桜舞う季節と、新しい扉
総武高校の校庭に植えられた桜の木が、淡いピンク色の花びらをふわりと風に舞い散らせる春の日のこと。
制服の袖を通す最後の日。卒業証書を手に歩く校舎の廊下は、あのとき騒動を巻き起こした場所とは思えないほど穏やかな空気に包まれていた。
「……ま、なんだかんだで、長かったような短かったような高校生活だったな」
校門の前で、八幡は丸め込んだ卒業証書を片手にぼそっと呟いた。
まわりでは、ボタンをねだる生徒たちや、名残惜しそうに写真を撮り合う仲間たちの笑い声が響いている。戸部は相変わらず「千葉の黒豹」としてサッカー界から熱い視線を浴びながら仲間と肩を組み、葉山は爽やかな笑みで後輩たちに囲まれていた。
そして、比企谷八幡が選んだ次のステージは――大学の教育学部だった。
かつて理不尽な大人たちの都合やシステムに苦しめられ、それを自らの手で、あるいは周囲の大人たちの力を借りてひっくり返した経験。そして、何より「正しく導いてくれる大人の存在」の重みを知ったからこそ、彼は将来、子どもたちと向き合い、未来の理不尽を正すための道を自ら選んだのだった。
賑やかすぎる「同居人」たち
大学の講義が始まって少し経ったある日の夕方。
都内にある少し広めのマンションのキッチンから、香ばしいスープの匂いと、楽しげな話し声がリビングへと流れてきていた。
「ちょっと雪乃、それニンジンが大きいわよ。もっと細かく切りなさい」
「お姉様、私はこれでも料理の腕は上達しているのです。口出ししないでちょうだい」
「はいはい、そこの姉妹喧嘩はそこまでにして、お鍋焦げちゃうから混ぜてー」
この部屋で暮らしているのは、なんと比企谷八幡、川崎沙希、雪ノ下陽乃、そして雪ノ下雪乃の4人だった。
大学進学やそれぞれの事情が重なり、なぜか奇跡的な(あるいは面倒な)巡り合わせで実現したこの奇妙なルームシェア。最初は「なんで俺がこのお姉様や美人姉妹、そして川崎と共同生活をしなきゃならないんだ……」と八幡も頭を抱えたものだが、今となってはすっかり定着していた。
ダイニングテーブルの端で、八幡は大学の教育学の分厚い教科書を開きながら、赤ペンを走らせていた。
「お疲れ、八幡。今日の講義どうだった?」
キッチンからエプロン姿の川崎がひょっこり顔を出し、冷えた麦茶を八幡の机の端に置いていく。その手際よさは、すっかりこの家のお母さん的なポジションを確立していた。
「あぁ、教育心理学のレポートに追われてる。……にしても、お前らが作る飯の匂いで集中できねぇよ」
「あら、文句言うなら今日の夕飯抜きにするわよ?」と、冷蔵庫からビールを取り出した陽乃が、イタズラっぽくふふっと笑った。
「お姉様、比企谷くんにそんな意地悪を言わないの。……ほら、あなたも少しは手伝いなさいよ、居候なのだから」
ツンとした口調で言いながらも、どこか楽しそうな雪乃の横顔。
かつては孤高を気取り、誰とも交わらないことを良しとしていたぼっちの少年は、今やこんなにも賑やかで、温かすぎる空間の中心にいる。
理不尽な世界に抗い、たくさんの絆を結び直した果てにたどり着いた、最高の日常。
教科書から顔を上げた八幡は、目の前で繰り広げられる騒がしいやり取りを眺めながら、ふっと小さく笑った。
「……まあ、悪くねぇか」
窓の外では、新しい季節の風が、彼らの未来の扉を優しく押し開くように吹き抜けていくのだった。
奇妙な同居生活の「本当の形」
賑やかなキッチンから漂う夕食の匂いと、相変わらず言い争う雪ノ下姉妹の声。
リビングの隅で教育学の分厚い教科書を開いていた比企谷八幡は、ふとペンを止め、目の前で繰り広げられる光景を眺めながら小さくため息をついた。
(……我ながら、どうしてこうなった)
大学の教育学部へ進み、将来を見据えて歩き出した八幡の日常は、いつの間にか想像の斜め上を行く形に落ち着いていた。
川崎沙希、雪ノ下陽乃、そして雪ノ下雪乃。
このマンションでルームシェアを共にする女性3人は全員、八幡と深い――身体の関係を持っていた。
いつから、どうしてこうなったのか。
事の発端は、あの修羅場とそれを乗り越えた日々の中で、彼女たちがそれぞれ抱えていた八幡へのまっすぐすぎる想いがぶつかり合ったことだった。誰か一人が身を引くことなど誰も選ばず、かといって中途半端な関係を続けることも許されなかったあの夜、八幡が頭を悩ませた末に出した答えは、あまりにも不器用で、しかし彼らしい誠実さの形だった。
――「事実婚。……一夫多妻、だな」
その言葉を聞いたとき、彼女たちは呆れ、驚き、そして――あのとき川崎がポロっと口にした言葉を思い出した。
『……ふん、本気なら問題ないんじゃないの?』
全員が本気で、全員が八幡を手放すつもりなど微塵もなかった。ならば、法律上の形式や世間の常識などどうでもいい。形にとらわれず、全員でこの男を愛し、支え合えばいい。そうして前代未聞の共同生活が幕を開けたのだった。
4人で始まる夜
「――ねえ、八幡。いつまでそこに引きこもってるのよ。そろそろご飯の支度を手伝いなさいってば」
キッチンのほうから、麦茶のグラスを片手に持った陽乃が妖しく微笑みながら近づいてくる。その背後では、川崎がテキパキと料理を盛り付け、雪乃が少し頬を染めながら「お姉様、あまり比企谷くんにベタベタしないの!」と小さく抗議していた。
八幡は頭をガシガシとかきむしった。
「いや、今レポートの締め切りが……」
「レポートなんて後回しにしなさい。ねぇ?」
陽乃のその言葉に、川崎もフッと鼻を鳴らして賛同し、雪乃に至っては顔を真っ赤にしながらも目を逸らしつつ否定しなかった。
全員が八幡を求め、全員がこの歪で、だからこそ温かい関係の真ん中に八幡を据えている。
夜が更け、リビングの明かりが少しずつ落とされる頃、このマンションでは時折、4人全員で一つのベッドやリビングに集まる夜が訪れる。
誰が最初というわけでもなく、川崎の温もりを背中に感じ、陽乃の悪戯っぽい指先に翻弄され、雪乃の不器用で熱を帯びた瞳に見つめられながら、八幡はそのすべてを受け止める。
不器用で、ひねくれていて、かつては誰とも関わりたくないと願っていた男が、今は3人の女性の愛に包まれ、その中心でしっかりと息をしている。
「……まったく、お前らな……」
呆れたように呟く八幡の耳元で、川崎が「文句言わないの」と低く耳打ちし、陽乃がくすくすと笑い、雪乃がそっとその手を握りしめる。
理不尽な世界をひっくり返し、不器用な正義を貫いた果てに手に入れた、あまりにも贅沢で、誰にも真似できない「我が家」の夜。
4人の影が重なり合う部屋の中で、八幡の新しい物語は、確かに温かな熱を帯びて続いていくのだった。
教師としての赴任と、予想外すぎる「再会」
大学を卒業し、教育の道へと進んだ比企谷八幡が、新米教師として母校――あるいは新たな赴任先の高校の職員室に足を踏み入れた日のこと。
黒のスーツに身を包み、緊張と気だるさが入り混じった表情で自分の机を探していると、背後からスッと気配が近づいてきた。
「――おや、噂の新米教師クンじゃないか」
聞き覚えのある、低くハスキーで、けれどどこか懐かしい声。
八幡が振り返ろうとしたその瞬間、視界が急に暗くなったと思うと、頬に、そして柔らかい何かに不意を突かれた。
――チュッ、と。
「……は……っ!?」
目を見開いた八幡の目の前にいたのは、白衣の代わりに仕立ての良いスーツを纏った、かつての恩師――平塚静だった。
彼女は出会い頭に堂々と(しかも職員室の真ん中で)八幡の唇を奪うと、ケラケラと豪快に笑いながら彼の肩を軽く叩いた。
「ふはは! いいリアクションだな、八幡! いやぁ、まさか自分の教え子が、巡り巡って同僚の教師として戻ってくるとはな。これはもう、運命の再会と言わずになんと言おうか!」
「なっ……! ちょっと平塚先生、ここ職員室ですよ!? つーか、初日からセクハラ及び公然猥褻……!」
顔を真っ赤にして慌てふためく八幡をよそに、平塚は全く悪びれる様子もなく、むしろ真剣味を帯びた(しかし熱すぎる)眼差しで八幡の腕をグッと掴んだ。
迫る責任と、戸惑う八幡
「ふん、何を今さら照れている。私はな、あの頃からずっと思っているんだぞ。やっぱり、私の前に現れた男の中で、おまえ以上の男はいなかった。――となれば、話は早いな」
平塚はぐっと顔を近づけ、逃げ場のない圧倒的な圧を放ちながら言い放った。
「私の人生のパートナーとして、しっかりと責任をとって結婚しろ、八幡!」
「展開が早すぎんだろおおおーーっ!!」
生まれて初めて(あるいは人生で二度目か三度目の)全力のツッコミを心の中で叫びながら、八幡は激しく頭を抱えた。
家には川崎、陽乃、雪乃という3人の「事実婚」の妻たちが待ち構えているというのに、職場に着任した初日、いきなり元担任の伝説的教師から結婚を迫られるという超ハードモード。
「おいおい、俺の人生のフラグ管理はどうなってんだ……!」
頭を抱えてフリーズする八幡を眺めながら、平塚は満足げにニヤリと笑った。
かつて理不尽な世界を一緒に戦い抜いた最高の恩師であり、今や同僚となった彼女との新しい日々は、どうあがいても平穏には終わりそうにないのだった。
25歳の決断と、宣戦布告の街頭演説
あれから数年の月日が流れ、比企谷八幡は25歳になっていた。
新米教師として教壇に立ち、子どもたちと向き合う中で、八幡が痛感したことは変わらない。世間の理不尽なシステム、大人の保身、そして子供たちの未来を平気で踏みにじる政治の構造。それを中から変えるだけでは足りない――根本の枠組みそのものを変えるには、自らがその中枢に踏み込むしか道はない。
そして迎えた、夏の参議院議員選挙。
平日の昼下がり、都内のとある駅前ロータリー。選挙カーの上の壇上に立ったのは、スーツに身を包んだ25歳の比企谷八幡だった。
遠巻きに集まった野次馬や有権者たちを鋭い眼光で見据え、八幡はマイクをしっかりと握りしめた。
「……よく、『政治なんて誰がやっても一緒だ』とか、『若造に何ができる』と言われる。もっともだ。俺も昔は、大人なんてどうせ信用できないクズばかりだと思っていたからな」
その低く、しかし不思議と耳に残るハスキーな声に、周囲のざわめきがふっと静まる。
「だが、理不尽に踏みにじられそうになったとき、自分の身を投げ出して守ってくれる奴らがいた。大人の汚い都合を正論とチームワークで叩き潰す仲間がいた。……だから俺は知っている。この腐りかけたシステムは、変えようと思えばいつだって変えられるんだということを!」
八幡の声には、かつてのひねくれた影は微塵もなく、圧倒的な説得力と熱量が宿っていた。
応援演説と、見守る者たち
選挙カーのすぐ下、最前列でその雄姿を見守っていたのは、息を呑むほど華やかな女性陣だった。
きっちりとしたスーツ姿で腕を組み、誇らしげに微笑む雪ノ下陽乃。
冷静で凛とした佇まいの中に、隠しきれない熱い視線を送る雪ノ下雪乃。
そして、頼もしい眼差しで八幡の背中を支える川崎沙希。
さらに、その後方には――。
「ふははは! 我が友にしてダーク・ナイト、ついに国家の魔王城へ殴り込みか!」と大声で号泣しながら旗を振る材木座義輝。
「おいおい、本当に大物になっちまいやがって……」と苦笑いしながらも投票用紙を握りしめる戸部翔。
「国際弁護士として、いつか君の作る法律の盾になってみせるさ」と余裕の笑みを浮かべる葉山隼人。
そして、白衣を翻し、「まったく、私の教え子はとんでもない男に育ったものだな!」と誰よりも大きな声でヤジを飛ばす平塚静の姿があった。
「――俺に投票してくれなんて綺麗事は言わない。ただ、理不尽に泣き寝入りするだけの世界を終わらせたいなら、俺にその仕組みを壊させてくれ」
八幡がビシッと指を突きつけてそう叫んだ瞬間、駅前を埋め尽くした聴衆から、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
不器用なぼっちの少年が、数え切れないほどの絆と愛に背中を押され、ついに日本を動かすための最大の一歩を踏み出したのだった。
街頭演説の終わりに、選んだ道
派手な選挙カーの壇上からマイクを握り、世界を変えてやると気負っていたあの演説から、数日が過ぎた。
スーツを脱ぎ捨て、いつもの落ち着いたジャケット姿に戻った比企谷八幡は、放課後の静まり返った教室の窓から外を眺めながら、ふっと小さく息を吐いた。
(……派手にぶち上げるのは、やっぱり俺のキャラクターじゃねぇな)
一国のシステムをひっくり返すとか、大衆の前で大言壮語を吐くとか、そういう派手な表舞台はどこかしっくりこない。結局のところ、俺を知ってもらうには、俺なりの泥臭くて地道なやり方――目の前の生徒と向き合い、一人ひとりに言葉を届けていくことの積み重ねしかないのだ。
「……ま、背伸びせず、無理せず、俺なりにやれることから頑張るか」
そう独りごちて苦笑いした八幡の背中には、もう一人で抱え込んで自虐に走っていたかつての面影はない。なぜなら、彼が一人で歩こうとしたとき、その背中をそっと、しかし力強く押し上げてくれる者たちがいたからだ。
草の根に息づく伝説と、広がりの連鎖
八幡が派手な選挙活動を引っ込めてもなお、彼の名は千葉の街に、そして人々の記憶に深く根付き、静かに、しかし確実に広がり続けていた。
プロの舞台で躍動し、「千葉の黒豹」として日本中の注目を集める戸部翔がメディアに出るたび、インタビュアーは決まってこう尋ねる。
――『あの凄まじいタックルからあなたの夢と脚を守り抜いた、伝説の男がいるそうですね?』
その度に、戸部は満面の笑みでハッキリと答えた。「ああ! 俺の恩人で、最高のダチだよ!」と。
政界で絶大な影響力を持ち、正義を貫く雪ノ下家の父親がかつて職を賭してまで守り抜いた若者。
その雪ノ下グループや関係者たちが、恩義と信頼から水面下で惜しみなく送り続ける絶大な支援。
かつて完璧な優等生だった葉山隼人が、かつて自分の無力さを悔やみ、土下座をしてでも守りたかった唯一の親友。
そして、千葉の書店やネットの片隅で今なお根強い人気を誇る、材木座義輝の群像劇小説――そのモデルとなった「裏で千葉の理不尽をぶっ壊した黒幕」の存在は、地元の若者たちの間でちょっとした都市伝説になっていた。
サッカー部、かつての同級生たち、そして今まさに八幡の授業を受けている現在の生徒たち。
誰に強制されるでもなく、彼らが日々の会話の中で、SNSの端々で、自然と八幡の名前を口にし、その優しさと生き様を語り継いでいく。
派手なポスターや組織票などなくても、戸部の活躍も、雪ノ下家の動静も、葉山の誠実さも、材木座の紡ぐ物語も、すべてが一本の線で繋がり、八幡の知名度と確かな信頼を草の根レベルで育んでいた。
千葉という街において、「比企谷八幡」という名前を知らない者は、もはやほとんどいなかった。
変わりゆく日常と、変わらない男
夕暮れの職員室。
机の山に埋もれながら赤ペンを走らせる八幡の横に、ふとコーヒーの缶が置かれた。
「お疲れ、八幡。相変わらず地味にがんばってるじゃないか」
振り返ると、白衣を翻した平塚静が呆れたような、しかし誇らしげな笑みを浮かべて立っていた。
「……別に、がんばってるわけじゃないすよ。勝手に周りが騒がしいだけで」
「ふん、相変わらず素直じゃない男だ。だがな、お前のその『泥臭い優しさ』に救われた連中が、今やどれだけいると思っている?」
平塚の言葉に、八幡はわずかに目を伏せ、そして苦笑した。
窓の外を見上げれば、オレンジ色に染まる千葉の空の下で、生徒たちが笑い合いながら帰路についている。その街のどこかで、かつての仲間たちがそれぞれの夢に向かって走り続けている。
誰かのために戦い、誰かに守られ、そしていつの間にか多くの人々の温かい絆の中心に立っていた男。
野心でも名誉でもなく、ただ目の前の大切な日常を守り続けるために――比企谷八幡は、今日も今日とて、自分らしいやり方で静かに歩み続けているのだった。
無所属の快進撃、そして「トップ当選」の衝撃
派手な街頭演説をやめ、教師として目の前の生徒と向き合いながら、自分の足で、自分の泥臭いやり方で信頼を積み重ねてきた比企谷八幡。
派閥なし、大手政党のバックなし、完全な「無所属」での出馬。大方の政治評論家やメディアが「知名度はあっても組織票がなければ埋もれるだろう」と冷ややかな予想を立てる中、蓋を開けてみれば、その下馬評は完全に木端微塵に砕け散ることになった。
投開票の夜、テレビの速報テロップに映し出された数字に、日本中が――そして何より、当事者である八幡自身が一番度肝を抜かれることになる。
『比企谷 八幡、当確。――しかも、トップ当選』
テレビ画面に自分の顔写真と「トップ」の二文字が大きく映し出された瞬間、都内の自宅リビングは歓喜の嵐に包まれた。
「うおおおおおーーっ!! やったぁぁぁぁぁーーっ!! 我が友が! 千葉のダーク・ナイトが、ついに中央政界の頂へと登り詰めたぞーーっ!!」
材木座が嬉し涙をボロボロと零しながら天井に向けて拳を突き上げ、隣で戸部が「マジかよ! 俺らのマスターが日本一になっちまったぞ!」と飛び跳ねてはしゃぐ。
「……ふん。当然の結果ね。大方の予想を嘲笑うかのような、いかにもあなたらしい勝ち方だわ」
雪ノ下雪乃はフッと誇らしげな笑みを浮かべ、グラスのワインを傾けた。その横で、雪ノ下陽乃が「さて、いよいよ日本の仕組みを根本からひっくり返す番ね、政治家センセイ?」と艶やかに微笑み、川崎沙希が「……お疲れ様、八幡」と真っ直ぐな瞳で温かい料理を差し出した。
さらに、テレビ局から引っ切りなしにかかってくる電話の対応に追われながらも、平塚静はビール片手に豪快に笑い飛ばしていた。
「はっはっは! 無所属の新人にしてトップ当選だと!? 組織票を草の根の信頼と絆だけで叩き潰したな、我が教え子よ!」
草の根が起こした奇跡
なぜ、組織を持たない無所属の彼がトップ当選を果たせたのか。
その理由は、政界の誰にも予想できない形で積み上げられていた。
「千葉の黒豹」として全国に名を轟かせた戸部が、インタビューのたびに恩人として八幡の名前を熱く語り続けたこと。
かつて政界の荒波を生き抜いた雪ノ下父が絶大な信頼を寄せ、水面下でその背中を押し続けたこと。
国際弁護士への道を歩み始めた葉山隼人が、折に触れて八幡の誠実さを周囲に伝えていたこと。
そして何より、八幡が教師として、そして一人の人間として、これまでに救ってきた生徒たち、救ってきた仲間たちが、口コミで、SNSで、それぞれの家族や友人にその人柄と優しさを語り継いでいたからだった。
ポスターの枚数でも、資金力でもない。
一人ひとりの心に寄り添い、理不尽な世界と戦ってきたその「泥臭い優しさ」が、日本全国――いや、まずは千葉の街からうねりとなり、巨大な組織票すらも凌駕する奇跡を起こしたのだった。
新たなスタートライン
テレビの特番の喧騒が少し落ち着いた深夜。
静まり返ったリビングのベランダに出た八幡は、夜風に当たりながら、自分のスーツの襟元に光る真新しい議員バッジにそっと触れた。
(……トップ当選、ねぇ)
相変わらず実感が湧かないし、これから待ち受けているのは、泥臭くて、面倒臭くて、政治の荒波に揉まれる果てしない日常だ。
けれど、もう怖くはない。
振り返れば、リビングの明かりの向こうで、自分を信じ、支え続けてくれる愛おしすぎる家族(妻たち)や仲間たちが笑い合っている。
八幡はふっと息を吐き、いつものひねくれた、しかしどこまでも真っ直ぐな笑みを浮かべた。
「さて……。文句ばかり言うだけのひねくれたぼっちは卒業して、これからは少しだけ、この理不尽な世界を俺のやり方で変えてやるとするか」
一人の元・高校生が、日本を動かす真の「政治家」として歩み出す。
その背中を、新しい季節の夜風が優しく押していくのだった。
記者会見場の閃光と、静寂
トップ当選を果たした比企谷八幡の議員会館初登院。その注目度の高さはすさまじく、国会内のプレスセンターには瞬く間に数百人のマスコミが詰めかけた。
フラッシュの嵐が焚かれる壇上のマイクの前に、八幡はスーツ姿でどっしりと腰を下ろしていた。無所属での鮮烈なトップ当選、そして若さと異色の経歴。期待と好奇の入り混じる中、最前列に陣取った大手紙の政治部記者が、鋭い笑みを浮かべてマイクを奪い取った。
「比企谷議員! 巷では、あなたと同居し、事実婚の関係にある女性が3人いるという情報がSNSや週刊誌で飛び交っていますが、これは事実ですか!? 一夫多妻制とも取れるその私生活は、公職にある人間として倫理的に問題視されていますが、どう説明するおつもりですか!」
会場の空気が一瞬で凍りついた。
スキャンダルを暴いたとでも言いたげなマスコミの群れが、一斉に八幡の口元にペンを構える。
しかし、当の八幡は微動だにせず、ただ静かに深呼吸を一つすると、真っ直ぐにカメラのレンズを見据えた。
八幡の答え
「――事実です」
ハッキリとした、淀みのない声が会場に響いた。どよめく記者たちを制するように、八幡は淡々と語り続ける。
「隠すつもりもありません。俺には、雪ノ下陽乃、雪ノ下雪乃、川崎沙希という3人のパートナーがいます。事実婚の形をとっており、お互いに愛し合っている。彼女たちは俺を愛してくれているし、俺も3人を同じように愛しています。もちろん、それぞれの両親や家族の理解と許しも得た上での話です」
「なっ……公の場でそれを認めるのですか!? 道徳的に――」
記者が声を荒らげようとしたのを、八幡は片手を挙げてピシャリと制した。その瞳に宿る圧倒的な冷徹さと落ち着きに、記者は思わず言葉を呑み込んだ。
「今のは、議員としてではなく、一人の人間として、男としての発言です。……ですが、どうしても『国会議員としてどう説明する』と問いたいなら、こう答えましょう」
八幡は背筋を伸ばし、マイクにしっかりと身体を近づけた。
「俺の仕事は、国民の生活を守り、この国の硬直した制度を維持・改善していくことです。多様性を認め、誰もが生きやすい社会を作るためにここに立っている。……で、我が家の話をするなら、俺の嫁さんは三人です。以上だ」
それだけを言い残し、八幡は一切の弁解も言い訳もせず、スッとマイクから離れた。
ネットの衝撃とバズる夜
記者会見場は、数秒間、完全に言葉を失った静寂に包まれた。
「い、以上って……おい、どういうことだ……!?」とざわめきが戻ってきたときには、すでに八幡の姿は壇上になかった。
しかし、この会見の生中継と発言の切り抜きは、ほんの数分でネットの海へと放り出され、日本中をひっくり返すことになった。
『比企谷八幡の記者会見が強すぎて草』
『「我が家の話をするなら嫁さんは三人。以上だ。」って名言すぎだろwww』
『言い訳も保身もなしに、真正面から公言するスタイル嫌いじゃない』
『政治家としては前代未聞だけど、不倫や裏金隠す政治家より百倍潔くて草』
『トレンド1位「嫁さんは三人」なんだけどwww』
X(旧Twitter)をはじめとするSNSは「#比企谷八幡」「嫁さんは三人」といったワードで瞬く間にトレンドのトップを独占し、賛否両論を巻き起こしながらも、圧倒的なカリスマ性と潔さとして爆発的に拡散されていった。
その夜、自宅マンションのリビング。
テレビのニュース画面に映し出される自分の顔とネットの反応を眺めながら、八幡は深々とソファに沈み込んだ。
「……はぁ、明日から野党の突き上げが面倒くせぇことになりそうだな……」
頭を抱える八幡の横で、陽乃はくすくすと楽しそうに笑い、雪乃は少し頬を赤らめながらも「……まったく、余計なことを言うのだから」と呆れつつ、温かいお茶を差し出した。川崎は「でも、かっこよかったよ」とポツリと呟き、キッチンからは平塚からの「よくやったぞ馬鹿野郎!」という電話の着信音が鳴り響いている。
批判も称賛もまとめて飲み込み、自らのやり方で道を切り拓く。
日本の政治の真ん中に立った男の伝説は、最高に彼らしく、波乱万丈に幕を開けたのだった。
テレビの向こうの誇らしい背中
夜の静けさに包まれたリビング。テレビの画面に映し出される国会会館での記者会見の模様を、正座のままじっと見つめている人物がいた。
比企谷小町だった。
かつては兄の行動を呆れ半分、面白がり半分で見守っていた彼女も、今や立派な社会人。画面の中で、マスコミの鋭い質問をたった一言「以上だ」の一言で一刀両断し、悠然と去っていく兄の姿を見て、小町はふっと満足そうに頬を緩ませた。
「……まったく、相変わらず不器用で、めんどくさいやり方しかできないんだから。でも――」
小町は両手を膝の上でぎゅっと握り締め、画面に向かって嬉しそうに呟いた。
「やっぱ、うちのお兄ちゃんは最高にかっこいいねえ!」
その声には、兄の背中を心から誇らしく思う妹の、隠しきれない笑顔が溢れていた。
それぞれの場所で、それぞれの感慨
同じ頃、千葉の実家。
テレビのニュースを観ていた父親は、翌日、勤め先の職場ですっかり嬉しさを隠しきれなくなっていた。
「いやぁ、昨日の会見観ました? あの無所属でトップ当選した比企谷議員、実はうちの息子なんですよ。はっはっは、若い頃から一筋縄ではいかない奴でしたがねぇ」
同僚たちから「嘘だろ!?」「マジですか!? あの大物政治家が部長の息子さん!?」と驚嘆と羨望の眼差しを向けられ、父親は嬉しそうに鼻を高くしながら、内心で我が子の成長を噛り締めていた。
そして、その隣で静かに緑茶を啜っていた母親は、テレビに映る息子を見つめながら、穏やかに、しかししみじみと呟いた。
「本当に、遠くへ行っちゃったわね……。でも、間違いなく、誰よりも真っ直ぐな『本物の男』になったわね、八幡」
不器用で、ひねくれていて、いつも一人で傷だらけになっていたあの息子が、今や日本中を揺るがす男になっている。その事実に、母親の胸は温かな感慨で満たされていた。
比企谷本家の豪快な笑い声
そして――日本の政治の裏で隠然たる影響力を持つ「比企谷本家」の広大な和室。
歴史ある重厚な屏風の前で、当主である祖父(あるいは本家の長老たち)が、テレビ画面の前に鎮座していた。
あの天下の比企谷財閥の血を引く者でありながら、本家の支援やコネクションに一切頼ることなく、自分の力と草の根の絆だけで、無所属からトップ当選を果たし、さらにはあの前代未聞の会見をやってのけた血族の末裔。
静まり返った部屋の中で、老当主はしばらく画面を凝視していたが、やがて腹の底から絞り出すような、豪快な声を上げて笑い出した。
「ふはははははっ……!」
バタバタと側近たちが慌てて駆け寄る中、老当主は嬉しそうに目を細め、お茶の椀をトンと畳に置いた。
「やはり、我が血を引く怪物が生まれやがったか……! 比企谷財閥の力も、後ろ盾も一切借りず、己の足だけで中央政界のてっぺんを揺るがすとはな!」
孫の圧倒的な暴れっぷりと、その底知れぬスケールに、当主の胸の高鳴りは止まらなかった。
「面白いのう! 面白すぎるぞ、八幡……! あの腐った政界が、お前一人でどこまでかき回されるか、じっくり見せてもらうとしよう!」
日本中を巻き込んだ波乱の渦の中心で、一人の男の伝説は、血縁をも唸らせながら、さらに巨大なうねりとなって未来へ突き進んでいくのだった。
国政の壇上から、教育の現場へ
国会という巨大な荒波に飛び込み、見事に「トップ当選」を果たした比企谷八幡が、議員バッジをつけて最初に動いたのは、当然の如く「教育」の分野だった。
永田町のしがらみや派閥の論理に囚われない無所属の強みを活かし、八幡が水面下で極秘裏に、しかし確実にタッグを組んだのは――かつて政界の荒波の中で自身の身を賭してまで動いてくれた、あの男だった。
現在も千葉県の政治の要として圧倒的な地盤を誇り、次期「千葉県知事候補」として確実視されている、雪ノ下家の父親である。
「――で、八幡くん。君が本気でその硬直した教育システムをぶっ壊すつもりなら、国の中央官僚を動かすだけでは足りない。地方から、まずは我が千葉の現場から風穴を開ける必要がある」
都内の料亭の個室。どっしりと構える雪ノ下父は、グラスを傾けながら頼もしい笑みを浮かべた。
国政のトップに立つ八幡の圧倒的な突破力と、千葉県政における雪ノ下父の揺るぎない政治力・情報網。この2人がガッチリと手を組んだことで、教育改革の歯車は音を立てて回り始めた。
最強の布陣と現場のライン
しかし、どれほど上層部で優れた法律や制度改革を叫んでも、現場の教師や子どもたちの実態を無視した改革は机上の空論に過ぎない。
その「現場」を完全に押さえているのが、他でもない平塚静だった。
「ふん、上層部でいい気な改革案を議論しているようだがね、八幡。現場の教師や子どもたちのリアルな悲鳴を拾い上げるパイプ役を忘れてもらっては困るな」
母校――あるいは千葉県内の主要な教育現場を仕切る立場となった平塚とは、いわば「直通の太いホットライン」が完全に確保されていた。
国政から千葉県政を動かす雪ノ下父、現場のリアルな実態を叩き込む平塚静、そしてその中心で泥臭く制度の歪みを正していく比企谷八幡。
この盤石すぎる「教育改革トライアングル」が完成した瞬間だった。
官僚たちの保身や、古い慣習に縛られたくだらない校則、過剰な管理教育。
それらを次々と、しかし着実にメスを入れていく八幡のやり方に、最初は身構えていた現場の教師たちや教育委員会も、やがてその本気度を悟り、静かな支持を寄せるようになっていった。
かつて、理不尽な大人たちやシステムに苦しめられ、ぼっちのまま傷だらけになっていた少年は今や――。
数え切れないほどの絆と、最強の協力者たちを背負い、この国の未来を根本から作り替えるための「本物の怪物」として、千葉から日本全土へとその歩みを進めていくのだった。
議員事務所の夜と、それぞれの持ち場
国政の中枢で教育改革の旗を振る比企谷八幡の議員事務所は、いつだって一筋縄ではいかない強者たちで回っていた。
事務所の奥、デスクに山積みになった法案の資料をまるで楽しむかのようにめくっているのは、他でもない雪ノ下陽乃だった。
公私ともに八幡を支える「公設第一秘書」として、その鋭い洞察力と政治家顔負けたる笑顔で、永田町の曲者たちを次々と手玉に取る。
「ねえ、八幡。この文科省の役人、まだ古い体質を引きずってるみたいだから、明日私からちょっと『ご指導』しておいてあげようか?」
「……頼むから穏便にやってくれ。波風立てすぎると俺が胃に穴開くんだよ」
苦い顔をする八幡の隣で、もう一人の雪ノ下――雪乃は、実家である「雪ノ下建設」の課長として、また公私を共にするパートナーとして、全く異なるアプローチで八幡を支えていた。
政界と財閥、そして地方のインフラをつなぐ実務的な折衝を一手に引き受け、八幡の相談役として冷静かつ論理的なアドバイスを次々と叩き出す。
「お姉様、あまり比企谷くんに余計な負担をかけないの。……それよりも八幡、来期の地方自治体の予算案における校舎耐震化の件ですが、私の試算ではこちらのルートを通るのが最も合理的です」
的確すぎる雪乃の進言に、八幡は「助かるよ、雪乃」と深く頷く。
公私を完全にリンクさせ、圧倒的な知性と手腕で八幡の背中を支える雪ノ下姉妹。そんな彼女たちのバランスを絶妙に保ちながら、この奇妙で強力な共同生活の土台を完璧に支えているのが、川崎沙希だった。
川崎沙希の現在地と、隠れた才能
朝早くから夜遅くまで動き回る政治家とキャリアウーマンたちの胃袋、そして乱れがちな生活リズムを完璧に管理しているのは川崎だ。
栄養バランスを考え抜かれた夜食をそっとテーブルに置き、殺伐としがちなリビングに穏やかな日常の空気を生み出しているのは、間違いなく彼女の存在だった。
そして、近頃の川崎には、もう一つの「顔」があった。
「……あ、沙希ちゃん、またこのワンピースの新作、ネットの予約分が一瞬で売り切れてるよ!」
「ほんとだ。SNSのハンドメイド系アカウント、今日もフォロワー数ケタが跳ね上がってるし……」
リビングのソファでスマホを覗き込みながら驚く雪乃や陽乃に、川崎は少し照れくさそうに耳を赤く染める。
もともと手先が器用で、家族の服を直したり自分でコーディネートを組んだりするのが好きだった趣味の服飾。それが、ふとネットにアップした独自のストリート&カジュアルなデザインの服をきっかけに、今やインフルエンサーやファッション誌の間で大流行するほどの話題となっていた。
「……別に、大したことじゃないわよ。ただ、みんなが着やすい服を作ってるだけだから」
「謙遜しちゃって。そのうち『KAWASAKI』ブランドが国会をジャックする日も近いわね」と陽乃がイタズラっぽく笑う。
完璧な歯車
議員として日本を変える理想を追いかけ、それを圧倒的な知性と実務で支える雪ノ下姉妹。
そして、その強者たちの心を優しく包み込み、自らの才能でもひそかに世間をざわつかせる川崎。
役割はバラバラでも、お互いを深く信頼し合い、誰一人欠けては成り立たない絶妙なバランス。
夜が更け、それぞれの仕事や趣味の端末を閉じた4人がリビングのソファに自然と集まると、そこには外での激しい戦いが嘘のような、温かな静けさが満ちていた。
「……さて、明日も朝から委員会だな」
八幡が小さく呟くと、川崎が「はい、明日の朝はあったかい味噌汁にするから、寝坊しないでよ」と返し、雪乃が資料を差し出し、陽乃が妖しく微笑む。
理不尽な世界をひっくり返すために這い上がった男の足元は、世界で一番贅沢で、最強の絆で固められていた。
漆黒の夜道と、変わらない選択
国会での激務を終え、深夜の静まり返った住宅街の道を一人歩いていた比企谷八幡は、ふと路地裏から聞こえてきた微かな異変に足を止めた。
「やめろよ、おい……大人しく乗れって」
「いやっ……! 離してください……!」
薄暗い街灯の下。恐怖に引きつる幼い少女の腕を掴み、無理やり停車中のワンボックスカーに押し込もうとする男たちの姿があった。周囲を取り囲むのは、黒いパーカーを着た大男たち――計4人。明らかにただの喧嘩ではない、悪質な誘拐未遂の現場だった。
(……くそ、よりによって、なんでまたこういう時に……)
頭の中で、かつて自分が巻き込まれ、傷だらけになったあの日の記憶がよぎる。
政治家になり、教育改革を叫ぶ立場になっても、目の前で理不尽に踏みにじられようとしている人間を見捨てるほど、比企谷八幡という男は器用に生きられなかった。
ガチャリ、と持っていたアタッシュケースをアスファルトに置き、八幡は冷ややかな目を向けながらその中に割って入った。
「おい、そこまでだ。手を離せよ」
「んだテメェ……? 学生の分際で――って、おい、大人が仕事してんだ邪魔すんじゃねぇ!」
男のひとりが威嚇するように殴りかかってきた瞬間、八幡の体にスイッチが入った。
綺麗ごと抜きの喧嘩の場数を踏んできた男の容赦ないカウンター。かつての修羅場を潜り抜けた経験と、無駄のない動きで、男たちの急所を的確に突いていく。
1人、2人、3人――。
驚異的な執念と気迫で、4人のうち3人までを泥臭く地面に這いつくばらせた。
「はぁっ、はぁっ……」
息を荒げ、全身に痛みと疲労が走る。だが、残りはあと1人だ。少女を守りきれる――そう思った、まさにその時だった。
背後で、アスファルトを蹴る重い足音が響いた。
「この野郎……っ!」
残った男が、隠し持っていた冷たい鉄パイプを思い切り振り下ろした。
鈍い、乾いた破裂音。
視界が真っ白に弾け、脳髄が激しく揺さぶられる。
「っ……が……」
立っていられなくなった八幡の身体が、崩れ落ちるようにアスファルトへ倒れ込んだ。
頭部から鮮血が流れ出し、白いコンクリートを赤く染めていく。
「ちっ、面倒くせぇ! 警察が来るぞ、ズラかるぞ!」
「おい、やばいぞ、逃げろっ!」
頭を打って動かなくなった八幡を見て、恐怖に駆られた男たちは車に飛び乗り、猛スピードで闇夜の中へと逃走していった。
守られた命と、暗転する現実
「ひっ……うぅ……」
路地裏に一人残された少女は、震える手で自身の制服を握りしめ、血を流して倒れている八幡の傍らで泣きじゃくっていた。
やがて、騒ぎを聞きつけた近隣の住民が明かりをつけ、通報の音声が夜の静けさを切り裂いた。
救急車のサイレンが遠くから近づいてくる。
冷たいアスファルトの上で、八幡の意識はプツリと途切れていた。
少女の怯えた瞳。その手を離さず、身を挺して守り抜いた確かな事実だけを残して、比企谷八幡の意識は完全に闇の中へと沈んでいったのだった。
日本中を駆け巡ったニュースと、動き出した歯車
翌朝のワイドショーやニュース速報は、その一報で完全に持ちきりになった。
『――昨夜深夜、都内の住宅街で、通りかかった少女を誘拐から救うため暴漢と単身で対峙し、重傷を負った現職の比企谷八幡議員が、現在も意識不明の重体で病院に搬送されていることが分かりました。犯人グループは現在も逃走中で、警察が捜査を急いでいます……』
テレビ画面に映し出されたのは、血に染まったアスファルトと、警察の黄色い規制線が張られた現場の映像。
その衝撃的なニュースは、瞬く間に日本全土を駆け巡り、ネット上は悲鳴と怒りと祈りの声で埋め尽くされた。
「嘘だろ……あの比企谷が……っ!」
遠く離れたグラウンドや仕事先でそのニュースを知った戸部や材木座は、血の気が引く思いでスマホを握り締めた。
しかし、世間がただの悲劇としてこのニュースを消費している間に、水面下では――怒りに狂った「巨大な歯車」が、凄まじい音を立てて動き始めていた。
雪ノ下グループの完全臨戦態勢
「……許さないわ」
雪ノ下本社の最高経営責任者室。
テレビに映るニュースを見据えた雪ノ下父の低い呟きは、怒りを通り越して絶対的な冷徹さを帯びていた。
我が娘のパートナーであり、未来の政治を託した若者が、卑劣な犯罪者によって傷つけられた。それを看過するなどあり得ない。
「全グループの持てる情報網、そして警察および公安へのパイプをすべてフル稼働させなさい。あのクズどもが日本のどこに隠れようとも、一秒たりとも逃がすな。社会的にも、法的にも、二度と這い上がれないように徹底的に叩き潰せ」
雪ノ下父の鶴の一声により、日本経済の裏表を牛耳る「雪ノ下グループ」の圧倒的な権力が、犯人グループを追い詰めるために完全稼働を始めた。
会社の重役として、そして八幡を支える相談役として現場に駆けつけていた雪乃も、冷徹なまでの怒りをその瞳に宿しながら、父の指示を各所へと素早く飛ばしていく。
「お姉様、警察の初動捜査の遅れを補うため、我が社の独自セキュリティ網の映像を解析させます。犯人の車の手配ルートはすでに特定しました」
「……うん。頼むわね、雪乃。あいつに手を出した代償がどれほど恐ろしいか、身をもって教えてあげるわ」
普段の妖艶な笑みを完全に消し去り、鬼気迫る美しさをまとった陽乃もまた、秘書としての全権を使い、マスコミの誘導と捜査当局への強力なプレッシャーを同時にかけ続けていた。
葉山隼人と仲間たちの反撃
一方、国際弁護士としての道を歩み始めていた葉山隼人は、速報を聞いた瞬間、仕事中のパソコンを激しく閉じ、すぐさま帰国のための手配を済ませていた。
(……あのとき、俺が守れなかったものを、あいつは身を挺して守った。今度は、俺の番だ)
葉山は現地の一流弁護士チームや警察関係者に対し、法的なあらゆる抜け道を塞ぎ、犯人側に弁護の余地すら与えないための鉄壁の布陣を独自に組み始めた。
さらに、プロの舞台で戦う戸部や、かつてのサッカー部員たちも、SNSや独自のネットワークを通じて情報提供を呼びかけ、千葉から東京へと続く捜査の網を自らの足で広げていく。
警察が動くよりも早く、そして世間のマスコミが事件の真相を暴くよりも確実に。
比企谷八幡を愛し、その生き様に救われてきた者たちの「絆」と「怒り」が、夜の闇に隠れようとする犯人グループを、全方位から容赦なく追い詰めていくのだった。
拡散された真実と、追い詰められる男
あの夜、現場の防犯カメラや、近くを通りかかった一般人のドライブレコーダーに記録されていた一部始終の動画が、とあるSNSアカウントによってネット上に投稿された。
画面に映っていたのは、血を流しながらも一歩も引かず、幼い少女を庇うようにして暴漢たちに立ち向かう比企谷八幡の姿と、背後から卑劣な鉄パイプで彼を打ち据える男たちの姿だった。
編集なしの生々しい映像は、一瞬にして日本中の怒りと絶望の炎を燃え上がらせた。
『これ見て泣いた。政治家が身を挺して子供守ったんだぞ……!』
『犯人グループ、マジで許せねぇ。絶対に許すな』
『警察何やってるんだ、早く捕まえろ!』
SNSの怒号はそのままネット探偵たちの執念へと変わり、逃走していた犯人グループの車のナンバーや潜伏先が、またたく間に特定されていく。追い詰められた実行犯たちは、警察が踏み込むよりも早く、SNSの恐怖に耐えかねて自ら最寄りの交番へ駆け込み、泣き叫びながら逮捕を乞うという異常事態に陥っていた。
しかし、事件はこれで終わらなかった。
警察の取り調べにより、実行犯たちの口から吐き出された「黒幕」の名前――それは、政界で八幡と激しく対立していた中堅の有力議員だった。
「ふざけるな……! あんなガキが調子に乗って教育改革などと騒ぎ立てるから、ちょっと脅してスキャンダルにでも仕立て上げようとしただけだ! まさか本気で抵抗してくるとは思わなかったんだよ……!」
議員会館の自室で冷や汗を流しながらテレビの速報を見つめていたその男の元へ、突然、重苦しい足音が近づいてきた。
比企谷本家の「静かなる来訪者」
ガチャリ、と音もなく部屋のドアが開いた。
そこに立っていたのは、屈強な体躯を持つスーツ姿の男たち、そしてその中央に控える、一人の老紳士だった。
冷徹なまでの威厳と、底知れぬ狂気のような静けさを纏った老当主――比企谷本家の長だった。
「なっ……お前たちは……一体、何のつもりだ……! ここは国会議員室だぞ!」
顔色を真っ青にしながら後ずさるライバル議員に向かって、老当主はゆっくりと歩を進め、革靴の音をカツン、カツンと響かせた。
老当主はソファに腰を下ろすと、懐から高級なハンカチを取り出し、ゆったりと指先を拭きながら静かに口を開いた。
「政治の世界はなんでもありだ。足の引っ張り合いも、スキャンダルも、権謀術数のうち。……だがね、君は政界の門を叩いたとき、あるいはこの世界の人間から、一つだけ絶対に破ってはならない禁忌(タブー)として教えられなかったか?」
「き、禁忌だと……?」
「『比企谷の姓を持つ者に牙を剥くな』、とな」
低い、底冷えするような声が部屋の空気を凍りつかせた。
ライバル議員の背筋に、生理的な恐怖が電流のように走る。
「……ま、待て! 私には与党の有力者とのパイプが! 警察も、裁判所も――」
老当主はふっと鼻で笑い、冷たい瞳でその男を射抜いた。
「勘違いするな。今、ワシは比企谷財閥の長としてここに立っているわけではない。……我が血を分け、我が身の可愛い親族であり、そして今や我が誇りである、あの『八幡』のために。一族の長、そして一人の親戚として動いておるのだ」
財閥の利権や組織の論理などではない。ただ「一族の可愛い者」を傷つけられたことに対する、純粋すぎる血の怒り。
それは経済界のルールすら超越した、恐怖の暴力だった。
「さて、お主が次にすべき行動は……もう分かっているな?」
老当主はそれだけを言い残すと、ゆっくりと立ち上がり、部下を引き連れて部屋を出ていこうとした。
絶望の後悔
ドアが閉まった瞬間、ライバル議員の足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
警察の捜査の手が伸びるよりも早く、自分を待ち受けているであろう社会的、経済的、そして人間としての完全な「抹殺」の未来を悟り、男は頭を抱えて激しく震えた。
政治の権力争いなどという甘い次元ではない。己の浅はかな嫉妬と恐怖から、決して怒らせてはならない「怪物の一族」の逆鱗に触れてしまったことへの取り返しのつかない後悔が、男の喉元を締め付けていた。
夜の闇の中、比企谷八幡が眠る病院のベッドの周りでは、雪ノ下姉妹、川崎、そして駆けつけた仲間たちが祈るようにその手を握り締めている。
傷だらけの少年の背中を押し上げる者たちの怒りと絆は、もはや誰にも止めることのでできない巨大なうねりとなって、新しい時代の夜明けを告げようとしていた。
SNSの怒号はそのままネット探偵たちの執念へと変わり、逃走していた犯人グループの車のナンバーや潜伏先が、またたく間に特定されていく。追い詰められた実行犯たちは、警察が踏み込むよりも早く、SNSの恐怖に耐えかねて自ら最寄りの交番へ駆け込み、泣き叫びながら逮捕を乞うという異常事態に陥っていた。
しかし、事件はこれで終わらなかった。
警察の取り調べにより、実行犯たちの口から吐き出された「黒幕」の名前――それは、政界で八幡と激しく対立していた中堅の有力議員だった。
「ふざけるな……! あんなガキが調子に乗って教育改革などと騒ぎ立てるから、ちょっと脅してスキャンダルにでも仕立て上げようとしただけだ! まさか本気で抵抗してくるとは思わなかったんだよ……!」
議員会館の自室で冷や汗を流しながらテレビの速報を見つめていたその男の元へ、突然、重苦しい足音が近づいてきた。
比企谷本家の「静かなる来訪者」
ガチャリ、と音もなく部屋のドアが開いた。
そこに立っていたのは、屈強な体躯を持つスーツ姿の男たち、そしてその中央に控える、一人の老紳士だった。
冷徹なまでの威厳と、底知れぬ狂気のような静けさを纏った老当主――比企谷本家の長だった。
「なっ……お前たちは……一体、何のつもりだ……! ここは国会議員室だぞ!」
顔色を真っ青にしながら後ずさるライバル議員に向かって、老当主はゆっくりと歩を進め、革靴の音をカツン、カツンと響かせた。
老当主はソファに腰を下ろすと、懐から高級なハンカチを取り出し、ゆったりと指先を拭きながら静かに口を開いた。
「政治の世界はなんでもありだ。足の引っ張り合いも、スキャンダルも、権謀術数のうち。……だがね、君は政界の門を叩いたとき、あるいはこの世界の人間から、一つだけ絶対に破ってはならない禁忌(タブー)として教えられなかったか?」
「き、禁忌だと……?」
「『比企谷の姓を持つ者に牙を剥くな』、とな」
低い、底冷えするような声が部屋の空気を凍りつかせた。
ライバル議員の背筋に、生理的な恐怖が電流のように走る。
「……ま、待て! 私には与党の有力者とのパイプが! 警察も、裁判所も――」
老当主はふっと鼻で笑い、冷たい瞳でその男を射抜いた。
「勘違いするな。今、ワシは比企谷財閥の長としてここに立っているわけではない。……我が血を分け、我が身の可愛い親族であり、そして今や我が誇りである、あの『八幡』のために。一族の長、そして一人の親戚として動いておるのだ」
財閥の利権や組織の論理などではない。ただ「一族の可愛い者」を傷つけられたことに対する、純粋すぎる血の怒り。
それは経済界のルールすら超越した、恐怖の暴力だった。
「さて、お主が次にすべき行動は……もう分かっているな?」
老当主はそれだけを言い残すと、ゆっくりと立ち上がり、部下を引き連れて部屋を出ていこうとした。
絶望の後悔
ドアが閉まった瞬間、ライバル議員の足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
警察の捜査の手が伸びるよりも早く、自分を待ち受けているであろう社会的、経済的、そして人間としての完全な「抹殺」の未来を悟り、男は頭を抱えて激しく震えた。
政治の権力争いなどという甘い次元ではない。己の浅はかな嫉妬と恐怖から、決して怒らせてはならない「怪物の一族」の逆鱗に触れてしまったことへの取り返しのつかない後悔が、男の喉元を締め付けていた。
夜の闇の中、比企谷八幡が眠る病院のベッドの周りでは、雪ノ下姉妹、川崎、そして駆けつけた仲間たちが祈るようにその手を握り締めている。
傷だらけの少年の背中を押し上げる者たちの怒りと絆は、もはや誰にも止めることのでできない巨大なうねりとなって、新しい時代の夜明けを告げようとしていた。
動き出した怪物たちの連帯
比企谷八幡が病院のベッドで眠りについてから数日。
事件の黒幕であったライバル議員は、警察の強制捜査が入るより早く、雪ノ下グループの完全なる法的・社会的包囲網と、比企谷本家からの容赦ない圧力によって、議員辞職と芋づる式の逮捕へと追い込まれていた。
そんな中、千葉県政の重鎮として多忙を極める雪ノ下家の父親は、自身の執務室で一通の極秘報告書に目を通していた。
「……まさか、あの比企谷本家がここまで露骨に動くとはな」
報告書に記されていたのは、比企谷財閥の当主が直接水面下で動いた形跡と、その圧倒的なまでの報復の軌跡だった。
普段、表向きの経済界や政界において、雪ノ下家と比企谷本家が直接的に深く絡むことは少ない。それぞれの領域、それぞれの哲学を持ち、一定の距離を保ちながら共存している間柄だからだ。
しかし、今回は違った。
あの「比企谷」の名を背負い、一族の血を引く者でありながら、本家のすがりもせずに己の力で這い上がってきた若者――比企谷八幡という存在は、今や一族にとっての「宝」となっていた。
父親は報告書を机に置き、ふっと窓の外の空を見上げながら、深く納得したように息を吐いた。
義理の父として、友人として
(――もし、我が雪ノ下家に同じことが起きていたら、いや、私の愛する娘たちや、あの頑固な息子(八幡)が同じ目に遭っていたとしたら……)
答えなど考えるまでもない。父親自身、雪ノ下家の総力を挙げて、日本中をひっくり返すほどの報復に出ていただろう。
血のつながりを超え、自分と同じ「守るべきもののためなら手段を選ばない狂気」を宿す本家の当主たちの行動に、父親はどこか同族としての苦笑を漏らした。
そして、父親の胸に去来したのは、単なる政治的な利害関係や一族の面子だけではなかった。
あのひねくれた、けれど誰よりも真っ直ぐで不器用な少年。
自分の政治生命を賭けたあの日の事件から始まり、今や娘たちの心を捉えて放さず、事実婚という形でありながら我が家の大切な一員となっている男――比企谷八幡。
(政治家として、男として、そして……私にとっての数少ない、腹を割って話せる「友人」としてもだ)
あの若者が傷つけられたとき、義理の父として、そして一人の友人として、怒りに狂わなかった男などいるはずがなかった。本家が動いたのは当然であり、自分がその立場であっても全く同じように牙を剥いただろうと、父親は確信していた。
つくづく、うちの婿は
父親はデスクの引き出しから、数年前に八幡と初めて腹を割って言葉を交わした日のことを思い出し、思わず声に出してフッと笑った。
「つくづく……うちの婿という奴は、大した怪物だな」
ただの高校生だったはずの少年は、いつの間にか政界の頂点を揺るがし、敵も味方も、そして冷徹な財閥の怪物たちまでをも「動かしてしまう」ほどの引力を纏う男になっていた。
「早く目を覚ましなさい、八幡くん。君が眠っているせいで、我が家のリビングも、永田町も、少しばかり静かすぎて退屈だ」
呟いた父親の瞳には、深い信頼と、我が娘たちの選んだ男に対する惜しみない賛辞が宿っていた。
ベッドの上で眠る八幡の周囲には今、雪ノ下家、比企谷本家、そして数え切れない仲間たちの強大な意志が、鉄壁の城壁となってその身を守り続けている。
嵐の静けさの中、すべての歯車は、彼が再び目覚めるその日のために力強く回り続けていた。
病院の天井と、温かな重み
病院の無機質な白い天井が視界に入ったとき、最初に感じたのは頭を鈍器で殴られたような重たい痛みと、全身を巡る強烈な倦怠感だった。
(……ここは、どこだ……?)
かすかにまばたきを繰り返すと、窓から差し込む夕日がやけに眩しい。
「――っ、八幡……!」
「目が……目が覚めたのね……!」
聞こえてきたのは、震える二つの声だった。
ベッドの脇に突っ伏すようにして眠っていた雪乃と陽乃が、一斉に顔を上げ、潤んだ瞳でこちらを見つめている。そのすぐ後ろでは、川崎が息を呑んだまま言葉を失い、目頭を熱くしていた。
「お前ら……そんな泣きそうな顔すんなよ……。美容に悪りぃぞ……」
ガラガラにかすれた声でそう呟くと、雪乃はこらえきれずというようにポロポロと涙をこぼしながらも、しっかりと八幡の手を両手で握りしめた。
「馬鹿ね……! 本当に、どれだけ私たちを心配させれば気がすむのよ……!」
守り抜いた少女の涙
扉がガチャリと音を立てて開き、看護師の制止を振り切るようにして、一人の少女とその両親が病室へと駆け込んできた。
あの夜、八幡が身を挺して救い出した、あの少女だった。
少女は八幡のベッドのそばに駆け寄ると、堪えきれなくなったようにその場に崩れ落ち、大粒の涙をボロボロとこぼしながら何度も頭を下げた。
「ひゃ、……ひゃくきや……ううん、おじ……お兄ちゃん……っ! 私のせいで、私のせいで死んじゃったらどうしようって……ずっと怖くて……っ!」
「ご、ありがとうございました……! この子が、この子が助かったのは、議員さんが命をかけて守ってくださったおかげです……!」
両親もまた、震える声で何度も何度も頭を下げ、あふれる涙を拭おうともしなかった。
病室に充満する感涙の空気に、八幡は気まずそうに目を泳がせ、痛む頭を片手でポリポリとかきむしった。
「い、いや……そんな泣くなよ。大したことじゃねぇっての……」
そう言いながらも、八幡はゆっくりと上半身を起こし、泣きじゃくる少女の頭にそっと大きな手を伸ばした。そして、不器用ながらも、優しくその髪をポンポンと撫でる。
「……それに、泣くなよ。俺は議員である前に、一応これでも『教師』だからな。……子どもが理不尽に連れて行かれそうになってるのに、見過ごすわけにはいかねぇだろ」
その不器用で、どこまでも優しさに満ちた言葉を聞いた瞬間、少女はさらに声を上げて号泣した。
両親もまた、その場に手をついて崩れ落ちるように泣き、雪乃や川崎たちも、堪えきれずにそれぞれのハンカチで目元をそっと押さえた。
病室は、あたたかな涙と、命の重みを噛り締める静かな感動に包まれていた。
再び、ネットの海へ
それから数日後。
意識を取り戻した八幡が病院のベッドの上で、少女やその両親に見舞いに訪れられた子ども用のプリンをスプーンでつつきながら、ぼそっと「甘すぎだろこれ……」と文句を言っている写真が、とあるSNSにアップされた。
投稿したのは、他でもない――あの現場の救出劇を目の当たりにし、八幡の無事を誰よりも祈っていた一般人だった。
『ニュースじゃ意識不明の重体って言われて心配したけど、目覚めた途端に「子ども用プリンは甘すぎる」とか文句言ってて安心したwww』
『これぞ我らの比企谷議員すぎるwww』
『子どもを庇って大怪我した男が、目を覚まして最初に言ったのが「俺は教師だからな」だぞ。かっこよすぎだろ……』
『トレンド「比企谷議員のプリン」になってて草。でも本当によかった!』
退院すらしていないというのに、相変わらずのマイペースさと、本物の優しさが滲み出たそのエピソードは、またしても瞬く間にネットの海を駆け巡り、日本中を笑顔と感動の渦に巻き込んだ。
批判やスキャンダルなど、その圧倒的な人間性と実績の前には塵に等しかった。
世間の好意と信頼を一身に集めながら、ベッドの上で頭を抱える八幡のスマホには、友人たちや妻たちからの「早く退院しなさい」「退院したら特製プリン食べさせてあげるから」というメッセージが、途切れることなく鳴り響いていたのだった。
静かなリビングと、テレビの議論
退院を許可され、実質的な自宅療養という名の「軟禁生活」が始まって数日。
リビングのソファに深く沈み込んだ比企谷八幡は、頭の痛みを和らげるための湿布を貼りながら、リモコンの電源ボタンを押した。
パッと明るくなったテレビ画面には、朝のワイドショーのスタジオが映し出されていた。コメンテーターたちが熱を帯びた表情で、一斉に「比企谷八幡の誘拐未遂事件」と「その後の発言」について議論を戦わせている。
「——確かに、現職の国会議員が単身で暴漢に飛び込むのはリスクが高すぎます。もっと警察に通報するなど、冷静でスマートな対応ができたのではないかという意見もありますが?」
「いや、何を言っているんですか! あの緊迫した状況で、一刻を争うときに警察を待っていたら少女は連れ去られていた! 結果論で批判するのはナンセンスでしょう!」
「しかし、『議員である前に教師だからな』という発言は、裏を返せば『議員という立場を軽んじている』とも取れかねません。政治家としての自覚が足りないのでは……?」
「むしろ私はあの発言に感心しましたね。肩書きよりも一人の人間としての誠実さを優先したからこそ、国民の心を打ったのであって……」
賛否両論、喧々諤々。
スタジオの出演者たちは、まるで自分のことのように熱く、あるいは冷ややかに、それぞれの正義や持論をぶつけ合っていた。
画面の中で自分の顔がフリーズ写真としてデカデカと映し出されるのを見つめながら、八幡はため息をついた。
(……相変わらず、暇人どもだな……。いいから次のニュースにでも行けよ)
面倒臭さとしみじみとした気恥ずかしさが入り混じった妙な感覚の中、八幡は静かにリモコンを向け、プツリとテレビの電源を切った。
音の消えたリビングには、キッチンのほうから聞こえてくる、川崎が夕飯の支度をするトントンという包丁の音と、お湯が沸く穏やかな気配だけが戻ってきた。
冷めないネットの熱
テレビを消しても、外の世界の熱気はまだ収まっていなかった。
気まぐれにスマホを開けば、SNSのタイムラインは相変わらず「比企谷八幡」の名前であふれ返っている。
『ワイドショーでコメンテーターが「スマートな対応が〜」とか言ってて草。現場にいたわけでもねぇ奴らがよく言うわ』
『「議員である前に教師」って言葉、俺はめちゃくちゃ刺さったけどな。肩書きだけで動く政治家よりよっぽど信頼できる』
『叩いてる奴もいるけど、結局のところ、自分の子供があの場にいたら絶対にお兄ちゃん(八幡)に感謝するだろ』
『トレンドにずっといるのすごすぎ。早く仕事復帰して暴れてくれ』
批判する声も、それを擁護し熱狂する声も、どちらもすさまじいエネルギーを纏って画面をスクロールしていく。世間はまだ、あの夜の路地裏で起きた出来事と、その後の人間臭いやり取りの余韻から抜け出せずにいた。
「……バズろうと思ってやったわけじゃねぇんだけどな」
スマホをソファの脇に放り出し、八幡は天井を仰いだ。
外野がどれだけ騒ごうとも、自分がやったことはただ一つ。目の前で泣いている子どもを放っておけなかった。それ以上でもそれ以下でもない。
「――ねえ、八幡。いつまでボーッとしてるの。お医者様から、まだあまり頭を使いすぎちゃダメって言われてるでしょ」
リビングに戻ってきた雪乃が、心配そうな、しかし少し呆れたような目を向けて温かいお茶のマグカップを置いていく。そのすぐ後から、陽乃が「お仕事の連絡、今日のところは全部私と雪乃でシャットアウトしておいたから安心していいわよ〜」と妖しく笑いながら顔を覗かせた。
外の世界がどれだけ自分を祭り上げようとも、叩こうとも、この家のドアを一枚潜ってしまえば、そこにあるのはいつもの、少し賑やかで温かい日常だった。
熱の冷めないネットの海を背中に感じながら、八幡は苦笑いを浮かべ、差し出されたマグカップを両手で包み込んだのだった。
材木座義輝の「傑作」と、新たな爆弾
自宅療養中で暇を持て余していた比企谷八幡の元に、一冊の分厚い単行本が届いたのは、事件からしばらく経ったある日のことだった。
表紙に描かれていたのは、夕暮れの校舎の影と、どこか不器用な背中を向けた一人の少年のイラスト。
そのタイトルは――『総武高校の黒い騎士:ぼっち、時々、政治家』。
著者名は「材木座義輝」。
「……おい、なんだこれ」
八幡が冷や汗をかきながらページをめくると、そこに書かれていたのは、かつて自分が経験した数々の「黒歴史」をベースにしつつ、ありとあらゆるフィクションと劇的な演出(主に材木座の脳内フィルターによる過剰な美化)で盛りに盛られた、圧倒的熱量の青春群像劇だった。
――奉仕部での数々の依頼、修学旅行の裏側、文化祭での孤独な奮闘、そして理不尽な大人たちを論破し、世界をひっくり返してきた伝説の数々。
フィクションかノンフィクションか分からないその物語は、材木座特有の圧倒的な筆力と熱量によって、読む者の心を容赦なく撃ち抜く仕上がりになっていた。
日本中を泣かせた「青春群像劇」とファンクラブ
この小説が大手出版社から出版されるやいなや、ネットや全国の書店で爆発的な火がついた。
「なにこれ……最高すぎるんだけど……!」
「最初はただの不器用なひねくれ男の話かと思ったら、途中から涙が止まらなくなった……!」
「こんな泥臭くて、最高にかっこいい青春があったのかよ……!」
SNSやレビューサイトは絶賛の嵐で埋め尽くされ、「#黒い騎士のモデル」「比企谷八幡の半生」といったワードが連日トレンドのトップを独占した。
現役の国会議員が歩んできたあまりにも波乱万丈で、あまりにも人間臭い過去の軌跡に、日本中の若者や読者たちが熱狂したのだ。
さらに、事態はそれだけにとどまらなかった。
「……なぁ、ちょっと待て。これ、なんだよ」
ある日、議員事務所に届いた膨大な量の段ボール箱を開けた八幡は、中から次々と出てきた会員証とファンレターの束を見て、盛大に固まった。
そこにあったのは、全国から結成された「比企谷八幡オフィシャルファンクラブ(通称:Hachiman Protection Committee)」からの、熱烈すぎる入会案内と大量のファンレターだった。
「あなたのひねくれた優しさに救われました!」「推し活として選挙の応援に行きます!」「陰ながら守り隊に入会しました!」――全国の老若男女から届くメッセージの数々に、八幡は戦慄した。
八幡の反応と、周囲の冷ややかな(?)視線
「……いや、待て待て待て。俺は別にアイドルでも芸能人でもねぇよ! なんなんだよこの『推し活』ってステッカーは! 議員バッジより目立つじゃねぇか!」
リビングのソファで頭を抱え、絶叫する八幡。
その横で、その光景を眺めていた陽乃は腹を抱えて大笑いし、雪乃は「ふん、自業自得ね。あなたがいつまでも中二病じみた生き様を晒しているからよ」と冷ややかな(しかしどこか誇らしげな)視線を送っていた。
川崎は「でも、みんな八幡の味方ってことでしょ? よかったじゃない」とクスリと笑い、スマホの画面を見せながら言った。
「ちなみに、材木座の小説の印税の一部、お前のところに『原作料』として振り込まれてるわよ」
「あいつ、勝手に俺の黒歴史を全世界に発信しやがった挙句、印税までよこす気か……! 今度会ったら絶対に説教してやる……!」
頭を痛そうに押さえる八幡の姿は、もはやただの「ちょっと尖った政治家」ではなく、日本中で愛され、時にイジられる唯一無二の国民的スターのそれだった。
理不尽な世界をひっくり返した不器用なぼっちの物語は、小説という形になってさらに多くの人々に届き、彼の背中を今日も力強く押し続けているのだった。
突然の暗転
「……痛っ……」
リビングのソファから立ち上がろうとしたその瞬間、世界が突然、グニャリと歪んだ。
頭の奥底をハンマーで殴られたような激しいめまいと、冷たい冷汗が全身から一気に吹き出す。視界の端が急速にモノクロに染まり、バランスを崩した八幡の身体は、そのまま床へと崩れ落ちた。
「――っ、八幡……!?」
食器を片付けていた川崎が、ただならぬ音に気づいて振り返り、すさまじい勢いで駆け寄ってくる。
すぐに雪乃と陽乃も飛び起きて彼の元へ滑り込んだが、八幡の意識はすでに遠のき、うわ言のように苦しげな息を漏らすだけで、まともに返事すらできない状態だった。
「……頭の後ろが……これ、は……」
血の気が引くとはまさにこのことだった。
あの夜、暴漢から少女を守った際、鉄パイプで強打された後頭部の激しい損傷。退院してからも、どこかで無理をして体に負担がかかっていたツケが、最悪のタイミングで爆発したのだ。
救急車のサイレンが夜の住宅街を切り裂き、比企谷八幡は再び、激しい頭痛と暗闇に包まれながら緊急搬送されることになったのだった。
再びの無機質な病室と、凍りつく空気
数時間後。
大学病院の集中治療室(ICU)の前に集まった者たちの表情は、かつてないほど険しく、凍りついていた。
「――頭部の裂傷と脳震盪だけではなかった。打撲による脳内出血の再発、および外傷性後遺症による急性硬膜下血圧の急上昇です。……一刻を争う緊急手術を行います」
医師の重々しい告げられた言葉に、廊下の空気がピタリと止まった。
「……そんな……、あんなに普通に話してたのに……」
川崎は震える手で自身の制服の裾を強く握り締め、雪乃は青ざめた顔で壁に手をつき、言葉を失っていた。陽乃もまた、常に余裕を湛えていたその顔から血の気が失われ、唇を強く噛み締めている。
議員として、教育改革の旗手として、そして彼女たちの愛するパートナーとして、ようやく一歩を踏み出した矢先の出来事だった。
「……沙希、雪乃、陽乃。ここは俺に任せろ」
重い足音を響かせて廊下の突き当たりから現れたのは、連絡を受けて駆けつけた雪ノ下父、そして平塚静だった。さらに、その後方には、一報を聞きつけて血相を変えて飛んできた小町の姿もあった。
「お兄ちゃん……っ、嘘でしょ……お兄ちゃん……!」
小町が堰を切ったように涙を流し、その場に崩れ落ちる。それを川崎と雪乃が必死に支え、抱き締めた。
「泣くな、小町。あの頑固でひねくれた奴が、こんなところでくたばるわけがない。……そうだろ?」
平塚は自身の震える声を懸命に抑え込みながら、真っ直ぐに手術室の扉を見据えた。
動き出す者たちと、眠る男
手術室のランプが「手術中」の赤い光を強烈に放ち続ける。
その中で、命の危機と必死に戦う比企谷八幡。
彼が守った少女の未来、彼が変えようとした日本の教育、彼を愛する者たちの温かい日常。そのすべてが、再び一つのベッドの上にある細い命の糸に委ねられていた。
「……絶対に戻ってきなさいよ、八幡。あなたがいないと、この面倒くさい政治の世界も、私の退屈しのぎにもならないんだから」
手術室の扉に向かって呟いた陽乃の瞳から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。
日本中を揺るがした不器用な英雄は今、静かな眠りのなかで、再び過酷な戦いに挑もうとしていた。
奇跡の生還と、静かなる病室の決断
生死の境をさまよった大手術は、執刀医たちの懸命な処置と、奇跡的な生命力によって無事に成功を収めた。
数日後、一般病室のベッドで目を覚ました比企谷八幡の視界に映ったのは、やつれながらも心から安堵した表情を浮かべる雪乃、陽乃、川崎、そして泣き腫らした顔の小町の姿だった。
「……馬鹿……っ! 本当に、もう二度と無茶しないでよ……!」
小町がわんわん泣きながら八幡の胸に飛び込み、雪乃たちがそれを優しく包み込む。
命は助かった。最悪の事態は免れた。
けれど、ベッドの上で天井を見上げる八幡の胸に去来していたのは、安堵だけではなかった。
(もし……あのまま目が覚めていなかったら)
自分が倒れたとき、この人たちはどれほどの絶望を味わっただろうか。
「世界を変える」「教育を改革する」と意気込み、自分の正義や泥臭い生き様を優先するあまり、一番近くで自分を支え、愛してくれている家族――雪乃、陽乃、川崎の存在を、どこかで当たり前のものとして甘えすぎていたのではないか。
自分のことばかりで、彼女たちの不安や未来を本当に守れていたと言えるのか。
八幡の脳裏に、かつてひねくれて一人で傷つき、周囲を突き放していた自分の姿がよぎる。
――いや、違う。守りたいものがあるなら、もう身勝手な自己犠牲や無茶は許されないのだ。
退院の日の朝、八幡は周囲の反対を押し切り、一つの重大な決意を公の場で発表することにした。
議員辞職と、新たな約束
国会の記者会見場。
かつて「嫁さんは三人。以上だ」と言ってのけたその壇上に、八幡は少し青白い顔をしながらも、まっすぐな足取りで立った。
フラッシュの嵐の中、マイクの前に立った八幡は、深く頭を下げた後、静かで、しかし揺るぎない声で言い放った。
「私、比企谷八幡は、本日付をもちまして――国会議員を辞職いたします」
会場が一瞬でどよめき、ざわめきの波が押し寄せる。
「理由は何だ!?」「トップ当選したばかりなのに!」と矢継ぎ早に飛ぶ質問を、八幡は静かに手で制した。
「理由は単純です。私は、自分の信念や理想ばかりを追い求めるあまり、私を支えてくれる家族――一番大切な人たちを危険に晒し、不安にさせてしまいました。政治家として国を変える前に、一人の男として、愛する家族を守る責任を果たさなければならない。……ですが、これは逃げでも終わりでもありません」
八幡はレンズの向こうの日本中を見据え、力強く言い切った。
「いつか、本当に大切なものをしっかりと自分の手で守り抜ける強さを身につけたとき……必ず、またこの場所に戻ってきます。それまで、待っていてください」
その潔く、かつ人間味あふれる辞職宣言に、最初は戸惑っていた記者たちも、やがてどよめきから深い納得へと変わっていった。
祝福のウェディングと、新しい命の予感
それから数ヶ月後。
千葉の海を見渡す白亜のチャペルで、世間を驚かせた前代未聞の「結婚式」が執り行われていた。
白いタキシードに身を包んだ八幡の傍らに並ぶのは、ウエディングドレス姿に身を包んだ雪ノ下陽乃、雪ノ下雪乃、そして川崎沙希の3人。
それぞれが全く異なる美しさを放ちながらも、その瞳にはこれ以上ないほどの幸福な涙が浮かんでいた。
参列席には、平塚静、葉山、戸部、材木座をはじめとするかつての仲間たち、そして雪ノ下父や比企谷本家の面々までが勢揃いし、温かな拍手を送っている。
誓いの言葉のあと、マイクを握った八幡は、少し照れくさそうに、けれど今までで一番力強い声で全員の前で宣言した。
「……いろいろ遠回りしたし、世間からは散々叩かれたし、迷惑もかけた。けど、俺は今日、この3人と正式に家族になる。そして――」
八幡は優しく微笑みながら、雪乃、陽乃、そして川崎のそれぞれのお腹にそっと視線を落とした。
そう、奇跡の生還のあと、彼らの間には新しい命――お腹の子どもたちが宿っていたのだ。
「――この3人と、これから生まれてくる俺たちの子供たちのためにも、俺はもう迷わない。誰よりも強く、泥臭く、この家族を幸せにし続ける男になってみせる!」
その言葉を聞いた瞬間、チャペル内は割れんばかりの歓声と、人生最高の祝福の嵐に包まれた。
ひねくれていて、ぼっちで、誰とも交わらないと誓っていた少年は、たくさんの愛と絆に囲まれ、本当の意味での「最強の家族」の真ん中で、最高の笑顔を咲かせていたのだった。