拝啓 親愛なる世界へ
その未来が、希望と幸福にあふれたものであることを祈ります。
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第一章 進学先
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昔々、といっても、それほど遠くない昔のこと。
一人の恐ろしい闇の魔法使いがおりました。
彼は魔法界を恐怖で支配し、多くの魔法使いたちを苦しめました。その名を口にすることさえ恐れる者もいたほどです。人々は彼を、闇の帝王と呼びました。
誰も彼に逆らうことができず、魔法界は長い間、暗い闇に包まれていました。
けれど、ある夜のこと。
一九八一年のハロウィンの夜。
闇の帝王は、ゴドリックの谷にある一軒の家へ向かいました。
そこには、一組の夫婦と、まだ一歳あまりの幼い息子が暮らしていました。
息子の名は、ハリー・ポッター。
その夜、闇の帝王は夫婦の命を奪い、最後にハリーへ死の呪文を放ちました。
ところが、不思議なことが起こったのです。
呪文はハリーを殺すことができず、闇の帝王自身を襲いました。そして、あれほど恐れられていた闇の帝王は、忽然と姿を消したのです。
彼がどこへ行ったのか、誰にもわかりませんでした。
ただ、壊れた家の中には、小さな男の子が一人、生き残っていました。
彼の額には、稲妻の形をした傷が残されていました。
なぜハリーだけが生き残ったのでしょう。なぜ闇の帝王は消えたのでしょう。
その理由を、完全に説明できる者はいません。
けれど、確かなことが一つだけありました。
あの恐ろしい夜、闇の帝王が消え、ハリー・ポッターが生き残ったのです。
その知らせは、たちまち魔法界を駆け巡りました。
闇の帝王が消えた。あの闇の帝王が、いなくなった。
長いあいだ恐怖に震えていた人々は、ようやく希望を取り戻しました。人々は喜び、涙を流し、互いにその知らせを伝え合いました。
そして、ハリー・ポッターの名もまた、魔法界じゅうに広まっていきました。
死の呪文を生き延びた男の子。
闇の帝王が消えた夜に、ただ一人生き残った男の子。
やがて人々は、彼を生き残った男の子と呼ぶようになりました。
いったい、ハリーはどんな魔法使いになるのでしょう。
いつの日か、再び闇が訪れたとき、彼はどんな運命を歩むのでしょう。
それは、まだ誰にもわからない未来のお話です。
さて、今、ハリー・ポッターはどこにいるのでしょう。誰と暮らし、どんな日々を送っているのでしょう。
彼がどこで育ち、どんな少年になっていくのか。
それを知る者は、ほとんどおりません。
ただ一つ、魔法界の人々は忘れないでしょう。
あの恐ろしい夜に、闇の帝王の呪いを生き延びた、小さな男の子のことを。
生き残った男の子、ハリー・ポッターのことを。
おしまい。
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「馬鹿らしい。」
少女は読んでいた絵本を閉じると、サイドテーブルへ放り出すように置いた。
背もたれに身体を預け、ロッキングチェアをゆっくりと揺らす。
窓の向こうには、初夏の日差しを受けた庭が広がっていた。風に揺れる木々の葉が、きらきらと光を反射している。
少女の名は、アストリッド・エルヴィア・リンデル。
フランスに居を構え、古くから続く純血の名家として知られるリンデル家。その現当主の三番目の子どもにして、ただ1人の娘が彼女である。
先ほどまで読んでいたのは、イギリスの魔法界で子供たちに親しまれている絵本だった。
題材は、かつて魔法界を恐怖に陥れた闇の魔法使いの失踪。そして、彼の呪いを受けながらも生き残った少年の物語。
事実をもとにしていることは間違いない。
闇の帝王が消えたことは喜ばしいし、彼が多くの人々を苦しめたことも知っている。彼の支配が終わったことで救われた人々も、きっと大勢いるのだろう。
けれど。
「……どうして、ここまで大層な話になるのかしら。」
アスターは心底理解できないというように呟いた。
闇の帝王が消えた理由は、今もはっきりとはわかっていない。ハリー・ポッターが生き残った理由についても同じだ。
それなのに、少年は英雄として語られている。
もちろん、幼い子供が死の呪いを受けて生き残ったという事実は、珍しいどころの話ではない。だが、それと少年自身が何かを成し遂げたということは、別の話ではないだろうか。
彼はまだ一歳だったのだ。
何かを決断することも、誰かを救うことも、自分の意思で何かを成し遂げることもできなかったはずである。
それでも人々は、彼を英雄と呼ぶ。
彼が何をしたのか、彼自身にどんな力があったのか。それすら明らかになっていないというのに。
「……くだらない。」
小さく呟き、アスターは目を閉じた。
もっとも、彼女がそんな感想を抱いたところで、世間の評価が変わるわけでもない。ましてや、絵本の内容に文句をつけたところで、すでに英雄として扱われている少年の立場が変わるはずもなかった。
ならば、考えるだけ無駄だ。
アスターというのは、彼女の愛称である。
と言っても、家の外だけでこっそり使っている愛称なのだが。
それを最初に口にしたのは、イギリスで暮らしていた頃に出会った歳の近い少年だった。初めてそう呼ばれた時は少し驚いたけれど、今では気に入っている。もっとも、そう呼ぶ人はまだ多くない。
リンデル家の令嬢として生まれたアスターは、幼い頃から、家柄にふさわしい教育を受けてきた。礼儀作法も教養も立ち振る舞いも、純血名家の娘として恥ずかしくない程度には身についている。
ただし、だからといって、いつもおとなしく座っているような少女だったわけではない。
生まれつき魔力量が豊富だったアスターは、幼い頃、しばしば魔力を制御しきれずに暴走させていた。本人に悪気はなくとも、周囲が振り回されることは少なくなかった。
両親は周囲の目に縛られない環境でのびのびと過ごさせる方が良いと判断し、彼女が五歳の時からイギリスに住む叔父、エミールのもとへ彼女を預けた。
魔法生物学者であるエミールのもとで、アスターは家庭教師による高度な教育を受けながらも、イギリスの自然や魔法生物に触れ、興味を持ったことには自分から進んで取り組むようになった。
その結果、彼女は立派な令嬢でありながら、好奇心が旺盛で、じっとしていることをあまり好まない少女になったのである。
そんな彼女はつい先日、十一歳の誕生日を迎えた。
魔法族の子どもにとって、十一歳は大きな節目にあたる。魔法学校への入学案内が届くのだ。
あと三か月もしないうちに、アスターも魔法学校へ入学する。
問題は、その入学先がまだ決まっていないことだった。
リンデル家はフランスのボーバトン魔法アカデミーの理事会に名を連ねている。
祖母も両親も叔父もボーバトンの卒業生であり、二人の兄たちもまた、同校に進学していた。アスターも当然、同じ道を歩むはずだった。
実際、当初の予定では八月に叔父のもとを離れてフランスの本家に戻り、ボーバトンへの入学準備を整えることになっていたのである。
ところが、事態は思いもよらない方向へ動いた。
ホグワーツ魔法魔術学校から、入学の誘いが届いたのだ。
イギリスにある、あのホグワーツ。
アスターの祖父はイギリスで生まれ育ち、ホグワーツを卒業している。したがって、リンデル家とホグワーツにはまったく縁がないわけではない。
しかし、それならばなおさら、なぜ今になって、アスターにだけ声がかかったのか。
その理由がわからない。
ボーバトンとのつながりが深い家の娘であることは、ホグワーツ側も承知しているはずだ。にもかかわらず、わざわざ入学を誘ってきた。単なる学校側の厚意として片づけるには、どうにも不自然だった。
結果、アスターは当初の予定よりも早く、叔父の家から本家へ呼び戻されることになった。
そして現在、彼女の知らないところで、家族による話し合いが行われている。議題はもちろん、彼女の進学先についてだ。
「私のことなのに、どうして私が参加できないのかしら。」
先ほどから何度目になるかわからない疑問を口にする。
もっとも、答えはだいたい想像がついていた。
純血名家にとって、進学先は単なる教育の問題ではない。どの学校へ通うかによって、将来の人脈も変わる。家と学校との関係、ひいては魔法界における立場にも、少なからず影響があるだろう。
大人たちは、そうした事情を含めて話し合っているのだと思う。
けれど、それならばなおさら、本人の意見を聞くくらいはしてくれてもいいのではないか。
アスターはロッキングチェアを揺らしながら、小さく息を吐いた。
自分がホグワーツへ招かれた理由は、いまだにわからない。
学校側の意図も、家族が何を話し合っているのかも、彼女には知らされていなかった。
ただ一つ、気になることがあるとすれば。
次の学期、イギリスの魔法界で何かが起こるのではないか、ということだった。
そもそも、リンデル家は表立って動くことの少ない家である。古くから魔法界のさまざまな出来事を見てきた一方で、むやみに口を出さず、静かに成り行きを見守ることを選んできた。
そんな家が、わざわざ娘の進学先をめぐって慌ただしく動いている。
ただの学校選びではないのだろう。
ならば、ホグワーツへ入学することで、何が変わるというのか。
アスターは、先ほど閉じた絵本へ目を向けた。
ハリー・ポッター。
彼は一九八〇年生まれで、アスターもまた、同じ年に生まれている。
イギリスでは幼い子供向けの絵本になるほどの有名人。
闇の帝王がもたらした恐怖は、主にイギリスの魔法界を襲ったものだった。フランスに暮らす人々が、彼の存在をイギリスの人々と同じように恐れていたわけではない。
それでも、彼がどれほど恐ろしい魔法使いだったのか。そして、その消失にハリー・ポッターという少年が関わっていることは、フランスでも知られている。
だが、それがどうしたというのだろう。
ハリー・ポッターが特別な少年として扱われていることは理解できる。死の呪いを受けて生き残ったというのは、確かに不可解な出来事だ。
しかし、不可解であることと、本人が特別な何かを成し遂げたことは、やはり同じではない。
ましてや、謎に包まれた少年がこれから入学するというだけで、ホグワーツがアスターを招く理由になるとは思えなかった。
そもそも、彼が入学することは他の多くの新入生と同じく、学校にとって毎年ある出来事の一つにすぎないはずだ。少なくとも、アスターにはそう思えた。
「……駄目ね。考えても何もわからないわ。」
結局、振り出しに戻ってしまった。
窓から差し込む日差しは暖かく、椅子の揺れは心地よい。考え事をするには、少々眠気を誘いすぎる環境だった。
アスターはもう一度目を閉じた。
「アストリッド!」
突然、扉の向こうから声が飛んできた。
うとうとしかけていたアスターは肩を跳ねさせ、はっと目を開けた。
扉の向こうから、再び声がした。
「アストリッド!いるんだろう?」
「います。少しお待ちください、兄様。」
返事をしながら、アスターは姿勢を正した。
おそらく、進学先について何か決まったのだろう。
家族会議に参加させてもらえなかった以上、決定事項だけを知らされることになるのかもしれない。さて、どんな話が待っているのだろう。
そんなことを考えていると、待ちきれなかったらしい人物が、勢いよく扉を開けた。
部屋へ飛び込んできたのは三歳年上の兄、リュシアンだった。
明るい金髪を揺らしながら、彼はまっすぐアスターのもとへ駆け寄ってくる。
「リュシアン兄様?どうなさいました?」
「どうしたもこうしたもないんだ!信じられるかい、アストリッド。父上が君をホグワーツへ行かせるとおっしゃるんだ。」
「……そうですか。」
あまりにも勢いよく告げられた言葉に、アスターは一度瞬きをした。
なるほど。進学先は無事決まったらしい。
ホグワーツ。当初の予定とは違うけれど、少なくとも、これで学校選びについて悩む必要はなくなった。
「来学期からは一緒にボーバトンへ通えると思っていたのに……。」
リュシアンはそうこぼすと、アスターにぎゅっと抱きついた。
アスターはおとなしく兄の腕の中に収まりながらも、思わず眉を下げた。
兄が自分を大切にしてくれていることはよくわかっている。けれど、何かあるたびに抱きついてくるのはそろそろ控えてほしいお年頃なのだ。
そう思っていたところへ、もう一人の兄が姿を現した。
「おいリュシアン。走るなと何度言えばわかるんだ。……それと、アストリッドを潰す気か。」
落ち着いた声でたしなめたのは、長兄のアレクシスだった。
「だって、兄上!アストリッドをホグワーツへ行かせるなんて心配です!」
「そうだな。だがだからといって、走っていい理由にはならないだろう。」
「う……」
リュシアンは不満そうに唇を尖らせ、さらに強くアスターを抱きしめた。
「兄様、苦しいです。」
アスターがリュシアンの腕を軽く叩くと、リュシアンはようやくアスターを解放した。
アスターはほっと息をつき、アレクシスの方へ顔を向けた。
「アレクシス兄様、お仕事はよろしいんですか?」
「今日は休ませてもらったんだ。」
アレクシスは微笑むと、アスターを軽々と抱き上げた。
「兄様?」
驚くアスターを気にも留めず、そのままソファへ腰を下ろし当然のように彼女を膝の上へ座らせる。
リュシアンも自然と隣に腰掛けた。
幼い頃から、兄たちと集まるときは、こうして過ごすことが多かった。
アスターの定位置は兄の膝の上なのだ。
ただし、アスターはもう十一歳である。
兄の膝の上に座らされるのは、少々小さい子扱いされているようで不服だった。
……とはいえ、兄の腕の中は落ち着くし、居心地が良いのだ。
わざわざ抗議するほどでもないか、とアスターは考え直した。
「兄上、本当にアストリッドをホグワーツに入学させるんですか?」
「そうなるだろうな。父上やお祖父様は乗り気なようだから。母上は父上に合わせるとおっしゃっていた。お祖母様は渋っておられたが……。」
「そうなのですか?」
兄の言葉を聞き、アスターはついそう尋ねた。
「ああ。理由は特におっしゃっていなかったが、かなり心配しておられたよ。」
「そうですか……。」
「父上たちはまだ話し合うことがあるらしい。詳しいことは後でお話があるはずだから、心配せずとも大丈夫だよ。」
アレクシスはそう言うと、そっとアスターの頭を撫でる。
それをおとなしく受け入れながら、アスターは考え込んだ。
ホグワーツへ行くこと自体は、もう決定事項なのだろう。
けれど、なぜ自分をイギリスへ送りたいのか。
「一緒に学校に通いたかったのにな……。」
リュシアンの声はすっかり沈んでいた。
「去年までは兄上が一緒だったけれど、今年は僕一人で寂しかったんだ。アストリッドが入学するのをずっと楽しみにしていたんだよ?ホグワーツに行ってしまったら、なかなか会えなくなってしまうし……。」
その言葉に、アスターはじっと兄の顔を見上げた。
リュシアンは十四歳。反抗期に入ってもおかしくはない年頃だが、まだまだ家族と過ごす時間が好きだった。
家族の中でも特にアスターを可愛がり一緒に過ごす時間が長かった彼は、妹と同じ学校へ通える日を心待ちにしていたのだろう。
「長いお休みには会えるわ。今まで兄様が学校に通っていた間、二週間に一度はお手紙を送り合っていたでしょう?これからも続ければ、会えなくても寂しくないはずよ。」
「それはそうだけど……それとこれとは違うんだよ。」
アスターは思わず笑ってしまった。
リュシアンは納得がいかない様子で頬を膨らませたが、何か思い出したかのようにはっとしてアレクシスの方を向いた。
「兄上、ホグワーツに通うのなら、アストリッドはまた叔父上のところへ戻るのですか?」
「いや、叔父上のところには戻さず、本家で過ごさせると言っていた。」
「ああ、よかった!それなら今までよりも会いやすくなるね。」
リュシアンが満面の笑みを浮かべるのを見て、アスターは曖昧な笑みを浮かべた。
確かに、兄たちとは離れて叔父の元で暮らしていたものの、会えないわけではなかった。というより、通常よりも大分会いやすかったのだ。
本家と叔父のエミールが住むイギリスの家は、ポートキーによって結ばれている。
本来、国境を越える移動には魔法省の手続きが必要なのだが、双方の敷地内から出ないことを条件に、両家の間は自由に行き来できた。
アスターが叔父の元へ行くことが決まった時、父は家族が気軽に会えるようにしたいと考えて魔法省へ何度も働きかけた。多少強引に特例として認めさせたらしい。
そのおかげで、両親や祖父母は折に触れてアスターに会いに来てくれたし、兄たちも休暇の度にアスターに会うことができた。
「リュシアン。」
アレクシスが、弟の頭を軽く撫でた。
「決まったことをいつまでも嘆いていても仕方がないだろう。時間がもったいない。」
そう言ってから、彼はアスターの頭にも手を伸ばした。
優しく髪を撫でられ、アスターは目を細める。
アレクシスは今年十九歳になった。昔から弟や妹を気にかけることが多く、歳の離れた弟妹のことをずっと可愛がってきた。その落ち着いた態度に、アスターもリュシアンも、つい甘えてしまうのだ。
入学先に関しては正直なところ不安がある。けれど今は、答えの出ない疑問を考え続けるよりも、目の前の時間を楽しむ方が良さそうだ。
「兄様、私お庭に行きたいです。」
アスターが兄二人を見上げてそう言うと、リュシアンの表情がぱっと明るくなった。
「今すぐ行こう!」
即答するリュシアンに、アレクシスが苦笑しながら続けた。
「菩提樹の花が見頃のはずだ。しばらく遊んでから、木陰でお茶をしようか。」
アレクシスの提案を聞いて、アスターとリュシアンは目を輝かせた。