八幡の道   作:tomozow

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八幡が小学生から中学生までの話です。


八幡の道

第1章:小六の夕暮れ、色褪せた教室

放課後の教室に、からからと乾いた笑い声が響いていた。

「ねえ、これどうすんの? お前がやったんだろ」

雑然とした空気漂う窓際の席。グループの中心にいるクラスメイトたちが、ひとりの女子児童を取り囲んでいた。

川崎沙希。

まだあどけなさが残るものの、背が高く、もともと目つきが鋭いせいで、当時の彼女は周囲から勝手に「怖そう」と誤解され、孤立していた。手には、落書きされた自分の教科書が握られている。悔しさに唇を噛み締め、涙をこらえているその姿は、周囲が勝手に作り上げた「強い川崎」のイメージとはかけ離れた、ただの傷ついた一人の少女だった。

「……別に、私じゃない」

絞り出した声はかき消され、誰も助けには入らない。

そんな冷めた空気を、教室の隅の特等席からぼんやりと眺めている少年がいた。

比企谷八幡。

すでにひねくれた根性を持ち合わせ、学校では無駄に目立たないように壁を作っている。だが、目の前で展開されている陰湿な茶番劇が、純粋に視界の邪魔で不快だった。

(関わらないのが一番だ……)

そう思い直そうとした瞬間、男子の一人が川崎の筆箱を乱暴に引っ手繰り、床にばら撒いた。

「おい、これ……!」川崎の声に滲んだ涙を見た瞬間、八幡の中で何かが面倒くさい音を立てて外れた。

第2章:歪な救済と、冷酷な脅し

「――おい」

低い、どこか気だるげな声が教室に落ちた。

八幡は自分の机から、何の変哲もない予備のノートを無造作につかみ取ると、気だるげな足取りで連中のほうへ歩み寄る。

「いや、すまん。実況中継ご苦労様って感じなんだが……お前ら、いい加減にしろよ。そんなに暇なら校庭の石でも数えてこい。こっちはな、主人公が窮地に陥る最高のクライマックスシーンなんだよ。お前らの低クオリティなモブ的いじめのせいで、脳内再生が台無しだ」

「……は? なんだこいつ、気味悪っ……」

さらに別の日、暴力がエスカレートした際にも、八幡は無言でその男子をねじ伏せ、冷え切った瞳で言い放った。

「よく聞け。……次、同じ真似をしてみろ。今度はその腕の骨を、一本残らず綺麗に折り砕いてやる。中学生になっても同じことしてたら、今後の人生で握力が二度と戻らねえようにしてやってもいい。……警察沙汰? 少年院? 上等だ、お前らの人生をぶっ壊すくらい、俺のちっぽけなプライドと引き換えなら安いもんだ」

ハッタリか本気か分からない狂気に気圧され、加害者たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。

第3章:胸の鼓動と、変わらない背中

静まり返った教室。

床に崩れ落ちたまま、川崎は自分の胸元をぎゅっと片手で掴んでいた。

トクン、トクン、と――。小さな胸の奥で、心臓がうるさいほどに脈打っている。恐怖だけでなく、彼が自分のために狂気を纏ってくれたという事実が、胸の奥を激しくかき乱していた。

そんな彼女をよそに、八幡は荒れていた呼吸を整えると、いつもの「死んだ魚のような目」へと表情を戻す。

――さて、これ以上いたら少女の面倒くさい涙やらに巻き込まれかねない。

八幡は相変わらず片手をポケットに突っ込んだまま、クルリと背中を向けた。

「じゃ」

それだけを投げやりにつぶやき、いつものように頭の上でひらひらと適当に手を振る。

「あっ……!」

川崎が声をかけようとした時には、八幡の背中はすでに教室の扉の向こうへ消えかけていた。

パタンと響く扉の音を聞きながら、川崎は自分の胸に当てた手にぐっと力を込め、赤く染まった顔を両膝の間にうずめた。

第4章:小学校卒業。離れたくないと告げる日

そして、小学校の卒業式の日。

まだ少しぶかぶかしさの残る制服――あるいは真新しい中学校の制服の採寸を控えた春の日、校舎の裏手の、人目のつかない場所。

川崎沙希は小さな拳をぎゅっと握りしめ、目の前に立つ一人の少年に視線を落としていた。

小学校の終わりに出会い、ずっとその背中を目で追っていた。彼とは進む中学が違う。今日で、この場所からあの背中が遠ざかってしまう。

「……ねえ、比企谷」

川崎の声は、ランドセルを背負っていた頃よりも少しだけ大人びていたが、今はわずかに震えていた。

「んだよ、卒業式だぞ、もうちょっと晴れやかな顔しろよ。中学生になってもどうせ同じ市内だろ」

八幡が誤魔化すように目を逸らすと、川崎はまっすぐに彼の目を捉えた。その潤んだ瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。

「……そういうことじゃない……!」

川崎は一歩距離を詰め、震える声を絞り出した。

「離れたくない……っ! お前と、離れるのが、嫌だ……!」

ずっと胸の奥に閉じ込めていた想いが、あふれ出す涙と共に零れ落ちた。

予想外の言葉に、八幡の思考が数秒間停止した。目の前の少女の真剣すぎる涙を前にして、ふざけた台詞など一言も出てこなかった。

(……まったく、本当に、どうしようもない奴だ)

八幡は小さく息を吐き出すと、これ以上ないほど不器用に、けれどどこまでも真摯な優しさをその顔に浮かべた。

彼は自分のポケットから、子どもっぽいデザインの携帯電話(ガラケーやキッズケータイ)を取り出し、画面に自分の番号を表示させたまま、川崎の目の前につきだした。

「……泣くなよ。離れ離れになるわけじゃない」

低い、けれどどこまでも優しい声が、春の風に乗って届く。

「俺は、どこにいたって変わらない。……お前が困ったとき、声を聞かせてくれたら、俺はいつだってどこからでも飛んでくるから」

「……番号、入れろよ。中学生になっても、寂しくなったら、いつでも連絡してこい。愚痴でもなんでも、付き合ってやるから」

差し出された画面に、川崎は震える手を伸ばし、その番号を自分の端末へと必死に打ち込んだ。

画面に光る十桁の数字。それは彼女にとって、この世界で何よりも価値のある、たったひとつの宝物になった。

スマホを胸に引き寄せ、川崎は涙を拭いながら、わずかに、しかし鮮やかに笑った。

「……うん。絶対、連絡するから……!」

その笑顔を見たとき、八幡は照れくさそうに頭を掻き、いつものように背中を向けた。

「じゃあな。……また、すぐ会えるだろ」

振り返りもせず、いつものように頭の上でひらひらと手を振って歩き出す八幡の背中。

川崎はその背中に向かって、もう迷うことなく、はっきりと「またね」と告げた。

胸の奥で暴れていたあの日の熱は、いつしか言葉にできない名前を持っていた。

不器用な救済から始まった物語の果てに、彼女がようやく見つけたその感情を、川崎沙希はしっかりと胸に抱きしめていた。――それが、恋だと知ったのは、少し照れくさそうに歩く彼の背中を見送った、まさにその瞬間だった。

 

第1章:別々の中学、それぞれの日常

比企谷八幡が通う中学校には、雪ノ下雪乃がいた。

容姿端麗で、何をしてもしっかりと結果を出してしまう雪乃は、その圧倒的な美しさと妥協のない姿勢ゆえに、クラスで孤立していた。直接的な暴力こそないものの、冷ややかな視線や聞こえよがしな陰口という見えないイジメが彼女の周囲を囲んでいる。

ある日の放課後。

窓際の席で、雪乃が一人静かに本を開いているそのすぐ近くで、女子グループがわざとらしく嫌味を呟き、彼女の教科書を床に落とした。拾わせようという陰湿な悪意だった。

雪乃はわずかに眉をひそめ、自分で拾おうと手を伸ばす。――その直前。

ガタッ、と大きな音がした。

斜め後ろの席。

授業が終わった途端に机に突っ伏していたはずの比企谷八幡が、ものすごく面倒くさそうな顔をして頭をもたげた。

そして、あくびを噛みしながら自分の足元に転がってきた消しゴムを拾うふりをして、すっと身を乗り出す。

「おい、そこ。通路塞いでるぞ」

ボソッと低い声が響く。

「……は? なんだよ、比企谷」

女子が気まずそうに声を荒げると、八幡は椅子を盛大にきしませながら立ち上がり、雪乃の落とした教科書の横に歩いていって、それを自分の足で無造作に踏みつけた。

「あ、すまん。足元見えなくて。……それよりさ、お前らいい加減にその不毛な暇つぶしやめたらどうだ? 見てるこっちが頭痛くなりそうなんだが」

「……なっ、気持ち悪……行こ、あんな奴関わるとめんどくさ……」

相手をするのが面倒になったのか、グループは悪態をつきながら去っていった。

床に落ちた教科書を拾い上げようとした雪乃の手と、それを拾って無造作に差し出そうとした八幡の手が、ほんの一瞬だけ重なる。

「……私を助けようとしたわけではないのでしょうね」

「は? なわけないだろ。お前らがそこでモゾモゾされてると邪魔なんだよ。勘違いするな」

ぶっきらぼうにそう言い捨て、八幡は自分の席へと戻っていった。

第2章:離れていても、消えない記憶

同じ頃、八幡とは別の中学校に通う川崎沙希は、自分の学校の放課後の教室で一人、教科書をめくっていた。

彼女の通う中学でも、相変わらず「怖そう」「近づきにくい」という周囲の勝手な偏見から、孤立しがちではあった。けれど、かつて小学校の卒業式の日にあのひねくれた少年にもらった言葉が、今の彼女の支えになっていた。

(……私、ちゃんとやってるよ)

ポケットの中で、あのとき教えてもらった十桁の番号が入力された携帯電話を、そっと指先で確かめる。

あの日、「困ったとき、声を聞かせてくれたら、いつだってどこからでも飛んでくるから」と言ってくれた彼の優しい嘘と、不器用な背中。別々の学校になって、普段はなかなか会えなくても、彼にもらったその数字があるだけで、不思議と胸の奥の怖さは消えていった。

いつか本当にどうしようもなくなったとき、あの番号に連絡してしまうかもしれない。

そんな甘えと、密かな恋心を胸に抱きながら、川崎は夕暮れの空を見上げ、遠く離れた場所にいるはずの八幡の姿をふと想うのだった。

 

第1章:カメラのレンズ越しの現実

放課後の薄暗い教室。

掃除用具入れの陰や、人気のないロッカーの裏で、雪ノ下雪乃に対する嫌がらせは、ついに陰口や持ち物を隠すレベルを超え始めていた。机に汚い落書きをされ、教科書や私物がゴミ箱に捨てられる。それを、クラスの生徒たちは見て見ぬふりをするか、あるいは面白がるようにスマホの画面を向けていた。

雪ノ下は気丈に振る舞い、一言も弱音を吐かなかった。だが、その孤高な背中が細かく震えていることを、教室の隅の席からすべて見ている男がいた。

比企谷八幡だ。

彼はいつものように机に突っ伏したまま、制服の胸ポケットに忍ばせたスマートフォンのカメラ機能を起動させていた。レンズの先には、雪ノ下に意地悪な笑みを向けながら取り囲むクラスメイトたちの姿が、鮮明に映し出されている。

(……見えないふり、聞こえないふり。それがこの世界の最適解で、波風を立てないための大人の知恵ってやつだろ)

頭の中で、冷めた理性が警告を鳴らす。

これ以上関われば、自分まで面倒な標的にされるかもしれない。見て見ぬふりをしておけば、いつもの日常に戻る。

だが、画面越しに映る、笑いながら理不尽を押し付ける連中の顔と、孤立しながらも絶対に屈まいとする雪ノ下の横顔を見た瞬間、八幡の中で何かが静かに、決定的に冷め切った。

「……胸くそ悪い」

誰にも聞こえない呟きを残すと、八幡はそっとスマホの録画を停止し、保存ボタンを押した。

第2章:職員室のカウンター

チャイムが鳴り響き、放課後の職員室。

その一角にある国語科の教卓に、比企谷八幡は気だるげな足取りで歩み寄った。そこに座っていたのは、クラスの担任教師だった。

「……なんだ、比企谷か。進路の相談か?」

教師は面倒くさそうにペンを置き、やれやれといった顔で八幡を見上げる。日頃から生徒に関心を持たず、教室で起きているいじめやトラブルにも「気づかないふり」を貫いている典型的な事なかれ主義の男だった。

八幡は言葉を発する代わりに、自分のスマートフォンを取り出し、職員室のカウンターにコトンと置いた。画面には、ついさっき教室で撮影されたばかりの、生々しいイジメの動画が再生されている。

「なんだこれ……」

教師の顔色が変わった。動画に映る生徒たちの顔と、陰湿な行為の数々が、紛れもない証拠としてそこにあった。

「見ての通り、学級崩壊のミニチュア版ってやつです」

八幡は冷めきった、死んだ魚のような目で担任を見据えた。声のトーンは低いが、鉛のように重かった。

「お前、これ……どこで……」

「どこでだろうとどうでもいいだろ。大事なのは、この学校の『教育者』であるあんたが、これを今まで知らなかった――いや、知ろうとしなかったって事実だ」

担任が冷や汗を流しながら口を開きかける。

「いや、これは、その……見落としていて……」

「見落としてるレベルじゃねえよ」

八幡は教師の言葉を遮り、さらに一歩、教卓へと身を乗り出した。その瞳に宿る冷酷な光に、大人の男であるはずの担任が思わずたじろぐ。

「いい加減、知らないふりはやめろよ。大人が保身のために目をつむっている間に、教室の空気がどれだけ腐り切ってるか、少しは自覚したらどうだ? 次にまた同じような現場を見かけたら、俺はこの動画を親にでも、あるいはもっと上の教育委員会にでも、いつでもどこにでもばら撒いてやる」

脅しだった。生徒が教師に対して放つには、あまりにも歪で、あまりにも重い最後通告。

「わかった……! すぐに事実確認をして、指導を入れるから、その動画は……」

担任が慌ててスマホを抑えようとするが、八幡は冷ややかにそれをスワイプして自分のポケットにしまい込んだ。

「信頼できるもんなら、最初からやってくれよ」

それだけを言い捨てると、八幡は背中を向け、二度と振り返ることなく職員室を出て行った。

第3章:遠く離れた場所での気配

職員室での一件から数日後。

学校全体の空気がぴりつくと同時に、雪ノ下に対する露骨な嫌がらせは、担任の指導と水面下のプレッシャーによってピタリと収まった。誰もが「急に先生が厳しくなった」と噂するだけで、誰がそれを仕組んだのかを知る者はいない。

同じ頃、別の中学校に通う川崎沙希は、自分の部屋のベッドの上でスマホをじっと見つめていた。

(……比企谷、くん、今頃どうしてるんだろ)

普段は学校のことで手一杯で、なかなか連絡を入れる勇気が出ない。けれど、ふとした瞬間にあの日の言葉――「困ったとき、声を聞かせてくれたら、いつだってどこからでも飛んでくるから」という声を思い出す。

ポケットの中で震えることはないスマホをぎゅっと握りしめながら、川崎は胸の奥でひそかに呟いた。

「……私も、負けないから」

彼がどこかで誰かを守るために、ひねくれた優しさを発揮しているかもしれないと想像しながら、彼女は明日へ向かうための覚悟を、そっと胸の奥に灯すのだった。

 

第1章:犯人捜しの教室

担任の介入によってイジメが突如として収まった直後、教室の空気は奇妙な澱みに包まれていた。

これまで好き勝手に振る舞っていたグループの生徒たちにしてみれば、急に教師から呼び出され、厳重注意を受けたのは寝耳にミスだった。

「……一体、誰がチクったんだよ」

放課前のホームルーム前、クラスの一角で不満げな声が漏れる。誰が教師に密告したのか、犯人捜しが始まっていた。

その疑いの矛先は、自然とクラスで孤立している一人の少女――雪ノ下雪乃へと向けられた。

グループの中心にいた男子が、不敵な笑みを浮かべながら雪ノ下の席へと近づくおいおいと詰め寄る。

「おい、雪ノ下。お前だよな? 先生に余計なこと吹き込んだの。自分が被害者ぶって、陰でコソコソ教師にチクるなんていいご身分だな!」

周囲の生徒たちも同調するように、冷ややかな視線や嘲笑を雪ノ下に向ける。誰もが、彼女が犯人に違いないと思い込んでいた。

雪ノ下はわずかに眉をひそめ、冷ややかな瞳でその男子を睨み返した。

「……証拠もないのに、勝手な妄言を口にするのはおやめなさい。私にはそんな暇な趣味はないわ」

「とぼけんなよ! お前以外にこんなことする奴がい――」

男子が苛立ちに任せて雪ノ下の机をドンと強く叩いたその瞬間。

「――うるせえな」

気だるげで、底冷えするような声が教室の空気を切り裂いた。

窓際の席。いつものように机に突っ伏していた比企谷八幡が、面倒くさそうに頭をもたげた。

第2章:俺がやった

八幡は椅子を軋ませながらゆっくりと立ち上がると、そのままフラフラと雪ノ下の席のほうへと歩いていった。

その死んだ魚のような目は、目の前の男子ではなく、教室全体を冷たく見据えていた。

「……なんだよ比企谷、関係ねえだろ」

男子が警戒するように身構える。

八幡は雪ノ下の前を少しだけ遮るように立ち、ぼそっと言い放った。

「犯人探しご苦労様って感じだが……残念だったな、そいつじゃない」

「は? じゃあ誰が……」

「俺だ。文句あるか?」

教室の空気が、一瞬で凍りついた。

どよめきすら起きない。あまりにも唐突で、しかし妙に納得感のある言葉に、生徒たちはただ目を見開くしかなかった。

「お、お前が……? なんでだよ……!」

「なんでって……」八幡は呆れたように息を吐き、ポケットに片手を突っ込んだ。「お前らのやっている低脳で幼稚な茶番劇が、俺の平穏な学校生活の視界に入ってきて実に不快だったからだよ。証拠の動画なら、ついさっき職員室の担任のジジイに綺麗にプレゼントしてやったところだ。感謝しろよ、お前らの愚行がこれ以上公になる前に、俺が手打ちにしてやったんだからな」

「てめっ……! ふざけんな、お前が勝手に……!」

男子が逆上し、胸倉を掴みかかろうと一歩踏み出した。

第3章:骨を折られる覚悟

その瞬間、八幡の瞳から一切の感情が消え失せた。

かつて川崎を救ったときに見せた、あの狂気すら孕んだ冷酷な眼光が、目の前の男子を射抜く。

「よく聞け。……文句がある奴は、今すぐ俺の目の前に来い。……ただ、その代わり覚悟していけよ。次に同じような陰湿な真似をしたときも、今日みたいに教師にチクるだけで済むと思うな。今度は、その腕の骨を、一本残らず綺麗に折り砕いてやる。学校生活どころか、今後の人生で二度とまともにペンが握れねえようにしてやってもいい。……警察沙汰? 少年院? 上等だ、お前らの人生をぶっ壊すくらい、俺のちっぽけなプライドと引き換えなら安いもんだ」

ハッタリか本気か、その境界線が完全に消え去った低い脅し。

それは、自分を犠牲にしてでも相手を完膚なきまでに叩き潰す、八幡特有の歪んだ自己防衛と自己犠牲の混合物だった。

男子の足が、恐怖でピタリと止まった。

冷や汗が頬を伝い、誰もがその場から一歩も動けなくなる。教室中が、息を呑む音すら聞こえないほどの完全な沈黙に支配された。

誰も、何も言えない。言い返すことすら、恐怖心が許さなかった。

しばらくの沈黙の後、八幡は冷ややかに鼻を鳴らすと、掴みかかろうとしていた男子の肩を軽く払った。

「……話は終わりか? じゃあ、自分の席に戻って大人しく予習でもしてろ。脳みそまで筋肉にするなよ」

それだけを言い捨てると、八幡は背中を向け、フラフラと自分の席へと戻っていった。

誰も彼の背中に声をかける者はいない。

第4章:授業の始まり

自分の席に戻った八幡は、再び机に突っ伏そうと体を預けた。

斜め後ろの席から、雪ノ下雪乃が複雑な、しかしどこか震えるような瞳で彼の背中を見つめている視線に気づきながらも、あえて無視する。

(やれやれ……これでまた校内での俺の好感度が底辺を突破したわけだが、まあ実害はないだろ……)

心の中でそう言い訳しながら目を閉じようとした、その時。

カツ、カツ、カツ――。

廊下から響いてきた乾いた足音が、重苦しい教室の空気を無理やり引き剥がした。

ガラリと引き戸が開き、教科書を抱えた担任教師が、いつもより少しだけ背筋を伸ばした表情で入ってくる。

「……そこ、席につけ。ホームルームを始めるぞ」

教師の声に合わせて、生徒たちは慌ただしく自分の席へと戻り、ガタガタと椅子を引く音が響いた。

誰もが先ほどの恐怖を引きずったまま、教科書を開く。

チャイムが鳴り響き、何食わぬ顔で新しい授業が始まった。

ざわめきのない静寂に包まれた教室のなかで、ただ一冊の教科書を開く音だけが、静かに響いていた。

 

放課後、人目の少ない旧校舎の裏手。

そのコンクリートの壁際に、比企谷八幡はドンと荒々しく押し付けられていた。

「おい、比企谷ってのはてめぇかよ」

低く威圧的な声が響く。取り囲むのは3人。見覚えのある顔だった。先日、教室で動画の一件で完膚なきまでに叩きのめし、沈黙させた男子の兄とその友人たちである。揃いも揃って、中学の制服を着崩した典型的な不良たちだった。クラスの弟から「学校で変な奴に脅された」と泣きつかれ、面白半分と面子潰しの報復にやってきたのだろう。

「……何の用だ。部活の勧誘なら、運動部は無理だぞ。運動神経が死んでるんでね」

八幡は冷めた魚のような目のまま、わざとふざけた口調で返した。ポケットに突っ込んだ片手の拳にだけ、わずかに力がこもる。

「ふざけやがって……! うちの弟に、よくもまぁ大口叩いてくれたな。警察だの骨を折るだの、随分いい度胸じゃねえか。ガキが生意気な真似してんじゃねえよ!」

リーダー格の兄貴分が、忌々しそうに吐き捨てる。

囲まれた3人の距離が、じりじりと縮まっていく。逃げ道はない。相手は3人で、体格もスポーツ崩れのそいつらの方が圧倒的に上だ。まともにやり合えば、一方的に痛めつけられるのは目に見えている。

(……やれやれ。やっぱり、正論とハッタリだけじゃ世の中回りきらねえか。面倒くさいことこの上ないな……)

八幡が内心でため息をついた瞬間。

「死ねよ!」

威勢のいい怒鳴り声とともに、正面から強烈な右ストレートが飛んできた。

避ける間もなく、鈍い衝撃が頬を抉る。視界が大きく揺れ、口の中に鉄の味が広がった。アスファルトの地面に足がもつれ、八幡はバランスを崩してよろめいた。

――一発、もらった。

痛みで頭の芯が熱くなる。だが、その瞬間、八幡の冷酷なまでに冷めきった頭脳がパチリと音を立てて切り替わった。

(……よし。これで、言い訳の条件は揃った)

「おら、どうしたよビビってんのかぁ?」

調子に乗った不良が、さらに笑いながら踏み込んできた。再び掴みかかろうと、無防備に両手を伸ばしてくる。

その瞬間。

八幡は倒れかけた姿勢から一転して踏み込み、襲いかかってきた男の腕を両手で掴み取った。自衛のための「実力行使」。一発殴られたという明確な被害事実をベースにした、法的な意味での――正当防衛の形が成立した。

「なっ……!?」

男が驚愕の声を上げた時には、すでに手遅れだった。

八幡は相手の体重と自身の勢いをそのまま利用し、関節のきわを完全にロックして、えげつない角度へと捻り上げた。

「ぐああっ!?」

鈍い、乾いた音が旧校舎の壁際に響いた。

人間の身体の構造を無視した方向へ、腕の関節が不自然に折れ曲がる。男は絶叫しながら、そのままその場に崩れ落ちて白目を剥いた。

「おい……! なんだこいつ……っ!」

残りの2人が青ざめ、恐怖に満ちた目で一歩引いた。そこに映っていたのは、怯えた後輩ではなく、狂気的なまでの冷徹さを湛えた怪物だった。

八幡は返り血の代わりに冷や汗を拭いもしず、その冷え切った視線を残りの2人に向けた。低い、地を這うような声が漏れる。

「……そっちから手を出してきたんだ。防衛ってのは法律で認められた正当な権利だろ。……おい、次に来るのはどいつだ? あと二本、綺麗に折り砕いてやろうか」

ハッタリではない。先ほど教室で放った言葉が、現実の暴力として目の前で証明された瞬間だった。

「化け物……!」

2人は転がり回る仲間を放置し、蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げながら逃げ出していった。

静まり返ったコンクリートの壁際。

一人残された八幡は、ヒリヒリと痛む頬を片手で押さえながら、荒い息をそっと吐き出した。

(……はぁ、いてぇ。最悪の気分だ……)

自虐的にそう呟きながら、彼は自分のポケットに手を入れたまま、夕暮れのなかを一人でとぼとぼと歩き出すのだった。

 

旧校舎の裏手。不良たちが逃げ去り、静けさが戻ったコンクリートの壁際。

その少し離れた物陰から、すべての光景を息を殺して見つめていた人物がいた。

雪ノ下雪乃だった。

彼女は震える両手で口元を覆い、自分のせいで八幡があんな暴力に巻き込まれ、怪我を負わされたという現実を目の当たりにして絶望していた。血の滲んだ頬で痛みに耐える八幡の姿が、胸を鋭く突き刺す。

(私のせいで……。私が余計なことで目をつけられたから、彼がこんな目に……)

罪悪感と自己嫌悪が、雪乃の心を押し潰していく。彼女は自分の存在そのものが、周囲に害をなしているのだと本気で思い詰めていた。

翌日。

放課後の誰もいない教室。雪乃は、一人で机に向かっていた。

そこに、頬に痛々しい絆創膏を貼った比企谷八幡が、相変わらず気だるげな足取りで通りかかる。雪乃は慌てて立ち上がり、震える声を絞り出した。

「……比企谷くん」

八幡は足を止め、面倒くさそうに振り返る。

「……んだよ。職員室の呼び出しならさっき済ませたぞ。正当防衛が認められて説教だけで済んだから、お前の心配は要らな――」

「違うわ……!」

雪乃の声が、教室の空気を震わせた。彼女は真っ直ぐに八幡を見据え、こらえきれなかった涙をその瞳に浮かべたまま、深く頭を下げた。

「ごめんなさい……! 私の、私のせいで、あなたがあんな人たちに殴られて……怪我をして……。私に関わったばかりに、あなたをこんな危険な目に……本当に、ごめんなさい……!」

震えるその謝罪を聞きながら、八幡はしばし黙り込んでいた。

彼の心にあったのは、自己犠牲に対する酔狂でも、恩着せがましい優しさでもない。ただ、「目の前で理不尽に折られそうになっている人間がいたから、反射的に動いた」という、それだけの至極単純な動機だった。

だからこそ、彼女がそんなふうに自分のせいにして泣くことが、何よりも鬱陶しく、そして少しだけ痛々しかった。

八幡は小さく息を吐き出すと、ポリポリと頭を掻きながら、ぶっきらぼうに言った。

「……お前、相変わらず自意識過剰だな」

「え……」雪乃がはっとして顔を上げる。

八幡は彼女の目を真っ直ぐに見据え、一切の濁りや迷いのない、極めて淡々としたトーンで言い放った。

「お前は悪くない。……だから、謝る必要なんてどこにもないだろ」

ただそれだけを伝えると、八幡はもうこれ以上言葉を重ねるまいと、背中を向けた。

「ちょっ、比企谷くん……!」

引き止める雪乃の声を無視して、八幡はいつものようにポケットに片手を突っ込み、頭の上でひらひらと適当に手を振るだけで、その場から歩き去っていく。

残された教室で、雪乃はその背中を見つめながら、とめどなく溢れる涙を拭うことも忘れていた。

胸の奥で、氷のように冷たかった何かが、彼の放った不器用な否定によって、音を立てて溶かされていくのを感じていた。

 

夕方の帰宅ラッシュ。

ガタンゴトンと鈍い音を立てて走る満員電車の車内は、乗客たちの熱気と殺伐とした空気で満ちていた。

乗客同士が押し合いへし合いする中、雪ノ下雪乃はドア付近のつり革に捕まり、息を潜めるようにして揺られていた。

周囲の人間との距離が近すぎる閉塞感に、彼女は微かに眉をひそめ、居心地の悪さに耐えていた。

その時――。

背後から、不自然な気配が近づいてきた。

混雑に紛れるように、背後の男が雪乃の背中や腰のあたりへ、いやらしい手つきで触れてくる。

「っ……!」

背筋が凍るような悪寒と、言い知れない恐怖が雪乃の全身を駆け巡った。

声を上げようと喉を開こうとしたが、満員の喧噪と恐怖で声が出ない。男はさらに図に乗り、執拗にまとわりついてくる。助けを求めようと周囲を見渡しても、誰もが自分のことで精一杯で、誰も彼女の異変に気づいていない。

(誰か……誰か……!)

心の中で絶望の涙が滲みかけたその瞬間。

「――おい」

周囲のざわめきを切り裂くような、冷え切った、低い声がすぐ背後から落ちた。

男の動きがピタリと止まる。

振り返る間もなく、ガッ、と凄まじい力で男の腕が背後から掴み上げられた。

「なっ、んだおまっ……ぐあっ!?」

比企谷八幡だった。

彼は混雑を縫うようにして雪乃のすぐ後ろに割り込んでいた。その死んだ魚のような目は、獲物を捉えた猛禽類のように冷酷で、一切の感情が抜け落ちていた。

八幡は言葉を発する代わりに、男の腕の関節を容赦なく締め上げ、車両の壁へとねじ伏せるように叩きつけた。

「いててっ! 離せよ、なんだお前、急にっ!」

「痴漢が人の車両で何をやっている。……次の駅で降りろ。警察署まで直行して、お前のその汚い人生を一度リセットしてやるから」

ハッタリと本気が混ざり合った低い脅し文句に、男は顔面を蒼白にし、恐怖に引きつった顔で「わかった、降るから、離せ……!」と喚き散らした。

ちょうど次の駅に電車が滑り込み、ドアが開いた瞬間、八幡は男の襟首を掴んでホームへと放り投げた。

車内が再びガタゴトと走り出す。

電車の揺れとともに、周囲の喧噪が戻ってきたが、雪乃はその場に崩れ落ちるように膝を折っていた。

恐怖と、極度の緊張の糸が切れた瞬間、堪えていたものが一気に決壊する。

震える両手で顔を覆い、雪乃の目からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。気丈に振る舞ってきた彼女が、こんなにも無様に、子供のように泣きじゃくるのは初めてだった。

(怖かった……本当に、怖かった……)

車内の視線が集まる中、どうしていいか分からず震える雪乃の前に、一足のすり減ったスニーカーが歩み寄ってきた。

しゃがみ込む気配。

顔を上げると、そこには頬にまだあの日の絆ophag(絆創膏)を貼ったままの比企谷八幡がいた。

いつものひねくれた気だるさはどこへ行ったのか。

八幡は不器用な手つきで、しかしこの上なく優しく、震える雪乃の頭にそっと手を伸ばした。

そして、乱れた黒髪を、まるで壊れ物に触れるように、優しく、何度も何度も撫で下ろした。

「……もう、大丈夫だ。何も心配いらない」

いつもよりずっと低く、けれど温かいその声が、雪乃の耳に直接染み込んでいく。

「ぐすっ……比企谷、くん……っ」

「泣くなよ。……お前は何も悪くないんだからさ」

八幡に頭を撫でられながら、雪乃は彼の制服の袖をぎゅっと掴み、その場で声を殺して泣き続けた。

冷え切っていた世界で、この不器用で優しすぎる少年だけが、自分のすべてを受け止めてくれる――そう確信した瞬間だった。

 

 

――しかし、世の中の「正義」や「法律」というものは、案外ひねくれた人間の味方をしてはくれないらしい。

数日後、職員室。

八幡は担任から告げられた処分を、どこか冷めた顔で聞いていた。

「……というわけで、正当防衛の域を超えた過剰防衛、および暴力行為とみなされ、君には3日間の自宅謹慎の処分が下された。……いいか、どんな理由があろうと暴力は――」

担任の説教など、八幡の右耳から左耳へと綺麗に通り抜けていくだけだった。

(……まあ、そうなるわな。不良の腕をバキッとやった時点で、言い訳が通るほど世の中甘くはねえか。自業自得ってやつだな)

処分を受け入れた八幡は、やれやれと頭を掻きながら職員室をあとにした。

3日間の謹慎。つまり、学校に来なくていいという最高にパラダイスな休日……のはずだったが、なぜか彼の胸のうちは妙にモヤモヤしていた。

(――なんか、最近の俺、優しすぎやしないか?)

自分の行動を振り返り、八幡は激しい自己嫌悪に駆られていた。

いじめを告発したり、不良を半端にボコったり、泣いている女子の頭をなでたり。……おいおい、それのどこが「孤高のぼっち」だ。完全にただのトラブルメーカーか、あるいは余計なお世話を焼きまくるお人好しの偽善者じゃないか。これでは周囲から「あいつ、実はいい奴なんじゃね?」とか勘違いされかねない。そんな評価、彼の理想とする青春像(というかぼっちライフ)から最も遠い恥辱の産物だった。

「このままじゃいかん。……もっと、こう、人に怖がられるような『悪人』のオーラを纏わねえと」

己のなかの歪んだ危機感を察知した八幡は、謹慎期間の3日間をフルに使って、とある大改革を敢行した。

そして、3日間の自宅謹慎が明け、登校日の朝。

総武中学校の門をくぐってきた生徒たちが、一斉に足を止め、ぎょっとした顔で道を開けた。

そこに立っていたのは――本当に同一人物かと目を疑うような、「変貌を遂げた」比企谷八幡だった。

トレードマークだったボサボサの黒髪は、薬品の匂いが漂ってきそうなほど鮮やかな「銀髪のブリーチ」に変わり、気だるげに垂れていた前髪は無理やりアップバング風にセットされている。さらに、左耳の耳たぶには、ギラリと光る安物のシルバーピアスが痛々しく装着されていた。

「な、なんだあいつ……?」「比企谷……だよな?」「すげえ、不良に絡まれて頭おかしくなったんじゃね……」

周囲の生徒たちがひそひそと囁き合う。

しかし、肝心の八幡本人は、その新しい(そして似合っていない)不良スタイルに内心冷や汗をかきまくっていた。

(うっ……頭皮がヒリヒリする……! ブリーチ液ってこんなにしみるのかよ……! あとピアス痛ぇ! 金属アレルギー出たらどうすんだこれ……!)

外見だけを無理やりヤンキー仕様に仕立て上げたものの、中身の「死んだ魚のような目」と猫背は一切変わっていないため、かえって「無理してグレてみた隠キャ」感が爆発しているという悲惨な状態だった。

それでも、本人は「これで少しは周りも俺に近づかなくなるだろ……フッ、完璧な作戦だ」と、心の中で必死に自分を正当化していた。

ガラリ、と教室の引き戸を開け、銀髪を揺らしながら八幡が入ってくる。

その異様な姿を目の当たりにした瞬間、教室中の視線が一点に集中した。

その中に、自分の席に座っていた雪ノ下雪乃の姿もあった。

彼女は絶句し、パチパチと瞬きを繰り返したあと、信じられないものを見るような目で、目の前に立つ銀髪・ピアスの奇抜な少年に固まった――。

 

教室の戸口に突っ立ったまま、銀髪を揺らす比企谷八幡。

本人は「これで少しは周囲に怖がられるはずだ」とドヤ顔(のつもり)で立っていたが、実際には「無理してイキった結果、かえって痛々しい陰キャ」という、目も当てられない仕上がりになっていた。

周囲の生徒たちがどよめき、呆れや恐怖の入り混じった視線を送る中――自分の席に座っていた雪ノ下雪乃の心臓は、まったく別の理由で激しく跳ね上がっていた。

(……え……?)

雪乃はペンを持ったまま、完全に固まっていた。

いつもはボサボサの黒髪に、どこか投げやりな目をしていた彼が、突然の銀髪とピアスという変化を引っ提げて現れたのだ。客観的に見れば「どうしたんだあの人」という奇抜な身なりなのだが、彼女の脳内では別のフィルターが強烈に作動していた。

――端正に整った顔立ちの奥にある、あの冷めた眼差し。それが、シルバーの輝きや、少しやんちゃに見える銀髪のフレームに縁取られたことで、彼女が密かに好む「美少年然とした退廃的な雰囲気」に奇跡的に(あるいは悪夢的に)合致してしまっていた。

(な、なにを……急にそんな……)

もちろん、頭では「似合っていない」「明らかに無理をしている」「痛々しい」と冷静なツッコミが次々と湧き上がってくる。だが、直前まで電車の中で優しく頭を撫でてくれた彼の温もりと、自分のために過剰防衛で謹慎処分まで受けてしまったという背景が相まって、雪乃のなかでその姿が妙に劇的で、抗いがたいものとして映ってしまっていた。

トクン、と。

自分の意思とは裏腹に、胸の奥で高鳴る鼓動の音に、雪乃は慌てて視線をそらした。

頬がカッと熱を帯びるのを必死に抑えようと、彼女は下を向き、持っていた教科書をぎゅっと両手で握りしめる。

(落ち着きなさい、雪ノ下雪乃……! あんなの、ただ頭のネジが数本外れて奇行に走っているだけの痛い少年よ……! 決して、その、悪くはない、なんて……思っていないわよ……っ!)

必死に心の中で自己暗示をかけるが、耳たぶまで赤く染まっているのを自分でも隠しきれない。

ちらりと視線を戻すと、八幡は「ふん、どうだ参ったか」と言わんばかりに不気味な(本人は威圧しているつもりの)笑みを浮かべながら、自分の席へとぞろぞろ歩いていくところだった。

(……ばか……そんな格好をして……周囲に余計な誤解を招くだけじゃない……)

恥ずかしさと、言いようのない胸のときめきがごちゃ混ぜになり、雪乃は机に突っ伏したい衝動を必死に堪えながら、ブルブルと肩を震わせるのだった。

 

銀髪にピアスという、本人にとっては「完全無欠の孤立を維持するための防衛策(実際はただの痛々しい奇行)」を施して登校するようになってから、数日が過ぎた。

その効果は、八幡の予想を遥かに超える形で表れていた。

以前はクラスの連中が面白半分でちょっかいを出してきたり、何かと面倒な絡まれ方をしたりしていたのだが、今の彼に近づこうとする者は誰一人いなくなった。廊下ですれ違う生徒たちは蜘蛛の子を散らすようにスッと道を開け、視線が合えば恐怖心からか慌てて目を逸らす。

「……ふっ、大成功だな」

窓際の席で、八幡は心の中で満足の笑みを浮かべていた。

誰にも話しかけられず、無駄な人間関係に煩わされることもない。これこそが、彼が長年追い求めていた「完全なるぼっちライフ」の理想郷だった。孤立無援。完全なぼっち。周囲からは「関わってはいけないヤバい奴」というレッテルを貼られ、クラスの輪から完全に切り離されたが、八幡にとっては最高に居心地の良い空間だった。

周囲がどう思おうと、彼は一向に気にしていなかった。元から友達などいないし、必要ともしていない。孤独こそが彼の最強の鎧だったからだ。

――だが、その「孤立」を、どうしても気に病んでしまう人間が近くにいた。

斜め後ろの席。

雪ノ下雪乃は、教科書に向かうふりをしながら、窓際で一人ぽつんと座る八幡の背中を、何度も盗み見ていた。

(……一体、どうしてあんな格好を……)

あの日の突然のイメチェン以来、八幡の周りには誰も近寄らなくなった。かつては彼にちょっかいを出す者もいたが、今の彼はまるで触れてはいけない劇薬のように、完全に孤立しきっている。

周囲の生徒たちが彼を奇異な目で見て、陰口を叩いているのを聞くたびに、雪乃の胸はチクリと痛んだ。

(違うわ……彼は、ただ……)

あの人があんな風に見た目を変えたのは、きっと自分のせいだ。あのとき過剰防衛で謹慎になり、自分を庇ったせいで変な噂を立てられ、周囲から身を守るために、あんな不器用な方法で「悪人」を演じているのではないか――。

雪乃の頭の中で、罪悪感と、彼に対する言いようのない愛おしさが混ざり合い、複雑な渦を巻いていた。

彼が孤立しているのは、自分が招いた結果なのだとしたら。

彼が一人で周囲の冷たい視線や孤独を耐え忍んでいるのだとしたら。

(私ばかりが、彼の優しさに甘えて……。彼を、こんな風に孤立させていいわけがないわ……)

授業中、黒板の文字をノートに書き写す手を止め、雪乃はぎゅっとペンを握りしめた。

周りの目を気にして孤立を貫く八幡と、彼のその不器用な優しさに気づいてしまい、一人で胸を痛める雪乃。二人の間の「孤立」の意味は、皮肉にも全く違った色を帯びて、教室の冷たい空気に溶け込んでいくのだった。

 

放課後の静まり返った教室。

誰もいなくなった窓際で、比企谷八幡は気だるげに机に突っ伏していた。銀髪のブリーチが伸びかけ、耳たぶのピアスが鬱陶しく光っている。相変わらず周囲からは腫れ物のように扱われ、完全無欠のぼっちライフを謳歌(自称)しているはずだった。

「……おい」

不意に、目の上から降ってきた冷ややかな、けれどどこか緊張を孕んだ声。

顔を上げると、そこには雪ノ下雪乃が立っていた。彼女は両手で小さなラッピングされた箱をしっかりと抱え、なぜか微かに身体を震わせている。

「んだよ。銀髪の不良に用か? カツアゲなら生憎持ち合わせは――」

「バカなことを言わないでちょうだい」

八幡の軽口を遮るように、雪乃はコトンと音を立てて、その小さな箱を八幡の机の上に置いた。

リボンの結ばれた、上品で手作りの温かみが感じられるパッケージ。

「これ……なに?」

「見てわからないかしら。クッキーよ」

「クッキー……?」

八幡が怪訝そうに眉をひそめると、雪乃はわずかに視線を泳がせ、頬をピンク色に染めながら早口でまくし立てた。

「き、勘違いしないでよね! 別にあなたのために焼いてきたわけじゃないんだから! その……先日の件でお世話になったことに対する、クラスメイトとしての、あくまで『礼儀』の一環よ。恩を着せられたままなのは気分が悪いの。だから、ただの借り腹返しよ、借り腹返し!」

(いや、借り腹返しってなんだよ、お礼の言い間違えがひどいな……)

八幡は呆れつつも、目の前にある手作りの品と、やけに慌てふためいている雪乃の様子を交互に見た。

普段の彼女なら、もっと理路整然と、冷徹なまでの正論で淡々とものを言うはずだ。それがどうだ。耳の先まで真っ赤に染め、目を泳がせ、あからさまに挙動不審になっている。

チクリ、と八幡のなかで、いつもの悪い癖――穿った思考回路が動き出した。

(……待てよ?)

周りから完全に孤立している自分に対し、わざわざ手作りの菓子を渡しにくる。しかも、こんなに分かりやすく動揺している。

この状況、このトーン、この赤面。

これまでの数々のイベント――過剰防衛、頭ナデナデ、そしてこの差し入れ。

……ひょっとして。

八幡はゆっくりと上体を起こし、ジトッとした死んだ魚の目で雪乃をじっと見据えた。

「……なぁ、雪ノ下」

「な、なに……よ」

「お前……」

八幡はわざとらしく低く、じっとりと尋ねた。

「もしかして……俺のことが好きなのか?」

――瞬間。

教室の空気が、完全に凍りついた。

雪乃の動きが、糸の切れた人形のようにピタリと止まる。

そして、次の瞬間。

「はっ……!? な、なななな――何をバカなことをっ……!!!」

雪乃の顔面が、沸騰したヤカンのように一気に真っ赤に染まり上がった。

あまりの衝撃と羞恥心に、彼女の美しい黒髪が逆立ちそうなほどの勢いで震える。

「な、なな、何を勘違いしているのよこの阿呆が! 誰が! 誰があなたのことをそんな……! 自意識過剰も大概にしなさいよ! 宇宙の広さを思い知れこの自意識モンスターが!」

「いや、そんなに慌てて否定しなくても……。顔が真っ赤だぞ、茹でダコみたいだ」

「うるさい! 赤くないわよ! これは室温のせいよ、暖房が効きすぎているのよ!」

「この時期に暖房ついてねえよ」

「うるさいうるさいうるさい――っ!!」

雪乃は羞恥と怒りに耐えかねて、持っていたバッグをバシッと自分の膝に抱え込み、逃げるようにその場でくるりと背中を向けた。

「い、今の発言はすべて忘れることね! クッキーは! クッキーはちゃんと食べなさいよ! じゃあ失礼するわ!」

二度と顔を見られないと言わばかりに、雪乃はパタパタとものすごい勢いで教室から駆け出していった。

静まり返った教室に、彼女の荒い足音と、バタンと勢いよく閉まった扉の音が取り残される。

一人残された八幡は、机の上に置かれた手作りのクッキーの箱を見つめ、やれやれと頭を抱えて大きく息を吐き出した。

「……やべえ。冗談のつもりだったのに、ガチっぽかったぞ……」

鏡を見なくても分かる自分の現在の「銀髪ピアス」の痛々しい姿を思い出し、八幡はこれから待ち受けるであろう青春のめんどくささに、深く、深く絶望するのだった。

 

夕暮れ時、茜色の光が校舎の廊下を長く引き延ばしていた。

放課後の騒がしさが遠ざかった下駄箱の前。

銀髪のブリーチに、耳たぶで冷たく光るシルバーのピアス――周囲から恐れられ、腫れ物のように扱われている奇抜な格好のまま、比企谷八幡は壁にもたれかかってぼんやりと外を眺めていた。

(……はぁ。まったく、今日のあれは余計なこと言っちまったな)

昼間の教室での一幕を思い出して、八幡は小さく頭を抱えた。

「もしかして俺のことが好きなのか?」なんて、自意識過剰を拗らせた愚痴のような冗談のつもりだった。だが、あんなにも激しく、顔を真っ赤にして否定された手前、気まずさはこの上ない。もう二度とまともに顔を合わせられないかもしれないな、とぼんやり考えていたその時。

カツ、カツ、と控えめな足音が近づいてきた。

顔を上げると、そこにいたのは――雪ノ下雪乃だった。

彼女もまた、下駄箱の前で足を止め、気まずそうに、けれどどこか決意を秘めたような複雑な表情で八幡を見上げていた。昼間の羞恥心からか、耳のあたりはまだほんのりと赤い。

二人の間に、気まずい沈黙が流れる。

先に口を開いたのは、八幡だった。なんと謝るべきか、それともこのまま知らんぷりして帰るべきか迷った末に、彼の口から漏れたのは、思ってもみない直球すぎる言葉だった。

「……あのさ」

低く、気だるげな、けれど妙に真剣な響きを含んだ声。

雪乃がびくりと肩を揺らし、じっと八幡の目を捉えた。

「昼間は……余計なこと言って悪かったよ。調子に乗った。忘れてくれ」

謝罪の言葉に、雪乃はわずかに目を丸くした。あのひねくれた彼が素直に謝るなど珍しい。

しかし、八幡はそこで言葉を切らなかった。ポケットに突っ込んでいた手をわずかに動かし、気まずそうに視線を少しだけ逸らしながら、吐き捨てるように呟いた。

「……でもよ。俺は好きだぞ」

「……っ!?」

雪乃の息が、喉の奥でピタリと止まった。

頭が真っ白になり、昼間の比ではない熱量が全身を駆け巡る。心臓が痛いほどの音を立てて暴れ出し、彼女は反射的に一歩後ろへ下がろうとした。

だが、八幡の次の言葉が、その場に彼女を釘付けにした。

「……お前みたいな、不器用なくせに意地っ張りで、いつも一人で背負い込もうとする奴はさ。なんか……守りたくなる。見ていて放っとけねえんだよ」

それは、からかいでも冗談でもなく、彼なりの偽りのない本音だった。

いじめに遭っても泣き言を言わず、自分のせいで他人が傷ついたと泣きじゃくり、不器用にお礼のクッキーを焼いてくる――そんな彼女の姿が、いつの間にか彼の退屈で冷めきった日常に、強烈な引っかかりを残していたからだ。

雪乃は震える瞳で、目の前に立つ少年を見つめた。

銀髪の不良という見せかけの武装の下にある、変わらない、あまりにも真っ直ぐで不器用な優しさが、胸の奥底を優しく、けれど激しく揺さぶる。

じっと見つめ返す雪乃に向かって、八幡は照れくさそうに片方の目を伏せ、不器用に笑ってみせた。

「だからさ……その、なんだ。友達になろうぜ」

「…………」

言葉が出なかった。

友達。その一言が、今の彼女にとってどれほど温かく、どれほど救われるものだったか。

いつも孤高を気取り、誰とも群れようとしなかった彼が、自ら「友達になろう」と差し出してくれたその手は、冷え切っていた彼女の世界を鮮やかに彩る、たったひとつの光だった。

胸の奥で溢れそうになる熱いものを必死に堪えながら、雪乃はかすかに震える唇を動かした。

「……本当に、あなたは……どこまで救いようのない、お人好しなのよ」

零れ落ちそうになる涙を隠すように、彼女はふっと綺麗な笑みを浮かべた。その頬には、隠しきれない愛おしさと、幸福の色が滲んでいた。

「……いいわよ。そんなに私を守りたいって言うなら、特別に許可してあげる」

雪乃は一歩踏み出し、まっすぐに八幡の目を捉えて、はっきりと告げた。

「よろしく頼むわ、比企谷くん」

夕暮れの茜色の空の下、ぎこちなくも確かに結ばれた二人の距離。

不器用な少年と少女の物語は、ここから静かに、そして確実に動き出していくのだった。

 

放課後の校舎の曲がり角。

静かな廊下を歩いていた比企谷八幡の視界に、ふと見慣れない、しかしどこか圧倒的な存在感を放つ人影が飛び込んできた。

雪ノ下陽乃。

妹である雪乃の姉であり、高校1年生の彼女がなぜか中学の校舎へと足を踏み入れていた。すれ違いざま、陽乃はパッと足を止め、興味津々といった様子で八幡の顔を覗き込んだ。

「へえ、君が噂の……『銀髪の不良くん』?」

陽乃の唇には、いつもの完璧な笑みが張り付いていた。

だが、八幡の「死んだ魚のような目」が捉えたのは、その笑顔の裏にある異質なまでのすり減った気配だった。

作り物の明るい声、無理やりテンションを上げているかのような不自然なトーン、そしてふとした瞬間に陰る、底の抜けたような虚ろな瞳。同い年か一つ上の高校生にしては、あまりにも澱んだ仮面を被っている。

(……なんだこいつ)

八幡は内心で眉をひそめた。

普段の、すべてを見透かしたような圧倒的な余裕や、周囲を操るような妖しさの欠片もない。まるで、完璧な「お姉ちゃん」や「優等生」の仮面を被り続け、すっかり疲弊しきった人間がそのまま無理をしているような――見ていて胸がむかっとするほど、痛々しい姿だった。

「……何の用だ。あいにく、絡まれても面白くねえぞ」

八幡は銀髪を軽く揺らし、面倒くさそうに視線をそらして通り過ぎようとした。

しかし、陽乃はその場から動かず、ふっと乾いた笑い声を漏らした。

「あはは、冷たいなあ。せっかく妹がお世話になってる噂の男子生徒に挨拶してあげようと思ったのに。どう? 最近のその格好、ちょっとヤンチャぶっちゃってさ。似合ってなーいよ?」

明るく茶化すような口調。だが、その声の端が、ほんのわずかに、微かに震えていた。

強がっている。何かから目を背けるために、必死に「しっかりしたお姉ちゃん」を演じ続け、自分をすり減らしている。その痛々しいほどの背中が、なぜか目の前のひねくれた少年の記憶を刺激した。

――不器用なくせに意地っ張りで、一人で全部を抱え込もうとする奴。

脳裏に、あのとき自分が雪乃にかけた言葉がよぎる。

そして目の前の姉もまた、本質的には同じだった。いや、もっと救いがないほどに、自分の弱さを誰にも見せられず、笑顔の仮面の下で一人ですり潰されている。

「……痛々しいぞ」

ぼそっと、八幡は呟いた。

「え……?」

陽乃の作り笑いが、一瞬だけピタリと止まる。

八幡はポケットに突っ込んでいた手をわずかに動かし、これ以上ないほど不機嫌そうな、しかしどこか呆れたような溜息を吐いた。

「無理して笑ってんじゃねえよ。見てて胸がむかむかする。……そんなにすり減らして、何が楽しくてそんな仮面被ってんだよ」

それは、他人への踏み込みを極端に嫌う八幡らしからぬ、余計なお世話だった。

だが、その言葉は陽乃の防御の薄い心に、あまりにもまっすぐ突き刺さってしまった。

陽乃の瞳が大きく揺らぐ。

完璧だった笑顔が完全に崩れ去り、その場に立ち尽くす彼女の表情は、年相応の、あまりにも脆くて傷ついた少女のそれに戻っていた。

「……君さあ……ほんと、変なとこで余計なこと言うんだね……」

陽乃は震える声でそう呟くと、ぐっと唇を噛み締め、それ以上何も言わなくなった。

これ以上ここにいたら、また面倒くさいことに巻き込まれる。八幡はそう判断すると、「じゃあな」と適当に手を振り、相変わらずの猫背でその場から歩き去っていく。

背後で、陽乃が小さく息を呑む音が聞こえた気がしたが、八幡は振り返らなかった。

不器用で歪んだ優しさは、いつだって彼の周りにいる「壊れかけた奴ら」を、少しだけ強引に救ってしまうのだった。

 

 

翌日の放課後。

西日が差し込む静かな教室で、比企谷八幡はいつものように窓際の席にどっかりと腰を下ろし、面倒くさそうに頬杖をついていた。

ガラリ、と引き戸が開き、雪ノ下雪乃が自分の席へと歩いてくる。

彼女は机の前に立つと、ちらりと八幡の銀髪とピアスを一瞥してから、ふっと小さく息を吐いた。

「……おはよう、比企谷くん。今日もその、痛々しい頭は健在のようね」

「うっせ。これでも周囲を威嚇する立派な防壁なんだよ。取るに取れねえんだからこっちも必死なんだ」

やれやれと言いながら、八幡は昨日あった出来事をふと思い出し、気だるげに口を開いた。

「そういえばさ、昨日、下校途中に変な女に絡まれたんだよ」

「変な女?」

雪乃はわずかに眉をひそめ、不思議そうに瞬きをした。

「ああ。なんか妙にテンション高くて、作り物の笑顔ばっか貼り付けてさ。人の顔見るなり『銀髪の不良くん』とか言って面白がってきたわけ。で、なんかこう……無理して明るく振る舞ってやがるっていうか、見てるこっちがむかっとするくらい痛々しい奴でさ」

八幡が面倒くさそうにぼやきながら、当時の様子を思い返すように頭を掻いた――その時。

目の前に立っていた雪乃の動きが、ぴたりと完全に停止した。

「……え?」

雪乃の声が、微かに震えていた。

八幡が怪訝に思って顔を上げると、そこにいた雪乃は、今までに見たこともないほど複雑で、凍りついたような目をしていた。

「……その人、特徴は何かあったかしら?」

「特徴? さあ……髪は長くて、妙に大人びてて……あと、なんというか、お前に少し似てた気もするけど……」

八幡のその言葉を聞いた瞬間、雪乃の表情がさらに強ばり、唇をぎゅっと噛み締めた。

(お姉様……? まさか、中学の校舎に……?)

姉である陽乃が、なぜわざわざ中等部まで足を運び、しかもよりによって八幡に接触したのか。

そして、彼が言った「無理して笑っていて痛々しかった」という言葉が、鋭い針のように雪乃の胸を突き刺す。誰もが完璧だと持て囃す姉の歪みや脆さに、あのひねくれた少年は、どうして真っ直ぐ気づいてしまうのだろう。

「……どうしたんだよ、急に黙り込んで」

八幡が不審そうに首を傾げると、雪乃は慌てて表情を取り繕い、不自然に目を逸らした。

「……なんでもないわよ。ただ、その……あなたの言う『変な女』が、もしかしたら私の知り合いかもしれないと思っただけよ」

「は? お前の知り合い?」

「そうよ。……それで? あなたはその人に何て言ったの?」

雪乃が探るような、どこか切なさを帯びた目でこちらを見つめてくる。

八幡は面倒くさそうに鼻を鳴らすと、窓の外へ視線を投げた。

「別に。……『無理して笑ってんじゃねえよ、見てて胸がむかむかする』って、適当に言ってやっただけだ」

その言葉を聞いた雪乃は、ハッとしたように目を見開き、そして――どこか救われたような、泣き出しそうな複雑な表情で、小さく息を呑んだ。

「……本当に、あなたって人は……どこまでいっても、救いようのないお節介焼きね」

「あ? なんだよ、文句あるか」

「いいえ、少しも」

雪乃はふっと柔らかく、どこか切なさを孕んだ美しい笑みを浮かべ、自分の席へと座った。

不器用な少年がまき散らすトゲだらけの優しさは、今日もこうして、彼女たちの周りにある見えない傷口をそっと撫でていくのだった。

 

放課後の冷たい空気が漂う通りの横断歩道。

赤信号から青に変わった瞬間、由比ヶ浜結衣が何気なく踏み出したその足元に、信じられないほどの猛スピードで黒塗りの高級セダンが突っ込んできた。

「危ない――っ!」

反射的に叫んだ八幡は、自分の足が勝手に動くのを自覚しながら、全身の力を使って結衣の身体を突き飛ばした。

ドサリと、結衣がアスファルトの端に転がり、直後、八幡の脇すれすれを鉄の塊がかすめ去る。キキィィッとけたたましい急ブレーキの音が耳をつんざき、車体は数メートル先でようやく停止した。

「……っ……」

アスファルトに倒れ込んだ八幡の左腕と膝から、赤い血がじわりと滲む。幸いにも直撃は免れたが、擦過傷と強い打撲の痛みが全身を駆け抜けた。

「ひ、比企谷くん……っ! 大丈夫……!?」

真っ青になり、涙目で這い寄ってくる結衣の肩を掴み、八幡は荒い息を整えながら起き上がった。

その目の前で、高級セダンの後部座席のドアが静かに開く。

降りてきたのは、完璧に仕立てられたスーツに身を包んだ中年男性の運転手と、その後方から上品に降り立った一人の女性だった。

冷徹な美しさを湛えたその顔立ち――雪ノ下家の一家、雪乃の母親その人だった。

母親は、自身の乗る車が人を轢きかけたというのに、慌てる様子もなく冷ややかに一瞥した。そして、ポケットから無造作に分厚い封筒を取り出し、運転手を通じて八幡たちの前へと差し出した。

「……怪我の具合はこれ包帯代として。幸い大したことはないようですし、お互いこの件はこれで穏便に済ませましょう」

名前すら名乗らない。自分たちの身分を明かすこともせず、ただ金を掴ませて揉み消そうという、あまりにも傲慢で冷淡な対応だった。周囲の通行人が足を止め、ただ事ではない様子を見守っている。

その瞬間、八幡の頭の中で、沸点を超えた何かが冷たく弾けた。

(……はっ。金で全てを解決できるとでも思ってやがるのか……?)

先日からの妹のこともあり、雪ノ下家という特権階級の人間が持つ、歪んだ選民思想と無責任さが一気に頭にこびりついた。

八幡は痛む腕を押さえながらゆっくりと立ち上がると、差し出された封筒をじっと見据え――次の瞬間、それを引ったくるように掴み取り、母親の足元へと力任せに投げつけた。

ばさぁ、と音を立てて、中の万札が冷たいアスファルトの上に無様に散らばる。

「……なっ……」

運転手が息を呑み、母親の優雅な仮面がわずかに歪んだ。

八幡は冷え切った、死んだ魚のような目で、真っ直ぐに雪ノ下母を見据えた。低く、地を這うような声が静まり返った道路に響く。

「誰のつもりだか知らねえが……ふざけた真似してんじゃねえよ。人を轢きかけておいて、名前も名乗らずに札束投げつけておしまいか? ……金で転ぶような安いプライド持って生きてると思ったら大間違いだぞ」

「君、ねえ……!」運転手が威圧しようと一歩踏み出すが、八幡はそれを一瞥すらしなかった。

「よく聞け。……このままうやむやにできると思うなよ。人を轢き殺しかけた加害者が、身分も隠して金で口裏合わせようとした証拠……ネットでもマスコミでも、俺が本気を出せば、お前らのその綺麗な社会的地位なんて一瞬でズタズタのゴミ屑にしてやれるんだよ。……やってみるか? 殺人未遂と隠蔽工作で、お前らの人生を社会的に完全に終わらせてやってもいいんだぞ」

ただのハッタリではない。その瞳に宿る狂気的なまでの冷徹さは、相手がどれほど上の人間であろうと、容赦なくすべてをぶっ壊しかねない危険な光を放っていた。

「……なっ、何を……」

これまで自分の支配下にある世界しか知らなかった雪ノ下母の背中に、冷や汗が一筋、すうっと伝い落ちた。想定外の狂犬に噛みつかれた恐怖と、社会的失墜という現実的なリスクが脳裏をよぎる。

圧倒される母親をよそに、八幡はポケットから自分のスマートフォンを取り出し、震える手でそれを支えていた結衣へと渡した。

「おい、結衣。よく見とけ。……今のやり取り、全部カメラに収めただろうな?」

「う、うん……! ちゃんと、全部……!」

結衣は涙を拭いながら、しっかりとスマホの録画ボタンを押したまま、震える声で頷いた。その画面には、散らばる札束と、青ざめた運転手、そして冷や汗を流す雪ノ下母の姿が生々しく記録されている。

「……連絡先をよこせ。後日、しかるべき場所で、しかるべき誠意ある対応をしてもらう。……逃げられると思うなよ」

八幡の低い宣告に、雪ノ下母はもはや抗う言葉を失っていた。これ以上ここで醜態を晒せば、本当に何が起きるか分からない。彼女は震える唇をかみしめると、無言で運転手に指示を出し、青ざめた顔のまま再び車へと乗り込んだ。

車はタイヤを鳴らし、慌てるようにその場から走り去っていく。

静けさが戻った横断歩道。

息を切らす八幡の足元に、散らばった封筒と紙幣だけが取り残されていた。

 

翌日の朝、教室。

窓際の席に座る比企谷八幡の左腕には、昨日の一件で負った擦過傷を隠すように、白い包帯が無造作に巻かれていた。

ガラリ、と引き戸が開き、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣が同時に教室に入ってくる。二人の顔には、昨日の恐怖と心配の色が痛いほどに濃く残っていた。

雪乃はまっすぐ八幡の席へと歩み寄り、その包帯が巻かれた腕をじっと見つめながら、微かに震える声で尋ねた。

「……比企谷くん。昨日の……その怪我、痛みはないの?」

「あ? ああ、これか。かすり傷だ、問題ねえよ。大げさだな」

普段通りの気だるげなトーンで返す八幡だったが、その隣で結衣が申し訳なさそうにぎゅっと自分の制服の裾を握りしめた。

「ううん、そんなことないよ……! 私をかばってくれたから……本当にごめんね、比企谷くん……っ」

「お前が謝ることじゃねえだろ。ただの運悪く飛び出してきたアホな車に掠られただけだ。気にするな」

八幡は面倒くさそうに頭を掻き、昨日の今日で相手が雪乃の一家――おそらくは母親の車だったという事実を、胸の奥底へとしっかりと押し込めた。

(ここで名刺のことや、相手が誰かなんて口が裂けても言えねえな。そんなこと言ったら、あの不器用な女のことだ。絶対に自分の家族のせいで俺が怪我をしたって思い込んで、また勝手に抱え込んで病み始めるに決まってる)

面倒くさくて痛々しい彼女の自責の念を引き出さないためにも、この件は完全に「ただの不運な交通事故(かすり傷)」として処理しなくてはならない。ポケットのなかにしまい込んだ名刺の存在など、最初からなかったかのように振る舞うのが、今の最適解だった。

八幡は何食わぬ顔で鼻を鳴らすと、窓の外へ視線を向けながら言い放った。

「だいたい、お前らがそんな顔してると俺が泥棒でも働いたみたいで居心地わりいんだよ。見てみろ、ただの擦過傷だ、一週間もすりゃ完治する。だからこれ以上その話は終わりだ、おしまい」

「……でも」

「でもじゃねえよ。ほら、もうすぐホームルーム始まるぞ。自分の席に戻った戻った」

八幡が乱暴に手で追い払うような仕草をすると、結衣は「う、うん……お大事にね、比企谷くん」と心配そうにしながらも自分の席へと引き下がった。

雪乃もまた、八幡の腕の包帯と、どこか投げやりな態度をじっと見つめていたが、これ以上追及しても彼は教えてくれないと察したのか、苦しげに唇を噛み締めながら小さくうなずいた。

「……わかったわ。でも、何かあったらすぐに言いなさいよ……?」

「おう、気が向いたらな」

それ以上余計な詮索をさせないよう、八幡はわざとらしく机に突っ伏して目を閉じた。

(……やれやれ。隠し通すのも結構骨が折れるぜ)

心の中でひそかに冷や汗を拭いながら、八幡は平穏な日常を取り戻すため、重い沈黙の中に身を沈めるのだった。

 

その日の夕方。

比企谷家のインターホンが、無機質に、そしてどこか威圧的なリズムで鳴り響いた。

リビングで寛いでいた小町が「はーい、どちら様……?」と扉を開けた瞬間、そこに立っていた人物を見て、彼女の表情が凍りついた。

完璧に仕立てられたスーツに身を包んだ、冷徹な気品を纏う中年の女性――雪ノ下母だった。彼女の後ろには、屈強な運転手が無表情で控えている。

「あら。比企谷さんのお宅で間違いないかしら?」

招き入れてもいないのに、雪ノ下母は当然のように玄関へと足を踏み入れ、そのままリビングへとズカズカと侵入してきた。手に持っているのは、昨日八幡が地面に叩きつけたのと同じ、分厚い札束の入った封筒だった。

リビングにいた母親と父親、そして小町が一斉にピタリと動きを止める。

「……どちら様ですか?」

比企谷母が険しい目を向けて立ち上がる。

雪ノ下母は微塵も動じず、優雅な仕草でソファの脇に立ち、その封筒をテーブルにドンと置いた。

「突然の訪問、失礼します。……で、本題ですが。先日、うちの車がこちらの息子さんに軽微な接触事故を起こしましてね。世間体に響いても面倒ですし、このお金で――」

「は……?」

それまで静かにテレビを見ていた小町が、カッと顔を真っ赤にして立ち上がった。

彼女の目は怒気で潤み、目の前のセレブ然とした女を睨みつける。

「ちょっと待ってよ! 人を轢きかけておいて、怪我させておいて、いきなり家に上がり込んできて金叩きつけるってどういうこと!? お兄ちゃんがあんたたちのせいで怪我したのに、謝る言葉もないわけ!?」

「小町、落ち着きなさい」

比企谷母もまた、冷え切った声で娘を制しながら、目の前の女を冷酷な眼差しで見据えた。その瞳には、我が子を傷つけられた母親としての殺気が宿っている。

「お引き取りください。うちの息子がどう言おうと、こんな汚い金を受け取る気は一切ありません」

しかし、雪ノ下母はふっと冷ややかに鼻を鳴らし、一切悪びれる様子を見せない。

「お金で解決できる話でしょう。これ以上大事にされたくなければ、さっさと受け取っておくべきですけれど?」

「……おい」

その時、リビングの隅で静かに座っていた比企谷父が、低く呟いた。

いつもは穏やかで気の抜けた父親だったが、その顔からは完全に笑みが消え、冷たい怒りが滲み出ていた。父は立ち上がり、テーブルの上の封筒を無言で掴むと、雪ノ下母の目の前へと突き返す。

「金はいらん。……2度と、うちの敷居を跨ぐな」

その静かで圧倒的な拒絶に、雪ノ下母の眉がわずかにピクリと動いた。

「……強がりを言って。後から後悔することになりますよ」

「強がりじゃねえよ。子どもを危険に晒しておいて、謝罪もなしに金で口裏合わせようとするような人間の汚ねえ善意なんてな、吐き気がするんだよ。さっさと出ていけ」

家族全員が総出で敵意を剥き出しにする中、リビングの入口の壁にもたれかかり、左腕に包帯を巻いた比企谷八幡が、だるそうに姿を現した。

「……やれやれ。大所帯でご苦労なこった」

八幡の低い声に、全員の視線が集まる。

彼は冷ややかな目を向け、ふっと嘲るような笑みを浮かべた。

「まあ、待てよ親父、母さん、小町。……この人はさ、最初から自分たちが加害者だなんて微塵も思っちゃいないんだよ。他人の痛みなんて理解できない特権階級の化け物なんだからさ、何を言っても無駄だろ」

「君ねえ……」雪ノ下母の仮面が、わずかに怒りで歪む。

八幡はゆっくりと歩を進め、テーブルの上の封筒に視線を落とした。そして、冷え切った、死んだ魚のような目で、真っ直ぐにその母親を見据えた。

「……まあいい。貴方に誠意や謝罪なんて期待するだけ無駄ってのは、昨日で嫌と言うほど分かった。……だから、形だけでも受け取ってやるよ。その代わり条件がある」

「……条件、ですか?」

「あぁ。――土下座で結構です。この場で、俺の両親と妹に、頭を地面につけて謝罪しろ。そしたらその金、ありがたく受け取ってやるよ」

――瞬間。

リビングの空気が、完全に凍りついた。

雪ノ下母の顔から血の気がサーッと引き、信じられないものを見るように目を見開く。

「なっ……! 私に……この私が土下座を……!?」

「嫌ならその金を掴んで今すぐ二度と目の前に現れるな。……どうする? お前のそのプライドと、社会的信用、どっちが大事か分かりやすいだろ」

八幡の声には、微塵の迷いも妥協もなかった。

家族を守るため、そしてこの傲慢な女の鼻を完全にへし折るために、彼は容赦なく牙を剥いていた。

 

リビングの空気が、息を詰まらせるほどの重圧に支配されていた。

「土下座を……私に……?」

雪ノ下母の美しい顔が、信じられないものを見るような侮蔑と、それを超える強い恐怖に歪んでいた。彼女が生きる特権階級の世界において、自身のプライドを地に落とすなど、死ぬことと同等の恥辱だった。

しかし、目の前に立つ高校生の瞳には、微塵の揺らぎも妥協もない。ここで拒絶すれば、あのとき記録された動画と証拠が社会にばら撒かれ、彼女の築き上げてきた社会的信用も、家庭の地位も一瞬で崩れ去る。その現実的な破滅の足音が、彼女の耳元でハッキリと響いていた。

(……くっ……!)

震える唇を噛み締め、彼女はプライドのすべてを押し潰すように、その場に膝をついた。

フローリングの床に両手をつき、冷徹な仮面を剥ぎ取られたその頭を、深く、深く地面へと擦り付ける。

「……申し訳、ありませんでした……」

絞り出すような、屈辱にまみれた謝罪の言葉がリビングに落ちる。

比企谷母と小町は、目の前で起きた光景に息を呑み、言葉を失って立ち尽くしていた。父は腕を組んだまま、冷ややかな目でその背中を見下ろしている。

数秒の沈黙の後、八幡はフッと鼻を鳴らした。

「……結構。その頭の下げ方、しっかり記憶に刻んどいたからな」

八幡はテーブルの上に置かれた分厚い札束の封筒を、無造作に手に取った。そして、その場に土下座したまま動けない雪ノ下母を一瞥すると、彼女の後ろで青ざめた顔をして突っ立っている屈屈な運転手へと、その封筒を放り投げるように差し出した。

「おい、運転手」

「は、はい……っ」

運転手がビクッと肩を震わせ、おそるおそる封筒を受け取る。

八幡は冷めたトーンで、淡々と告げた。

「これ、お前が受け取れ。……貴方にも、あのとき急ブレーキを踏ませたり、色々と思い出したくない迷惑をかけたからな。家族を守るためとはいえ、あの状況で車の前に飛び出したのは俺だ。その分の危険手当というか、迷惑料としてお受け取りください」

「え……? ですが、これは旦那様(奥様)の……」

戸惑う運転手に、八幡はさらに言い放つ。

「どうせ、この傲慢な雇い主のことだ。今回の不始末の責任を全部押し付けて、明日には貴方をクビにしようと企んでる頃だろ? 見てりゃ分かるよ。だからこれは、お前が受け取るべきだ。……まあ、お互い巻き込まれた者同士、痛みわけってことで」

その言葉に、運転手はハッと目を見開き、そして震える手で封筒を強く握りしめた。

「……ありがとうございます……っ! 本当に、ありがとうございます……!」

床にひれ伏したままの雪ノ下母は、そのやり取りを聞きながら、背筋が凍るような戦慄を覚えていた。

(この少年は……私の思考の先まで、すべて見透かしていたというの……?)

ただの高校生ではない。底知れぬ洞察力と、家族を守るためには容赦なく相手の急所を抉り取る冷徹な狂気。そして、それを受け止める比企谷家という泥臭くも強固な絆。

雪ノ下家が絶対に手に入れてはならない、そして逆回しにすれば牙を剥く「本物の化物」がこの家にはいる――そう確信した瞬間、彼女の全身から冷や汗が止まらなくなった。

「……もういい。帰ってくれ」

比企谷父の静かな、しかし有無を言わせぬ一言。

運転手は慌てて頭を下げ、床から起き上がれずに震える雪ノ下母の腕を支えながら、這う這うの体でリビングから去っていった。

バタン、と玄関のドアが閉まる音が、静まり返った家の中に重く響く。

「……やれやれ、疲れたな」

八幡はふうと大きく息を吐き出すと、痛む左腕の包帯を軽く押さえた。

小町が心配そうに駆け寄り、母親は複雑なため息を漏らし、父親は静かに息子を見据えてうなずく。

平穏とは程遠いけれど、どこか温かい家族の空気が戻ってきたリビングで、八幡は自分の選んだ不器用な戦い方の結末を、静かに噛み締めるのだった。

 

その夜、雪ノ下家の重厚な書斎。

間接照明に照らされたデスクの上で、数枚の調査書類が冷たく光っていた。

そこに記されていたのは、比企谷家の戸籍、家族構成、そして親族の系譜。先ほどまで恐怖に支配されていた雪ノ下母は、目の前に広げられたそのデータを見つめながら、再び全身から嫌な冷汗が噴き出すのを止めることができなかった。

(……そんな、馬鹿な……っ)

書類上、比企谷家は紛れもなく「普通の一般家庭」だった。

父親は中堅企業のごく平凡なサラリーマン、母親もパート程度の収入、そして二人の子供。一見すれば、彼女たちが普段見下している「その他大勢の一般庶民」の枠組みから一歩も外れていない。

しかし、その系譜の枝葉をたどった先にある一文が、雪ノ下母の目を釘付けにしていた。

――父方の遠縁に、「比企谷財閥」の血筋が存在する。

現在、その本家との交流はほとんど途絶えており、比企谷家自身はその莫大な富や権力を一切頼りにせず、自立した生活を送っている。遺産の相続権にしても、彼らがその気になれば動き出す規模のものは、個人の資産としてだけでも一般人の想像を絶するほどの額に達するものだった。

(――もし、あのとき。あの少年の要求を突っぱねて、本当に社会的信用を潰そうなどと動いていたら……)

背筋を這い上がる恐怖で、雪ノ下母の呼吸が乱れた。

比企谷家を敵に回すということは、たとえ表向きは「普通の一般家庭」であっても、その背後にある「比企谷財閥」という巨大すぎる怪物に、一族総出で喧嘩を売ることに等しい。一度火がつけば、雪ノ下家の財力や社会的地位など、一財閥の気まぐれな圧力の前に紙くずのように吹き飛ばされるだろう。

あの少年は、そこまで見越していたわけではないかもしれない。

だが、あのとき彼が放った冷徹な眼差しと狂気は、偶然の産物ではなく、本能的に「踏み込んではいけない一線」を嗅ぎ分ける野生の勘そのものだった。

「……一歩間違えれば、うちが……私のせいで、雪ノ下家がすべてを失うところだった……」

震える手で書類を握りしめ、彼女は自分の浅はかさと、その恐怖をねじ伏せた高校生の底知れぬ影に、ただ震えるしかなかった。

 

書斎の静寂の中、雪ノ下母はデスクの椅子に深く腰掛けたまま、青ざめた顔で震えていた。

これまで自分が築き上げてきた世界――金と権力、そして完璧な序列こそがすべてであり、自分たちはその頂点近くに君臨しているという絶対的な確信。それが今、ガラガラと音を立てて崩れ去っていた。盤石だと思っていた足元は、実は薄氷の上のようにもろく、いつでも大きなものに踏みつぶされかねない危ういバランスの上に成り立っていたのだと、身をもって思い知らされた。

自分の傲慢さ。他人の尊厳を踏みにじり、金で全てを捻じ伏せられると信じ疑わなかった醜い姿が、ようやく彼女の目にハッキリと映し出されていた。

井の中の蛙だった。さらに上の、圧倒的な力を持つ世界の存在に気づかず、自らを強者だと勘違いしていただけの滑稽な存在。

――だが、それ以上に彼女の胸を深く抉っていたのは、比企谷家、そしてあの少年の姿だった。

振り返れば、彼らはその圧倒的なバックボーン――「比企谷財閥」という巨大な力について、一言も口にしなかった。

父親も、母親も、妹も、そして当の本人である八幡さえも、その名前を笠に着て威張るような真似は一切しなかった。彼らはあくまで「普通の一般家庭」として、ただ我が子を傷つけられ、理不尽に踏みにじられた怒りだけを武器に、真正面から立ち向かってきたのだ。

比企谷財閥の力を借りれば、雪ノ下家など一捻りだったはずだ。にもかかわらず、彼らはそれを使わず、ただの一高校生が、ただの一家族が、身一つで傲慢な権力者である自分たちの喉元に牙を突き立てた。

(……あれは、個人の力だった……)

思い出すのは、あの冷たく、一切の濁りがない死んだ魚のような瞳。

組織の看板でも、家柄の威光でもなく、少年自身の魂の冷徹さと狂気だけで、彼女のプライドを完璧にへし折り、ひれ伏させのだった。

恐怖で震えながらも、雪ノ下母の脳裏には、あのとき見せた彼の不器用で、しかし揺るぎない覚悟の姿が焼き付いていた。

それは、飼いならされた箱庭のなかに突如として現れた、牙を剥く一匹の野獣の姿そのものだった。

その圧倒的な存在感を思い出すたび、彼女の心臓は激しく波打ち、二度とあの少年の逆鱗に触れてはならないという本能的な畏怖が、冷たい汗とともに全身を駆け巡るのだった。

 

深夜の書斎。

未だに冷めない恐怖と動揺の中で、雪ノ下母は手元の調査書類を見つめていた。そこに、扉を静かにノックする音が響く。

「……まだ起きているのかい?」

低く落ち着いた声とともに、書斎に入ってきたのは雪ノ下家の当主――雪乃と陽乃の父親だった。普段は物静かで、一族の事業や政財界の表舞台を冷静に操る彼が、なぜか疲労の色を滲ませ、いつもとは違う険しい表情を浮かべていた。

「あなた……」

「報告を受けたよ。君が先日、とんでもない失態をやらかしたそうだな」

夫のその一言に、母はビクリと肩を震わせた。彼は妻を責めるような大声は出さなかったが、その瞳の奥には、妻自身が抱いたものとはまた違う、底知れない戦慄の色が宿っていた。

父親はデスクの前に歩み寄り、妻の手元にあった比企谷家の調査資料を手に取った。パラパラとページをめくるその指先が、わずかに震えているように見える。

「……驚いたな。まさか、この平穏な一般家庭の系譜をたどった先が、あの一族につながっているとはね」

「あなたも……知っていたの?」

「名前だけならな。だが、ここまで深く調べてみて初めて気づいたよ。あの比企谷家は、かつて我が家とは比べ物にならないほどの権勢を誇り、遠縁の血筋には現役の大臣すら輩出したことのある、あの『比企谷財閥』の直系だ。……もっとも、彼らは自らその看板を捨て、今は一般人として静かに暮らしているがね」

父親は深いため息をつき、信じられないというように首を振った。

「もし我が家が、いや、君が彼らを本気で怒らせていたら……雪ノ下家など、数日も経たずに財界の表舞台から消し去られていただろう。一族の歴史ごと、跡形もなくね」

「……っ」

母は言葉を失い、ただうなずくことしかできなかった。自分がどれほど底なしの沼で踊っていたのかを、夫の口から改めて突きつけられた思いだった。

しかし、父親は書類から目を離すと、ふっと奇妙な笑みを浮かべた。それは恐怖というよりも、どこか奇妙な感心と、ゾッとするような好奇心が入り混じった笑みだった。

「だがね……それ以上に恐ろしいのは、あの少年だ」

「八幡くん……ですか?」

「ああ。彼は、その圧倒的なバックボーンの存在に気づいていたはずだ。それなのに、彼らはその力を一切使わなかった。財閥の権威をかざして我が家を威圧するような真似はせず、あくまで『一高校生』として、そして『一人の家族』として、君の前に立ち塞がった」

父親は、あのとき八幡が放った言葉や、一人でその場を制圧した経緯を思い返すように、窓の外の闇を見つめた。

「個人の力だけで、君の傲慢さを打ち砕き、土下座させ、我が家を完膚なきまでに屈服させた。……財閥の威光に頼るまでもなく、彼自身の中に、あの化け物じみた牙と気概があったということだ」

恐怖。一歩間違えれば一家が滅びかねなかったという、冷たい恐怖。

だが、その恐怖の裏側で、雪ノ下家の当主である男の胸の奥には、それまで感じたことのない強烈な熱が灯り始めていた。

「……面白い。実に、恐ろしいがね」

父親はフッと小さく笑い、デスクに書類を置いた。

「権力や金、家柄にしがみつく大人ばかりを見てきた私にとって、あの少年はあまりにも異質だ。……もし彼が本気でその気になれば、この国を揺るがすほどの怪物になり得るかもしれない」

恐怖に怯えていたはずの妻の隣で、夫は静かに、しかし抗えない強い興味をその瞳に宿していた。

静まり返った雪ノ下家の書斎で、二人はそれぞれの形で、あのひねくれた一人の少年の存在に深く囚われていくのだった。

 

週末の午後、都会の喧騒から少し離れた静かな裏通り。

雪ノ下家の当主である父親は、ふと立ち寄った書店からの帰り道、薄暗い路地裏の十字路で思わぬ足止めを食らっていた。

道幅の狭いその一角に、派手な染め髪やダボっとした服に身を包んだ不良グループが数人、通路を塞ぐようにしてたむろしていたのだ。

「おい、おっさん。いい時計してんじゃねえか。ちょっと貸せよ」

「……関わりたくないな。道を譲ってもらえないか」

普段、政財界の重鎮たちを相手に冷徹な駆け引きを行っている彼にとって、こんな路地裏のチンピラなど相手にする価値すらない。しかし、退こうとした彼の進路を、リーダー格の大男がふざけた笑みを浮かべながら塞いだ。

「なんだよその澄ました面は。生意気なオヤジだな、ちょっと教育してやろうぜ」

威圧的な言葉とともに、不良の一人が容赦なく父親の腹部へと重い拳を叩き込んだ。

「ぐっ……!」

高級なスーツの胸元が歪み、衝撃で父親はその場に崩れ落ちる。さすがに鍛えられた格闘技の心得などない彼にとって、不意打ちの暴力は重かった。さらに追い打ちをかけようと、別の不良が足蹴りにしようと足を振り上げる。

――その瞬間。

「おい、クズども」

路地の入り口から、冷え切った、死んだ魚のような低く気だるげな声が響いた。

不良たちが振り返ると、そこに立っていたのは、銀髪のブリーチが伸びかけ、耳たぶでシルバーのピアスが鬱陶しく光る、一人の少年だった。

「んだお前、ガキが気取って――」

「うるせえよ、邪魔だ」

言葉の終わりを待たず、少年――比企谷八幡は迷うことなく不良の懐へと踏み込み、無骨な一撃を叩き込んだ。喧嘩のスマートさなど皆無の、泥臭くも容赦のない暴力。不意を突かれたリーダー格の男がたまらずよろめく。

「な、なんだこいつ……! やれ!」

残りの不良が一斉に八幡へと襲いかかる。数対一の圧倒的不利。八幡の頬や腕に鈍い衝撃が走り、すぐに血が滲む。それでも彼は一歩も引かず、体当たりするように不良たちを押し返していく。

家族の前で見せた冷静な顔はそこになく、ただ無愛想に、しかし目の前の理不尽を叩きのめすためだけに、彼は拳を振るっていた。

数分後。

路地裏には、うめき声を上げて転がる不良たちの姿だけが残されていた。

息を荒げ、制服の端を汚した八幡は、乱暴に自分の口元を拭うと、アスファルトに倒れ込んでいるスーツの男を一瞥した。

「……立てるか、おっさん」

「……きみは……」

父親は、目の前で自分のために傷だらけになりながらも不良を撃退した少年を見上げた。

そこに映っていたのは、かつて妻から報告を受け、調査書で見た特徴そのものだった。

銀髪のブリーチ。耳たぶで光るピアス。そして、底知れぬ冷たさと不器用な優しさが同居する、あの死んだ魚のような瞳。

「……名前を、聞かせてくれ。君は……」

助けられた恩を返すでもなく、名乗る気など微塵もないといった様子で、八幡は面倒くさそうに片手をヒラヒラと振った。

「名乗るほどのもんじゃねえよ。ただ、目障りだったから片付けただけだ。……じゃあな」

それ以上、言葉を交わす気もない様子で、八幡は振り返ると、そのままフラフラと路地裏の影へと歩き去っていった。

背中を追うこともせず、父親はその場に座り込んだまま、遠ざかる少年の背中をただじっと見つめていた。

(……間違いない。あのときの、比企谷の息子だ……)

我が身を挺して、あろうことか妻を追い詰めた男の夫を、無言で救い出して見せた少年。

圧倒的な格と狂気を秘めながら、決してそれを表に出さず、ただ静かに影を歩むその姿に、父親の胸の奥底で、かつてないほどの激しい戦慄と、拭いがたい興味の炎が静かに燃え上がっていくのだった。

 

 

放課後の校舎の階段の踊り場。

窓から差し込む夕日が、微かに埃を照らし出す静かな空間を、比企谷八幡はため息交じりに歩いていた。

昨日の路地裏での一件で負った傷が、あちこちで鈍い痛みを訴えている。頬の擦過傷、かすかに腫れた左の拳、そして制服のあちこ치についている汚れ。

先日の車との接触事故による腕の包帯が完治する間もなく、また新しい生傷が増えている。他人のトラブルに首を突っ込み、身を挺して誰かを守る――そんなバカなことを繰り返していれば、身体がいくつあっても足りるわけがない。

(……はぁ。まったく、俺の体はいつになったら平穏を手に入れられるんだか)

自分で自分の不器用さに呆れながら、ふと階段を曲がったその時だった。

「――あれ?」

ふわりと甘い香りとともに、上品な制服の裾が視界に入る。

そこに立っていたのは、雪ノ下陽乃だった。彼女は両手を後ろに組み、興味深そうな、けれどどこか探るような笑みを貼り付けたまま、足を止めて八幡の進路を塞いだ。

昨日、一昨日と、この姉妹の周辺とは妙に縁が深い。

八幡は面倒くさそうに片眉をひそめ、その顔をじろりと見据えた。

(……あぁ、そういえば)

記憶の引き出しがカチリと音を立てて開く。

先日、中等部の廊下ですれ違ったとき、無理して明るい笑顔を貼り付け、自分をすり減らしていたあの「痛々しい女」――それが目の前の雪ノ下陽乃だったと思い出す。

あのときは、生き急ぐように仮面をかぶった危うい少女にしか見えなかった。

だが、その後に母親の件があり、彼女たちの家庭の背景や、自分自身が背負ってきた修羅場を少しだけ知った今、八幡の目に映る陽乃の姿は、また少し違って見えていた。

「なんだよ。また変な言いがかりでもつけに来たのか? あいにく今日は全身あちこち痛くてな、お前の相手をしてる余裕はねえんだわ」

八幡は面倒くさそうに舌打ちすると、隠す気もない痛々しい生傷――頬の傷や、あちこちに張り付いた絆創膏を見せつけるように、そっぽを向いた。

だが、陽乃の瞳は、その傷だらけの姿に釘付けになっていた。

いつもなら、作り物の笑みで軽口を叩き返してくるはずの彼女が、その場にピタリと動きを止めたまま、言葉を失っている。

彼女が目撃したのは、ただの「喧嘩の絶えない不良の傷」ではない。

妹をかばい、母の傲慢さに牙を剥き、そして昨日もまた、路地裏で誰かのためにその拳を血に染めてきた――泥臭く、しかし圧倒的なまでの「意志」と「覚悟」を貫いてきた男の、生々しいまでの証だった。

理屈でも、計算でもなく、ただ自分の信じるもののために傷だらけになる。

その不器用な生き様から滲み出る、圧倒的なまでの男としての気配――静かなる「雄のオーラ」が、仮面をかぶり続けてきた陽乃の心を、激しく、かつてないほどに揺さぶっていた。

「……君さあ」

陽乃の口から、作り物ではない、かすかに震えた本音のような声が漏れた。

「本当に……どこまで人を狂わせる気なの?」

八幡は意味が分からず、ただ気だるげに目を細めるだけだった。

不器用な正義と、隠しきれない優しさを纏った一匹の野獣は、今日もこうして、雪ノ下家の人間たちの平穏な世界を狂わせていくのだった。

 

階段の踊り場に漂う、妙に重い沈黙。

陽乃はしばらくじっと八幡の傷だらけの顔を見つめていたが、ふっとその美しい唇を緩め、いつもの――けれどどこか熱を帯びた笑みを浮かべた。

「ねえ、比企谷くん」

「んだよ。暇じゃねえんだからさっさと通してくれ」

「そんな冷たいこと言わないの。せっかくこうして出会ったんだし、ちょっと付き合いなよ」

陽乃はふわりと一歩踏み出し、八幡の逃げ道を塞ぐように距離を詰めてきた。

「お姉さんとお茶でもどう? もちろん、おごってあげるからさ。この前の……色々なお礼も含めてね」

「……は? 誰がテメェとお茶なんか――」

「断る権利なんてないよ? それともなに、私と二人きりじゃ都合が悪い理由でもあるわけ?」

楽しげに、けれど有無を言わせない強引さを孕んだ瞳で見つめられ、八幡は心底面倒くさそうに盛大な溜息を吐いた。

(……ここで突っぱねても、また変に絡まれて面倒なことになるだけか。それに、タダでおごってくれるってんなら、財布の痛手にはならねえしな……)

これ以上この女と廊下で押し問答を続ける労力すら惜しかった八幡は、仕方がなさそうに肩をすくめた。

「……文句言うなよ。奢りだからな」

「うん、任せて!」

陽乃はパッと花が咲いたような笑顔を浮かべると、抵抗する隙も与えずに八幡の袖を軽く掴み、そのまま学校の外へと連れ出した。

――数分後。

「……で、お前が言う『お茶が飲めるおしゃれな場所』ってのがここか?」

「そうだよ? 何か文句ある?」

八幡がジト目で指差したその先にあるのは、見慣れた赤と緑の看板。

――イタリアンワイン&カフェレストラン『サイゼリヤ』だった。

高校生同士の放課後の寄り道としては定番中の定番であり、決して「おしゃれなカフェ」の枠には収まらないが、安さと安定感においては最強の布陣である。

「いや、もっとこう……お高いカフェテラスとかに連れていかれるのかと思ったからさ。庶民派だな、おい」

「あはは、たまにはこういうジャンクなところもいいじゃない。ほら、席に座ろ?」

陽乃は慣れた様子で席のほうへ進み、窓際の四人掛けの席に腰を下ろした。八幡も仕方なくその向かい側にどっかりと座り、机の上に置かれたメニューをめくり始める。

「決まった?」

「あぁ、とりあえずミラノ風ドリアと、あと適当にドリンクバーでいいだろ」

「それだけ? せっかくのおごりなんだから、もっと頼みなよ。そうだなぁ……辛味チキンもシェアしよっか」

陽乃は楽しそうに注文用紙を手に取り、慣れた手つきでシャープペンシルを走らせた。

先日まで、完璧な仮面の下ですり減り、壊れかけていた少女の面影はない。今の彼女は、目の前に座る傷だらけの少年に全神経を集中させ、その不器用な優しさと強さの裏側にあるものを、もっと知りたいという剥き出しの興味を隠そうともしていなかった。

運ばれてきた料理を前に、二人は他愛のない(しかし八幡にとっては面倒な)会話を交わす。

不器用な野獣と、すべてを見透かす仮面を脱ぎ捨てた少女の奇妙な放課後のデートは、こうして賑やかなファミレスの片隅で、静かに幕を開けたのだった。

 

ジューシーな辛味チキンをフォークで突きながら、陽乃はふっと表情を和らげ、どこか遠くを見るような、それでいてまっすぐに八幡を見据えるような目で口を開いた。

「ねえ、比企谷くん。改めて言うけど……私、雪ノ下陽乃。一応、あの雪乃の姉よ」

「……知ってるわ。妹があんなにめんどくせえんだから、姉がこれ以上輪をかけてめんどくせえのは予想通りだ」

八幡がスプーンでミラノ風ドリアをすくいながらボソッと呟くと、陽乃はふふっと楽しそうに声を上げて笑った。

「そっか。まあ、確かにそうかもね。……でもさ、君のそういうとこ、なんか変なところで納得しちゃうんだよね。『どうりで似てるわけだ』って、今思ったでしょ?」

「……あ?」

八幡の手がわずかに止まる。

確かに、先日彼女の母親と対峙し、そして今こうして目の前で向き合っていると、底知れぬ頑固さや、一人で抱え込もうとする不器用な歪みが、妹である雪乃のそれと重なって見えてくる。顔立ちだけじゃない、根本的な「生き方の不器用さ」がそっくりだった。

「どうりで、似てると思うわけだ。姉妹揃って、変なところで意地張って、勝手に自滅しかけるところとか特にな」

淡々とした八幡の言葉に、陽乃の笑顔がわずかに揺らいだ。

彼女はフォークを置き、カップの温かい紅茶を指先で包み込みながら、少しだけ声を落とした。

「……ねえ。私って、そんなに変に見える?」

「変って言うか……」

八幡は面倒くさそうに息を吐き、目の前にあるドリンクバーのグラスに視線を落とした。

「いつも完璧な優等生の仮面被って、誰に対しても隙のない笑顔振りまいてさ。そんなに必死に取り繕って、何が楽しいんだよ。……そんなもん、疲れるだけだろ」

その言葉は、突き放すような冷たさではなく、ただ純粋な疑問と、どこか呆れたような諦めに満ちていた。

先日、中等部の廊下で彼女を見たときから感じていた違和感。家で母親と対峙したときに見えた歪みの根源。それが、この少女を縛り付けている「完璧でいなければならない」という呪縛なのだと、八幡には痛いほど分かってしまったからだ。

「……取り繕わないと、誰も私を必要としてくれないから」

零れ落ちた陽乃の声は、あまりにも小さく、か細かった。

いつもの圧倒的なオーラも、妖しいまでの笑顔も消え失せ、そこにあったのは、ただの傷つきやすい一人の少女の姿だった。期待に応え続けなければならないというプレッシャーに押しつぶされ、自分の居場所を見失っていた彼女の剥き出しの弱音だった。

そんな陽乃に向かって、八幡はミラノ風ドリアを一口飲み込むと、いつもの気だるげな調子で吐き捨てるように言った。

「は? 何言ってんだ。……ここは高級料亭でも、お高くとまったお茶会でもねえよ。ただのファミレスだぞ」

「……え?」

陽乃がまばたきをすると、八幡は面倒くさそうに店内の赤と緑のソファや、周りでガヤガヤと騒ぐ学生たちをあごでしゃくってみせた。

「見ろよ。まわりの客なんて、誰もお前の仮面なんざ気にしてねえし、期待もしてねえ。ドリンクバーのスープはたまに薄いし、ミラノ風ドリアはいつだって安定の安さだ。……そんな場所で、いつまで肩肘張ってんだよ」

「っ……」

胸の奥を、熱いものが急に突き上げた。

誰もが自分に「理想の雪ノ下陽乃」を求め、彼女自身もそれに応えることだけを存在価値だと思い込んでいた。それ以外の自分を見せることなど許されないと信じ込んでいた。

なのに、目の前のこのひねくれた少年は、ただの安っぽいファミレスの席で、あまりにも自然に、その重すぎる仮面をひっぺがしてしまったのだ。

陽乃の瞳が大きく揺らぎ、あふれそうになる感情を抑えるように、ぎゅっと自分のスカートの裾を握りしめた。

綺麗に張り付けていたはずの笑顔が完全に崩れ、代わりに浮かんだのは、生まれて初めて見せる、あまりにも無防備で、どこか救われたような切ない表情だった。

「……ほんと、君って子は……反則だよ……」

震える声でそう呟くと、陽乃は俯いたまま、小さく、けれど確かに、その目から一粒の涙を零し落とすのだった。

 

ファミレスの喧騒の中、陽乃が零した一粒の涙は、彼女が長年まとってきた完璧な仮面の脆さを象徴していた。

いつもすべてを見透かし、周囲を掌の上で転がしているかのように振る舞っていた彼女が、今やただの傷ついた少女のように小さく震えている。

(……やれやれ。面倒くさいことに巻き込まれたもんだ)

八幡は心の中で盛大な溜息を吐きながらも、目の前で俯く陽乃から目を背けることはしなかった。

小町の面倒を見続けてきた「お兄ちゃん」としての業なのか、あるいは根っからの不器用な優しさなのか。こういう場面に直面したとき、彼の身体は勝手に動いてしまう。

ガタ、と音を立てて、八幡は席を立ち上がった。そして、向かい側に座っていた陽乃の隣へと移動し、隣の椅子にどっかりと腰を下ろす。

「な、なに……?」

陽乃が慌てて涙を拭おうと顔を上げかけた、その瞬間。

ぽん、と。

少し荒々しく、けれどどこか温かい大きな手つきが、彼女の艶やかな黒髪にそっと乗せられた。

「……子供泣かせてるみたいで、こっちが居心地わりいんだよ」

気だるげで、ぶっきらぼうな八幡の声が降ってくる。

だが、その手のひらから伝わる体温は、驚くほど優しかった。まるですべてを肯定するかのように、ポンポンとリズムを取りながら、彼女の乱れた髪を優しく撫でる。

「お前はさ、お姉ちゃんでいたいなら勝手にそうしてりゃいい。誰もそれを否定しねえよ。……だけどな、誰も見てねえところでまで、そんなボロボロになりながら笑う必要なんてねえんだよ」

妹の小町をあやすときと、どこか似ている。

けれど、それ以上に「一人の人間」として彼女の苦しみを真っ直ぐに受け止めようとする、不器用で圧倒的な包容力だった。

「……っ……」

その言葉と、頭を撫でられるというあまりにも無防備なスキンシップに、陽乃の防壁は完全に粉々に砕け散った。

彼女はもう隠そうともせず、両手で顔を覆うと、小さく震えながら、これまでの人生でずっと押し殺してきた涙を堰を切ったようにこぼし始めた。

周囲の客の視線なんて、今の二人には関係ない。

安っぽいファミレスのボックス席の隅で、傷だらけのひねくれた少年は、最強の仮面を被った少女の頭を撫で続けながら、ただ静かにその重荷を受け止めてやるのだった。

 

しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いた陽乃は、両手で覆っていた顔をゆっくりと上げた。

テーブルの上にあったペーパーナプキンで目元をそっと押さえ、彼女はいつもの、けれどどこか作り物ではない柔らかい笑みを浮かべる。少し赤くなった瞳が、かえって彼女の生々しい美しさを引き立てていた。

「……ふう。なんだか、すごくみっともないところを見せちゃったね。お姉ちゃんとして、ちょっと失格かな」

少し自嘲気味に呟く陽乃に、八幡は撫でていた手を引っ込め、いつもの気だるげな様子でアイスコーヒーのストローをくわえた。

「今更だろ。最初からお姉ちゃんなんてキャラでもねえし、完璧超人ぶるからボロが出るんだよ」

「もう、容赦ないなぁ……。でも、ありがとう。なんだか、すごく軽くなった気がする」

陽乃はカップの縁を指先でなぞりながら、少しだけ遠い目をした。

いつもならここでまたすぐに強い仮面を被り直すのだろうと八幡は思っていたが、今の彼女の雰囲気はどこか違っていた。肩の力が抜け、本当の歳相応の少女のような、穏やかな空気が漂っている。

そんな陽乃を見つめながら、八幡は別に大したことではないというように、ぶっきらぼうに言い放った。

「別に。見せたいなら、いつでも見せりゃいいだろ。……こういう場所で、息抜きくらいには付き合ってやるよ。俺が相手なら、お前がどんな顔しようが面倒くさがるだけで、誰も責めたりしねえしな」

それは、あまりにも自然に、そしてあまりにもまっすぐに発せられた言葉だった。

計算も、下心も、見栄すらない。ただ目の前でボロボロになっていた人間を、自分のテリトリーの住人としてそのまま受け入れる、彼なりの「お兄ちゃんスキル」の極みだった。

「――っ」

その瞬間、陽乃の心臓が大きく跳ね上がった。

これまで、多くの人間が彼女の「仮面」を見て近づいてきたり、あるいは恐れをなして離れていったりした。誰も、その仮面の内側にある「素の自分」を見ようとはしなかったし、見せようとも思わなかった。

それなのに、このひねくれた少年は、何の気負いもなくその壁を軽々と飛び越え、ただ当たり前のように「いつでも寄りかかれ」と言ってのけたのだ。

甘い、とか、ずるい、とか、そういう感情ではない。

胸の奥の、誰にも触れられたことのない一番柔らかい場所を、熱い手で直接掴まれたような、不思議な――けれど心地よい衝撃だった。

陽乃はトクトクと高鳴る胸を押さえるように自分の左胸に手を当て、真っ赤になった頬を隠すようにふっと微笑んだ。

「……そっか。それじゃあ、お言葉に甘えて……これからいっぱい、息抜きに付き合ってもらおうかな。覚悟してよね、比企谷くん」

その瞳には、かつての冷徹な仮面ではなく、ひとりの少女としての真っ直ぐな光が宿っていた。

安っぽいファミレスの照明の下、不器用な野獣と、それに絆された少女の距離は、少しだけ、確実につまっていたのだった。

 

放課後の買い出しを頼まれた比企谷八幡は、夕暮れ時の少し人通りの少ない商店街の角を曲がったところで、思わぬ光景に足を止めた。

「おい、そこのお前。さっきからいい気になってんじゃねえよ」

低く凄むような声の主は、派手なメイクに派手な着こなしをした、いかにもといった風貌の不良少女――女ヤンキーだった。その取り巻きの女子数人に囲まれ、壁際に追い詰められて冷や汗を流している人物がいた。

――川崎沙希だった。

相変わらずの鋭い目つきや尖った雰囲気を持ちながらも、なぜか今日の彼女はトランクケースや買い出しの荷物を抱えており、柄の悪い連中に絡まれて身動きが取れなくなっているらしかった。そのうえ、八幡自身の見た目も、先日までの路地裏の喧嘩でついた消えかけの擦過傷や、相変わらずの銀髪交じりのブリーチ、そして耳元で光るピアスといった「どう見てもヤバい不良」そのものの出だ立ちである。

(……はぁ。またかよ。今日は休ませろっての)

面倒くさそうに頭を掻きながらも、八幡はそのまま見過ごすわけにもいかず、スニーカーの足音を響かせながらスタスタと彼女たちへと近づいていった。

しかし、声をかけるよりも早く、八幡の顔にある生傷や銀髪、ピアスのヤバい雰囲気を間近で見た女ヤンキーたちの表情がみるみる青ざめていく。

「な、なんだこいつ……? めちゃくちゃ怖くね……?」

「やばい、関わったらやばいタイプのやつだ……!」

絡んでいた女ヤンキーたちは、八幡から放たれる本物の不良のオーラと凄みに完全に気圧され、ブルブルと震え出した。

「お、おい、お前ら……!」と強がりを言おうとしたリーダー格の女ヤンキーに対し、八幡は低く冷え切った目で一瞥をくれると、威圧するようにスッと一歩踏み出した。

ドンッ――!

八幡は、怯える女ヤンキーの背後の壁へと右手を力強く叩きつけ、逃げ道を完全に塞ぐ「壁ドン」の体勢を作った。

さらに、至近距離でビクッと息を呑んだその女ヤンキーの顔を逃がさないよう、もう片方の手で彼女の「顎をクイッ」と有無を言わせぬ力で持ち上げ、強制的に自分の方へと視線を向けさせた。

「ひっ……! ご、ごめんなさい……っ!」

すぐ目の前にある、死んだ魚のような虚ろな瞳と、喧嘩慣れした生傷だらけの顔。圧倒的な男としての距離感と底知れぬ狂気に、女ヤンキーは完全に心をへし折られ、涙目になりながら叫んだ。

「もう二度と絡みません! ごめんなさい! 行くよっ!」

捨て台詞すら吐く余裕もなく、女ヤンキーとその取り巻きたちは、蜘蛛の子を散らすように慌ててその場から逃げ出していった。

静けさが戻った路地裏。

その場で一部始終を見ていた川崎沙希は、ポカンと口を開けたまま、目の前で起きた光景に完全にフリーズしていた。

 

静まり返った路地裏。

女ヤンキーたちを文字通り「壁ドンと顎クイ」で一瞬にして追い払った八幡は、何事もなかったかのようにすっと腕を引いた。

そして、その場で大きな荷物を抱えたまま呆然と立ち尽くしている川崎沙希へと振り返り、いつもの気だるげなトーンで声をかけた。

「……おう。久しぶりだな、川崎」

「え……?」

沙希はまださっきの圧倒的な気迫と至近距離の残像を引きずっていたのか、目を丸くしたまま、目の前に立つ銀髪の不良――いや、不良の格好をした男子生徒をじっと見つめた。しかし、顔中の生傷や派手な髪色、耳元のピアスのせいで、脳内でクラスメートの顔とどうしても結びつかないらしかった。

「……あんた、誰よ……? どこかで会ったっけ……?」

警戒心を解かないまま、ぶっきらぼうに問い返す沙希。

八幡は面倒くさそうに盛大な溜息をつくと、ボリボリと頭を掻きながら告げた。

「……目ぇ腐ってんのか、本当にお前は。……比企谷だよ、比企谷八幡」

「――は……?」

その名前を聞いた瞬間、沙希の動きが完全にピタリと止まった。

よく見れば、その気だるげな声のトーンも、やけに冷めた目つきも、そして時折見せるめんどくさそうな仕草も、すべて見覚えがある――いや、つい最近まで教室の隣の席で嫌というほど見ていた、あの比企谷八幡そのものだった。

「ひ……比企谷……? え、嘘……なんでお前が……その、その頭とか傷とか……っ!」

沙希の顔がみるみるうちに赤く染まり、動揺と混乱で声が裏返る。

いつもの地味で冴えない陰キャの男子だと思っていた相手が、先ほど見せた圧倒的な凄みと男らしさ、そして自分を助けてくれた事実。そのギャップが頭の中で激しく衝突し、彼女の思考回路を完全にショートさせるのだった。 

 

「……なんだよその驚いた顔は」

八幡は呆れたように片眉をひそめ、自分の派手な髪色や生傷を軽く手で払ってみせた。

「喧嘩よけの見た目にしてるだけだよ。こういう格好しとけば、無駄に絡まれて面倒事に巻き込まれる確率が下がるからな。……まあ、この傷は、その、交通事故とかいろいろあって出来たやつだけど」

どこか照れくさそうに、しかし自嘲気味にふっと笑ってみせる八幡。

その軽口の裏に、どれだけの面倒や、どれほどの理不尽が隠されているかなんて、彼自身は口にするつもりもなかった。

しかし、その言葉を聞いた川崎沙希の胸は、激しく締め付けられるように痛んだ。

(――交通事故って……)

思い出すのは、数日前に噂で聞いた話や、目の前の少年の痛々しい包帯の跡。

ただの「喧嘩よけ」などと言っているが、この男がまとっている生傷や、先ほど見せた圧倒的な凄みは、自分のため、あるいは――誰か他の大切な誰かのために、泥を被って戦ってきた証拠に他ならない。

前回の雪ノ下家の件もそうだった。彼はいつも、自分のことなど省みず、目の前で理不尽に傷つけられている人間がいれば、黙ってその身を挺して盾になる。

不器用で、ひねくれていて、自分の評価なんてどうでもいいと言いながら、その実、誰よりも優しく、誰よりも勇敢に拳を振るう。

(……このバカは……また、誰かを助けるために……自分の体をボロボロにして……)

沙希は大きく息を呑み、ゴクリと喉を鳴らした。

胸の奥からこみ上げてくる熱いものが視界をにじませそうになり、彼女は慌てて視線を逸らし、持っていたトランクケースの取っ手を強く握りしめた。

「……バカじゃないの、お前……」

震える声で吐き捨てるように言ったその言葉には、呆れや怒りだけでなく、形容しがたい深い切なさと、どうしようもないほどの胸のときめきが混ざり合っていた。

夕暮れの赤茶けた光の中、不器用な優しさを隠そうともしない少年の背中を、沙希はただ黙って見つめることしかできなかった。

 

「……っ、とにかく!」

胸の内で渦巻く熱を隠すように、沙希は突然大きな声を出し、ガタガタと足元に置いた荷物を整理し始めた。少し赤らんだ頬を八幡に見られないよう、必死に顔を背けている。

「……なんだよ、急に大声出して」

「うるさい! ……で、その……なんだ」

沙希はゴホンとわざとらしく咳払いをすると、ツンとしたいつもの威勢を取り繕うように、けれどどこか気まずそうに目を泳がせた。

「その顔の傷とか、結構ひどいじゃない。……このまま放っといたら後が残りそうだし、それに……さっき助けてもらったお礼もまだだしさ。……うち、来る?」

「は? お前の家か?」

「そ、そうよ! 別に深い意味はないわよ! 近所だし、うちには救急箱もあるし、その……母さんたちも出かけてて静かだから、さっさと手当しちゃい結んだほうがいいでしょ!」

まくし立てるように言う沙希の耳たぶまで、真っ赤に染まっているのは一目瞭然だった。

八幡は面倒くさそうに頭を掻いたが、確かに頬や腕のヒリヒリとした痛みが消えたわけではない。

「……まあ、タダで薬が借りられるなら悪くねえか。お邪魔します、っと」

そう言って沙希の後をついていき、彼女の自宅のリビングへと通された八幡は、ソファにどっかりと腰を下ろした。

しばらくして、沙希はキッチンからバタバタと慌ただしい足音を立てて戻ってきた。その手には、消毒液やガーゼの入った救急箱……だけでなく、なぜか湯気の立つ温かい料理の乗ったお盆が握られている。

「ほら、座ってないで消毒するわよ。……あと、これ、小腹空いてるでしょ。適当に作ったから食べなさいよ」

テーブルの上に置かれたのは、いかにも家庭的で美味しそうな生姜焼きと、どんぶりいっぱいの白米、そして温かい味噌汁だった。

驚く八幡をよそに、沙希は手際よく綿棒に消毒液を浸すと、無言で八幡の隣にちょこんと腰を下ろした。

「じっとしててよ。しみるから」

「おう……すマンな」

沙希の真剣な横顔を見ながら、八幡はそっと箸を手に取り、生姜焼きを一口頬張る。

ピリッとした生姜の風味が効いた優しい味に、思わずほっと息が漏れた。

目の前には、料理を振る舞ってくれる同級生の女子。自分はケガの治療を受けていて、部屋には二人きり。

そのあまりにもアットホームで、どこか家庭的なシチュエーションを噛みしめながら、八幡はふと口を滑らせた。

「……なんだか、こうしてると、まるで新婚夫婦の飯みたいだな」

「――ぶっっっ!!」

聞いた瞬間、沙希は口に含んでいたお茶を盛大に吹き出しそうになり、激しくむせ返った。

「なっ……! はっ……!? あんた、今、なに……!?」

顔の皮膚温度が一気に限界突破し、湯気が出そうなほど真っ赤に染まった沙希は、持っていた綿棒をテーブルにガチャリと落とした。パニックのあまり心臓がうるさく鳴り響き、どう反応していいか分からず、ただひたすらバタバタと両手を慌てて振り回す。

「ば、馬鹿じゃないの!? なに言ってんのよ急に! 誰が新婚よ! だれが夫婦よ! 脳みそまで怪我したわけ!? バカ! 変なこと言ってないで、さっさとご飯食べなさいよ!」

「いてて、急に叩くなよ! ……って、消毒液が目に入りそうだから暴れるな!」

赤面して真っ向から否定しながらも、恥ずかしさのあまり耳まで真っ赤にして俯く沙希の姿に、八幡は苦笑いを浮かべつつ、温かいご飯を口プッシュしていくのだった。

騒がしくも心地よい空間の中で、二人の距離は、少しずつ、しかし確実に縮まっていくのだった。

 

テーブルの上で湯気を立てる生姜焼きの匂いと、目の前でバタバタと照れ隠しに慌てる八幡の姿。

その光景に、沙希はふと、遠い過去の記憶を重ね合わせていた。

中学時代、周囲から浮いた存在だった自分を、決して特別扱いするわけでもなく、ただ当たり前のように受け止めてくれたこと。あのときから、心のどこかでずっとこのひねくれた少年の背中を目で追っていたこと。

気づけば、いつの間にか募っていたこの感情は、ただの「クラスメートへの感謝」なんかではなく、紛うことなき「恋心」だったのだと、今更のように胸の奥が熱く疼く。

(……なんで、このバカは……いつもこうして、無意識に私の心をかき乱すのよ……)

「……おい、川崎? どうした、急に黙り込んで。顔が真っ赤だぞ、熱でもあんのか?」

心配そうにのぞき込んできた八幡の顔は、すぐ目の前にあった。

頬の生傷や、少し伸びた銀髪、そしてあの不器用で、けれど真っ直ぐな死んだ魚の目。

近すぎる距離感に、沙希の思考回路がプツリと音を立てて途切れた。

胸の高鳴りが限界を超え、理性がフリーズする。

今のこの甘い空気感、二人きりのリビング、そして目の前にある無防備な顔。

――今なら、許されるかもしれない。ずっと胸の奥に閉じ込めていたこの想いを、ほんの少しだけ形にしてしまってもいいかもしれない。

ふっと、沙希は吸い寄せられるように、自分の体を八幡の方へと傾けた。

トントンと激しく鳴る心臓の音を隠すように、そっと目を閉じ、彼の唇へと自分の顔を近づけていく。

「……っ?」

わずかに異変を察知した八幡が、目を見開いて動きを止める。

その直前、唇と唇が触れ合うかという、ほんの数ミリの距離まで迫ったその瞬間。

――……はっ!?

急に脳裏に冷水を浴びせられたように、沙希はハッと現実へと引き戻された。

「――な、なにやってるのよ私っ……!?」

パッと目を見開き、自分が今どんなどえらいことをしようとしていたのかを理解した瞬間、沙希の顔面はトマトのように真っ赤に爆発した。

心臓が口から飛び出しそうなほどのパニックの中、彼女は勢いよく両手で八幡の胸をドンッと突き飛ばした。

「ぐえっ……! なんだよ急に!」

「ば、ばかばかばか! なんでもない! なんでもないわよ!」

あまりの恥ずかしさに、沙希は頭から湯気を出さんばかりの勢いで立ち上がり、持っていた救急箱をガチャンと乱暴に閉めると、その場からバタバタと逃げるようにキッチンへと駆け込んでいった。

「いって……あいつ、急にどうしたんだよ……」

ソファに取り残された八幡は、ぽかんと口を開けたまま、自分の胸を押さえて首をかしげるばかりだった。

キッチンの中で、真っ赤な顔を両手で覆い、自分の熱を持った頬を必死に冷やし続ける沙希の心臓は、しばらくの間、うるさいほどに鳴り止まなかった。

 

キッチンからなかなか戻ってこない沙希を待ちながら、八幡はぽりぽりと頬を掻いた。

(……さっきの感じ、まさか……な)

鈍感な自覚はあるが、流石にここまであから様にパニックを起こされれば、彼女が自分に向けている感情の正体に気づかないほどバカではない。不良に絡まれているところを助けたときから、いや、それ以前から、彼女の中で自分という存在が少しずつ大きくなっていたのだと思い当たる。

不器用で、一見すると近寄りがたいが、誰よりも家族や友達を大切にするまっすぐな奴。そんな沙希のことを、八幡も悪い気はしていなかった。

ガチャリ、と音がして、キッチンから恐る恐る顔を出した沙希と目が合う。まだ顔の赤みが引ききっていない彼女は、気まずそうに視線を泳がせていた。

「……その、傷の消毒はもういいでしょ。そろそろ帰ったらどうよ?」

ツンとした口調を作ろうとしているが、声が微妙に上ずっている。

八幡はふっと小さく息を吐くと、ソファからゆっくりと立ち上がった。

「ああ、そうだな。長居しても悪いし、そろそろ帰るわ。飯、ごちそうさま。美味かったよ」

そう言って玄関へと歩き出す八幡の背中に、沙希は少しだけ寂しそうな、けれどホッとしたような複雑な表情を浮かべる。

「……べ、別に、お礼なんていらないわよ。気をつけて帰りなさいよね」

靴を履き、ガチャリと玄関のドアノブに手をかけたその瞬間、八幡はふと足を止め、振り返った。

「あ、そうだ」

「なに……?」

身構えた沙希の視線の前で、八幡はスッと一歩だけ歩み寄り、彼女の頬に――ほんの一瞬、軽い感触を残すように口づけを落とした。

「……っ!?」

頭が真っ白になり、沙希の動きが完全にピタリと止まる。

「それじゃ、また明日な」

気恥ずかしさを隠すように、それだけ言い残すと、八幡はバタンとドアを閉めて足早に去っていった。

静まり返った玄関のたたき。

取り残された沙希は、触れられた頬にそっと震える指先を当てたまま、まるで金縛りにあったようにその場に立ち尽くしていた。

「……なっ……いま……え……?」

頭の中で思考が完全にフリーズし、声すらうまく出せない。ただ、ぽかんと口をパクパクと動かすことしかできず、顔の温度は再び限界突破して、耳まで真っ赤に染まり続けるのだった。

 

数日後の総武高校――の中等部棟。

昼休みの喧騒に包まれた廊下や、教室の窓際で、最近ある奇妙な噂がまことしやかに囁かれていた。

「ねえ……最近の中等部の廊下、なんかざわついてない?」

「あぁ、あれでしょ。中等部にいる、銀髪にピアスして顔に生傷絶えないヤバい男子――比企谷くんって知ってる? この前、他のクラスの女子が他校の不良に絡まれてたのを、一言で追い払ったらしいよ」

「ええっ、マジで……? ちょっと不良っぽいのに、困ってると絶対助けてくれる系とか、反則じゃない……?」

当の比企谷八幡本人は、「不良ルックにしておけば中等部の面倒な絡みも減るだろう」というぼっち特有の打算でその見た目を維持していた。しかし、その目論見は見事に外れていた。

顔に残る生傷、近寄りがたい危険な雰囲気。それでいて、ふとした瞬間に見せる他者を庇う無意識の優しさと、決して自分を飾らない底知れぬ包容力。

――まだあどけさの残る中等部の制服を着ながら、あの圧倒的な「雄のオーラ」を纏ったまま校内を闊歩する彼の姿は、後輩の女子たちの間で密かな熱狂の的になり始めていたのだ。

その奇妙な噂と、校内で漂い始めた微かなざわめきを、誰よりも敏感に、そして複雑な思いで感じ取っていた人物がいた。

――まだ高等部に上がる前の、中等部に在籍する雪ノ下雪乃である。

昼休みの静かな教室。

自分の席の窓際でいつものように本を開いていた雪乃だったが、今日ばかりはその活字がまったく頭に入ってこなかった。

(……なんなのかしら、最近のあの不快な噂は。我が妹……ではなく、私自身が通うこの中等部で、あんな不埒な男が変な意味で注目を集めているというのだから……)

ちらり、と本の隙間から、少し離れた席に座る中等部制服姿の八幡を盗み見る。

窓からの西日に照らされた横顔には、まだ痛々しい傷跡が残っている。首元から覗くシャツの襟元や、面倒くさそうに髪を掻き上げる仕草。

かつては「ひねくれた腐った魚の目」と形容していたその瞳も、あの夜、自分の母親という絶対的な権力者を前に一歩も退かず、見事にひれ伏させた狂気と覚悟を知ってしまった今では、得体の知れない凄みを秘めた「獣の瞳」にしか見えなかった。

(……この男の本当の恐ろしさも、その裏にある不器用すぎるほどの優しさも、周囲の浮かれた女生徒たちが理解できるはずもないというのに)

心の中でそう毒づいてみるものの、湧き上がってくるのは優越感ではなく、得体の知れない「焦り」だった。

彼がどれほど自分をすり減らして誰かを守る人間なのか。

その泥臭くも圧倒的な強さを、自分たちだけの秘密にしておきたかったという独占欲。それが今、少しずつ中等部の生徒たちにまで漏れ出し、他の誰かに――よりにもよって若い少女たちに狙われているという焦燥感。

「ねえ、比企谷くん」

「あ?」

我慢できずに声をかけた雪乃に、中等部制服を着た八幡が怪訝そうな顔でこちらを向いた。

「なんだよ急に。俺は大人しく本読んでただけだろ」

「ええ、そうね。ただ、あなたがその無駄に目立つ格好で中等部のエリアをうろついているせいで、周囲の空気が汚染されていると言っているのよ。……少しは自分の影響力を自覚したらどうなのかしら」

「はぁ? なに言ってんだ、俺はただ自分の平穏を守るために必死なだけで、誰に媚びるわけでもねえよ。勝手に変な冤罪着せるな。……つーか、俺のパーソナルスペースは日増しに広がってるぞ。周りの奴らなんて、俺と目が合っただけでビビって逃げ出していくわ」

本気で気づいていない様子の八幡に、雪乃は小さくため息をつき、パタンと本を閉じた。

まだ部活も始まっていない、この何気ない日常の中で。

自分がどれだけ周囲の人間――姉の陽乃や、川崎だけでなく、あろうことか中等部の後輩たちの心までも無自覚にかき乱しているのか、この男はちっとも分かっていないのだから。

「……もういいわ。あなたのその鈍感さは、ある意味で大罪ね」

「褒められてる気が一切しねえうえに、罪が中等部規模に拡大してんだけど」

口を尖らせる八幡からプイッと視線を外し、雪乃は自身の乱れた呼吸を整えるように、ぎゅっと膝の上のスカートを握りしめた。

盤石だと思っていた自分の世界を少しずつ狂わせる、一匹の獣。

その獣に惹きつけられているのは、決して自分や身内だけではないのだと、中等部にまで波及した噂によって突きつけられた現実。

(……私は、何をこんなに焦っているの……?)

今まで感じたことのない、胸の奥がキュッと締め付けられるような痛みに戸惑いながら、雪乃は窓の外に広がる青空を、ただ無言で見つめ続けるのだった。

 

中等部の放課後。薄暗い渡り廊下の陰で、その光景は繰り広げられていた。

「おいおい、なんだよこのキモいノート。お前、まだこんな中二病全開の小説書いてるわけ?」

「ひっ……! 返してくれ、それは俺の魂の……!」

派手なジャージを着た不良グループの数人に囲まれ、中等部制服を着た巨漢――材木座義輝が地べたに這いつくばっていた。その手から無理やりもぎ取られた分厚い自作の小説ノートが、冷笑を浮かべた男子生徒の手でパサパサと雑にめくられている。

「うわ、マジでキモい。読んでて寒気がするわ」

「やめろ……!」

材木座が必死に手を伸ばした瞬間、無情にもその足が、落ちていた材木座の眼鏡をガリリと踏み潰した。さらに、リーダー格の男が「こんなゴミ、捨ててやった方がこのデブのためだろ」と嘲笑いながら、小説のページをビリビリと力任せに破り捨てていく。

その様子を、少し離れた柱にもたれかかりながら、比企谷八幡は死んだ魚のような目でじっと眺めていた。

(……やれやれ。またくだらねえいじめごっこかよ)

正直、関わりたくなかった。

あんな風に群れて他者をいたぶる連中も、自分の力で立ち向かおうともせず怯えている材木座も、どちらも面倒くさいことこの上ない。

――男なら、いじめられてるくらいなら自分の力で解決しろよ。いつまでも誰かに助けてもらうのを待ってんじゃねえよ。

心の中でそう冷ややかに吐き捨て、八幡はそのまま踵を返そうとした。

他人に深入りして痛い目を見るのはもう懲り懲りだ。そう思って一歩を踏み出しかけた、その時だった。

「ひぐっ……、おれの、世界が……」

足元で泣きそうになりながら、破られた紙片を必死にかき集める材木座の姿が目に入った。

先ほどまでの冷めた思考が、脳内で急に軋みを立てて止まる。

(……いや、待てよ)

自分の力で解決しろ?

そんな綺麗事が通用するなら、世の中に理不尽な暴力なんて存在しない。弱い者イジメをして悦に浸るクズどもが、ヘラヘラと笑いながら他人の尊踏を踏みにじっているこの現状は、いつ見たって最高に胸糞が悪かった。

冷めていたはずの血が、ふつふつと黒い熱を帯びて逆流していく。

自分の意志とは裏腹に、八幡の足は自然とそちらへ向かって動き出していた。

「おい、そこまでだ」

低く、地底から這いずるような気だるげな声が、薄暗い渡り廊下に響いた。

「んだテメェ? あん? ……って、うわっ、なんだこいつ……」

振り返った不良グループの視線が、八幡の顔にある生傷、銀髪のブリーチ、そして耳元で光るピアスに釘付けになる。一瞬にしてサーッと彼らの顔から血の気が引いていくのが分かった。

「人の趣味に泥を塗って、何が楽しいんだ? ああ?」

「な、なんだよお前……関係ねえだろ……!」

「関係あるねえよ」

ガシッ、と。

八幡は躊躇うことなく一歩踏み込み、リーダー格の男の胸倉を掴み上げると、そのまま背後のコンクリートの壁へと力任せに叩きつけた。

ドンッ――!

鈍い衝撃音とともに、男が情けない悲鳴を上げる。

圧倒的な暴力の気配と、八幡の虚ろでありながら狂気を孕んだ「獣の瞳」に、残りの取り巻きたちは一歩も動けなくなっていた。

「自分の力でするのかしないのかは、あいつの勝手だ。だがな……」

八幡は男の顎を掴み、さらに顔を近づけて、冷え切った低い声で吐き捨てるように言った。

「テメェらがやってるその陰湿なイジメがよ……見苦しくて、虫酸が走るほど、不快なんだよ」

その一言に込められた底知れぬ拒絶と威圧感に、不良グループは完全に魂を抜かれたように青ざめた。

「ひっ……! もうしねえ! 許してくれ!」

リーダー格の男が情けない声を上げたのを合図に、取り巻きたちは持っていた破られたノートの残骸をその場に放り出し、蜘蛛の子を散らすように慌てて逃げ出していった。

静まり返った渡り廊下。

八幡はふうっと小さく息を吐き出すと、乱れた制服の裾を雑に払い、その場に呆然と座り込んでいる材木座を見下ろした。

 

渡り廊下に静けさが戻ると、八幡はため息をつきながら、ガリガリと頭を掻いた。

足元では、材木座が踏み潰された壊れた眼鏡の残骸と、泥まみれになった破られたノートの紙片を、震える手でかき集めている。その惨めな姿を見下ろしながら、八幡の顔に浮かんだのは同情ではなく、どこか呆れたような、突き放すような冷めた色だった。

「おい、材木座」

低く、淡々とした声が落ちる。

材木座がビクッと肩を揺らし、涙目のうつろな目でこちらを見上げた。

「……お前、この先どうすんだよ」

「うっ……、拙者はただ、我が世界を……」

「そういう話をしてんじゃねえよ」

八幡は冷たく遮ると、ポケットに手を突っ込み、その場に屈み込んでいる巨漢を鋭く見据えた。

「いつまでも誰かが助けに来てくれるとでも思ってんのか? 今回はたまたま俺が通りかかったから良かったものの、そんなの偶然だ。世の中、都合よくヒーローが現れるわけじゃねえんだよ」

理不尽な暴力や陰湿な嫌がらせなんて、どこにだって転がっている。それに屈するかどうかは本人次第だというのに、いつまでも守られる側に甘んじている態度は、見ていて虫酸が走るほどに苛立たしかった。

「お前はどうしたいんだよ。ただ泣き寝入りして、一生人目を気にしてビクビク生きていくのか? それとも、自分の力でどうにかするしかないって腹をくくるのか、どっちなんだよ」

突き放すような、けれど紛れもない現実を突きつける言葉。

それは優しい言葉ではない。むしろ冷酷で、突き放した荒療治だった。だが、いつまでも他人に救いを求める依存心を断ち切らなければ、この男は一生終わらないのだと八幡には分かっていた。

「……自分の力で、どうにか……」

材木座は震える唇を噛み締め、ボロボロになった自分のノートをぎゅっと胸に抱きしめた。

その目から零れ落ちた涙の奥に、ただ怯えるだけではない、ほんのわずかな悔しさと覚悟の光が灯るのを、八幡はただ黙って見下ろしていた。

「……甘えんなよ。次は、誰も助けねえからな」

背中を向け、八幡は気だるげにその場を歩き出す。

不器用で、誰にも優しさだなんて気づかされないやり方で、彼は今日もまた、自分の周囲の理不尽をその拳と冷たい言葉でねじ伏せていくのだった。

 

数日後。

再び放課後の静まり返った中等部の渡り廊下で、嫌な予感は的中した。

「おい、こないだのデブじゃねえか。あのときのイキった銀髪の野郎は今いねえぞ?」

「調子こいてんじゃねえよ、おい!」

あのとき八幡に追い払われたはずの不良グループが、再び材木座を囲み、壁際に追い詰めていた。嘲笑うように腕を掴まれ、再びノートを取り上げられそうになる。

少し離れた柱の陰から、八幡はその光景をじっと見ていた。

(……さて、どう出る)

心の中で呟きながら、足を踏み出すことはしない。あのとき「自分の力でどうにかしろ」と言い放った以上、ここで自分が助けに入っては意味がない。男なら、自分の足で立つ覚悟を決めなければならないのだから。

不良のひとりが、面白半分で材木座の頬を軽く叩いた。

「おい、なんか言えよ。あのおっかない先輩呼んで泣きつくか? ああ?」

その瞬間だった。

ガタガタと恐怖に震えていたはずの材木座の体が、ピタリと止まった。

脳裏によみがえるのは、あのとき八幡に突きつけられた冷たくも現実的な言葉。

『お前はどうしたいんだ。……自分の力でどうにかするしかないだろ』

誰かが助けてくれるわけじゃない。守ってくれるわけじゃない。ここから這い上がるには、自分の手で壁を殴るしかないのだと、巨漢の体がようやく理解した。

「……ふざけんなよ、貴様ら……!」

ぐっと両手を強く握りしめ、材木座は血走った目で真っ正面から不良のリーダーを睨み据えた。

「おのれらの卑劣な所業、この我が手で――ここで断ち切るっ……!!」

怒号とともに、材木座はこれまでの人生で出したこともないような渾身の力を込め、思い切り拳を振り抜いた。

バシッ――! と、思いがけず綺麗な音が廊下に響く。不意を突かれたリーダー格の男が、盛大によろめいて尻餅をついた。

「ぐっ……! このデブ、やりやがったな……!」

「やれ、ボコボコにしてやれ!」

形勢が逆転し、逆上した不良たちが一斉に材木座へと殴りかかろうと飛びかかったその時――。

「――そこまでだ」

低く、冷え切った気だるげな声が、凍りつくような圧倒的な圧力とともに空間を制圧した。

ガシッ――!

飛びかかろうとした不良の腕を、背後から掴んでねじり上げたのは八幡だった。

顔の生傷、銀髪のブリーチ、そして先日の件で恐怖の対象として刻み込まれていたその姿を見た瞬間、不良たちの顔からサーッと血の気が引いていく。

「なっ……お、お前……!」

「言ったはずだぞ。テメェらのその陰湿なイジメが、虫酸が走るほど不快だってな」

八幡は冷え切った「獣の瞳」で奴らを一瞥すると、掴んでいた男をそのまま床に投げ飛ばした。

「っ……! 逃げろっ!」

もう二度と逆らう気など起きないと言わばかりに、不良たちは這いつくばりながら逃げ出していった。

静まり返った渡り廊下。

荒い息を整えながら、拳を震わせて立ち尽くしている材木座の方へと、八幡は面倒くさそうに歩み寄る。

「……やったじゃねえか」

ボソッと呟かれたその言葉に、材木座は傷だらけの顔で、ぐっと涙をこらえながら力強くうなずいた。

その背中を見送りながら、八幡は小さく息を吐き、再び一人で静けさの中へと歩き出すのだった。

 

騒がしかった不良たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、渡り廊下には再び静けさが戻っていた。

荒い息を吐きながら、自分の拳を見つめて震えている材木座の肩を、八幡は「よくやった」と言わばかりに軽く叩いてその場を離れようとした――その時だった。

少し離れた角の陰から、その一部始終をずっと見つめていた人物がいた。

――葉山隼人だった。

いつもなら、誰かが揉め事に巻き込まれていれば「どうしたんだい?」と爽やかな笑顔を振りまき、見事にその場を円満に収めてみせるはずのクラスの人気者。

しかし、今日の葉山は一歩も動けなかった。足元に根が生えたようにその場に立ち尽くし、ただ青ざめた顔で、目の前で起きた光景を凝視していた。

(……僕には、できなかった……)

材木座が怯えているときも、不良たちが暴力を振るっているときも、葉山は頭の中で「どう仲裁するべきか」「どうすれば誰も傷つかないか」という損得や人間関係のバランスばかりを計算し、結局、何も行動を起こせなかった。

彼の「優しさ」や「気配り」は、泥を被る覚悟のない、ただの傍観者の免罪符でしかなかったのだと突きつけられた気がした。

圧倒的な暴力を前にして、自分の保身すら捨てて他人のために拳を振るう比企谷八幡。

綺麗事ではなく、泥臭く傷つきながらも、目の前の現実と真正面から向き合って見せたその姿は、葉山にとって眩しすぎると同時に、底知れぬ恐怖と圧倒的な敗北感を抱かせるものだった。

「比企谷……くん……」

震える唇から漏れたその名は、誰に届くこともなく空気に溶けて消えた。

去っていく八幡の背中を、葉山はただ、どうしようもない無力感に囚われた瞳で見送り続けることしかできなかった。その背中は、彼が今まで見てきたどんな理想像よりも大きく、そして残酷なまでに遠くで見えていた。

 

数日後、放課後の校舎裏。

いつもなら周囲に人が絶えないはずの葉山隼人が、珍しく一人でいるところを、数人の他校の不良たちに囲まれていた。

「おい、生徒会長(笑)さまよ。いい顔してんなぁ、普段のその爽やかな面構え、少し歪めてやろうか」

調子に乗った不良が、葉山の胸倉を掴みにかかる。

いつもなら、完璧な笑顔と絶妙な話術でその場を丸く収めるか、あるいは誰かが助け舟を出していたはずの状況だった。しかし、今日の葉山はどこか気圧されたように動きを止めていた。

少し離れた日陰のベンチ。

その一部始終を、八幡は缶コーヒーを片手に冷めた目で眺めていた。

(……さて、どうするよ、完璧超人さん)

八幡は助けに入る素振りすら見せない。

あのとき自分の背中を見ていた葉山の怯えも、彼が抱える保身の葛藤も、なんとなく察していた。だからこそ、ここで自分が手を差し伸べれば、彼は一生「誰かの後ろに隠れるだけの傍観者」のままだ。

自分の問題は自分で解決するしかない。――あのとき自分が材木座に突きつけた言葉は、そのままそっくり今の葉山にも当てはまる。

不良の手に押され、葉山がよろめいたその瞬間。

ふと、葉山の視線がスッと横に向けられ、そこに座る八幡と目が合った。

(――……!)

八幡の目は冷たく、そしてどこまでも静かだった。

だが、その虚ろな死んだ魚の奥にあったのは、見捨てる冷酷さではない。「お前ならできるだろ。いつまでもそんなところで足踏みしてんじゃねえよ」と、有無を言わせぬ意志を宿した無言の圧力だった。

――お前なら、やれる。

言葉はなくとも、その目がそう訴えかけていた。

その視線を受けた瞬間、葉山の胸の奥で、何かがパツンと音を立てて弾けた。

(……僕は、いつまで綺麗な顔をして見過ごすつもりだ……?)

他人に嫌われたくない、誰も傷つけずに上手に立ち回りたい。そんな見栄や保身の殻が、八幡の冷徹な一瞥によって音を立てて剥がれ落ちていく。

ここで引いたら、自分は一生、あの背中に追いつくことすらできない。

「……っ!」

葉山は掴まれていた胸倉を、自らの手で力強く掴み返した。

いつもの爽やかな笑顔は微塵もない。代わりに浮かんでいたのは、泥臭く、必死に自分の尊厳を守ろうとする一人の男の顔だった。

「……これ以上、僕に触るな」

低い、けれど芯のある声が放たれる。

驚いて動きを止めた不良の隙を見逃さず、葉山はこれまでの人生で一度も振るったことのない、自らの意志を乗せた拳をまっすぐに突き出した。

バシッ――!

鈍い衝撃とともに、不良がバランスを崩して地面に倒れ込む。

予想外の反撃を食らった残りの不良たちが「なっ……こいつ……!」と気色ばむが、葉山の目はもう恐怖に怯えてなどいなかった。

その様子を遠くから見届けた八幡は、やれやれと小さく息を吐く。

「……やっと、自分の足で立ち上がったか」

缶コーヒーの空き缶をポケットに突っ込み、八幡はそれ以上見届けることもなく、静かにその場を背にして歩き出すのだった。

 

ある日の放課後。

校舎の裏手にある使われなくなった古い倉庫の脇から、なにやら「シュッ、シュッ」と重い空気を切り裂くような音が聞こえてきた。

気だるげに歩いていた八幡が足を止め、音のする方へと視線を向ける。

そこにいたのは――材木座義輝だった。

いつもの不気味なオタク然とした佇まいはそこになく、着崩した制服のシャツの袖まくられた腕には、以前よりも明らかに引き締まった筋肉がつき、額には玉のような汗が浮かんでいる。彼は一人、古い木に向かってガムシャラに拳を突き出していた。

(……は? あいつ、いつの間にあんな真面目に……)

驚く八幡の前で、材木座が放ったパンチはフォームこそ素人臭いものの、かつての怯えていただけのデブとは比べ物にならないほどの熱量を帯びていた。しかし、同時にどこか力任せで、本気で喧嘩になれば致命的な隙だらけの動きでもある。

「おい、材木座」

声をかけながら八幡が近づくと、材木座はビクッと肩を跳ねさせ、汗を拭いながらこちらを向いた。

「お、比企谷殿……! 見ておるか、拙者はもう、ただのサンドバッグではないぞ!」

「……まあ、少しはマシになったみたいだがな」

八幡は呆れたように息を吐くと、ポケットから手を抜き、材木座の足元と構えを冷めた目で一瞥した。

「だが、そのフォームじゃ一発殴る前に隙だらけで返り討ちに遭うぞ。力任せに振るうだけが喧嘩じゃねえんだよ」

「なっ……! では、どうすればいいのだ! 教えてくれ、比企谷殿!」

必死な面持ちで食い下がってくる材木座に、八幡は「めんどくせえな……」と盛大な溜息をついた。だが、ここで見捨てるのも気分が悪い。

「……仕方ねえ。少しだけだぞ」

八幡は軽く自分の肩を回すと、材木座の前に立った。

「まず、お前のそのデカい体躯は最大の武器だ。だが、体重の乗り方がなってねえから威力が死んでる。腕だけで殴ろうとするな、腰を入れろ、こうだ」

実際に自分の体を使い、最小限の動きで相手の急所を的確に捉えるための重心移動や、ガードの構え方を実演していく。

「喧嘩なんてのはな、カッコつけて派手に動いた方が負けだ。いかに相手の攻撃をかわし、泥臭く、確実に急所を突くか。……まあ、一番いいのは面倒事に巻き込まれないことだがな」

「むぅ……! なるほど、ただ力任せに振るうのではなく、重心と効率の合理性か……! さすがは比企谷殿、まさに実践の兵法!」

目を輝かせてメモを取るような勢いで聞き入る材木座に、八幡は「いや、そこまで大層なもんじゃねえよ」と苦笑いを浮かべる。

不器用ながらも自分の身を守るために変わり始めている巨漢の背中を見ながら、八幡は再びポケットに手を突っ込み、夕暮れの校庭へと歩き出すのだった。

 

放課後の静かな中等部棟。

自分の教室の窓から校庭を眺めながら、葉山隼人はゆっくりと自分の右手を握りしめていた。

あのとき、不良たちの前で恐怖を振り切り、自らの意志で突き出した拳。

その一撃の感触は、今もまだ微かに手のひらに残っている。それは、クラスの誰もが期待する「完璧な葉山隼人」としてではなく、一人の人間としての、生身の重みを持った感触だった。

(僕は今まで、何から目を背けていたんだろう……)

誰も傷つけないように、誰からも嫌われないようにと、綺麗事の笑顔を仮面のように貼り付けていただけ。本当の争いや、泥臭い感情から逃げ続けていただけの自分に、あの冷めた目で「お前ならできる」と現実を突きつけてくれたのは、他の誰でもない――比企谷八幡だった。

ふと、校庭の方に視線を向けると、遠くの古い倉庫の脇で、汗だくになりながら必死にサンドバッグを叩く巨漢の姿が見えた。

材木座義輝だ。彼もまた、あの理不尽な暴力に屈するまいと、自分の足で立ち上がるために必死にもがいている。

自分も、あいつも、変わろうとしている。

その小さな、しかし確かな変化のきっかけをくれたのは、いつも一人で孤高に泥を被っているあのひねくれた少年の背中だった。

葉山は胸の奥で、熱く静かな決意を固める。

誰かの後ろに隠れて要領よく生きる自分には、もう二度と戻らない。綺麗事だけじゃ守れないものがあるなら、自分のこの手で掴み取り、泥臭くでも立ち向かえる男になる。

(見ていてくれよ、比企谷くん……)

いつか彼の背中に並べる日が来るのか、それはまだわからない。けれど、もう迷うことはなかった。葉山はまっすぐ前を向き、新たな自分を胸に刻み込むように、力強く歩き出すのだった。

 

放課後の帰り道、駅から少し離れた寂れた住宅街の路地裏で、そのトラブルは起きていた。

「おいおい、お姉ちゃん。そんなお高く留まった顔してさ、ちょっと俺たちと遊んでいかない?」

「……離しなさい。大声を出しますわよ」

冷たく毅然とした声で突っぱねる雪ノ下雪乃だったが、目の前に立ち塞がる他校の体格のいい高校生男子二人の威圧感に、わずかにその体が強ばっていた。周りに人気はなく、助けを呼ぶことも難しい。

自分の無力さと、恐怖に足がすくみそうになる自分への怒りで、雪乃の胸の奥が悔しさで締め付けられていた。

(くっ……! 私がもう少し、いざという時に動ければ……!)

その時、路地の入り口から、気だるげで低く、どこか冷め切った声が響いた。

「おい、そこまでだ」

不良たちが振り返ると、そこには顔に生傷を絶やさず、銀髪にピアスという一見して危なげな雰囲気を纏った比企谷八幡が立っていた。

「んだテメェ……? あん? ガキが生意気な口きいてんじゃねえよ!」

「ガキでもお前らよりはマシなもんが見えてるけどな」

八幡が近づくやいなや、不良の一人が掴みかかろうと腕を伸ばしたが、八幡はそれを最小限の動きですっとかわし、重心を崩した男の懐に踏み込むと、そのまま鋭い一撃で地面へと沈めた。

残りの一人も「なっ……!」と気色ばんで飛びかかってきたが、八幡の虚ろでありながら底知れぬ狂気を孕んだ「獣の瞳」を見た瞬間、恐怖に気圧されて腰を抜かした。

「……二度と変なちょっかい出すなよ」

低い一言に、不良たちは這いつくばるようにして逃げ出していった。

路地裏に静けさが戻る。

八幡は小さく息を吐き、乱れたシャツの裾を整えると、壁に背中を預けたまま、呆然と立ち尽くしている雪乃の方をちらりと見た。

「……怪我はねえのかよ、雪ノ下」

その声に、雪乃ははっと現実に戻った。

助けてもらったという安堵よりも何よりも強く胸を突いたのは、圧倒的な無力感だった。

材木座も変わり、葉山も自分の足で立ち上がろうとしているというのに、自分は結局、あの夜の母親の件といい、今回といい、いざという時は何もできず、男の背中に守られることしかできない――。

「……悔しいわね」

震える声で、雪乃はぎゅっと自分の両手を握りしめた。その目には、大粒の涙が悔しさにじむように溜まっていた。

「……自分が、情けないわ。いつも口ばかりで、いざとなれば恐怖に足がすくんで、あなたや他の人たちに守られてばかりで……私には、自分の身を守る力も、何一つない……」

気丈な彼女が珍しく見せた弱音と、その悔し涙を前にして、八幡は少しだけ困ったように頭を掻いた。

目を逸らしたくなるような現実から目を背けず、自分の弱さと真正面から向き合おうとしているその姿に、彼はため息混じりに小さく笑った。

「泣くくらいなら、今から変えりゃいいだろ」

「……え?」

顔を上げた雪乃に、八幡はポケットに手を突っ込んだまま、ぶっきらぼうに、けれど確かな響きを持って告げた。

「そんな細腕じゃ、護身の『ご』の字もできねえよ。……なあ、別に格闘家を目指すわけじゃねえが、最低限の体幹とか、動ける身体の使い方はある。……お前が本気で変わりてえなら、今度から、材木座や俺と一緒に少し体を鍛えてみるか?」

その提案は、彼女にとって意外すぎるものだったが、同時に、泥臭く這いつくばる男たちの世界へと踏み出すための、初めての確かな切符だった。

雪乃は涙を拭うと、震えていた拳を強く握り締め、真っ直ぐに八幡を見据えた。

「……ええ、ぜひ頼むわ。……後悔させてやらないんだから」

冷たい夕闇の中、一歩を踏み出した少女の瞳には、かつてない強い光が宿っていた。

 

それから数日後の放課後。

校舎裏の古い倉庫の脇。材木座が荒い息を吐きながら腕立て伏せに励み、その傍らで雪乃が引き締まった表情で体幹トレーニングをこなしている。

そして、その輪の中には黙々と汗を流す葉山の姿もあった。言葉はなくとも、誰もが己の弱さと向き合い、「闘う男の目」を宿している。

「……よし、今日の特訓はここまでだ。お疲れさん」

八幡が声をかけると、その場にいた全員がドッと地面に崩れ落ちるように息をついた。雪乃は悔しそうに砂埃を払い、材木座は「我が肉体、限界を突破しつつある……!」と満足げに鼻息を荒くしている。葉山もタオルで汗を拭いながら、心地よい疲労感に浸っていた。

それぞれが息を整えていると、八幡はふとポケットから小銭を取り出し、近くの自動販売機へと歩いていった。

数秒後、ガコン、ガコンと心地よい音が連続して響く。

「……ほら、お前ら」

戻ってきた八幡の手には、人数分の黄色い缶が抱えられていた。

パキッ、と次々にプルタブが引かれる軽快な音が響き渡る。八幡はそれぞれの手に、いつもの黄色いパッケージの缶を放り投げていった。

「お疲れ様の気休めだ。……まあ、飲めよ」

差し出されたそれを、材木座は「おお……! これぞ戦士の蜜……!」とありがたそうに受け取り、雪乃は「ふん、子供っぽい趣味ね……と言いつつ、たまには悪くないわね」と小さく笑って受け取る。

そして、葉山は手渡された黄色い缶をじっと見つめ、それから少しだけ驚いたような、けれど柔らかい笑みを浮かべた。

「……ありがとう、比企谷くん」

「んだよ、気色悪い。早く飲めっての」

照れくさそうに頭を掻く八幡を見ながら、葉山もプルタブを開け、極上の甘さを喉へと流し込む。

冷たい甘さが疲れた体に染み渡っていく。いつもなら面倒くさいと切り捨てるはずの馴れ合いが、なぜか今日の夕暮れの中では、酷く心地よく感じられた。

それぞれの缶が夕日に照らされ、歪でありながら確かな絆を帯びた静かな時間が、そこに流れていた。

 

放課後の駅前通りを一人歩いていた中等部制服姿の八幡は、ふと視界に入った高級そうな和服の女性の姿に足を止めた。

――雪ノ下陽乃の母親、雪ノ下母その人だった。

周囲の空気を凍りつかせるような圧倒的な気品とプレッシャー。あの夜、様々な大人たちの思惑が交錯する中で対峙したときの記憶が蘇り、思わず八幡の背筋にピリリと緊張が走る。

しかし、向こうもこちらに気づき、静かに歩み寄ってきた。逃げ出すわけにもいかず、八幡は身構えつつも、いつもの気だるげな虚勢を張る。

「……何の用ですか、おばさん」

「ふふ……中等部にも関わらず、随分と物騒な格好をして尖っているのね。比企谷くん、だったかしら」

冷徹な視線で見据えてくる母親に対し、八幡はあえてフッと肩の力を抜いてみせた。

「そんなに身構えるなよ。俺はただの通りすがりの中学生だ。そこまで警戒されるようなもんでもねえだろ」

図星を突かれたのか、あるいはその不遜ともとれる物言いに驚いたのか、雪ノ下母の瞳がわずかに見開かれる。だが、八幡はそれ以上面倒な問答を避けるように、ふっと顎をしゃくった。

「お堅い話は抜きだ。腹減ったろ、奢ってやるよ」

「……私を、どこへ連れて行くつもり?」

「決まってんだろ、サイゼだ」

有無を言わせぬ調子でそう言い放つと、八幡はフリーズする気品あふれる母親を尻目に、トコトコと近くのイタリアンファミリーレストランの扉を押し開けていくのだった。

 

サイゼリヤの隅の席。

ディナータイムの喧騒から少し離れた落ち着いた一角で、向かい合わせに座る中等部制服姿の比企谷八幡と、高級そうな和服を纏った雪ノ下母の姿があった。

テーブルの上には、上品に湯気を立てるエスプレッソと、なぜか八幡が頼んだヤラカイ肉のメニュー――ではなく、無難に注文したドリンクバーのコーヒーが置かれている。

周囲の客が二人の異様な組み合わせ(和服の優雅な婦人と、銀髪ピアスの不良風中学生)にちらちらと視線を送る中、当の本人たちは静かにカップに口をつけていた。

苦い液体を喉に流しながら、八幡は目の前の女性をじっと観察する。

――思えば、この人も相当かわいそうではあるよな、と。

表向きは完璧で冷徹な一族の当主、あるいは家庭を取り仕切る絶対的な存在のように振る舞っているが、その実、巨大な「雪ノ下建設」をはじめとする家業の利権やしがらみ、世間体、そして複雑に絡み合う身内の問題のすべてを一人で背負わされている。愛娘である雪乃や陽乃とのすれ違いも含め、この人が背負っているプレッシャーの重さを想像すると、少しだけ同情の余地もあった。

「……なんだい、そんな探るような目で。私の顔に何かついていて?」

不敵に微笑みながら問いかけてきた雪ノ下母に対し、八幡はカップをソーサーに置き、気だるげに息を吐いた。

「いや……。アンタも大変だなと思ってさ」

「……ほう?」

「家業の看板やら何やらで、周りからは散々お高く留まった鉄仮面みたいに言われてさ。言いたいことも言えず、背負い込みすぎて身動き取れなくなってんだろ。……まあ、ぶっちゃけかなり歪んでるし、かわいそうっちゃかわいそうだよな」

中学生が生意気にも人生を達観したような口ぶりで、しかも相手はあの雪ノ下母である。普通なら激高するか、冷たく一蹴される場面だった。

しかし、女性の動きがピタリと止まった。

その冷徹な仮面の奥に、一瞬だけ疲労の色と、どこか見透かされたような驚愕の光が走る。

「……君ねぇ。大人をからかうのは、それくらいにしておきなさい」

「からかってねえよ。事実だろ」

八幡は臆することなく、真っ直ぐに彼女を見据えた。

そして、ポケットに片手を突っ込んだまま、ぶっきらぼうに、けれどどこか真っ当な優しさを孕んだ一言を付け加えた。

「……まあ、なんだ。愚痴の一つや二つあるなら、ガキの俺が相手になってやってもいいぜ。……暇つぶし程度には聞いてやるよ」

静まり返ったテーブルクロスの上で、エスプレッソの湯気がふわりと揺らいだ。

絶句したように目を見開いた雪ノ下母は、やがて小さく息を吐き出すと、ふっとこれまでの張り詰めた笑みとは違う、どこか肩の力が抜けたような笑みを零すのだった。

 

静まり返ったサイゼリヤの席で、エスプレッソのカップを指先で軽く転がしながら、雪ノ下母はしばらく言葉を失っていた。

やがて、彼女は小さく、しかしこれまでに聞いたこともないような深い溜息を吐いた。

「……本当に、生意気なお子様ね」

どこか自嘲気味に呟くと、彼女はフッと目を伏せ、ポツリポツリと本音をこぼし始めた。

「家業のしがらみ、親戚中の顔色伺い、世間体……。どれだけ完璧に立ち回ろうとも、誰かしらから不満が出る。味方なんていないわ。……最近はね、連日の重圧と神経の擦り減らしすぎで、本当にストレスで胃がやられそうなのよ。夜も眠れない日ばかりだわ」

いつもは完璧で冷徹な鉄仮面を被っているはずの女性が吐き出す、あまりにも人間臭く、生々しい愚痴。

中学生の八幡を相手に、まさかここまで本音を漏らすとは思っていなかったのか、話し終えた彼女は気まずそうに目を逸らした。

八幡は出されたドリンクバーのコーヒーを一口啜り、その愚痴を静かに聞き終えると、トントンとテーブルを指で軽く叩いた。

「……だな。聞いてるだけでこっちまで胃が痛くなりそうだわ」

そして、八幡は冷めた魚のような目で、真っ直ぐに彼女を見据えた。

「ならさ、アンタの娘も同じなんじゃねえのかよ」

「……え?」

「完璧で冷徹な母親の背中を見て、息を詰まらせて、同じように一人で全部背負い込んで……結果として歪み合ってんだろ。アンタがそんな調子じゃ、あいつらが休まる暇もねえよ」

図星を突かれたのか、雪ノ下母は言葉を失い、ただ目を見開いて八幡を見つめた。

「たまにはさ、余計な看板とか全部下ろして、家で手料理でも作って家族の団欒でもしてみたらどうなんだよ。……まあ、アンタが料理できるか知らねえけどさ」

言い逃げるように、八幡はヒョイとテーブルの上に置かれていた伝票をひったくった。

「ごちそうさん。じゃ、俺はこれで」

「ちょっ、待ちなさいよ……!」

引き止める間もなく、八幡は席を立ち上がり、レジへとスタスタ歩いていく。

残された雪ノ下母は、呆然とその後姿を目で追いかけたあと、ふっとその美しい顔に諦めたような、けれどどこか救われたような複雑な笑みを浮かべるのだった。

 

数日後の夜、雪ノ下家のダイニング。

高級な大理石のテーブルの上に並べられていたのは、いつもの手伝いの者が作った完璧で冷徹な懐石料理――ではなく、どこか不格好で、しかし湯気をたっぷりと上げる数々の一品だった。

肉じゃがのジャガイモは少し崩れ、ハンバーグは焼き加減にムラがある。だが、間違いなくそれは「誰かのために手作りされた家庭の温もり」を纏った夕食だった。

「……お母様?」

リビングから顔を出した雪ノ下陽乃と、その後ろを歩いてきた雪ノ下雪乃が、ダイニングの光景を見て文字通り足をとめた。

目の前でエプロンを外し、少しだけ髪を乱した母親が立っている。普段の冷徹な鉄仮面はどこへやら、彼女はどこか気まずそうに、けれど真剣な眼差しで二人を見つめていた。

「……突っ立ってないで、座りなさい。冷めてしまうわ」

いつになくぎこちない、けれどどこか優しい響きを含んだその声に、陽乃も雪乃も言葉を失った。

あの圧倒的な母親が、自分の手で台所に立ち、家族のために料理を作った――その信じられない事実に、二人はしばらく動くことができなかった。

おずおずと席に着いた陽乃が、震える箸で肉じゃがを一口運ぶ。

「……美味しい……。これ、本当にお母様が作ったの?」

「……少し味が濃い気もするけれど、悪くないわ」

雪乃もまた、不格好なハンバーグを口に含みながら、驚きと隠しきれない感動で瞳を少しだけ揺らしていた。

幼い頃から厳格なしつけとプレッシャーの中で育ち、家族団らんの記憶など遠い昔に置き忘れていた二人の胸に、温かいものがじんわりと広がっていく。

「そう……。口に合うなら、いいけれど」

母親はふっと肩の力を抜き、照れくさそうに目を逸らした。

完璧でなければならないという呪縛をほんの少しだけ解きほぐした彼女の顔には、かつての冷たさはなく、ただの「母親」としての柔らかい笑顔が浮かんでいた。

ぎこちなく、言葉も足りない。けれど、長年凍りついていた雪ノ下家に、初めて本物の温かい空気がゆっくりと満ちていくのだった。

 

数日後の放課後、中等部の校門を抜けようとした八幡の前に、ふと見慣れた制服姿の女性が立ちはだかった。

雪ノ下陽乃である。

いつも通りの完璧な笑顔を浮かべてはいたが、その瞳の奥には、以前のようなどこか底意地の悪い探るような光ではなく、隠しきれない驚きと、そして確かな温もりが揺らいていた。

「ねえ、比企谷くん」

「……なんだよ、人の帰り際に。また面倒な話か?」

身構える八幡に対し、陽乃はクスリと小さく笑うと、ふっとその場に歩み寄ってきた。

「面倒な話なんてしないわよ。ただね……お礼を言おうと思って。最近さ、うちの家の空気が、嘘みたいに柔らかくなったんだよね」

「……は? 知らねえよ、勝手に家でやってろ」

「お母様が急にキッチンに立って、手料理なんて振る舞い出すものだから、私と雪乃でひっくり返りそうになっちゃった。……あんなに肩の力が抜けたお母様を見たのは、いつぶりだろうね」

どこか懐かしむような、それでいて心の底から救われたような陽乃の横顔。

その変化の理由が誰のお節介によるものなのか、言わなくても分かっていると言わばかりの視線が八幡に向けられる。

「……ねえ、比企谷くん。どうしてそこまでしてくれるの?」

「……知るかよ。勝手に自滅して空気悪くしてんのが、見てて不快だっただけだ。……いい歳こいて一人で抱え込んでんじゃねえよ」

ぶっきらぼうに吐き捨てながら、八幡はふと、妹の小町に対してよく発揮している“お兄ちゃんスキル”が、なぜか目の前の血の繋がらない面倒くさい女に対しても自然と発動している自分に気づき、盛大な溜息をついた。

「……ま、なんだ。たまには肩の力抜けってことだ。ほら、行くぞ」

諦めたように呟きながら、八幡はスッと手を伸ばすと、陽乃の頭の上にぽんと無遠慮に置いた。

そして、その茶髪の頭をぐりぐりと乱暴に撫で回す。

「ちょっ、まっ……! なにするのよ、急に子供扱いして!」

「うるせえ。……お前の面倒まで見る義理はねえが、たまにはこうやって甘えさせてもらっとけ、お姉さん」

子供をあやすような、それでいてどこまでも不器用で温かいその手つき。

意表を突かれた陽乃は一瞬目を見開いたが、やがてその美しい顔に呆れたような、けれど抑えきれない感動と愛おしさを宿した笑みを浮かべた。

「……本当に、君って人は……どこまでお兄ちゃん気質なのかな」

隠しきれない照れ隠しのように目を細める陽乃を放置して、八幡は「じゃ、帰るから」とさっさと背中を向け、夕暮れのなかに歩き出すのだった。

 

一部完

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