数日後。
千葉県の教育行政を揺るがす、ひとつの大きな方針転換が静かに、しかし確実に行われようとしていた。
県庁や教育委員会の会議室。
これまで上意下達のピラミッド組織であり、現場の教師や生徒たちをガチガチの規則と前例主義で縛り付けていた行政のシステムが、大幅に見直されることになったのだ。
「――これより、現場の裁量権を大幅に拡大する。画一的な指導要領の押し付けではなく、各学校、そして現場に立つ者たちの判断を最優先とするボトムアップ方式への移行を正式に承認する」
その会議の場で、誰よりも強い発言力を持ち、圧倒的な説得力で周囲の反対をねじ伏せたのは、他ならぬ雪ノ下家の当主――雪ノ下議員(父親)だった。
彼の背後には、同じく水面下で根回しを支えていた妻の影もある。だが、今回の改革をここまで強硬に、そして迅速に進めさせたのは、他でもない。数日前にサイゼリヤのボックス席で聞いた、一人のひねくれた高校生の言葉だった。
『大人が余計なプライドとシステムを振り回すのをやめ、同調圧力の網を少しだけでも緩めてくれるだけで、この街はもっと生きやすくなる』
あのとき少年に言われた言葉の重みが、長年政治の世界に身を置いてきた彼の胸に深く突き刺さっていた。
上が決めたルールに現場が縛られ、息苦しさを強いられている現状を、これ以上放置するわけにはいかない。娘たちが自分の足で立ち、古い呪縛を打破しようともがいているのなら、大人の側もまた、変わらなければならない――そう彼は決意していたのだ。
教育委員会を通じた現場の権限強化と、ボトムアップ化への舵取り。
その雪ノ下議員の意見が圧倒的な政治力で通ったことにより、千葉県の教育現場、そして街全体を覆っていた冷たく硬質な空気は、驚くほど劇的に変わり始めた。
――それから数週間後の総武高校。
校内を吹き抜ける風は、相変わらず少し肌寒い初秋のものだったが、生徒たちの間に漂う雰囲気はどこか違っていた。
過剰なまでの校則の縛りや、息の詰まるような同調圧力が少しずつ和らぎ、生徒たちが自分たちの意思で部活動や行事の運営に主体的に取り組む空気が生まれていた。
「……ねえ、最近さ、学校の雰囲気すごくない?」
部室のソファに腰掛け、ユマや結衣と話しながら、川崎沙希は不思議そうに首を傾げた。
「うん、なんだか変なピリピリした感じが消えて、すごく過ごしやすくなったよね」
平塚静(あるいは学校の教師陣)もまた、職員室で「最近の教育委員会は急に現場の意見を汲むようになったな……一体どうしたんだか」とコーヒーを飲みながら首をひねっていた。
その変化の理由など、現場の高校生たちが知る由もない。
ただ、その「空気を柔らかくした張本人」の一人である雪ノ下雪乃は、生徒会の資料に目を通しながら、ふっと窓の外の青空を見上げていた。
(……お父様が、あんな改革を急に進めるなんてね)
家庭内の冷たい均衡が崩れ、家族のあり方が変わり始めたこと。そして、街全体の空気が少しだけ優しくなったこと。そのすべての中心に、あのひねくれた少年の存在があることを、雪乃はなんとなく察していた。
同じ頃。
廊下の窓際で、相変わらず一人缶コーヒー(もちろんマックスコーヒーだ)を片手に、遠い目をしながら外を眺めている比企谷八幡の姿があった。
「……はぁ。なんか最近、妙に過ごしやすい気がするけど……気のせいか? いや、どうせまた何か裏があるんだろ」
相変わらず疑り深く、ひねくれた独り言を呟く八幡。
しかし、彼が何気なく吐き出した小さな本音が、知らず知らずのうちに街を動かし、まわりの人間たちの未来を少しずつ、しかし確実に温めていくのだった。
ある日の放課後、またしてもお馴染みの赤茶色の看板――「サイゼリヤ」のボックス席。
「……あのさ、おっさん」
八幡はタバスコをたっぷりかけたミラノ風ドリアを目の前にしながら、向かい側に座るスーツ姿の初老の男性――いつもの「おっさん」をジト目で睨みつけていた。
「どうしたんだい、少年。そんなに不満そうな顔をして。ここの小エビのサラダは絶品だというのに」
「いや、何で俺はこうも定期的にあんたとここで遭遇するんですかね。ストーカーですか。あと、おっさんは毎回それしか頼まないのかよ」
ぼやきつつも、八幡は目の前の男の雰囲気が、いつもの「頼りないサラリーマン風」から、どこかピリッとした大人の圧力を纏っていることに気づいてわずかに眉をひそめた。
男性はふっと静かに笑うと、グラスの水を一口飲み、テーブルの上に置いたスプーンをカチャリと音を立てて揃えた。
「――そろそろ、ちゃんと名乗っておいたほうがいいだろうね」
「は? 今更名前なんて……」
「私の名前は、雪ノ下……。君の知っている、あの子たちの父親だ」
「……は?」
八幡のフォークがピタリと止まった。
頭の中で、数日前に聞いた「雪ノ下姉妹の父親」というワードと、目の前のおっさんの顔が猛烈な勢いで一致していく。
「あ、れ……? え? じゃあ、あの時逆痴漢から助けたおっさんは……雪乃とか陽乃の……」
「そう、私だ。あのときは本当に世話になったね」
さらに、男性はクスリと余裕の笑みを浮かべ、追撃するように衝撃の事実を告げた。
「そしてもう一つ。私の職業はね、一応こう見えても……千葉県を拠点に活動している、現職の県議会議員なのだよ」
「――県議……!?」
八幡は思わず椅子からのけぞりそうになった。あの時、ただの気さくなおっさんだと思って「おっさん、おっさん」と呼んでいた相手が、まさか千葉県の政治の中枢にいる大物議員だったとは。頭の中で警報音が鳴り響く。
しかし、雪ノ下父はそんな動揺する八幡を他所に、穏やかな、しかしどこか深い敬意を込めた目を向けた。
「驚かせてすまなかったね。だが、君にどうしても伝えておきたかったことがあるんだ」
「……なんですか、勘弁してくださいよ。俺、何かやばい法律でも破りました?」
「いや、逆さ。君が以前、ここで私に言った意見――『大人が余計なプライドやシステムを振り回すのをやめ、同調圧力の網を少しだけでも緩めてくれればいい』という言葉をね」
雪ノ下父はまっすぐに八幡を見据えた。
「あれから熟考し、私は教育委員会を通した現場の裁量権の拡大、そしてボトムアップ化への大規模な方針転換を県政として動かした。結果として、私の意見として正式にその方針が通り、今、千葉の教育現場や街の空気が大きく変わりつつある」
「……は?」
「つまりね、少年。君のあの日の何気ない愚痴と意見は、そのまま私の政治を通じてこの千葉のシステムとして採用させてもらったということさ。……よくやったな、比企谷くん」
信じられないという顔で、八幡は絶句した。
自分がサイゼリヤで愚痴ったただのひねくれた一言が、まさか一介の県議会議員を動かし、県全体の教育改革という大事件に発展していたなんて、夢にも思わないだろう。
「ちょっ……まっ……! 俺の適当な戯言を真に受けてどうするんですか! もし何か変なことになってたら俺のせいにされるんですか!」
「はっはっは! 責任ならこの私がすべて背負うさ。それに、硬直していた大人たちのシステムを壊すには、君のようなフラットな視点がどうしても必要だったんだよ。我が家の頑固な娘たちを救い、ついにはこの千葉の空気まで変えてしまった君には、いくら感謝してもし足りないくらいだ」
満足そうに微笑む雪ノ下父の姿を前に、八幡はただ頭を抱えるしかなかった。
「……もうやめてくれ。俺はただ、静かにサイゼリヤでドリアを食いたいだけなんです……」
「そう言わず、まぁこれを食べて落ち着きたまえ」
クスリと笑いながら小エビのサラダを勧める県議会議員と、盛大に頭を抱える比企谷八幡。
こうして、一人のひねくれた高校生の言葉から始まった千葉の大改革は、静かに、そして劇的に、二人の男の奇妙な信頼関係のもとで結実していくのだった。
サイゼリヤのボックス席に、ふっと穏やかな、しかしどこか重みのある沈黙が落ちた。
さきほどまでの余裕に満ちた県議会議員の顔から、ふっと仮面が剥がれ落ちたように、雪ノ下父の表情に深い影が差した。彼はグラスに注がれた水をじっと見つめ、絞り出すように、しかし逃げずにこう呟いた。
「……ねえ、比企谷くん」
「……なんですか、おっさん」
「私はね、父親として、あの人たち――妻や、あの子たちに、ずっと間違ったやり方を押し付けてきたんじゃないかと、今になって強く後悔しているんだ」
家を守るため、正しいレールを敷くため、という名目のもとで、家族をシステムの中に閉じ込め、自分の手で縛り付けてしまったこと。陽乃が仮面を被るようになり、雪乃が傷つき、孤立していくのを見ながら、正しい父親としてそこから目を背けていたことへの痛切な自責の念が、そこにはあった。
「妻や娘たちを縛っていたのは、他の誰でもない、私自身だったのかもしれん。……父親として、いまさら彼女たちにどう向き合えばいいのか、私には分からないんだよ」
かつて千葉の政治を動かした男が、一人の高校生の前で、ひそかに弱音を吐露する。
その言葉を聞いた八幡は、面倒くさそうに頭を掻きながら、目の前のミラノ風ドリアの皿から視線を外し、ポツリと言った。
「そんなの、他人に聞く話じゃないでしょ」
「……そうだな」
「だけど――」
八幡はコップの水をごくりと飲むと、いつも通りの気だるげな、しかし妙にまっすぐな目で父親を見据えた。
「そのまま伝えればいいんじゃないですかね。自分の言葉で、不器用にでも」
「……私の言葉で?」
「ええ。カッコつけて立派な大人の理屈並べるから、余計にこじれるんですよ。間違ってたなら謝って、これからは縛るのやめるって、自分の口で言えばいいんです。どうせ家族なんですから、伝わるときは伝わりますよ。……知らんけど」
投げやりな付け足しをしつつも、それは間違いなく、不器用ながらも他人の傷に向き合ってきた八幡なりの精一杯の助言だった。
その言葉を聞いた雪ノ下父は、しばらくの間、微動だにせず固まっていた。
やがて、彼の口元に、どこか肩の荷が下りたような、そして心からの安堵に満ちた笑みが浮かんだ。
「……はは。そうだな。君の言う通りだね」
父親はテーブルの上に置かれていた缶コーヒー――八幡が差し出したわけではないが、いつの間にかそこに置いてあったマックスコーヒーの缶を手に取り、プルトップを引き抜いて一口飲んだ。
甘い。想像以上に強烈な甘さが口の中に広がる。
日頃、高級なエスプレッソやワインを好む彼にとって、それはあまりにもジャンクで、あまりにも子供っぽい味だった。
しかし、なぜだろう。その甘さは、不思議と凝り固まっていた胸のつかえをスッと溶かしていくようだった。
(……なるほどね)
この甘ったるいコーヒーをいつも好んで飲み、冷えた世の中を斜めから見つめながら、それでも肝心なときには誰よりも真っ直ぐに手を差し伸べる。
娘たちが、そしてあの完璧主義の妻までもが、なぜこのひねくれた少年にこれほどまでに狂わされ、惹かれていらっしゃるのか。その理由が、今ようやく心の底から理解できた気がした。
「……美味いとは言えないが、悪くない味だ」
雪ノ下父は缶コーヒーをそっとテーブルに置き、席から立ち上がった。その背中は、先ほどまでの迷いや重圧が嘘のように、どこかすっきりと軽やかだった。
「ごちそうさま、比企谷くん。いい話が聞けたよ。……今度こそ、父親として家族に向き合ってみるさ」
「あ、はい。勝手にどうぞ」
ひらりと手を振って去っていく背中を見送りながら、八幡は「まったく、どいつもこいつも勝手な生き物だぜ」と大きなため息をつく。
サイゼリヤの賑やかな店内に溶け込むように、比企谷八幡を巡る家族の物語は、静かに、そして確かな温もりを持って動き出していた。
サイゼリヤの少し離れたボックス席の陰。
そこには、父親が立ち去る一部始終を、息を潜めて聞いていた雪ノ下陽乃の姿があった。
「…………」
いつも完璧な笑顔を張り付け、冷徹な大人の仮面を被り続けてきた彼女の瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
父親という巨大な壁。自分たちを縛り付け、決して本当の姿を見ようとしなかった家という呪縛。ずっと、誰も自分たちの本当の苦しみなんて理解していないと諦めていた。
――だが、違った。
あの厳格だった父親もまた、同じように苦しみ、自分の過ちを深く悔いていたのだ。
父の口から零れ落ちた「家族に向き合ってみる」という言葉は、長く冷めきっていた雪ノ下家の空気を溶かすには十分すぎる温もりを持っていた。その真実を知った瞬間、陽乃の胸の奥でずっと凍りついていた何かが音を立てて崩れ、あふれ出る感情をどうしても抑えきれなかった。
そして、そのすべてのきっかけが――目の前で面倒くさそうにミラノ風ドリアを食べている、あのひねくれた少年の存在だということも、陽乃には痛いほど分かっていた。
(……本当に、どこまでずるい人なのよ、比企谷くん……)
陽乃は震える指先でそっと頬の涙を拭うと、二度と戻らないようにしっかりと涙を引っ込めた。
父が変わり、家が変わっていく。その未来の扉をこじ開けてくれたのは、いつだってこの頼りない高校生だった。言葉には言い表せないほどの感謝と、胸を締め付けられるような深い恩義が、温かい波となって陽乃の心を満たしていく。
これ以上ここにいれば、せっかくの気高い仮面が完全に剥がれてしまう。
陽乃は音を立てないようにそっと席を立ち、八幡に声をかけることもせず、ただ静かに、しかし晴れやかな足取りでサイゼリヤの出口へと歩いていった。
遠ざかる背中を見送る者は誰もいない。
ただ、残された空気の中に、彼女の確かな決意と、静かな救済の余韻だけが優しく漂っていたのだった。
サイゼリヤの自動ドアを抜け、夕暮れの街路樹のなかに身を置いた雪ノ下陽乃は、冷たい秋の風を胸いっぱいに吸い込んだ。
心臓の鼓動が、まだ少しだけうるさい。
これまで「完璧な雪ノ下家の長女」として、作り物の笑顔と冷徹な頭脳だけで周囲を翻弄し、すべてを達観した気でいた自分が、こんなにも子供のように涙を流し、胸を熱くさせられている。
(……私、ねえ……)
歩きながら、陽乃は自分の胸にそっと手を当てた。
最初は、その一風変わったひねくれた視点や、自分たちの仮面を剥ぎ取っていく危うさに、ただ興味を惹かれていただけだったはずだ。面白半分にちょっかをかけ、彼の反応を楽しんでいた。
けれど、いつの間にか違っていた。
あの少年は、自分の家族の呪縛をも、傷つきながらも不器用に、そしてまっすぐに受け止めようとしてくれた。打算も利害関係もなく、ただ目の前の人間が苦しんでいるからという理由だけで、父親を救い、自分たちの世界を優しく変えてしまった。
――恋心。
そんな甘ったるい言葉だけでは、この胸の高鳴りを表すことなど到底できない。
それはもっと圧倒的な、一人の人間としての「大きさ」と「優しさ」に対する、強烈な敬愛だった。自分よりずっと年下の、冴えない目をした高校生の一生懸命な生き様に、この大人の仮面をかぶった自分が、どれほど救われてしまったことか。
「……本当に、敵わないわね」
陽乃はふっと小さく呟くと、夜空に向かって綺麗に微笑んだ。
しかし、その瞳の奥には、いつもの余裕の仮面ではなく、燃え盛るような強い光が宿っていた。
彼女は知っている。
妹の雪乃もまた、あの少年の隣に立つために、自分の足で必死にもがいていることを。そして、そんな彼に救われた父親も母親も、今や変わろうとしていることを。
そんな家族の中で、自分だけがいつまでも「お姉ちゃん」という古い仮面の下に隠れていていいはずがない。
彼が命がけで切り拓いてくれたこの新しい世界で、彼が守ろうとしてくれたこの場所で、自分もまた過去の呪縛や偽りから解放されなければならない。
――そうでなければ。
あのひねくれた、誰よりも真っ直ぐな少年の隣に、胸を張って並び立つ資格などない。
「待っててね、比企谷くん」
誰に聞かせるわけでもなく、陽乃は力強く呟いた。
甘えを捨て、一人の自立した人間として、彼の前に堂々と立てる女性になる。その決意を胸に刻み込んだ彼女の足取りは、先ほどまでの迷いが嘘のように、どこまでも軽やかで美しく、未来へと向かってまっすぐに伸びていくのだった。
その日の夜。
雪ノ下家の広大なダイニングルームには、これまで幾度となく漂ってきた凍てつくような冷気も、息が詰まるような沈黙もなかった。
そこにあったのは、あまりにも自然で、そしてどこか懐かしい「家族の団欒」だった。
中央のテーブルには、母が手ずから用意した、あるいは全員で囲むのにふさわしい温かな料理が並んでいる。
以前の雪ノ下家であれば、それぞれの思惑や「正しさ」の仮面がぶつかり合う戦場のような空間だったはずなのに、今の空気は嘘のように柔らかく、どこか穏やかだった。
「……これ、味付けが少し薄いのではないかしら」
母がフォークを動かしながら、ふとそんな些細な小言をこぼす。
「そうか? 私にはこれくらいがちょうどいいがね」
父が穏やかな笑みを浮かべながら、それを優しく受け流す。かつて威圧感の塊だった父親の顔には、もう無駄な鎧はなかった。
その向かい側で、陽乃はグラスの水を傾けながら、クスリと楽しそうに微笑んでいた。
「お父様、最近すっかり丸くなったんじゃない? たまには美味しいものでも食べさせてよね」
「はは、これでも昔はそれなりに苦労したんだよ、陽乃」
そして、そのやり取りを少し気恥ずかしそうに、しかし真っ直ぐな瞳で見つめている雪乃がいた。
「……お母様も、お父様も、あまり無理をなさらないでくださいね」
雪乃のその言葉に、母は驚いたようにわずかに目を見張り、そして――これまでに見たこともないほど穏やかな、母親としての微笑みを返した。
誰もが、分かっていた。
このバラバラだった家族が再び一つに繋がり、温もりを取り戻した理由を。
自分たちを縛り付けていた冷たい呪縛を溶かし、父親の背中を押してくれたのは誰なのかを。
会話の端々、テーブルの上の空気、そして家族一人ひとりの胸の奥で、あのひねくれた少年の存在が確かな光を放っていた。
名前こそ出さないものの、全員の心の中にはっきりと「比企谷八幡」という少年の顔が浮かんでいる。
(まったく……ずるい人よね、本当に)
陽乃はワイングラスに映る自分の顔を見つめながら、心の中で小さくため息をついた。
(あのバカな少年が……私たちの家族を、こうして変えてしまったのね)
雪乃は胸の奥で熱いものがこみ上げるのを覚えながら、そっと視線を窓の外の夜空へと向けた。
遠く離れた場所で、きっと今頃、彼はいつものように面倒くさそうにマックスコーヒーを飲みながら、どうでもいい独り言を呟いていることだろう。
そんな彼の圧倒的な優しさと、ひねくれた不器用さに救われた家族は、静かな夜の光の中で、穏やかな笑い声を響かせながら、それぞれの明日へと歩き出していくのだった。
川崎の限界と八幡の提案
ある日の放課後、総武高校の教室。
窓際の席でいつものように気だるげに外を眺めていた八幡は、前方の席で机に突っ伏したまま微動だにしない川崎沙希の姿に気づいた。
「……おい、川崎」
声をかけても、返事はない。ただ、浅く規則正しい寝息だけが聞こえてくる。
普段から家事や弟の世話、そして深夜のアルバイトを掛け持ちしている彼女が、どれほど過酷な生活を送っているかは八幡も薄々察していた。だが、最近の彼女の睡眠不足はあきらかに異常だった。
(……また、あの夜のバイトかよ)
心配になった八幡が彼女の肩を軽く揺すろうと手を伸ばしたその時、川崎の腕の下から一枚のプリントがハラリと床に落ちた。
拾い上げて見ると、そこには大手学習塾の案内パンフレットと、冷徹に並ぶ高額な月謝の金額が書かれていた。大学受験を見据え、さらに本格的に稼いで塾に通わなければならないという彼女なりの焦りが、そこには痛いほどに滲んでいた。
しばらくして、うっすらと目を覚ました川崎は、目の前に立つ八幡を見て慌てて身を起こした。
「っ……! 比企谷……? なんだよ、人の顔ジロジロ見て」
「いや、別に。ただ、このままじゃお前が過労で倒れるか、授業中に幽霊になるかの二択だなと思ってな」
「……余計なお世話だ。私には、やるべきことがあるんだよ」
強い口調で突っぱねる川崎だったが、その目の下には濃いクマがあり、顔色も優れない。
八幡は小さく息を吐くと、ポケットに両手を突っ込んだまま、呆れたような、しかしどこか真剣なトーンで言い放った。
学年3位のプライドとスカラシップ
「バイトなんて、もうやめとけ」
「は……? なに言ってんだよ、金が必要なんだから――」
「金なら、別の方法がある。お前が塾に行く必要もない。……俺が、勉強を教えてやるよ」
教室の空気が、一瞬で凍りついた。
川崎は目を丸くし、信じられないものを見るように八幡の顔を凝視した。
「お、お前が……? 勉強を……?」
「なんだよ、その不審者を見るような目は。一応言っとくが、俺の定期テストの順位、舐めてもらっちゃ困るぞ。地味に学年3位だからな、俺」
普段は死んだ魚のような目をしているが、効率的な暗記と土壇場のヤマ張りにかけては、八幡の頭脳は総武高校でもトップクラスの隠れ実力派だった。
「……本気なのかよ」
「本気も何も、このままお前が倒れたらこっちが気まずいだろ。いいか、これからは俺が特製のスパルタ勉強会を開いてやる。だから、深夜の無茶なバイトは減らせ」
川崎はしばらく言葉を失っていたが、やがてプルプルと震えながら、真っ赤になった顔をそっとそっぽに向けた。
「……っ、勝手なことばかり言いやがって……。でも……ありがとよ、比企谷」
「おう、せいぜい感謝しろ。あ、もちろん授業料はタダだ、代わりにテストで俺をビビらせるくらいの点数取ってみろよ」
二人揃っての栄冠と、焦る雪乃
それからの日々、放課後の図書室や静かなカフェの一角で、八幡による泥臭くも的確な受験対策が始まった。
川崎の基礎の抜けを徹底的に洗い出し、最短ルートで点数に繋げる八幡の指導は、高価な塾のカリキュラムよりも遥かに効率的だった。川崎もまた、その期待に応えるように猛然と食らいついていった。
そして、数ヶ月後――。
学期末の総合テストと、外部模試の結果が発表された日。
校内掲示板の前で、生徒たちがざわついていた。そこには、推薦枠や特待生制度である「スカラシップ(学費全額免除)」の合格者名簿が貼り出されていたのだ。
「おい、マジかよ……特待生に、川崎の名前があるぞ……!」
「しかも、もう一人は……えっ、比企谷八幡……!?」
どよめく周囲の視線の中、名簿の端に並んで記された二つの名前。
川崎沙希は、自分の目を疑うように何度も名簿を見つめ、やがてこみ上げてくる熱いものをこらえながら、力強く拳を握りしめた。バイトに頼らずとも、自らの実力と、隣にいるひねくれた少年の助けによって、彼女は自分の未来を切り拓いてみせたのだ。
「……やったな、川崎」
「ああ……! 本当に、ありがとよ、比企谷!」
少し離れた廊下の角。
その光景を目の当たりにした雪ノ下雪乃は、手元の生徒会資料をぎゅっと強く握りしめていた。
(……ちょっと、待ちなさいよ……)
雪乃の胸の内で、言葉にできない焦りと、どこかモヤモヤとした波立ちが急激に広がっていく。
いつの間にか、川崎があの少年の隣でそんな大きな成果を掴み取っていたこと。そして、相変わらず自分の知らないところで他人の面倒を完璧に見て、涼しい顔をしている比企谷八幡という存在の大きさに、彼女は頭を殴られたような衝撃を受けていた。
(私だって……私だって、あの人の隣に並ぶために……!)
学年トップの座を誇る雪乃にとって、勉強の遅れに対する焦りではない。
彼に追いつきたい、彼にとっての「並び立つ存在」でありたいと願う少女のプライドが、心の中で激しく火花を散らし始めていた。
生徒会への立候補
放課後の部室。ティーカップに注がれる紅茶の湯気が、静かな室内にふわりと立ち上っていた。
いつものように静かに本を読んでいた八幡の前に、雪乃がスッと一枚の用紙を置いた。
「……これ、なんだ?」
八幡がジト目で目を向けると、そこには「生徒会役員立候補届」と書かれていた。
「そのままの意味よ。私、生徒会に入ることにしたわ」
「は? 今更だろ、お前。生徒会なんて面倒くさい雑務の温床だぞ。陽乃さんにでも脅されたのか?」
呆れたように尋ねる八幡に対し、雪乃はいつもより少しだけ真剣な、しかし揺るぎない眼差しをまっすぐに向けた。
雪乃の決意と「理由」
「脅されたわけじゃないわ。……ただ、父の件を聞いたのよ」
「父の件……って、おっさんの教育改革か?」
「ええ。あの人が急に方針を変えて、千葉全体の空気を変えた裏に、あなたのくだらない愚痴と意見があったそうね。一介の高校生であるあなたが、大人たちの硬直したシステムを外側から動かした……それを知ってしまったのよ」
雪乃は紅茶のカップをソーサーに置き、ふっと自嘲気味に、しかし力強く微笑んだ。
「父や母があれだけ変わり、あなたが知らないところで誰かを救っているというのに、いつまでも奉仕部という小さな部室の中に閉じこもって、綺麗事を並べているだけではいけないと思ったの。学校くらいは、私の手で変えなければならないわ」
「……お前が生徒会で何をする気だ」
「綺麗事かもしれないけれど……学校から理不尽なイジメや、無駄な同調圧力をなくしたいの。誰もが自分の足で立ち、息苦しさを感じずに過ごせる場所にするために、私が制度やシステムの内側から変えてみせるわ」
その言葉には、かつての「正しさを押し付けるだけの雪乃」の姿はなかった。自分の弱さと向き合い、誰かのために本気で変わろうとする強い覚悟が宿っていた。
だが、雪乃はそこでわずかに頬を赤らめ、視線を少しだけ逸らした。
「……それに、もう一つ理由があるわ」
「ん? なんだよ」
「川崎さんがあなたに勉強を教わって、あんな大きな成果を出したでしょう? あの光景を見て……私は、すごく悔しかったのよ」
「は……? 川崎の勉強と何が関係あるんだよ」
「関係大ありよ! あなたが誰かを救うとき、いつも私の知らないところで勝手に完結しているなんて許せないわ。……それに、あなたにばかりカッコいいところを奪われて、いつまでも引き離されているわけにはいかないのよ」
雪乃は拳をぎゅっと握りしめ、負けず嫌いな笑みを浮かべた。
「私はあなたに負けたくない。あなたと対等な立場で、同じ景色を見るために……私を生徒会に迎えなさい、比企谷くん」
八幡の微笑み
一瞬、言葉を失った八幡だったが、目の前で真っ直ぐに自分を見据える少女の強い決意を感じ取り、ふっと息を漏らした。
「……まったく。お前という奴は、相変わらず負けず嫌いだな」
「なにか文句でも?」
「いや、文句はないさ」
八幡はいつも通りの気だるげな調子を崩さなかったが、その口元には、隠しきれない優しく、そして誇らしげな笑みが浮かんでいた。
面倒くさいことに巻き込まれるのは相変わらずご免だ。けれど、自分の目の前で立ち止まらずに変わり続け、いつの間にか自分を追い越そうとする彼女たちの姿は、紛れもなく眩しかった。
「好きにすればいいさ。生徒会くだりの雑務で泣き言言っても、手伝ってやらないからな」
「ふっ、誰があなたになんて頼むものですか。見ていなさい、比企谷くん。私が生徒会から、この学校を完全に変えてみせるわ」
窓の外の夕焼けが、二人の影を温かく染め上げていく。
それぞれの場所で変わり始めた歯車は、確実に、しかし穏やかに未来へと動き出していたのだった。
生徒会選挙と、想定外の「お願い」
放課後の奉仕部室。
すっかり夕暮れに染まった部屋の中で、雪乃はきっちりとアイロンの掛けられた生徒会の腕章を置き、じっと八幡のほうを見据えていた。
「――というわけで、比企谷くん。私に協力しなさい」
「は? なんで俺が、お前の生徒会長選の応援演説なんかしなきゃいけないんだ。却下だ、帰る」
八幡は即座にバッグを掴んで立ち上がろうとしたが、雪乃は微動だにせず、冷徹かつ圧倒的なトーンでこう言い放った。
「ダメよ。拒否権はないわ」
「なんだその横暴な女王様采配は。俺はただの一般生徒だぞ」
「一般生徒が学年トップの特待生を片方に、もう片方で川崎さんをスカラシップに押し上げるわけがないでしょう。……それにね」
雪乃はふっと視線を外し、わずかに耳たぶを赤らめながらも、逃げない目で八幡を直視した。
「嫁さん候補の頼みも、聞けないのかしら?」
「……は?」
あまりの直球すぎるワードに、八幡の動きが完全にフリーズした。
耳を疑い、もう一度目の前の少女の顔を確認するが、雪乃は照れ隠しを必死に押し隠すように、少しツンとした表情で腕を組んでいる。
「な、なんだよ急にその不意打ちの殺し文句は……! お前、そういうセリフをどこで覚えてきたんだよ!」
「言わせないでちょうだい……! とにかく、私にはあなたの力が必要なのよ。この学校の空気を本当に変えるためには、私の正論だけじゃなくて、あなたのそのひねくれた、でも本質を突く言葉の力がね」
顔を真っ赤にしながらも、真っ直ぐにそう言い切る雪乃を前にして、八幡はこれ以上逃げられないことを悟った。
やれやれと始まる原稿作り
「……はぁ。本当に、お前という奴は……」
八幡は頭を抱え、ガシガシと自分の髪を掻きむしった。
ここで断ったら男がすたるとか、そういう熱い理由じゃない。ただ、これ以上真っ直ぐな目でそんな爆弾発言をされたら、断る選択肢など最初から用意されていないも同然だった。
「わかったよ。やればいいんだろ、応援演説の原稿な」
「本当……?」
「その代わり、後で缶コーヒー一本奢れよ。マックスコーヒーな」
ふっと緩んだ八幡の表情を見て、雪乃の顔にパッと華やかな笑みが広がった。
「ふふ、いくらでも奢ってあげるわ。……さあ、書きなさい、比企谷くん」
机の前に座らされた八幡は、気だるげにペンを手に取り、真っ白な用紙に向き合った。
「こんなの、どうせ当たり障りない綺麗事並べときゃいいんだろ……」とぶつぶつ呟きながらも、彼の頭脳はすでにフル回転していた。
学校の不毛な同調圧力、大人たちの敷いた冷たいレール、そして生徒たち自身が自分の足で立つことの大切さ。
ただの綺麗事ではなく、自分がこの街で見てきた現実と、あの雪ノ下父との対話、そして何より目の前の少女が抱く本気の覚悟を、泥臭い言葉でどう翻訳すべきか。
「――おい、ここ、『私たちがルールに従うのではなく、ルールが私たちのためにあるべきだ』ってフレーズ、少しトゲが強すぎないか?」
「いいえ、そのままいきなさい。それがあなたらしいわ」
「はいはい、おっしゃる通りで……っとに、こき使いやがって……」
カリカリと原稿用紙を走らせる音が、静かな部室に心地よく響く。
文句を言いながらも、その背中は不思議と頼もしく、雪乃はその横顔を少しだけ誇らしげな、そして愛おしそうな瞳で見つめていた。
いよいよ始まる生徒会選挙。
ひねくれた少年の書いた「型破りの応援演説」は、総武高校の空気を、そして二人の関係をさらに大きく変えていくことになるのだった。
異例の全校集会と、雪乃の宣戦布告
総武高校の体育館。
生徒会役員選挙の演説会は、かつてないほどの異様な静寂に包まれていた。全校生徒の視線が、演台の前に立つ一人の少女へと集中している。
雪ノ下雪乃。
学年トップの成績を誇り、誰もが認める美貌を持ちながらも、どこか近づきがたい孤高の存在だった彼女が、マイクの前に立っていた。
八幡の書いた原稿をベースにしつつ、さらに彼女自身の強い決意が込められたその演説は、綺麗事の並ぶ定番の公約とは全く違っていた。
古い校則の撤廃、現場の裁量権の拡大、そして生徒たちを縛り付ける息苦しい同調圧力の粉砕。あまりにも鋭く、しかし切実なその言葉の数々に、体育館の空気がピンと張り詰めていく。
そして、演説の締めくくり。雪乃はわずかに息を整え、まっすぐに全校生徒を見据えて、凛とした声でこう言い放った。
「私の旦那候補」という名の爆弾
「――最後に。私が生徒会長になったら、この学校からあらゆる不毛なイジメや、理不尽な排斥を完全に無くします」
ざわっと、生徒たちの間に小さな波紋が広がる。しかし、雪乃はその視線を微動だにさせず、さらに続けただ。
「もし、理不尽なことで悩んでいる人がいたら、一人で抱え込まずにすべて私に相談しなさい。二言はないわ。小さな悩みでも、人間関係のいざこざでも、全部よ。」
力強いその言葉に、圧倒的な説得力が宿る。誰もが息を呑み、彼女の覚悟を受け止めようとしたその瞬間――雪乃は、少しだけ声のトーンを落とし、全校生徒の度肝を抜く一言を投下した。
「……もっとも、私一人の手に余るような面倒な問題が起きたときは……」
雪乃は、体育館の片隅、パイプ椅子に座って頭を抱えかけていた比企谷八幡の方へと、チラリと視線を向けた。
「私の……旦那候補である比企谷くんが、責任を持ってすべて引き受けてくれるわ」
体育館のパニックと、崩壊する八幡
――しーん。
数秒間の完全な静寂のあと、体育館の空気が物理的に揺らいだ。
「……は……?」
「いま……なんて……?」
「だ、旦那候補……!? あの比企谷が……!? 雪ノ下様が結婚……!?」
次の瞬間、体育館は文字通りの大パニックに陥った。
「嘘だろ!?」「いつの間にそんなフラグ立ってたんだよ!」「相手はあのギョロ目の比企谷か!?」「いや待て、何の話だおい!」と、女子生徒たちの悲鳴に近いどよめきと、男子生徒たちの絶望と混乱のざわめきが津波のように押し寄せる。
「おい、ちょっと待て……あいつ、公開処刑の生贄にしやがったぞ……!」
隅の席に座っていた八幡は、頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
死んだ魚のような目がさらに虚空を見つめ、全身から冷や汗が噴き出す。全校生徒数百人の視線が一斉に、スローモーションのように自分へと突き刺さるのを感じていた。
(殺す気か……! あの女、絶対にわざとやりやがった……!)
赤面を必死に押し隠し、何食わぬ顔で涼しい顔をして壇上から降りてくる雪乃。
その美しく、どこか勝ち誇ったような背中を見送りながら、八幡はこれから待ち受けるであろう地獄のような学校生活を確信し、心の中で盛大に遠い目をしながら崩れ落ちるのだった。
川崎沙希の乱入と、さらなる爆弾
体育館を埋め尽くしていたどよめきと混乱の渦が、まだ収まりきらないその瞬間。
壇上の雪乃が優雅に引き下がりかけたまさにその時、前方の席からガタッと荒々しく椅子が引かれる音が響いた。
「……ちょっと、待て」
低い、けれど全校生徒の耳にハッキリと届く気だるげでハスキーな声。
立ち上がったのは、つい先日スカラシップを勝ち取り、最近すっかり垢抜けた雰囲気を纏う川崎沙希だった。彼女は周囲の驚愕の視線をものともせず、真っ直ぐに壇上へと歩み寄り、雪乃からスッとマイクを受け取った。
「川崎……? あいつ、何をする気だ……?」
隅の席で頭を抱えたまま固まっていた八幡の脳内で、嫌な予報が最高潮の警報音を鳴らし始める。
マイクをしっかりと握りしめた川崎は、少しだけ顔を赤らめながらも、全校生徒を見据えてハッキリと言い放った。
「さっきの雪ノ下の話だ。……イジメや面倒事は全部あいつに相談しろ、だと?」
場内が固唾を呑んで見守る中、川崎はフッと不敵な、しかしどこか吹っ切れたような笑みを浮かべた。
「ふざけんな。一人で全部抱え込もうとするなよ。……万が一、あの雪ノ下の手に余るような面倒なトラブルが起きたときはな」
川崎は一呼吸置き、まるで宣戦布告するかのように、客席の片隅で凍りついている一人の少数を指さした。
「――そのときは、私にも相談しろ。私だって生徒会に入って、一緒に解決してやる。……なぜならば、私も、あいつの嫁さん候補だからだ!」
会場の完全崩壊と、絶望する八幡
――バァァァァンッ!!!!(※生徒たちの脳内で何かが音を立てて砕け散った音)
「は……? はあぁぁぁぁっ!??」
「ちょっと待て、待て待て待て!! 今なんつった!?」
「雪ノ下様に続いて、川崎まで……!? なんだあのギョロ目の比企谷のスペックは! 全世の男子を敵に回す気かあの野郎!!」
体育館は、先ほどまでのパニックを遥かに超越した、かつてないほどの阿鼻叫叫のるつぼと化した。
女子生徒たちは「え、嘘でしょ、川崎先輩も……!?」と頭を抱え、男子生徒たちは「神様仏様、今すぐ俺をあのクソ野郎と入れ替えてくれ!」と地面団子になって絶望する。
「……は……はは……」
客席の隅のパイプ椅子で、八幡の魂が文字通り口から抜け出しかけていた。
(もう無理だ……俺は明日からどうやって学校を歩けばいいんだ……。宇宙人でも襲来してこの学校を消し飛ばしてくれないかな……)
あまりの衝撃に、彼の思考は完全に停止していた。
傍観者たちの青春
そんな地獄絵図と化した体育館の後方。
人の波から少し離れた場所で、この大パニックの一部始終を見守っていた葉山隼人と材木座義輝は、それぞれの表情で呆れていた。
葉山は、やれやれといった調子で苦笑いを浮かべ、綺麗に整った前髪を軽くかき上げた。
「いやはや……まったく、あいつらしいというか何というか……。まさか、あの雪ノ下と川崎の二人をあそこまで本気にさせちまうなんてな」
その隣で、材木座義輝は腕を組み、いかにも物知り顔で深くうなずきながら、ポツリと重々しく呟いた。
「フッ……見えるぞ、隼人。これぞまさに、修羅場を超えた先にある至高のハーレム、いや――『運命共同体』の物語よ……!」
「いや、ハーレムって言うなよ、材木座。……でもまあ」
葉山は、壇上で少しドヤ顔をしている雪乃と、恥ずかしそうに頬を染めながらもまっすぐ前を向く川崎、そして席で完全に置物と化している八幡を順に見つめ、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……見ていて気持ちがいいくらい、真っ直ぐだな」
「うむ! なんというか、こう……眩しすぎて直視できん! これぞまさに――!」
二人揃って、盛大にため息をつきながらこう締めた。
「「――青春だな、まったく」」
校内の空気を変え、周りの人間たちを巻き込みながら、比企谷八幡を巡る予測不能な学園生活は、さらなる熱狂の渦の中へと突き進んでいくのだった。
自宅のリビングにて
その日の夕方。
高級感の漂う雪ノ下家のリビングルームには、テレビのニュース番組の音声だけが静かに流れていた。
そこには、今日の総武高校の全校集会で行われた「生徒会選挙の波乱」――あの衝撃的なプロポーズとも取れる宣戦布告のニュースが、形を変えて地元紙のネット速報などで早くも話題になりつつあった。
ソファーに深く腰掛け、タブレット端末でその画面を見つめていた雪ノ下母は、ふっと優雅に鼻で笑うと、画面を消してテーブルに置いた。
「……まったく。あの子も、大胆な真似をしてくれたものね」
向かい側に座り、同じく新聞に目を通していた雪ノ下父が、苦笑いを浮かべながらカップを傾ける。
「いやぁ、驚いたね。我が家のクールビューティーと呼ばれた雪乃が、全校生徒の前であんな大演説をぶち上げ、おまけに『旦那候補』だなんて公言する日が来るとは……。時代も変わったものだ」
「ふん。あの子なりに、ずっと背負ってきたものや、自分の殻を破るための精一杯の決死の覚悟だったのでしょうね」
母は紅茶を一口啜り、ふっとその表情にどこか誇らしげな、それでいて深い感慨を込めた光を宿した。
「……でもね、あなた。見ていてよく分かったわ。あの子はもう、ただのおとなしい優等生じゃない。自分の意志で道を切り拓き、欲しいものを自分の言葉で掴み取りにいく……あれこそ、紛れもなく我が『雪ノ下』の血の誇りよ」
かつては冷徹で、理屈ばかりを押し付ける母親だと雪乃から恐れられていた彼女だったが、今のその瞳には、一人の娘の成長を見守る温かな母親としての実感がしっかりと宿っていた。
そして、母はふと思い出したようにクスリと笑う。
「それにしても……。あの雪乃だけでなく、あの川崎家のお嬢さんまでをも本気にさせてしまうなんてね」
「はは、まさに一筋縄ではいかない男だねぇ、比企谷くんは」
「ええ、本当に。最初はただのひねくれた、少し生意気なだけの冴えない少年だと思っていたけれど……」
母は窓の外の夜空を見上げながら、どこか楽しそうに、そして確信を持って呟いた。
「――男を見る目だけは、私たち姉妹の母である私をも凌駕しているかもしれないわね。あの不器用で真っ直ぐな少年の魅力に、あの子たちが魅入られてしまうのも無理はないわ」
ライバルたちが次々と名乗りを上げ、事態はますます混迷を極めていく。
それでも、かつての冷めきった雪ノ下家とは違い、今の家族の間にあるのは、どこかワクワクするような未来への期待感だった。
「さて、この先どうなることやら……。せいぜい、特等席でたっぷりと楽しませてもらうとしましょうか」
静かな夜の邸宅に、雪ノ下母の機嫌の良さそうな笑い声が優しく響いていたのだった。
陽乃の決意と、新たな目標
同じ頃。
自室のデスクに座っていた雪ノ下陽乃もまた、タブレット端末に映し出された総武高校の選挙速報のニュース記事を眺めていた。
画面には、全校生徒の前で堂々と宣戦布告した妹・雪乃の凛々しい姿と、その裏で巻き起こった「比企谷八幡を巡る修羅場」の顛末が、面白おかしく、しかし熱量を持って書き立てられている。
「ふふっ……やるじゃない、雪乃。すっかりカッコいい女になっちゃってさ」
陽乃は画面をスクロールしながら、声に出してクスクスと笑った。
あの頑固で、自分の殻に閉じこもっていた妹が、自分の意志で大切なものを守るために立ち上がったこと。そして、あのひねくれた少年の存在が、家族だけでなく、学校全体の空気をも鮮やかに塗り替えてしまったこと。
その眩しすぎる現実を目の当たりにして、陽乃の胸の奥で、じわりと熱いものがこみ上げてくる。
(……私だって、いつまでも「お姉ちゃん」の仮面を被ったまま、高みの見物なんてしていられないわよね)
先日、サイゼリヤで父親の背中を見たとき。そして、あの少年が不器用ながらも理不尽なシステムや大人たちを真っ直ぐに変えていく姿を知ったときから、陽乃の中で何かが確実に変わり始めていた。
綺麗事だけでは世の中は動かない。けれど、権力や理屈に縛られるだけでも、本当に大切なものは守れない。
父や母が生きるこの社会の仕組みそのものに正面から向き合い、自分の足でこの街を、そして未来を動かしていく大人になりたい――そう強く思ったのだ。
陽乃はタブレットを閉じると、机の端に積み上げられていた大学受験の赤本を引き寄せた。
そこには、彼女が自らの手で書き込んだ第一志望の学部名が、はっきりと記されている。
「――政治経済学部、ね」
日本の中枢を動かし、社会のルールやシステムを根本から変える力を手に入れるための最難関の門。
かつては「家のために敷かれたレール」の一つでしかなかったかもしれない。だが、今の陽乃にとってそれは、自らの意志で選び取り、あのひねくれた少年の隣に胸を張って並び立つための、未来への切符だった。
「待っててね、比企谷くん。私を救ってくれたあなたに、今度は私が追いつく番だから」
夕闇に包まれた部屋の中、陽乃の瞳には、いつもの作り物の笑みではなく、眩しいほどの決意の光が宿っていた。
加速していくそれぞれの青春と未来への道は、さらに熱を帯びて動き出していくのだった。
葉山隼人の葛藤と新たな決意
総武高校の校舎を見下ろす渡り廊下で、葉山隼人は夕日に染まる空を静かに仰いでいた。
スマホの画面には、先ほどの生徒会選挙の騒動――比企谷八幡を巡る雪乃と川崎の宣戦布告のニュース記事が、まだ表示されている。
周囲からは「完璧なパーフェクト超人」「陽の者たちのリーダー」と持て囃され、親の期待通りのレールの上を優等生として歩いてきた自分。将来は当然のように難関法科大学院へ進み、エリート弁護士として生きるのだろうと、誰もが疑わなかった。
だが、今の葉山の中で、その「当たり前」があまりにも小さく、色褪せて見えていた。
(弁護士……か。確かに立派な仕事だ。社会の正義を代弁し、法の下で人を救う。……だけど、それだけなのか?)
父親の期待、周囲の評価、敷かれたレールの上で綺麗に立ち回るだけの自分。
それに比べて、あのひねくれた比企谷八幡はどうだ。
権力者すら巻き込んで街の空気を変え、誰かの痛みに泥臭く寄り添い、周囲の人間を本気で変えてしまう。カッコ悪くて、ひねくれていて、けれど誰よりも圧倒的な「自分の意志」で生きている。
あいつの生き様に触れてしまったら、自分がこれまで守ってきた「優等生」としてのプライドなんて、あまりにも薄っぺらく感じられた。
(このまま親の引いたレールの上で、綺麗に収まったところで……あの男に並び立つ資格なんて、一生手に入らない)
胸の奥で、じとりとした悔しさと、今まで感じたことのない熱い感情が沸き起こる。
負けたくない。
優等生ぶった仮面のまま、あいつの背中をただ遠くで見送るような男にはなりたくない。
葉山は綺麗に整った前髪を軽くかき上げると、ふっと力強い笑みを浮かべた。
「……なら、もっと視野を広げてみるか」
国内の法廷だけにとどまらず、世界を舞台に理不尽や紛争と戦う。ただの「エリート弁護士」ではなく、国境をも越えて人々を救い、社会の仕組みそのものに切り込む――国際弁護士という選択肢。
それは、親の敷いたレールから飛び出し、初めて自分自身の意志で掴み取る闘いの道だった。
「待ってろよ、比企谷。……お前一人に、この世界の景色を全部持って行かれるわけにはいかないからな」
夕闇に包まれるグラウンドに向かって心の中でそう呟き、葉山はこれまでにないほど晴れやかな、そして覚悟に満ちた足取りで歩き出すのだった。
材木座義輝の覚悟と、紡がれる物語
総武高校の放課後、とある薄暗い一室。
パチパチとリズミカルに響く、しかしどこか荒々しいキーボードを叩く音が、静まり返った部屋にこだましていた。
材木座義輝は、いつもより分厚い眼鏡の奥の目を血走らせ、一心不乱にノートパソコンの画面に向かっていた。
彼の脳裏に渦巻いていたのは、今日の全校集会で起きた衝撃的な光景――雪乃と川崎による前代未聞の「嫁さん宣言」、そしてその中心で文字通り魂を抜け出させていた比企谷八幡の姿だった。
(くっ……! なんというドラマチックな展開だ……!)
世間の常識をぶち壊し、冷え切った大人たちのシステムを動かし、周囲の者たちの運命を次々と狂わせていく――いや、新しい未来へと導いていく比企谷八幡という名の男。
かつては自分だけの「唯一無二の親友(ブラザー)」だと思っていた男は、いつの間にか、この世界そのものを揺るがす物語の主人公へと駆け上がっていた。
「……私の狭い脳みその視野を広げ、この歪んだ世界の真理に気づかせてくれたのは、いつだって比企谷だった……!」
これまでの自分は、頭の中で空想の魔王や架空の剣戟ばかりを追い求めていた。
しかし、現実はどうだ。目の前で繰り広げられているのは、綺麗事も泥臭さもすべて飲み込んだ、本物の「人間たちの群像劇」ではないか。この熱量を、この圧倒的な魂の共鳴を、自分だけが知っている秘密にしておくことなど、小説書きのプライドが許さなかった。
「ならば――この想いを、この目撃者の証言を、言葉にして世界に伝えねばならん!」
材木座の指が、キーボードの上を激しく、そして迷いなく走り始める。
画面に次々と打ち込まれていくのは、冷めきった街に一筋の風を巻き起こす「ひねくれた英雄」と、彼を取り巻く誇り高きヒロインたちの物語。それはただのファンタジーではなく、彼らがこの千葉の空の下で実際に紡ぎ出した、生々しくも美しい青春の記録だった。
「タイトルは……そうだな、『俺の青春を狂わせた黒衣の騎士(ナイト)について』……いや、ベタすぎるか。『無気力な哲学者と、世界を変える特異点』……これだ!」
鼻息を荒くしながら、材木座は一心不乱にプロットを書き殴っていく。
いつもの中二病全開の口調の裏には、比企谷八幡という一人の冴えない少年に救われ、その背中を追いかけたいと強く願う、一人の男の切実なリスペクトが込められていた。
「待っていろよ、比企谷……! お前がその不器用な生き様で世界を変えるなら、私はその伝説を、ペン一本で永遠に刻み込んでみせる……!」
夜のとばりが下り始めた教室の窓から星空を見上げながら、材木座は決意を新たにキーボードを叩き続ける。
それぞれの場所で、それぞれの「八幡への想い」を胸に走り出した者たちの歯車が、この世界の未来をさらに熱く、予測不能な物語へと導いていくのだった。
材木座の文学と、公開処刑の朝
数日後の放課後。
いつものように奉仕部室のドアを開けた比企谷八幡は、目の前の光景に思わず足を止めた。
「……お前ら、ここで何やってんだよ」
部屋の中には、いつもの雪乃や川崎だけでなく、なぜか葉山隼人、そして机の上にドカンと原稿用紙の束を置いてドヤ顔をきめている材木座義輝の姿があった。
「フッ、よくぞ来た比企谷! 待ちわびたぞ、我が運命のブラザーよ!」
「おい、材木座。なんだこれ。部室の空気が明らかに俺の寿命を縮める方向に傾いてるんだが」
八幡が警戒心をマックスにして身構えると、材木座はふふんと鼻を鳴らし、その原稿用紙の束を差し出した。
「見るがいい! これこそが、我が人生の最高傑作にして、この総武高校を揺るがすノンフィクション・大河小説……『無気力な哲学者と、世界を変える特異点』の第1稿だ!」
「は……? 小説?」
いやな予感しかしない。しかし、周囲の視線――特に面白がるような、それでいてどこか真剣な視線に囲まれ、八幡は嫌々ながらもその原稿の最初のページに目を落とした。
赤面する二人
読み進めるにつれて、八幡の顔色がみるみるうちに変わっていく。
(……なんだこれ……!?)
そこには、冷めきった社会を斜めから見つめ、不器用ながらも周囲の人間――雪乃や川崎たちの心を次々と救っていく「ひねくれた主人公」の姿が、恥ずかしいほど熱量高く、かつ的確に描写されていた。自分の普段の思考回路や、サイゼリヤでのやり取りまでが生々しく文字に起こされている。
「まっ、待て材木座! なんでお前、俺の心の中を勝手に覗き見たような書き方してんだよ……! おい、ここ! 『彼の死んだ魚の瞳の奥には、世界を射抜く鋭い光が宿っていた』ってなんだよ恥ずかし死ぬわ!!」
八幡は耳まで真っ赤に染め上げ、原稿をバサバサと振って抗議した。
「ふはは! 文学とは魂の露出よ、比企谷! 照れるな!」
さらに、その横を通りがみがてらに覗き込んだ葉山隼人の動きが、ピタリと止まった。
「……えっと、どれどれ……?」
葉山がページをめくった先には、自分の名前こそ変えられているものの、親のレールに悩み、海外へと視野を広げて葛藤する「完璧な優等生キャラクター」の姿が生々しく描かれていた。しかも、主人公である八幡の背中を追いかけ、ライバルとして闘志を燃やす描写まで完璧に網羅されている。
「……っ……!」
いつも爽やかな笑顔を絶やさない葉山の顔からスッと余裕が消え去り、耳の先まで綺麗に真っ赤に染まった。
「な、なんだこれ……材木座、君、僕の心の内側まで勝手に……!」
「フッ、観察眼には定評があってな! 葉山、お前のその熱い葛藤も、この物語には不可欠のスパイスなのだよ!」
「やめろ、恥ずかしすぎるだろ……っ!」
普段は学校のトップに君臨するエリート男子二人――八幡と葉山が、揃って顔を真っ赤にして悶絶している姿に、部室の空気が一気に和んだ。
八幡の照れ隠しと、最高の賛辞
しばらく頭を抱えてジタバタしていた八幡だったが、やがて深々と大きなため息をつくと、真っ赤になった顔をごしごしと手でこすり、ボソッと言った。
「……まったく。お前という奴は、相変わらず余計なことばっかしやがって……」
「ほう、比企谷。我が大作の感想を聴こうか!」
八幡は恥ずかしさを必死に押し殺し、原稿の束を乱雑に机に戻すと、視線を少しだけ逸らしながらぶっきらぼうに言い放った。
「……悪くは、ねぇよ」
「おっ……?」
「……自分勝手で、大げさで、恥ずかしいことばっか書いてあるけどよ。……でも、俺がやってきたことや、あいつらが抱えてた痛みを、お前なりにちゃんと見て、形にしてくれたのは……まあ、悪くなかったってことだ」
照れ隠しからか、最後の方はボソボソと聞き取りにくい声になっていたが、その言葉に込められた確かな真意を、材木座は聞き逃さなかった。
「ふっ……ふははは! 最高の賛辞をいただいたわ! 書いた甲斐があったというものよ!」
材木座は胸を張り、嬉しそうに目を潤ませる。
そのやり取りを、雪乃は窓際で優しく微笑みながら見つめ、川崎は「……まあ、読めなくはないけどさ」と照れくさそうに腕を組んでいた。
そして、葉山も顔の赤みをようやく引き戻すと、ふっと爽やかに笑った。
「やられたな、比企谷。君のこういうところに、僕たちはいつも持っていかれるらしい」
「うるせぇ、お前もさっさとその恥ずかしいページを焼き捨てろ」
不器用で、ひねくれていて、けれど誰よりもお互いの背中を認め合いながら進んでいく青春の物語は、こうして一冊の小説の形を借りて、さらに熱く、確かな絆となって彼らを繋いでいくのだった。
ネットの海へ放たれた物語
数日後の夜。
自宅の自室のデスクで、材木座義輝は額に汗を浮かべながら、震える指でマウスのクリックボタンに手をかけていた。
あの後、八幡や葉山の照れくさそうな反応をエネルギーに変え、彼は徹夜で小説のブラッシュアップを行っていた。
もちろん、実在の人物の名前や学校名そのままではプライバシーの観点(そして何より八幡から本気で絶交される恐怖)からマズい。登場人物の名前は絶妙にファンタジー風、かつどこか本人たちの特徴を捉えた架空の源氏名へとすべて変更されている。
主人公の「ひねくれた無気力哲学者」は漆黒の騎士「ハチ・キガヤ」、高慢にして気高い「氷の女王」は「ユキノ・ユキノシタ」、ヤンキー風だが面倒見の良い「ツンデレ狼少女」は「サキ・カワサキ」、そして爽やかな王子風ライバルは「ハヤト・ハヤマ」に――。
「ふふふ……ネットの海よ、震撼するがいい。我が魂の叙事詩が、今、解き放たれる……!」
中二病全開の笑い声を上げながら、材木座は大手小説投稿サイトの「投稿する」ボタンを力強く押した。
急上昇ランキングの頂点へ
その夜から翌日にかけて、インターネットの片隅で、それは起きた。
最初は、ただの趣味の二次創作やライトノベルの新人賞への応募作として、ひっそりと公開されたはずだった。
しかし、その作品――『無気力な哲学者と、世界を変える特異点』は、異様な引力を持っていた。
ありふlictedな「ご都合主義のハーレムもの」や「チート主人公の無双もの」とは全く違う。
登場人物たちのセリフはリアルで生々しく、悩みの泥臭さがあり、主人公が繰り出すひねくれた屁理屈の裏には妙な説得力と優しさが満ちていた。何より、登場するヒロインたちが「可愛い」だけではなく、自分の足で立ち、葛藤し、傷つきながらも成長していく姿が、読者たちの心を異常なまでに鷲掴みにした。
「なんだこれ……めちゃくちゃ面白いんだけど」
「主人公のひねくれ具合がリアルすぎて共感性羞恥で死ぬが、それがいい」
「ヒロインたちの心理描写がエグい。作者、ガチの恋愛経験者か? いや、それとも……?」
「待て、これフィクションって書いてあるけど、千葉の街並みとか学校の描写が生々しすぎないか? 実話ベースだろこれ絶対!」
SNSのタイムラインやネット掲示板で、その小説の話題が爆発的に拡散していく。
「今期最大のダークホース」「隠れた神作」としてまたあれよあれよという間に口コミが広がり、気づけばその小説は、投稿サイトの総合ランキングの急上昇1位を叩き出していた。
それぞれの反応
翌日の放課後。
スマホの画面を開いたまま、生徒会室(あるいは教室)で固まっている者たちがいた。
「……おい、材木座。これ、どういうことだ」
総武高校の廊下で、八幡はスマホの画面を突きつけながら、死んだ魚の目をさらに見開いていた。
そこには、見慣れた自分のセリフや、先日みんなで悶絶したエピソードがネットの海で数万人の読者に読まれ、絶賛のコメントの嵐が巻き起こっている様子が映し出されている。PV数も、お気に入り登録者数も、あり得ない勢いで伸び続けていた。
「ふははは! 見たか比企谷! 我が筆力、いや、我々の織りなす青春のドラマが、ついに日本全土の活字中毒者たちの心を打ち抜いたのだ!」
満足げに胸を張る材木座の横で、葉山は苦笑いを浮かべながら自分のスマホをいじっていた。
「いやぁ、まさか本当にネットに上げちゃうとはね……。しかも、僕のキャラクター、ネットの読者から『苦悩するイケメン枠』とか妙に人気出てて恥ずかしいんだけど」
「葉山くん、あなたまでそんなものを読んでいるの?」
通りがかった雪乃が、すっと冷ややかな視線を向けながらも、実は自分のスマホの画面で「評価・感想コメント」の欄をこっそりチェックしていたことは、誰もが知る秘密だった。
(……ふん。まあ、悪くはない描写だったけれど……私のツンデレ度が少し高すぎやしないかしら……)
心の中でそんなことを思いつつ、雪乃の耳たぶはほんのりと赤く染まっている。
川崎もまた、スマホで更新通知を見て「……チッ、また変なところで私をカッコよく書きやがって……」と悪態をつきながらも、どこか嬉しそうな表情を隠しきれずにいた。
冷めきっていた街で、それぞれの痛みを抱えながらも変わり始めた彼らの物語は、小説という形を借りて、ネットの向こうの無数の人々をも巻き込み、さらに大きな熱狂のうねりへと変わっていくのだった。
雪ノ下家の夜と、一つの小説
静寂に包まれた雪ノ下家のリビングルーム。
いつものように高級な革張りのソファに腰掛け、タブレット端末を眺めていた雪ノ下母の指が、ふとピタリと止まった。
娘の陽乃や、ネットのビジネス仲間の間でも「最近話題の面白い小説がある」と噂になっていたその作品。気まぐれに開いてみた『無気力な哲学者と、世界を変える特異点』を、彼女は最初から最後まで一気に読み終えていた。
(……なるほどね)
登場人物の名前こそ変えられているが、そこに描かれているのは、紛れもなく自分たち家族の姿であり、あのひねくれた高校生が巻き起こした現実のドラマだった。
冷徹な「氷の女王」として描かれたキャラクターのなかに、かつての自分自身の頑なな姿を見る。
母はタブレットを静かにテーブルに置き、深い溜息をついた。
「どうしたんだい、そんな難しい顔をして」
向かいの席でコーヒーを飲んでいた雪ノ下父が、不思議そうに声をかける。
「……あなた、この小説を読んだ?」
「いや、まだだがね。そんなに面白いのかい?」
「ええ。……客観的に自分たちの姿がどう映っているのかが、よく分かったわ」
母は自嘲気味に、しかしどこかすっきりと晴れやかな笑みを浮かべた。
「私たちはこれまで、『雪乃下』という看板を守るためだけに、数ある企業や家柄のなかでも特別でなければならないと、ずっと肩肘を張り続けていたわ。……でもね、この物語のなかの私たちは、ただ滑稽に雁字搦めになっている小さな存在に過ぎないのよ。大きな社会のうねりのなかで見れば、私たちが守ろうとしていたプライドなんて、本当にちっぽけなものだったわね」
その言葉には、かつて絶対的だった「正しさ」の仮面を自ら脱ぎ捨てたような、清々しいまでの率直さがあった。
父の哄笑と、変わりゆく家族
妻のその意外な反省の言葉を聞いて、雪ノ下父はしばらく目を丸くし、そして――腹の底から楽しそうに声を上げて笑った。
「はははは! なるほど、あのひねくれた少年だけでなく、この作者の若者も大したものだな!」
「笑い事じゃないわよ、あなた」
「いや、いいことじゃないか。私たちがどれだけ重苦しい鎧をまとって生きていたか、こうして第三者の視点で見せつけられるのは悪くない。……おかげで、私も肩の荷がすっかり下りた気分だよ」
父は笑いながらタブレットを手に取り、画面に映る作者・材木座義輝の名前をしみじみと眺めた。
「数ある企業の一つに過ぎない、か。確かにその通りだ。だからこそ、私たちは会社の看板や世間体のためではなく、『家族』というもっとシンプルで温かいもののために生きればいい。……そう思わせてくれるだけの価値が、この小説にはある」
冷え切っていた雪ノ下家は、もう昔のままではない。
過去の過ちを認め、お互いの弱さを笑い合えるだけの余裕と温もりが、今の彼らにはしっかりと備わっていた。
「まったく……。あの少年の周りに集まる若者たちは、どうしてこうも私たち大人の予想を軽々と超えていくのかしらね」
母はあきれたように、けれどどこか愛おしそうに首を振ると、窓の外の夜空を見上げた。
ネットの海へと放たれた物語は、現実の世界をも少しずつ、しかし確実に動かしていく。雪ノ下家の夫婦は、自分たちの娘たちが選ぶ未来と、その中心にいる一人のひねくれた少年の行く末を、今では心から楽しみに見守っているのだった。
陽乃の部屋と、明かされる本音
深夜の自室。デスクのランプだけがぼんやりと周囲を照らす中、雪ノ下陽乃はスマホの画面を凝視していた。
話題沸騰中のネット小説『無気力な哲学者と、世界を変える特異点』。
その最新話、あるいは作中で描かれる「冷徹な仮面を被った、孤独な姉」の描写を読んだ瞬間、陽乃の指がピタリと止まった。
そこには、周囲から「完璧な雪ノ下家の長女」として恐れられ、いつも余裕の笑顔を貼り付けている自分の姿が、あまりにも鮮やかに、そして剥き出しのまま描かれていた。
(……これ、私だわ……)
物語の中の主人公――ひねくれた少年は、強がってすべてを一人で抱え込もうとするその「孤高の姉」の姿を、冷たい目で突き放したりはしない。むしろ、その仮面の裏側に隠された震えるような孤独や、縛り付けられた呪縛を誰よりも正確に見抜いていた。
――「あいつは強がっているだけで、本当は誰よりも怯えている子供と同じだ。だから、見ていて放っておけなくなる」
主人公がそう呟くシーンを読んだとき、陽乃の胸の奥底で、何かが激しく音を立てて崩れ落ちた。
「……っ……!」
いつも余裕を演じ、すべてを達観した気でいたのは自分の方だ。誰も自分の本当の苦しみなんて分かってくれないと諦め、完璧な「お姉ちゃん」の仮面の下に臆病な心を隠していただけだった。
それなのに、あのひねくれた少年は、自分のそんなみっともない部分まで全部お見通しだったというのか。守られるべき対象として、あんな風に真っ直ぐに見つめられていたというのか。
守られるだけの私じゃなく
ポロリと、熱い涙がスマホの画面に落ちた。
悔しさではない。惨めさでもない。それは、ずっと凍りついていた心が、あまりにも真っ直ぐな温もりに触れて溶かされていくような、不思議な痛みを伴う感動だった。
(……私、ずっと守られる側だったのね……)
父が変わり、妹が自分の足で立ち上がり、周りの人間たちが次々と自分の未来を切り拓いていく。
その中で自分だけが、過去の呪縛や「お姉ちゃん」という名の安全な場所に甘え、誰かに救われるのを待っていたのではないか。
あの少年は、自分の知らないところでいつも誰かを守り、誰かのために泥だらけになって戦っているというのに。
陽乃はスマホをそっと伏せると、両手で自分の顔を覆い、小さく息を吐き出した。
涙はもう止まっていた。その瞳の奥には、先ほどまでの感傷を焼き尽くすような、強烈で美しい光が宿っている。
「……ふふ、本当に……どこまで人たらしなのよ、比企谷くん……」
自嘲気味に呟いたその声は、どこか晴れやかだった。
小説の中の主人公に守られるだけの、かよわいお姫様でいるつもりはない。あのひねくれた、誰よりも優しい少年の隣に立ったとき、ただ見上げているだけの存在で終わるわけにはいかないのだ。
「待っててね。……今度は私が、あなたの隣に立つ番だから」
政治経済学部を目指す受験勉強のテキストをしっかりと開き直し、陽乃は未来へと向かって力強く前を向いた。
物語の向こう側から始まった変化の波は、今や彼女自身の背中を大きく押し、誰も見たことのない新しい明日へと走り出させていたのだった。
平塚静の読書体験と、一つの確信
夏の湿った夜風が吹き抜ける職員室のデスクで、平塚静は手元のスマホ画面から目を離し、深い溜息をついた。
深夜の気晴らしにと同僚教師や生徒たちの間で話題になっていたネット小説――『無気力な哲学者と、世界を変える特異点』を、彼女はプロローグから最新話まで一気に読み通してしまっていた。
(……まったく、とんでもないものを読まされたな)
登場人物の名前こそ変えられているものの、そこに描かれている世界の見え方、斜に構えた皮肉、そしてその裏にある異常なまでの人間観察力は、見覚えがありすぎた。
――いや、あれは間違いなく、あのひねくれた教え子・比企谷八幡の脳内そのものだった。
平塚は缶コーヒーのプルタブをパチンと開け、窓の外の夜空を仰ぎながらクスリと不敵な笑みを浮かべた。
「世の中が、こう見えているのか……あいつの目には」
大人が見て見ぬふりをする理不尽さも、綺麗事の裏に隠された欺瞞も、そして青春の気恥ずかしさも。八幡はあの死んだ魚のような目で、すべてを冷徹に、しかし誰よりも深く観察し、自分なりの言葉で咀嚼していたのだ。
周囲から「ひねくれ者」「問題児」と片付けられがちな少年の視線の先に、これほどまでに熱く、鮮やかな人間ドラマが広がっていたとは。
「相変わらず、面倒くさくて、最高に面白い男だ」
冷やかすように呟きながらも、平塚の胸の奥には教師としての強い誇りと、どこか愛おしさが入り混じった感情が広がっていた。
あの無気力で自己評価の低い少年が、今や自分の知らないところで、雪乃や川崎、そして葉山や陽乃といった周囲の人間たちの心を次々と動かし、巨大な変化のうねりを引き起こしている。
(自分の殻に閉じこもっていただけの孤独な少年が、いつの間にか、周囲を巻き込む『特異点』になってやがる……)
小説のページを閉じ、平塚はカチリと椅子から立ち上がった。
画面の向こうで読者たちの歓声を浴びている主人公の姿と、明日またいつものように気だるげな足取りで奉仕部にやってくるであろう、あのひねくれた教え子の顔が重なる。
「さて……」
平塚はぐっと背伸びをすると、面白そうなものを見つけた子供のような笑みを浮かべた。
「画面の向こうで小説家気取りで主人公をカッコよく書かせている暇があったら、直接本人をからかいに行くとしようか。……今度ばかりは、あのひねくれ者も言い逃れできまいよ」
夜が明ければ、またいつも通りの学校生活が始まる。
しかし、変わり始めた彼らの物語は、教師である平塚静をも巻き込みながら、さらに予測不能で熱い展開へと加速していくのだった。
平塚静の宣戦布告
翌日の放課後。
穏やかな静けさに包まれていたはずの奉仕部室のドアが、いつものように――いや、いつも以上に豪快な勢いでバァンと開け放たれた。
「よお、お前たち。楽しそうだな」
入ってきたのは、愛車を愛するアラサー……ではなく、なぜか妙に若々しく、そしてどこかスッキリとした艶やかな笑みを浮かべた国語教師、平塚静だった。
全員が「?」と首を傾げる中、平塚はスタスタと八幡の机の前に歩寄り、両手をドンと机についた。
「……なんだよ、先生。そんなに機嫌よく突入してきて。誰かに車でも褒められたのか?」
「ふっ、それ以上だ。昨夜、とある面白い小説を一気読みしてな。主人公のひねくれた物の見方に感心させられたところだ」
その言葉に、八幡の顔がわずかに引きつる。
(……待て、まさかあのネット小説、あの人にまでバレたのか……!?)
冷や汗を流す八幡を他所に、平塚はふっと艶然と微笑むと、まるで世間話でもするかのようにサラリとこう言い放った。
「そういえば、比企谷。ふと思ったんだが……お前、年上の女は嫌いか?」
「……は?」
予想の斜め上をいく直球の質問に、八幡は素っ頓狂な声を上げた。
「い、いきなりなんだよ……。別に嫌いとかそういうのじゃねぇけど……」
「ふむ。じゃあ、どれくらいまでが許容範囲だ?」
「はあ……? まあ、常識の範囲内って言うか……せいぜい、10も離れていなければ、話くらいは合うんじゃねぇの……?」
八幡が面倒くさそうに適当に返答したその瞬間、平塚の瞳がカッと鋭く、そして妖しく光った。
「――ほう。10も離れていなければ、か」
平塚はふっと満足げに鼻を鳴らすと、スッと腰を直した。
そして、部室の全員に聞こえるはっきりとした声で、こう言い放ったのだ。
「なら、私もうっかり範囲内だな。お前が高校を卒業したら、私とデートするぞ」
部室の凍結と、傍観者たちの呟き
――しーーーん。
部室内の空気が、文字通り氷点下にまで急降下した。
「……は……?」
「いま……なんて……おっしゃいました……?」
窓際にいた雪乃は持っていたティーカップをソーサーにガチャリと音を立てて落としそうになり、川崎は「はぁぁぁっ!?」と盛大に椅子から転げ落ちそうになった。
そして、当事者である八幡は、完全にCPUが焼き切れたロボットのように目を見開き、フリーズしていた。
「ふっ、返事は聞かん。卒業までせいぜい予習しておけよ、比企谷!」
平塚は、自分の爆弾発言に満足したのか、ヒラヒラと優雅に手を振りながら、嵐のように去っていった。
ドアが閉まり、静寂が戻った部室。
「……おま……先生、お前……本気で何言ってんだよ……」
八幡が頭を抱えて机に突っ伏すのを見ながら、雪乃は顔を真っ赤に怒らせて(あるいは焦って)震え、川崎は「おいおい、ライバルが教師って反則だろ……!」と頭を抱えていた。
その頃、校舎の別の場所――あるいは窓からその一部始終を目撃していた葉山と材木座は、呆れたような、しかしどこか納得したような顔で空を見上げていた。
「いやはや……まさか、平塚先生まで参戦してくるとはね……」
葉山が苦笑しながら前髪をかき上げると、材木座は腕を組み、深くうなずきながらこう呟いた。
「ふっ……教師と生徒の禁断の恋、そしてネット小説の作者を巻き込んだ大群像劇……! もう誰にもこの男のモテ期を止めることはできん!」
「まあ……あいつの人柄を見ていれば、モテる理由も分からなくはないけどさ」
葉山はフッと小さく笑い、複雑な複雑な青春の波に揉まれる親友の背中を、遠くからそっと見守るのだった。
放課後の喧騒と、完璧な王子
総武高校から少し離れた、夕暮れ時の駅前通り。
ショッピングモールの角で、三浦優美子は一人、苛立ちを隠せない表情で足を止めていた。
「……ちょっと、なんなのよアイツら……」
待ち合わせに遅れている友人からの連絡を待っていた彼女の前に、チンピラ風の男二人組がニヤニヤと近づいてきた。派手な外見で一見隙のない三浦だが、突然の絡まれように内心冷や汗が滲んでいた。
「お姉ちゃん、一人? 俺たちとちょっとお茶でもしようぜ」
「触るな、気色悪い。……警察呼ぶわよ」
三浦が鋭い睨みをきかせて威嚇するが、相手は面白がるだけで距離を詰めてくる。その時だった。
「――そこまでだ。女の子に不穏な絡み方をするのは、感心しないな」
冷たく、しかし芯のある澄んだ声が響いた。
すっと歩み寄ってきたのは、綺麗に整った金髪と端正な顔立ちをした葉山隼人だった。その瞳には、いつもの柔和な笑顔ではなく、圧倒的な冷徹さと気高さが宿っている。
「んだお前、ガキが生意気な……っ!」
男の一人が掴みかかろうと腕を伸ばしたが、葉山は無駄な動きひとつなくその手首を払い落とし、冷ややかな一瞥をくれた。
「これ以上騒ぎを起こすと、あそこの交番の警官がこちらに向かってくるが……それでも続けるか?」
葉山の視線の先にあった交番と、その整然とした立ち振る舞いに気圧された男たちは、「チッ、運のいい女だな」と悪態をつきながら、そそくさと逃げ去っていす。
三浦優美子の「お礼」
男たちが去ると、葉山はすぐにいつもの柔らかい笑みに戻り、三浦に向き直った。
「三浦、怪我はないかい?」
「……別に、助けてなんて頼んでないし」
三浦は顔を真っ赤に染め、ツンとそっぽを向いた。けれど、震えていた指先を隠すように腕を組み、その耳たぶまでが赤くなっているのは隠しきれていない。
クラスのカーストの頂点に立ち、いつも周囲を引っ張る彼女にとって、誰かに守られるというのはどこか気恥ずかしかった。
「はは、そうだね。君なら自力で何とかできたかもしれないけど……見過ごすわけにはいかないだろ」
「……バカ。でも、その……ありがと、ハヤト」
小さな、蚊の鳴くような声だったが、葉山にはハッキリと届いた。
葉山は少しだけ驚いたような顔をしたあと、優しく目を細めて微笑んだ。
「どういたしまして。さあ、送っていくよ。もう遅いしね」
夕日に照らされる帰り道。
比企谷八幡を巡る周囲の人間模様が激しく揺れ動く中、学校の「絶対的な王子様」である葉山隼人もまた、自らのプライドと優しさを胸に、静かに歩みを進めていた。
動き出す距離感と、満たされない違和感
それから数日。
駅前の一件以来、三浦優美子の葉山に対する態度には、明らかに目に見える変化があった。
奉仕部やクラスのグループ内でも、それまでのような「いつもの女王様気取りのツンデレ」から、時折見せる素直な気遣いや、真っ直ぐな視線が増えていた。他の女子たちが次々と自分の未来や想いを賭けて動き出している中、三浦なりの精一杯の不器用なアプローチだった。
「……ねえ、ハヤト。今度、みんなでどっか出かけない?」
放課後の教室で、三浦はさりげなく葉山に声をかけた。
周囲の女子たちが「おっ?」と茶化すような視線を送る中、葉山は爽やかに微笑み返した。
「いいね、みんなで予定を合わせようか」
悪い気はしない。むしろ、綺麗に整えられた人間関係の延長線上として、それは心地よく、居心地のいい空間だった。
けれど――葉山の胸の奥には、どこか拭えない引っかかりがあった。
(……これで、いいのか?)
頭に浮かんだのは、全校生徒の前で大演説をぶち上げ、自分の「旦那候補」だと宣戦布告した雪乃や川崎の姿だった。そして、教師である平塚まで巻き込んで自分の道を突き進む、あのひねくれた比企谷八幡の背中。
彼女たちは、自分のプライドも、傷つく恐怖もすべて投げ打って、泥臭く「本気」でぶつかっている。
それに比べて、自分はどうだ。
三浦からの好意を心地よく受け止め、波風を立てず、いつもの「みんなの葉山くん」という器の中で綺麗に収まろうとしていないか。
(三浦は、本当に「本気」で僕に向き合っているのか? そして――僕自身は、彼女に、あるいは自分の恋に、本気で向き合えているのか……?)
答えが出ないモヤモヤを抱えたまま、葉山はふっと息を吐き出し、ある場所へと足を向けていた。
放課後の奉仕部、あるいは「相談」
ガタッと、奉仕部室のドアが控えめに開いた。
そこに立っていたのは、いつもの爽やかな笑顔を少しだけ曇らせた葉山隼人だった。
「よお、エリート王子様。珍しいな、お前が一人でこんな湿っぽい部室に来るなんて」
机で本を読んでいた八幡が、じっとりとした目を向けながら声をかける。雪乃は紅茶のポットを片手に「珍しい客ね」と眉をひそめ、川崎も「……なんだよ、用事かよ」と警戒気味に視線を向けた。
葉山はしばらく黙って立ち尽くしていたが、やがて観念したようにため息をつき、八幡の目の前のパイプ椅子にドスンと腰を下ろした。
「……比企谷。少し、相談に乗ってくれないか」
「は? 俺が? お前が誰かに相談なんて珍しいこともあるもんだな。どうせまた人間関係の綺麗事の悩みだろ、却下だ」
「頼むよ。……君にしか、聞けない気がするんだ」
葉山の真剣な眼差しに、八幡は「めんどくせぇなぁ……」と頭を抱えつつも、本を閉じた。
「……で、なんだよ」
葉山は一呼吸置き、自分の胸の内を吐き出すように、ぽつりと言った。
「……三浦がさ、最近、僕にまっすぐ向き合おうとしてくれているんだ。周りからもお似合いだと言われるし、悪い気はしない。……だけど、何かが足りない気がするんだよ」
「足りない?」
「ああ。……あいつらは、あんなにも本気だ。雪ノ下も、川崎も、そして君も……みんな、自分の殻を破って、傷つくのを恐れずに誰かを、あるいは何かを変えようと必死にもがいている。……でも、僕と三浦の関係は、どこかこれまでの延長線上で、お互いに傷つかないように安全な距離を保ったままなんじゃないかって思うんだ」
葉山は苦しげに眉をひそめた。
「……僕は、三浦に対して本気で向き合えているのだろうか。そして、三浦は本当に僕という人間を……その奥底まで見ようとしてくれているのだろうか。分からないんだ」
八幡の答え
部室に、重い沈黙が落ちた。
雪乃は紅茶を注ぐ手を止め、川崎もじっと葉山の横顔を見つめている。
当の八幡は、しばらく天井を見上げてフッと息を吐くと、いつものように半目を合わせた。
「――お前な、そんなの他人に聞いてどうすんだよ」
「……っ」
「三浦が本気かどうかなんて、俺が知るわけねぇだろ。お前がそれを確かめたいなら、他人に答えを求めるんじゃなくて、本人にぶつかるしかねぇだろーが」
葉山は目を丸くし、それから自嘲気味にふっと笑った。
「……そうだな。相変わらず、君の言うことは直球すぎて痛いな」
「痛いついでにもう一つ言ってやるよ」
八幡は面倒くさそうに頭を掻きながらも、どこか的確な言葉を紡いだ。
「お前が『綺麗に収まりすぎて物足りない』って思うってことはさ、お前自身がもう、これまでの『みんなの葉山隼人』じゃ物足りなくなってんだよ。もっと泥臭く、かっこ悪くてもいいから、誰かと本当の意味で向き合いたいって思ちまってるんだろ」
その言葉は、葉山の胸の奥深くに真っ直ぐ突き刺さった。
――そうだ。自分はいつの間にか、あのひねくれた少年のように、誰かと本気でぶつかり合う熱さに憧れていたのだ。綺麗なお面を被ったままでは、誰も本当の意味で愛せないし、愛されない。
葉山は立ち上がり、すっきりと晴れやかな、しかしどこか覚悟を宿した笑みを八幡に向けた。
「……ありがとう、比企谷。少し、頭が冷えたよ」
「おう、さっさと帰れ。部室の空気が爽やかすぎて吐き気がする」
葉山が去ったあと、静まり返った部室で、八幡は再び本を開こうとした。
しかし、その背中に向かって、雪乃がいつになく冷徹で、けれど熱を帯びた声を投げかける。
「……で、比企谷くん? 葉山の悩みは解決したかもしれないけれど、あなたのその鈍感すぎる問題については、いつ決着をつけてくれるのかしら?」
「は? なんだよ急に」
「とぼけないでちょうだい。次は、あなたの番よ」
川崎も腕を組みながら「そうだよ、覚悟しとけよ、比企谷」と不敵に笑う。
逃げ場のない修羅場の中心で、八幡は盛大に天を仰ぎ、今日一番の大きな溜息をつくのだった。
覚悟を決めた男の背中
放課後の奉仕部室。
すっかり日常の風景となった修羅場の真ん中で、比企谷八幡は自分のスマホの画面を見つめ、静かに深呼吸をしていた。
雪乃の宣戦布告、川崎の乱入、平塚の爆弾発言、そしてネット小説の反響。
周囲を見渡せば、自分をとりまく状況はかつての「ぼっちの平和な日常」からは遠く離れ、あまりにも眩しいリア充のそれになっていた。
(……ここまで周りが本気でぶつかってきてるのに、いつまでも死んだ魚の目で被害者面して逃げ回ってる場合じゃねぇよな)
自分のなかに芽生えた微かな自覚――「俺、もしかしてけっこうモテてんじゃねぇの?」という気恥ずかしい事実を、八幡はしっかりと受け止めた。中途半端な優しさや、ひねくれた言い訳でごまかすのはもう終わりだ。彼女たちの本気に応えるには、自分も男として真っ直ぐ向き合わなければならない。
そう決意した八幡は、めずらしく葉山隼人を校舎の裏手に呼び出していた。
「……で、なんだい比企谷。君から僕を呼び出すなんて珍しいね」
「おい葉山。お前、こないだ『もっと自分らしく本気で向き合いたい』とか言ってたよな」
「まあ、確かに言ったけど……それがどうかしたのかい?」
葉山が首を傾げると、八幡はわずかに頬を染めながらも、真剣な眼差しでこう言い放った。
「……男のイメチェンってのは、具体的にどこから手をつければいいんだ。髪型か? それとも服装か?」
――その数日後。
総武高校に登校してきた生徒たちは、自分の目を疑うことになった。
いつも前髪で目を隠し、猫背でうつむきがちに歩いていた比企谷八幡が、前髪をすっきりと上げ、シャツの着こなしもどこかシャープに整え、隠されていた整った目鼻立ちを露わにして登校してきたのだ。
もともとベースの顔立ちは悪くなかった彼が、内面からの覚悟と自信を纏ったことで、その雰囲気はまるで別人のような「大人の色気を漂わせるイケメン」へと変貌を遂げていた。
「え……? あれ、比企谷くん……よね……? めっちゃカッコよくない……!?」
「マジかよ、あのギョロ目が……って、おい、目つきが鋭い系イケメンになってるぞ……!」
廊下のあちこちで女子生徒たちが色めき立ち、すれ違うたびにどよめきが起きる。本人は「うっせぇ、見てんじゃねぇよ」と相変わらずぼそぼそ呟いているが、その低い声すらも周囲の女子たちのハートを撃ち抜く凶器となっていた。
雪ノ下雪乃との放課後、そしてデートの誘い
変化はすぐに訪れた。
その日の放課後、奉仕部室のドアを開けた雪乃は、新しい髪型で紅茶を淹れている八幡の姿を見た瞬間、パッと息を呑み、わずかに言葉を失った。
「……っ。比企谷くん、その……髪型……」
「ん? ああ、ちょっと気分を変えてみただけだ。……で、だな、雪ノ下」
八幡はコトッとカップを机に置き、まっすぐに雪乃を見た。その真剣すぎる瞳の力強さに、雪乃は心臓が跳ねるのを隠せず、思わず耳まで真っ赤に染める。
「な、なに……急にそんな真面目な顔をして……」
「お前がいつだって本気で俺に向き合ってくれるなら、俺も中途半端な態度のままでいるわけにはいかないだろ。……だから」
八幡は一呼吸置き、少しだけ照れくそうに、しかしはっきりと告げた。
「今度の週末、空けとけ。……俺と、デートしよう」
「…………は……?」
雪乃の思考回路が完全に停止した。
いつも冷静沈着な「氷の女王」の面影はどこへやら、彼女は真っ赤な顔で椅子から転げ落ちそうになりながら、アタフタと両手で顔を覆った。
「で、でーとって……あなた、いきなり何言い出すのよ……! 心臓に悪いでしょう……!」
「いいから、返事は?」
「……っ……行くわよ! 当たり前でしょ……!」
トマトのように真っ赤になった顔でプイッとそっぽを向く雪乃の背中を見ながら、八幡はふっと小さく、けれど誇らしげに笑うのだった。
そして、もう一人の男の変化
一方その頃。
校舎の片隅――図書室の窓際で、ある男もまた、劇的な変貌を遂げていた。
材木座義輝だった。
「比企谷がイメチェンしてモテ始めているだと……!? 主人公が覚醒するなら、相棒であるこの私(ダーク・ナイト)も洗練されねばならん!」
彼は謎の使命感に燃え、分厚い眼鏡をスタイリッシュな伊達メガネに変え、髪型をワックスでビシッとオールバックに固めていた。
「どうだ、葉山! 私のこの重厚感あふれる知的イケメンの佇まいは!」
通りかかった葉山は、ガチガチに固められた材木座の姿を二度見し、それからこらえきれずに吹き出した。
「ははっ、材木座、君まで……! いや、でも悪くないよ、その意気込みは」
「ふっ、分かればいい! 我々の時代が、ついに到来したのだ!」
ネット小説のヒットに続き、現実の自分磨きにも成功した材木座は、一人で満足げに腕を組む。
こうして、かつての「ぼっち」と「冴えない脇役」だった者たちは、それぞれの覚悟と少しの気恥ずかしさを胸に、誰も予想しなかった最高に眩しい青春のステージへと駆け上がっていくのだった。
雪ノ下雪乃の勝負服と、完璧なコーディネート
週末の待ち合わせ場所。
千葉市内の大通りに面したカフェのテラス席で、比企谷八幡は静かにアイスコーヒーのグラスを傾けていた。
イメチェンを経て整えられたシャープな髪型に、シンプルながらもサイズ感のピタリと合ったジャケット姿。かつての「ジト目のひねくれぼっち」の面影は薄れ、どこか落ち着いた大人の雰囲気をまとうその姿は、通り過ぎる通行人たちの目を自然と引きつけていた。
(……待て、来るの早すぎたか? いや、待ち合わせ時間まであと5分だし……)
内心のソワソワを隠すようにスマホの画面をスクロールしていたその時、ふと視線を感じて顔を上げた。
「――お待たせしたかしら、比企谷くん」
そこに立っていたのは、雪ノ下雪乃だった。
いつも学校で見慣れている凛々しい制服姿ではなく、白を基調とした上品なブラウスに、風に揺れる柔らかなシフォンのロングスカート。控えめながらもセンスの光るアクセサリーが上品さを引き立て、その完璧すぎるスタイリングは、まるで高級ブランドの広告から抜け出してきたかのようだった。
普段の冷徹な美しさに、大人の女性らしい柔らかさと華やかさが加わったその破壊力に、八幡は一瞬、言葉を失って息を呑んだ。
「……っ。……なんだよ、その格好」
「なによ。変かしら……?」
雪乃はわずかに頬を赤らめ、気まずそうに視線を少しだけ逸らした。いつもは堂々としている彼女が、今日ばかりはあきらかに緊張しているのが分かる。
実のところ、この日のために彼女は姉の陽乃をこっそり巻き込み、何時間もかけて全身のコーディネートを吟味し抜いていたのだ。
「……変じゃねぇよ。……むしろ、その……似合ってる」
「っ……! ば、馬鹿ね。早く行くわよ、立ってるだけで目立つんだから」
耳まで真っ赤に染め上げた雪乃が、恥ずかしそうにスタスタと歩き出す。その後を追いかけながら、八幡は心の中で盛大に天を仰ぐしかなかった。
(なんだこれ、俺たちのデート、周囲からの注目度が異常に高すぎやしないか……?)
パーフェクト・アドバイザー小町と、想定外のスカウト
実は、この日の八幡の完璧なコーディネートには、裏の立役者がいた。
前日の夜。
比企谷家のリビングで、妹の小町は兄の新しい服を見つめながら、両手を腰にあててドヤ顔でダメ出しをしていた。
「お兄ちゃん、甘い! そんなんだからいつまで経っても三流のモブなのよ! デートの相手が、あの雪ノ下さんなんだよ? 相手に不足なしなんだから、こっちも気合入れないと失礼でしょ!」
「いや、俺は別に、いつも通りで……」
「いつも通りじゃ通報されるわよ! ほら、このジャケットにはこのインナー、髪型はこう! ……よし、完璧!」
小町のプロデュースによる徹底的な改造のおかげで、八幡は自分の外見のポテンシャルを最大限に引き出すことに成功していたのだった。
(さすが我が妹、恐るべし……)と、今日のデートの最中も八幡は心の中で小町に感謝しきりだった。
しかし、その「完璧すぎるコーディネート」が、別の事件を引き起こす。
二人が街の中心街を並んで歩いていた時だった。
突如、洗練されたスーツを身に纏った、いかにもやり手といった雰囲気の男性が、スッと二人の前に回り込んできた。
「あの、突然すみません! 私、某アパレル系雑誌の編集をしております者ですが……!」
「……は? あ、すんません、人違いじゃねぇの……」
八幡がいつもの死んだ魚の目で身構えると、編集者の男性は興奮した様子で首を横に振った。
「いえ、間違いありません! お客さん、その雰囲気とルックス、そして隣の女性との並びの美しさは奇跡的です……! よろしければ、うちのメンズファッション誌で読者モデルとして誌面に出てみませんか! スカウトさせてください!」
「「……は……!?」」
八幡と雪乃が、揃って声を揃えて固まった。
「も、モデル……!? この俺が……!?」
「ちょっと、お待ちなさいたまし! この人は、その……私の、ええと……!」
雪乃は顔を真っ赤にし、「この人は私の旦那候補なのだから勝手にスカウトしないで!」と言いかけ、恥ずかしさのあまり自分で自分の口を押さえた。
通りすがりの人々も「え、あのカッコいい男の人、スカウトされてる!?」「彼女もめちゃくちゃ美人!」とざわめき始める。
「いや、丁重にお断りする! 俺は地味にひねくれたぼっちライフを全うしたいんだ!」
八幡は冷や汗を流しながら編集者の名刺を受け取り、半ば強引にその場から逃げ出すように雪乃の手を引いて走り出した。
「ちょ、比企谷くん、引っ張らないでよ……っ!」
「だってあんなところで公開勧誘されたら死ぬだろ!」
秋の爽やかな風の中、手を繋いで人混みを駆け抜ける二人の背中は、周囲のどんなモデルよりも眩しく、そして最高に青春していたのだった。
広告の中の「予行演習」
――それから数日後。
千葉市内の由緒あるハイエンドな結婚式場。そのチャペルやガーデンテラスには、見慣れない機材と、プロのカメラマンやスタッフたちの慌ただしい声が飛び交っていた。
「はい、そこもう少し距離を近づけて! 新郎役の方、少し緊張気味だからもっと優しい笑顔で!」
「カメラマンさん、そんな注文つけないでよ……!」
真っ白なタキシードに身を包んだ比企谷八幡と、息を呑むほど美しいウエディングドレスに身を包んだ雪ノ下雪乃が、そこにはいた。
なぜこんなことになっているのか。
発端は、あの日の街頭スカウトだった。
「読者モデル」として名刺を渡してきた編集者は、実はそのアパレル雑誌のタイアップ企画として、新進気鋭のウエディングブランドの広告塔を探していたのだ。
「そこを何とか! お二人なら絶対に最高の広告になりますから!」と泣きつかれ、さらに式場側からも「広告塔を引き受けてくれるなら、将来ここで式を挙げる際に使える『全額免除(あるいは半額)』のプレミアムチケットを進呈します!」と提示されたのだ。
「……お兄ちゃん、将来の結婚式代が浮くんだよ? 受けるしかないでしょ!」と、なぜか裏でノリノリで話を進めていた妹・小町の強力なプッシュもあり、結局、二人はしぶしぶこのモデルの仕事を引き受ける羽目になったのである。
照れ隠しと、本音の狭間で
「……なあ、雪ノ下。このドレス、いくらなんでもフリル多すぎやしないか……」
タキシードの襟をいじりながら、八幡が気まずそうに目を泳がせる。
隣に立つ雪乃は、純白のドレスの裾を少しだけ摘まみながら、真っ赤になった顔を必死にクールに見せようとツンとそっぽを向いていた。
「……文句を言わないの。それに、選んだのはあなたたちの妹さんだし、私だって着たくて進んで着ているわけじゃないわよ……ただ、その……」
雪乃は言葉を濁し、わずかに頬を染めたまま八幡の顔を盗み見た。
イメチェンを経てすっかり洗練された八幡のタキシード姿は、モデルのカタログで見かけるどんなプロのモデルよりも、彼女の目には眩しく映っていた。
「新郎様、新婦様、お待たせしました! じゃあ本番いきますよー、お互いを見つめ合って、優しく微笑み合ってください!」
カメラマンの威勢のいい声とともに、一斉にシャッターが切られる。
カシャ、カシャ、と静かなチャペルに心地よい音が響く。
「い、見つめ合うなんて無理よ……!」
「俺だって好き好んでやってるわけじゃ……って、おい、カメラマンがもっと顔を近づけって言ってるぞ」
「まっ、ちょっと、急にそんな……!」
戸惑いながらも、カメラのフラッシュの中で自然と距離が近づいていく二人。
周りのスタッフたちは「絵になりすぎだろ……」「あんな美男美女のカップル、絶対リアルでも付き合ってるって!」と、早くもモニターを覗き込んで大絶賛していた。
撮影の合間。
八幡は、ポケットからゴソゴソと取り出した、あのとき式場スタッフから渡された「未来の半額(あるいはそれ以上)割引チケット」をチラッと眺めた。
「……なぁ。このチケット、マジで将来使うことになんのかね」
わざとからかうように低い声で呟いた八幡に、雪乃はカッと顔をさらに赤くさせ、フイッと顔を背けた。
「……馬鹿なこと言わないでちょうだい。……でも」
雪乃は小さく息をつくと、ふっと柔らかく、誰にも見せたことのないような愛おしい笑みを浮かべた。
「……いざという時のために、そのチケットは、大事にとっておきなさいよね」
千葉の青空とステンドグラスの光が差し込むチャペルの中、照れくさそうに、けれどしっかりと並んで立つ二人の姿は、これから始まる本当の未来の物語を予感させるには、あまりにも眩しすぎるワンシーンだったのだった。
チャペルの光の中で
カシャ、カシャと、チャペルの高い天井にカメラマンのシャッター音が心地よく響く。
スタッフが少し離れた隙、八幡はふと隣に立つ雪乃の横顔に目をやった。
純白のウェディングドレスが、ステンドグラスから差し込む光を浴びて淡く輝いている。普段の凛とした美しさに、どこか儚さと気品が混ざり合い、言葉を失うほどに目を奪われる光景だった。
「……どうしたのよ、そんなにじっと見つめて。私に何か付いてるかしら?」
気恥ずかしさをごまかすように、雪乃が少しだけ頬を朱に染めながらツンと視線を逸らす。
その様子に、八幡はふっと小さく息をつき、飾らない、しかし真っ直ぐな声を落とした。
「いや……。……綺麗だなと思ってさ」
「っ……!」
予想外の、あまりにもストレートな賛辞に、雪乃の動きがピタリと止まった。
いつもなら「バカじゃないの」と小言を返してきそうな彼女だったが、今日のドレス姿の破壊力と相まって、その言葉はダイレクトに心臓を撃ち抜いたらしい。耳の先まで真っ赤に染まり、言葉を詰まらせる。
さらに、八幡は悪戯っぽく片方の口角を上げ、しみじみと言った。
「お前のこんな姿、生で見られるのは……早くても、俺たちが大学を卒業して社会人になって、数年後――そうだな、5年後とか、もっと先のことだと思ってたからさ」
「なっ……! なにを急にそんな先の現実的な話……!」
「――でもまあ」
八幡は優しく目を細め、目の前にいる少女を愛おしそうに見つめながら笑った。
「こんな最高の景色を、今こうしてタダで見られるなら……。うん、なんか結構、得した気分だな」
「…………っ!!」
頭が真っ白になるほど恥ずかしい言葉を、平然と、しかも最高の笑顔で言い放つ八幡。
雪乃は顔から湯気が出そうなほど真っ赤になり、両手で自分の熱を持った頬を必死に覆った。
「ば、馬鹿じゃないの……! あなたね、そういう恥ずかしいことをサラッと言えるようになったの、誰の影響だと思ってるのかしら……!」
「はは、誰のって、俺の素直な感想だけど?」
「もう知らないっ……! 写真の続きを撮るわよ、ほら、カメラマンさんがこっち見てるじゃない!」
怒ったふりをしながらも、その口元と隠しきれない笑顔はどこまでも緩みっぱなしだった。
純白のドレスの裾を揺らしながら、恥ずかしそうに、けれどしっかりと八幡の隣に寄り添う雪乃。
未来の約束にはまだ少し早いかもしれないが、二人の間に流れる空気は、間違いなく人生で一番甘く、そしてかけがえのないものになっていたのだった。
ラストカットの魔法
「はい、じゃあ最後のカットいきますよー!」
カメラマンの弾んだ声が、チャペルの中に響き渡る。
「新郎様は新婦様の腰に手を回して、新婦様はブーケを胸元に。そして……お互いの顔をグッと近づけて、誓いのキスのポーズです! あくまで撮影用のポーズだから、本当にしちゃダメですよ、寸止めでね!」
スタッフの軽快な冗談交じりの指示に、雪乃の顔が先ほどよりもさらに何倍も赤く染まった。
「ち、寸止めって……あなた、ちゃんと聞いてる……?」
耳まで真っ赤にしながら、雪乃が抗議するように八幡を見上げる。
その距離、わずか数十センチ。純白のドレスに身を包んだ彼女の甘い香りと、熱を帯びた息遣いが肌に伝わってくるほど近かった。
八幡は、ドキリと高鳴る自分の胸の鼓動を必死に抑え込みながら、ふっと小さく息を吐いた。
(……寸止め、ねぇ)
確かに、これはただの広告の撮影だ。あらかじめ決められたポーズをこなすだけの、一介の高校生たちのアルバイトに過ぎない。
だけど――。
「……なぁ、雪ノ下」
「な、なによ急に……。早くポーズを合わせて終わらせ……」
最後まで言わせなかった。
八幡はためらうことなく、しっかりと雪乃の腰に回していた手に力を込め、その顔を――ほんの少しだけ、手前に引き寄せた。
「っ……!?」
次の瞬間、唇と唇が、ふわりと重なり合った。
それはカメラマンの言うような「寸止め」などではなく、紛れもなく本物のキスだった。
驚きに目を見開いた雪乃の瞳が大きく揺れ、心臓の音が自分でも聞こえるのではないかと思うほど激しく跳ねる。頭が真っ白になり、思考が完全にショートした。
カシャ、カシャ、カシャ――!
一瞬の静寂のあと、チャペル中に響き渡る連写のシャッター音。
カメラマンは目を丸くし、周囲のスタッフたちは「うおおおっ、マジで行ったぁーっ!?」「絵になりすぎだろおい!!」と、歓声と拍手を入り交じらせて大盛り上がりとなった。
チャペルの外の青空
数分後、撮影がすべて終わり、チャペルの外のガーデンテラスへと逃げるように出てきた二人。
「なっ……! あなた、馬鹿なのっ……!? 寸止めって言われたでしょ! なんで本当に……!」
顔から湯気が出そうなほど真っ赤になり、恥ずかしさでその場にしゃがみ込みそうになりながら、雪乃は八幡をペチペチと軽く叩いた。
八幡もまた、耳まで真っ赤に染め上げながら、気恥ずかしさを隠すように頭をポリポリと掻く。
「い、いや……だってさ」
照れ隠しに目を泳がせながらも、八幡はしっかりと雪乃の目を捉えて、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……そんな直前で寸止めなんて中途半端な真似、今の俺にはできねぇよ」
「っ……!」
その不器用で、けれど真っ直ぐすぎる言葉に、雪乃の小さな拳がピタリと止まった。
胸の奥を激しく揺さぶるような熱が広がり、怒るに怒れなくなった彼女は、やがてふっと力を抜いて、堪えきれないといった様子で小さく微笑んだ。
「……本当に、あなたって人は……」
秋の青空の下、ウェディングドレスの裾を少しだけ摘みながら、雪乃は恥ずかしさを隠すようにフイッと顔をそむけた。
けれど、その繋いだ手は、もう二度と離れないと言わんばかりに、しっかりと八幡の指を握りしめていた。
最高の未来へと続く二人の物語は、ここから本当の意味で、眩しく動き出していくのだった。
千葉テレビの洗礼と、それぞれの朝
あの結婚式場での劇的な「撮影」から数日後のこと。
千葉県内のローカルニュースや、トレンド情報番組の合間に流れるCM枠で、その映像は突如としてお茶の間に放映された。
「――そしてこちらは、今話題の最新ウエディングブランドのタイアップ映像です。新進気鋭のモデルとして起用された、爽やかな若者たちの瑞々しい表情が早くもネットで大反響を呼んでおりまして……」
画面に映し出されたのは、あのチャペルでのワンシーン。
ステンドグラスの光の中、タキシード姿の比企谷八幡が、純白のドレスに身を包んだ雪ノ下雪乃を引き寄せ、まさに誓いのキスを交わしている決定的な瞬間だった。しかも、ご丁寧にスローモーション付きで全国(正確には千葉県内中心)に電波に乗って流れてしまったのである。
パニックの雪乃と、肝が据わった八幡
翌日の総武高校。
登校するなり、校内のあちこちから「おい見たか昨日の千葉テレビ!」「マジで美男美女すぎだろあれ!」「え、奉仕部の比企谷と雪ノ下だよな!?」という黄色い歓声とどよめきが巻き起こった。
奉仕部室。
ドアを開けた瞬間、雪乃は手元のスマホ画面(まさにそのニュースの切り抜き動画)を見たまま、ガタガタと盛大に震えていた。
「なっ……! うそ……嘘よ……っ! あんな地方のローカル局のCMになんで私たちの写真が使われるのよ! しかもあのキスの瞬間がピンポイントで全国――いや千葉県全域に生放送されてるじゃない……っ!!」
普段の冷静沈着な「氷の女王」の面影は完全に崩壊し、雪乃は真っ赤に茹で上がったタコのように頭から湯気を出しながら、パニック状態で部室内を右往左往していた。
「もうお嫁に行けないわ……! 生きていけない……! 私の人生の黒歴史が千葉の電波に乗って永遠に記録されたわ……っ!」
「いや、お前、元々あの結婚式場の公式広告のモデルだって承諾しただろ……」
「承諾したけど! あんな主観モロバレのアップで使われるなんて聞いてないわよ!」
頭を抱えてジタバタと悶絶する雪乃を横目に、対する八幡はというと、意外なほど落ち着いていた。
前髪をすっきりと上げた整った顔立ちのまま、彼は冷めた緑茶をずずっとすすり、ぼそっと呟く。
「まあ、今さらジタバタしたって電波は止められねぇよ。……ほれ、ネットのトレンドワードにも『千葉の美男美女カップル』ってランクインしてやがるぞ」
「見ないでちょうだいっ!!」
雪乃が真っ赤な顔で八幡のスマホをパタンと叩き落とす。
しかし、その慌てふためく雪乃の様子を見ながら、八幡は心の中でふっと小さく息をついた。
かつては「ぼっちの特権」を盾に、他人の視線から隠れるように生き ていた自分が、今こうして大勢の注目を浴び、誰かと並び立って笑い合っている。気恥ずかしさはあるものの、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。
八幡は、真っ赤になってプルプルと震えている雪乃の肩に、ぽんと優しく手を置いた。
「……いいじゃねぇか。隠し撮りされたわけじゃねぇし、あれはあれで、悪くなかったろ?」
「っ……!」
そのあまりにも堂々とした、妙に頼もしい男らしい一言に、雪乃の動きがピタリと止まった。
心臓が激しく跳ねる音をごまかすように、彼女は勢いよくそっぽを向くと、真っ赤な顔のままツンと言い放つ。
「……ば、馬鹿ね。……でも、少しだけ……覚悟しておきなさいよね、比企谷くん」
千葉のテレビ局が生んだ一大ハプニングは、彼らの青春の1ページをさらに熱く、そして誰にも真似できない最高のかたちで彩っていくのだった。
思い出されてしまった言葉
「ちょっと、何を言っているのよ……!」
パニックを起こして部室内を右往左往していた雪乃は、八幡のその一言にピタリと動きを止めた。
じっと鋭く、しかしどこか余裕を含んだ目で自分を見つめてくる八幡の顔。その言葉の意味を脳内で反芻した瞬間、彼女の血流が一気に限界値まで跳ね上がった。
――『嫁さん候補なら別に問題ないんじゃないか?』
「……なっ……今、なんて……?」
「ん? だから、あのとき撮影の裏で『この人は私の旦那候補なのだから』って、お前が自分で言ってただろ。周りのスタッフにもしっかり聞こえてたぞ」
平然とした顔でトドメを刺すように言い放つ八幡。
その瞬間、雪乃の記憶の底から、あの結婚式場の撮影中、スカウトマンに詰め寄られたときの恥ずかしい記憶が鮮明に蘇ってきた。
(――そうだわ……私、あのとき……っ!)
「……っ……あああああぁぁぁぁ――っ!!!」
耐えきれなくなった雪乃は、両手で顔をパカーンと覆い、その場にしゃがみ込んでしまった。
耳の先から首筋まで、いや全身から湯気が出そうなほど真っ赤に染まり、あまりの恥ずかしさにジタバタと床を足で踏み鳴らす。あの「氷の女王」と呼ばれた美少女が、今やただの「盛大に自爆した思春期の女子高生」と化していた。
「忘れてよ! 今のナシ! 幻聴よ! そんなこと言った記憶は一切ないわ!」
「いや、バッチリ俺の脳裏と、あと式場のスタッフの記憶に刻まれてるから無理だな」
「もうやめてぇ……!」
頭を抱えて赤面し続ける雪乃の姿を眺めながら、八幡はふっと小さく笑った。
かつては他人に心を開かず、トゲのある言葉で自分を武装していた彼女が、今こうして自分の前でこんなにも分かりやすく感情を露わにしてくれている。
その事実が、なんだか無性に誇らしくて、愛おしかった。
「……まあ、悪くはねぇよ」
ぼそっと呟いた八幡の言葉に、雪乃は顔を真っ赤にしたまま、そっと指の隙間からじっと彼を睨みつけた。
「……なにがよ、このひねくれ者……」
「お前のその旦那候補に選ばれたなら、悪くねぇって話だ」
「っ……!!」
さらに強烈な直球を食らい、雪乃は再び「もう無理……!」と頭を抱えて崩れ落ちるのだった。
千葉テレビの電波に乗った恥ずかしいハプニングも、周囲の冷やかしも、二人の間に流れる甘く熱い空気の前には、ただの背景のスパイスでしかなかった。
川崎沙希の宣戦布告
「――って、いつまでイチャついてんだよ、お前らっ!!」
ガタァッ!! と、激しい音を立てて奉仕部室のドアが勢いよく開き、そこに立っていたのは顔を真っ赤に怒らせた川崎沙希だった。
手にはスマホの画面――まさにあの千葉テレビの放送切り抜きと、ネットで拡散されている二人のラブラブなツーショット写真が表示されている。
「沙希……っ!?」
あまりの勢いに、先ほどまで頭を抱えて赤面していた雪乃が素っ頓狂な声を上げた。
川崎はススッと鋭い足取りで八幡の目の前に歩寄り、ドンッと机に両手をついた。そのキリッとした美しい目元は怒りと、それ以上に隠しきれない焦燥感でわずかに潤んでいた。
「なぁ、比企谷……! ちょっと調子に乗りすぎじゃないのか!? 雪ノ下ばっか特別扱いして、私の方はどうなってんだよ!」
「いや、どうって言われてもだな……」
「ネットのニュースでさ、お前らが結婚式場でイチャついてるの見たとき、私、どれだけ驚いたと思ってんだよ! しかも『嫁さん候補』だぁ? ふざけんじゃないわよ!」
川崎はグッと拳を握りしめ、顔を真っ赤に染め上げたまま、まるで決死の覚悟を決めたように一気にまくし立てた。
「……こうなったら、あんた、私ともデートしなさいよ! 雪ノ下ばっかズルい真似させないからね! 私とも今すぐデートしなさい、いいわね!?」
部室の空気が、再びカチリと凍りついた。
雪乃は「なっ……!」と目を見張り、赤面から一転してライバルを睨みつけるような(しかしどこか動揺した)視線を向ける。
八幡の答え
突然の川崎からの激しいアプローチ。
周囲の女子たちの容赦ない猛攻に、さすがの八幡も冷や汗を流しつつ、しかし、その瞳には不思議としっかりとした覚悟の光が宿っていた。
(……まあ、こうなるよな)
逃げ出すこともできたはずだ。これまでのようにひねくれた冗談でごまかして、いつもの「ぼっち」の殻に閉じこもることもできた。
だけど、そんな中途半端な真似をすれば、目の前で必死に自分の気持ちをぶつけてくれている彼女たちに顔向けができない。
八幡はすっと姿勢を正すと、いつもより少しだけ低く、落ち着いた声で川崎を見据えた。
「……おい、沙希」
「な、なんだよ……! 改まって……」
呼び捨てにされたことで、川崎の顔の赤みがさらに一段と跳ね上がる。
八幡はふっと小さく息を吐き、悪びれもせずにこう言い放った。
「怒るなって。……実を言うと、お前が来なくても、今度はお前から誘いに行こうと思ってたところだ」
「…………は……?」
川崎の思考回路が、完全に停止した。
「い、今……なんて……?」
「だから、お前ともちゃんとデートするつもりだったってことだよ。……お前がこんだけ本気でぶつかってきてくれてるのに、俺がスルーし続けたら男がすたるだろ」
「っ……!!」
耳の先まで真っ赤に染め上げ、川崎は言葉を失った。
いつもは強がってヤンキーぶっている彼女が、完全にキャパオーバーを起こし、その場でパタッと頭を抱えてしゃがみ込んでしまう。
「なっ……なんだよそれ……反則だろ、そんなの……っ!」
その様子を見て、雪乃は「ちょっと、比企谷くん、あなたね……!」と頬を膨らませて抗議の声を上げるが、その耳もやっぱり真っ赤だった。
次々と巻き起こる修羅場と、隠しきれない甘酸っぱい青春の嵐。
ひねくれ者だった比企谷八幡の周りは、今日も今日とて、最高に賑やかで熱い空気に包まれているのだった。
遠くからの目撃者と、それぞれの青春
その頃――。
奉仕部室の少し離れた廊下の角で、忍者のように身を潜めながら、その一部始終を覗き見している二人の男子生徒がいた。
葉山隼人と、材木座義輝だった。
「……おい、葉山。今の見たか……? 雪ノ下を赤面させたかと思えば、今度は川崎からの直球の誘いに『お前を誘いに行こうと思ってた』だなんて……! あのひねくれ者が、いつの間にこんな最強のプレイボーイ(色男)にクラスチェンジしたんだ……っ!」
材木座はスタイリッシュな伊達メガネを押し上げながら、信じられないものを見る目でブルブルと震えていた。
その隣で、葉山は苦笑いを浮かべながらも、どこか感心したような、少しだけ眩しそうな顔で奉仕部室のドアを見つめている。
「いやはや……まったく、恐れ入ったよ。まさか、あの比企谷がここまで真正面から女子たちの気持ちに向き合うようになるなんてね」
「しかしだ、葉山! あれは一歩間違えれば修羅場、一歩間違えれば二股、いや――浮気ではないのか!? あんなにあちこちのヒロインをたらし込んで、主人公としてのモラルが問われる重大な局面ではないか!」
材木座が慌てたようにそうツッコミを入れると、葉山はふっとフレンチのフルコースでも味わうかのように優雅に笑った。
「浮気、ねぇ……。確かに端から見ればそう見えるかもしれないけどさ」
葉山はポケットに手を突っ込み、遠い目をする。
「僕たちに相談してきたとき、比企谷はこう言ったんだ。『中途半端な態度のままでいるわけにはいかない』ってね。あいつはあいつなりに、彼女たちの真っ直ぐな想いに、自分のすべてをかけて本気で応えようとしているんだよ」
「ほう……! 本気、とな?」
「ああ。綺麗に波風を立てないように立ち回るのが得意だった僕には、あいつのあの泥臭さは真似できない。……『本気なら良い』って、僕自身が言っただろう?」
葉山は小さく息をつき、眩しそうに目を細めた。
「浮気だのなんだのと言葉で片付けるのは簡単だけどさ……あれは、あいつなりの不器用で真っ直ぐな誠意の形なんだろうさ。……まったく、羨ましいくらいに熱い青春じゃないか」
「む……! ぬうう、確かに!」
材木座は腕を組み、大きくうなずいた。
「この私(ダーク・ナイト)も、いつまでも傍観者気取りでいるわけにはいかん! 次の文化祭のシナリオには、この『修羅場を乗り越える主人公の覚悟』を盛大に取り入れねばならん!」
「はは、それはお手柔らかに頼むよ」
廊下の向こうから聞こえてくる、賑やかで、少し恥ずかし気で、そして甘酸っぱい喧騒を背にしながら、二人の男子生徒は静かにその場を離れていった。
それぞれの場所で、それぞれの覚悟を胸に走り出した若者たちの物語は、誰にも止めることのできない最高潮の季節へと、まっすぐに突っ走っていくのだった。
葉山隼人の「本物」と、三浦優美子の失恋
夕暮れに染まる総武高校の中庭。
人気の少ないベンチの近くで、三浦優美子は両手を固く握りしめ、目の前に立つ金髪の少年に真っ直ぐな視線を向けていた。
「……ねえ、ハヤト」
「どうしたんだい、三浦。こんなところに呼び出して」
いつもの柔らかい笑みを浮かべる葉山に、三浦は大きく息を吸い込み、震える声を絞り出した。
これまでクラスのカーストの頂点に立ち、何人もの告白を軽やかにかわしてきた彼女が、これほどまでに緊張し、本気で誰かに想いを伝えるのは人生で初めてだった。
「私さ……ずっと、みんなのハヤトくんを見てた。それだけで満足してたの。でも……」
三浦は目を潤ませながらも、一歩、葉山に歩み寄った。
「最近のあんたを見てたらさ、そんなのじゃ全然ダメだって気づいたんだよ。……私、昔のままの馴れ合いじゃなくてさ、ちゃんと、一人の女の子として……あんたのことが好きなの。私と、付き合ってほしい」
その告白には、これまでのプライドも、傷つく恐怖もすべて投げ捨てた、まぎれもない本物の決意が込められていた。
静まり返った中庭に、夕方の風が吹き抜ける。
葉山はすぐに返事をせず、しばらくの間、じっと三浦の瞳を見つめていた。その表情には、いつもの「みんなに優しい葉山隼人」の仮面はなかった。そこにあったのは、酷く真剣で、どこか痛みを伴うような冷徹さだった。
「……三浦」
「……なに?」
葉山はゆっくりと首を横に振った。その言葉は、優しさではなく、残酷なほどの誠実さに満ちていた。
「ごめん。その気持ちには応えられない」
「っ……!」
「……今の君の告白は、綺麗だったし、間違いなく本気なんだろうと思う。でもね……今の僕は、『本当のもの』にしか興味がないんだ。誰かの期待に応えるための関係でも、空気を読むための恋でもなく……泥臭くても、傷つくことになっても、本気でぶつかり合えるもの以外は、もう欲しくないんだよ」
葉山はふっと自嘲気味に笑った。
「……そんな風に思わせてくれたのは、他でもない、あいつらや……比企谷のおかげなんだけどね」
それは、今の葉山隼人が出せる精一杯の「本気」の拒絶だった。
誰に対してもいい顔をしてきた彼が、初めて誰かの想いに対して真正面から、逃げずに「NO」を突きつけた瞬間だった。
雪乃と川崎の不器用な優しさ
数分後、少し離れた校舎の影。
三浦が一人でぽつんと立っているところに、気まずそうに近づく二つの影があった。雪ノ下雪乃と、川崎沙希だった。
二人は、遠くからあの告白の一部始終を見守っていたのだ。
「……優美子」
「……みっともねぇ顔してんじゃねぇよ、三浦」
雪乃はポケットから真新しいハンカチを取り出し、川崎は何も言わずに三浦の背中をポンと荒っぽく叩いた。
いつもなら「ほっといてよ!」と気丈に突っ張るはずの三浦だったが、その温もりに触れた瞬間、堪えきれずに大粒の涙がポロリとこぼれ落ちた。
「……っ……フラれちゃった……私、見事にフラれた……」
「わかってるわよ、そんなの……」
雪乃は優しくハンカチを差し出し、川崎は三浦の肩をそっと抱き寄せた。
悔しくて、情けなくて、胸が引き裂かれそうに痛い。だけど――不思議と、嘘偽りのない言葉でちゃんと振られたからこそ、胸の奥はどこか澄み切っていた。
「……ねえ」
三浦は涙を拭いながら、かすれた声で呟いた。
「あいつ……あんなにはっきり、私を振ったのよ? 私のプライドも、何もかも粉々よ……なのにさ……」
三浦は、遠く去っていく葉山の背中を思い出し、どこか切なそうに、しかし誇らしげに小さく笑った。
「……なんかさ、昔のただの『みんなのハヤトくん』より……今のあいつの方が、何倍も……カッコよかったんだよね……」
失恋の痛みを知り、他人の痛みに寄り添う強さを得た三浦の顔は、いつものツンとした女王様よりも、ずっと大人びていて、そして美しかった。
それぞれの「本気」をぶつけ合い、痛みを抱えながらも前へと進み始めた青春の季節は、彼らを少しずつ、確かな大人へと変えていくのだった。
一色いろはの視線と、高鳴る鼓動
夕暮れの茜色に染まる校舎の窓から、その一部始終をじっと見つめていた人物がいた。
一色いろはだ。
彼女は二階のテラスから、中庭で繰り広げられた葉山隼人と三浦優美子のやり取りを、息を潜めて目撃していた。
いつもなら、困ったような爽やかな笑顔で周囲を煙に巻き、決して誰も傷つけないように、けれど自分も深入りしないように立ち回っていた「みんなの葉山くん」。
その彼が、あんなにも真剣な目で、一切の逃げを作らずに、三浦のまっすぐな想いに「NO」を突きつけたのだ。
(……え……嘘……あの一色さんの知ってる葉山先輩、なの……?)
いろはの胸の奥で、小さく冷たい波紋が広がった。
優しくて、顔が良くて、誰からも好かれる完璧な王子様。いろはにとっても、それはいつか手に入れたい、あるいは憧れる理想のアイコンだったはずだ。
けれど、今の葉山はどうだ。
綺麗なお面を剥ぎ取り、自分の内側にある不格好なまでの「本気」を晒し出し、相手の覚悟に対して真正面から向き合って見せた。
それはただ優しいだけの男に見せられるものではなく、周囲の誰よりも泥臭く、そして圧倒的に男らしい姿だった。
――見た目だけの軽いイケメンなんかじゃない。
あいつら(八幡たち)に感化されて、葉山隼人という人間は、本当の意味で「芯のある男」に変わってしまったんだ。
「……ずるい、なぁ……」
ぽつりと呟いたいろはの声は、夕暮れの風にかき消されて消えていった。
気づけば、彼女の胸の奥――心臓は、これまでにないほど激しく、暴れるようにドクドクと脈を打っていた。
悔しさなのか、切なさなのか、それとも。
いつの間にか自分の予想を遥かに超えて大人になっていく周囲の男たちに置いていかれそうな焦りと、胸を締め付けられるようなトキメキが同時に押し寄せる。
いろはは小さく息を呑むと、熱を持った胸元をそっと片手で押さえ、震える唇を噛み締めた。
「……先輩たちばっかり、ズルくないですか……」
誰にも聞こえない声でそう呟きながらも、その視線は、遠ざかっていく葉山の背中から、どうしても離せなかったのだった。
予期せぬ来訪者と、冷徹な一言
夕方の静けさが戻りつつあった奉仕部室のドアが、いつものように控えめに、しかしどこか切羽詰まった様子でノックされた。
「……失礼します」
入ってきたのは、一色いろはだった。
いつもの余裕を湛えた小悪魔的な笑みは微塵もなく、彼女の顔には明白な焦りと疲労の色が浮かんでいる。
「あら、一色さん。珍しいわね、こんな時間に」
紅茶のカップをソーサーに戻しながら、雪乃が怪訝そうに眉をひそめる。川崎も腕を組みながら、じっといろはの様子を伺っていた。
しかし、いろはは雪乃たちには目もくれず、真っ直ぐに机の前に座っていた比企谷八幡のところへと駆け寄った。そして、両手で机をバンと叩き、潤んだ瞳で訴えかけた。
「比企谷先輩……! 助けてください、私、どうにかなっちゃいそうなんです……!」
「……なんだよ、いきなり。人の顔を見るなり助けてくれとは、相変わらず厚かましい後輩だな」
八幡はいつも通りのジト目でため息をつきながら、面倒くさそうに顔を背けた。
「厚かましいって何ですか! 本当に一大事なんです! 実は……学校のあちこちで、私を生徒会長に推す声が勝手に盛り上がってて……気づいたら、周りから半ば強制的に生徒会に無理矢理推薦されちゃったんです!」
「は……? 生徒会?」
「そうです! 私、別にそんなつもりじゃなかったのに、先輩たちが『いろはすならぴったりだ』とか言って勝手に書類を進めちゃって……このままじゃ、本当に生徒会選挙に立候補させられちゃうんです……! 何とかしてくださいよ、先輩たちの力でこの状況をどうにかしてくれませんか!?」
泣きつきそうな顔で助けを求めるいろは。
校内で一旗揚げようと目論んだものの、周囲の勢いに流されて取り返しのつかないところまで追い詰められてしまった彼女なりの、必死のSOSだった。
だが――。
八幡は椅子にもたれかかり、冷めた目をいろはに向けたまま、ピクリとも動かなかった。
「……で?」
「で、って……だから、助けてって言ってます……!」
「お断りだ。さっさと帰れ」
「え……?」
いろはの息が止まった。自分がこんなに困っているというのに、一歩も引かないどころか、完全に切り捨てるような八幡の冷たい声。
八幡は冷徹に、しかしハッキリと言い放った。
「お前が可愛い後輩アピールを周囲に振りまいて、自分の都合のいいように立ち回ろうとした結果がこれだろ。……自分で蒔いた種は、自分で刈り取れ。 他人に泣きつけば何でも解決すると思うな」
呆然とするいろは
「――っ…………!」
あまりにも容赦のない、正論すぎる突き放し方に、いろはは言葉を失った。
これまでの先輩たちなら、なんだかんだ言いながらも助け舟を出してくれたり、優しくなだめてくれたりしたはずだ。しかし、目の前の比企谷八幡は違った。甘えを一切許さず、彼女の自業自得な一面を鋭く見抜いた上で、突き放したのだ。
雪乃も川崎も、何も言わずにそのやり取りを見守っている。それは冷たさではなく、「一色いろはという少女が一人の人間として向き合われるべきだ」という、彼女たちなりの静かな信頼の裏返しでもあった。
「そ、そんな……ひどいです……。私、あんな大役なんて絶対に無理なのに……」
いろはの瞳から、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。
見栄と計算で固めていた普段の仮面が完全に剥ぎ取られ、そこにあったのは、ただの等身大の、追い詰められた一人の女子高生の姿だった。
しかし、八幡は視線をそらさない。
「知らねぇよ。泣いたって状況は変わんねぇ。……自分のケツは自分で拭け、一色」
「…………っ……!」
これ以上ここにいても無駄だと悟ったのか、いろはは震える唇を噛み締め、悔し涙を拭うと、バァンと激しくドアを閉めて部室から飛び出していった。
静まり返った部室。
ドアの向こうから聞こえる足音が遠ざかっていくのを聞きながら、八幡は小さく息をつき、再び自分の本に視線を落とした。
甘えを断ち切られたその後で、いろはがどのような決断を下すのか――それはまだ、誰も知らない。
職員室の攻防と、強すぎる味方たち
翌日の放課後。
職員室のドアが勢いよく開き、一色いろはは真っ赤に充血した目をしながら、担任である平塚静――ではなく、無責任に生徒会推薦を進めた別の担当教師のデスクへと直談判に乗り込んでいた。
「せんせいっ! だから、私が生徒会になんて立候補するわけないって言ってるじゃないですか! 勝手に書類を進めるなんて、それこそ問題ですよ!」
「まぁまぁ、いろはす。君の人望を見込んでのことだし、学校としても期待してるんだからさ。はい、この書類にサインして――」
教師は面倒くさそうに笑いながら、いろはの話をまともに聞こうともせず、形式的な言葉で丸め込もうとした。立場の弱い生徒の言い分など、大人の都合でどうとでも捻じ曲げられる――そう思っていたのだ。
(くそっ……! 私の言うことなんて、誰も真面目に聞いてくれない……!)
悔しさと絶望感で、いろはの目から再び涙がこぼれそうになったその時だった。
カツ、カツ、カツ……。
静まり返った職員室に、重く、しかし冷徹な足音が響き渡った。
教師が不審に思って顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
一色いろはの後ろに、まるで彼女を守るように、三人の生徒が静かに控えて立っていたのだ。
先頭に立っていたのは、雪ノ下雪乃。その完璧な美貌には、周囲の空気を凍りつかせるような「氷のような視線」が宿っていた。
その隣には、鋭い眼光で教師を威圧する川崎沙希。
そして、その少し後ろで腕を組み、冷ややかな目を向けるイメチェン後の比企谷八幡。
奉仕部の「最強の面々」が、揃い踏みしていた。
「……な、なんだ君たちは。ここは職員室だぞ。勝手に入ってきて……」
教師が気圧されながら声を裏返すと、雪ノ下雪乃は一歩前へ出た。その声は、静かでありながら、有無を言わせぬ絶対的な圧を放っていた。
「――先生。今の彼女の言葉を、あなたは『聞き流した』わね」
「なっ……!」
「彼女が自分の意思で拒絶しているにもかかわらず、大人の権力と数でそれをねじ伏せ、半ば強制的に役職を押し付ける。……それは教育でも期待でもなく、立派な権力によるいじめよ。総武高校の教師が、生徒に対するいじめを容認するつもりかしら?」
「い、いじめだなんて大げさな……!」
「大げさではないわ」
雪乃の視線がさらに鋭く、絶対零度の輝きを帯びた。
「彼女は今、自分の意思で、自分の言葉で、この理不尽に立ち向かっているわ。……それを大人の都合で無碍にするような真似をするのなら、私が、私たちが……決して黙っていないわよ」
背後で川崎が「ああ、覚悟しとけよ」と低く威圧し、八幡も一歩前に出て「自分の生徒の面倒くらい、ちゃんと自分で見たらどうですかね、大人フツーの先生方」と冷ややかに吐き捨てる。
三人が放つ圧倒的なプレッシャーと、雪乃の冷酷なまでに正論を突き刺す眼光の前に、担任をはじめとした周囲の教師たちは冷や汗を流し、言葉を失った。
(……え……?)
いろはは、自分の目の前で、自分のために大人の教師と真っ向から渡り合ってくれている先輩たちの背中を、信じられない思いで見つめていた。
昨日、自分を冷たく突き放したはずの八幡。そして、普段は関わりを持たないようにしていた雪乃や川崎。
彼らは、自分が一人で立ち向かおうとしたその戦いを、決して見捨てていなかったのだ。
「……わかった、わかったよ! 今回の推薦の話は、いったん白紙に戻す! だから、そんな怖い目で見るな……!」
冷や汗をダラダラと流しながら、教師は完全に白旗を上げ、書類を引っ込めた。
職員室の重苦しい空気がふっと緩んだその場所で、いろはは震える両手で顔を覆い、今度こそ我慢できずに、大粒の涙をポロポロと零し落ちさせるのだった。
職員室のあとに
職員室の重苦しい空気を背にして、四人が廊下に出た途端、緊張の糸が切れたようにいろははその場に膝から崩れ落ちそうになった。
「うっ……うぅ……っ!」
こらえきれずにあふれ出た涙を両手で覆い隠し、いろはは声を上げて泣きじゃくった。大人の理不尽に一人で立ち向かおうとして、怖くて、悔しくて、でもどうしようもなかった恐怖が一気に押し寄せてきたのだ。
そんな彼女の姿を見て、雪乃はため息をつくように小さく息を吐くと、スッといろはのそばに歩み寄り、優しくその体を包み込むようにそっと抱きしめた。
「……よく頑張ったわね、一色さん」
「……っ……雪ノ下先輩……っ!」
雪乃の華奢な体から伝わる温もりと、上品な香りに包まれた瞬間、いろはは彼女の制服の袖をぎゅっと掴み、子供のようにワンワンと泣きじゃくった。氷の女王なんて呼ばれていた先輩が、こんなにも優しく自分を肯定して抱きしめてくれるなんて思っていなかった。
少し離れた場所でその様子を見ていた八幡は、めんどくさそうに頭をポリポリと掻きながらも、ふっと小さく息を抜いた。
「……ほら、泣き止んだならさっさと教室戻れよ。いつまでもここに突っ立ってたら、また別の教師が湧いて出るぞ」
そう言いながら、八幡はすれ違いざまに、いろはの頭を乱暴に、けれどどこか優しくポンポンと撫でた。
「っ……!?」
頭を撫でられたいろはは、涙に濡れた目をパチクリさせ、呆然と八幡の背中を見つめた。
冷たく突き放したくせに、いざという時には助けてくれて、最後にはこんな優しい真似をしていくなんて――反則すぎただろう。
川崎の密かな焦り
その背中を見送りながら、川崎沙希は腕を組み、やれやれと言った様子で大きくため息をついた。
「はぁ……まったく、あのひねくれ者め。自分で落とし穴に落としておいて、最後は美味しいところ全部持ってくんだからな」
呆れながらも、川崎の胸の片隅には、先ほどの一連の光景を見ていて別の意味での焦りが芽生えていた。
トゲトゲしていた後輩が、あの不器用な男の優しさに触れて、どんな目をしていたか。女の子なら誰だって、あんな風に守られたら落ちてしまうに決まっている。
(……待てよ。雪ノ下だけじゃなくて、今度はあの後輩まで……?)
川崎はジト目でいろはのほうを一瞥し、「これ以上ライバルが増えたら、本当に面倒なことになりそうだな……」と、頭を抱えたくなる衝動に駆られるのだった。
涙を拭い、真っ赤な目をこすりながらも、いろはの胸の奥には、冷たかったはずの先輩たちの温もりと、どこか胸を締め付けるような熱い感情が深く刻み込まれていた。
遠くで見守る大人たちと、終わらない季節
すっかり夕闇に包み込まれ始めた総武高校の校舎。
その屋上の柵にもたれかかりながら、夕日を眺めている二人の男子生徒がいた。葉山隼人と、材木座義輝だった。
「……いやはや、見事なものだったな、葉山」
材木座はスタイリッシュな伊達メガネをくいっと押し上げ、どこか感慨深げに腕を組んでうなずいた。
「あの職員室での包囲網、そして比企谷の最後のアメとムチ。まるで一昔前の青春映画のワンシーンを見ているようだったぞ!」
「そうだね……」
葉山は遠くの空に浮かぶ茜色の雲を見つめながら、ふっと柔らかく微笑んだ。
自分の殻に閉じこもっていた者たちが、それぞれの痛みを抱えながらも本気でぶつかり合い、不器用ながらも誰かのために手を差し伸べる。その眩しすぎる光景を、彼は少しの羨望と、底知れない清々しさを持って見届けていた。
「綺麗に取り繕うだけじゃなくて、泥臭く傷つきながらも真っ直ぐ進む……。あれこそ、まさに――」
葉山が言葉を区切ると、材木座が力強く胸を張って言い切った。
「――あれこそが、青春ど真ん中だな!!」
その材木座の叫びに、葉山は思わず声を上げて笑った。
「まったく、その通りだね。僕たちには到底真似できない、あいつらだけの眩しい季節さ」
「ほう、よく分かっているじゃないか、二人とも」
ふいに背後からかけられた低く艶やかな声に、葉山と材木座はびくりと肩を震わせて振り返った。
そこに立っていたのは、愛車のキーを指でくるくると回しながら、満足げな笑みを浮かべた平塚静だった。
「ひ、平塚先生……!」
「いつの間にそこに……」
平塚は二人の間にすっと歩み寄ると、夕日に照らされた校庭を眺めながら、大きく腕を組んで深くうなずいた。
「うん、うん。 まったく、見事な青春じゃないか」
教師として彼らの苦悩や成長をずっと一番近くで見守ってきたからこそ、その言葉には深い実感がこもっていた。
「あいつらはあいつらなりに、自分の足で悩み、ぶつかり、大切なものを見つけ始めている。……大人が手出しをするまでもない、最高のドラマを見せてもらった気分だね」
平塚はそう言うと、満足そうにフッと鼻を鳴らし、二人の肩をポンポンと叩いた。
「さて、感傷に浸るのはそのへんにしろ。お前たちもいつまでも傍観者気取りでいないで、自分の青春の1ページくらい、ちゃんと自分で書き上げに行きなさい!」
「は、はいっ!」
材木座が胸を張って敬礼し、葉山もまた晴れやかな笑顔でうなずく。
それぞれの想いが交差し、熱を帯びていく総武高校の物語は、まだ終わりを知らない。夕暮れのチャイムが響き渡る中、若者たちの新しい季節は、力強く、そして眩しく回り続けていくのだった。
後始末と、新たな所属
翌日の昼休み。
一色いろはがトラブルに巻き込まれていたクラスのざわついた空気の中、一人の男子生徒が静かに足を踏み入れた。
葉山隼人だった。
彼の爽やかな笑顔には、いつものような「誰にでもいい顔をする優しさ」はなく、どこか冷徹で、有無を言わせぬ威圧感が漂っていた。
葉山は、いろはを半ば無理やり生徒会に推薦しようとしていた中心人物――つまり、面白半分で彼女を追い詰めていたグループの男子の机の前に、スッと立ち止まった。
「……ねえ」
「は、葉山くん……?」
冷や汗を流す男子生徒を、葉山は冷ややかな目で下ろした。
「昨日の件だけどさ。……君たち、一体何のつもりで彼女にあんな真似をしたんだい? 一応聞いておくけど、そもそも君たちのうちの誰が、彼女を推薦するほどの器だったの?」
図星を突かれ、男子生徒は顔を真っ青にして言葉に詰まる。
「い、いや、それは……その……」
「まあ、答えられないよね。自分の名前ですら責任を持てない連中が、他人の人生を面白半分で動かそうとするなよ」
葉山が静かに、しかしはっきりとそう言い放つと、教室の空気がピタリと凍りついた。
さらに、葉山がふと振り返った教室の入り口。
その背後の廊下に、見覚えのある銀髪――いや、見違えるほど整えられた髪型に、気だるげな目を隠しきれない比企谷八幡の姿がちらりと見えた。
「「……え……比企谷……!?」」
クラスメイトたちがざわめき、恐怖に満ちた声を上げる。
あの奉仕部の「氷の女王」を味方につけ、さらには学校の王子様である葉山までが本気で動き、そして影にはあの不気味で圧倒的な存在感を放つ比企谷八幡が控えている。
「……おい、マジかよ……。あの二人を敵に回して、この学校に俺たちの居場所なんて……」
クラスのいじめっ子グループの一人がガタガタと震え出し、二度とちょっかいを出さないと誓うように頭を抱えて縮こまった。
満足したように一瞥をくれた葉山は、それ以上何も言わず、くるりと背中を向けて教室を去っていった。
男たちの背中と、爆発する心臓
校舎の裏手に続く渡り廊下。
去っていく葉山の背中に追いつくように、八幡がぼそっと声をかけた。
「おい、葉山。わざわざ後始末ご苦労だな」
「……別に。君の真似事をしただけさ、比企谷」
葉山は苦笑いを浮かべ、軽く手を振ってみせた。
だが、八幡はフッと鼻を鳴らし、あきれたように笑う。
「……ふん。他人の真似事だなんて言うけどよ、あの状況で実際にその一歩を踏み出して、周囲を黙らせられる奴がこの学校に何人いるんだよ。……十分、かっこいいじゃねぇか」
その言葉に、葉山の足がわずかに止まった。驚いたような顔をしたあと、彼は少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。
「……はは、君にそんなこと言われるとは思わなかったな」
二人の男が交わした、不器用で、けれど確かな敬意の形。
そして――そのやり取りのすべてを、少し離れた柱の陰から、一色いろはは目撃していた。
(――先輩……っ!)
葉山のスマートな男らしさと、それを認め、真っ直ぐに言葉を返す八幡の不器用なカッコよさ。
昨日から浴びせられ続けている「本気」の連続に、いろはの心臓はもう限界だった。
胸の奥でドクン、ドクンと暴れる鼓動は、まるで今にも爆発してしまいそうなほど激しく熱を帯びていて、彼女は自分の両手で真っ赤になった頬を必死に覆うしかたなかった。
「……ずるい、なぁ……本当になんて人たちなのよ……」
甘えを許さず突き放したくせに、いざという時にはこれ以上ないほど守ってくれる。
涙のあとで芽生えたその恋心は、もう誰にも止められないほど、深く、確実に彼女の胸に刻み込まれていたのだった。
生徒会室の密談と、新たな居場所
放課後の生徒会室。
西日が差し込む静かな部屋の中で、一色いろはは目の前に座る二人の先輩を緊張の面持ちで見つめていた。
そこにいたのは、雪ノ下雪乃と川崎沙希。
昨日の一件を経て、いろはをこれ以上無責任な連中の玩具にさせないため、二人は直接彼女の元へと足を運んでいたのだった。
「――で、一色さん。結論はどうするのかしら?」
雪乃が上品に紅茶のカップを置きながら、真っ直ぐないろはを見据えた。
「ど、どうするって……何がですか?」
「とぼけないでちょうだい。先日のあなたの件、学校側もさすがに無視できないわ。そこで、あなたをこれ以上変な立場に置かないための処置よ」
雪乃は軽く息をつき、淡々と言い放った。
「――今度の生徒会役員改選、あなたが生徒会の『書記』として立候補しなさい。表向きは、面倒な雑務や雑用をすべてあなたに押し付ける形にしておくわ。そうすれば、周囲も面白半分であなたを担ぎ上げたりはできなくなる」
「ざ、雑用係ですか……!? 私が……?」
いろはが目を丸くすると、今度は隣で腕を組んでいた川崎が、不敵に、けれどどこか温かい笑みを浮かべて続けた。
「そういうことだよ。面倒な雑務なんて言ってるけど、要するに、私たちが後ろからしっかり目を光らせてやるってことだ。……『守る』って言ったからには、中途半端な真似はしない。安心しなさい」
それは、いろはがこれ以上学校の中で孤立せず、自分の居場所を安全に確保するための、雪乃たちなりの最高で最強の「防衛策」だった。
形式上は「お姉さまたちのパシリ(雑用)」という名目でありながら、その実態は、奉仕部の最強の面々が後ろ盾に控えているという、誰も手出しができない鉄壁の布陣だった。
「お姉様たち」
自分のために、そこまで考えて動いてくれた先輩たちの姿。
冷たく突き放されたと思ったら、いざという時には命綱を投げてくれる。甘えを許さない厳しさと、誰よりも深い優しさを併せ持った二人。
いろはは胸の奥がカッと熱くなるのを覚えながら、じっと自分の膝の上で震える手を握りしめた。
「……先輩たち、ずるいです……」
潤んだ瞳で二人を見上げながら、いろはは小さく、けれどはっきりと、どこか甘えるような声で呟いた。
「そんな風にされたら……私、もう一生、頭が上がらないじゃないですか……。……お姉様たち、ねえ。」
その言葉に、雪乃はふっと少しだけ頬を緩ませて目を細め、川崎は「なんだよそれ、照れくさいこと言うなよ」と照れくさそうに頭を掻いた。
完璧な王子様も、ひねくれた救世主も、そして圧倒的なカリスマを持つお姉さましたちも。
いろはを取り巻く世界は、昨日までとは比べ物にならないほど眩しく、そして温かい熱に包まれていた。
――こうして、一色いろはの新しい戦いと、少しだけ歪で最高に贅沢な学校生活が、力強く動き出すのだった。
部室に、奇妙な静寂が訪れた。
「……は?」
八幡がジト目をさらに細める。
「メガネのイケメン……? 総武高校で最近イメチェンしたメガネのイケメンなんて、そんなピンポイントなやつ……」
その瞬間、八幡と川崎、そして雪乃の脳裏に、ある一人の人物の顔が鮮烈に思い浮かんだ。
(――材木座義輝……っ!)
あの日、八幡のイメチェンに触発され、分厚い眼鏡をスタイリッシュな伊達メガネに変え、髪型をオールバックに固めて校内を闊歩していた、あの自称・ダークナイトの巨漢の姿が。
「いやいやいや、待て待て待て!」
八幡が盛大に頭を抱えてツッコミを入れる。
「よりによって材木座かよ!? あの重厚感あふれる(自称)知的イケメンに、わざわざ相談してまで接触したい奴がいるのかよ……!?」
「え、マジですか……? あの、いつも一人で中二病の台詞をブツブツ呟いてる、あの材木座先輩ですよね……?」
いろはも信じられないものを見るような目で用紙を見つめ、絶句している。
雪乃は優雅にため息をつき、やれやれといった様子で首を横に振った。
「世の中、色々な趣味嗜好の人がいるものね……。でも、目安箱に投書された以上、奉仕部(兼生徒会支部)としては放置するわけにはいかないわ」
川崎も腕を組みながら、「で、どうすんだよ比企谷。あの巨漢の相棒に、この相談のことを伝えてやるのか?」とニヤニヤしながら八幡を見つめた。
「くそっ……! あの材木座が、まさかここにきてモテ期(?)の到来か……!?」
頭を抱える八幡の姿を横目に、波乱の予感をはらんだ新たな相談の幕が、こうしてひっそりと上がのだった。