八幡の道   作:tomozow

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独立法人?の理事長兼要人のアドバイザーもたまにする八幡の話です。


復帰編

アスファルトの熱と、見慣れない救出劇

あれからどれほど日常が戻ってきたつもりでいても、比企谷八幡という男の周りでは、なぜか「面倒くさいこと」が向こうから勝手に転がり込んでくるらしい。

とある平日の午後。

秋晴れの気持ちのいい青空が広がっていたが、人通りが多い大通りの交差点付近で、ふと異様なざわめきが起きた。

「おい、誰か……! 誰か救急車を呼べ!」

「っ……息をしてないぞ!? 大丈夫か!?」

人の輪の中心で、一人の外国人の初老の男性が突然苦しそうに胸を押さえ、そのままアスファルトの上に崩れ落ちるように倒れ込んでいた。観光客かビジネスマンか、周囲の人間は突然の事態にパニックを起こし、ただ右往左往するだけで誰も一歩を踏み出せない。

その人だかりのすぐそばを、いつものように缶コーヒーを片手に気だるげ通りかかった八幡は、現場を一瞥した瞬間、心の底から「あぁ、なんで俺が……」と盛大に悪態をついた。

「……めんどくせぇっ!」

考えるよりも先に、足が動いていた。

八幡は持っていた缶コーヒーを近くの電柱の脇に放り投げると、一気に人の輪を割って飛び込んだ。

倒れている外国人の男は顔面蒼白で、すでに意識がない。脈を確認し、周囲に指示を飛ばす余裕などないが、高校時代の救命講習の記憶と、かつて平塚先生や部活で嫌というほど学んだ「最悪の事態を想定した反射」が身体を動かした。

――1、2、3、4……!

周囲の喧騒と、自分の荒い息遣いだけが響く中、八幡は一心不乱に心臓マッサージを続けた。

数分後、絶え間ない圧迫の末に男が「ぐっ……!」と小さく息を吹き返し、むせ込むように痙攣した。救急車のサイレンの音が遠くから聞こえてきたのは、ちょうどその直後のことだった。

救急隊員が駆けつけ、男がストレッチャーで運ばれていくのを確認すると、八幡は誰に礼を言われることもなく、スッとその場からフェードアウトするように立ち去ったのだった。

数日後の、予想外の来訪者

それから数日。

あの日のことは「いい迷惑だった」と頭の片隅に追いやり、いつも通り自宅のリビングでダラダラと過ごしていた八幡のスマホに、一本の奇妙な着信が入った。

見知らぬ海外からの、あるいは国内の国際番号。

面倒くさいので無視しようかと思ったが、なんとなく嫌な予感がして電話に出ると、受話器の向こうから、流暢な――しかし少しだけアクセントのある、聞き覚えのある低音が響いた。

『ハロー、ヒキガヤ。……ミスター・ヒキガヤ・ハチマンで間違いないね?』

「……どちら様だ。それに、なんで俺の名前を知ってるんだよ」

八幡がジト目で聞き返すと、電話の向こうの男はフッと温かい笑い声を漏らした。

『あの時、大通りの真ん中で私の胸を容赦なくグリグリと押して、命を救ってくれた恩人さ。……覚えているかい? あの日、君に助けられた老いぼれだよ』

あぁ、と八幡は数日前の面倒くさい出来事をようやく思い出した。あの時倒れていた、あの外国人の男だ。

『おかげさまで、病院の検査も無事に終わり、こうして元気に退院することができた。……でね、どうしても君に直接お礼が言いたくて連絡したんだ。もし時間があるなら、近くのカフェでコーヒーでもどうだろう? もちろん、私がごちそうするよ』

「いや、コーヒー一杯のためにわざわざ……」

断ろうとした八幡だったが、電話の向こうの男は「遠慮はいらないさ。君のような面白い若者と、少しゆっくり話をしてみたくてね」と、どこか有無を言わせない、大人の余裕と強い意志を覗かせた。

「……はぁ。分かったよ。変な勧誘とかだったら即座に帰るからな」

カフェの一角と、新しい風

指定された駅前の小洒落たカフェ。

テラス席に座っていたその外国人の初老の男は、八幡の姿を見つけると、わざわざ立ち上がり、ガッチリとした力強い握手を求めてきた。

「よく来てくれた、ヒキガヤ。命の恩人にこうしてまた会えて嬉しいよ」

「……どうも。生きてるなら、わざわざ呼び出さなくてもよかったのに」

そう言いながらも、八幡は向かいの席に渋々腰を下ろした。

男はエスプレッソを飲みながら、目の前のひねくれた少年――いや、等身大の若者をじっと見つめ、興味深そうに微笑んだ。

世間がどれだけ彼を「英雄」と祭り上げようとも、目の前の男はただ面倒くさそうにアイスコーヒーのストローをくわえているだけだ。

しかし、その不器用な優しさと、いざという時に迷わず動ける強さを、この男は肌で知っていた。

「君のような若い男が、あの時迷わず飛び込んできてくれたこと……本当に感謝している。……さて、少し私の昔話や、これからの仕事の話をしてもいいかい?」

「……話って、俺に聞かせるような面白い話なんかないぞ」

そう言いながらも、立ち去ろうとしない八幡を見て、男は満足そうに目を細めた。

街の喧騒から少し離れた小さなカフェのテラスで、まったく異なる世界を生きてきた二人の男の、思いがけないティータイムがこうして静かに始まったのだった。

 

午後のテラスと、想定外の正体

駅前の穏やかなカフェのテラス席。初秋の心地よい風が吹き抜ける中、八幡は目の前でエスプレッソを優雅にすする外国人の初老の男――あの時、大通りで命を救った男と、どこか気だるげに向き合っていた。

「……で、わざわざ呼び出してまで聞かせるような話って、いったい何なんだよ。海外の怪しいビジネスの勧誘だったら、今すぐコーヒー代置いて帰るからな」

ジト目を向ける八幡に対し、男――スミスはふっと豊かな髭を揺らして愉快そうに笑った。

「ははは、そんな警戒しなくてもいいさ。怪しい話をするつもりはないよ。ただね、君のような若者とこうしてゆっくり話す機会なんて、今の私にはなかなかなくてね」

スミスはカップをソーサーに置き、ふと穏やかな、しかしどこか底知れない知性をたたえた青い目を八幡に向けた。

「少し昔話をしよう。私はね、長く政治の世界に身を置いていた。ある国の……まあ、言うなれば『大臣』という役職をね、務めていたことがあるんだよ」

「……は?」

八幡の手が、ストローからピタリと止まった。

「大臣……? あんたが?」

「ああ。もっとも、現役を退いてからはいろいろあってね。若い頃に自分が立ち上げたコンピュータ関連の技術会社が、気づけば世界的な巨大企業に成長していて……まあ、世間の人間は私のことを『一代で世界の大富豪になったITの帝王』なんて勝手に呼んでいるがね」

スミスという名前、そしてその顔立ち。

言われてみれば、ビジネス誌や経済ニュースの表紙、あるいは世界を動かすテック系巨頭の特集などで、見たことがあるような気がしないでもない。世界的な大富豪であり、かつては一国の政治をも動かしていた男が、なぜか東京の片隅で、自分の命を救った――しかも、先日まで日本中を賑わせていた「あの」比企谷八幡と向かい合ってコーヒーを飲んでいるのだ。

一冊の雑誌と、二つのサイン

「……おいおい」

八幡は額に手を当て、盛大にため息をついた。

「なんだよそれ。日本の元大臣とか世界の大富豪とか……最近の俺の周りは、どうしてこう一癖も二癖もある大物ばかりなんだよ。もう少し平穏な人生を送らせてくれっての……」

「君が世間を騒がせている『時代の英雄』――いや、あの有名な映画やメディアで特集された『比企谷八幡』本人だからこそ、こうして引き寄せられたのさ」

スミスはフッと微笑むと、自分の鞄から、つい先日発行されたばかりの分厚い経済・カルチャー誌を取り出し、テーブルの上にポンと置いた。

その表紙には、見覚えのある顔が大きく印刷されていた。少し気だるげで、面倒くさそうに三白眼を向けた――まさに目の前に座っている、八幡自身の顔だった。

「これさ。世界中で翻訳されて話題になっている君の特集記事だよ。まさか、あの時私の心臓を力任せにグリグリとマッサージしてくれた若者が、この雑誌の表紙を飾っている男だとは思わなかった。……いやあ、世間は狭いものだな」

スミスはペンを取り出すと、その雑誌の表紙を開き、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「どうだい、ミスター・ヒキガヤ。世界的大富豪の直筆サインでもらっておかないかい? いつか値上がりするかもしれないぞ」

呆れたようにそれを見た八幡だったが、ふと悪戯心が湧いたのか、あるいはこのシュールな状況に諦めがついたのか、自分のポケットからいつもの無印のボールペンを取り出した。

「……お互い様だろ。大富豪のサインなんていらねぇよ。代わりに、その辺の紙を出せ」

八幡は自分の手帳の切れ端を差し出し、そこにサラサラと自分のサインを書き殴った。

「ほら、世界の大富豪さんよ。俺のサインが欲しいんだろ? やるよ」

「ははは! これは光栄だ。『時代の英雄』の直筆サインとはね」

スミスは愉快そうに大笑いしながら、八幡の手帳の切れ端を受け取り、丁寧に自分の手帳に挟み込んだ。そして、お返しにとばかりに、自身の署名が入ったその高級な経済誌を八幡の前に差し出した。

「さて、命の恩人に借りは作りたくない。ヒキガヤ、君はこれから何をしたい? 私の財力でも、政治的なコネクションでも、何でも使っていい。君の望むものを一つ、私に叶えさせてくれ」

二人の男の答え

世界の大富豪から投げかけられた、あまりにも巨大すぎる特権。

しかし、八幡は相変わらず気だるげにアイスコーヒーを一口飲み、フッと鼻で笑った。

「いらねぇよ、そんなもん。……俺が欲しいのは、静かな部屋と、誰にも邪魔されない休日と、マックスコーヒーの在庫くらいだ」

「……相変わらず欲のない男だな」

スミスは呆れたように首を振ったが、その表情には深い感心と、どこか羨望の色が滲んでいた。

地位や名誉、莫大な富を手にしてもなお、自分の足で立ち、自分の等身大の面倒くささと向き合っているこの若者こそが、彼にとっては何よりも眩しく見えたのだ。

午後の日差しがテラス席を柔らかく包み込む中、世界を動かした大富豪と、世界をちょっとだけ面倒くさそうに変えてしまったひねくれた青年は、互いにコーヒーカップを掲げ、静かに乾杯した。

まったく噛み合わないようで、なぜか妙にしっくりとくる奇妙な縁は、こうして静かに、しかし確かに二人の男の記憶に刻まれていくのだった。

 

世界的大富豪を救った男

スミスとの穏やかなカフェでのひと時から数日後。

その偶然のティータイムは、思いがけない形で世界中に拡散されることになった。

テラス席の遠巻きからその様子を目撃していた一般客の写真や、高級カフェのスタッフによる「世界的なIT王と、あの比企谷八幡が楽しそうにコーヒーを飲んでいた」というSNSへの投稿が、瞬く間にネットの海を駆け巡ったのだ。

『ちょっと待て……あの世界的大富豪で元大臣のスミスを心臓マッサージで救ったの、まさか比企谷八幡だったのかよ!?』

『数日前に路上で倒れた外国人を救急車が来るまで救命してたの、ニュースになってたけど、あれこの人だったのか……!』

『英雄とか以前に、やってることがガチの救世主すぎて草も生えない』

『スミス氏のインタビュー「私を救ってくれたのは、あの素晴らしい若者だ」って、完全に映画のワンシーンじゃねぇか!』

テレビのニュース番組やワイドショーは、この「奇跡の邂逅と救出劇」を连日大々的に報道し、ネット上では再び「#比企谷八幡」「スミス氏」「リアル救世主」といったワードが世界トレンドのトップを独占した。

世間がどれだけ「さすがは比企谷さんだ!」「世界のVIPすら引き寄せる男!」と大騒ぎしようとも、本人はそんな狂騒などどこ吹く風だった。

静かな部屋と、一冊の雑誌

世間の喧騒から逃れるように、いつもの薄暗いアパートの自室。

八幡は誰にも邪魔されない静寂の中で、パソコンを開くでもなく、ただベッドの上に寝転がりながら、あのときスミスからもらった分厚い経済・カルチャー誌をパラパラとめくっていた。

表紙には、気だるげにこちらを睨む自分の顔。

そのページを開くと、世界的大富豪の豪快な筆跡で書かれた直筆のサインが、堂々と記されている。

「……やれやれ、どいつもこいつも勝手に盛り上がりやがって」

独り言をつぶやきながら、八幡はため息をついた。

別に世界的大富豪のサインだからありがたがっているわけではない。あのとき、あのおっさんが面白そうに笑いながら差し出してくれたから、なんとなく受け取っただけだ。

けれど、パラパラとページをめくる手を止め、そのサインをじっと眺めているうちに、八幡はふっと小さく鼻で笑った。

「……まあ、いっか」

表紙の向こう側から、あのときのスミスの楽しげな声や、カフェテラスを吹き抜けた秋風の感触がふと蘇る。

誰に褒められようと、世界中でバズろうと、自分の日常は何も変わらない。面倒くさいことは相変わらず多いし、明日の献立すら決まっていない。

それでも――。

「……やっぱ、もらっといて良かったな」

八幡はボソッとそう呟くと、その雑誌を枕元に丁寧に置き、いつものように面倒くさそうに布団を頭から被った。

世間がどれだけ彼を英雄と祭り上げようとも、このひねくれた男の日常は、今日も変わらず最高にマイペースで、どこか温かい静けさに包まれているのだった。

 

突然の来訪者と、厄介な依頼

平和な日常が戻ったと思ったのもつかの間、その平穏は一本の電話によってあっさり打ち砕かれた。

「もしもし、比企谷くんかい? 私だ、スミスだ」

「……は? スミス? あの世界の大富豪のおっさんか。なんだよ、急に」

「いやね、君が私のサインを部屋に飾ってくれていると聞いてね、お礼をしたいんだが……実は今、私の可愛い娘が日本に留学していてね。君に一目会いたいと言っているんだよ」

「いや、会いたがられても困る。俺は静かに暮らしたいんだっての」

「そう言わずに頼むよ。彼女を一日、東京観光にでも連れて行ってやってくれないか? 父の命の恩人にお礼をさせたいだけさ。――じゃあ、よろしく頼んだよ、ミスター・ヒキガヤ!」

ガチャリ、と一方的に電話が切られた。

「……おい、勝手に話し進めんなよ……!」

八幡がスマホに向かって盛大に悪態をついても、すでに冷たい電子音が響くだけだった。

アンとの出会いと、退屈な東京観光

翌日。指定された待ち合わせ場所である渋谷のスクランブル交差点の脇で、八幡はめんどくさそうに缶コーヒーを飲みながら立っていた。

「……遅せぇな。金持ちの娘なんて、どうせ我が儘で扱いにくいお嬢様だろ。早く終わらせて帰りたい……」

そうぼやいていた八幡の前に、サラサラとしたブロンドの髪を揺らし、洗練されたトレンチコートを着た美しい外国人の女性がふっと現れた。スミスの娘、アンだった。

彼女は透き通るような青い目で八幡をじっと見つめ、ニコッと微笑んだ。

「あなたが、パパの命を救ってくれたヒキガヤさんね? 初めまして、アン・スミスです。一日、よろしくね」

流暢な日本語でそう挨拶された八幡は、「あ、どうも。比企谷です」と不愛想に返すのが精一杯だった。

こうして、世界的大富豪の娘をアテンドするという、八幡にとって人生最大級に面倒くさい「一日デート」が幕を開けた。

デートの行方と、さりげない優しさ

最初は、高級ブランド街を連れ回されるか、あるいは贅沢なレストランにでも行かされるのだろうと八幡は身構えていた。

しかし、アンは意外にも「普通の東京を見てみたい」と言い出し、八幡の案内で下町や古びた商店街、ごく普通の公園などを歩くことになった。

慣れないヒールで歩き続けたせいか、午後を過ぎた頃、アンは少し足元をよろめかせ、顔をしかめた。靴擦れができたらしい。

「……っと」

それに真っ先に気づいたのは、数歩前を気だるげに歩いていた八幡だった。

八幡は何も言わずにスッと足を止め、彼女の目の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。

「……え? ヒキガヤさん?」

「いいから乗れよ。お嬢様をここで歩けなくさせたら、あの世界の大富豪に何されるか分かったもんじゃねぇからな」

「で、でも……恥ずかしいです……」

「誰もこんなむさ苦しい男見てねぇよ。早くしろ、めんどくせぇ」

ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その背中は驚くほど温かくて広かった。

アンは少し躊躇ったあと、そっと彼の背中に体重を預けた。

近くのベンチに彼女を下ろすと、八幡はどこからか取り出した絆創膏を差し出した。

「ほら。これ貼っとけ。……少し休んだら、近くの美味い団子でも食いに行くぞ」

その不器用で、けれど一切の下心がない、あまりにも自然な優しさに触れた瞬間、アンの胸の中で何かがカチリと音を立てて熱を帯びた。

世の男たちは、彼女が「大富豪の娘」だという肩書を知った途端、媚びへつらうか、見栄を張るかしかしない。

なのに、目の前のこの男は、自分を「ただの一人の足の痛い客」として扱い、ぶっきらぼうに、けれど徹底的に守ってくれた。

(この人……なんて不思議な人なんだろう)

惹かれていく心

夕暮れ時。東京タワーの見える高台のベンチで、二人は並んで缶ジュースを飲んでいた。

「今日は、付き合わせて悪かったな。お前の想像してた東京と違ったろ」

八幡は空を見上げながら、やれやれといった風に言った。

アンは、隣に座るひねくれた、けれどどこか誠実な横顔を見つめ、ふっと柔らかく微笑んだ。

「ううん、全然。今までで一番素敵な一日だったわ。パパが『素晴らしい若者だ』って言っていた意味が、今日一日でよく分かった気がする」

「……あのおっさんが余計なこと言ってなきゃいいが」

苦笑いする八幡の姿に、アンは胸の奥がキュッと締め付けられるような切なさを覚えた。

もっとこの人のことを知りたい。もっと一緒にいたい。

世界の大富豪の娘である彼女が、これほどまでに一人の冴えない(けれど最高に魅力的な)日本人の男に心を奪われるとは、朝の時点では想像もしていなかったことだった。

「ねえ、ヒキガヤさん。……また今度、私を別の場所に連れて行ってくれる?」

アンのまっすぐな問いかけに、八幡は少しだけ目を丸くし、いつものようにポリポリと頭を掻いた。

「……気が向いたらな。ほら、暗くなってきたし、ホテルまで送るぞ」

不器用で、照れ隠しばかりの返事。

けれど、その背中を追いかけながら、アンはそっと自分の胸に手を当てた。恋だとか愛だとか、まだ名前のつかないその熱は、静かに、そして確実に彼女の中で大きく膨らんでいくのだった。

 

SNSのざわめきと、地球の裏側からの衝撃

アンが自身の公式SNSアカウントを更新したのは、その日の夜が更けた頃だった。

フォロワー数千万人を誇る国際的なトップモデルであり、世界的大富豪スミスの娘でもある彼女が投稿したのは、高級レストランや華やかなパーティーのドレス姿でもなければ、贅沢なブランド品の数々でもなかった。

それは、東京の下町の古びた公園のベンチで、少し気だるげに缶コーヒーを飲む日本人の青年の横顔――そして、夕暮れの東京タワーを背景に、さりげなく差し出された温かいお茶の缶が写り込んだ、どこか素朴で温かいワンショットだった。

添えられていたのは、たった一言のシンプルな英語だった。

 

"Found the greatest man on earth."

(地球上で最高の男に出会えた。)

 

世界を駆け巡る「あの男」

その投稿がアップされた瞬間、インターネットの世界は文字通り爆発した。

普段からアンの動向を追いかけている世界中のファンやメディアが一斉に反応し、コメント欄は瞬く間に数百万件のいいねとリプで埋め尽くされた。

『待って待って、これってあの……比企谷八幡じゃん!?』

『世界的なモデルのアンが「最高の男」って言ったの、この日本のひねくれたお兄ちゃんなの!?』

『数日前にパパのスミス氏を救ったってニュースになったばかりなのに、今度は娘までメロメロにしたってことかよ!』

『「英雄」から「世界的モテ男」へのジョブチェンジ早すぎない!? さすが八幡さんだわ……』

欧米の主要メディアやエンタメ系ニュースサイトも、この投稿を速報で取り上げ始めた。

「大富豪の娘をも魅了した、日本の謎多き救世主」「比企谷八幡、ついに地球の裏側までバズる」といった見出しが飛び交い、彼の名前は日本国内だけに留まらず、地球の裏側のアメリカやヨーロッパのトレンドの頂点にまで君臨することになった。

SNS上では、アンの投稿をリポストする形で、世界中の若者たちが「#GreatestMan」「#Hachiman」といったハッシュタグをつけ、面白がり、称賛し、そしてどこか羨望の眼差しを向け始めたのだった。

本人の知らぬところで

その頃。

すべての騒動の中心にいる本人はといえば、自分のスマホの通知機能が鳴り止まないことに盛大な苛立ちを覚えていた。

「……なんだよ、この通知の数。夜中に一斉にフォロワーが何万人も増えたんだけど……。俺のスマホ、また変なウイルスにでも感染したのか?」

薄暗い部屋のベッドの上で、眉間をこれでもかと寄せながら画面をスクロールする八幡。

英語で書かれた大量のメンションや、世界中から送られてくる「おめでとう!」「彼女を大事にしてあげて!」といった意味不明なメッセージの嵐を眺め、彼は深く、深くため息をついた。

「……意味わかんねぇ。お前ら、もっと他にやることねぇのかよ……」

ボソッとそう呟くと、八幡は面倒くさそうにスマホの電源をスパッと切り、ベッドに放り投げた。

地球の裏側で自分の名前がどれほどバズっていようとも、明日の朝食に食べるパンがないという現実のほうが、今の彼にとってはよっぽど重大な問題なのだ。

窓の外では、秋の夜風が静かに街を撫でていく。

世界中を巻き込みながら、相変わらずマイペースでひねくれた彼の物語は、今日も誰にも予測できない方向へと、緩やかに、そして熱く回り続けているのだった。

 

止まらない取材攻勢と、最後の捨て台詞

世界的大富豪スミスの救出劇に始まり、その娘であるトップモデル・アンのSNS投稿による世界的炎上――いや、爆発的なバズを経て、比企谷八幡の名前はついに地球の裏側まで届く伝説となっていた。

もはや自宅の周辺や大学の通学路には、海外からのメディアを含む無数の記者やカメラマンが張り込み、彼の一挙手一投足を狙っていた。

いつものように大学のキャンパスの角を曲がった瞬間、待ち構えていた数十人の記者とマイクの群れが、一斉に八幡を取り囲んだ。

「比企谷さん! 世界的モデルのアン・スミスさんとの関係について一言お願いします!」

「彼女をデートに連れ出したというのは本当ですか!? あの『絆創膏を貼ってあげた』という噂の真相は――!」

「世界の大富豪の家族を次々と虜にするその秘訣は一体何なんですか!?」

シャッター音がけたたましく鳴り響き、マイクが何本も目の前に突き出される。

寝不足気味の頭と、相変わらずの面倒くささに、八幡は深いため息をつき、頭をポリポリと掻きむしった。

過去の言葉と、クールな背中

殺到するフラッシュと質問の嵐の中、八幡はジト目で記者たちをひと睨みすると、ふと、いつの間にかポケットに入っていた一箱の「絆創膏」に触れた。

……思い返せば、昔、公園の砂場で泣いていた幼稚園の男の子に、ひねくれた理屈を並べてアドバイスをしたことがあったっけな。

傷ついた時に一番必要なのは大層な励ましじゃなくて、ただの小さな絆創膏だったりする――そんな、昔の記憶がふと脳裏をかすめる。

八幡は呆れたように片方の口角をグッと上げ、カメラのレンズをまっすぐ見据えて低く呟いた。

「……だからさ」

ざわめいていた周囲が、その一言にピタリと静まり返る。

「……以前にも言ったはずだ。男なら、いつでも人に貸せるように、ポケットに絆創膏くらい持っておけってな」

それだけ吐き捨てると、八幡は記者たちが呆気にとられて固まっている隙を突き、サッと背中を向けた。

トレンチコートの裾を翻し、二度と振り返らずにスタスタと歩き去っていくその後ろ姿は、世界中をザワつかせている「時代の英雄」そのものだった。

――もっとも、本人の頭の中にあってのは、「早く帰って昨日の残りの鍋を食いたい」という極めて現実的な雑念だけだったのだが。

遠ざかるそのクールな背中を見送りながら、カメラマンのシャッター音だけが、いつまでも秋の青空の下に響き渡っていたのだった。

 

世界的医療メーカーのCM撮影現場

「はい、カット! ――素晴らしい! 今の表情、完璧です!」

監督のけたたましい声と同時に、スタジオ中に盛大な拍手が響き渡った。

ここは、世界的な医療メーカーがグローバル展開するために制作している、次世代型救急・ケア製品の大型テレビCMの撮影現場。その特設セットとして再現されていたのは、あの日の東京の下町にあった、どこか懐かしい古びた公園のベンチだった。

「比企谷さん、アンさん、お疲れ様でした!」

スタッフに囲まれる中、トレンチコートに身を包んだアンは、撮影の余韻に浸るように頬を赤らめながら、隣に立つ八幡を見上げた。

――そう、あの世界的な大騒動となった「一日デート」と、彼女の足の靴擦れを救ったエピソードがあまりにも世間の心を掴んだ結果、その医療メーカーのトップが自らオファーを出し、「あの日のリアルな優しさ」をそのままCMのコンセプトにしてしまったのだ。

カメラの向こうの「リアル」

本番中、台本などほとんどなかった。

「あの日の通りにやってくれればいい」と言われ、実際にカメラの前でアンが歩き疲れて足元をよろめかせたとき、八幡はため息をつきながらも、あの日のようにスッと自然にしゃがみ込み、ポケットからおもむろに最新型のスタイリッシュなメディカル絆創膏を取り出した。

「……ほら。いつだって、備えあれば憂いなしってな」

ボソッと呟きながら彼女の足元にそれを貼る仕草は、演技を超えてあまりにも自然で、モニターで見守っていたスタッフたちが「リアスすぎる……!」と思わず息を呑むほどだった。

アンは当時を思い出して胸を熱くしながら、ふふっと柔らかく微笑んだ。

「ねえ、ヒキガヤさん。なんだか、あの日のデートがそのまま世界中に放送されちゃうみたいで、ちょっと恥ずかしいですね」

「……ふざけんな、お前がSNSに変なこと書くからこうなったんだろ。俺はただ、早く撮影終わって帰りたいだけだ」

八幡は面倒くさそうに顔を逸らしながらも、アンが歩きやすそうにしているのを確認して、そっとポケットに手を突っ込んだ。

世界へ放たれるメッセージ

数日後、そのCMは日本国内だけでなく、アメリカ、ヨーロッパ、アジア全域の主要テレビ局やネット配信で一斉にオンエアされた。

洗練された都会の映像でも、大げさなドラマチックな演出でもない。

世界的大富豪の娘であるトップモデルのアンが、普通の公園のベンチで不器用な少年に絆創膏を貼られ、驚きからとびきりの笑顔を咲かせる――。

ナレーションの最後に流れるのは、お馴染みの低い、けれどどこか心に刺さる八幡のあの声だった。

 

「大きな奇跡なんていらない。大切なのは、ポケットの中の小さな備えだ」

 

 

そのCMは瞬く間に地球の裏側まで再び大バズりを巻き起こし、「比企谷八幡の絆創膏」は世界中のドラッグストアで飛ぶように売れる大ヒット商品となった。

その頃、すべてのプロモーションから逃げ出すように自分の部屋のベッドにもぐり込み、「なんで俺がCMの俳優までやらされてんだよ……」と枕に顔を埋めて悶絶している本人のことなど知る由もなく、世界中の人々は今日も彼の不器用な優しさに心を温められているのだった。

 

 

突然の海外オファーと、まさかの「モデル」指名

世界的な医療メーカーのCMが大ヒットを記録し、地球の裏側まで「絆創膏の男」としてその名を知らしめてしまった比企谷八幡。

平穏な日常を夢見て布団にもぐり込んでいた彼のスマホに、ある日、パリコレの裏舞台をも動かすアンからの直接のビデオ通話が飛び込んできた。

『ヒキガヤさん! 次の国際ファッションイベントの特別ゲストとして、私のブランドのステージに立ってほしいの! もちろん、断るなんて選択肢はないからね?』

「……は? モデル? ふざけんな、俺がそんな華やかな場所でキャットウォークとか歩けるわけねぇだろ。即断で却下だ」

『うーん、じゃあパパに頼んで、あなたの部屋の周囲に世界中のメディアをもう一度直行させちゃうかもなあ』

「……お前な、それ脅迫だろ……!」

逃げ道を完全に塞がれた八幡は、頭を抱えて激しく悶絶した。しかし、一人でそんなアウェイの戦場に放り出されるのは精神的苦痛がマッハを超える。

そこで八幡は、苦肉の策として一つの条件を突きつけた。

「……ひとりでなんか絶対に行かない。どうしてもって言うなら、俺の友人のあのチャラい奴と、ナルシストのイケメンも一緒に引っ張り出す。そいつらもモデルとして出すなら考えてやるよ」

アンは一瞬きょとんとしたが、「面白そうね! いいわよ、全員まとめて招待するわ!」と二つ返事で快諾してしまったのだった。

招集された男たちと、容赦なき「却下」

数日後。事情を聞きつけて真っ先に飛び込んできたのは、いつものメンバーだった。

「おいおいおい! 比企谷! お前、マジかよ!? あの世界的モデルのアンさんから直接オファーされて、パリの特設ステージでモデルやれってか!? すげえなお前、一体どんなモテ期到来してんだよ!」

戸部が目を丸くして大興奮し、葉山も「まさか僕たちまで招待されるなんてね。……海外のファッションショーか、悪くない経験かもしれない」と爽やかに微笑んだ。

そこに、全身重装備(に見せかけた自作のダンボール製甲冑)に身を包んだ巨体がガシャガシャと割って入ってきた。

「ふはははは! 我が盟友比企谷よ! ついに我がダーク・ナイトのランウェイデビューの時が来たか! この材木座義輝、パリの空の下で世界の美を震わせてやろうぞ――!」

「お前は絶対に来るな、画面の邪魔だ、空気が重くなる」

八幡は0.1秒で材木座の参加を完全却下し、泣き叫ぶ重戦車を戸部に引きずらせて強制送還したのだった。

こうして、なぜか「比企谷八幡、葉山隼人、戸部翔」という、世界から見れば謎すぎる一般人トリオが、アンの強力なバックアップによって強引にトップモデルとしてパリのランウェイに立つことになってしまった。

パリのランウェイと、予想外の化学反応

本番当日。

パリの絢爛豪華な特設ステージ控室。一流のデザイナーやメイクアップアーティストたちに囲まれ、ガチガチに固まる戸部と、意外にも堂々とスーツを着こなす葉山、そして「なんで俺がこんなところでメイクされてんだ……」と死んだ魚の目で天井を見上げる八幡が並んでいた。

「準備はいい? 行くわよ、みんな!」

アンの合図とともに、音楽が鳴り響き、スポットライトが眩しいランウェイの扉が開いた。

先陣を切ったのは葉山隼人だった。圧倒的なルックスとスマートなウォーキングで、会場のパリジェンヌたちの視線を一瞬で釘付けにする。

続く戸部は、緊張しつつも持ち前のノリとモデル顔負けの長身で堂々とポーズを決め、客席から黄色い歓声をさらった。

そして――最後に登場したのは、比企谷八幡だった。

完璧なポージングなどできるはずもない。いつもの気だるげな三白眼を隠すこともせず、ポケットに片手を突っ込んだまま、まるで「めんどくせぇな」と呟くようなアンニュイな足取りでステージの中央へと歩みを進める。

しかし、その「作り込まれていない、圧倒的にリアルで自然体な不良感」が、最先端のモード界において逆に強烈な個性を放った。

ステージの先端でふと足を止め、カメラのレンズをめんどくさそうに一瞥したあと、あの日のCMで見せたような、ふっと力の抜けた笑みを浮かべる。

――その瞬間。

会場を埋め尽くしていたトップクリエイターやファッション誌の編集者たちの息が、一斉に止まった。

「……今の、何!? あの退廃的でリアルな色気は……!」

「完璧に計算された演出じゃない、本物の『アンニュイ』だわ……!」

地球の裏側で、再びの大爆発

そのショーの様子は、世界中にリアルタイムで生中継されていた。

『ちょっと待って、比企谷八幡がパリコレ歩いてるんだけど!?しかもモデルの葉山と戸部まで一緒ルシカにいるし何これ!?』

『真ん中のアジア人の男、一切笑ってないのに、逆にカッコよすぎて世界中のモデルが霞んで見えるんだが……』

『#比企谷パリコレデビュー」「#モデルの無駄遣い」が世界トレンドを秒速で制圧していく。』

ランウェイを歩き終え、控室に戻ってから「あー、足疲れた! もう二度とこんな見世物小屋みたいな真似はしねぇからな……!」と盛大に愚痴をこぼす八幡の姿は、もはや世界中のファッションアイコンたちの笑いと熱狂の的となっていた。

完璧なスターではなく、ただ「たまにはいいか」と面倒くさそうに友人たちと引き受けたその挑戦が、またしても世界を巻き込む一大ムーブメントを巻き起こしてしまう。

どこまで行っても平穏とは程遠い、けれど最高に賑やかで熱い日々を、八幡は今日も不器用な足取りで歩み続けているのだった。

 

 

世界的対談番組と、ひとつの問い

パリコレでのまさかのランウェイデビューからしばらく経った頃。

今度は、世界中のビジネスパーソンや政治家、 intelectuals(知識人たち)が固唾を飲んで見守る国際的な生放送の対談番組に、八幡は引っ張り出されていた。

対面のソファに座るのは、あの世界的大富豪であり、元大臣でもあるスミス。

番組のテーマは、現代社会を大きく変革しつつある「教育・社会支援用対話AIプロジェクト」――つまり、かつて高柳や雪乃たちと共に作り上げ、八幡がその「顔」として巻き込まれたあのAIシステムについてだった。

司会者が興奮気味にマイクを向け、世界中の視聴者が注目する中、核心を突いた質問が飛んだ。

「比企谷さん。あなたがこの世界的な変革をもたらすAIのアイデアに行き着き、政府や一流の技術者たちを動かしたその手腕は、まさに天才的だと言われています。この革新的なアイデアは、いったいどこから生まれたのでしょうか?」

スタジオ中の視線が八幡に集中する。

いつものように少し気だるげに眉間を寄せた八幡は、マイクの前に身を乗り出すと、どこか冷めた、けれど揺るぎないトーンで淡々と答えた。

「……いや、そんな大層なもんじゃないですよ」

テレビカメラの向こうの数億人が、その言葉に意表を突かれたように息を呑んだ。

「こんなアイデア、今の時代だったら誰だって思いつく。きっと世界中のどこかで、同じようなことを考えていた奴は何万人もいたはずだ。……そうだな、俺が思いついたことなんて、ハッキリ言って大したアイデアじゃない」

司会者が「しかし、それでも……」と言いかけたのを手で軽く制し、八幡は言葉を続けた。

「確かに、思いついたのは大勢いたかもしれない。でもな――あの当時、それを実際にやれる立場にいて、文句を言いながらも付き合ってくれる仲間がいて、面倒な利害関係をまとめてくれるチームがいて……そして何より、自分の身を削ってでも動く『熱』があったのは、ほかならぬ俺たちだった」

八幡はふっと息を吐き、隣に座るスミスへと視線を向けた。

「だからやった。それだけだ。……なぁ、スミス。あんたのやってきたことも、そうなんじゃないのか?」

スミスの回想と、二人の共鳴

その瞬間、スミスは大きく目を見張り、そして深く、納得したように目を細めた。

スタジオの静寂の中、スミスは遠い昔の記憶を辿るように、ゆっくりと口を開いた。

「……まったく、君という若者は、最後の最後でとんでもない角度から核心を突いてくる」

スミスは苦笑しながら、しかしどこか懐かしそうに天井を見上げた。

「若い頃の私もそうだった。コンピュータの黎明期、世界を変えるような技術のアイデアなんて、シリコンバレーのそこら中に転がっていたのさ。『こんなものが作れたら面白い』『いつか世界を繋ぎたい』――そんな夢物語を語る若者は、文字通り何千人もいた。私だけが特別な頭脳を持っていたわけじゃない」

スミスは視線を戻し、まっすぐ八幡の目を見据えた。

「だがね。アイデアを持っていただけの奴らは、みんな途中で消えていった。資金に怯え、世間の常識に阻まれ、リスクを恐れて動かなかったからだ。……私と、私の仲間たちには、リスクを無視して突き進むだけの愚かさと、ほんの少しの『熱』があった。だから、世界で最初にそれを形にできたのさ」

スミスはふっと穏やかに笑い、グラスを持ち上げた。

「『思いついたのは大勢だ。やれるのは俺達だけだった。だからやった』か……。素晴らしい言葉だ、ヒキガヤ。完全に一本取られたよ」

画面の向こうに広がる波紋

その二人のやり取りは、世界中にリアルタイムで流れていた。

天才的なカリスマが放つ神がかった言葉ではなく、ただ「やれる環境と熱があったからやった」という等身大の事実。

しかし、だからこそ、その言葉は世界中の人々の胸に深く突き刺さった。

『「思いついたのは大勢。やれるのは俺たちだけ」……このセリフ、かっこよすぎんか?』

『何かを始めるのに特別な才能なんていらなくて、ただ「やる熱」があるかどうかなんだって思い知らされるわ……』

『スミス氏と比企谷八幡、世代を超えた二人のレジェンドが同じ答えにたどり着いてるの鳥肌立つ』

SNSは再び絶賛の嵐で埋め尽くされ、二人の対談は後世に残る名場面として語り継がれることになった。

すべてが終わったあと、控え室のソファでぐったりと頭を抱えながら、「あー、また余計なこと言っちまった……!」と盛大に頭を掻きむしる八幡。

そんな彼をスミスが面白そうに眺め、近くでスタッフたちが温かい笑顔を向けている。

世界を動かそうなんて大層な野望は、最初からなかったはずだ。

ただ目の前の面倒くさい現実を何とかしようと、不器用な熱を燃やし続けた結果――彼の足跡は、気づけば世界を変える確かな軌跡になっていたのだった。

 

番組の最後に投げかけた「一言」

世界中が固唾を飲んで見守る国際的対談番組のエンディング。

司会者が番組終了のクロージングを告げようと口を開きかけたその瞬間、八幡はふっと息をつき、隣に座る世界的大富豪スミスへと何気ない顔で視線を向けた。

「……なぁ、スミス」

マイクがわずかに拾ったその低い声に、スタジオ全体の空気がふっと引き締まった。司会者も慌てて言葉を飲み込む。

「さっき、あんた言ったよな。若い頃、世界を変えるアイデアを持った奴なんてシリコンバレーのそこら中に転がってたって」

「ああ、言ったが……それがどうかしたのかい、ヒキガヤ?」

スミスが怪訝そうに眉を上げる。

八幡は面倒くさそうにポリポリと頭を掻きながら、まっすぐスミスの目を捉えて言った。

「……だったらさ。今、世界中で燻ってるそういう奴らに、あんた投資をしないか?」

スタジオがわずかにざわめく。生放送を見つめる地球の裏側の視聴者たちが、一斉に息を呑んだ。

「俺や、昔のあんたみたいな奴さ。頭の中には面白いアイデアがあるのに、環境がねぇとか、リスクが怖くて一歩を踏み出せないでいるガキや社会人は、今の時代だっていくらでもいるはずだ。……そういう、めんどくせぇけど熱だけはやたらとある連中を、お前と俺で後押ししてみないか?」

八幡は、あくまで自分事ではなく「他人の面倒を見るのはごめんだが、こういう話なら」といった風情で、しかしどこか真剣なトーンで言い放った。

「さっき自分でも言ったろ。思いついたのは大勢だけど、実際にやれる奴は少ねぇってな。だったら、やれる環境くらいこっちが作ってやったっていいだろ」

スミスの驚きと、崩れた余裕

一瞬の静寂のあと、スミスは目を見張り、そして――声を上げて豪快に笑った。

「はははははっ! なるほど……! やられたな、完全に一本取られたよ!」

スミスは膝を叩き、すっかり感服したといった表情で八幡を指さした。

世界の大富豪を言葉で唸らせ、自ら新たなビジネス、いや、社会を動かす仕組みの提案を引き出してみせる。その鮮やかな手並みに、司会者もスタッフも言葉を失っていた。

スミスはふっと穏やかな笑みを浮かべ、ジャケットの胸元に手を当てると、力強くうなずいた。

「いいだろう。そこまで言うなら、喜んで乗せてもらうとしよう。……なに、ポケットマネー程度で良ければ、いくらでも出してやろうじゃないか」

「……おっ、助かる。じゃあ、よろしく頼むわ」

八幡は「これで面倒な仕事が一つ減った」と言わばかりに、肩の力を抜いてふうと息をついた。

――もっとも、そのスミスの言う「ポケットマネー」というのが、国家予算をも凌駕しかねない莫大な額の資産であることに、この時の八幡はまだ気づいていなかったのだが。

新たな「財団」の誕生

その日の対談番組のエンディングは、世界中の歴史に残る伝説的な瞬間として記録された。

『いまの最後のやり取り、ヤバすぎないか……!?』

『比企谷八幡の一言で、スミス氏が莫大な個人投資を約束したぞ……!』

『「思いついたのは大勢、やれるのは俺達」の次は、次世代の変革者への投資かよ。スケールがデカすぎてついていけない』

『#比企谷財団」「#スミスと八幡」のトレンドが、地球の裏側まで完全に地球を征服した。』

後日。

スミスの圧倒的な資金力と、八幡の「面倒くさがりながらも本質を見抜く眼差し」を軸にした、前代未聞のグローバル支援組織――通称「ハイチ・スミス財団(通称:ヒキガヤ財団)」が、ひそやかに、しかし強烈なインパクトを持って発足することになった。

世界中で「熱」を持ちながらも燻っていた若者や変わり者たちが、その財団のバックアップを受けて次々と世の中に面白い波を起こしていくことになる。

そのすべての発端となった男はといえば、新しくできた立派なオフィスの隅のソファで、「……なんで俺が名誉理事長とかになってんだよ、絶対名前だけ貸すからな……!」と、今日も今日とて盛大に頭を抱えながら、静かに現実逃避を繰り返しているのであった。

 

 

静かなリビングに流れるニュース

秋の気配が深まりつつある夜の雪ノ下家のリビング。

落ち着いた調度品に囲まれた重厚な空間に、テレビから流れる国際ニュースの音声だけが響いていた。

画面に映し出されているのは、先日の国際対談番組でのワンシーン。そして、世界的な大富豪スミスと手を組み、次世代の変革者たちを支援する巨大なグローバル財団を事実上立ち上げた「比企谷八幡」の姿だった。

「……ふむ」

リビングのソファに深く腰掛けていた雪ノ下家の父親が、新聞を畳みながら低く唸った。

その隣で、母親は優雅にカップの紅茶を傾け、どこか面白そうに、そして深く納得したような目を画面の向こうの青年へと向けている。

「……うちの息子たちや、周囲の人間を散々振り回しておいて、今や世界的な大富豪と肩を並べて財団の設立ですか。まったく、相変わらず食えない男ですね」

雪ノ下母はそう言いながらも、その口元には隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいた。

「いやはや。ビジネスマンとしての手腕もさることながら、国家や組織の枠組みを超えて社会を動かす力など、もはや一流の政治家顔負けだよ。立場や肩書などなくとも、彼は確実にこの世の中を正しい方向へ一歩進めている」

父親もまた、どこか誇らしげにそう評した。

かつては「厄介な問題児」「関わるべきではない者」として遠ざけられていたはずの少年は、いつの間にか、雪ノ下家にとっても欠かすことのできない、誇るべき存在へと変わっていたのだ。

雪乃と陽乃の視線

離れた位置のソファで画面を見つめていた雪乃は、ふっと小さく息をつき、呆れたような、しかしどうしようもなく愛おしそうな目を細めた。

「……本当に、相変わらずね。本人はきっと『めんどくさいことになった』って頭を抱えてるわよ、あんな場所でも」

「あら、そうかしら?」

隣でワイングラスを揺らしていた陽乃が、楽しげにクスクスと笑った。

「世間の人たちは『彼にはすごい豪運がある』『奇跡的な偶然が重なっている』って持て囃しているけれど……それって違うわよね、雪乃?」

雪乃は静かにうなずき、グラスに注がれた水を一口飲んでから、まっすぐテレビ画面を見据えた。

「ええ。運なんかじゃないわ。……あの日、大通りの真ん中でスミス氏が倒れたときも、現場にはたくさんの人間がいて、ただ右往左往していただけ。誰もが一歩を踏み出せず、誰かが助けるだろうって見過ごしていた」

陽乃の言葉を引き継ぐように、雪乃が静かに続けた。

「でも、あの人は違った。面倒くさいと思いながらも、文句を言いながらも、自分の足で一歩を踏み出して、その手で救助した。……スミス氏を引き寄せたのも、世界中を巻き込んだのも、彼の『運』なんかじゃないわ。彼自身の、あの不器用でまっすぐな『行動』が、すべての奇跡を引き寄せたのよ」

誇らしき背中

その言葉に、リビングの空気が温かい静寂に包まれた。

奇跡や運だけで世界は動かない。

どれだけ素晴らしいアイデアがあっても、どれだけ環境が整っていても、実際に泥を被り、動き出す人間がいなければ何も始まらない。それを誰よりも知っているからこそ、雪ノ下家の面々は、画面の中で相変わらず面倒くさそうに頭を掻いている少年の姿が、どうしようもなく眩しかった。

「まったく……大した男を育てたものですね、我が家は」

母がふっとフレンチジョークのように呟くと、父も静かに笑い、雪乃と陽乃も誇らしげに微笑んだ。

世間が彼を「英雄」と呼ぼうが、「時代の寵児」と持て囃そうが、彼らは知っている。

彼はただの、ひねくれていて、少し不器用で、誰よりも優しい等身大の若者――比企谷八幡なのだと。

その最高に誇らしい男の背中を見送りながら、雪ノ下家はそれぞれの穏やかな夜を、静かにかみしめるのだった。

 

遠い親戚たちの乾杯と、静かな誇り

東京の喧騒から遠く離れた、由緒ある比企谷の本家。

広大な敷地を持つ落ち着いた日本家屋のリビングでは、最新の大型テレビ画面に映し出される世界ニュースを、一族の者たちが固唾を飲んで見守っていた。

そこには、国際的対談番組で世界的大富豪スミスと渡り合い、巨大なグローバル財団の誕生を引き起こした比企谷八幡の姿が映し出されている。

「……おいおい、マジかよ。あのヒキガヤのひねくれたガキが、今や地球の裏側で大暴れしてるぞ……!」

親戚の若者の一人が、目を丸くして思わず声を上げた。

本家の血筋である彼らは、八幡がどれほど世間を騒がせようとも、これまで直接的な干渉を避けてきた。本家の権力や財力に頼ることもなく、八幡が完全に自分の足だけで、あの世界的なポジションまで這い上がってきたことを、一族の誰もが痛いほどよく分かっていたからだ。

「ふん、相変わらず我が家の力やコネクションなんて一切頼っちゃいない。……まったく、どこまで生意気な奴なんだか」

そう言いながらも、本家の当主である伯父の顔には、隠しきれない豪快な笑みが浮かんでいた。

政治や経済の裏舞台を知る彼らだからこそ、八幡が成し遂げたことの大きさが痛いほどよく分かる。特権や家柄を振りかざすのではなく、ただ一人の人間としての泥臭い行動力で、世界を確実に一歩進めてしまったのだ。

「……大したもんだ。あいつは、俺たちの想像を遥かに超える『化け物』に育ちちまったらしい」

親戚の大学生や若者たちも、感服したようにグラスを掲げた。

「じゃあ、我が一族の誇り高き『問題児』の、世界をひっくり返した大活躍に――乾杯!」

カラン、と心地よいグラスの音がリビングに響き渡る。

本家の威光など一切借りず、自らの不器用な優しさと行動力だけで世界中を巻き込んでいく一族の若者の姿に、彼らは心からの敬意と、どうしようもないほどの親愛の情を抱いていた。

その頃、世界の中心で再び大きなううねりを生み出した当の本人はといえば、実家の自室の布団の中で、「なんか最近、あちこちから酒の匂いがする夢を見る気がする……」と、全く見当違いな悪寒に震えながら、相変わらずの日常(という名の現実逃避)を貪っているのであった。

 

霞が関の静かな夜と、予想外の来訪者

数日後。都内の静かなオフィスのテレビ画面には、相変わらず世界的な話題を振りまいている「ヒキガヤ・スミス財団」の設立会見が流れていた。

かつて八幡と共に夜を徹して働き、彼を支え続けたあの官僚チームの面々が、疲れた顔でグラスやコーヒーカップを傾けながらその映像を見つめている。

「……なぁ、高柳さん。あの世界の大富豪を相手にあんな大立ち回り演じるなんて、やっぱりあの男は規格外だな」

「まったくだ。……あの頃、泥臭く一緒に政策のたたき台を作っていた時代が、なんだか遠い昔のことに思えるよ」

誰ともなくため息交じりにそんな懐古の言葉が漏れた、その時だった。

「――おい、いつまで感傷に浸ってんだ。茶でも濁してんじゃねぇよ」

オフィスのドアがガタッと開き、そこに立っていたのは、相変わらずの三白眼をわずかに細め、面倒くさそうにトレンチコートのポケットに手を突っ込んだ比企谷八幡その人だった。

「「……は?」」

部屋にいた全員が、まるで幽霊でも見たかのように一斉に固まった。

「身内贔屓」という名の無茶振り

「お前ら、いつまでそんな閑職みたいなところで過去の遺物に浸ってんだよ。こっちはこっちで、面倒なことに巻き込まれて大変なんだからな」

八幡はため息をつきながらオフィスの真ん中に歩み寄り、無造作に一通の分厚い書類の束を机の上に放り投げた。

「な、なんだこれ……?」

チームの一人が恐る恐る中身を開くと、そこには新設されたグローバル財団の初期フェーズを動かす「最高幹部・主要プロジェクト推薦枠」という、国家機密レベルの要職リストが記されていた。

「……おい比企谷、これはいったいどういうことだ? こんな重要な役職、俺たちみたいな一官僚が勝手に動かせるもんじゃないぞ!」

「知るか。名誉理事長とかいう訳のわからない肩書を勝手に押し付けられたからな、こっちも人手不足なんだよ。だから、推薦者を出す」

八幡は面倒くさそうに肩をすくめ、彼らを真っ直ぐに見据えて言い放った。

「とりあえず、お前らの中から5人だ。この財団のコアメンバーとして引っ張っていく。文句は受け付けない」

「なっ……! ちょっと待て、どうして俺たちなんだ!? 世間にはもっと優秀な人間がいくらだっているだろ!」

戸惑う官僚たちに向かって、八幡はフッと不敵に、しかしどこか温かい笑みを浮かべた。

「決まってんだろ。一番最初に、俺の無茶苦茶な理屈に付き合い、泥を被ってでも社会を動かそうと『熱』を持ったのはお前らだ。……実績も、能力も、修羅場をくぐってきた経験も、今の世界を動かすのに誰が適任かなんて、考えるまでもない」

八幡は少しだけ照れくさそうに視線を逸らし、トントンと机を叩いた。

「どうせやるなら、信用できる馬鹿どもとやりたい。……悪いな、少しばかり『身内贔屓』させてもらうわ」

涙ぐむ男たちと、変わらない絆

その言葉を聞いた瞬間、オフィスの空気が一変した。

かつて国の中枢で冷徹なシステムや利害関係に縛られ、自分の理想を見失いかけていた男たちが、今、かつて自分たちの前を不器用な背中で引っ張ってくれた若者から、そんな最高の賛辞を投げかけられたのだ。

「……お前なぁ……」

最年長の官僚が、こみ上げてくる熱いものを抑えきれず、ガシッと自分の眼鏡を外して目元を乱暴に拭った。他のメンバーたちも次々と顔を覆い、男たちが大の大人にもかかわらず、ポロポロと涙をこぼし始めた。

「泣くなよ、めんどくせぇな……。いいから、さっさと荷物まとめて来い。明日から容赦なくコキ使ってやるから覚悟しとけ」

八幡はそう言い捨てると、「じゃ、俺はこれで」と背中を向け、手をひらひらと振りながらオフィスの出口へと歩き出した。

その背中を見送りながら、官僚たちはぐっと涙を拭い、力強くうなずき合った。

世界がどう変わろうとも、この男の周りに集まる人間たちの絆だけは、何一つ変わっていなかった。

「……行くぞお前ら! 世界をひっくり返す仕事の続きだ!」

霞が関の小さなオフィスに響いたその力強い声は、新しい未来へと向かう最高の合図だった。

 

世界を揺るがす「身内贔屓」の記者会見

財団の主要メンバーとして、かつての官僚チームを強引に引き入れた翌日。

霞が関の周辺や財団ビルの前は、世界中から集まったマスコミとカメラマンの群れによって、文字通り足の踏み場もないほどの熱気に包まれていた。

「比企谷理事長! 官僚チームを主要ポストに抜擢した件について、『身内贔屓』ではないかとの批判が上がっていますが、いかがお答えでしょうか!」

「個人のコネクションによる身の人事ではないのですか! 正式な説明をお願いします!」

殺到するフラッシュと、容赦ない批判や追及の嵐。

テレビの生中継を通じて世界中の人々が固唾を飲んで見守る中、特設ステージの壇上に現れた八幡は、いつものようにめんどくさそうにマイクの前に立つと、微かにため息をついて平然と言い放った。

「――ああ、まったくその通りだな」

その予想斜め上を行く堂々とした「肯定」に、会場の記者たちは一瞬、言葉を失ってフリーズした。

「身内贔屓か、だと? 当たり前だろ。俺がこれまでの修羅場で身をもって知っている中で、一番実績があって、一番頼れる奴らなんだからな。全力で身内贔屓させてもらったよ、何が悪い」

悪びれる様子もなく、むしろ「当然だろ」と言わんばかりのその開き直りに、ざわついていた会場は一瞬で静まり返った。

「彼らは泥を被り、人の何倍も働き、それでも現実を変えようと足掻いた奴らだ。そんな連中を差し置いて、どこそこの馬の骨とも知らんエリートを並べるほど、俺は物分かりがよくないんでね」

「俺はもう、大臣でも議員でもない」

しかし、八幡の言葉はそこで終わらなかった。

彼はフッと不敵に、けれどどこか楽しげな笑みを浮かべ、カメラのレンズを真っ直ぐに見据えた。

「ま、今回は俺の知ってる奴らを引っ張ったが……これで終わりじゃねぇよ。将来的にはこの財団から世界中に向けた奨学金枠を作って、世代を問わず、本気で野望を持ってる奴らの夢を片っ端から叶えていくつもりだ」

八幡はポケットに片手を突っ込み、世界中の画面の向こうにいる無数の若者たちに向けて言い放った。

「他の奴らはどうだ? 枠には限りがある。……世の中を少しでもマシにしたいとか、世界を変えてみたいって熱い野郎がいれば、いつでもうちの窓口に連絡してこいよ」

そして、最後に彼はふっと肩の力を抜き、やれやれといった風に付け加えた。

「……もっとも、勘違いするなよ? 俺は一民間人のただの物書き崩れで、国の偉い大臣でも議員でも何でもねぇんだ。お上の許可なんて取らなくたって、俺が面白いと思った奴を勝手に応援して何が悪いって話だろ?」

地球を貫く大バズりと、新たな風

「官僚の身内贔屓を『完全肯定』」「俺は議員じゃない、やりたいからやる――比企谷八幡、型破りの財団方針を宣言」

その記者会見の映像が流れた瞬間、インターネットの海は再び爆発的なエネルギーで沸騰した。

『「全力で身内贔屓させてもらった」って、清々しすぎて逆に草も生えないwww』

『身内贔屓を批判されて「それが何か?」って言い返せるの、かっこよすぎやろ……!』

『「俺はもう大臣でも議員でもない」って、権力に縛られない最強の無敵の論理じゃん!』

『#比企谷財団生放送」「#身内贔屓の最高峰」が、またしても世界のトレンドを完全に制圧した。』

隠蔽や建前がまかり通る現代の政治・ビジネス社会において、これほどまでに率直で、かつ仲間に対する絶対的な信頼と「自由」を叫んだ男はいない。

世界中の若者たちがその言葉に胸を熱くし、財団の応募窓口には秒速で数万件もの熱いメッセージが殺到することになった。

その頃、全ての爆心地を作った本人はといえば、会見場から逃げるように裏口からタクシーに飛び乗り、「あー、また余計な敵を作った気がする……早く帰って寝よ……」と、ぐったりシートに身体を預けて現実逃避をキメ込んでいるのであった。

 

霞が関の夜と、グラスの音

記者会見の嵐が去り、世界中が再び「比企谷八幡」の型破りな宣言に沸き返る頃。

都内のこぢんまりとした居酒屋の個室では、財団の主要メンバーとなったかつての官僚チームが、静かに、しかし熱のこもった祝杯をあげていた。

「いやあ……今日の会見はマジで肝が冷えたな。『全力で身内贔屓させてもらった』って、普通あんな生放送で堂々と言えるか?」

グラスを片手に苦笑いを浮かべたチームの一人が、どっと息を吐き出す。

別の男も、感慨深げにビールを飲み干しながら深くうなずいた。

「まったくだ。マスコミの揚げ足取りを正面から叩き潰して、最後は『俺はもう議員でもない』で全部投げ捨てるんだからな……。あの涼しい顔をしてる裏で、どれだけのプレッシャーを背負ってることか」

それでも、あの時の八幡の言葉や、真っ直ぐに自分たちを「信用できる馬カルテット(あるいはクインテット)」として選んでくれた事実は、彼らの胸の奥を激しく熱くさせていた。

「まさか、あの頃の延長戦みたいに……いや、あの頃よりも遥かにデカいスケールで、また比企谷八幡と一緒に仕事ができる日が来るなんてな」

「あいつはさ、見た目はただのひねくれた大学生のままなのに、いざって時にはとんでもない化け物になる。……さすがは、俺たちが惚れ込んだ男だ」

「これからは、俺たちが支える番だ」

静まり返った個室の中で、最年長の元官僚がふっとグラスを置き、まっすぐ仲間たちを見据えた。

「……思い返せば、あの時もあいつは、俺たちの知らないところで一人で泥を被り、面倒な役割を全部引き受けていた。あのトレンチコートの背中は、いつも俺たちには見せない重荷を背負っていたはずだ」

彼の言葉に、周囲の空気が引き締まる。誰もがうなずき、それぞれの胸に去来する思いを噛み締めていた。

「これからは違う。あいつはもう、たった一人で世界を相手に暴れ回る必要はない。……これからは、俺たちがあのひねくれたガキを支えるんだ。あいつが自由に、面倒くさいと言いながら前を歩けるように、俺たちが後ろから完璧に固めてやる」

「異議なし」

「上等だ、世界をひっくり返す手伝いをしてやろうじゃねえか」

再びカランと、グラスとグラスが力強くぶつかり合う。

霞が関の小さな夜の宴は、ただの懐古でも、単なる祝杯でもない。世界を動かす新たなチームの、揺るぎない「誓い」の夜だった。

その頃、すべての中心にいる本人はといえば、自分のアパートの硬いベッドの上で、「……なんか、くしゃみが止まらねぇな。誰かまた変な噂でも流してんのか……?」と、全く気が気でないまま、静かに毛布にくるまっているのであった。

 

ざわめくカフェと、香水臭い男

「比企谷さん、ですよね? いやあ、噂はかねがね! ずっとお会いしたかったんです!」

数日後、大学の近くの静かなカフェのテラス席で、八幡がいつものように缶コーヒーを飲んでいたところを、突然、洗練されたスーツに身を包んだ見知らぬ男が遮ってきた。

整えられた髪に、やけに甘い高級な香水の匂い。男は名刺を両手で差し出しながら、キラキラと胡散臭い笑みを浮かべていた。

「初めまして、私、次世代イノベーション支援コンサルタントの……」

「……あー、いいから名前と用件は手短に頼む。今、プライベートの水分補給中なんでね」

八幡は面倒くさそうにジト目を向け、名刺を受け取るふりすらしなかった。男は少し気まずそうにしたものの、すぐに調子の良い笑みを貼り直して捲し立てた。

「いや、実はですね! ぼくも比企谷さんのように、世界を変える若者たちの夢を応援したくてですね! 資金さえあれば、AIでも宇宙開発でも、すぐにでも億単位の価値を生み出せるんです! ぼくのこの壮大なビジョンに、ぜひ財団のコネクションと、あなたのその素晴らしい影響力を貸していただけないかと!」

夢を語るその言葉の端々には、底の浅い美辞麗句と、自分の利益しか見えていない下心が透けて見えていた。

詐欺師の匂いが、三白眼の鼻を突くほどプンプンと漂っている。

秒速の判断と、動き出すチーム

「……なるほどな」

八幡は小さく息をつくと、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。

男は「おっ、話が早いですね!」と目を輝かせたが、八幡が打ち込んだのは、その男の連絡先や名刺のデータではない。

宛先は、昨日今日で完全に結束を固めたばかりの「元官僚チーム」のグループチャットだった。

 

『【速報】目の前に超絶わかりやすい詐欺師が湧いた。野望とやらがペラペラすぎて頭が痛い。一網打尽に頼む』

『添付:名刺の画像 / 男の顔写真』

 

送信ボタンを押してわずか3秒。

チームのグループチャットからは、狂気的なまでのスピードで返信が返ってきた。

 

『了解。会社名・個人名、完全一致のブラックリストデータ、たった今特定しました』

『過去に似た手口で海外の投資家や個人ファンドから巨額を詐取した国際手配寸前の詐欺グループの主犯格ですね』

『管轄の警視庁捜査二課、および国際犯罪対策部への根回し完了しました。10分以内にそちらを包囲します』

 

(……相変わらず仕事が早すぎて怖いんだけど、この人たち……)

スマホの画面をそっと閉じた八幡は、目の前でまだペラペラと夢を語り続けている男を、哀れむような、しかし最高に冷めた目で眺めた。

詐欺師の末路と、不条理なぼやき

「――ですから、比企谷さんと組めば、世界はあっという間に……って、あれ?」

男が急に言葉を詰まらせたのは、カフェの出入り口から、なぜか周囲の空気を完全に凍りつかせた屈強なスーツ姿の男たち――いや、明らかに只者ではない捜査員たちが、静かに、しかし逃げ場のない配置でテラス席を取り囲んだ瞬間だった。

「おい、なんだお前らは……!」

男が青ざめて立ち上がろうとした瞬間、背後から冷徹な声が響いた。

「〇〇氏だな。国際的詐欺および未明の不正資金洗浄の容疑で同行願う。おとなしく従いたまえ」

「なっ、冗談だろ!? 俺はあの比企谷さんとビジネスの話を――」

ガチャン、と冷たい金属音が響き、男の両手にはあっさりと手錠がかけられた。

そのまま、周囲の客が息を呑むほどの静けさの中、詐欺師の男は泣きそうな顔で連行されていった。一瞬で組織の末端から芋づる式にアジトまで抑えられたのは言うまでもない。

騒ぎが去ったあとの静かなテラス席。

八幡は目の前に残された、男が置いていった胡散臭い名刺をぼんやりと見つめ、一人で小さくつぶやいた。

「……いや、あのさ」

八幡は誰にともなく、やれやれといった風に頭を掻いた。

「俺、別に警察じゃないんだけどな……」

次々と押し寄せる面倒ごとを片付けつつも、今日も今日とて、彼の周りだけは妙に慌ただしく、そしてどこか平和なリズムで時間が流れていくのだった。

 

 

霞が関の「最強コンビ」と、新たなネットの洗礼

カフェでの鮮やかな(そして本人は全く望んでいない)詐欺師一網打尽劇から数日後。

あのとき八幡からの連絡を受けた元官僚チームが、警察と連携して国際詐欺グループの首謀者をわずか10分でスピード逮捕した一部始終が、とある経済誌のウェブ記事を通じて世間にリークされた。

『【速報】比企谷財団の「元官僚チーム」、初仕事で国際詐欺グループを秒速壊滅!』

『名誉理事長の一報からわずか10分で組織の全アジトを特定・制圧。有能すぎるとネットで大反響!』

『「俺は警察じゃないんだけどな」と言い残して去る比企谷八幡と、闇の処理班と化した元官僚たちの絆が映画のワンシーンのようだと話題に』

記事には、かつて国家の利害関係に縛られていた優秀な官僚たちが、今や「比企谷の右腕」として水面下で完璧すぎる連携プレイを見せつけている裏側が克明に描かれていた。

ネットの爆発と、新たなあだ名

その報道が流れた瞬間、インターネットの海は再びお祭り騒ぎとなった。

『待って待って、あの官僚たち、前回の会見のあと秒速で裏社会の掃除屋にジョブチェンジしてない!?』

『「俺は警察じゃない」って、じゃあお前らは何なんだよwww 暗躍するフィクサーとその特攻隊長かよ!』

『比企谷八幡が「面倒くさい」って呟くだけで、世界中の悪党が10分で消去されるシステム完成してて草』

『#比企谷チーム」「#霞が関の特攻野郎Bチーム」が世界トレンドのトップを独占!』

世間は彼らを、単なる「財団の運営メンバー」ではなく、比企谷八幡を中心に動く最強の特命チーム――通称「ヒキガヤ・シンジケート」(あるいは「最強の裏社会デバッガー」)と呼び始め、面白がり、称賛し、そしてどこか恐れ入るようになっていた。

本人の知らぬところでの「聖域化」

その頃、すべての元凶である本人はといえば。

「……なぁ、なんで俺たちのチーム名が、ネットで『悪の秘密結社』みたいな扱いになってんだよ……。俺たちはただ、詐欺師に引っかかりかけた野郎を適法に引き渡しただけだろ……」

財団のオフィスの一角で、スマホの画面を眺めながら頭を抱えてぐったりと机に突っ伏していた。

その横で、かつての官僚チームのメンバーたちは、新しいモニターに映し出される大量のクリーンな支援申請書や事業計画書を眺めながら、どこか晴れやかな顔で笑い合っていた。

「理事長、そんなに頭を抱えないでください。世間はあなたたちの『有能すぎる無茶振り』を最高にエンタメとして楽しんでるんですから」

「そうだぞ。お陰で、世界中から本気で世界を変えたい変人たちの応募が殺到してる。……ほら、次のプロジェクトの査定を頼みますよ、名誉理事長」

「……お前ら、絶対楽しんでるだろ……。もう知らん、勝手にやってくれ……」

盛大なため息をつきつつも、八幡が投げ出した書類の束を、かつての堅物エリートたちが嬉しそうに、しかし的確にさばいていく。

表向きは「世界を揺るがすバズりコンビ」、裏では「面倒くさがりな若者と、彼に人生を救われた最強の仲間たち」。

世間がどれだけ騒ごうとも、彼らは今日もマイペースに、そして確実に、この世界を少しだけ面白い場所へと変えていくのだった。

 

届いた「突飛な申請書」と、ひとりの学生

世界中が「ヒキガヤ・シンジケート」の噂で持ちきりになっていた頃。

財団のオフィスのデスクで、山のように積まれた支援申請のデジタル書類を、かつての官僚チームのメンバーたちが淡々と、しかしどこか楽しそうにチェックしていた。

その中で、一通のファイルを開いた男が、ふっと眉をひそめ、そして面白そうに声を漏らした。

「おい、これ……ちょっと変わった代物だぞ。他の連中とは毛色が違う」

「なんだ? また地球防衛軍でも作るような中二病か?」

仲間が覗き込むと、画面にはこう書かれていた。

 

【申請テーマ】:人体組織の超加速再生――「切断された指先の完全再生」および「永久歯の再生医療」に関する基礎研究について

【申請者】:〇〇大学 生物学部 4年……

 

「……は? 指が再生する? 永久歯が生えてくる?」

「ああ。いわゆるトカゲの尻尾切りみたいな再生能力を、人間の細胞レベルで応用するための実験データと理論の試算らしい。……まあ、ぶっ飛んではいるが、理論の構築自体は妙に緻密で、基礎データも自作の割によく揃ってる」

そこへ、いつものように気だるげなトレンチコート姿でコーヒーを片手に通りかかった八幡が、ぼそっと呟いた。

「……どれどれ」

画面をチラリと一瞥した八幡の三白眼が、ほんのわずかに細められた。

「……面白いのがいるな」

「理事長、どうします? いかにも胡散臭いマッドサイエンティストの卵って感じですが、助成金出しますか?」

「いや」

八幡はカップを机に置き、ふっと片方の口角を上げた。

「書類の文字面だけじゃ、そいつが本物かどうかなんて分かんねぇだろ。……直接、その『熱』を確かめに行こうぜ」

こうして、八幡といつもの最強官僚チームは、その「再生医療の夢」を掲げる学生に直接会うため、大学の古びた研究室へと向かうことになったのだ。

薄暗い研究室の「熱」

指定された大学の旧校舎の奥にある生物学実験室は、世間一般の華やかな最先端研究所とは程遠く、あちこちに段ボールが積まれ、薬品と埃の匂いが入り混じった雑然とした空間だった。

「す、すみません……! うちは資金がなくて、ろくな機材もないもんで……!」

そこにいたのは、白衣の裾を焦がし、目の下にクマを作った、いかにも研究に没頭していそうな一人の熱心な男子学生だった。

彼が怯えたような、しかしどこか必死な目で目の前の「世界的有名人である八幡たち」を見上げる。

「あなたが……あのヒキガヤ財団の……?」

「あー、そうだ。噂の面倒くさい名誉理事長ってやつだな」

八幡は足元に転がっていた怪しげな培養シャーレをひょいと避けながら、パイプ椅子に勝手に腰を下ろした。

そして、じっと学生の目を据えて、低く問いかけた。

「んで? お前の言う『指が再生する』だの『永久歯が生える』だのっていうデカい話だが……。世間から見りゃ、どうせ絵空事の詐欺か、頭のイカれた妄想だって笑われるような代物だ。……お前、なんでこんな誰も見向きもしねぇ領域で一人で必死こいてやってんだよ?」

その言葉に、学生の表情がギュッと引き締まった。

怯えの色は消え、代わりに底知れぬ熱量がその瞳に宿る。

「妄想なんかじゃありません……!」

学生は震える手で、自分でかき集めた膨大な実験ノートの束を机にドンと置いた。

「確かに、今の医学界じゃ『失われた組織は戻らない』のが常識です。でも、もし事故や病気で体を傷つけた人が、当たり前のように元の体を取り戻せたら……それだけで世界から絶望の量が減るんです! ぼくには時間も金も足りない、仲間もいない! でも、アイデアと……この研究を絶対に形にするっていう執念だけは、誰にも負けない自信があります!」

一気にまくし立てたあと、学生ははたと気づいて顔を真っ赤にし、「あ、す、すみません……偉そうなこと言って……」と縮こまった。

八幡の下した「決断」

薄暗い研究室の中に、わずかな静寂が落ちる。

かつての官僚チームの面々は、その学生の熱量と、彼が一人で積み上げてきたデータの精度の高さを静かに見つめていた。

――そして、八幡はふっと息を吐き、立ち上がった。

「……おい」

低い声に、学生がびくりと肩を揺らす。

八幡はトレンチコートのポケットに片手を突っ込み、その学生の肩をポンと軽く叩いた。

「夢を語る奴なんて星の数ほどいる。金がねぇ、環境がねぇって泣き言を言う奴も掃いて捨てるほどいる。……だがな」

八幡の三白眼が、真っ直ぐに学生を捉えた。

「お前のその目の『熱』は本物だ。……合格だ、予算も、まともな研究機材も、お前が欲しがるだけ全部出してやるよ」

「え……?」

学生が信じられないといった顔で目を見開く。

「ただし、覚悟しとけよ。うちの財団の支援を受けたからには、中途半端な結果で逃げ出すなんて許さねぇからな。世界をひっくり返すくらいの成果を出してもらおうか」

呆然としていた学生の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。

「ひ、……ひきがやさん……っ! ありがとうございます……! 絶対に、絶対に結果を出します……!」

研究室の片隅でガッツポーズをする学生を背に、八幡は「めんどくせぇ泣き虫だな……」と頭をポリポリと掻きながら、出口へと歩き出した。

「さて、帰ってまた変な申請書が届いてないか確認するか……」

世界を揺るがす「再生医療の天才」の原石を、また一人、ひねくれた救世主がこっそりと引きずり出した瞬間だった。

 

動き出す「比企ヶ谷財閥」の巨大な歯車

財団の支援が決まったとはいえ、どれほど潤沢な資金を持つスミス財団であっても、無限にリソースをばら撒けるわけではない。特に人体組織の再生医療といった最先端かつ高度なリスクを伴う研究を進めるには、個人レベルの資金や小規模なラボの設備だけではすぐに限界が訪れる。

そこで八幡が動いた。

「……まあ、いくら俺たちがその気でも、予算にも物理的な限界ってもんがある。だからと言って、せっそく見つけた金の卵を中途半端な環境で潰すわけにもいかないしな」

そう言って八幡が手配したのは、日本国内の医療界において文字通り「最強の裏ルート」――すなわち、彼がこれまで意図的に距離を置いていたはずの「比企ヶ谷本家(比企ヶ谷財閥)」の医療研究チームとの引き合わせだった。

東京の一等地にある、日本最高峰の設備を誇る比企谷財閥直轄の総合研究所。

その厳重なセキュリティに包まれた特別会議室に、あのボロボロの白衣を着たままの再生医療の学生がぽつんと座らされていた。彼の周りを固めるのは、比企谷財閥の医療界を長年牛耳ってきた白髪の重鎮たち、そしていつもの元官僚チームの面々だ。

「――ほう。君が、我が本家の『はみ出し者』である比企谷のボンボンがわざわざ引っ張ってきた若者か」

財閥の筆頭重鎮である初老の博士が、鋭い視線を学生に向ける。

学生はあまりの格式の高さと重鎮たちのプレッシャーに冷や汗をダラダラと流していたが、八幡が面倒くさそうに「ほら、さっさと自分の研究のプレゼン始めろよ」と背中を押したことで、必死に震えを抑えながら自分のビジョンを語り始めた。

そして、そのデータと熱量を見た瞬間、日本の医療界のトップに君臨する重鎮たちの目が、サッと色を変えた。

「……なるほど。基礎理論の着眼点は狂気的だが、データに妥協はない。……いいだろう、比企谷財閥の全リソースをバックアップとして貸し出そう。君のその夢、うちの研究所ですべて形にして見せたまえ」

こうして、ひねくれた名誉理事長のひと声と、本家の強大なコネクションが噛み合い、前代未聞の「人体再生プロジェクト」が正式にスタートしたのだった。

 

殺到するマスコミと、「使えるコネ」の全肯定

比企谷本家が露骨に外部の無名の学生を支援し、財閥の最先端ラボを解放したという情報は、メディアが嗅ぎつけるのに十分すぎるスクープだった。

数日後、研究所の正門の前は、再び押し寄せた数百人の記者とカメラマンの群れで埋め尽くされていた。

「比企谷理事長! 突然の比企谷財閥の医療チームの投入、これは一体どういうことですか!」

「本家との関係を絶っていたはずでは!? これは身内びいきの範疇を超えた一族ぐるみのコネクション利用ではありませんか!」

フラッシュの嵐の中、マイクを突き出す記者たちを前に、八幡は相変わらずトレンチコートのポケットに手を突っ込んだまま、盛大なため息をついた。

「……はぁ? 何を今さら驚いてやがる」

集まった世界中のメディアのカメラを真っ直ぐに見据え、八幡は微塵も悪びれる様子もなく言い放った。

「うちの親戚だからな。使えるコネは全部使って何が悪い。前も言ったが、使えるコネは全部使うんだよ。いちいち俺の行動に構わなくてもいいだろ? そんなに暇なのかお前らは」

冷ややかな三白眼でそう言い放たれた瞬間、ガヤガヤと騒いでいた記者たちの間に気まずい沈黙が走った。

「なっ……!」と反論しようとした者もいたが、八幡がふっと不敵に笑い、自分の背後へと軽くあごをしゃくったことで、その言葉は完全に喉の奥へと引っ込むことになった。

後ろに控える「圧倒的な現実」

ガラス張りのエントランスの自動ドアが開き、そこから現れたのは、先ほどまで会議室でプロジェクトの始動を確認し合った「比企谷財閥の医療界の重鎮たち」、そしてあの白衣を着た「再生医療の学生」だった。

さらにその横では、本家の親戚の代表者たちが、まるで当然のことだと言わばかりに満足げに腕を組んで頷いている。

報道陣は、その顔ぶれを見た瞬間、先ほどまでの勢いが嘘のようにサーッと血の気が引き、完全に言葉を失った。

文句をつけようにも、日本医学界の頂点に立つ重鎮たちが自ら「この若者の研究を我が財閥が総力を挙げて支える」という意志を背負って、八幡の後ろにずらりと並んで立っているのだから、もはや追及の余地などどこにもなかった。

「……えっと、そういうわけだから」

八幡は呆然と口を開けて固まっているマスコミの群れをスルーし、やれやれと首をすくめた。

「取材ならその辺の優秀な奴らにでも聞いてくれ。俺はもう帰るから」

一言そう残すと、八幡は完全に沈黙した報道陣の中をすり抜け、悠々とその場を後にした。

後ろでは、支援を受けて生き生きとした顔つきになった学生が、財閥の重鎮たちに囲まれながら堂々と未来の医療について語り始めている。

「使えるコネは全部使う」――それは綺麗事なしの現実であり、彼が選び取った最強の泥臭い戦い方だった。

マスコミが言葉を失い、圧倒的な現実の前に平伏する中、比企谷八幡の巻き起こす巨大なうねりは、今日も止まることなく世界を塗り替えていくのだった。

 

世界を駆け巡る「希望」の連鎖

比企谷八幡がマスコミを冷ややかに一蹴し、比企谷財閥の総力を挙げて「人体再生プロジェクト」が始動したそのニュースは、瞬く間に世界中へと駆けめぐった。

『比企谷財団、次世代の再生医療研究を本格始動! 欠損した組織や歯の再生へ』

『「使えるコネは全部使う」――権力や血筋を言い訳にせず、すべてのリソースを未来のために投じる比企谷の手法に世界が喝采!』

『失ったものを取り戻せる未来が来る。SNSには世界中の患者や研究者から「希望」のメッセージが殺到!』

ネットの海は、かつてないほどの熱狂と感動に包まれていた。

綺麗事ばかりを並べる政治や、保身に走る大企業とは違い、泥臭く、しかし確実に「現実の絶望」を塗り替えていく八幡のやり方は、世界中の人々に本物の「希望」を与えていた。失った手足を、失った歯を、そして奪われた未来を取り戻せるかもしれない――その奇跡の萌芽が、今まさに目の前で芽吹こうとしているのだから。

スミスの微笑み

地球の裏側、アメリカの豪邸の一室。

大画面のニュースモニターに映し出される若者たちの歓声と、どこか不服そうにトレンチコートの襟を立てる八幡の姿を眺めながら、世界的大富豪スミスは深く、満足そうにうなずいていた。

「……はは、相変わらずメディアの扱い方が荒っぽくて面白い若者だ」

スミスは手元のグラスを傾け、隣に控える秘書に静かに語りかけた。

「私が彼に投資をしたとき、周囲は『老人の気まぐれだ』『胡散臭い若者に丸め込まれた』と笑ったものさ。だがね……どうだ、今のこの光景は」

スミスは自身の胸元にそっと手を当てた。

かつて若くしてビジネスの荒波を駆け抜け、現在は心臓に爆弾を抱え、限られた時間を生きる身である彼だからこそ、その言葉の重みが痛いほどよく分かっていた。

「病や事故で失ったものを諦めなければならない絶望感、そして残された時間が少ない人間にとって、未来を切り開く技術がどれほどの救いになるか。……私のような心臓の弱い人間からすれば、彼のやっていることは奇跡そのものだよ」

スミスは穏やかな笑みを浮かべ、確信に満ちた声で締めくくった。

「あの男を選んで、あの財団に協力して本当によかった。……世界は、ようやく本物の『変革者』を手に入れたらしい」

スミスのコメントが巻き起こす、さらなる大波

その日、スミスが自身の公式SNSアカウントおよび経済メディアを通じて発信したコメントが、世界に向けてドロップされた。

 

『私がヒキガヤ財団に投資したのは、彼が綺麗事を並べる政治家ではなく、泥を被ってでも現実を変える「熱」を持っていたからだ。心臓に不安を抱え、失うものの痛いほどわかる私にとって、今回の再生医療プロジェクトは人類の悲願そのものである。彼と共に未来を支えられることを、私は心から誇りに思う。――スミス』

 

大富豪スミスがここまで手放しで絶賛し、自らの身体の事情や切実な想いをも交えて語ったそのメッセージは、世界中に計り知れない衝撃を与えた。

『スミス氏本人からのガチの賛辞……! 心臓が弱い彼の言葉だからこそ、再生医療にかける重みが違いすぎる』

『「世界が本物の変革者を手に入れた」って、世界的大富豪にここまで言わせる比企谷八幡ってマジメに何者なんだよ……!』

『#スミスとヒキガヤ」「#希望の再生医療」のハッシュタグが、全地球のSNSのタイムラインを完全に白銀色に染め上げた。』

批判や野次馬根性で始まったマスコミの報道は、いつしか世界中を巻き込んだ壮大な「希望のうねり」へと変わり果てていた。

そのすべての中心にいる本人はといえば、自分のアパートのちゃぶ台に突っ伏し、「……なんか世界中で勝手に美談が出来上がってんだけど……俺、ただ面倒くさいから丸投げしただけなんだけど……」と、冷や汗を流しながら布団に逃げ込む準備を着々と進めているのであった。

 

賑やかなアパートのちゃぶ台と、画面越しの乾杯

世界中が「スミスとヒキガヤ」の賛辞や再生医療のニュースで大騒ぎになっているその日の夜。

騒乱の中心人物である比企谷八幡の狭いアパートの部屋には、なぜかいつもの「元官僚チーム」の面々が勝手に上がり込み、ちゃぶ台を囲んで好き勝手に酒盛りを始めていたおい。

「いやあ、今日のスミス氏のコメントは効いたな! ネットの株価も、財団の支持率も爆上がりだぞ、理事長!」

「うるせぇ、勝手に人の部屋でビール開けるな。あとお前ら、靴下くらい揃えて脱げ」

八幡が床に転がった缶をジト目で睨みつけながら文句を言うが、エリートだったはずの男たちは今やすっかり毒気を抜かれ、楽しそうに笑い声を上げている。

かつて国家の冷徹なシステムに縛られていた彼らにとって、今この瞬間の泥臭い日常こそが、何よりも得難い居場所だった。

ピピッ、と部屋の隅に置かれたタブレット端末が軽快な電子音を鳴らす。

「お、始まったか」

画面を覗き込むと、そこにはビデオ通話の画面が映し出され、洗練されたバーの一角からグラスを傾ける葉山隼人の姿があった。さらに、そのウィンドウの端には、多忙を極めるはずの霞が関の現役官僚である高柳の名前とアイコンも接続されている。

「やあ、八幡。世界をひっくり返した大スターの祝賀会に、一応こちらも招待されたってわけかい?」

画面の向こうで、葉山は相変わらず眩しい爽やかな笑みを浮かべながらワイングラスを掲げた。

「お前なぁ……どこで俺の居場所聞きつけてやがる。あと、ネット越しに参加してくんな、めんどくさい」

「はは、噂はここ霞が関まで轟いてるよ。『使えるコネは全部使う』だったか? 君らしい、実に泥臭くて見事なやり方じゃないか。……脱帽したよ」

高柳の音声だけの参加からも、心からの感心と敬意の色が滲み出ている。

「……お前らまで面白がってんじゃねぇよ」

八幡はそう言いながらも、やれやれといった風にため息をつき、手元の缶コーヒー(あるいは薄いお茶)を持ち上げた。

「まあなんだ……お前らも、いつも勝手に動きやがって」

照れ隠しのようにボソッと言い捨てた八幡の言葉に、部屋にいる官僚チームも、画面の向こうの葉山や高柳も、一瞬驚いたような顔をしたあと、それぞれに柔らかく笑った。

「じゃあ、世界の常識をひっくり返し、未来の希望を引っ張り出した我が社の『面倒くさい名誉理事長』に――乾杯!」

ガチャン、と目の前の缶と缶がぶつかり合い、同時にモニターの向こうでもグラスが軽やかに合わさる音が響いた。

狭いアパートの部屋と、世界を繋ぐデジタル画面。その境界線を越えて、最高の仲間たちが交わす祝杯の夜は、どこまでも温かく、そして静かにふけていくのだった。

 

祝杯の夜の、思わぬ爆弾

ちゃぶ台を囲む缶ビールの音と、タブレット画面越しに繋がった葉山や高柳たちの声で賑わうアパートの部屋。

世界を揺るがした大騒動の余韻に浸りながら、八幡がれんこんのつまみでも口に運ぼうとした、その時だった。

「――あ、そうそう、八幡」

画面の向こうで、ワイングラスを傾けていた葉山が、まるで今日の天気でも切り出すかのように、サラリととんでもない爆弾を投下した。

「言い忘れていたんだけどさ。……僕と小町、結婚することになったから」

「…………は?」

固まった。

八幡の箸がピタリと止まり、部屋中で気炎を上げていた元官僚チームの面々も、一斉に動きを失って画面の葉山を凝視した。

「こ、こら葉山くん、冗談は顔だけにしておけよ……? 相手は比企谷の、あの小町ちゃんだぞ……?」

誰かが引きつった声で突っ込むが、画面の葉山は相変わらず眩しいほどの爽やかな笑顔を崩さない。

「冗談じゃないさ。両親への挨拶も済ませて、さっき正式に決まったところだよ。君の可愛い妹さんを、僕が一生かけて幸せにするって約束したんだ」

――比企谷小町と、葉山隼人。

あの妹の小町と、あの完璧超人の葉山が。

脳内で情報が完全にショートし、八幡の三白眼は限界まで見開かれたあと、ゆっくりとジト目へと収束していった。

「葉山なら」という許容

しばらくの静寂のあと、八幡は深く、深く息を吐き出した。

頭の中で、小町がいつもの調子で「お兄ちゃん! 朗報だよ!」とニヤニヤしながら報告してくる姿が鮮明に浮かんでくる。あいつ、わざわざ俺を驚かせるために、ここまでギリギリまで黙やがったな……。

だが、驚きはしたものの、八幡の心の中に不思議と嫌悪感や焦りはなかった。

「……まあ、相手が葉山なら、文句の付けようもねぇよ」

八幡はボリボリと頭を掻きながら、やれやれといった風に缶ビールをあおった。

「あいつの面倒くさい兄貴風をうまくかわして、実家にちゃっかり溶け込める図太さと愛嬌を持ってるのは、世界で小町くらいだろ。……逆に、お前みたいな手のかかる優等生を拾ってくれるなら、こっちとしてもありがたいくらいだ。大事にしてやれよ、マジで」

その言葉を聞いた瞬間、画面の向こうの葉山は、少しだけ驚いたような、しかし心底嬉しそうな、これまでにないほど柔らかい笑みを浮かべた。

「ありがとう、八幡。君にそう言ってもらえるのが、一番安心するよ」

結婚式の日程と、兄としての現実

一瞬の感動的な空気を味わったあと、八幡はふと現実的な疑問に行き当たった。

「……で、肝心のスケジュールはどうなってんだよ。こっちはこっちは世界中の財団の仕事や再生医療のプロジェクトで、来年も再来年もスケジュールがパンパンなんだが」

「そこは安心してくれ。準備期間も含めて、一番君たちが動きやすい時期に設定したからさ」

葉山が手元のスケジュール帳を確認しながら、ニヤリと笑った。

「結婚式の日程は――来年の、ちょうど秋口の週末さ。世界を救う名誉理事長閣下にも、ちゃんと妹の晴れ舞台に出席してもらうからね」

「来年の秋……ねぇ」

八幡は天井を見上げ、気の遠くなるようなスケジュールの数々に思いを馳せながら、ふっと小さく息をついた。

「わかったよ。……その日だけは、どんなに世界がひっくり返ってようが、スケジュールを空けてやるよ。盛大に祝ってやるから覚悟しとけ」

画面の向こうの葉山と、部屋にいる官僚チーム、そして高柳の声が交ざり合い、アパートの部屋には再び盛大な笑い声と祝福の乾杯の音が響き渡った。

世界を変える男の日常は、相変わらず忙しく、そしてどうしようもなく温かい賑わいに満ちあふれていた。

 

狂騒の果ての、静かなボヤキ

大騒ぎだったオンラインの祝杯が一段落し、画面の向こうの葉山や高柳がそれぞれの夜へと戻っていったあと。

狭いアパートのちゃぶ台の周りには、相変わらず空き缶と乾きものの皿だけが残されていた。

静まり返った部屋の中で、ふと、元官僚チームの一人がぽつりと言った。

「……なぁ。よくよく考えてみたらさ、俺たち、なんで今こんなことになってるんだろうな」

その言葉に、別の男が苦笑いを浮かべながらビール缶を転がした。

「まったくだよ。元々は、ただの官僚としてお上の理不尽に耐えて、定年まで無難に逃げ切るはずだったんだが……気づけば世界的な『ヒキガヤ・シンジケート』の一員として、詐欺師を秒速で摘発したり、財閥を動かして再生医療の最先端を走らせてたりする」

全員の視線が、部屋の隅でやれやれと頭を抱えている一人の男に集まった。

すべての元凶であり、この巨大なうねりの中心にいる比企谷八幡その人だ。

「元を正せば、お前がスミスって大富豪にちょっと投資を持ちかけただけだろ? なんでそれが、地球規模のヒューマニズムと一大財閥の動乱に発展するわけ?」

「こっちが訊きてぇよ……」

八幡は盛大なため息をつき、手元の冷めたお茶をすっきりと飲み干した。

「最初はさ、ちょっと小銭を稼いで、のんびり隠居するための基盤でも作れればいいやくらいの軽い気持ちだったんだ。それがなんだ、気がつけば名誉理事長だの、世界を変える変革者だのって祭り上げられて……。俺はただ、平穏に日向ぼっこして暮らしたいだけなのに、どうしてこうなるんだよ」

「ははっ、もう諦めろよ、理事長。お前は生まれついての『巻き込まれ体質』ってやつなのさ。いや、むしろ自分から面倒くさそうな火種をわざわざ踏み抜いていく、天然の才能だな」

チームの誰かがからかうように笑うと、別の男がもっともらしい顔をして首を傾げた。

「しかし、それだけ周囲が騒いでるなら、適当なところで『やっぱり降ります』って断ればよかっただろ。お前の得意な現実逃避スキルを発揮すれば、いくらでも逃げ道はあったはずだ」

その問いかけに、八幡はしばし黙り込み、やがて面倒くさそうに片目を細めた。

「……断る理由が、ねぇんだよ」

断る理由のない男と、固まる結束

八幡はゴロンと畳の上に寝転がり、天井の木目をぼんやりと見つめながら呟いた。

「そりゃあ、面倒くさいし、責任は重いし、できることなら今すぐ全部放り出して布団に潜り込みたいさ。だけどよ……」

脳裏に浮かんだのは、ボロボロの白衣で必死に夢を語っていたあの再生医療の学生の瞳であり、泥を被りながらも自分についてくると誓った目の前の男たちの背中であり、そして来年の秋に控えた妹の晴れ舞台だった。

「目の前で本気で足掻いてる奴がいて、それを救う手段が自分の手にあって、しかも面白そうだったら……『やらない理由』のほうが、よっぽど探すの面倒くせぇだろ」

ひねくれた、しかしどこまでも真っ直ぐなその本音。

それを聞いた元官僚チームの面々は、一瞬呆れたような顔をしたあと、やがてフッと息を吐き、そして声を出して笑った。

「……まったく、どこまでいっても救いようのないひねくれ者だな、お前は」

「ああ、本当にそうだ。だからこそ、俺たちはここにいるんだがな」

かつては国の中枢で冷徹な歯車の一部にすぎなかった男たちが、今は自らの意志で、この面倒くさくて愛おしい若者の背中にしっかりと寄り添っている。

損得でも、命令でもなく、ただ「この男の作る未来なら見てみたい」という純粋な信頼だけが、彼らを一つに結びつけていた。

「おい、明日も朝から再生医療ラボの視察と、世界中から届いた支援申請の山を片付けるぞ。寝言言ってんじゃねぇよ、理事長」

「……へいへい。こき使うのも大概にしやがれ……」

文句を言いながらも、八幡は起き上がり、再びデスクの前に腰を下ろす。

世界がどれだけ彼を英雄と祭り上げようとも、彼らのスタンスは変わらない。

ただ面倒くさい日常をぼやきながら、不器用な仲間たちと共に、今日も確実に世界を一歩ずつ前へと進めていく。

霞が関の片隅から始まった小さな縁は、今や世界を揺るがす最強の絆へと変わり、彼らは静かに、しかし確かな足取りで次の夜明けへと歩み出していた。

 

戸部が仕切るグラウンドと、将来の「金の卵」

数日後。相変わらず世界的な財団業務や再生医療プロジェクトの合間を縫って、なぜか八幡は緑の芝生が眩しいサッカーグラウンドの片隅に立っていた。

「いやぁ、まさか八幡が来てくれるなんて思わなかったぜ! 見てくれよ、俺の自慢の子供たちをさ!」

そう言って満面の笑みで声をかけてきたのは、かつてのクラスメイトであり、今やプロサッカー選手として輝かしい実績を築き上げ、引退後(あるいは現役の合間を縫って)地域の子どもたちのためにサッカー教室を主宰している戸部だった。

相変わらずの軽いノリではあるが、その瞳には指導者としての確かな熱と誇りが宿っている。

グラウンドの遠くでは、将来の日本代表を背負って立つかもしれない小学生や中学生たちが、泥だらけになりながら凄まじい気迫でボールを追いかけていた。

「へぇ……。お前が教えるって言うから、どうせボールと戯れてるだけのピクニックかと思ったが、意外と本気っぽいじゃねぇか」

八幡が缶コーヒーを片手にジト目を向けると、戸部は得意げに胸を張った。

「失礼だな! これでも俺はプロの厳しさを知ってる男だぜ。ここにはな、将来間違いなく世界を獲れる『本物の卵』たちがゴロゴロ転がってるんだよ」

戸部の眼鏡にかなう者、そして「提案」

「ふーん……。で、その戸部プロの厳しい眼鏡にかなうような選手は、この中に何人いるんだ?」

八幡がグラウンドの一点を眺めながら問いかけると、戸部はふっと表情を引き締め、ピッチの端で一際鋭い動きを見せている一人の少年にあごをしゃくった。

「……一人だけ、とんでもねぇのがいる」

そこには、体格こそまだ恵まれていないものの、圧倒的な戦術眼と、誰よりも執念深くボールを奪いに行くガッツを見せる一人の少年の姿があった。

「あいつはすげぇよ。技術だけなら俺の全盛期より優れてるし、何より『絶対にプロになって家族を楽にするんだ』っていう目の輝きが違う。……ただな、問題は環境だ。日本の育成枠だけじゃ、あいつの才能の伸び代にこの国のリソースが追いつかなくなる。本気で世界を目指すなら、一刻も早く本場の欧州ユースに留学させるべきなんだが……なにせ家庭の事情で、海外に行く資金が圧倒的に足りない」

戸部が悔しそうに歯噛みするのを聞きながら、八幡はフッと片方の口角を上げた。

「……なんだ、そんなことか」

「は? 何って、海外留学には莫大な金がかかるんだぞ? いくらお前が有名な名誉理事長だからって……」

「なら、話は早ぇじゃねぇか」

八幡はトレンチコートのポケットに手を突っ込み、グラウンドで息を切らせている少年へと視線を向けた。

「お前のそのコネと、うちの財団の資金を合わせればいい。……海外の強豪チームにぶち込んで、徹底的に揉まれさせてやればいいだろ」

その言葉に、戸部は目を見開いた。

「おいおい、マジかよ……!? そんな簡単に決めていいのかよ!」

「本人にやる気と『熱』があるならの話だがな」

八幡はそう言い捨てると、トコトコとピッチの脇へ歩き寄り、ちょうど練習を終えてゼーハーと息を荒げている少年の目の前に立った。

少年の熱と、三人の握手

「おい、そこのお前」

突然声をかけられた少年は、目の前に現れたジト目の怪しげな男にビクリと肩を揺らした。

「……なんですか?」

「お前、海外のクラブチームに行きたぇか? 語学も生活も最初は地獄だぞ。それでも、世界の一流どもをぶち抜いてプロで成り上がりてぇか?」

少年の顔色が変わった。

戸惑い、しかしその奥底で、先ほどまでピッチで見せていたのと全く同じ、いや、それ以上に強烈な「飢えた光」が少年の瞳に宿る。

「行きたいです……! 行けるなら、どんな泥水だってすすってやる! お金だって……将来、絶対にプロで稼いで、この財団に何倍にしてでも全額返してやるから、チャンスをくれよ!」

奨学金はプロになって必ず返す――。

少年のその言葉には、作り物ではない、本物の熱と覚悟がこもっていた。

「……ふっ、いい返事だ」

八幡はフッと不敵に笑うと、背後から追いついてきた戸部を振り返った。

「聞いたか、戸部。こいつは将来の利息付きで全額返金するってよ。……投資案件としては悪くねぇだろ?」

「ははっ、言ったなオイ! なら、俺の全ネットワークを使って、あそことあそこの名門ユースにねじ込んでやるよ!」

戸部は豪快に笑うと、少年の肩を力強く叩いた。

そして、戸部、少年、そして渋々といった風に手を差し出した八幡の三人が、グラウンドの夕日の中でガッチリと力強く握手を交わした。

未来のスタープレイヤーを生み出す新たな「コネと資金」の歯車が、また一つ、静かに、しかし確実に動き出した瞬間だった。

 

霞が関の影、訪れた男

サッカーグラウンドでの新たな才能の発掘劇から数日後。

ヒキガヤ財団のオフィスにて、いつものように山積みの書類を前に「めんどくせぇ……」と八幡が盛大なため息をついていた、その時だった。

「――失礼する。今、少し時間はいいかな」

落ち着いた、しかしどこか只者ではない重みのある声とともに、オフィスの来客用スペースに一人の男が足を踏み入れた。

パリッとしたスーツに身を包み、鋭いながらも知的な三白眼を持つその男は、かつて国家組織の最高峰に位置していた警察官僚――警視庁のキャリア組、現役の警視正だった。

かつて八幡たちが詐欺グループを一網打尽にした際、背後で迅速に警察組織を動かし、裏でその手腕を静かに見つめていた男その人である。

オフィスの空気が一瞬でピリッと引き締まり、元官僚チームのメンバーたちが思わず背筋を伸ばした。

「……おや。国家の治安を守るお偉いさんが、こんな零細(自称)のボランティア財団になんの用だ。まさか、うちのチームの連中がまた何かやらかしたか?」

八幡はトレンチコートのポケットに手を入れたまま、ジト目でソファの男を迎え撃った。

忘れられない「大捕物」

男はクスリと小さく笑うと、八幡の向かい側のソファに勝手に腰を下ろした。

「やらかした、と言うよりは――君たちの『鮮やかな手際』を、まだこちらが忘れられなくてね」

男は目を細め、元官僚チームの面々を順に一瞥した。

「あの国際詐欺グループの摘発劇、そしてその後の財閥を巻き込んだ医療プロジェクトのスピード感。……君たちが霞が関を去ったあと、どれだけの人間がその穴埋めに苦労したと思っている?」

皮肉を言っているわけではない。その声には、かつて組織の論理に縛られながらも、八幡たちの圧倒的な実行力と「泥臭い現実主義」を目の当たりにしてしまった者特有の、複雑な畏敬の念が混じっていた。

「お上の方針や稟議の決裁を何ヶ月も待つのが本来の警察組織だ。だが、君たちは一瞬のチャットのやり取りだけで、国家の垣根すら飛び越えて悪党を根こそぎ引っ掴みに出た。……あれを見たとき、私の中で何かが弾けたのさ。正しいと分かっているのに、手続きという免罪符に隠れて動かない組織の歯車でいることに、ね」

交錯する思惑と、新たな「コネ」

八幡は面倒くさそうに頭をポリポリと掻き、ポットからお茶をマグカップに注ぎながら言った。

「で? 国家の治安を守るエリート様が、わざわざこんな胡散臭いオッサンの溜まり場に足繁く通ってきたってことは……また何か面倒な事件の尻拭いでも押し付けに来たわけか? 生憎だが、うちは民間の慈善団体であって、お前らの下請けの便利屋じゃねぇぞ」

「ふっ、相変わらず警戒心が強いな」

男はフッと言葉を和らげると、胸元から一枚の名刺――いや、極秘の直通連絡先が記されたカードをテーブルに滑らせた。

「尻拭いじゃない。……取引の打診さ。君たちが今後、世界中でどんなデカい野望を叶えようと、あるいは厄介な連中に目を付けられようと、法と権力の隙間を縫う『盾』が必要になる瞬間が必ず来る。そのとき、私の持っている警察内部の情報網と権限を、君たちの『コネ』として使わせてほしい」

八幡はテーブルの上のカードをじっと見つめ、そして呆れたように息を吐いた。

「……おいおい。警察の人間が、非公式に民間の怪しいシンジケートに寝返るような真似をしていいのかよ。お前のキャリアに傷がつくぞ」

「キャリアなど最初から期待していないさ。君たちのように、くだらない建前を蹴飛ばして本当に救うべきものを救う奴らのほうが、よっぽど見ていて面白いからね」

男は立ち上がり、静かに一礼した。

「また連絡するよ、名誉理事長。……次の『大捕物』のときは、私もぜひ呼んでくれ」

そう言って飄々と去っていく警察官僚の背中を見送りながら、八幡は深いため息をついた。

「……おい、お前ら。また一段と厄介な『身内』が増えたぞどうすんだこれ」

「いやあ、最高じゃないですか理事長! これで警察の裏ルートまで完全制圧ですね!」

頭を抱える八幡と、どこまでも楽しそうな元官僚チーム。

彼の周りに引き寄せられる縁は、もはや日本国内だけに留まらず、国家の裏社会の歯車すらも狂わせながら、さらなる巨大なうねりへと巻き込んでいくのだった。

 

居酒屋のカウンターと、キャリアの愚痴

数日後。

先日の極秘の申し出から少し時間が経った頃、都内の騒がしいメインストリートから少し外れた、年季の入った赤提灯の焼き鳥屋のカウンター。

「……で、わざわざこんなむさ苦しい大衆酒場に国家のキャリア様を呼び出したってわけか。お偉いさんにはちと場違いだったか?」

八幡はビールジョッキを傾けながら、斜め向かいに座る男――警視庁の警視正・朝比奈をジト目で一瞥した。

パリッとしたスーツを着崩し、ネクタイを緩めた朝比奈は、高級料亭ではなくこんな庶民的な店に連れてこられたことに苦笑しつつも、目の前の冷えたビールを美味しそうに飲み干した。

「はは、君に誘われたときは耳を疑ったがね。こういう場所も悪くない。第一、今の私には高級な酒よりも、愚痴を聞いてくれる相手が必要だったところだ」

「愚痴ねぇ……。国を動かすエリート様が、一体どんなお悩みなことで」

八幡が焼き鳥のネギマを適当に頬張りながら促すと、朝比奈はグラスをカウンターに置き、ふっと息をついた。

朝比奈の本音

「聞いて驚くなよ。私の直属の上層部から、最近こう言われた。『我が組織の不祥事の芽は、外部に漏れる前に華麗に摘み取れ。ただし、面倒な手続きやマスコミ対策はすべて完璧にな』……とな」

朝比奈は苦々しい笑みを浮かべ、頭を軽く掻いた。

「要するにだ。本当は組織の古い体質を変えたい、隠蔽体質をどうにかしたいと思っても、上の連中が気にするのは『組織の面子』と『警察の不祥事ゼロ』という数字だけ。正義を執行するはずの場所で、やっていることはいかに保身を完璧にするかのイス取りゲームさ」

朝比奈はグラスの泡を見つめながら、ぽつりと言った。

「君のように、面倒な建前を全部蹴飛ばして『使えるコネは全部使ってやる』と笑い飛ばせる奴らが、心の底から羨ましかったのかもしれんね。……私はずっと、正しい手順を踏むことが正義だと信じてキャリアを積んできたが、最近じゃその『手順』こそが、本当に救うべき人間を見殺しにする免罪符に見えて仕方がないんだよ」

八幡の返し

しばらくの沈黙のあと、八幡はもう一本の烏龍茶(あるいはビール)の瓶を引き寄せ、朝比奈のグラスにトクトクと酒を注いだ。

「……ま、同情はしねぇよ。自分で選んだレールだろ」

冷徹だが、どこか的を射た八幡の言葉に、朝比奈は「手厳しいな」と肩をすくめた。

だが、八幡はすぐにふっと息を抜き、呆れたように付け加えた。

「だがな。その『正しい手順』ってやらに縛られて身動きが取れなくなって、一人で勝手に酒飲んでクサクサしてるくらいなら……いっそ、うちの面倒くさい連中にでも混ざればよかったんじゃねぇの?」

朝比奈が目を見開く。

「うちのチームを見ろよ。元官僚のくせに裏社会の掃除屋みたいな真似して喜んでる馬鹿どもだぞ。お前がもしその組織の保身に嫌気が差して、本当に何かをぶち壊したくなったときは――いつでもそいつらの仲間に入れてやるよ」

冗談めかして、しかし真っ直ぐな三白眼でそう言い放つ八幡。

朝比奈は一瞬ポカンとしたあと、やがて声を上げて、腹の底から楽しそうに笑い出した。

「ははっ……! 国家の治安を守る警視正を、自分の怪しいシンジケートに引き抜こうとはね。君という男は、どこまでいっても食えない奴だ」

「やめろ、勧誘した覚えはねぇよ。ただの飲みニケーションの延長だ」

「ああ、そうだな。だが――その誘い、悪くない」

カラン、と二人のグラスが軽やかにぶつかる。

霞が関の澱みに辟易していたエリート官僚の愚痴は、ひねくれた救世主の荒っぽくも温かい一言によって、綺麗に洗い流されていくのだった。

夜の更けた大衆酒場の片隅で、世界を裏から動かす「厄介な男たち」の結束は、また一段と強固なものになっていく。

 

居酒屋の片隅で飛び出した、あまりにシンプルな「正論」

「……で、上がそんな保身ばかりだから、結局現場の人間はいつも板挟みってわけか」

焼き鳥の串を皿に置きながら、八幡はめんどくさそうにぼやいた。

朝比奈はグラスの氷を転がし、自嘲気味に息を吐く。

「ああ。特に取り調べや捜査の現場なんてのは、密室ゆえの黒い噂が絶えない。かといって、それを透明化しようとすると、今度は組織の足元がグラつくからと上の連中が全力で潰しにかかる。……分かってはいても、個人の力じゃどうにもならんのさ」

その朝比奈の愚痴を、八幡は半眼のジト目で聞いていたが、やがてポリポリと頭を掻きながら、至極当然のように言い放った。

「――だったらさ。全部クリアにすればいいだけなんじゃねぇの?」

「……は?」

朝比奈が動きを止めた。

「海外の先進国じゃ、現場のパトロールも、取り調べ室の中も、全部カメラで常時録画されてんだろ? 日本もそっくりそのまま真似して導入しちまえばいいじゃん。密室だから隠蔽できるし、都合のいいように捻じ曲げられるんだからさ。最初から丸見えにしとけば、変な不正や保身の言い訳もできなくなるだろ」

あまりにも直球で、しかし本質を突いた提案に、朝比奈は絶句した。

「ま、待ってくれ八幡くん……。それをやるということは、警察組織のブラックボックスを完全に解体するも同然だ。現場の反発はもちろん、警察庁や国家公安委員会、古い体質にしがみつく議員どもが総出で潰しにかかる。そんな大改革、通るわけが――」

「通るかどうかは知らんが」

八幡は面倒くさそうに遮り、冷めた烏龍茶を一口飲んだ。

「風通しは良くなるだろ。それに、そんなの導入されたら、日頃から隠蔽に走ってる警察のお偉いさん連中は全員冷や汗かいて夜も眠れなくなるんじゃねぇの? それだけでも、こっちとしてはちょっと見てて面白そうだけどな」

スケールのデカさに圧倒される朝比奈

「……は」

絶句していた朝比奈は、次の瞬間、フッと息を漏らし、やがて肩を震わせて笑い出した。

「ははっ……はははは! いや、参ったな……!」

朝比奈はグラスをテーブルに置き、信じられないものを見る目で八幡を凝視した。

「君という男は……。警察組織の根幹を揺るがすような司法の透明化システムを、『お偉いさんが冷や汗かいて面白そうだから』という理由だけでサラッと言い放つか。スケールがデカいのか、ただの悪趣味なのか、本当に底が知れないな」

「悪趣味はやめろ、ただの効率厨の意見だ。隠蔽するコストと手間を考えたら、最初からガラス張りにした方がどう考えても楽だろ」

「いや、だがね……」

朝比奈の三白眼に、今までになかった鋭い、しかしどこかワクワクするような光が宿った。

「高柳あたりを動かして、国会の表舞台から『取り調べの可視化およびボディカムの完全義務化』の法案を突きつけたらどうなる……? いや、君の言う通り、連中は間違いなく冷や汗どころか血の気を引かせるはずだ。私の知っているキャリアの連中が泡を吹いて倒れる顔が目に浮かぶよ」

「勝手に盛り上がるな。俺はただの一般人(自称)の愚痴として言っただけだぞ」

「なに、一般人の世迷言にしては、あまりにも切れ味が良すぎる。――面白い。風通しの悪いこの国の治安維持組織に、ちょっと強めの風を吹かせてやるのも悪くないな」

朝比奈は満足そうにグラスを掲げ、八幡の缶と軽く合わせた。

世界を変えるつもりなど毛頭ないひねくれた男が、居酒屋の片隅で放った一言は、やがて日本の警察組織そのものを根底からひっくり返す「大改革の導火線」へと化していくのだった。

 

霞が関の隠れ家で、エリートたちが絶句した夜

数日後。今度は場所を変え、霞が関の官僚たちが密かに利用する落ち着いたバーの一角。

そこに集まっていたのは、相変わらず気だるげなトレンチコート姿の比企谷八幡、元官僚チームの面々、現役キャリアの警視正・朝比奈、そして――あの「取り調べの可視化」および「警察の完全クリア化」という荒唐無稽なアイデアを急遽呼び出されて聞かされた、現役エリート官僚の高柳だった。

高柳は手元のグラスを持ったまま、完全に動きを止めていた。

「……は? ちょっと待ってくれ、八幡」

高柳は信じられないものを見る目で八幡を見据え、やがて呆れ返ったように大きなめ息をついた。

「君、自分が何言ってるか分かってるのか? 警察の密室を完全に撤廃して、ボディカムや取り調べの全編録画を義務化する……そんなの、警察庁も法務省も、自民党の保守系議員どもも全員が逆上する大スキャンダルだ。日本の司法の根幹をひっくり返すような大改革、現行の法体制で通せるわけがないだろ! 無理に決まっている!」

高柳の正論に、元官僚チームのメンバーたちも「まあ、さすがに今回は高柳の言う通りだな……」「国家の基本構造を更地にするようなもんだしな」と、苦笑しながら頭をポリポリと掻いた。

だが。

「――そうかな?」

その言葉を発したのは、他でもない八幡だった。

トレンチコートのポケットに手を入れたまま、八幡はフッと片方の口角を上げる。

「いや、実際にやってみねぇと分かんなくねぇか? どのみち今の古いシステムじゃ、いつかどこかでボロが出て一網打尽にされるか、隠蔽しきれなくなって自滅するかの二択だろ。だったら、こっちから先にガラス張りにしちまったほうが、長い目で見りゃよっぽどコスパいいんじゃねぇの」

「コスパって君ねぇ……!」高柳が頭を抱えて天を仰いだ。

しかし、その隣に座っていた朝比奈は、妙に落ち着いた笑みを浮かべながらグラスを傾けていた。

「高柳くん、君は相変わらず『通すための手続き』ばかりを気にするがね……。八幡くんの言っているのは、理屈が通っているかどうかではなく、『世論がそれを許すかどうか』だ」

「朝比奈さんまで何を……!」

「そうだよ」と、元官僚チームの一人がニヤリと笑って続けた。

「俺たちがこの前、国際詐欺グループを秒速で潰したときだって、世間は『よくやった』って大喝采だったろ? もし警察の隠蔽体質や不祥事を根っこから叩き潰すために、このクリア化のアイデアをネットと財団の信用力を使ってぶち込んだらどうなる……? 世論は間違いなく『警察の透明化』を熱望するぞ」

「世論を味方に付けちまえば、古い体質にしがみついてるお偉いさんや議員どもだって、保身のために手のひらを返さざるを得なくなる」

朝比奈は静かに紅茶(あるいは酒)を飲み干し、ふっと目を細めた。

「不可能な難題に見えるが、彼らの手にかかると、なぜか『やれそうな気』にさせられるから不思議だ。……ねぇ、八幡くん?」

「知らん、勝手に話をデカくするな」

八幡は面倒くさそうに顔を背け、グラスの氷をカランと鳴らした。

「無理だろ」と頭を抱える高柳と、「そうかな?」と飄々と笑う八幡、朝比奈、そして面白がる元官僚チーム。

日本の中枢を揺るがす巨大な爆弾は、こうして、夜のバーの片隅で着々とその導火線に火をつけられようとしていた。

 

軽い一言と、世界を動かす「リーク」

「まあ、今すぐどうこうなんて言うつもりはねぇよ。そんな面倒くさい大改革、俺が率先して旗振るなんてごめんだしな」

八幡は面倒くさそうに肩をすくめると、ポケットから取り出したUSBメモリをテーブルの上にポンと放り出した。

「……ただ、『もしそんな未来が見れたらな』って愚痴に付き合ったお礼だ。警察の古い隠蔽体質のデータや、これまで握り潰されてきた内部資料のいくつか……まあ、それなりに使い物になりそうなネタを、うちのチームが裏でかき集めておいた。これをどうするかは、優秀なエリート様たちにお任せするさ」

「……は? おい、待て八幡、まさかお前――」

高柳が青ざめた顔で身を乗り出したが、時すでに遅し。

数日後、そのデータは比企谷財団の圧倒的なネットワークと影響力を背景に、国内外の主要な独立系メディアへと一斉にリークされた。

『日本の警察組織、闇の隠蔽構造を暴く! 密室の取り調べと腐敗の実態』

『国民の安全を守る機関が隠し続けた不都合な真実――今こそ「司法のクリア化」を求める声が爆発!』

ネットの海とSNSは、瞬く間に怒りと変革を求める声で埋め尽くされた。

綺麗事なしの事実と、あまりにも鮮烈な「警察の透明化」という提言は、瞬く間に世界的な大バズりを巻き起こし、世論を完全に飲み込んでいった。

鰻上りの高柳と、静かに進む歯車

「おい、どうしてこうなるんだよ……っ!!」

霞が関の一室で、高柳は頭を抱えて絶叫していた。

本人は「そんなの現実的じゃない、無理だ」と否定していたはずなのに、世論は勝手にヒキガヤ財団のリークを絶賛し、その改革を推進するキーパーソンとして、なぜか高柳の名前を英雄視し始めたのだ。

「若手官僚の良心!」「古い霞が関をぶっ壊す真の改革者!」として、テレビや経済誌に連日取り上げられ、高柳の人気と政治的評価は文字通り「鰻上り」に急上昇していく。本人のあずかり知らぬところで、国家の表舞台を押し上げられていくその姿に、朝比奈は腹を抱えて笑った。

「いやあ、素晴らしい人気ぶりじゃないか、高柳くん。君の悲願だった国家の風通しが、皮肉にも君自身のステップアップと共に現実味を帯びてきているぞ」

「笑い事じゃないですよ朝比奈さん! 僕の胃に穴が空くわ!」

絶叫する高柳をよそに、警察内部も大混乱に陥っていた。

お偉いさん連中は連日冷や汗をかき、保身のための言い訳すら封じられつつある。組織は表立った改革をまだ拒んでいるものの、これだけ世論が「クリア化」を求め、その旗振り役として若手のエリートが支持されている以上、古い体質にしがみつくこと自体が不可能になりつつあった。

――そう。何もすぐには動かない。警察組織の根底が明日ガラリと変わるわけではない。

だが、「法案が通りやすい土壌」は、着々と、そして確実にお膳立てされていこうとしていた。

すべては、居酒屋の片隅で「そんな未来が見れたらな」と、ひねくれた少年がぼやいた一言から始まったのだから。

 

カメラの前の「雑談」と、一言の破壊力

世論が爆発的な盛り上がりを見せ、警察組織の改革を求める声が日本中を席巻する中、ついにそのすべての元凶である男の姿がテレビカメラに捉えられてしまった。

比企谷財団のオフィスから出てきたところを、押し寄せた報道陣のカメラとマイクに囲まれたのだ。

「比企谷理事長! 警察の隠蔽構造のリーク、そして今回の『司法のクリア化』のムーブメントについて、あなたのお考えを聞かせてください!」

「これはあなたが仕掛けた国家規模の世論誘導なのですか!?」

フラッシュの嵐の中、八幡は相変わらずトレンチコートのポケットに手を入れたまま、激しいめんどくさそうに顔をしかめた。

「……だから、何度も言わせんなよ。あんなの、ただの飲み屋での雑談の延長だ。俺が国家の改革なんて大層なこと、仕掛けられるわけねぇだろ」

「で、ではその雑談の中で、なぜあのような具体的なクリア化のアイデアが……!」

矢継ぎ早に飛んでくる質問に、八幡はふっとため息をつき、カメラを真っ直ぐに見据えてボソッと言い放った。

「……まあ、そんな未来が見れたら、理不尽に潰される人間や、泣く人が少しは減るんじゃねぇの」

一拍置いて、八幡はひねくれたように片方の口角を上げた。

「知らんけど」

それだけ言い残すと、彼は報道陣を華麗にスルーし、スタスタとその場を去っていった。

その映像は瞬く間に全国に生中継され、「不器用すぎる英雄の、あまりにも人間味のある本音」として、ネットのトレンドを完全に制圧することになった。

それぞれの結末と、敵に回さなくてよかった男

テレビ画面の向こうで飄々と立ち去る八幡の姿を見ながら、関係者たちはそれぞれの場所で全く異なる反応を示していた。

警察庁の一室。

連日の報道と突きつけられた現実の前に、お偉いさん方の顔色は真っ青になり、もはや保身の言い訳すら思いつかないまま冷や汗を流し続けていた。逃げ場は完全に塞がれていた。

別の場所では、朝比奈がテレビの前で思わずニヤニヤと笑みをこぼしていた。

「……まったく、最後の『知らんけど』で全部持っていくとはな。恐ろしい男だ」

そして、霞が関の一角。

すっかり「改革の旗手」として祭り上げられてしまった高柳は、届き続ける支持の嵐を目の当たりにし、深々と頭を抱えてテーブルに突っ伏していた。

「……なんでだよ。俺はただの巻き添えだろ……これじゃあ次の選挙も、その次も、勝手に当選確実になっちまうじゃねぇか……」

頭を抱えながら、高柳はやれやれと盛大なため息をつく。

そして、苦笑いを浮かべながら、どこか遠く――八幡がいるであろう方向をぼんやりと見つめてぽつりと言った。

「……あんな化け物、絶対に敵に回さなくてよかったな、マジで……」

世界をひっくり返した自覚など微塵もないひねくれた「名誉理事長」の日常は、今日も相変わらず面倒くさい波風を巻き起こしながら、静かに、しかし確実に未来を書き換えていくのだった。

 

家庭庁からの突然の来訪

警察組織を揺るがす大改革の余波がまだ冷めやらぬある日。

ヒキガヤ財団のオフィスに、今度はスーツに身を包んだ「内閣府・子ども家庭庁」の官僚が、いかにも切羽詰まった様子でやってきた。

「比企谷理事長、どうかお知恵を貸してください……!」

応接室に通されたその官僚は、深々と頭を下げてそう切り出した。

「昨今の児童貧困、孤立する育児家庭、そして地域コミュニティの希薄化……。現場からは悲鳴が上がっているんです。予算も人員も足りない中で、子どもたちのために本当に意味のある支援をするには、一体どうすればいいのか……上の連中は机上の空論ばかりで、現場は見捨てられ始めているんです」

深刻な顔で頭を抱える官僚に対し、八幡はソファに深く腰掛け、いつものようにトレンチコートのポケットに手を突っ込んだままジト目で言い放った。

「……は? そんなの、俺に訊くなよ。こっちは民間の一介の(自称)ヒモ付きニート崩れだぞ」

「しかし、あなたの『使えるコネは全部使う』手法や、常識にとらわれないアプローチなら何か……!」

官僚の必死な視線に、八幡は盛大なため息をつき、お茶を一口すすってから、面倒くさそうにぽつりと言った。

「暇な爺さん婆さん」と「国家の資金の使い道」

「……じゃあ聞きすが、お前らお上の組織は何のためにあんのよ」

「は?」

「子どもがメシもまともに食えねぇ、孤立して助けを求めてる奴がいるってのに、会議室で『予算が〜』『前例が〜』ってやってる暇があるならさ、もっと他にやり方あんだろ」

八幡は呆れたように首を振った。

「例えばよ、地域のあちこちにいる暇な爺さん婆さんを片っ端から巻き込めばいいじゃねぇの。それぞれの地域で退職してやることなくて持て余してる高齢者なんて山ほどいるだろ。あいつら、なんだかんだで子ども好き多いし、話し相手にもなる。強制的にでも繋げれば、それだけで自然と温かいコミュニティが一つ出来上がるだろ」

「じ、爺さん婆さんを巻き込む……? 地域コミュニティの再構築ですか……!」

「ああ。で、肝心の子どもがメシも食えないような状況なんだろ?」

八幡の三白眼が、少しだけ冷ややかな光を帯びた。

「だったら、ボランティア任せの精神論に頼るんじゃなくて、お前らの庁の潤沢な予算――そのための組織と大人の数千人いるだろ? そこにドカンと資金を回せよ。子どもにメシを食わせるため、安全な居場所を作るために税金があんだろうが。それを現場に直接ぶっこまねぇで、どこに使う気だよ」

あまりにも直球で、しかし本質を突いたド正論に、家庭庁の官僚は一瞬で言葉を失った。

「……予算を、現場の大人やシステムに直接……。だが、それじゃああまりにも直感的というか、国家の制度としては前例が――」

「前例がねぇから何だっていうんだよ」

八幡は鼻で笑い、冷たく言い放った。

「子どもが腹空かせて泣いてる横で、『お上の前例主義が〜』なんて言い訳こいてる暇があったら、札束でも弁当でも今すぐそこに叩き込めって話だ。……そのための組織と大人なんだろ、お前らは」

動き出す新たな歯車

官僚は、ガタガタと震えるような手でメモ帳を握りしめ、しばらくその場で固まっていた。

綺麗事ばかりの霞が関の論理を、ひねくれた少年の圧倒的な「現実主義」が、ものの見事に粉砕した瞬間だった。

「……ありがとうございます。……目が、覚めました」

官僚はこれまでにないほど深い、気迫のこもった一礼をすると、そのままの勢いでオフィスを飛び出していった。

彼が持ち帰った「爺さん婆さんの巻き込み」と「国家資金の現場直結」という荒技は、やがて全国規模の子ども支援ネットワークへと変貌を遂げ、また一つ、この国の澱んだシステムをひっくり返していくことになる。

「……まったく、次から次へと面倒くさい球を投げ込みやがって……」

静かになったオフィスで、八幡はデスクに突っ伏し、今日こそは絶対に定時で寝てやると固く心に誓うのであった。

 

呆れと感心の混ざった、チームの視線

家庭庁の官僚が青い顔をしながらもどこか吹っ切れた足取りで去っていったあと、静まり返ったオフィスには、ぽつんと八幡の大きなため息だけが響いていた。

「……ふぅ。やっと帰ったか。あいつら、自分で考える頭ってものを完全に忘れてやがるのかね」

八幡がデスクに突っ伏したままグチグチとぼやいていると、背後で控えていた元官僚チームの面々が、何とも言えない複雑な表情で互いの顔を見合わせた。

「いやあ……」

一人の男が、乾いた笑いを漏らしながら頭をかいた。

「参ったな。俺たちはかつて国家のエリートとして、散々予算や制度の仕組みを議論してきたはずだったんだが……」

「ああ。いつの間にか、『子どもが腹を空かせているなら、金と大人を現場に直結させればいい』っていう、あまりにもシンプルで当たり前の事実を、すっかり忘れていたらしい」

別の男が深く腕を組み、感心したようにため息をついた。

霞が関の分厚いマニュアルや前例主義の澱みに長く浸かっていた彼らにとって、「当たり前のことを、当たり前にやる」という八幡の基準は、眩しすぎるほどに本質的だった。

「難しい理屈や、組織の論理を並べ立てる連中が多い中で、お前はいつも一番最初に見るべきところ――『誰が困っていて、何をどうすれば一番早いか』を見失わないよな」

「当たり前だろ。そんなの、少し頭を冷やして考えりゃ誰でも分かることだ」

八幡は面倒くさそうに顔を横に向けたまま、ボソッと呟いた。

「いや、それが誰にでもできねぇから世の中は腐っていくんだよ」

チームの一人がニヤリと笑い、心からのリスペクトを込めて言った。

「さすがだな、我が社の『面倒くさい名誉理事長』。お前が舵を取るかぎり、俺たちが進む道に迷いはなさそうだ」

「……気持ちの悪いこと言うな。勝手に持ち上げるなよ。俺はただ、さっさと仕事を終わらせて寝たいだけだ」

相変わらず照れ隠しのように毒づく八幡を、元官僚チームの仲間たちは温かい、しかし絶対的な信頼の色を宿した目で眺めていた。

世界がどう変わろうとも、彼らの中心にはいつも、このひねくれていて、最高に泥臭い「救世主」が座っている。

それぞれの持ち場で歯車が噛み合い、今日もヒキガヤ・シンジケートは、世界を少しずつ、しかし確実に面白く書き換えていくのだった。

 

霞が関に巻き起こった「静かな革命」

数日後、内閣府・子ども家庭庁の会議室。

これまで予算の配分と前例踏襲の書類の山に埋もれていたエリート官僚たちの間に、かつてないほどの緊迫感と、そして奇妙な熱気が満ち満ちていた。

あの夜、ヒキガヤ財団のオフィスで八幡から直撃を喰らい、青い顔で帰っていったあの若手官僚が、持ち帰った「愚痴とアイデア」をベースに、驚くほど綿密で実効性のある国家プロジェクトの骨子を組み上げてしまったのだ。

「――よって、本事業では全国の退職シニア層を『地域コミュニティ・サポーター』として正式に組織化。各自治体の子育て・子ども食堂の拠点へと配置し、予算は官僚の稟議を経由させるのではなく、現場の口座へ直接ダイレクトに直結させます!」

会議室のプロジェクターに映し出されたその資料を見た瞬間、居並ぶ上層部や他の官僚たちは完全に絶句した。

「なっ……! 地域のお年寄りをボランティアではなく正式に巻き込むだと!? しかも予算を現場直結でだと……! そんな前例のない、権限委譲の極みのような案が通るわけが――!」

反対の声を上げようとした古参の官僚に対し、あの若手官僚は、かつての怯えた面影を完全に消し去り、ギラギラとした確信の光を宿した目で言い放った。

「通します。いや、すでに動き出しています」

涼しい顔でそう言い切る彼に、周囲の同僚たちは呆然としながらも、どこか圧倒されて身動きが取れなくなっていた。

なぜ、あの保守的で事なかれ主義の彼がここまで大胆不敵になれたのか。会議のあと、上司から「いったいどこでこんな大それたアイデアを思いついたんだ?」と問われたとき、彼は胸を張って、満面の誇らしげな笑みでこう答えたのである。

「先日、あの比企谷八幡氏に直接ご相談させていただきましてね。『お前らの組織は何のためにあるんだ、現場に金をぶっこめ』と、直接お墨付きをいただきました!」

「「…………は?」」

その名前が出た瞬間、会議室の空気が一瞬で凍りついた。

――また、あの比企谷か。

警察組織をひっくり返し、世界的な再生医療を動かし、今度は子ども家庭庁の根幹までブチ抜こうとしているのか。

「……あの男を敵に回さなくて本当によかったな」「いや、むしろ俺たちもそっち側に飲み込まれてる気がするぞ」と、官僚たちは冷や汗を流しながらも、心のどこかでその圧倒的な推進力に酔いしれ始めていた。

少しずつ、確実に変わり始める世界

家庭庁で巻き起こったその「静かな革命」は、瞬く間に霞が関全体へと波及していった。

『子ども家庭庁、全国のシニア層と連携した地域コミュニティ支援事業を本格化へ!』

『予算の現場直結と徹底的な効率化――前例主義を打破する画期的なシステムに期待の声!』

メディアやネットはこの新たな政策を大々的に報じ、かつての「お役所仕事の象徴」だった役所が、まるで生き物のようにスピーディーに動き出す姿に、世間は驚きと称賛の声を上げた。

現場で飢えていた子どもたちに温かい食事が届き、孤独だった高齢者たちが笑顔で子どもたちを見守る温かな居場所が、全国各地で次々と生まれ始める。

それは決して世界を救うような大魔法ではないけれど、確実に、目の前の誰かの絶望を希望へと書き換える確かな変化だった。

その世間のざわめきを、テレビのニュース画面で遠目に見ながら、八幡は自室のちゃぶ台の前で盛大なため息をついた。

「……なんか、勝手に話が美談になってやがる……。俺はただ、面倒くさそうだから正論パンチかましただけなんだけどな……」

ぼやきながら冷めたお茶をすする八幡の背後で、元官僚チームの面々は「いやあ、世の中って案外、正しいことを言う奴が一人いれば変わるもんだな」と、楽しそうに笑い合っている。

世界を揺るがすうねりは、相変わらず本人の知らぬところで、しかし確実に、この世界を少しずつ優しく、そして面白く変えていくのだった。

 

子どもたちと、賑やかな食堂の隅で

「……なんで俺が、こんなガキどもに囲まれてカレーを食わされてんだよ」

とある地域の古い公民館を改装した「子ども食堂」。その一角で、八幡はスプーンを持ったまま、全身から激しい「帰りたいオーラ」を放っていた。

しかし、彼の両腕や足には、腹ペコを解消した小学生たちが「おニーちゃん、もっとお代わりちょうだい!」「このデザート美味しいよ!」とすがりつき、完全に身動きが取れなくなっている。

少し離れたテーブルでは、元エリート官僚だったはずの男たちが、エプロン姿で汗を流しながら大鍋からスープをよそい、地元の高齢者たちと一緒に「もっと肉を入れろ」「お前、盛り付けが雑だぞ!」と爺さん婆さんたちに怒鳴られながらも、なぜか楽しそうに立ち回っていた。

「いやあ、理事長! 子どもたちの笑顔のために汗を流すのも、悪くないもんでしょう!」

元官僚の一人が、野菜の切れ端が乗ったエプロンを誇らしげにしながら声を飛ばしてくる。

八幡はジト目でその光景を睨みつけ、近くにいた老婦人にスプーンでカレーを差し出されながら、げんなりした顔で呟いた。

「お前ら、いつの間にすっかり溶け込んでやがる……。っていうか、俺はただ家庭庁の奴らに丸投げしただけで、現地視察に来いなんて言われてねぇぞ。なんで俺まで巻き込まれてんだよ」

すると、ふっと横から差し出された麦茶を飲みながら、チームのリーダー格がニヤリと笑った。

「何を言ってるんですか、理事長。あんたが『現場に金をぶっこめ』って蒔いた種でしょうが。それに――」

彼は、食堂の窓の外に広がる光景をあごでしゃくってみせた。

窓の外では、地域のあちこちから集まってきた退職したシニア層――かつては家で持て余していたはずの「暇な爺さん婆さん」たちが、驚くほどのバイタリティで子どもたちとボールを蹴り合い、宿題をみて、畑の野菜を自発的に持ち寄って談笑していた。

「……見てみろよ。お前が言った通り、各県の爺さん婆さんたちが、勝手に、そして自発的に動き出してるじゃないですか。誰も強制なんてしてないのに、勝手に『俺たちのまちの子どもだ』って顔してさ」

八幡は窓の外をちらりと見やり、ふっと息をついた。

「……めんどくせぇ連中だな。みんな、お節介焼きすぎだろ」

「あんたが一番のお節介の元凶でしょうに」

マスコミをも利用する男

その熱気と温かさに満ちた食堂の入口に、突如としてカメラのレンズとマイクを持った一団が押し寄せてきた。

家庭庁の改革の波に乗って、各地で生まれ始めたこの「シニアと子どもの地域コミュニティ」の取材にやってきたテレビのクルーだった。

「あ、いたぞ! 比企谷財団の比企谷理事長だ!」

「理事長、なぜあなたがこんな地方の食堂に……!?」

フラッシュが一斉に焚かれ、レポーターがマイクを突きつける。逃げ場を失った八幡は、めんどくさそうに頭を掻きながら、子どもの手を軽くぽんぽんと払って立ち上がった。

「……うるせぇな、メシ食ってるとこにカメラ向けるなよ」

「これは仕掛けられた一大福祉プロジェクトの一環なのですか!?」

矢継ぎ早の質問に、八幡はカメラのレンズを真っ直ぐに見据え、不敵に、しかしどこか冷めた笑みを浮かべてこう言い放った。

イド

「……見れば分かんんだろ。国がどうこう言う前に、現場の人間と、暇を持て余した爺さん婆さんが、ただうまいメシ食わせて遊びたいからやってるだけだ」

一拍置いて、八幡はトレンチコートのポケットに手を入れた。

「まあ、こういう面白くて温かい光景が全国に広がるなら……お前らマスコミも、面白おかしくデカデカと取り上げろよ。そしたら、他の地域の暇してる大人たちも『うちでもやるか』って勝手に真似しだすだろ」

マスコミのカメラと電波を逆手に取り、善意の連鎖を日本中に強制的に焼き付ける――。

八幡のその言葉を聞いたレポーターやクルーたちは、その狡猾さと、しかし底にある圧倒的な優しさに息を呑み、そしてすぐに「これだ!」とばかりにカメラをさらに強く向けた。

テレビ画面を通じて、その映像は日本中の茶の間に届けられた。

子どもたちと笑い合うシニア層の姿と、「勝手に真似しろ」と悪態をつきながらも子どもにプリンを譲るひねくれ者の姿に、全国の視聴者は心を撃ち抜かれることになる。

「ほら、突っ立ってねぇで、お前らも子どもたちに相手してもらいに行けよ」

八幡は、自分に群がる子どもたちをそのまま元官僚チームの面々に押し付けると、「まったく……」と呟きながら、ちゃぶ台の端で冷めたお茶をすするのだった。

世界を救う大げさな英雄気取りなんて毛頭ない。

ただ面倒くさい日常をぼやきながら、今日も彼は、一番身近で最高に温かい「希望の連鎖」の真ん中に転がされている。

 

文部科学大臣の、あまりに重すぎる愚痴

警察組織のクリア化に続き、子ども家庭庁の地域コミュニティ改革までが世間を賑わせたある日。

今度は、比企谷財団のオフィスに、よりによって現役の文部科学大臣・松本洋平が、公務の合間を縫って極秘裏に(しかし非常にやつれた足取りで)やってきた。

高級官僚や警察のキャリアとはまた違う、「教育と科学の最高責任者」としてテレビに映るあの落ち着いたスーツ姿の男が、応接室のソファに深々と座り込むやいなや、両手で頭を抱えた。

「……なぁ、比企谷くん。君は一体、どれだけ日本の行政組織を引っかき回せば気が済むんだい?」

ソファの端で、いつものようにトレンチコートのポケットに手をつっこみ、めんどくさそうに烏龍茶を飲んでいた八幡は、ジト目で大臣を一瞥した。 

「はあ? こっちはこっちは日々の財団業務と再生医療の資金繰りで手一杯だ。文科省のエライさんが勝手に何処からか聞きつけてやってきて、いきなり言いがかりつけないでくれよ。俺は呼ばれてすらいねぇよ」

「言いがかりじゃない、心からのSOSさ……!」

松本大臣はぐったりと肩を落とし、重い溜息をついた。

「子ども家庭庁であんな見事な『現場直結の地域コミュニティ改革』をやられたせこ、全国の教育現場や学校、そして保護者たちからのプレッシャーが我が省にダイレクトに跳ね返ってきてるんだ。『うちの地域でも爺さん婆さんや民間の力を借りて子どもを救え』『文科省も硬直したカリキュラムを早く何とかしろ』ってね」

大臣はげっそりとした顔で、グラスに注がれたお茶を飲み干した。

「おかげで私のスケジュールは全国行脚と、古い教育方針にしがみつく保守派の老害どもを説得する会議でパンク寸前だ。……教育の未来を考えるのが私の仕事のはずが、毎日やっているのは派閥の調整と火消しばかりだよ」

「理想と現実」の狭間で

「……で?」

八幡は面倒くさそうに片眉を上げた。

「国家の教育を司る最高責任者様が、わざわざこんな零細財団の薄暗い部屋に愚痴を言いに来たってことは何だ。俺に同情してほしいのか、それとも『教育現場の理想のあり方』についてありがたいお説教でも垂れに来たわけか?」

「違うさ」

松本大臣はふっと自嘲気味に笑い、じっと八幡を見据えた。

「君が子ども家庭庁の件でやったアプローチを見ていて気付いたんだ。我々政治家や官僚は、『すべての子どもに平等な教育を』『完璧なカリキュラムを』と理想ばかりを並べ立てて、結局現場が回らなくなっている。……だが、君は『めんどくさいから現場の人間と暇な爺さん婆さんに丸投げして、金を回せ』と言い放った。あれは暴論のようでいて、実は一番現場の本質を突いていた」 

大臣は机の上に身を乗り出した。

「教えてくれ、比企谷くん。形骸化した教育現場や、SNSのデマや情報過多に振り回されてる今の子供たちに、本当に必要な『学び』の形なんて、この国で作れるのかね? 私にはもう、何が正解分からなくなっているんだ」

ひねくれ者の、相変わらずな一言

圧倒的な権力と権限を持つ大臣からの、あまりに切実な問いかけ。

だが、八幡はふっと鼻で笑うと、面倒くさそうに頭をポリポリと掻いた。

「そんなの、俺に訊くなよ。学校の先生でも教育学者でもねぇし、情報モラルがどうとかは、せいぜいネットの海の端っこでボロクソに言い合ってればいいだろ」

冷たく突き放すような言い方だったが、八幡の三白眼は、すっと窓の外の青空をかすめ、どこか遠く――あのサッカーグラウンドで必死にボールを追いかけていた少年や、子ども食堂で笑っていたガキたちの姿を思い浮かべていた。

「……ただまあ」

八幡は小さく息をつき、投げやりな口調で付け加えた。

「難しい教科書の一節を暗記させるより、目の前で困ってる奴がいたら手を差し伸べることとか、変なネットの嘘に踊らされる前に、自分の頭で『めんどくせぇけどやるか』って動ける図太さを教える方が、よっぽどマシなんじゃねぇの」

「自分の頭で……動く、図太さ」

「知らんけどな。そんな大層な教育論、俺の柄じゃねぇよ」

八幡はそう言い捨てると、席を立ち上がった。

「ほら、大臣閣下。愚痴聞きタイムは終わりだ。こっちは次の再生医療ラボの視察と、世界中から届く面倒な書類の山が待ってんだ。文科省のお偉いさんなら、霞が関に戻って自分の仕事でもすればいいだろ」

松本大臣は一瞬ポカンとしたあと、やがてフッと肩の力を抜き、乾いた、しかしどこかすっきりとした笑みを浮かべた。

「……そうだな。君の言う通りだ。教育の未来なんて綺麗事を並べるより、目の前の泥臭い現実を何とかする方が、よっぽど政治家の仕事らしい」

大臣は深く一礼し、見違えるほど晴れやかな顔をしてオフィスを後にしていった。

最高権力者たちの迷いを一刀両断しながらも、ちゃっかり彼らの背中を押してしまうひねくれた男は、今日も今日とて、面倒くさい日常の真ん中でやれやれと肩をすくめるのであった。

 

地元の小学校と、大臣の原点

文部科学大臣としての激務や、全国行脚のスケジュールが少しだけ緩んだある日のこと。

松本洋平は、東京の華やかな霞が関から遠く離れた、自身の母校である地元の古い小学校の校庭に立っていた。

スーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくり上げた姿は、権力の頂点にいる現職の大臣というよりは、どこにでもいそうな「ただの地元のOB(おっさん)」そのものだった。

校庭の隅で、サッカーのミニゲームに混ざって汗を流したあと、松本は夕日に染まる校舎の階段に子どもたちと一緒に腰を下ろしていた。

「ねえ、まつもとのおじさんって、お仕事は何してる人なの?」

無邪気に首を傾げる小学生の少女に、松本は苦笑いを浮かべながら言った。

「おじさんはね、昔はこの学校で泥だらけになって遊んでたただの小学生だったんだよ。今は……ちょっと大きな会社みたいなところで、日本中の学校や子どもたちのルールを決める仕事を少しだけ手伝ってる」

「へえー! すごいね! じゃあ、おじさんの将来の夢はなに?」

その素朴な問いかけに、松本はハッと息を呑んだ。

将来の夢――。

いつしか「大臣になること」「派閥の論理を調整すること」「古い体質にしがみつく議員たちを懐柔すること」が目的になってしまっていなかったか。

松本は夕空を見上げ、胸の奥で静かに問いかけた。

――そうだ。俺は、何がしたくて政治家になったんだっけ。

頭に浮かんだのは、昔、この学校で理不尽な校則や硬直した大人の都合に理不尽に縛られ、悔しい思いをした自分の姿であり、そして数日前にヒキガヤ財団の薄暗い部屋で、あのひねくれた少年が吐き捨てた「めんどくせぇけどやるか」という言葉だった。

「……おじさんはね」

松本の声が、少しだけ震えた。

「大臣になりたかったわけじゃないんだ。……この学校や、日本中の学校にある、くだらない理不尽や『変えられない決まり』を全部ぶっ壊して、子どもたちがもっと自由に笑える場所にしたかったんだ。……それが、おじさんの夢だったんだよ」

気がつくと、松本の目からはポロポロと大粒の涙がこぼれていた。

いい歳をした大の男が、現役の文部科学大臣が、子どもたちの前で恥ずかしげもなく泣いている。

子どもたちは最初は面食らっていたが、やがて「おじさん、泣かないでよ!」「かっこいい大人だよ!」と、代わる代わる小さな手で松本の服を引っ張ったり、背中をポンポンと叩いたりした。

マスコミのカメラと、八幡のコメント

だが、その感動的な光景は、なぜかどこから嗅ぎつけたのか、地元のローカル局から全国ネットへと繋がっていたマスコミのカメラに完璧に捉えられてしまっていた。

『現職・文部科学大臣が母校の小学生の前で号泣! その真意とは――』

『政治家を目指した「本当の原点」を語る松本大臣の姿に、日本中が感動の嵐!』

テレビ画面に映し出されたのは、権力者の仮面を脱ぎ捨て、泥臭く涙を流す大臣の姿だった。その飾らない人間性と、子どもたちの前で誓った純粋な「理不尽をなくしたい」という夢は、瞬く間に日本中の共感を呼び、SNSのトレンドを完全に掌握した。

そのニュースを、ヒキガヤ財団のオフィスで――いつものようにデスクに突っ伏しながら――テレビの画面越しに見ていた八幡は、冷めたお茶をススっと啜りながら、盛大なため息をついた。

「……あーあ。いい歳こいて子どもたちの前で泣きじゃくりやがって。あのエリート様も、すっかり感化されちまったな」

そこに、ちょうど財団のオフィスに顔を出していた報道陣のマイクロフォンが、すかさず八幡の鼻先に突きつけられた。

「比企谷理事長! 母校で号泣した松本大臣の姿が話題ですが、元大臣の同志(?)として、彼の今の変化をどうご覧になりますか!?」

矢継ぎ早の質問に、八幡はジト目をさらに半眼にし、めんどくさそうに頭をポリポリと掻きながらボソッと言い放った。

「……いやあ。あんな泣き虫で感傷的な政治家、上に立たせるにはちょっと頼りねぇけどさ」

一拍置いて、八幡はフッと片方の口角を上げた。

「……でもまあ、保身ばかり考えてる綺麗事並べるロボットよりは、よっぽど信用できるんじゃねぇの。あいつ以上に、今の日本の教育を引っかき回すのに適任な馬鹿は、他にいないんじゃないですかね」

「……っ! 『適任な馬鹿』ですか!?」

「知らん、勝手に切り抜くな」

その八幡のぶっきらぼうで、しかし最高に的を射たコメントは、テレビを通じて日本中に生放送された。

「『適任な馬鹿』って最高の褒め言葉だろ!」「比企谷節炸裂してるけど、言ってること完全に同意!」と、ネットは再び爆発的なバズりを記録し、松本大臣の好感度と改革への支持は、もはや誰も止められない領域へと押し上げられていくのだった。

霞が関の澱みをひっくり返す「変革の歯車」は、ひねくれ者の雑言と、一人の大人の涙によって、今日も勢いよく回り続けている。

 

「適任な馬鹿」の真意と、秘密のバーの夜

テレビでの生放送が終わった直後。

比企谷財団のオフィスで、八幡はポリポリと頭を掻きながら、やれやれといった調子でつぶやいた。

「……いや、さすがに全国ネットであの言い草はちょっと言い過ぎたか。怒られるかな、あの文科相のオッサンにさ」

ぼやく八幡の背後で、元官僚チームの面々が苦笑していると、オフィスの扉がトントンと軽く叩かれた。

そこに立っていたのは、ついさっきまでテレビの向こうで号泣していたはずの文部科学大臣・松本洋平その人だった。しかも、なぜかその隣には、すっかり巻き込まれ体質で名を馳せるようになった高柳の姿もある。

「おいおい、噂をすれば本人がご到着だぞ、理事長」

松本大臣はネクタイをすっかり緩め、爽やか――というよりはどこかすっきりとした晴れやかな笑みを浮かべて部屋に入ってきた。

「『適任な馬鹿』か。いやあ、見事な言い様だったじゃないか、比企谷くん」

「あ、いや、その……ネットの誇張表現ってやつで……」

珍しく少し気まずそうに目を逸らす八幡に、松本はハハハと朗らかに笑って手を振った。

「気にするな! 年下に向かって馬鹿呼ばわりとはいい度胸だが――まあ、政治家としてのキャリアや実績で言えば、私の方が先輩だからな。今回のところは、その若気の至りということで大目に見てやろうじゃないか」

「はぁ、すんませんね、大先輩」

八幡がやれやれと肩をすくめると、そこに高柳がフッとため息をついて割り込んできた。

「やれやれ、警察をひっくり返し、子ども家庭庁を揺るがし、今度は教育の現場まで大改革の嵐に巻き込むか。……ちなみに私の方も、例のAI関連および行政デジタル化の最高責任者(チーフ)として、この変革の泥舟に完全に乗り遅れず同乗させられているところだ」

高柳が苦笑しながらグラスを掲げると、部屋にいた元官僚チームも「いやあ、船頭が多くて楽しい航海ですね」と声を揃えて笑った。

夜のバーと、若き日の理想

気づけば、いつものメンバーに文科相の松本までが加わった奇妙な一団は、霞が関の片隅にある、あの秘密のバーへと流れ込んでいた。

暗めの照明に包まれたカウンターで、グラスの氷がカランと心地よい音を立てる。

普段は国家の機密や利権、予算の数字に頭を悩ませているエリートや元官僚たちが、この夜は互いの肩書を脱ぎ捨ててグラスを重ねていた。

「……思えばさ」

松本がグラスを見つめながら、ぽつりと呟いた。

「役人になった頃や、議員バッジを初めて手に入れた頃は、本気でこの国を良くしてやろう、誰もが笑える社会を作ってやろうって、青臭い理想ばかり語っていたはずなんだよ。いつの間にか、その夢は『組織を維持すること』『派閥で生き残ること』にすり替わってしまっていた」

「誰もが通る道さね」と、朝比奈が静かにグラスを傾けた。

「保身という名の快適な澱みに浸かっていれば、思考停止するのは簡単だからな」

だが、高柳がふっと目を細めて続ける。

「……だが、現実には、その『思考停止』の澱みを、このひねくれたニート崩れの一言が次々とぶっ壊していったわけだ」

視線が、ソファの隅でめんどくさそうにナッツをつまんでいる八幡に集まった。

「こっちはただ、自分の平穏と、余計な仕事が増えない効率化を求めて文句言ってるだけだろ」

八幡は不機嫌そうに目を逸らした。

「ああ、そうさ。お前の動機なんて、いつだって最高に利己的で怠惰だ」

松本大臣はグラスを掲げ、笑みを深めた。

「だが、その怠惰が生み出した『正論』と『無茶振り』が、結果として俺たちの心の奥底にあった熱を再び引っ張り出してくれた。……子どもたちの未来を変える土壌ができ、警察が透明化へ動き、教育の現場が変わり始めている。……なぁ、俺たちは今、間違いなく『あの頃見た理想』の実現に向けた一歩を踏み出してるんだよ」

実感する一歩と、静かな夜

誰もが、胸の奥で熱いものが込み上げるのを感じていた。

不可能だと思われていた巨大なシステムが、一人の少年のくだらないボヤキと、それに巻き込まれた愚直な大人たちの連鎖によって、確実に動き始めている。

「……めんどくせぇ夜だな、まったく」

八幡はもう一本の烏龍茶を引き寄せながら、ふっと小さく笑った。

「綺麗事並べるより、酒でも飲んでさっさと寝たほうが身のためだぞ、エリート様たち」

「ははっ、そうだな!」

松本、高柳、朝比奈、そして元官僚チームの面々が、それぞれのグラスを力強くぶつけ合わせた。

カラン、と響く乾杯の音は、静かな夜のバーに吸い込まれていく。

世界を変える野望など持たないひねくれた主人公を中心に、霞が関の中枢を揺るがす男たちの結束は、確かな手応えと共に、次の夜明けへと続いていくのだった。

 

外務省の重鎮と、新たな「国家のスケール」

霞が関の秘密のバーでの熱い夜から数日後。

ヒキガヤ財団のオフィスには、今度は日本の外交の舵を握る外務省の重鎮――次官クラスの男が、ひっそりと訪れていた。

高級スーツに身を包んだその初老の男は、世界中の紛争や経済摩擦、国際的なパワーバランスの変動を渡り歩いてきた百戦錬磨の外交官であるはずだったが、いまやその顔には深い憂いの色が滲み出ていた。

「……比企谷くん。君が最近、警察や子ども家庭庁、さらには文科省まで引っかき回しているという噂は、外務省の耳にも届いているよ」

ソファに腰掛けた重鎮は、重々しくため息をついた。

「だがね、国内がどれだけ変わろうとも、本質的な問題から目を背けるわけにはいかない。少子高齢化が進み、国内市場がシュリンクしていくこの日本は、これから一体どうなってしまうんだ? 我々外務省がいくら諸外国と交渉しても、かつての圧倒的な国力や勢いは失われつつある。……この国の未来に、本当に打つ手はあるのかね?」

世界を相手にする外交のトップが漏らした、あまりにリアルで絶望的な問い。

だが、デスクの隅で相変わらずトレンチコートのポケットに手を突っ込んでいた八幡は、冷めたお茶をススっと啜ると、呆れたようにジト目を向けた。

「……はあ。国内の次は、外交のオッサンかよ。こっちは国際政治の専門家でも何でもねぇっての。そんなの、外務省のお偉いさん方が会議室で頭突き合わせりゃいいだろ」

「いや、私は本気で聞いてるんだ」

重鎮は切羽詰まった顔で身を乗り出した。

「国内の枠組みだけで日本を救うには限界がある。かといって、国としてのプレゼンスは落ちていく一方だ。……これから、日本はどうやって世界の中で生き残っていけばいいというんだね?」

「和僑」という名の選択肢

重鎮の問いかけに、八幡は面倒くさそうにポリポリと頭を掻き、やがてふっと片方の口角を上げた。

「……そんなもん、国内だけで囲い込もうとするから詰むんだろ」

「……なに?」

「世界中で稼ぎまくって、あちこちに根を張らせりゃいいじゃねぇの。日本国内が縮小しようが、外で日本人がガンガン活躍して、世界を股にかけて富と影響力を引っ張ってくる仕組みを作っちまえよ」

あまりに斜め上の、しかしグローバルな発想に、外交の重鎮は目を丸くした。

「ば、馬鹿な……! それは個人の才能や運に頼った話だろう。そんな世界で活躍できるような、ハングリー精神に溢れた若者が、今の日本にどこにいるというんだ!」

「――いや、いるだろ」

八幡の三白眼が、ほんの一瞬だけ鋭い光を帯びた。

「この前だって、サッカーのグラウンドで泥水すすってでも欧州で成り上がってやるって目を輝かせてたガキがいたぞ。探せば、日本中から世界へ飛び出したがってる熱意に溢れた若者なんて山ほどいる。……足りねぇのは才能じゃねぇよ、最初の一歩を踏み出す『きっかけ』だろ」

八幡はトレンチコートの裾を軽く払い、淡々と言い放った。

「歴史の教科書でも見ろよ。世界中にネットワークを作って商売し、独自のコミュニティを築き上げた奴らがいただろ。……そう、華僑に倣えばいい。日本版のそれをやればいいじゃねぇの」

「華僑に……倣う?」

「ああ。名付けて……『和僑』なんてどうだ?」

スケールのデカさに絶句する重鎮

「『和・僑』……ッ!」

その言葉を聞いた瞬間、外務省の重鎮は、あまりのスケールのデカさに言葉を失い、その場で完全に固まった。

国内の改革にとどまらず、日本という国家の枠組みを飛び越え、世界中に「日本人による経済・人的ネットワーク(和僑)」を構築し、グローバルに国力を再定義しようというのだ。

「国内の縮小に怯えて縮こまってる暇があるなら、世界中に日本の血を引く優秀な連中をばら撒いて、外からこの国を支えさせりゃいい。……ま、めんどくさい調整や外交的な根回しは、外務省のエリート様が勝手にやればいいんじゃねぇの」

「……は、はは……」

重鎮はしばらく呆然としたあと、やがて乾いた、しかし心の底から感服したような笑い声を漏らした。

「華僑に倣い、世界中に『和僑』のネットワークを築く……。国内の枠組みを相手にしていた私には、微塵も思いつかない発想だ。……いや、君という男は……どこまで視野が広いんだ、いや、ある意味でどこまでも勝手気ままなのか」

「勝手気ままですまんこったな。ほら、愚痴聞きは終わりだ。外務省のお仕事に戻って、世界中の国々と喧嘩でもなんでもしてこいよ」

八幡に軽く手を振られ、重鎮はふっと晴れやかな笑みを浮かべると、深く一礼して部屋を後にした。

彼が持ち帰った「和僑」という途方もない国家戦略の種は、やがて外務省の全リソースを巻き込み、日本を世界規模で再起動させる最も巨大なプロジェクトへと変貌していくことになる。

今日も今日とて、ひねくれた少年のくだらない一言は、世界の歯車を盛大に狂わせ続けるのだった。

 

赤提灯のカウンターと、かつての「はぐれ者」

外務省の重鎮が去った日の夜。

八幡がふらりと立ち寄ったのは、いつもの小汚い赤提灯の大衆酒場だった。都会の喧騒から少し離れたその店のカウンターの端で、顔にうっすらと古い傷跡を残し、いかにも「かつて裏社会に生きていました」という雰囲気を隠しきれない屈強な男が、一人で黙々と熱燗を煽っていた。

八幡が隣の席に腰を下ろして烏龍茶を頼むと、その男はチラリと八幡を一瞥し、そして――動きを止めた。

「……おい。お前……どこかで……」

男は目を細め、記憶をまさぐるように八幡の顔を凝視した。

「ああ、思い出した……。あの時、国際詐欺グループをぶっ潰した警察の裏で、めんどくさそうに指示を出してたガキだ……いや、いまじゃ『ヒキガヤ財団』の名誉理事長様か」

八幡はジト目で焼き鳥を頬張りながら、「人聞きの悪い言い方すんな。ただの一般人だ」と返した。

男は自嘲気味に鼻で笑い、グラスを強く握りしめた。

「一般人ねぇ……。俺みたいな、カタギの世界から弾き出され、組の解散と一緒に居場所を失った元ヤクザ者からすりゃ、お前みたいな化け物は別の世界の人間さ。……で、何だ? こんな掃き溜めみたいな居酒屋に、国家を動かす大物が何の用だ。俺をまた警察につき出すのか?」

「めんどくせぇ。そんな暇ねぇよ。ただの晩酌だ」

八幡は相変わらず素っ気なく答えた。

男は俯き、苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。

「……日本じゃよ、もう俺みたいな人間の居場所なんてどこにもねぇんだよ。過去の看板は剥がされ、仕事もまともにありゃしない。今更どうすりゃいいんだ……この国で生きていく道なんて、もうどこにも残ってねぇよ」

その声には、行き場を失った人間の深い絶望と諦めが滲んでいた。

八幡の提案と、「和僑」の夜明け

しばらく黙って焼き鳥をかじっていた八幡は、グラスの氷をカランと鳴らすと、面倒くさそうに言った。

「だったら、日本から出て海外に行けばいいだろ」

「……は?」

男が顔を上げた。

「言葉がわかんねぇ? 知るか、そんなもん。行けば現地でどうにかなるだろ。向こうには先に行って商売してる日本人もいれば、日系二世や三世の現地人だって山ほどいる。困ったらそいつらに頭下げて頼れよ」

八幡は冷めた目で、しかし妙にはっきりとと言い放った。

「日本国内に居場所がねぇなら、外に出ればいい。海を渡っちまえよ。……どうせ向こうでも腹は減るんだ、現地でうまいメシが食える仕事でもなんでも見つけて這い上がれ。日本だけが世界のすべてじゃねぇだろ」

その言葉は、冷酷なようでいて、あまりにも広大な逃げ道と、底抜けの荒療治だった。

元ヤクザ者はしばらく呆然と八幡の顔を見つめ、そして――やがて、腹の底から絞り出すような笑い声を上げた。

「は……はははっ……! 海外に逃げろ、か! 言ってくれるじゃねぇか……言葉も通じない異国で、日系人や現地人に頭下げて生きろってか……!」

男の三白眼に、かつてのヤクザとしての殺気ではなく、荒野に放り出された野獣のような「生への執着」と、奇妙な光が灯った。

「……そうだな。日本に骨を埋める義理もなければ、ここで腐る理由もねぇ。……面白れぇ。海外に行って、一から這い上がってやるよ」

世界を駆け巡る「和僑」のうねり

この夜を皮切りに、奇妙な連鎖が加速していった。

国内の狭い枠組みから弾き出されたはぐれ者や元ヤクザ者たちが、八幡の「海外に行けば?」という雑な、しかし強力な後押しをきっかけに、次々と海を渡り始めたのだ。

もちろん、それだけではない。

サッカーグラウンドで夢を追うフロンティア精神溢れる若者たち、霞が関の澱みに絶望して飛び出した若手官僚たち、そして世界各地に根を張る日系二世・三世のコミュニティが、その点と点を結び始めた。

もともと「和僑」という言葉自体は歴史の教科書やビジネスの片隅に昔から存在していたが、この時期、日本のメディアや社会でその言葉が急速に浸透し、トレンドワードへと爆発していった。

そして、そのすべての記憶の澱みを刺激し、思い起こさせたのは、いつだってあのひねくれた少年の「勝手に外で稼いできたらいいだろ」という一言だった。

日本国内の縮小や閉塞感に囚われていた時代は終わりを告げる。

若者たちの血の熱はもはや日本列島にはとどまらず、世界中のフロンティアへと迸り、地球の裏側までをも巻き込む巨大な経済・人的ネットワーク――「和僑」の時代が、こうして音を立てて幕を開けたのだった。

 

秘密のバーにやってきた、一人の女子学生

世界中に「和僑」の波が押し寄せ、霞が関の官僚組織から地方のコミュニティまでが音を立てて変わり始めていたある日の夜。

あの隠れ家のような秘密のバーのドアが、トントンと控えめに叩かれた。

そこに立っていたのは、まだ制服の残り香を感じさせる、しかしお腹に小さな命を宿した一人の若い女子学生だった。

彼女を連れてきたのは、普段はクールに裏仕事をこなす元官僚チームのメンバーだった。その顔には珍しく、苦いような、それでいてどこか切実な色が浮かんでいた。

「……理事長、ちょっといいか。外で一人で泣きそうになってる奴がいてな」

ソファの隅でいつものように気だるげに烏龍茶を飲んでいた八幡は、ジト目でその少女を一瞥し、面倒くさそうにため息をついた。

「……はあ? こっちは人生相談の窓口じゃねぇよ。学校のカウンセラーでも呼べっての。なんでそんなガキがこんな時間にこんな場所にいんだよ」

少女は震える手で制服の裾をぎゅっと握りしめ、意を決したように顔を上げた。

「……私、どうすればいいか分からないんです……。お腹に子どもができて……学校の勉強も続けたい、将来の夢も諦めたくない。でも、この子を……おろすなんて、そんなの絶対に考えられない……っ!」

涙をこぼしながらも必死に言葉を絞り出す少女の姿に、バーの空気が一瞬で張り詰めた。

周囲にいた元官僚たちも、言葉を失い、ただ静かにうつむくしかなかった。

八幡の問いかけと、「第三の選択肢」

しばらくの静寂のあと、八幡はグラスをテーブルに置き、トレンチコートのポケットに突っ込んでいた手を抜いた。

そして、これ以上ないほどまっすぐな、冷徹なようでいて温かい三白眼で少女を見据えた。

「……で、お前自身はどうしたいの?」

「え……?」

「産みたいのか、降ろしたいのか。どっちなんだよ」

少女は息を呑み、そして、震えながらも強く首を横に振った。

「……産みたいです。勉強も、絶対に諦めたくない……!」

それを聞いた瞬間、八幡はふっと、フチの歪んだ笑みを浮かべた。

「だよな。なら、悩む必要なんて最初からはしぇぇだろ」

八幡はデスクの端にあったノートパソコンを引き寄せ、カチャカチャとキーボードを叩きながら言い放った。

「ヒキガヤ財団の名前で、特例の返済免除付き奨学金を今すぐ出してやる。勉強も出産も育児も全部両立させろ。その代わり、その金を返すのは――お前と、そのお腹にいるガキの仕事だ。将来、立派に稼いで社会に叩き返せよ」

少女は目を見開き、信じられないものを見る目で八幡を見つめた。

「そ、そんな……私にそんな大金……!」

「金なら腐るほどあんだよ。くだらねぇことで未来を諦める奴の尻拭いをするために使わねぇなら、何のための金だ」

八幡はそれだけで終わらなかった。彼はさらに、スマホを取り出すと、どこかへ連絡を入れるようなしぐさをして冷たく言い放った。

「それとな、親にもちゃんと頼れ。あと、実家の爺さん婆さんにもな」

「親に……なんて、絶対に怒られる、見放される……!」

「バカか」

八幡は鼻で笑った。

「生前分与でも何でもして、今すぐ財産も手間もそのガキのために引っ張り出させてやれよ。あんたたちの可愛い娘で、血の繋がった孫だろ。いざとなったら大人は頼るためにいんだよ、遠慮してんじゃねぇ」

涙ぐむ相談者と、「諦めなくていい」という現実

「――っ……!」

少女の目から、堰を切ったように大粒の涙があふれ出した。

「私……諦めなくていいんだ……産んでも、勉強して、夢を追ってもいいんだ……」

「当たり前だろ。泣いてねぇで、さっさとハンカチでも出せ」

八幡はぶっきらぼうにそう言いながらも、自分のポケットから新品のハンカチを放り投げた。

その場にいた元官僚たちや、バーのマスターも、深く息をつき、それぞれの胸元で熱いものを噛み締めていた。

誰もが「子どもができたらどちらかを諦めなければならない」と思い込んでいた社会のシステムに、ひねくれた救世主が叩きつけた「第三の選択肢」だった。

世間の反響と、新たな救済の連鎖

この日の出来事は、後に「比企谷財団による若年妊娠・育児支援プロジェクト、通称『第三の選択肢』プラン」として、いつものようにマスコミとSNSを盛大に爆発させることになった。

『若い命も、夢も、どちらも絶対に諦めさせない! 財団が提示した圧倒的なセーフティネットに称賛の嵐!』

『「親や爺さん婆さんも巻き込め、大人はそのためにいる」――比企谷理事長の言葉に、日本中の若者と親世代が涙した理由』

ネットの海は、「こんな救い方があるなんて思わなかった」「誰も切り捨てない強烈な優しさだ」と大絶賛のコメントで埋め尽くされ、古い道徳観や「自己責任」という名の冷たい空気は、また一つ、この国から綺麗に剥ぎ取られていった。

相変わらず「勝手にバズるな、俺はただの雑談の延長で言っただけだ」と自室で頭を抱えている八幡の背中をよそに、日本中では「諦めなくていいんだ」と涙を拭う若い親たちの笑顔が、着確実に増えていくのだった。

 

海を越えて響く「最高の男」の評判

日本国内で若い母親と子どもたちの未来を救った「第三の選択肢」のニュースは、もはや国内の枠に収まることなく、瞬く間に太平洋を越えて世界中のメディアやSNSを駆け巡っていった。

『冷酷な自己責任論を打ち砕く、日本の謎めいたフィランソロピスト(慈善家)』

『「大人は頼るためにいる、諦めるな」――アジアの片隅から発信された、あまりに人間臭い救済の哲学』

CNNやBBCをはじめとする海外の主要メディアまでもが、比企谷財団の今回のプロジェクトを大々的に取り上げ、その中心にいる「顔を見せない名誉理事長」の存在に世界中が熱狂していた。

アメリカの経済・外交界の深層で大きな影響力を持つ大物、スミスのプライベートオフィス。

モニターに映し出された日本のニュース映像を見ながら、スミスは葉巻の煙をくゆらせ、満足げに深い笑みを浮かべた。

「……ハッ、見事なものだな。国内の澱みをひっくり返したかと思えば、今度は若い命と未来の選択肢まで作り出すとは」

スミスの隣で、ワイングラスを傾けながら同じニュースを眺めていたアンは、まるで自分のことのように誇らしげな笑みを浮かべ、フッと鼻を鳴らした。

「だから言ったでしょ? あの男はただのひねくれたニート崩れなんかじゃない。世界で一番信用できて、最高に面白い男だってね」

「まったく、君が惚れ込むだけのことはある」

スミスは愉快そうに肩を揺すった。

「警察を動かし、教育を立て直し、グローバルに『和僑』のネットワークを仕掛け、そして最後には一人の少女の人生を救う。彼が動けば、世界中の停滞した歯車が嫌でも回り出す。……スミスが見込んだだけのことはある、と言わざるを得ないな」

海を越えた大国の大物たちからも、日本国内のガキやエリートたちからも、全幅の信頼と圧倒的な畏敬を集めている当の本人――比企谷財団のオフィスにいる八幡は、海外からのバズの嵐など露知らず、届いた膨大なメールの山を見て、今日も今日とて盛大なため息をつくのであった。

「……なんだよ、海外のニュースまで俺の名前を出すなよ……。頼むから、そっとしておいてくれ……」

世界を揺るがす救世主の「低姿勢な現実逃避」は、今日も相変わらず、盛大に失敗し続けるのだった。

 

世界のトップモデルの自慢話と、予期せぬ再招集

ニューヨークの一流スタジオ。煌びやかなライトとカメラのフラッシュが飛び交うバックステージで、世界的なトップモデルであるアンは、共演しているスーパーモデル仲間たちに囲まれていた。

「ねえ、アン! この前の日本のニュース見た!? あの『第三の選択肢』ってプロジェクト、裏で仕掛けた謎のフィランソロピストって、もしかしてアンがずっけ言ってたあの人……?」

モデル仲間の一人がスマホの画面を突きつけると、そこには日本のメディアが報じる「比企谷財団の名誉理事長」の文字と、例の(いつものように不機嫌そうにトレンチコートを着た)八幡の後ろ姿が映し出されていた。

アンは艶やかな笑みを浮かべ、ワイングラスを傾けながら誇らしげに顎を上げた。

「ふふ、そうよ。私の見る目に狂いはなかったでしょ? あの人はね、普段はあんなふうに気だるげでひねくれてるけど、いざとなると世界中の誰よりも頼りになって、最高に魅力的なのよ」

「えー、信じられない! 謎に包まれたアジアの天才実業家なんでしょ? 一体どんなデートだったのよ、教えてよ!」

仲間たちの好奇心の入り混じった黄色い声に、アンは昔を思い出してうっとりと目を細めた。

「ふふ、秘密よ。あのアンニュイなアジアン・ストリートの魅力って言ったら、言葉じゃ言い表せないんだから。またいつか、あのダークな瞳で私の仕事現場に来てくれないかしら……」

――まさか、その「いつか」が、ほんの数日後に現実のものになるとは、この時のアンはまだ知る由もなかった。

再び呼び出された、世界最高峰のステージ

それから間もなくのこと。

ヒキガヤ財団のオフィスで、相変わらず山積みの書類と格闘していた八幡の元に、海外の超大手アパレル企業、そしてアンの所属するトップエージェンシーからの「極秘かつ絶対に断れないレベルの特別招聘状」が叩きつけられた。

理由は「グローバル・チャリティー・ファッションウィークの特別顧問(およびアンの同伴者枠)としての出席」。

「……は? なんで俺がパリ(あるいはニューヨーク)のファッションショーなんかに呼ばれなきゃいけないんだ。絶対に行かない、却下だ却下!」

そう叫んで拒絶する八幡の首根っこを、なぜかタイミングよく遊びに来ていた高柳や元官僚チームが「せっかくの海外出張(バカンス)じゃないですか」「和僑のネットワークの視察も兼ねて行ってきてくださいよ」と、有無を言わせず空港行きのプライベートジェットに押し込んだのだった。

こうして、半ば拉致されるように華やかなランウェイのバックステージに立たされた八幡は、いつものボロボロのトレンチコートに身を包み、「早く帰りたい……」と全身から陰鬱なオーラを放っていた。

父性溢れる紳士としての魅力、そしてニュース化

しかし、今回の八幡は、前回とは少し違っていた。

世界中から集まったモデルやスタッフ、そして将来の夢に悩む若い若者たちや若手アシスタントたちが、次々と八幡の元へ相談にやってきたのだ。

「あの、比企谷さん……私、海外に出て挑戦したいんですけど、英語もうまく話せないし、怖くて……」

「お前な、言葉なんて行けばどうにかなるだろ。現地に日本人もいれば助け合えばいい。何ビビってんだ」

相変わらずぶっきらぼうで、投げやりな口調。

だが、その言葉の裏には、かつて若い母親やはぐれ者たちを救った時と同じ、圧倒的な「現実を生き抜くための優しさ」と、すべてを包み込むような不思議な包容力が満ちていた。

その様子を近くで見ていたアンは、以前の「どこか退廃的でアジアンな色気」とはまた違う、まるで包容力のある「父親」や「頼れる大人の紳士」のような、新しい一面を完全に目撃することになった。

「……ねえ、やっぱりあなたって最高だわ」

アンは眩しそうに目を細め、八幡の腕に自然に手を絡めた。

「前回は危険な少年の香りだったのに、今回はなんだか……すごく頼もしくて、素敵な父親(パパ)みたい」

「誰が親父だ、勝手に歳を取らせるな」と八幡は盛大に顔をしかめた。

だが、その「世界最高峰の冷め具合と、不器用な優しさが同居する姿」は、会場にいた世界中のメディアのカメラに完璧に収められてしまっていた。

数時間後、その映像は世界中のニュースを再び駆け巡る。

『謎の日本人フィランソロピスト、海外のファッションショーに降臨! トップモデル・アンをも魅了する「究極の父性溢れる紳士」の素顔とは――』

『冷徹な改革者でありながら、若者の悩みに寄り添うアジアの紳士。世界が再び彼の虜に』

「……だから、勝手に俺を美化してニュースにするなよ……!」

ホテルの部屋のテレビに映し出された自分の姿を見て、八幡は頭を抱え、ベッドに倒れ込むのであった。

世界を揺るがすひねくれ者の影響力は、もはや海を越えて、どこまで拡大していくのか誰にも予測がつかない。

 

パリのランウェイに現れた「まさかの面々」

世界中のメディアが「アジアの紳士」として八幡を取り上げ、連日大騒ぎになっていたその頃。

パリの一等地で開催されているファッションウィークの会場には、とある理由で偶然(あるいは神様の悪戯で)パリ旅行にやってきていた二人の姿があった。

「……ねえ、ハヤトくん! なんかニュースですごいことになってるお兄ちゃんが、目の前にいるんだけど!」

「いや、僕もまさか旅行先でこんな大舞台に巻き込まれるなんて思っていなかったよ……」

そう言って頭を抱えていたのは、新婚旅行を兼ねてヨーロッパを訪れていた比企谷小町と、その夫である葉山隼人だった。

観客席でこっそり見物しているつもりが、会場を仕切っていたアンに見つかり、「あら、ハヤトとコマチじゃない! ちょうどいいわ、あなたたちも一緒にステージに上がりなさいよ!」と、有無を言わせず控室に引きずり込まれてしまったのだ。

「ちょっ、お兄ちゃん! 見てないで助けてよ!」

「小町、諦めよう。あの海外のモデルたちの勢いに抗うのは、僕たちの外交力じゃ無理だ……」

こうして、半ば強制的にメイクを施され、衣装を着せられた二人は、そのままプロのモデルたちと共にランウェイの舞台へと押し出されることになった。

金髪と銀髪の共演、そして姉妹のような絡み

ステージの幕が上がり、スポットライトが降り注ぐ中、現れたその光景に、会場の観客たちは息を呑んだ。

ひねくれたようにポケットに手を突っ込み、相変わらず不機嫌そうな銀髪の八幡。

そして、その隣で完璧すぎる爽やかな笑顔を浮かべ、圧倒的な気品を放つ金髪の葉山隼人。

「……なんだあれは! あのアジアのコンビネーションは!」

「銀髪のダークな色気と、金髪の完璧な王子様オーラの対比が美しすぎる……!」

二人が並んで歩くだけで、まるでダークファンタジーと王道叙事詩が同時に展開されているかのような、圧倒的な絵面の強さが会場を支配した。控室のモニターでそれを見ていた八幡は「なんで俺があいつと並んで歩かなきゃいけないんだよ……」と盛大に顔を覆った。

さらに、ステージの反対側では、すっかり意気投合した小町とアンが、まるで本当の姉妹のように腕を組み、とびきりの笑顔でランウェイを闊歩していた。

「ねえ、アンちゃん! お兄ちゃんのこと、いつも面倒かけてごめんね!」

「ううん、全然よコマチ! むしろあんなに素敵な家族がいて、彼は世界一幸せな男だわ!」

世界的なトップモデルであるアンと、愛嬌抜群の小町の仲睦まじいツーショットは、会場のフラッシュを完全に独占した。

「あのモデルのアンと並んで違和感のない、あの元気なアジアの少女は誰だ!?」「可愛すぎる姉妹みたいだ!」と、現地メディアや観客たちのどよめきは最高潮に達した。

世界を再び撃ち抜く「バズ」

その日の夜、SNSとインターネットの海は、パリから発信された映像によって再び完全に破壊された。

『日本の謎のフィランソロピスト・比企谷八幡、今度は極上の「銀髪×金髪」コンビでパリを制圧! 共に歩く葉山隼人の王子様ぶりがヤバい』

『トップモデルのアンと、謎の少女・小町の仲良し姉妹ショットが可愛すぎると世界中で話題に!』

「……なぁ、小町。俺たち、なんで旅行に来たはずなのに、パリのコレクションの表紙を飾ってんだ……?」

ホテルのベッドで、ぐったりと疲れ果てた様子で天井を見上げる八幡に、小町はスマホの画面を見せながらケラケラと笑った。

「いいじゃんお兄ちゃん! 世界中で『比企谷ファミリー最強説』が流れてるよ! 葉山くんも『まさか義理の兄とランウェイを歩くことになるとは思わなかった』って苦笑いしてたし!」

「まったく……面倒くさい休暇だったぜ……」

世界中を巻き込み、家族や仲間を連れてすらも華麗にバズを巻き起こしてしまうひねくれ者の伝説は、まだまだ終わりそうにないのだった。

 

ホテルの一室のボヤキと、完璧すぎる「ご祝儀」

パリの豪華なホテルのスイートルーム。

窓の外に広がるエッフェル塔の夜景を背景に、葉山隼人はジャケットを脱ぎ捨て、ソファーに深く沈み込みながら、どっと疲れたような溜息を吐き出した。

「……はあ。まさか新婚旅行のついでにパリコレのランウェイを歩かされるなんて、僕の人生設計には一ミリも入っていなかったんだけど、比企谷くん」

その隣で、持参した緑茶をすすりながら、八幡は相変わらず面倒くさそうにジト目を向けた。

「知るかよ。こっちだって、勝手に海外出張に引っ張り出されて、見ず知らずのモデルどもに囲まれて胃に穴が開きそうだったのはこっちだ。文句なら俺を拉致した連中に言え」

「お兄ちゃん、そんなこと言わないの!」

ソファの反対側で、パリのブランドものの紙袋を嬉しそうに漁っていた小町がぴょこんと顔を出す。

「でもさ、葉山くん! ネット見てみなよ! 世界中の法律事務所や財団のサイトへのアクセスが、今ものすごいことになってるんだよ!」

葉山は苦笑しながらスマホを開き、数時間前に世界中を駆け巡ったニュースやSNSのトレンドを確認した。

そこには、世界最高峰のトップモデルたちと並んで歩く自分たちの姿と、彼らが経営に関わる(あるいはバックアップしている)法律事務所や財団の名前が、これでもかというほど大きく宣伝されていた。

「……確かに」

葉山は少し呆れたような、しかし納得したような笑みを浮かべた。

「世界中のメディアが僕たちの写真を使い、君の事務所や財団の動向を勝手に報じている。……これ、下手に億単位の広告費を積んでも絶対に買えないレベルの宣伝効果じゃないか」

「だろ?」

八幡はふっと片方の口角を上げた。

「お前らの結婚祝いの代わりだ。……ま、俺自身は1円も出してねぇし、逆にアンのところの会社から、今回の出演料って名目でこっちにギャラが振り込まれてやがるけどな」

「「……え?」」

葉山と小町は絶句し、思わず顔を見合わせた。

広告費が浮いたどころか、世界的な大舞台でタダ働きどころか大金を稼ぎ、勝手に世界中でビジネスの宣伝まで完了している。あまりにも合理主義で、かつちゃっかりしすぎているその手口に、二人はまるで狐につままれたかのような顔で固まるしかなかった。

アンの見据える「ビジネスマン・比企谷」の顔

その頃、ホテルのラウンジでは、今回のパリコレを仕掛けた本人であるアンが、優雅にシャンパンを傾けながら、同席していた現地のビジネスパートナーたちと会話を弾ばませていた。

「アン、あの日本のフィランソロピスト――ヒキガヤの今回の動き、ただの偶然じゃないな?」

パートナーの男が意味深な笑みを浮かべると、アンは妖艶に微笑み、グラスの縁を指でなぞった。

「ふふ、当たり前でしょ。彼はね、ただ不機嫌そうにボヤいているだけで、頭の中では常にコストとリターン、そして周囲の人間がどう動けば一番丸く収まるかを完璧に計算しているのよ」

アンはふっと遠くのスイートルームの方向を見つめ、うっとりとした目を細めた。

「優しいだけの慈善家でもなければ、冷酷なだけの独裁者でもない。必要な時には世界を敵に回すような荒技をやってのけ、気づけば関わる人間全員に利益をもたらしている……。あの底知れないビジネスマンとしての嗅覚と抜け目なさに気づいちゃったら、もう他の男なんて物足りなくて見ていられないわ」

世界を股にかけ、敵すらも自分の計算のリングに巻き込んでいく「ひねくれた救世主」。

その圧倒的な才覚に魅せられた者たちは、今日も今日とて、彼が巻き起こす予測不能な波風から目が離せないのであった。

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