ヴェントスを出てから五日と少し。
馬に乗った二人は平野部を抜け、北へ向かう山道を進んでいた。最初こそ街道も整備されていたが、北に進むにつれて人の姿が少なくなり、獣道のような道を進んでいた
やがて馬車や人々の往来も途絶え、視界を埋めるのは深い森林と険しい山脈ばかりであった。冷え込む山道を進む馬の蹄音が、静まり返った森林に乾いたリズムを刻む。
「………本当に………こっちであっているんですか?」
メルは不安そうに地図と睨めっこしていた。
事実として、エンマの地勢的にはベリア神聖王国やガレル王国から来た方が早い。
「合ってるよ、ただエンマまで行く人が少ないだけだよ」
「だからってここまでの獣道を突き進みますか?」
「エンマはそういうところだからね」
「本当に皇国なんですか?」
「一応、皇国内だよ。地図を見ればわかるけど、この大陸は山が多い環境なんだ。昔は人が山越えやトンネルと掘るなんてことはしなかった。だから、地図を編纂するときに、山の手前側。つまり、大部分が皇国の領土に入っていたエンマは皇国の街という扱いになるんだ」
「すごい………なんというか、大雑把なんですね」
「そう言うな、昔の考えなんてそんなもんさ。それに、昔の人からすれば、これほどわかりやすい目安である山があれば、そういう風に範囲を決めるさ」
メルの持つ地図を指差しながら、アルムは簡単に説明する。
アルム自身もエルド大陸内での国境を作る時はそこに住んでいた人たちの意見も取り入れつつ、目印になる場所で区切って境を決めた。だから、昔の人たちが山脈を目印にして境を作った気持ちがなんとなくわかる。そうした方が速く済み、尚且つ住民同士が離れ離れになることを極力防ぐことができる。
それが良かったのかはわからない。不満が溜まっているのか、いないのか。それを推しはかることはアルムには出来なかった。
「でも、今なら山を越えたり、トンネルを掘ったりして行き来することはできますよね」
「そうだな。確かに、この大陸には魔法がある。それを使えば、行き来は簡単だろう。けれど、できるようになったからといって。今更、国境を変えるわけにはいかないだろう。4大国からすれば、自分の身を削るようなものだ。そう簡単にはいかないことだ」
「………それはそうですけど。それにしても、寒いですね。まだ山の下なのに。さっきまでの暖かさが嘘みたいです」
「ここから、もっと標高は上がるからね。防寒の準備はしっかりしているとはいえ、気をつけてね」
アルムの答えにメルは納得したような、してないような顔で、ふうと小さく息を吐き、かじかんだ手をこすし合わせながら手元の地図へと視線を戻した。
アルムはそんな彼女を横目に見ながら、手綱を引く。
見つめる目は子供の成長を見守ろうとしている親のそれであった。依怙贔屓と呼ばれても仕方ない。それほどまでにメルは戦場で拾った子供の中でも頭一つ抜けた才能を持っていた。事実、大抵のことは教えれば、頭で覚え、実践することができた。
その姿に彼はさる少女を重ねたのかも知れない。麒麟児、神童などと言われ続けた少女に。
だから、合わせたいのかも知れない。自分の悩みを間違いなく寄り添ってくれる存在は間違いなく、彼女にとって救いになることをアルムは信じている。
「それに、エンマは大陸内から見てもかなり特殊な場所だから」
「……特殊な場所ですか?」
「そうだ」
アルムは前方に目を向ける。木々の隙間から見えるのは、幾重にも連なる山々。その奥には、白く雪を被った峰が連なっている。
「皇都から遠く、ヴェントスからもっと遠い。ガレル王国やベリア神聖王国から向かった方が早い場所の方が多い。それでも、エンマは皇国の街として長く名を連ねている」
「どうしてですか?」
「一度、ここに来る前に教えたと思うけど。エンマは皇帝の静養地の一つでもある。そして、昔の戦争で当時の皇帝は都を追われた後はここに臨時の都をしたことがあったんだ。そのせいもあって、ここは皇国内でも皇帝の息がかかっている場所でもある」
「あー、それですか。地図上で見ても大きな領地を得ているんですね」
「そうだ」
「なら、もしかして臨時の都だった頃の建物とか、今も残っていたりするですか?」
メルはかじかんだ片手をコートのポケットに突っ込みつつ、手綱を握る。好奇心を隠しきれないと言った様子でアルムを見上げた。冷たい空気に晒された彼女の鼻の頭はわずかに赤くなっている。
「ーーーーそれはその。残っていない」
「あっ」
歯切れの悪いアルムに何かを察したメル。
それは5年前に遡ることになる。今は神烈の谷と呼ばれる場所に当時の都であった機構が置かれていたのだ。その機構は今、何もない。
「でも、あの後で地下に遺構が見つかっている。もしかしたら、あるのかも知れないね」
「オオー!!」
アルムの言葉に目を輝かせるメル。
それを見たアルムはまだまだ子供なんだなと笑みをこぼす。夢やロマンはいつまで、人が追いかけるための燃料だ。
「まぁ、夢を見るのは自由さ。それが人の特権。だが、それ以上に現実の寒さと険しさに備えておいた方がいい。これから本格的に雪渓に差し掛かる。馬の足元も滑りやすくなる。気合いを入れていこう」
「………はい!!」
メルは気を引き締めるように頷き、再び地図を折りたたみ、懐にしまうと手綱を握り直した。
二人の乗る馬は、冷え切った山気を切り裂くように、さらに標高の高い雪山に歩みを進めていく。険しい山脈の先にあるエンマ。皇帝の静養地であり、かつての歴史の影を宿す古い街。
「……あ、あれですか?」
メルの言葉に前方を仰ぐと、険しい山脈の中腹、幾重にも重なる木々の向こうに、もうもうと天へ向かって立ち上る白い湯煙が見えてきた。
温泉郷エンマ。
ベリア神聖王国やガレル王国からも近い山奥の僻地でありながら、豊富な温泉と雪深い斜面を利用したウィンタースポーツで知られる街。港街ヴェントスの喧騒とは打って変わって、そこにはどこか隔絶されたような静けさと、湯の香りが漂っていた。
「ああ、着いたみたいだね」
アルムが軽く息を吐き、馬の歩みを緩める。
街の入口へと差し掛かると、湯けむりの向こうから、旅人や数名の学生たちの楽しげな声が微かに聞こえてきた。大陸を覆う不穏な気配の片鱗はここにも影を落としているはずだが、少なくとも表面上は、山あいの温泉郷としての平穏な日常が保たれている。
「まずは、親父のところへ顔を出すとするか」
アルムがそう呟き、メルを伴ってエンマの街の石畳へと足を踏み入れたその時――。
「貴様ら、その程度かぁ!!!」
怒号が鳴り響いた。山に反響し、より大きく感じる声。
二人の乗っていた馬もその声に驚き、大きく首を振り、前足を浮かせた。
「どうどう」
慌てることなく手綱をひき、馬を落ち着かせる。
「この声は」
メルが小さく呟く。
「変わんないなぁ、あの人も」
馬の首筋を撫で、大人しくさせる。
「多分、先生だろうなぁ」
アルムは声のした方向に顔を向けた。
「この声が、アルム様の師匠なんですか?」
「あぁ、そうだよ。バドル・ウィル・アウェルト。僕が教わった槍術の師匠でもあり、数少ない信頼にたる人物」
「ーー信頼にたる人物」
アルムの言葉に少し驚きを隠さないメル。自身が王と仰ぐ少年がそこまで言い切る人物。
メルとしては、『見てみたい』。その一心だった。
そして、その人物はおそらく強い。常に見てきた少年が強いならば、その師匠である人物も強いはずだと。
「強いんですね?」
その顔には狂気が映し出されていた。
「強い。この国において、一、二を争う強さを誇る人物でもある」
「ーーーーッッ!!」
笑みがより一層深まる。
まるで、宝物を目の前にした冒険家のような喜色満面の笑み。
「まぁ、確かめてみればいいさ。あの人はちゃんと強い」
「……?」
メルが首を傾げた、その時だった。
「そこのお前ら、気が散る!!来るならこい!!」
再び、怒号が飛んでくる。
「……私たちのことですよね。だいぶ、離れていません?」
「そうだよ。師匠の感知範囲は随分とイカれていてね。エンマは当然として、ランペルまでは感知できている。今、メルから漏れたのを感じ取ったんだろうし、エンマに入った時点で僕たちの力量は計り切っているはずだよ」
馬を厩舎に留めて、二人は誘われるように道場に向かう。
その道中、アルムの口からでた説明にメルは言葉を失った。エンマとランペルの距離は五日は掛かるくらいには遠い距離感。その距離を網羅できるほどの魔力感知はメルはあの人物をのぞいて聞いたことがなく、初めてであった。
「バドルさんは、感知は自然とやっているのですか?」
「そうだね。あの人の場合、メルたちがやっている闘気と魔力の複合を独学で取得してる。ただし、オンオフが出来ないみたいでね。だからなのかはわからないけど、昔からイライラしている人だったよ」
アルムの口から溢れる言葉の数々にメルは驚きを隠さなかった。
この大陸にその極致に立っている人がいることは信じられなかった。闘気と魔力の複合という技術はあの戦乱の時代だからこそ、出来たものだと思い込んでいた。それを戦争というものから程遠くにあり、平和であるこの大陸、国でそこに至れること事態が。
アルムの言葉にメルの心にはより一層会いたい気持ちが強くなってくる。
そんな時であったーー
「ーーお前ら!!何をそこで突っ立っている!!」
三度、怒号が飛んできた。
「ひっ」
メルの肩が思わず跳ねる。
その動きにアルムは堪えきれずに吹き出した。
「あははっ!!驚くなよ」
「驚きますよ!!なんで、街の人たちは何も驚かないんですか」
「それは、もう馴染んだからじゃないかな。いつも、怒号が飛んでいる環境なら嫌でもなれるよ」
顔を赤く染めるメル。
街ゆく人々は先ほどの怒号は聞こえなかったのか、普段通りの生活をしていた。そんな人たちを横目に二人は道場に歩いていく。
街の入り口から少し歩き、エンマの外れにその道場はあった。
古ぼけた木々で作られた道場。その門の前に初老の男性が立っていた。槍を携え、門前に立つ姿はまるで門番のようであった。
「ーーあなたは、ベゼルの道場でバドル公爵で教わっていた方ですよね」
アルムにはその男の顔に見覚えがあった。12年前、アウェルト家の領地である都市ベゼルの道場で槍を教わっていた人物であったからだ。
「すみません、あなたは」
「申し訳ありません、僕の名前はアルム・アークリアと言います」
「ーーッッ」
アルムの名乗りに男の顔は曇る。
「そんな顔をしないでください。あの事件は防ぎようがなかった。それを悔やまないでください」
「ーー君はあいつらのせいで家族を失ったんだ」
カラン、と槍が手から滑り落ちる。両目からは滂沱の涙がこぼれ落ちる。それほどまでに、男性にとってアルムという少年は後悔の一つであった。
「全く師匠に似て、皆さんは後悔ばかりを口にするんですから……」
頬を膨らませるアルム。
ゼノンからも何度も聞かされている。アウェルト家直属の州兵はあの事件の後悔を何度もゼノンに語っていることを知っている。だからこそ、許せない。
「あの時、誰よりも守ろうとしてくれたあなたたちがあなたたちを侮辱していることが僕は許せない。ーー俺たちが憧れたのは、民に優しく、その背中で雄弁に語ってくれたあんた達なんだ」
それは、アルムの本音であった。
アウェルト家の州兵は身分関係なく重用されることが多かった。それは身分の低い出身であったアルムにとって目標の一つだった。
州兵に入ったとて、身分が上がることはない。だが、いい生き方ができる可能性が高い生き方の一つ。
「ーー子供は見ない間に大きくなるものなんだね」
「それが子供の特権だと思っています。さて、入りましょう」
「いいのですか、この人は門番なのでしょう?」
「構わないよ、どうせ門下生を見守っている人が欲しいしね」
アルムがそう言うとアルフィスは一瞬だけ目を丸くした。
「ーー相変わらずだな、君は」
「何がです?」
「人のことばかりを気にすることだよ。昔からそうだった。年上だろうが、同い年だろが、君の対応は常にそうだった。今なっては余計な波風を立てない生き方は君の生存本能だと思えるよ」
「それがあの時、一番生き残れると足りない頭で考えただけですよ。皇女殿下たちが気にかけてくださったことで、僕はあそこに立ち入ることができました。本来ならば、あんなところには入れない下賤な身。であれば、気にかけてくれた人たちに失礼のないように立ち回るのは当然のことでは?」
「ーーそうだったな」
男ーーアルフィスは目を細めた。
「君は、そういう人間だったな」
その言葉には、懐かしさと僅かな苦味が混じっていた。
かつてのアルムを知るものなら、今の姿を見て驚くだろう。あの頃の彼は、身分の違いを誰よりも理解していた。
自分が何者なのか。どこまで踏み込んでいいのか、誰に頭をさげ、誰に逆らっていけないのか。幼いながらもそれを嫌と言うほど理解していた。だが、それは決して卑屈さからくるものではなかった。
生き残るため、自分を見てくれた人たちに迷惑をかけないように必要だったからだ。
アルフィスはそれがわかっていた。
「君も大変だろう?」
不意にアルフィスの視線はアルムの肩越しへ向いた。
アルムがその視線に惹かれるように振り返る。
そこには、一歩引いた場所に立っているメルがいた。二人の会話を邪魔しないようにと、一歩下がっていた少女。
アルフィスは彼女をじっと見つめる。
銀色の髪。やや幼さが残る顔立ち。だが、その立ち方には隙がない。それ以上に血の濃厚な香り。
見た目通りの年齢だとしても、ここまでの佇まいを得られるものだろうかと。そして、何より目を惹かれるのは、腰に靡く少女の身の丈に迫る大太刀。
メルもまた、アルフィスの視線に気づいた。
「ーー大変ですよ。それでもだからこそ、支えたくなる人なんですよ?」
「ふふっ、そうか」
メルの答えに、アルフィスは少し微笑み、それ以上は何も言わなかった。
だが、どこか納得したように頷く。
「では、行こうか」
アルフィスはそう言い、道場の扉に手をかける。
少年にとっては12年ぶりの再会であった