世界をまたにかける「出張ヒーローショー」
地上波での大ブレイク、そして海を越えたネットでの神回拡散により、「ブラウン」の人気はもはや日本国内のローカルムーブメントに留まらなくなっていた。
「……なぁ、高柳」
オフィスのソファで、八幡はため息をつきながら手元のフライトスケジュール表を見つめた。
「なんで俺が、スーツケース片手に成田空港にいるわけ? しかも行き先が海外って、俺の聞いてた『ひっそり暮らすローカルヒーロー』の計画からどんどん乖離してないか?」
「何を言っているんですか、理事長。鉄は熱うちに打て、と言います。海外での『シリアス回』の反響がこれほどまでに大きいのですから、現地の子どもたちやファンに生(ライブ)のブラウンを見せるのが、大人の誠意というものです」
高柳は完璧な笑顔でトレンチコートの襟を直し、隣に立つメンバーたちに合図を送る。
「そうだよお兄ちゃん! 現地のファンから『うちの国にも来て!』って嘆願書が山ほど届いてるんだよ! 行こう行こう!」と小町が目を輝かせ、材木座は「ふはははっ! 我がダーク・アナロギアの神話がいよいよ世界へ侵略を開始するのだ!」と中二病全開で気合を入れている。
雪乃は「向こうでの現地コーディネイトやスポンサー企業との折衝は私がすべて整えてあるわ。しっかり頼むわよ、ブラウン」と上品に微笑んだ。
こうして、八幡(ブラウン)を含むチーム「ブラウン」は、熱烈なオファーが殺到している海外の某国へと飛び立つことになったのだった。
現地特設ステージの熱狂と、まさかの展開
異国の地、大きな公園に特設された野外ステージ。
事前のSNS告知だけで数千人のファンが集まり、会場は「BROWN!」「BROWN!」という大合唱で異様な熱気に包まれていた。日本から持ち込んだ巨大な「MAX COFFEE」のロゴ看板が、異国の空の下で妙な異彩を放っている。
(……おいおい、海外のファンってこんなにテンション高いのかよ)
ステージ裏のテントで、特製スーツのマスクを被りながら八幡は遠い目をしていた。
「あ、出番ですよお兄ちゃん!」
小町の合図で、重い足取りのままステージへと歩み出るブラウン。
日本のローカルイベントと同じように、現地の言葉を喋るわけでもなく、ただ気だるげにトレンチコートのポケットに手をつっこみ、重厚な足取りでステージの真ん中に立つ。
それだけで、会場のボルテージは最高潮に達した。
ミニショーの演目は、海外でも大人気の「理不尽なトラブルをシュールに解決する」スタイルだ。
現地のエキストラ演者演じる「強面のアクション悪役」が暴れ回る中、ブラウンは面倒くさそうに歩み寄り、一撃でそれを制圧。そして、おもむろに取り出した現地のマックスコーヒー(あるいは輸入された本家)のプルタブをパキッと開け、オープンマウス仕様のマスクからごくごくと飲み干す。
そして、客席に向けてあの低いハスキーボイスを響かせた。
“Sometimes, the world doesn't have to be black and white.”
(世の中、何でもかんでも白黒つかねえ時もある。)
英語の字幕や同時通訳を通してその言葉が伝わった瞬間、会場は爆笑と大歓声の渦に包まれた。
極めつけは、現地の小さな子どもがステージに駆け寄ってきたときだ。
ブラウンは少し困ったように頭をポリポリと掻きながらも、その子の頭をポンと撫で、持っていた缶コーヒーをそっと手渡して言い放った。
“It's okay for the world to be sweet to children.”
(子どもに世界は甘くていい。)
その瞬間、国境や言葉の壁を完全に超越した圧倒的な「優しさとシュールさ」のギャップに、現地の観客たちは涙を流す者まで現れるほどの熱狂に包まれたのだった。
現地SNSをも制圧、止まらない快進撃
その海外出張ヒーローショーの様子は、観客たちが撮影したスマホ動画によって、瞬く間に現地のSNSや動画プラットフォームへとアップロードされた。
「待って、日本の謎のダークヒーローが我が国にやってきたぞwww 生で見たら想像以上にシュールでカッコいいんだけど!」
「子どもに優しくして、自分は甘いコーヒーを飲んで去っていく……これぞ真のグローバル・ヒーローだ!」
「セリフの英語の響きが渋すぎて惚れた。もっと世界中の都市に来てくれ!」
現地のトレンドワードの1位を「#BrownHero」が独占し、翌日の現地ニュースやバラエティ番組でも「日本からやってきたシュールで優しいヒーローの奇跡」として大々的に取り上げられることになった。
ホテルの自室に戻り、スーツを脱いでベッドに倒れ込んだ八幡は、疲労困憊といった様子で大きく息を吐いた。
「……疲れた。もう二度と海外になんて来るかよ……」
「何言ってるのにお兄ちゃん! 現地のファンクラブの登録者数、この数時間で数十万人増えてるよ!」と、小町がスマホ画面を見せながら大はしゃぎする。
高柳は満足そうにワイングラスを傾け、雪乃は「お疲れ様、ブラウン。あなたのその泥臭い背中は、国境を越えてちゃんと届いたわね」と優しく声をかけた。
世界を股にかけ、甘いコーヒーの香りと共に「アナログな優しさ」をバラまいていくブラウンの旅は、いよいよ地球規模の伝説へとその歩みを加速させていくのだった。
異国のピッチ、まさかの再会
海外出張中のとある街、開放的なカフェテラス。
八幡がいつもの気だるげな様子でマックスコーヒーを飲んでいると、すぐ近くの通りから、周囲の通行人がざわつくほどよく通る明るい声が響いてきた。
「いやぁ、今日の練習マジでキツかったけど、この街の雰囲気やっぱ最高だな!」
「おい戸部、はしゃぎすぎんなよ。オフなんだからリラックスしろって」
(ん……?)
八幡が眉をひそめてそちらに視線を向けると、見慣れた金髪を揺らしながら歩いてくる一団の姿があった。
ジャージの上着をラフに羽織り、あきらかに一般人とは違う並外れた体躯とオーラをまとった男――総武高校の卒業生であり、現在は海を渡って海外のプロサッカーリーグで戦っている戸部翔だった。
戸部といえば、高校時代からサッカーにかけては人一倍熱く、卒業後は海外のクラブチームへと飛び込み、今やチームの主力としてピッチを駆け回る「本物のプロアスリート」として活躍している。
まさか地球の裏側のこんな場所で、戸部に遭遇するとは夢にも思っていなかった八幡は、思わずサングラスを少しずらして動きを止めた。
プロサッカー選手・戸部翔の鋭い直感
しかし、一流のアスリートとしての反射神経と動体視力は、伊達ではなかった。
ふとカフェテラスに目を向けた戸部は、隅っコでジト目をしながら異国情緒とは無縁の顔で缶コーヒーを飲んでいる男にすぐ気づいた。
「ん……? あれ……? なんか、あのひねくれた目つきのシルエット、めちゃくちゃ見覚えあるんだけど……」
戸部はスタスタと歩いて近づき、八幡の顔を覗き込むと、次の瞬間、目を丸くしてひっくり返りそうな声を上げた。
「って、比企谷じゃねぇかーーっ!? おまっ、何やってんだこんな海外の街角で!! プロの遠征にでもついてきてるわけ!?」
「うわっ、マジかよ戸部。……お前、声がデカい」
八幡は心底めんどくさそうに頭をポリポリと掻く。
「いや俺はこっちのチームの練習と試合で来てんだよ! それよりお前こそ、なんでそんな一般観光客のフリしてアジアの片隅にいるんだよ!」
戸部がまくし立てるようにそう言った時、ふと、戸部の視線がテーブルの上の「マックスコーヒー」のパッケージ、そして近くの大型ビジョンに流れていた『ブラウン』の海外出張イベントの映像をとらえた。
映像の中では、見覚えのある(しかしどう見ても渋すぎる)ポーズで立ち、マスクを開けてマックスコーヒーをごくごく飲み干すブラウンの姿が、大音量で流れている。
戸部は、ビジョンと、目の前にいる比企谷八幡の顔を、二度、三度と交互に見比べた。
プロとして世界をまたにかける男の直感が、一瞬ですべての点と線を繋ぎ合わせる。
「……は……? え……? マジ……?」
数秒の沈黙のあと、戸部は腹の底からこみ上げてくる笑いをこらえきれなくなり、カフェのテラスが響くほどの爆笑の声を上げた。
「ぶっはーーーーっ!! 嘘だろ!? おい、みんな聞いてくれよこれ!! 世界中で今めちゃくちゃバズってるあの謎のダークヒーロー『ブラウン』って……!! まさかの中の人、我が高校の同級生の比企谷じゃねぇかーーっ!!!」
「マジかよ戸部!? あの『子どもに世界は甘くていい』って言ってたの、アイツなの!?」
一緒にいたチームメイトの外国人選手たちも、スマホのニュース画面と八幡を交互に見ながら「No way...(マジかよ)」「The Hero is here!?(ヒーローがここに!?)」と腹を抱えてひっくり返りそうになっている。
プロのアスリートからのリスペクト
「……うるせぇ。笑いすぎだ、お前ら」
八幡は顔を真っ黒(不機嫌)にしながらマックスコーヒーの缶を握りつぶしそうになったが、周りの客やファンたちが「あれがブラウンの中の人か!?」とざわつき始めたのを見て、盛大に頭を抱えた。
しばらくして、どうにか笑い収めた戸部は、アスリートらしい引き締まった顔に戻ると、面白そうにニヤリと笑って八幡の肩をパンと叩いた。
「いやぁ、参ったわ! 俺らプロはさ、ピッチの上で結果出すために毎日必死で戦ってさ、時には白黒はっきりつけなきゃいけないプレッシャーと戦ってんだよ。だけどさ、お前のやってるあの『白黒つかねえ時もある』ってコンセプト、マジで最高にクールだわ!」
戸部はスマホでブラウンの「神回」の動画をひっぱり出し、チームメイトに見せながら誇らしげに胸を張る。
「こいつは俺の高校の同級生でさ、見た目はひねくれてるけど、世界中の人たちに『甘いコーヒー飲んでテキトーにやろうぜ』って背中見せてるすげぇ奴なんだぜ!」
「……やめろ、変に持ち上げるな。お前こそ、怪我して足引っ張んなよ」
八幡は照れ隠しのようにそっぽを向いたが、世界を舞台に戦うプロサッカー選手である戸部からのその言葉は、どこか妙に心地よく響いていた。
少し離れた席でそのやり取りを見ていた雪乃はふっと上品に微笑み、「ふふ、世界で戦うアスリートにも認められるなんて、あなたのブラウンも大したものね」と紅茶を傾ける。
高柳は「これは次回のプロモーションで、プロサッカー選手とのコラボ展開が狙えますね」とノートに素早くメモを走らせた。
地球の裏側、世界のピッチの近くで、プロとして戦う旧友に正体を爆笑されながらもバレてしまったひねくれたヒーロー。
甘いコーヒーを片手に、ブラウンの快進撃は、アスリートの熱気をも巻き込んでさらに加速していくのだった。
異国のピッチと、変わらない絆
海外出張中のとある街、開放的なカフェテラス。
八幡がいつもの気だるげな様子でマックスコーヒーを飲んでいると、すぐ近くの通りから、周囲の通行人がざわつくほどよく通る明るい声が響いてきた。
「いやぁ、今日の練習マジでキツかったけど、この街の雰囲気やっぱ最高だな!」
「おい戸部、はしゃぎすぎんなよ。オフなんだからリラックスしろって」
(ん……?)
八幡が眉をひそめてそちらに視線を向けると、見慣れた金髪を揺らしながら歩いてくる一団の姿があった。
ジャージの上着をラフに羽織り、あきらかに一般人とは違う並外れた体躯とオーラをまとった男――総武高校の卒業生であり、現在は海を渡って海外のプロサッカーリーグで戦っている、八幡の数少ない「親友」の戸部翔だった。
まさか地球の裏側のこんな場所で、戸部に遭遇するとは夢にも思っていなかった八幡は、思わずサングラスを少しずらして動きを止めた。
親友の爆笑と、まさかの正体発覚
一流のアスリートとしての反射神経で、カフェテラスの隅にいる男にすぐ気づいた戸部は、スタスタと歩み寄るとバシッと八幡の背中を叩いた。
「おまっ、比企谷じゃねぇかーーっ!? なんでこんな海外の街角にいるんだよ! 連絡くらいしろよな、水臭いぜ!」
「うわっ、いてぇな……。お前、相変わらず声がデカいんだよ、戸部」
八幡は肩をさすりながらも、どこか嬉しそうな、しかし面倒くさそうな顔を隠せない。
「いや驚くわ! こっちはリーグの遠征と試合で来てんだよ! それよりお前こそ、なんでそんな一般観光客のフリして――」
戸部がそこまで言ったとき、ふと視線の先の大型ビジョンに、現在世界中で大バズりしている『ブラウン』の海外出張イベントの映像が映し出された。
映像の中の渋いポーズ、そしてマスクを開けてマックスコーヒーを飲み干す姿。
戸部はビジョンと、目の前の親友の顔を交互に見比べ、すべてを察した瞬間、腹の底からこみ上げる笑いをこらえきれなくなった。
「ぶっはーーーーっ!! 嘘だろ!? おい、みんな聞いてくれよこれ!! 世界中で今めちゃくちゃバズってるあの謎のダークヒーロー『ブラウン』ってさ……!! まさかの中の人、俺の親友の比企谷じゃねぇかーーっ!!!」
「マジかよ戸部!? あの『子どもに世界は甘くていい』って言ってたの、お前の親友なの!?」
一緒にいたチームメイトの外国人選手たちも、スマホのニュース画面と八幡を見比べながら大爆笑の渦に巻き込まれる。
「元大臣・比企谷八幡」を知る男のサイン要求
「……うるせぇ。笑いすぎだ、お前ら」
八幡が頭を抱えて顔をしかめていると、その一団の中で、ひときわ体格の良い巨漢の外国人選手――かつて政治や国際ニュースを人一倍熱心に追いかけていたというチームのベテラン選手が、妙に真剣な目をしながら一歩前に出た。
男はスマホの画面ではなく、かつて日本で政治の裏舞台を大きく揺るがし、のちにその激動の半生がドキュメンタリー映画として世界中で配信された「元大臣・比企谷八幡」のドキュメンタリーのサムネイルを差し出した。
「待てよ戸部。このヒーローの中の人がお前の親友ってだけでも信じられないが……オレはあんたを知ってるぞ、ヒキガヤ」
その言葉に、周囲の空気がわずかにピリッと引き締まる。
「数年前に日本の政治の中心で国を動かし、若くして特命を担った『元・大臣』……そして、あの激動の政治闘争を描いた自伝的映画の主人公として、オレたちはスクリーンであんたの生き様を観たんだ。まさか、あの時の政治家が、今度は地球の裏側でローカルヒーローのスーツを着てコーヒーを飲んでるなんて誰が思うかよ!」
巨漢選手は興奮を隠しきれない様子で、自分のユニフォームとサインペンを八幡の前にドンと突き出した。
「頼む、サインをくれ! あの映画で政治の表と裏を渡り歩いたあんたが、今度はフィクションの枠を超えて『子どもに世界は甘くていい』って世の中にメッセージを投げかけてる……その生き様に最高にシビれたんだ! レジェンドのサインを頼むぜ、ヒキガヤ!」
かつての政治的キャリアと、今のシュールなヒーロー活動。その両方を知る男からの熱烈なリクエストに、八幡はしばらくジト目でペンを見つめ、やがて「……はぁ」と大きなため息をついた。
「おい、俺はもう過去の肩書なんてどうでもいい一般人だ。それに、今は政治家でも何でもねぇよ」
八幡は差し出されたペンを受け取ると、ユニフォームの布地に無造作に、しかし力強い筆跡でこう書き記した。
『BROWN』
「……なっ、名前が『ブラウン』じゃねぇか! あんたの名前はヒキガヤだろ?」と巨漢選手が驚いたように声を上げる。
八幡はふっと不敵に、しかしどこか気だるげな笑みを浮かべ、書き上がったユニフォームを男にポンと投げ返した。
「過去がどうであれ、今の俺は『ブラウン』だからな」
その答えに、戸部は親友の背中をポンと強く叩き、「最高だぜ、ブラウン!」と声を上げて笑った。元大臣の過去も、世界を救うヒーローの顔も、親友の前ではただの「いつもの比企谷八幡」のままで、二人はコーヒーを片手に穏やかな時間を分かち合うのだった。
プロサッカー選手、まさかのCM出演オファー
地球の裏側のカフェテラスで旧友の戸部と再会し、過去のキャリアから現在の「ブラウン」としての活動まで盛大にいじり倒された翌日。
チーム「ブラウン」の臨時ミーティングルームに、なぜか一人の巨漢――いや、プロサッカー選手である戸部翔その人が、私服のジャージ姿でぽつんと座っていた。
「いや、まさか俺までチーム『ブラウン』の作戦会議に呼ばれるとは思わなかったわ!」
戸部は緊張感のかけらもなく笑いながら、目の前に置かれたマックスコーヒーをジッと見つめている。
それもそのはずである。昨日のカフェでの偶然の再会、そして「元大臣の八幡が今は世界的なブラウンとしてコーヒーを飲んでいる」というシュールすぎるエピソードは、同行していた高柳のアンテナを激しく刺激していたのだ。
「フフ、素晴らしい偶然ですね」
高柳は眼鏡のブリッジを押し上げながら、完璧な微笑みを浮かべた。
「世界で戦うプロサッカー選手である戸部くんが、オフの最中に我らがブラウンとカフェで合流し、共に甘い缶コーヒーを傾ける……。これ以上にない、最高にリアルで贅沢なクロスオーバーではありませんか」
「は? 何言ってるんだ高柳。こいつはただの観光客……じゃなくて、現役のプロアスリートだぞ。そんな暇なわけ――」
八幡がやれやれといった顔で遮ろうとするのを、戸部はむしろ目を輝かせて遮った。
「待て待て比企谷――いや、ブラウン! 面白そうじゃねぇか!」
戸部はガバッと立ち上がり、胸を張ってみせた。
「俺だってさ、ピッチじゃ毎日ストイックに結果残すために戦って、プレッシャーで胃が痛くなる思いしてんだよ。そんな時に、お前のあの『白黒つかねえ時もある』ってスタンスや、このドギツい甘さのコーヒーにどれだけ救われてるか……! CMに出ろって言うなら、喜んで協力するぜ!」
「……おいおい、お前の所属チームの監督に怒られても知らねぇぞ」
「オフの公式なプロモーション活動の一環ってことにしとけば大丈夫だって!」
こうして、現場のノリと高柳の圧倒的な実行力により、急遽「ブラウン&プロサッカー選手・戸部」のコラボCMの企画が立ち上がることになった。
「戦士の休息」篇、撮影開始
数日後、撮影の舞台となったのは、ヨーロッパの古い街並みを見下ろす静かな丘の上の公園、そしてその傍らにポツンと佇む自動販売機の前だった。
夕暮れ時。
激しいトレーニングを終えたばかりのプロサッカー選手・戸部が、息を弾ませながらジャージ姿でベンチに腰掛けている。ピッチの上で見せる鋭い眼光やファイターとしての気迫はそのままに、その背中にはどこか「戦い抜いた男の疲れ」がにじみ出ていた。
カチャリ、と自動販売機から冷えた缶が落ちる音。
戸部が取り出したのは、もちろん「マックスコーヒー」だ。プルタブを引っ張り、あの独特の甘い香りが夕暮れの空気にフワッと広がる。
「ふぅ……マジでキツい試合だったな。勝ったからいいものの、一歩間違えばボロ負けだったぜ……」
戸部が苦笑しながら缶を傾けようとした、その時――。
スッと、視界の隅に「白と黒のバイカラー、中央に茶色のライン」が入ったトレンチコートの裾が入り込んできた。
いつもの気だるげな足取りで、ブラウン(八幡)が何も言わずに戸部の隣のベンチにどっかりと腰を下ろす。
戸部は驚くこともなく、ただフッと笑って、もう一本ポケットから取り出していた(あるいは自販機で一緒に買っていた)マックスコーヒーを無言でブラウンに投げ渡した。
ブラウンはそれをキャッチすると、手際よくプルタブを開け、お馴染みのオープンマウス仕様のマスクの口元から、ごくごくと喉を鳴らして甘い液体を流し込む。
二人の男の間を、夕方の穏やかな風が通り抜けていく。
激しい戦いのあとの、ほんの一瞬の静寂。
ふと、戸部が遠くの空を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「なぁ……ピッチじゃいつも、勝つか負けるか、白黒ハッキリつけろって言われるだろ。たまには、息抜きしたっていいよな」
その言葉に、ブラウンは缶コーヒーを軽く振ってから、いつもの低くハスキーな声で、ボソッと言い放った。
「……世の中、何でもかんでも白黒つかねえ時もあるさ。……たまにはな」
画面の向こうの喧騒を忘れさせるような、最高の「戦士の休息」。
夕日に染まる街並みの中、二人の男が並んで甘い缶コーヒーを掲げるシルエットで、CMの画面は静かにフェードアウトしていく。
そして、本当に「伝説のCM」へ
後日、この『ブラウン&戸部コラボCM:戦士の休息』が世界中のテレビおよびネットで放映されると、事前の予想を遥かに超える歴史的な大反響を巻き起こした。
「待って、本物のプロサッカー選手とブラウンが並んでマックスコーヒー飲んでる画力強すぎだろwww」
「『戦士の休息』ってタイトル完璧すぎんか……。世界中で戦うアスリートが、あの甘いコーヒーで一息つく姿にガチで泣きそうになった」
「比企谷八幡、ついに親友まで巻き込んで本格的な世界企業CMのメインスターになってて草。でも最高にクールだわ」
ネットのトレンドはもちろん、世界中のスポーツニュースや経済紙の特設コラムにまで取り上げられ、もちろんのこと日本国内外のマックスコーヒーの売上は再び歴史的な爆発記録を更新することになった。
オフィスのソファで、テレビに流れる自分たちのCMをジト目で眺めながら、八幡は深々とため息をついた。
「……なぁ、高柳。俺たちのこの企み、いよいよ収拾つかなくなってきてねぇか?」
「何を言っているんですか、理事長。世界中の戦士たちが癒やしを求めているのです。さあ、次はどの街のどんな日常を『甘く』してやりますか?」
雪乃が淹れてくれた紅茶のカップを片手に、八幡は横で「いやぁ、俺の演技力どうだった!? 完璧だったろ!」とにはかににはしゃぐ戸部を一瞥し、やれやれと首を横に振るのだった。
世界を巻き込んだひねくれたヒーローの物語は、親友という最高の相棒を巻き込みながら、今日もどこかで甘い香りを漂わせている。
第0回:ブラウン誕生――千葉も東京もない、どちらも守る
すべてが始まった場所。
それは、東京と千葉の境界線――幾度となく「埼玉」や「神奈川」を巻き込みながら、ネットの海やローカルの意地でいがみ合いを続けてきた、あまりにも不毛で、しかしどこか熱を帯びた「終わらない戦場」だった。
「なんでだよ……。どうして東京と千葉は、こうもくだらないことで争い続けなきゃならねぇんだ……」
かつてその境界の街に暮らしていた、比企谷八幡という名の男は、激しい喧騒の真ん中にぽつんと立っていた。
テレビのチャンネルを回せば「東京の洗練された都会風情」と「千葉の強烈なローカル愛(あるいは自虐)」がぶつかり合い、SNSのタイムラインを開けば「ディズニーはどっちのものか」「首都圏のベッドタウンとしてのプライド」をかけた不毛な論争が昼夜問わず繰り広げられている。
白か黒か。
都会か地方か。
勝者か敗者か。
世の中はいつだって、何でもかんでも二者択一(0か1)のシニカルな境界線で切り分けられ、人々はそのトゲトゲしい対立にすり減らされていた。
「白黒つけろ!」「お前の街はダサい!」「いや、東京こそ冷酷だ!」
双方の意地と見栄、そして終わらない争いのエネルギーが、夜の境界線上で激しい衝突を起こす。その瞬間、互いの胸に渦巻いていた「なぜ我々は争うのか」「本当は、ただ自分の愛する街や日常を守りたいだけなのに」という切実な意思の光が、夜空へと激しく噴き上がった。
ゴゴゴゴゴ――!
街の喧騒がピタリと止まる。
交錯した無数の光の粒子が、まるで磁石に引き寄せられるように、ただ一人の男――八幡の身体へと集中していく。
「ぐっ……なんだ、これ……!?」
眩い光が八幡を包み込み、白と黒のバイカラー、そしてその境界をまっすぐに貫く「あたたかな茶色のライン」が、彼の身体にスルスルと纏い付いていく。
トレンチコートが夜風になびき、顔にはあの「いつでもマックスコーヒーが飲める」オープンマウス仕様のマスクがガッチリと装着された。
世界中の不毛な対立のエネルギーを一身に背負い、二つの巨大都市の意地が交差する奇跡の中で――「ブラウン」が、ここに誕生した瞬間だった。
そして、すべての物語は繋がっていく
光の中からゆっくりと顔を上げたブラウン(八幡)は、目の前でまだ言い争いを続けようとしている東京と千葉の群衆を見据え、その低くハスキーな声を夜空に向けて響き渡らせた。
「……いい加減にしろ!」
その一喝だけで、周囲の空気が完全に凍りつく。
ブラウンはポケットから片手でマックスコーヒーの缶を取り出し、パキッと静かにプルタブを開けた。
「千葉も東京もない! どっちも守る、それで十分だろ!」
白黒つける必要なんてない。どちらか一方が勝つ必要もない。
理不尽な世界でいがみ合うすべての人間たちへ向けて放たれたその最初の叫びは、すべての争いを一瞬で脱力させ、そして温かな笑いと優しさへと変えてしまった。
――これが、「ブラウン」の始まりの物語。
数々のシュールな仲裁劇も、ネットのバズも、チーバくんとのカオスな共演も、地上波の全国放送も、海外での大熱狂も、そして親友の戸部と一緒に飲んだ「戦士の休息」の缶コーヒーも――すべてはこの第0回、あの境界線の夜から繋がっていたのだ。
世界中の日常を少しだけ甘く変えていくひねくれたヒーローの伝説は、今日もどこかで、静かにプルタブを開ける音とともに続いている。
終わらない物語の、一番最初の夜
静まり返った試写室、あるいはチームのオフイス。
ブラウンのすべての軌跡を描ききった「最終回(第0回)」の映像が暗転し、エンドロールの静かなピアノ曲が消えていくと、部屋にいた面々はしばらく言葉を失っていた。
「……ふう」
ふっと息をつき、長い足を組み直しながら、雪ノ下陽乃はいつもの底の見えない微笑みを浮かべた。
彼女はその端整な顔に少しだけ呆れたような、しかしどこか愛おしそうな光を宿しながら、画面の真ん中に映る「ブラウン誕生の瞬間」を見つめる。
「なるほどねぇ。今まで散々『世の中、白黒つかねえ時もある』とか『子どもに世界は甘くていい』とかカッコいいこと言っておきながら……すべての始まりは、あのくだらない東京と千葉の境界線の言い争いだったわけだ」
陽乃の隣で、雪乃は上品に紅茶のカップをソーサーに置き、小さく息を吐いた。
「……まったく。あの人らしい、あまりにも視野の狭い、けれどどこまでも彼らしい動機だわ。まさか、あの街の小競り合いが世界を巻き込むヒーローの原点だったなんてね」
「あはは! そういえばお兄ちゃん、普段から『千葉と東京なんてどっちもどっちだろ』って口癖のように言ってたもんね!」
小町がケラケラと笑いながらスマホをいじり、材木座が「くっ……我がダーク・アナロギアの神話、ついに創世記まで完結したか……!」と一人で感極まって涙ぐんでいる。
川崎は「……でもよ」と、腕を組みながら少しだけ表情を和らげた。
「あの時、どっちか片方を選ぶんじゃなくて『どっちも守る』って叫んだからこそ、今のブラウンがあるんだろ。……確かに、劇中では一度もそんなセリフ言ってなかったな」
高柳は満足そうに眼鏡を押し上げ、「ええ。だからこそ、この『第0回』がすべての回収であり、最高のフィナーレになるのです」と頷いた。
カフェの隅で、甘いコーヒーを片手に
その頃。
世界的な大ブームの真ん中にいながら、相変わらずトレンチコートの襟を立て、地味なパーカー姿でオフィスの隅っこにポツンと座っていた比企谷八幡は、自分の過去の黒歴史をこれでもかと神話に昇華させた映像を見せられ、盛大に顔をしかめて頭を抱えていた。
「……お前ら、いい加減にしろよ。なんで俺の昔のただの地方ディス混じりの愚痴が、いつの間にか壮大なヒーローの誕生秘話になってんだよ……恥ずかしすぎて死にそうなんですけど」
「何を言っているのよ、理事長。最高じゃないですか」
ひょっこりと顔を出した陽乃が、面白そうに八幡の肩をポンと叩く。
「『千葉も東京もない! どっちも守る!』って、あの時のあなたの本音が、そのまま地球の裏側まで届いたんだから。ねえ、そうでしょう?」
「……知らねぇよ。勝手に盛るなよ」
八幡はぶつぶつと文句を言いながらも、手元に置かれた黄色と緑の缶――マックスコーヒーのプルタブをパキッと引っ張った。
甘くて、どこか苦い。
けれど、たくさんの仲間や親友、そして世界中の人たちと分け合ったその味は、あの境界線の夜から何も変わっていない。
千葉も東京もない。
白も黒もない。
ただ、目の前にある理不尽な日常を少しだけ甘くするために――。
ひねくれたヒーロー「ブラウン」は、今日も変わらぬ気だるげな足取りで、誰かのために静かにコーヒーの缶を掲げているのだった。
モニターの光が、世界中の夜の部屋を照らし出していた。
北の雪深い地方の茶の間でも、南の太陽が照りつける島国のリビングでも。
あるいは、言葉の通じない遠い外国のベッドルームや、都会の喧騒から少し離れた小さなアパートの窓辺でも。
画面の向こうで繰り広げられた「東京と千葉の不毛な境界線争い」と、そのくだらなさの中から生まれた「千葉も東京もない! どっちも守る!」という不格好な叫びを、人々は息を呑んで見つめていた。
――もしこれが、東京と千葉じゃなかったら?
見終わったあと、誰もがふと、自分の足元に視線を落とした。
「もしこれが、うちの県と隣の県だったら……」
「うちの街と、目の前のあいつとのくだらない意地の張り合いだったら……」
「あの時、言い争う代わりに『どっちも』って、笑い飛ばせたら……」
田舎と都会の対立。
世代間の断絶。
国境を挟んだ終わらない小競り合い。
そして、毎日のように顔を合わせるのに、なぜか挨拶すらしない隣人との間の、見えない壁。
人間はいつだって、何かを「白」と「黒」に分けたがる。味方と敵、正しい者と間違っている者をきっちり線引きして、自分の正しさを証明したがる。
だけど、あのひねくれた男は言ったのだ。
「どっちも守る」と。
どちらか一方が負ける必要なんかない。どちらか一方が排除される必要なんかない。
ただ、そこにある日常や、くだらない生活の営みを、まるごと包み込んでしまえばいい。
テレビやスマホの画面を消したあとの静かな部屋で、人々はそれぞれの「自分の街」や「自分の隣人」の顔を思い浮かべた。
トゲトゲしかった心に、ほんのわずかな隙間風が吹く。
馬鹿馬鹿しいと笑いながらも、なぜか胸の奥がじんわりと熱くなる。
――世界は、少し優しくなるのだろうか。
完璧じゃないヒーローが残したあたたかな甘さは、国境を越え、県境を越え、人と人との境界線をそっと溶かしていく。
明日からは少しだけ、隣の人に優しくできるかもしれない。そんな予感を残したまま、物語の幕は、静かに、そしてあたたかく閉じられたのだった。
「いやあ、なんだかんだで綺麗にまとまって、最高に好評のうちに終われたな!」
オフィスのソファにドッと腰を下ろしながら、戸部が感慨深げにビール(あるいはノンアルコール)の缶を掲げた。世界を巻き込んだ大騒動も、伝説の第0回を迎えた配信の終了も、すべてが最高の形で幕を閉じた瞬間だった。
その言葉に、雪乃は手元のティーカップをソーサーに上品に乗せ、ふっと静かに微笑んだ。
「……そうね。あれだけの熱狂を生み出して、綺麗に物語のピースを噛み合わせて完結させる。作り手としては、これ以上ない幕引きだわ。なんだか、少し名残惜しい気もするけれど」
「だな。綺麗に終わる美学ってやつも、我がダーク・アナロギアの神話においては重要不可欠……って、おい待て!!」
それまで静かに感傷に浸っていた材木座が、突然ガバッと立ち上がり、鬼の形相で両手をブンブンと振った。
「何を言っているんだ貴様ら!! なんだその『終わった』みたいな空気は!!」
「え? いや、だって一応これで区切りだろ?」と首をかしげる戸部に、材木座はふんすいと鼻息を荒くしながら叫んだ。
「何を言うか! 別にブラウンの物語はここで終わらなくて良いだろ! アニメや特撮の世界において『最終回』とは、単なる『一旦の終了』に過ぎん! お前たち、沖縄が誇る伝説のご当地ヒーロー『琉神マブヤー』を知らんのか!?」
「る、琉神マブヤー……?」
「そうだ! 彼はな、何年も何年も、形を変え、時代を超えて沖縄の地に根強く愛され続け、今なお生き続けている永久不滅の戦士なのだ! ブラウンだって同じだ! ここで綺麗に畳んで幕を引く必要などない! これから先も、ひっそりと、しかし根強く、この世界に残り続けていくのだよ!!」
中二病全開でありながら、なぜか妙に熱い材木座の演説に、オフィスの一同は思わず顔を見合わせた。
「……ふっ、相変わらず無駄に熱いわね、材木座くんは」
雪乃は呆れつつも、どこか楽しそうに目を細める。
「でも……まあ、確かに『終わり』って決めつける必要もないのかもしれないわね」
オフィスの隅っこで、相変わらずトレンチコートの襟を立て、マックスコーヒーの缶をいじっていた八幡は、面倒くさそうに片手をヒラヒラと振った。
「おいおい、勝手に不滅のヒーローに仕立て上げんなよ。こっちはいい加減、静かにコーヒー飲んで暮らしたいんだからな」
「何を言ってるのお兄ちゃん! 材木座くんの言う通りだよ! これから全国の、いや世界中のローカルヒーローとして、細く長く愛される定番コンテンツを目指すんだから!」と小町がスマホを片手に気炎を上げる。
高柳も「ふふ、沖縄の精神を見習うとは、なかなか面白いブランディングですね」と眼鏡を光らせた。
終わらない。いや、終わらせない。
綺麗なフィナーレを迎えたその裏で、ブラウンという名の「ひねくれた優しさ」は、これからもずっと、人々の日常のなかに根強く、あたたかく残り続けていくのだ――。
そして、CMは流れる――
心地よい熱気と、どこか名残惜しさを残したオフィスでの一幕のあと。
世界中のテレビやネットで、ひっそりと、しかし強烈なインパクトを残す「最後のCM(あるいは次の時代の予告編)」が放映され始めた。
――夕暮れの染まる、寂れた街の公園。
すべり台の陰で、小さな子どもが一人、ポツンと座っていた。
その目の前には、いつかの悪夢を思い出させるような、ちょっとした理不尽や不安の影が落ちている。けれど、もうそこには誰もいない。
(あ……ブラウン、行っちゃうの……?)
トレンチコートの裾を揺らし、いつもの気だるげな足取りで立ち去ろうとするブラウン(八幡)の背中に向かって、子どもが震える涙声で呼びかけた。
ブラウンの足が、ピタリと止まる。
彼はゆっくりと、しかしどこか面倒くさそうに首をかしげ、振り返ることもせず、ただ静かに低いハスキーボイスを夜空に響かせた。
「……これでも一応、ヒーローだ」
そして、ポケットに片手をつっこんだまま、背中を向けたまま、ポツリと言い放つ。
「困ったら……空に俺の名を呼んでくれ。いつでも駆けつける。……出来る範囲で、な」
シュールで、不器用で、どこまでも彼らしいその台詞を残し、ブラウンはそのまま夕闇の中へと歩き去っていく。
子どもの顔に、ふっと小さな笑顔が戻り、手にはあの甘いマックスコーヒーが握られている――。
画面が暗転し、静かな余韻の中にロゴが浮かび上がる。
――『ブラウン』、またいつか。
綺麗に終わったはずの物語の最後に仕込まれた、あまりにも露骨で、けれど最高にワクワクする「続編への匂わせ」。
それを観た世界中の視聴者たちは、テレビの前で苦笑いしながらも、心の中でこう呟いたのだ。
「……まったく、いつまで経っても相変わらずだな」と。
そして、CMは流れる――
心地よい熱気と、どこか名残惜しさを残したオフィスでの一幕のあと。
世界中のテレビやネットで、ひっそりと、しかし強烈なインパクトを残す「最後のCM(あるいは次の時代の予告編)」が放映され始めた。
――夕暮れの染まる、寂れた街の公園。
すべり台の陰で、小さな子どもが一人、ポツンと座っていた。
その目の前には、いつかの悪夢を思い出させるような、ちょっとした理不尽や不安の影が落ちている。けれど、もうそこには誰もいない。
(あ……ブラウン、行っちゃうの……?)
トレンチコートの裾を揺らし、いつもの気だるげな足取りで立ち去ろうとするブラウン(八幡)の背中に向かって、子どもが震える涙声で呼びかけた。
ブラウンの足が、ピタリと止まる。
彼はゆっくりと、しかしどこか面倒くさそうに首をかしげ、振り返ることもせず、ただ静かに低いハスキーボイスを夜空に響かせた。
「……これでも一応、ヒーローだ」
そして、ポケットに片手をつっこんだまま、背中を向けたまま、ポツリと言い放つ。
「困ったら……空に俺の名を呼んでくれ。いつでも駆けつける。……出来る範囲で、な」
シュールで、不器用で、どこまでも彼らしいその台詞を残し、ブラウンはそのまま夕闇の中へと歩き去っていく。
子どもの顔に、ふっと小さな笑顔が戻り、手にはあの甘いマックスコーヒーが握られている――。
画面が暗転し、静かな余韻の中にロゴが浮かび上がる。
――『ブラウン』、またいつか。
綺麗に終わったはずの物語の最後に仕込まれた、あまりにも露骨で、けれど最高にワクワクする「続編への匂わせ」。
それを観た世界中の視聴者たちは、テレビの前で苦笑いしながらも、心の中でこう呟いたのだ。
「……まったく、いつまで経っても相変わらずだな」と。
最高の締めくくり、そして「ご当地」の温度
テレビ画面に最後の「続編の匂わせ」が映し出され、CMが明けたあとのチーム「ブラウン」のオフィス。
少しの静寂のあと、誰からともなく、じんわりとした笑いと感想の声が漏れ出した。
「いやぁ……最後のセリフ、最高だったな!」
戸部が両手を膝に置きながら、しみじみと頷く。
「『いつでも駆けつける。出来る範囲で、な』ってのがさ、地球を救うスーパーヒーローっぽくなくて、めちゃくちゃ『ご当地』っぽくていい味出してるよな!」
「そうそう!」小町がスマホをパタンと閉じ、得意げに胸を張る。
「世界を股にかける大スター気取りじゃないし、あくまでうちの本拠地は千葉だからねってスタンスがお兄ちゃんらしくてさ。世界をたった1人の男に背負わせるなんて、そもそも無理があるっていうか――」
小町の言葉を引き取るように、雪乃はふっと優しく目を細め、淹れたての紅茶のカップにそっと口をつけた。
「――そうね。中身はあくまで『人間』だもの。何でもかんでも引き受けるわけにはいかないわ。でも、手が届く範囲の誰かが困っていたら、不承不承ながらも放っておけない……それが、あのひねくれたヒーローの本質だものね」
オフィスの隅で、いつものトレンチコートを羽織ったまま八幡は頭をポリポリと掻き、やれやれといった風にため息をついた。
「おいおい、勝手に俺のキャラをいい感じに深読みすんなよ。そもそも『出来る範囲で』ってのは、単に面倒くさいからこれ以上こき使うなっていう大人の予防線だからな」
「はいはい、出ました照れ隠し!」
材木座が「ふははは、その不器用な等身大の泥臭さこそが、我がダーク・アナロギアの神髄よ!」と高笑いし、高柳も「ええ、完璧すぎないヒーローだからこそ、世界中の人々の日常にスッと寄り添えるのです」と満足そうに頷く。
世界を熱狂の渦に巻き込んでも、海外のピッチで親友たちに笑われても、最後に戻ってくる場所はやっぱり自分たちの手の届くローカルな日常。
千葉の片隅から始まった「ご当地ヒーロー」の物語は、誰か一人の肩に重荷を背負わせるのではなく、みんなの心の中にそれぞれの「出来る範囲の優しさ」を残して、これからもゆるやかに、力強く続いていくのだった。
オフィスの窓から、暮れゆく街の空をぼんやりと眺めながら、八幡は缶のプルタブをいじりつつ、ふと呟いた。
「……なぁ。こんなんで、本当に誰かの胸に届いたのかな」
どこか照れくさそうに、けれど心のどこかで気になっていたようなその呟きに、すぐ隣にいた雪乃がクスリと笑ってタブレットを突き出した。
「誰か、じゃないわよ、八幡くん」
画面に映し出されていたのは、日本全国から、そして地球の裏側の見知らぬ街からも寄せられた、途方もない数のメッセージの山だった。
子どもたちがクレヨンで描いた「ブラウンとマックスコーヒー」の絵。日々の仕事や生活に疲れ果てた大人たちが、SNSに綴った「あのCMに救われた」という切実で温かな言葉の数々。
高柳が静かに、誇らしげに補足する。
「私たちが制作の背景や、このプロジェクトに込めた『アナログな優しさ』『白黒つけない生き方』の意図をあらかじめ公表していたことも大きかったですね。単なる一発ネタのキワモノヒーローとしてではなく、その哲学まで深く人々の心に浸透していきました」
「そうだよお兄ちゃん! 子どもたちからは『かっこいい!』って単純に大人気だし、大人たちからは『大人の階段を登る背中を押された』って神格化されてるんだから!」
小町が嬉しそうにデータをスワイプしていく。戸部も「いやマジですげぇよ! 世界中のファンの熱量がレベチだもん!」と親指を立てた。
世界を股にかけ、幅広い年齢層の胸を打ち抜いた奇跡のプロジェクト。
そのすべての軌跡と、自分たちが込めた本音がちゃんと誰かに届いていたことを知り、八幡はしばらく画面をじっと見つめていた。
やがて、彼は肩の力をふっと抜き、いつもの気だるげで、けれどどこか心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……そっか。まあ、子どもに人気ってだけで、やった甲斐はあったな」
素直じゃない言葉の裏に隠された、確かな充実感。
千葉の片隅の境界線から始まった小さな優しさは、国境を越え、世代を越え、確実に誰かの日常を温めていた。
――世界がほんの少し、優しくなりますように。
願いを込めた甘いコーヒーの香りは、静かに、そしていつまでも、それぞれの胸の中で温かく残り続けるのだった。
日常のすぐ隣にある「もしも」
オフィスの静かな空気の中、コーヒーを一口飲んだ八幡が、ふと思い出したようにボソッと口を開いた。
「……なぁ。日本って治安がいいし、テロなんてぶっちゃけ縁遠い国だけどさ、一応対策くらいは考えておくべきか? まあ俺たちはもう政府の人間ってわけじゃない、ただの『ご当地ヒーローの運営チーム』だけどさ。備えあれば憂いなしってやつだろ。……高柳とか、表に出せる危機管理マニュアルの叩き台とか持ってたりしないか?」
その不意を突いた、しかし妙に現実的な問いかけに、オフィスの空気がわずかに引き締まった。
高柳は眼鏡のブリッジを押し上げ、いつもの涼しげな笑みを崩さずに頷いた。
「さすがは元・国家の特命を担っていた男ですね。世間がどれほど平和ボケしていようとも、表舞台の裏側を知る者としての危機感は忘れていないということですか」
「ちょっとお兄ちゃん、急になに物騒なこと言い出すのよ!」と小町が少し眉をひそめる。
しかし、雪乃は静かに腕を組み、否定するどころか深く考え込むような表情を見せた。
「……でも、あながち無駄なこととは言えないわ。私たちが海外へ進出し、これだけ大きなムーブメントを起こしている以上、いつどこで不測の事態に巻き込まれるか分からないもの。それに、表向きは『ご当地ヒーローの安全管理』という名目であれば、パニックを防ぐための一般向け防災・防犯マニュアルとして公開することも可能ね」
「そうそう!」と、材木座も中二病モードをオフにして真剣にうなずく。
「いかなダーク・アナロギアの神話といえど、現実の安全が脅かされては元も子もないからな! よし、我がダークサイドの防衛教本を――」
「それは却下します」と、雪乃と高柳の美しいハモりによって一瞬で一刀両断された。
高柳特製・「表に出せる」危機管理マニュアル
高柳は手元のタブレットを操作し、数秒でスライドのデータをオフィスの大型モニターに映し出した。
「ご安心ください。すでに私の方で、『一般のイベント運営および不測の事態における緊急対処プロトコル(コードネーム:平穏の盾)』の叩き台を用意してあります」
モニターに表示されたのは、いかにもクリーンで、誰もが納得する実用的な項目だった。
1. 警戒レベルの段階的共有(インシデント・ラベリング)
日常の軽度な混乱から、突発的な群衆パニック、万が一のテロリズムや重要インフラへの脅威まで、過剰に恐れさせずに情報を共有する段階的ガイドライン。
2. 「ブラウン」による非武装の群衆誘導
万が一の事態が起きた際、ヒーローが暴力を振るうのではなく、「シュールな圧倒的マイペース」と「マックスコーヒーの配布」で周囲のピリついた空気を強制的に脱力させ、群衆のパニックを防ぐ心理誘導戦術。
3. 一般市民向け・最短避難フロー
パニック時に「白黒つけようとせず、まずは深呼吸して甘いものを飲もう」というスローガンをベースにした、冷静さを取り戻すためのシビル・ディフェンス(市民防衛)教育。
「……おいおい、2番目にサラッと頭おかしい項目が混ざってないか?」
八幡がジト目でツッコミを入れる。
「テロの現場でブラウンがコーヒー配ってパニック防ぐって、それもうギャグだろ。本当に危機管理になってるのかよ」
「なり得ますよ」と高柳は平然と言ってのける。
「恐怖に対抗するのは、過剰な警戒ではなく『日常のユーモアと、予測不能な脱力感』です。それに、このマニュアルを一般公開すれば、『あのブラウンのチームがここまで真面目に安全対策を考えている』という信頼感に繋がり、結果として私たちのブランド価値もさらに高まります」
「さすが、打算的ね……」と呆れつつも、雪乃はマニュアルの内容に目を通し、「でも、内容自体は非常に理にかなっているわ。過度に煽ることもなく、かといって楽観視もしない。これなら一般向けとして表に出しても問題ないでしょう」と太鼓判を押した。
「よし、じゃあこの叩き台をベースに、いざという時のための『大人の備え』を整えておくとしますか」
八幡はため息をつきながらも、どこか安心したようにマックスコーヒーの缶をテーブルに置いた。
表舞台から身を引いてもなお、いざという時のアンテナを張り巡らせるひねくれた元・政治家と、それを支える頼もしい仲間たち。
平和な日常を守るための裏側の準備は、今日も静かに、抜かりなく進められていくのだった。
政治家志望の男と、八幡の答え
オフィスの静寂を破るように、高柳が恭しい足取りで部屋に入ってきた。
「理事長、お客様がお見えです。……少々熱心すぎる、政治家志望の青年ですが」
「は? 政治家志望?」
八幡が顔をしかめると、入れ替わるようにして、スーツをピシッと着込んだ若者が勢いよく部屋に入ってきた。目がギラギラと野心に満ち溢れている、いかにも「未来の政治家」といった風貌の男だった。
「初めまして、比企谷さん! 噂には聞いていましたが、まさかあの裏舞台で日本を動かし、今は世界的なヒーロー『ブラウン』の黒幕をも務めるあなたにお会いできるとは!」
男は深々と頭を下げると、まっすぐに八幡を見据えた。
「率直に申し上げます。私を後援していただけませんか? あなたのお墨付きと、あの世界を動かすブランディングの力があれば、私は必ずやこの国のトップに立てる!」
オフィスの空気が一瞬で冷ややかになる。
小町が「うわ、胡散臭……」と露骨に引き、雪乃は冷ややかに紅茶のカップに口をつけた。
八幡はジト目で男を眺め、面倒くさそうに片手をヒラヒラと振った。
「お断りだ。そもそも俺はもう表舞台の人間でもなければ、誰かを後援するような組織のボスでもない。お門違いだろ、お引き取り願いたい」
男は焦ったように食い下がる。
「そ、そんなこと言わずに! 秘訣だけでも教えてください! どうすれば選挙に勝てるのか、どうすれば民衆の心を掴んで権力を握れるのか……そのノウハウを授けてください!」
選挙に勝つ秘訣。権力を握るノウハウ。
その言葉を聞いて、八幡はふっと呆れたような、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「秘訣、ねぇ……」
八幡は冷めかけたマックスコーヒーの缶をテーブルに置き、ぽつりと言った。
「生憎だが、俺は今までまともに選挙活動なんてしたことないぞ」
「え……?」男が間抜けな声を上げる。
「自分のやり方でやっただけだ。千葉にいた頃は、良くも悪くも変な意味で有名だったし、周りには戸部や材木座みたいな、余計なところで巻き込まれてくれる変な奴らが勝手に協力してくれた。それに、大臣になった時になんて、そもそも自分の意思で立候補すらしてない。ただの指名と、とんでもねぇコネと、皮肉な巡り合わせで無理やり引っ張り出されただけだ」
実も蓋もない裏事情に、男は言葉を失って固まっている。
八幡は深くソファに身体を預け、冷めた目でその青年の目をまっすぐに見据えた。
「……で、お前に一つ聞くけどよ」
「は、はい……」
「そもそも、お前は政治家になって、いったい何がしたいんだ?」
その問いは、権力の獲り方や選挙のテクニックといった表面的なものではなく、その人間の内側にある「芯」を抉り出すような、底冷えのするほど静かで、しかし鋭い問いだった。
「国を変えたい? 誰かを救いたい? それとも、ただ『政治家』という肩書や、権力そのものが欲しいだけか?」
男は冷や汗を流しながら口を開けたり閉じたりしたものの、結局、綺麗事の並べ立てから先が出てこなかった。自分の言葉で「何がしたいのか」を語ることができなかったのだ。
しばらくの沈黙のあと、八幡は小さく息を吐き、もう興味を失ったようにそっぽを向いた。
「……答えになってねぇな。出直してこい。肩書や権力に憧れてるうちは、お前が誰の心も動かすことなんてできねぇよ」
高柳が静かに一歩前に出、「お引き取りください」と完璧なビジネススマイルで男を出口へと促した。青ざめた男は、何も言い返せないまま慌ててオフィスから追い出されていったのだった。
「まったく……。あんな熱心な青年を、あんな風にあっさり追い返してしまっていいのかしら?」
政治家志望の男が去ったあと、雪乃は呆れ混じりのため息をつきながらも、どこか面白そうに紅茶のカップをソーサーに戻した。
「だいたいねえ、『選挙に勝つ秘訣』なんて聞いてくること自体がナンセンスだわ。あなたは一体、何を考えていたのよ?」
八幡は面倒くさそうに頭をポリポリと掻き、トレンチコートのポケットに両手をつっこんだまま、ぼそっと呟いた。
「いや、そもそも思ったんだけどさ……。ぶっちゃけ、選挙活動って本当に必須なのかね? 有名人なら、わざわざ選挙カーで名前連呼しなくても勝手にマスコミが面白おかしく宣伝してくれるからな。むしろ、立候補を表明して正式な選挙期間が始まる前に、地道に実績作ったり色々と布石を打っとけば、変なところで公職選挙法の縛りも受けねぇし、結果的に違反にもならんしで一石二鳥だろ」
そのあまりにも現実的で、かつ要領の良すぎる「勝負の裏技」を聞いて、オフィスにいた面々は思わず絶句した。
「……あなたねえ」
雪乃は呆れを通り越して、もはや感心したような呆れ顔で八幡を見つめる。
「選挙期間中のドブ板回りなんて形骸化していて、本当の勝負はとっくの昔の『準備段階』で決まっていると言いたいわけ? 素人がいきなり国の表舞台に引っ張り出されてトップに立てた理由が、今ようやく分かったわ。……本当に、底意地が悪いというか、戦略的というか」
小町もスマホをいじりながら「お兄ちゃん、それもう選挙のプロの思考じゃなくて、ただの裏社会のプロデュース手法だよ……」と引き気味にツッコミを入れる。
高柳は深く眼鏡を押し上げ、「ですが、その分析は本質を突いています。勝負はリングに上がる前に終わっている。事前工作と環境づくりの徹底こそが、政治のリアルですからね」と静かにうなずいた。
ただのひねくれた高校生だった男が、数々の修羅場をくぐり抜け、いつの間にか「権力の仕組み」の核心を冷徹に見抜く怪物のような視座を手に入れている。
呆れながらも、雪乃たちはどこか圧倒されるような敬意を込めて、その不気味で頼もしい元・大臣を見つめていた。
「まあ、俺がどうこう言ったところで、もう二度と選挙になんて出ねぇよ」
八幡は冷め切ったマックスコーヒーを飲み干し、窓の外に広がる夕空に目を向けた。
勝負の前の準備段階こそが本当の勝負。
そう言ってのける彼の背中は、どんな政治家よりも「本物」の凄みをまとって、今日も静かにチームの真ん中に佇んでいた。
「でもあなた……もし実際に今からどこかの選挙に出るなんて言い出したら、勝手にどうにかして勝っちゃうんでしょうね」
雪乃は紅茶のカップをソーサーに置き、どこか含みのある、しかし確信を突いたような美しい笑みを浮かべて八幡を見つめた。
その言葉に、八幡は片手を軽く挙げて苦笑する。
「まあ……今さら、ブラウンの知名度もあるからな」
あながち、それはただの冗談では済まされない現実だった。
千葉のローカルな境界線での小競り合いから始まり、ネットで爆発的にバズり、地上波の全国放送、海外のプロアスリートをも巻き込んだ「戦士の休息」のCM、そして地球の裏側にまで届いた「ブラウン」というアイコン。
今や、その名は千葉の枠を超え、日本全国、さらには世界のあちこちで「理不尽な世界を少しだけ甘くしてくれるヒーロー」として圧倒的な知名度と好感度を誇っている。
「二度と選挙には出ない。……けど、仮に今、気まぐれでも何でもいいから出馬したら、組織も資金も関係なく、ネットの波と大衆の熱狂だけで余裕で当選できちゃうってことよね?」
雪乃のその言葉に、小町は目を見開いてハッと息をのんだ。
「待って……待ってよお兄ちゃん! よく考えたら、お兄ちゃんが今までやってきたことって何なの!?」
小町が急に立ち上がり、ホワイトボードの前に駆け寄る。
「最初はただの地元の人間関係のいざこざで、次に政治の裏舞台に引っ張り出されて、そこから辞めたと思ったら今度は謎のトレンチコートのヒーローになって、世界中でマックスコーヒー配りまくって……!」
材木座も冷や汗を流しながら震え出した。
「まさか……いや、まさかな……! すべてのピースが、この世界の退屈をぶっ壊すための布石だったというのか……!?」
高柳は手帳からパッと顔を上げ、眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「……恐ろしいですね。意図していたか否かは別として、結果的に彼の行うすべての活動、すべての発信、そして『ブラウン』としてのブランド構築そのものが、国家レベル、あるいはそれ以上の影響力を持つための完璧な事前工作(準備段階)になってしまっている」
「いや、待て待て待て! お前ら勝手にスケールデカくするなよ!」
八幡は冷や汗をかきながら両手をブンブンと振って否定する。
「俺はただ、その場その場でめんどくさいことに巻き込まれて、テキトーに流されて生きてきただけだっての! 誰が世界を揺るがすための布石を何年もかけて仕込むかよ!」
しかし、その必死な言い訳も、すでにチームのメンバーたちの耳には届いていなかった。
「……恐ろしい男ね」
雪乃は呆れたような、しかしどこか底知れぬ畏敬の念を込めた目で、ふっと微笑んだ。
「本人はただ面倒くさそうにしているだけなのに、気がつけば世界を動かす最強の手札をすべて握っている。もし本当にあなたがその気になったら、この国の、いや世界の仕組みなんて、いつでもひっくり返せるわよ」
「そんな大層なもんじゃねぇっての……」
八幡は頭を抱え、トレンチコートのポケットからマックスコーヒーを取り出してプシュッと缶を開けた。
本人はあくまで「ただの一般人(またはひねくれたヒーロー)」のつもりなのだが、彼が撒いた小さな優しさと、緻密な(ように見える)計算の数々は、すでに地球の裏側にまで届く巨大なうねりを作り出していた。
世界を救う気など毛頭ない男が、今日も今日とて気だるげに缶コーヒーを傾ける。
その圧倒的な「持たざる者の最強」に気付いてしまったチームの面々は、静かな戦慄と、どうしようもない笑いを隠せないのだった。
「でもあなた……もし実際に今からどこかの選挙に出るなんて言い出したら、勝手にどうにかして勝っちゃうんでしょうね」
雪乃は紅茶のカップをソーサーに置き、どこか含みのある、しかし確信を突いたような美しい笑みを浮かべて八幡を見つめた。
その言葉に、八幡は片手を軽く挙げて苦笑する。
「まあ……今さら、ブラウンの知名度もあるからな」
あながち、それはただの冗談では済まされない現実だった。
千葉のローカルな境界線での小競り合いから始まり、ネットで爆発的にバズり、地上波の全国放送、海外のプロアスリートをも巻き込んだ「戦士の休息」のCM、そして地球の裏側にまで届いた「ブラウン」というアイコン。
今や、その名は千葉の枠を超え、日本全国、さらには世界のあちこちで「理不尽な世界を少しだけ甘くしてくれるヒーロー」として圧倒的な知名度と好感度を誇っている。
「二度と選挙には出ない。……けど、仮に今、気まぐれでも何でもいいから出馬したら、組織も資金も関係なく、ネットの波と大衆の熱狂だけで余裕で当選できちゃうってことよね?」
雪乃のその言葉に、小町は目を見開いてハッと息をのんだ。
「待って……待ってよお兄ちゃん! よく考えたら、お兄ちゃんが今までやってきたことって何なの!?」
小町が急に立ち上がり、ホワイトボードの前に駆け寄る。
「最初はただの地元の人間関係のいざこざで、次に政治の裏舞台に引っ張り出されて、そこから辞めたと思ったら今度は謎のトレンチコートのヒーローになって、世界中でマックスコーヒー配りまくって……!」
材木座も冷や汗を流しながら震え出した。
「まさか……いや、まさかな……! すべてのピースが、この世界の退屈をぶっ壊すための布石だったというのか……!?」
高柳は手帳からパッと顔を上げ、眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「……恐ろしいですね。意図していたか否かは別として、結果的に彼の行うすべての活動、すべての発信、そして『ブラウン』としてのブランド構築そのものが、国家レベル、あるいはそれ以上の影響力を持つための完璧な事前工作(準備段階)になってしまっている」
「いや、待て待て待て! お前ら勝手にスケールデカくするなよ!」
八幡は冷や汗をかきながら両手をブンブンと振って否定する。
「俺はただ、その場その場でめんどくさいことに巻き込まれて、テキトーに流されて生きてきただけだっての! 誰が世界を揺るがすための布石を何年もかけて仕込むかよ!」
しかし、その必死な言い訳も、すでにチームのメンバーたちの耳には届いていなかった。
「……恐ろしい男ね」
雪乃は呆れたような、しかしどこか底知れぬ畏敬の念を込めた目で、ふっと微笑んだ。
「本人はただ面倒くさそうにしているだけなのに、気がつけば世界を動かす最強の手札をすべて握っている。もし本当にあなたがその気になったら、この国の、いや世界の仕組みなんて、いつでもひっくり返せるわよ」
「そんな大層なもんじゃねぇっての……」
八幡は頭を抱え、トレンチコートのポケットからマックスコーヒーを取り出してプシュッと缶を開けた。
本人はあくまで「ただの一般人(またはひねくれたヒーロー)」のつもりなのだが、彼が撒いた小さな優しさと、緻密な(ように見える)計算の数々は、すでに地球の裏側にまで届く巨大なうねりを作り出していた。
世界を救う気など毛頭ない男が、今日も今日とて気だるげに缶コーヒーを傾ける。
その圧倒的な「持たざる者の最強」に気付いてしまったチームの面々は、静かな戦慄と、どうしようもない笑いを隠せないのだった。
「いや、そもそもだな……」
八幡は呆れたように大きなため息をつき、マックスコーヒーの缶をテーブルにコツンと置いた。
「今こんな世界規模のプロジェクトとか色々やってるのも、元を正せば『スミスに投資したらどうなるか』ってふと言ったら、高柳が本当に実行してくれちまったからだろ。それに『ブラウン』だって、地元のヒーローショーをたまたま見かけて、『なんかあのマスクの口元、飲み物飲みやすそうだな』とか、そういうしょーもない発想から思いついただけだからな」
まったく大した理由じゃないと言いたげに、八幡は肩をすくめた。
「まあ、結果として今のアレコレにつながっちまったわけだが……すべてが計画通りだったわけがねぇだろ」
その八幡の弁解を聞きながら、高柳は静かに眼鏡のブリッジを押し上げ、確信に満ちた穏やかな笑みを浮かべた。
「いえ、理事長。偶然にしては出来すぎている、と片付けるのは簡単ですが――それこそがあなたの本質です」
高柳はメンバーたちを見渡し、理路整然と分析を続けた。
「あなたのその一見いい加減に見える自然な行動、困っている人を見過ごせない独自の正義感、瞬時の直感、そして――自分でも自覚していない無意識、あるいは極めて高度に働いた意識的な計算。それらすべてが絶妙なバランスで噛み合っているからこそ、どのような一歩も最善の結果を生み出しているのです」
「……たしかに」と、小町も深くうなずく。
「お兄ちゃんって、普段はめちゃくちゃめんどくさがるくせに、いざという時の選択が妙に核心を突いてるんだよね。ずるいっていうか、なんというか……」
「そして何より」
雪乃が静かに言葉を継いだ。その瞳には、呆れと、それを遥かに超えた深い敬意の色が宿っていた。
「あなたの根本が、どこまでも『善人』であることよ。どれほどひねくれた物言いをしても、根っこにあるのは『誰かの理不尽な日常を守りたい』という願い。だからこそ、周りの人間が自然と協力したくなり、結果として大きなうねりになる」
材木座もうっとりとした表情で両手を組み、「なるほど……! 邪心なき覇王の道、まさに天賦の才というやつか……!」と呟くが、全員に華麗にスルーされた。
「……おいおい、褒め殺しかよ。善人とかやめろ、鳥肌立つわ」
八幡は気まずそうに顔を背け、トレンチコートの襟で口元を隠した。
しかし、オフィスの誰もが心の中で同じ結論に達していた。
――この男は、何をどう転んでも、結局のところ成功してしまうのではないか。
意図して仕組んだわけではなくとも、目の前の現実に対して最善の手を打ち、気づけば周囲を巻き込み、世界さえも少しずつ優しく変えてしまう。
ただの「運が良いだけの男」などではない。本人がどれほど否定しようとも、その生き様そのものが奇跡のような引力を持っていた。
そして今この瞬間も、彼は特別な野心を抱くわけでもなく、ただ自然体のまま、目の前の日常とコーヒーを愛しながら、その「最強の生き方」を淡々と実践し続けているのだ。
「さて」
高柳が立ち上がり、次のスケジュールが記されたタブレットを掲げた。
「感傷に浸るのはここまでにしておきましょう。理事長、今日も『できる範囲』の業務がいくつか残っていますよ」
「……はぁ。まったく、休まる暇がねぇな」
八幡は文句を言いながらも重い腰を上げ、いつもの気だるげな足取りで歩き出す。
世界を動かす圧倒的な才能をその背中に隠したまま、今日も彼は、誰かの日常を少しだけ甘くするために、静かに扉を開けていくのだった。
「いや、そもそもだな……」
八幡は呆れたように大きなため息をつき、マックスコーヒーの缶をテーブルにコツンと置いた。
「今こんな世界規模のプロジェクトとか色々やってるのも、元を正せば『スミスに投資しないか?』ってふと言ったら、本当にしてくれただけだろ。それに『ブラウン』だって、地元のヒーローショーをたまたま見かけて、『なんかあのマスクの口元、飲み物飲みやすそうだな』とか、そういうしょーもない発想から思いついただけだからな」
まったく大した理由じゃないと言いたげに、八幡は肩をすくめた。
「まあ、結果として今のアレコレにつながっちまったわけだが……すべてが計画通りだったわけがねぇだろ」
その八幡の弁解を聞きながら、高柳は静かに眼鏡のブリッジを押し上げ、確信に満ちた穏やかな笑みを浮かべた。
「いえ、理事長。偶然にしては出来すぎている、と片付けるのは簡単ですが――それこそがあなたの本質です」
高柳はメンバーたちを見渡し、理路整然と分析を続けた。
「あなたのその一見いい加減に見える自然な行動、困っている人を見過ごせない独自の正義感、瞬時の直感、そして――自分でも自覚していない無意識、あるいは極めて高度に働いた意識的な計算。それらすべてが絶妙なバランスで噛み合っているからこそ、どのような一歩も最善の結果を生み出しているのです」
「……たしかに」と、小町も深くうなずく。
「お兄ちゃんって、普段はめちゃくちゃめんどくさがるくせに、いざという時の選択が妙に核心を突いてるんだよね。ずるいっていうか、なんというか……」
「そして何より」
雪乃が静かに言葉を継いだ。その瞳には、呆れと、それを遥かに超えた深い敬意の色が宿っていた。
「あなたの根本が、どこまでも『善人』であることよ。どれほどひねくれた物言いをしても、根っこにあるのは『誰かの理不尽な日常を守りたい』という願い。だからこそ、周りの人間が自然と協力したくなり、結果として大きなうねりになる」
材木座もうっとりとした表情で両手を組み、「なるほど……! 邪心なき覇王の道、まさに天賦の才というやつか……!」と呟くが、全員に華麗にスルーされた。
「……おいおい、褒め殺しかよ。善人とかやめろ、鳥肌立つわ」
八幡は気まずそうに顔を背け、トレンチコートの襟で口元を隠した。
しかし、オフィスの誰もが心の中で同じ結論に達していた。
――この男は、何をどう転んでも、結局のところ成功してしまうのではないか。
意図して仕組んだわけではなくとも、目の前の現実に対して最善の手を打ち、気づけば周囲を巻き込み、世界さえも少しずつ優しく変えてしまう。
ただの「運が良いだけの男」などではない。本人がどれほど否定しようとも、その生き様そのものが奇跡のような引力を持っていた。
そして今この瞬間も、彼は特別な野心を抱くわけでもなく、ただ自然体のまま、目の前の日常とコーヒーを愛しながら、その「最強の生き方」を淡々と実践し続けているのだ。
「さて」
高柳が立ち上がり、次のスケジュールが記されたタブレットを掲げた。
「感傷に浸るのはここまでにしておきましょう。理事長、今日も『できる範囲』の業務がいくつか残っていますよ」
「……はぁ。まったく、休まる暇がねぇな」
八幡は文句を言いながらも重い腰を上げ、いつもの気だるげな足取りで歩き出す。
世界を動かす圧倒的な才能をその背中に隠したまま、今日も彼は、誰かの日常を少しだけ甘くするために、静かに扉を開けていくのだった。
「うーむ……」
八幡は腕を組み、マグカップに残っていた冷めたコーヒーを飲み干すと、ふとそんなことを口にした。
「……なぁ。ブラウンを、各県に増やしてみるってのはどうだ? いや、正確に言えば『ブラウン的な何か』をご当地ごとに作ってみるというかさ」
「ご当地ヒーローを、全国に?」小町が目を見張る。
「あぁ。日本全国、それぞれの県や街のノリや事情に合わせて、絶妙に脱力してて、でも困った時は助けてくれるようなローカルヒーローがさ。もしそんなのがあちこちにできたら、それを目当てにした国内旅行はもちろん、マニアックな海外からの観光客もめちゃくちゃ増えるんじゃねぇか?」
八幡のその何気ない一言に、オフィスにいた女性陣の目がパッと輝いた。
「はいはーい!」
小町が勢いよく手を挙げる。
「ヒーローだけじゃなくて、絶対『ご当地ヒロイン』もあると思います! カッコいい系じゃなくて、ちょっとシュールで親しみやすい女の子のキャラクターとか絶対人気出るって!」
雪乃も上品に微笑みながら、深く頷いた。
「ええ、悪くないわね。それに、ご当地の特産品や文化を無理なくアピールできるし、何より地域の活性化としては非常に理にかなっているわ」
「まあ、ただの思いつきの案だけどな……」
八幡は照れくさそうに頭をポリポリとかき、トレンチコートのポケットに手をつっこんだ。
「ただ、この『ブラウン』のノリを千葉だけで独占しとくのは、なんか少しもったいないかなぁと思っただけだ。色んな地方にこういうバカバカしくて温かいのがいても面白いだろ」
一見すると、いつもの適当な思いつきのようにつぶやいた八幡だったが、その言葉を聞いた高柳の瞳の奥が、フッと鋭く、そして熱い光を帯びた。
(……なるほど)
高柳は手帳を閉じると、ただの思いつきで終わらせるにはあまりにも合理的すぎる、そのアイデアの核心を見抜いていた。
工業製品のように巨額の初期投資や工場ラインを必要とせず、コンテンツと地域の口コミ、そしてわずかなデザイン費とユーモアさえあれば展開できる。しかも、失敗したときの社会的・経済的な負担(リスク)が極めて少なく、地域経済のインバウンドや観光資源としても直結する。
彼はただの「面白半分」ではなく、無意識のうちに最高の観光・地方創生モデルをその口から零していたのだ。
「……理事長」
高柳は真剣な眼差しで八幡を見つめ、静かに切り出した。
「そのアイデア、私がいただいてもよろしいですか? 実は私の地元の県でも、何か面白い地方活性化の起爆剤を探していましてね。この『ご当地ブラウン構想』、ぜひ現地で実践してみたいのです」
その突然の申し出に、八幡は「ん?」と眉をひそめたが、すぐに「あぁ、別にいいけどさ」とあっさり頷いた。
「俺一人のもんってわけでもねぇし、そもそも元ネタの『マブヤー』だって沖縄の先輩リスペクトだしな。やりたい奴が勝手にやればいいんじゃねぇの」
「みんなのアイデアだろ?」と、どこまでも気負わず、自分の手柄にすら執着しない太っ腹な男の態度に、高柳は思わず深く頭を下げた。
「ありがとうございます。では、さっそく各県の同志たちに声をかけ、全国規模の『ご当地ゆるふわヒーロー計画』のプロトタイプを立ち上げるとしましょう」
「お兄ちゃん、なんかまた勝手に世界が広がりそうだよ!」と小町がワクワクした顔で笑い、雪乃も「まったく、この人はどこまで人を巻き込む気なのかしらね」と呆れながらも楽しそうに紅茶を傾ける。
千葉の小さな境界線の夜から始まった「甘いヒーロー」の物語は、いまや日本全国、そして世界の観光と日常を巻き込む、巨大なムーブメントの種火へと変わり始めていた。
世界のレンズと、変わらない答え
海外の特設ステージ。世界中から集まったプレスやメディアのカメラが、一斉に一人の男に向けられていた。
「ブラウン」のグローバルな大ヒットに伴い、国内外のメディアがその黒幕であり元政治家でもある比企谷八幡の過去を徹底的に洗い出し始めていたのは、ある意味で必然だった。
フラッシュが激しく明滅する中、最前列にいた一人の海外の男性記者が、鋭い視線を投げかけながらマイクを突き出した。
「ヒキガヤ氏! あなたの過去の経歴、そして学生時代や政治の舞台裏での『実力行使』の噂について質問があります。あなたはかつて、理不尽な状況や他者との衝突において、実力行使を辞さない姿勢を見せたことがあった。あなたは……暴力という手段を肯定する人間なのですか?」
その攻撃的で、過去の傷をえぐるようなストレートな質問に、会場の空気が一瞬で張り詰めた。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
控え室のモニターでその様子を見ていた小町が思わず叫び、雪乃も眉をひそめて立ち上がりかける。高柳ですら、一瞬だけ表情を引き締めて事態の推移を見守った。
世界に向けて発信される公開インタビュー。
ここで優等生的な建前を並べるか、あるいは巧みな政治的レトリックでかわすのが、かつて政界の裏を渡り歩いた男の「正しい処世術」のはずだった。
だが、八幡は動かなかった。
彼はいつものように気だるげにトレンチコートの襟を直し、ポケットから取り出したマックスコーヒーの缶をカチャリと開けると、甘い香りが漂う中で、ほんの少しだけ遠い目を――しかし真っ直ぐに記者の目を見据えた。
会場の全員が、彼の次の言葉を息を殺して待っている。
……暴力か。
肯定するのか、だって?
八幡は頭の中で、かつての総武高校のあの冷たい廊下や、修学旅行の夜、そして守りたかった者たちの姿をぼんやりと思い浮かべていた。
不器用で、ひねくれていて、自分のためには決して拳を握らなかった男が、唯一、誰かのために境界線を越えかけたあの日の記憶を。
やがて、八幡は缶を口から離し、低い、静かな声でぽつりと言った。
「……もし、過去に戻れるなら」
記者が息を呑む。
「戸部の足を折ろうとした奴は、やっぱり止める」
ざわめきが広がる会場をよそに、八幡は淡々と、しかし揺るぎない温度を持って言葉を続けた。
「今なら――あれを暴力と呼んでいいのかどうかはわからんけどな。まぁ、せいぜい不法侵入か、実力行使の制圧、あるいは柔道の締め技なんかを綺麗に決めて、無力化するくらいは使うかもしれねぇ」
ふっと、八幡は皮肉な、しかしどこか優し気な笑みを浮かべ、最後にこう付け加えた。
「とりあえず、親友を傷つける奴は許さねえ……ってところかな」
そして、記者を真っ直ぐに見据え、言い放つ。
「……で、あんたはどうだ?」
質問をそっくりそのまま投げ返すと、八幡は再びマックスコーヒーを一口飲み、冷め切ったカメラの放熱音の中、平然と席に座り続けた。
その映像は、リアルタイムで世界中に流れた。
「暴力の肯定か否定か」という綺麗事の議論を、泥臭い「親友への私情」で完全に粉砕したその答え。
綺麗ごとばかりを並べる政治家でも、冷徹な独裁者でもない。ただ、目の前の大切な奴が傷つけられそうになったら、泥をかぶってでも守ろうとする、あまりにも人間臭い本音。
テレビの前でそのやり取りを見ていた雪乃は、しばらく呆れたように息を吐いたあと、ふっと美しく微笑んだ。
「……まったく、どこまでいってもあの人らしい答えね」
小町は「お兄ちゃん、かっこよすぎでしょ……!」とスマホを握りしめ、世界中の視聴者たちは、その不器用すぎるヒーローの「素顔」に、言葉を失い、そして抗いようのない親近感を覚えるのだった。
世界に響いた、変わらぬ牙
「……戸部に限らねえ。俺は、俺の仲間を傷つけられるなら止める。それが俺だ」
静まり返ったプレス会場に、八幡の低く、しかし圧倒的な重みを持つ声が響き渡る。
「世間の風潮に合わせることはできねえ。こっちが攻撃しないなら相手も攻撃しないというなら、当然こちらも止めるが……一体、何の話だ? これは個人の話なのか、それとも国家の話なのか?」
皮肉を込めたその問いかけに、質問した記者はもはや言葉を失い、カメラのフラッシュだけが虚しくパシャパシャと光り続けていた。
八幡は面倒くさそうに片手を軽く上げ、最後にとどめの一撃を放つ。
「俺を責めたいのなら、好きなようにネットやゴシップ誌にでも書けばいい。……俺は、自分も仲間も守る。どんな手を使ってもな。――話は終わりだ」
イスを押し引き、それ以上の一切の弁明や愛想笑いを残すことなく、八幡はそのまま颯爽とステージを背にして歩き去っていった。
伝えられた「牙」
その一部始終を生中継で、あるいは後からの映像で目撃した世界中の人々は、一瞬の沈黙のあと、様々な感情に包まれた。
綺麗ごとの平和論でも、冷徹な外交レトリックでもない。
「仲間を傷つけられたら、どんな手を使ってでも守る」という、あまりにも泥臭く、しかし微塵もブレない剥き出しの意思。
SNSやネットの掲示板、翌日のゴシップ誌の表紙に至るまで、その話題は瞬く間に地球の裏側まで駆け巡った。
「おいおい、あのトレンチコートのヒーロー、中身はガチのファイターじゃねぇか……!」
「綺麗ごとを言わない政治家って久しぶりに見たわ。敵に回したら最悪だけど、味方にいたらこれ以上ないほど頼もしいな」
「『どんな手を使ってもな』だってさ。あのひねくれた笑顔の裏に、どれだけの覚悟隠してんだよ……最高かよ」
批判の声がなかったわけではない。しかし、それ以上に「圧倒的な人間味と、揺るぎない覚悟」に対する共感と畏敬の念が、世界中の人々の胸を打った。
オフィスの控え室でその中継を見ていた雪乃は、呆れたように、しかしどこか誇らしげにふっと笑った。
「……まったく。世界を相手にしても、あの人は相変わらずね」
「だよなぁ! さすが俺の親友だぜ!」と戸部が嬉しそうに腕を組み、小町も「これでもう、お兄ちゃんをナメてかかる奴はいなくなるね!」とスマホをパタパタと振った。
高柳は満足そうに深く眼鏡を押し上げ、静かに呟く。
「ええ。優しさの裏に隠されたその『牙』こそが、彼を単なるマスコットではなく、真の『伝説』足らしめている理由ですからね」
世間がどれほど平和を謳おうとも、綺麗ごとを並べようとも。
あのひねくれた元・特命大臣の牙は、いまだに少しも衰えてなどいなかった。自分たちの日常と、大切な仲間を守るためのその牙は、世界中に「比企谷八幡という男の在り方」を改めて強烈に刻みつけたのだった。
本家の評価と、世間のざわめき
世界を揺るがしたあの記者会見から数日。
ネットやテレビの討論番組では、比企谷八幡の「仲間を守るためならどんな手でも使う」という発言を巡り、連日大々的な論争が繰り広げられていた。
世間の反応は、まさに賛否両論の嵐だった。
「一国の元トップや世界に影響力を持つ人物の発言として、暴力的で私情に偏りすぎている」という批判がある一方で、「綺麗ごとばかり並べる偽善者よりよっぽど信用できる」「自分の家族や仲間すら守れない奴が、世界なんて語れるか」という熱狂的な支持の声もまた、爆発的に広がっていた。
そんな中、普段は世俗の話題から少し距離を置いているはずの「比企谷の本家」の面々――親族や実家の年寄りたちの間にも、そのニュースはしっかりと届いていた。
静まり返った座敷で、一族の長老や親族たちがテレビの画面を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……まるで、亡くなったじいちゃんを見ているようだねぇ」
「ああ、あの図太さといい、土壇場での凄みといい……。あの胆力は、間違いなく血筋というやつだ」
古風で厳格な本家の空気の中で、かつて一族の異端児扱いされていた八幡の姿は、いつの間にか「あの頑固で曲がったことが大嫌いだった祖父の面影」そのものとして映っていた。
その言葉は、本家に連なる若い世代の学生たち――親族の目や世間の目を気にしながら息を潜めて生きる若者たちの胸にも、深く突き刺さっていた。
「……すげぇよ、あの人」
一人の親族の若者が、スマホで会見の映像を見つめながら呟く。
「周りがなんて言おうと、自分の大切なものを守るために真っ直ぐ牙をむくなんて、俺たちにはとても真似できない」
世間では「暴力的だ」「公私の区別がついていない」と叩く者もいる。しかし、本家の若者たちは冷めた目でそのバッシングを切り捨てていた。
――じゃあ、お前らはいざという時、自分の仲間や家族を守らないのか?
綺麗ごとを並べて保身に走るだけの大人たちに、そんな問いを突きつけられた気がしたからだ。
批判の嵐の裏側で、八幡のその剥き出しの言葉は、ただの「暴論」ではなく、誰もが心のどこかで忘れかけていた「大切なものを守るための覚悟」として、確かな熱を持って次世代の若者たちの胸を焦がしていたのだった。
綺麗ごとと、生き物の本能
その夜のオフィス。世界中を巻き込んだ喧騒が少しだけ遠のいた静かな部屋で、雪乃はコーヒーを淹れながら、ふと八幡の方を振り返った。ねえ、と彼女は静かに問いかける。
「あのね、八幡くん。世間の批判はともかくとして、あなたのあの言葉は正論だったわ。けれど、もしあれが『現役の政治家』としての立場だったとしたら……あなたは一体、なんて答えたのかしら?」
一瞬、オフィスの空気がピリッと引き締まる。外交の場や、言葉の裏を何重にも探られる政治の舞台であれば、あのような剥き出しの本音は時として致命傷になりかねない。
八幡は少しだけ眉をひそめ、腕を組んで天井を見上げた。そして、渋々といった様子で口を開く。
「……そりゃあ、言い方は変えるさ」
「言い方、ね」
「あぁ。あんな直球で『親友を傷つける奴は許さねえ』なんてヤンキーみたいなセリフは吐かない。もっとそれっぽい、当たり障りのない綺麗なお題目――『法の支配の徹底』だの『治安維持と市民の安全確保の最大化』だのって、それらしい言葉で綺麗にオブラートに包んで柔らかく伝えるさ」
八幡はトレンチコートのポケットに手をつっこみ、ふっと息を吐き出した。
「だけどよ。どれだけ言葉を飾ったところで、結局言ってる中身は同じだ。……『守る』ってことの定義や、暴力を全否定したら、それこそ人間は――いや、そもそも生物として成り立たなくなっちまうだろ」
「生物として?」小町が首をかしげる。
「ああ。生き物が自分の生存領域や、群れの仲間を守るために牙をむくのは、本能の基礎の基礎だ。それを完全に否定するってことは、生き物であることをやめるってことだろ。そんなもん、人として以前の話だわ。綺麗ごとを並べる神様や、お伽話の中にしか存在しねぇよ」
八幡はそこで一度言葉を切り、さらに冷めた声で付け加えた。
「それにさ、仮に一度『いかなる暴力も絶対悪だ』なんて全否定しちまったら、その後に『ただしこういう例外的な防衛は認めます』っていう面倒くせえ補完ロジックを一生懸命こねくり回さなきゃならなくなる。そんな矛盾だらけの言い訳を考えるのは、骨が折れるどころの話じゃねぇ」
そして、八幡はまっすぐに雪乃たちを見据えて言い切った。
「そんな無駄なことに頭を使う時点で、政治家として何をしたいのか分かんなくなるし、その時はもう政治家でいる意味すらなくなってる。……だから、どれだけ立場が変わろうと、やっぱり俺は同じことを言うんじゃないかな」
飾り気のない、しかしあまりにも本質を突いたその答え。
それを聞いた高柳は、深く、深く頷いた。表情には、単なる部下としての敬意を超えた、政治のプロとしての圧倒的な賛辞が浮かんでいた。
「……見事ですね、理事長」
高柳は眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに言い切る。
「多くの政治家は、立場を守るために『綺麗ごとで嘘をつき、後から辻褄を合わせる』という泥沼にハマります。しかしあなたは、泥臭い真実を認めつつ、論理の破綻すらも自らの哲学でねじ伏せている。綺麗ごとではなく、人間の根源的な生存本能から政治の正当性を導き出しているのです」
高柳は感心したように微笑んだ。
「綺麗ごとの偽善者よりも、よほど一貫性がある。政治家としても、あなたは間違いなく一流の領域に達していましたよ」
「やめろ、褒め殺しは。ただのめんどくさがり屋の言い訳だっての」
八幡は照れくさそうに顔を背け、手元のマックスコーヒーを飲み干した。
綺麗ごとの仮面を被る必要などない。守るべきものを守るために、牙を隠さない。
そのブレない生き様こそが、彼を「ただの元・政治家」ではなく、世界を動かす本物のヒーロー足らしめている理由なのだと、オフィスの誰もが確信していた。
「それに……」
高柳は静かに微笑み、さらに言葉を続けた。
「本音で剥き出しの言葉を語る人間には、いつの時代も熱狂的なファンがついてきます。政治の世界で言えば、それは確固たる有権者の基盤となる」
「まあ、敵も多い代わりに、それ以上に味方も増えるってことね」と雪乃が納得したように頷く。
高柳はうなずき、淡々と分析を口にした。
「その通りです。反対派の数は少なくないでしょうが、それ以上に圧倒的な賛成派、あるいは共感者が多ければ、選挙というのは勝てるようにできている。どれだけ批判を浴びようとも、結局のところ政治は人気投票の側面を持っていますからね」
そこで高柳は少しだけ笑みを浮かべ、ふっと肩をすくめた。
「……もっとも、当の本人は『二度と選挙には出ない』とおっしゃっていますが」
「あたりまえだろ。あんな泥舟、二度とごめんだね」
八幡は面倒くさそうに吐き捨て、トレンチコートのポケットに両手をつっこんだ。
敵を大量に作るリスクを恐れて当たり障りのない嘘を重ねるくらいなら、強烈な本音で賛否両論を巻き起こし、その代わりに関係のない他人の心まで深く抉り取る。その結果として世界中にファンを作ってしまうのだから、彼の政治家としての才能(あるいは人たらしとしての性質)は、引退した今でもなお錆び付くどころか磨きがかかっていると言えた。
「まあ、あくまでもし『選挙の話』をすれば、の話だがな」
八幡はそう付け加え、もうこの話題は終わりだと言わんばかりにマグカップをテーブルに置いた。
綺麗ごとを排し、泥臭くも真摯に「守るべきもの」を語る男の周りに、今日もまた、信頼という名の確かな絆が集まっていくのだった。
オフィスのソファに深く腰掛けたまま、八幡はふと、あの世界を揺るがした記者会見のことを思い出したように呟いた。
「……それにしてもさ。あの記者の背景って、一体なんだったんだろうな?」
マグカップをテーブルに置き、トレンチコートのポケットに手を突っ込みながら、八幡は首をかしげる。
「すでに第一線を退いて、ご当地ヒーローの裏方やってる俺みたいな元政治家に、あんなわざわざ噛みついてくるようなインタビューをする意味がよく分かんねぇよ。それとも、今の海外のメディアってのは、そんなに『暴力』って単語に敏感なのか?」
八幡は鼻でふっと笑い、どこか皮肉な目を向けた。
「SNSを開けば、今この瞬間だって世界中のあちこちでリアルな暴力や紛争が垂れ流されてるってのにさ。画面の向こうの血生臭い現実には目をつむるくせに、引退した元政治家の『友達を守るためなら力を使う』って発言だけに過剰に反応して正義面するなんて、なんか順番が逆じゃねぇの」
その八幡の乾いた疑問に、高柳は静かに頷き、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「鋭い指摘ですね、理事長。ですが、それこそが現代のメディアの構造的な矛盾です」
高柳はタブレットを手元に引き寄せながら、淡々と解説を始めた。
「世界中の人々やメディアは、日常のリアルな暴力に対してはすでに麻痺しているか、あるいは『自分にはどうせ解決できない巨大な問題』として無意識に目を背けています。だからこそ、彼らは処理しやすい『記号』を欲するのです」
「記号、ね……」と雪乃が小さく呟く。
「ええ。綺麗で無菌室のような理想論と、それに反する分かりやすい『悪役』、あるいは『過激な発言』。それらを対立構造としてエンタメ化することでしか、現代の大衆は社会への関心を維持できなくなっているのです。あなたが放った『暴力の肯定とも取れる本音』は、彼らにとって格好の刺激的なトピックだったというわけです」
「つまり、本気で治安や平和を心配してるわけじゃなくて、単に安全な場所から石を投げて盛り上がりたかっただけってか。相変わらずめんどくせぇ話だな……」
八幡はやれやれといった風にため息をつき、頭を掻いた。
「ま、向こうが勝手に騒いでる分には勝手だが、こっちの日常までかき乱されるのはごめんだね」
「そうですよお兄ちゃん! せっかく『ご当地ブラウン構想』で日本全国を楽しく盛り上げようって時に、外野の野次馬にかまってる暇なんてないんだから!」と小町がぷくっと頬を膨らませる。
雪乃もふっと微笑み、「ええ、世間の風向きなんてものは、私たちが作る物語や日常の温かさですぐに塗り替えてみせればいいわ」と言い切った。
外野がどれほど騒ごうとも、自分たちの足元には守るべき仲間がいて、世界には自分たちの作った「甘い優しさ」を待っている人たちがいる。
面倒な世間の雑音なんて気にせず、八幡たちは今日も自分たちのペースで、静かに次の歩みを進めていくのだった。
「マスコミを作る、か……」
オフィスの片隅で、マグカップをいじりながら八幡がぼそっと呟いた。その一言を聞き逃さなかったチームの面々は、一瞬動きを止め、ざわめき立つ。
「「「は……? マスコミを、作る!?」」」
小町が目を見開き、戸部が「いやいやいや、マスコミってテレビ局とか新聞社だろ!? そんな個人で作れるもんなのかよ!」と盛大にツッコミを入れる。材木座は「ふはは! ついにメディアの覇権を握り、真の闇の情報網を築く気だな!」と一人で勝手に盛り上がっている。
「ちょっと、八幡くん?」
雪乃も少し身を乗り出し、呆れたような、しかしどこか鋭い光を宿した瞳で彼を見つめた。
「さっきの海外メディアの一件で、何か思うところでもあったのかしら。まさか本当に自分たちで報道機関を立ち上げるつもり?」
騒がしい周囲をよそに、八幡は面倒くさそうに片手をひらひらと振った。
「そんな大げさなもんじゃねぇよ。テレビ局をゼロから作るとか、新聞の全国紙を発刊するとか、そんな無茶な話じゃねぇっての」
八幡はトレンチコートのポケットから缶を取り出し、気だるげに続けた。
「ただの――『地域発信する小さな組織』の延長だ。例えば、地元の面白いことや、千葉のいいところ、あるいは外野の変なデマに流されないリアルな情報を集めて、ローカルの千葉テレビあたりで細々と放映させたりとかさ。もちろん、それに限らねえ。ネットの配信チャンネルだっていい」
八幡は少しだけ目を細め、乾いた笑みを浮かべた。
「さっきも言った通り、あいつらは自分たちの都合のいい『記号』だけを切り取って面白おかしく消費するだろ。向こうの勝手な土俵でマスコミにいいように利用されて、切り取られた言葉で好き勝手言われるくらいなら――こっちだって、自分たちの言葉を正確に伝えるための『チャンネル』のひとつくらい、手元にあった方がよっぽどましなんじゃねぇのって話だ」
その言葉の裏にあるロジックを理解した瞬間、高柳の眼鏡の奥の目が、ピタリと鋭く静止した。
(……なるほど)
高柳は深く頷き、静かに声を張る。
「素晴らしい着眼点ですね、理事長。外野の偏った報道や悪意ある世論に振り回されるのではなく、自ら情報発信のハブを持つ。それは地方創生における『ご当地ブラウン構想』を支える強力なインフラにもなり得ます」
「そうだよお兄ちゃん! ネットのゴシップ誌に好き勝手書かれてモヤモヤするくらいなら、うちのチャンネルで『今日の千葉の平和な日常』を生配信したほうが絶対面白いもん!」と小町も大きく賛同する。
雪乃も、ふっと美しく微笑んでカップを置いた。
「ええ。他人に物語の主導権を握らせない。自分たちの足元から、自分たちの声で真実を伝える――いかにもあなたらしい、現実的で防衛的な、それでいて最高の一手ね」
世間の喧騒や、無責任なメディアのフラッシュに毒づくだけでなく、必要となれば自ら情報の発信源(チャンネル)を握ってしまえばいい。
防ぐべきものは徹底的に防ぎ、守るべきものは自分たちの手で耕し続ける。
「まあ、実際にやるかどうかは面倒くさいから知らねえけどさ」と言いながら、八幡は再びマックスコーヒーを傾けた。
しかし、そのひねくれた一言が、また新たな巨大なムーブメントの引き金になりかけることを、オフィスの誰もが――そして本人すらも、まだ完全には否定しきれないでいるのだった。
書斎の紅茶と、評価を下す父
その週末。
雪ノ下家の重厚な書斎に、静かな夜の空気が満ちていた。
マホガニーの机に向かい、分厚い資料に目を通していた雪ノ下父は、手元に置かれたタブレットの画面――そこには、先日の八幡の海外記者会見の映像と、彼がふと零した「自分たちで情報発信のチャンネルを持つ」というアイデアに関する報告データが映し出されていた。
ノックの音とともに、娘の雪乃が静かに部屋に入ってくる。
彼女は父親の前にそっと紅茶のカップを置くと、少しだけ呆れたような、しかしどこか誇らしげな笑みを浮かべてソファに腰掛けた。
「お父様。……その、比企谷くんの件の報告ですけれど」
「あぁ」
父親は書類から目を離し、グラスの縁を指で軽く撫でながら、低く落ち着いた声で応じた。
「例の海外メディアへの反論、そして『メディアの構造自体をローカルからハックし返す』という発想か。……相変わらず、ただの高校生上がりが思いつく規模の企てではないな」
「そうなのよ。本人はいつも『めんどくさい』『ただの思いつきだ』って言うばかりなのだけれど……」
雪乃はため息をつきつつも、どこか楽しそうに、あのオフィスのやり取りを思い返していた。
自分たちが手探りで広げようとしている「ご当地ヒーロー構想」も、外野の悪意ある世論を無力化するための「独自の発信チャンネル」の構想も、すべては八幡の何気ない一言から始まっている。
父親は紅茶を一口啜ると、ふっと目を細め、静かに笑った。
「……出来そうだから、怖いな」
「え……?」
「いや」父はタブレットの画面を眺め、皮肉でも批判でもなく、ただ一人の実業家、あるいは政治の裏を知る者としての純粋な感嘆を口にする。
「普通の人間がそれを口にすれば、ただの誇大妄想か、悪あがきにすぎん。だが、あの男の場合、過去の布石や周囲を巻き込む引力、そして何より『本音で大衆の心を掴む発信力』がすでに揃っている。気まぐれに、あるいは面倒くさがるついでに、本当にそれをカタチにしてしまいかねない」
娘の雪乃は、父親のその言葉に深く頷いた。
「そうよ。私や高柳たちが必理屈をこねて整えようとしているバックアップのロジックすら、あの人は直感と数手先の計算で軽々と飛び越えてしまう。本当に……底の知れない人だわ」
「ははっ、面白い」
父親は声に出して笑うと、書類をパタンと閉じた。
「古い政治家や無責任なメディアが、彼の放った一言に怯えるわけだ。綺麗ごとを並べる連中より、よほど牙城を揺るがす脅威になり得るからな。……雪乃、お前があの男の側に身を置きたがる理由が、少し分かった気がするよ」
外野の雑音や世界中のバッシングなどどこ吹いた風とばかりに、今日もどこかのローカルなオフィスで、彼はいつものように缶コーヒーを飲んでいることだろう。
「怖くて、そして面白い男ね」
雪乃は父の淹れた紅茶の香りを楽しみながら、静かに微笑んだ。
世界を巻き込むその巨大な歯車は、今日も彼らの日常のすぐ隣で、ゆるやかに、しかし確実に回り続けているのだった。
宴会のようなテレビ対談
「……で、なんで俺がこんなところにいるわけ?」
テレビ局のスタジオの一角、あるいは高級料亭の一室を模したようなセットの真ん中で、八幡はトレンチコートを脱ぎ、スーツ姿でポツリとぼやいた。
そこは、各界の著名人やインフルエンサー、元政治家などが集まり、生々しい本音を語り合う深夜の硬軟融合型バラエティ対談番組の収録現場だった。
事前の打ち合わせとは名ばかりで、テーブルの上には美味しい料理の数々と、なぜか普通に日本酒やビールの瓶が並んでいる。
「いやぁ、硬い話は抜きにしてホンネでやろうや」なんて気さくな司会者の掛け声を合図に、参加者たちはすでにグラスを傾けながら、時には軽妙な雑談を、時には日本の将来や社会問題について熱く議論を交わしていた。
(これ、対談っていうか、ただの居酒屋のオッサンたちの宴会じゃねぇか……)
そう心の中でツッコミを入れつつ、八幡は無意識のうちに周囲の人間たちの立ち回りや、言葉の裏にある思惑を観察していた。
議論の主導権を握る者、巧みに笑いへ逃げる者、あえて過激な言葉で爪痕を残そうとする者――その人間模様を、八幡はいつもの冷めた、しかし的確な視線で見つめている。
そんな緩みきった空気の中、司会者がふと、場を盛り上げようと下世話な話題を振ってきた。
「いやあ、比企谷さんといえば、その唯一無二の立ち振る舞いで世間の耳目を集めてますが……ぶっちゃけ、プライベートはどうなんですか? 巷では『お前、妻が3人いるってマジか?』なんて噂もまことしやかに囁かれてますけど?」
その直球すぎる問いに、スタジオの空気が一瞬で「おっ」と色めき立った。
カメラのレンズがギョロリと八幡を捉える。
八幡は面倒くさそうにグラスの水(中身はしっかり冷えたお茶だ)を一口飲むと、特に照れることもなく、いつもの気だるげな調子でサラリと言い放った。
「あぁ、まあ……モテるからな」
そのあまりにも堂々とした(あるいは図太い)ドヤ顔交じりの返しに、出演者の一人が「おいおい、自分で言ったよこの男!」と盛大に吹き出した。
しかし、その直後。八幡はふとグラスを置き、どこか遠くを見るような、少しだけ気まずそうな――けれど嘘偽りのない本音を、ポツリとこぼした。
「……本音を言えばさ」
スタジオのざわめきがスッと静まり、全員の視線が集中する。
「あいつらが、もし他の男の嫁さんになったりするのを想像すると……なんかこう、猛烈な嫌悪感というか、モヤモヤしたものがあるわけよ。……まあ、要するに、俺の独占欲ってやつだな。めんどくさいことに、手放したくなかったってだけの話だ」
綺麗ごとも、取り繕った建前もない。
ただの「独占欲」というドロドロした、しかしあまりにも人間臭い本音。
それをテレビの電波に乗せて平然と語る男の姿に、スタジオの面々は絶句したのち、どっと大きな笑いと、それに混じった奇妙な納得の声を上げた。
「おいおい、それを全国放送でサラッと言い切るか!」
「妻が3人いるって事実だけでも狂ってるのに、理由が『他の男の嫁になるのが嫌だったから』って……スケールがデカいのか小さいのかわかんねぇよ!」
共演者たちは驚き呆れながらも、「それを本当に力づくでも何でもなく、全部合法かつ円満に実現させちまうんだから怖いわ」「すごいを通り越して一種のバケモノだな」と、もはや畏敬の念すら抱いていた。
世間の常識やモラルという枠組みを、その独自の理論と圧倒的な行動力で軽々と飛び越えてしまう男。
そんな周囲のどよめきをよそに、八幡は頭をポリポリと掻きながら、小さく付け加えた。
「……まあ、とはいえだ。実際に全員を背負うと決めて、それぞれの親御さんに挨拶に行くときは、人生で一番生きた心地がしなかったけどな。あれはマジでビビったわ……」
その、世界を揺るがした男らしからぬ「リアルな修羅場の思い出」の告白に、スタジオは再び爆笑の渦に包まれた。
綺麗ごとを並べるインフルエンサーでも、冷徹な政治家でもない。泥臭く、不器用で、けれど自分の選んだものに対しては死ぬ気で覚悟を決める――そんな比企谷八幡の姿は、今日も画面の向こうの視聴者たちの胸に、妙な爪痕を残し続けるのだった。
画面の向こうの「ずるい男」と、それぞれの本音
その深夜のテレビ番組――あたかも高級料亭の延長のような、酒と本音が飛び交う破天荒な対談番組の生中継。
それぞれの場所でその画面を見つめていた女性たちは、絶句したのち、複雑な、しかし隠しきれない熱を帯びた溜息を漏らしていた。
川崎沙希の部屋では、彼女がスマホの画面を凝視したまま、真っ赤になった顔を両手で覆っていた。
「……なっ、馬鹿じゃないのあいつ……っ!」
耳まで真っ赤に染め上げながらも、沙希の胸のうちは激しく波打っていた。
「モテるから」だの、「他の男の嫁になるのが嫌だった(独占欲だ)」だの――テレビの電波に乗せて、そんな気恥ずかしくなるような本音を、微塵もカッコつけずにサラリと言い放つ。綺麗ごとの裏で、ちゃんと自分の人生と向き合い、泥をかぶる覚悟を決めている男。
不器用で、ひねくれていて、でも一度捕まえた絆を絶対に手放さないその姿勢に、沙希はたまらずクッションに顔をうずめ、再び「……ずるいって、ほんと……」と、完全に惚れ直した自分の心をごまかすように呟いた。
一方、雪ノ下家のリビング。
雪乃は紅茶のカップを持ったまま、綺麗に固まっていた。
「…………」
あんな電波の海原で、自分の独占欲や、それぞれの親御さんに挨拶に行って死ぬほどビビっただなんて泥臭いエピソードを、笑い話のようにおおらかに語ってしまう。スマートな政治家なら絶対に隠すようなかっこ悪い部分を、隠さずにそのまま晒け出す。
呆れるべきか、怒るべきか。いや、それ以前に――。
ふっと、雪乃の美しい唇に、抗いようのない笑みが漏れた。
「……本当に、救いようのない人ね」
声に出して言わずとも、その胸には温かいものが満ちていた。飾らない強さと、どこまでもまっすぐな我が儘。そのすべてが愛おしくて、やはりこの男から離れることなどできないと、改めて思い知らされる。
そこへ、ピコンとスマホが鳴った。
画面を開くと、姉の陽乃からメッセージが届いていた。
『ねえ雪乃、今の見た?
あの子、相変わらずいい男よねぇ。
あんな風に真っ直ぐ「渡したくない」って言われたら、どんな女性だって降参しちゃうわよ。
……あーあ、私ももう一回、あの不器用な牙に引っ掛けられたくなっちゃったな』
その軽口の裏にある、紛れもない本音の混じったメッセージを読んで、雪乃は小さくフッと息を漏らした。
普段は何かにつけて張り合ってくる姉ですら、あの男の生き様の前では、ただの「一人の惚れ直した女」になってしまう。
「……まったく、同感よ、お姉様」
雪乃はスマホをそっと置き、テレビの中で相変わらず気だるげに頭を掻いている八幡の姿を眺めながら、静かに紅茶を一口飲んだ。
世間がどう評そうと、彼女たちにとってあの男は、世界でたった一人の、かけがえのない「圧倒的な英雄(ヒーロー)」だった。
画面の向こうの嵐と、沈まない男
翌朝。
インターネット、SNSのトレンド、朝のワイドショーから通勤通学中の電車の吊り広告に至まで、昨夜の深夜番組における比企谷八幡の「ぶっちゃけ発言」の話題で日本中が持ちきりだった。
「妻が3人? は? 何それ、現代のハーレム主義!?」
「いやいや、でも理由が『他の男の嫁になるのが嫌だった、独占欲だ』って……。なんか、生々しすぎて逆にすげぇよ」
「政治家やインフルエンサーが綺麗ごと並べて不倫隠したりしてるのより、よっぽど潔くて草」
「ていうか、あのトレンチコートの元お偉いさんが、相手の親にビビり倒したってエピソード人間味ありすぎてズルいんだけど!」
世間の女子たちの間では、まさに賛否両論の猛烈な議論が巻き起こっていた。
「あんなの身勝手な独占欲の塊じゃない! 女性をなんだと思って宿ってるのよ!」と眉をひそめて憤る層がいる一方で、「でも、自分の気持ちにそれだけ正直で、ちゃんと全員を背負う覚悟(と修羅場)をリアルに引き受けてる男なんて今どきいないって」「不器用だけど、本気で守ってくれるならアリ……ってか、ちょっとカッコよくない?」と、密かに心を撃ち抜かれてしまう女子たちも続出していた。
もちろん、男性陣の反応も複雑だった。
「おいおい、あんな斜に構えた陰キャ風の男が、なんであんなに大物たちに囲まれて堂々としてんだよ!」とジェラシー混じりに悪態をつく者もいれば、「……正直、羨ましいわ。あそこまで自分の我が儘と独占欲を貫き通せる胆力は、男としてちょっと認めるしかない」と、妙な納得とリスペクトを覚える者も少なくない。
批判する声は絶えない。しかし、どれほど批判しようとも、誰もがその存在を「無視することだけはできなかった」。
綺麗ごとの仮面を剥ぎ取り、泥臭い本音と圧倒的な覚悟を突きつけてくる男。
世間がどれだけ騒ごうとも、本人はどこ吹く風でまたいつものようにマックスコーヒーを飲んでいることだろう。
そんな「無視できない男」が巻き起こす巨大なうねりは、今日も止まることなく、日本中の空気を少しずつ、確実に変え続けていた。
画面の向こうの「先生」と「父親」
深夜番組のスタジオの空気が、ふとした拍子に少しだけ真面目なトーンへと切り替わった。
司会者が「ところで比企谷さん、元々は教師の道から政治の世界に踏み出し、そして今はこうした社会的ムーブメントの中心にいるわけですが……あなたの根底にある『教育論』や、社会に対するスタンスの原点はどこにあるんですか?」と、珍しく真面目な質問を投げかけた。
スタジオの照明が少し落ち着き、八幡は不意を突かれたように軽く目を丸くしたあと、面倒くさそうに首をポリポリと掻いた。
「……原点、ねぇ」
八幡は少しだけ遠い目をし、あの閉塞感に満ちていた高校時代や、数々の面倒事に巻き込まれながらも過ごした日々を思い返していた。
「たいした高尚な教育論なんて持っちゃいねぇよ。ただ……」
八幡はふっと息を吐き、どこか照れくさそうに、しかしはっきりと口を開いた。
「俺の周りには、とんでもねぇ大人たちがいたってことだな。……例えば、平塚先生とか、あとは雪ノ下んとこの親父さんとかさ。ああいう人たちの背中を見て、純粋にすげぇなって思ったんだよ」
その名前が、思いがけずテレビの電波に乗って全国に放り出された。
「自分の損得抜きで、理不尽な世界や大人たちを相手に真っ直ぐ向き合って、子供たち――俺たちの前に立ちはだかって守ろうとしてくれた。だから、俺も自然と『子どもや、自分の周りの奴らを守れる大人になりたい』って思うようになった。……まあ、今振り返ってみれば、あの2人の姿が、当時の俺にとってはそのまま『ヒーロー』に見えてたんだろうな」
斜に構えたひねくれ者が、初めて見せた純粋な憧れと敬意。
綺麗ごとでも政治的レトリックでもなく、ただ一人の人間としての素直な述懐だった。
その瞬間、日本のどこかのリビングで。
テレビ画面を見つめていた平塚静は、手に持っていた缶ビールをふっとテーブルに置き、ガシガシと乱暴に頭を掻きむしった。
「っ……このガキが……!」
顔を真っ赤に染め、照れ隠しのように目を潤ませながら、静は画面の向こうの教え子を睨みつける。けれど、その頬を伝う一筋の涙を止めることはできなかった。
あんな風に不良っぽくひねくれていた教え子が、いつの間にか自分を「ヒーロー」だったと語り、世界を動かす男になっていまや誰かを守る側に立っている。教師として、これ以上の誇らしさがあるものか。
一方その頃、雪ノ下家の重厚な書斎でも。
静かにグラスを傾けていた雪ノ下父は、八幡のその言葉を聞いた瞬間、思わずフッと声を出して笑った。
その瞳には、深い感慨と、言い知れない熱いものがこみ上げていた。
――私を、ヒーローだと?
かつて政治の修羅場で、彼を救うために自らの政治生命のすべてを賭け、火中の栗を拾ったあの日の決断。
あの時は「とんでもない面倒事を抱え込んだものだ」と周囲に冷笑されたが、父はあの時、確信していたのだ。この男の根っこにある優しさと牙を、ここで潰してはならないと。
「……まったく面白い男だよ、比企谷くん」
父はグラスを置き、画面の向こうで気だるげに笑うかつての教え子に向かって、一人静かに呟いた。
「あの時、私の政治生命をかけて君を救い出したこと……一度たりとも、後悔したことなどないさ」
世間がどれほど彼を賛否両論の嵐で評価しようとも、彼がその背中に背負っている「守るべきもの」の重みを知る者たちにとって、今日のその言葉は、何よりも誇らしい答えだった。
綺麗ごとではない。大人が背中で見せた背中が、次の世代のヒーローを育て、そしてそのヒーローがまた誰かの日常を守っていく。
画面の向こうとこちら側で交錯するそれぞれの想いは、静かに、しかし確実に、世界を少しだけ温かく変え続けていた。
画面の向こうから投げかけられた問い
番組の終盤、司会者がしみじみとしたトーンでスタジオ全体、そして画面の向こうの視聴者に向けて問いかけた。
「――比企谷さんの話を聞いていると、考えさせられますね。僕たちは、今の若い世代や子供たちにとって、胸を張って『目標にできる大人』になれているんでしょうか?」
その言葉は、スタジオの著名人たちだけでなく、テレビを見ていた日本中の大人たちの胸を鋭く突き刺した。
SNSのタイムラインでは、それまで八幡の「妻が3人」発言や過激なスタンスで盛り上がっていた画面が、一瞬にして静まり返ったかのように「……自分はどうだろう」という反省の空気に包まれた。
理想の大人になれているか。
立派な背中を見せられているか。
誰もが自信を持てず、どこか気まずさを感じていたその時、画面の中で八幡は、相変わらず面倒くさそうに片頬を歪め、ボソッと言い放った。
「……そんなもん、なれてなくてもいいんじゃねえの」
スタジオの面々が「え?」と目を丸くする。
八幡はコップのお茶を飲み干すと、淡々と言葉を続けた。
「最初から完璧な大人になれる奴なんていねぇよ。立派な背中を見せようとか気負ったって、どうせボロが出る。ただ……なろうとして、もがいてる姿くらいなら、誰かがどこかで見てるんじゃねえの?」
ふっと、八幡は少しだけ優しげな、けれどどこか自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……俺たちも、そうだったろ。完璧な大人になんて到底見えねぇ大人たちに文句言いながらも、その背中に救われて、ここまで来ちまったんだからさ」
「今からでも、前へ進める」
その一言は、日本中で画面を見つめていた数え切れないほどの視聴者たちの心に、深く、優しく染み入った。
仕事や日々に疲れ果て、「自分はダメな大人だ」と諦めかけていたサラリーマン。
将来に不安を抱え、自分がどんな大人になるのか怖がっていた学生たち。
親として、これでいいのかと密かに悩んでいた母親や父親たち。
彼らの胸に、八幡のその「気負わない、だけど嘘のない言葉」が真っ直ぐに届いた。
SNSのトレンドは、一瞬で変わった。
「『なろうとしてれば見てる』って言葉にマジで救われた……今日からまた頑張ろう」
「立派じゃなくていいんだな。不格好でも、誰かのために足掻いてる姿を見せるだけでいいんだ」
「なんか、涙出てきた。今からでも、遅くないよな」
「今日から頑張ることを誓う」という投稿が、驚くようなスピードでタイムラインを埋め尽くしていく。
世界を動かすような大きな改革でも、綺麗ごとのスローガンでもない。ただ、ひねくれた元・特命大臣がテレビの片隅で吐き捨てた「本音」が、名もなき人々の背中をそっと押し、今日を生きるエネルギーに変えてしまったのだ。
「まったく……あの人は、相変わらず人をたらし込む天才ね」
リビングでその様子を見ていた雪乃は、呆れたような、しかし愛おしさを隠せない笑みを浮かべながら、そっとテレビの画面に目を向けた。
完璧じゃなくていい。カッコ悪くてもいい。
ただ、目の前の大切なものを守るために、少しずつ前へ進むこと。
画面の向こうで相変わらず気だるげに座るその男の背中を見ながら、日本中の人々が、それぞれの場所で静かに前を向き直っていた。
酒のつまみと、世界で一番美味いもの
深夜の対談番組もいよいよ終盤。スタジオの空気が少しだけ和らぎ、話題はふと「お酒のつまみ」や「これまでに食べた美味いメシ」という気楽な雑談へとシフトしていった。
「いやぁ、それにしても比企谷さんのお酒の飲みっぷりもいいですね」と司会者が笑う。
「旅してた頃とか、色んな場所で旨いもんも食ってきたんじゃないですか? 今のお気に入りとかあるんですか?」
その質問に、八幡はグラスのウーロン茶をちびりとやりながら、少しだけ面倒くさそうに、しかしどこか懐かしそうに目を細めた。
「旅してた頃ねぇ……。そりゃ各地で名物とか美味い料理は色々食ったさ。どれも美味かったけどよ……」
八幡はふっと息を抜き、照れくさそうに鼻をかいた。
「まあ、今の一番のお気に入りは――やっぱり、嫁さんたちの手料理だな。あ、いや、もちろん実家のおふくろの飯や、小町が作ってくれるメシもだ」
スタジオの空気が「おっ?」と再びざわめく。
「お、出たよ、のろけですか?」と出演者が冷やかすが、八幡は動じず、淡々と、しかし噛み締めるように言葉を続けた。
「そりゃあさ、世の中にはミシュランの星がつくような一流レストランのシェフが作った、何万円もするような超高級料理なんていくらでもある。そういうのとは、ベクトルの次元が違うのは分かってる。でもな……」
八幡は少し言葉を区切り、まっすぐ前を見据えた。
「『俺のために、わざわざ時間をかけて作ってくれた』ってその事実を思いながら食うとさ。料理単体の味を超えて、別モンに美味くなるんだよ。……まあ、ぶっちゃけただの惚気(のろけ)に聞こえるだろうけどさ、実際マジで美味いんだからしょうがねぇだろ」
「うわぁ、全国放送で堂々とノロケやがったこの男!」
「ずるい! 羨ましすぎるだろ!」
スタジオ中から総ツッコミと盛大な笑いが巻き起こる中、番組のスタッフが「そんな八幡さんのために、サプライズでこちらをご用意しました!」とばかりに、スタジオの隅から一つの大きなお盆を運んできた。
蓋を開けると、そこにはふわりと湯気を立てる上品な小料理が盛られていた。
「実は、ご家族のご協力のもと……奥様の一人である雪ノ下さんから、事前にレシピと作り方をこっそり伺って、番組特製として再現させていただきました!」
「……は?」
八幡は思わず動きを止めた。目の前に置かれた皿を見て、一瞬でそれが誰の味付けか、どんな手際で作られたものかを察知する。
それは、間違いなく雪乃の味だった。
「ほら、一口どうぞ!」と促され、八幡は渋々といった様子で箸を取り、口に運ぶ。
出汁の絶妙な旨味、素材の良さを最大限に引き出す丁寧な下処理、そして何より――隠し味のように込められた、あのツンデレながらも細やかな気配り。
(……くそっ。仕込みが美味すぎんだよ、まったく……)
八幡は内心で舌を巻きながらも、思わず「……うまっ」と小声で呟いてしまった。
その表情の隠しきれないリアクションに、スタジオの観客や視聴者たちは「あ、今のガチの反応だ!」「本当に美味そう!」と大盛り上がり。
一流の高級料理にも負けない、愛おしい日常の味が詰まったその一皿を前に、世界を揺るがす「牙」を持った男は、すっかりタジタジになりながらも、やっぱりどこか嬉しそうに箸を進めるのだった。
深夜のスタジオ、予期せぬ「エキシビション」
番組が和やかな惚気話と美味しい料理の余韻に包まれていた、その時だった。
スタジオの片隅で、酒を煽りすぎてすっかり出来上がっていた元プロボクサーのゲストが、急にフラフラと立ち上がった。現役時代は世界タイトルをも狙ったというその男は、真っ赤な顔でヘラヘラと笑いながら、八幡の方へと歩み寄ってきた。
「なぁ……比企谷さんよぉ」
男はガっシリとした腕で八幡の肩に重く腕を回し、酒気帯びの息を吐き出す。
「さっきから聞いてりゃ、『守るためなら何でもする』だの『実力行使だ』りカッコいいこと言っちまってよ。口だけなら誰にでも言えるんだよ、そういうのはなぁ!」
スタジオの空気が、一瞬でヒリついたものに変わる。
スタッフが慌てて止めに入ろうとするが、男はそれを手で払い除け、ニヤニヤと笑いながら言い放った。
「おい、男と男のタイマンだ! 口で負けなら、拳で語り合おうぜ。なあ、ちょっと軽く『マス(マスボクシング)』でやろうや! なあに、軽く汗かくだけだって!」
(はぁ……? 酒に酔ったオッサンが絡んでくるプライベートの面倒くささを、なんでいま全国生放送の電波で味わわなきゃいけねぇんだよ……)
八幡は心底めんどくさそうな顔を隠しもせず、トレンチコート代わりに着ていたジャケットの袖をパタパタとさせながら、両手を軽く上げて引き気味に応じた。
「いやいや、ちょっと待てって。俺、一応一般人――というか、ただの元・労働者階級のオッサンだぞ。相手が元プロボクサーとか、頭おかしいんじゃないのか? 無理無理、即死するわ」
「いいからいいから! 怖気づいたのかよ!」
周囲の「おいおいマジかよ」「放送事故だぞこれ……」というどよめきを無視して、酔っ払った元ボクサーはすでにその場でファイティングポーズをとる。スタッフもカメラのスイッチを切るべきか判断に迷い、現場は完全なパニック状態に陥った。
――やれやれ。
八幡は小さく、しかし深い溜息を一つ吐いた。
ここで下手に引けば「口だけのヘタレ」と笑われ、変に突っ張れば別の意味で大事になる。ならば、最小限の労力で、さっさとこの場を終わらせるのが一番の得策だ。
男がふらりと踏み込み、鋭いジャブを繰り出してきた。
――その瞬間。
それまで気だるげに立っていた八幡の雰囲気が、スッと変わった。
力任せに殴り返すわけではない。八幡は半歩だけ体を半身に引き、最小限の動きでその拳をスッと見切る。
パシュッ。
「っと……」
元ボクサーの拳は、八幡の鼻先をかすめるすらうるさいほどに空を切った。
男は「おっ?」と目を見張り、少し本気でワンフックを放つ。だが、八幡はまるで水面を滑る木の葉のように体を流し、相手の腕の軌道を最小限の掌と柔らかな身のこなしで「いなす」。
さらに、踏み込んできた足元をさりげなく、しかし完璧なタイミングで「捌き」、崩された重心の勢いを利用して、相手のバランスを綺麗に無力化してみせた。
ガタン、と大きな音を立てて、元プロボクサーの巨体がスタジオの床に綺麗に転がった。
会場の時間が、数秒ほど完全に停止した。
「…………は?」
誰もが何が起きたのか理解できなかった。
元プロボクサーが、一発もクリーンヒットを貰うことなく、まるで柔道の受け身か合気道のように、あっさりと、しかし圧倒的な技術で「制圧」されていたからだ。
スタジオのゲストたちや司会者は、ぽかーんと口を開けたまま硬直している。
「え……? えっ? 今の、なに……?」
「待て待て、素人じゃなかったのかよ!?」
それもそのはず。八幡が使ったのは、かつて自身の身を守るため、そして理不尽な世界で生き抜くために密かに培ってきた「無駄を極限まで削ぎ落とした実戦的な護身術(と、柔術的な崩しの技術)」だった。力任せの暴力ではなく、圧倒的な「合理性と予測」による制圧。
そして、その瞬間。
リアルタイムでその光景を目撃していたインターネットのSNSや動画配信のコメント欄は、文字通り「爆発」した。
「おい今の見たか!? プロのパンチを完全にかわして、一瞬で投げたぞ!」
「いやいやいや、素人じゃねぇだろ! どう見ても場数を踏んだやつの身のこなしじゃねぇか!」
「口だけじゃなくて、ガチで強くて草。トレンチコートのヒーロー、カッコよすぎだろ……!」
「『素人なんですが』って言った直後にこれだよ。最高すぎるわ」
「いや、だから素人だっての……。ただの自衛だよ、自衛」
床に転がって呆然としている元ボクサーを横目に、八幡は冷め切ったマックスコーヒー(またはお茶)の缶を拾い上げると、何食わぬ顔でまた自分の席に戻り、ポツリとそう呟いた。
綺麗ごとを並べるだけの男でも、口だけのペテン師でもない。
必要な時には、そのひねくれたスマートさの裏に、本物の「牙」を隠し持っている。
その夜、日本中の画面の向こうで、誰もが確信した。
――この男を怒らせてはならない。そして、敵に回すにはあまりにも大きすぎる存在だと。
「10年遅かったな」
スタジオの床に転がっていた元プロボクサーは、呆然と天井を見上げたあと、ガバッと起き上がると自分の拳と八幡の姿を交互に見つめ、苦笑いを浮かべながら頭をかいた。
「……参ったな。すっかり酔いも覚めちまったよ」
男はふぅと息を吐き出すと、どこか感心したような、そしてプロとしての眼力を持った真剣なトーンで八幡に向き直った。
「なあ、比企谷さん。……あんた、ただの『自衛』なんてレベルの動きじゃなかったぞ。その反射神経と、力の流し方……。まともに鍛え直したら、プロの世界でもけっこういい線いってたんじゃないか? 正直、もったいねぇよ」
その元プロボクサーからの思わぬ賛辞に、スタジオのカメラが一斉に八幡の表情を大写しにする。視聴者たちも「確かに、今の動きはガチだった」「もしかしてスポーツの世界でも無双できたのか?」と固唾を飲んで画面を見守った。
しかし、当の八幡は、向けられた熱視線をどこ吹いた風と受け流し、めんどくさそうに首をポリポリと掻きむしった。
「やめてくれよ、今さらそんな夢のある話すんなっての」
八幡はコップのウーロン茶を飲み干すと、やれやれといった顔で小さく息を吐いた。
「それにさ……」
八幡は少しだけ目を細め、どこか遠い昔、無数の面倒事と理不尽に一人で立ち向かっていた学生時代を思い出すように、ぼそっと呟いた。
「せめて……10年前に言ってくれたら、真面目に考えたところだけどな」
その、あまりにも現実的で、しかしどこか含みのある軽口に、スタジオの面々は思わず「10年前って、高校生の頃じゃねぇか!」「どんな青春を送ってたんだよ!」と一斉にツッコミを入れた。
「今さらボクシンググローブつけてリングに上がるなんて、体力的にごめんだね。俺の戦場はすでに、そういう場所じゃねぇよ」
八幡はそう言って席にどっかりと腰を下ろし、何事もなかったかのようにまた手元の料理に箸を伸ばす。
かつて数々の厄介事をそのひねくれた頭脳と泥臭い覚悟で切り抜け、今は世界を揺るがす「ご当地ヒーロー構想」の裏で静かに日常を守る男。
プロの世界をも唸らせたその隠された牙は、相変わらず切れ味抜群のまま、あくまで「自分の大切なもの」を守るためだけに、ひっそりと鞘に収められていたのだった。
テレビ画面に映し出された一連のやり取りを見ていたのは、スタジオの出演者やネットのインフルエンサーだけではなかった。
日本中のリビングや自室、あるいはスマホの画面越しにその生中継を見つめていた数え切れないほどの視聴者たち――その中の一人に、静かな変化が起きていた。
残業帰りの疲れた体でソファに沈み込み、何気なくテレビをつけていたある若者サラリーマンは、八幡が元プロボクサーの攻撃をいなして制圧した瞬間、思わず「……すげぇ……」と声を漏らし、背筋を伸ばしていた。
口先だけで偉そうなことを言う政治家や評論家ならいくらでもいる。
しかし、あのひねくれた元・特命大臣は、普段はめんどくさそうにぼやきながらも、いざという時には圧倒的な実力で大切なものを守ってみせた。その身のこなしの裏に、どれだけの泥臭い経験や、自分を律してきた時間があったのかは想像に難くない。
「……俺も、少しは鍛えようかな」
部屋の隅に放り出されていたダンベルに目をやりながら、男はぽつりと呟いた。
SNSのタイムラインでも、同じような声が爆発的に広がり始めていた。
「言葉だけじゃなくて、あの動ける体と胆力は伊達に生きてこなかった証拠だろ……。なんか、自分も言い訳してないで動かなきゃなって思ったわ」
「筋トレしてくる。比企谷みたいにカッコよくはなれなくても、せめて自分の足でしっかり立てる男になりたい」
「努力が見え隠れするってこういうことなんだな。痺れたわ」
綺麗ごとのダイエットや、意識高い系の啓発本では決して動かなかった人々の心が、あの無愛想な男の「圧倒的な実力と、それを隠さない生き様」によって静かに、しかし確実に火をつけられていた。
言葉ではなく、背中で、そしてその瞬間の動きで見せた説得力。
画面の向こうの主人公は相変わらず「めんどくさい」と顔をしかめているが、その影響力は、もはや日本の隅々にまで確かな足跡を残し始めていたのだった。
鍛える理由と、それぞれの選択
元プロボクサーに軽くいなされた件がまだ尾を引く中、別の席に座っていた初老の著名ゲストが、興味津々といった様子で八幡に身を乗り出した。
「いやしかし、比企谷さん。その見事な体捌き……ぶっちゃけ、そんな護身術みたいな技術って、今の生活で実際に役に立つもんなのか?」
その疑問に、八幡は缶コーヒーのプルタブを引っ張りながら、面倒くさそうに片眉を上げた。
「役に立つかと言われたら……まぁ、ないよりはマシって程度だろ。昔、あちこちフラフラ旅してた頃は、夜道で変な奴に絡まれたり、うっかりトラブルに巻き込まれそうになったりすることもゼロじゃなかったしな」
八幡は少しだけ昔を思い出して遠い目をし、さらりと続けた。
「あとは、目の前で車が突っ込んできそうになった奴を咄嗟に引っ張って助けたりとか……。そういう、笑えない修羅場がたまにあったから、結果的に体が勝手に動くようになっただけだ。もっとも、そんな機会は一生訪れない方が平和でいいに決まってるけどな」
「なるほどねぇ……。身を守るためってのもあるが、いざという時に大切なやつを庇えるだけの保険にはなるってわけか」
ゲストのオッサンは腕を組み、ふむ、と深く唸った。
「まあ、俺みたいな中年が今さら暴力を覚えるわけにもいかないが……。でも、そういう動ける体を作っておくって意味なら、健康維持にも悪くねぇよな」
そして、オッサンはあごに手を当てて決意したように頷いた。
「……よし、俺も形から入るか。とりあえず、近所のジムでも契約してくるかなぁ」
その言葉に、スタジオの女性ゲストたちも「あ、それいいかも!」「健康のために運動するの、結局一番大事だよね」と次々に賛同の声を上げた。
「見た目だけ取り繕ったって、いざって時に動けない大人じゃカッコ悪いもんね」と笑う女性陣の言葉に、スタジオ全体が妙な納得感に包まれていく。
日本中のテレビの前で「ジムに行こうかな」と呟いた中年男性や、運動靴を引っ張り出した若者たちの数は、この瞬間、数え切れないほどに増えていた。
ただ生きるためではなく、大切なものを守るため、あるいは健康な日常を維持するため。
ひねくれ者の元・特命大臣が何気なく吐き出した一言は、テレビの向こうの大人たちに、ささやかな、けれど確実な「最初の一歩」を踏み出す理由を与えていたのだった。
マックスコーヒーの「健康」理論
「……って、よく考えたら俺たち、さっきまで酒飲んでベロベロに盛り上がってたのに、急に健康の話になってるな」
八幡は自分の手元にあるグラスと、その横に鎮座するお馴染みの黄色い缶を交互に見つめ、乾いた笑いを漏らした。
スタジオの面々も「本当だな」「酒の席のノリって怖いよな」と顔を見合わせて苦笑する。
しかし、その和やかな空気を突くように、別のゲストがふと疑問を投げかけた。
「いや、でもさ、比企谷さんといえばやっぱりアレじゃないのか?」
スタジオの視線が一斉に、八幡の隣に置かれた見慣れた黄色の缶――マックスコーヒーへと集まった。
「気になってたんだけどさ、そのいつも飲んでる激甘のやつ。健康や身体作りの観点から言うと、正直どうなんだよ? 糖尿病一直線なんじゃないの?」
その直球すぎる質問に、八幡は全く動じず、むしろ「何を分かってないんだ」と言わんばかりに、やれやれといった顔で缶を持ち上げた。
「偏見だな。甘いからって体に悪いわけじゃねぇよ」
八幡は当然のように語り出す。
「よく見ろ、これにはちゃんと栄養が詰まってんだ。疲れた脳と肉体に染み渡る圧倒的な糖分はもちろん、ミルク成分だって入ってるからな。タンパク質だって、見方を変えればちゃんと含まれてる。――つまりだ、疲労困憊の肉体を急速回復させるエネルギー源としては、下手な栄養ドリンクよりよっぽど優秀なわけよ」
「いやいや、それを言うならただの高カロリーの爆弾だろ!」とスタジオからツッコミが飛ぶが、八幡はひるまない。
「なに、要は使い方の問題だ。動き回った後の糖分補給、あるいは極限状態でのリフレッシュとしては、これ以上の相棒はいねぇよ。……まあ、運動もしないで一日中デスクの上で何本も空けてたら、そりゃ成人病のフルコースだろうけどな」
八幡はふっとニヤリと笑い、さらに独自の理論を展開した。
「それに、これだけの糖分とエネルギー効率を考えたら、もはや下手に薄めたスポーツ飲料なんかよりよほど優れてるんじゃないか? ――おっと、異論は認めん。俺にとってはこれが最高の点滴みたいなもんだ」
そのあまりの堂々とした「マックスコーヒー健康・スポーツ飲料説」に、スタジオは「いや、絶対に無理があるだろ!」「でもなんか説得力あるように聞こえるのが腹立つ!」と大爆笑に包まれた。
テレビの向こうでそのやり取りを見ていた全国のマックスコーヒー愛好家(あるいは甘党たち)からは、「そうだそうだ、異議なし!」「明日からスポーツドリンクの代わりに持ってくわ!」という共感のSNSが次々と飛び交うことになった。
お酒から始まった健康の話題は、結局いつもの彼らしい「甘い相棒」の正当化で締めくくられ、スタジオは温かい笑いに包まれ続けるのだった。
「ブラウンの中の人」の宣伝力
テレビ画面の向こうで、相変わらず怪しげな理論で黄色い缶を正当化する比企谷八幡の姿は、お茶の間の笑いを誘うだけに留まらなかった。
リアルタイムで動いていたインターネットのトレンドやSNSのタイムラインは、その瞬間、別の意味で最大級の盛り上がりを見せていた。
「待って、これ深夜の対談番組だよね? 気づいたらマックスコーヒーの宣伝になってるんだけどwww」
「『スポーツ飲料としても優秀』は草。コカ・コーラ社は今すぐ比企谷を公式アンバサダーに起用すべき」
「ご当地ブラウン構想の仕掛け人が、テレビで堂々とご当地ドリンクを布教していくスタイル。さすがブラウンの中の人、有能すぎるだろ」
「明日から全国のマックスコーヒーが売り切れる予感しかしない」
「ご当地ブラウン」というローカルムーブメントを巻き起こしている張本人が、全国ネットの生放送という大舞台で、まさかの千葉県民のソウルフード(あるいはライフライン)であるマックスコーヒーを全力でステマ――いや、もはやガチの愛を語り尽くしている。
そのシュールでありながら圧倒的な影響力を放つ光景に、ネット上では「#マックスコーヒー」「#ブラウンの中の人」「#点滴としてのマッカ」といったワードが一気にトレンドの上位を独占した。
一方、その頃。
テレビ画面を眺めていた「ご当地ブラウン」のプロジェクトチームのオフィスでは――。
「……あーあ、また勝手に全国に向けて宣伝しちゃってるよ、あの人は」
小町が呆れたようにスマホの画面を見せながら、やれやれといった顔で肩をすくめる。
しかし、その目はどこか誇らしげで、笑いをこらえきれていない。
隣でタブレットを叩いていた高柳は、画面に映し出されたSNSの爆発的なインプレッション数(閲覧数)を確認すると、眼鏡の奥の目を細めて小さく笑った。
「宣伝費を一切かけずとも、一言でこれだけの経済効果と話題性を生み出す。……さすがは我らの理事長ですね。マーケティングの観点から見ても、これ以上の広告塔はいませんよ」
「本当ね」と、雪乃も優しく微笑みながら紅茶を一口飲んだ。
「世間がどんなに彼を批判しようとも、彼の言葉の端々にある日常のリアルは、こうしていつのまにか周囲を巻き込み、明るい色に塗り替えてしまうのだから」
テレビの中では、司会者の「そろそろお時間のようです!」という声とともに、スタジオが温かい拍手に包まれようとしていた。
画面の向こうで、八幡は「やれやれ、やっと終わったか」とでも言いたげな顔で大きく息をつき、最後に残ったマックスコーヒーの缶を傾けている。
めんどくさがりの元・特命大臣が放った気まぐれな一言は、今日も日本中の人々の心を揺さぶり、クスリと笑わせ、そして確かな熱狂を生み出し続けていたのだった。