海老名姫菜の決意と、校舎裏の作戦
「……相談者って、まさか海老名さんだったわけ……!?」
奉仕部室に現れた本人は、いつもは腐女子トークで軽やかに周囲を煙に巻いている海老名姫菜、その人だった。
彼女は真っ赤になりながらも、両手を合わせて雪乃や八幡に頭を下げた。
「お、お願い! あの目安箱、私なの……! 最近、あの……材木座くんの、その、真面目に変わろうとしてる姿を見てたら、なんかこう……胸がザワザワしちゃって……!」
海老名の本気の恋心を知った奉仕部と生徒会(いろは)は、すぐに行動を開始した。
みんなの協力のもと、放課後の校舎裏――かつてないほど緊張した面持ちの材木座義輝が、何も知らされないまま「至急、中庭の裏手に集まれ」という謎の呼び出し状によって、ポツンと立たされていた。
そこに、少し離れた物陰から背中を押されるようにして、海老名がトコトコと歩み寄る。
「あ、あのさ、材木座くん……!」
「な、なんだ海老名殿! 私をこんな人気のない場所に呼び出すとは、もしや魔王軍からの新たな指令か……!?」
「ち、違うよ……!」
海老名は真っ赤になりながらも、ぎゅっと両手を握りしめ、震える声で告げた。
「私さ、最近……変わろうとしてる材木座くんを見てて……その、すごくカッコいいって思って……! だから、その……私と、お付き合いしてください……っ!」
ストレートすぎる告白に、スタイリッシュな伊達メガネをかけた材木座の思考が完全にフリーズした。
「なっ……!? わ、私が……あの海老名殿から……?」
頭の中でファンタジーと現実の区別がつかなくなり、材木座は顔を真っ赤にしてブルブルと震え、すぐに返事をすることができなかった。
ギャルたちの襲来と、材木座の選択
その時だった。
「――キャー! 見て見て、あっちで告白してるよー!」
「ウソ、あれってあの材木座くんじゃない!? え、マジで!?」
野次馬根性丸出しのギャルグループが、面白半分でキャーキャーと騒ぎながら校舎裏の角からひょっこり現れた。冷やかしの視線が、一気に真っ赤になっている海老名と材木座に突き刺さる。
「えー、告白してやんのー! 爆笑なんですけど!」
「うわ、無理無理、ウケるんですけどー!」
ギャルたちの心ない笑い声と冷やかしの言葉が飛んだ瞬間、海老名は顔を青ざめさせ、恥ずかしさと恐怖でその場に縮こまった。自分の恋心が面白おかしく嘲笑われる――そんな最悪の状況に、彼女の目から涙がこぼれそうになる。
その時だった。
「――静まれ、愚か者どもっ!!」
材木座が、ガッシリとした巨体を一歩前に出し、海老名を完全に自分の背中後ろへと隠した。
その顔は、いつもの中二病のそれではなく、必死に目の前の女の子を守ろうとする、ひそやかな男の覚悟に満ちていた。
「なに勘違いしている! これは彼女が告白などしたのではない! このダーク・ナイトたる私が、彼女に愛の告白をして……あえなく盛大にフラれたところなのだ!!」
「「……は……?」」
ギャルたちが「え、フラれたの……?」とポカンと動きを止める。
材木座は冷や汗をダラダラ流しながらも、精一杯の強がりで鼻を鳴らした。
「そうだ! 私の不束なアプローチに、彼女が『ごめんなさい』と告げただけの話よ! 人の恋路を面白半分で冷かすでないわ! さあ去れ、魔王の配下どもめ!」
「なーんだ、フラれたのかよ。つまんなーい」
「ウケるー、やっぱ無理ゲーじゃん」
ギャルたちは興味を失ったようにケラケラと笑いながら、そのまま去っていった。
その場に静けさが戻る。
材木座は、背中の後ろにいる海老名を振り返らずに、ボソッと言った。
「……すまない、海老名殿。君の告白が冷やかされるのが、どうしても我慢ならなくて……勝手にフラれたことにした。……迷惑だったか?」
海老名は、自分のためにわざわざ「自分がフラれた」という嘘をついて、周囲の悪意から守ってくれた材木座の背中を見つめ、あふれ出す涙を必死に拭いながら、力強く首を横に振った。
「ううん……迷惑なんかじゃないよ。……ありがとう、材木座くん」
見守る者たちの賛辞
少し離れた校舎の2階の窓から、その一部始終をじっと見守っていた一団がいた。
比企谷八幡、葉山隼人、雪ノ下雪乃、川崎沙希、そして一色いろは。
静まり返った窓際で、八幡はふっと小さく鼻を鳴らし、どこか感心したような笑みを浮かべた。
「……おいおい。あいつ、普段あんな中二病ばっかこいてるくせに……いざって時には、結構いい男じゃねぇか」
隣に立っていた葉山も、爽やかに、そして深くうなずいた。
「そうだね。自分のプライドよりも、目の前の女の子を守ることを優先した……。僕たちには真似できない、あいつなりのカッコよささ」
下の階では、海老名が恥ずかしそうにしながらも、材木座の袖をキュッと掴み、二人が少し距離を縮めて歩き出す姿が見えていた。
それを眺めながら、雪乃は上品に胸の前で手を組み、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……ふふ。不器用だけど、悪くない結末ね。あの二人、案外お似合いかもしれないわ」
「まったくだよ。最後はちょっと感動しちゃったじゃないか」と、いろはも目をウルウルさせながら頷く。
照れくさそうに、けれど誇らしげに背筋を伸ばす材木座の背中は、いつのまにか本物の「イケメン」のそれになっていた。
それぞれの想いが形になり、少しずつ世界が優しく変わっていく――最高の青春のワンシーンが、秋の夕空の下に静かに溶けていくのだった。
戸部翔の悔恨
少し離れた別の渡り廊下の陰。
そのドラマチックな一部始終を、最初から最後まで目撃してしまった男がいた。
戸部翔だ。
彼の両手には、放課後に買い込んだばかりのジュースの缶がしっかりと握りしめられていたが、その指先はわずかに震えていた。
戸部もまた、海老名姫菜に密かな恋心を抱いていた一人だった。あの明るくてノリの良い海老名が好きで、いつかちゃんと言葉にして伝えようと、心の中でずっと準備をしていたのだ。
だからこそ、彼は一歩遅れて奉仕部に相談に行こうと計画していた。
――どうやったら海老名にドン引きされずに、うまく告白できるか。スマートに笑いを取って、振られないようにするための「安全な方法」を教えてもらうために。
けれど、目の前で繰り広げられたのは、そんな計算や保身とは無縁の光景だった。
突如現れたギャルたちに笑い者にされそうな海老名を救うため、材木座は自分のプライドなんて一瞬で投げ捨てた。周囲からどう思われようと構わない。「自分が振られたことにする」という、一番かっこ悪くて、一番男らしい嘘をついて彼女を守り抜いた。
「…………」
戸部は、握りしめていたジュースの缶を力任せに抱え込み、自分の足元を見下ろした。
(俺は……何をビビってたんだよ……)
脳裏に蘇るのは、自分がこれまでやってきたことばかりだ。
「ノリが軽い」と笑われ、空気を読んでヘラヘラと場を取り繕い、自分が傷つかないように、振られて格好悪い思いをしないようにと、安全な場所から様子を伺っていただけの自分。
もし、あそこに立っていたのが自分だったら――?
あんな風に、海老名をからかう奴らに真正面から立ち向かえただろうか? 自分のプライドを捨てて、彼女を笑い者から守ることができただろうか?
答えは、言うまでもなく「NO」だった。
「……かっこ悪っ……俺、マジで……何やってんだよ……」
ポツリと呟いた戸部の声は、秋の冷たい風にかき消されて消えていった。
チャラチャラとした軽薄な自分と、不器用ながらも命を張って大切なものを守った材木座の背中が、あまりにも大きくて、あまりにも眩しすぎた。
悔しさが、胸の奥からじわじわと込み上げてくる。
目頭が熱くなり、戸部はぐっと歯を食いしばって、自分の情けなさに一人で拳を握りしめるのだった。
戸部翔の決意と、奉仕部の新たな依頼
翌日の放課後。
ガチャリと勢いよく開いた奉仕部室のドアの前に立っていたのは、いつもの軽いノリをすっかり潜ませ、異様なまでの真剣な表情を浮かべた戸部翔だった。
「……頼む! 俺を……俺たちを、鍛え直してくれ!」
戸部は深々と頭を下げ、その場に突っ立った。
突然の来訪と鬼気迫る様子に、紅茶を飲んでいた雪乃や、書類を整理していたいろはが手を止めて驚きの視線を向ける。
「……なんだよ、急に。お前がそんな真面目な顔して頭を下げるなんて、何か変なものでも食ったのか?」
八幡がいつものジト目で探るように見つめると、戸部は顔を上げ、引き締まった声で言った。
「変なものじゃねぇよ……! 俺、この前の文化祭の時も、そして昨日の中庭のことも……何もできなかったんだ。自分の気持ち一つ真っ直ぐ伝えられねぇし、周りの空気に流されてばっかで……!」
戸部はぐっと拳を握りしめた。
「それに……来週には部活の県大会が控えてる。チームの雰囲気は悪くねぇし、みんな必死にやってるけどさ……今のままじゃ、俺自身が何かを掴む資格なんてねぇんだよ! だから、俺を徹底的に鍛え直してくれ! 県大会で優勝して、自分を変えたいんだ!」
昨日、材木座の背中を見て痛感した自分の無力さと、変わりたいという切実な想い。
その戸部の瞳に宿る熱量を見た八幡は、ふっと小さく息を吐いた。
「……県大会か。相変わらず無茶苦茶な頼み方をする野郎だな」
八幡は呆れたように肩をすくめながらも、その口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
動き出す特訓
「ふん、いいでしょう」
雪乃がスッと立ち上がり、冷徹でありながらもどこか背中を押すような美しい笑みを向けた。
「自分の弱さと向き合い、変わろうとする者の頼みを、奉仕部が断る理由はないわ。――一色さん、メニューの作成を手伝いなさい」
「ええーっ、私まで付き合わされるんですか!?……まあ、面白そうですけど!」といろはが楽しそうに笑う。
川崎も「いいじゃねぇか、とことんしごいてやろうぜ」と頼もしく腕をまくった。
こうして、戸部翔の「自分を変えるための、そして県大会を勝ち抜くための地獄の特訓」が幕を開けた。
翌日から、放課後のグラウンドやトレーニングルームには、戸部の必死な叫び声と、それを容赦なく追い込む八幡たちの熱い指導の声が響き渡ることになる。
傷つくことを恐れ、ただ流されて生きてきた男が、本当の「強さ」を手に入れるための一歩を踏み出す。
彼らの熱い季節は、まだまだ終わりそうにない。
四人の猛特訓
戸部の「自分を変えたい、県大会で優勝したい」という真剣な願いを受けて、奉仕部は即座に動いた。
とはいえ、戸部一人を鍛えるだけではどこか片手落ちだ。そんな空気を察してか、思わぬ男たちが手を挙げた。
「ふっ、主役が単独で修業するスポ根の王道において、ライバル兼相棒の存在は不可欠! このダーク・ナイト・材木座義輝、戸部の覚悟に共鳴し、ここに臨時入部させてもらう!」
「おい、なんでお前が勝手に部活に入ってんだよ」
ツッコミを入れる八幡に対し、材木座だけでなく、もう一人の男が一歩前に出た。
「僕も付き合うよ。サッカーの県大会なら、僕の本職でもあるしね」
爽やかに微笑みながらそう言ったのは、葉山隼人だった。
彼はサッカー部のエースであり、昨日の今日で戸部の決意を知ったことで、先輩として、そして一人の男として、放っておけなかったのだ。
「――というわけで、まさかの八幡と材木座が臨時入部、そして元々サッカー部の葉山も加わって、総勢4人での男たちの特訓が始まることになったのだった」
グラウンドの汗と熱気
放課後のサッカーグラウンド。
夕日に照らされたピッチの上で、容赦のない特訓が繰り広げられていた。
「おい戸部! 足が止まってんだよ! 昨日のかっこいいセリフはどこに置き忘れてきた!」
ボールを激しく追い回しながら、八幡が容赦なくゲキを飛ばす。いつもの気だるげな面影はなく、その目は本気で戸部を鍛え上げようと燃えていた。
「はぁっ、はぁっ……! 言われなくても分かってらぁっ!」
その横を、圧倒的な技術とスピードで駆け抜ける葉山が、的確な指示を飛ばす。
「戸部、視野が狭くなってる。もっと周りを見て、自分の役割を全うしろよ!」
「おう、隼人……!」
そして、普段は運動部とは無縁の巨体を揺らしながらも、材木座が気合いの入った声を上げてボールに食らいつく。
「ぐぬぬ……! ダーク・ナイトの運動不足を甘く見るなよぉっ! はぁっ――しっ!」
「材木座、お前意外と根性あるな……!」
部活の枠を超え、かつての「空気読み」や「保身」をかなぐり捨てて、泥だらけになりながらボールを追いかけ、互いにぶつかり合う男たち。
その姿は、かつての中途半端な青春からは遠く離れた、あまりにも熱く、眩しいものだった。
観覧席のあたりから、その様子をじっと見守る者たちがいた。
「……なんか、あいつら、急にスポ根漫画みたいなことやってるわね」
腕を組みながら呆れたように言う川崎の隣で、雪乃はふっと美しく微笑む。
「ええ。でも……悪くない光景じゃないかしら」
「ですね! なんか、見てるこっちまで熱くなってきちゃいます!」といろはも目を輝かせる。
傷つき、悩み、それぞれの「本気」を見つけた彼らが、泥まみれになりながら掴もうとしているものは――間違いなく、自分だけの本物の青春そのものだった。
伝播する「本気」と、最強の布陣
戸部、八幡、材木座、そして葉山――この4人が泥まみれになり、声を枯らしながらボールを追いかけ、互いを鼓舞し合う姿。
その異様なまでの熱量は、ただの「日常」を過ごしていたサッカー部員たちの心を強烈に揺さぶっていった。
「……おい、なんだよあれ……」
「戸部があんな必死な顔で……それに、普段運動部じゃない比企谷や材木座まであんなに……!」
見ているだけのつもりだった他の部員たちも、スタンドからグラウンドへ、ピッチの端へと、自然と足が向いていた。
誰かがボールを蹴り、誰かが声を張り上げる。サボり癖や、なんとなくのノリで動いていた空気は跡形もなく消え去り、部活全体が「県大会優勝」という一つの目標に向かって急速に一つにまとまっていく。
「――見てらんないわね、全く」
ふと、スタンドの隅でその様子を見ていた雪ノ下雪乃が、呆れたような、しかしどこか嬉しそうなため息をついた。
その隣で、川崎沙希はニヤリと笑いながらジャージの袖をまくり上げる。
「だな。あいつらだけでいい気持ちらせるわけにいかないだろ」
スッ、と立ち上がった雪乃と川崎の手に握られていたのは、キンキンに冷えたスポーツドリンクの入ったボトルと、消毒液やテーピングが詰まった救急箱だった。
さらにその背後から、一色いろはが満面の笑みで飛び出してきた。
「お待たせしました! 臨時マネージャー、ただいま参上です!」
鉄壁の臨時マネージャーたち
ピッチの脇にやってきた三人は、戸惑う部員たちを尻目にテキパキと動き始めた。
「そこ、水分補給を怠らないこと。それから、戸部くん、さっきから右足の踏み込みが甘いわよ。テーピングを巻き直すからこっちに来なさい」
雪乃が冷徹ながらも的確な指示を飛ばし、戸部をビシッと指導する。
「はいはい、そこの君、汗拭きタオルだよ。……まったく、みんなして無茶ばっかしてさ」
川崎がタオルやドリンクを配りながら、照れくさそうに笑う部員たちの背中をポンと叩く。
「先輩たち、もっとパス回してくださーい! マネージャーからの厳しいチェックが入りますよー!」
いろはがピッチに向けて小悪魔的な笑顔で叫ぶと、選手たちは「うおっ、頑張ります!」と一層気合を入れ直すのだった。
グラウンドを駆け抜ける男たちの熱気と、それを支える完璧なマネージャー陣。
元々はただのひねくれたぼっちだった比企谷八幡の周りに、いつの間にかこれほど多くの人間が集まり、それぞれの「本気」をぶつけ合っている。
「……おい、比企谷!」
休憩中、水を受け取った戸部が、汗だくの顔で八幡に力強く笑いかけた。
「ありがとよ! 俺、今回の大会、絶対にてっぺん取ってらぁ!」
「……ああ。有言実行しろよ、戸部」
八幡はぶっきらぼうに返しつつも、ふっと小さく笑った。
泥臭くて、カッコ悪くて、だけど最高に熱い。
総武高校サッカー部の県大会に向けた戦いは、彼らの青春そのものを乗せて、いよいよ本番へと突入していくのだった。
激闘の果てと、流した涙
数日後――。
秋空がどこまでも高く広がる県営サッカー競技場。ピッチのあちこちから聞こえる歓声と、対照的に地面に崩れ落ちる選手たちの息遣いが、試合の激しさを物語っていた。
総武高校サッカー部の県大会決勝戦。
最後の笛が鳴り響いた瞬間、電光掲示板に表示されたスコアは、わずか一歩及ばない悔しいものだった。
「……試合終了……っ!」
ピッチの真ん中で、戸部翔はその場にガクリと両膝をついた。
これまでの練習で泥まみれになり、自分の殻を破るために必死に走り抜けた日々。最後まで諦めずにボールを追いかけたが、勝利の女神は微笑まなかった。
「……くそっ……! ちくしょお……っ!」
悔しさのあまり、戸部の目からあふれ出たのは、これまでの軽い彼からは想像もつかないような、大粒の、そして濁りのない「本気の涙」だった。
ヘラヘラと笑ってごまかしてきた男が、何かを本気で掴もうとして、そして届かなかったからこその、熱くて泥臭い涙だった。
言葉を失い、俯いて震える戸部の肩に――ふっと、重みが乗せられた。
顔を上げると、そこには同じように泥と汗にまみれた八幡が立っていた。
八幡は何も言わない。気の利いた慰めの言葉なんて一つも口にしなかったけれど、その不器用な手で、しっかりと戸部の肩を抱き寄せた。
さらにその両側から、同じように葉山と材木座が歩み寄ってきた。
「……よくやったよ、戸部。お前の戦いは、間違いなく本物だった」
葉山が穏やかで、しかし確かな熱を帯びた声で微笑み、
「そうだ! 我らがダーク・ナイトの軍勢をも凌駕するその勇姿、しかと見届けたぞ!」
材木座が力強くうなずきながら、もう一方の肩をガッチリと支えた。
戸部は、自分を囲む三人の男たちの温もりを感じながら、さらにあふれる涙を袖でぐっと拭い、そして声を上げて泣いた。
本物という名の果実
少し離れた観覧席の脇。
その男たちの背中を見つめながら、雪ノ下雪乃はそっと目を細めていた。
「……綺麗事の勝利だけが、青春じゃないわね」
川崎沙希も、腕を組みながら「ああ、あいつらの泣き顔、結構悪くねぇな」と小さく笑った。
いろはは、胸の熱さに耐えかねるように手をぎゅっと握りしめ、「……先輩たち、かっこよすぎです……!」と潤んだ目をさらに赤くしていた。
勝つことはできなかった。
けれど、彼らが流した涙も、泥まみれになってぶつかり合った時間も、誰も否定することのできない「本気の本物」だった。
傷つくことを恐れず、自分の足で立ち、誰かのために本気で走り抜けた季節。
その眩しすぎる青春の記憶は、彼らの胸の奥に、消えることのない確かな軌跡として刻み込まれていくのだった。
戸部翔の新たなスタート
県大会の悔しい敗北から1週間。
少しの間、まるで気が抜けたようにぼーっと過ごしていた戸部翔だったが、その足取りには、以前のどこか軽薄だった頃とは違う、しっかりとした芯が宿っていた。
ガチャリ、と音を立てて奉仕部室のドアを開けた戸部は、そこにいた面々――雪乃、川崎、いろは、そして居合わせた八幡たちをまっすぐに見据え、深々と頭を下げた。
「……みんな、この前の大会はありがとよ!」
「あら、ようやく魂が戻ってきたのね、戸部くん」
雪乃がいつものように冷涼な微笑みを向け、川崎が「で、今日は何の用だ?」と腕を組む。いろはも「もしかして、また何かやらかしたんですか?」と面白そうに首を傾げた。
しかし、戸部の表情はこれ以上ないほど真剣だった。彼は顔を上げ、ハッキリと言い放った。
「俺、決めたんだ……! サッカー、ここで終わりになんてしねぇ。……俺は、プロになる!」
「「……っ!」」
部室の空気がピリリと引き締まる。
「負けたままで終わりになんて絶対できねぇんだよ! 俺はまだやれる……! あそこで流した涙を無駄にしないために、俺はもっともっと上手くなって、絶対にプロのピッチに立ってやるんだ!」
その言葉には、迷いも恐れもなかった。あの敗北を経て、戸部は自分の足で、本気で自分の未来を掴み取るためのスタートラインに立ったのだ。
八幡のノートと、それぞれの未来
戸部のまっすぐな宣言を聞いた八幡は、やれやれと頭をポリポリ掻きながら、自分のカバンから一冊の古いノートを取り出した。
「……なんだよ、急に大風呂敷広げやがって。……ほらよ」
「ん? これ、なんだ?」
戸部が受け取ったノートには、これまでの特訓で八幡が密かに観察し、分析してきた戸部の弱点や、これから鍛えるべき戦術、独自のトレーニングメニューがびっしりと書き込まれていた。
八幡はそっぽを向いたまま、ボソッと言い放った。
「いつまでも俺たちがつきっきりで面倒見てやれるわけじゃねぇよ。……その代わり、条件がある。そのノートの最初のページに、今のうちにサインを書いておけ」
「え……? サイン?」
戸部が目を丸くすると、八幡はふっと小さく、しかし確かな信頼の色を宿した笑みを浮かべた。
「お前は将来、日本を背負って立つようなプロサッカー選手になるんだろ。……だったら、今のうちにトッププレイヤーのサインをもらっといて損はねぇからな。お前は、日本代表になるよ」
その言葉に、隣にいた材木座が「ふっ……! ダーク・ナイトの予言によれば、彼の未来に敗北の二文字はない!」と豪快に笑い、葉山もまた、どこまでも爽やかで眩しい笑顔でうなずいた。
「そうだね。僕たちも、いつかテレビの向こうで君が日の丸を背負って走る姿を見るのを楽しみにしているよ、戸部」
缶コーヒーの温もり
仲間たちからのあまりにも真っ直ぐで、温かい最大級のエール。
自分の夢を、本気で信じてくれる奴らがここにいる。
戸部は胸が熱くなり、こみ上げてくるものを必死にこらえながら、あふれ出た涙を手の甲で乱暴に拭い去った。
「……お前ら……っ! クソっ、マジでありがとよ……!!」
照れくささをごまかすように、戸部は自分の頭をガシガシとかきむしると、急に大きな声で宣言した。
「よし! こうしちゃいねぇ! 今日のところは、この俺様が全員分のジュース奢ってやるからな! 行くぞお前ら!」
そう言って勢いよく部室を飛び出していく戸部の背中を見送りながら、部室には温かく、最高に穏やかな笑い声が満ちていった。
傷つき、もがき、それぞれの「本気」をぶつけ合ってきた彼らの青春は、ここで終わりではない。
それぞれの夢に向かって走り出した若者たちの未来は、どこまでも広く、眩しく輝いていたのだった。
少女たちの視線と、未来のスターのサイン
戸部が全員分の缶コーヒーを買いに勢いよく飛び出していったあと、静かになった奉仕部室には、どこか心地よい余韻と穏やかな空気が満ちていた。
窓の外に広がる夕焼け空を眺めながら、雪ノ下雪乃はふっと腕を組み、静かに呟いた。
「……まったく。あんなに軽薄だった男が、いつの間にかすっかり頼もしくなって……。あれは、紛れもなく青春ど真ん中ね」
その雪乃の言葉に、隣に立っていた川崎沙希は缶コーヒーのプルタブをプシュッと開けながら、満足げにうなずいた。
「だな。最初は面倒なことに巻き込まれたもんだと思ったけど……最後のあいつの涙は、結構悪くなかったぜ」
さらにその横で、一色いろはは両手を頬にあて、うっとりとした表情で大きくうなずいた。
「ですね! なんかもう、スポ根アニメの最終回みたいな感動でしたよ! 戸部先輩、あんなにかっこいい顔できるんだって、ちょっと見直しちゃいました!」
それぞれの場所で戸部の変化を見届けてきた彼女たちが、しみじみと頷き合っていると、ふと、部屋の隅でじっと黙っていた海老名姫菜が、真っ赤になった顔を両手で覆いながら小さく声を漏らした。
「……あ、あのさ……」
「ん? どうしたの、海老名さん?」
いろはが首を傾げると、海老名は恥ずかしそうに指先を目元にあて、モジモジと身悶えした。
「だってさ……! さっき比企谷くんが『こいつは将来日本代表になる』って言って、ノートにサイン書かせたじゃん……? もしかして、将来本当にすごいプロサッカー選手になっちゃったりしたら……今、その練習用のノートにサインをもらっておくのって、めちゃくちゃお宝なんじゃ……っ!?」
海老名のそのオタク的かつ鋭すぎる着眼点に、部室の空気が一瞬で「なるほど……!」という納得の色に染まった。
雪乃はふっと優雅に微笑み、紅茶のカップをソーサーに置いた。
「ふふ……確かに。彼が本当に日の丸を背負うほどのプレイヤーになったとき、あのノートの価値は計り知れないかもしれないわね」
川崎もニヤリと笑う。
「よし、あたしたちも後であいつを捕まえて、今のうちにサインをもらっとこうぜ。転売したら結構いい値段がつくんじゃないか?」
「先輩、それ最低ですけど最高です!」といろはも便乗して笑う。
「わ、私も……! 将来の日本代表のサイン第一号は、やっぱり近くで見守ってた私がもらわないと……!」
海老名は胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、まだ見ぬ未来のスターの姿を想像して、一人でドキドキと心臓を高鳴らせていた。
窓の外では、買い出しから戻ってくる戸部の「お待たせ――!」という元気な声が、秋の夕暮れの廊下に響き渡る。
それぞれの想いを胸に、少しずつ、けれど確実に大人への階段を登っていく彼らの物語は、まだまだ終わらない。最高の未来に向かって、今日もそれぞれの足で歩き出していくのだった。
「うそ……再生回数、もう何十万回って再生されてる……!」
テレビカメラは、戸部が流した「本気の涙」と、それに無言で肩を抱き寄せた八幡、葉山、材木座の男たちの熱いドラマを、ドラマチックに捉えていたのだ。
ネット上では、この試合の切り抜き動画が一気に拡散され、コメント欄はお祭り騒ぎになっていた。
『青春ドラマかよこれ……映画化決定だろ常識的に考えて』
『戸部くんのガチ泣きでもらい泣きした。お前はよくやった!』
『待って、サッカー部の葉山くんイケメンすぎん? あと、その隣にいる長身のメガネ、誰!? 外国人モデルかと思ったわ』
『そのさらに隣で、冷めた顔して肩組んでる無愛想な奴(八幡)、一瞬映っただけなのにめちゃくちゃ主人公感あって草』
『千葉テレビ、よくぞこの試合中継してくれた! 神カメラワークすぎんだろ!』
――「バズる」という言葉通り、彼らの流した汗と涙は、瞬く間にネットの海を駆け巡り、大きな反響を呼んでいた。
照れる者、呆れる者、そして
その頃、奉仕部室。
「おい、これ……どういうことだよ……!」
戸部が真っ赤な顔をしてスマホを突き出しながら、部室に飛び込んできた。
「ネットのニュースとかSNSの切り抜きに、俺の泣き顔がドアップで晒されてるんだけど……! もう恥ずかしくて学校歩けねぇよ!」
「ふっ、騒ぐな戸部。ダーク・ナイトの伝説がネットの海に刻まれたのだ。誇るがいい!」と材木座が満足げに腕を組む。
「いや誇れねぇよ! なんでお前まで『謎の海外イケメン助っ人』とか持て囃されてんだよ!」と戸部がツッコミを入れる。
その横で、八幡は相変わらず死んだ魚の目で自分のスマホの画面(バズっている自分たちの画像)をスワイプし、盛大にため息をついていた。
「……はぁ。世間ってのは暇だな……。一過性の流行りだろ、こんなの」
「あら、いいじゃない。あなたたちの泥臭い努力が、ちゃんと形になって世間に届いたんだから」
雪乃は紅茶を優雅にすすりながら、ふっと柔らかく微笑んだ。
川崎も「まあ、ネットのコメントで『比企谷が実は一番イケメン枠』とか書かれててビビったけどな」とニヤニヤしながら八幡を冷やかす。
いろはも「さすが先輩たち、時代の寵児ですねー!」とスマホ片手にケラケラと笑っていた。
少し離れたところで、葉山も苦笑いを浮かべながらスマホを閉じる。
「まったく、これじゃ当分、校内で注目されちゃいそうだな、比企谷」
「……お前が言うなよ、一番目立ってたのはお前のその爽やかな笑顔だろ」
八幡がジト目で言い返すと、部室にはドッと楽しげな笑い声が広がった。
ネットでバズろうが、注目されようが、彼らがあのグラウンドで流した汗と、本気でぶつかり合った日々が嘘になるわけではない。
それぞれの未来へ向けて一歩を踏み出した彼らの青春は、今、より一層まばゆい輝きを放ちながら、次の季節へと進んでいくのだった。
雪ノ下家のリビングと、予想外の評価
千葉テレビで生中継され、のちにネットの海で大々的にバズることになった総武高校サッカー部の県大会決勝戦。
その熱戦は、遠く離れた場所――雪ノ下家のリビングのテレビ画面にも、しっかりと映し出されていた。
優雅に紅茶を傾けていた母・雪ノ下陽母(はるの・はは ※劇中の呼び方に合わせて)と、傍らで新聞に目を通していた父は、画面の向こうで泥まみれになりながら奔走する若者たちの姿に、ふと目を留めた。
「あら……。あの子は、たしか雪乃の部活の……」
母親がティーカップをソーサーに置き、興味深そうに画面を覗き込む。父親も新聞を下ろし、じっとピッチを見つめた。
画面の中では、華麗なドリブルで相手を翻弄する葉山隼人が映し出されている。
「ほう……。あの葉山君のサッカーセンスは相変わらず見事だがね。それだけじゃない。周りの動きを完全に把握し、絶妙なタイミングで指示を出している……まるで、チーム全体の司令塔だな」
父親が感心したように頷く。
母親も、ピッチの隅で泥にまみれながら味方を鼓舞する比企谷八幡の姿に目を留めた。
「あの子が、あの比企谷君……? 運動神経そのものはそこまで突出していなくても、全体を冷静に見渡す『視野の広さ』が異常ね。戦況を的確に把握し、必要な場所に正確に駒を配置する……大した洞察力だわ」
さらに、屈強な相手フォワードをガッチリと体で抑え込み、目覚ましい成長曲線を叩き出している材木座の巨体や、最後まで諦めずに走り抜けた戸部の姿が次々と映し出される。
「頭の回転の良さや打算だけでなく、体を張って泥臭く結果をもにいく……。最近の高校生にしては、なかなかのものだな」
父親が低く唸るように言った。
一癖も二癖もある若者たちが、本気でぶつかり合い、熱いドラマを作り上げている。その光景は、厳格な雪ノ下家の両親にとっても、十分に目を細めるに値する「見ごたえのあるもの」だった。
母親はふっと優雅な笑みを浮かべ、紅茶を一口飲むと、リビングのソファに座る娘――ちょうど実家に顔を出していた雪乃の方をちらりと見た。
「ねえ、雪乃」
「……なんでしょう、お母様」
「あの画面に映っている4人……葉山君はもちろんだけど、例の比企谷君と、あの大きな眼鏡の男の子、そして泣いていたスポーツマンの男の子。……中々の『漢(おとこ)たち』じゃないの」
「…………」
雪乃は少しだけ頬を朱に染め、誇らしいような、けれど照れくさいような複雑な表情で目を伏せた。
「ふふ。……いいお友達を持ったわね、あなた」
母親はクスリと笑うと、きっぱりとした口調で宣言した。
「よし。とりあえず、今度雪乃が学校に行くときに、その4人のサインをもらいなさい。将来、あの子たちがどんな大物になるか分からないし……うちのコレクション(あるいは、話のネタ)として、持っておく価値は十分にありそうだわ」
「さ、サインですか……!? お母様、いったい何を言い出すんですか……!」
「いいからよ。頼んだわよ、雪乃?」
呆れて言葉を失う雪乃の横で、父親も「ふむ、私も少し興味があるな」と満足げにうなずいている。
奉仕部での日常や、自分たちの知らないところで、まさかのVIP(しかも雪ノ下母)公認で「サインをねだられる存在」になってしまった八幡たち。
静かなリビングに響く両親の会話を知ったら、あのひねくれた比企谷は一体どんな顔をするのだろうか――それはまだ、もう少し先のお話である。
比企谷家の夜と、それぞれの誇り
千葉テレビで生中継され、のちにネットで爆発的な話題となった県大会決勝の映像は、総武高校の生徒たちの親や家族の元にもしっかりと届いていた。
もちろん、比企谷家のリビングも例外ではない。
「――お兄ちゃんだ……! マジで出てるじゃん……!」
テレビ画面に映し出された、泥だらけになりながらも鋭い眼光でチームを鼓舞する比企谷八幡の姿を見て、比企谷小町はスマートフォンを片手に大声を上げた。
小町はここ最近、兄の帰りが妙に遅かったり、どこか疲れたような、それでいて充実した顔をしていた理由がようやくすべて繋がった。
「そうかぁ、最近『部活が面倒だ』とか言いながらサッカー部の手伝いとか特訓とかに付き合わされてたわけね……!」
画面の中で、悔し涙を流す戸部の肩を無言で抱き寄せ、静かに佇む兄の背中。
それを見つめる小町の瞳には、呆れや冷やかしではなく、妹としての純粋な尊敬と、ちょっとした気恥ずかしさが入り混じっていた。
小町は画面に向かって小さく舌を出し、頬をポリポリと掻きながら、思わず本音をポツリと呟いた。
「……なんかさ、普段はあんなにひねくれてるのに……いざという時だけカッコいいことするの、マジで反則なんですけど。……もし血がつながった実の兄じゃなかったら、小町、普通に惚れてるわ、これ」
両親のリアクション
その小町の呟きを聞きながら、リビングのソファに陣取る比企谷家の両親もまた、それぞれのやり方で息子の勇姿を堪能していた。
父親は、手元のスマートフォンで職場の同僚や上司とのチャットグループを確認しながら、顔をニヤつかせていた。
「いやぁ、まさかウチの息子がテレビのスポーツ中継にガッツリ映り込んで、しかもネットで『謎のイケメン助っ人枠』としてバズるとはなぁ……」
父親はドヤ顔を隠しきれない様子で、職場の人間に「あ、これウチの息子です」「意外と運動神経良くて困っちゃいますよ」と、嬉しそうにテレビ画面の写真をパシャパシャと撮りまくって送りつけている。親バカ全開のその姿に、小町が「お父さん、ちょっと浮かれすぎじゃない?」とジト目を向けるが、父親の鼻息は荒いままだった。
一方、母親はリビングの真ん中で腕を組み、フンッと満足げに鼻を鳴らしていた。
「何を言っているの、あなた。当然よ。あの子が誰の息子だと思っているの?」
母親は誇らしげに胸を張り、テレビに映る八幡の斜に構えた顔をじっと見つめた。
「普段はあんな調子で何を考えているか分からないけれど……肝心な時、ここぞという場面で周囲を動かし、泥をかぶるだけの度胸と頭の回転の良さは、間違いなく私譲りだわ。……ふふ、さすが私の息子ね」
「お母さんまで……! 血筋じゃなくて、お兄ちゃんの努力と、周りのみんなのおかげでしょ!」と小町がツッコミを入れるが、母親は「あら、褒めてるのよ」と優雅に微笑んだ。
家族それぞれの驚きと、照れくささと、そして隠しきれない誇らしさに包まれた比企谷家の夜。
ネットの海でどれだけ「謎のイケメン」ともてはやされようとも、家に戻れば相変わらずのぐーたらな兄であり息子である八幡だったが――この日ばかりは、家族の記憶にしっかりと、最高に頼もしい「男の背中」として刻み込まれたのだった。
比企谷本家の陰謀と、動き出す血脈
総武高校サッカー部の熱戦から数日後。
世間がネットのバズや若者たちの青春の余韻に浸っている頃、比企谷家の父親は、普段縁遠い「本家」からの突然の呼び出しを受け、都内の重厚な日本家屋に足を運んでいた。
綺麗に手入れされた庭園を抜け、通されたのは格式高い和室。
そこに待っていたのは、比企谷一族の権力を一身に背負う本家の当主――すなわち、父親の親族にあたる老人だった。
「――で、どうなのだね。君が率いている子会社の方も、そろそろ次の世代を見据えなければならん時期だが……」
茶碗を傾ける老人からの問いかけに、父親は苦笑いを浮かべながら、しかしはっきりと首を横に振った。
「お気遣いありがとうございます。ですが……私のような堅苦しい椅子に座るだけの器ではありませんし、何より、あの窮屈なしがらみの中で生きるのは私の性に合いませんよ。自由気ままに生きる方が性に合っていますのでね」
「相変わらずだな……。お前のその覇気のなさは」
老人はフッと鼻を鳴らし、あきれたように目を細めた。しかし、その眼光の奥には、どこか冷徹な光が宿っていた。
「だがね。君自身がその気がなくとも、血筋というものは面白いものだ。――例えば、君の息子のあの八幡という少年」
「……八幡?」
父親の表情がわずかに引き締まる。
「先日、テレビのスポーツ中継を見たよ。あの年齢にして、あの状況判断力、そして周囲を動かす統率力。泥臭く動けるだけの胆力もある。……あれほどの器量があれば、我が比企谷財閥の巨大な子会社の一つや二つ、いや、もっと大きな規模にして我が物とすることも容易いだろうね」
老人は満足げに不敵な笑みを浮かべ、ピタリと父親を見据えた。
「本人にその自覚があろうとなかれ、血は争えんということだ。……今回は彼を直接スカウトするつもりはないが、いずれ、我が一族の大きなうねりに巻き込まれることになるかもしれんね」
それだけ言い残すと、老人は「下がっていい」と静かに告げた。
折れない父親と、迫る影
重々しい本家の屋敷を後にした父親は、夕暮れの冷たい空気を吸い込みながら、ふうと大きく息を吐き出した。
(まったく……相変わらず勝手なことばかり言いやがって……)
あいつらはいつだって、人間の意志など関係なく、利益や血筋だけで物事を測ろうとする。だからこそ、自分はあの家を出て、気ままに平穏な日常を選んだのだ。
だが、本家の人間が自分の息子――八幡の持つ「力」や「才覚」に目をつけはじめてしまったのは事実だった。
「……あいつに、あんな面倒な世界に巻き込まれるような器量があるかどうかは知らんがね……」
父親は自嘲気味に呟きながら、電車の窓から流れる夜景に目を向けた。
普段はぐーたらで、ひねくれていて、ただの女子高生好きのダメ息子に見える八幡。だが、あの血を引いている以上、そして彼が自分の足で誰かを守り、周囲を動かし始めてしまった以上、もういつまでも「ただの一般人」の枠には収まりきらないのかもしれない。
遠縁と言えど、その名は「比企谷財閥」。
平穏を好む比企谷八幡の日常に、静かに、そして確実に、一族の巨大な影が忍び寄ろうとしていた――。
帰宅後のリビングと、父からの忠告
重苦しい本家からの呼び出しを終えて帰宅した父親は、リビングのソファで相変わらずダラダラとスマホをいじっている八幡の姿を見つめ、ふっと小さく息をついた。
「おい、八幡。ちょっといいか」
「ん? なだよ、親父。そんな真面目な顔して」
八幡は面倒臭そうに視線をスマホから外し、父親に向き直った。
父親は少し言葉を選びながら、先ほど本家で聞かされた話を、できるだけ要点を絞って八幡に伝えた。
「……ってわけだ。お前がこの前のサッカーの大会で妙に目立っちまったもんだからさ、本家の連中が変なところで感づき始めてな。そのうち、面倒くさいスカウトの話しが舞い込んでくるかもしれない」
「……は?」
八幡は完全にフリーズした。
「本家? スカウト? 親父、お前何言ってんだよ。俺、ただの高校生だぞ。しかも平穏無事なぼっちライフを謳歌しているはずの、この比企谷八幡だぞ」
「お前がどんな生活を謳歌していようが、あの人たちは血筋と利害だけで勝手に話を転がすんだよ。……まあ、お前が嫌なら俺が適当に追い返してやるけどな。お前はどうしたいんだ?」
父親は冗談めかした調子を崩しながらも、息子がどう反応するかをじっと見据えた。
面倒事を何よりも嫌う八幡のことだ。「めんどくせぇ、絶対お断りだ」と顔をしかめて拒絶するか、あるいはいつものように冷めた台詞を吐く――そう思っていた。
しかし、八幡はしばし黙り込み、自分の手元を見つめた。
あの日、泥まみれになりながら走り、誰かのために声を張り上げ、そして悔し涙を流す奴らの背中を見た。
自分が動くことで、周囲の空気が少しだけ変わり、誰かの未来を動かすきっかけになった。
――それは、自分がこれまでずっと避けてきた「関わり合い」そのものだったけれど、決して悪いことばかりではなかった。
八幡はふっと息を吐くと、いつものやれやれといった気だるげな笑みを浮かべ、父親に言い放った。
「……ふん。向こうが勝手に何かを押し付けてくるってんなら話は別だがさ」
八幡はソファの背もたれにふんぞりかえり、不敵に片方の口角を上げた。
「もらえるものなら、財閥の資産だろうが何だろうが、もらえるものは全部もらってやるよ。 面倒なことに巻き込まれる分の慰謝料としては、丁度いいだろ」
「……ははっ、言うじゃねぇか」
父親は息子の大胆不敵な答えに、思わず声を上げて笑った。
「いいだろう。いざとなったら、その言葉をそのままあの頑固ジジイたちに叩きつけてやれ」
巨大な財閥の影が、静かに、しかし確実に八幡の日常へと近づいてくる。
だが、もうかつての「ただ流されるだけのぼっち」はそこにはいない。
与えられた運命すらも逆手に取って自分のものにしてやる――そんな不敵な覚悟を胸に、比企谷八幡の物語は、さらなる予測不能なステージへと踏み出していくのだった。
下の下の喫茶店、マスター・比企谷八幡の誕生
比企谷財閥からの目を眩ませるため、あるいは息子の大言壮語を面白がった父親が本家をうまく言いくるめた結果なのか――。
数日後、八幡の手元に転がり込んできたのは、比企谷グループが所有する数多の事業のうち、都心の片隅にある、文字通り「グループ最下層(下の下)」に位置する古びた喫茶店だった。
「もらえるものは全部もらうって言った手前、まさか本当に店を一つ丸ごと寄こしてくるとは思わないだろ普通……」
夕暮れ時の静かな店内。
カウンターの向こう側で、八幡はため息をつきながら、ピカピカに磨き上げられたコーヒーカップを布巾で拭いていた。
「比企谷グループの末端」「赤字すれすれ」「客足まばら」――そんな不名誉な枕詞が似合うその店は、しかし、どこかレトロで落ち着いた雰囲気を醸し出しており、皮肉にも「平穏を愛するぼっち」にとってはこれ以上ない隠れ家だった。
父親から「経営権もお前に譲る。好きに使え」と鍵を放り投げられて以来、八幡はこの店の「マスター」として、放課後や休日にアルバイト(実質的なオーナー店番)をすることになったのだった。
コーヒーの苦みと、これからの人生
「……にしても、だ」
ジャリ、と豆を挽く音だけが響く店内で、八幡は抽出したばかりのブレンドコーヒーを一口すすった。
苦みの中にほんの少しのコクがある。悪くない味だ。
これまでの高校生活を振り返る。
友達なんていらないと斜に構え、一人で孤高を気取っていたはずが、いつの間にか奉仕部に入り浸り、生徒会のゴタゴタに巻き込まれ、ついにはサッカー部の特訓に付き合わされ、泥まみれになって涙を流す男たちを見届けることになった。
そして今や、財閥の血筋という面倒な権力闘争の片鱗を掠め取り、なんと個人の喫茶店のマスターにまで収まっている。
「……俺の理想の将来像、一体どこで盛大に脱線したんだよ……」
ポツリと呟きながら、八幡は窓の外を行き交う人々を眺めた。
自分の足で誰かを守り、誰かの背中を押し、そしていつの間にか周囲には海老名や戸部、葉山、さらには雪乃やいろはといった「関わり合い」が嫌でも増えていっている。
かつての「ぼっちの平穏」はもうそこにはない。けれど、不思議と息苦しさは感じなかった。
むしろ――悪くない。
「まあ、いっか。財閥の看板だろうが、喫茶店のマスターだろうが……目の前の客がコーヒー一杯頼むなら、美味しい一杯を出すだけだ」
八幡はフッと小さく自嘲気味に笑うと、カウンターの端に置いたノートに目をやった。
あのとき戸部に渡したトレーニングノートの控えだ。そこには、未来のプロサッカー選手を目指す少年のまっすぐな足跡が記されている。
「さて、そろそろ常連でも来ないかな……って、あのメンツが来たら一瞬で店が潰れそうだけどな」
静かな店内にコーヒーの香りがふわりと広がる。
比企谷八幡の、少しだけシュールで、最高に贅沢な「マスター生活」は、こうして静かに、しかし力強く幕を開けたのだった。
銀髪のマスターと、「そこそこ有名人」の日常
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
夕暮れ時の「下の下の喫茶店」。
カウンターの向こうに立つ、シルバーグレーの整えられた髪に気だるげな目をした少年――比企谷八幡が、至って真面目に、そして完璧すぎるほどの「マニュアル通りの丁寧な接客」をこなしていた。
そのギャップが、訪れた客の心を一瞬で撃ち抜く。
「……あ、あの、ブレンドコーヒーを一つ……」
「かしこまりました。ブレンドコーヒーですね。少々お待ちください」
無駄のない動きで豆を計り、丁寧にハンドドリップでコーヒーを淹れる八幡。その所作はどこか達観しており、一種の職人のような雰囲気を醸し出していた。
実は、あの県大会決勝の「千葉テレビ中継&ネットバズ」の一件以来、八幡は千葉県内において「あの謎のイケメン助っ人」「なぜか泣けるシーンに映り込んでいた無愛想な奴」として、妙な知名度を獲得していたのだった。
「もしかして、あの時の……?」と気づく客もちらほら現れ始め、今やこの寂れた喫茶店は、SNSの噂を聞きつけた野次馬やファン(?)によって、そこそこ有名なおしゃれスポットになりつつあった。
当の本人は「接客業なんて面倒くさいから、せめて苦情が出ないようにマニュアル通りに淡々とこなしてるだけだ」と心の中で悪態をついていたが、その冷めたクールさと丁寧な物腰のギャップが、さらに女性客の心を掴む要因になっていた。
ダーク・ナイト、カウンターに立つ
そんな店内に、カランコロンと景気のいいドアベルの音が響いた。
「ふははは! 噂の隠れ家カフェ、このダーク・ナイト・材木座義輝が参上したぞ!」
「……お前、声がでかい。ここは静かにコーヒーをすする場所だ」
やってきたのは、相変わらずの伊達メガネとオールバック姿の材木座だった。
彼は客として入ってきたわけではない。ガッシリとした体にエプロンを引っ掛け、そのまま当然のようにカウンターの裏へと回り込んだ。
「何を言っている! 昨日の売上報告を見たぞ、マスター・八幡! 我が軍勢(SNSのフォロワーたち)の口コミ効果により、客足は右肩上がりではないか! 経営難にあえぐこの本家の末端店舗を救うため、この私が臨時アルバイトとして馳せ参じたのだ!」
「いや、お前が来ると逆に客が引くか、別の意味でざわつくからやめろ。あと、でかい声出すな」
そう言いながらも、八幡は材木座に新しいエプロンを放り投げた。
最初は「なんで俺がこんな面倒な……」と思っていた八幡だったが、いざ店を開けてみると一人で回すのは意外と手間で、なんだかんだと言いながら手伝いに来てくれる材木座の存在は、案外助かっていたりもする。
「おっ、今日の仕込みは私に任せろ! ダーク・ナイト特製の、魔力を引き出すような極上のトーストを焼いてやろう!」
「焦がしたら給料から天引きだからな」
「なんと過酷なブラック企業……!」
軽口を叩き合いながら、銀髪のマスターと、元・中二病の巨漢バイトがカウンターに並び立つ。
かつては「ぼっちの平穏」だけを望んでいた八幡のまわりに、いつの間にかこんなにも賑やかな日常が転がり込んでいる。
「……まあ、悪くはねぇか」
カップを拭きながら、八幡は小さく呟いた。
苦いコーヒーの香りと、店内に響く常連たちの笑い声。
財閥の影も、ネットのバズも、どこ吹く風とばかりに――今日も「下の下の喫茶店」の扉は、穏やかでシュールな温かさに包まれながら開いているのだった。
陽乃の突然の来店と、予想外のジェントルマン
平穏な夕方の「下の下の喫茶店」。
カランコロンと心地よいドアベルが鳴り、鈴の音が店内に響いた。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決……」
マニュアル通りの完璧なトーンで顔を上げた八幡の動きが、一瞬だけピタリと止まった。
ドアのところに立っていたのは、見慣れたロングヘアを揺らし、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた雪ノ下陽乃だった。
「あら? ここ、噂の隠れ家カフェかしら? ……へえ、マスターが比企谷くんだなんて聞いてなかったわぁ」
陽乃は面白がるような目を細めながら、スルスルとカウンターの特等席に腰を下ろした。
店内にいた他の客たちは、彼女の纏う独特の圧倒的なオーラに少しだけ気圧され、水を打ったように静まり返る。
裏で仕込みをしていた材木座が「むっ、このプレッシャーはもしや魔王軍の幹部か……!?」と身構えるのを、八幡は片手で制した。
「……何の用ですか、陽乃さん。うちは一般のまともな喫茶店なんですが。不審者ならお引き取り願いたいんですけど」
「冷たいなぁ。お仕事中のマスターに対して失礼なんじゃない?」
陽乃はクスクスと笑いながらメニュー表を眺め、それからふと、カウンターの向こうで堂々と(しかし接客用語で)立ち回る八幡をじっと見つめた。
普段の、あのひねくれた態度や、どこか気だるげに目を逸らす姿はそこにはない。
客商売として、徹頭徹尾「マニュアル通りに丁寧で、落ち着いた物腰」を崩さない八幡の姿。無駄のない手つきでグラスを拭き、低めのトーンで静かに客の要望を聞き入れるその佇まいは、いつになく大人びて見えた。
(――あれ? 比企谷くんって……こんなに落ち着いた雰囲気だったっけ……?)
ふと、陽乃の胸の奥が、ほんのわずかにトクンと跳ねた。
いつもなら軽く言いくるめてやろうと意気込むところなのに、目の前で凛と立つ八幡の「紳士的なマスターとしての姿」に、なぜか不意を突かれて言葉が出てこない。
「……で、ご注文は?」
八幡が、わずかに眉を寄せつつも、あくまで穏やかなプロの笑顔(に近い表情)で尋ねてきた。その、どこか面倒見の良さと包容力が混ざった視線に、陽乃は思わずドキリとさせられる。
「っ……もう。じゃあ、マスターおすすめのブレンドコーヒーを一つ。……それと、マスターの淹れ方がどれくらいプロっぽいか、しっかり味見させてもらうからね?」
赤くなった頬を隠すように、陽乃はフッといつもの余裕のある笑みを作ってみせたが、その声のトーンにはほんの少しだけ動揺の色が混じっていた。
「かしこまりました。最高の味をお届けしますよ」
サラリと言ってのけた八幡に背を向けられ、陽乃はそっと自分の胸元に手を当て、小さく息を吐いた。
(……なんなの、今の。ちょっとカッコよかったじゃない……)
斜に構えたひねくれぼっちだったはずの少年の、思わぬ「紳士な一面」に、さすがの陽乃も少しだけペースを狂わされてしまうのだった。
雪ノ下夫妻の襲来と、まさかのスカウト
「――へえ、ここが噂の『下の下の喫茶店』か。なかなかに隠れ家っぽくて悪くないな」
陽乃が注文したブレンドコーヒーを味わっていたその時、カランコロンと再びドアベルが鳴り響いた。
店内に足を踏み入れたのは、先日テレビの画面で八幡たちの勇姿を見守っていた、あの雪ノ下夫妻だった。
「あら、お父様にお母様も? どうしてここに……」
カウンターの端でコーヒーを飲んでいた陽乃が驚いて振り返ると、父親はダンディに笑い、母親は優雅に店内を見回した。
「ちょうど近くまで用事があってね。ネットで話題の『銀髪のマスター』とやらが、まさかあの比企谷くんだったとは面白そうだと思ってね」
父親がそう言ってカウンターの真ん中に腰を下ろす。
八幡は内心で(また面倒くさいのが一気にフルメンバーで来やがった……!)と盛大に頭を抱えつつも、顔色一つ変えずに完璧な接客スマイルを貼り付けた。
「いらっしゃいませ、雪ノ下ご夫妻。……本日はどのようなご用件でしょうか?」
「おや、なかなかの接客態度だな。本家に店をあてがわれたって聞いたが、こうして見ると立派なマスターじゃないか」
父親が感心したように頷くと、母親がスッと鋭い視線を八幡に向けた。
「ねえ、比企谷くん。本家があなたにこの店を譲ったのは、あなたという人間の才覚を見込んで、いずれは比企谷グループの大きな歯車に組み込むためよ。あんな古びた一族のしがらみに縛られて、せっかくの才能をすり潰されるなんて、もったいないとは思わない?」
背後で仕込みをしていた材木座が「む……! やはり魔王軍の本隊が直接勧誘に……!」と冷や汗を流す中、母親はさらに踏み込んだ。
「どうかしら? 比企谷グループになんか取られる前に、うちの――『雪ノ下建設』の直轄に来ない? あなたのその視野の広さと冷静な決断力なら、我が社の幹部候補としていくらでも道を用意してあげるわ」
本家とは違う、純粋なビジネスとしての強力なスカウト。
店内の空気が一瞬でピリリと引き締まった。
八幡の返しと、陽乃の動揺
さて、どう断るべきか。
面倒事は御免だといつもなら適当に言い訳を考えてかわすところだが、目の前にいるのは、あの雪乃の厳格な両親だ。
八幡はふっと小さく息をつくと、カウンターを磨いていた布巾を置き、まっすぐに雪ノ下夫妻を見据えた。
そして、一片の照れもなく、淡々と言い放った。
「お断りします。あいにく、俺は他人の敷いたレールを走る気は毛頭ないんでね。……まあ、どうしてもって言うなら話は別ですけど」
「ほほう? 話は別、とは?」
面白そうに父親が眉を上げる。
八幡は少しだけ口角を上げ、涼しい顔でこう続けた。
「――娘さん(雪乃か陽乃か、あるいは両方か)と結婚でもさせてくれるなら、喜んで雪ノ下家の婿入りでも何でもして、御社の社畜になって働いてやりますよ」
「「……は……?」」
店内に、文字通りの沈黙が訪れた。
父親が目を見張り、母親がわずかに言葉を失う。
そして、カウンターの端でコーヒーを飲んでいた陽乃は――。
「っ……!?」
口に含んだばかりのコーヒーを盛大に吹き出しそうになり、慌ててハンカチで口元を押さえた。その白いはずの首筋から耳たぶの先まで、一瞬で茹でダコのように真っ赤に染め上がっている。
「な、何言ってるのよ、比企谷くんっ……! いきなり何を言い出すかと思えば……!」
いつもは余裕綽々で周囲を翻弄するはずの陽乃が、完全に不意を突かれ、ドギマギと取り乱しながら声を上ずらせた。
「はははっ! 面白い!」
父親が腹を抱えて豪快に笑い出した。
「いいだろう! うちの娘をそこまで言うなら、今度こそ連れて帰って徹底的に鍛え上げてやろうか!」
「ちょっと、お父様まで何乗っかってんですか!」と陽乃がさらに真っ赤になって抗議する。
母親も、あきれたような、しかしどこか面白がるような呆れ笑いを浮かべ、カップを置いた。
「まったく……相変わらず食えない男ね。でも、その図太さがあれば、どこに行っても生きていけるでしょうね」
本家の影も、エリートのスカウトも、八幡の一言ですべて見事に茶化され、店内は再び温かい笑い声に包まれたのだった。
顔を真っ赤にしてそっぽを向く陽乃と、相変わらず飄々とした顔でコーヒーを淹れ直すマスター・八幡。
「下の下の喫茶店」の日常は、今日も今日とて、予測不能で賑やかに回っていくのだった。
雪ノ下雪乃の来店と、優雅なティータイム
昨日の両親や陽乃による「突然の襲来とスカウト事件」から一夜が明けた翌日の午後。
「下の下の喫茶店」の扉がカランコロンと上品な音を立てて開いた。
制服姿のままやってきた雪ノ下雪乃は、店内を見回すと、いつも通りの涼やかな足取りでカウンターの特等席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。……って、なんだお前か」
「その『なんだお前か』って言いたげな態度はどういうことかしら、比企谷くん。一応、お店の客として来ているのよ」
雪乃は優雅にフッ、と鼻を鳴らすと、メニューを開くこともなく指定した。
「今日はコーヒーじゃなくて、紅茶を。……それと、昨日の今日で色々と言いたいこともあるけれど、まずは一杯、あなたの淹れるお茶の腕前を見せてもらうわ」
「はいはい、承知いたしました、お嬢様」
八幡はやれやれといった様子で肩をすくめながらも、手際よく最高級の茶葉を取り出し、丁寧に湯を注ぎ始めた。
カウンター越しの妄想と、想定外の現実
目の前で黙々と作業をこなす八幡の姿を、雪乃は静かに見つめていた。
(……昨日の両親の発言も大概だったけれど……)
脳裏に蘇るのは、昨日、八幡が両親に向けて言い放った「娘さんと結婚でもさせてくれるなら」という言葉だ。
あのときは驚きのあまり聞き流しそうになったが、冷静になって考えてみると――。
もし、この古びた喫茶店を買い取り、比企谷八幡がマスターとしてこの場所に立ち続け、そして自分がその隣に並び立つとしたら。
シルバーグレーの髪(これは店長としての仮の姿あるいはちょっとしたイメチェンだとしても)で飄々とコーヒーを淹れる彼と、カウンターの端で優雅に紅茶を嗜む自分。
――つまり、ここで夫婦二人でこの店を切り盛りするという、いわゆる「夫婦経営」の未来図。
「…………っ!」
ふと、そんな光景を脳内でリアルにシミュレーションしてしまった瞬間、雪乃の美しい顔が、わずかコンマ数秒でトマトのように真っ赤に染まった。
(な、何を考えているのかしら私は……! 夫婦経営なんて、まるで本当に彼と結婚する前提みたいな……!)
慌てて顔をそむけ、手元のティーカップに視線を逃がしながら、雪乃は必死に心臓の鼓動を落ち着かせようと努めた。耳たぶまで真っ赤になっているのを必死に隠しながら、何食わぬ顔を取り繕って声を絞り出す。
「そ、それで……。昨日の今日であんな大口を叩いていたけれど、比企谷くんは、自分の将来について本気でどうするつもりなのよ?」
八幡の答えと、雪乃の動揺
湯気の立つ紅茶をそっと雪乃の前に差し出しながら、八幡はカウンターにもたれかかり、遠い目をした。
「将来か……。そんな先のことまで真面目に考えたことないし、ぶっちゃけ分かんねぇよ。成り行きでこのざらついた喫茶店のマスターやってるくらいだしな」
「相変わらず無計画ね……。いつまでもそんな調子で――」
呆れたようにため息をつこうとした雪乃を遮るように、八幡はふっと片方の口角を上げ、悪戯っぽくこう付け足した。
「――まあ、分かんねぇけどさ。……意外と、お前と結婚してる可能性はゼロじゃねぇな」
「は……?」
雪乃の動きが、完全にフリーズした。
心臓が盛大に跳ね上がり、さっきまで必死に抑え込んでいた「夫婦経営の妄想」が、本人の口から何の躊躇いもなく現実の選択肢として投げ返されてきたからだ。
「なっ……なっ……何を突然……! あなたという人は、少しは女の子の羞恥心とかそういうものを……!」
雪乃は真っ赤に染まった顔を両手で覆い隠し、今まで見たこともないような動揺のあまり、完全に言葉を失ってしまった。
自分がさっきまで頭の中でコソコソと描いていた妄想が、相手にとってもあながち突飛な話ではないと知った瞬間。
静かな「下の下の喫茶店」のカウンターで、史上最高レベルに甘酸っぱくて、最高に気まずい沈黙が流れるのだった。
告白のグラウンド、動き出す時間
あの県大会の熱戦から数か月。
総武高校のグラウンドには、冬の冷たい風が吹き抜け始めていたが、そこに漂う空気はどこか温かかった。
放課後の誰もいなくなったサッカーグラウンドの隅。
練習終わりの汗を拭うこともせず、戸部翔は目の前に立つ少女をまっすぐに見つめていた。その顔にかつての軽薄さは微塵もなく、あるのは一人の男としての真剣な覚悟だけだった。
「……海老名。俺、ずっと言いたかったんだ」
戸部のその声に、海老名姫菜はわずかに息を呑み、メガネのフレームをそっと指先で押さえた。いつもなら軽口を叩いてその場を茶化すか、オタク的なワードで笑いに変えてしまう彼女だったが、今日の戸部の瞳の真剣さに、言葉を失っていた。
「俺さ、あの大会で負けて、本気で泣いて……そっからプロになるって決めたんだ。自分を変えたくて、必死にもがいて、そしたら周りからは『地元のヒーロー』だなんて持ち上げられたりしてさ」
戸部は自嘲気味に、けれど隠さない笑顔で続けた。
「でもさ、自分じゃ分かってるんだ。急にそんな風に祭り上げられたって、俺はただの戸部翔だ。何者でもない、ただお前が好きで、お前の隣に堂々と立てる男になりたいだけの、普通の奴だよ」
「――戸部くん……」
「だから! 俺はこれからもずっと走り続ける! だから……俺と付き合ってくれ!」
まっすぐにぶつけられた不器用で、けれど偽りのない告白。
海老名は胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚に襲われていた。
目の前にいる男は、かつて自分が「この心地よい関係が変わってしまうのが怖い」と心のどこかで線引きをしていた、あの軽かったはずの戸部翔ではない。自分の足で立ち、夢を追いかけ、泥まみれになりながらも「何者でもない自分」から逃げずに前を向いている、本物の男だ。
戸惑いと、気恥ずかしさと、そして胸を突かれるような嬉しさが混ざり合い、海老名はしばらく返事をすることができなかった。
ここでいつものように「あはは、冗談でしょ?」と笑って流してしまえば、今まで通りの居心地の良い距離感を保っていられる。現状維持のままでいられる。
けれど――。
(このままじゃ……私は、何も変われない……)
みんながそれぞれの「本気」を見つけ、傷つくことを恐れずに未来へ向かって走り出している。
あの奉仕部で、八幡や雪乃たちと過ごす中で、自分も「変わっていく彼ら」をただの観客席から見つめているだけだった。このまま現状維持にしがみついているだけでは、本当に大切なものを取り逃がしてしまう。
海老名はふるふると震える唇をぐっと噛み締め、そして、初めて自分の本当の言葉で、しっかりと前を向いて告げた。
「……今すぐには、返事できない。……ごめんね」
シュンと肩を落とす戸部を見て、海老名は首を横に振った。そして、真っ赤に染まった顔のまま、はっきりと強い口調で付け足した。
「でも……逃げたりしないから。私の気持ちも、ちゃんと整理させてほしいの」
海老名は胸の前で両手をぎゅっと固く握りしめ、覚悟を決めた瞳で戸部を見上げた。
「――卒業までに、ちゃんと私から返事をする。だから……待っていてくれる?」
その言葉を聞いた瞬間、戸部の顔にぱっと光が差したような、満面の笑顔が広がった。
「……っ! ああ、当たり前だろ! いくらでも待ってやるよ!」
夕暮れのグラウンドに響いた戸部の力強い返事。
「何者でもない自分」から一歩踏み出し、自分の足で未来の答えを出そうと決意した海老名の背中は、この冬の空の下で、いつよりも眩しく輝いていたのだった。
材木座義輝、新たな執筆の旅
戸部と海老名の青春が新たな一歩を踏み出した頃、「下の下の喫茶店」のカウンターには、以前とはどこか違う、妙に落ち着いたオーラを纏った巨体の男が座っていた。
インテリ風の伊達メガネをかけ、真剣な面持ちでノートパソコンのキーボードを叩き、あるいは分厚いノートにペンを走らせる男――材木座義輝。
かつての中二病全開の妄想小説とは違い、いま彼のペンから生み出されているのは、彼自身が肌で感じ、泥まみれになって体験したリアルな青春の記録だった。
「ふむ……このシーンは、やはりあの日の夕焼けのグラウンドの熱量が足りぬか……」
一人で頷きながら、材木座は万年筆を走らせる。
あの県大会の激闘、戸部の涙、サッカー部員たちの変化、そして自分たちを支えてくれた雪乃や川崎、いろはといったマネージャーたちの奮闘。さらに、陰で糸を引く(ように見える)八幡の姿。
それらすべてを「群像劇」として昇華させた小説『青春のピッチ(仮)』が、今まさに完成しようとしていた。
八幡へのノートと、役割の逆転
数日後。
喫茶店の掃除を終えた八幡の前に、材木座はズズッと重そうな一冊のノートを差し出した。
表紙には達筆な文字で『群像劇:総武高校サッカー部戦記』と書かれている。
「なんだこれ。また変な黒魔術の呪文ノートか?」
「失礼な! 我が魂の結晶、栄光と挫折の青春群像劇小説だ!」
材木座は鼻息を荒くしながらも、どこか照れくさそうに頭をかいた。
「お前のおかげでな、私の中の『中二病』ではない、本当の物語を書くことができた。……第一読者として、お前に評価してもらい和を広げたいのだ」
「……俺が読むのかよ」
やれやれと言いながらも、八幡はそのノートを受け取り、パラパラとページをめくった。
そこには、自分たちの不器用なやり取りや、あのとき流した汗や涙が、驚くほど的確に、そして美しくドラマチックに描き出されていた。誇張はあっても、嘘はない。誰かを笑うためではなく、誰かの「本気」を肯定するための物語だった。
読み終えた八幡は、ふっと小さく息を吐くと、片方の口角を上げてフッと笑った。
「……悪くねぇじゃん。お前の書く文章って、たまにガラにもなく真っ当でむず痒くなるな」
「ふはは! 褒めるがいい!」
満足げに胸を張る材木座に対し、八幡はふと思い出したように、あのとき自分が戸部に言ったセリフをそのまま返した。
「おい、材木座。……ほらよ、その代わり条件がある。そのノートの最初のページに、今のうちにサインを書いておけ」
「……は? サインだと?」
材木座が目を丸くすると、八幡はどこか誇らしげに、しかし真面目なトーンで言い放った。
「お前は将来、ベストセラー連発の天才プロ小説家になるんだろ。……だったら、今のうちにトップ作家のサインをもらっといて損はねぇからな。お前は、売れるよ」
その言葉を聞いた瞬間、材木座は目頭を熱くさせ、「うおおおっ……! ダーク・ナイト・材木座、生涯の不覚! お前という男は……!」と大粒の涙を零しそうになりながら、震える手でノートの表紙に力強く自分のペンネームを書き込んだ。
葉山のサインと、広がる輪
そのタイミングを見計らったかのように、「下の下の喫茶店」のドアベルが鳴り、爽やかな風と共に葉山隼人が入ってきた。
「やあ、噂の小説が完成したって聞いたけど、僕も読ませてもらえるかい?」
「おっ、葉山殿! 待っていたぞ!」
葉山はカウンターに腰を下ろすと、材木座から差し出されたノートを丁寧に読み進めていった。
ページをめくるにつれて、彼の穏やかな瞳に懐かしさと、確かな熱が蘇っていく。そこには、あのとき自分たちが駆け抜けた眩しい季節が、鮮やかに息づいていた。
「……すごいよ、材木座くん。僕たちのあの時間が、こんなにも熱い物語になってるなんて」
葉山は感心したように微笑むと、ふっと悪戯っぽく笑った。
「ねえ、材木座くん。僕も、この記念すべき初版(?)のノートに、サインをもらってもいいかな? 将来、君の本が映画化されたり直木賞をとったりしたとき、一番最初に自慢したいからね」
「な、なんだと……!? 葉山殿まで……!」
次々と自分を認め、未来の成功を信じてくれる仲間たちの言葉に、材木座は感極まってテーブルに突っ伏しそうになっていた。
泥臭い特訓から始まった物語は、形を変え、小説という一つの芸術になって彼らの手を離れようとしている。
けれど、そこで描かれた絆や、流した涙の重みが色褪せることはない。
「下の下の喫茶店」の隅で、最高の仲間たちの笑い声に包まれながら、それぞれの未来へと続くページは、今日も軽やかにめくられていくのだった。
デジタル出版の風と、ネットの喧騒
材木座義輝が全身全霊を込めて書き上げた青春群像劇小説『青春のピッチ』。
仲間たちのサインが詰まったその原稿を手に、彼は意気揚々と某大手出版社の新人賞や持ち込み窓口へと送り出していた。
しかし――結果は、お世辞にも芳しいものとは言えなかった。
「ふん……。青春の熱量? リアルな群像劇? 学生の身内ノリの延長線上にある妄想小説だな。いま時、こんな泥臭いスポ根テイストがウケると思うかね?」
編集部のベテラン編集者から返ってきたのは、鼻で笑うような冷ややかな批評と、無慈悲な不採用(あるいはスルー)の通知だった。
「時代の流行りを知らん素人が」と一蹴され、材木座はトボトボと「下の下の喫茶店」のカウンターに戻り、深い絶望に打ちひしがれていた。
「ぐすっ……ダーク・ナイトの魂の叫びは、旧時代の魔王軍(大手出版社)には届かなかったのだ……。私の文章は、やはり時代遅れなのだろうか……」
カウンターの端で頭を抱える材木座に、八幡はフッと鼻で笑いながら、アイスコーヒーをドンと置いた。
「なに落ち込んでんだよ。あんな古いお堅い連中の眼鏡になんか適当に合わせる必要ねぇだろ。第一、あいつらは紙の束しか見てねぇんだからよ」
「紙の束……?」
「ああ。今の時代、勝負する場所はそこだけじゃねぇだろ」
八幡のその言葉に、背後で聞いていた海老名がピクリと反応し、すかさずスマホを突き出した。
「そうだよ材木座くん! 紙の出版社がダメなら、デジタル出版があるじゃん! 個人でも登録できる小説投稿サイトや、電子書籍のプラットフォームで一気に公開しちゃえばいいんだよ!」
「なるほど……! 電の網(インターネット)の海に我が軍勢を放つというわけだな……!」
一筋の光を見出した材木座は、その日のうちに、自身の執筆した小説を大手電子書籍プラットフォームおよびWEB小説サイトへと投稿したのだった。
ネットの海での爆発と、現実の反響
――そして、数日後。
「ま、待て……! マスター・八幡! 葉山殿! HP(ヒットポイント)の数値が、数値が爆発しているぞ――っ!!」
「下の下の喫茶店」のドアを盛大に開け放ち、材木座がスマホを片手に半泣きになりながら飛び込んできた。
画面に表示されていたのは、投稿した『青春のピッチ』の閲覧数、そして驚異的なまでの「いいね」と「ブクマ(お気に入り)数」のグラフだった。
電子の海に放たれたその物語は、瞬く間にネットユーザーたちの心を鷲掴みにしていた。
『何これめちゃくちゃ面白いんだけど……! 昨日の夜から一気読みして号泣した』
『綺麗事だけじゃない、泥臭くて痛いほどの青春群像劇。これ、実体験ベースだろ絶対』
『登場人物のキャラが全員立ってる。特に、影で支える無愛想なマスターみたいな奴の立ち位置が最高すぎる』
『大手出版社のボツ作品ってマジか? 目の節穴どもめ、この才能に気づかないとか損してるぞ!』
SNSのトレンドには、「#青春のピッチ」「#ネット小説の隠れた傑作」「#謎の銀髪マスターのモデル誰だよ」といったハッシュタグが並び、瞬く間にランキングの1位を独占した。
「紙の出版社にけなされたって? 笑わせるなよ、今の時代はここから火がつくんだよ」
八幡はスマホの画面を一瞥すると、やれやれといった顔でコーヒーカップを拭き続けた。
しかしその目は、どこか誇らしげに、我がことのように嬉しそうな材木座の背中を見つめていた。
電子書籍のダウンロード数はうなぎ登りに増え続け、ついに週間ランキングの総合首位を獲得。商業化(電子版の特設ページでの単行本化)のオファーまでもが、別の新しいデジタルレーベルから舞い込む大盛況ぶりだった。
「ふはははっ! 見たか! これぞダーク・ナイトの新たな伝説の始まりだ!」
店内で感涙にむせぶ材木座の姿に、常連として来ていたいろはや川崎も「すごーい! 材木座先輩、ガチで売れっ子作家じゃないですか!」と拍手を送る。
型にハマった古い評価など関係ない。
自分たちの流した汗と涙、そしてそこから生まれた物語は、形を変えて確かに世界中に響き渡っていた。
「下の下の喫茶店」に差し込む陽光は、今日も最高に眩しく、新たな物語の続きを照らし出していたのだった。
最後の夏、そして最悪の罠
月日は流れ、彼らは高校三年生の夏を迎えていた。
戸部翔をはじめとするサッカー部は、去年の悔しさをバネに猛練習を重ね、今年こそはと順当に勝ち進み、再び県大会の決勝戦のピッチへと戻ってきていた。
しかし、運命の決勝戦の裏で、不穏な影が忍び寄っていた。
対戦相手となったのは、日頃から粗暴なプレーで悪名高い、某私立高校のサッカー部――という名の、実質的な不良集団だった。彼らは正攻法では勝てないと見るや、卑劣な手段に出た。
「おい、エース気取りの調子に乗り野郎。お前さえ潰せば、このチームは終わりだろ」
試合中、審判の目を盗んだ激しいチャージのふりをして、相手の不良フォワードが戸部の足をめがけて悪質なタックルを仕掛けた。
ゴンッ、と鈍い音が響く。その狙いは明確に、戸部の選手生命を断つための「ラフプレー」――足の骨を折りにかかる殺人タックルだった。
「がっ……あ……っ!」
ピッチに崩れ落ち、激痛に顔を歪める戸部。
その足元めがけて、相手選手がさらに悪意に満ちたスパイクの裏を突き立てようと足を振り上げた瞬間だった。
「――ふざけんなよ、クズが」
冷え切った、底知れぬ怒りの声がピッチに響いた。
比企谷八幡の逆鱗
スタンドから、あるいは関係者席から試合を見守っていた観客たちが息を呑む。
そこに割って入ったのは、いつだって面倒事を嫌い、傍観者を気取っていたはずの男――比企谷八幡だった。
八幡はスタンドから一気にピッチへと飛び降りると、仲間を傷つけられ、うずくまる戸部の前に立ちはだかった。
その「死んだ魚の目」は、かつての気だるげなものではなく、怒りで完全に据わっていた。
「な、なんだお前、部外者が……!」
相手の不良選手が凄みながら掴みかかろうとした瞬間、八幡の怒りはすでに臨界点を超えていた。
理屈ではない。
積み上げてきた努力を、他人の悪意で踏みにじられること。そして、自分の大切な仲間――あのバカみたいに真っ直ぐな夢を追う戸部を傷つけられたこと。それが、八幡のなかに巣食っていた冷たいリミッターを完全に吹き飛ばした。
「……お前らな、人の積み重ねを何だと思ってやがる」
次の瞬間、八幡はサッカー部の枠を超え、ただの喧嘩としても圧倒的な容赦のなさでその不良選手に飛びかかった。
鍛え上げられたスポーツマンの体格すら凌駕する、怒りに任せた的確で冷徹な一撃が、相手の急所を的確に捉える。反撃する暇すら与えず、八幡は相手を文字通り「半殺し」の状態までボコボコに叩きのめした。
「ひっ……! こいつ、狂って……!」
周囲の選手も観客も、そのあまりの修羅場に誰も割って入ることができず、ただ立ち尽くして震えるしかなかった。
ピッチの真ん中で、荒い息をつく八幡の足元には、完全に気絶した不良が転がっている。
戸部が青ざめた顔で「……比企谷……?」と呟き、スタンドから駆けつけた葉山や材木座が慌てて八幡を引き離しにかかった。
ニュースになった「伝説」
その日の県大会決勝戦は、当然の如く大混乱の末に中止となった。
そして、ピッチで起きた暴行事件は、翌日のスポーツニュースだけでなく、全国ニュースのヘッドラインを飾ることになった。
『高校サッカー県大会決勝で乱闘騒ぎ、部外者の生徒が相手選手に重傷を負わせ逮捕(のちに補導・身柄引き渡し)』
『背景に悪質なラフプレー、仲間を守るための暴走か……ネットでは賛否両論の嵐』
テレビ画面には、パトカーの赤色灯が反射するグラウンドと、無愛想に連行されていく(あるいは事情聴取を受ける)比企谷八幡の姿が大きく映し出された。
ネットの海では、瞬く間にこのニュースが拡散された。
『おいおい、サッカーの試合が映画の不良モノの抗争になってて草……いや笑えねえよ!』
『相手のラフプレーがエグすぎるから自業自得だろ。むしろあの無愛想な奴(八幡)、友達のためにそこまでキレるとかカッコよすぎんだろ』
『比企谷財閥の末端がどうこう以前に、ガチの事件じゃねえか! 今後の進路どうなんのこれ!?』
学校中、そして社会全体を巻き込んだ大騒動。
「下の下の喫茶店」のマスターであり、ネット小説のモデルであり、そして誰よりも仲間を想ってキレた男・比企谷八幡の夏は、あまりにも激しく、前代未聞の形で日本中にその名を轟かせてしまうのだった。
自宅謹慎と、変わらない決断
全国ニュースにまで発展した前代未聞のピッチ乱闘騒動から数日後。
騒がしい世間の喧騒から切り離された比企谷家の自室で、八幡はベッドの上に寝転がり、天井をぼんやりと眺めていた。
「……はぁ……全く、これだから現実ってやつは面倒くさすぎるんだよ……」
テレビやネットでは「あの暴行事件の真相」や「比企谷八幡のその後」について好き勝手な憶測が飛び交っている。学校からは当然のように「無期限の自宅謹慎処分」が言い渡され、自分のせいで台無しになってしまったサッカー部の決勝戦や、心配して連日メッセージを送ってくる友人たちの顔を思い浮かべると、さすがに今回は盛大にため息をつかざるを得なかった。
(流石に、学校の敷地内で、しかも試合中のピッチに飛び出して相手を病院送り一歩手前までボコったのはやり過ぎたか……反省は、まあ、一応している……)
自分の軽率だった行動、そしてそれで周囲に迷惑をかけたことに対する申し訳なさ。それは本音だった。
けれど――心の奥底で、八幡はハッキリと自問自答する。
(じゃあ、あのときタイムリープしてもう一度同じ場面に戻ったとしたら、俺は別の選択をしたか?)
答えは、一秒の迷いもなく「ノー」だった。
あのまま戸部があの卑劣なラフプレーで選手生命を断たれていたとしたら、それこそ一生後悔したはずだ。あいつが流した涙の重みも、自分が守りたかったものも、全部本物だったからこそ、あの瞬間にブチ切れて飛び出した自分の行動に、一片の偽りも後悔もない。
「……まあ、同じ状況になれば、俺はまた間違いなく同じことをするだろうな」
自嘲気味に口の端を持ち上げ、八幡はスッと上半身を起こした。
中途半端に周囲の目を気にして反省したふりをするのは、自分の性に合わない。そして、これ以上総武高校という枠組みに甘え、学校や教師、さらには友人たちにこれ以上の面倒やリスクを背負わせるわけにはいかない。
八幡の中で、一つの覚悟が決まった。
職員室の決断
翌日の放課後。
閑散とした総武高校の職員室のドアが、トントンとノックされた。
「……入れ」
低い、けれどどこか聞き覚えのある馴染み深い声に促されて足を踏み入れると、そこには国語科教師であり、かつて生活指導として幾度となく八幡の面倒を見てきた平塚静が座っていた。机の上には、冷めかけた缶コーヒーが置かれている。
「……なんだ、比企谷か。謹慎期間中に学校へウロちょろするなとあれほど……」
言いかけ、平塚は八幡の顔をじっと見据えた。その瞳には、厳しさだけでなく、どこか深い憂いと覚悟の色が宿っていた。
八幡は無言のままカバンから一通の封筒を取り出し、平塚のデスクの上の端にスッと置いた。
「……これ、自主退学届」
「…………っ!」
平塚の手が、ピタリと止まった。
「お前……本気で言っているのか?」
「本気も何も、これ以上あの学校に在籍してたら、色んな意味で周囲の目に毒だろ。本家の面倒臭い話とか、今回のニュースの件とかさ。……ここで俺が身を引くのが、一番丸く収まる落とし前だと思ってさ」
ふざけた調子を極力消し、至って真面目に告げる八幡に、平塚はしばらく言葉を失っていた。
あのひねくれていて、事なかれ主義だった生徒が、自分の責任を背負い、自分の足で人生の決断を下そうとしている。その成長が嬉しくもあり、同時に教師として、そして一人の大人としてあまりにも苦しかった。
平塚は大きく息を吐き出すと、ガタリと椅子を立って八幡の目の前まで歩み寄り、その強烈な拳で八幡の頭を軽く、けれど愛情を込めてゴツンと殴った。
「痛っ……! なんだよ先生、暴力は教師失格だぞ」
「うるさいわ!」
平塚はフッとフランクに笑うと、デスクに戻り、その退学届の封筒を手に取ってじっと見つめた。そして、中身を確認することすらなく、しっかりと自分の引き出しの奥深くへとしまい込んだ。
「……お前らしい、不器用で真っ直ぐな落とし前のつけ方だな」
「受け取ってくれるのかよ」
「当たり前だ。お前が自分の意思で決めたことなら、教師として止める権利はない。……だがな、比企谷」
平塚は真っ直ぐに八幡の目を捉え、力強く言い放った。
「学校を辞めたからといって、お前の人生が終わるわけじゃない。『下の下の喫茶店』のマスターだろうが何だろうが、お前が選んだ道なら最後まで胸を張って生きろ。困ったときは、いつでも私を頼れ。……分かったな?」
その言葉を聞いた瞬間、八幡はどこか気恥ずかしそうに目を逸らし、しかし小さく「……ああ、ありがとよ」と呟いた。
総武高校という平穏(だったはず)の日常に区切りをつけ、比企谷八幡は、自らの意思で本当の意味での「自分の人生」へと歩き出し始めたのだった。
雪乃の怒りと、それぞれの動き
全国ニュースを駆け巡った暴力事件、そして比企谷八幡の「自主退学」という報せは、総武高校の生徒たち、そして彼らを取り巻く人々に激震走らせた。
「……っ……ふざけた話ね……!」
生徒会の執務室、あるいは奉仕部室。
一報を聞いた雪ノ下雪乃は、握りしめたペンが折れそうなほど強く拳を震わせていた。
湧き上がるのは、怒りだった。あんな卑劣なラフプレーで仲間を潰そうとした相手高校への怒り。そして、すべてを一人で背負い込み、静かに学校を去ろうとする八幡の不器用さに対するやり場のない焦りと憤り。
(どうして……どうしてあの人は、いつもそうやって自分を犠牲にするの……!)
感情のままに叫び出しそうになる自分を、雪乃は必死に理性の糸で抑え込んだ。
深呼吸をし、冷たく研ぎ澄まされた頭脳で「今、自分に何ができるのか」を思考の限界まで巡らせる。
SNSの世論を味方にすること、学校側へ抗議文を出すこと、そして八幡の法的なサポート――。ただ怒るだけではなく、彼のために動くべき道を探すため、雪乃はすぐに行動を起こす準備を始めていた。
葉山隼人の決断と、父への土下座
一方、サッカー部のキャプテンとして、そしてあの現場に居合わせた当事者の一人として、葉山隼人の胸中もまた激しい後悔と怒りに満ちていた。
(違う……あいつは悪くない。あれは正当防衛だ。あんな卑劣なラフプレーは、スポーツマンシップどころか、立派な『傷害事件』じゃないか……!)
八幡が警察や世間から不当に悪者として扱われるのを、葉山が黙って見ているわけにはいかなかった。葉山は自分の無力さを噛み締めながらも、すぐにスマホを取り出し、ある人物へ連絡を入れた。
向かったのは、都内にある立派な一軒家、あるいは法律事務所。
そこにいたのは、社会的な影響力を持つ、葉山の父親だった。
「お父さん……頼む。比企谷八幡の弁護を……彼の力になってほしいんだ!」
葉山はこれまでの人生で一度も見せたことのないような必死な面持ちで、床に額がつきそうなほどの深い「土下座」をした。
息子のただならぬ様子に、父親は驚き、そしてすぐにその意味を察してふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「顔を上げなさい、隼人」
「お父さん……?」
父親はソファから立ち上がると、息子の肩にそっと手を置いた。
「驚いたね。君がそこまで誰かのために必死になる姿なんて、いつぶりだろうか。……だがね、君が頼むまでもない。実は、私のところにはすでに、別口から強力な依頼が入っていてね」
「え……?」
「『雪ノ下建設』の代表――つまり雪ノ下のお父君や、そのご夫人、そしてお姉君に、あの雪乃嬢からも直接連絡をもらっているよ。『我が家の恩人であり、大切な友人である比企谷君を救ってほしい』とね」
その言葉を聞いた瞬間、葉山は目を見張った。
八幡の周りにいる人間たちが、誰も彼を見捨てず、それぞれのやり方で必死に彼を守ろうと動いている。
父親は、愛おしそうな、そしてどこか誇らしげな優しい目で息子の頭を軽くポンと叩いた。
「……昔は、ただ周りの期待に応えるだけの優等生だったお前が、ここまで熱くなれる友を持った。そして、その友のために、自分のプライドをかなぐり捨てて頭を下げられるようになった」
父親は窓の外を見つめながら、穏やかに続けた。
「しっかりしなさい、隼人。お前も、本当に良い『漢』になったな。……依頼は快く引き受けよう。あの頑固な不良どもにも、そして世間の偏ったマスコミにも、法と正義の鉄槌を下してやるとしようか」
父親の力強い言葉と、温かな眼差し。
それを聞いた葉山の胸に、熱いものがこみ上げてきた。
――もう一人じゃない。
八幡が守ろうとしたもの、そして八幡を救おうと立ち上がった仲間たちの絆は、巨大な壁をも打ち砕く確かな力となって、動き出し始めていたのだった。
その圧倒的な熱量と、実際にその現場を目撃してきた者ならではの説得力を持つことは、瞬く間にネットの海を駆け巡った。
「え……? 話が全然違くないか!?」「相手のラフプレーがエグすぎて、むしろ比企谷は被害者で英雄だろ!」「マスコミは偏った報道するな!」
世論の風向きは、一瞬にして180度ひっくり返った。ネットは八幡を擁護する声と、相手高校および不当な処分を下した大人たちへの怒りで完全に埋め尽くされたのだ。
比企谷家の反撃と、母親の宣戦布告
ネットの風向きが変わり始めたその日の夕方。
比企谷家の自宅前には、スクープを狙う複数のマスコミやテレビクルーの車がズラリと陣取っていた。インターホンが鳴り響き、玄関の扉が開くと、マイクを持ったレポーターたちが一斉に群がってきた。
「比企谷さん! 息子さんの今回の暴力事件について一言お願いします!」
「学校を自主退学されたとのことですが、今後の処遇について――」
喧騒の中、一歩前に出たのは比企谷家の父親だった。
彼はフラッシュの嵐の中、微塵も怯むことなく、むしろ堂々とした笑みを浮かべてマイクに向かってハッキリと言い放った。
「うちの息子がやったことの是非はともかくね、あいつは自慢の息子ですよ。仲間が理不尽に傷つけられそうになったとき、自分の身を投げ出してでも守る。そんな男の背中を、私は誇りに思っています」
その横から、制服姿の小町がひょっこりと顔を出した。
彼女はカメラのレンズをまっすぐに見据え、一切の曇りもない満面の笑みでこう言い放った。
「そうですよ! 世間の人たちは勝手なことばっかり言ってますけど、うちのお兄ちゃん、世界一かっこいいですから! 勘違いしないでくださいね!」
そして最後に、玄関の重い扉の前に立ったのは――比企谷家の母親だった。
彼女は腕を組み、冷徹で、しかし底知れない凄みのある美しい笑みを浮かべてレポーターたちを睥睨した。
「我が家の息子を悪者扱いして、このまま泣き寝入りさせるとでも思ったのかしら?」
母親の声は、テレビの生中継を通じて日本全国に響き渡った。
「息子は私の誇りです。相手高校の卑劣な傷害未遂、そして不当な処分を下した側に対して、私たちは絶対に泣き寝入りなんてしません。徹底的に真相を暴いて、社会の不正を正してやります。――覚悟なさることね」
その完璧すぎる「臨戦体制」の宣戦布告は、テレビを見ていた視聴者に強烈なインパクトを与えた。
ネットの熱狂と、家族の揺るぎない愛情が一つに噛み合った瞬間だった。
世間の空気は完全に変わり、事態はもはや「一高校生の不祥事」から、真実を暴くための大逆転劇へと突入していくのだった。
雪ノ下父の決断と、動き出す政界
ネットの世論が反転し、比企谷八幡を擁護する声が日本中を駆け巡る中、水面下ではもう一つの巨大なうねりが動き始めていた。
都内の静かな一室。
政界に太いパイプを持つ雪ノ下家の父親は、関係者たちが固唾をのんで見守る中、毅然とした態度で電話を切った。
「教育委員会を通じて、今回の件の徹底的な真相究明を正式に申し入れる」
その宣言に、周囲の側近や議員仲間たちは慌てて反対の声を上げた。
「お待ちなさい! 相手の高校には有力な後ろ盾もついていますし、何より世間を騒がせた事件に政治家が直接介入するなど、あなたの今後の政治生命に関わります! 反対意見も多い中、リスクが大きすぎます!」
しかし、父親は一切ひるむことなく、鋭い眼光で周囲を制した。
「リスクだの保身だのと言っている暇はない。あの日、ピッチの上で起きていたのは立派な傷害事件であり、それを隠蔽しようとした大人の汚い保身の結果、一人のまっすぐな若者が不当に切り捨てられた。それを知りながら見過ごすなど、大人の、そして政治家の恥だ」
父親はスーツのボタンをキリッと締め直し、静かに、しかし揺るぎない覚悟を告げた。
「……私の議員としての進退などどうでもいい。ここで正義を貫けないなら、私は喜んで議員を辞職しよう。 全力でやり遂げる。異論は聞かない」
その圧倒的な気迫と、我が子だけでなく「子どもたちの未来」を守るための揺るぎない正義感の前に、反対していた者たちはもはや何も言うことができなかった。
雪ノ下家の父親が動いたことで、教育委員会も動き出し、相手高校の隠蔽工作や卑劣なラフプレーの真実が、次々と明るみに出されることになったのだった。
八幡の足取りと、喫茶店のマスターの責任
一方、「下の下の喫茶店」のカウンター。
ニュースで報じられた雪ノ下父の覚悟と、自分を救うために政界の重鎮たちがそこまでのリスクを背負って動いてくれているという事実を、八幡はテレビ画面を通して知っていた。
(……なんでだよ……。俺一人が勝手にやらかして、勝手に学校を辞めただけの話なのに……)
自分の尻拭いを、他の誰かに――それも、かつて自分が関わるのを避けていたはずの「大人たち」に、ここまで大掛かりにさせしまっている。
胸の奥に広がるのは、気恥ずかしさと、そして言いようのない「責任感」だった。
(このまま、ただ隠れて守られているだけなんてのは、流石に俺の性に合わない)
八幡はコーヒーカップを拭いていた布巾をそっとカウンターに置いた。
自分の蒔いた種は自分で刈り取る。そして、自分のためにそこまで動いてくれた男に、せめて一言、自分の口でケジメを伝えなければならない。
八幡はエプロンを脱ぎ捨てると、「下の下の喫茶店」の扉を押し開き、雪ノ下父が待つ場所へと真っ直ぐに足を向けて歩き出したのだった。
差し出された珈琲と、大人の余裕
夕暮れ時の静かな応接室、あるいは落ち着いた一室。
重い扉を開けて入ってきた比企谷八幡は、頭を深く下げて、目の前に座る雪ノ下家の父親に向かって掠れた声を絞り出した。
「……あの、今回は……俺のせいで、本当にすみませんでした……。俺のせいで、あなたにまでこんな大きな面倒をかけてしまって……」
自分のせいで政治的なリスクを背負わせ、一族や関係者をも巻き込む大騒動にしてしまったという負い目から、八幡はなかなか顔を上げることができなかった。
しかし、目の前に座る雪ノ下父は、驚くほど穏やかな笑みを浮かべてカップをソーサーに置いた。
「顔を上げなさい、比企谷くん」
その声に促されて恐る恐る顔を上げると、父親はふっと肩の力を抜いて、まるで冗談でも言うかのように笑った。
「謝る必要なんてないさ。むしろ、私からすれば『あれでよかった』と思っているくらいだよ」
「……え?」
「なに、近頃は連日のように政界のしがらみや派閥の調整に追われて、正直少し疲れ果てていたところだったんだ。これを機に、たまにはゆっくりまとまった休みをもらうのも悪くないなと思ってね」
父親は涼しい顔でコーヒーを一口すすり、さらにこう続けた。
「所詮、議員なんてものは人気商売だ。今回の件で私が表立って正義を貫いたことで、世間の支持率はむしろ跳ね上がっている。事務所のデータによれば、次の選挙での当選など確実視されているくらいだよ。――だから、心配しなくていい。私はただ、美味しいコーヒーを飲むための長めの休暇をもらうだけさ」
その言葉は、気負っていた八幡の肩の力をスッと抜かせるには十分すぎるほど、温かく、そして圧倒的な包容力に満ちていた。
保身でも計算でもなく、ただ一人の大人の意地と、若者の未来を守るための優しさがそこにあった。
知る、守られるということ
「……っ……」
八幡の視界が、急にぼやけた。
これまで「一人で生きている」「誰も自分を必要としていない」「自分の尻は自分で拭くしかない」と斜に構え、周囲と一線を引くことで自分を守ってきたつもりだった。
けれど、この土壇場になって、自分がどれだけ多くの人に支えられ、どれほど温かく守られていたのかを、八幡は痛いほど思い知らされていた。
材木座が声を大にして真実を叫んでくれたこと。
両親や小町がテレビの前で堂々と誇ってくれたこと。
そして、関わり合いを避けてきたはずの大人たちが、自分のために泥をかぶり、守ろうとしてくれたこと。
「……俺は……ずっと、自分一人で勝手に大人ぶってただけだったんだな……」
ポロリ、と、八幡の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは悔しさの涙でも、孤独の涙でもない。不器用な自分が、あまりにも大きな温かさに包まれていることに気づいてしまったがゆえの、どうしようもない安堵の涙だった。
そんな八幡の様子を見て、雪ノ下父は何も言わず、ただ優しく目を細めて微笑んだ。
「泣きたいときは泣けばいいさ。君はまだ、背負うには若すぎるものを必死に背負ってきたんだからね」
自分のためだけに怒り、動いてくれる大人がいる。
自分を信じてくれる仲間がいる。
冷めきっていたはずの日常の中で、比企谷八幡は、決して一人ではないこと――そして、自分もまた誰かに深く大切に守られていたことを、温かな涙と共にしっかりと噛み締めるのだった。
スマホの画面を見つめたまま、八幡は完全にフリーズした。
(……え? じゃあ俺、あのときカッコつけて退学届出しただけで、実際には一歩も学校の外に追い出されてなかったってこと……?)
教師としての職権濫用スレスレの荒技、そして何より「君は私のお気に入りなんだぞ」という言葉の破壊力に、八幡は頭を抱えた。照れくささと、呆れと、そしてどうしようもない感謝が入り混じり、思わず笑いがこみ上げてくる。
敵わない大人たち
カウンターの向こうで、八幡は深い、けれどどこか清々しい溜息をついた。
雪ノ下父が見せた大人の余裕と優しさ。
そして、この破天荒で最高に頼りになる恩師の荒技。
自分の周りにいる大人たちは、どいつもこいつも、八幡の想像を遥かに超えたところで勝手に救いの手を差し伸べ、自分を窮地から引っ張り上げてくれる。
「一人で勝手に斜に構えて、孤高を気取っていたつもりだったのになぁ……」
八幡はコーヒーカップを拭く手を止め、窓の外の青空を見上げた。
「……まったく、どこまでもお節介で、敵わない大人たちばかりだぜ」
呟いたその顔には、いつものひねくれた面影はなく、どこかすっきりと晴れやかな笑みが浮かんでいた。
明日から、またあの面倒臭くて愛おしい日常が戻ってくる。
「下の下の喫茶店」のマスターから、再び総武高校の生徒へと戻る準備をしながら、八幡は静かに店内の明かりを落としたのだった。
登校の朝と、戸部の笑顔
数日ぶりの登校。
見慣れた総武高校の校門をくぐる足取りは、いつになく少しだけ重かった。
(さて……どんな顔して教室に入ればいいんだよ。全校を巻き込む大騒動を起こした元・退学(予定)のぼっちが今さら何席に座るってんだ……)
心中で盛大な悪態をつきながら、八幡が恐る恐る2年(あるいは3年)の教室の扉をガラリと開けると、そこに待っていたのは予想外の静けさ――ではなく、ガヤガヤとした賑やかな日常だった。
「おっ、噂のマスターが生還したぞー!」
「比企谷、お前、ニュースの顔より実物の方が地味だな!」
クラスメートたちのからかうような、しかしどこか温かい視線と声が飛んでくる。
気まずさに顔を引きつらせながら自分の席に向かおうとした八幡の視界に、ガタリと勢いよく立ち上がる一人の男の姿が入った。
戸部翔だった。
「……戸部……お前、足は……」
八幡が恐縮しながら声をかけると、戸部はいつもの軽い調子で、けれどどこか照れくさそうにニカッと笑ってみせた。
「おう、お陰様でな! 医者からはしばらく安静だって言われたけど、骨折まではいかなかったぜ!」
戸部はガシッと八幡の肩に手を置き、そして、満面の笑みの奥からまっすぐな瞳でこう続けた。
「それにな、あの日の決勝戦は相手の卑劣なラフプレーと隠蔽工作が全部バレて、向こうの『没収試合(失格)』になったんだ! だから俺たち、正式に全国大会に行けることになったんだぜ!」
「……マジかよ」
「マジだよ! だから、そんな暗い顔すんなって!」
戸部は一呼吸置くと、それまでの明るい笑顔をふっと引き締め、八幡の目をまっすぐに見つめた。
「――なあ、比企谷。あのとき、俺のためにあんな無茶してくれて、本当にありがとうよ」
その声には、嘘偽りのない、心からの感謝と敬意が込められていた。
「俺の脚を……俺の夢を、守ってくれて……本当に、ありがとう」
溢れ出す涙と、青春の真ん中で
「っ……!」
その言葉を聞いた瞬間、八幡の胸の奥で何かが決壊した。
「……なにカッコつけてんだよ、バカが……。俺が勝手にやっただけだろ……」
掠れた声でそう言い返すのがやっとだった。八幡の目から、こらえきれず一筋の涙がポロリとこぼれ落ちた。
それをきっかけにするかのように、周囲を見渡すと――誰もが泣いていた。
いつも冷静でクールなはずの雪ノ下雪乃は、ハンカチでそっと目元を押さえながら、どこか誇らしげに目を潤ませていた。
ツンとした態度を崩さなかった川崎沙希も、鼻をすすりながらそっと顔を背けている。
後輩の比企谷いろはは「もー、先輩って本当に手がかかるんですから……!」と泣き笑いの表情を浮かべ、葉山隼人は穏やかな笑顔で目を細め、材木座義輝に至っては「うおおおっ、これぞ真の群像劇のエンディングだぁ……!」と大粒の涙をボロボロと流して号泣していた。
そして、そんな仲間たちに囲まれている戸部自身もまた、こらえきれずに大粒の涙を流しながら笑っていた。
不器用で、ひねくれていて、誰とも関わりたくないと願っていたはずの男が、いつの間にかこんなにも温かい「青春の真ん中」に立っている。
誰もが傷つき、悩み、それでも誰かのために走り抜けた季節の果てにたどり着いた、最高の朝。
涙と笑い声に包まれた教室の中で、比企谷八幡の物語は、最高に眩しい青空の下でしっかりと続いていくのだった。
葉山隼人の決意と、形作られる夢
賑やかな教室の隅。
みんなが笑い合い、涙を拭い合っているその光景を少し離れた場所から眺めながら、葉山隼人は静かに自分の胸元に手を当てていた。
先日の事件のとき、彼は迷わず父親に頭を下げた。自分の無力さを痛感し、親の大きな看板とコネクションに頼らなければ友人を救えなかったという現実が、当時の葉山にはどこか歯痒く、悔しかった。
(僕は結局、親の庇護がなければ何もできないただの『優等生』なんじゃないか……)
そう自問自答していた葉山の脳裏に、あのとき自分の身を顧みず、たった一人で卑劣な暴力と理不尽に立ち向かった比企谷八幡の姿が鮮烈に蘇る。
あいつは親の権力など使わず、自分の意思と両手で、大切な仲間を守り抜いた。
それに比べて、自分はどうだ。
葉山はふっと小さく息を吐くと、不思議と胸の奥が熱く燃え上がるような感覚に包まれていることに気づいた。
悔しさではない。それは、自分のなかにようやく見つけた「本当の意志」の芽生えだった。
(……いや、違う。親に頼ったのは事実だ。でも、それで終わりにしたくない)
いつまでも「誰かの期待に応えるだけの優等生」のままでいるつもりはない。
理不尽な力に苦しむ人がいて、それを救うための正義や法があるのなら――今度は、誰かに頼るのではなく、自分自身の力でそれを守り、戦える人間になりたい。
「……国際弁護士、か」
これまでどこかぼんやりとしていて、周囲が望む道をなんとなく歩いていただけの自分の将来像が、この瞬間、音を立てて明確な「形」を成していく。
国境を越え、理不尽な権力や悪意から人々を、そして大切な友人たちを守り抜くための最強の盾と矛になる。そんな、自分自身の人生をかけた絶対的な夢が、はっきりと目の前に見えた気がした。
葉山は顔を上げ、眩しい笑顔で仲間たちと肩を組んでいる八幡を見つめた。
その瞳には、もう迷いなど一切なかった。
「――ありがとう、比企谷。おかげで僕は、僕自身の進むべき道を見つけられたよ」
誰かの背中を追いかけるのではなく、対等な「親友」として胸を張って並び立つために。
青春の真ん中で、一人の少年の未来が力強く動き出し始めていた。
職員室の冷たい空気と、不穏な影
比企谷八幡が学校に復帰したその日の放課後。
職員室の一角には、どこかピリついた冷たい空気が漂っていた。
「いくら真相がどうであれ、暴力沙汰を起こして一度は自主退学届まで出した生徒を、こうもあっさり復帰させるなんて前代未聞です!」
「学校の評判に関わります。処分を撤回すべきだと言う声も、一部の保護者や理事の間では根強くあるんですよ」
担任の平塚ではない、他学年の保守的な教師や一部の学年主任たちが、腕を組んで声を潜めながらも不満を露にしていた。
その少し離れた場所で、生徒会の仕事あるいは個人的な用事で居合わせた雪ノ下雪乃は、冷ややかな視線を彼らに向けながら、凛とした声で割って入った。
「おっしゃっていることは、単なる組織の保身と形式論に過ぎません。相手高校の卑劣な傷害未遂と隠蔽工作が明るみに出た今、被害者である比企谷くんの行動は正当防衛および緊急避難として十分に認められるべきです。それを処分の撤回ではなく、今さら蒸し返すのは教育者として本末転倒ではありませんか?」
雪乃の淀みのない正論は、論理の隙がなく、教師たちの顔を青ざめさせるには十分すぎるほど鋭かった。
しかし、大人たちのプライドはそれを素直に認めさせない。教師の一人が不敵な笑みを浮かべ、こう言い放った。
「ふん、いくら生徒会長ぶったところで、君たち子供には大人の事情や組織のしがらみなんて分からないよ。規則は規則だ。学校の決定を覆すのは簡単ではないのさ」
正論を都合の良い「大人の事情」ではぐらかされ、雪乃がわずかに眉をひそめたその瞬間――。
予期せぬ援軍たちの来訪
ガラリ、と職員室の重いドアが勢いよく開いた。
「失礼しまーす!」
「なんだ君たちは! ここは関係者以外の生徒が立ち入る場所では――」
教師の怒鳴り声を遮るように、入ってきたのは川崎沙希だった。その鋭い目つきは、文句を言いかけた教師たちを文字通り圧倒する。さらにその背後から、一色いろは、材木座義輝、そしてビシッと仕立ての良いスーツの上に真っ白な白衣を羽織った平塚静が、大股で足を踏み入れてきた。
「……君たち、一体何をしに来た。ここは生徒が来るところじゃない」
学年主任が顔をしかめて咎めると、平塚はふっと不敵な笑みを浮かべ、白衣のポケットに両手を突っ込んだままズカズカと歩み寄った。
「いえいえ。私の可愛い教え子たちが、何やら大人たちの汚い大人の事情で理不尽に丸め込まれそうになっていると聞いてね。……一人の教師として、そして人生の先輩として、その見苦しい茶番を見届けなければと思って馳せ参じましたよ」
「平塚先生、その格好はなんだ……って、あなたまで何を……!」
動揺する教師たちの前に、材木座がドスンと重い足音を立てて進み出た。
「ふははは! 魔王軍の残党(保身を企む者ども)よ、そこまでだ! 貴様らの醜い密談、すべて天に聞こえているぞ!」
「材木座先輩、セリフが中二病です。引っ込んでてください」と、いろはが呆れ顔で材木座の袖を引っ張る。
その横で、平塚はふっと艶やかな笑みを浮かべながら、白衣の内ポケットから小型のボイスレコーダーを取り出した。カチリ、と小さな音を立ててそれを起動させ、教師たちの目の前の机の上にポンと置く。
「さて、先生方。今の発言、もう一度お伺いしてもいいですか? これからしっかりと、この記録装置にあなたの言葉を保存させていただきますので」
平塚が冷徹な瞳でそう言い放つと、先ほどまで「子供には分からない」と高をくくっていた教師たちの顔から、一瞬で血の気が引いた。
(これを外部に流されたら、隠蔽工作を企んでいたことが完全に世間にバレて、自分たちの職が危うくなるだけでなく、社会的に終わってしまう……!)
「ひっ……せ、先生、それは……!」
「何ですか? 教育者として正当な主張をなさっているのでしょう? どうぞ、続きをどうぞ」
平塚が不敵に微笑み、川崎が腕を組んで凄みを利かせ、いろはが冷ややかな視線を送る。教師たちは完全に気圧され、もはや一言も言い返すことができなかった。
雪乃の完勝
静まり返った職員室の中、圧倒的な優位に立った雪乃は、ゆっくりと一歩前に進み出た。
彼女は震える大人たちを一瞥し、あくまで冷静に、そしてどこまでも冷徹に、とどめの正論を叩きつけた。
「規則や組織の保身を盾に真実を捻じ曲げようとする姿勢こそが、教育の場において最も恥ずべき行為です。私たち生徒は、あなたたちの保身のための道具ではありません。これ以上無駄な抵抗を続けるのであれば、私たちも相応の手段を取らせていただきますが……いかがなさいますか?」
完璧な論理、揺るぎない正当性、そして背後を固める最強の仲間たちと頼もしすぎる教師。
逃げ場を完全に失った教師たちは、青ざめた顔で目を泳がせるだけで、もはやただの一言も発することができなかった。
「……っ……わかった……今回は、これ以上不問とする……」
しぼり出すような敗北宣言を聞き届け、雪乃はフッと鼻を鳴らした。
「話が早くて何よりです。それでは失礼します」
職員室を後にする雪乃の背中は、圧倒的な美しさと強さに満ちていた。
後を追う川崎と一色いろは、満足げな材木座、そしてボイスレコーダーを軽快に回収し、白衣の裾を優雅に翻しながら「よくやったな」と目を細める平塚。
理不尽な大人たちを正論とチームワークで完全論破した、文句なしの「完勝」劇だった。
夜の雪ノ下邸、静かなる余韻
職員室での完勝劇から数日後。
都内にある静寂に包まれた雪ノ下家のリビングには、柔らかな間接照明の光が満ちていた。
紅茶のカップをソーサーに置く上品な物音のあと、ソファに腰掛ける雪ノ下家の父親と母親は、娘から報告された職員室での出来事について、穏やかな笑みを浮かべながら耳を傾けていた。
「――ふふ、そう。あの保守的な学年主任や教師たちを、正論と見事なチームワークで言い負かしたのね」
母親は優雅に微笑みながら、愛娘の雪乃へと視線を向けた。その瞳には、厳しさだけでなく、我が子の頼もしい成長に対する深い誇りと愛情がしっかりと宿っている。
「さすが私の娘だわ。正々堂々と正論で大人をねじ伏せるなんて、良い意味で母親譲りの強さね」
「お母様、そういう言い方は……」と、雪乃は少しだけ頬を赤らめつつも、どこか誇らしげに姿勢を正した。
父親はふっと満足そうに髭を撫でると、ソファにもたれかかり、天井を仰いで愉快そうに声を上げて笑った。
「いやはや、大したものだな。組織の論理に屈せず、自分の正義と友のために堂々と立ち回る……。案外、あの子は将来、本当に我が社のトップや、人の上に立つ器かもしれんな」
雪ノ下家を継ぐ者、あるいは社会の指導者として、雪乃が着実に自分の足で歩み始めていることを、両親は心から頼もしく感じていた。
すべての始まりと、笑い合う夜
けれど、父親はすぐに穏やかな目を細め、グラスに注がれた水を一口飲んでからこう付け加えた。
「……だがね、雪乃。お前がそこまで強く、誰かのために戦えるようになったのは……あの比企谷くんという少年が、あの場にいてくれたからこそだ」
母親もまた、夫の言葉に静かに頷き、紅茶の香りを楽しみながら微笑んだ。
「そうね。あのひねくれていて、不器用で、けれど誰よりもまっすぐな少年の生き様が、あなたや、周囲の子供たちの心を大きく動かした。彼がすべての引き金だったわ」
戸部を守るために泥を被り、自らの意思で人生の選択をしたあの少年。
彼の存在が、冷え切っていた周囲の大人たちをも動かし、雪乃たちの青春に鮮烈な変化をもたらした。
しみじみと頷く両親の前で、雪乃は不意に話を振られ、今度は盛大に顔を真っ赤に染め上げた。
「なっ……お父様、お母様、急に何を言い出すのですか……!」
そんな娘の様子を見て、父親と母親は顔を見合わせ、まるで悪戯が成功した子供のように楽しそうに笑い合った。
「はっはっは、いやなに。これだけの騒動を巻き起こし、我が家の面々や政治を動かして、娘の心をここまで揺さぶる男だ」
「そうね。いっそ我が家の……雪ノ下家の婿にでも欲しくなってしまうわね、あの子は」
「お、お母様までからかわないでくださいっ……!」
顔を真っ赤にしてそっぽを向く雪乃の姿を、両親は温かな眼差しで見守っていた。
理不尽な世界をひっくり返し、たくさんの絆を結び直したすべての中心には、あの不器用な少年の姿があった。
静かな夜の邸宅には、穏やかな笑い声と、未来への確かな光がいつまでも満ちていたのだった。
千葉の黒豹と、青春の終着点
全国大会の舞台。
強豪たちが集う緊密なピッチの上で、総武高校サッカー部は躍動していた。
泥臭く、決してスマートではないけれど、泥まみれになりながらも一丸となって走り抜けた彼らの快進撃は、全国ベスト4という輝かしい実績をもぎ取った。
準決勝で惜しくも敗れはしたものの、その圧倒的な運動量と、ピッチを縦横無尽に駆け抜ける圧倒的な存在感を放った戸部翔の姿は、観客や関係者たちの脳裏に深く焼き付いていた。
いつしか、メディアや観客の間で彼はこう呼ばれるようになっていた。
――「千葉の黒豹」、と。
試合終了のホイッスルが鳴り響いた瞬間、戸部の姿を捉えるために、観客席のあちこちから大手クラブチームや大学サッカーのスカウトたちが熱い視線を送っていた。
あの日、折られそうになった足は、たくさんの想いに守られ、今や未来へと続く黄金の切符をその足元に引き寄せていた。
プロへの扉が音を立てて開く。それは、あの日ピッチの上で夢を誓い、守り抜いた少年が、自らの実力で掴み取った正真正銘の夢が叶う瞬間だった。
爽やかな笑みと、八幡の呟き
「うおおお――っ! お疲れ様でしたぁーーーっ!!」
ピッチの中央に集まったサッカー部の面々は、悔し涙を流す者もいれば、すべてを出し切った充実感から最高の笑顔を浮かべる者もいた。
彼らは揃ってスタンドに向かって深く頭を下げ、そして満面の、どこまでも眩しい爽やかな笑みで観客たちの声援に応えた。
そのスタンドの一角。
騒がしい歓声から少し離れた場所で、比企谷浩は――いや、比企谷八幡は、腕を組んでその光景をじっと見つめていた。
(まったく……あんな危なっかしいバカが、いつの間にか全国の舞台で「黒豹」なんて大層な異名までつけちまってさ)
やれやれ、と呆れたように息を吐きながらも、八幡の口元には隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいた。
あの日の修羅場、流した涙、理不尽に立ち向かった日々。そのすべての結末が、今、この眩しすぎる笑顔の中に詰まっている。
誰もが傷つきながら、それでも前を向いて走り続けた青春の物語。
その最高潮の結末を見届けながら、八幡は静かに、しかし心からの安堵を込めて一言だけ呟いた。
「……よかったな、戸部」
風が吹き抜け、青い空へと溶けていく歓声の中で、八幡の胸には温かな充足感だけが静かに残っていたのだった。
焼肉屋の熱気と、それぞれの未来
全国大会ベスト4という歴史的快挙を成し遂げた総武高校サッカー部の「慰労会」が、駅前の賑やかな焼肉屋で盛大に開催されていた。
立ち込める香ばしい煙と、肉を焼くジュージューという音のなかで、部員たちのテンションは最高潮に達していた。
「いやぁ、本当にお疲れ様でした! マスター!」
「お前のおかげで俺たちの青春は守られたぜ、乾杯!」
主役の一人であるはずの戸部や、すっかり常連客のようになっていたサッカー部員たちが、代わる代わる八幡の席にやってきてはグラスを合わせ、熱い感謝の言葉をぶつけていく。
いつの間にやら「下の下の喫茶店」のマスターから、サッカー部全体の大恩人へと昇格していた八幡は、苦笑いを浮かべながらも、出されたグラスを傾けた。中に入っているのは、沖縄名物の炭酸飲料――強烈なサロンパスの香りが漂う冷えた「ルートビア」だ。
「お前ら、肉食うのに夢中になりすぎてタレを服に飛ばすなよ。あと、戸部は調子に乗ってまた怪我すんなよ」
「へへっ、分かってますって! なあ、比企谷は将来何になんの? これだけ大物感あるんだから、すげぇ仕事するんだろ?」
戸部の素朴な疑問を皮切りに、周囲にいたメンバーの視線が一斉に八幡に集まった。
ガヤガヤと賑やかだったテーブルが、ほんの少しだけ静まり返る。
八幡は少しだけ眉をひそめ、面倒臭そうに頭を掻きながらも、どこかまっすぐな瞳でぽつりと呟いた。
「..まあ、なんとなくな。教育とか、政治とか……その辺の、理不尽なシステムや大人の都合をぶっ壊せるような、そういう枠組みに関わりたいとは思ってるよ」
その言葉に、一瞬の間が空いた。
――次の瞬間、戸部が豪快に笑い声を上げた。
「なんだそれ、めちゃくちゃデカい野望じゃねぇか! よし、じゃあお前が将来選挙に立候補したら、俺たちサッカー部全員で死ぬ気で応援して、全員でお前に投票してやるよ!」
「おいおい、選挙権まだだろお前ら」と八幡が突っ込み、テーブル全体にドッと笑い声が広がった。
少年の予感と、未来のビッグマン
けれど、その笑い声の輪から少し外れた場所で、ルートビアのグラスを傾けていた葉山隼人、戸部、そして材木座義輝の3人は、それぞれ密かに同じことを考えていた。
(……教育や、政治の枠組みを揺るがす、か)
先日の事件で、雪ノ下家の父親が政治生命を賭けて動いたこと、そして八幡がただ守られるだけでなく、その中心で周囲の大人や社会の理不尽を根本からひっくり返す引き金になったことを、彼らは肌で知っている。
葉山は(国際弁護士として世界の理不尽と戦う)自分の未来像を重ね合わせ、ふっとグラスの泡を見つめた。
材木座は(我が友こそ、現代のダーク・ナイトにして真の天下人なり……!)と心の中で大真面目に頷いていた。
今の八幡は「将来はそんなことに関わりたいな」と、どこか照れくさそうに、夢物語のように語っている。
だが、あの場にいた誰もが――本能で確信していた。
――こいつは、口だけじゃない。この圧倒的なスケールの男が、ただの「夢」で終わるはずがない。
いつの日か、この男は本当に社会の構造を変えるほどの巨大なうねりの中心に立つ。歴史の教科書か、ニュースのトップを飾るような大物に化けるに違いない。
「……なぁ」
隣に座っていた葉山が、ぼそっと呟いた。
「なんだよ、葉山」
「いや……今のうちに、あいつの直筆のサインをもらっておいた方がいいんじゃないかと思ってさ」
葉山のその真面目すぎる冗談に、戸部が「マジかよ、俺も転売用に色紙用意しとくわ!」と吹き出し、材木座も「ふはは、ならば我が小説の第一巻にサインをねだるのが先だ!」と便乗する。
熱気が渦巻く焼肉屋の片隅で、未来のビッグマンをからかいながら、彼らは最高に美味い肉を頬張った。
理不尽な世界をひっくり返した少年たちの物語は、それぞれの翼を大きく広げ、まだ見ぬもっと広い世界へと羽ばたこうとしていたのだった。
高校生編完