1%の力と『波の上の魔術師』
「――で、どうにも予算の切り回しと、民間投資のスキームの組み方で頭打ちになっててさ」
霞が関の空気をまとった同期――経済産業省に身を置く男が、八幡のいるオフィスを訪れ、苦い顔でそうこぼした。巨大な国家予算やマクロの数字を扱うはずの官僚が、現場レベルの突破口を求めて、かつてのひねくれ者に助言を求めている時点で何かが狂っている気もするが、八幡はいつものように面倒くさそうにマックスコーヒーの缶を転がしていた。
「国家の大きな枠組みなんてどうでもいいだろ。だいたい、お前らは数字の尻尾ばかり追いかけて肝中のレバーを見誤る」
八幡は椅子にもたれかかり、天井を見上げたまま一言言い放った。
「『波の上の魔術師』を読め。1%の力を軽んじるなよ」
「なみのうえのまじゅしゃ……? 何だそれ、投資のハウツー本か?」
同期は首を傾げたが、これ以上のヒントは出さないとばかりに八幡が鼻をポリポリと掻いたため、首をひねったまま「……とりあえず、帰りの書店で探してみるか」とすごすごと引き上げていった。
その夜の雪ノ下家。
リビングのソファで資料に目を通していた雪乃が、ふと顔を上げて八幡を見た。
「ねえ、さっき経産省の同期がどうこう言ってたけれど……『波の上の魔術師』って何? あなた、そんな経済小説なんて読む趣味があったかしら」
「んあ? ああ、知らねえのか」
八幡はソファの端で本をめくりかけ、片眉を上げる。
「そりゃそうか、20年以上前の本だからな。……おい、お前『IWGP』――池袋ウエストゲートパークは知ってるか? 最近またドラマや原作の再評価とかで人気らしいけど」
「……ええ、もちろん知っているわ。あの石田衣良の代表作でしょう?」
「その原作者、石田衣良が書いた経済小説だよ、それが『波の上の魔術師』だ。ドラマもあったな。……そういえば、『ビッグマネー』ってドラマでもあったぞ。金と人間の裏側、1%の微小な揺らぎがどうやって全体をひっくり返すか描いてる。……まあ、お前も読んでみるか?」
雪乃はふっと綺麗に目を細め、静かに頷いた。
「……そうね。あなたがそこまで引き合いに出すものなら、少し興味がわくわ。読んでみるわ」
「お,おう。うちの書斎の本棚の隅っこにあったはずだ探せ」
波及する『1%』の読書会
その一冊の古びたタイトルは、奇妙な感染力を持ったように周囲へと広がっていった。
雪ノ下家の書斎からそれを引っ張り出した雪乃だけでなく、連絡を受けた姉の陽乃や、川崎沙希、さらには「ご当地ブラウン」のプロジェクトチームの面々、そして情報と裏の構造に聡い高柳までもが、それぞれの場所でページを繰ることになった。
ページをめくればめくほど、大衆心理の操り方、わずかな制度の隙間、そして「1%の決定打」が持つ意味が生々しく立ち上がってくる。
数日後。
プロジェクトチームのミーティングルームや、それぞれの連絡網の先で、誰もが小さく息を呑み、そして深く納得させられていた。
高柳:「なるほどね……派手な予算や世論誘導じゃなくて、最初に動く『1%の歪み』をどこに仕掛けるか、か」
雪乃:「ええ……。綺麗ごとでも、ただの泥臭い根性論でもなく、構造の急所を突く。あの人がいつもやっていることのロジックが、少しだけ見えた気がするわ」
陽乃:「ふぅん、あの子、こういう読書をしてこういう視点を自分の中にインストールしてたわけだ。そりゃ手ごわいはずよね」
沙希:「……地味だけど、確かにこれ読んだら見え方変わるわね」
霞が関の同期も、数日後に本を読破した足で再びやってきて、「……そういうことか。全体を動かそうとするからバグるのか」と、目から鱗を落としたような顔ですっきりした背中を見せて去っていった。
世間が相変わらず「マックスコーヒーの宣伝だ」「妻が3人だ」と表面的なスキャンダルやパフォーマンスに一喜一憂している裏側で、八幡がばら撒いた「20年前の古本」という名の種は、着実に周囲の頭脳の解像度を一段階引き上げていたのだった。
「借金1300兆円」の正体と、ひねくれた視点
「というか、なんでお前らそんな国家のマクロの数字で一喜一憂してるわけ?」
八幡はマックスコーヒーの缶をテーブルにコツンと置いたまま、呆れたようにそう呟いた。
議論の輪の中にいた陽乃が、上品にカップを傾けながらクスリと笑う。
「あら、比企谷くん。それは世の中が不景気だから、みんな将来に怯えてるのよ。財政がどうとか、円安がどうとかね」
「いや、ちょっと待って、お姉様」
雪乃がきれいな眉をひそめ、冷徹な数字を思い浮かべるように視線を上げる。
「株価はこれだけ上がっているのよ? 経済の実態と乖離してる部分があるにせよ、一概に不景気の一言で片付けられる話じゃないはずだわ」
「そうそう、でもさぁ……」と、チームの若い一人がおそるおそる手を挙げる。
「ニュースとかだと、日本の借金はもう1300兆円(※番組や世間で言われる規模感)くらいあるって怯えさせられるじゃん? あれ聞くと、やっぱ日本ヤバいんじゃないかって……」
その言葉を聞いた瞬間、八幡は心底どうでもよさそうに鼻をフッと鳴らした。
「おいおい。だから、そういう表面的な数字の踊り方に乗せられるなっての」
八幡は面倒くさそうに首をポリポリと掻く。
「あれは『日本の借金』じゃなくて、正確には『政府が国内(日銀や民間銀行、国民の預金など)から借りてる借金』だろ。通貨発行権持つ自国建て国債のカラクリを考えりゃ、家計の借金と一緒にすんなって話でさ。ミスリードだよ、あんなの」
スタジオや、あるいは後日談のミーティングルームにいた面々が「あ……」と息を呑む。
国家破綻論というわかりやすい不安のレバーが、いかに都合よく切り取られた見せかけであるか。八幡のそのひねくれた――だが本質を突いた一言は、複雑怪奇に見えるマクロ経済の霧を、一瞬で晴らしてみせた。
高柳が眼鏡の奥で小さく目を細め、雪乃は「……なるほどね。相変わらず、本質以外のノイズを綺麗に削ぎ落とす人だこと」と、どこか感心したように小さくかぶりを振ったのだった。
「1%」のプールが持つ規模感
「じゃあ、具体的にどうすればいいのよ?」と、詰め寄るような視線を向ける雪乃やチームの面々に、八幡はため息混じりに答えた。
「だから、さっきから言ってるだろ……『波の上の魔術師』を読ませただろうが」
八幡は面倒くさそうに指を一本立てる。
「日本にある家計の金融資産がどれだけあると思ってる。2000兆円規模だぞ。その中の、たった1%がどこにどう流れるだけで、動かせる金の規模がどれくらいになるか計算してみろよ」
2000兆円の1%――それだけで20兆円という、下手をすれば国の一大予算や巨大ファンドすら軽く飲み込む巨額のマグニチュードになる。全体の空気に怯えて財布の紐を締めたり、破綻論のホラーショーに付き合ったりするのがいかにナンセンスか。
八幡は肩をすくめ、どこか飄々とした調子で言い切った。
「俺は日本の将来、少なくとも金銭や資本のパイのデカさに関しては、そこまで心配してねえよ。要は、その巨大なプールのどこにレバーを突っ込み、誰がどう回路を作るかってだけの話だろ」
マクロの恐怖に縛られず、ミクロの構造から巨大な歪みを抜く。
その冷徹で、けれど圧倒的な楽観(あるいは現実主義)の裏付けを聞き、部屋の空気が再びスッと引き締まったのだった。
少子化という「リアル」な違和感
金銭のパイのデカさや構造的なレバーの話から一転、八幡はふと苦笑いを浮かべながら、手元のマックスコーヒーを軽く揺らした。
「……ま、金はなんとかなるとしてもだ。少子化の話になると、話は別だけどな」
八幡はトレンチコートの襟元を少し整え、どこか現実味のないような、それでいて妙に重みのある視線を宙に投げる。
「いくら俺たちが『3人嫁さん迎えて守ってます』なんて背中で見せようとしたって、世間の常識とか制度とかモラルの壁とか、そう簡単に他人に真似できるもんでもねえし、そもそも社会全体がそんなマルチプルな関係や生き方をデフォルトで支える仕組みになってない」
綺麗ごとの綺麗事では埋まらない、労働環境、キャリアの断絶、固定化された家族観という圧倒的な現実。
マクロの数字や1%の資本操作でひっくり返せない「人の生存と選択のコスト」の歪みこそが、この国が抱える本当の急所であると、ひねくれた元・特命大臣はどこか冷ややかに、しかし根本的な誠実さを持って呟くのだった。
「……やれやれ。国家の借金より、こっちのほうがよっぽど難題だな」
ため息をつきつつも、その背中はまた次の面倒事や、目の前の家族の笑顔を守るための計算を頭の片隅で始めている。
議論の部屋には、わずかな苦笑いと、やはりそれを放っておけない男の温度だけが残されていた。
独占欲と、和僑の歴史が教える「動く理由」
「だから、私たち3人と結婚したの?」
雪乃、陽乃、沙希の三人が、どこか詰るような、しかし隠し切れない熱を孕んだ目を向けてくる。
八幡はポリポリと頬を掻き、いつもの自嘲気味な笑みを浮かべた。
「いや、生きてきた中で文句なしにお前らが一番良い女だったってことだ。それに――選ぶんじゃねぇよ。もし最初に出会ったのが誰であっても、結局は全員に惚れてたろ。好きな女が3人いて、それが他の男の嫁になるなんて耐えられなかった。……ま、超絶身勝手な独占欲だな、俺の」
その直球すぎる「惚気と独占欲の告白」に、スッと雪乃たちの頬が赤らむ。陽乃ですら珍しく口元を隠し、沙希が目をそらしながら小さく息をつく。
「……まぁ、その話は今はいいとして」
八幡は、気まずさをかき消すようにトレンチコートのポケットから黄色い缶を取り出し、プルタブを弾いた。シュシリ、と乾いた音がして、甘い香りが空気に混ざる。
「経済の話の続きだ。前、外務省の奴に『和僑(海外で活躍する日本人商人・ネットワーク)』の話をしたけどよ。あれだって何も珍しい話じゃねぇ」
八幡は缶を傾け、淡々と言葉を紡ぐ。
「昔の日本はもっと貧しかったからな。生きるために海を渡り、海外に道を求めた。あの頃の苦しさに比べりゃ、今の日本はまだ全然豊かだ。――要は、制度やマクロの数字に絶望して動くのをやめるかどうかの違いだけでさ」
動くか、動かないか。
人を頼れるか、仲間を頼れるか、家族を頼れるか。
そして、自分が困ったときに、逆に誰かを頼って助けられる関係を作れているか。
「無理ゲーとは、俺は全然思わないけどな」
グア、とマックスコーヒーを喉に流し込み、八幡はフッと息を吐いた。
そのひねくれた口調の裏側で、彼の瞳に宿る「守るための熱と光」は、決して消えてはいなかった。
高柳をはじめとするチームの面々は、その背中と理屈を超えた胆力に、改めて深く納得したように小さく息を呑み、そしてそれぞれの視線を前へと向け直すのだった。
年収200万円の「手触り感」
「まあ、国家の2000兆円とか和僑の壮大なスケールの話はこれくらいにして……。もっと手元の、個人とか家族のちいせぇ話でもするか。もう国会議員でも何でもねえし、ただのアドバイザーと理事長だろ、俺は」
八幡はマックスコーヒーの缶を置くと、やれやれといった調子で両手を軽く挙げる。
「例えば、だ。アルバイト暮らしで年収200万としよう。……これ、今の世のなかで見たら『貧乏』の部類に入るか?」
「そりゃ、まともに考えたらキツいでしょうに……」と、チームの1人が苦笑交じりに答える。
「東京や都市部で一人暮らしして、税金や保険料引かれて、生きてくだけでやっとって感じだろ。将来の蓄えもままならないし、実質的な余裕なんてゼロに近い」
「だよねぇ」と別のメンバーもうなずく。
――その時。
別のチームの1人が、ふと首を傾げて口を開いた。
「……待てよ。それって『一人暮らしで全部一人で背負ってる』前提だからキツくねえか?」
部屋の空気が、ふと変わる。
「……ん?」
「いや、例えばさ……ルームシェアで固定費割るなり、ちゃんと自炊で食費削るなり、あるいは固定費が軽い地方やローカルの拠点(それこそ、うちがやってるご当地ブラウンの周辺とかさ)にベース置いたらどうなんだ?」
その瞬間。
議論の輪の中にいた面々も、そして八幡自身も、ふっと動きを止めた。
(あ……)
「そうかよ……」
八幡は片頬を歪め、やれやれと頭をポリポリ掻いた。マクロの賃金や高騰する都市部の物価という「思い込みの箱」に囚われていると見えなくなるが、インフラや固定費の構造(解像度)を変えるだけで、同じ年収200万円でも「生存のハードル」は一気に別物になる。
孤立して都市のすき間で消耗する貧乏と、ネットワークやシェアで生存コストをハックしている状態は、同じ数字であっても意味が全く違う。
「……マクロの絶望論より、よっぽどこういう実戦的な解像度のほうが大事だな。お前、なかなか良い着眼点じゃねえか」
八幡はニヤリと笑い、再び黄色い缶に手をかけた。小さな単位の生活コストとサバイバルのカラクリをめぐる議論は、さらに温度を上げていくのだった。
実家暮らしという名の「チート・インフラ」
「さらにだ」
八幡はマックスコーヒーの缶をテーブルに置き、さらに一歩踏み込んだ前提を切り出した。
「もしこれが、実家暮らしで住居費、食費、光熱費が全部タダだったらどうなる?」
3食昼寝付き。稼いだ年収200万円(あるいはそれ以下であっても)のキャッシュが、固定費のブラックホールに吸い込まれず、ほぼ丸ごと自分への投資や自由な資本に回せる。
「……あ」
チームのメンバーの何人かが、またしてもハッとした顔で絶句する。
「まあ、親に寄生しっぱなしも大概だし、『せめて飯代くらいは自分で入れろよ』って話にはなるがね」
八幡は呆れたように苦笑しながら、肩をすくめた。
「だが、みんな都市部の孤独な一人暮らしのコスト構造だけを基準にして、『年収200万=オワコン・貧乏』っていう呪いに勝手にかかってる。固定費の重みや、家族・実家というインフラの解像度を落とすだけで、見え方は180度変わるだろ」
世間が「絶望の数字」だと思い込んでいるものの正体は、数字の低さそのものではなく、コストの構造化(どこにレバーを置くか)を見落としている固定観念に過ぎない。
当たり前の足元にある生存コストのハック法に、チーム全員が「言われてみれば確かに……」と再び深く唸らされるのだった。
大学生の「共同体・エコノミー」という原点
「まあ、地元が都会じゃない、実家も頼れないって奴はどうするんだよ、だが」
八幡はトレンチコートのポケットに突っ込んでいた手を外し、やれやれといった調子で昔を回想するように顎を引いた。
「けどよ、俺たちは大学時代からルームシェアしてただろ。全員の仕送りを合算しちまえば、生活費なんて余裕で黒字化する。たまにスキマ時間でバイトすりゃ、遊ぶ金まで残る。――我ながら、あれは結構イージーで楽しいサバイバルだったよな」
「確かにね」と、沙希が苦笑しながらも懐かしそうにうなずく。
「あれが全員バラバラでワンルームの一人暮らししてたら、光熱費も家賃もフルでかかってカツカツの修羅場だったわよ。固定費を割る人数が増えるだけで、生存難易度はこうも下がるのかって、今更ながら思うけど」
さらに、雪乃と陽乃が顔を見合わせてくすっと笑う。
「お父様や会社のバックがあっていくらお金持ちの家系だとしても、毎日一人で自炊の献立を考えるのも、外食ばかりで胃を壊すのも、結局は億劫で非効率よ」
「そうそう。あの頃、みんなでローテーション組んで台所に立って、誰かが作ったメシをつついてたほうがよっぽどQOL高かったわよね、あの子も含めて」
孤立した「個」の消費で消耗するのではなく、初期の段階からリソースとルーティンを束ねる――。
八幡のひねくれたライフハックの原点は、いつだってそんな「小さな共同体(シェアハウス的生存回路)」の肌感覚に根差していたのだった。
ローカル・ハックと生存の難易度
「まあ、田舎でいいなら中古の家をリフォームすりゃ充分快適だろ。地元なら人目の嫌悪感も少ないし、馴染みもいい。――それに、結婚してリソース合算しちまえば、大企業にしがみつかなくても生活にはそこまで困らねえんじゃねぇかな」
八幡はマックスコーヒーの空き缶を指先で弾きながら、当たり前のようにそう言いのけた。
「確かにね」と、雪乃が小さく息をつく。
「都会で、しかも大企業という狭き門で標準キャリアを維持しようとするから難易度が跳ね上がるのよ。けれど、住む場所のチョイスを変えて、友達や家族の支援・回路が機能していれば、生存ハードルは一気に適正値に落ちるわね」
部屋のあちこちから「まあ、そりゃそうだ」「結局、呪いに縛られてたのはこっちか」と、チーム全員が納得したように深く頷く。
マクロの破綻論や都市型標準ライフスタイルの幻想から降り、自分たちの足元で「どこにコストを置き、誰と回路を共有するか」をデザインする。
八幡のひねくれた現実主義は、今日も着実に周囲の思考の枠を外していくのだった。
喫茶店と「気が早すぎる」男たち
「それに、地元の友達なんて気心が知れてるしな。いきなり巨大なビジネスやれとは言わねえよ。今はクラウドファンディングもある時代だ。小さな規模でスモール起業して、それこそ気楽な喫茶店とかから始めりゃ、イニシャルもランニングもリスクは最小限で済むはずだろ」
八幡はトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、やれやれと片頬を歪めた。
「まあ、俺はこの黄色い缶(マックスコーヒー)と、たまにダラダラ喋れる場所があればそれで充分だけどな」
その言葉が終わるか終わらないか。
ポケットから取り出したスマホを片手に、高柳は何の迷いもなくアドレス帳をスクロールしていた。
耳にスマホを当て、無表情のまま受話器の向こうの旧友やローカルの不動産コネクションに告げる。
「――ああ、俺だ。ちょっと聞くが、そっちで使われてねえ古民家とか、格安のテナント物件ねぇか? 多少のヤレ具合ならリフォームで抜く。条件は『とにかく安いこと』だ。……うん、今週中にいくつか写真送っといてくれ」
「おいおい、気が早すぎだろ!」
チームのメンバーの一人が、思わずずっこけたようなポーズでツッコミを入れる。
「理事長がノリで言っただけじゃなくて、こっちはマジでインフラのハコ押さえにかかるのかよ!」
「いや、動けるときに動くのが高柳さんの悪いクセ――いや、有能すぎるトコだからな……!」
雪乃は軽く呆れたように、しかしどこか楽しそうにため息をつき、陽乃は「ふふ、こういうところの実行スピードは本当に息がピッタリよね」と目を細め、沙希も「……本当、このチームにいると静止してる暇ないわね」と苦笑しながらもまんざらでもなさそうだ。
八幡自身も、ポカーンとした顔のあと、やれやれと頭を掻いた。
「……おいおい、俺はただの居酒屋トークの延長で言ったつもりだったんだけどな」
「リスキーな都市型生存から、地元のローカル・スモール・ハックへ――。コンセプトが定まった以上、実行のレバーを引かない理由はありませんよ、比企谷理事長」
高柳はさらりと言のけ、すでに次の通話へとスワイプを移している。
マックスコーヒーの甘い香りの中に、ローカルの空き家と小さな商売の匂いが、確かな現実味を帯びて混ざり始めていたのだった。
ローカル連鎖の設計図
「まあ、俺が言いたいのは、なにも世界や国を相手にでかく張る必要なんてないってことだ。地元でスモールに、少しずつ成功して手触り感のある黒字を作ればいい。地域が活性化すれば、その余波で隣町や周辺の経済も勝手に回り出す」
八幡はマックスコーヒーの飲み口に目を落とし、どこか引いた視線で続ける。
「他の地域だって、やりたきゃ勝手に真似すればいい。どこも似たような地方消滅論で怯えてるけど、よく見りゃその地域ならではの特色や文脈が絶対にあるはずだろ」
ふっと八幡が口元を歪め、ニヤリと笑った。
「千葉で言うなら、マックスコーヒーがあって、ディズニーランドがあって、――そして今度仕掛ける『ご当地ブラウン』なんかだな」
その言葉の裏にある「点から線、線から面へのローカル・エコノミー拡張計画」の射程を見抜いた瞬間、部屋の空気がフッと静まり返った。
「……そこまで、最初から計算して動いていたのよ、この人は」
雪乃が呆れたような、しかし深い感嘆を孕んだ声で呟く。
陽乃も珍しく目を丸くし、「やられたわね、すっかり手の平の上で踊らされてる気になってたけど、もっと先を見据えてたわけだ」と口元を押さえる。
沙希も小さくかぶりを振り、「……相変わらず、ただのひねくれ者じゃすまないスケールだわ」と苦笑を零した。
高柳ですら、動かしていたスマホをわずかに止め、眼鏡の奥で八幡を見据える。
「……いや」
八幡は一瞬、気まずそうに鼻をポリポリと掻き、やれやれと肩をすくめた。
「そこまで綺麗に狙ってたわけじゃねえよ。ただ、千葉は地元だから多少は恩返しというか、面白い形でしたいとは思ってたけど……『ブラウン』なんてブランド化のハコまで自然と転がり込んできたのは、ぶっちゃけ誤算だ」
八幡はチームの面々を見渡し、珍しくまっすぐな調子で言った。
「……まぁ、こういう歪みや回路が作れたのは、俺一人じゃ絶対無理だ。周りに変な奴らがいっぱいいいて、勝手に動いてくれたおかげだからな」
その言葉に、雪乃はうっすらと頬を染めて目を伏せ、陽乃は満足げにうなずき、沙希はあさっての方向を向きながらも耳まで赤くしている。高柳を含めたプロジェクトチームの面々も、気恥ずかしさと、確かな誇らしさが入り混じった表情で顔を見合わせた。
巨大な破綻論のホラーショーから降りて、足元の小さな生存と共同体の回路を束ねる。
その中心にいる無愛想な男の背中は、夕暮れのオフィスで、妙に大きく、温かく見えていた。
紙の幻影と、金属の「重み」
「何でわざわざ金(ゴールド)にしたのよ」という、さらに突っ込んだ雪乃やチームの疑念に、八幡はため息混じりに鼻をポリポリと掻いた。
「だから、詳しくなかったからだって言ってんだろ」
八幡はマックスコーヒーの缶をテーブルに置き、呆れたように続ける。
「歴史を紐解けば、遥か昔から金が価値を失って暴落し続けるなんてことはほぼねえ。10万の札束なんて結局はただの紙切れだ。インフレなり何なりで、紙はいくらでも価値が目減りするかもしれない」
対して、金は金――物理的で実体のあるものだ。
「小難しい理屈や予測なんて知らねえよ。ただ過去の長期チャートをぼんやり眺めたら、素人の俺の目でも『あ、こいつは消えねえな』って直感でわかった。……それだけの話だ」
相場の流行り廃や、ディーラーのような小賢しいポジション取りのノイズを完全にスルーし、ただ「実体があるから残る」という原始的な事実だけを引いた選択。
その、ひねくれたまでにシンプルすぎる実物主義の正体に、高柳も、雪乃たち3人も、言葉を失うどころか――かえって「この男の軸のブレなさに敵うわけがない」と、静かに肩の力を抜いて苦笑するしかなかったのだった。
黄色の缶を軽く掲げ、八幡はまたどうでもよさそうに次の話題へ視線を移す。
教育学部出身の「裏面・予習」
「……今はなんでそんなに詳しいのよ?」
雪乃の素朴な疑問に、八幡は苦笑しながら缶のプルタブを回した。
「そりゃ、俺は大学は教育学部だぞ。……子供に『金や社会の仕組みってどうなってんの』って聞かれて『親に聞け』なんて、教育者(の端くれ)として返せるかよ。恥ずかしくてやってられねえだろ。だから、学生の頃から暇なときに自分なりに仕組みの本読んだり勉強してた」
さらに、片頬を上げて付け足す。
「そのあと、巡り合わせで議員にもなったしな。マクロの潮目やカネの流れも知らないで、よく平気で立候補できるもんだ。裏の裏まで予習しとくのなんて、社会人の基本だろ」
そのリアリスティックすぎる動機と、見えないところでの地道なアップデート量に、高柳は思わず眼鏡の奥の目を細め、やれやれと首を振った。
「……なるほどね。相場の天才でも何でもなく、ただの『子供や現場に詰まらないための予習マニア』が、結果的に全方位をハックしてたってわけだ。……俺はそこまで地道に仕込みやしなかったな」
自嘲気味に笑う高柳の肩を、八幡はドスッと軽く叩いた。
「なに、今からでも充分間に合うだろ。――未来の大臣さんよ」
皮肉と期待が入り交じったその言葉に、高柳は苦笑しながらも否定せず、ただ小さく鼻を鳴らした。
マックスコーヒーの甘い余韻の中、ひねくれ者のアドバイザーは、次なる小さな「実戦」のタスクへと視線を戻すのだった。
「自由」という単位の解像度
「あなたにとって、お金ってなんなの?」
陽乃のまっすぐな問いに、八幡はしばし思考を巡らせるように視線を落とし、それからいつもの調子で肩をすくめた。
「――自由、かな」
大金持ちになんてならなくていい。
自分や、家族や仲間、そしてもっと言えば、――自分の目に触れる範囲の人間。
「そいつらが『住むところがねえ』って言えば部屋を貸すし、『腹が減った』って言えばラーメンでも奢る。それがいつでもできる。明日も、明後日もできる。俺は自分とお前らが守れれば、金はそれくらいで良いんだよ」
そして、不敵に片頬を歪めて付け足す。
「それに。……うちの嫁さんの実家は太いからな」
そのオチに、雪乃と陽乃は思わず苦笑しつつも、どこか脱力したように息をつく。
(そうか、自由か……)
雪乃は学生時代を思い返す。――あの頃、物質的な豊かさ(お金)はいくらでもあった。けれど、家や家系の重圧に縛られ、自分の足で選ぶ「自由」はどこにもなかった。
対して、比企谷という家族は、巨大な財閥のバックや特権に頼っていたわけではない。けれど、お互いに支え合い、守り合う温かい回路があり、そこに揺るぎない「自由」が存在していた。
だから、私たちはこのひねくれた男に惹かれたのかしらね――。
雪乃、陽乃、沙希の胸の内で、静かな納得と熱が重なり合う。
マックスコーヒーの甘い香りが漂う部屋の片隅で、計算高くもどこか不器用な男の定義する「豊かさ」の正体が、やわらかく全員の着地点におさまったのだった。
死生観と、過保護すぎる守護神たち
「なんでそんなに達観してるんだよ?」と、高柳が呆れたような、しかしどこか生々しいものを見る目で尋ねる。
八幡はトレンチコートのポケットに手を突っ込み、やれやれと首を振った。
「おいおい、忘れたか? 俺はガキの頃からケンカばっかで、議員の頃には頭割られてんだよ。……まぁ、普通に死にかけた」
いつ死ぬかなんて、若かろうが老いてようが関係ない。
「なら、墓場まで全財産持ち越そうなんてケチ臭い真似するより、生活に必要な分だけ残して、残りは自分やお前ら、あと目の前の地域のために回す方がよっぽど効率的だろ。どうせ溜め込んだって、最後は相続税でごっそり持っていかれるだけだ」
その冷徹でリアルな死生観を聞いた瞬間。
雪乃、陽乃、沙希の三人が、ふっと空気を切り替えるように真顔になった。
「……もう2度と、そんな危険な目に合わせないわよ。雪ノ下財閥の名にかけて、ね」
雪乃が静かな声で、しかし圧倒的な重みをもって宣言する。
陽乃も小さくうなずき、沙希はバキバキと指を鳴らしながら、スッと視線を据える。
「私も空手、ずっと続けてるからね。いざとなったら私が守るわよ」
「いや、俺も格闘技のトレーニングはサボってねえし……」と八幡が苦笑いしかけたその時。
隣で、高柳は何の迷いもなくスマホを取り出し、耳に当てていた。
「――あ、俺だ。オヤジ、あるいはそこの〇〇ジムか。ちょっとうちの理事長の護身と肉体プッシュアップ用のパーソナル枠、最上位のやつで今すぐ拡張しといてくれ」
「だから、気が早いって!」
チームの面々が一斉にずっこけ、盛大なツッコミを入れる。
物騒な死生観を笑い飛ばすつもりが、周囲の過保護(かつ超有能)な守護神たちが本気で戦闘態勢のレバーを上げ始めた光景に、八幡は天を仰ぐしかなかった。
マックスコーヒーの甘さと、物騒で温かい鉄火場の空気が、今日も部屋に充満している。
経済という名の「船」と、ローカルの羅針盤
「経済って、なんなのかしらね」
ふと零した誰かの問いに、八幡はマックスコーヒーの缶のフチに視線を落としたまま、当たり前のように答える。
「夢だろ。――まあ、俺にとっては、だが」
大航海時代、未知の海原へ出るためにスポンサーが船や資金を支援したように。
個人の肉体や才能だけでは、物理的な限界がある。けれど、信用や資金(株の仕組みやリソースの共有)があれば、海を渡る「船」が作れる。
「コロンブスだって、どれだけ野望や航海術があっても、船が無けりゃその辺の海岸で貝でも拾って暮らすしかねえよな」
不敵な例えに、チームが妙に納得したように息をつく。
――ならば、と雪乃たちが問いかける。
「あなたの今の『夢』は、何なの?」
八幡は少しだけ天井を見上げ、ポリポリと頬を掻いた。
「うーん……。ま、ブラウンかな、今は」
壮大な宇宙開拓でも、国家規模の金融革命でもない。
目の前の古民家をハックし、千葉の片隅で最高に温かくてローカルな拠点(ブラウン)を立ち上げ、そいつがうまく回るのを見る――。
その極端に身の丈に合っているようで、ちゃっかり世界との接続面を書き換えている答えに、部屋のあちこちからクスクスと笑い声が起きる。
どこまでいっても等身大で、あくまで地域密着型。
けれど、その背中が描き出す航路の先には、まだ誰も見たことのない景色が広がっていた。
出港の合図
「そう考えると、坂本龍馬ってやっぱりすげえよな」
高柳がしみじみと言い、八幡は缶の残りを飲み干しながら深くうなずいた。
「ああ。海援隊の仕組みにしても、利害関係を束ねて動くロジックにしても、歴史に名を残すだけのハックをしてるよ。……もしそのまま生きてたら、この国の近代の形はどうなってたのかね」
ほんの少しだけ、遠い海原を見るように八幡の目が細くなる。だが、すぐにいつもの自嘲気味な笑みに戻った。
「ま、if(もしも)の話をしても歴史の航路は変わりやしねえ。大事なのは、過去のレバーの引き方に学び、今の足元と未来にどう反映するかだろ」
「そうね」と雪乃が静かに微笑み、陽乃がくすっと声を立てて笑う。雪乃、高柳、そしてチームの面々も、それぞれの意思を込めるように力強くうなずいた。
八幡はトレンチコートの襟を正し、黄色い缶をゴミ箱へ正確に放り投げる。
「さあ、俺たちの小舟もそろそろ出港するかね」
――千葉の片隅、ローカルの海原へ向けて、歪みと温もりに満ちた小さな船が静かに動き出した。
ブラウンのアンセム、あるいは「小舟の歌」
「なあ。ブラウンの歌、作らねえか」
八幡はトレンチコートのポケットに手を突っ込み、何気ない調子で切り出した。
「新しいやつをさ。歌って、理屈を超えて心に響くだろ? 子供もよく口ずさんでるし。……そこに、少しだけ仕掛け(メッセージ)を乗せられないかな」
その瞬間、部屋の隅で空気が一気に歪んだ。
ザッと音を立てて立ち上がった材木座義輝の目が、中二病のロマンと創作欲の炎でギラギラと光る。
「ふははは! 盟主の仰せのままに! この材木座、音の城壁に刻む聖歌(アンセム)の紡ぎ手として全霊を捧げようぞ!」
「いや、聖歌とか大げさだから。……まあ、頼むわ」
テーブルを囲み、言葉の断片が放り込まれていく。
雪乃が整えた「優しさ」「協力」のニュアンスに、沙希が日常の温度を伴う「友情」のフレーズを重ねる。高柳がリズムの収まりを確認し、材木座が「我が魂の血涙が……!」と大げさにペンを走らせる。
そこに、八幡が不意に一言を落とす。
「……でさ、そこに『理不尽』も少しだけ混ぜといてくれ」
一瞬、ペンが止まる。
八幡は自嘲気味に片頬を歪め、遠くを見るような目で続ける。
「ま、俺の子ども時代がモロにそんな感じだったからな。いじめとか、空気の暴力とか、理由なきアウェイ感とか。……綺麗事だけ並べた歌なんて、どうせ誰も信じねえよ。少しだけ『世の中、割り切れねえよな』って匂わせるくらいが、リアリティが出ていいだろ」
誰も否定しなかった。
何故なら、甘いおとぎ話のような子ども時代だけをノーダメージで通り抜けてきた人間など、この部屋のどこにもいなかったからだ。
これから育つ子供たちだって、どうせどこかで理不尽の荒波に殴られる。
だからこそ、大人が――逃げ場でもあり、リソースの交差点でもある「ブラウン」というハコが必要なのだと。
甘いだけじゃないから、苦いときも分け合える。
理不尽な風が吹いたら、この古民家のトタン屋根の下へ来いよ。
マックスコーヒーの甘さと、すこしの冷たさを携えて、小舟はまた漕ぎ出す――
言葉のトゲと温もりが混ざり合った、歪みなくしてリアリティある歌詞の断片が、チームの協同作業によって着実に形を帯びていくのだった。
黒いアロマと、小舟の寄港地
リフォームされた古民家の木の香りと、微かに残る壁の塗料の匂い。
窓の外には、千葉の穏やかなローカルの風景が抜けていく。
議員という名の嵐を抜けた後、あの静かで満ち足りた時間が――まさかこんな形でもう一度手に入るとは思わなかった。八幡、雪乃、陽乃、沙希の胸の内で、あの頃の温度と記憶が静かに重なる。
カウンターの内側。エプロンを無造作に掛けた八幡が、手慣れた手つきでケトルを持ち、お湯を落とす。
その背中と、迷いのない所作。普段のひねくれた気だるさがスッと削ぎ落とされ、妙に引き締まった「マスター」としての輪郭が浮かび上がる。
――ドキリ。
雪乃、陽乃、沙希の息が、わずかに同じリズムで止まる。
――いや、あんな無愛想でひねくれているのに、こういうときの(あるいは不意に見せる)男の色気というのは、どうしてこうも反則なのだろうか。
ホール側では、高柳が腕を組み、材木座が「おぉ……! 嵐の海を越えし勇者が、静謐なる庵にて聖水(コーヒー)をドリップする図、絵になりすぎる……!」と小さく拳を握りしめている。
チームの面々も、リノベ直後の木の温もりの中で「絵になるな、ほんと……」と感心したように目を細めていた。
「お待たせ」
八幡が陶器のカップをカウンターに置く。湯気と共に立ち上ったのは、いつもの練乳の甘い匂いではなく――。
「たまにはブラックもいいだろ? コナコーヒーだ」
苦味の奥にふくよかな果実味と華やかな香りを残す黒い液面。甘いアロマが、古民家の古びた梁と柱の間にすぅっと溶け込んでいく。
マクロの破綻論も、黄金のインゴットも、過保護な護身の電話も、ここではすべて遠いBGM。
小さな小舟がたどり着いた最初のドックで、苦くて温かい香りが、それぞれの鼻腔を優しく満たしたのだった。
500円の余白と、フリーマンの航路
「これ一杯いくらで売るの?」
カップの縁を見つめながら雪乃が問うと、八幡はカウンターに片肘をつき、気だるげに首を傾げた。
「うーん。ま、500円かな」
「……安くない?」
陽乃が小首を傾げる。対して八幡は、当たり前のように指を2、3本立てた。
「原価的に言えば、回転数少なかろうが充分元は取れてるぞ。それにだ、」
八幡はふっと視線を外の縁側に向けた。
「客が来ない時は、本を読むなりレコードをかけるなり、絵を描くなり、話を作るなりすりゃいい。ここにあるのは商売のノルマじゃなくて『自由』だ。この辺はライバルも少ないしな」
「ライバル?」と沙希が眉を上げる。
「あぁ。コンビニは少し遠いし、歩いてすませる距離に新しめのマンション群が近い。大手のコンビニコーヒーが100〜350円程度、都会の気取った高級喫茶店が800〜1,500円ってとこだろ。その隙間(ミドル・ローカル)を抜く、ちょうどいいプライシングなんだよ」
空間の配置、商圏のデッドスペース、そして競合の価格帯――。
「……やっぱり、この人、不動産とローカルマーケティングの解像度がおかしいわよね」
チームの面々が「何度見てもえげつないな……」と感心したように顔を見合わせる。
高柳はあきれたように眼鏡のブリッジを押し上げ、ため息を吐いた。
「おいおい、そんな頭してなら、経産省でもどこでも今から入り直してキャリアのレバー引き直せよ。天下取れるだろ」
「嫌だよ。俺はフリーマンなの」
八幡はめんどくさそうに片手をひらひらと振った。
「組織の論理に尻尾振って、会議室の空気の重さで胃を壊す人生はもうお腹いっぱいです。――俺は俺の小舟の舵を握るの」
「……ブラウンだろ?」と、高柳が皮肉っぽく、しかしどこか満足げに笑う。
八幡はふっと息を抜き、カウンターの奥で小さくかぶりを振った。
「いや、ブラウンの看板の前に、生き方の問題だろ」
そのやり取りの最中、カップに口をつけていた材木座が、ふと動きを止めた。
「……むっ。……すーっ……、くぅ……!」
目を見開き、一瞬で少年の顔に戻る材木座。
「……な、なんだこの深みは……! 苦味の荒波を越えた先にある、芳醇なる大地の甘露……! 盟主、コーヒーが、……めちゃくちゃうまいぞっ……!」
「そりゃどうも。ちゃんと淹れてんだから当たり前だろ」
苦笑いしながら、八幡はもう一つのカップに湯を注ぐ。
夕暮れ前のローカルな光が、古民家の木の床を柔らかく金色に染めていく。組織の呪縛を降りた男たちの「自由なドック」で、今日もまた、ささやかで確かな苦味がカップに満ちていった。
500メートルの求心力と、不動産の血脈
オープン前の静けさに包まれた古民家カフェ「ブラウン」。
コナコーヒーのブラックが落とす芳ばしいアロマの中で、高柳がカップを片手に軽く眉を寄せる。
「なあ、ちょっと相談なんだが。……俺の友人がマイホームの物件買おうとしてて、今めちゃくちゃ悩んでる。条件で絞りきれなくてな」
カウンターの向こうでエプロンを拭いていた八幡は、気だるそうに肩をすくめる。
「家族構成は?」
「子どもが、来年から小学生になるところだ」
「なら、通わせたい学校の半径500m圏内にしとけ。それで外れはねえよ」
高柳が瞬きをする。
「500m? ……なんでまたそんなピンポイントなんだよ」
「決まってんだろ」八幡は当然のように鼻を鳴らす。
「子どもがいれば、生活の物理的中心は100%子どもになる。親の立場に立てば、どうせなら評判のいい、人気の学校に通わせたい。なら、その学区やアプローチの優位性が最優先だ。……で、結果として何が起きるか? 人気があるエリアだから、数年後に転勤があろうが売却や賃貸に回そうが、流動性が落ちねえ。買い手(借り手)が常にいる状態が担保されるってことだ」
実需と流動性の交点を、足の長さと通学路の半径で秒速でハックする理屈。
高柳が小さく息を呑む。
「……まさか、この店の立地も……」
「ああ。もちろん」
八幡はカップの底をトントンと机に置いた。
「年換算で大体5%前後の利回り・実質価値が見込めるラインだ。学校も近い。最悪、コケても損して逃げ切れる。……それだけの話だ」
その瞬間。
高柳は、迷うことなくポケットからスマホを取り出し、ディスプレイを親指で叩く。
「――おい、俺だ。さっきの物件の件だ。一等地(学区サークル内)の500m以内で条件見直せ。……いや、説得力しかなかったからもういい。動け」
「だから、お前、気が早いって!」
八幡が盛大に呆れたツッコミを入れるが、高柳はどこ吹く風とばかりに電話を切る。
そのやり取りの背後で、空気が一変した。
「……ちょっと、待ちなさい」
テーブルの端から、スッと椅子を引く音。
雪乃の瞳に、知的な狩人のような鋭い光が宿る。隣では、陽乃がくすくす不敵に笑いながら、タブレットをすでに開いていた。
「学区と流動性の相関、そして地縁のプレミアム換算……。ふふ、面白いわね。ただの古民家再生だと思っていたけれど、土地の流動性ヘッジまで組んでいるのなら話は別よ。ねえ、比企谷さん、その半径500mの選定基準、もっと詳細なディグデータを出しなさい?」
「私からも追加で聞きたいわ。ねえ、八幡。相続を見越した名義の座組はどうしてるのかしら?」
「おい、開店前のコーヒータイムだろ、これ!?」
不動産とレバレッジの血脈を刺激された雪ノ下姉妹の包囲網が、一気にカウンターへ迫る。
沙希が「あーあ、またこの人たち暴走し始めたわ……」と遠い目をする横で、材木座が「おお……! 地の理を制する者が商圏を制す! 攻城戦の布陣図のようだ!」と目を輝かせている。
マックスコーヒーの甘い匂いは完全に消え去り、そこは一瞬にして、極めてロジカルでエグい実戦のハッカソン会場へと変貌していたのだった。