八幡の道   作:tomozow

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高校生三部作の前編になります。


高校生編 前編 2

高校進学と新たな伝説

春。桜が舞い散る中、装いを新たに高校へと進学した比企谷八幡。

――だが、その「装い」が周囲の平穏を許すはずもなかった。

見事に銀色にブリーチされた頭髪、そして耳元で鈍く光るピアス。校則スレスレ(あるいは完全にアウト)なその不良然とした風貌は、入学式の直後から校内で圧倒的な異彩を放っていた。

「おい、あれ誰だ……?」

「新入生だよな? 怖っ……」

「待って、よく見たら顔すごくね? クール系というか、なんか危うい色気ない……?」

真面目な優等生たちがざわめき、先輩女子たちまでもが遠巻きにチラチラと視線を送る。

中学時代から変わらぬ(むしろさらにバージョンアップした)ルードな雰囲気は、隠しきれない「一匹狼のカリスマ」として、奇妙な引力を発揮していた。

放課後の靴箱前

「……なんだよ、この視線は」

下駄箱で自分の上履きを取り出そうとした八幡の背中に、数人の女子生徒のひそひそ声が突き刺さる。

「ねえ、やっぱりあの銀髪の1年、カッコよくない? 話しかけてみよっかな……」

「でも不良っぽいし、怖そうだよ……」

(頼むからそっとしておいてくれ……俺はただ、平穏にぼっちを満喫したいだけなんだよ……)

心の中で盛大な溜息をつく八幡。

しかし、そのアンニュイな気だるさと、中学のころからくぐり抜けてきた修羅場(?)が醸し出す「守ってあげたい感ゼロ、むしろ危険な香りのする男」というステータスは、残念ながら女子たちのロマンを刺激してやまなかった。

結果として、自分の意志とは裏腹に、八幡の机の周りにはなぜかクラスの女子がチラホラと集まるという、「謎のモテ状態」が形成されてしまうのだった。

「……やれやれ、これだからリア充どもは……」

周囲の熱視線を華麗に無視しながら、八幡はポケットに両手を突っ込み、やさぐれた足取りで初日の教室を後にするのだった。 

 

高校の新たな勢力図

「おい、見たかよ今年の1年。葉山はもちろんだけどさ……あのクラスの比企谷とかいう奴、やばくね?」

「あぁ、あの銀髪にピアスの……不良っぽいのに、なんか妙にカッコいいっていうか。女子の間でめちゃくちゃ話題だぞ」

かつての「葉山隼人一強」だった校内の勢力図に、今年は明らかに異質な風穴が空いていた。

相変わらず圧倒的な爽やかさと気配りで全方位から絶大な支持を集める葉山と並び、近寄りがたい不良風貌でありながら、ふとした折に見せる達観した雰囲気や危うい色気で、八幡の周りにも常に女子生徒の人だかりができるようになっていたのだ。

事実上の「双璧」となった二人。

廊下ですれ違えば、女子たちの黄色い歓声が一斉に集まるという、八幡にとってはこの世の地獄のような環境が完成していた。

放課後の奉仕部、あるいは教室の隅

そんな校内の変化を、最も間近で、そして最も複雑な心境で見つめている人物がいた。

――雪ノ下雪乃である。

「…………」

窓際の席に座り、教科書に目を落としているはずの雪乃の視線は、なぜかナナメ前の空間を通り越し、教室の入り口付近に集まる女子生徒たちの中央へと向けられていた。

そこでは、机に突っ伏して気だるげに寝息を立てる(あるいは死んだ魚の目で現実逃避している)八幡の周りを、何人もの女子が「ねえ比企谷くん、今日の放課後さ……」と囲んでキャッキャと騒いでいる。

(……なんなのよ、一体……)

雪乃の細いペン先が、ギギギとノートの上で不穏な音を立てる。

中学時代、あの無愛想な銀髪と出会い、少しずつ変わり始めていく彼の背中を誰よりも近くで見てきたつもりだった。あの不器用なお節介も、冷めた台詞の裏にある優しさも、自分や材木座、そして葉山たちを救ってくれたその姿も、ずっと知っている。

だからこそ――。

(あんな風に、他の女どもに囲まれて……すっかり人気者気取りじゃない……)

もちろん、本人が望んでモテているわけではないことくらい、雪乃にも分かっている。あの男がどれほど平穏なぼっち生活を愛しているかも。

だが、あの当時、自分や葉山、材木座といった「ごく一部の人間」だけが共有していたはずの彼との特別な距離感が、今や学校全体の黄色い歓声に押し流されようとしているのが、なぜか猛烈に面白くなかった。

しかも、よりによってあの葉山隼人と並び称されるなど、面倒くささに拍車がかかっている。

「……ふん。不真面目で、無愛想で、おまけに品のかけらもない銀髪ブリーチ風情が……一体どこがいいのかしらね」

小さく吐き捨てた雪乃の声音には、自分でも気づいていない焦りと、かすかなトゲが混ざっていた。

その視線に気づいたのか、寝たふりをしていた八幡がふと顔を上げ、遠くの窓際にいる雪乃と目が合う。

(……なんだよ、その据わった目は。俺が何かしたってのかよ……)

「……っ!」

見つめ返された雪乃は、バツが悪そうにフイと顔を逸らし、スッと姿勢を正すと、再び不機嫌そうに教科書へと視線を戻すのだった。

騒がしい新生活の裏で、少女の胸の内に芽生えたモヤモヤとした焦燥感は、まだ誰も知らない青春の新たな波乱の予感を含んで、静かに熱を帯び始めていた。

 

放課後の教室。周囲の女子たちがようやく引き払ったその隙を突いて、雪ノ下雪乃がスッと八幡の机の前に歩み寄ってきた。

その顔には、先ほどまでの不機嫌さが嘘のように消え去り、代わりに複雑な感情を押し隠したような、どこか張り詰めた冷たさが浮かんでいた。

「……少し、いいかしら、比企谷くん」

「んだよ。急に絡んできて、機嫌斜めだな雪ノ下」

気だるげに顔を上げた八幡を、雪乃は射抜くような鋭い瞳で見据えた。

「……最近、すっかり学校のアイドル気取りじゃない。あちこちで名前を呼ばれて、ちやほやされて……すっかり調子に乗っているようにしか見えないけれど?」

その声音には、自分でも抑えきれなかった焦燥と、どこか行き場のない苛立ちが混じっていた。

周囲の環境が変わり、彼が遠くへ行ってしまうのではないかという名状しがたいうねりが、彼女の胸を締め付けていたのだ。

そんな雪乃の瞳の奥に揺れる微かな怯えと、突き詰めたような必死さを、八幡はふと見つめ返して――なんとなく、その言葉の裏にある本当の意味を察した。

(……やれやれ、相変わらず素直じゃねえな……)

勘繰るわけでもなく、ただ目の前の少女が抱えている小さな痛みを理解してしまったからこそ、八幡はいつも通りのやさぐれたトーンを少しだけ和らげた。

「……バカか、お前は」

「なっ……!」

言い返す隙も与えず、八幡はふっと息を吐くと、椅子から立ち上がった。そして、少し背伸びをするようにスッと手を伸ばし、雪乃の整えられた黒髪にそっと触れる。

「そんな心配しなくても、別にどこにも行かないっての。……お前らの面倒臭い絡みからも、この学校からもな」

ぐりぐりと乱暴に撫でるのではなく、どこまでも優しく、安心させるように、その頭をなでる。

「っ……!」

予期せぬ行動と、あまりにも真っ直ぐで優しい言葉に、雪乃の思考が完全にフリーズした。

冷徹な優等生としての仮面は一瞬で剥がれ落ち、耳の先から首筋まで、全身がカッと一気に真っ赤に染め上げられる。

「な、なっ……なにし……っ、急に頭なんかに触るんじゃないわよ……っ!」

慌てて一歩後ろに飛び下がり、両手で自分の頭を押さえながら、雪乃は真っ赤な顔で八幡をにらみつけた。心臓がうるさいほど激しく脈打っている。

「はいはい、赤くなりすぎだろ。じゃ、部活(?)の時間だな」

照れ隠しのように顔を逸らしてひらひらと手を振る八幡を前に、雪乃は自分の熱を持った頬を押さえたまま、悔しさと恥ずかしさでその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 

放課後の職員室。

ガタガタと書類が積み上げられたデスクの向こうから、平塚静はどこか企むような、それでいて深い含みのある笑みを浮かべてタバコ(の代わりに愛用の缶コーヒー)を置いた。

「……で、私を呼び出したってことは、また面倒な用事だな、平塚センセ」

銀髪を揺らし、ピアスをちらつかせた八幡が気だるげにそう言うと、平塚はフッと鼻を鳴らした。

「ふっ、相変わらず態度のでかい新入生だな。だが、お前のその『武勇伝』――他校の不良を返り討ちにしたことや、最近校内で変なカリスマ性を発揮して女子をざわつかせていることくらい、この私の耳に入っているぞ、比企谷」

「……余計なお世話だ。勝手に周りが騒いでるだけで、俺はただ平穏にぼっちを満喫したいだけなんだよ」

「そう言うな。折角のその腐った(だがいざとなれば頼りになる)度胸を、ただ持て余しておくのは宝の持ち腐れというものだ」

平塚は椅子からスッと立ち上がると、八幡の肩にドンと重い手荒い一撃を置いた。

「実はな、学校の隅に『奉仕部』という部活があってね。現在、部員は一応形だけはあるんだが……実質的に機能していない。そこでだ、お前をその初代部長――いや、私の『右腕』として叩き込んでやろうと思ってな」

「は? 部員俺一人かよ。それ部活じゃなくて、ただの俺の独房だろ」

「細かいことは気にするな! 困った生徒を助け、校内の歪みを正す――お前の得意な『泥を被るお節介』を、公認の場で存分に発揮できる特等席を用意してやったんだ感謝しろ」

「全然嬉しくねえよ……」

盛大な溜息をつき、これ以上面倒な説教を食らうくらいならと、八幡は渋々首を縦に振った。

「……れ、やれ。仕方ねえな……。あんたのパシりにされるくらいなら、適当にサボれる部活のほうがマシだ」

「ははは! よろしい! 今日からお前は奉仕部の一員だ!」

こうして、平和主義を掲げる(はずの)比企谷八幡の、波乱に満ちた奉仕部での生活が幕を開けるのだった。

 

放課後、平塚に言われるがままに足を運んだ旧校舎の特別棟――そこにあるはずの「奉仕部」の部室の扉を、八幡は気だるげに開けた。

「……失礼しますよ、と」

しかし、中にいたのは誰もいないはずの空間ではなく、なぜか先客が二人、堂々とくつろいでいた。

「おお、比企谷殿! 待っていたぞ!」

「やあ、比企谷くん。お邪魔しているよ」

一つ目の声の主に向かって、八幡は思わず動きを止めた。

そこにいたのは、かつての面影をいい意味で完全に粉砕した男――引き締まった体躯に、以前の脂っぽさが綺麗に削ぎ落とされたシャープな輪郭。かつてのぽっちゃり系中二病オタク・材木座義輝その人だった。あの鬼の特訓期間を乗り越えた成果か、今や前髪の隙間から覗く目は妙に涼しげで、どことなく知的さすら漂う、普通に「イケメン」の部類に入りそうな変貌を遂げている。

そしてその隣には、相変わらずの圧倒的な爽やかさを纏った葉山隼人が、優雅に紅茶のカップを傾けていた。

「……おい、なんだお前ら。ここは勝手に入っていい休憩所じゃねえぞ」

呆然と呟く八幡に対し、材木座はふっと爽やかに――かつての中二病全開のノリを封印した低音ボイスで不敵に笑ってみせた。

「フッ……我が肉体はさらなる高みへ至ったのだよ、比企谷殿。お前の下で行った特訓の日々……あれが私を目覚めさせたとでも言おうか」

「いや、喋ると中身が痛いから黙ってろ……ていうか、なんでお前らがここにいんだよ」

ツッコミを入れる八幡をよそに、葉山はふっと柔らかく微笑みながら紅茶のカップをソーサーに置いた。

「平塚先生から聞いたんだよ。君が新しく『奉仕部』の部員になったってね。一人で寂しく過ごしているんじゃないかと思って、こうして差し入れがてら顔を出したのさ」

葉山の後ろのテーブルを見ると、なぜかそこには大量のマックスコーヒーの缶がピラミッド状に積み上げられていた。

「……お前ら、ほんと人の話聞かねえな」

やれやれと頭を抱えつつも、どこか憎めないその光景に、八幡は小さく息を吐く。

銀髪ブリーチにピアスという不良風貌の少年の周りに、なぜかイケメンへと進化を遂げた元オタクと、学校一の完璧超人が集う――この歪で騒がしい日常が、奉仕部という名の空間で静かに動き出そうとしていた。

 

ワイワイとマックスコーヒーを開け始める葉山と、すっかりイケメン化した姿で語る材木座を「やれやれ」と眺めていた八幡だったが、そのとき、ガチャリと部室の扉が勢いよく開いた。

そこに立っていたのは、整えられた黒髪を揺らす雪ノ下雪乃だった。

「ちょっと、あなたたち……! 部室に勝手に上がり込んで何を……」

苦言を呈そうと入ってきた雪乃だったが、部室内にいる顔ぶれを見て、ピタリと動きを止めた。葉山の姿を確認し、さらに見違えるほどすっきりした材木座を一瞥してから、彼女の視線は自然と窓際に陣取る銀髪の不良風少年――八幡へと向かう。

(……はぁ。相変わらず、この人たちの周りはどうしてこうも騒がしいのかしら)

盛大な溜息を一つ吐くと、雪乃は誰に促されるでもなく、トコトコと八幡の机の前に歩み寄ってきた。その顔には、いつもの冷徹な優等生の面持ちではなく、どこか気まずさと、そして隠しきれない不満が入り交じった複雑な表情が浮かんでいる。

「……どうしたんだよ、雪ノ下。そんな仏頂面して」

「……あなたねえ、少しは自分の置かれた状況を自覚しなさいよ」

腕を組み、ふんと顔を背けながら、雪乃はぶっきらぼうに切り出した。

「……別に、私自身が困っているわけではないのだけれどね。私の……その、数少ない『友人』から相談を受けたのよ」

「ほう、お前にも友達がいたんだな」

「うるさいわね、聞きなさい!」

ジロリと睨みつける雪乃に、八幡は「はいはい、どうぞ」と適当に手をひらひらと振る。

「その友人が言うにはね……最近、とある男友達が急に派手な格好――例えば、銀色に髪をブリーチしたり、耳にピアスなんてつけて不良ぶったりし始めたそうなのよ」

「……お、おう」

「本人にそのつもりはないらしいのだけれど、その危うい雰囲気のせいで、周囲の女子たちからやたらとキャーキャー言われて、連日モテまくっているらしいのね。……本人は平穏に過ごしたいと言っているそうなんだけれど、周りの女どもが勝手に盛り上がって一歩も引かないものだから、その友人は『毎日気が気じゃない、なんとかならないのかしら』って、ものすごく頭を悩ませているのよ」

雪乃はそこまで一気にまくし立てると、フッと顔を赤らめるのを隠すように、そっぽを向いた。

もちろん、その「友人」というのが誰のことかなんて、説明するまでもない。

部屋の隅で聞いていた葉山が「ふふっ」と意味深な笑みをこぼし、材木座が「なるほど、モテる男の苦悩とは我が青春の……!」などと呟き始める。

八幡はといえば、遠い目をしながら自分の銀髪を軽く掻き上げ、やれやれと盛大な溜息を吐いた。

「……で、その友人とやらは、俺にどうしろって言ってんだよ」

「べ、別に……! 友人が困っているから、もう少し身なりを落ち着かせたらどうかと、忠告してあげているのよ!」

真っ赤になりながらも強がる雪乃を横目に、八幡はフッと不敵な笑みを浮かべ、机に肘をついた。

「悪いな。この銀髪とピアスは俺のアイデンティティなんでね。それに――」

ちらりと雪乃のほうを見据えて、八幡は続ける。

「いくら周りが騒ごうが、肝心の『友人』がそばにいてくれるなら、他がどうでも痛くも痒くもないって、その友人に伝えておいてくれよ」

「っ……!」

図星を突かれた雪乃は、耳の先まで真っ赤に染め上げると、「なっ……誰がそんなこと……!」と言い淀みながら、たまらずバッと両手で顔を覆うのだった。

 

静まり返った部室の中で、相模は答えを待つように期待に満ちた目をパチパチさせていた。

しかし、その沈黙を破ったのは、窓際で死んだ魚のような目をしていた八幡ではなく、腕を組んで冷ややかに鼻を鳴らした雪乃だった。

「ちょっと待ちなさい、相模さん」

「え……? 雪ノ下さん、どうかした?」

相模がキョトンと首を傾げると、雪乃はふっと冷ややかな笑みを浮かべ、淡々と事実を告げた。

「そもそも、ここは正式な部員の場よ。私はあくまで『手伝い』として勝手にここに居合わせているだけで、あなたに相談される筋合いはないわ。……それに、その助けてくれた『銀髪の不良』なんて、どうせロクでもない人間よ。関わらないほうが身のためだわ」

チクリと刺すような雪乃の物言いに、相模は「ええ……そんな言い方しなくても……」とわずかに頬を膨らませる。

(……おいおい、急に当たりが強くなってんな、この女王様……)

心の中で冷や汗を流しながら、八幡は面倒くさそうに頭を掻いた。

そもそも、数日前に駅の裏通りで絡まれていた女子生徒を、ぼーっと見過ごすのも面倒臭くて適当に追い払っただけなのだが、まさか本人にここまで探される羽になるとは思っていなかった。

「ま、なんだ」

八幡は気だるげに椅子から立ち上がり、やれやれといった風情で相模に向かって手をひらひらと振った。

「そんな大層なお礼なんていらねえよ。ただの気まぐれだ。お前も変な男に絡まれないように気をつけろってこったな」

「え……? でも、ちゃんとお礼を……」

「いいから、帰れ帰れ。ここは部外者が長居していい場所じゃねえよ」

有無を言わせぬ調子で追い払うように言うと、相模は納得がいかない様子ながらも、「う、うん……ありがとう、ございました……」と小さく頭を下げ、すごすごと部室から退出していった。

ガチャリ、と扉が閉まる。

ふう、と息を吐いた八幡の背中に、背後から突き刺さるような鋭い視線が向けられた。

振り返ると、雪乃が不機嫌そうに腕を組み、冷ややかな声音で言い放つ。

「……で? 助けてあげた女の子からお礼を言われて、鼻の下を伸ばしていたわけ? 本当に、どこまで人騒がせな男なのかしら」

「伸ばしてねえよ! 勝手に絡まれたから追い払っただけだろ!」

呆れたように言い返す八幡と、それを面白そうに眺める葉山、そして「我が人生の修羅場を見る思いだ……!」と勝手に感動している材木座。

相模の一件でさらに波乱を予感させる、相変わらず騒がしい奉仕部(?)の放課後が、静かに流れていくのだった。

 

ガチャリ、と扉が再び開いたかと思うと、今度はふんわりとした笑顔を浮かべた城廻めぐりが、ひょっこりと顔を覗かせた。

「お邪魔しまーす……って、あれ? なんだかすごく賑やかだね!」

元生徒会長の明るい声に、部室内の空気がふっと緩む。

相模の一件でまだ不機嫌さの残っていた雪乃は、ため息をつきながらも「……城廻先輩。どうしてここに?」と席を勧めた。

めぐりはトコトコと部屋に入ってくると、困ったような、けれどどこか嬉しそうな笑顔を浮かべて両手を合わせた。

「えへへ、実はちょっとね、奉仕部に相談があって来たの! 私、この前ちょっと困ったことに巻き込まれちゃってさ……」

その言葉に、窓際にいた八幡の背筋が再びピクリと強張る。

(……おいおい、マジかよ。まさかこの先輩まで……)

「不良の人たちに絡まれちゃって、どうしようって思ってたら、そこにカッコいい男の子が通りかかって助けてくれたんだよね! 銀髪で、耳にピアスをしててさ、一見するとすっごく不良っぽかったんだけど……」

部屋にいた葉山がクスリと笑い、材木座が「まさか、二人のヒロインが同じ男を……!」と頭を抱える。そして雪乃は、これ以上ないほど冷ややかな目を八幡へと向けた。

めぐりは周囲の反応に気づくことなく、目をキラキラさせながら話を続ける。

「本当にカッコよくて、お礼も言えずにその場を離れちゃったから、どうしても何かお礼がしたいの! ねぇ、その人の……好きなものとか、何かないかなぁ?」

集中砲火のような視線を浴びせられ、八幡はこめかみを押さえながら、観念したようにボソッと呟いた。

「……マックスコーヒーでいいから、もうこれ以上俺の平穏を脅かさないでくれ……」

「えっ……?」

めぐりがきょとんと小首を傾げる中、奉仕部は今日も今日とて、妙な熱気とため息に包まれるのだった。

 

「えっ……? えっ!?」

八幡のボソッとした呟きと、その特徴的な銀髪、そして耳元で光るピアス。

いくつかのピースがカチリと音を立てて頭の中で噛み合った瞬間、めぐりはパチパチと目を瞬かせ、やがてすべてを理解したように両手をポンと叩いた。

「――って、もしかして! あのとき私を助けてくれたのって、比企谷くんだったの!?」

「あー、まあ、はい。その節は……」

照れくさそうに顔を背けながら八幡が答えると、めぐりは感極まったように両手で自分の頬を押さえた。

「うわぁ……! よかったぁ、ずっとお礼を言いたかったんだよぅ! 本当にありがとう、比企谷くん……っ!」

感動のあまり、めぐりはそのまま一歩踏み出し、勢いよく八幡の胸元に飛び込むようにガシッと抱きついた。

「うおっ……!?」

想定外の密着に、不意を突かれた八幡は身体を硬直させる。

ふわっと漂う甘い香りと、小柄な先輩の体温。不良風の尖った外見をしていながら、中身はただのシャイな男子高校生である八幡にとって、この状況はキャパシティの限界を大きく突破していた。

「ちょ、先輩、近い近い……! 人の目もありますから……!」

「だって、すごく嬉しかったんだもん! 比企谷くんって、本当はすっごくカッコいい後輩なんだね!」

めぐりがキャッキャと嬉しそうに八幡の腕にしがみついている、そのすぐ隣――。

「…………」

雪ノ下雪乃の表情が、一瞬にして氷点下を突破した。

先ほどまでの冷徹さすら通り越し、もはや何かのホラー映画の一幕のような、恐ろしいほどの無表情でその光景をじっと見つめている。だが、その細い指先は怒りと焦りでプルプルと震え、持っていたペンが今にもバキリと折れそうな勢いで握りしめられていた。

(なっ……なにを、堂々と他の女の人が後輩くんに抱きついてるのかしら……! しかも、比企谷くんもまんざらでもなさそうな顔をして……!)

雪乃の中で、得体の知れないモヤモヤとした黒い感情――「焦り」と「独占欲」がぐつぐこと煮え立ち始める。

「こ、こら、城廻先輩! あまり生徒会長……いえ、元生徒会長ともあろう者が、みだりに男子生徒に抱きつくのは風紀上いかがなものかしら! 離れなさい!」

たまらずガタッと椅子から立ち上がり、雪乃は鬼の形相で二人の間に割って入った。

めぐりを強引に八幡から引き離しながら、真っ赤な顔で抗議する。

「えー? 雪ノ下ちゃん、そんなに怒らなくてもいいじゃない。ねえ?」

「よくありませんっ!」

フンッとそっぽを向く雪乃の耳たぶは、これ以上ないほど真っ赤に染まっていた。

その様子を、葉山は「やれやれ、相変わらず賑やかだな」と苦笑いしながら眺め、材木座は「くっ……これぞまさしく修羅場、羨ましすぎるぞ比企谷殿!」と一人で悶絶している。

自分の平穏を守るはずの奉仕部が、今日も今日とて激しい嵐の中心になっていることに、八幡は遠い目をしながら天井を仰ぐのだった。

 

あまりの修羅場の気配と、背後から突き刺さる雪乃の氷のような視線に耐えかねた八幡は、額に冷や汗を浮かべながらそっと後ずさった。

「……あー、先輩。そろそろ喉が渇いたし、なんか頭も痛くなってきたんで……その、マックスコーヒーでも奢りに行きましょうか」

すがるような目でそう提案すると、めぐりはパッと顔を輝かせた。

「おっ、いいね! じゃあ奢らせてよ、助けてもらったお礼だし!」

逃げるが勝ちとばかりに、八幡はめぐりを促してそそくさと部室の出口へと向かう。

「ちょっ、比企谷くん、どこに行くつもり……!?」

背後から雪乃の鋭い声が飛んできたが、振り返ったら最後、命はないと直感した八幡は「ちょっと自販機行ってきます!」と半ば半泣きでドアを開け、めぐりと共にそそくさと部室から逃げ出した。

バタン、と静かに閉まる扉。

残された部室内には、冷え切った空気と、プンスカと怒りで肩を震わせる雪乃の姿だけが取り残されるのだった。

「ふふ、彼も大変だねぇ」

「いやはや、羨ましい限りの青春の1ページだな!」

葉山の呑気な呟きと材木座の的外れな感動は、今の雪乃の耳に届くはずもなかった。

 

夕暮れ時の誰もいない静かな廊下。自販機に向かうまでの道のりを、めぐりはルンルンとした足取りで歩いていた。

「ふふーん、助けてくれたお礼に何を奢ろうかぁ。やっぱり定番のマックスコーヒーがいいのかな?」

「いや、普通の缶コーヒーで十分ですよ……ていうか、ほんと大したことしたわけじゃないんで、気にしないでくださいよ」

気まずそうに頭を掻く八幡の前で、めぐりはふと足を止め、くるりと振り返った。夕日に照らされたその可愛らしい顔に、何やら悪戯っ子のような、絶妙に際どい笑みが浮かぶ。

「ううん、すごく助かったもん。だから、特別にお礼をしちゃおうかなぁ」

「は? 特典なんていらねえって。マックスコーヒー一本で十分釣り合いは――」

言葉を最後まで言い終える前に、めぐりはふっと距離を詰めてきた。

そして、あろうことか自ら八幡の右手を掴むと、ためらいもなく自分のスカートの背中側へと導いた。

「っ……!? な、なに――」

一瞬にして頭が真っ白になる八幡。

手に伝わってきたのは、布地越しにハッキリと分かる、柔らかく丸みを帯びたお尻の感触だった。

「ほら、これでおあいこ、ね?」

ケラケラと悪戯っぽく笑うめぐりは、どこか小悪魔的な色気を漂わせている。

あまりの急展開と、女子の身体というリアルすぎる感触に、不良風のピアスと銀髪で武装していたはずの八幡の顔は、一気にトマトのように真っ赤に染め上がった。

「なっ、何やってんですか先輩……! 急に何考えて――!」

「えー? だって、言葉だけじゃお礼の気持ちが足りないかなぁって思ってさ」

フワフワとマイペースに微笑むめぐりを見つめながら、八幡の脳内は大混乱に陥っていた。

(……こ、この先輩、いったいどういうつもりだ……!? 軽いビッチの類なのか? いや、それとも底抜けの天然で本気で感謝を形にしようとしてるだけなのか……!? どっちにしても、俺の心臓が持たねえよ……っ!)

狼狽えすぎて冷や汗が止まらない八幡をよそに、めぐりは「さ、早くジュース買おうよ!」と、何事もなかったかのように再びトコトコと歩き出してしまう。

後ろに取り残された八幡は、まだ熱の残る自分の右手を見つめながら、遠い目をして天を仰ぐのだった。

――平和なぼっち生活への道のりは、今日も今日とて険しすぎる。

 

(……なんなんだよ、この調子の狂う先輩は……! いつもは俺が翻弄される側みたいになってるけど、このままじゃ男のプライドが完全に粉々だ……!)

さっきまでの不意打ちの感触と、悪戯っぽく微笑む先輩の背中を思い出し、八幡の中でふつふつと妙な対抗心が湧き上がってきた。

不良風に銀髪を染め、ピアスを揺らしているのだ。たまにはこう、世の不良漫画の主人公のような「危うい色気」とやらを知らしめてやらないと、このままではペースを握られっぱなしだ。

八幡はすっと足を早め、楽しげに歩くめぐりの前へ回り込んだ。

「ちょっ、と……比企谷くん?」

突然目の前に立ち塞がった八幡のただならぬ気配に、めぐりはパチパチと目を瞬かせた。

そして次の瞬間――ドンッ、と乾いた音が廊下に響く。

八幡はめぐりの背後の壁に、片手をついた。

完全に逃げ場を塞ぐ、いわゆる一つの「壁ドン」の体勢である。

「ひ……っ!?」

小柄なめぐりは、目の前に迫った八幡の鋭い眼光と、いつもとは違う圧倒的な男の影に気圧され、思わず小さく息を呑んだ。不良風貌の銀髪とピアス、そして間近に見据える死んだ魚の目の奥に宿る妙な迫力が、彼女の思考を一時停止させる。

さらに八幡は、空いていたもう片方の手をスッと伸ばし、めぐりの華奢な顎を優しく、しかし逃がさないように捉えてクイッと上を向かせた。

「……先輩。後輩をからかうのも大概にしとけよ。……これ以上調子に乗ってると、本気でどうなっても知らねえからな」

低い、気だるげで、けれどどこか甘さを孕んだ声が、めぐりの耳元で低く響く。

「…………っ!」

さっきまで余裕綽々だった小悪魔的な態度はどこへやら、急に形勢を逆転されためぐりは、一瞬にして全身の血が沸騰したかのように真っ赤に染まった。

耳たぶまでトマトのように赤くなり、潤んだ瞳でオロオロと視線をさまよわせる。

「う……うぅ……、そ、そんなの反則……だよ……」

いつも余裕な先輩が、ここまで綺麗に真っ赤になって言葉を詰まらせている姿を見て、八幡は心の中でガッツポーズをキメた。

(……ふっ、見たか。これが俺の反撃だ……! どうだ、参ったか!)

ドヤ顔を必死に理性で押し隠し、八幡はフイと顎から手を離してスッと身を引いた。

「……わかればいいんです。ほら、早くマックスコーヒー奢ってくださいよ」

「う、うん……っ……」

顔を両手で覆ったまま、真っ赤になって下を向くめぐり。

その圧倒的な勝利の余韻に浸りながら、八幡は内心で小さく「勝った……!」とガッツポーズを繰り返すのだった。

 

――あ、そういえば。

「……って、ちょっと待て。先輩、あんた一個上だろ」

雪乃からのあまりに直球すぎる要求に冷や汗を流していた八幡は、ふと現実に戻り、さっきまで赤面していた城廻めぐりをジロリと振り返った。

「えっ? あ、うん、そうだよ? 私、高校三年生だけど……?」

「だよな。ってことは、さっきの『後輩』ってのは間違いだろ。俺は一個下の後輩じゃなくて、一個上の先輩を壁ドンして顎クイしたってことになるじゃねえか……!」

自分で言葉にして、ようやくその事実のヤバさに気づく八幡。

不良風に銀髪を染めてイキってみたものの、冷静になってみれば、一つ上の元生徒会長である美女を相手に廊下の真ん中で少女マンガめいた少女漫画的シチュエーションをかましたという事実だけが、猛烈な恥ずかしさとなって脳内にフィードバックされてくる。

「うっ……言われてみれば確かに……? でも、比企谷くん、すっごくカッコよかったから後輩でも先輩でも関係ないよー!」

めぐりはケラケラと楽しそうに笑いながら、全く気にする様子も見せない。

「関係なくないわよ……!」

と、そこで割って入ったのは雪乃だった。

さっきまでの冷徹な追及モードから一転、雪乃は「一つ上の先輩相手にあんな大胆な真似を……」と、別の意味でプライドとジェラシーを刺激されたような複雑な表情で八幡を睨みつける。

「い、いや、あれは流れというか、その……」

冷や汗を拭いながら言い訳しようとする八幡に、雪乃は一層不機嫌そうな声音で言い放つ。

「言い訳は後よ、比企谷くん。……で、私へのそれ(壁ドン顎クイ)はどうするのかしら? 年下のあなたから見れば、私は同い年……じゃなくて、れっきとした……ううん、そういう問題じゃないわよっ!」

自分で言って自分で混乱し、さらに顔を真っ赤にしてフイとそっぽを向く雪乃。

その後ろで、めぐりが「おや、雪ノ下ちゃんも実はしてもらいたかったのかな〜?」とニヤニヤしながら首を傾げている。

銀髪ブリーチにピアスという不良風貌で平穏を勝ち取ろうとしたはずが、気づけば一個上の先輩をからかい、同い年のヒロインを激しく動揺させるという、まったくもって不本意な「モテ男の修羅場」の真ん中に立たされている八幡だった。

「……もうやだ、はやくマックスコーヒー飲んで帰りたい……」

夕暮れの廊下に、八幡の心からの現実逃避の呟きが虚しく響き渡るのだった。

 

逃げ出したい現実から目を背け、頭を抱えていた八幡だったが、背後から突き刺さる雪乃の「……で、どうするの?」という無言のプレッシャーに耐えかねて、観念したように大きく息を吐いた。

「……はぁ。分かったよ、やればいいんだろ、やれば!」

開き直った八幡は、さっきの恥ずかしさをすべてふっきるように、スッと雪乃の前に一歩踏み出した。

そして、逃げ場を塞ぐように、雪乃のすぐ横の壁にドンッと力強く片手をつく。

「ひっ……!?」

先ほどめぐりに行ったのと同じ、しかし目の前にいるのは他でもない雪ノ下雪乃だ。

至近距離で捉えられたその瞬間、雪乃の喉元から小さく可愛い悲鳴が漏れた。さっきまで強気だった態度はどこへやら、彼女の背中がピクリと硬直する。

さらに八幡は、もう片方の手を伸ばし、めくられた前髪の隙間から覗く雪乃の整った顎を、そっと、しかし逃がさないように優しく捉えてクイッと持ち上げた。

「……これで満足かよ、雪ノ下」

間近で見据える死んだ魚の目の奥に、不良風貌の銀髪とピアスという危うい色気が嫌でも重なり合う。

低く気だるげな、けれどどこか熱を帯びた八幡の声が、静まり返った夕暮れの廊下に直接響いた。

「っ……! ……ば、バカじゃないの……こんなところで……」

雪乃の心臓は、今やうるさいほど激しく脈を打っていた。

全身の血が一気に沸騰したかのように、耳たぶから首筋まで真っ赤に染め上げられ、潤んだ瞳で八幡を見上げるのがやっとの状態だ。頭の中は完全に真っ白になり、冷静沈着な優等生の仮面など音を立てて崩れ去っていた。

(なんなのよ、この人……! いつもは捻くれたことばかり言うくせに、こんなときだけ……こんな反則みたいな顔をして……っ!)

悔しさと、恥ずかしさと、そして胸を締め付けるような甘い熱がごちゃ混ぜになり、雪乃の理性の糸がプツリと音を立てて切れた。

――もう、我慢できない。

「っ……知知らないわよ、こんなの……!」

羞恥心と衝動に突き動かされるまま、雪乃は自らぐっと顔を寄せ、閉じられた八幡の唇へと自分のそれをそっと重ね合わせた。

「…………っ!?」

今度は、八幡の思考が完全に、完璧にフリーズした。

予想の斜め上をいく反撃、いや自爆テロのような行動に、銀髪の不良風貌の少年の顔は限界を突破して真っ赤に染まり、目を見開いたまま全身が硬直する。

ほんの数秒の、触れるだけの不器用なキス。

すぐに体を離した雪乃は、顔をトマトのように真っ赤に染め上げ、両手で自分の唇をギュッと押さえたまま、その場にしゃがみ込んでしまった。

「うぅ……っ……ば、バカ……! 私の……私のファーストキスが……こんな廊下の真ん中で……っ!」

耳まで真っ赤にして顔を覆う雪乃と、同じく頭から湯気を出しそうなほど赤くなって固まる八幡。

少し離れた場所でその一部始終を見ていためぐりは、両手で自分の頬をパタパタと仰ぎながら、「うわぁ……青春だなぁ……!」と目を輝かせて一人で悶絶していた。

夕暮れの静かな校舎の廊下は、二人にとって一生忘れられない、最高に刺激的で最高に恥ずかしい熱に包まれていた。

 

――そして、その劇的な瞬間を、少し離れた廊下の曲がり角から完全に目撃してしまった者たちがいた。

「…………」

「…………」

葉山隼人と材木座義輝。

差し入れのマックスコーヒーを片手に「そろそろ二人が遅いから様子でも見に行くか」と歩いてきた彼らは、まさに今、雪乃が八幡にキスをしてその場に崩れ落ちるという、学校の歴史を揺るがしかねない歴史的瞬間を真正面から捉えてしまっていた。

ピクリ、と葉山の完璧な笑顔が引きつる。

材木座に至っては、持っていたマックスコーヒーの缶を取り落としそうになり、慌てて両手で口を塞いで必死に声を殺していた。

(……やばい。見てはいけないものを見てしまった……! これをあの一匹狼の比企谷殿に知られた日には、我が首がいくつあっても足りぬ……!)

(……まさか、雪ノ下があんな大胆な行動に出るなんて……。いや、それ以上に、これは僕たちがここにいたこと自体を知られてはいけないやつだ……!)

二人の脳内で、瞬間的に猛烈な危機回避アラートが鳴り響く。

葉山はスッと真顔に戻ると、隣にいる材木座の肩をぽんと叩いた。

そして、無言のまま、ゆっくりと――音を立てないように完璧な足取りで、数歩後ろへと引き返していく。

材木座もまた、その意図を完全に察知し、言葉を発することなく、ただ真剣な面持ちで深々と、力強くこくりと頷いた。

「(何も見ていない。我々は今、この廊下には来ていない)」

「(ああ、そうだ。僕たちはただ、幻を見ていただけだ)」

二人は一言も発することなく、音もなく踵を返すと、まるで何もなかったかのように猛スピードで奉仕部の部室へと引き返していった。

――青春の爆発を目の当たりにした男たちは、生き延びるために「見なかったこと」という最強のスキルを静かに発動させるのだった。

 

翌朝の奉仕部、あるいは凍りつく空気

翌日の放課後。

ガチャリ、と重い部室のドアを開けて入ってきた雪ノ下雪乃の足取りは、いつになくぎこちなく、どこか危なっかしかった。

いつもなら凛とした佇まいでスッと席に着くはずが、今日の彼女は視線を泳がせ、黒髪の毛先を指先でくるくると落ち着きなくいじっている。目も合わせようとせず、まるで何かから逃げるかのように窓際の自分の席へと急ぎ足で向かった。

(……昨日の今日だしな。流石にあいつも気まずいか)

窓際で腕を組み、銀髪を揺らしながらその様子をじっと観察していた八幡は、心の中で小さくため息をついた。

昨日の夕暮れ、廊下での想定外すぎるハプニング――まさかのファーストキス。思い出すだけでこっちまで耳たぶが熱くなりそうになるが、いつまでもこの気まずい空気を放置するわけにもいかない。

八幡は椅子から立ち上がると、トコトコと雪乃の机の脇まで歩いっていき、ズバッと単刀直入に切り込んだ。

「おい、雪ノ下」

「っ……な、なによ急に……! 私は忙しいのよ!」

ビクッと肩を跳ねさせた雪乃は、顔を真っ赤に染めながら、すっとそっぽを向いて声を裏返させた。あからさまに挙動不審である。

そんな彼女の様子を少し見つめ、八幡は低く落ち着いたトーンで、けれど逃げられないように真っ直ぐ尋ねた。

「……お前、さ。もしかして俺のことが好きなのか?」

「なっ……!?」

予想の斜め上をいく直球の質問に、雪乃の全身が激しく硬直した。

心臓が口から飛び出しそうなほどの勢いで跳ね上がり、思考回路は完全にフリーズする。

「そ、そんなわけ……! 何を突拍子もないことを言い出すのかしら、このバカが……っ!」

「いや、だって昨日……その、お前、自分から……」

言いかけた八幡の言葉を遮るように、雪乃は顔を真っ赤にしながら慌てて手をブンブンと振る。

しかし、その動揺は隠しきれていない。追撃するように、八幡はさらに踏み込んだ。

「……で、聞きてえんだけどさ」

少しだけ視線を逸らしつつ、八幡はぶっきらぼうに、けれど真剣な声音で問いかけた。

「……お前が俺を意識してくれてるとして、それは、その……『男として』ってやつなのか?」

「…………っ!」

その言葉をトドメとして、雪乃は完全に石化した。

耳の先から首筋まで、いや全身がトマトのように真っ赤に染まり、開いた口が塞がらない。あまりの破壊力に言葉を失い、ただただプルプルと震えながら俯くことしかできなかった。

――果たして、この沈黙のあとに雪乃が紡ぎ出す言葉とは……?

 

「……ま、なんだ。今の、その……好きなのかって聞いたやつは忘れてくれ」

照れ隠しを全開にしたぶっきらぼうな声音でそう言い捨てるやいなや、八幡は気まずさに耐えかねてスッと背を向けた。

「っ……は……? なによそれ……!」

慌てたような、引き止めるような、そしてどこかものすごく不満そうな雪乃の細い声が背中に飛んでくる。

しかし、これ以上その赤くなった顔を直視していたら自分の心臓が持たないと判断した八幡は、「じゃ、部活サボるわ!」と半ば逃げるように早足で部室の扉へ向かった。

「ちょっと、待ちなさいよ比企谷くん……! 勝手に聞いておいて、忘れてくれなんて通るわけないでしょう……!」

ガタッと椅子を激しく引く音とともに、雪乃がものすごい勢いで立ち上がる。

だが、その顔は耳の先まで真っ赤に染め上げられており、恥ずかしさと怒りがごちゃ混ぜになったような絶妙な表情だった。

ガチャリ、と重いドアが閉まる音を合図に、八幡はその場から文字通り逃げ出すように廊下を駆け抜けていく。

静まり返った部室の中、一人取り残された雪乃は、しばらくドアのほうを睨みつけた後、バタリと机に突っ伏した。

「……なんなのよ、あの男は……。勝手に踏み込んできて、勝手に焦って、勝手に逃げ出すなんて……っ!」

両手で真っ赤になった顔をぎゅっと覆い、机の上で小さくジタバタと身悶えする。

心臓の鼓動はいまだにおさまる気配がなく、頭から湯気が出そうなほどの熱を持っていた。

(あんな聞き方をしておいて、「忘れてくれ」で済むわけないでしょう……この、大バカ者……!)

恥ずかしさと、どこかやり場のないもどかしさに胸を詰まらせながら、雪乃は誰もいない放課後の部室で、真っ赤な顔を枕代わりに腕に埋め、一人でしばらく悶絶し続けるのだった。

 

ガチャリ、と重い部室のドアが再び開いたかと思うと、今度はいつもとは打って変わって、冷や汗をにじませた切羽詰まった表情の女子生徒が飛び込んできた。

柔道部所属の――確か、名前は三浦の友人だったか。息を整えながら、彼女は切実な声を上げる。

「あの、奉仕部の方よね……! お願い、助けて……!」

「落ち着きなさい。一体何があったのかしら」

ついさっきまでの気まずさや赤面が嘘のように、一瞬でいつもの冷徹で冷静な「優等生モード」に切り替えた雪乃が、スッと姿勢を正して問いかける。

「実は……今年の夏、柔道部にやたらと威圧的な古いタイプのOBがしごきにやってくることになって……。理不尽なしごきで部員たちが潰されそうなんだよ。どうにか穏便に、角が立たないように追い払う方法はないかなって……」

その相談を聞いた瞬間、窓際に立っていた八幡は、やれやれと盛大な溜息を吐いた。

銀髪を軽く掻き上げ、耳元でピアスを揺らしながら、八幡は冷めた眼差しでその女子部員を一瞥する。

「穏便に、ねえ」

鼻で笑うように、八幡は容赦のない言葉を投げ捨てた。

「そんなもん、あるわけねえだろ。来るなって、テメェの口で直接本人にハッキリ言えよ」

「えっ……? だって、そんなことしたら先輩たちに目を付けられるし、部全体の空気が最悪になって、ものすごい波風が立つよ……!?」

女子部員が青ざめながら反論すると、八幡は冷淡に言い放った。

「当たり前だろ。痛みを伴わねえで、波風一つ立てずに丸く収ような解決策なんて都合のいい幻想だ。誰も嫌な思いをせず、綺麗に自分の居場所だけを守り通せるほど、この世界は甘くできてねえよ」

不良風の見た目から繰り出される、相変わらずひねくれていながらも核心を突いた八幡の物言い。

それを聞いた雪乃は、少しだけ目を細め、それから小さくフッと息を吐いた。彼女もまた、八幡の言う「綺麗事だけでは何も守れない」という現実を、痛いほど理解していたからだ。

「……比企谷くんの言う通りよ。波風を立てることを恐れていたら、結局は一番守りたいものまで飲み込まれてしまうわ。あなたが本当にその場所を守りたいなら、自分で泥を被る覚悟を持ちなさい」

雪乃の凛とした声音に後押しされ、女子部員はグッと拳を握りしめ、震えながらも覚悟を決めたようにうなずいた。

楽な解決などない。それでも自分の居場所を守るために波風を立てることを選んだ少女を背中で見送りながら、奉仕部の日常は、相変わらず面倒くさく、そして少しだけ熱を持って進んでいくのだった。

 

女子部員が覚悟を決めて部室を去ったあと、静まり返った部屋に葉山隼人の乾いた声が響いた。

「……やれやれ。相変わらず、比企谷らしい荒療治だね」

窓枠にもたれかかっていた葉山は、苦笑いを浮かべながらも、どこか遠い目をしていた。

「なんだよ、文句あるか」

「ううん、文句じゃないさ。ただ……見ていて少し、昔の自分を思い出してね」

葉山は自分の手を軽く握りしめ、自嘲気味に続ける。

「昔の僕は、波風を立てるのを恐れて、誰にも嫌われないように上手に立ち回ることで周りを守ろうとしていた。……でも、それじゃ結局、本当に大切なものは守れないってことも、どこかで分かっていたんだ」

しかし、と言いながら葉山はパッと顔を上げ、八幡を真っ直ぐに見据えた。自分の過去の姿を重ねていたはずのその目に、かすかな驚きと、そして確かな違いが浮かんでいる。

「昔の僕なら、あんな風に泥を被るような冷たい正論なんて言えなかった。……でも、君は違う。嫌われ役を買ってでも、相手に本当の意味での強さを求めようとしている。……君は、僕なんかよりずっと前に、自分の足でちゃんと成長しているんだな」

思いがけない葉山の真っ直ぐな言葉に、八幡はわずかに眉をひそめ、「……なに気恥ずかしいこと言ってんだ、気色悪りぃ」とそっぽを向いた。

だが、葉山が言ったその言葉の裏で、八幡の頭には先ほど去っていった女子部員の頼りない背中が引っかかっていた。

(……とはいえ、あいつ一人にあんな重荷を背負わせて、本当にそのまま突っ込ませるほど俺も冷血じゃねえよ……)

「……ま、トイレでも行ってくるわ」

不自然にそう言い残すと、八幡はスタスタと部室の出口に向かい、そのままドアを閉めて出ていった。

その様子をじっと見ていた雪乃は、ふっと呆れたような、けれどどこか優しい笑みを浮かべる。

「……本当に、口の悪い男ね。あんなことを言っておきながら、放っておけるわけがないくせに」

「だな! 困っているヒロインを放っておけないとは、まさに主人公の鑑……! 我らも行くぞ!」

材木座がガタッと椅子から立ち上がり、十字架を背負うような勢いで腕を組む。

「……仕方ないわね。私たちも、あのひねくれた先輩の『後始末』に付き合ってあげるとしましょうか」

雪乃もスッと立ち上がり、葉山も「やれやれ、これだから彼らは……」と言いながらも、楽しげに笑ってそれに続く。

いつの間にか、ただの「手伝い」でも「部外者」でもなく、自然と一つの部活の仲間――「部員」のようなポジションにおさまっている四人。

八幡の背中を追うように、部室の扉が次々と開け放たれ、放課後の廊下にそれぞれの足音が響いていくのだった。

 

柔道場の前までやってきた女子部員は、硬く引き締まった空気と、武道場特有の足音が響く中に足を踏み入れた。

そこには、腕を組み、腕っぷしの強そうな威圧感を放つ古いタイプのOBたちが仁王立ちしている。

「おい、今年の二年は気が緩んでるって聞いたぞ。基礎から徹底的にしごき直してやるから覚悟しろ!」

ドスの利いたOBの声が道場に響き渡る。

部員たちが恐怖で縮こまる中、震える足で一歩前に出たのは、さっき相談に来たあの女子部員だった。彼女は両手をギュッと拳に握りしめ、顔を真っ青にしながらも、絞り出すような声で言った。

「そ、その……! 理不尽なしごきは、これ以上……や、やめてください……! 私たちは、あなたたちのストレスのはけ口じゃありません……!」

「……なんだと?」

OBの男の顔色が、一瞬にして険しく変わる。

自分より下に見ている後輩から、しかも大勢の前で真っ向から歯向かわれたことがプライドを傷つけたのだろう。男は凄まじい威圧感を纏いながら、ガシッと足音を立てて彼女に詰め寄った。

「あぁん? 入ったばかりのガキが生意気な口をきくな。先輩に向かってなんだその態度は! お前、自分が何言ってるか分かってんのか!?」

怒号とともに腕を掴みかかろうと手を伸ばしたOBの男。

あまりの恐怖に、女子部員はその場で尻餅をつきそうになり、思わず目をぎゅっとつむった。

――だが。

「……おっと、そこまでだろ」

道場の入り口付近。

窓枠に肩をもたれかけさせ、銀髪を揺らし、耳元のピアスをカチャリと鳴らしながら、八幡が冷ややかな声を投げた。

「な、んだお前は……?」

「いや、見てただけだよ。後輩の言葉に耳も貸さず、キレ散らかして威圧するしか能がないおっさんがいるもんだからさ」

八幡は冷めた魚のような目でOBの男を睨みつけ、フッと鼻で笑ってみせた。

後ろの物陰からは、息を潜めて見守る雪乃、葉山、そして材木座の姿が――。理不尽な現実に向かって泥を被る覚悟を決めた少女の背中を守るため、奉仕部の面々はしっかりと戦況を見据えているのだった。

 

「材木座、準備はいいな」

八幡がボソッと呟くと、背後の物陰で待機していた材木座は「フッ、任せておけ比企谷殿……! この歴史的瞬間、余すことなく記録してやろう!」と、スマホのビデオ撮影ボタンを押し、レンズをしっかりと二人に向けた。

だが、八幡はそれ以上前に出ようともせず、ただ腕を組んだまま、冷めた目でOBの男の前に立ち塞がっているだけだった。何か気の利いた啖呵を切るわけでもなければ、カッコいい反論をするわけでもない。ただの「無言の威圧」である。

「なんだお前……! 外のクラスのくせに、俺たちを舐めてるのか……!」

言葉を発しないまま、しかし底知れない冷徹な目を向け続ける八幡の雰囲気に、OBの男は妙な気味の悪さと、ザワリと背筋が泡立つような「凄み」を感じ取っていた。不良風の銀髪とピアスという外見以上に、その奥にある「何を考えているか分からない不気味さ」が、男のプライドを無駄に逆撫でさせる。

「ふざけやがって……!」

恐怖の裏返しのような苛立ちに任せ、OBの男はついに堪忍袋の緒が切れた。

「このガキが……!」と怒号を上げながら、振り抜いた重い拳が八幡の頬を容赦なく捉えた。

ゴンッ、と鈍い音が道場に響き渡る。

衝撃で八幡の体がわずかに傾き、口元からツーっと一筋の赤い血が流れた。スマホを構えていた材木座が「比企谷殿……っ!」と息を呑み、物陰で見ていた雪乃が思わず「っ……!」と一歩踏み出しそうになる。

しかし、八幡は殴られた頬を軽く拭うと、痛む顔を微動だにせず、相変わらず冷めた目でその男をじっと見据えた。

「……殴ったな」

その静かな一言が、さらに男を怯えさせようとしたその瞬間――。

「そこまでだ、阿呆ども」

道場の入り口、その空気を一刀両断するような、低く圧倒的な美声が響き渡った。

「ひ……平塚先生……!?」

パッと振り返ったOBの男たちが、青ざめた顔で声を漏らす。

そこに立っていたのは、愛用の白衣を翻し、鬼の形相をさらに超えた底知れない笑顔を浮かべた国語教師・平塚静だった。彼女は拳をバキバキと鳴らしながら、冷酷な瞳でOBたちを見据える。

「高校の部活にのこのこ出張ってきて、生徒に暴力とはいい度胸だな。……おい、お前ら。今のの一部始終、この動画にバッチリ収められてるんだが?」

そう言って、背後からひょっこり現れた材木座が、スマホの画面を誇らしげに突き出した。

「傷害事件として警察沙汰にされたいか? それとも、親や学校の耳に入る前に、今すぐその汚い面を下げてさっさと失せろ」

静の有無を言わせぬ凄まじいプレッシャーと、材木座が構える動かぬ証拠の映像。

OBの男たちは顔面蒼白になり、「くっ……覚えてろ……!」と捨て台詞を吐くのがやっとで、逃げるように慌てて道場から去っていった。

静まり返った道場の中、血を拭う八幡の背中を、雪乃たちは複雑な、けれど確かな安堵の入り混じった眼差しで見つめるのだった。

 

OBたちの姿が見えなくなると、張り詰めていた道場の空気が一気に緩んだ。

「あ……あのっ……!」

さっきまで恐怖と絶望で震えていた女子部員が、パタパタと小走りで八幡の元へ駆け寄ってきた。その目には、大粒の涙がうっすらと浮かんでいる。

彼女は、口元から血を流しながらも涼しい顔をしている八幡を見上げ、震える声で尋ねた。

「どうして……そこまでしてくれたんですか……? 私、赤の他人だし、大した関わりもないのに……。殴られたりして、痛くないんですか……?」

自分のために見知らぬ他人の不良風の先輩が傷を負ったことに対する申し訳なさティーと、驚きとが入り混じった切実な問いかけだった。

そんな彼女に対し、八幡は面倒くさそうに片手で軽く手を振ってみせた。

「別に、お前のためってわけじゃねえよ。ただ、理不尽にイキってるだけの面倒くさい野郎が近くにいたから、目障りだっただけだ」

ひねくれた言い方で照れを隠しながら、八幡はふっと息を吐く。そして、痛む頬を庇いながらも、ふっと優しく目を細めると、女子部員の頭にぽんと手を置いた。

「……だから、気にするな。泣きてえなら、自分の居場所を守り抜いてからにしとけ」

「っ……!」

頭に伝わってきた温もりと、ぶっきらぼうながらも真っ直ぐな優しさに、女子部員の顔は一瞬でトマトのように真っ赤に染まった。

心臓がドキンと大きく跳ね、さっきまでの恐怖が嘘のように吹き飛んでいくのを感じながら、彼女は顔を真っ赤にしたまま、ただコクコクと力強く頷くことしかできなかった。

少し離れた物陰では、そのやり取りの一部始終を見つめていた雪乃が「……まったく、相変わらず不器用で、ずるい男ね」と、呆れたような、けれどどこか胸を突かれたような複雑な表情で小さく呟くのだった。

 

平塚先生の圧倒的な介入と材木座の「決定的瞬間」によって、柔道部の理不尽なシゴキ問題は一気に、そして劇的に解決へと向かった。

あれから数日後。

奉仕部の部室にいる八幡のもとに、なぜか女子柔道部からの「お礼」と称した差し入れの缶コーヒーや手作りの菓子折りが、日替わりで届けられるという奇妙な現象が起きていた。

「おい、また届いたぞ……。これ、どうすんだよ」

机の上に山積みにされたマックスコーヒーと謎のパウンドケーキを見つめながら、八幡は深々と溜息を吐く。

「ふふ、いいじゃない。あなたの『人徳』の表れよ、比企谷くん」

窓際で紅茶を優雅にすすりながら、雪乃は面白そうにクスクスと笑っている。その表情には少しだけ、ほんの少しだけ複雑なジラシーの色が混じっているような、いないような。

それもそのはず――あの件以来、女子柔道部の間では、あの不良風の見た目でありながら、身を挺して理不尽な暴力から部を守り、去り際に頭をポンと撫でてくれたひねくれた先輩の話題が持ちきりになっていたのだ。

「いや、マジでやめてほしいんだけど……。なんか最近、廊下ですれ違う女子部員たちがやたらとこっちをジロジロ見てくるし、変な噂まで流れてるし……」

「変な噂って?」

「……なんか、『実は伝説の硬派な不良で、本当は優しい一匹狼先輩』みたいな設定で、勝手にファンクラブができかけてるとか何とか……」

八幡が頭を抱えて頭をかきむしると、物陰から材木座が「な、なんだと……!? 比企谷殿にファンクラブが……!?」と大げさに驚愕の声を上げる。葉山も「はは、君の魅力もいよいよ隠しきれなくなったってことさ」と苦笑いしていた。

「……ふっ、ファンクラブ、ねぇ」

雪乃はふっと優しく目を細めると、ティーカップをソーサーに置いた。

「あながち、間違った評価でもないんじゃない? ……もっとも、その本人が一番認めたがらないでしょうけれど」

「うるせえ、放っといてくれ。……とにかく、あの手の熱気に関わるのはごめんだ。静かにぼっちを謳歌させてくれよ……」

耳まで真っ赤にしてそっぽを向く八幡の背中を眺めながら、部室の空調はいつも通り、どこか穏やかな温かさに包まれているのだった。

――奉仕部としての日常は今日も平和……とは言い難いけれど、悪くはない。

 

放課後の奉仕部。窓から差し込む夕日が、相変わらず静かな部室の空気をオレンジ色に染め上げていた。

「……なぁ、雪ノ下」

いつものように窓際で文庫本を開いていた雪乃が、ページからゆっくりと視線を上げる。その手元には、昨日から続く女子柔道部からの差し入れのマックスコーヒーが一本、ぽつんと置かれていた。

「どうしたの、そんな深刻そうな顔をして。まさか、また変なファンクラブの噂でも持ち上がったのかしら?」

「いや、それどころじゃねえよ……。もっとヤバい噂が学校中で流れてる」

八幡は頭をガシガシとかきむしると、うんざりしたような顔で机に突っ伏した。

「ヤバい噂……?」

「あぁ……。よりによって、一昨日の夕方、廊下で俺がお前に対してやった『顎クイ』からの……その、不意打ちのキスの件だよ」

その言葉が出た瞬間、カチリと、雪乃が持っていた文庫本が机に置かれる音がした。

雪乃の顔が、ほんの一瞬で真っ赤に染まる。昨日の今日で、そのトラウマ的な記憶を掘り起こされたのだから無理もない。

「なっ……! な、なんでそんな噂が……! 私たちは誰もいない隙を狙ったはずよ……!」

「いや、それがだな……」

八幡は遠い目をして、昨日の隠れた目撃者たちの存在を思い浮かべた。

「あのとき、完全に気配を消してた葉山と材木座の野郎が、実は一部始終をバッチリ目撃してやがったらしいんだよ……。あいつら、口が堅いから大丈夫だと思ってたんだけど、どっかでポロッと零したのか、それとも材木座の口が軽すぎたのか……。今じゃ『比企谷と雪ノ下が廊下の真ん中で激しいキスを交わしていた』とかいう、事実をねじ曲げられた大スペクタクル恋愛ドラマみたいな噂に仕立て上げられてやがる」

「き、激しいキス……!? そんな大げさなものじゃ……!」

雪乃は耳まで真っ赤にし、両手で自分の顔を覆い隠した。

プライドの高い彼女にとって、学校中で自分たちのプライベートな、しかもあんな恥ずかしい瞬間が面白おかしく語られているなど、処刑場に引き立てられるようなものだった。

「どうするんだよ、これ。明日からまともに校内歩けねえぞ。奉仕部のドアを開けたら、野次馬が押し寄せてくるんじゃねえかってビビってんだこっちは」

八幡がぐったりと机に額を擦りつけると、雪乃はしばらくの間、顔を覆ったままプルプルと震えていた。

やがて、ゆっくりと両手を外し、真っ赤に染まった頬を隠すようにツンと顎を引いて、いつもの冷徹な(しかしどこか説得力に欠ける)声音を取り繕う。

「……べ、別に、私たちが気にしていない素振りをしていればいいのよ。変に慌てたり否定したりするから、かえって面白がられるんだわ。堂々としていなさい、比企谷くん」

「言うのは簡単だけどな……! お前、昨日あんなに真っ赤になってしゃがみ込んでただろ!」

「っ……! あれは、その、足の痺れがピークに達していただけで――!」

言い訳をしつつも、雪乃の耳たぶは相変わらず見事なトマト色に染まったままだった。

噂の出所のせいで頭を抱える八幡と、羞恥心で今にも消えてしまいそうな雪乃。平穏なぼっち生活への道のりは、今日も今日とて遠くて険しいのだった。

 

「……まあ、いいんじゃねえの」

頭を抱えていた八幡は、急にどうでもよくなったように背もたれに深く寄りかかり、缶コーヒーのプルタブをパキッと開けた。

「へ……?」

「変にムキになって『違います!』なんて否定してみろ。余計に怪しまれて面白おかしく広まるのがオチだ。『噂なんて下らない』って顔して二人で徹底的に無視を決め込む。それが一番の沈静化だろ」

「……そうね。珍しく理にかなった意見だわ。相手にしないのが一番の策よ」

雪乃もようやく冷静さを取り戻したようにコホンと咳払いをし、冷徹な表情を作り直した。

――そう、二人で「無視」という無難な対応を選んだ。……はずだった。

しかし、周りの反応は二人の予想とは真逆に傾いていく。

普段ならどんな下らない噂でもバッサリと冷たく切り捨てるはずの雪ノ下雪乃が、一切否定しない。

そして、いつもなら「違ぇよバカ」と死んだ魚の目(銀髪ピアス風貌)で毒を吐くはずの比企谷八幡も、一切否定しない。

この二人の「ノーコメント(無言の沈黙)」は、周囲からすれば『否定しない=認めた』という決定的な暗黙の了解として受け取られてしまったのだ。

翌日からの校内の空気は一変した。

「やっぱり本当だったんだ……!」「あの二人、付き合ってたんだ……!」という確信めいた視線が、奉仕部の二人に突き刺さる。いつのまにか二人は「校内屈指のビッグカップル」として扱われ始めていた。

「……まあ、別に減るもんじゃなし、いいか」

八幡はどこか他人事のようにつぶやく。

「柔道部の女子から妙なアプローチを受けることも減るだろうし、他の女子からも近寄られなくなる。俺としては絶好の『虫除け』になって万々歳だわ。俺、モテて困ってたところだしな」

「……誰がモテて困っているのかしら。思い上がりも大概にしなさい」

八幡がドヤ顔で言い捨てると、雪乃は冷ややかに返した。

――だが、雪乃の内心はまったく冷やかではなかった。

(ちょ、ちょっと待ちなさい……! カップル扱いって……どういうこと……!?)

「ただの噂」として流れるはずだったものが、今やクラスでも部活でも「公認の恋人同士」のような扱いになりつつある。

廊下ですれ違う女子生徒たちから「雪ノ下さん、比企谷くんとお幸せにね……!」なんて生暖かい笑顔で声をかけられるたびに、雪乃の心臓は破裂しそうなほどバクバクと跳ね上がっていた。

(虫除け……!? こっちは全然万々歳じゃないわよ! むしろ、本当は付き合ってもいないのに、周りからあんな目で見られて……それに、もし彼が本当に私を「ただの虫除けの口実」としか思っていなかったらどうするの……!?)

表面上は冷静沈着な優等生を装いながらも、雪乃の頭の中は大パニックを起こしていた。

チラリと隣の八幡を見る。当の八幡は「ふぅ、これで平和なボッチ生活(仮)に戻れるぜ」と呑気にコーヒーをすすっている。

(この大バカ……! なんでそんなに余裕なのよ……っ!)

顔には決して出さないものの、耳たぶを真っ赤に染めながら、一人で猛烈に焦りまくる雪ノ下雪乃であった。

 

「……おい」

呑気にマックスコーヒーを飲んでいた八幡が、ふと視線を窓の外から戻し、じっと雪乃のほうを見た。

「な、なによ。急にそんなジロジロ見て……」

「いや。さっき『虫除けになって万々歳だ』って言ったら、お前がなんか不満そうな顔してブツブツ言ってるからさ」

図星を突かれたのか、雪乃はビクッと肩を跳ねさせ、慌てて紅茶のカップに視線を逃がした。

「べ、別に不満なんかじゃないわよ! むしろ、あなたの勝手な都合で周囲からそんな誤解を招いている私の身にもなりなさいよって思っていただけで……!」

言い訳するように早口でまくし立てる雪乃に対し、八幡はため息交じりに頭をポリポリと掻いた。

そして、少しだけ視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに、けれど妙にはっきりとこう付け加えた。

「……まあ、なんだ。お前みたいな面倒くさくてプライドの高い女に、万が一にも変な虫が寄ってきたら、それはそれでこっちが面倒くさくて仕方ねえからな。……そういう意味じゃ、この噂も悪くはねえよ」

「っ……!? な、――」

その言葉の意味を脳内で反芻した瞬間、雪乃の動きがピタリと止まった。

「変な虫がついても困るしな」

――それはつまり、自分に他の男が寄ってくるのを、彼が嫌がっているということなのだろうか。

いや、彼なりの照れ隠しと屁理屈なのは分かっている。分かっているのに、その言葉の裏に隠しきれない独占欲のような響きをどうしても感じ取ってしまい、心臓が跳ね上がるのを止められなかった。

「なっ……! なにを勝手に……! 私は別に、誰に言い寄られようとあなたの勝手な都合なんて関係ないでしょう……っ!」

そう言い返そうとしたものの、自分の声が異様に上ずっていることに気づいて、雪乃は慌てて両手で口を押さえた。

見れば、耳の先から首筋まで、さっきまでの冷徹な優等生の面影が跡形もなく消え去るほど、見事に真っ赤に染め上がっている。

「ほら、やっぱり赤くなってるじゃねえか」

「うるさいわね! 暑いのよ、この部屋は! エアコンの温度を下げなさい!」

「いや、今ちょうどいい涼しさだろ……」

呆れたように呆けてみせる八幡だったが、実は彼自身も、言い放った後に自分の照れ臭さに耐え切れず、耳たぶを真っ赤に染めながら必死に視線を別の方向へと逸らしていた。

窓の外では夕日が沈みかけ、朱色の光が二人を照らしている。

「カップルの噂」という厄介な誤解は、気まずさと、どうしようもない甘い熱を孕んだまま、相変わらず不器用な二人の距離を少しだけ、確実に縮めていくのだった。

 

放課後、いつも通り奉仕部での気まずい(けれどどこか居心地のいい)時間を過ごしていた八幡だったが、部活の終わり際に事件は起きた。

ガチャリ、と勢いよく部室のドアが開く。

そこに立っていたのは、銀髪を一つに結い、鋭い目つきを隠しきれない女子生徒――川崎沙希だった。

「……ちょっと、比企谷」

開口一番、低く威圧感のある声が部室に響き渡る。

彼女の背後からは、何やら面白がるような、あるいは冷やかすような野次馬の気配(完全に材木座あたりが巻き込まれている気配)が微かに漂っていたが、今の川崎の殺気の前にはそんなものはどうでもよかった。

「ん? なだよ川崎。戸締まりならもうすぐ――」

「ぼぼ、ぼぼぼ、ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ……!」

言い訳しようとした八幡の言葉を遮り、川崎は一歩、また一歩とすごい勢いで詰め寄ってきた。

その顔は真っ赤で、耳まで沸騰しているかのように湯気が出そうだった。彼女がまとっている威圧感は不良風を気取る八幡すらタジタジになるほどで、思わず八幡は後ずさる。

「おい、なんだよ急に。そんな鬼みたいな顔して……」

「な、なんだじゃないわよ……! なんなのよ、その噂は……っ!」

川崎は拳をギュッと握りしめ、ワナワナと震えながら八幡を睨みつけた。

「廊下でキスしただの、校内一のカップルだの……! あげくの果てには、お前が『変な虫がついても困る』とか言って私の……じゃなくて、雪ノ下を……!」

(あ、こいつ、今言いかけたな……?)

八幡が内心で冷や汗をかいた一方、窓際に座っていた雪乃は、川崎のその発言にピクリと反応した。

「……川崎さん。今、何か言いかけたけれど、一体どういうことかしら?」

スッと立ち上がった雪乃の瞳が、冷徹な光を帯びて川崎を捉える。

「っ……! な、なんでもないわよ! ただ、校中で変な噂が流れてるから、本人に直接確かめに来ただけよ!」

川崎はバッ気まずそうに顔を逸らし、耳まで真っ赤にしながら八幡を再びキッと睨みつけた。

「……で、どうなのよ、比企谷。本当なのかよ、その……お前と雪ノ下が……その……!」

言葉を濁しながらも、彼女の目は「本当だと言ってみろ、ぶっ飛ばすからな」という凄まじい圧力を放っていた。

連日続く「カップル疑惑」の波は、ついに周囲の人間を本気で巻き込み始めていた。

冷や汗を流しながら「いや、あれはだな……」と弁解しようとする八幡と、静かに、けれど逃がさないというプレッシャーを纏って見据える雪乃。

青春の甘い熱は、周囲の熱血(と勘違い)によってさらに面倒くさい方向へと加速していくのだった。

 

冷や汗を流しながら、八幡は必死に弁解の言葉を紡ぎ出した。

「いや、待て川崎。落ち着け。あれはただの噂、尾ひれがつきまくった完全なデマだ。廊下であんな、その、ドラマみたいなことなんて実際は――」

「デマじゃないわ」

スッと、静かながらも妙にはっきりと響いたその声に、八幡の言葉が途中で途切れた。

「……は?」

驚いて隣を振り返ると、そこにはいつのまにかティーカップを置き、真っ直ぐ前を見据える雪ノ下雪乃の姿があった。

彼女の顔は耳の先まで綺麗に赤く染まっていたが、その瞳には奇妙なほどの覚悟と、負けず嫌いなプライドの色が浮かんでいる。

「……雪ノ下?」

「ちょっと、比企谷くんが勝手に『ただの噂』で片付けようとするからいけないわ。勘違いされては困るもの」

そう言って、雪乃はコホンと小さく咳払いをすると、真っ赤に染まった頬を隠すこともせず、目の前にいる川崎をじっと見据えた。

「噂の内容は一部……というか、大分誇張されているけれど……。廊下でしたこと自体は、事実よ」

「……は、はぁっ……!?」

八幡の思考回路が、今度こそ完全にフリーズした。

頭の中で「おいおい待て待てマジかよ」というツッコミが盛大にエコーする。自分で隠し通そう、あるいは煙に巻こうとしていたはずの決定的な事実を、あろうことか当事者である雪乃本人が、自ら堂々と(しかも真っ赤になりながら)認めてしまったのだから無理もない。

「じ、事実って……お前……っ!」

「なっ……!?」

川崎もまた、予想の斜め上をいく爆弾発言に大きく目を見開き、言葉を失って固まった。

不良風を気取る八幡がタジタジになるほどの気迫を持っていた彼女でさえ、まさか優等生として知られる雪ノ下雪乃の口からそんな大胆な告白が飛び出すとは思っていなかったのだろう。

「な、なにを冷静に、しかも堂々とバラしてくれてんだよ……!」

「バラして何よ。変に嘘をついて後からもっと面倒くさい詮索をされるより、ここで一度ハッキリ真実を伝えておいた方が合理的だわ。それに……」

雪乃はそこで一度言葉を切り、わずかに視線を泳がせながら、蚊の鳴くような小さな声で付け足した。

「……嘘をつくのは、なんだか負けた気がするからよ」

真っ赤な顔のまま、どこか誇らしげに、けれど猛烈に恥ずかしそうにそっぽを向く雪乃。

そのあまりの破壊力に、八幡はこれ以上何も言い返せなくなり、ただ頭を抱えて天を仰ぐしかなかった。

――奉仕部の部室は、再び逃げ出したいほどの熱気と、甘酸っぱい沈黙に包まれるのだった。

 

――ガシッ!

「なっ……!?」

雪乃のあまりにも爆弾級な告白に八幡が頭を抱えていたその瞬間、怒濤の展開はまだ終わっていなかった。

突如、川崎沙希が猛烈な勢いで八幡の胸ぐらを両手で掴み、そのままドンッ! と背後の部室の壁に激しく押し付けたのだ。

「ちょ、川崎……っ!?」

「うるさいっ、黙ってて!」

八幡の抗議を遮る川崎の顔は、耳の先どころか首元まで、トマトを通り越してマグマのように真っ赤に染め上がっていた。その目は恥ずかしさと、悔しさと、言い知れない爆発寸前の感情で潤んでいる。

「なんなのよ、アンタたち……! そんな、見せつけられるみたいに堂々とアピールされて……! 私だって、私だって……!」

言い淀みながらも、川崎の胸のうちは激しく波立っていた。

廊下でのキスという噂。それを雪乃が堂々と事実だと認めたこと。そして、自分の胸の奥にあった名付けようのないモヤモヤと、彼に対する抑えきれない焦燥感。

「――ずるい、真似してやる……!」

意味不明な、けれど切羽詰まった呟きを残したかと思うと、川崎は勢いのまま顔をぐっと近づけ、震える唇を八幡の唇へと重ねた。

ゴンッ。

勢い余って、お互いの鼻先が盛大にぶつかる鈍い音が部室に響く。

キスというよりも、まるで激しい衝突事故のような、不器用で、けれど全力のファーストタッチだった。

「…………は……?」

八幡の思考回路は完全にショートし、目を見開いたまま固まった。

窓際にいた雪乃も、「っ……な……!?」と言葉を失い、持っていたティーカップを危うく落としそうになって席から飛び上がる。

ほんの一瞬、唇が触れ合ったかと思うと、川崎は自分のやったことの重大さにようやく気づいたのか、ガタッと激しく後ずさった。

「っ……あ……!」

彼女の顔は、もう限界値を超えるほど真っ赤だった。

目にはうっすらと涙さえ浮かび、恥ずかしさとパニックのあまり、唇をわなわなと震わせる。

そして、絞り出すように、けれど叫ぶような声で言った。

「……いまのは、アタシの……! ファーストキスだからな……っ! 責任取りやがれ、このバカ!」

それだけ言い残すと、川崎は逃げるように踵を返し、バタンッ! とドアが壊れんばかりの勢いで部室を飛び出していった。

――静まり返った奉仕部の部室。

壁にもたれかかったまま固まる八幡と、顔を真っ青(あるいは真っ赤)にして震える雪乃。

二人がいる空間には、先ほどまでの甘酸っぱさなど吹き飛ぶほどの、あまりにも衝撃的すぎる嵐が爪痕を残していったのだった。

 

衝撃的なキスと逃走劇の余韻が冷めやらぬまま、静まり返った奉仕部の部室。

戸が開いたままの入り口付近には、いつのまにかその一部始終を完全に目撃してしまった二人の姿があった。

――パチパチパチ……と、乾いた拍手が小さく響く。

そこに立っていたのは、なぜか遠い目をしながら小さく頭を抱える葉山隼人と、十字架を背負うようなポーズでプルプルと震えている材木座だった。

「……いやあ、まさか二度目の目撃者になるとはね」

「見事な修羅場……! いや、これはもはや伝説の幕開けか……!」

葉山は苦笑いを通り越して乾いた笑いを浮かべ、材木座は感動に打ち震えているのか、あるいはこの面倒くさすぎる事態から一刻も早く逃げたいのか、落ち着きがない。

しかし、数秒の沈黙の後、葉山はスッと真面目な顔に戻ると、自身の両手で自分の目を軽く覆ってみせた。

「……うん。僕たちは今、何も見ていない。まったく、一切、これっぽっちもね」

「しかり! 我等の視界には何も映っていなかった! なあ、比企谷殿! この記憶は宇宙の彼方へ消え去ったのだ!」

材木座も慌てて大きくうなずき、ガタガタと震えながら自分の口にチャックをするジェスチャーをする。

二人のその「見なかったことにする」という全速力の現実逃避は、ある意味で最高に的確で、唯一の正解だった。これ以上この場にいたら、間違いなく比企谷八幡のライフがゼロになるか、あるいは雪ノ下雪乃の冷徹な眼差しによって物理的に消滅させられるかの二択しかなかったからだ。

「じゃ、部活の書類提出があるのを思い出したから、僕はこれで失礼するよ……! じゃあね、雪ノ下、比企谷!」

「待て材木座、我も同行する! この空間の気圧に耐えられん!」

葉山は背筋を凍らせながらそそくさと身を翻し、材木座を引っ張りながら猛ダッシュでその場から立ち去っていった。

バタン、と再びドアが閉まり、部室には本当の静寂が戻ってくる。

――残されたのは、壁にもたれかかったまま呆然とする八幡と、顔を真っ赤に染めたまま言葉を失っている雪乃の二人だけだった。

「…………」

「…………」

どちらからともなく、深い、深いため息が零れ落ちる。

「見なかったことにする」と言いつつも、明日以降の学校生活でこの記憶が封印されるわけがない。平和なぼっち生活(仮)を脅かす新たな嵐の予感を肌で感じながら、二人はただただ途方に暮れるのだった。

 

静まり返った部室の中、残された二人の間には、先ほどまでの騒がしさが嘘のような重たい沈黙が漂っていた。

壁にもたれかかったまま呆然としている八幡の横で、雪乃は机にしがみつくようにうつむいていた。

肩が、細かく震えている。

「……雪ノ下?」

恐る恐る声をかけた八幡だったが、返ってきたのは、絞り出すような、か細い声だった。

「……ずるい……っ」

「は……?」

「ずるいじゃない……なんなのよ、一体……っ」

顔を上げた雪乃の瞳には、大粒の涙が溢れ、綺麗に整った頬を伝ってポロポロとこぼれ落ちていた。

プライドの高い彼女が、みんなの前であんな風に泣く姿なんて見たことがなかった。八幡は慌てて体を起こし、どう声をかけていい分からずにおろおろと手を彷徨わせる。

「おい、どうしたんだよ急に……。川崎のやつが変なことしたからって、そんなに泣くことは――」

「川崎さんのことなんかじゃないわよ……っ!」

雪乃は涙を拭うこともせず、潤んだ真っ赤な目で、まっすぐに八幡を見据えた。

その声は震えながらも、これ以上ないほどに真剣だった。

「私が……泣きたいのは、そんなことじゃないわよ……っ! ……ずっと、ずっと前から……私は、あなたのことが……好きで……っ!」

自分の口から零れ落ちたその言葉に、雪乃自身も驚いたように息を呑んだ。

ずっと隠していたくて、プライドが邪魔をして絶対に認めたくなくて、でも誰よりも分かっていた自分の本当の気持ち。それを、もう抑えきれなくなって、彼女は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き出してしまった。

「……こんなの、私らしくないのに……。あなたが、他の女の子にあんなことされて……私、すごく……悔しくて、嫌で……っ……バカね、私……」

次から次へと溢れ出る涙と、震える細い肩。

その姿を見た瞬間、八幡の中で、ひねくれた思考や面倒くさい理屈なんてものはすべて吹き飛んで消え去った。

――あぁ、本当に。

こいつはいつも、こうやって不器用に、けれど誰よりも真っ直ぐに自分の心をぶつけてくる。

言葉で気の利いた台詞なんて思いつかなかった。

だけど、今ここでどうすればいいのかは、不思議と痛いほど分かっていた。

八幡は一歩前に踏み出すと、震える雪乃の体をそっと引き寄せ、自分の胸の中に優しく抱きしめた。

「っ……! 比企谷くん……っ?」

突然の温もりに雪乃が小さく息を呑み、彼の胸元をぎゅっと掴む。

八幡は何も言わず、ただ不器用な手つきで、彼女のサラサラとした長い髪を優しく、ゆっくりと撫で続けた。

「……泣くなよ。ガラにもねえ」

ぶっきらぼうで、だけどどこまでも優しいその声が、雪乃の耳元で静かに響く。

「……泣いてないわよ……っ」

そう言いながらも、雪乃はもう彼の胸から離れようとはしなかった。

ただ溢れる涙を彼のシャツに預けたまま、その温もりにしがみつくように、小さく、けれどしっかりと息を吸い込む。

窓の外では、夕暮れの空がゆっくりと夜の帳に包まれていく。

不器用な二人の、やっとたどり着いた本当の始まりの場所で、静かで温かい時間がゆっくりと流れ始めていた。

 

放課後の静まり返った部室から一転、少しだけ落ち着きを取り戻した二人がやってきたのは、お馴染みのファミリーレストラン――サイゼリヤだった。

夕暮れ時の店内は、学生グループや家族連れでにぎわい、どこか生活感のあるガヤガヤとした喧騒が広がっている。

その一角のボックス席。窓際の席に並んで座った二人の前には、湯気を立てるミラノ風ドリアと、ドリンクバーから持ってきたスープがぽつんと置かれていた。

「……」

雪乃は両手でマグカップを包み込み、温かいスープを一口すすると、小さく息をついた。

先ほどまでの大粒の涙こそ止まっているものの、泣き疲れたのか、目の縁や鼻先がほんのりと赤く染まっている。その姿は、いつもの凛とした「雪ノ下雪乃」ではなく、どこか年相応の、守ってやりたくなるような女の子の雰囲気をまとっていた。

八幡はそんな彼女を横目で見つつ、自分のミラノ風ドリアにスプーンを突き刺しながら、ぼそっと呟いた。

「……落ち着いたか?」

そのぶっきらぼうな、けれど気遣うような声に、雪乃はわずかに肩をビクッとさせた。

そして、マグカップをゆっくりとテーブルに置くと、恥ずかしさからか、みるみるうちに耳たぶまで真っ赤に染まっていく。

「……っ。あ、ありがとう。その……さっきは、少し取り乱して……見苦しいところを見せたわね」

顔を真っ赤にしながらも、いつもの丁寧な口調を取り繕おうとする雪乃の姿に、八幡は苦笑いを浮かべた。

「見苦しいなんて思わねえよ。ただ……泣き止むまでどうしていいか焦ったけどな」

「うっ……。しょうがないじゃない、あんなの……! 自分でも、あんな風に感情を抑えられなくなるなんて思っていなかったんだから……」

雪乃は恥ずかしさのあまり両手で自分の顔を覆い、テーブルの上で小さくうずくまる。

そんな彼女の様子を見て、八幡はフッと小さく笑うと、粉チーズの容器を手に取り、ドリアにドバドバとかけながら言った。

「まあ、いいんじゃねえの。隠しごとしてモヤモヤしてるより、全部吐き出した方がスッキリするだろ。……お前のそういう面倒くさいとこも、含めてさ」

「っ……!」

顔を覆っていた手が、ゆっくりと下ろされる。

真っ赤な顔をした雪乃が、潤んだ目でジッと八幡を見つめた。その表情には、羞恥心と、それ以上に深い安堵の色が浮かんでいる。

「……本当に、あなたって人は……」

雪乃は小さくため息をつきながらも、どこか嬉しそうな、愛おしそうな、そんな柔らかな笑みを浮かべた。

相変わらずひねくれていて、デリカシーがなくて、でも肝心なところでは絶対に逃げない――そんな彼の隣で、雪乃はゆっくりと自分のミラノ風ドリアにスプーンを伸ばす。

ファミレスの喧騒の中、二人の間に流れる空気は、以前よりもほんの少しだけ温かく、そして確かな甘さに満ちていた。

 

ミラノ風ドリアの皿を目の前にして、スプーンを持ったまま手がピタリと止まる。

「……は?」

雪乃は瞬きを数回繰り返したあと、信じられないものを見るような目で八幡の顔を凝視した。

耳まで真っ赤にしながら、やっとの思いで自分の恋心を打ち明け、ようやく落ち着いたところだったというのに、その返答があまりにも予想の斜め上をいっていたからだ。

「なによ、その『返事は今じゃないとダメか?』なんて……。まさか、今の私の告白をその場でスルーする気?」

雪乃の声音に、みるみるうちに冷ややかな(しかしどこか切羽詰まった)トーンが戻ってくる。

八幡は気まずそうに頭をポリポリと掻きながら、視線を少しだけ窓の外へと逃がした。

「いや、スルーするわけじゃねえよ……! ただ、その、心の準備ってもんがあるだろ。お前みたいな学校一の美少女から突然そんな直球を投げられて、こっちだって頭が追いついてねえんだよ」

「頭が追いついていないのは私だって同じよ……! あんな恥ずかしい告白、人生で二度とするつもりはないんだからね!」

顔を真っ赤に染めながら、雪乃はプイッとそっぽを向く。しかし、その瞳の端には「もしかして拒絶されるのでは」というわずかな不安の色が揺れていた。

そんな彼女の様子に気づいたのか、八幡は小さく息をつくと、少しだけ真面目なトーンで付け加えた。

「……逃げるわけじゃねえって。ただ、こういうの、お互いに慣れてねえだろ。それに、さっきから周りの客がめちゃくちゃこっち見てる気がするし……こんなファミレスのガヤガヤした席で、ハイそうですかって答えられるほど俺も器用じゃねえよ」

確かに、周りを見渡せば家族連れや学生グループが楽しそうに食事をしており、隣の席からはパフェの注文をする声が聞こえてくる。そんな生活感あふれる空間で、人生の一大イベントとも言える告白の返事をするのは、確かに気恥ずかしさの限界を超えていた。

雪乃はふっと小さく息を吐き、マグカップのスープに再び目を落とした。

その表情には、呆れと、けれどどこかホッとしたような安心感が入り混じっている。

「……まったく、本当にどこまでいっても調子の狂う男ね」

小声でそう呟きながらも、雪乃はうっすらと頬を朱に染め、スプーンで自分のドリアを小さくすくい上げた。

「……で、いつにするつもりなのよ。あまり待たせるようなら、私の気が変わってしまうかもしれないわよ?」

意地悪く、けれどどこか嬉しそうな声音でそう問いかける雪乃に、八幡はふっと苦笑を浮かべる。

「善処するって。……ほら、冷めちまうから飯食えよ」

焦らず、急がず、けれど確かな熱を孕んだまま――不器用な二人の「これから」の時間が、ゆっくりと動き出していくのだった。

 

サイゼリヤの喧騒の中、取り繕うようにミラノ風ドリアを口に運んでいた八幡だったが、急に箸(いや、スプーン)をピタリと止めて腕を組んだ。

「……んー、待てよ」

「なんなのよ、急に。また変なことを言い出す気?」

スープカップを置いた雪乃が、ジトっとした目を向ける。

八幡は眉間にしわを寄せ、何かを深く、しかしものすごい勢いで脳内思考(ブレイン・ダンプ)させていた。

「いや、よく考えたらさ……俺、悩む必要なくね?」

「は……? 悩む必要がない、ってどういうことよ。私の告白に対する返事よ?」

「だからさ。お前が俺を好きで、俺も……まあ、なんだ、お前のことが嫌いじゃない、むしろこういう関係になってる時点で、答えなんて最初から一つしかなくねえか? わざわざ時間をかけて悩むフリをする方が、なんかこう、ねちっこくて自分らしくねえなって」

頭をポリポリと掻きながら、八幡はごく自然な、それでいてとんでもない方向性の結論にたどり着いた。そして、何の変哲もないトーンで、しかし真っ直ぐに雪乃を見据えてこう言い放った。

「――で、どうする? いっそ結婚するか?」

「……へ?」

数秒の沈黙。

八幡が発したその「ケッコン」というあまりにも重く、そして人生の既成事実を飛び越えすぎたワードは、雪乃の脳内の思考回路を完全に焼き切るには十分すぎた。

「け、け、け……けっ、こん……っ!?」

雪乃の目が皿のように丸くなり、上品に構えていた姿勢がガクッと崩れる。

数秒前まで「いつ返事をもらおうかしら」などと乙女チックに悩んでいた頭脳は完全にフリーズし、顔の温度は一気に沸点を超えて頭から湯気が出そうなほど真っ赤に染まった。

「なっ……ななな、何を言い出すのよあなたはいきなり……っ! 告白の返事の次は結婚って、展開が飛躍しすぎて脳の処理が追いつかないわよ……っ!」

パニックを起こした雪乃は、両手で自分の顔をバシバシと叩き、目の前にあるお冷やのグラスを掴んで一気に飲み干した。

しかし、それでも心臓のバクバクは収まらず、真っ赤な顔で八幡をビシッと指さす。

「ば、バカじゃないの!? 私たちはまだ高校生よ!? そもそも付き合うかどうかの話から、なんでいきなりゴールインの話になってるわけ……っ!」

「いや、お前が『いつにするつもりなのよ、気が変わるかもしれないわよ』って煽るからだろ!」

「煽ってないわよ! もう少しこう、段階を踏むというロマンチックな過程はないわけ!?」

顔を真っ赤にして早口でまくし立てる雪乃と、どこか冷静(なフリをしているだけ)な八幡。

ファミレスのボックス席という日常的な空間で、二人の「プロポーズめいた何か」は、盛大なパニックと羞恥心の嵐を巻き起こしながら、ちゃぶ台返しのように急展開を迎えていくのだった。

 

「ちょっと待ちなさいよ……っ!!」

ガタッ! と、サイゼリヤの静かな(しかし二人にとっては修羅場な)空間に、勢いよく椅子を引く音が響き渡った。

「「……え?」」

あまりの急展開にパニックを起こしかけていた八幡と雪乃が、同時に声を上げて隣の席――いや、通路を挟んだ反対側のボックス席を振り返る。そこには、顔を真っ赤に染め、目にはうっすらと涙を浮かべた川崎沙希が、我が物顔で座っていた。

「いつの間に……っ!? お前、なんでここにいんだよ!」

「ずっと尾行してたわけじゃないわよ! たまたま、クラスの連中とファミレスに来たら、目の前の席にアンタたちがいたのよ……っ!」

川崎はバッと立ち上がり、ゼーゼーと息を荒げながら八幡をキッと睨みつけた。先ほどの部室での「ファーストキス宣言」の羞恥心などどこへやら、彼女の胸のうちは収まらない怒りと切なさとで爆発寸前だった。

「なんなのよ、さっきから……! 告白だの結婚だの、二人だけで勝手に盛り上がってさ……! アタシの気持ちはどうなるわけよ!」

「お、お前の気持ちって……川崎、お前……」

八幡が冷や汗をダラダラと流しながらたじろぐと、川崎は両拳をギュッと握りしめ、震える声をさらに一段階大きくした。

「勘違いしないでよね……っ! アンタを想ってるのは、世界中でそのお高くとまったお嬢様一人だけだと思ったら大間違いよ!」

バシッ! と、川崎の指が雪乃をビシッと指さす。

指さされた雪乃は、驚きで目を見開き、パチパチと瞬きをした後、みるみるうちに眉間を険しく寄せた。

「……川崎さん。今、何て言ったかしら?」

「そのままの意味よ! アタシだって、あのときからずっと……っ!」

そこまで叫んで、川崎はハッと息を呑んだ。

自分が今、周囲の視線も忘れ、どれほど恥ずかしい本音を大声でぶちまけてしまったかに気づいたのだ。

彼女の顔が、先ほどとは比べものにならないほどの限界突破レベルの赤さに染まり、耳から頭のてっぺんまで沸騰するように熱を帯びる。

「……っ……もう知らないっ!」

川崎は自分の発言の破壊力に耐え切れず、真っ赤な顔のまま両手で顔を覆い、今度こそ全速力でファミレスの出口へと走り去っていった。

自動ドアが勢いよく開き、ガチャンと閉まる音が遠ざかっていく。

――静まり返ったサイゼリヤのボックス席。

周囲の客たちが「今の何……?」「三角関係……?」とヒソヒソ噂話を始める中、八幡と雪乃は言葉を失ったまま、ただ固まっていた。

「……比企谷くん」

「……なんだよ、雪ノ下」

雪乃は震える手でマグカップを持ち上げ、しかし飲むこともできず、じっと八幡の目を据えた。その瞳には、先ほどの涙とは違う、別の意味でヤバい火花がパチパチと散っている。

「……『お前を想ってるのは一人だけじゃない』、か……」

「いや、待て雪ノ下、誤解だ。俺はただだな……」

平和なサイゼリヤのディナータイムは、完全に崩壊の危機を迎えていた。

 

川崎の衝撃的な乱入と逃走劇から数日後。

学校の屋上――いつもなら平穏な風が吹き抜けるはずのその場所で、比企谷八幡は頭を抱えながら、目の前に座る二人の男に深い深いため息を吐いていた。

「……で、どうしてこうなった」

八幡の目の前で、葉山隼人はどこか呆れたような、けれど面白がるような複雑な笑みを浮かべ、材木座義輝はなぜか腕組みをしてフンフンと偉そうにうなずいていた。

「いや、どうしてと言われてもね……。君が自ら蒔いた種、と言いたいところだけど、今回は流石に同情するよ、比企谷」

葉山が苦笑しながら、冷めた缶コーヒーを口に運ぶ。

「しかり! 比企谷殿、貴殿は今や総武高校のモテ男四天王の頂点に君臨しているのだ! むしろ誇るべき快挙ではないか!」

「いつのまにか四天王の頂点にすんなよ、ボッチの格が下がるだろ……」

八幡がぐったりと金網にもたれかかると、葉山はクスリと笑ってから、少しだけ真面目なトーンに戻した。

「でも、そりゃそうだろ。あの一連の騒動を見ていれば、周りが放っておかないのも無理はないさ。雪ノ下だけでなく、川崎まであんな風に……ねえ?」

「うっ……」

葉山のその的を射た指摘に、八幡は耳まで真っ赤になって言葉に詰まった。

あの後、雪乃との間には微妙な緊張感と甘さが入り混じった奇妙な空気が漂い、さらに川崎の一件で、八幡の脳内キャパシティは完全にオーバーフローを起こしていたのだ。どう収拾をつけたらいいか分からず、結局頼る当てがないため、この二人に相談を持ちかけるしかなかったというわけだ。

「モテて困るなんて贅沢な悩み、普通の青春を送っている男からすれば贅沢の極みだけどな……。で、肝心の当事者たちはどうするつもりなんだい? 雪ノ下とも、川崎とも、ちゃんと向き合うんだろう?」

葉山がじっと射抜くような、けれどどこか優しい目で八幡を見つめる。

その隣で材木座が「ふっ、悩める修羅よ……! 選ぶのだ、どちらのヒロインを……!」と中二病全開で煽ってくるが、八幡はその両方を鬱陶しそうに無視した。

「選ぶとかそういう問題じゃねえよ……。つーか、俺のどこにそんな要素があるんだよマジで……」

頭をガシガシとかきむしりながら、八幡は遠い目をする。

だが、その心の中では、あのとき雪乃が見せた涙や、川崎が叫んだ真っ直ぐな言葉が、どうしても消えずに残っていた。

モテている自覚など微塵もないひねくれ男の周りで、青春の歯車は、今日も激しく、そして面倒くさく回り続けているのだった。

 

屋上で頭を抱える八幡たちの前に、パタパタと軽快な足音が響いてきた。

「ちょっとちょっと、そこでおじいちゃんみたいな顔をして悩んでるのは誰かな~?」

明るく弾むような声とともに、屋上の扉が勢いよく開く。そこに立っていたのは、前生徒会長の――城廻めぐり先輩だった。

ふんわりとしたボブカットを揺らし、太陽のような人懐っこい笑顔を浮かべた彼女は、トコトコと八幡たちのほうへ歩いてくる。

「めぐり先輩……? どうしてここに」

八幡が呆気に取られて声を漏らすと、めぐり先輩はえへへと優しく微笑んだ。

「うふふ、聞いたよ? 比企谷くん、最近なんだか校内でですごくモテモテなんだって?」

「っ……! な、なんでそれを……」

動揺する八幡の背後から、ひょっこりと顔を出したのは一色いろはだった。彼女はスマホをいじりながら、れびゅーとでも言うような呆れ顔でため息をつく。

「だってもう、校内中の女子の話題はそれ一色なんですもん。先輩、隠れモテ男どころか、すっかり大罪人扱いですよ?」

「いろはちゃん、それは言い過ぎだよ~」

めぐり先輩はくすくす笑いながら、八幡の目の前にピタッと歩み寄った。その柔らかくて包み込むような雰囲気に、八幡は思わずたじろぐ。

「でもね、比企谷くん。女の子を泣かせちゃったり、まっすぐな気持ちを中途半端にしちゃダメだよ?」

めぐり先輩は小首をかしげ、少しだけ真剣な、けれどお姉さんのような温かい目で八幡を見つめた。

「前生徒会長として、そして一人の先輩として、比企谷くんの恋の相談、乗っちゃおうかなって思ってさ!」

「いや、先輩のそのマイペースな慈愛オーラ、逆に修羅場に油を注いでる気がするんですけど……!」

八幡が頭を抱えて天を仰ぐと、隣で聞いていた材木座が「ぬおっ……! まさかのめぐり先輩まで参戦とは……! 恵みの雨か、それともカオスの極みか……!」と大げさに頭を抱えて悶絶した。

葉山も苦笑いを浮かべながら、「彼女の言う通りだよ、比企谷。逃げ出したい気持ちも分かるけど、ちゃんと向き合わないと収まるものも収まらないさ」と肩をすくめる。

雪乃の一件、川崎の宣戦布告、そしてまさかのめぐり先輩の優しい包囲網。

平穏なぼっち生活を愛する比企谷八幡の周りで、青春という名の面倒くさい嵐は、ますます勢力を拡大していくのだった。

 

屋上の柵にもたれかかり、ふんわりとした笑顔で八幡を見つめていた城廻めぐり。

そのマイペースな「恋の相談に乗る」という言葉に、八幡や葉山たちが胸をなで下ろしかけた、まさにその瞬間だった。

めぐり先輩は急にふっと息を抜き、どこか気恥ずかしそうに、けれど今まで見たこともないほど真っ直ぐな瞳で八幡の目を捉えた。

「……ま、相談に乗るっていうのは、半分は建前なんだけどね」

「え……?」

八幡が間抜けな声を漏らす。

めぐり先輩は自分の前髪を軽く指先でいじりながら、ほんのりと頬をピンク色に染めて、小さな声でこう続けた。

「だってもう、黙ってられなくなっちゃったんだもん」

「……どういうことですか、先輩」

隣で一色いろはが「え、先輩……まさか……?」と、スマホを落としそうになりながら目を丸くして固まる。

めぐり先輩は恥ずかしそうに、けれどはっきりと、全校生徒の太陽として知られる彼女らしからぬ、どこか独占欲を含んだトーンで告げた。

「……私だって、比企谷くんのことが好きだよ」

「……は……?」

屋上の空気が、文字通り完全に凍りついた。

八幡の思考回路はまたしてもショート音を立てて停止する。葉山は「え……?」と呟いたまま硬直し、材木座は「なんだと……!? ここにきて慈愛の聖母までもが……っ!」と白目を剥いて倒れそうになっていた。

「ちょっと待ってください先輩! いつからですかそんなフラグ立ってたんですか聞いてないんですけど!」

いろはが慌ててめぐり先輩の袖を引っ張るが、めぐり先輩は少しだけ頬を膨らませて、ふふっと困ったように笑った。

「秘密。ずっと隠しておこうと思ってたんだよ。比企谷くんは雪ノ下ちゃんとも色々あるみたいだし、私なんかが変に入り込んじゃいけないなって……」

そこまで言って、めぐり先輩はほんの少しだけ目を細め、ジトッとした――しかし甘えを含んだ視線を八幡に向けた。

「でもさぁ……。ファミレスの席で『いっそ結婚するか』なんて、そんなの耳に入ったら、さすがの私も黙っていられなくなっちゃうでしょ?」

「っ……! な、なんでその話がここに……!」

「いろはちゃんから実況中継が届いてたんだもん。『先輩、比企谷先輩たちが大変なことになってます!』って」

「ちょっ、いろはす! お前、裏でそんな中継してたのかよ!」

八幡が血走った目でいろはを睨むと、いろはは「えへへ、一大事でしたし?」とあさっての方向を向いてしらばっくれた。

めぐり先輩は一歩、八幡との距離を詰める。

その柔らかい香りと、いつもと違う真剣な熱を帯びた瞳に、八幡は思わず一歩後じさりそうになった。

「……だからね、比企谷くん。雪ノ下ちゃんだけじゃなくて、私的にも、その『結婚』って言葉はスルーできないなーって思ったの。……どうしてくれるの?」

ふんわりとした笑顔の裏に隠された、あまりにも強力すぎる「好き」という直球。

雪乃、川崎、そしてまさかのめぐり先輩――。

比企谷八幡の「モテて困る(自称)」日常は、もはやギャルゲーの修羅場イベントを通り越して、人生最大の正念場を迎えていた。

 

雪ノ下陽乃の動揺

総武高校の屋上でカオスな修羅場が繰り広げられている頃。

少し離れた場所――あるいは、ふと耳にした情報網を通じて、その「噂」は雪ノ下陽乃の耳にもしっかりと届いていた。

「……へえ。あの子がねぇ」

自宅のリビングで、陽乃はティーカップをソーサーに置く手をとめた。

最初は、いつもの面白おかしい学園ゴシップの一つだと思っていた。妹の雪乃と、あのひねくれた比企谷八幡が付き合っているだの、廊下でキスをしただの。どうせまた周囲が勝手に盛り上がっているだけの微笑ましい勘違いだろうと。

――だが、届いた続報はそんな生易しいものではなかった。

「川崎さんが宣戦布告して飛び出した」

「城廻先輩まで参戦して好きだと告げた」

「おまけに、八幡くんが『いっそ結婚するか』なんて言い出したらしい」

「……けっこん、ねえ」

その二文字を脳内で反芻した瞬間、陽乃の胸の奥で、カチリと何かが音を立てた。

いつも余裕の笑みを絶やさない彼女の仮面が、わずかに、しかし確実に亀裂を入れる。

「……ちょっと待ってよ。それ、冗談じゃなくて本気っぽくない……?」

ふと、戸惑いが胸をよぎる。

妹の雪乃をからかい、八幡くんを面白半分にいじるのは彼女の得意技だった。彼らの関係を特等席で見物しているつもりが、いつの間にか状況は彼女のコントロールを完全に逸脱し、取り返しのつかないスピードで先へ進もうとしている。

もし、本当に彼が雪乃と――あるいは他の誰かと結ばれて、そのまま「結婚」なんてことになったら。

(……なんだか、急に手が届かなくなっちゃうような気がする)

不思議な焦燥感だった。

八幡くんは妹の友達(あるいは奉仕部の面倒くさい部員)であり、自分にとって特別な恋愛対象だったわけではない。関係だって、決して深いものじゃない。お互いに腹の底を探り合うような、少し歪で距離のある間柄だったはずだ。

それなのに。

(今までに、あんな風に私の目を真っ直ぐ見て、自分の言葉で正論を突き返してくれた男がいただろうか……?)

思い返しても、いない。

打算や家柄、周りの期待ばかりを気にする大人たちの中で、比企谷八幡という存在は、あまりにも異質で、そして唯一無二だった。手に入れたいわけではない、けれど、自分の手の届かない遠くへ行ってしまう――そう想像したとき、言い知れぬ胸のざわめきが収まらなくなった。

「……なんなのよ、一体。あんなひねくれた魚の目の男のどこにそんな魅力があるっていうのよ……」

誰もいないリビングで、陽乃は自分の胸元をぎゅっと掴み、今まで感じたことのない苛立ちと、どうしようもない悶々とした熱に包まれながら、一人で小さく息を吐き出すのだった。

 

夕暮れ時の電車内。

いつもなら余裕の笑みを浮かべて街に溶け込んでいる雪ノ下陽乃は、今、人生で初めてと言っていいほどの不快感と焦燥感に包まれていた。

少し混み合った車内。悪質な痴漢が、彼女の体に密着するように嫌らしい手つきを伸ばしてきていた。

「……っ」

声を上げて周囲の注目を集めれば、自分のペースが崩れる。プライドが邪魔をして、すぐには大声を出せない。どうにかやり過ごそうと身じろぎしたその時だった。

「――おい」

低く、けれど鋭い声が車内に響いた。

次の瞬間、陽乃の前にスッと一人の影が割り込み、痴漢の手首をガシッと力強く掴み上げた。

「なっ、なんだお前……!」

焦った男が声を荒げるが、その前に立った比企谷八幡の目は、魚の目どころか、殺気すら帯びた冷徹な光を放っていた。

「……次の駅で降りろ。駅員室に連れて行くか、ここで一暴れして警察沙汰にするか、好きな方を選べ」

低い声での威圧感と、逃げ場のないプレッシャーに負け、男は次の駅でドアが開くと同時に、這うようにして逃げ出していった。

車内が再び静けさを取り戻す。

八幡はふうっと小さく息をつくと、振り返って陽乃を見た。

「……大丈夫か、陽乃さん」

そのぶっきらぼうで、けれど確かな気遣いを含んだ声に、陽乃は動けずにその場に立ち尽くしていた。

いつもなら「あらあら、助かっちゃった」と軽口を叩いて、巧みに自分のペースを取り戻すはずの場面だというのに、今の彼女は喉の奥が詰まったように言葉が出なかった。

目の前にいるのは、あのひねくれた、世間一般の基準から見れば冴えない男子高校生。

家柄も、ルックスも、世渡りの上手さも、彼女の周りにいる「選ばれた男たち」とは比べ物にならない。

それなのに――。

(どうして……他の男には感じないこんな熱が、この子にはあるんだろう……)

自分の危機に真っ直ぐ飛び込んできてくれた温もり。打算も計算もなく、ただ「見過ごせなかった」という不器用な正義感。

これまで数多の人間を観察し、手の上で転がしてきたつもりの陽乃だったが、今、自分の心をこれほどまでに激しく揺さぶられているのは、まぎれもなく目の前のこの男だった。

「……っ」

胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚に、陽乃は思わず自分のブラウスの胸元をぎゅっと掴んだ。

結婚だの、モテモテだのと周囲が騒いでいたときはただ面白がっていただけのはずなのに。いざ目の前で彼が自分を救い、その背中を見せたとき、初めて気づいてしまったのだ。

自分にとって、比企谷八幡という存在が、もう「ただの面白い後輩」の枠には収まりきらなくなっていることに。

「……陽乃さん?」

心配そうに顔を覗い込んでくる八幡に、陽乃はいつものお姉さんらしい仮面を完璧に戻すことができず、ただ小さく、けれど震える声でこう呟くのがやっとだった。

「……本当に、ずるい男ね……あなたって子は」

 

騒がしい電車を降りて、二人がたどり着いたのは、またしても見慣れた赤と緑の看板――サイゼリヤだった。

夕食時のピークを少し過ぎた店内は、先日のような喧騒はなく、適度なガヤガヤ感がかえって居心地を良くしている。

窓際のボックス席。向かい合って座る二人の前には、湯気を立てるミラノ風ドリアと、なぜか頼んだ温かいドリンクバーの紅茶が置かれていた。

陽乃はカップを両手で包み込んだまま、俯いたきり動かない。

先ほどの電車内での出来事がショックだったわけではない。むしろ、あのとき差し出された彼の不器用な救いの手が、今も胸の奥でジンジンと熱を持って響いていた。

八幡はそんな陽乃の様子を少し離れた席から見つめ、ため息をつきながら自分の皿にスプーンを突き立てた。

「……いつまで冷めた紅茶を眺めてるんだよ。飲むなら温かいうちに飲め」

ぶっきらぼうな、けれどどこか慈しむようなその声に、陽乃はゆっくりと顔を上げた。

いつもの完璧で、隙のない「雪ノ下陽乃」の笑みはそこになく、どこか戸惑いを隠せない、年相応の女の子の顔があった。

「ねえ……比企谷くん」

「んだよ」

「あなたって、本当に厄介な人ね。私のペースを完全に狂わせるんだから」

陽乃は自嘲気味にふっと笑い、カップに口をつけた。

紅茶の温かさが喉を通っていくのを感じながら、彼女の脳裏には、先ほどからずっと同じ問いが渦巻いていた。

――自分にとって、比企谷八幡とはいったい何なのだろう?

妹の雪乃を救った男。

自分に対して、怯むことなく毒を吐き、正論をぶつけてきた変な後輩。

そして今、打算も損得勘定もなく、ただ「危なかったから」という理由で自分を危険から守ってくれた人。

周りを見渡せば、彼女の周りには条件のいい男や、上辺だけの賛辞を並べる人間なんていくらでもいた。それなのに、その誰一人として、自分の心の深いところ――仮面の下の孤独に触れてきた者などいなかった。

なのに、このひねくれた少年は、何の許可もなく、いとも簡単にその領域に踏み込んできて、自分の心をこんなにもメチャクチャにしていく。

(……これって、もしかして……)

「……ねえ、比企谷くん」

「だからなんだよ、急に真面目な顔して」

「もし私が、『私もその輪の中に混ぜて』って言ったら、あなたはどうする?」

スプーンを止めた八幡が、じっと陽乃の目を据えた。

その瞳には、誤魔化しの一切ない、真っ直ぐな重みがあった。

ファミレスの薄暗い照明の下、誰にも予想できなかった四人目の「本音」が、静かに、けれど確実に熱を帯びて動き出そうとしていた。

 

「意味がわからん。が、お前が望むなら拒みはしない」

八幡が放ったその言葉は、ひねくれ者な彼なりの精一杯の誠実さであり、同時にあまりにも直球すぎる特大の爆弾だった。

「……っ」

紅茶のカップを持ったまま、陽乃の動きがピタリと止まる。

「意味がわからん」なんて前置きしておきながら、いざという時には決して見捨せず、相手が望むならその重荷を一緒に背負う覚悟を見せる――そんな彼の不器用な優しさに、陽乃の胸は大きく跳ねた。

これまでの人生、すべてを計算し、完璧なお姉さんを演じ続けてきた彼女にとって、こんな風に真っ直ぐ自分の存在を肯定され、受け止められたことなど一度もなかった。

(ずるい……本当に、なんてずるい男なの……)

ふっと熱を帯びた頬を隠すように、陽乃はうつむきながら小さく息を漏らす。心臓の鼓動が、自分でも驚くほどうるさく響いていた。

その時だった。

「――ここで何をしているの、陽乃。それに、そちらは……比企谷くん、だったかしら」

静まり返ったサイゼリヤの空間に、凛とした、一切の隙のない冷徹な声が落とされた。

「「……っ!?」」

驚いて二人が同時に顔を上げると、ボックス席の通路の向こうに、上品なスーツに身を包んだ一人の女性が立っていた。

整った顔立ちは雪乃とそっくりだが、その眼差しにはすべてを見通すような底知れない厳しさと威圧感が宿っている。

雪ノ下家の絶対的な支配者にして、二人の母親――雪ノ下母その人だった。

「お、母様……? なんでここに……」

陽乃が珍しく動揺の色を浮かべながら立ち上がろうとする。しかし、母親の視線は陽乃をスルーし、真っ直ぐに目の前に座る八幡へと向けられていた。

「最近、我が家の娘たちをめぐって変な噂が飛び交っていると思えば……あなただったのね。うちの次女だけでなく、長女の陽乃までこうして連れ回しているのは」

ひんやりとした空気が、ボックス席の周囲一帯を包み込む。

ただのファミレスの一角が、一瞬にして冷徹な尋問室へと変わったようなプレッシャーに、周囲の客たちも思わず息を呑んで遠巻きに様子を窺い始めた。

最大最強のラスボスとも言える母親の突然の降臨。

予想の斜め上を行く修羅場の連続に、比企谷八幡の平穏(?)な日常は、いよいよ逃げ場のない究極の局面へと突入していくのだった。

 

冷徹な空気が漂うサイゼリヤのボックス席。雪ノ下母は、まるで値踏みするかのような鋭い視線を八幡に向けたまま、ゆっくりと席の反対側に腰を下ろした。

周囲の喧騒が遠ざかるような静けさの中、彼女は優雅に息を吐き、そして核心を突くように静かに問いかけた。

「ねえ、比企谷くん。一つ聞かせてちょうだい」

「……なんでしょう」

「あなたのその『比企谷』という苗字……もしかして、あの『比企谷財閥』の関係者かしら?」

その名前が出た瞬間、陽乃がわずかに目を見張り、窓の外の夜景に目を向けていた客たちの空気すらピクリと凍りついた。

日本経済の裏で絶大な影響力を持つ、あの「比企谷財閥」。もちろん、一般的な高校生である八幡家とは何の関係もないはず――だが、もし万が一、という疑念を母親は持っているらしかった。

しかし、当の八幡は冷や汗をかくどころか、いつもの魚の目を一層どんよりとさせ、やれやれと言い訳するようにため息をついた。

「ああ、そっちの財閥ですか。名前だけなら知ってますけど、こっちは正真正銘、庶民の比企谷ですよ」

「……本当に?」

「ええ。まあ、強いて言うなら、親戚の遠縁の遠縁くらいに、名前だけ聞いたことがある気がする程度で。実際に会ったのも、物心ついた頃に親の付き合いで一度か二度、遠くから見たことがあるかないか、そのレベルですね」

八幡があまりにも堂々と、そして面倒くさそうに答えたため、逆にその言葉には嘘偽りのない真実味が漂っていた。

実際、彼にとって「比企谷財閥」など、テレビの向こうの別世界の出来事か、あるいはどこかのライトノベルの裏設定のようなものに過ぎない。

それを聞いた雪ノ下母は、じっと八幡の目を観察するように見つめていたが、やがてふっとかすかに肩の力を抜いた。

「……そう。本当にただの同姓同名、あるいは遠い縁にすぎない雑草というわけね」

「雑草って言い方はどうかと思いますけど、まあ否定はしませんよ」

母親の容赦ない言葉にも、八幡は動じずにミラノ風ドリアの最後の一口をスプーンで口プッシュする。

その肝の据わった(あるいは単に諦めきった)態度に、隣で聞いていた陽乃は思わずクスリと小さく吹き出した。

「ふふっ……相変わらずね、お母様を目の前にしてもその調子なんだから」

「笑い事じゃないわよ、陽乃」

母親は冷たく言い放ちつつも、八幡に対する警戒のトーンをわずかに緩めた。

財閥の御曹司という面倒な障害(あるいは期待)が消え去ったことで、彼女の眼差しは純粋に「自分の娘たちに近づく危険な男子高校生」を品定めするものへと戻る。

最強のラスボスを前にしても、自分のペースを崩さない比企谷八幡。

この絶体絶命のディナータイムの行方は、果たしてどこに向かうのだろうか――?

 

サイゼリヤのボックス席に立ち込める張り詰めた空気の中、雪ノ下母はじっと八幡の顔を見つめたまま、微動だにしなかった。

社会的地位、家柄、財閥という強大な後ろ盾――。彼女が生きる大人の世界では、それこそが人間の価値を測る絶対的な物差しであり、すべての交渉における優劣を決める基準だった。

しかし、目の前にいるこの少年には、そのどれもがない。

「ただの庶民の高校生」であり、世間一般の基準から見れば、ひねくれていて、冴えない、ただのクラスの浮いた男子生徒にすぎない。

それなのに――。

(……この子は、怯えていない)

最強の権力者である彼女を目の前にしても、背筋を伸ばし、媚びることも気圧されることもなく、淡々と自分の言葉を返している。莫大な富や権力という「後ろ盾」を一切持たないにもかかわらず、その内側から滲み出る圧倒的な精神の据わり方。それは、一朝一夕で身につくものではなく、彼自身の生き様そのものが生み出している「覇気」だった。

(──もしかすると、この子は……将来、本物の「漢」になるかもしれない。いや、すでに……その萌芽は発露している?)

背筋に冷たいものが走るような、悍ましいほどの脅威。

そして同時に、母親の胸の奥底で、表現しようのない強烈な知的興奮が波打った。

(それに……)

母はふと、先ほど八幡が口にした言葉を脳裏で反芻する。

――『親戚の遠縁の遠縁くらいに、名前だけ聞いたことがある気がする程度』。

「……ふっ」

雪ノ下母は小さく息を漏らすと、今まで見せたことのないような、深く底知れない笑みを浮かべた。

遠縁とはいえ、日本経済を牛耳る「比企谷財閥」の血が一滴でも混じっているのなら、それはそれで血筋の証明にはなるかもしれない。

だが――そんなものは、今の彼女にとってどうでもよかった。

財閥の血統だから面白いのではない。

後ろ盾がないのに、その気宇壮大な精神だけで、雪ノ下家の姉妹を狂わせ、自分をこうして一瞬たりとも油断させない――その「存在そのもの」が、彼女の人生においてあまりにも純粋に、そして異常なほどに興味深かった。

「……なるほどね」

雪ノ下母はカップを手に取り、紅茶を一口含むと、ゆっくりと八幡を見据えた。その瞳には、先ほどの冷徹な詰問とは違う、底知れない興味と、危険な光が宿っている。

「あなたのその肝の据わり方……ただの無知か、それとも大物崩れか。どちらにせよ、私の可愛い娘たちが夢中になる理由が、少しだけ分かった気がするわ」

隣でそのやり取りを聞いていた陽乃は、母親が八幡に対して示したかつてない評価に息を呑み、そして満足げに口角を釣り上げた。

――この男は、いつだって周囲の常識を軽々と踏み越えていく。

最強の母をも飲み込み始めた比企谷八幡の「面倒くさすぎる青春」は、いよいよ誰も予想できない領域へと突入していくのだった。

 

 

サイゼリヤの店内に漂う緊迫感が一段と増す中、雪ノ下母は紅茶のカップをソーサーに音を立てずに置いた。

彼女の鋭い視線は八幡から外れ、まるでその場にいる全員の息の根を止めるかのように、ゆっくりと周囲を見回したあと、ふと話題の核心へと切り込んだ。

「……で、本題はここからよ」

母の低い声に、空気がピクリと揺れる。

「私の耳にもね、面白い噂が届いているの。……比企谷くん、あなたが我が家の次女・雪乃に向けて『いっそ結婚するか』と言い放ったそうね」

「…………」

その言葉が出た瞬間、隣の席で聞き耳を立てていたわけではないが、その場にいた全員――特に当事者である八幡と、そして少し離れた場所(あるいは店内の別の席、あるいはこの場に同席している形)で息を呑んでいた雪乃の脳内が完全にフリーズした。

(※雪乃がこの場に合流している、あるいは母がその情報をどこからか仕入れてきたという緊迫した状況を想定)

母の冷徹な眼差しは、八幡を射抜いたまま微動だにしない。

「あれはただの軽口? それとも、我が家の娘を本気で娶るつもりで口にした言葉なのかしら。……答えてちょうだい、比企谷くん」

あまりにも直球で、そして逃げ場のない究極の問い詰め。

隣で聞いていた陽乃は、母親がまさかそこまでストレートに踏み込むとは思わず、「お、お母様……?」と珍しくわずかに戸惑いの声を漏らし、冷や汗を滲ませた。彼女にとっても、母がこの件をどう処理するのかは完全に予測の範疇外だった。

だが、当の八幡はというと――。

いつもの、魚のようにどんよりとした目をさらに半目させ、ふうっと深い溜息を一つ吐いた。

そこにあるのは焦りでも恐れでもなく、ただ「めんどくさいことに巻き込まれたな」という相変わらずの枯れた諦めだった。

「結婚、ですか」

八幡はコップの水に軽く視線を落としてから、真っ直ぐに雪ノ下母の瞳を見据えた。

「冗談か本気かで言えば、その場の勢いで口から出ただけの適当な戯れ言に決まってるだろと、常識的な大人ならツッコミを入れるところでしょうけど……」

一拍置き、八幡は微動だにせず淡々と続けた。

「ただ、引っ込めるつもりもねえよ。言うからには、それなりの覚悟と責任くらいは背負うつもりで口にしてますんで。……まあ、実際にどうこうなるのは数年後以降の話ですけどね」

その言葉の裏に一切のハッタリや気負いがないこと、そして自分の発言の重みをちゃんと理解した上で淡々と受け止めていることが、母親の鋭い洞察力には痛いほど伝わってきた。

「っ……!」

母親は言葉を失い、数秒間、じっと八幡の顔を見つめ続けた。

背筋が凍るような沈黙の末、彼女の唇の端が、わずかに、しかし確実に持ち上がった。

「……ふっ。本当に、どこまで食えない男なのかしらね、あなたは」

呆れと、それを遥かに超越した得体の知れない感心を混ぜ合わせながら、雪ノ下母は深々と息を吐き出すのだった。

 

雪ノ下母は、組んだ両手をあごにあて、じっと八幡の目を品定めするように見つめていた。

(我が家の財産、あるいは雪ノ下というブランドを狙っての打算かしら……?)

一瞬、そんな疑念が頭をよぎる。世の中の男の大半は、そうした目に見える権力や富に目が眩むものだ。

だが、先ほどからの彼の態度、そして「比企谷財閥の遠縁」という事実に対するあの無関心ぶりを思い出せば、その仮説は綺麗に崩れ去る。

この男は、金や地位ごときで動かされるような安っぽい人間ではない。

打算でも計算でもなく、ただ自分の内側にある矜持と、不器用な誠実さだけで生きている。

(……ふっ。まさか、ねえ)

胸の奥で、かすかな冷笑が消え、代わりに奇妙な熱を帯びた高揚感が湧き上がってきた。

金目当てでもなく、家柄目当てでもないのなら――彼が雪乃や陽乃に向けるその態度は、すべて「純粋に、その人間自身に向き合った結果」でしかないということだ。

雪ノ下母の美しい唇が、ふっと緩んだ。それは冷徹な支配者の顔ではなく、最高に面白いものを見つけた時の、底意地の悪い大人としての笑みだった。

「……なるほど。金でも地位でもなく、純粋に、我が娘たちに惚れ込まれている(あるいは、惚れている)というわけね」

「惚れてるだなんて一言も言ってませんけど……まあ、否定はしませんけどね」

八幡がボソッと付け加えると、母はくすりと上品に声を立てて笑った。

そして、スッと席から立ち上がる。その優雅で隙のない身のこなしに、周囲の空気が再びピリッと引き締まった。

「反対はしないわ」

「……は?」

思わず声を上げたのは、八幡ではなく、隣で固まっていた陽乃だった。

雪ノ下母は冷徹な視線を娘二人ではなく、真っ直ぐに八幡へと向け、静かに言い放つ。

「あなたがどんな未来を選ぶのか、我が家をどう掻き回すのか……少し興味が湧いたもの。せいぜい、私の期待を裏切らないことね」

それだけを言い残すと、彼女は二度と振り返ることなく、まるで何事もなかったかのようにサイゼリヤの自動ドアへと歩いていき、夜の街へと消えていった。

――残されたボックス席。

「……嘘、でしょ……?」

陽乃は信じられないものを見る目で、ぽかんと開いた口を塞ぎながら、母が去っていったドアと八幡を交互に見つめた。

あの絶対的な母親が、まさかの「反対しない」――事実上の公認とも取れる言葉を残して去るなど、これまでの雪ノ下家ではあり得ない奇跡だった。

「おい、陽乃さん、顔が変だぞ」

「変になるわよ! なんなのよ一体……! お母様をそこまで納得させちゃうなんて、あなた、一体どんな魔法を使ったのよ……!」

陽乃は焦燥と動揺を隠しきれず、ガタガタと震える手で自分の紅茶のカップを掴んだ。

余裕の仮面を完璧に剥ぎ取られ、心臓の鼓動がうるさいほどに跳ね上がっている。

「魔法じゃねえよ。ただの現実逃避と、諦めだ」

八幡はめんどくさそうに頭を掻きながら、冷めかけたミラノ風ドリアの最後の一口を口に放り込むのだった。

最強のラスボスをも味方(あるいは面白半分の一味)につけてしまった比企谷八幡の「結婚宣言」の行方は、いよいよ誰も止められない暴走特急と化していく――。

 

「……ねえ、比企谷くん」

動揺が収まらない様子で紅茶を一口飲んだ陽乃は、じっと八幡の横顔を見つめ、低い声で問いかけた。

「……あなた、お母様と会ったのは、今日が初めてじゃなかったの?」

先ほどの母親の態度や、八幡を品定めするようなあの底知れない眼差しを思い出すと、どうしても「今日が初対面」の空気には思えなかった。

八幡は面倒くさそうに頭を掻き、ポリポリと頬をこすった。

「いや、今日が初めてってわけじゃない。……もっとも、当時は相手が誰かなんて知らなかったけどな」

「……どういうこと?」

怪訝そうに眉をひそめる陽乃に、八幡はため息をついてから淡々と語り出した。

「ほら、高校に入る直前の春休みさ。あのとき、白い犬を庇って車に轢かれかけたのは、他でもないこの俺だよ」

「――っ!?」

陽乃の息が止まる。

あのとき、妹の雪乃を庇って――いや、正確には犬を庇って事故に遭ったのは雪乃ではなく、そこに居合わせた八幡だったのだ。

「あのとき、ボンネットに跳ね飛ばされて病院送りになったんだけどさ。あとで病室にやってきたのが、お前の母親だったんだよ」

「お母様が……? 一体、何のために……」

陽乃の背筋に冷たいものが走る。あの母のことだ。事故を起こした相手や、その周辺に対して、金と権力でどれほどの圧力をかけ、面倒な芽を徹底的に潰しにかかったか、想像に難くない。

だが、八幡は冷めた目で窓の外を見つめながら、信じられない事実を口にした。

「いきなり現れて、分厚い封筒をドンと置いて言ったんだよ。『これで手切れ金と治療費の足しにしなさい。これ以上の詮索は無用よ』ってな」

「……っ!」

金で全てを解決し、厄介ごとを静かに、そして冷酷に闇に葬ろうとする母親のやり口。陽乃には痛いほどよく分かった。

しかし、八幡はその封筒をどうしたのか。

「もちろん、即座に突っ返したさ」

「……突っ返した……?」

「あんなもん受け取ったら、なんか負けた気がするだろ。それに、『ケガの痛みはこっちの勝手だ、テメェの汚い金でチャラにすんじゃねえよ』って言ってやったのさ。相手が誰かなんて知らねぇから、こっちはただの嫌な大人に毒づいただけのつもりだったけどな」

当時の生々しいやり取りを思い出すように、八幡は肩をすくめた。

――すべての因縁の始まり。

あの事故で車に轢かれたのは八幡であり、彼は雪ノ下家の絶対的な権力と「金による解決」を、その幼い(あるいはひねくれた)気概で真っ向から突っ返していたのだ。

頭の中で、過去の点と線が恐ろしいスピードで繋がっていく。

あのとき、母親が冷酷に切り捨てたはずの「庶民の少年」が、実は自分の目の前にいる比企谷八幡その人であり、しかもその少年は、母親の絶対的な武器である「金」に屈しなかった数少ない人間だった。

(お母様は……あのときからずっと、この子のことを……!)

母が今日、八幡に対して抱いていたあの底知れない興味や、一目置くような態度。そのすべての理由が、今ようやく陽乃の胸に落ちた。

金でも、権力でも、後ろ盾でも動かない。

ただ自分の矜持と不器用な優しさだけで、雪ノ下家の闇のど真ん中を真っ直ぐに突っ切ってきた男――比企谷八幡。

陽乃はあまりの衝撃に言葉を失い、震える手でカップを掴んだまま、ただ目の前の少年の顔を見つめることしかできなかった。

 

サイゼリヤの静まり返った店内で、陽乃は冷めかけた紅茶のカップを握りしめたまま、微動だにしなくなっていた。

「……比企谷財閥、ね」

その名前を、陽乃は唇の上でそっと転がす。

日本経済の裏側を牛いり、政財界のあらゆる決定に影から絶大な影響力を持つ、触れてはならない絶対的な巨獣。もし、その本流に少しでも牙を剥くような真似をすれば、どれほど強大な権力を持つ雪ノ下家であっても、ただでは済まなかったはずだ。

――あの日の事故の夜。

もし、あのとき病院に現れたのが「ただの気性の荒い不良少年」ではなく、もし彼が本気で「比企谷財閥の血筋」を背景に持ち、その権利を主張していたとしたら。

いや、たとえ本人がそんな自覚や興味を一切持っていなかったとしてもだ。

「比企谷」という名の持つ圧倒的な重みを知った母親が、あの事故をきっかけにどれほど激しい防衛本能と敵対心を燃やしたか。想像するだけで、陽乃の背筋にぞっとするような悪寒が走った。

(お母様は、あのとき……必死だったんだわ)

完璧で、常に冷徹にすべてをコントロールしているように見える母親。

しかし、その実、予測不能な「比企谷」という底知れない不確定要素を目の前にし、水面下でどれほどの冷酷な計算と、そして冷や汗の滲むような駆け引きを行っていたのだろう。

金で口を封じようとしたのも、あの少年をできるだけ早く、静かに自分たちの視界の外へ追いやりたかったからに違いない。万が一にも、その巨獣の逆鱗に触れれば、雪ノ下家が築き上げてきたすべてが音を立てて崩れ去るかもしれないという、恐怖に似た焦燥があったはずだからだ。

――だが。

当の少年は、そんな雪ノ下家の必死の企みも、背筋が凍るような権力のせめぎ合いも、すべて「ただのウザい大人の札束攻撃」として一蹴し、鼻で笑って突っ返した。

巨獣の牙の真下を、何食わぬ顔で素通りして生きてきたのだ。

(……笑っちゃうよね、本当に)

陽乃は乾いた笑いを漏らしそうになり、しかし、どうしても笑えなかった。

雪ノ下家という鳥かごの中で、あらゆるものを計算し、親の期待と家柄という呪縛に縛られながら完璧を演じてきた自分たち。その足元で、このひねくれた少年は、何の権力も持たない「ただの個人」として、その巨大なシステムそのものを無意識に無力化していたのだから。

「……ねえ、比企谷くん」

「なんだよ、さっきから急に真面目な顔して」

不機嫌そうに眉をひそめる八幡を、陽乃は今までにないほど深く、そして熱を帯びた瞳で見つめた。

もし、あのとき。

母親の放った金に彼が屈していたら、今のこの日常は絶対に存在しなかった。雪乃を救うことも、自分たちの心をこんな風にめちゃくちゃにされることもなかった。

すべては、あの春の日の「たった一つの拒絶」から始まっていたのだ。

「ううん……なんでもない。ただ、あなたって本当に、とんでもない爆弾を抱えて生きてるんだなって思ってさ」

「は? 意味わかんねぇし、爆弾抱えてるのはお前らの母親の方だろ……」

呆れたように頭をポリポリとかく八幡の姿は、相変わらず冴えない、いつものひねくれた男子高校生のそれだった。

しかし、その背中に広がる巨大な因縁の影を知ってしまった今、陽乃の胸の高鳴りは、もう誰にも止められなくなっていた。

 

サイゼリヤの席に、わずかな沈黙が落ちた。

八幡の呆れたようなため息のあと、陽乃はテーブルの上で組んでいた指をほどき、ゆっくりと顔を上げた。

そこにあったのは、いつもの余裕の仮面でも、からかうような不敵な笑みでもない。どこか切実で、それでいて逃げ場のない決意を秘めた、まっすぐな瞳だった。

「……ねえ、比企谷くん」

「んだよ、まだなんかあるのかよ」

「私、決めた」

静かに、しかしはっきりと紡がれたその声に、八幡は怪訝そうに眉をひそめた。

「何をだ」

「私も、結婚したい」

「――は……?」

あまりにも唐突すぎる、そして先ほどの延長線上とはいえ重すぎるその一言に、八幡は完全にフリーズした。店内のBGMが遠くで鳴っているように感じるほど、思考が停止する。

「お前、さっきから何言って……」

「冗談じゃないわよ。本気よ、これでも」

陽乃はテーブルを少しだけ乗り出し、八幡の目を逃さないようにじっと見据えた。その頬は、ほんのりと熱を帯びているように見えた。

「正直に言うけどさ、今の私にとって、あなたに対して『恋してる』かって言われたら、そこまでのレベルじゃないかもしれない。こういう感情が何なのか、自分でもまだうまく整理できてないしね」

それは、いつだって物事を冷静に俯瞰し、自分の感情すら計算の内側に置いてきた雪ノ下陽乃の、人生で初めての素直な告白だった。

打算でも遊びでもなく、彼女自身が戸惑いながらもたどり着いた、偽りのない現在地。

だが、彼女は知っている。

妹の雪乃が動き出し、川崎が声を上げ、さらには城廻めぐりまでが真っ直ぐにこの男に向かってきた。このまま自分が「お姉さん」の仮面を被ったまま、高みの見物を決め込んでいたらどうなるか。

(気づいたときには、この男はもう、誰かの隣に行ってしまっている……)

あの春の日の事故から始まり、自分の足元ですべての歯車を狂わせたこのひねくれた少年を、他の誰かに渡すなど耐えられない。乗り遅れたら、一生後悔する。そんな直感が、彼女のプライドをあっさりと粉々粉々に打ち砕いていた。

「だからね、比企谷くん。私を、ちゃんと恋人候補の一人に加えなさい」

「おいおい、勝手に候補を増やすな……。第一、俺はそういう面倒くさい恋愛沙汰とか――」

「面倒くさくてもいいの! 私が選んだんだから」

陽乃は強引に言葉を被せると、ふっと、どこか切なさと自嘲が入り混じった美しい笑みを浮かべた。

「あのとき、あなたのその不器用な正義感と無鉄砲さに救われてしまった私を、責任持って最後まで狂わせてよ」

ファミレスの薄暗い照明の下、誰にも予想できなかった四人目――いや、最強にして最大の爆弾である雪ノ下陽乃の宣戦布告が、静かに、しかし確実に落ちた。

比企谷八幡の平穏なぼっちライフは、もはや救いようのない修羅場の渦中で、完全に音を立てて崩れ去っていくのだった。

 

サイゼリヤの自動ドアのすぐ脇。

外の夜風にでも当たろうと、あるいは、店内で繰り広げられているあまりにも予想外な「娘たちの泥沼劇」に少し頭を冷やそうと、雪ノ下母は足を止めていた。

店内のボックス席から聞こえてくる、陽乃の必死で切実な声。そして、それに戸惑いながらも真っ向から受け止めようとする八幡の低い返事。

それらのやり取りを、彼女はガラス越しに、すっかり聞き届けてしまっていた。

(……まったく、我が家の自慢の娘たちが揃いも揃って、あんなひねくれた庶民の男子高校生に夢中になるなんてね)

呆れたような、それでいてどこか面白がるような薄笑いを浮かべ、母はふっと小さく息をついた。

もし、あの場で「聞き耳を立てていたこと」をわざわざ指摘すれば、娘たちは顔を真っ赤にして気まずい思いをすることだろう。だからこそ、彼女はあえて何も気づかないふりをして、この場をそっと立ち去ることにした。

(……まあ、分からないでもないけれど)

夜の冷たい空気の中、母はふと、遠い昔の記憶に思いを馳せる。

もし自分がもっと若く、まだ何も知らなかったあの頃に出会っていたとしたら――。

あの、絶対的な権力や金に媚びず、ただ自分の矜持だけで目の前の理不尽を突っ返してきた、あの不器用な少年という存在に。

(……きっと、私もあの娘たちと同じように、あの生意気な瞳に心を奪われていたかもしれないわね)

そこまで考えた瞬間、母はハッと自らの思考の深さに気づき、ピタリと動きを止めた。

(――……って、何を考えているの、私は)

ふと頬にわずかな熱を覚えた気がして、彼女は冷徹な仮面をきゅっと引き締め、首を小さく振る。

今ですら、あの少年の底知れない度胸や、自分をも翻弄する危険な魅力に、一瞬でも心臓を跳ね上げさせられかけたという事実。それを認めてしまうことは、母親としての最後のプライドが許さなかった。

「……せいぜい、私の期待を裏切らないことね。比企谷くん」

誰にも聞こえない声でそう呟くと、彼女は優雅にヒールの音を響かせ、夜の闇の中へと歩き出していく。

母をも惑わせ、姉妹の心を狂わせる、比企谷八幡という名の不気味で魅力的な台風。

その暴風圏から抜け出せる者は、この学校に――いや、この街に、もう誰も残っていなかった。

 

数日後。総武高校の2年F組の教室。

授業終わりのチャイムが鳴り響き、ざわめくクラスメイトたちをよそに、比企谷八幡は「ふう……」と力なく机に突っ伏そうとしていた。

サイゼリヤでの一件以来、自分の周囲を取り巻く空気は、もはや日常ではなく完全なサバイバルフィールドと化している。屋上でのめぐり先輩の直球告白、電車の件から始まった陽乃さんのまさかの宣戦布告。そして、そのすべての元凶である母親までが絡んできたとなれば、精神的疲労はピークに達していた。

(もうやめてくれ……俺はただ、平穏に午後の購買パンを食べたいだけなんだ……)

「……比企谷くん、ちょっといいかしら」

静かに、しかし有無を言わせない凛とした声が頭上から降ってきた。

顔を上げると、そこに立っていたのは雪ノ下雪乃だった。彼女の細い両手には、きれいに包まれた布の包み――あきらかに手作りの弁当箱が握られている。

「……雪ノ下? なんだよ急に」

「急になにを言っているのかしら。お昼の時間が過ぎても、あなたが一歩も教室から出ようとしないから、見かねて持ってきてあげたのよ」

雪乃はそう言いながらも、どこか耳たぶを赤く染め、視線をわずかにそらしている。

彼女とて、クラスの衆目環視の中で手作り弁当を八幡に差し出すことがどれほど周囲の注目を集めるか、分かっていないわけがない。これまでの彼女なら、絶対にしないような大胆な行動だった。

「いや、わざわざ持ってこられなくても、購買で……」

「文句を言わないの。……ほら、受け取りなさい」

少しだけ上気した顔でそう詰め寄る雪乃の姿に、周囲の女子たちが「えっ、雪ノ下さんがお弁当……?」「マジで!?」とひそひそ声を上げ始めたその時だった。

「ちょっと、待ちなさいよ!」

パタパタと慌ただしい足音が教室の入り口から響き渡り、勢いよく扉が開いた。そこに立っていたのは、少し息を切らせた川崎沙希だった。

彼女の手にもまた、不器用ながらも自分で包んだであろう手作りの弁当箱がしっかりと握られていた。

「沙希……?」

八幡が目を丸くすると、川崎はバツが悪そうに顔を背けつつも、一歩も引かない強い眼差しで雪乃と八幡を睨みつけた。

「アンタだけいいとこ取りなんてさせないから。……その、なんだ……私だって、作ってきたんだからね、別にあんたに媚び売るわけじゃないけど!」

真っ赤になりながらも、逃げ出さずに弁当を突き出す川崎。

雪乃はわずかに眉をひそめつつも、その瞳には明らかな警戒の色が浮かぶ。

二人の少女がそれぞれの想いを胸に、恥ずかしさを押し殺してここに立っている。

その理由は、彼女たち自身が一番よく分かっていた。

(ここで恥ずかしがってじっとしていたら、この男は間違いなく他の誰かに持っていかれてしまう……!)

めぐり先輩のまっすぐな言葉。陽乃さんの切実な宣戦布告。そして、日々膨らんでいくこの男への想いを知る者は、自分たちだけではない。雪乃も、川崎も、そして――おそらくまだ見ぬ誰かも、同じ危機感を抱いている。

恥ずかしさやプライドを理由に足踏みしている余裕など、もうどこにも残っていなかった。

「……はぁ」

八幡は差し出された二つの弁当箱と、それぞれの真剣すぎる少女たちの顔を交互に見つめ、ついに観念したように深く、深いため息をついた。

窓の外の青空の下、比企谷八幡の「逃げ場なしのランチタイム」は、いよいよ最高潮へと突入していくのだった。

 

差し出された二つの弁当箱と、それぞれの顔に浮かぶ隠しきれない緊張の色。

八幡はそれらをぼんやりと眺めながら、心の中で深い、途方もないため息を吐いていた。

世間の人間は、彼のことを「人の気持ちに疎い鈍感男」だと笑うかもしれない。

だが、それは違う。八幡は決して鈍感なわけではない。ただ、自分のほうに向かってくる好意の重さに気づいていながら、それを真っ正面から受け止めるだけの自信も、資格もないと思い込んでいるからこそ、あえて見て見ぬふりを決め込んできただけなのだ。

(……なんでだよ)

八幡は自分の手で頭をガシガシと掻きむしりながら、ぽつりと、しかし周囲の静まり返った教室に響くほどの声で呟いた。

「……なぁ。なんで人間って、一人とは一人しか結ばれちゃいけないんだろな」

「「……は?」」

雪乃と川崎が、同時に動きを止めた。

それは一般的な倫理観から見ればあまりにも不真面目で、都合が良すぎる、八幡特有のひねくれた現実逃避のセリフだった。だが、今のこの異常な修羅場と、それぞれの想いをぶつけ合っている極限の状況において、その言葉は妙な生々しさを持って二人の胸に突き刺さった。

一人の人間が、一人の相手しか選べない。だからこそ誰かが選ばれ、誰かが零れ落ちていく。

その残酷なルールがあるからこそ、彼女たちはこうして恥を捨てて戦わなければならなかった。

八幡のその問いかけは、逃げ口上であると同時に、あまりにも誠実さに満ちた彼なりの「答えの出ない苦悩」だった。

その言葉を聞いた瞬間、川崎沙希の心の中で、何かがプツリと切れた。

顔の赤みはもう隠しようもなく、耳の先まで真っ赤に染まっているというのに、彼女の瞳には一切の迷いが消え失せていた。川崎は持っていた弁当箱を力任せに八幡の机にドンと置くと、鋭く、けれど震える声で言い放った。

「……なに言ってんだよ、比企谷」

「沙希……?」

「そんなの、言い訳に決まってるだろ……!」

川崎は一歩、八幡の机へと身を乗り出した。その迫力に、周囲のクラスメイトたちは完全に息を呑んで固まっている。

「一人しか選べないからって、最初から諦めたり、そんなめんどくさい理屈並べたりしてさ……ズルいこと言ってんじゃねえよ!」

川崎はぐっと拳を握り締め、真っ直ぐに八幡の目を捉えた。

「……だったら、私とも付き合えよ!」

「――っ!?」

教室中の空気が、文字通り凍りついた。

隣で弁当を持ったまま固まっていた雪乃が「なっ……!?」と息を呑んで目を見開き、窓の外を飛んでいた鳥すら驚いていそうなほどの爆弾発言が、教室の真ん中に投下された。

「沙希、お前……今、自分が……」

「言ってるよ! 聞こえなかったならもう一回言ってやろうか!?」

川崎は顔を真っ赤にしながらも、一歩も引く気配を見せない。彼女の胸の内で渦巻いていたのは、恥ずかしさやプライドを遥かに超えた、失うことへの恐怖と、この男を絶対に逃したくないという剥き出しの執念だった。

誰もが一人しか選べないというなら、その常識ごとこの男を揺さぶってやる。

不器用で、真っ直ぐすぎる彼女なりの宣戦布告は、静まり返った教室のすべてを飲み込み、比企谷八幡の思考回路を完全に焼き切るのだった。

 

静まり返った2年F組の教室に、川崎の叫び声の余韻がピリピリと張り詰めていた。

クラスメイトたちの視線が、一斉に八幡と川崎、そして固まったままの雪乃の三人に集中している。

「……そうだな」

ぽつりと、八幡が呟いた。

その声はいつものように投げやりで、けれどどこか妙に腑に落ちたような響きを含んでいた。

「誰かが決めたルール……『恋愛は一対一でなければならない』とか、『こういう順序を踏むべきだ』とか、そういう世間一般の当たり前に、納得しているわけでもないのに、なんとなくそれに従うのは……ただの盲目ってやつだな」

八幡は自分の席に座ったまま、ぼんやりと空を見上げるように視線をそらし、それからフッと自嘲気味に笑った。

「一夫多妻制がどうこうとか、そういう制度論の話じゃなくてさ。……俺みたいなひねくれた人間が、一つの答えに無理やり収まろうとするのも、なんか違う気がするって話だ」

その、相変わらず斜に構えたような、それでいてどこか本質を突いたような言い方に、川崎は一瞬ポカンと口を開けた。

――え? 今のって、どういう意味……?

「なっ……ちょっと、比企谷……!」

川崎の顔の赤みが、怒りと混乱でさらに急上昇する。

彼女が先ほど放った「だったら、私とも付き合えよ!」という言葉。それはもう、どう言い訳しても周囲からは「公開告白」であり、しかも八幡の今の返答は、それを真っ向から否定するどころか、「確かにそうだな」「納得してないのに従うのは盲目だな」と、なぜかその提案を肯定した(あるいは受け入れた)かのように聞こえてしまったからだ。

「ちょっ、まっ、違うし! 私が言ったのはそういう意味じゃなくて……!」

川崎は慌てて両手をパタパタと振り、真っ赤になった顔を隠すように俯いた。耳の先まで茹でダコのように赤くなっている。告白まがいの勢いに任せて突っ走ったものの、いざ相手がそれを正面から咀嚼して受け止めてしまうと、恥ずかしさで今すぐ床の隙間に消えたくなった。

「……っ」

隣でそのやり取りを聞いていた雪乃は、持っていた弁当箱の包みを握りしめ、わずかに唇を噛み締めた。

彼女にとっても、八幡のその返答は予想の斜め上を行くものだった。彼は逃げるでもなく、茶化すでもなく、川崎の投げた無茶苦茶な球を、一度しっかりと自分の頭で受け止めてしまったのだから。

「なんだよ、自分で言ったんだろ」

八幡はポリポリと頭を掻きながら、呆れたような、しかしどこか優し気な視線を川崎に向けた。

「……まあ、いいさ。お前がそこまで言うなら、その無茶苦茶な理屈も、少しは考えてやらなくもない……ってことにしとけよ」

「――っ!!」

その言葉は、決定打だった。

「付き合え」という直球に対する、八幡なりの精一杯の不器用な返答。それは実質的に、彼女の想いを拒絶せず、その土俵に立つという宣言に他ならなかった。

教室のあちこちから「マジかよ……」「比企谷のやつ、サラッととんでもないこと言ってないか……?」というざわめきが起こる中、川崎は顔を両手で覆ったまま、その場で完全に硬直してしまった。

最強のひねくれ男が、ついに周りの泥沼の渦へと自ら足を踏み入れ始めた瞬間だった。

 

教室の後方。

ガヤガヤとざわめくクラスメイトたちの輪から少し離れた特等席(?)で、この一部始終を固唾を飲んで見守っていた男が二人いた。

一人は、クラスの中心に君臨する爽やかなリア充・葉山隼人。

そしてもう一人は、右腕に謎の包帯を巻き、なぜか真剣な面持ちで腕組みをしている中二病患者・材木座義輝だった。

二人は、川崎の爆弾発言と、それに対する八幡の妙に説得力のある「斜め上の返答」を目の当たりにし、しばらくの間言葉を失っていた。

「……なぁ、葉山」

材木座が、いつになく低い、真剣な声音で呟いた。

「なんだ、材木座」

「今のやり取り……なんだかよくわからないが、もの凄く強烈な『説得力』を感じないか? 通常の恋愛シミュレーションゲームであれば、ここで主人公は慌てふためくか、ギャグにして流すところだ。だが、あいつは……比企谷は、あの混沌とした修羅場を、独自の哲学でねじ伏せやがった……!」

葉山は苦笑いを浮かべつつも、否定はしなかった。

彼の端正な顔立ちは、驚きと、どこか深い感心が入り混じった複雑な色に染まっていた。常人なら気まずさのあまり逃げ出したくなるような修羅場で、八幡は決して逃げず、かといって軽薄にチャラつくこともなく、ただ真っ直ぐに彼女たちの言葉を受け止めている。

「……ああ」

葉山は小さく息をつき、窓際で頭を抱える川崎と、それをどこか照れくさそうに見やる八幡の背中を見つめた。

「何にせよ……ここは、星を散らす青春のステージが繰り広げられる部室でもなければ、誰もいない放課後の屋上でもない。まぎれもなく、全校生徒が見ているこの『教室』だっていうのにね」

他人の目を過剰に気にしたり、スクールカーストという見えない檻に縛られたりする青春群像劇の真っただ中で、比企谷八幡という男は、そのすべての枠組みを我が物顔で踏み越えていく。

「くっ……! なんというスケールのデカい男だ、比企谷め……!」

材木座が感動に震えるように拳を握りしめる。

「スケールが大きいのか、それともただ空気が読めないだけなのか……いや」

葉山はふっとフランクに笑うと、材木座の言葉に小さく頷いた。

「間違いなく言えるのは、あいつはもう、ただの『ぼっち』なんかじゃないってことだな」

教室の空気を丸ごと支配し、二人の少女の想いを背負いながら、相変わらず不器用な歩幅で歩み続ける比企谷八幡。

そのあまりにも規格外な背中を前にして、クラスのモラトリアムは、音を立てて次のステージへと進み始めていた。

 

(いや、待てよ……)

教室のざわめきが遠のく中、八幡の脳裏で冷静な(あるいは極めて常識的な)ツッコミの回路がフル回転していた。

誰かが決めたルールに盲目的に従う必要はない――そこまではいい。確かに一理あるような気もした。だが、よくよく考えてみればだ。

(これって、冷静に考えたらただの「浮気」とか「二股」ってやつなんじゃないのか……?)

他人の目を気にしない独自の哲学を気取ってみたものの、行き着く先がハーレム系ライトノベルの主人公のような泥沼であれば話は別だ。一人の人間を真摯に想うべき恋愛において、複数の人間を同時に受け入れるなど倫理観的にどうなんだという至極まっとうな疑問が、八幡のひねくれた良心をチクチクと刺す。

八幡がそんな複雑な表情で顔を引き攣らせていると、顔の赤みがようやく少し引いてきた川崎が、ぐっと顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見据えた。

彼女の瞳には、さっきまでの恥じらいはどこへやら、覚悟を決めた者特有の強い光が宿っていた。

「……なに真面目な顔して考えてんだよ、比企谷」

「いや、その……なんだ。これって客観的に見たら、どう見ても浮気とかそういうアレなんじゃねぇのって気がしてだな……。倫理的にどうなんだ、って話だ」

八幡が歯切れ悪くそう指摘すると、川崎はフッと鼻を鳴らし、一切の迷いなく言い放った。

「は? 何言ってんの。そんなの、全部本気なら問題ないでしょ」

「――は……?」

あまりにも堂々とした、そして微塵の曇りもないその言葉に、八幡は完全に言葉を失った。

「全部本気なら問題ない」――そんな理屈、現実の恋愛において通じるはずがない。だが、今の川崎沙希の口からそのセリフが飛び出すと、不思議と妙な説得力と、圧倒的な迫力を伴って八幡の胸を直撃した。

妥協もせず、言い訳もせず、自分の感情を偽らずにすべてをぶつけてくるその姿勢。そこには打算も計算も一切なく、ただ純粋に自分の「本気」を相手に突きつけるだけの覚悟があった。

隣でそのやり取りを聞いていた雪乃も、わずかに息を呑み、川崎のまっすぐな横顔を見つめている。

八幡はしばらくの間、ぽかんと口を開けたまま川崎の顔を見つめていたが、やがてふっと力の抜けたような、しかしどこか心底感心したような笑みを浮かべた。

「……お前さ」

「な、なんだよ……」

「本当に、男前な女だな」

「っ……! な、なに急に……!」

褒められたのか照れ隠しなのか、川崎は再び耳まで真っ赤に染め上げ、バツが悪そうにそっぽを向いた。しかし、その口元には隠しきれない小さな笑みがこぼれていた。

教室の冷ややかな視線も、周囲のざわめきも、今の二人の間にはもう届かない。

理屈を超えた少女たちの本気と、それを真っ向から受け止める八幡の不器用な誠実さは、確実にこの空間の空気を塗り替えていくのだった。

 

教室の少し離れた場所から、二人のやり取りのすべてを聞き届けていた雪乃は、手元の弁当箱の包みをそっと握りしめた。

「全部本気なら問題ない」――その川崎の言葉は、ただの強がりでも、勢い任せの戯れ言でもない。泥臭く、しかし誰よりもまっすぐに自分の想いを貫こうとする、剥き出しの覚悟そのものだった。

雪乃の胸の奥で、ピリリとした緊張感が走る。

それは恐怖や焦りといった類のものではない。むしろ、凍りついていた何かが熱を帯び、強く脈打ち始めるような感覚だった。

(……なるほどね)

雪乃は心の中で小さく息をつく。

今の川崎の言葉は、間違いなく自分に対する――そして、この教室にいる誰に対しても向けられた、堂々たる「宣戦布告」だった。

これまでの雪乃であれば、そんな正面切った泥臭いアプローチに対し、冷ややかな一線を引いて遠ざけていたかもしれない。美しく、完璧で、スマートであるべき「雪ノ下」の人間として、あんな風に感情をむき出しにして自分の欲望を叫ぶことなど、かつての彼女には到底できなかったはずだからだ。

だが、今の彼女は知っている。

綺麗に整えられた言葉や、計算された距離感だけでは、このひねくれた男の心に届かないことを。この男の面倒くさくて不器用な魂を掴むためには、プライドも恥じらいもかなぐり捨てて、泥にまみれて飛び込む覚悟が必要なのだということを。

(……恋とは、戦場そのものよ)

美しいお姫様がお上品に待っていれば王子様が迎えに来てくれるような、そんなお伽話のワンシーンなんて存在しない。欲しいものを手に入れるためには、自ら武器を取り、傷つくことを恐れずに敵陣へと踏み込んでいかなければならない。それが、彼女自身がこの恋を知ってからようやく辿り着いた答えだった。

もし、自分が川崎の立場だったなら――。

いや、今のこの状況に置かれているのなら、自分だって間違いなく、彼女と同じように声を荒げ、すべてを懸けてこの男にぶつかっていっていただろう。

雪乃の唇が、ふっと美しい弧を描いて緩んだ。

そこにあったのは、冷徹な孤高の美少女の顔ではなく、一人の強い女性としての誇りと、ライバルに対する心からの敬意だった。

「……やるじゃない、沙希」

誰にも聞こえないほどの小さな声で呟きながら、雪乃は顔を上げた。

彼女の瞳には、もう迷いなど一切なかった。川崎沙希という強敵を「ライバル」としてハッキリと認め、自分もまた、一歩も引くつもりはないという熱い闘志が、そのクリアな瞳の奥で静かに、しかし鮮烈に燃え上がっていた。

「……おい、雪ノ下。お前もいつまでそこで黙ってんだよ」

八幡が、呆れたような、それでいてどこか気まずそうな顔でこちらを振り返る。

その視線の先で、雪乃は手元の弁当箱をしっかりと持ち直すと、一歩、また一歩と、二人のいる中心へと真っ直ぐに歩み出していくのだった。

 

「おい、ちょっと待て。人の話を聞け」

八幡が抗議の声を上げる間もなく、両側から挟み撃つように伸びてきた二つの手が、それぞれの腕をガシッと掴んだ。

「行くわよ、比企谷くん!」

「ちょっとアンタ、これ以上ここで変なこと言わせないからね!」

雪乃の凛とした冷たさと、川崎の熱を帯びた力強さ。その圧倒的な女子のパワーの前に、比企谷八幡という名のひねくれた巨木は、文字通り根こそぎ引き抜かれるようにして席から立たせられた。

「ちょっ、お前ら、人の意思を無視して――」

「文句は後よ!」

「うるさい、黙って歩け!」

クラスメイトたちの「うわあああ」「マジで連れ去られたぞ……!?」「比企谷、爆発しろ!!」という割れんばかりの野次と黄色い(主に呪詛の混じった)歓声を背に受けながら、八幡は二人に引きずられるようにして教室の扉へと消えていった。

ガチャン、と重い扉が閉まり、教室のざわめきが一度ピタリと止まる。

その光景を、教室の後方から呆然と見送っていた材木座が、ぐっと自分の胸元を押さえてフルフルと震えた。

「な、なんだあの展開は……!! まるでハーレムアニメの主人公そのものではないか……! 圧倒的なヒロインたちに連れ去られるだと……くっ、羨ましすぎるぞ比企谷め!!」

材木座のその叫びに、近くにいたクラスメイトたちも「まったくその通りだ」「あいつのどこにそんな魅力が……」と、激しく同意するようにどっと気息を漏らした。

そんな周囲の喧騒の中、葉山隼人は窓際に寄りかかり、遠ざかっていく足音のほうに視線を向けたまま、ふっと小さく苦笑を漏らした。

「……羨ましい、か、ね」

材木座が「違うのか?」と怪訝な顔で首を傾げると、葉山は組んでいた腕をほどき、静かに首を横に振った。

「どうだろうな。……あいつが背負っているものは、外から見るほど甘いものじゃないと思うよ」

雪ノ下姉妹の複雑な家庭環境、川崎の真っ直ぐすぎる想い、そしてあの母親の存在。そのすべてが、あのひねくれた少年の不器用な優しさと誠実さに絡みつき、もう誰も引き返せない修羅場の中心へと引っ張り込んでいる。

羨ましいという単純な感情で片付けるには、あまりにも重く、そしてあまりにも鮮烈すぎる青春の形。

葉山は再び穏やかな笑みを浮かべると、どこか遠い目をしながら、トントンと机を軽く叩いた。

――さて、彼らが向かった屋上では、今頃どんな嵐が吹き荒れているのだろうか。

 

冷たい風が吹き抜ける総武高校の屋上。

フェンスのそばに連れてこられた八幡は、両脇にそれぞれの弁当箱を置かれ、逃げ場のない状態でぽつんと立たされていた。

「……で、わざわざ人気のないここまで連れ出したってことは、お説教か? それとも俺を屋上から放り投げるリハーサルか?」

「バカなこと言わないで。そんなことするわけないでしょう」

雪乃は少し息を整えながら、持ってきた包みを開けた。中から出てきたのは、彩り豊かで、どこか上品かつ家庭的な手作り弁当だった。

一方の川崎も、自分の包みを乱暴にほどき、少し不格好だがボリュームのある弁当箱をドンと突き出す。

「……ほら、冷めないうちに食べなさいよ。私が作ったんだから、残さず食えよな」

「あ、ああ……いただきます」

観念したように箸を取った八幡は、まず雪乃の作った卵焼きを一口食べ、その上品な美味しさに小さく目を丸くし、続いて川崎の作った唐揚げを口に放り込んで、その確かな味付けに「……うまいな、これ」と素直に呟いた。

二人の少女は、八幡が美味しそうに食べる様子を、少し気まずそうに、けれどどこかホッとしたような複雑な顔で見つめていた。

静かな屋上の空気に、ただ風の音だけが響く。

しばらく黙々と箸を動かしていた八幡だったが、やがて箸を止め、遠くの空を見つめながら、ぽつりと息をついた。

「……なぁ」

「なによ?」

「なんだよ、比企谷」

雪乃と川崎が、同時に八幡に視線を向ける。

「さっき教室でも言ったけどさ……お前ら、本気なんだろ?」

「……当たり前でしょ。そんなこと、わざわざ言わせないでよ」

「そうだよ。こっちは最初からそのつもりで言ってんだからさ」

まっすぐに返ってきた二人の言葉に、八幡は困ったように頭を掻いた。

ひねくれた現実逃避ばかりしてきた彼にとって、こんな風に真正面から好意をぶつけられるのは、処刑台に立たされるよりも居心地が悪かった。

「……でさ、俺はどうすりゃいいんだよ」

「……は?」

「どうするって、何がよ」

八幡はため息をつき、隠し事などできないとでも言うように、まっすぐ二人を見据えた。

「わかんねぇよ。お前らが本気なのも、こうしてぶつかってきてくれるのも分かった。……だからって、どっちか一人を選べなんて、今の俺にはとてもできそうにない」

「――っ!」

雪乃の息が止まり、川崎の手がピタリと止まった。

「……じゃあ、なんなのよ。八十日も百日も保留にする気?」

川崎が尖った声で問い詰めると、八幡は目を逸らさず、ただ静かに首を横に振った。

「いや、そういうのとも違う。……どっちも大事で、どっちのことも……その、ちゃんと好きだって自覚はあるからこそ、余計にどうしていいか分かんねぇんだよ」

「っ……! あなたねぇ、そんなサラッと……!」

「どっちも好き」――あまりにも真っ直ぐで、あまりにもずるい、けれど嘘偽りのないその告白じみた本音。

それを聞いた瞬間、雪乃の白い頬に、今まで見たこともないほどの鮮やかな紅潮が広がった。彼女は慌てて顔をそむけ、両手で自分の熱を持った頬を覆う。

川崎もまた、耳の先どころか首筋まで真っ赤に染め上げ、「なっ……なに言ってんだよ、急にそんな……!」と、しどろもどろになりながらその場で小さく飛び跳ねた。

二人の圧倒的な美少女が、恥ずかしさのあまり頭から湯気を出しそうになっている。

しかし、その表情のどこにも怒りや拒絶はなく、ただ激しい動揺と、胸を締め付けられるような甘い熱だけが残されていた。

「はぁ……本当に、めんどくさいことになったな……」

そう言いながらも、どこか優しげな目を向ける八幡の姿に、二人はもう、それ以上言葉を返すことができなかった。

屋上の青空の下、比企谷八幡の「終わらない青春の修羅場」は、さらに熱を帯びていくのだった。

 

ある日の放課後、リビングのソファにドカッと座った八幡は、目の前に差し出された一枚の企画書を見て、遠い目をしながら盛大にため息を吐いた。

「……は? マックスコーヒーのCM?」

「そう! お兄ちゃん、すごいよ! 親戚のおじさん……っていうか、遠縁のツテで、うちの会社で今度出す新商品のPR案件が回ってきたの!」

小町はパタパタと尻尾が見えそうなほどの勢いで手を叩き、満面の笑みを浮かべていた。

なんでも、比企谷本家(あるいはその周辺の親戚筋)が関わる飲料メーカーのプロモーションにおいて、予算削減と話題作りのために「親戚料金(タダ働きに近い格安)」で身内を起用する計画が持ち上がったらしい。そして、その白羽の矢がなぜか、比企谷兄妹に向かって立ったというわけだ。

「いや、待て小町。俺のどこにCMの需要があるんだよ。魚の死んだような目をした高校生男子がマックスコーヒーをすする姿なんて、全国の購買意欲を秒で削ぎ落とすだけだろ」

「なに言ってるのお兄ちゃん! 最近のお兄ちゃんは、なんか知らんうちに色んな美少女を狂わせたり修羅場をくぐり抜けたりして、妙にこう……『陰のあるダウナー系イケメン』としての需要が一部で高まってんだからね!」

「どんな需要だよ、怖いわ!」

文句をタラタラと垂れる八幡だったが、結局は小町の押しに負け、また親戚からの「頼むから協力してくれ」という無言のプレッシャー(と微々たる謝礼金)に屈し、撮影の現場へと引きずり出されることになった。

――そして数日後。

撮影場所となった都内のスタジオには、プロの照明とカメラがズラリと並び、なぜかピリッとした緊張感が漂っていた。

「はい、じゃあお兄ちゃんはそこでマックスコーヒーを持って、少し窓の外を見る感じで! 小町ちゃんは『お兄ちゃん、またそれ飲んでるの?』って呆れた顔ね!」

カメラマンの指示に従い、八幡が渋々ペットボトルを手に取る。

ボサボサの髪はメイクスタッフによって奇跡的に整えられ、元々の素材の良さ(?)を無理やり引き出された八幡は、疲労困憊のダウナーな雰囲気を纏ったまま、なぜか妙に絵になる「気だるげな美少年」へと変貌を遂げていた。

そして、その隣に立つ小町は、現役の女子中学生らしいフレッシュな可愛さと、どこか小悪魔的な愛嬌を全開に発揮している。

「――はい、カット! オッケーです!」

監督の声がかかった瞬間、スタッフの間から「おぉ……」という感嘆の溜息が漏れた。

血の繋がった兄妹でありながら、整った顔立ちの二人が並ぶビジュアルの破壊力は、想像以上だった。

その数日後、そのCM映像とポスタービジュアルが「遠縁のツテによる試験的ローカル放映&SNS限定広告」としてひっそりとネット上に放流された。

――結果は、言うまでもない。

『総武高のフィロソファーと妹の破壊力がヤバい』

『何あのダウナー系イケメン、マックスコーヒーが似合いすぎだろ……』

『ていうか、妹可愛すぎないか? 親戚枠ってマジ?』

X(旧Twitter)をはじめとするSNSのタイムラインは、その日のうちにその話題で埋め尽くされた。

「親戚料金で経費削減」を狙ったはずの企画は、予想をはるかに超えるバズを引き起こし、ネットニュースの片隅にまで取り上げられる大騒動に発展した。

学校の廊下でそのスマホ画面を見せつけられた八幡は、自分の顔が大写しになった広告を直視できず、その場で頭を抱えて崩れ落ちたのだった。

「……もうやめてくれ、俺は静かにマックスコーヒーを飲みたいだけなんだ……」

 

ネット上に放流されたマックスコーヒーのCM動画は、またたく間に数百万回再生を突破し、日本中のタイムラインを「あのダウナー系イケメンと美少女の兄妹は一体誰だ」という騒ぎで埋め尽くしていた。

その波はもちろん、総武高校の生徒たちの目にも容赦なく飛び込んでくる。

――放課後の部室。

いつものテーブルを挟んで向かい合っていた雪ノ下雪乃と川崎沙希の二人は、開いたままのノートパソコンの画面を凝視したまま、言葉を失っていた。

画面の中では、あの気だるげで絵になる八幡と、愛嬌満点の小町が仲良くマックスコーヒーを掲げて笑っている。

「……ねえ、沙希」

雪乃は凛とした声の中に、わずかな、しかし隠しきれない焦燥の色を滲ませて呟いた。

「……なんだよ、雪ノ下」

川崎もまた、画面に映る見知らぬ美少女(小町とは知らずに、ただ「八幡の近くにいる新しいライバル枠」と勘違いしている)を睨みつけるようにして答えた。

「私たちの知らないところで、また強力な刺客が送り込まれていたようね」

「……だよな! なんだよアレ、あんな可愛らしい妹系キャラを隣に侍らせてさ!……ていうか、いつの間にあんな写真撮ってんだよ、あの野郎……!」

川崎はガシガシと自分の頭を掻きむしり、悔しそうに歯ぎしりした。

ただでさえ、めぐり先輩や陽乃さんという厄介すぎる存在がひしめいているというのに、今度はメディア露出まで果たして全国の女子の視線を集めてしまうとは。二人にとって、八幡の周りは日を追うごとに難易度が跳ね上がる難攻不落の要塞と化していた。

「……ううん、でも、ここで引くわけにはいかないわね」

「当たり前だ! アタシたちだって、負けてられないんだからな!」

共通の「強敵(マックスコーヒーのCMの美少女)」の出現によって、奇妙な連帯感とさらに燃え盛る闘志を共有する雪乃と川崎だった。――それが八幡の血の繋がった実の妹・小町であるとは、この時の二人はまだ夢にも思っていなかったのである。

その頃、都内の瀟洒なカフェのテラス席。

心地よい午後の風が吹く中、雪ノ下陽乃は優雅にアイスティーのグラスを傾けながら、目の前でスマホの画面を真剣にスクロールしているマネージャー(あるいは関係者の知人)の声に耳を傾けていた。

「いやぁ、陽乃さん、この新人の起用は大ヒットですよ! 企画の段階では『親戚のツテの素人兄妹』なんて聞いてましたけど、蓋を開けたらこのバズりよう。特に、あの兄の方のダウナーな魅力もさることながら、隣にいる女の子の破壊力が凄まじくて……」

関係者がベタ褒めするそのスマホの画面には、例のマックスコーヒーのCMビジュアルが映し出されている。

そこに写る、八幡の隣でとびきりの笑顔を浮かべるあどけない少女の姿を、陽乃は細められた美しい瞳でじっと見つめていた。

(……ふーん。あのひねくれた比企谷くんの隣に、あんな可愛らしい子がねえ……)

頭の中で、急速に不穏な計算が回り始める。

先日、ファミレスで母親をも巻き込み、自分の恋心に火をつけたあの生意気な少年。その彼の「一番近くのポジション」を、すでに別の若い女の子が堂々と陣取っているという現実。

もちろん、陽乃はあの少女が八幡の「妹の小町」であることなど知る由もない。ただ、「比企谷八幡の隣で、あんなに親しげに笑い合う、血の繋がっていそうな(あるいはそれ以上の)美少女」という脅威の存在として認識していた。

(ちょっと待ってよ。私だまだ、あのコの懐にまともに飛び込めてもいないっていうのに……なによ、あの親密そうな距離感は……!)

陽乃の胸の奥で、プライドと、それ以上にドス黒い独占欲がふつふつと沸き上がってくる。

いつだって余裕の仮面を被り、すべてを俯瞰してきた彼女だったが、こと「比企谷八幡」という想定外の爆弾に関しては、少しも冷静でいられなくなっていた。

「ねえ、その子……名前、なんて言うの?」

陽乃は微笑みを絶やさぬまま、声のトーンをわずかに落として関係者に尋ねた。

「え? ああ、小町ちゃんって言って、確か兄のほうの……」

「へえ……小町ちゃん、ね」

陽乃の唇に浮かんだのは、優雅でありながらもどこか背筋が凍るような、最高に美しい笑顔だった。

学校の教室で燃え盛る雪乃と川崎の炎に続き、街のカフェでは雪ノ下陽乃のジェラシーの導火線に火がつく。

比企谷八幡を取り巻く修羅場は、もはや一つのローカルCMをきっかけに、日本全国を巻き込む大パニックへと突入しようとしていた。

 

放課後のとあるファミレス、あるいは街の瀟洒なカフェ。

窓際の席に座る雪ノ下陽乃の前に、制服姿の比企谷小町がちょこんと腰を下ろしていた。

「えっと……雪ノ下さん、ですよね? お姉ちゃんの方の……。急に呼び出したりして、一体何の用ですか?」

小町は警戒心を隠さない目で、目の前の美しくもどこか妖しげな微笑みを浮かべる女性を見上げていた。

無理もない。SNSで話題のCM一件以来、周囲が騒がしいと思っていた矢先、突如として現れた「雪ノ下家の長女」から「お兄ちゃんのことで、少しお話がしたいの」と直接連絡が来たのだから。

(お兄ちゃん、また変なところで変な人とフラグ立ててないよね……!?)

小町が内心で冷や汗をかいているとは露知らず、陽乃は優雅にカップを口元につけ、ふわりと柔らかい笑みを崩さなかった。

「そんなに警戒しないでよ、小町ちゃん。怖がらせるつもりなんてないの。ただね、最近すごく話題のCMを見かけて……ふと、あの素敵な比企谷くんの自慢の妹さんと、一度ゆっくりお話ししてみたいなって思っただけよ」

声音はどこまでも甘く、お姉さん風を吹かせた親しみやすいものだった。

しかし、小町は背筋に走るピリッとした悪寒を感じ取っていた。直感的に理解する――この人は、普通の「お姉さん」じゃない。あの雪ノ下雪乃の姉であり、さらに雪ノ下家の人間特有の、底知れない圧力をまとっている。

(この人……お兄ちゃんを狙ってる側の人間だ……!)

小町が警戒レベルを最高潮に引き上げた瞬間、陽乃はふっと表情を少しだけ引き締め、テーブルの上に身を乗り出した。その瞳に、ほんの微かに鋭い光が宿る。

「ねえ、小町ちゃん。教えてほしいんだけど……あのひねくれたお兄ちゃん、普段はどんな感じなの? 家ではどんな女の子の話をしたりするの?」

「……さあ、どうでしょう。お兄ちゃんは基本的にぼっちですし、家でもアニメかゲームの話ばっかりで、女の子の話なんて全然――」

「うそつき」

陽乃はくすりと笑い、言葉を遮った。

「あんなに魅力的なお兄ちゃんだもの。学校じゃ、私の妹の雪乃や、他の可愛い子たちが放っておくわけないじゃない。……ねえ、小町ちゃん。可愛いお兄ちゃんを安心させてあげられるような『お似合いのパートナー』って、一体どんな子だと思う?」

遠回しな探りを入れているようでいて、その実、小町という「一番近い身内」を味方に引き入れ、あるいは懐柔しようという巧妙なアプローチ。

しかし、比企谷家の血を引く妹・小町が、そんな甘い言葉にホイホイ乗るはずがなかった。

小町はテーブルから少し体を引くと、さっきまでの愛嬌ある表情をスッと消し去り、冷ややかな眼差しで陽乃を真正面から見据えた。

「……あの。遠回しに何が言いたいのか知りませんけど、雪ノ下家の人間が、ウチのお兄ちゃんに何の用なんですか?」

「あら……?」

陽乃の目がわずかに見開かれる。

「お兄ちゃんは色々巻き込まれて迷惑してるみたいですし、私、これ以上お兄ちゃんに変な虫がつくのは困るんですよね。……それに」

小町は一歩も引かず、鼻でふんと小さく笑ってみせた。お兄ちゃん譲りの、どこか冷ややかな「見下すような目線」がそこに浮かんでいた。

「あなた程度のお姉様が、本当にお兄ちゃんのお眼鏡に叶うとでも思ってるんですか?」

「――っ!?」

完璧主義の雪ノ下陽乃が、高校生の少女から真っ向から「あなた程度」と挑発されるなど、人生で一度だってなかったことだった。

しかし、その予想外すぎる反撃に、陽乃は怒るどころか、かえって胸の奥でドクンと激しい熱が跳ね上がるのを感じていた。

(……なによ、これ)

血の繋がった妹なのだから当然といえば当然だが、その物言い、その冷めた目線、そして何より、あのひねくれた少年に通じる「一歩も引かない気概」。

陽乃は思わず声を漏らしそうになり、しかしすぐに妖艶な笑みを深めた。

「へえ……。面白いこと言うじゃない、小町ちゃん」

甘く見ていた「ただの妹」は、想像を絶するほどの強敵だった。

比企谷家を巡る泥沼の恋の戦場は、もはや姉妹だけでなく、その「妹」を巻き込んで、さらに予測不能な混沌へと突入していくのだった。

 

「――そこまでだ、お前ら」

少し離れた席から聞こえてきたピリついた空気を感じ取り、八幡が不機嫌そうに声を掛けながらテーブルへと近づいてきた。

偶然、近くの店で用事があった(あるいは小町の行動をなんとなく心配して後をつけていた)八幡は、二人の間に漂う殺気立った雰囲気を察知し、慌てて割って入ったのだ。

「お兄ちゃん……!?」

「あら、ちょうどいいところに主人公の登場ね」

小町は少しバツが悪そうにそっぽを向き、一方の陽乃は余裕の笑みを浮かべたままでいる。

八幡は二人の顔を交互に見比べると、頭をポリポリと掻きながらため息をついた。

「おい、陽乃さん。うちの妹をいじめて遊ぶなよ。あと小町、お前も年上の人に向かって変な態度取るな」

「ちょっとお兄ちゃん、私はいじられてたんだからね! この人、めっちゃ探り入れてきたんだから!」

「はいはい、分かったから。……で、陽乃さん。こいつが何か失礼なこと言ったなら謝るから、勘弁してやってくれ」

八幡がどこか面倒くさそうに、しかし小町を庇うように一歩前に出る。

その姿を見た陽乃は、ふっと目を細め、どこか切なさと楽しさが入り混じったような複雑な笑みを浮かべた。

「……ねえ、比企谷くん。安心してよ、別にいじめてなんかないわ。可愛い小町ちゃんとは、楽しくガールズトークをしていただけだもの」

「あんな殺気立ったガールズトークがあるかよ……。あんたも大概だな、その、なんだ……そんなに突っ張るなよ。陽乃さんは見た目通りアレだけど、根っからの悪女ってわけじゃねぇんだからさ」

八幡は少し気まずそうに目を逸らしながら、ぽつりと付け加えた。

「……寂しがり屋なだけなんだよ、この人は」

「――っ」

その言葉に、陽乃の動きがピタリと止まった。

図星を突かれたというかなんというか、八幡のあまりにも自然で、それでいて本質を突いた無造作な優しさに、陽乃は言葉を失い、大きく瞳を見開いた。いつも完璧な仮面を被り、誰も本当の自分を見てくれないと思っていた彼女の心臓を、そのひねくれた一言が真っ直ぐに撃ち抜いたのだ。

小町もまた、お兄ちゃんのその発言を聞いて、複雑そうに頬を膨らませた。

お兄ちゃん特有の、余計なところで発揮される不器用な母性(?)というか、お節介な優しさ。それが、目の前の恐ろしいはずの「雪ノ下家の長女」にも向けられていると知って、小町は小さくため息をついた。

「……はぁ。お兄ちゃんがそこまで言うなら、しょうがないじゃない」

小町はぶっきらぼうに言いながらも、カバンから小さな飴を取り出し、テーブルの上にぽんと置いた。

「……これ、あげる。お兄ちゃんがそこまで言うんだから、少しは付き合ってあげるからね、雪ノ下さん」

子ども扱いするように、どこか面倒くさそうに差し出された飴。

しかし、その不器用な優しさは、間違いなくあの兄から受け継いだものだった。陽乃はその小さな飴玉を見つめ、やがてふっと、今日一番自然で美しい笑みをこぼした。

「ふふっ……ありがとう、小町ちゃん。なんだか、すっかりお姉ちゃん扱いされちゃったわね」

「当たり前でしょ! 私から見たら、お姉ちゃんだって十分子どもっぽいんだから!」

「ちょっ、小町、お前な……!」

慌てて小町を制止しようとする八幡と、ケラケラと楽しそうに笑う陽乃。

しかし、次の瞬間、陽乃はふと現実を思い出してピキッと表情を凍りつかせた。

――待って。今、私、「子どもっぽい」って言われた……?

あの高校生の少女から、見事に「子ども扱い」されたのだ。

「……ねえ、小町ちゃん。さっきから聞いていれば、お姉ちゃんを捕まえて子ども扱いするなんて、いい度胸してるじゃない?」

「えー? だって事実ですもん。お兄ちゃんに構ってほしいオーラがダダ漏れですよ?」

「っ……!」

完璧なお姉様としてマウントを取るつもりが、完全に立場を逆転され、子ども扱いされてしまった陽乃。彼女のプライドは音を立てて崩れ去り、顔を真っ赤にして小町をジロリと睨みつけた。

「ちょっと、比企谷くん! この生意気な妹ちゃんをどうにかしなさいよ!」

「いや、俺に言われても……事実なら仕方ねぇだろ」

「お兄ちゃんナイス!」

ギャーギャーと賑やかになったカフェのテーブル席。

比企谷八幡を巡る終わらない修羅場は、もはや姉妹だけでなく、生意気な妹をも巻き込んで、ますますカオスな熱狂を帯びていくのだった。

 

騒がしいカフェのワンシーンがひと段落し、陽乃が「覚えてなさいよ、小町ちゃん!」と軽く悔しがりながらも優雅に去っていったあと。

入れ替わるようにして、そのテーブルにやってきた人物がいた。

「……随分と、楽しそうにやっていたようね」

冷たく、けれどどこか熱を帯びた声が頭上から降ってきた。

顔を上げると、そこに立っていたのは雪ノ下雪乃だった。彼女は手元の紙袋(おそらく手作りの差し入れか何かだろう)を抱え、少し冷ややかな、しかし複雑な光を宿した瞳で八幡と小町を見下ろしていた。

「あ、雪ノ下さん……」

小町が少し身構える。先ほどの陽乃との一件で「雪ノ下家の人間」に対する警戒心が最大値まで跳ね上がっている小町にとって、この雪ノ下雪乃という少女もまた、同じ危険なカテゴリーに属していた。

「……なんだよ、お前まで。今日はやけに総武高の治安がこの辺に集中してんな」

八幡がやれやれといった様子で頭を掻く。

すると、雪乃はふっと視線を小町に向け、どこか真剣な、それでいて隠しきれない緊張を孕んだ声音でこう告げた。

「……あなたが、比企谷くんの妹の小町ちゃんね。噂は聞いているわ」

「っ……それがどうかしたんですか? お兄ちゃんに変なちょっかい出しに来たんですか?」

小町がトゲのある声を出すと、雪乃はわずかに目を丸くし、そしてふっと小さく首を横に振った。

彼女は席の空いたスペースにすっと腰を下ろすと、まっすぐに小町を見据えてハッキリと言った。

「違うわ。私は、変なちょっかいを出しに来たんじゃないの。……むしろ、あなたには挨拶をしておかなければならないと思って」

「挨拶……?」

「ええ。私はね、比企谷くんのことが好きなの。そして、彼の隣に並ぶ『お姉様候補』の一人として、正々堂々ここに立っているわ」

――直球すぎる宣言。

あまりのストレートさに、小町はポカンと口を開けたまま固まった。先ほどの陽乃が「探りを入れる大人の女」だったとすれば、雪乃は一切の嘘やごまかしを排した、あまりにも真っ直ぐすぎる「本気」を突きつけてきている。

「なっ……! ちょっとお兄ちゃん、これどういうことよ! また知らないところで変なフラグ立てまくってるじゃない!」

小町は慌てて隣に座る八幡の腕をバシバシと叩き、抗議の声を上げた。

「いてっ……! いや、俺に言われてもな、勝手に周りが自給自足してんだよ……!」

八幡が頭を抱える横で、小町は雪乃をギロリと睨みつけ、拒絶の色を隠さずに吐き捨てる。

「……っ! 雪ノ下家の人間なんて、どいつもこいつも勝手でめんどくさい人ばかりじゃないですか! お兄ちゃんに近づかないでください!」

その言葉には、かつて雪ノ下家が引き起こした事故の記憶や、母親の冷酷な影への嫌悪感がしっかりと混ざっていた。

「小町……」

八幡が制止しようと声をかけたその時、雪乃の表情がわずかに陰った。彼女にとっても、自分の家がどれほど周囲にプレッシャーや影を落としているかは痛いほど分かっていたからだ。

しかし、そのピリついた空気を断ち切るように、八幡はすっと手を伸ばし、小町の頭を軽くポンと叩いた。

「おい、小町。そこまで言うな」

「だって、お兄ちゃん……!」

「家は家だ。……で、雪乃は雪乃だろ。あいつがどうこうだからって、こいつまで一緒くたにするのは筋違いってやつだ」

淡々と、しかし誰よりも明確に「雪ノ下家の因縁」と「目の前の少女(雪乃)」を切り離して庇ってみせた八幡の言葉。

その瞬間。

テーブルの向こう側に座っていた雪乃の心臓が、文字通り「ドクン」と大きく跳ね上がった。

(いま……比企谷くんは……)

彼女を「雪ノ下家の人間」としてではなく、ただの「雪乃」という一人の個人として見て、そして守ってくれた。

母親の呪縛や、家柄という重い十字架を背負い続けてきた彼女にとって、その言葉はどれほど救いで、どれほど胸を熱くさせるものだったか。

雪乃の白い頬が、サーッと一気に鮮やかな紅色に染まる。

彼女は慌てて視線を逸らし、手元にあった紙袋の持ち手をぎゅっと強く握りしめた。胸の奥で暴れ出す鼓動を必死に抑え込もうとしながらも、こみ上げてくる熱い感情をどうしても隠しきれない。

「……な、なにを急に恥ずかしいこと言ってのよ、このバカ……」

小町もまた、お兄ちゃんの珍しく男気を見せたセリフに「むぅ……」と頬を膨らませつつも、それ以上は強く文句を言うことができなくなっていた。

夕暮れ時のカフェの光の中で、顔を真っ赤にして黙り込む雪乃と、どこか気まずそうに目を泳がせる八幡。

比企谷家と雪ノ下家を巡る複雑な因縁の糸は、今や冷たい権力の網から、甘く熱を帯びた個人的な想いへと、確実にその形を変え始めていた。

 

しばしの沈黙のあと、小町は小さくため息をつき、テーブルの上に突っ伏していた上半身をふっと起こした。

「……はぁ。もう、お兄ちゃんってば……」

呆れたような、それでいてどこか諦めを含んだその声には、先ほどまでの尖ったトーンはもうなかった。小町はジト目で八幡を一瞥すると、向かい側に座る雪乃へと視線を移す。

「……別に、雪ノ下さんの家がどうこうって言うのは、私個人の八つ当たりみたいなもんだったし……そこは、ごめんなさい」

「ううん……いいのよ、小町ちゃん。謝る必要なんてないわ」

雪乃はまだ少し染まった頬を落ち着かせながら、まっすぐに小町を見つめ返した。その瞳に宿る誠実さに、小町もそれ以上突っ張ることはできなかったらしい。

小町はカバンをごそごそと漁ると、中から一本の冷えた缶を取り出し、テーブルの上をスッと雪乃の方へ押し滑らせた。

「……これ、あげる」

「え……?」

そこに置かれていたのは、もちろん見慣れた黄と黒のパッケージ――マックスコーヒーだった。

「お兄ちゃん、いつもこればっか飲んでてさ。……なんていうか、甘いもの好きで不器用で、ちょっと面倒くさい人だけど……その、よろしく頼みます、お姉様候補さん?」

照れくさそうに頬を掻きながら、しかしハッキリとそう告げた小町は、サッと自分のカバンを肩にかけ、「じゃ、私そろそろ塾(あるいは帰宅)だから!」と、それ以上何かを言われる前に足早にカフェの出口へと小走りで去っていっていった。

「……あいつ、勝手なことばかり言いやがって……」

八幡が頭を抱えてボソッと呟く。

残されたテーブルの上には、ぽつんと置かれたマックスコーヒーの缶と、どこか気まずくも甘い空気が取り残されていた。

夕暮れ時のカフェのテラス席。

お客様が少しずつ減っていく中、八幡と雪乃の二人は、しばらくの間言葉を交わさずに座っていた。

雪乃はテーブルの上に置かれたマックスコーヒーの缶を、そっと両手で包み込むように持ち上げた。

黄色のパッケージに指先が触れる。あのひねくれた少年が、いつもどんな気持ちでこれを飲んでいるのか。少しだけ、彼の日常に触れられたような気がした。

「……ねえ、比企谷くん」

「んだよ」

雪乃は顔を上げず、缶を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「さっきの……小町ちゃんに対する言葉、嘘じゃなかったのね」

「どの言葉だ」

「『家は家、雪乃は雪乃だ』って言ったことよ」

八幡は面倒くさそうに視線を窓の外に向け、ポリポリと首筋を掻いた。

「……当たり前のことを言っただけだ。お前は雪ノ下家の看板背負って生きてるわけじゃないだろ。……まあ、色々と面倒なものを背負い込んでるのは事実だろうけどよ」

これ以上ないほど不器用で、ぶっきらぼうなフォロー。

しかし、その言葉がどれほど雪乃の心を救ってきたか、彼はきっと分かっていない。

雪乃の胸の奥で、じわりと温かいものが広がっていく。

母の呪縛や、姉の圧倒的な影に押しつぶされそうになっていた彼女を、いつもこのひねくれた少年は、何の気なしにその冷たい牢獄から連れ出してくれる。

「……本当に、あなたは」

雪乃はふっと息をつき、顔を上げた。その瞳には、恥じらいと、それを超えた圧倒的な決意が揺るぎない光を宿して輝いていた。

「ずるい人ね、比企谷くん」

「は? なんだよ、また何か変なこと言ったか俺は」

「言ってないわよ。……ただ、覚悟しなさい?」

「……あ?」

夕日に染まるカフェの席で、雪乃はマックスコーヒーをそっとバッグにしまい、いつもより少しだけ柔らかく、そして誰よりも美しい笑みを八幡に向けた。

逃げ場など、もうどこにもない。

比企谷八幡の日常は、こうして静かに、しかし確実に、二人の少女の「本気」に侵食されていくのだった。

 

(それにしても……)

頭を抱え、やれやれといった様子でため息をつく八幡は、ふと独り言のように、しかししっかりと雪乃の耳に届く声でぼそっと呟いた。

「まあ、いっそ名字が『比企ヶ谷』になれば、そういう家の面倒くさいゴタゴタとかも全部まとめてチャラになるし、問題もなくなるかもしれんけどな」

「――っ!?」

あまりにもサラッと、そしてあまりにも破壊力抜群のセリフが、何の気なしに八幡の口から滑り落ちた。それはプロポーズとも、ただの暴言(あるいは究極の現実逃避)ともつかない、あまりにも彼らしいひねくれた言い回しだったが――その言葉が意味する核心は、間違いなく「結婚」という二文字だった。

「なっ……! あなた、今……」

雪乃の動きが、完全にフリーズした。

ついさっきまで大人の余裕を見せようとしていた気高さも、ライバルに立ち向かう凛とした闘志も、その一言によって跡形もなく吹き飛んでいく。

彼女の白い肌を伝い、首筋から耳たぶ、そして髪の毛の隙間に至るまで、一瞬にして鮮烈な緋色が駆け巡った。顔から湯気でも出てきそうなほどの急激な体温の上昇に、雪乃は両手で自分の頬を慌てて押さえ、ガタッと大きく椅子を引いた。

「な、なななな何を……! 唐突に、何を言い出すのかと思えば……この、この……!」

普段の流暢な語彙力はどこへやら、雪乃は完全にパニックに陥り、言葉をまともに紡ぐことすらできなくなっていた。真っ赤に染まった顔を隠すように両手で覆い、わずかに震えながら八幡を睨みつける。しかし、その瞳には怒りなど微塵もなく、ただただ恥ずかしさと胸を突かれた激しい動揺だけが渦巻いていた。

「え? いや、だから、別にそういう意味じゃなくてだな……! ほら、戸籍上の面倒な手続きがどうこうっていう消去法的な……!」

自分の口から出た爆弾のヤバさにようやく気づいたのか、八幡も急に慌てふためき、両手をパタパタと振って必死に言い訳を重ね始める。しかし、一度口から出てしまった「比企ヶ谷雪乃」という圧倒的なワードの破壊力は、そんな言い訳で消せるはずもなかった。

「う、うるさいわね……! そんな、勝手に人の名字を……! ば、馬鹿じゃないの、あなた……!」

雪乃はそれ以上耐えきれなくなったのか、カバンをぎゅっと掴むと、サーッとその場から立ち上がった。顔を真っ赤にしたまま、二度ほどフンとそっぽを向き、

「き、今日はもう失礼するわよ! ……バカ!」

それだけ言い捨てるやいなや、彼女は夕暮れの街へと小走りで逃げ出していくのだった。

「……やっちまったな、俺」

一人残されたカフェのテラス席で、八幡は自分の頭を両手でガシガシと抱え込み、深い、深い後悔の溜息を夕空に向けて吐き出すのだった。

しかし、その耳たぶがほんのりと赤くなっていたことに、本人すら気づいてはいなかった。

 

数日後。

放課後の喧騒から少し離れ、一人で静かに昼食(あるいは時間つぶし)を済ませようと、八幡は自宅近くのサイゼリヤのボックス席に陣取っていた。

注文した「ミラノ風ドリア」と「プチフォッカ」を目の前に置き、さて、どうやって効率よくカロリーを摂取したものかとフォークを構えたその時だった。

「……ここ、空いているかしら?」

静かで、しかし有無を言わせない独特の冷涼感を帯びた声が上から降ってきた。

顔を上げると、そこに立っていたのは――あの雪ノ下姉妹の母親、雪ノ下母だった。

「――っ!?」

八幡の動きが完全にフリーズした。

以前、ファミレスでの一件で顔を合わせたことはあるが、まさかこんな庶民派の代名詞たるサイゼリヤの店舗で、しかも一人でいる彼女に遭遇するなど予想の斜め上すぎた。スーツに身を包んだ完璧な佇まいは、店内のリーズナブルな空気感を一瞬で高級ラウンジに変えてしまうほどの圧を放っている。

「あ、ど、どうぞ……」

八幡が慌てて身を引くと、彼女は優雅に、しかし手際よく向かいの席に腰を下ろした。

「驚いたかしら? たまにはね、こういうカジュアルな場所の空気というのも悪くないと思ってね。……それに、庶民の味というものも、私の知らない世界ではないわ」

雪ノ下母は淡々とそう言いながら、メニュー表すら見ることなく、店員を呼んで「ほうれん草のソテーと、グラスワインを」とサラリと言い放った。サイゼリヤでワインを頼む母親、解釈の一致が凄すぎて八幡は心の中で冷や汗を拭う。

「で、ですね……。こんなところで、いったいどんなご用件で……?」

八幡が恐る恐る尋ねると、彼女はゆっくりと視線を上げ、鋭く、しかしどこか観察するような目を八幡に向けた。

「用件というほど大げさなものではないわ。ただ、最近うちの娘たちが……特に雪乃や、あの子(陽乃)までなんだか騒がしいものだからね。その元凶がどんな面をしているのか、少し気になっただけよ」

ぐうの音も出ない正論だった。元凶と言われれば、八幡としても否定する余地がない。

「……すみませんね、お騒がせして」

「謝ることはないわ。若者がどうこうするのは勝手だし、青春の特権だとも思っているからね」

ふっと彼女は微笑んだが、その瞳の奥は一切笑っていなかった。そして、グラスに注がれたワインを一口含むと、まっすぐに八幡の目を捉えて、核心を突く問いを投げかけた。

「ねえ、比企谷くん」

「はい……」

「あの子たち――陽乃と雪乃。あなたは、一体どちらを選ぶつもりなの?」

「――ッ!」

サイゼリヤの賑やかな店内の音が、一瞬ですっと遠ざかったような気がした。

どちらか一人を選ぶ。それは、今の八幡にとって最も避けたかった、しかし避けて通れない最大の難問だった。陽乃の纏う圧倒的な大人びた影と、雪乃が不器用に差し出してくれる確かな熱。そのどちらも知ってしまった彼に、軽薄な答えなど出せるはずがなかった。

冷や汗が背中を伝う中、比企谷八幡はこの最大の修羅場をどう切り抜けるのか――。

 

サイゼリヤのボックス席に漂う、逃げ場のない重圧。

向かい側に座る雪ノ下母の鋭い視線は、まるで一人の人間の覚悟の重さを測るかのように、じっと八幡の目を捉えて離さなかった。

どちらを選ぶのか――その問いに対し、八幡はしばし黙り込み、自分の手元に置かれたミラノ風ドリアの皿を見つめた。

「……ぶっちゃけた話をするとですね」

八幡はため息をつくように、しかしごまかすことなく、ぽつりと口を開いた。

「俺は、今までまともに恋愛なんてしたことがありません。人付き合いも得意じゃないし、誰かをどうこうしようとか、そういう綺麗な理想なんて持ってないんです」

「……ふむ」

「だから、どっちをどう選べば正解なのかとか、正直、全然わかりませんよ」

それは嘘偽りのない本音だった。ひねくれた自分が、二人の素晴らしい女性から向けられる好意の重さに、今でも戸惑い続けているのは事実だ。しかし、その言葉のあとで、八幡はわずかに視線を上げ、どこか真剣な、逃げない目を向けた。

「ただ……」

「ただ、なんだい?」

「あいつらが、自分の家とか、周りが決めたルールとか、そういう見えない呪縛みたいなものに縛られて無理をしてるのを見ると……なんだか放っておけなくなるんです。綺麗事だと言われてもいい。俺はただ、あいつらが自分の足で立てるように、その……守ってやりたいとは思ってますよ。家の呪縛とか、そういう面倒くさいものから引き剥がしてでも」

その言葉は、計算された愛の告白でもなければ、巧みな弁舌でもなかった。

ただ不器用で、まっすぐに誰かのために泥をかぶろうとする、比企谷八幡という少年の剥き出しの誠実さそのものだった。

その瞬間。

雪ノ下母の瞳が、わずかに揺らいだ。

彼女は――かつて自らも、雪ノ下という強大な家督や「正しさ」の呪縛に縛られ、その中で自分の心を押し殺して生きる道を選んだ人間だった。完璧な仮面を被り、家を守るための歯車として生きることが、母親としての、大人としての責任だと信じて疑わなかった。

だからこそ、陽乃も雪乃も、その重圧の中で苦しみ、もがいていることを知っていた。

(――守りたい、だと?)

自分自身ですら、家という巨大なシステムから娘たちを完全に解き放つことができず、ただ冷酷な「正しさ」を押し付けることしかできなかったというのに。

この、一見すると冴えない、ひねくれた高校生の少年は、何の利益も計算もなく、ただ「あいつらを縛る呪縛から守りたい」と言ったのだ。

(……昔の、私に似ているのね)

いや、違う。彼女がかつて心の中で求めていながら、決して手に入らなかった「無謀なまでの優しさ」を、この少年は真正面から持っている。

雪ノ下母は、目の前で気まずそうに目を逸らす八幡を、静かに、そして深く見つめ直した。

そこに映っていたのは、頼りない高校生ではなく、自分の信念を泥臭く貫こうとする「一人の男」の姿だった。

(……まったく)

彼女の冷徹な仮面の下で、かすかに、自嘲と、そして確かな安堵が入り混じった笑みがこぼれそうになるのを、必死に抑え込んだ。

「……そう」

雪ノ下母はグラスに残されたワインを静かに飲み干すと、音を立てずにそれをテーブルに置いた。

その表情には、先ほどまでの鋭い威圧感は消え、代わりに奇妙なまでの落ち着きと、深い納得の色が宿っていた。

口には出さない。決して「合格だ」などと言葉にして認めることはしない。

だが、彼女の心の中で、比企谷八幡という少年の評価は完全に塗り替えられていた。

――この男であれば、あの子たちを任せてもいいかもしれない。

――いや、我が家の面倒くさい呪縛ごと、すべてを預けるに足る「一人前の男」なのだと。

「……ふふ。相変わらず、生意気で聞き捨てならない物言いをする少年だこと」

雪ノ下母はふっと優雅に微笑むと、立ち上がるためにスッと背筋を伸ばした。

「お味のほうは悪くなかったわよ、比企谷くん。……せいぜい、その大きな口が途中で塞がらないように頑張ることね」

それだけ言い残すと、彼女は完璧な足取りでサイゼリヤの出口へと歩いていった。

残された八幡は、「……なんだったんだ一体……」と頭を抱えながら、冷めかけたミラノ風ドリアのフォークを再び動かし始めるのだった。

 

 

色々な意味で激動だったサイゼリヤでの一件から数日後。

八幡は休日を利用して、いつものように最寄り駅から少し離れた静かなエリアの書店やコンビニを巡り、一人静かな休日を謳歌しようとしていた。

その帰り道、人の少ない駅の連絡通路や薄暗いガード下を通りかかったときのことだ。

「きゃっ……! や、やめてください、そんな、公共の場で……!」

「いいじゃないの、おじさん。そんなに怯えなくても、すぐ楽にしてあげるから……♡」

「……ん?」

妙に生々しい、しかしどこか噛み合わない男女の揉め声が聞こえてきた。

八幡が怪訝に思いながら声の方向を振り返ると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。

サラリーマン風の、スーツをきっちり着込んだ上品そうな初老の男性が、派手なメイクと露出度の高い服を着た大柄な女性(通称・痴女)に背中を壁に押し付けられ、スーツの隙間に手を突っ込まれそうになりながらガタガタと震えていたのだ。

「ひっ……! 助けて……誰か、助けてくれ……!」

「おじさん、いい体してるじゃない……ほら、もっとこっち向きなさいよ……♡」

(――は……? え? これ、どう見ても逆じゃないのか……?)

世間一般でいう「痴漢」の被害者は女性のはずだが、目の前で起きているのは完全にその逆。大人の女性が、怯える男性を無理やり組み伏せるという、治安の斜め上を行くホラー映像だった。

通りがかった人は見て見ぬふりをして足早に通り過ぎていく。しかし、困っている人間をそのまま見過ごせないのが比企谷八幡という男の性分(あるいはめんどくさい気質)だった。

「おい、そこまでだ」

八幡はため息をつきながらも、ポケットに突っ込んでいた手を抜き、気だるげな声を発しながら二人の間へと割って入った。

「なんだい、ガキが邪魔すんじゃないよ!」

「いや、大人の女性が一般の善良な市民を壁ドンしてむりやり服を剥ぎ取ろうとするのは、いささかコンプライアンス的に問題があるんじゃないですかね。通報されたくなかったら、今すぐその手を離したほうが身のためだと思いますけど」

八幡が魚の死んだような冷たい目でそう言い放つと、痴女は「ちっ、面倒くさいのが来たね!」と悪態をつき、周囲を警戒しながらパッと男性から手を離し、そのまま足早に逃げ去っていった。

「はあ……はあ……、き、命拾いした……」

壁にへばりついたまま、その初老の男性――高級そうなスーツは乱れ、ネクタイは曲がり、冷や汗で顔面蒼白になったおじさんは、その場に崩れ落ちそうになっていた。

八幡は「大丈夫ですか、おっさん」と呆れたように声をかけ、肩を貸して立たせてやった。

「い、いやあ……本当に助かったよ……。まさか、あんなところで、あんなアグレッシブな猛獣に襲われるなんて……人生何が起きるか分からんものだな……」

「いや、世の中広いですからね。まさか『逆痴漢』の現場に遭遇するとは思いませんでしたよ。世のサラリーマンも油断ならないですね」

八幡はジャケットの埃を払ってやり、ポケットから取り出したばかりの缶コーヒー(もちろんマックスコーヒーではない、普通のブラックだ)をポンと男性の手に押し付けた。

「ほら、これ飲んで落ち着いてください。冷たい水でも買おうかと思いましたけど、生憎とこれしかなかったんで」

「おや、すまないね……。君、若いのに妙に落ち着いているというか、肝が据わっているというか……」

男性はプルプルと震えながら缶を受け取り、苦笑いを浮かべた。

その顔立ちは、どこか整っていて、ふとした瞬間の目元や鼻筋に見覚えがあるような気もしたが、今の八幡には「危ない目に遭った気の毒なおじさん」にしか見えていなかった。

「いや、肝が据わってるんじゃなくて、ただ面倒ごとに巻き込まれてげんなりしてるだけです。世の中、理不尽なことだらけですね」

「はは、まったくその通りだ。家庭でも仕事でも、自分の思い通りにならないことばかりでね……最近は本当に参っていたんだよ。まさか外歩くだけでこんな目に遭うとは……」

おじさんは深々とため息をつき、自嘲気味に首を振った。

八幡はそんな彼をチラリと見ると、ポケットに手を突っ込み、少し不器用に慰めの言葉を付け加えた。

「まあ、生きてればそういう日もありますよ。厄年は誰にでもあるもんです。気をつけて帰ってくださいね、おっさん」

「……ふっ、そうだな。ありがとう、少年。君の名前は?」

「名前言うほどのもんでもないです。じゃ、俺はこのへんで」

八幡はそれ以上深入りする気もなく、ひらひらと手を振ると、そのまま夕暮れの道を歩いて去っていっていった。

取り残された初老の男性――雪ノ下姉妹の父親は、遠ざかっていく八幡の後姿をじっと見つめ、やがて手に持った缶コーヒーを見下ろしながら、フッと小さく、しかしどこか温かい笑みを漏らした。

(……あの少年は、確か……)

先日、妻から「面白い男がいた」と聞いていた顔と、どこか重なる気もしたが、今の彼にとってはただ、「自分を理不尽な災難から助けてくれた、少しひねくれた優しい少年」でしかなかった。

もちろん、自分が助けられたその少年が、自分の二人の娘(陽乃と雪乃)の心を盛大に狂わせている「比企谷八幡」本人であることなど、この時の父親が知る由もなかったのである。

 

その日の夜。

雪ノ下家の広々としたリビングには、高級なアロマの香りと、どこか静まり返った落ち着いた空気が漂っていた。

仕事を終えて帰宅した雪ノ下父は、ソファに腰を下ろすと、今日の昼間に起きた「まさかの事件」について、淹れたての紅茶を啜りながら妻へと語り始めていた。

「いやぁ、参ったよ。まさか大人の男が、あんな昼日中に若い女性に逆痴漢をされるなんてね……世も末というか、何というか……」

ソファの反対側に座り、タブレット端末に目を落としていた雪ノ下母は、夫のその情けない愚痴を聞き流すように、淡々とページをめくりながら尋ねた。

「ふん。いい年をして、駅から少し離れた薄暗い裏通りなんかをフラフラ歩いているからよ。で、どうせ見栄を張って一人で怯えていたんでしょう?」

「いやそれがね、驚いたことに、通りすがりの一人の少年に助けられたんだよ」

父のその言葉に、母の手がピタリと止まった。彼女はタブレットからゆっくりと視線を上げ、夫の顔を見た。

「少年、ねえ……」

「ああ。一見すると目つきが悪くて、不機嫌そうな顔をしていたんだがね。いざというときには迷わず割って入ってきて、あの痴女を追い払ってくれたんだ。おまけに、震える私に缶コーヒーまで差し入れてくれてね……いやはや、最近の若い者も捨てたもんじゃない。銀髪……というか、少し色素の薄い髪をした、妙に達観した雰囲気の少年だったよ」

――銀髪の少年。

その特徴を聞いた瞬間、雪ノ下母の脳裏に、あのサイゼリヤで「あいつらを縛る呪縛から守りたい」とまっすぐに言い放った、あの生意気でひねくれた高校生の顔が鮮やかにフラッシュバックした。

(……比企谷くん、ね)

あの子が、よりによってうちの頼りない夫を助けたというのか。

母はクスリと小さく乾いた笑いを漏らすと、グラスに注がれた水を一口飲んだ。

「……あなたねえ、その少年の顔をよく覚えておきなさい」

「ん? なんだい、急に。恩返しでもするのかい?」

「恩返しというか……その少年はね、おそらく、最近我が家の娘たちをすっかり狂わせている、例の『比企谷くん』よ」

「――は……?」

夫は驚きに目を見開き、カップをソーサーにガチャリと音を立てて置いた。

「あ、あの時私を助けてくれた、あの高校生が……? いや、しかし……」

驚愕する夫を尻目に、母は窓の外の夜空を見つめながら、静かに、そしてどこか遠い過去を思い出すような声音で呟いた。

「……あの人はね、本当に不思議な少年だわ。私の時も、あの子たちの時も、いつの間にか当たり前のように他人の領域に踏み込んできて、勝手に救い出していく」

「君も、彼に会ったのかい?」

「ええ、少しね。……あの人を見ていると、昔のことを思い出すのよ。私たちが、まだ何かを『守りたい』と純粋に願えていた頃のね」

リビングの空気が、わずかに緩む。

しかし、母の表情はすぐに引き締まり、冷徹な大人の顔に戻った。彼女は紅茶のカップを手に取り、ポツリと言葉を継いだ。

「……ねえあなた。あの子について、もう一つ、知っておかなければならないことがあるわ」

「……なんだい?」

「あの子はね、昔……あの、雪乃が巻き込まれた『あの交通事故』のときも、現場に居合わせたらしいのよ」

「――ッ!」

夫の表情から、一気に血の気が引いた。

雪乃の人生を狂わせ、家族の間に大きな亀裂を入れるきっかけとなった、あの苦い記憶。その現場に、あの比企谷八幡という少年が関わっていたという事実。

静まり返ったリビングで、雪ノ下母は意味深な光を瞳の奥に宿しながら、冷たく静かに語り続けるのだった。

 

 

「――交通事故、だと……?」

夫の掠れた声が、静まり返ったリビングに響いた。

雪ノ下母は手元のティーカップをゆっくりとソーサーに置き、冷徹な響きを含んだ声で頷いた。

「ええ。あなたも覚えているでしょう、あの雪乃の事故の日のことを。あの日、雪乃が飛び出しそうになったのを庇って、一人の少年が車に撥ねられたのよ」

「まさか……その少年が、あの比企谷くんなのか……!?」

夫が思わず立ち上がりかける。あの当時、雪ノ下家は事故の処理と世間の目を恐れ、相手の身元について必死に調査しようとしたものの、警察の記録や相手方の強い意向(あるいは隠蔽工作)によって、肝心の「被害にあった少年の詳細」はなぜか不自然なほど煙に巻かれていた。

だからこそ、父も母も、あのとき雪乃を庇って傷ついた少年の顔など知らなかったのだ。

しかし、母の調べ、あるいは最近になって水面下で繋がった情報網が暴き出した真実は、彼らの想像を遥かに超えるものだった。

「……私も最近になって知ったのよ。あの子が、ただの一般家庭の生徒なんかじゃないってことにね」

「というと……?」

「あの子の家――比企谷家はね、表向きは普通のサラリーマン家庭を装っているけれど、そのルーツを辿れば、かつて我が家とも深い繋がりがあった『比企谷財閥』の血筋、その直系の一人よ。もっとも、色々な事情で本家からは離れ、今は細々と暮らしているようだけれどね」

比企谷財閥――。

その名前を聞いた瞬間、雪ノ下父は言葉を失い、その場にどっかりと座り込んだ。

経済界や裏社会において、その名前が持つ影響力は決して小さくない。特に、当時の雪ノ下家は政治的・社会的な立場を固めている最中であり、もし「雪ノ下家の娘のせいで、比企谷財閥の血筋の少年が重傷を負った」という事実が世間に、あるいは本家に知れ渡っていれば、それこそ家が一網打尽にされかねない致命的なスキャンダルになっていたはずだった。

「じゃあ……あのとき、相手の身元がピタリと途絶えたのは……」

「ええ。おそらく、比企谷家側が騒ぎを大きくすることを嫌い、裏で事を穏便に済ませたのでしょうね。被害にあったあの子自身も、自分の怪我のことより、周りが面倒なことに巻き込まれるのを嫌がって黙っていたらしいわ」

母の瞳の奥に、言いようのない複雑な感情が揺らめいていた。

あの事故のせいで、雪乃は深い罪悪感を抱え込み、心を閉ざすようになった。家族の間にも冷たい溝が生まれた。すべての元凶は「あの事故」であり、雪ノ下家は加害者として、その十字架をずっと背負い続けてきたつもりだった。

しかし――。

「……救われていたのは、私たちの方だったのね」

母は自嘲気味に、しかしどこか深く納得したように呟いた。

もしあのとき、比企谷八幡が雪乃を庇って撥ねられていなければ。もし彼が、その巨大な家柄の背景を盾にとって雪ノ下家を追及していれば、今の雪ノ下家は間違いなく崩壊していただろう。

彼は、自分の身体を犠牲にして雪乃を救っただけでなく、その圧倒的な重荷を、何も言わずに一人で引き受けて黙って去っていったのだ。

「そんなこととは露知らず……私はあの子を、ただの生意気なひねくれた少年だと思っていたよ……」

父は冷や汗を拭いながら、力なく頭を抱えた。

「本当にね」

母は立ち上がり、窓の外の夜景に目をやった。夜の闇の中に浮かぶ街の明かりを見つめながら、彼女の唇にふっと、今までにないほど穏やかで、そして確信に満ちた笑みが浮かぶ。

「……あの子は、最初から私たちのすべてを知っていたのかもしれないわね。それでもなお、あの子は何も言わず、私たちの前に立っている」

雪ノ下家を揺るがしかねない巨大な秘密と、命がけの恩義。

それをすべて背負いながら、相変わらずくだらない冗談を言い、泥臭く誰かを守ろうとしている少年――比企谷八幡。

「ねえ、あなた」

「なんだい?」

「もう、あの子たちの好きにさせてあげましょうよ。……あの男なら、我が家の呪縛ごと、すべてを預けるに足る『本物の男』よ」

リビングを包む空気は、もう重く冷たいものではなかった。

比企谷八幡という存在を知ってしまった雪ノ下家の両親は、それぞれの胸のなかで、静かにその少年の背中を受け入れる決意を固めていたのだった。

 

静まり返ったリビングで、夫は深々とため息をつきながら、自分の膝の上で組んでいた手をゆっくりとほどいた。

「……まあ、過去の因縁だの、比企谷財閥の血筋だの、そんな面倒くさい話は――今夜のところは、すべて聞いていなかったことにしようじゃないか」

夫のその言葉に、雪ノ下母はわずかに眉を寄せ、そしてクスリと皮肉めいた笑みを浮かべた。

「あら、あなたらしくもない。いつものあなたなら、損得勘定や保身のためにすぐ動き出しそうなものけれど?」

「やめてくれよ。あの少年の顔を思い出すだけで、昼間の『逆痴漢』の冷や汗がぶり返してくるんだ。それに……」

夫は苦笑いを浮かべながらも、窓の外の夜空をまっすぐに見据えた。

「理屈や損得じゃない。あのとき、情けない姿をさらした私を真っ直ぐに助けてくれて、おまけに不器用な缶コーヒーを置いていったあの少年の根性を、私は純粋に気に入ってしまったのさ。……ただ、それだけのことだよ」

怯える大人を見捨てず、面倒くさがりながらも手を差し伸べる。

家柄や肩書ではなく、一人の人間としての「器の大きさ」と「優しさ」に、父親として真っ直ぐに惚れ込んでしまったのだ。

その夫の言葉を聞いた雪ノ下母は、しばらくの間黙っていたが、やがてフッと息を抜き、グラスに残っていた水を飲み干した。

「……まったく。あなたにしては、珍しく真っ当な感想ね」

母は立ち上がり、夫の隣に歩み寄ると、同じように窓の外の夜空へと視線を向けた。その表情には、先ほどまでの冷徹なキャリアウーマンの仮面はなく、一人の母親としての穏やかな諦めと、確かな信頼の色が浮かんでいた。

「ええ、同意見だわ」

「おや、君もかい?」

「当たり前でしょう。あんなに生意気で、ひねくれた物言いをするくせに、肝心なときにはすべての面倒を一人で背負い込もうとする……あんな危なっかしくて、愛嬌のある男を、私たちが嫌いになれるわけがないもの」

冷酷な雪ノ下家の論理も、幾重にも張り巡らされた家柄の呪縛も、あの少年の前ではすっかり意味を失っていた。

「……さて。じゃあ、あの子たちがこれからどう暴れようと、私たちは余計な口を挟まないことだね」

「ええ。せいぜい、あの頑固な娘たちが彼をどうやって手に入れるのか、特等席で高みの見物としゃれ込むとしましょうか」

二人の間で交わされた、静かで、しかし絶対的な「承認」。

比企谷八幡という一人の少年は、知らぬ間に雪ノ下家の「最高権力者」である両親の心を完全に掌握し、文字通り「お墨付き」をもらってしまっていたのだった。

 

その数日後の放課後。

八幡はまたしても、あの見慣れた赤茶色の看板――「サイゼリヤ」のボックス席に一人で座っていた。

「……なんで俺は、こうも定期的にサイゼリヤでイベントが発生するんだ……」

うんざりしながらミラノ風ドリアを一口食べていたその時、向かい側の席にスッと影が落ちた。見上げると、そこにいたのは先日、駅のガード下で「逆痴漢」から救い出した、あのスーツ姿の初老の男性だった。

「やぁ、少年。また会ったね」

「……って、おっさん!? なんでまたここで?」

「いや、たまにはこういうカジュアルな店も悪くないと思ってね。……おや、席が空いているかい?」

勝手に腰を下ろしたその男性は、メニューも見ずに「ほうれん草のソテーと、エスプレッソを」と注文する。

――このオーダーの仕方の既視感に、八幡は心の中で「この夫婦にしてこの夫ありだな……」と盛大に遠い目をしたが、口には出さなかった。

「で、ですね。おっさん、前回は随分とボロボロでしたけど、今日は大丈夫なんですか?」

「はは、おかげさまでね。すっかり元気になったよ。……まあ、仕事のほうは相変わらず胃が痛くなるようなことばかりだがね」

男性は苦笑しながらカップに口をつけた。

身なりは相変わらず上品だが、前回のような怯えた様子はなく、どこか落ち着いた、それでいてすべてを見透かすような知的で穏やかな光をその瞳に宿している。もちろん、八幡はこの目の前の初老の男性が、あの雪ノ下姉妹の父親であり、さらにはこの街の政治や経済の裏で絶大な権力を持つ「雪ノ下家の当主」であることなど、微塵も気づいていない。

男性は、ただの「少し物分かりのいい、頼りないサラリーマン風のおっさん」として、八幡に穏やかに微笑みかけた。

「そういえば少年、君は普段この街――千葉で暮らしていて、どう感じているんだい? 例えば……そうだな、政治や行政の視点からではなく、一人の高校生の視点から見て、どうすればこの千葉という街はもっと良くなると思う?」

急に飛び出した、いかにもお堅い社会派の質問。

八幡はフォークをピタリと止め、ジト目で目の前のおじさんを観察した。

「は……? なんですか急に。俺はただ、安くてカロリーの効率がいいドリアを胃に流し込みたいだけの一般高校生なんですけど。なんで俺にそんなお上の政治みたいなこと聞くんですか」

「いやなに、少し気になってね。日々、面倒くさい大人たちの利害関係や建前ばかりを見ていると、時々、本当に現場を見ている若者たちの素直な意見が聞きたくなるのさ。……君なら、何か面白い答えを言ってくれる気がしてね」

おじさんは興味深そうに腕を組み、八幡の答えを待っている。

八幡はため息をつき、やれやれといった調子で首を振ると、フォークを置いてぼそっと呟いた。

「……千葉が良くなるかどうかは知りませんけどね」

「ほう?」

「少なくとも、無駄に広いこの土地で、自分の足で歩こうともせず、誰かが敷いたレールの上を上手に歩くことだけを『正解』だと思い込んでいる大人たちが、余計なプライドとシステムを振り回すのをやめることじゃないですかね」

それは、自分を縛る家や社会のシステム、そしてかつての自分自身や大人たちに向けられた、ひねくれていながらも核心を突いた本音だった。

「誰もが自分の居場所を探して、他人の目を気にして、波風立てないように生きてる。……そんな窮屈な同調圧力の網を、少しだけでも緩めてくれるだけで、この街はもうちょっと生きやすくなるんじゃないですかね。知らんけど」

投げやりな最後に、八幡は再びドリアにフォークを突き刺した。

――その答えを聞いた瞬間。

雪ノ下父の動きが、わずかに止まった。

その瞳の奥に、かつて自分たちが娘たちに押し付け、そして今まさに彼女たちが自らの手で打破しようとしている「家柄」や「正しさ」という名の呪縛の影が重なる。

一人のひねくれた高校生が、世の中の理不尽をその身で受け止めながら出した結論は、あまりにもシンプルで、あまりにも本質を突いていた。

男性はしばらくの間、じっと八幡の顔を見つめ、やがてふっと、今日一番の深く温かい笑みを浮かべた。

「……なるほどね。同調圧力の網を、緩める、か」

「ななんですか、小賢しいこと言ってすいませんね」

「いや、実に素晴らしい意見だ。……その若者の言葉、しかと上の連中に伝えておこうじゃないか。もしかしたら、少しは政治のほうもマシになるかもしれない」

「おっさんがどこにどんな影響力持ってるのか知りませんけど、せいぜい頑張ってくださいよ」

サイゼリヤのボックス席に流れる、どこか穏やかな空気。

この時、お互いの正体を知らぬまま、雪ノ下家の当主と比企谷八幡の間で交わされた何気ない問答は、確実にこの街の未来を、そして二人の関係を静かに動かしていくのだった。

 

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