は寄付を出して、兵を取り戻します。南は麦と船を出して銀を受け取り、子を取り戻します。この家で損をする者は、ひとりもおりません」
損得の算盤は、これですべて卓の上に並べ終えた。
ただの調整役なら、ここで口を閉じて一礼するところだろう。
けれど損得だけでつないだ約束がどれほど儚く脆いものかを、俺はもう知っている。
今日の俺が立とうと決めたのは、算盤を弾き終えたその先なのである。
「ですが侯爵。損得だけの約束は、寄付が細った年に切れてしまいます」
俺は地図から指を離して、南の列のいちばん前を見据えた。
「ですからこの家は、殿下の、誰も泣かない国という旗のもとに建てます。その旗は、僕が担ぎます」
謁見の間が、しんと静まり返った。
隣で殿下が息を呑み、弾かれたように俺のほうを振り向いたのがわかった。
五つのあの日、大神殿の中庭で殿下が口にした夢を、俺は今、この国の大人たちの前でもう一度掲げてみせたのである。
長い沈黙を破ったのは、侯爵の乾いた笑い声だった。
「旗、ですか……九つの子が、大きく出ましたな」
侯爵はそう言いながら、老女の手から鍵を受け取った。
手のひらの上で古い鉄の重さを確かめるように何度か揺すってから、侯爵は口元の笑みをいっそう薄くした。
「南が、北の兵の命綱を握る、か。損のない話に首を振るほど、南は愚かではございませぬ」
鍵を懐へしまうと、侯爵は陛下に向かって形ばかりの一礼をした。
それから顔を上げ、もう一度だけ俺のほうへ目を向けた。
「旗のほうは……さて、何年保つものか。見せていただきましょう」
その目は卓の上の地図ではなく、俺の顔にじっと据えられていた。
陛下の御前で神官の魔法の事情をどこで知ったのかと問いを投げてきたあの日と、まったく同じ目である。
引いた糸の行き先はすべて見せたが、その糸を引いていた手のほうを、この侯爵はまだじっと見ているのだ。
そのとき、南の列の中ほどで、ひとりの老人が一歩前に出た。
「南の者として、申し上げます」
背筋をまっすぐに伸ばした老学匠の声は、学びの間で講義をするときと少しも変わらない、静かで丁寧な声だった。
「わたしも十六の年に、長城に立ちました。この家があればと思った夜を、ここにいる南の者で知らぬ者はおりますまい」
南の列の大人たちが、そっと目を伏せた。
十六の年に湾を渡り、北の砦で寒い夜を過ごしたことのない者など、その列にはひとりもいないのである。
「北のご嫡男は、南の涙を一度も口になさいませんでした。わたしの申し上げた三つには、すべてお答えいただきました」
老学匠はそれだけ言うと、もう一度静かに列へ戻った。
お約束はできませぬと言って学びの間の扉を閉めた老人は、約束の代わりに、南の者として立ってくれたのである。
次に進み出たのは、ベルトラン子爵だった。
日に焼けた大きな手を胸に当てた子爵の後ろで、ルシオが唇を固く結んで父の背中を見上げている。
「わたしの上の息子は、今、長城におります。ベルトランの港は、船を出しましょう」
その言葉を皮切りに、南の列のあちこちから、我が領の港も、我が領の麦もと声が上がり始めた。
いちばん奥の椅子で、陛下がゆっくりと立ち上がった。
「神殿と南、そしてカルカ。三つとも、頷いたな」
陛下は謁見の間を見渡してから、神官団長のほうへ向き直った。
「王家から神殿へ、正式に請おう。癒やしの家を、もう一度建ててはもらえぬか」
「神殿は、謹んでお請けいたします」
神官団長が深々と頭を下げ、その隣で帳簿の老女も静かに腰を折った。
写しの束を胸に抱えたままのケラルトが、俺のほうを見て薄い笑みをほんの少しだけ深くした。
王城の学びの間で陛下から出されたあの宿題に、こうしてようやく答えが出たのである。
「トーレス伯の嫡男」
陛下に名を呼ばれて、俺は慌てて背筋を伸ばした。
「今日は、藁束の上から降りてきたな」
聖騎士団の模擬戦で藁束の山から一歩も降りなかったわけを、初めて目通りした日の陛下は俺に尋ねたのだ。
高いところが好きなのでと答えたあの日の苦しい言い訳を、陛下はちゃんと覚えておいでだったらしい。
「……前のほうが、よく見えましたので」
陛下は一瞬目を丸くすると、謁見の間の天井が震えるほどの声で笑い出した。
ところが、つられて笑うはずの廷臣たちのあいだからは、笑い声の代わりに妙なざわめきが広がっていった。
そこで俺はようやく、居並ぶ大人たちの目に自分がどう映っているのかに気がついた。
地図を広げた卓の前で、俺は侯爵の問いに答えるために進み出たままの王女殿下と、肩を並べて立っていたのである。
宮廷では王女殿下の隣に並ぶこと自体が、どの家がどこに立とうとしているのかを示す表明になる。
九つの俺が口にした前のほうとは、居並ぶ大人たちの耳には、どうやら殿下の隣のことに聞こえたらしい。
陛下の傍らでは、白髪の侍従の老人がそっと胃のあたりに手を当てていた。
「カルカさまが行くなら、わたしも行くからな! 扉の前は、わたしの持ち場だ!」
扉の前の上司が木剣を立てたまま、謁見の間じゅうに響く声でそう宣言した。
カルカさまが行く話だったからだろうか、今日に限って上司は、窓の外の鳩ではなく話のほうをちゃんと聞いていたらしい。
閑話
その日の夕刻、南部出身の老学匠は、誰もいなくなった学びの間の窓辺にひとりで立っていた。
窓の外では王都の屋根が夕陽に赤く染まり、そのずっと向こうで、湾の水面がかすかに光っている。
あの湾を初めて船で渡ったのは、もう半世紀も前の春のことだった。
十六の年、同じ南の村から一緒に湾を渡った幼なじみがいた。
北の砦で脚に深い傷を負ったその男は、手当ての順番を待つあいだずっと、大したことはないと笑い続けていた。
神官の手がようやく回ってくる前の晩、幼なじみは笑った顔のまま冷たくなっていた。
故郷の母親のもとに届いたのは、北の砦で死んだという短い知らせが一枚きりだった。
我が子がどんな夜を過ごし、どんな顔で死んでいったのかを、あの母親は最後まで知らずに逝った。
務めを終えて南へ帰った老学匠もまた、それを伝えに行くことがとうとうできなかったのである。
長城の兵の傷は北の貴族と神殿の務めだと、老学匠はかつて北の伯爵家の子供に言った。
それは南の見方をまっとうに述べたものであると同時に、南の子を預かりながら看取りもしなかった北への、半世紀分の恨みでもあった。
王家の姫君が戦場の真似事をするのを南の者は望まないと言ったのも、本物の戦場の夜を知っていたからにほかならない。
今日、老学匠が頷いたのは、あの筋書きが南の面目を立て、南の子を救い、南の財布を満たすものだったからだ。
けれど本当に老学匠の背中を押したのは、北の子が最後まで南の涙を一度も口にしなかったことだった。
あの子供は南の痛みを南の口に語らせ、己の算盤だけを卓の上に晒しきってから、最後に王女殿下の旗を掲げてみせたのだ。
南の口を借りることも、己の口で南を頷かせることも、あの子供にはできるのである。
そしてその子供は、あと数年もすれば王女殿下の隣に立つにふさわしい年になる。
今日、殿下と肩を並べて卓の前に立ったあの子を、南の諸侯がどんな目で見ていたのかも、老学匠にはよくわかっていた。
九つは、すぐに十五になる。
いつか王城の執務室で侍従の老人が陛下に申し上げたのと同じ言葉を、それとは知らずに、老学匠は南の側から胸の内で呟いた。
頼もしさと恐ろしさが、ちょうど半分ずつ、老いた胸の内に同居していた。
老学匠は窓の向こうの湾をもう一度見つめてから、白い髭をひと撫でした。
「溝は、埋まらぬ……だが、橋が一本、かかった」
癒やしの家の門が開かれたのは、それから一年ほどのち、俺たちが十になった年のことだった。
カリンシャの町の、二百年前に神殿が癒やしの家を置いたその跡地に、白い石を積んだ新しい家が建てられたのである。
門の上には王家の紋ではなく神殿の名が掲げられていて、それを見上げる神官たちの誰もが、どこか誇らしげな顔をしていた。
開所の日の朝、南の港から湾を渡ってきた麦と包帯の布が、荷馬車の列になって門をくぐった。
荷馬車の列の先頭では、父親と馬を並べたルシオが、少しだけ緊張した顔でまっすぐ前を見つめていた。
晴れた日に向こう岸を眺めるばかりだった港の子は、自分の港の船で湾を渡ってきたのである。
家の奥の帳簿の机では、八つになったケラルトが新しい名簿の最初の頁を開いていた。
帳簿の老女から帳簿係の見習いを任されたのだと、ケラルトは数日前に少しだけ得意そうに教えてくれたものである。
羽根筆の先がまず記したのは、湾の南の岸にある小さな村の名前だった。
「南の名前が、のりました」
ケラルトはそう言って、まだインクの乾いていない頁を俺のほうへ向けた。
二百年前の三十年ぶんの名簿には、ひとつも見当たらなかった名前である。
その日の昼過ぎ、最初の負傷兵が運び込まれてきた。
長城の務めの途中で腕を斬られた南の若い兵で、担架の上で身を起こすと、出迎えた癒やし手に向かって晴れやかな笑みを浮かべてみせた。
「大したことは、ございません。かすり傷で……」
「ここでは、泣いていいのよ」
飾り気のない癒やし手の衣をまとった殿下が、兵士の手をそっと握ってそう言った。
目の前の癒やし手が王女殿下だと気づいた兵士が目を白黒させる間もなく、扉の前から威勢のいい声が飛んできた。
「痛いなら痛いって言えー! ここではそういう決まりだ!」
扉の脇では今日も上司が木剣を立てて仁王立ちになっていて、その隣では護衛として付いてきたグスターボが、早くも胃のあたりに手を当てていた。
兵士の晴れやかな笑みがくしゃりと崩れ、押し殺していた声が嗚咽になって溢れ出す。
殿下の手のひらに柔らかな緑色の光が灯り、〈軽傷治癒(ライト・ヒーリング)〉の温もりが兵士の傷をゆっくりと塞いでいった。
俺はその光景を、家の物見台の上から見下ろしていた。
奥では殿下と神官たちが手当てを回し、扉の前では上司が守りに立ち、帳簿の机ではケラルトが人と物の出入りを記している。
門の外では港から届いた荷が次々と下ろされていて、回復役に盾役、帳簿係に補給係がそれぞれの持ち場についたその眺めは、ギルドの仲間たちと組んだあの頃のパーティに少しだけ似ていた。
誰も涙を隠さなくていい家を組んだ当の本人が、今もいくつもの札を伏せたまま物見台の上に立っているのだから、皮肉な話である。
その札を表に返せる日がいつ来るのかは、今の俺にもまだわからなかった。
「モモン! 手が足りないの、降りてきて!」
物見台の下から殿下に呼ばれて、俺は苦笑しながら梯子に手をかけた。
藁束の上からも物見台の上からも、どうやら俺は降りてこいと言われる運命にあるらしい。
それから二年のあいだに、癒やしの家の名簿は北と南の名前で次々に埋まっていった。
長城の務めを終えたルシオの兄は、徴兵の船の帰りの便で、無事に南の港へ帰っていった。
ボディポ侯爵は毎年、預けられた鍵を手に帳簿を検めにやって来ては、文句をつけるところを見つけられないまま、なんとも言えない顔で帰っていくらしい。
殿下は季節ごとに当番の帳簿に名を連ね、そのたびに使える位階をひとつずつ上げていった。
倒れないくらい強くなるという殿下の言葉は、癒やしの家の中で少しずつ本当になりつつあったのである。
俺はといえば、稽古場で剣と指揮を磨きながら、夜ごとひそかに魔法の稽古も続けていた。
武技はあいかわらず、取っ手に指はかかっているのにどうしても回らない扉のままで、レベルを測る方法もまだ見つかってはいない。
十二の年、俺は上司と二人そろって聖騎士に叙されることになった。
従者の務めを経ずに十二で叙任を受けるのは、聖騎士団の長い歴史でも例のないことだという。
叙任の儀は、大神殿の礼拝堂で執り行われた。
四大神の像の前で聖騎士の剣を握り、その刃に聖なる力を宿して見せるのが、儀式の締めくくりの段である。
悪しきものを討つ力がその身にあることを、四大神の御前で示すのだという。
元アンデッドの俺の手に、聖なる光など灯るはずがない。
そもそも三十五しかない器を、対悪の職業などに割くつもりは最初からなかった。
光が灯らなかったときのために、緊張で手が震えてしまったという言い訳まで、俺はちゃんと用意していたのである。
儀式を執り行うのは、五つの祝福の儀で俺の額に手をかざした、あの高位の神官だった。
四大神の御名において、と始まる祈りの言葉とともに差し出された剣の柄を、俺は覚悟を決めて握った。
その瞬間、刃に淡い白い光が灯った。
柄から伝わってくるのは、五つの祝福の儀で額に感じたのと同じ、春の陽だまりのような温もりだった。
俺は笑顔を顔に貼りつけたまま、内心で青ざめていた。
ユグドラシルの仕様で考えるなら、聖なる力を振るえるということは、対悪の職業がひとつ身についたということになる。
三十五しかない器のどこかが、俺の知らないうちに一枠、勝手に埋まってしまったのではないか。
その光がどこから来たのかを俺が正しく知るのは、まだずっと先のことになる。
隣では、上司の剣が礼拝堂じゅうを照らすほど眩しく燃え上がっていた。
「見たか! わたしの家来も光ったぞ!」
今日からはもう同じ聖騎士だというのに、上司の中で俺はいつまでも家来のままらしい。
参列者の列からは、子守役から同じ団の先達になったグスターボが、胃のあたりに手を当てながら歩み寄ってきた。
「……これからは、同じ団の者として、胃を痛めることになりますな」
参列者の最前列では、殿下が何も言わずに俺の剣の光を見つめていた。
五つの祝福の儀で光に怯える俺に気づき、〈軽傷治癒〉の光に身構えた俺の腕の震えを見逃さなかった殿下である。
その殿下は光を灯した俺の手を見ても何ひとつ問わず、ただ静かに、陽だまりのように笑っただけだった。
王女殿下の婿には、トーレス伯のご嫡男がよいのではないか。
そんな噂が宮廷を巡り始めたのは、叙任の儀からまもなくのことだった。
南を頷かせた北の伯爵家の嫡男で、殿下とともに癒やしの家を建てた相手で、しかも十二で聖騎士に叙された男なのだから、口さがない宮廷の噂好きたちが放っておくはずもない。
噂が広まるにつれて、ボディポ侯爵をはじめとする南の大人たちの目が、日に日に冷たく光るのがわかった。
九つのあの日、殿下と肩を並べて卓の前に立った俺を見ていた目と、それはまったく同じ色をしていた。
もっとも噂というものには尾ひれがつくのが常で、婿候補のくせに聖騎士の家の娘とばかりべったりだという声まで、いつしか聞こえてくるようになった。
毎朝夜明けに鎧戸へ小石を投げてくる上司と、昼は稽古場で並び、殿下が当番に立つ季節には二人そろって癒やしの家の扉の前を守っているのだから、そう見えても無理はないのかもしれない。
「べったりじゃない! 家来が主人のそばにいるのは当たり前だ!」
上司が王城の回廊でそう言い放ってくれたおかげで、噂はむしろひと回り大きくなった。
赴任の命が届いたのは、十三の歳を迎えてまもなくのことだった。
召し出しの書状を読み上げたあの朝と同じ白髪の侍従の老人が、今度は王家の封蝋を押した命令書を携えて、トーレス家の屋敷の門をくぐったのである。
表向きの理由は、若い聖騎士に実戦の経験を積ませるためというものだった。
任地は長城の砦のひとつで、王都からも、父の持ち場からも遠く離れている。
命令書の文面よりもずっと多くのことが、侍従の老人の顔には書いてあった。
宮廷を巡る噂を立ち消えにさせるには、噂の当人を王都から遠ざけるのがいちばん早い。
それは殿下のためであり、南との綱引きのためであり、そしておそらくは俺のためでもある、陛下なりの守り方なのだろう。
「謹んでお受けいたします」
「……モモン殿。わたくしめは、胃が痛うございます」
侍従の老人はそう言って、命令書を渡したその手をそのまま胃のあたりに当てた。
発つ前の晩、俺は殿下に誘われて王城の露台に出ていた。
九つのあの日、お客さまをやめましょうと話したのと同じ露台である。
十三になった殿下は、金色の髪を夜風に揺らしながら、しばらく黙って王都の灯りを眺めていた。
「いってらっしゃい、モモン」
殿下はそれから、いつかと同じように少しだけ背伸びをして、俺の顔を覗き込んだ。
「いつか、の約束、忘れないでね」
「……はい。いつか」
四年前と同じ頼りない答えにも、殿下は陽だまりのように笑って頷いてくれた。
伏せたままの札を、俺は結局この露台の上でも、一枚も表に返すことができなかった。
翌朝、まだ夜も明けきらないうちに、部屋の鎧戸に小石の当たる音がした。
五つの冬に王都へ移ってきたあの朝から、八年のあいだほとんど途切れることのなかった夜明けの小石である。
門の前では、聖騎士の鎧をまとった上司が、腕を組んで仁王立ちになっていた。
カルカさまが行くところならどこへだってついていくと誓った上司は、殿下の護衛として王都に残る。
その誓いが、今日は俺と上司を分けるのである。
「お前がいなくなったら、誰がわたしの悪いところを言うんだ!」
上司は怒ったようにそう言ったが、その声はいつもより少しだけ上ずっていた。
俺は少し考えてから、六つの春に初めて口にしたのと同じ指摘を返した。
「右の肩が、少しだけ先に上がっています」
「わかった、夕方までに……」
いつもの答えを言いかけて、上司ははっとしたように口をつぐんだ。
夕方になっても、直した肩を見せに行く先の家来は、もう王都にいないのだ。
「……次に会うときまでに、直しておく!」
上司の背中から半歩だけ離れたところでは、十一になったケラルトが紙の束を胸に抱えて立っていた。
もう誰の背中にも隠れなくなった小さな案内役は、俺の前まで歩いてくると、その束を両手で差し出した。
「任地の砦のこと、神殿の帳簿に書いてありました。写しておきました」
「ありがとうございます、ケラルト」
「案内料は、まだとっておきます」
ケラルトはそう言って、いつもの薄い笑みをほんの少しだけ深くした。
答えたくなければ答えなくていいが、うそだけはだめという約束つきの札を、この子はまだ使わずに握っているのである。
東へ延びる街道を、俺は馬の背に揺られて進んでいった。
しばらく道連れになった荷馬車の御者は、俺の任地の名を聞くなり、気の毒そうに顔をしかめた。
「あそこの隊長さまは、部下がどれだけ困っていても指一本動かさないってんで、長城じゃ有名なお方でさあ」
白い空間で入力したあの一文が、頭の奥でゆっくりと蘇ってくる。
まったく助けてくれない腹の立つ上司の指示を受けて働いていると、俺は確かにそう入力したのだ。
いちばん大事な場面では家来の前に立ってくれる上司という例外を挟んで、運営かもしくは神は、どうやらその一文を本来の形できっちり守ってくるつもりらしい。
「……まったく、運営め」
「へい? 何か言いなすったかね」
「いいえ。今日は空が赤いなと思っただけです」
夕暮れの街道の先で、長城の方角の空だけが、ひと足早く夜の色に沈み始めていた。
これにて第一部は完了です。
第二部は聖王国王都と3人娘から離れ、長城での日々や、王国の御前試合前の時系列を利用した、一介の傭兵だったガゼフとの出会いや、いい意味でのライバル関係の構築などを描く予定でしたが、モチベの低下によりすぐには着手できる気がしません。
すいませんが、少々時間をいただきます。