世界の表紙を飾る「異端のリーダーたち」
パリのランウェイの興奮が冷めやらぬまま、世界中の書店やキオスクに並んだ最新号の『TIME』や『VOGUE』、そして各国の主要経済・ビジネス誌。
その表紙を飾っていたのは、パリコレのステージで世界を驚かせた面々だった。
銀髪でどこか気だるげにポケットに手を突っ込む比企谷八幡。
その隣で、完璧なスーツを纏いながらもどこか苦笑いを浮かべる葉山隼人。
さらに、裏で世界を動かす若きエリート官僚たちや、グローバルに羽ばたく「和僑」の若者たちの姿が、一つの見開きページにスタイリッシュにレイアウトされていた。
『次世代のグローバルリーダーたち――世界を書き換える「静かなる革命児」』
『チャリティ、法律、そしてビジネス。国境を越えて古いシステムを破壊する彼らの正体とは』
世界的なビジネス誌やファッション誌が、こぞって彼らの功績とビジュアルを大々的に特集し始めたのだ。
「まあ、広告にはなるか」
日本のヒキガヤ財団のオフィス。
山積みの書類の隙間から、部下が恐る恐る持ってきた最新の海外ビジネス誌を差し出されたとき、八幡はそこにデカデカと印刷された自分の顔写真を見て、盛大に頭を抱えた。
「……なんだこれ。聞いてねぇぞ。なんで俺の顔が経済誌の表紙に使われてんだよ……。俺はただ、休日にパリまで連れて行かれて散々こき使われた被害者なんですけど」
ぼやく八幡の背後で、元官僚チームの面々や高柳がニヤニヤしながら雑誌をのぞき込んでいる。
「いやあ、理事長。すごいじゃないですか。『世界を動かす次世代リーダー50人』のトップに君臨してますよ。これでうちの財団の信用力も、世界中の和僑ネットワークの信頼性も、爆発的に跳ね上がりますね」
「宣伝費を1円もかけずに、世界最高のメディアでブランディングが完了したわけだ。さすがだな、我が社の理事長」
周囲から向けられる絶賛の眼差しを、八幡は心底めんどくさそうに一瞥した。
そして、冷めたお茶をススっと啜ると、ボソッと呟いた。
「……まあ、めんどくさいことにはなったけどさ」
一拍置いて、八幡はフッと片方の口角を上げ、窓の外の青空を流し見た。
「……うちの事務所や、世界中で頑張ってる奴らの宣伝(広告)にはなるか。……だったら、たまにはこういう派手な悪ふざけも、悪くはねぇか」
その八幡の小さく漏らした本音に、チームの面々は顔を見合わせ、やがて頼もしい笑みを浮かべた。
世界を救う英雄になるつもりなど毛頭ない。
けれど、彼が何気なく吐き出す一言と、めんどくさがりながらも引き受ける「現実的な選択」は、今日も地球の裏側にまで届く最強の広告となり、新しい時代の扉を次々とこじ開けていくのだった。
一枚の絵と、オフィスの静寂
パリでの騒動が一段落し、ヒキガヤ財団のオフィスに日常(相変わらずの山積みの書類と不機嫌なため息)が戻ってきたある日のこと。
郵便物の中に、ひときわ目を引く頑丈な段ボール箱が紛れ込んでいた。
「んだこれ……不審物じゃねぇだろうな」
ボヤきながらカッターでテープを切った八幡が中から取り出したのは、一枚のキャンバスだった。
派手な色彩や洗練された技法があるわけではない。しかし、見る者の胸をざわつかせ、有無を言わせず引き込むような、底知れない熱量と不器用な衝動がその絵の具の重なりには宿っていた。
「……おっ」
珍しく、八幡の手が止まった。
美術の価値など微塵も分からないはずの彼の三白眼が、そのキャンバスから離れなくなっていた。
同封されていた手紙には、震えた文字でこう綴られていた。
『美術大学を受験しましたが、すべて不合格でした。自分の絵には何の価値もないと言われました。でも、どうしても諦められなくて……一度だけでも見てほしくて送りました』
差出人は、地方の小さな町に住む、無名の若い高校生だった。
フランスへの「切符」
数日後、ヒキガヤ財団のオフィスに呼び出されたその少年は、極度の緊張で顔面を蒼白にさせ、ガタガタと震えながらソファに座っていた。目の前には、あのひねくれた噂の「名誉理事長」が、いつものボロボロのトレンチコートを着て、めんどくさそうに烏龍茶を飲んでいる。
「……で」
八幡はカップを置くと、少年にまっすぐ視線を向けた。
「絵は見た。ぶっちゃけ、技術的には下手くそだし、世間の評価基準じゃ落とされて当然の代物だ」
少年の顔が絶望に染まり、うつむいたその瞬間、八幡はふっと息をついてこう続けた。
「……だけど、俺はこの絵、好きだけどね」
「え……?」
「日本国内の美大の基準に合わねぇなら、他国に行けばいいだろ。フランスに行くか?」
八幡はポケットからスマホを取り出し、どこかへ連絡を入れるようなしぐさを見せた。
「世界中に広がる『和僑』のネットワークなら、パリや現地の芸術コミュニティに繋げる紹介くらいできる。絵の本場だろ? あっちの連中なら、お前のその不格好な熱量を面白がる奴ぐらいいるはずだ」
少年は息を呑み、信じられないものを見る目で八幡を見上げた。
「そ、そんな……私にそんなお金も、力も……!」
「金はまあ、財団の特例の奨学金を出してやるよ。……ただし、ただであげるわけじゃねぇ。将来、世界で死ぬほど稼いで全額返せよ」
八幡は少しだけ不敵に笑うと、机の端に置かれたそのキャンバスに軽くあごをしゃくった。
「それと、当面の資金のカタとして……この絵、うちの事務所の担保として預かっていいか?」
号泣する少年と、オフィスの新しい景色
その瞬間、少年の目から堰を切ったように大粒の涙があふれ出した。
「っ……! はいっ……! 絶対に返します、この絵も、奨学金も、絶対に……!」
震える声で力強く頷く少年の姿に、部屋の隅で控えていた元官僚チームの面々も、どこか誇らしげな、温かい目を向けていた。
古い日本の基準や枠組みでは「価値なし」と切り捨てられた才能を、ひねくれた救世主が「担保」という名のパスポートに変え、世界という名の荒野へと放り投げた瞬間だった。
少年の姿が見えなくなったあと、オフィスの静寂に戻った部屋で、八幡はぼりぼりと頭を掻いた。
「……まったく、また余計な仕事増やしちまったな」
だが、オフィスの壁の最も目立つ場所には、その少年の描いた絵がしっかりと立てかけられていた。
無骨で、けれど圧倒的な引力を持つその絵の圧倒的な存在感に、通りかかる誰もが思わず足を止めて見入ってしまう。
世界を揺るがす大事業や、華やかなパリのランウェイの裏側で――
今日もこの小さなオフィスには、名もなき若者の不器用な夢の欠片が、ひっそりと、しかし力強く飾られているのだった。
突然の来訪者と、中二病の叫び
ヒキガヤ財団のオフィスに、カチャカチャと聞き慣れた奇怪な足音が近づいてきた。
重い扉が勢いよく開き、そこに現れたのは――相変わらずのロングコートに身を包み、額に汗を滲ませた材木座義輝その人だった。
「ふはははっ! 八幡! 久しぶりだな!」
相変わらずのハイテンションで入ってきた材木座だが、その目は尋常ではない熱量で血走っていた。彼はトコトコと八幡のデスクに歩み寄ると、分厚いノートをドンと音を立てて置いた。
ソファでいつものようにぐったりしていた八幡は、ジト目でその怪しいノートを一瞥した。
「……なんだよ、材木座。相変わらず変な格好して。ここはお前の妄想を垂れ流す場所じゃねぇぞ。だいたい、なんで最近やけに来るんだよ」
「決まっているだろう!」
材木座はふんすいと鼻息を荒くし、力説した。
「お前の最近の活躍を見ていると、私の創作欲が爆発して夜も眠れんのだ! 警察組織を裏から支配し、文科大臣を号泣させ、世界中をまたにかけて『和僑』のネットワークを構築し、さらにはパリコレでトップモデルを侍らせ、若き芸術家の卵の未来まで救う……!」
材木座は身を乗り出し、ギラギラとした目を向けた。
「なんだその主人公補正は! あまりに現実離れした私の『漆黒のフィランソロピスト伝説』そのものじゃないか! どうしても我慢がならん! また、お前の話を小説のネタとして書かせてくれ!」
めんどくさそうに許可を出す八幡
「……勝手にしろよ」
八幡は盛大にため息をつき、冷めたお茶をすすった。
「どうせお前の書く話なんて、中二病全開のトンデモ設定マシマシで、現実の俺とは似ても似つかない誇大妄想の塊だろ。勝手に名前使って、ネットの片隅ででも連載してろよ」
「ふっ、フハハハ! その許可を待っていた!」
材木座は満足げにノートを小脇に抱えると、フフンと鼻を鳴らした。
「見ていろ八幡! 世界が震えるような、最高にエピックでダークな『比企谷八幡の海外放浪記・裏社会編』を書き上げてみせよう!」
そう言い残すと、材木座は満足そうにドタバタと走り去っていった。
オフィスには再び静寂が戻る。
「……やれやれ、あいつも相変わらずだな」
八幡はぼやきながら、壁に飾られたあの若い高校生の絵をちらりと見やった。
現実の世界では、今日も霞が関が動き、世界中で若者たちが「和僑」として海を渡り、新しい未来が勝手に形作られている。
そして、そのすべての元凶となっているひねくれた男は、「次はどんな面倒事が持ち上がるんだか……」と頭を抱えながら、今日もちゃぶ台の端で静かに烏龍茶をすするのであった。
突然の来訪者と、中二病の叫び
ヒキガヤ財団のオフィスに、カチャカチャと聞き慣れた奇怪な足音が近づいてきた。
重い扉が勢いよく開き、そこに現れたのは――相変わらずのロングコートに身を包み、額に汗を滲ませた材木座義輝その人だった。
「ふはははっ! 八幡! 久しぶりだな!」
相変わらずのハイテンションで入ってきた材木座だが、その目は尋常ではない熱量で血走っていた。彼はトコトコと八幡のデスクに歩み寄ると、分厚いノートをドンと音を立てて置いた。
ソファでいつものようにぐったりしていた八幡は、ジト目でその怪しいノートを一瞥した。
「……なんだよ、材木座。相変わらず変な格好して。ここはお前の妄想を垂れ流す場所じゃねぇぞ。だいたい、なんで最近やけに来るんだよ」
「決まっているだろう!」
材木座はふんすいと鼻息を荒くし、力説した。
「お前の最近の活躍を見ていると、私の創作欲が爆発して夜も眠れんのだ! 警察組織を裏から支配し、文科大臣を号泣させ、世界中をまたにかけて『和僑』のネットワークを構築し、さらにはパリコレでトップモデルを侍らせ、若き芸術家の卵の未来まで救う……!」
材木座は身を乗り出し、ギラギラとした目を向けた。
「なんだその主人公補正は! あまりに現実離れした私の『漆黒のフィランソロピスト伝説』そのものじゃないか! どうしても我慢がならん! また、お前の話を小説のネタとして書かせてくれ!」
めんどくさそうに許可を出す八幡
「……勝手にしろよ」
八幡は盛大にため息をつき、冷めたお茶をすすった。
「どうせお前の書く話なんて、中二病全開のトンデモ設定マシマシで、現実の俺とは似ても似つかない誇大妄想の塊だろ。勝手に名前使って、ネットの片隅ででも連載してろよ」
「ふっ、フハハハ! その許可を待っていた!」
材木座は満足げにノートを小脇に抱えると、フフンと鼻を鳴らした。
「見ていろ八幡! 世界が震えるような、最高にエピックでダークな『比企谷八幡の海外放浪記・裏社会編』を書き上げてみせよう!」
そう言い残すと、材木座は満足そうにドタバタと走り去っていった。
オフィスには再び静寂が戻る。
「……やれやれ、あいつも相変わらずだな」
八幡はぼやきながら、壁に飾られたあの若い高校生の絵をちらりと見やった。
現実の世界では、今日も霞が関が動き、世界中で若者たちが「和僑」として海を渡り、新しい未来が勝手に形作られている。
そして、そのすべての元凶となっているひねくれた男は、「次はどんな面倒事が持ち上がるんだか……」と頭を抱えながら、今日もちゃぶ台の端で静かに烏龍茶をすするのであった。
材木座の小説と、世界的な大バズり
「ふははははっ! 見たか八幡! 私の新作小説『漆黒のフィランソロピスト:裏社会と世界の盟主』が、ネットの全プラットフォームで総合ランキング1位を独走中だ!」
数日後、ヒキガヤ財団のオフィスに再び乱入してきた材木座は、スマホの画面をこれでもかとばかりに突きつけて歓喜の声を上げていた。
「うるせぇ、耳元で大声出すなよ……」
八幡はめんどくさそうに耳をほじくりながら、届いたばかりの小説の画面をちらりと見た。
そこには、警察改革、文科相の号泣、パリコレでのランウェイ、そして世界中に広がる「和僑」のネットワークから若き芸術家の支援まで――八幡がこの数ヶ月間に巻き起こしてきた出来事が、なぜか「ほぼ完璧なノンフィクション」として、材木座特有の過剰な中二病フィルターを通しつつも、圧倒的な筆力で描き出されていた。
「おい、これ……ほぼ実話じゃねぇか。お前、よくここまで正確に裏の事情を嗅ぎつけて書きやがったな」
八幡が呆れたように言うと、材木座はふんと胸を張った。
「ふっ、甘いわ八幡! 真実という名のスパイスは、フィクションのどの描写よりも香ばしいのだ! お前の周りにいるエリートたちや美少女モデルたちの人間模様も、余すところなく美しく仕立て上げておいたぞ!」
メディアの寵児となった材木座と、チームの反応
その小説の爆発的なヒットを受け、今度はネットメディアやテレビのワイドショーが材木座を放っておかなかった。
『謎のフィランソロピストの真実を描いた話題作の作者、ついにテレビ生出演!』
画面に映し出された材木座は、いつも以上のトレンチコート(あるいは特注のローブ風コート)に身を包み、インタビュアーの質問に満面の笑みで答えていた。
『――先生、この物語に登場する「冷徹にして慈悲深き影の英雄」は実在するのですか?』
インタビュアーの問いに、材木座は胸を張り、カメラ目線で力強く言い放った。
「実在するとも! 彼は世界を救おうなどという大層な偽善など持っていない! ただめんどくさいと言いながら、目の前の理不尽をその圧倒的な知略とひねくれた優しさで木端微塵に粉砕する、まぎれもない『現実のヒーロー』なのだ! そんな男の背中を世に伝えることこそ、私に与えられた神聖なる使命なのだよ!」
そのインタビューが流れると、ネットは「材木座先生、いいこと言うじゃねぇか!」「実在するのかよあの化け物!」と再び大盛り上がりを記録した。
チームの誇らしげな視線と、八幡のボヤキ
ヒキガヤ財団のオフィスでその放送を見ていた元官僚チームや高柳、そしてスタッフたちは、画面に映る材木座の姿を眺めながら、それぞれのグラスやコーヒーカップを手にニヤニヤと笑っていた。
「いやあ、材木座君もなかなかいい仕事をしてくれますね。『現実のヒーロー』とはよく言ったものだ」
「しかも、よく見ると僕たちの活躍や、あの時の裏話もしっかりと感動的に美化されて書かれているじゃないか。悪くない気分だな」
チームの面々が、自分たちの名前やエピソードが作中でカッコよく描かれていることに、どこか誇らしげな顔をしている。
その中心で、八幡はデスクに突っ伏したまま、全身からありとあらゆる気力を奪われたような声で呟いた。
「……勝手に俺をダークヒーロー祭り壇上に祭り上げやがって……。あいつ、今度会ったら絶対にプリンの壺の底をスプーンで引っ掻いてやるからな……」
文句を言いながらも、八幡はスマホの画面に目をやった。
そこには、材木座の小説をきっかけにして、財団の活動や「和僑」のネットワークにさらに数多くの支援希望者や、世界中からの賛同の声が殺到しているデータが表示されていた。
「……まあ」
八幡はため息をつきつつ、窓の外の青空を流し見た。
「……これだけ派手に世間に認知されて、世界中のガキや困ってる奴らの宣伝(広告)になるなら……あのオタクのトンデモ小説も、たまには役に立つか」
ひねくれたボヤキの裏で、世界を巻き込む歯車は今日も絶好調で回り続けている。
最強の広告塔を手に入れた(そして勝手に祭り上げられた)比企谷八幡の日常は、平穏とはほど遠い場所で、今日も相変わらず賑やかに続いていくのだった。
炎天下の建設現場と、思いがけないスカウト
世界的なビジネス誌の表紙を飾り、材木座の小説によって「現代のダークヒーロー」として祭り上げられていたその頃。
いつものボロいトレンチコートを脱ぎ捨て、なぜか都内のとある大規模な建築現場に足を運んでいた八幡は、照りつける太陽の下で一人、頭を抱えていた。
「……なんで俺が、こんな真夏の炎天下で資材のチェックなんて手伝わされてんだ……」
「すまねぇな、比企谷くん! 地域の再開発事業の視察ついでに、ちょっと重い資材を運ぶのを手伝ってくれなんて、僕も頼みにくかったんだけどさ!」
そう言って申し訳なさそうに額の汗を拭っていたのは、現場の作業服に身を包んだ松本前大臣(あるいは元官僚チームの面々)だった。政治家を引退した(あるいは裏方で奔走している)彼らが、泥臭い現場の改革を自ら肌で感じようと陣頭指揮をとっていた現場に、なぜか八幡が付き合わされていたのだ。
その時、すぐ傍らで「ぐっ……!」と苦悶の声が上がった。
振り返ると、年配の中年作業員が腰を押さえてうずくまっていた。
「おい、大丈夫か」
八幡はめんどくさそうにぼやきながらも、すぐさま駆け寄り、その男の脇に手を差し伸べた。
「無理すんなよ。……ほら、立てるか?」
「すまねぇ……腰をやっちまってよ……」
男の体重を支えながら、八幡は踏ん張るように力強く上半身を持ち上げた。
「男臭さ満点」の肉体美と、新たな罠
その瞬間。
照りつける太陽の光が、粉塵舞う建築現場の空気の中で一筋のドラマを作り出していた。
動きやすいようにと羽織っていた薄手のシャツは、尋常ではない汗を吸い込んで肌にぴったりと張りつき、その下にあるのは、毎日の過酷なトラブル処理や交渉の修羅場で知らず知らずのうちに鍛え上げられた、無駄な贅肉の一切ない、引き締まった力強い肉体美だった。
滴る汗が日に焼けた肌を伝い、男の低い声と、無愛想ながらもまっすぐな三白眼の瞳が、現場の荒々しい空気と完璧に融合していた。
――その一部始終を、ドキュメンタリーの撮影と称して密着していた大手ゼネコンの広報チーム(および偶然現場を通りかかった広告代理店のクリエイティブディレクター)のカメラが、完璧に捉えてしまっていた。
「……おい、今の絵(画)……めちゃくちゃ良くねぇか?」
「なんだあの色気は……! アジアンな退廃感と、過酷な現場で見せる圧倒的な『男の背中』……!」
数日後。
ヒキガヤ財団のオフィスに、大手建設業界からの「猛烈なオファー書」が叩きつけられた。
『日本の土木・建設業界を救う! 新世代の男臭さ満点・イメージCMプロジェクト』
『出演:比企谷八幡(ノーカット・汗だくリアルドキュメント風)』
「はあぁぁぁ!? なんだこれ!!」
オフィスのデスクで書類を見た八幡は、声をひっくり返した。
「なんで俺が工事現場で汗水流してる姿が全国ネットのCMに使われてんだよ! しかも『オスの魅力プンプン』とかふざけたキャッチコピーつけやがって! 俺は文化系だ!」
男女双方を狂わせる「魔性の汗」
だが、そのCMがテレビや街頭ビジョンで放映されるやいなや、日本中の空気は一瞬で変わった。
いつもは気だるげでひねくれたインテリ風の男が、泥臭い建築現場でシャツ一枚になり、滴る汗を光らせながら重い資材を支え、腰を痛めた労働者を無言で支え起こす――。
その「圧倒的なリアルな男臭さ」と「隠しきれない色気(オスとしての魅力)」のギャップは、日本中の視聴者を完全に撃ち抜いた。
「待って、最近のあのCMの銀髪の男性、誰……!? めっちゃ色気やばくない!?」
「普段頭脳労働してるエリートっぽいのに、あのキリッとした筋肉と汗はやばいって……男女問わず惚れるわ!」
SNSのトレンドはまたしても「#現場の比企谷」「#オスの魅力」「#汗だくのフィランソロピスト」といったワードで完全制覇され、女性ファンからは黄色い歓声が、男性ファンからは「あんな男になりたい」という謎の憧れの視線が殺到する事態となった。
海外のアンやパリのモデルたちからも、「ねえ、今度はワーカー(労働者)のスタイルなの? 最高すぎるわ!」と茶化すようなメッセージが届く始末だった。
ヒキガヤ財団のオフィスで、テレビから流れる自分のCM(しかも巨大スクリーンでドアップにされた汗だくの顔)を見つめながら、八幡はソファーに顔をうずめ、絶望的な声で呟いた。
「……もうやめてくれ……俺はただ、静かに暮らしたいだけなんだよ……」
世界を救い、若者を導き、ついにはその肉体美と男臭さで全人類の心を狂わせ始めたひねくれた男の受難は、まだまだ終わりそうにないのだった。
「雪ノ下建設」の参戦と、男たちの現場
比企谷八幡の「汗だく建築CM」が日本中の度肝を抜き、世間を狂わせたその数日後。
ヒキガヤ財団のオフィスに、一通の圧倒的に格式高い、しかしどこか見覚えのある封筒が届いた。
「……は? 雪ノ下建設?」
封を開けた八幡が、書かれていた内容に思わずジト目をさらに強めていると、オフィスの扉が開き、そこにはビシッとしたスーツ姿の……というよりは、今回はめずらしく作業着のジャケットをかっこよく着こなした雪ノ下陽乃が、余裕の笑みを浮かべて入ってきた。
「あら、八幡くん。私の可愛い妹が率いる……わけじゃないけれど、我が雪ノ下グループの総合建設部門が、このビッグウェーブに黙っていられるわけないでしょう?」
陽乃はフッと妖艶に微笑み、さらりと言い放った。
「あの建築CM、なかなかの反響じゃない。でもね、あれだけじゃ片手落ちよ。本当に日本を支えているゼネコンのリアルと泥臭さを見せるなら、もっと『本物の役者』を揃えるべきだわ。――もちろん、あなたが出演することが絶対条件よ?」
「断る選択肢は……」
「ないわよ、可愛いアドバイザーくん?」
こうして、雪ノ下建設の全面バックアップの元、企業の枠も業界の垣根も完全に飛び越えた「前代未聞の巨大コラボCMプロジェクト」が強制的に発動することになった。
集結するかつての仲間たち、そして「男たちの泥まみれ」
撮影現場となったのは、日本全国の未来を左右する最大級のインフラ再開発現場。
そこに集められたのは、なぜかかつての総武高校の面々だった。
「いやあ、まさか僕たちがこうして同じ現場で泥まみれになる日が来るとはね!」
爽やかな笑顔で汗を拭いながら、鉄骨の上の足場でそう笑ったのは葉山隼人だった。相変わらずの圧倒的な王子様オーラを放ちながらも、そのシャツは土埃と汗にまみれ、最高に「男らしい」精悍さを漂わせている。
「ハヤト、足元気をつけてよね! って、俺だって負けてらんねぇし!」
そのすぐ隣で、重い資材を必死の形相で支えながら叫んでいるのは戸部だった。かつてのチャラさはすっかり影を潜め、一人の頼もしい男として現場の空気を引き締めている。
さらに、その現場の片隅では――
「フッ、この鉄骨の重み……まさに我がダーク・インフラストラクチャーの神髄……!」と、なぜか特製の防塵マスクをつけて妙なポーズをとっている材木座の姿もあったが、現場監督に「材木座くん、邪魔だからそこ退いて!」と怒鳴られながらも、必死に汗を流して働いていた。
そして、そのすべての中心に立っているのが――銀髪の髪を汗で濡らし、無愛想に鉄骨のバランスを確認している比企谷八幡だった。
夕日に染まる男たちと、マックスコーヒー
カメラは、彼らのリアルな労働と、その背中に刻まれたドラマを余すところなく捉えていた。
綺麗事だけでは進まない現実の泥臭さ。
だが、かつて高校の部室や教室でそれぞれに葛藤し、すれ違い、そして不器用にぶつかり合ってきた者たちが、大人になった今、それぞれの場所を経て再び同じフィールドに立ち、日本の明日をその手で組み上げている。
泥にまみれ、息を切らし、互いに肩を叩き合って笑い合うその姿は、かつての青春の延長線上でありながら、あまりにも大人で、圧倒的な色気と爽やかさに満ちていた。
やがて、西の空が燃えるような茜色に染まり、現場に長い影が伸びていく。
カメラは、夕日を背にして佇む男たちのシルエットを美しく映し出した。
「……ふう。疲れたな」
八幡が小さく息を吐き、現場の隅に置かれていたパイプ椅子にドサッと腰を下ろす。
そこに、葉山が汗だくの顔で歩み寄り、冷えた缶を一つ、八幡の額にピタッと当てた。
「お疲れ、比企谷くん。いい汗かいたね」
「……おう」
八幡が受け取ったその缶は――まぎれもなく、あの黄色と茶色の鮮やかなストライプ柄、マックスコーヒーだった。
「まったく、甘ったるいんだよ、これ」
そうボヤきながらも、八幡はプシュッとプルタブを開け、乾いた喉にその甘い液体を流し込む。
隣に座った葉山も、戸部も、遠くで満足げに腕を組む材木座も、それぞれの手に同じ缶を持っていた。
画面が暗転し、タイポグラフィが浮かび上がる。
『泥にまみれて、明日をつくる。』
『――ENERGY FOR TOMORROW.』
それは、単なる建設会社のCMでも、コーヒーのCMでもなかった。
一つの時代を駆け抜け、それぞれの生き様を背負った男たちの、最高に熱くて爽やかな「現在地」を切り取った、完璧な一本のドラマだった。
日本中を包み込む「青春の続き」
そのCMが全国でオンエアされた瞬間、日本中のテレビの前が文字通り静まり返り、そして次の瞬間には爆発的な感動の渦に包まれた。
『待って……これ、かつての教え子たちや仲間たちが総出演してる……!?』
『最後のマックスコーヒーで涙腺決壊したわ……あの不器用だった奴らが、こんなにかっこいい大人になってるなんて……!』
『企業の枠も、アニメや現実の垣根も越えた、史上最高の神CMだろこれ……!』
SNSは「#マックスコーヒーの男たち」「#泥まみれの青春」「#比企谷八幡の背中」といったトレンドワードで完全に埋め尽くされ、日本中が爽やかな感動と熱気に包まれた。
ヒキガヤ財団のオフィスで、テレビ画面に映し出された自分たちの姿をちらりと見ながら、八幡はいつものように缶コーヒーを一口すすり、めんどくさそうにこう呟いた。
「……やれやれ。あいつら、また勝手に俺をいい感じの青春の主人公に仕立て上げやがって……」
だが、その口元に浮かんでいたかすかな笑みだけは、隠しようがなかった。
霞が関を揺るがし、世界を股にかけ、そして故郷の土埃と甘いコーヒーの香りに包まれながら――ひねくれた少年の物語は、今日も最高の仲間たちと共に、明日へと続いていくのだった。
「このビッグウェーブに乗るしかない」
あの伝説的な「男たちの泥まみれCM」が日本中を感動の渦に巻き込み、ネットのサーバーを幾度となくパンクさせてから数日後。
ヒキガヤ財団のオフィスに、さらなる嵐が吹き荒れようとしていた。
「――ふふっ。お兄ちゃん、これだけ世間が盛り上がってるんだから、私たちが見て見ぬふりをするわけにいかないよね?」
ドアを勢いよく開けて入ってきたのは、満面の笑みを浮かべた雪ノ下雪乃、そしてその隣で呆れたような、しかしどこかワクワクした表情を隠せない川崎沙希、さらに余裕のオーラを纏った雪ノ下陽乃の三人だった。
ソファで書類と格闘していた八幡は、その顔ぶれを見た瞬間、嫌な予感しかしないという顔でペンを止めた。
「……お前ら、何企んでやがる。嫌な予感しかしねぇぞ」
「企んでなんかないわよ」と、雪乃はすまし顔で胸を張った。
「あのゼネコンのCM、確かに男たちの泥臭さは描かれていたけれど……肝心の『全体をコントロールし、実際に社会を回している中枢』がすっぽり抜け落ちているわ。このビッグウェーブ、乗るしかないでしょう?」
「そ、そうよ……! 私だってみんなの裏でどれだけ動いてると思ってんだよ……」と、川崎が少し照れくさそうに腕を組む。
さらに陽乃がくすくすと笑いながらトドメを刺した。
「それにね、世間のSNSでは早くも『比企谷八幡を巡る3人のヒロイン、一体誰が正妻なのか』っていう不毛な大論争が勃発してるの。だったら、いっそ公式でまとめて片付けてあげるのが、大人の優しさってものじゃない?」
「勝手に話をデカくするな! 誰がいつの間に『3人の妻』になったんだよ!」
八幡が盛大にツッコミを入れるも、もはや彼女たちの勢いを止めることなど誰にもできなかった。
こうして、雪ノ下建設とヒキガヤ財団の共同プレスリリース、そして広告代理店の暴走により、前代未聞の「続編CM」の撮影が強行されることになった。
「雪ノ下家の親族」と、圧倒的な女王蜂たち
撮影現場となったのは、最新鋭のガラス張りの高層ビル――その最上階で、新しい都市計画のマスタープランが広げられた巨大な会議室だった。
そこには、先日のCMで泥まみれになっていた男たち(八幡、葉山、戸部、材木座)とは打って変わって、完璧すぎるスーツやスタイリッシュな衣装に身を包んだ雪乃、川崎、陽乃の姿があった。
「お兄ちゃん、背筋まっすぐ伸ばして。世界に配信されるんだから、少しはシャキッとしなさいよ」
「悪かったな、どうもすいませんね」
冷ややかな目で八幡を叱りつける雪乃は、まるで実の妻、あるいは冷徹な女帝の佇まいだ。
その傍らで、川崎が鋭い目つきでタブレットの数値をチェックし、物流や現場のスケジュールの不備を次々と完璧に指摘していく。そのかっこよさに、現場のスタッフたちからは「沙希さん、マジでイケメンすぎる……!」と黄色い歓声が飛んだ。
そして、そのすべての中心で、すべてを俯瞰しながら優雅に微笑んでいるのが雪ノ下陽乃だった。
「さあ、男たちが汗を流して作った土台の上で、今度は私たちが未来のルールを描き出す番よ」
「……なんか、俺たち、完全に尻に敷かれてる構図になってないか?」
隅っこで缶コーヒーを飲んでいた戸部が、葉山にこっそり耳打ちする。
葉山は苦笑しながら、「否定はできないけど……絵になりすぎていて誰も文句が言えないね」と返すしかなかった。
未来を作るのに、男も女も関係ない
カメラは、男たちが作り上げた「今日」のインフラや社会の基盤から、彼女たちが切り拓く「明日」のスマートなビジョンへと、シームレスに視線を繋いでいく。
冷徹なようでいて温かい雪乃の知性。
泥臭い現場からはい上がり、仲間を支え続ける川崎の強さ。
すべてを包み込み、軽やかに時代をリードする陽乃のカリスマ性。
そして、その真ん中で相変わらず「めんどくせぇなぁ」と言いたげな顔をしながらも、彼女たちの出す無茶振りにしっかり付き合わされている八幡の姿。
物語のクライマックス。
夕日を浴びる高層ビルの窓辺で、4人が並んで遠くの空を見つめるシルエットが映し出される。
画面が暗転し、重厚感のあるフォントで静かに文字が浮かび上がった。
『明日をつくるのは、男たちだけじゃない。』
『――未来をつくるのに、男も女も関係ない。』
最後に、画面の隅に小さく、しかし鮮やかに映し出されたのは、あの黄色と茶色のストライプ柄のマックスコーヒーの缶だった。
日本全土を撃ち抜いた「答え」と、爆発的なバズ
そのCMが電波に乗って日本中、いや世界中に流れた瞬間、ネットのタイムラインは文字通り「完全崩壊」した。
『待って……雪乃、沙希、陽乃の3人が同時に出演してる……!? しかも「八幡の3人の妻(あるいは最強の親族)」っていうパワーワードが強すぎる……!』
『最後の「男も女も関係ない」のメッセージで鳥肌が立った。ただの企業CMの枠を完全に超越してるだろこれ!』
『比企谷八幡、前世でどれだけ徳を積んだんだよ……羨ましすぎるわ!』
SNSのトレンドは「#未来は男も女も関係ない」「#雪ノ下三姉妹(+川崎)」「#比企谷ファミリー最強」といったハッシュタグで上位を独占し、社会現象を通り越して「一つの時代のマニフェスト」として語り継がれる伝説のCMとなった。
ヒキガヤ財団のオフィスで、そのテレビ画面をぼんやりと眺めながら、八幡は深いため息をついた。
「……まったく。お前ら、やりたい放題やりやがって……」
すると、隣に座っていた雪乃が、ふっと柔らかく、しかしどこか誇らしげな笑みを浮かべてカップを傾けた。
「何を言っているのかしら、お兄ちゃん。私たちが動かないと、あなたのその不器用な優しさも、ただの独りよがりで終わってしまうんだから。――感謝しなさいよね?」
「はいはい、毎度お世話になっておりますよ、女王様」
やれやれと言いながらも、八幡は自分の分のマックスコーヒーのプルタブをプシュッと開けた。
霞が関を動かし、世界を股にかけ、若者たちの未来を救い、そして最高のかつての仲間たちと家族に囲まれながら――ひねくれた少年の紡ぐ物語は、男も女も関係ない、もっと眩しい明日へと、今日も軽やかに続いていくのだった。
最後に舞い込んだ、甘すぎるオファー
日本中を巻き込んだ「未来をつくる者たち」の伝説的なCMからしばらく経ったある日のこと。
ヒキガヤ財団のオフィスには、相変わらず国内外から次々と舞い込む案件や、山積みの書類の処理に追われるスタッフたちの足音が響き渡っていた。
そんな中、ひときわスタイリッシュな封筒を持ってデスクにやってきたのは、いまや財団の渉外やグローバル案件の表舞台で引っ張りだことなっている葉山隼人だった。
「比企谷くん、ちょっと息抜きにいかがかい?」
涼しげな顔をしながらも、そのスーツの着こなしにはさすがの疲労の色が少しだけ滲んでいる。
八幡は山のような書類から顔を上げ、ジト目で葉山を睨みつけた。
「……なんだよ、お前まで。またどこかのブランドから無茶振りなランウェイの招待状でも持ってきたのか? 絶対に行かないからな」
「はは、違う違う。今回はもっと個人的な、かつてないほど巨大なオファーさ」
葉山はふっと爽やかに笑い、一枚の企画書を机の上に置いた。そこには、あの黄色と茶色のストライプ柄――マックスコーヒー単体での大型テレビCMの企画書がドレッシーに収められていた。
「マックスコーヒーの単体CM……? なんでまた俺に?」
「君のあの『甘ったるいんだよ、これ』の一言が、向こうのプロデューサーの逆鱗に……じゃなくて、心を猛烈に射抜いたらしいよ。ぜひ君を単体のメインキャストに起用したいってさ」
激務のオフィスと、ネクタイを緩める葉山
数日後、都内の超高層ビルの最上階、ヒキガヤ財団の本部オフィスを完全貸し切りにしてその撮影は行われていた。
次々と飛び交う海外からの電話、リアルタイムで更新される「和僑」ネットワークの進捗データ、そして押し寄せる資金援助や若者たちの相談案件――。
目まぐるしく回転する現代社会の心臓部のような慌ただしいオフィスの中で、葉山隼人はデスクの前に座り、溜息を一つ吐いた。
完璧なエリートとして、いつも涼しい顔で数々の修羅場をくぐり抜けてきた彼であっても、この桁違いの物量を一人で回すのはさすがに過酷だった。
葉山はふぅっと息をつきながら、きつく締め上げていたネクタイの結び目を緩め、首元のボタンを外した。
その無防備で、しかし最高に絵になる「大人の男の疲れ顔」と、洗練されたオフィスの一コマが、カメラのレンズに完璧に切り取られていく。
「お前がいてくれればいい」と、小町の残像
張り詰めたオフィスの静寂の中、葉山は引き出しからキンキンに冷えた缶を取り出した。
――もちろん、あの黄色と茶色のストライプ柄、マックスコーヒーだ。
プシュッ。
心地よい軽快な音がオフィスに響き渡る。
葉山は缶に口をつけ、その強烈で甘ったるい液体を喉へと流し込んだ。疲労しきった体に、砂糖の甘さがダイレクトに染み渡る。
彼はふっと柔らかく微笑むと、誰もいない隣のデスク、あるいは自分の目の前にいる「誰か」に向かって、ぼそりと呟いた。
「……まったく、大変な毎日だけどさ」
グラスや書類の隙間からカメラが捉えた葉山の表情は、これ以上ないほど穏やかで、満ち足りていた。
「――お前がいてくれれば、少しは頑張れるか」
それは、仕事の相棒である八幡に対してなのか。
それとも、愛する妻であり、今日もどこかで元気に動き回っている小町に対してなのか。
その瞬間――
カメラのピントがほんの数フレームだけ揺らぎ、葉山の隣、あるいはふとした視線の先に、無邪気に笑う小町の幻影(残像)が、まるでふっとそこに存在していたかのように、鮮やかに映し出された。
ハッと目を向けたときには、そこには誰もいない。ただ、甘いマックスコーヒーの香りと、オフィスの静寂だけが残されていた。
画面がゆっくりと暗転し、お馴染みのロゴが浮かび上がる。
『ENERGY FOR TOMORROW.』
『マックスコーヒー。』
再び爆発するSNSと、オフィスの日常
そのCMが全国で放映された瞬間、日本中のテレビ画面の前で、視聴者たちは文字通り言葉を失い、そして次の瞬間には絶叫した。
『待って……最後の葉山のセリフ「お前がいてくれればいい」って、誰に向けて言ったの……!? 小町の残像見えた気がしたんだけど……!?』
『仕事ができる男の疲れた顔と、ネクタイ緩める仕草の破壊力がヤバすぎる……! しかも最後のエモさで涙腺が崩壊したわ!』
『マックスコーヒーのCMなのに、最高の恋愛ドラマを見せられた気分なんだけど……!』
SNSのトレンドはまたしても「#マックスコーヒーの男」「#葉山隼人」「#小町の残像」「#比企谷ファミリー」といったハッシュタグで完全制覇され、日本中が甘くて切ない余韻に包まれることになった。
その頃、ヒキガヤ財団のオフィスでは。
テレビに流れた自分の(あるいは葉山の)CMを見た八幡が、自分のデスクで頭を抱えていた。
「……なんだあの演出は。甘ったるいコーヒーに免じて、少しは現実を見ろよ、テレビ局の人間は……」
すると、その横を通りかかった小町が、スマホを見ながらケラケラと誇らしげに笑った。
「いいじゃんお兄ちゃん! 葉山くんのあのセリフ、すっごくかっこよかったよ! ネットでも『最高のエモいCM』って大絶賛されてる!」
「お前な……」と言いかけた八幡の前に、葉山がひょいと現れ、冷えたマックスコーヒーをコトンと置いた。
「ほら、比企谷くんも一息入れよう。……僕たちの毎日は、まだまだ忙しくなるみたいだからね」
やれやれと肩をすくめながらも、八幡は缶を手に取り、プシュッとプルタブを開けた。
霞が関を動かし、世界を救い、甘いコーヒーと賑やかな仲間たちに囲まれながら――ひねくれた少年の日常は、今日も最高に面倒くさく、そして温かく回り続けていくのだった。
物語の裏側で、キーボードを叩く音
世界中が「マックスコーヒー」と「比企谷ファミリー」の伝説的なCMの余韻に浸り、ネットのタイムラインが連日お祭り騒ぎになっていたその頃。
夜の帳がすっかり下りた静かな一室に、カタカタ、カタカタと、激しくキーボードを叩く音が響き渡っていた。
そこにいたのは、いつもの分厚いコートを脱ぎ捨て、袖をまくり上げた材木座義輝だった。
モニターの青白い光に照らされた彼の顔には、いつものふざけた様子はなく、作家としての異様な熱と、どこか満たされたような真剣な表情が張り付いていた。
「……フッ、これだ……! これこそが、あの男の紡いだ現実の叙事詩の結末にふさわしい……!」
画面には、彼が執筆している大ヒット小説の最終章の原稿が猛烈なスピードで描き出されていく。
霞が関を動かし、世界中で「和僑」のネットワークを広げ、泥まみれになって明日を創り、そして冷めながらも誰よりも優しく世界を救い続ける男たちの姿――。
物語の登場人物たちがそれぞれの場所で笑顔を取り戻していく描写を打ち終えると、材木座はふう、と深く長い息を吐き出した。
甘い缶コーヒーと、思い出す「背中」
張り詰めていた糸が切れたように椅子にもたれかかった材木座の視線の先には、デスクの隅にぽつんと置かれた一缶の缶コーヒーがあった。
もちろん、あの黄色と茶色のストライプ柄――マックスコーヒーだ。
「……そう言えば、あいつもこれが好きだったな」
ふと、材木座は昔のことを思い出した。
総武高校の部室で、誰もいない空間で一人パソコンに向かっていた頃の孤独。その片隅で、呆れたような目をしながらも、なんだかんだで自分の奇妙な小説や創作に付き合ってくれた、あのひねくれた少年の姿を。
カシュッ。
心地よい音が部屋に響き、甘ったるい香りがふわりと広がる。
缶に口をつけ、その強烈な甘さを喉に通しながら、材木座はパソコンの画面の端に映り込んだ自分の顔、そしてその向こうに広がる現実の夜空を見上げた。
画面の向こうのフィクションではなく、今この瞬間も世界のどこかで、面倒くさそうに頭を抱えながら、しかし確実に誰かの未来を救い続けている「あいつ」の背中が、不思議とはっきりと脳裏に浮かび上がる。
――派手なマントを纏うわけでもなく、人前でかっこいいセリフを吐くわけでもない。
ただひたすらに不機嫌そうに、ただひたすらに現実の理不尽と戦い続ける、最高にひねくれた私たちの友人。
材木座は満足げにふっと笑うと、最後のピリオドを打ち込むように、強くエンターキーを押した。
モニターの最下段に、静かで力強いフォントが浮かび上がる。
『――ヒーローは、現実にいる。』
真っ赤になる八幡と、最高潮のバズ
日本中が「ヒーローは、現実にいる」という材木座の小説の結末と、一連のマックスコーヒーのCMの余韻に浸り、感動の涙と笑いに包まれていた翌朝のこと。
ヒキガヤ財団のオフィス。
いつものように山積みの書類を片付けようと出社してきた八幡は、スタッフの一人が怯えたような、しかしどこかニヤニヤと笑いをこらえている視線を向けられていることに気づいた。
「……なんだよ、朝から気味の悪い面しやがって。また海外から変な仕事のオファーでも来たのか?」
「い、いや……理事長、まずはこれを見てください……」
部下が震える手で差し出したのは、昨夜遅くに公開された「材木座の小説の宣伝用、およびマックスコーヒー特別コラボの最終章CM」の動画だった。
画面に映し出されたのは、夜の静かな部屋でノートパソコンに向かい、マックスコーヒーを飲みながら――
「そう言えば、あいつも好きだったな」と、少し照れくさそうに、しかし誰よりも熱い眼差しで「比企谷八幡」という友人の存在を語る、材木座のドキュメンタリー風の映像だった。
そして、そのド真ん中に、なぜか当時(高校時代)のちょっと気だるげで、でも最高に青春していた八幡のモノクロの回想カットが、劇的な演出とともにドアップでぶっこまれていたのだ。
『――ヒーローは、現実にいる。』
そのテロップと同時に、画面はオフィスのデスクで固まっている現在の八幡の顔へとオーバーラップする。
「…………っ!?」
瞬間、八幡の顔は、今まで見たこともないほど真っ赤に染まった。
耳の先まで完全に茹でダコのように赤くなり、彼は持っていたボールペンをガチャンとデスクに落とした。
「なっ……何だこれ……!! おい、誰だこれ企画した奴は……!! 誰がヒーローだ、誰があいつの脳裏に青春の思い出として美しく浮かび上がってんだよ!! くそっ、あのデブ、今度会ったら絶対にプリンの壺の底を丸一日スプーンで削ってやるからな……!!」
あまりの気恥ずかしさと、自分を取り巻く世界線の中二病フィルターの暴走に、八幡は両手で顔を覆い、デスクに突っ伏して身悶えした。
ネットの限界突破と、止まらない「バズ」
もちろん、その「八幡がガチで赤面して悶絶している」というリアルタイムの様子すらも、オフィスの隠しカメラ(あるいは高柳のスマホ)によってちゃっかり撮影され、「リアルタイム・比企谷理事長の悶絶」としてネットに流出することになる。
その瞬間、SNSのタイムラインは文字通り「完全にお祭り状態」となった。
『待ってwwww 最後の最後に、あのひねくれ者の八幡がガチで真っ赤になって照れてる映像が流れたんだけどwwww』
『材木座の小説とCMの締めで感動して泣いてたのに、最後の最後で全部持ってかれたwww 最高すぎるだろこのコンビ!』
『「ヒーローは、現実にいる」って最高のセリフの後に、悶絶して机に突っ伏す八幡のギャップが尊すぎて全米が泣いた』
「#比企谷八幡赤面」「#ヒーローは現実にいる」「#マックスコーヒーの奇跡」「#材木座許すまじ」といったハッシュタグは、日本国内だけでなく世界中のトレンドを再び完全に制覇し、関連動画の再生回数は数時間で億単位を叩き出した。
ヒキガヤ財団のオフィスでは、雪乃や沙希、陽乃、そして葉山や小町たちが「いやあ、お兄ちゃんも可愛いところあるじゃない」「最高の一本だったね!」と腹を抱えて大笑いしていた。
赤面したまま立ち上がれなくなった八幡は、机に顔をうずめたまま、世界中に轟く自分の伝説のバズを呪うしかなかった。
「……もうやめてくれ……俺はただの、地味でひねくれた一般人なんだよ……っ!」
世界を救い、若者を導き、泥にまみれ、最後には全人類の前で盛大に照れを晒すことになったひねくれた少年の日常は、今日も最高に賑やかに、そして少しだけ温かく、終わらない明日へと走り続けていくのだった。
震える更衣室と、記憶の原点
世界中が比企谷八幡の盛大な赤面と、次々と巻き起こる大バズりの余韻に包まれていたその頃。
地球の裏側、あるいは世界最高峰の舞台――サッカーの『ワールドカップ』のロッカールーム。
静まり返った空間で、一人の男が深く息を吐き出していた。
ユニフォームに袖を通した戸部の手は、尋常ではないプレッシャーと極限の緊張で、細かく震えていた。
「はぁ……はぁ……マジかよ……。ここ、ワールドカップの舞台だぞ……。世界中の何億人って人間が、俺のプレイを見てるんだよな……」
足元がすくみそうなほどの重圧に呑まれかけ、戸部が両手で顔を覆ったその瞬間。
脳裏に、かつての懐かしい記憶が鮮やかにフラッシュバックした。
教室の片隅で、いつも冷めた目をしながらも的確なアドバイスをくれた八幡。
どんな時も涼しい顔で周囲を引っ張り、自分を支えてくれた葉山。
奇抜な妄想を語りながらも、なんだかんだで熱い友情を貫いてくれた材木座。
そして、あの総武高校のグラウンドや部室で、バカみたいにボールを追いかけ、共に笑い、時にぶつかり合ったチームメイトたちの顔。
(俺は……あの時、あいつらと一緒に泥まみれになりながら、少しずつ前に進んできたんだ……)
胸の奥底から、熱いものがこみ上げてくる。
(ここまで来られたのは、全部お前らのおかげだ。……あんなカッコ悪い青春を送った俺たちが、こんな大舞台に立ててのに、ここでビビってカッコ悪い姿なんて見せられるかよ!)
カッ、と戸部の瞳に強い闘志の光が宿った。
次の瞬間、先ほどまで恐怖で震えていた手足の震えが、嘘のようにピタリと止まった。
カロリーと、夢の続き
その引き締まった戸部の背中に、誰かがふと冷えた缶を押し当てた。
振り返ると、そこには同じユニフォームを纏い、かつて共に青春を駆け抜けた仲間たち――あのワールドカップの舞台に立つために、それぞれの道を経て同じピッチに集結した面々が立っていた。
「緊張してんのかよ、戸部」
「ふっ、こんな大舞台で足をつるなよ、エースストライカー?」
仲間たちがクスリと笑いながら手渡したのは、あの黄色と茶色のストライプ柄――マックスコーヒーだった。
戸部は苦笑しながらも、その缶を受け取った。
「はっ、当たり前だろ! ……こんな大一番、ただのスポーツ飲料じゃ、脳も筋肉もカロリーが足んねえよな!」
プシュッ!
乾いた音が更衣室に響き渡る。
戸部は一気にその甘い液体を喉へと流し込み、体にみなぎる爆発的なエネルギーを感じ取った。
「よし……! 行くぜ、お前ら!」
戸部の力強い号令に合わせ、葉山をはじめとするかつての面々も、それぞれの手に持ったマックスコーヒーを飲み干し、力強く頷いた。
「「おうっ!!」」
夢はまだ、終わらない
ロッカールームの重い扉が開き、目の前に広がる大歓声のスタジアムへと、彼らは一斉に駆け出していく。
カメラは、ピッチへと飛び出す男たちの躍動感あふれる背中を力強く捉える。
画面が暗転し、重厚なフォントで静かに文字が浮かび上がった。
『――夢はまだ、終わらない。』
最後に、画面の隅にしっかりと焼き付けられた、あの黄色と茶色のストライプ柄のロゴが、最高に熱い余韻を残して静かに消えていくのだった。
歓喜のピッチと、驚異の回収率
ワールドカップの激闘の末、ピッチに響き渡ったホイッスル。
世界中の大歓声が渦巻く中、劇的な勝利を収めた日本代表の選手たちは、ピッチの真ん中で泣き笑いながら抱き合い、お互いの健闘を称え合っていた。
「やった……! やったぞおおお――っ!!」
その中心で、満面の笑みでガッツポーズを爆発させ、チームメイトたちと跳び跳ねて喜んでいるのは戸部だった。
かつての高校のグラウンドの隅でサッカーを語り合っていた面々、そしてそれぞれの人生を歩みながらもこの最高峰の舞台に集結した仲間たちが、今、世界を相手に歓喜の輪を作っている。
「戸部、お前やったな……!」
「ハヤト、お前のおかげだよ! いや、みんなのおかげだ……!」
そのあまりにもドラマチックで、CG一切なしの本物の熱量が乗った歓喜の瞬間は、世界中のテレビカメラを通じて生中継され、地球の裏側の日本をも狂喜乱舞の渦に巻き込んだ。
桁違いのCM代と、一瞬で溶けた「回収」
その頃、日本のヒキガヤ財団のオフィスでは――。
巨大なモニターに映し出されたワールドカップの勝利の瞬間を見届けながら、高柳が頭を抱え、そして次の瞬間には盛大に笑い声を上げていた。
「いやぁ、理事長! やりましたね! 戸部君のあの劇的な活躍と、その直前のマックスコーヒーのシーン、世界中でトレンド1位を独占してますよ!」
デスクの端で、相変わらず冷めたお茶をすすりながらモニターを眺めていた八幡は、やれやれと言いながら額に手を当てた。
「……あんなワールドカップの最中に、あんな大がかりなタイアップCMを世界同時放映するなんて、どれだけ莫大なCM代がかかったと思ってんだよ。宣伝部の暴走もいい加減にしろっての」
「はっはっは、確かに制作費も放映権も、ゼロが一つ足りないんじゃないかってくらいの超ウルトラ級の予算でしたけどね」
元官僚チームの一人が、手元のタブレットに表示されたリアルタイムの経済データを指し示した。
「見てください、この売上と株価の跳ね上がり方を。CMが流れた瞬間から、国内外のマックスコーヒーの特需、関連ブランド、さらには財団やウチが絡むすべてのプロジェクトへの投資が殺到して――、かかった費用なんて、ものの数分で完全に回収されましたよ」
「……あぁ、そうですか」
八幡は呆れたように息を吐いた。
「金が回るの早すぎんだよ……。どんだけ世間の奴らはあの甘い乳飲料と俺たちの青春(?)に狂ってんだよ」
豪華すぎる「比企谷ファミリー」の現在地
戸部が世界を沸かせ、葉山やかつての仲間たちがピッチを駆け抜け、裏では雪乃や沙希、陽乃が社会を動かし、材木座がそれを小説にし、そして八幡がボヤきながらもすべてを支えている。
「にしても……」
高柳はふっと笑い、オフィスに飾られたあの若い高校生の絵や、これまでの数々のメディアの切り抜きを見渡した。
「サッカー選手に、トップモデルに、世界を揺るがすフィランソロピストに、一流のエリート官僚たち……。冷静に考えなくても、今回のCM群、メンバーが豪華すぎやしませんか?」
「……知るかよ」
八幡は立ち上がると、めんどくさそうにトレンチコートの襟を立てた。
「全員、勝手に暴走して勝手にデカい背中見せてるだけだろ。……ま、泥にまみれて汗かいた奴らが報われるなら、少しはこういうバカ騒ぎも悪くはねぇか」
外の世界では、世界を制した戸部たちの凱旋パレードのニュースが早くも流れ始めていた。
霞が関から世界のピッチまで、ひねくれた少年の蒔いた小さな種は、今日も最高に贅沢で豪華な大輪の花を咲かせ続けているのだった。
街のベンチと、予期せぬ「無言のCM」
数々の巨大なタイアップCMが世界を駆け抜け、ワールドカップでの戸部の歓喜が冷めやらぬある日の午後。
都内の少し落ち着いた公園の片隅で、比企谷八幡は一人、木漏れ日の差すベンチに深く腰掛けていた。
いつもなら山積みの書類や、誰かの厄介事、あるいは強引な仲間たちの無茶振りに頭を抱えている時間だが、珍しくこの瞬間だけは、スケジュールにぽっかりと穴が空いていた。
「……はぁ」
八幡は小さく息を吐き出すと、ぼうっと初秋の空を見上げた。
警察を動かし、世界を股にかけ、パリコレのランウェイで晒され、気づけば「ダークヒーロー」の象徴として世界中のメディアに祭り上げられている自分。
(……俺は一体、いつからこんなに面倒くさい渦の中心にいるんだっけな)
かつては「ぼっちの平穏」こそが至高の正義だと信じて疑わなかった高校生の頃の自分を思い出し、八幡は自嘲気味にふっと片方の口角を上げた。
「……なにやってんだろな、まったく」
誰に聞かせるわけでもなく呟くと、彼は持っていたコートのポケットから、あの黄色と茶色のストライプ柄の缶を取り出した。
プシュッ。
静かな公園に、軽快なタブレットの音が響く。
八幡は冷え切ったマックスコーヒーを口に含み、その脳を揺さぶるような圧倒的な練乳の甘さと、コーヒーの確かなコクをじっくりと喉へと流し込んだ。背もたれに体を預け、再び空を眺めながら、どこか遠い目をする。
そこには、世界を動かすフィランソロピストとしての顔も、めんどくさいリーダーとしての顔もなかった。ただの、甘いコーヒーを愛する一人の青年としての、ありのままの姿があった。
自然体の「愛と信頼」、そして不意打ちのレンズ
しかし、その穏やかで、しかしどこかドラマのワンシーンのような光景は、隠れようもなく絵になりすぎていた。
少し離れた木陰から、偶然通りかかったインディーズの映像クリエイター(あるいは暇を持て余したファン)が、その自然体の姿をそっとスマートフォンで撮影していたのだ。
「……待って、あれって……比企谷理事長……だよな?」
「うわ、すっげぇ自然体……。いつもテレビやネットで見る顔と全然違う……」
撮影者は、声をかけることも憚られ、ただその静かで美しい「無言の時間」をそっとフレームに収めた。
数日後。
その映像は、過度なBGMや派手な演出を一切排し、ただ「街のベンチで一人、マックスコーヒーを飲む男の背中」を淡々と切り取ったショート動画として、ネットの海にひっそりと投稿された。
――そして、それは数時間後、世界を再びひっくり返した。
『セリフ一切なし。ただマックスコーヒーを飲んで空を見上げてるだけなのに、なぜか胸が締め付けられるのは何故だ……』
『この男が今まで背負ってきたものの重みと、それでも手放さないこの甘いコーヒーへの「信頼」が伝わってきてヤバい』
『過剰な演出のCMよりも、この自然体の姿に一番マックスコーヒーへの愛を感じる。最高すぎるだろ……』
「勝手に完成してしまう」伝説のCM
動画は瞬く間に数千万回再生を突破し、あらゆるSNSのタイムラインを埋め尽くした。
あまりの自然さと、その背景にある「数々の修羅場と日常」の重みが見る者の心を打ち、メーカーの公式すらも「これぞ究極のリアルプロモーションです」と思わず公式アカウントでリポストする事態に発展した。
ヒキガヤ財団のオフィスで、そのネットに勝手にアップされた動画を見た高柳は、呆れたように笑いながら首を振った。
「いやあ、理事長。ついにあなたは、公式の撮影すら経ずに、ただ息をしているだけで世界最高峰のCMを完成させてしまいましたね」
デスクでいつも通り書類に目を通していた八幡は、その動画の画面を一瞥すると、盛大に顔をしかめて頭を抱えた。
「……もう勘弁してくれよ。俺がただベンチでサボって甘い缶コーヒー飲んでただけだろ、何が『マックスコーヒーへの愛と信頼』だよ……」
「でも、事実でしょう?」
扉にもたれかかりながら、雪乃がクスリと笑った。
「あなたがどんなにひねくれた言い訳をしようとも、そのコーヒーを手にする時の表情は、世界中のどんな広告よりも説得力があるわ」
「そうそう! お兄ちゃん、今度はそのベンチの聖地巡礼ツアーとか絶対流行るよ!」と、小町がスマホを見せながらケラケラと笑う。
文句を言いながらも、八幡は手元にあったその黄色と茶色の缶をちらりと見下ろした。
「……まあ、いいか」
八幡は小さく息をつき、いつものめんどくさそうな、しかしどこか温かい目をしながら、再びその強烈に甘いコーヒーを一口飲んだ。
世界を救い、仲間たちと明日を創り続けるひねくれた少年の日常は、今日も飾らない静けさと、変わらない濃厚な甘さと共に、ゆっくりと、しかし確実に流れていくのだった。
マックスコーヒーの海外進出と、アンの好奇心
SNSで巻き起こった「街のベンチでの無言の動画」が世界中で爆発的なヒットを記録したことにより、予想外の事態が引き起こされていた。
「おい、これを見ろ……!」
ヒキガヤ財団のオフィスで、高柳が目を丸くしながらタブレットを八幡に突きつけた。
画面に映っていたのは、かつてパリコレを共に戦い、世界的なアパレルやカルチャーの最先端を牛耳るトッププロデューサー兼モデルのアンが、自身のSNSで「いま日本から世界に波及している謎の神の飲み物」として、黄色と茶色のストライプ柄の缶を掲げている写真だった。
「……は? なんであの外国人がマックスコーヒー持ってんだよ」
八幡が盛大に顔をしかめると、高柳はニヤニヤと笑いながら答えた。
「君が公園のベンチでしみじみ飲んでいたあの動画が引き金になって、欧米やアジアの感度の高い若者たちの間で『あれは何だ!? あのスタイリッシュな男が愛する極上の甘味とは!』って大ブームになっちゃいましてね。現地からの輸入・販売のオファーが文字通り桁違いの数で舞い込んでるんですよ」
「……ただの練乳マシマシの甘いコーヒーだぞ、あんなもん……」
頭を抱える八幡の横で、当の本人であるアンから国際電話がかかってきたのは、それからすぐのことだった。
「あまっ……、だけどクセになるわね」
パリの一流スタジオの楽屋。
カメラの向こうで、アンは例の黄色と茶色の缶のプルタブを自分でプシュッと引き開けた。
「ハチマン、聞いたわよ? あなたが日本でこっそり愛飲しているという『秘密の毒薬(ポーション)』、現地から特別に取り寄せちゃった」
「毒薬じゃねぇよ、ただの缶コーヒーだ。あと勝手に人の好物をストーカーすんな」
スマホ越しにボヤく八幡をよそに、アンは興味津々といった様子でその缶を傾け、一口だけ口に含んだ。
瞬間――。
アンの目が、カッ と見開かれた。
「んっ……!?」
脳天を直接突き抜けるような、容赦のない濃厚な練乳の甘さと、奥底からやってくるコーヒーのコク。
彼女の母国やヨーロッパの洗練されたビターなエスプレッソ文化とは対極にある、圧倒的で暴力的とも言えるほどの「極上の甘味」が、彼女の味覚を完全にノックアウトした。
アンは少しだけ眉をひそめ、しかしすぐに満面の笑みを浮かべてこう叫んだ。
「――あまっ……!! でも……なんだこれ、めちゃくちゃクセになるじゃない……!!」
アンが主役の「世界進出CM」と、地球規模の爆発
そのアンのリアルなリアクションと、「甘すぎて頭がおかしくなりそうだけど、一度飲んだら二度と忘れられない」という中毒性をそのまま収めたプロモーションビデオが、現地の一流クリエイターたちの手によって急遽制作されることになった。
パリの洗練された石畳の街並み。
モードなドレスに身を包んだアンが、パリコレのランウェイの合間に、あの黄色と茶色の缶を片手にクールに歩く。
そして、カメラに向かってウインクをしながら、フランス語なまりの英語でこう囁くのだ。
『――甘すぎる? いいえ、これこそが現実を生き抜くためのエネルギーよ。』
『Max Coffee. 味わってみる?』
そのCMがYouTubeやTikTok、世界中の各プラットフォームに解き放たれた瞬間、地球の裏側からこちら側まで、文字通り「世界中」が完全にひっくり返った。
『待って、アンがマックスコーヒー飲んでるビジュアル、カッコよすぎだろ……!』
『「現実を生き抜くためのエネルギー」ってセリフ、重みが違いすぎるwww』
『パリの街並みとマックスコーヒーのミスマッチ感が最高すぎて、今すぐ現地の自販機走りたくなった!』
「#MaxCoffeeGlobal」「#アンの甘い罠」「#比企谷八幡の愛飲ドリンク」といったハッシュタグは、X(旧Twitter)やInstagramで世界トレンドの1位から3位までを独占。
ヨーロッパやアメリカのスーパーの棚からはマックスコーヒーが瞬く間に姿を消し、海外の若者たちが黄色と茶色の缶を片手に街を闊歩するという、かつて誰も想像しなかった奇妙でエキサイティングな光景が世界中で日常茶飯事となった。
遠いパリから届くメッセージと、相変わらずの日常
ヒキガヤ財団のオフィス。
世界中を巻き込んだ「マックスコーヒー世界侵略計画(※勝手にそうなっただけ)」のニュースをパソコンの画面で眺めながら、八幡は深すぎる溜息を吐いた。
「……もう、どうにでもしてくれ……」
霞が関を動かし、世界中で「和僑」を組織し、パリコレのランウェイを歩き、ワールドカップで歓喜の輪に加わり、ついには世界的なトップモデルを「甘い中毒」に陥れた男の日常。
その時、スマホがピコンと鳴り、パリにいるアンからメッセージが届いた。
『ハチマン、最高のお墨付きをありがとう。今度パリに来るときは、スーツケースいっぱいのマックスコーヒーを私へのギャラ代わりに持ってきてちょうだいね。――チャオ!』
画面をそっと伏せた八幡は、自分のデスクの端にあった冷えた缶を手に取り、静かにプルタブを開けた。
「……まったく、どいつもこいつも……」
文句を言いながらも、その濃厚で甘いコーヒーを一口飲むと、なぜか少しだけ悪くない気分になった。
世界がどれだけバズり、どれだけ騒がしくなろうとも、この変わらない甘さと、めんどくさくも愛おしい日常だけは、今日も変わらず彼の傍らにあり続けるのだった。
比企ヶ谷本家への「侵略」と、苦い顔の父
世界的なパリコレモデルであるアンをも虜にし、地球規模のトレンドと化した「マックスコーヒー」。
その圧倒的な甘さの波は、ついに最果ての要塞――実家である「比企ヶ谷本家」の敷居すらも跨ぐことになった。
ある週末の夕方、実家に顔を出した八幡は、リビングのテーブルの上に置かれた見慣れない、しかし見慣れすぎている「黄色と茶色のストライプ柄のダンボール箱」を見て、思わずその場でフリーズした。
「……は?」
「お、八幡か。ちょうどいいところに帰ってきた」
新聞を読んでいた父親が、やれやれといった顔でその箱を指差した。
「なんか最近、テレビでもネットでもお前と例の黄色い缶の話ばっかりでさ。気になってケースで取り寄せてみたんだが……なんだこの、頭がクラクラするような甘ったるい飲み物は」
父親はそう言いながらも、すでに一本空けた空き缶をテーブルに転がしていた。
少し離れた場所では、母親も「最初は『なんだこれ』と思ったけど、疲れてる時には妙にしみるのよねぇ」と、すっかりお茶の間の一員と化したマックスコーヒーを手にカップを拭いていた。
「お前、あんな甘いもんよく毎日飲んでるな。むっ、とする味だが……まあ、悪くはないのか?」
父親のその言葉に、八幡は激しく共感しつつも、複雑な顔で頭を掻いた。
「……いや、俺も最初は飲むたびに『甘すぎだろ』って思ってたけどさ……」
「あのひねくれた息子がねぇ」と盛り上がる本家
そこへ、台所から妹の小町が、さらにキンキンに冷えたマックスコーヒーを両手にお盆に乗せてやってきた。
「はい、お父さんにお母さん、お疲れ様! そしてお兄ちゃんおかえりー!」
「お、小町、気が利くな」
「でしょ? ネットでも『比企谷家の血筋なら全員マックスコーヒーを血液代わりに流しているはず』って噂されてさ、本家でも常備しとこうって小町が発注したの!」
「勝手に実家の血液を改造するな……」
ボヤく八幡を完全に無視して、リビングのソファに腰掛けた家族たちは、次々とプルタブをプシュッと開けていく。
「それにしてもさー」
小町は冷えた缶を頬に当てながら、ニヤニヤとした笑みを父親に向けた。
「お兄ちゃん、最近世界中で大バズりじゃん? ニュースをつければ『現代のフィランソロピスト』だの『泥まみれの英雄』だのって、お父さん、自慢の息子なんじゃないの?」
父親はふんと鼻を鳴らし、新聞の続きに目を落としたが、その口元はどう見ても隠しきれない誇らしげなニヤケ顔だった。
「ふん、英雄だか何だか知らんがね……。昔からめんどくさがりで、ひねくれた屁理ばっかりこく面倒くさい奴だったのが、いつの間にか勝手に世界を引っかき回してるんだから、親としても何がなんだかさっぱり分からんわい」
「でも、お父さん、あのCMの時の背中、ちょっとかっこよくなかった?」
「……まあ、そこは男の親の欲目ってやつだな。あいつのあのトレンチコートの着こなしは、もう少しどうにかした方がいいとは思うが」
「おい、本人目の前にして勝手に品評会すんな」
八幡がジト目でツッコミを入れると、リビングにいる全員――父親も、母親も、小町も――声を上げてケラケラと笑い出した。
変わらない日常と、甘すぎる景色
世界を巻き込んだ大改革も、霞が関を震撼させた bureaucratic(官僚的)な謀略も、ワールドカップのピッチの歓喜も、パリコレのランウェイも。
すべてはあの東京の片隅、そしてこの千葉の静かな実家のリビングへと繋がっていた。
「ほら、お兄ちゃんも一本どーぞ!」
小町に無理やり手渡された黄色と茶色の缶を、八幡はしかたなさそうに受け取った。
「……はいはい、いただきますよ」
プシュッ。
心地よい音が響き渡り、濃厚な練乳とコーヒーの香りがリビングいっぱいに広がる。
テレビのリモコンを適当につけると、そこでは今日もどこかのチャンネルで、あの「泥まみれの男たち」や「未来を創る者たち」のCMが流れていた。
実家の家族に囲まれ、相変わらず散々な言われようをされながら、それでも手元の缶に入った甘い液体だけは変わらない。
世界がどれほど騒がしくなろうとも、この「比企谷本家」の変わらない空気感こそが、ひねくれたヒーローにとっての、一番落ち着く「現実」だった。
比企谷財閥と雪ノ下家を侵食する「甘い罠」
比企谷本家でのまったりとした家族団らんが「マックスコーヒー漬け」になってから数日。
その甘い魔手は、ついに日本経済の表と裏を完全に牛耳るふたつの巨大要塞――「比企谷財閥(旧ヒキガヤ財団)」の本部ビル、そしてあの厳格な「雪ノ下家」の本邸へと、瞬く間に浸透していった。
まずは霞が関を背後から操る「比企谷財閥」の本社オフィス。
高層階の重厚な役員フロアでは、かつて国の命運を握っていた厳めしい元官僚たちやエリートビジネスマンたちが、高級な特製グラスではなく、なぜか一様に黄色と茶色のストライプ柄の缶をデスクに突き立てて会議を行っていた。
「……むっ」
とある重役が、恐る恐るマックスコーヒーのプルタブを引き、一口飲んで渋い顔をした。
「甘い……甘すぎるぞ、これではまるで飲む練乳だ。こんなものが世界中で流行るなど、経済の原則を無視している……」
しかし、その数分後。
「……だが、この激務で疲れ果てた脳みそには、この暴力的な糖分が直接染みわたるな……。む、もう一本冷えたやつをもらえないか」
「同感です。気づけばこれなしでは午後のプロジェクトが回らない体になってしまった……」
「比企谷財閥の次なるグローバル戦略の裏には、もはやこの甘いコーヒーが不可欠である!」と、謎の拡大解釈をされた重役たちが、こぞってケース単位で買い占める事態になっていた。
雪ノ下家の優雅なるティータイムに降臨した「黄色い缶」
一方その頃、気品と伝統を重んじる「雪ノ下家」の本邸。
庭園の見える静かな和室、あるいは気品あふれる洋風のサロンでは、これまたとんでもない光景が繰り広げられていた。
「お母様、これをご存知かしら?」
優雅に紅茶を嗜む母の目の上に、雪ノ下陽乃がニヤニヤとした笑みを浮かべながら、コトリと一本の缶を置いた。
黄色と茶色のストライプ。圧倒的な庶民派、かつ強烈な甘さを誇るマックスコーヒーである。
「あら、陽乃。我が家でそのような……いかにも野暮ったいデザインの缶飲料をテーブルに置くのはお止めなさい。一体それは何なのです?」
母が少し眉をひそめると、隣に座っていた雪ノ下雪乃も、夫である八幡の好物であるそれを見つめながら、どこか複雑な、しかし隠しきれない愛着の滲む表情を浮かべた。
「まあまあ、そう言わずに一口飲んでみてよ。我が家の無愛想な旦那様――比企谷くんが、日々世界を救いながら愛飲している『奇跡のポーション』なんだから」
陽乃に促されるまま、母は仕方なく、しかし上品な手つきでその缶に口をつけた。
――数秒の沈黙。
母の美しい眉が、わずかにピクリと動いた。
「……これは……」
「お母様、いかがですか? あまりに甘すぎて、我が家の教育方針には反するかしら?」と雪乃が尋ねる。
母はそっと缶をテーブルに戻し、ふうっと小さく息をついた。
「……確かに、一口目はあまりの濃厚さに驚かされるけれど……不思議ね。後味が妙にすっきりしていて、日々のサロンの運営や膨大な書類仕事の疲れがスッと消えていくような気がするわ」
「あら、お母様も気に入ったの?」と陽乃が楽しそうに笑う。
雪乃も小さくため息をつきながら、「……仕方のない人ね。私も、彼に付き合わされて飲むうちに、いつの間にか自宅の冷蔵庫に常備するようになってしまったわ……」と、夫の好む甘さにすっかり染まった日常を静かに肯定した。
甘い蜜に支配された世界で
霞が関のエリートたちを唸らせ、雪ノ下家の優雅なティータイムすらも乗っ取り、世界中のモデルやサッカー選手、そして実家の家族までをも狂わせた「マックスコーヒー」。
そのすべての元凶であるビルの最上階で、八幡は山積みの書類の山に埋もれながら、ふうっと盛大にため息をついた。
「……なんだよ、財閥の会議室でも、雪ノ下家の食卓でも、みんなしてあの甘ったるい缶持ってやがる……。俺の周りはどうしてこう、毒されたように全員マックスコーヒー中毒になっちまうんだよ……」
「何を言っているのよ、あなた」
扉をノックして入ってきた雪乃が、手元にしっかりと黄色と茶色の缶を持ちながら、ふっと柔らかく、妻としての穏やかな微笑みを浮かべた。
「あなたが毎日そんなものを飲んでいるから、世界中があなたの背中を追いかけてしまうのよ。――ほら、愚痴を言っていないで、次の案件の書類に目を通しなさい、旦那様」
「はいはい、毎度お世話になっております、我が家の最高司令官殿」
やれやれと頭を掻きながら、八幡は自分のデスクの端にあった冷えた缶を手に取り、プルタブを引いた。
世界がどれだけ甘い蜜の魔力に屈しようとも、今日も今日とて、ひねくれた男の日常は、最愛の妻と共に変わらずに甘く、そして面倒くさく回っていくのだった。
夜のオフィスと、かつての夢の残骸
山積みの書類の山、世界中から鳴りやまない通知音、そしてどこまでも甘いマックスコーヒーの香りが漂うヒキガヤ財閥の最上階。
すべての案件が一段落し、静まり返った深夜のオフィスで、八幡はデスクの端でパソコンを叩く高柳の背中にふと声をかけた。
「おい、高柳」
「んだよ理事長。海外からの追加投資の件か?」
「いや、そうじゃねぇよ」
八幡は椅子に深く腰掛け、冷めかけたマックスコーヒーの缶を転がしながら、じっと男を見据えた。
「お前さ、いつも俺の尻拭いや財閥の実務を完璧に回してくれてるけどよ……。お前、本当は一体何がやりたいんだ? 今でも死ぬほど頑張ってくれてると思うけどさ、本来のお前の『やりたいこと』ってのは何なんだよ」
その問いに、高柳の手がピタリと止まった。
彼はゆっくりと振り返り、遠い昔――まだ彼が人生の進路に迷い、暗中模索していた青春の日の記憶を思い返すように、天井を見上げて小さく苦笑した。
「……そうだな」
高柳は眼鏡を押し上げ、ふっと遠い目をしながら呟いた。
「昔は……バカみたいにバンドとかやってたんだよ。音楽かなあ、本当は。かき鳴らすギターの音と、どうしようもない情熱だけで生きていけると思ってた時期もあったわ」
「……音楽、か」
八幡はしばらく天井を見上げたあと、ふっと片方の口角を上げた。
「なら、それをやろうぜ」
「……は? 今なんと?」
高柳が驚いて目を見開く。
「いや、だから、やろうって言ってんだよ。お前が作曲して、俺が歌詞を書く。ギターボーカルは俺がやる。ベースボーカルは、お前だ」
「ちょ、ちょっと待て理事長! 俺たちは今や世界を動かす財閥の要人とダークヒーローだぞ!? 今さらバンドなんて――」
「めんどくせぇ理屈はいいから、息抜きだ、息抜き。……どうせ人生、一度きりの余興だろ」
深夜のスタジオと、思いがけない「最強のドラマー」
その一言から、恐るべきスピードで計画(暴走)が実行に移された。
都内の隠れ家的なレコーディングスタジオ。
「いや、まさか我がダーク・リズムの神髄を、この私が叩き出す時が来ようとは……!」
そう言って気合十分でドラムのセットの前に陣取っていたのは、なぜか特製のリストバンドをつけた材木座だった。
「おい、デブ、本当に叩けるのかよ」と疑う八幡に、材木座はふんっと鼻を鳴らし、「フッ、侮るな! 創作の裏には常に強烈なビートが鳴り響いているのだ!」と言い放ち、いざスティックを握って音を出してみると――これが意外すぎるほどにキレが良く、正確無比でうまい。
「おい、材木座、お前……意外とすげぇな」
「ふっ、褒めても何も出んぞ、八幡!」
一方で、ベースを手にした高柳は、最初は「いやいや、俺が人前に立つなんて……」と照れくさそうにしながらも、いざ自分の手でコードを紡ぎ出し、かつて胸の奥に封じ込めていたメロディラインを弾き始めた瞬間、その瞳にかつての輝きが鮮やかによみがえっていた。
そして、ギターを構え、無愛想にマイクの前に立った比企谷八幡。
歌詞のノートには、彼が日々感じてきた理不尽、不器用な優しさ、そして泥まみれの現実を生き抜く者たちへのリアルな言葉が綴られていた。
「……いくぞ」
八幡の合図とともに、高柳の重厚なベースラインがうねりを上げ、材木座のタイトなドラムがそれに重なる。そして、歪んだギターの音色に乗せて、八幡の気だるくも心に突き刺さるような歌声がスタジオの空気を切り裂いた。
高柳がメインボーカルを支えるコーラスに加わり、二人の声が重なり合った瞬間、それはただの素人の気晴らしを遥かに超越した、圧倒的な「ロックンロール」になっていた。
変装のストリートライブと、ネットの「大爆発」
数日後。
顔を深く隠すハットとサングラスで完璧に変装した高柳(ベースボーカル)と、同じく怪しいトレンチコートの襟を立てた八幡(ギターボーカル)、そしてなぜか妙にノリノリでマスクをつけた材木座(ドラム)の3人組は、都内のストリート、あるいは深夜のライブ配信という形で、その音源を世界に向けて静かに放り投げた。
バンド名は、適当にその辺にあった缶を見て決めた――『MAX COFFEE SYNDICATE』。
派手な宣伝すらなし。ただ、その圧倒的な衝動と、どこか切なくて力強い音楽だけがネットの海に流れた瞬間。
世界は、またしても完全にフリーズした。
『待って……このベースとギターのクオリティ、ただの素人じゃないだろ……!?』
『ボーカルの気だるい声と歌詞のリアルさがエグすぎる……。これ、絶対に本物の修羅場を潜ってきた奴らの音だ……!』
『ドラムの安定感も地味にスゴいし、何なんだこの謎の超実力派バンドは……!!』
SNSのトレンドは一瞬で「#MaxCoffeeSyndicate」「#謎のトレンチコートバンド」「#高柳のベースがイケメンすぎる」といったワードで埋め尽くされ、再生回数は数時間で天井知らずに跳ね上がっていった。
レコーディングを終えた深夜のスタジオ。
機材を片付けながら、高柳は自分のベースをそっとケースにしまい、いつになく晴れやかな、心の底から満たされたような笑みを浮かべて言った。
「……なぁ理事長。……悪くねぇな、こういうのも」
八幡はといえば、ギターをストラップから外し、面倒くさそうに頭を掻きながら、いつも通りポケットからあの黄色と茶色の缶を取り出した。
「……おう。まあ、たまにはこういう無茶苦茶も悪くねぇよ」
プシュッ。
甘いコーヒーの香りがスタジオの隅々に広がる中、画面の向こうで世界中を再び熱狂の渦に巻き込んでいる自分たちの音楽を背景に、ひねくれたヒーローと、かつての夢を思い出した男の静かな夜は、最高に心地よく更けていくのだった。
世界を揺るがした「正体」の暴露
深夜のストリートライブの映像と、突如としてネットの海に放り投げられた謎のインディーズ音源――『MAX COFFEE SYNDICATE』。
その圧倒的なクオリティと、胸を抉るような生々しい歌詞は瞬く間に世界中を駆け巡り、再生回数は右肩上がりに爆発し続けていた。世界中の音楽メディア、SNS、果てはトレンドの分析家たちまでもが、この謎のバンドの正体を暴こうと血眼になっていた。
「おい、理事長……ネットの掲示板も海外の音楽フォーラムも、完全に祭り状態ですよ」
ヒキガヤ財閥のオフィスで、タブレットを眺めながら高柳が呆れたように笑った。
「『ボーカルの声がどう聴いても某ダークヒーローのアイツにそっくりだ』『いやいや、ベースの音がエリート官僚のそれじゃない』って、もう特定班が秒読みに入ってますよ」
山積みの書類から目を離し、八幡は面倒くさそうに頭を掻きながらため息をついた。
「……隠し通せるわけねぇだろ、あんな目立つ格好してストリートで叫んでたらな。めんどくせぇから、もうさっさと白状しちまえよ」
「はっ、それもそうだな」
高柳はニヤリと不敵に笑うと、自身の公式アカウント――ではなく、なぜかその辺にあったファンアカウントを乗っ取る勢いで、あっさりと「真実」をポストした。
『――あ、あのバンド、実のところ俺たち(比企谷八幡と高柳)だけど、何か文句あるか? ただ趣味で、息抜きにやったものだが……まあ、中々だろ』
その一言とともに投稿されたのは、レコーディングの合間に撮影された、ハットとサングラスで全力で変装している高柳と、相変わらずトレンチコートで仏頂面をしている八幡、そして後ろでなぜか満足げに腕を組む材木座のオフショットだった。
「音を楽しむ」ということ
その告白の瞬間、ネットのタイムラインは一度完全に静まり返り――そして、過去最大級の爆発を起こした。
『嘘だろ!? 本人たちじゃねぇか!! 世界動かしてる財閥のトップと側近が、なんで本気でバンドやってんだよwww』
『でも、あのクオリティで「趣味でやった」とか言われたら惚れるしかないんだが……!』
世界中から向けられる驚愕と称賛の嵐の中、八幡は自身のSNS、あるいは財団の公式配信を通じて、ぼそっと静かにこう付け加えた。
「……別に、プロになろうなんて思ってねぇよ。やりたいことに歳なんて関係ないだろ。……ほら、音を楽しむって書いて『音楽』だろ。自分が楽しめばいい。それで、聴いてくれる奴が少しでも面白がってくれたら、まあ、それだけで最高なんじゃねぇの」
そのあまりにも肩の力の抜けた、しかし本質を突いた言葉は、日々の激務や現実にすり減っていた世界中の大人や若者たちの心を、深く、優しく打ち抜いた。
さらに、彼らが奏でた楽曲の歌詞を改めてじっくりと聴き込んだリスナーたちからは、こんな声が続々と上がり始めた。
『待って、歌詞をよく聴いてみたら……これ、めちゃくちゃ深くね……? 泥まみれになりながら現実を生きるすべての大人に向けた応援歌じゃん……』
『ただの趣味のレベルを超えて、魂の叫びがそのままメロディになってる。泣けるわ……』
「#音を楽しむ」「#MAXCOFFEE_SYNDICATE」「#プロじゃなくていい」といったハッシュタグは、世界トレンドのすべてを再び完全制覇した。
次の休みの、小さな楽しみ
数日後。
世界中のバズと騒動が少しだけ落ち着いた深夜のオフィスで、八幡と高柳は相変わらず机に向かって仕事をしていた。
「……なぁ、高柳」
書類を一枚めくりながら、八幡がぼそっと呟いた。
「ん、なんです? また海外からの買収案件ですか?」
「いや……。次の休み、どうするよ」
高柳の手がわずかに止まり、彼はずっと隠していたとは思えないほど晴れやかな笑みを浮かべた。
「……そうだな。次の休みも、また新しい曲でも作るか」
「……だな」
八幡はデスクの端にあった、いつもの黄色と茶色の缶を手に取り、プシュッとプルタブを開けた。
甘くて濃厚なコーヒーの香りが部屋に広がり、パソコンのモニターの光が二人の影を静かに照らし出す。
世界を動かし、誰かの明日を創り続ける日々の合間に見つけた、ほんの少しの息抜き。
ひねくれたヒーローたちの奏でる新しいメロディは、きっと次の休日も、最高に気だるく、そして温かく鳴り響くのだった。
静かな夜のオフィスと、語り合う仲間たち
世界を揺るがしたストリートライブのバズが一段落し、霞が関の巨大な高層ビル群が夜の静寂に包まれていた頃。
ヒキガヤ財閥の本部オフィスの一角には、いつものメンバーが集まっていた。
デスクの上には、もちろん山のように積まれた書類の代わりに、数本のエネルギッシュな黄色と茶色の缶――マックスコーヒーが転がっている。
椅子に深く腰掛け、コーヒーを一口飲んだ比企谷八幡は、ぼうっと天井を見つめたあと、どこか気だるげに、しかし真摯なトーンで口を開いた。
「……なぁ」
その一言に、パソコンを叩いていた高柳の手が止まり、ソファで資料をめくっていた雪乃が顔を上げ、少し離れたところで腕を組んでいた葉山や、お茶を淹れていた小町、そして端で控えていた面々がそっと視線を向けた。
「俺さ、ふと思ったんだけどよ」
八幡はカップ、あるいは缶の飲み口を見つめながら続ける。
「俺たちは、なんだかんだで結構やれたよな。霞が関をひっくり返し、世界中で『和僑』のネットワークを広げ、教育のシステムも、若者たちの環境も、一歩……いや、何歩も前に進められた」
そこには、かつて「ぼっち」を貫いていたひねくれた少年の面影はなく、世界を動かした中心人物としての確かな足跡があった。
「……で、その先だ」
八幡は仲間たち一人ひとりの顔を見渡した。
「正直、俺個人の最初の夢なんて、とっくの昔に叶ったと言っていい。平穏に暮らしたいとか、誰にも邪魔されない日常が欲しいとか、そういうのは全部クリアした。……いや、むしろ想像以上にめんどくさい方向に爆発しちまったけどさ」
自嘲気味に片方の口角を上げたあと、八幡の瞳に真っ直ぐな光が宿る。
「ただ、その先なんだよ。家族の幸せ、自分の幸せ、そして社会としての夢……。それをやり切ったとして、じゃあお前らはどうなんだ?」
八幡は少しだけ言葉を区切り、まっすぐに問いかけた。
「お前らの夢はなんだよ。……今の話、ちょっと聞かせてくれよ」
それぞれの「夢の先」
オフィスの静寂の中に、八幡の問いかけが優しく、しかし重みを持って響いた。
最初に小さく笑ったのは、ベースを抱えていた高柳だった。
「俺の夢、ですか……。昔は音楽だけで生きていきたかったし、今こうしてまた音が鳴らせるだけで十分すぎるほど満たされてますよ。でも……そうだな。あんたが作ったこのクソ面倒くさい、だけど最高に面白い世界を、俺が後ろから一番近くで支え続けること……それが、今の俺の新しい夢かもしれないですね」
続いて、ソファに座る雪乃が、ふっと穏やかで気品のある笑みを浮かべた。
「私個人の夢は、あなたと同じよ。あなたが創り出したこの世界で、あなたと、そして家族や仲間たちと穏やかな日常を紡ぎ続けること。……それ以上の贅沢を望むのは、少し欲張りすぎかしらね」
「ちょっとお姉ちゃんたち、重いよー!」
間に割って入るように、小町がスマホをパッと閉じながら元気よく手を挙げた。
「小町の夢はね! お兄ちゃんがまた変なところで無理したり、一人で背負い込んだりしないように監視しつつ、世界中のマックスコーヒーを全部小町のブランドにしちゃうこと! ……ってのは冗談で、みんなが笑って美味しいコーヒーを飲める場所を、ずっと守っていくことかな!」
最後に、少し離れたところで腕を組んでいた葉山が、いつもの爽やかな笑みを浮かべながら静かに頷いた。
「僕たちの夢、か……。昔は『期待に応えること』がすべてだったけれど、今は違う。君が蒔いたそのひねくれた優しさの種が、世界中でどれだけの花を咲かせるのか――それを最前線で見届けながら、僕も僕なりの足跡をこの世界に残すこと、かな」
ひねくれたヒーローの、次の目的地
仲間たちが語るそれぞれの「夢の先」を聞きながら、八幡はしばらく黙っていた。
「……なんだよ、お前らな」
照れくさそうに頭を掻きながら、八幡はため息をつく。
世界を救い、経済を回し、音楽を奏で、そして誰よりも温かい家族や仲間に囲まれているこの現実。
「……まあ、悪くねぇよ」
八幡はデスクの上の冷えたマックスコーヒーを手に取り、プルタブを引いた。
シュプッ、と心地よい音が夜のオフィスに響き渡る。
「夢の先なんて大層なことはわかんねぇけどさ。……とりあえず、目の前にあるこの甘ったるいコーヒーを飲み干したら、また次の面倒くさい明日を始めるとするか」
仲間たちがそれぞれの笑みを返し、グラスや缶を軽く合わせる。
ひねくれた少年の物語は、終わりを迎えることなく、最高の仲間たちと共に、まだ見ぬ明日へと続いていくのだった。
総理大臣室の重圧と、一服の缶コーヒー
すべての仲間たちと「夢の先」を語り合った翌日、あるいは数日後。
比企谷八幡が足を踏み入れたのは、日本政治の最高中枢――霞が関の総理大臣室だった。
重厚な扉が閉ざされ、室内に二人きりになった瞬間、空気の密度が一段と増したのを感じる。
そこには、連日の激務と国内外のプレッシャーで、背中がすっかり丸まり、深い疲労の色を隠しきれない内閣総理大臣が座っていた。
「……よく来てくれた、比企谷君」
総理の声音には、いつものテレビカメラの前で見せるような力強さはなく、ただの「一人の疲れ果てた男」の枯れた響きがあった。
総理は分厚い資料の山から顔を上げ、じっと八幡を見つめながら、絞り出すように問うた。
「私は……いや、この日本という国は、これからどうすればいいのだろうね。君なら、この先の世界がどう見える?」
その問いに、八幡は相手の背負っているものの途方もなさを肌で感じ取りながら、ふっと小さく息をついた。
「……そんなの、わかりませんよ」
飾らない、素っ気ないその一言に、総理がわずかに目を見張る。
「俺とあんたの二人だけでここでこんな風に話したところで、世界が変わるわけでも、完璧な答えが出るわけでもないです。……それに」
八幡はポケットから、いつもの見慣れた黄色と茶色の缶を取り出し、デスクの端にコトリと置いた。
「俺が比企谷財閥の要職や、色々な肩書を仮に明日投げ出して辞めたところで、この国も世界も、なんだかんだで勝手に回っていきますよ。……あんたも同じだ。仮にここで総理を辞めたって、また次の誰かがその椅子に座って、同じように頭を抱えながらも日本は回っていく」
言葉を選びながらも、八幡はまっすぐに総理の目を捉えた。
「肩に力が入りすぎなんじゃないですかね。自分がいなくても世の中はちゃんと回る。……そう思わないか、総理」
やっと零れた、一つの「笑み」
総理は、しばらく言葉を失っていた。
国を背負い、自分がすべてを決定し、自分が倒れたら終わりなのだという強烈な強迫観念に、ずっと囚われ続けていた男にとって、その「自分がいなくても世は回る」という言葉は、突き放しているようで、実はこの上なく優しかった。
数秒の沈黙のあと、総理の肩から、すーっと目に見えない重荷が抜け落ちていった。
「……ははっ」
乾いた、しかしどこか心の底から救われたような笑い声が、静かな部屋に漏れた。
総理は深い溜息とともに椅子にもたれかかり、長年の緊張がほどけたように、ようやくフッと柔らかく笑った。
「……そうだな。私一人が消えたところで、日本は明日も何事もなく朝を迎えるか。……まったく、君という若者は、相変わらず斜に構えているようで、人の心を解すのが上手い」
「いや、ただの事実を言っただけです。……で、どうですか」
八幡は机の上に置いた缶を指で軽く弾きながら、いつもの面倒くさそうな、けれどどこか誘うような目を向けた。
「執務室の窓から見える景色もいい加減飽きたろ。……堅苦しい話はここまでにして、自販機でもどこでもいいから、たまには外の空気でも吸いながら、コーヒーでも飲みに行きませんか」
総理は驚いたような顔をしたあと、今日一番の、いや、ここ何年間で一番自然な笑みを浮かべながら立ち上がった。
「……そうだな。悪くない提案だ。付き合おう、比企谷君」
最高権力者と、ひねくれたダークヒーロー――。
霞が関の重苦しい空気を抜け出し、二人並んで缶コーヒーを買いに行くその背中は、どんな政治的会談よりも、世界を少しだけ軽く、穏やかに変えていくのだった。
霞が関の片隅と、原点への問い
夕暮れ時の霞が関。総理大臣室から抜け出した二人が足を向けたのは、官庁街の喧騒から少し離れた、緑豊かな中庭のベンチだった。
夕日に染まる空の下、スーツ姿の総理とトレンチコートの八幡は、それぞれ手に持った缶――総理にとっては見慣れない、しかしどこか懐かしい黄色と茶色のストライプ柄の缶を静かに見つめていた。
しばらくの沈黙のあと、八幡は缶のプルタブに指をかけながら、ぽつりと切り出した。
「……総理。一つ聞いていいですか」
「なんだい?」
「あんたは、何故政治を志したんですか。総理大臣になったら、本当は一体何がしたかったんですか」
その直球すぎる、そして現在の地位にいる人間にとってはあまりにも重すぎる問いに、総理は小さく息を呑んだ。驚いたように八幡の方を向いたが、八幡の目は冷やかしでも挑発でもなく、ただフラットに、真摯に答えを待っていた。
総理は視線を再び夕空に戻し、遠い過去の記憶を手繰り寄せるように、ゆっくりと語り始めた。
「……私にも、若い頃があったよ。理想に燃え、この国を、そして人々の暮らしをもっとまっとうなものに変えてみせると、血気盛んに演説して回っていた頃がね」
総理の声音には、いつもの政治家の仮面が剥ぎ取られた、どこか枯れた、しかし温かい響きがあった。
「何がしたかったか……。最初は、誰しもが理不尽に泣き寝入りしなくていい社会を作りたかったんだ。強者が弱者を踏みにじり、声なき者の声がかき消されていくような政治を、根本からひっくり返したかった。……いつの間にか、その『現実』を維持することだけで手一杯になって、そんな初心すら忘れていたがね」
理不尽と、大臣の椅子
総理の言葉に、八幡は小さく頷いた。
「……俺は、ずっと理不尽が嫌いでしたよ。今でも嫌いだ」
八幡はマックスコーヒーを一口含み、その強烈な甘さを喉に通しながら続ける。
「特に、子どもたちが理不尽に選択肢を奪われたり、泣かされたりする世界なんてクソだと思ってきた。だから、財団の仕事も、大臣の椅子も断らなかった。……まあ、あんたが強引に押し込んできたってのもあるけどさ」
ふっと自嘲気味に笑った八幡に、総理は苦笑交じりに「すまなかったね」と返した。
「でも、おかげであんたが俺を推してくれたから、やれることも増えた。子どもたちの未来を縛る理不尽を、ほんの少しだけ削り取ることはできたと思う」
八幡は真っ直ぐに総理を見据えた。
「あんたの在任期間があとどれくらい残ってるのか、俺にはわからない。政治の寿命なんて、世間の風向き一つでいつ終わるか分からないからな」
だからこそ、と八幡は続けた。
「終わりが見えてきたからこそ、あの頃の初心を思い出してみてもいいんじゃないですかね。……あんたが本当にやりたかったこと、この国の子どもたちに残したかったものをさ」
総理の瞳と、訪れる静寂
八幡の言葉は、総理の胸の奥底に眠っていた古い炎に、そっと息を吹き込むようだった。
総理は何も言わず、ただゆっくりと目を閉じた。
脳裏に蘇るのは、まだ政治の泥にまみれる前の、純粋だった理想の数々。自分がこの国に託したかった未来の姿。
「……そうだな」
総理は静かに目を開けると、その瞳には先ほどまでの疲れの色ではなく、不思議なほど澄んだ光が宿っていた。
彼は手に持ったマックスコーヒーの缶を軽く握り締め、どこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「初心を思い出す、か。……若い君に諭されるとはね。だが、悪くない。残り時間がどれだけあろうと、私が私であるうちに、もう一度だけあの頃の夢に向き合ってみるさ」
夕暮れの中、二人は並んで静かに缶を傾けた。
世界を動かす最高権力者と、ひねくれたヒーロー。それぞれが胸に抱く「理不尽のない世界」への思いは、甘いコーヒーの香りと共に、夕闇の風に溶けていくのだった。
帰還と、王様の休息
総理大臣との重い面談を終え、すべての公務と雑務を片付けた夜遅く。
比企谷八幡は、ようやくの思いで我が家の玄関の扉を開けた。
「ふぅ……」
靴を脱ぎながら、思わず深い大きな溜息が漏れる。
霞が関の頂点で国のトップと腹を割って話し、世界中のトレンドを背負い、財閥を動かす――そんな非日常の連続は、どれだけ気だるげに振る舞っていようとも、流石に骨の髄まで疲労を蓄積させていた。
「流石に、総理とガッツリ話すのは肩がこるな……」
トレンチコートを脱ぎ捨ててリビングへと足を踏み入れた八幡を見るなり、待ち構えていたかのように声をかけられた。
「お疲れ様、お兄ちゃん……じゃなくて、我が家の偉大なるお殿様?」
「お疲れさま、八幡。なんだか今日は一段と背中に重荷を背負ってきた顔をしているわね」
リビングのソファに陣取っていたのは、なぜか絶妙なタイミングでスタンバイしていた雪ノ下雪乃、雪ノ下陽乃、そして川崎沙希の3人だった。
「お前ら、なんだその目は……」
「いいからそこに座りなさい。首筋がガチガチじゃないの」
促されるままソファに腰を下ろすと、背後から雪乃、陽乃、そして川崎が、それぞれのタイミングでスッと回り込み、八幡の凝り固まった肩や首筋にそっと手を添えた。
――グッ、と絶妙な力加減で揉みほぐされていく。
「うっ……そこ、そこだ……。生き返る……」
「ふふ、世界を救うダークヒーローも、お家に帰ればただの肩こりのおじさんね」と陽乃が楽しげに笑い、川崎が無言で絶妙なツボを押しながら「もっと強くするか?」と小声で気遣ってくれる。
極上のマッサージと、信頼できる仲間(そして家族)に囲まれたその贅沢すぎる空間に、八幡は思わずだらけきった声で呟いた。
「……なんかこうしてると、俺はまるで王様にでもなった気分だな」
お姫様たちに囲まれて
その八幡の気だるげな呟きに、背後で肩をもんでいた雪乃が、ふっと涼しげな、しかしどこか含みのある笑みを浮かべた。
「王様、ねぇ……」
雪乃は八幡の耳元に少しだけ顔を近づけ、静かなトーンでツッコミを入れた。
「あなた、ついさっきまで総理大臣と対等に渡り合って、日本の行く末を語り合ってきたんでしょう? 今更何を言っているのかしら。元・内閣の重要閣僚なんて、実質的に王様とあまり変わらない権力を持っているのではないかしら?」
「いやいや、政治の権力と我が家の力関係は別問題だろ……」
苦笑しながら八幡が言い返そうとしたその瞬間、陽乃が「あ、それもそうねぇ」と楽しそうに相槌を打つ。
だが、八幡はふっと力を抜き、心地よい疲れに身を任せながら、ソファの背もたれに頭をもたせかけた。
「……まあ、権力なんてどうでもいいさ。……それに、俺が王様だなんて冗談はさておき」
八幡は鏡越し、あるいは振り返るように、自分を囲む彼女たちをふっと見据えた。
「こんな美人なお姫様たちに囲まれて肩を揉まれてるんだから、肩書なんてどうでもいいくらいには、十分すぎる特等席だろ」
その不意打ちの、しかし妙に真っ直ぐな言葉に、リビングの空気がほんの少しだけ止まった。
「っ……な、何を照れくさいことをサラッと言っているのかしら、この人は……!」
雪乃がわずかに頬を赤らめながら、揉む手に思わず力が入り、「いったたた、待て沙希そこは痛い!」と八幡が悶絶する。
陽乃は「あらあら、お上手こと〜」と楽しそうに声を上げて笑い、川崎も耳まで真っ赤にしながら「……バカか、お前は」とボソッと呟きつつ、より丁寧に肩をほぐし続けた。
世界を揺るがし、どれほど大きなうねりの中心にいようとも。
このリビングに戻れば、ひねくれたヒーローの居場所はいつだってここにあった。甘いコーヒーの香りと、温かな温度に包まれながら、穏やかな夜はゆっくりと更けていくのだった。
答えを探し続けるという「答え」
穏やかな温もりに満ちたリビングで、心地よい疲れに身を任せていた夜。
背後で手を動かしていた彼女たちがそれぞれの作業に戻り、部屋が静かな落ち着きを取り戻したその時、八幡はふと、手元に置いてあった黄色と茶色の缶を見つめた。
「……結局は、答えを探し続ける。それが答え、か」
誰に聞かせるでもなく、あるいは自分自身に言い聞かせるように、ぽつりと呟いたその言葉。
それは一見すると、どこか諦めにも似た、あるいは堂々巡りの結論を前にした八幡らしいひねくれた独り言のようにも聞こえた。
「正解」なんてどこにもなくて、どれだけ世界を動かそうが、総理と未来を語り合おうが、朝がくればまた新しい面倒くさい問題が転がり込んでくる。悩み、立ち止まり、また歩き出す。その繰り返しから逃れられる日はきっと来ない。
けれど、その瞳に映るものは、決して絶望や虚無などではなかった。
八幡の目に映るもの
今の八幡に見えているのは、「終わりがないことへの絶望」ではなく、むしろ「終わらないからこそ続く、愛おしい日常の続き」だった。
かつては「答えのない世界」に絶望し、一人で殻に閉じこもることですべてから身を守ろうとしていた少年。
しかし、数々の修羅場を潜り抜け、霞が関の要人を動かし、世界中で「MAX COFFEE」の甘い香りを漂わせ、そして何より――こうして自分の背中を預けられる場所を手に入れた今、彼の視線の先にあるのは、「不完全な現実をそれでも生きていく人間たちの足跡」だった。
迷い続けること。悩み続けること。不器用に誰かとぶつかり、間違いながらも前を向くこと。
そのすべてが間違いなく「生きている」ということであり、彼が守りたかった「理不尽のない世界」の本質だった。
「……ま、綺麗事並べたところで、明日もどうせ面倒くさい仕事が山積みなんだろうけどな」
八幡は小さく息を吐き、自嘲気味にふっと笑った。
その呟きは、単なる気だるい愚痴だったのか、それとも新しい決意だったのか。
答えを探す旅に終わりはない。だからこそ、彼は今日もその手から甘い缶コーヒーを離さず、ゆっくりと顔を上げるのだった。
街の片隅と、ヒーローの背中
すべての騒動がひとまずの落ち着きを見せ、世界がいつもの、あるいは少しだけ形を変えた日常を取り戻したある日のこと。
比企谷八幡は、特に目的もなく、ただぼーっと夕暮れの街を一人で歩いていた。
ふと足を止めたのは、近所のショッピングモールの特設ステージ。
そこでは、どこかのローカルな戦隊ヒーローショーが開催されていた。怪人役のスーツアクターに投げ飛ばされながらも、主人公の赤いヒーローが「みんなの笑顔を守るためなら、何度だって立ち上がる!」と泥まみれになりながら立ち上がり、子どもたちの黄色い歓声を浴びている。
――「お前こそが、俺たちの知る最高のヒーローだ、八幡!」
かつて、材木座が熱っぽく叫んだ言葉が、ふと脳裏をかすめた。
(……ヒーロー、ねぇ)
八幡はトレンチコートのポケットに手を突っ込み、そのステージを冷めたような、しかしどこか遠い目で見つめながら、小さく息を吐いた。
世界を動かす財閥の要人として祭り上げられ、霞が関を揺るがし、世間からはダークヒーローの象徴などと持て囃されている自分。
だが、そんな大層なものと、目の前で必死に怪人と戦っている安っぽい特撮のヒーローとでは、あまりにもかけ離れすぎていて、ちゃんちゃらおかしい。
「……全然、違うよな」
自分で自分にツッコミを入れるように、ぼそっと呟く。
自分がやってきたのは、大義名分を掲げた正義の使者なんかじゃない。ただ、目の前の理不尽が気に入らなくて、自分の周囲の大切なやつらが泣くのが面倒くさくて、ひねくれたやり方で遠回りに問題の解決を「自爆めいて」引き受けてきただけだ。
泥臭くて、効率が悪くて、カッコいいセリフなんて一言も吐けない、ひねくれ者の「ぼっち」の延長線上にすぎない。
けれど――。
ステージの上のヒーローが、仲間のために歯を食いしばって再び拳を握りしめた瞬間、八幡の胸の奥がわずかに、しかし確実に熱を帯びた。
男の子なら誰もが、一度は夢見る。
世界を救い、誰かを守り、最後にすべての悪を打ち倒す「本物のヒーロー」への憧れ。
たとえどれだけ大人びたふりをしても、ひねくれた理屈を重ねて世界を斜めに見ていたとしても、その少年の日の憧れが心の片隅にこびりついていることを、八幡は否定できなかった。
(……俺も、な)
全く、と心の中で呆れながら、八幡は苦笑した。
自分は何を柄にもなく感傷に浸っているんだか、と首を横に振る。
やがてショーがクライマックスを迎え、子どもたちの「がんばれー!」という純粋な声援が響き渡る中、八幡はくるりと背中を向けた。
ステージの壇上に向かって振り返ることもなく、ただトレンチコートの襟を立てながら、ポケットの中で握りしめたマックスコーヒーの缶の感触を確かめる。
「……まあ、がんばれよ」
誰に宛てたでもなく、ステージの上の役者たちへ、あるいは自分自身へ向けてそう小さく呟くと、八幡は夕暮れの街へと歩き出した。
特別じゃなくていい。世界を救う救世主じゃなくてもいい。
ただ、目の前の日常と、自分の手の届く範囲の温もりを守るために――ひねくれたヒーローは、今日もだるそうに、しかし確かな足取りで家路へと向かうのだった。
千葉発、泥臭い「新・ご当地ヒーロー」計画
夕暮れの街で本物のヒーローショーの背中を見送り、家に帰ってからもなぜかその残像を引きずっていた比企谷八幡。
数日後、ヒキガヤ財閥の本部オフィスにいつものメンバー――雪乃、高柳、材木座、そして小町を招集した八幡は、冷えたマックスコーヒーの缶をテーブルにドンと置き、仏頂面で切り出した。
「……おい。急に呼び出して悪いんだが」
「なによ、お兄ちゃん。改まって。また世界を揺るがす面倒くさいプロジェクトの始まり?」と、小町が怪訝そうに首を傾げる。
「いや、世界規模の壮大な話じゃねぇよ。……千葉の話だ」
八幡は腕を組み、ふうっとため息をついた。
「この前、そこらのショッピングモールで偶然ヒーローショーを見かけてさ。……案外、ヒーローって馬鹿にできないなって思ってな。子どもたちに対して、まっすぐに『助ける』とか『守る』とか、そういう分かりやすいメッセージを伝えられる媒体って、今の世の中案外少ないだろ。……で、だ」
八幡はジト目で仲間たちを見回した。
「千葉を拠点にした、新しい『ご当地ヒーロー』を作れねぇかと思ってな。何か面白いアイデア、ないか?」
仲間たちの暴走するクリエイティビティ
その八幡の提案に、オフィスの空気が一瞬で変わった。
特に、かつての中二病スピリットを全開にした男が、ガタッと勢いよく椅子から立ち上がった。
「ふはははっ! 待っていたぞ八幡! ついに我が千葉の地に、真のダークナイト、否――次世代の救世主を降臨させる時が来たというわけだな!!」
「おい、材木座、お前は少し座れ。まだ何も決まってない」
「ぬぅ、しかし設定こそ命! 例えば、漆黒のトレンチコートに身を包み、常に手にはマックスコーヒーを携え、悪の組織の理不尽を『ひねくれた説教』と『冷徹な経済制裁』で物理的に粉砕する孤高の戦士……その名も『キガヤ・ダーク・セッター』!」
「絶対子どもが泣くわ、そんな悪役みたいなヒーロー。却下だ」
即座にツッコミを入れた八幡に対し、高柳が腕を組みながら不敵に笑った。
「まあ待てよ理事長、材木座の案はともかくとして、『千葉のご当地×リアルな泥臭さ』ってコンセプトは悪くない。例えば、スーツのデザインはあえてスタイリッシュにしすぎず、どこか現場で汗を流す人間たちのリアルな重みを感じさせるものにする。武器は……そうだな、特製の巨大缶型のバズーカとかどうですか?」
「それもうヒーローじゃなくてただのテロリストだろ……」
呆れる八幡をよそに、今度は雪乃が静かに手を挙げた。
「……子どもたちに『守る』や『助ける』を伝えるのなら、派手な必殺技や暴力で解決するだけではなく、知恵を絞って理不尽な大人たちを論破し、子どもたちの未来の選択肢を守り抜く『知性派のローカルヒーロー』というアプローチはどうかしら」
「それ、ヒーローというか、ただの俺の劣化コピーじゃねぇか……」
「あら、あなたよりは遥かに品行方正で子どもウケも良いはずよ」と雪乃は涼しげに微笑む。
「あ、お兄ちゃん! 小町のアイデア聞いて!」
スマホをパッと掲げた小町が、キラキラとした目で割り込んできた。
「モチーフはやっぱり千葉の特産品! 落花生と、あとはやっぱり黄色と茶色のマックスコーヒーカラー! 必殺技は『濃厚練乳・スイートバインド』で動きを縛って、最後はみんなで『マックス・ピース!』ってポーズを決めるの! 絶対グッズ売れるよ!」
馬鹿げているけど、本気でやる
次々と飛び出す斜め上の、しかしどこか本気で熱を帯びたアイデアの数々。
「お前ら、人の話を聞いてるのか……?」と頭を抱えつつも、八幡の口元にはいつの間にか、かすかな苦笑が浮かんでいた。
世界を動かし、総理と未来を語り合い、大人の事情と泥まみれの現実を渡り歩いてきた自分たちが、今さら地元の千葉で「ご当地ヒーロー」を作ろうとしている。
客観的に見れば、最高に馬鹿馬鹿しくて、最高に無駄な企みだ。
けれど。
(……子どもたちに、か)
理不尽な世界に放り出される子どもたちが、いつか少しでも「守られている」と感じられる瞬間を作れるなら。
自分がかつて欲しかった、あるいは誰かに救ってほしかった背中を、ほんの形だけでも誰かに見せられるなら――それは案外、悪くない悪ふざけかもしれない。
「……わかったよ」
八幡はデスクに置いてあったマックスコーヒーの缶を手に取り、パキッとプルタブを開けた。
「お前らのそのふざけた……いや、割と本気っぽいアイデア、採用してやる。ただし、ダサすぎるデザインと無駄な予算オーバーは俺が容赦なく却下するからな」
その言葉に、オフィスにいた全員が「やったねお兄ちゃん!」「さすが生徒会長!」「我がダーク・ヒーローに栄光あれ!」と一気に活気づいた。
千葉の街に突如として現れるかもしれない、最高にひねくれていて、最高に泥臭い「新・ご当地ヒーロー」。
その企画書の1ページ目は、甘いコーヒーの香りと共に、今日も賑やかに、そして少しだけ温かく書き始められていくのだった。
仮面ライダーという「リアル」
千葉のご当地ヒーロー計画のアイデアが各自の暴走によってカオスな方向へ転がり始めた頃、八幡はふと手元のマックスコーヒーの缶に目を落とし、静かに腕を組んだ。
「……お前ら、ヒーローをただの子供騙しのアニメや特撮だと思って馬鹿にしてるだろ」
オフィスの空気がふっと緩んだその瞬間、八幡の低く落ち着いた声がリビングやオフィスの静寂に落ちた。
全員の視線が自然と八幡に集まる。高柳が眼鏡を押し上げ、雪乃が静かにペンを置いた。
「……何よ、お兄ちゃん。急に真面目な顔して」
小町が首を傾げると、八幡は缶を机に置き、窓の外の夕暮れの街を見据えながらぽつりと言った。
「仮面ライダーって知ってるだろ。あの、改造人間にされた悲劇のヒーローが、自分のために使われるはずだった力を悪のために戦うために使う、昭和の特撮の原点だ」
「急にどうしたのよ、特撮オタクの目覚め?」と陽乃が面白そうに笑うが、八幡の目は真剣だった。
「あの仮面ライダーの最初の発案者……石ノ森章太郎をはじめとするクリエイターたちは、戦争の時代、あるいはその直後の理不尽と暴力が剥き出しになった世界を実際に体験した世代だ。国に裏切られ、理不尽に命を奪われ、どうしようもない絶望の淵に立たされた人間がどれだけいたか」
八幡の言葉に、オフィスにいる全員が自然と聞き入っていた。
「彼らが描いたのは、ただの派手な勧善懲悪のファンタジーなんかじゃない。『こんなにも理不尽に満ちた絶望的な世界で、もしも、誰かが助けに来てくれたら』――そんな、極限の孤独と恐怖の中で絞り出された、切実で生々しい『願い』そのものだったんだよ」
八幡はふうっと小さく息をつき、自嘲気味に片方の口角を上げた。
「……大人はよく『ヒーローなんてフィクションだ、現実はそんな甘くない』って言うけどさ。違うんだよな。現実がどうしようもなく理不尽で、誰も助けてくれないからこそ、人はヒーローを必要とする。……だから、ヒーローはある意味で、どのフィクションよりもよっぽどリアルなんだよ」
ひねくれたヒーローの、本当の理由
世界を動かし、霞が関の要人たちと渡り合い、数々の修羅場や理不尽をその身で受けてきた八幡だからこそ、その言葉にはどこかズシリと重い実感が伴っていた。
自分が「ご当地ヒーロー」を作ろうと思ったのは、ただの悪ふざけでも、単なるノリでもない。
世界がどれほど歪んでいようとも、理不尽に立ちすくむ誰かにとっての「救い」の形が、もし目の前のヒーローの姿をとってそこに存在してくれるなら。それは大人が作るべき、最もまっとうな現実の防壁になり得るのではないか――そんな思いが、心の奥底にあったからだ。
「……まあ」
八幡は気まずくなったのか、頭をポリポリと掻きながら、いつもの調子に戻そうと肩をすくめた。
「だからって、うちのヒーローが落花生の着ぐるみ着て『マックス・ピース!』とか叫ぶのは、流石にちょっとどうなのとは思うけどな」
「ちょっとお兄ちゃん! せっかく小町が考えた最高にキャッチーな設定をディスらないでよ!」
「いや、落花生ベースにトレンチコートを着せるのは案外いけるかもしれないぞ?」と材木座が真剣にメモを取り始める。
「ふふっ……」
そんなカオスな議論が再び巻き起こる中、雪乃はふっと柔らかく、愛おしそうな笑みを浮かべながら八幡を見つめた。
誰よりもひねくれていて、誰よりも他人の痛みに敏感で、誰よりも「理不尽」を許せない男。
ヒーローなんて似合わないと本人は言うけれど。
――そんなあなた自身が、私たちにとっての「リアルなヒーロー」なのだと、彼女は言葉にせずとも確信していた。
甘いマックスコーヒーの香りが漂う部屋で、千葉の新しいヒーローを巡るバカバカしくも温かい企みは、今日も少しずつ、確かな形へと進んでいくのだった。
ニューヨークの窓から見える「等身大の孤独」
千葉のヒーロー計画を巡るカオスな議論の最中、ふと窓の外の夜空を眺めていた雪ノ下陽乃が、面白そうにクスクスと笑いながら八幡の方を振り返った。
「ねえ、八幡くん。今の仮面ライダーの話、すごく納得しちゃったわ。じゃあさ、アメコミの代表格である『スパイダーマン』についてはどう考えてるの? 彼なんかは、昭和の特ソン的なダークさとはまた違うでしょう?」
陽乃のその不意の問いに、八幡は「……スパイダーマンかよ」と小さく呆れたような息を吐きながらも、トレンチコートのポケットに手を突っ込んで少しだけ考える素振りを見せた。
「あいつの背景を知ってたら、あんな派手な赤と青のタイツを着てビル群を飛び回る姿も、見え方がだいぶ変わるけどな」
八幡はコップ、あるいは手元のマックスコーヒーの缶に視線を落としながら語り始めた。
「スパイダーマン――ピーター・パーカーの原点は、とにかく『圧倒的な無力感と自己責任の呪縛』だ。普通の、いじめられっ子で冴えない高校生が、ある日突然特殊な力を手に入れる。で、調子に乗って自分のことばかり考えていたら、自分の見逃した強盗に大切な家族――育ての親であるベンおじさんを殺されてしまう」
その言葉に、オフィスの空気が少しだけ引き締まる。
「『大いなる力には、大いなる責任が伴う』。あれはただのかっこいいセリフじゃなくて、ピーターにとっては一生背負い続けなきゃいけない、あまりにも残酷な十字架なんだよ」
普通の若者が背負う「日常のままならなさ」
八幡はソファの背もたれに体を預け、どこか共感を覚えるような、少し気だるげな視線を宙に向けた。
「仮面ライダーが『理不尽な悪の組織に人生を奪われた悲劇』の象徴だとしたら、スパイダーマンはもっと身近で、もっと生々しい『普通の青年のままならなさ』の象徴だ。彼は世界を救うスーパーマンなんかじゃない。家賃の支払いに頭を悩ませ、恋人との関係に悩み、バイトに遅刻しそうになりながら、それでも『自分がやらなきゃ誰がやるんだ』ってボロボロになりながらマスクを被る」
「……スーパーヒーローなのに、ものすごく人間臭いのね」
雪乃が静かに呟くと、八幡は小さくうなずいた。
「そう。あいつが愛されてるのは、無敵だからじゃなくて、どれだけ殴られても、どれだけ世間から誤解されて悪者扱いされても、這い上がってまた街を守るからだ。傷だらけのピーター・パーカーの素顔こそが、あの赤と青の仮面の下にある現実なんだよ」
陽乃は腕を組み、ふーんと感心したような、それでいてどこか面白がるような笑みを浮かべた。
「なるほどねぇ。綺麗事だけじゃなくて、生活の苦しさや個人の無力感を抱えたまま戦う……それって、なんだかすごく『あなた』っぽくない?」
「……は? どこがだよ。俺があんな派手なタイツ着てピョンピョン飛び回るわけねぇだろ」
即座に顔をしかめて否定する八幡に、小町がニヤニヤしながらスマホを突きつけた。
「お兄ちゃん、それ良いアイデア! 千葉のご当地ヒーロー、衣装は落花生ベースじゃなくて、タイトな赤と茶色のスパイダーマン風スーツに決定ね!」
「勝手に話を進めるな! 絶対にやらないからな!」
甘いマックスコーヒーの香りが漂う中で巻き起こる、相変わらずの賑やかなツッコミと笑い声。
けれど、その誰もが気づいていた。
理不尽な現実を前にしながらも、傷だらけになりながら「誰かのための選択」を背負い続けるその生き様こそが、目の前のひねくれたヒーロー自身の姿と重なっているということに。
悲劇の改造人間と、孤独な「ファイズ」の系譜
八幡のそのポツリとした呟きに、オフィスの空気がふっと静まり返った。
「初代仮面ライダーと……『仮面ライダー555(ファイズ)』が似てる?」
高柳が腕を組み、わずかに眉をひそめる。
「確かに、どちらも『怪物の力を使いながら、人間のために戦う』という基本構造は同じですが……昭和の原点と、平成のデジタル怪奇譚(ダークファンタジー)では、アプローチがかなり違く見える気もしますがね」
その高柳の疑問に、八幡はフッと小さく息を吐き、机の上に置いてあったマックスコーヒーの缶を指で軽く弾いた。
「大枠のデザインや時代背景はそりゃ違うさ。だけどよ、根本にある『コンセプトの残酷さ』っていう意味では、あの二つは本質的に同じライン線上にあるんだよ」
八幡は少し視線を落とし、頭の中でそれぞれの物語の構造を整理するように語り始めた。
「初代ライダーの本郷猛は、自分の意志とは無関係に悪の組織『ショッカー』に拉致され、肉体を改造されて怪物にされた。人間の尊厳を奪われ、絶望の淵に突き落とされた男が、それでも『人間としての心』を失わずに組織へ反旗を翻した」
「……ええ、それはさっきあなたが言っていた通りね」と雪乃が静かに頷く。
「じゃあ、『ファイズ』はどうだ?」
八幡は続ける。
「ファイズのモチーフは『オルフェノク』っていう、人間が進化(あるいは変異)の果てに行き着く別の種族だ。主人公の乾巧をはじめ、ファイズのギアを使って戦う連中も、その多くは自分がいつ怪物になってしまうか分からない恐怖や、人間社会から排除されるかもしれない孤独を抱えている。……つまり、彼らもまた『自分の意志とは無関係に、人間の枠組みから外された存在』なんだよ」
「怪物」の力で、人間を守るという矛盾
「初代ライダーが『改造人間』という身体的な悲劇を背負ったなら、ファイズは『オルフェノクの記号(力)を宿した者たち』という、より現代的でアイデンティティの揺らぎに近い悲劇を背負っている。どちらも、『人間に仇なす怪物の力を持ちながら、誰よりも人間として生きようとする』っていう、どうしようもない矛盾と孤独を抱えているんだ」
八幡はそこまで言うと、少し自嘲気味に片方の口角を上げた。
「敵を倒すために、自分自身が恐れていた『怪物(力)』を使わなきゃいけない。戦えば戦うほど、自分が人間から遠ざかっていくような恐怖と隣り合わせ。……そういう、綺麗事だけじゃ片付かない泥臭さと不条理を抱えてるところが、あの二つのコンセプトの共通項ってわけだ」
「……なるほどねぇ」
陽乃は感心したように目を細め、肘をつきながら八幡を見つめた。
「『人間に戻れないかもしれない恐怖』を抱えながら、それでも守るべきもののためにその力を使う……。それって、なんだかすごく痛々しくて、だからこそ目が離せないテーマよね」
「……まあな」
八幡はそれ以上深く語るのをやめ、缶のプルタブに手をかけた。
シュプッ、と静かな音が響き、甘くて濃厚なコーヒーの香りが広がる。
自分が背負ってきた役割や、財閥のトップとして、あるいはダークヒーローとして裏で汚れ仕事を片付けてきた立ち回りも、どこかそれに似ているかもしれない――そんな気恥ずかしい本音は、飲みかけの缶の中にそっと沈めておく。
「さて、と」
八幡は立ち上がり、いつも通りの気だるげなトーンに戻った。
「いつまでも特撮の考察会をしてる暇があったら、千葉のご当地ヒーローの具体的な企画書をまとめろよ。材木座、お前の変な設定は半分削るからな!」
「なっ、我がダーク・セッターの魂のアイデンティティがぁっ!」
理不尽な世界を生き抜くためのリアルな「ヒーロー」の形を巡る議論は、今日も相変わらずのドタバタと共に、賑やかに続いていくのだった。
矛盾から生まれる、千葉県民の「正義」
特撮ヒーローの深い考察から一転、再び「千葉のご当地ヒーロー」の具体的な設定会議へと戻ったオフィス。
八幡は腕を組み、真顔のまま、堂々とその言葉を言い放った。
「とりあえず、決め台詞を考えた」
「ほう、我らが暗黒騎士の言霊……聞かせてもらおうではないか!」と材木座が身を乗り出す。
八幡は咳払いを一つして、低く落ち着いた「ヒーロー声」を作って言った。
「『千葉も東京も関係ない。どっちも守る』――だ」
一瞬の静寂。
それに最初に反応したのは、雪ノ下陽乃だった。彼女はお腹を抱え、文字通り腹を抱えて大爆笑し始めた。
「あははははっ! 何それ、最高! 千葉のご当地ヒーローなのに、東京まで守っちゃうの!?」
「笑い事じゃねぇよ」
八幡はジト目で陽乃を見据えながら、至極真面目にその理由を語り始めた。
「いいか、千葉県民が抱える最大のアンビバレンスであり、誇りであり、そして矛盾の象徴……それは『東京ディズニーランド』だ。千葉の浦安にあるのに、堂々と『東京』を名乗っている。千葉県民はその理不尽な名称を受け入れつつも、あの夢の国を愛し、守り抜いてきたんだ」
八幡は熱く語る。
「つまり、千葉のヒーローは『名前』や『境界線』なんていうちっぽけな枠組みには囚われない。自分のアイデンティティが矛盾していようが、理不尽だろうが、目の前の笑顔を守るためにはどっちも守り抜く。……どうだ、これこそが真のヒーローの姿だろ」
「境界線」を越えるヒーローの誕生
八幡のその斜め上すぎる、しかし妙に説得力のあるプレゼンに、仲間たちは次々と反応を示した。
雪乃の冷静なツッコミ:「……コンセプトの深さは認めるけれど、特定の夢の国やその運営企業(オリエンタルランド)を連想させる設定は、大人の事情で一瞬にして消されるわよ。ヒーローが法務部に倒されるなんて悲劇、見たくないわ」
小町の称賛:「お兄ちゃん、それめっちゃ良い! 『千葉のご当地』って枠を自分からぶっ壊しにいくスタイル、なんか逆に新しいかも!」
高柳の納得:「なるほど……先ほどの『ファイズ』や『スパイダーマン』の話とも通じますね。自身の存在そのものが矛盾を抱えている(千葉なのに東京を名乗る)からこそ、誰かのために戦える、と」
「……だろ?」
八幡は少し照れくさそうに頭を掻いた。
ヒーローとは、そもそも現実社会の枠組みからはみ出した異端の存在だ。
千葉県民特有の自虐ネタと見せかけて、「どっちも守る」と言い切るその背中には、彼がこれまで歩んできた「境界線を引かずに手を差し伸べる」という彼自身の生き様が、無意識のうちに投影されていた。
「ま、著作権ギリギリのチキンレースになるかもしれないが、コンセプトとしては悪くねぇだろ」
八幡がニヤリと笑うと、オフィスは再び、「どうやって夢の国から訴えられずにそのテーマを映像化するか」という極めて現実的でくだらない、しかし熱い議論に包まれていった。
霞が関から、ワールドワイドな「特撮ヒーロー」へ
「――で、スーツの素材はネオプレンにして、発色は少しマットな……って、おい」
現実的な特撮の制作費や法律面の話で盛り上がりかけていたオフィスの中、ふと八幡が放ったその一言に、全員の動きがピタリと止まった。
「……海外、ですか?」
高柳が眼鏡のブリッジを指で押し上げ、思さずといった様子で聞き返す。
「ああ」
八幡はいつもの気だるげなトーンのまま、ポケットに手をつっこんで続けた。
「さっきスパイダーマンの話をしただろ。アメコミのヒーローってのは、基本的に『等身大の悩みを抱えた若者が、世界中で通用する普遍的な痛みや責任を背負って戦う』からこそ、国境を越えて愛されてる。だったらさ……日本発の、この泥臭い『千葉と東京の矛盾を背負ったヒーロー』が海外に出ていったって、別に面白くないか?」
その発言に、一同はハッとした。
思えば、ヒキガヤ財閥や和僑のネットワークを通じて、彼らが動かしてきた経済や社会改革は、すでに日本国内だけに留まらず、世界的なうねりになっていた。
裏で世界を動かすダークヒーローたちが、今度は「ご当地ヒーロー」というエンターテインメントの皮を被せて、大真面目に世界へ殴り込みをかける――。
考えれば考えるほど、最高にイカれていて、最高にロマンのある話だった。
「日本のヒーロー」が海を渡る理由
「お兄ちゃん……それ、めちゃくちゃカッコいいよ!」
小町がスマホを放り出し、目を輝かせて八幡に詰め寄る。
「だって、日本の特撮って海外でもオタク文化としてすっごい人気あるじゃん! そこに『千葉なのに東京を名乗る』っていう世界共通のシュールなアイデンティティと、八幡たちが培ってきた『泥臭いリアルな人間ドラマ』が合わさったら、絶対バズるって!」
「確かに……」
雪乃も、わずかに口元に笑みを浮かべながら頷いた。
「海外のヒーローは『選ばれた強者』か『超人』であることが多いけれど、日本の特撮ヒーローには、改造されたり、あるいは日々の生活に苦しみながらも『誰かを守るために立ち上がる』という、個人の内面的な葛藤が強く描かれているわ。それは、言語や文化の壁を越えて共感を呼ぶはずよ」
「ふはははっ、素晴らしい!」
材木座がデスクを叩いて立ち上がる。
「我がダーク・セッター……いや、世界をまたにかける『MAX・CHIBA・HERO』の誕生だな! 英語の決め台詞はどうする? 『I protect both Chiba and Tokyo!』か!?」
「……英語になると急にダサいな」と八幡が鋭くツッコミを入れる。
高柳はすでに手元のタブレットで、海外のインディーズ映画の配給ルートや、ネット配信プラットフォームの動向を弾き始めていた。
「ふむ……海外進出を視野に入れるなら、変にローカライズしすぎない方がいいですね。『千葉と東京』という謎のローカルな矛盾を、あえてそのままスタイリッシュなアクションとシリアスな人間ドラマで包み込む。そうすれば、海外のファンは『なんだこの狂った設定は……だが最高にクールだ!』って飛びつくはずです」
ひねくれたヒーローの世界進出計画
世界中のトレンドを巻き起こし、総理を唸らせ、果ては深夜のストリートライブでネットを爆発させた男たちが、今度は「ローカルヒーローの海外進出」という壮大で馬鹿げた企みに本気で乗り出そうとしている。
八幡は、目の前でワイワイと盛り上がる仲間たちを見回し、ふっと呆れたように、けれどどこか嬉しそうに息を吐いた。
「まったく……。千葉の片隅で子どもたちのために作ったはずが、気づいたらニューヨークやロンドンの映画館のスクリーンで、トレンチコートを着た奴が落花生カラーのバイクで暴走するハメになるのかよ」
「それ、最高じゃないですか理事長」と高柳がニヤリと笑う。
八幡はデスクの上のマックスコーヒーの缶を手に取り、パキッと小気味よい音を立ててプルタブを開けた。
「……まあいいさ。どうせやるなら、中途半端なもの作って世界に笑われるより、盛大にぶちかましてやる方が俺ちらしくっていいだろ」
甘いコーヒーを一口飲み、八幡は未来の世界地図を見据えるように、静かに目を細めた。
霞が関から始まったひねくれたヒーローたちの物語は、いよいよ日本という島国を飛び出し、世界の夜空へとその翼を広げようとしていた。
材木座義輝の「名言」と、甘すぎる正義
「……待て、一同! 今、我が脳裏に天啓が閃いたッ!!」
千葉の海外進出計画で盛り上がるオフィスの中、突如として材木座義輝が片手で顔を覆い、中二病全開のポーズで叫んだ。
「なんだよ急に。またロクでもない設定か?」とジト目で見る八幡に対し、材木座はふんっと鼻を鳴らし、いつになく真剣な、しかしどこか熱のこもった瞳でこう言い放った。
「子どもに世界は甘くていい。苦いコーヒーみたいな世界は、大人になってからで充分だ。――どうだ!?」
その瞬間、オフィスの空気がピタリと止まった。
高柳がペンを止め、雪乃がわずかに目を丸くし、小町が「……え?」と瞬きをする。
八幡は持っていたマックスコーヒーの缶をテーブルに置き、信じられないものを見るような目で材木座を見つめた。
「……おい、材木座」
「ふっ、どうだ我が名言は! 絶品だろう!」
「……お前、たまにはまともなこと言うじゃねぇか」
八幡は驚きを隠せないまま、思わずふっと小さく苦笑した。
甘いコーヒーが意味するもの
「子どもに世界は甘くていい」
それは、数々の理不尽を目の当たりにし、大人の世界の泥臭さや苦さを嫌というほど味わってきた八幡たちだからこそ、重みを持って響く言葉だった。
苦い現実、理不尽な仕組み、思い通りにならない社会――そんなものは、いずれ否応なしに大人になった子どもたちが背負うことになる。だからこそ、せめて子供たちが夢見るヒーローの物語や、過ごす世界くらいは、どこまでも甘く、優しく、理不尽のないものであってほしい。
自分がいつもポケットに入れて飲んでいる、あの子供っぽくて甘ったるいマックスコーヒーのように。
「……いいじゃねぇか、それ」
八幡は腕を組み、ふうっと息を吐きながら頷いた。
「コンセプトはそれに決定だ。世界中の子どもたちに、まずはたっぷり甘い夢を見せてやろうぜ」
「ですね、理事長。海外のキッズたちも、きっとその『甘さ』には抗えないはずです」と高柳がニヤリと笑い、雪乃も「たまには、あなたたちのこういう直感が一番正しいこともあるわね」と優しく微笑んだ。
世界を動かす要人たちが、深夜のオフィスで本気で考えた「子どもたちのための甘い世界」。
ひねくれたヒーローたちの企みは、最高に甘くて少し切ない物語を乗せて、いよいよ現実の形へと動き出していくのだった。
「0か1か」の境界線を描くデザイン
材木座の思いがけない名言にオフィス全体が静かな感動と納得に包まれる中、デザイン担当として急遽スケッチブックを広げたままでいた小町が、ピンと人差し指を立てて声を上げた。
「お兄ちゃん、今の名言聞いてたら、ヒーローのスーツのデザインが一気に決まったよ!」
小町はサラサラとペンを走らせ、あっという間に幾何学的でありながらどこか泥臭さを残したヒーローの全身図を描き上げて見せた。
「見て! 左右非対称のデザインなの。左半身が真っ白。右半身が真っ黒。そして、その中央を走るラインが、あのマックスコーヒーを彷彿とさせる『茶色』!」
一同がそのスケッチをのぞき込む。
ただ奇抜なだけではない、洗練されつつも強烈なメッセージ性を秘めたデザインだった。
「……白と黒、か」
八幡が腕を組み、スケッチを見つめながら呟く。
小町は誇らしげに胸を張り、その意図を熱っぽく語り始めた。
「そう! 世の中の仕組みって、すぐに『正義か悪か』『勝ちか負けか』『0か1か』のデジタルな白黒で片付けられがちじゃん? ネットでも現実の社会でも、大人たちはすぐにはっきり答えを出したがる。でもさ、人間ってそんなに単純じゃないし、世界だって割り切れないことだらけでしょ?」
小町は真ん中の茶色のラインをトントンと指差した。
「だから、真ん中の茶色は、『0でも1でもない、その中間のアナログ』を表してるの! 白黒はっきりさせない、グレーじゃなくて温かみのある『茶色』。それって、あの甘いコーヒーのそれであり、迷いながら生きる『人間のそれ』そのものなんだよ!」
アナログな人間たちのヒーロー
その小町の言葉に、オフィスは再び深い静寂に包まれた。
ただの「ご当地ヒーローの衣装」という枠を遥かに超越した、あまりにも鮮烈で、あまりにも彼らの生き様に寄り添ったコンセプトだった。
白黒つけられない曖昧さや、迷いや、矛盾を抱えながら生きる人間たち。
綺麗事だけでも、冷徹な合理主義だけでもない、その「中間」の泥臭さを愛し、そのままでいいと肯定してくれるヒーロー。
高柳が感嘆の息を漏らし、眼鏡の奥の目を細める。
「……参りましたね。子ども向けでありながら、現代を生きる大人たちの胸を一番えぐるデザインだ。これなら海外のシビアなアート系やインディーズ映画の文脈でも、強烈なフックになりますよ」
雪乃もふっと穏やかに微笑み、スケッチに優しく視線を落とした。
「ええ、とても素晴らしいわ小町。白黒の二者択一を迫る冷たい世界に対して、この茶色のラインが『迷ってもいいのだ』とそっと教えてくれる……そんな優しさを感じるデザインね」
八幡は、目の前で誇らしげに笑う妹の描いたスケッチと、いつもの手元のマックスコーヒーの缶を交互に見つめた。
「……まったく」
八幡は照れ隠しのように頭を掻き、いつもの気だるげな、けれどどこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「お前ら、いつの間にそんな深いこと考えられるようになったんだよ。……上出来すぎて、文句の付け所がねぇじゃねぇか」
「でしょー! お兄ちゃんの妹だもん!」
小町がえへんと胸を張る。
白と黒の境界線に引かれた、あたたかな茶色のライン。
千葉の片隅から世界へ向けて発信されるその「アナログなヒーロー」は、理不尽に満ちた世界を生きるすべての人々の心に、そっと甘い奇跡を届けようとしていた。
動き出すチームと、形になるアイデア
小町が描き上げた「白、黒、そして中央の茶色」というコンセプトのスケッチ。
その鮮烈なデザイン案をベースにして、いよいよ具体的な造形や細部のディテールを詰める段階へと入った。
「よし、大枠のコンセプトはこれで決まりだ」
八幡は腕を組み、オフィスに控えていたメンバーを見渡しながら指示を飛ばす。
「具体的なスーツの素材感や細かいパーツの配置、アクションを考慮した可動域なんかのデザインの詳細は――海老名、材木座、川崎。お前らに任せる。それぞれの視点から意見を出し合って、形にしてくれ」
その指名を受けた海老名姫菜、材木座義輝、川崎沙希の3人が、それぞれの持ち味を発揮すべく、ふっと表情を引き締めて一歩前に出た。
「ふふっ……任せてよ、八幡くん!」
海老名が不敵な笑みを浮かべ、ノートをパッと開く。
「キャラクターとしての『萌え』と『ダークな文脈の交差が生み出すドラマチックなシルエット』、そして海外市場でも映えるエッジの効いたデザインラインは、この私が完璧にプロデュースしてあげる! 妄想が止まらないわ……!」
「ぬぅ、任せろ八幡!」と材木座が胸を叩く。
「我が中二病の全知識を動員し、悪の理不尽を叩っ斬るにふさわしい、かつ重厚感のあるアーマー構造を提案しよう! 茶色のラインが持つ『アナログの魂』を、いかにガジェットやギミックに落とし込むかが腕の見せ所だな!」
そして、一歩引いた位置から静かに頷いていた川崎が、落ち着いたトーンで口を開いた。
「……派手すぎたり、子供が動きにくかったりするのはダメだろ。素材の耐久性とか、実際に子どもが触れたときの安全性、あとはアクションのしやすさもちゃんと考えないと。そのあたりは私が実用面からしっかりチェックしてやるよ」
それぞれの持ち寄る「こだわり」
オフィスのテーブルを囲み、さっそく3人による熱い議論が始まった。
海老名は、視覚的なインパクトと、海外ウケも意識したスタイリッシュなライン取りを次々とスケッチに書き込んでいく。
材木座は、設定上のロマンや、左の白・右の黒が織りなす対比に独自のガジェット設定(マックスコーヒーを模したエネルギーチャージャーなど)を盛ろうとして海老名に「そこは引き算でしょ!」とバッサリ斬られる。
川崎は、実物を製作する際の生地の伸縮性や、縫製のリアリティ、現場での着心地や動きやすさを冷静に突っ込み、現実的な落としどころを探っていく。
絶妙なバランスで噛み合っていくその様子を、八幡は少し離れたソファから眺めていた。
「……うまく回ってやがるな」
かつては一匹狼を気取り、一人で何もかもを抱え込もうとしていた自分が、今やこうして信頼できる仲間たちに仕事を任せ、みんなで一つの面白いものを作り上げている。
その光景は、彼がこれまでに歩んできた道のりの確かな証明でもあった。
雪乃が淹れてくれた温かいお茶のカップを手に取りながら、八幡はふっと息を漏らす。
「どうやら、ただの絵空事じゃなくて、ちゃんとした『形』になりそうね」
隣に並んだ雪乃が、楽しげにスケッチを覗き込みながら呟いた。
「ああ。……まったく、柄にもねぇ大仕事になっちまったけどよ」
八幡は、目の前でワイワイと意見を交わしながら形を作っていく仲間たちの背中を見つめ、いつもの気だるげな、けれどどこか誇らしげな笑みを浮かべた。
白と黒の境界線を引き、その真ん中にあたたかな茶色を宿した新しいヒーローは、確かな熱量を帯びて、現実の世界へと産声を上げようとしていた。
比企谷本家での反響と、世代を超える「ヒーロー」
千葉発、世界視野の「新・ご当地ヒーロー」計画――その具体的なデザインやコンセプトが固まり、いよいよ企画書として最終的な形になった頃。
八幡は、そのデータを携えて、普段はあまり足を踏み入れない「比企谷本家」の重厚な日本家屋へと赴いていた。
財閥の枢要を担う者たち、そして一族の長老たちが居並ぶ厳かな座敷。
緊張感の漂う空気の中、八幡が無造作にタブレットを差し出すと、そこに映し出されたのは、白と黒の左右非対称なボディに、中央を走るあたたかな「マックスコーヒー色の茶色のライン」をまとったヒーローの雄姿だった。
一族の重鎮たちが、じっと画面を見つめる。
そして数秒の沈黙の後、最長老である一人の実力者が、しみじみとした、しかしどこか楽しげな声を漏らした。
「……面白い。実に、比企谷の若者らしい、ひねくれた優しさの詰まった企みじゃわい」
その一言に、座敷の空気がふっと和らいだ。
「ほう、これが今の若者たちが考えるヒーローか。……で、原点はあの『仮面ライダー』の系譜というわけか」
別の初老の幹部が、面白そうに髭を撫でる。
「怪物の力を宿しながら人間のために戦う、か。……いやはや、懐かしい名前を聞いたものだ」
長老たちの記憶と、「ヒーローの必要性」
座敷の隅で静かに控えていた八幡がわずかに眉を上げると、先ほどの最長老が遠い目をしながら、ぽつりと呟いた。
「……ワシらのような戦中・戦後の世代になればなるほどな、こういう物語の重みが身に染みるんじゃよ」
皺の刻まれた顔に、かすかな実感が浮かぶ。
「明日どうなるかも分からない、理不尽と暴力が剥き出しになった世界を生き抜いていた頃、『もし、目の前に誰かが助けに来てくれたら』――そんな救いを、何度心の中で願ったことか知れん。……ヒーローなんて子供だましだと思っていたが、あの頃のワシらにとっては、それこそが唯一の切実な現実だった」
その言葉に、部屋にいた中年層の幹部たちも深く頷く。
「確かにそうですね。子供の頃、夢中で画面の向こうのヒーローに憧れ、正義や誰かを守るということの原点を教わった気がします」
「男というものは、いくつになってもこういう『熱いもの』に心を揺さぶられる生き物らしいな」と、別の幹部が苦笑しながらも、どこか誇らしげにタブレットの画面を覗き込んでいる。
長老たちも、現役を引っ張る中年たちも、そして現場で走り回る若者たちも。
世代の垣根を越えて、目の前にある「泥臭くて甘いヒーローの企み」に、誰もが少年の日のような胸の高鳴りを隠せずにいた。
男心をくすぐる、理不尽な世界への反逆
「……まあ、ジジイたちのノスタルジーに付き合わせる気はなかったんだがな」
八幡はポケットに手を入れたまま、ふっと息をついた。
「ただ、やるからには中途半端なものは作らない。日本だろうが海外だろうが、理不尽なルールで縛られた世界に、この『茶色のライン』をぶち込んでやるつもりだ」
その八幡のどこか不敵で、けれど確信に満ちた物言いに、座敷の長老たちは「ほう」と目を細め、やがて豪快に笑い声を上げた。
「いいだろう! 財閥の総力を挙げて、その『甘くて苦いヒーロー』の船出をバックアップしてやろうじゃないか!」
世界を動かす最高権力者たちと、ひねくれたダークヒーロー。
世代を越えて男たちの心を鷲掴みにしたその企みは、いよいよ後ろ盾をも得て、現実の社会を揺るがす本物のうねりへと変わり始めたのだった。
頼らない強さと、一族の感心
一族の長老や幹部たちがすっかり乗り気になり、財閥の総力を挙げてバックアップすると息巻いたその瞬間。
八幡はまったく動じない様子で、むしろやれやれといった風に片手をひらひらと振った。
「いやいや、そんな大げさな話にしないでくれよ。わざわざ資金を出してもらいに来たんじゃない。ただ、こういう面白い企みを始めるから、一応の『ご意見番』として感想を聞きにきただけだからさ」
その予想外の返答に、座敷の空気が一瞬で「おや?」という雰囲気に包まれる。
「ほう……。財閥の看板や潤沢な資金を使えば、もっと派手に、もっと効率よく世界中に仕掛けられるはずだがね?」
最長老が面白そうに目を細めて問いかけると、八幡はいつもの気だるげなトーンのまま、淡々と答えた。
「そりゃあ、金や権力に頼れば手っ取り早いだろうさ。でも、広報のネットワークくらいは手伝ってもらうと思うけど、肝心の根幹までおんぶにだっこじゃ意味がない」
八幡はふっと視線を落とし、自分たちの手で作り上げた「茶色のラインが入ったヒーローのスケッチ」を見据えた。
「自分たちで考えて、仲間とぶつかって、泥臭く形にしたからこそ意味があるんだろ。……それに、何でもかんでも上に頼る癖がついたら、肝心な時に自分で立てなくなる。自分の足で歩けないヒーローなんて、それこそ偽物だろ」
「自立」という名の美学
その八幡の言葉を聞いた座敷の長老たちや幹部たちは、しばしの静寂のあと、やがて深く納得したように顔を見合わせ、そして心底感心したように小さく笑った。
「……なるほどな」
先ほどの長老が、ふっと目を細めて髭を撫でる。
「資金や権力に溺れず、あくまで自分たちの足で立つ。……甘い夢を見せるヒーローを作ろうという男が、一番地に足がついた現実を生きているというわけか」
「まったく、相変わらず可愛げのない、しかし見事な若者じゃわい」
別の幹部も苦笑交じりに首を横に振るが、その眼差しには確かな信頼と、どこか誇らしげな色が宿っていた。
甘いコーヒーを愛し、理不尽な世界をひねくれた優しさで渡り歩く男。
誰かに頼るのではなく、自分の仲間たちと手を取り合って「自立」した道を選ぶその姿勢こそが、彼らを支える最大の誇りなのだと、一族の者たちは静かに理解していた。
「まあ、広報の手伝いくらいはいくらでも引き受けよう。若者たちの好きに暴れるがいい」
「あざっす。……じゃ、失礼するわ」
頭を軽く下げて、八幡はさっさとその場を後にする。
重厚な日本家屋の廊下を歩きながら、トレンチコートのポケットに手をつっこみ、彼は小さく息をついた。
過保護な大人たちをサラリとかわし、あくまで自分たちの手の届く範囲から世界を揺るがしていく。
甘くて苦い、彼らだけのヒーロー計画は、誰の力にも寄りかからず、確かな足取りで次のステージへと進んでいくのだった。
少年が見た「本物の背中」
比企谷本家の重厚な玄関を抜け、石畳の庭をあとにしようと歩いていた八幡の背中に、トコトコと軽やかな足音が追いすがってきた。
「……あのさ!」
振り返ると、そこには本家の親戚筋にあたるのだろう、少しあどけなさを残した一人の少年が立っていた。手には、先ほど座敷で見せたヒーローのスケッチのコピーを一枚、大事そうに握りしめている。
八幡は足を止め、ジト目を少しだけ和らげながら見下ろした。
「なんだよ、お前。長老たちのお使いか?」
「ち、違うよ!」
少年は少し顔を赤らめながらも、まっすぐに八幡の目を覗き込んだ。さっきまで大勢の大人たちを前に威厳を見せていた一族の重鎮たちとは違い、目の前のこの「お兄ちゃん」は、どこか気だるげで、なのに自分と同じ目線で話してくれる。
少年は、さっき大人が感心していた言葉を思い出していた。
財閥の力も、権力も、お金も、簡単に借りようとしない。ただ自分の仲間たちと、自分たちの足で、泥臭く「面白いこと」をやろうとしている姿。
「……さっき、おじいちゃんたちに『人に頼る癖がつくと自分で立てなくなる』って言ってたじゃん」
少年はぐっと拳を握りしめ、憧れを隠しきれない瞳で八幡の背中を見上げた。
「……かっこいいって、思ったんだ。大人の言うことなんて全部正しいと思ってたけど、自分の足で立つって決めてるお兄ちゃんは、なんか……すっげえカッケーって」
少年の心のなかに生まれたヒーロー
その真っ直ぐすぎる少年の言葉に、八幡は思わず動きを止めた。
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
まさか、一族の厳格な大人たちを煙に巻いたつもりだった言葉が、こんな直球で子供の心に刺さっているとは思ってもみなかった。
照れくささと気恥ずかしさが同時に押し寄せ、八幡は頭をポリポリと掻きながら、ふっと苦笑を浮かべた。
「バカか、お前。あんなひねくれた大人のどこがかっこいいんだよ。俺がやってるのは、ただ自分のやりたいように勝手に暴れてるだけだ。もっとこう、テレビに出てくるような分かりやすい超人とか、派手に空を飛ぶやつにでも憧れとけっての」
「ううん、違うよ!」
少年は首を強く横に振った。
「空を飛ぶヒーローより、理不尽なことに文句言いながらも、ちゃーんと自分の足で立って守りたいもののために動く人のほうが、よっぽど本物だもん!」
その言葉に、八幡はそれ以上言い返す言葉を失ってしまった。
――理不尽に満ちた世界で、もし誰かが助けてくれたら。
かつて自分が思っていた、あるいは大昔の創作者たちが描いた「ヒーロー」の原点。
まさか自分が、誰かにとってそんな存在の片隅に引っかかろうとは微塵も思っていなかった。
「……まったく」
八幡はポケットから手を抜き、少年の頭にぽんと軽く手を置いた。乱暴すぎず、かといって優しすぎない、いつもの不器用な触れ方で。
「……ガキが生意気なこと言うな。風邪ひくから早く中に入れよ」
それだけ言うと、八幡は再びくるりと背中を向けた。
「じゃあな」
手を軽く上げて歩き出すその背中を、少年はいつまでもじっと見つめていた。
テレビの中の派手な特撮ヒーローでもなく、教科書に載るような偉人でもない。
白と黒の境界線を引き、真ん中にあたたかな茶色のラインを宿した「ひねくれたヒーロー」の背中が、少年の胸の奥に、消えない憧れとしてしっかりと焼き付いていた。
試作第一号、完成
比企谷本家での一件からしばらく後。
ヒキガヤ財閥の地下ラボ、あるいはいつもの秘密基地めいた一室に、メンバーが再び集結していた。
中央のステージに鎮座しているのは、マネキンに不気味なほどの存在感で着せられた一式――そう、ついに完成した「新・ご当地ヒーロー」の試作スーツだった。
「……おお」
最初に声を上げたのは、材木座だった。彼は目を輝かせ、まるで神聖な美術品を拝むかのようにスーツの周りをぐるぐると回り始めた。
「す、素晴らしい……! 左半身の純白が正義の潔白を象徴し、右半身の漆黒がダークサイドの哀愁を纏う! そして何より、その中央を走るリッチな茶色のライン……これぞまさに『アナログの魂』の具現化ではないか!」
小町も両手を叩いて大喜びだ。
「やったー! スケッチ通りじゃん! カッコいいし、どこかシュールだし、これ絶対子どもたちの間でバズるよ!」
完璧で、ちょっとシュールな「現実」
一同がその出来栄えに感嘆する中、実用面や安全性を厳しくチェックしていた川崎沙希が、腕を組んでふうっと息をついた。
「見た目は派手だけど……ちゃんと動きやすさや耐久性も考えてあるから安心して。素材は伸縮性と強度のバランスが良い最新のネオプレンを使ってるし、視界もこれまでの特撮スーツよりは確保できてる。……まあ、中に着る人間が変な動きをしなければ、だけどな」
川崎がちらりと八幡に視線を送ると、その隣で海老名がニヤニヤと笑いながら近づいてきた。
「ねえねえ八幡くん。コンセプトもデザインも完璧に形になったわけだしさ……せっかくの試作第一号なんだから、ちょっと試着して動きやすさを確認してみない? ね? その『茶色のライン』がどう映えるか、ぜひ見てみたいなぁ!」
「……は? なんで俺が着るんだよ」
八幡はトレンチコートのポケットに手を突っ込んだまま、一歩、いや二歩ほど露骨に後ろへ下がった。
「嫌だね。俺が着たら『理不尽に立ち向かうヒーロー』じゃなくてただの『怪しい不審者』だろ。そもそも、こんなタイトな赤と茶……じゃなかった、白と黒のスーツ、絶対に似合わないっての」
「えー、いーじゃんお兄ちゃん! 似合う似合う、絶対似合うから!」
小町がスマホのカメラを構えてスタンバイし、高柳も「理事長の華麗なアクション、ぜひ世界配信に向けてデータ取りしておきたいですね」と眼鏡を光らせる。
雪乃はふっと上品に微笑みながら、「自分の足で立つヒーローの第一歩よ? 試着くらい、快く引き受けてあげたらどうかしら?」と優しく、しかし逃げられないプレッシャーをかけてきた。
(……こいつら、楽しんでやがるな)
逃げ場のない包囲網の中、八幡は目の前にある「白と黒と茶色」の特製スーツと、スマホを向けたちょっと楽しそうな仲間たちの顔を交互に見据えた。
ため息とともに、八幡は観念したように頭をポリポリと掻く。
――理不尽な世界に立ち向かうための「甘くて苦いヒーロー」の第一歩は、こうして、最高にバカバカしくも温かい笑い声に包まれながら、泥臭く動き出そうとしていた。
渋い声と、あまりにも似合いすぎる現実
「……はぁ。分かったよ、着りゃいいんだろ、着りゃ!」
逃げ場のない空気と、スマホを構えてニヤニヤする妹や仲間の視線に負け、八幡は渋々その特製スーツを手にとってフィッティングルームへと消えていった。
数分後。
ガチャリ、とドアが開く音とともに、試作第一号のスーツを身にまとった八幡が姿を現した。
「……おい、これキツくねぇか? 動きづらいんだけど」
左半身の真っ白な装甲と、右半身の漆黒のボディ。そして、その全身の中央をまっすぐに貫く、リッチな「マックスコーヒー色」の茶色のライン。
見た目のシュールさとスタイリッシュさが奇跡的なバランスで融合したその姿に、一瞬、オフィスの空気が静まり返った。
「おお……!」と材木座が感嘆の声を漏らし、小町が「すっごい! カッコいいかも!」とパシャパシャとスマホのシャッターを切る。
だが、一番の衝撃は、その直後に訪れた。
周囲の視線に気まずくなったのか、八幡はトレンチコートの代わりに羽織っていた黒いジャケットの襟を正し、低いトーンで、しかしどこか気だるげに、あの決め台詞を吐き捨てたのだ。
「……千葉も東京も関係ない。どっちも守る、だ」
その声は、いつもよりも低く、ハスキーで、数々の理不尽や修羅場を潜り抜けてきた男のリアルな実感が嫌というほどにこもっていた。特撮のヒーローショーのような作られた格好良さではなく、泥臭い現実を生きる人間の、あまりにも「渋い」声色。
オフィスにいた全員が、その一言を聞いた瞬間、動きをピタリと止めた。
「中の人」は、八幡で決定?
数秒の沈黙のあと、最初に口を開いたのは高柳だった。
彼は眼鏡を押し上げ、真剣な目で八幡の全身をじっくりと観察する。
「……驚きましたね。ビジュアルのシュールさが、その圧倒的にアンニュイで影のある声色と重なった途端、ものすごい『本物のダークヒーロー感』に化けましたよ」
「ねえ、お兄ちゃん……!」
小町が目をキラキラさせながらスマホを下ろし、信じられないものを見るような顔で近づいてきた。
「今のセリフ、めっちゃカッコよかったんだけど! 何あれ、ずるい!」
「そうよ」
海老名も「フフッ……!」と頬を抑えながら、萌えに満ちた笑みを浮かべる。
「白と黒のバイカラーに、あの冷めたような、でも芯のある声。海外のインディーズ映画とかで、マスクを脱がない主人公としてそのまま映画祭に出られるレベルの仕上がりだよ!」
「いや、ちょっと待て。俺はただ着てみただけだぞ」
八幡が慌てて手を振るが、すでに周囲の空気は一つの結論へと固まりつつあった。
雪乃は腕を組み、小さくうなずきながらこう言い放った。
「……意見が一致したようね。わざわざ別のスーツアクターをオーディションするまでもないわ。今後のプロモーションや海外向けのPV撮影も含めて、中の人はあなたがやるべきよ」
「は? なんでだよ! 俺はただの企画者だろ!」
「自分の足で立つって言ったのはあなたよ。『自分の足で立つヒーロー』なんだから、自分がそのスーツのなかに立つのが一番筋が通っているわ」
「ぐっ……」
論破されて言い返す言葉を失った八幡は、白と黒のタイトなスーツに身を包んだまま、天井を仰いで盛大な溜息をついた。
千葉の片隅で始まった、甘くて苦いご当地ヒーロー計画。
気づけば、企画立案者にして「中の人(主役)」まで比企谷八幡が兼任するという、最も泥臭くて最も彼らしい布陣がここに完成してしまったのだった。
スーツのまま、いつも通りの日常
「……もうどうにでもしやがれ」
観念したように頭をポリポリと掻きながら、八幡は白と黒のバイカラーに茶色のラインが走る特製スーツを着たまま、オフィスのソファにドカッと腰を下ろした。
顔の上半分を覆うマスクは、アクションや視界の都合と、何より「水分補給のしやすさ」を考慮した結果、口元がガバッと大きく開く特殊なオープンマウス仕様(川崎の徹底的な実用性重視の設計によるもの)になっている。
「ふはははっ、いいぞ八幡! ついに我が暗黒の魂と完全にシンクロしたな!」
と、材木座が満足そうに腕を組んでうなずく。
すると、面白がった海老名がニヤニヤしながら身を乗り出した。
「ねえ八幡くん、せっかくそのセリフ入りのマスクを着てるんだし、材木座が考えたあの『子どもに世界は甘くていい』の決め台詞も、その渋い声で言ってよ!」
「は? なんで俺がそんな気恥ずかしいセリフを……」
「いいからいいから、テスト撮影、テスト撮影!」と小町がスマホを構えてプレッシャーをかける。
逃げ場がないと悟った八幡は、盛大にため息をつき、トーンを落としたハスキーな低音で、諦めたようにぶっきらぼうにつぶやいた。
「……子どもに世界は甘くていい。苦いコーヒーみたいな世界は、大人になってからで充分だ、かよ……」
その声がオフィスに響いた瞬間、シュールなビジュアルと絶妙にマッチした説得力に、一同は「おお……!」と思わず息を呑んだ。最高にクールで、なのにどこか哀愁と優しさが漂う仕上がりだった。
甘い奇跡と、変わらない日常
「……ふう」
自分の放ったセリフの気恥ずかしさに耐えかねたのか、八幡はため息をつきながら、テーブルの上に置いてあった冷えた「マックスコーヒー」を手に取った。
そして、マスクの口元をガバッと大きく開き、容赦なくその甘ったるい液体を喉へと流し込む。
白と黒のシリアスなダークヒーローの格好をした男が、真顔で、かつての甘い缶コーヒーをごくごく飲み干す――そのシュールすぎるギャップの極みのような光景に、オフィスは耐えきれなくなったような笑い声と温かい空気で包まれた。
「ぶっ……! お兄ちゃん、絵面が強すぎるって!」
「あはははっ、最高! これ絶対YouTubeのプロモ動画でバズるわ!」
「ふふ、見た目は世界を救うダークヒーローなのに、やってることがいつものあなたね」と雪乃も呆れたように、しかし楽しげに微笑む。
川崎は「……まあ、喉が渇いたときにちゃんと水分補給ができる構造にしておいて正解だったな」と、妙なところで満足げに頷いている。
理不尽な世界に立ち向かうための、甘くて苦いご当地ヒーロー。
霞が関を動かし、世界を見据えた彼らの企みは、相変わらずの日常の延長線上にある、この泥臭くて賑やかな笑い声と共に、確かな一歩を踏み出していた。
伝説のCM、爆誕
「よし、とりあえずテスト撮影だ」
小町の合図とともに、スマホのカメラが回し始められた。
白と黒のバイカラーに中央の茶色のラインが走る特製スーツを纏い、ソファに深く腰掛けた八幡――その姿は、どこからどう見てもシュールなインディーズ映画のダークヒーローそのものだった。
八幡は気だるげに目を細め、あの渋い低音でカメラを見据えながら呟く。
「……子どもに世界は甘くていい。苦いコーヒーみたいな世界は、大人になってからで充分だ」
決まった。完璧すぎる渋さと説得力に、現場の空気が一瞬で締まる。
――だが、次の瞬間。
八幡はマスクの口元をガバッと大きく開き、テーブルの上の「マックスコーヒー」を掴むと、一切の迷いなく、容赦なくその極甘の液体をごくごくと思い切り喉へ流し込んだ。
「ぷはっ……。……で、これで満足かよ」
渋いヒーローの名言からの、一切カッコつけないリアルな糖分補給。
そのあまりのギャップの暴力に、撮影していた小町は数秒の沈黙の後、耐えきれずその場で崩れ落ちて爆笑した。
「あははははっ! 無理、面白すぎる! これ、絶対テレビCMにいける!」
「MAX COFFEE SYNDICATE」の新たな一手
その面白さと、奇跡的なまでのシュールなカッコよさを確信した高柳と海老名が、即座にその動画を編集・調整。
「せっかくですから、以前バンド(MAX COFFEE SYNDICATE)のPVで使ったルートや、海外向けのSNSアカウントも一斉に解放しましょう」
――そして数日後。
その動画は、ネットの海へと放り出された。
タイトルは『千葉も東京も守る男の、甘すぎる日常。』。
最初は「なんだこの謎のインディーズヒーローのパロディは?」とネットの住人たち面白がり、拡散されていった。だが、動画の後半、渋い声で語られるメッセージの重みと、その直後に泥臭くマックスコーヒーを飲み干す「中の人」の圧倒的なリアリティが、人々の心を鷲掴みにした。
「待って、最初のセリフめちゃくちゃカッコいいのに、後半のシュールさでコーヒー吹いたwww」
「白と黒のバイカラーに真ん中の茶色……これ『0か1かじゃないアナログの人間』を表現してない? 深すぎんか?」
「待てよ、これ『MAX COFFEE SYNDICATE』の連中じゃねぇか! バンドに続いてご当地ヒーローまで世界進出する気かよwww」
国内のトレンドを瞬く間に制圧したその動画は、海外のSNSやアメコミファンのコミュニティにも飛び火し、「なんだこの狂ったコンセプトのヒーローは……だが最高にクールだ!」と、またもや大バズりを巻き起こしたのだった。
オフィスのモニターに映し出される、急上昇ランキング1位の文字と、桁違いに伸びていく再生回数。
それを眺めながら、八幡はスーツのマスクを頭の上までガバッと外し、いつもの呆れたような顔でため息をついた。
「……お前らな、調子に乗りすぎると、そのうち本気で特撮の悪の組織から宣戦布告されるぞ」
「いーじゃんお兄ちゃん! 世界中でバズってるよ! ほら、海外からのコメントもこんなに来てる!」
小町がスマホを突きつけると、雪乃も上品に微笑みながらカップを傾けた。
「大成功ね、理事長。……さて、次はこのバズりをどう現実の社会変革や地域プロジェクトに繋げるか、戦略を練り直さないといけないけれど?」
甘いコーヒーの香りが漂う部屋で、ひねくれたヒーローたちの快進撃は、いよいよ止まらない勢いで次のステージへと突入していくのだった。
遠い海の向こうからの衝撃
日本のネット界隈を瞬く間に制圧し、海外のインディーズ映画やアメコミファンのコミュニティまでも巻き込んで爆発的な広がりを見せている『千葉も東京も守る男の、甘すぎる日常。』の動画。
その波は、遠く離れた海外――あるいは普段はシビアな国際裏社会や情報戦の渦中にいる者たちの端末にも、容赦なく届いていた。
とある洗練されたホテルのラウンジ、あるいはエージェントの拠点らしき部屋。
そこにいたアンとスミスの二人は、目の前のタブレット画面に映し出された映像を、ただただ無言で見つめていた。
画面の中では、白と黒のバイカラーに中央の茶色ラインが走るシュールなスーツを着た男が、最高に渋い声でこう呟いている。
「――子どもに世界は甘くていい。苦いコーヒーみたいな世界は、大人になってからで充分だ」
そして次の瞬間、マスクの口元をガバッと開け、あのドギツいまでに甘いマックスコーヒーをごくごくと思い切り飲み干す。
「…………」
数秒間の、完全な静寂。
アンは持っていたコーヒーカップ(こちらはもう少しビターな代物だった)を、ガチャンと音を立ててソーサーにぶつけそうになり、慌てて両手でしっかりと持ち直した。
「……スミス。今、私の目の狂いじゃなければ……あの、ネットで世界的にバズってる謎の日本風ダークヒーローの『中の人』って……」
スミスはくいっと眼鏡を押し上げ、冷や汗を拭うことも忘れたまま、タブレットの再生ボタンを何度も、何度も繰り返しタップしていた。
映像が最初に戻り、再びあの渋い低音が部屋に響く。
「千葉も東京も関係ない。どっちも守る、だ」
「……間違いないな、アン」
スミスは乾いた笑いを漏らしながら、頭を抱えた。
「声のトーン、息の吸い方、あの気だるげで世界を呪うような諦念の混じったイントネーション……どうひっくり返しても、あの比企谷八幡だ」
「なんでよっ!?」
アンは思わず声を荒らげ、タブレットの画面を指差した。
「あいつ、霞が関の裏で日本を動かしたり、謎のストリートバンドを組んでバズったりしたと思ったら、今度は一体何をやっているの!? なんで自分でタイトなご当地ヒーロースーツを着て、ローカルな缶コーヒーを宣伝しながら世界デビューしてりなのよ!?」
「いや、私に聞かれても困るが……」
スミスは呆れと感嘆が入り混じった表情で、急上昇ランキングの頂点を維持し続ける再生回数のカウンターを見つめた。
「だが、見てみろアン。あのコンセプトを……。『0でも1でもないアナログの人間』、『子どもたちのために世界は甘くていい』……。ふっ、相変わらずあの男らしい、ひねくれた優しさと強烈なアイロニーの塊だ。ふざけているようで、本質的な部分で世界中の人間の心を撃ち抜いてやがる」
「うっ……腹が立つけど、確かにあれを真面目な顔でやられたら、何回も観ちゃいけない中毒性があるわよ……!」
アンは悔しそうに歯ぎしりしながらも、自分の端末でその動画を思わず「お気に入り登録」してしまった。
地球の裏側で、自分たちの知る「あのひねくれた少年(あるいは若者)」が、まさかトレンチコートの代わりに奇抜なヒーロースーツを纏って世界を股にかけようとしている――その信じられない現実を飲み込むのに、二人はしばらくの間、言葉を失うしかなかったのだった。
隠す気のない「中の人」と、加速するバズ
「……なあ、高柳」
オフィスのソファで、八幡はため息をつきながら自分のスマホ画面を見つめていた。そこには、国内の主要ニュースサイトやトレンドのトップに自分の名前が(直接ではないにせよ、「例の特撮スーツの男の正体はあの人物か!?」というニュアンスで)ガンガン上がっている様子が映し出されている。
「宣伝すりゃ勝手にバズるだろうとは思ってたけどさ……これ、宣伝する間もなく勝手にバズりすぎてやしないか? というか、マスコミ連中、一発で中の人俺だって気付いてるぞ」
トーンを落としたあの渋い低音と、随所に滲み出るひねくれた諦念。さらに手元にはいつものマックスコーヒー。隠そうという気がそもそも微塵もないそのスタイルは、百戦錬磨のマスコミやネットの探偵たちにとって隠す暗号どころか「答え合わせ」そのものだった。
高柳はタブレットを操作しながら、涼しい顔で笑う。
「何を今さら言っているんですか、理事長。あの声を聞いて、そしてあの『子どもに世界は甘くていい』なんていう斜め上の名言を吐く人間が、世界中にそう何人もいるわけありませんよ。隠すつもりがないなら、いっそ堂々と認めてしまった方がメディアの食いつきも良くなります」
「……はぁ。まあ、いいけどよ」
八幡は頭をポリポリと掻き、すでに世界中で話題になっているその状況を受け入れると、自分のSNSアカウント(あるいはプロジェクトの公式アカウント)を開き、手短にこう投稿した。
『……まあ、声は俺です。あと、このヒーローの名前、今さらだけど絶賛募集中です。まともなやつから変なやつまで好きに送ってくれ』
名前のないヒーローに群がる世界中の声
その投稿が投下された瞬間、ネットの海はさらなる大爆発を起こした。
「本人自ら認めたwww 隠す気ゼロじゃねぇか!」
「声の主が比企谷八幡って分かった途端、このダークヒーロー感の解像度が跳ね上がって草」
「名前募集中だって!? じゃあ『マックス・シニシズム(Max Cynicism)』でどうだ?」
「いやいや、『チバ・アナロギア(Chiba Analogia)』の方がそれっぽい!」
「シンプルに『コーヒー・ボーイ』じゃダメですか?」
「海外からは『The Sweet Bitter Hero』って呼ばれ始めてるぞ!」
日本国内のネット民から、海外の熱狂的なアメコミ・特撮ファンまで巻き込んで、コメント欄は瞬く間に数万件のアイデアで埋め尽くされていく。
「お兄ちゃん、すごいよ! リプライの勢いが止まらない!」
小町がスマホの画面を次々とスクロールさせながら、目を輝かせて叫ぶ。
「世界中から色んなヒーロー名が届いてる! ちゃんと真面目なカッコいいやつもあるし、材木座が考えそうな中二病全開のやつもある!」
「ふはははっ、素晴らしい熱気だな!」
と、当の材木座が満足そうに腕を組み、うなずいている。
「我がダーク・セッターの称号を継ぐ者として、ふさわしい名前が選ばれることを期待しよう!」
「お前の案は真っ先に除外するから安心しろ」と八幡が即座に冷たいツッコミを入れる。
雪乃はふっと優しく微笑み、手元の資料に目を落とした。
「名前がどうなるかは一般の皆様の熱意に委ねるとして……これだけ注目を集めているのなら、この名前募集のイベント自体を次のプロモーションに繋げられそうね」
白と黒のバイカラーに、中央のあたたかな茶色のライン。
声の主がバレバレのまま、世界中の人々と一緒に「名前を考える」というお祭りと化したこのプロジェクトは、ただのローカルヒーローの枠を遥かに飛び越え、地球規模のエンターテインメントへとその階段を駆け上がっていくのだった。
満場一致の「シンプル」
世界中から数万件もの応募が殺到し、中二病全開の厨二ネームからスタイリッシュな英語の称号までが飛び交った「名前募集」企画。
その膨大な候補のリストを、八幡はソファにふんぞりかえりながら、やれやれといった様子で眺めていた。
「……どれもこれも、気恥ずかしすぎて聞いてるこっちが恥ずかしくなるような名前ばっかだな。何だこの『ダーク・ナイト・オブ・マックス・シニシズム』って……。考えた奴、今すぐ夜の校舎の裏に来いって感じだろ」
「ふっ、我が魂の遺伝子を感じる素晴らしい命名センスではないか!」と材木座が胸を張るが、八幡は秒速でその提案をスルーした。
「で、結局どれがマシなんだよ」
八幡がチラリと横を向くと、手元のタブレットを操作していた雪乃が、ふっと小さく笑みをこぼした。
「そうね……色々な案が出尽くした結果、奇抜な名前よりも、むしろ原点に立ち返ったものが一番しっくりくるという結論に至ったわ」
雪乃が画面をクルッと回転させ、八幡に見せる。
そこに記されていたのは、世界中のファンが驚くほどシンプルな一言だった。
『ブラウン』
「……ブラウン?」
八幡が思わず眉をひそめる。
「そうよ」
小町がパッと手を叩いて解説に加わる。
「だって、スーツの真ん中にあるあの『マックスコーヒー色の茶色』をそのまま表してるし、何よりそれだけじゃないんだよ! 昔のテレビやモニターに使われていた『ブラウン管』――つまり、デジタル(0か1か)に対する『アナログ』の意味もちゃんと掛かってるの!」
「……なるほどな」
八幡は納得したように、ふうっと息をついた。
無駄に飾ったヒーロー名ではなく、スーツの色であり、アナログを象徴するブラウン。ひねくれ者で直球が嫌いなはずの自分が、妙にしっくりくるその名前に思わず苦笑する。
名もなきヒーロー、「ブラウン」の誕生
「直球で、ブラウン、か」
八幡がつぶやくと、高柳が満足そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「シンプルイズベスト、ですね。海外のファンにとっても発音しやすく、かつ『茶色』と『ブラウン管(アナログ)』という二重の意味を持つ名前は、シュールでありながら非常に強いインパクトを残します。……正式名称、『ブラウン』に決定としましょう」
名前が決まった瞬間、プロジェクトの公式アカウントを通じて世界中へその旨がアナウンスされた。
「『ブラウン』!? 拍子抜けするほどストレートだけど、あの茶色のラインとブラウン管の意味を掛けてるなら天才的だろ!」
「シンプルすぎて逆にアメコミっぽくてカッコいい」
「中の人のトーンと『ブラウン』って名前の脱力感が完璧にマッチしてるわ」
世界中のネット民やファンたちが、その絶妙すぎる命名に納得し、次々と「ブラウン」のイラストやコラ画像を投稿し始める。
オフィスの片隅で、白と黒、そして真ん中に茶色のラインが入ったスーツを再びマネキンに着せながら、八幡はトレンチコートのポケットに手をつっこんだ。
「……まあ、派手な英雄名よりは、俺の柄にしっくりくるか」
甘いコーヒーを飲み干し、理不尽な世界をアナログな優しさですり抜けていく「ブラウン」の物語は、ここから本物の伝説として、世界中へその足跡を刻んでいくのだった。
最後の最後に、一番まともな名言
「ブラウン」という名前が世界中に正式アナウンスされ、プロジェクトがいよいよ本格始動しようとしていたオフィスの片隅。
一連の騒動にすっかり満足した様子で、材木座義輝が腕を組み、不敵な笑みを浮かべながらフッと鼻を鳴らした。
「ふっ……名前が決まったとなれば、次はあれだな。ピンチを切り抜け、闇夜へと去り行くときに吐き捨てる――『去り際の決め台詞』だ!」
「……は? また始まったよ」
八幡はソファにもたれかかったまま、面倒くさそうに目を細める。
しかし、材木座はどこ吹いた風とばかりに、両手を広げて滔々と語り始めた。
「いいか八幡! ヒーローというものは、華麗に悪を討伐し、夕日の中へ、あるいは都会の闇の中へ一人佇みながら、背中で語るもの! その最後の言葉こそが、群衆の心を永遠に捉えて離さないのだ! 我が脳裏に浮かんだ究極の一節を聞けい!」
材木座は胸を張り、演劇部ばりの大げさな身振り手振りでこう言い放った。
「――世の中、何でもかんでも白黒つかねえ時もある。……だが、俺の真ん中にはいつだって甘い茶色(こいつ)があるのさ。……じゃあな」
静かに響く、アナログの余韻
オフィスの空気が、わずかに止まった。
いつもなら「中二病全開だな」「校舎の裏に来い」と一蹴するはずの八幡だったが、今回はなぜか、すぐに言葉を返すことができなかった。
「…………」
「どうだ……!」と少し自信なげに様子を窺う材木座に対し、八幡はゆっくりと視線を上げ、ふっと小さく息を吐いた。
「……おい、材木座」
「ふ、ふっ、なんだ? 気に入ったか?」
「……珍しく、お前らしくねぇほどまともなこと言うじゃねぇか」
八幡のその言葉に、オフィスにいた全員が、それぞれの表情で小さく頷いた。
「白黒つかねえ時もある」
それは、デジタルに割り切れない矛盾や、綺麗事だけでは生きられない現実の泥臭さを知る彼らだからこそ、あまりにも深く胸に突き刺さる言葉だった。
そして、「真ん中には甘い茶色がある」――それは、自分たちが守りたい優しさや、0でも1でもない「アナログな人間らしさ」の象徴そのものだった。
「……ふん。悪くねぇな」
八幡は立ち上がり、いつものトレンチコートを羽織る。
マスクの代わりに手にした黒いキャップを目深に被り、彼は仲間たちに背を向けながら、その「去り際のセリフ」を自分の低い声でぽつりと言ってみせた。
「……世の中、何でもかんでも白黒つかねえ時もある。……じゃあな」
余計な装飾を削ぎ落としたその一言は、奇抜なヒーロー「ブラウン」の背中に、本物の「哀愁と優しさ」を宿すのに十分すぎた。
「お兄ちゃん、それめっちゃカッコいいよ……!」と小町が目を潤ませ、雪乃も「ええ、あなたのその気だるげな声に、完璧にマッチしているわ」と優しく微笑む。
理不尽に満ちた世界を、白黒つけずに、ただ自分の足で歩いていく。
甘くて苦い、ひねくれ者たちのヒーロー「ブラウン」は、こうして最高の仲間たちと共に、静かに、しかし確実に世界へと歩み出していくのだった。
第二弾CM:白黒つかない喧嘩の止め方
「ブラウン」の誕生と、そのシュールかつ絶妙に胸を打つコンセプトがネットを席巻してから数週間。
プロジェクトチームは早くも、次の一手である「第二弾CM」の撮影に乗り出していた。
今回の舞台は、とある下町の商店街の路地裏。
「カメラ、回ってるぞー」という高柳の合図の少し前、そこでは一組の若い男たちが、胸倉を掴み合ってガチの口論を繰り広げんでいた。
「ふざけんな、お前が悪いんだろ!」「なんだと、白黒はっきりつけろよ!」
どちらが正しいか、どちらが悪いか。ネットの匿名空間やリアルな日常のあちこちで見かけるような、不毛でトゲトゲしい「0か1か」の言い争い。
周囲の人々がハラハラと見守る中、その真ん中に――、
スッと、トレンチコートを無造作に羽織り、白と黒のバイカラーに中央の茶色ラインが走るスーツを纏った男が割って入った。
「……おい」
その一言だけで、周囲の空気がピタリと凍りつく。
ブラウン(八幡)は、争っている二人の間に割って入ると、大げさな正義の説教を垂れるわけでもなく、ただめんどくさそうに片手で二人の肩を軽く押し離した。
そして、手元からおもむろに取り出した「マックスコーヒー」の缶のプルタブを、パキッと静かに開ける。
「……言い争いなんてのは勝手だがよ」
ブラウンは極上の甘いコーヒーを一口飲み、そのハスキーな低音で言い放った。
「世の中、何でもかんでも白黒つかねえ時もあるだろ」
ピリついていた空気が、彼のその気だるげで、妙に説得力のある一言で一瞬にして脱力していく。
呆気に取られて喧嘩を忘れた二人の間に、ブラウンは缶コーヒーを一本ずつ「ほらよ」と放り投げ、いつものように背中を向けた。
去り際、ブラウンは振り返ることもなく、ただ小さく手を挙げて、ポツリと言い捨てる。
「……じゃあな」
トレンチコートの裾を翻し、夕暮れの路地裏の闇へと消えていくその後姿。
完璧すぎるシュールさと、なぜか胸に残る圧倒的な優しさ。
再び、世界が揺れる
「――カット! オッケーです! めちゃくちゃ良かったですよ、理事長!」
小町の歓声とともに撮影が終了する。
モニターをチェックした海老名や雪乃も、「ふふ、相変わらずいい味を出しているわね」「これなら世界中の荒ぶるネットユーザーたちの心も一発で鎮められそうだわ」と満足そうに頷いた。
その数日後、『第二弾CM:喧嘩とマックスコーヒー』がネットの海へと放り出された。
第一弾のバズりを遥かに超えるスピードで拡散され、世界中のSNSではまたもや大祭り状態となった。
「喧嘩を仲裁するヒーローが缶コーヒー投げて去っていくだけなのに、なんでこんなにカッコいいんだよwww」
「『白黒つかねえ時もある』ってセリフ、現代社会のすべてのギスギスした人間関係に効く特効薬だろ……」
「中の人、絶対めんどくさがりながらやってるだろ! そこがまた最高にクールだ!」
理不尽な世界で、白黒つけずに甘いコーヒーを片手に歩いていく「ブラウン」の姿は、国境や文化を越えて、世界中の人々の「お守り」のような存在になりつつあった。
ひねくれたヒーローの企みは、こうして世界をちょっとだけ優しく、そして最高にシュールに変えていくのだった。
千葉のローカル英雄、リアルイベント参戦
ネットの海を席巻した第二弾CMの爆発的なヒットを受け、高柳や雪乃たちが次に仕掛けたのは、画面の中にとどまらない「リアルな現場」だった。
千葉県内の大型商業施設の特設ステージ。
「新ご当地ヒーロー『ブラウン』お披露目イベント&ミニショー」と銘打たれたその場所には、噂を聞きつけた親子連れ、ネットの動画でブラウンを崇拝するようになった若者たち、そして物珍しそうに集まった一般客で、開演前からすさまじい数の人だかりができていた。
「おい高柳……聞いてねぇぞ、なんだこの人の数は」
ステージ裏のテントで、白と黒のバイカラーに中央の茶色ラインが走るスーツを身にまとった八幡が、マスクの口元から深いため息をついた。
「まさかここまでガチのイベントになるとは思ってなかったんだが」
「何を言っているんです、理事長。バズったのなら、次は直接キッズやファンにその『背中』を見せるのがヒーローの務めでしょう」
高柳は涼しい顔で、完璧にアイロンの効いたトレンチコートを八幡の肩に掛けた。
「そうだよお兄ちゃん! ほら、外から『ブラウン――!』って呼ぶ声が聞こえるよ!」
小町がスマホを片手にパタパタと走り寄ってくる。
最強のコラボ相手と、シュールすぎる共演
「それじゃあ、そろそろ出番よ」
雪乃の静かな合図とともに、会場のアップテンポなBGMが切り替わった。
観客の割れんばかりの歓声の中、重い足取りでステージに歩み出るブラウン(八幡)。
だが、そのステージのセンターには――すでに、あの愛嬌たっぷりな姿で待ち構えている「先輩」がいた。
千葉県の誇るマスコットキャラクター、チーバくんである。
(……おい、聞いてねぇぞ)
ブラウン(中の人・八幡)は、全身真っ赤で横向きのシルエットが千葉県の形をしているチーバくんと、白黒茶色のシュールなダークヒーローという、カオスすぎる並びに思わずその場で一瞬フリーズした。
しかし、チーバくんはそんな空気など一切気にせず、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、ブラウンに向かって元気に手を振っている。
「……はぁ。どうも」
ブラウンは気だるげに片手をひらひらと上げ、チーバくんと並んでステージの端に立った。
シュールすぎるツーショットに、会場の観客は爆笑と黄色い歓声のミックスウェーブに包まれる。
「チーバくんとブラウンのコラボやばいwww」
「見た目の情報量が多すぎる!」
伝説の去り際と、爆売れするマックスコーヒー
ミニショーの終盤。ちょっとした寸劇(理不尽に絡まってきた怪人役のスタッフを、ブラウンが「白黒つかねえ時もあるだろ」と缶コーヒーを投げて秒速で和解させるというシュールな展開)を終え、いよいよイベントの締めくくりの時間となった。
観客席から「ブラウン、カッコいいぞー!」と子供の声が飛ぶ。
ブラウンは、トレンチコートのポケットに手を突っ込み、いつものハスキーな低音でマイクを通さずに(あるいはマイクを適当に持って)ポツリと言い放った。
「……世の中、何でもかんでも白黒つかねえ時もある。……じゃあな」
その渋すぎる去り際のセリフを残し、ブラウンはチーバくんと並んで颯爽と(しかしどこか気だるげに)ステージの裏へと消えていった。
残された観客席からは、しばらくの間鳴り止まない拍手と歓声が響き渡っていた。
そして――イベント終了直後。
会場の特設売店や、周辺のコンビニ、自販機の売上データを確認した高柳が、思わずニヤリと口角を吊り上げた。
「……理事長、すごいことになりましたよ」
「んだよ、また何かやらかしたのか?」と、控室でマスクを脱ぎながらスポーツドリンク(またはマックスコーヒー)を飲んでいた八幡が首を傾げる。
「イベント会場および周辺一帯の『マックスコーヒー』の在庫が、わずか数時間で完全に蒸発しました」
「……は?」
「チーバくんとのコラボ効果と、ブラウンが劇中で見せたリアルな水分補給のせいで、子どもから大人まで『あの甘いコーヒーを飲みたい!』と売店に殺到したようです。メーカー側からも、追加特需の嬉しい悲鳴が届いていますよ」
その報告を聞いた海老名は「ふふっ、これぞ経済をも動かす甘い奇跡ね!」と大喜びし、川崎は「……まあ、宣伝効果としてはこれ以上ない結果だな」と淡々と頷いた。
千葉の片隅で始まった、ひねくれたヒーローの企みは、チーバくんを巻き込み、リアルな経済をも巻き込んで、もはや誰も止められない本物の巨大ムーブメントへと突入していたのだった。
広告塔の自覚と、新たな企み
イベントの大成功、そしてそれに伴うマックスコーヒーの爆発的な売上データを目の当たりにし、控室のソファに深く腰掛けた八幡は、手に持っていた黄色と緑の缶をじっと見つめた。
「……なんだかなぁ」
溜息混じりに呟きながら、彼はトレンチコートの裾を整える。
「ヒーローをやっているつもりが、いつの間にかすっかり『マックスコーヒーの歩く広告塔』じゃねぇか。俺の人生、どこでこうやって甘い液体に魂を売るルートに入っちまったんだか」
「自覚があるならよろしいじゃないですか、理事長」
高柳が手元のタブレットを軽やかに弾きながら、涼しげに笑う。
「宣伝を意識してやったわけでもないのに、あの自然体の飲みっぷりが最高の一斉プロモーションになったのですから、メーカーも大喜びですよ。あなたこそ、こういう泥臭い裏方や広告塔のポジションが一番板についているのでは?」
「……否定はしねぇけどよ」
八幡は苦笑しながら缶のプルタブを引っ張り、あのドギツい甘さを再び喉へと流し込んだ。
確かに、華やかに表舞台でチヤホヤされるヒーローよりは、こうして一歩引いた場所でシュールに茶化しつつ、現実の経済や人々の日常を少しだけ動かしている今の立ち位置の方が、不思議としっくりくる。自分らしいといえば、これ以上ないほど自分らしい。
「まぁ、いいか」
八幡は缶をテーブルに置き、ガバッと頭を振ってから、メンバーのほうを向き直った。
「さてと。チーバくんとのコラボでリアルイベントの味も占めたことだし……この勢いのまま、本格的に『ブラウン』自体の広告展開もやっていかないとな。ただのバズりで終わらせるには、もったいねぇだろ」
次なるプロモーションのコンセプト
その言葉を待っていたかのように、オフィスの空気が一気に「企画会議」モードへと切り替わる。
「待ってました、八幡くん!」
海老名が目を爛々と輝かせながら、スケッチブックを勢いよく開いた。
「ブラウンの広告ね! 第一弾の『日常のシュールな仲裁』、第二弾の『イベントのインパクト』を越えるには、やっぱり見る人の心をグサッと抉るような、最高にエモーショナルでシニカルなコンセプトが必要よ!」
「ふふ、賛成だわ」
雪乃が上品に紅茶のカップを置く。
「ただカッコいいだけのヒーロー広告では、今の目の肥えた層にはすぐに飽きられてしまう。私たちのブラウンだからこそ描ける、現実と非現実の絶妙なバランスが求められるわね」
材木座も負けじと胸を張る。
「我がダーク・アナロギアの思想を世界に布教する時が来たな! 例えば、満員電車のストレスに耐えるリーマンの隣に、しれっとスーツのまま座ってマックスコーヒーを差し出すブラウンのポスターとかはどうだ!」
「……それ、ただの不審者じゃねぇか。通報されるわ」
八幡は即座にツッコミを入れつつも、腕を組んで思案し始めた。
「でも、方向性としては悪くねぇな。キラキラした理想の街を描くわけでもなく、かといって絶望を煽るわけでもない。……『理不尽でめんどくせぇ現実だけど、まあ、甘いものでも飲みながらテキトーにやっていこうぜ』っていう、あの空気感だ」
小町がパッと手を挙げる。
「それならさ! 世界中のいろんな『ちょっと息苦しい瞬間』に、ブラウンがシュールに現れて、一言ボヤいて去っていくシリーズ広告はどう? SNSの広告枠とか、ビルの大型ビジョンで流したら絶対映えるよ!」
川崎も、実用面とシュールさのバランスを考慮しつつ頷く。
「……派手なアクションより、そういう日常のクスッと笑えるシュールさのほうが、海外のネット民ウケも良さそうだな」
世界を巻き込む「甘くて苦い」宣伝戦略
メンバーから次々と飛び出すアイデアを、高柳が手際よくまとめていく。
「素晴らしいですね。では、次なるプロモーションのコンセプトは『ブラウンの、世界を少しだけ甘くする低気圧(シニカル)広告』としましょう。世界中の都市の喧騒や、日常のちょっとした理不尽のなかに、あの白黒の背中が紛れ込んでいるビジュアルとショート動画の展開です」
「……大げさだな、まったく」
八幡はやれやれといった表情を浮かべながらも、どこか楽しげな仲間たちの様子を見て、再びマックスコーヒーの缶を手に取った。
千葉の片隅で始まった、ひねくれたヒーロー計画。
広告塔としてすっかり定着した男の渋い声と、甘いコーヒーの香りは、いよいよ国境や文化の壁を軽やかに飛び越え、世界中の日常をシュールに侵食し始めていくのだった。
さて、この新しい広告キャンペーンの第一弾、世界中のどこで、どんなシチュエーションから仕掛けてやろうか――。
隔週配信という名の「中毒」
世界中のネットを巻き込んだバズや、リアルイベントでの大成功を経て、チーム「ブラウン」が次に打ち出した一手。それは、シンプルかつ継続的なコンテンツ投下だった。
「2週に一回、5分のショートドラマをネットで配信する」
華やかな映画でも、大予算の特撮テレビシリーズでもない。不定期――いや、正確には「隔週の決まった曜日」に、YouTubeや各種SNSへひっそりと、しかし確実にアップロードされる低予算の5分ドラマ。
監督・脚本は実質的に現場のノリと勢い、主演(中の人)は比企谷八幡。企画・撮影・宣伝は海老名、材木座、川崎、小町、高柳の布陣。
そして毎回のお約束として、物語のどこかで必ず「あの甘い缶コーヒー」が登場する――そんな手作り感あふれるプロジェクトが、静かに幕を開けた。
「5分ドラマ」の黄金パターン
記念すべき第1話、第2話、そしてその後のエピソードが隔週で公開されるたび、ネットのタイムラインは決まってお祭り騒ぎになった。
5分という短い尺の中に詰め込まれているのは、派手な爆破や世界を揺るがす大怪獣とのバトル……ではなく、現代社会のあらゆる「めんどくせぇ理不尽」だ。
第3話『満員電車の憂鬱』:ピリピリとした空気の早朝の電車で、舌打ちをするリーマンたちの間に挟まれたブラウン。無言でポケットからマックスコーヒーを取り出し、プシュッと開けて一気飲み。そのシュールすぎる音に周囲のトゲトゲした空気が一瞬で緩み、ブラウンは次の駅で何事もなかったように降りていく。
第5話『SNSの炎上現場』:ネットの画面越しに「白黒つけろ!」と叩き合う人々の幻影のなか、現実の公園のベンチで一人しょぼくれる若者の隣に座るブラウン。「……世の中、何でもかんでも白黒つかねえ時もあるだろ」とだけ言い残し、缶を置いて去る。
第8話『コンビニのレジ前』:店員に理不尽なクレームを入れる客と、困り果てるバイトの学生。その背後からスッと現れたブラウンが、客の肩をぽんと叩いて「まあ、甘いものでも飲んで落ち着けよ」とマックスコーヒーを押し付け、そのまま無言で立ち去る。
毎回のように繰り広げられる「些細な仲裁」や「ちょっとした人助け」。
そして、トドメとばかりにマスクの口元をガバッと開けて、あのドギツい甘さのコーヒーをごくごく飲み干す「中の人」のリアルな姿。
ネットの海を蝕む、心地よい中毒症状
「……おい、今回の再生回数もまたバズってやがるぞ」
オフイスのパソコン画面を眺めながら、八幡は呆れたように頭を掻いた。
2週に一回のペースで淡々とアップされるその5分ドラマは、回を重ねるごとにファンを増やし、今や世界中のネットユーザーにとって「週末(あるいは週初め)の精神安定剤」のような存在になっていた。
「またブラウンが人助け(?)してるwww 今回は電車のなかでただコーヒー飲んだだけなのにめちゃくちゃ平和になったぞ」
「5分間で綺麗にまとまってて、最後は絶対缶コーヒー飲むの草。でもこのシュールな優しさが癖になる」
「中の人の『声』と『諦念を含んだため息』の演技力がインディーズの域を超えてる件について」
世界中のコメント欄は、もはやお馴染みのルーティンと化したシュールな笑いと、どこか癒やされた者たちの感想で埋め尽くされている。
「いいじゃないですか、理事長!」
小町がスマホを見せびらかしながら、嬉しそうに声を弾ませる。
「海外のファンアートもめちゃくちゃ増えてるし、コメント欄なんて『今週のブラウン先生の処方箋』とか言われてるよ!」
「ふふ、見事なものね」
雪乃も満足そうに微笑み、手元のスケジュール表に目を落とす。
「低予算で、けれどメッセージ性と中毒性のあるショートドラマを定期的に供給する。この戦略は、今の情報過多な現代社会においてもっとも効果的だわ」
材木座は「くっ……! 我がダーク・アナロギアの神話が、こうして毎週のように世界に刻まれていくとは……!」と一人で勝手に感動の涙を流している。
相変わらずの気だるげな足取りで、スーツを脱ぎ、トレンチコートを羽織った八幡は、机の上にぽつんと置かれたマックスコーヒーの缶に目をやった。
「……ま、派手な英雄気取りよりは、2週に一回、こうやってテキトーに人助け(?)しながらコーヒー飲むだけのほうが、俺の性格には合ってるか」
世の中の理不尽も、面倒くさい人間関係も、すべて白黒つける必要なんてない。
――時々、甘いコーヒーでも飲みながら、テキトーにやり過ごせばいい。
ブラウンの5分ドラマは、今日もどこかの画面の向こうで、誰かの心に「甘くて苦い」クスリとした笑いを届けているのだった。
たまには、白黒つける夜もある
2週に一回、クスッと笑えるシュールな仲裁劇や、ちょっとした人助けを淡々と配信し続け、世界中のネットユーザーにとって「週末の精神安定剤」としてすっかり定着していた5分ドラマ――『ブラウン』。
いつものように「世の中、何でもかんでも白黒つかねえ時もある」と気だるげに言い放ち、甘いマックスコーヒーを飲んで終わる、そんなお決まりのノリがファンの間でもお約束になっていた。
しかし、その「お約束」が、ある夜の配信回で完全に覆されることになった。
静まり返った夜の公園と、理不尽の影
夜の帳がすっかり下りた、人けのない住宅街の公園。
街灯の光がうっすらと照らすすべり台の陰で、小さな子どもが一人、膝を抱えてうずくまっていた。その目の前には、明らかに子ども相手には似つかわしくない、悪意に満ちた大人の影がいくつも伸びている。
ネットの匿名空間や大人の都合で行われる汚い駆け引き、理不尽な暴力や悪意――それは普段、ブラウンが「まあまあ」とコーヒーを投げていなすような、生ぬるい日常のいざこざなどではなかった。逃げ場のない、純粋な悪意の暴力。
「ガキが生意気な口きんじゃねぇよ。……おとなしく大人たちの言うこと聞いてりゃいいんだよ」
大人の冷酷な声とともに、冷徹な手が子どもへと振り下ろされようとした、その瞬間――。
ズシン、と鈍い足音が夜の空気を切り裂いた。
「……誰だ?」
振り返った男たちの視線の先に立っていたのは、白と黒のバイカラーに、中央のあたたかな茶色のラインがまっすぐ走る、お馴染みのスーツ姿の男だった。
トレンチコートの裾を夜風になびかせ、マスクの奥の瞳は、いつもの気だるげな色を綺麗に消し去り、底知れぬ冷たさと怒りを宿していた。
「世界は、子どもに甘くていい」
「なんだお前、どこかのコスプレか? 引っ込んでろ、こっちは――」
男が捨て台詞を吐きかけるより早かった。
ブラウンは無言で間合いを詰めると、いつもの「仲裁してコーヒーを投げる」ような優しい手口ではなく、容赦なく、しかし子どもに一切の危害が及ばない完璧な制圧劇を繰り広げた。
理不尽な暴力を振るう大人たちを、ただの「悪」として、冷徹に、一瞬で地面へと叩き伏せる。
それは、これまでのシュールなギャグや脱力系ドラマの空気を完全に凍りつかせるほどの、圧倒的なシリアス回だった。
物音一つしない静まり返った公園で、ブラウンは地面に這いつくばる男たちを一瞥すると、震える子どもにそっと歩み寄り、その前にしゃがみ込んだ。
いつもよりも低く、しかしどこまでも優しく、そして揺るぎない覚悟を込めたハスキーな声が、夜の静寂に響く。
「……泣くなよ」
ブラウンはポケットから、まだ冷えたマックスコーヒーを取り出し、子どもの小さな手にそっと握らせた。
そして、カメラの向こう――いや、この理不尽な現実を生きるすべての大人たちに向けて、あの言葉をハッキリと叩きつけるように言い放った。
「……子どもに世界は甘くていい。苦いコーヒーみたいな世界は、大人になってからで充分だ」
ネットが揺れた、本当の「ヒーロー」
数日後、そのシリアス回が配信されると、ネットのタイムラインは数分で完全にフリーズした。
いつもなら「今回も草」「コーヒー吹いた」で埋まるはずのコメント欄が、その圧倒的なシリアスさと、ブラウン(中の人・八幡)が込めた本当の意味での「優しさと怒り」の前に、ただ驚愕と感動の言葉で埋め尽くされていた。
「……待って、今回のシリアス回、ガチで泣いたんだが」
「いつもは『白黒つかねえ』って言ってる奴が、子どもの前では一切の妥協なしに白黒つけて悪を叩きのめしたの、鳥肌が立った」
「『子どもに世界は甘くていい』ってセリフ、こういう文脈で本気で言われたら、全大人圧勝できないよ……」
「これがブラウンの本当の姿なんだな。最高すぎるだろ……」
オフィスのモニターでその爆発的な反響と、世界中から寄せられる絶賛のコメントの数々を眺めながら、八幡はソファに深くもたれかかり、小さく息を吐いた。
「……ふっ。たまには、こういう真面目すぎる回もやんないと、ただのふざけたコスプレ野郎だと思われるからな」
その言葉に、小町はこっそり目を潤ませ、雪乃はふっと誇らしげに微笑み、高柳や材木座たちもそれぞれの胸を熱くしていた。
白黒つけない日常を愛し、けれど守るべきものの前では決して引かない。
甘くて苦い、けれど最高に優しいヒーロー「ブラウン」の伝説は、この夜を境に、人々の心の中で本物の「神話」へと変わり始めたのだった。
ネットの枠を飛び越え、ブラウンがブラウン管へ
ネットの海を震わせたあの「シリアス回」の衝撃と、世界中を巻き込んだ爆発的なムーブメントは、もはやインターネットの中だけで収まるスケールではなくなっていた。
「……おい、高柳。これ、どういうことだ」
ある日の午後、オフィスのテレビ画面を何気なくつけた八幡は、自分の目を疑った。
大手民放テレビ局のゴールデンタイム、全国ネットのバラエティや情報番組の合間に流れるCM枠。そこに映し出されていたのは、見慣れた白と黒のバイカラー、そして真ん中にまっすぐ走るマックスコーヒー色のライン――そう、「ブラウン」の5分ドラマのダイジェスト映像だった。
「ふふ、驚きましたか?」
高柳はいつもの涼しい顔で、タブレットを片手に微笑んだ。
「ネットでのあまりの反響と、国内外からの熱狂的な支持を見過ごせるほど、今のテレビ業界もバカではありませんよ。各所から『ぜひうちの番組枠で流させてほしい』とオファーが殺到しましてね。正式に地上波での定期放送、およびスポットCMとしての展開が決定したのです」
「地上波って……お前、全国のお茶の間にあのシュールな格好と、俺の気だるげな声が毎週流れるのか?」
「ええ、もちろん。子どもからお年寄りまで、日本中があなたの『白黒つかねえ時もある』と『マックスコーヒー』の虜になること間違いなしです」
「……罰ゲームか何かかよ」
頭を抱えてソファに沈み込む八幡をよそに、小町はスマホを片手に飛び跳ねて喜んでいた。
「やったー! お兄ちゃんが全国区のテレビスターだ! すごいよ、これで実家のおじいちゃんたちも毎週テレビで観られるじゃん!」
全国のお茶の間を撃ち抜いた「甘くて苦い」夜
そして迎えた、地上波での初回放送の夜。
ネットの配信ですでに大人気だったとはいえ、いざ全国ネットのテレビ画面を通して「ブラウン」の映像が流れると、その破壊力はケタ違いだった。
普段はニュースやバラエティを見ていた一般の視聴者たちが、突然画面に現れた「白と黒のバイカラーの怪しげなスーツを着た男が、渋い声でシュールな仲裁をし、最後に容赦なく甘い缶コーヒーをごくごく飲み干す姿」に、文字通り度肝を抜かれた。
「待って、今チャンネル変えたら謎のヒーローが真顔でマックスコーヒー飲んでて草生えたんだがwww」
「『世の中、何でもかんでも白黒つかねえ時もある』って、日曜の夜にこれ言われると妙に心に染みるんだけど……!」
「中の人の声がめちゃくちゃイケボなのにやることシュールすぎて、気づいたらチャンネル固定してたわ」
クスッと笑える日常のシュールさと、ふと胸を突く絶妙な優しさ。そして、あの「シリアス回」で見せた容赦のないカッコよさ。
ネットの住人だけでなく、テレビの前にいた老若男女の心をも、ブラウンは一瞬で鷲掴みにしてしまった。
放送直後から、X(旧Twitter)のトレンドは関連ワードで完全制圧され、検索ランキングのトップを「ブラウン」「マックスコーヒー」「中の人誰だっけ(すぐバレるけど)」が独占。
もちろん、翌日からの全国のコンビニや自販機からは、またしてもマックスコーヒーが姿を消すという「嬉しい悲鳴」が各所から巻き起こることになった。
変わらない背中と、広がる世界
テレビ局からの取材依頼や、公式グッズ化の打診、海外のメディアからのインタビューなど、事務所(オフィス)には連日ひっきりなしに連絡が舞い込むようになった。
それでも、ブラウン――比企谷八幡のスタンスは一切変わらない。
「……なあ、どれだけテレビで流されようが、やることはいつも通りだろ」
オフィスの鏡の前で、シュールなスーツのマスクを頭の上までガバッと外し、いつもの呆れたような顔で八幡は仲間たちに言った。
トレンチコートを無造作に羽織り、手に持ったマックスコーヒーを一口飲む。
「ええ、その通りよ」
雪乃がふっと上品に微笑みながら、紅茶のカップを置く。
「どれだけ世界が広がろうと、あなたがやるべきことは『自分の足で立ち、目の前の理不尽にちょっとだけ甘い風を吹かせること』。それさえ変わらなければ、どこへだって連れて行ってあげるわ」
「お兄ちゃん、次回の撮影の台本、新しいの書いたから見てよ!」
小町が元気よくスケッチブックを突き出し、材木座が「我が伝説の次章だ!」と背後でポーズをとる。
川崎が「……まあ、怪我だけはするなよ」と小さく呟き、高柳が「さて、世界進出の次のステップへ移りますか」と眼鏡を光らせた。
白と黒の境界線。
その真ん中に刻まれた、あたたかな茶色のライン。
地上波を制覇し、名実ともに時代のアイコンとなった「ブラウン」は、今日もどこかの街の片隅で、めんどくせぇ現実を生きる誰かのために、静かにコーヒーのプルタブを引いているのだった。
海を越えて響いた、本当の優しさ
地上波での全国放送開始と時を同じくして、あの「シリアス回」の映像は、英語や多言語の字幕を伴って瞬く間に世界中のインターネットの海へと放たれていた。
それまで「シュールで最高にクールな日本のインディーズ・ダークヒーロー」「ギャグとシリアスのギャップが天才的な謎の男」としてブラウンを楽しんでいた海外のファンやネットコミュニティは、その回を見た瞬間、完全に言葉を失った。
ふざけているわけでも、ただ目立ちたいわけでもない。
理不尽な暴力や大人の汚い都合から、ただ一人の無力な子どもを守るため、一切の妥協なく白黒をつけて悪を叩き潰す姿。
そして、その小さな手に缶コーヒーを握らせ、カメラの向こうの全大人に向けて静かに言い放ったメッセージ。
“It's okay for the world to be sweet to children. A world like bitter coffee is enough once you're an adult.”
世界中のSNSやアメコミフォーラム、映画批評のインフルエンサーたちの間で、そのセリフとシーンが爆発的にシェアされていった。
「待って、いつもふざけたコーヒーの飲み方してるから油断してたけど……この回はガチの傑作だろ。泣いた」
「子どもを守るために本気で怒る大人のヒーロー。これこそが、私たちがずっと求めていた本物のダークヒーローの姿だ」
「スパイダーマンや仮面ライダーの系譜を感じるけど、それ以上に『比企谷八幡』という個人の生々しい優しさが滲み出ていて最高に美しい」
エージェントの納得と、小さな感心
地球の裏側、とある静かなホテルのラウンジ。
タブレットの画面に映し出されたその「神回」の海外字幕版を、アンは最初から最後まで一言も発せずにじっと見入っていた。
動画が終わり、静寂が戻った画面には、桁違いの「いいね」と絶賛のコメントの嵐が映し出されている。
アンはふぅっと小さく息を吐き、テーブルの上に置かれたコーヒーカップに視線を落とした。そして、隣で同じように画面を見ていたスミスの方を向き、どこか感心したような、呆れたような、しかし微かな笑みを浮かべてこう呟いた。
「……ねえ、スミス。あいつ、本気だったのね」
「本気、とは?」スミスが眉をひそめて聞き返す。
「最初は、日本でまた変なおふざけを始めているのかと思ったわ。霞が関を引っかき回したと思ったら、今度はタイトなスーツを着てローカルな缶コーヒーを煽るコスプレ野郎だってね」
アンはフッと鼻を鳴らし、画面のなかのブラウン――あの気だるげで鋭い目を隠したマスクの男を見つめた。
「でも、あの回のメッセージを見たわ。あいつはただバズりたいわけでも、ヒーローごっこがしたいわけでもない。……子どもにも、そして同じように理不尽な現実を生きる大人たちにも、心の底から伝えたいのよ。『たまには甘えていいんだ』ってことをね」
スミスはくいっと眼鏡を押し上げ、苦笑しながらうなずいた。
「まったくだ。冷めた顔をして世の中を斜めに見ていながら、一番泥臭く、一番温かい方法で世界を救おうとしやがる。……本当に、あのひねくれた少年らしい、いや、あの男らしいやり方だな」
「そうね……腹立たしいほどに、カッコいいじゃない」
アンは小さく微笑むと、自分の端末からその「神回」の動画にそっと「いいね」を押した。
千葉の片隅で生まれ、世界中の日常をシュールに侵食していった「ブラウン」の物語は、ただのバズや流行の枠を遥かに飛び越え、海を越えたエージェントの心をも撃ち抜く、本物の「世界を変える優しさ」へと成長していたのだった。
雪ノ下家の一夜
地上波での全国ネット放送、そして海を越えたネットの海までもが「ブラウン」の話題で持ちきりになっていたその頃。
東京の一等地に建つ雪ノ下家のリビングでは、重厚な革張りのソファに深く腰掛けた父親が、静かにテレビの画面を見つめていた。
画面の向こうでは、あのシュールな白黒のスーツを着た男――比企谷八幡が、いつものハスキーな低音で世の理不尽をバッサリと斬り捨て、最後にはマスクを開けてマックスコーヒーをごくごく飲み干している。
数秒の静寂のあと、雪ノ下父はふっと鼻を鳴らし、それから声を上げて豪快に笑った。
「はははっ……! やはり、あの小僧は怪物か」
紅茶のカップをソーサーに置く手は優雅なままだが、その瞳には面白がるような鋭い光が宿っていた。
「表立った政治の舞台裏から身を引かせたと思えば、今度は全国ネットのテレビ画面とネットの海を股にかけて、ご当地ヒーローの皮を被った『社会風刺』を世界中にバラまいている。もはや従来の政治家や官僚の枠組みでは括れんよ。あいつは、ただの『一人の若者』でありながら、今の世の中の空気そのものを動かしている」
その父の向かい側の席で、母親は手元のタブレットでSNSの凄まじい反響や海外からの絶賛コメントの数々に目を通していた。
彼女は呆れたように小さく息をつき、やがてフッと上品な笑みを浮かべた。
「……本当に、相変わらず手のかかるやり方をする子ね。上品でもなければ、お行儀が良いわけでもないわ」
母親は、画面の中で子どもを守るために容赦なく悪を叩き潰し、静かにマックスコーヒーを差し出したブラウンの背中を見つめた。
「けれど……あの男の子の根底にあるもの――『子どもに世界は甘くていい』というメッセージ自体は、ねえあなた。今の殺伐とした大人社会の誰が、あんな泥臭く、まっすぐな言葉で伝えられたかしら?」
「ああ」
父親はグラスのウイスキーを傾け、満足そうに頷いた。
「綺麗事ではなく、かといって冷笑だけでもない。あのひねくれた優しさこそが、今の息苦しい世の中に風穴を開ける特効薬というわけだ。……まったく、我が次女が選ぶ男は、どいつもこいつも規格外だな」
呆れながらも、その底知れない才能と、決して曲げない芯の強さに深く感心した二人。
日本の中枢を動かす実力者たちをも唸らせる「ブラウン」の狂騒曲は、いよいよ最高潮の熱量を帯びて、次のステージへと進もうとしていた。