材木座義輝の、魂のペン
比企谷八幡が大臣を辞任し、ふらりと世界へ旅立ったその頃。
日本の片隅――あの頃と変わらず、しかしどこか誇らしげな熱気を帯びた自室で、一人の男が猛烈な勢いでキーボードを叩いていた。
材木座義輝。
かつて総武高校の部室で奇抜な大言壮語を吐き、中二病をこじらせていた彼は、今や独自のネットワークと鮮烈な筆力を持つ気鋭のノンフィクション作家として、世間から注目を集めていた。
「……フハハハ……! なんという壮大なドラマか! これぞまさに、現代に舞い降りた真の英雄の叙事詩(サーガ)ではないか!」
ディスプレイに映し出される文字を追いながら、材木座の目は熱い涙で潤んでいた。
八幡が現場を奔走し、学校の枠組みをブチ壊し、巨大な権力や悪意を跳ね飛ばし、そして最後にはすべての肩書を捨てて「熱」を求めて世界へ旅立った軌跡。そのすべてを間近で見てきたからこそ、彼の生き様がどれほど凄まじく、どれほど優しさに満ちていたのかが痛いほどよく分かった。
――八幡は、俺の友であり、ヒーローだった。
心の底から湧き上がる感動とリスペクトが、材木座の指先を突き動かす。
綺麗事だけではない、泥臭く、傷だらけになりながらも、決して誰かを切り捨てずに歩き続けたあの男の背中。その真実の物語を、一人でも多くの人間に伝えることこそが、友である自分が果たすべき最高の役目だった。
「世界に贈る叙事詩」
「さて、締め括り(クライマックス)としようか!」
材木座は気合を入れ直すと、再びガタガタと激しい音を立てながらキーボードを叩き続けた。
タイトルはすでに決まっている。
『戦うリーダー、比企谷八幡の軌跡――システムを超えた男の物語』。
八幡を中心に据え、戸部が繋いだ現場の熱、雪ノ下姉妹が支えた組織、そして本家や財閥をも巻き込んだ激動の変革のすべてが、その原稿用紙(画面)のなかに鮮やかに息づいていく。
かつては一人で世界を敵に回している気になっていた「ぼっち」が、いつしか世界中から愛され、必要とされる存在になり、そして新たな旅へと踏み出していく――その生き様を記すだけで、筆が止まらなかった。
タイプの手を止め、満足げに伸びをした材木座の顔には、かつての中二病的な気負いはなく、一つの大仕事を成し遂げた表現者としての充実した笑みがあった。
(八幡よ、お前はどこへ行こうとも、やはり俺たちの最高の友であり、希望の星だ!)
窓の外には、八幡が遺したシステムと、雪乃たちが繋ぐ新しい時代の朝焼けが広がり始めていた。
その光景を眺めながら、材木座は心地よい疲労感と幸福感に包まれ、再びキーボードに向き合うのだった。
ロンドンの夕暮れと、かつての約束
比企谷八幡が新たな「熱」を求めて世界へと旅立ち、消息をくらませてからしばらく後のこと。
イギリス・ロンドン。金融の中心地であり、歴史的な建造物が立ち並ぶシティの一角にある静かなパブのテラス席で、二人の男がグラスを傾けていた。
一人は、国際弁護士としてロンドンを拠点に世界中を飛び回る葉山隼人。
そしてもう一人は、日本国内のビジネスや現場の網の目を駆け抜けながら、この日は出張のついでに海を渡ってきた戸部翔だった。
ロンドンの冷たい夜風が吹き抜ける中、琥珀色のエールビールが注がれたグラスを合わせる。
「いやぁ、しかし驚いたよな! 八幡のやつ、大臣をあっさり辞めたかと思いきや、本当に文字通り世界中のどこかへ消きちまうんだからさ」
戸部はジャケットの襟を正しながら、どこか呆れたような、しかし嬉しそうな笑みを浮かべた。
隣に座る葉山も、上品にグラスを揺らしながらフッと柔らかな笑みをこぼす。
「まったくそうだね。彼らしいと言えばそれまでけれど……僕たちが日本で彼の作ったシステムや財閥とのアライアンスを必死に回しているというのに、本人はどこの空の下で何を考えているのやら」
葉山の口調には苦笑いが混じっているが、その瞳の奥には、かつて総武高校の部室で同じ時間を過ごしたかつてのライバルであり友人への、深い信頼と変わらぬ友情が宿っていた。
ロンドンの空の下で
「でもさ、葉山」
戸部はグラスをテーブルに置き、少し真面目な顔つきになってロンドンの高い空を見上げた。
「八幡がいなくなって、俺たちがこうして遠く離れた場所でそれぞれの仕事を全うしてさ……なんだか不思議だよな。高校の頃は、あいつがあんな風に日本を動かして、世界中を巻き込むなんて、誰が想像できたよ」
「そうだね……」
葉山は遠くの街並みに目をやり、静かにうなずいた。
「彼はいつだって、自分のためじゃなく、誰かのために傷つき、誰かのために動いていた。僕たちはそんな彼の背中を見て、守られるばかりだった。だけど今は――彼が遺してくれたシステムと、僕たちが繋いだこの世界を、今度は僕たちが守る番なんだ」
戸部は大きくうなずき、再びビールを一口飲んだ。
「だな! 八幡がどこをほっつき歩いてようと、俺たちが足元をしっかり固めて、自慢できる場所を守り抜いてやればいいのさ」
八幡はいない。
けれど、ロンドンの空の下でも、日本の現場でも、それぞれの場所でかつての仲間たちが確かな足取りで未来を創り続けている。
「さて、と……。じゃあ、そろそろ日本のスタッフとオンラインミーティングの時間だ」
葉山が腕時計を確認して苦笑すると、戸部も「おっ、じゃあ俺もそろそろ時差ボケを直さねぇとな!」と陽気に立ち上がった。
二人はグラスに残ったビールを飲み干し、それぞれの明日へ向けて力強く歩き出すのだった。
ロンドンのパブに現れた「嵐」
ロンドンの夜風が肌寒さを増す中、パブのテラス席で飲み干したグラスを片付けようとしていた葉山と戸部の耳に、ふと気だるげで、しかしどこか聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「おい、いつまでしんみり黄昏てんだよ。席、空いてるか?」
「「……は?」」
驚いて同時に振り返った葉山と戸部の視線の先に立っていたのは、トレンチコートをラフに羽織った一人の男だった。
その風貌は、二人が知っているかつての比企谷八幡とは完全にかけ離れていた。
世界を巡る旅の中で徹底的に鍛え上げられた肉体はさらに一回り逞しさを増し、かつての黒髪は鮮やかな銀髪へと変わっている。さらに、耳元にはきらりと光るピアス、そして夜のパブだというのに顔の半分を覆うサングラス。
どう見ても、ロンドンの街角で現地の人間にすら一目置かれそうな、あるいはそのままストリートの抗争にでも加わりそうな、絵に描いたような「ガチのヤンキー(あるいはワイルドなアウトロー)」の姿だった。
「ちょっ、まっ、八幡……!? お前、その頭と格好はいったいどうなってんだよ!」
戸部が椅子の背もたれにひっくり返りそうになりながら叫び、葉山もあまりの変貌ぶりに絶句して目を見開いた。
しかし、当の本人はどこ吹く風といった様子で、サングラスを少しずらし、涼しい顔で席にどっかりと腰を下ろした。
「連絡しただろ?」
「うるせぇな。海外の治安を舐めんなよ。これでも現地で余計な絡まれ方を回避するための、俺なりの防衛策(セーフティ)だ。……にしても、お前ら揃いも揃っていい身分だな。ロンドンのおしゃれなパブでビールなんぞ飲んじゃってさ」
呆然とする二人の反応を他所に、八幡は勝手にメニューをめくりながらぼやく。
そのあまりの変わりように、戸部は目を白黒させながらスマホのスケジュール画面を取り出した。
「いやいやいや! ちょっと待てよ八幡! お前、出発ロビーから俺に『そっちに行く、明日着く』ってメッセージ送ってきただろ! だから俺は明日だと思って……」
「あ?」
八幡は首を傾げ、自分のスマホを取り出して画面を確認した。
「……あー、時差の計算を盛大に間違えたな。こっちの時間だと、今日がその『明日』だったわ」
「おいおい! 時差ボケかよ! 国際的な大改革を成し遂げた元大臣が、スマホの時差計算でやらかすなよ!」
戸部がツッコミを入げながらも、その顔には驚きと、そして隠しきれない喜びの笑顔が広がっている。
葉山もようやくフッと息をつき、信じられないものを見るような、しかし最高に懐かしいものを見るような目で八幡の銀髪とピアスを見つめた。
「本当に……君という人は、どこまでいっても予想の斜め上を行くね。銀髪にピアスなんて、ロンドンの警察に職務質問されなかったかい?」
「あぁ、何度か職質されかけたけど、この凄みのあるオーラで乗り切った」
冗談とも本気ともつかない顔でニヤリと笑う八幡の表情は、霞が関で重圧を背負っていた頃よりも、どこか日焼けしていて、底抜けに自由で生き生きとしていた。
揃ったピース
まさか、ロンドンのパブでこんなサプライズが待っているとは夢にも思っていなかった。
葉山はすぐに店員を呼び、新しいグラスと、八幡が好みそうなエールビールを追加で注文する。
「まあいいさ。君がこうして無茶苦茶な格好で突然現れたおかげで、僕たちのセンチメンタルな夜も台無しだけどね」
葉山がグラスを掲げると、戸部もすぐにそれに続き、満面の笑みで叫んだ。
「決まりだな! よし、八幡の時差ボケ間違いと、このクソダサい……いや、最高にイカしたヤンキー姿に乾杯だ!」
「誰がクソダサいだ」と悪態をつきながらも、八幡は苦笑を浮かべ、二人のグラスに自分のそれを力強くぶつけた。
カンッ と、ロンドンの夜空に乾杯の音が響く。
世界を巡る旅の途中で偶然(あるいは必然的に)交わったかつての仲間たち。
システムを超え、海を越えても変わらない「熱」が、そのパブの小さなテーブルの周りにしっかりと揃っていた。
ロンドンの夜風と、素直な言葉
パブの喧騒と、グラスが触れ合う軽快な音。
琥珀色のビールを一口飲んだ八幡は、目の前で笑い合う二人の顔を順に見つめ、ふっと息を吐いた。
「……我ながら、よくやれたと思うわ」
その呟きは、これまでの長い道のりを振り返るような、どこか感慨深い響きを持っていた。
学校の隅でぼっちを拗らせ、誰とも関わらないことが正解だと信じ込んでいた高校時代。世界なんてどうでもいいとひねくれていた少年が、日本中の教育システムをひっくり返し、巨大な財閥や悪意を相手に立ち回り、そしていま、世界中を自分の足で歩いている。
八幡はグラスをテーブルに置き、葉山と戸部にまっすぐ視線を向けた。
「……まあ、全部俺一人でやったわけじゃねぇよ。お前らが現場を走り回ってくれて、支えてくれたからこその結果だ。……礼を言うわ、二人とも」
普段のひねくれた彼からはめったに聞けない、あまりにも真っ直ぐで素直な感謝の言葉。
あまりにストレートな謝辞に、戸部はビールを喉に詰まらせそうになり、葉山はわずかに目を見開いたあと、まるで眩しいものを見るように柔らかな笑みを浮かべた。
「おいおい、なんだよ急に。そんな改まって……鳥肌立つだろ、八幡!」
戸部が照れくさそうに頭を掻きながら大声で笑う。
「そうだね。君の口からそんな素直な言葉が出るなんて、ロンドンの気候がおかしくなった証拠だ」
葉山もフッと目を細め、グラスを持ち上げて見せた。
遠くへ来たものだ
二人の反応に少しだけ照れくさそうに鼻を掻いた八幡は、ふとロンドンの夜空を見上げ、自嘲気味に口元を緩めた。
「……それにしてもさ」
八幡は再びグラスを手にとり、ぽつりと言った。
「高校生の頃はさ、まさかこんなロンドンの街で、お前らとこうして並んで酒を飲むことになるなんて、夢にも思っていなかったな」
あの頃の自分たちといえば、奉仕部の狭い部室で、くだらない依頼に頭を悩ませ、人間関係のすれ違いに傷つき、どうしようもない青春の痛みに悶えていただけだった。
まさかあのひねくれ者が数奇な運命を経て世界を巡り、かつてのクラスメイトたちと地球の裏側でこうして酒を交わしているなど、当時の自分が知ったら間違いなく全力で頭を抱えていただろう。
「だよな!」
戸部が大きく頷き、テーブルを軽く叩いた。
「あの頃の俺たちに教えてやりてぇよ。『お前ら、将来めっちゃすげぇことになってるぞ!』ってさ」
「本当にね」
葉山もしみじみと同意し、グラスをそっと傾けた。
「あの頃の不器用な日々があったからこそ、僕たちは今ここにいる。――乾杯しようか、これまでの奇跡と、これからの旅路に」
再び響く乾杯の音。
銀髪の元ヤンキー風情(防衛策)に身を包んだかつての「ぼっち」と、世界を駆け抜けるエリート弁護士、そして現場の絆を繋ぐ男。
ロンドンの夜空の下、三人の影が一つに重なり、物語はさらに鮮やかな明日へと続いていくのだった。
尽きない話題と、解き放たれた心
パブの喧騒やロンドンの冷たい夜風などどこ吹く風とばかりに、三人の会話は次から次へと弾んでいった。
「いやほんと、ワールドカップの現地観戦マジでヤバいって! あのスタジアム全体の熱気、一度味わったらマジで抜け出せないぜ!」
熱っぽくサッカーの魅力を語る戸部は、相変わらずの全力投球でその場を明るく盛り上げる。日本と世界を股にかけて奔走する傍らで、大好きなサッカーを通じて世界中を駆け巡っているらしい。
「戸部は相変わらずだな。こっちはこっちで、ロンドンと東京を行ったり来たり、最近は国際仲裁の案件で頭が痛い日も多いけれどね」
そう苦笑いしながらも、葉山は洗練された大人の余裕と、かつての輝かしいカリスマ性をさらに深めていた。世界を舞台にプロフェッショナルとして戦うその姿は、まぎれもなく本物だった。
そして話題は、もちろんあの人物へと移る。
「そういえば小町はどうしてるんだ? あいつ、最近もまた新しい企画とか企んでるんだろ?」
八幡が尋ねると、戸部と葉山が声を揃えて笑った。
「小町ちゃんは相変わらず絶好調だよ! 八幡の作った教育システムや奨学金の運営にも深く関わってて、今や実質的なプロジェクトのキーパーソンだからね」
「だよな! この前なんて『お兄ちゃんが世界放浪してる間に、私が日本を牛耳っちゃうもんねー!』とか笑ってやがったぜ」
小町の近況を聞き、八幡は「まったく、あの妹は……」と言いながらも、その目尻には隠しきれない温かな笑みが浮かんでいた。
家族は健やかで、仲間たちはそれぞれの場所で自分の夢を叶え、世界で戦っている。自分が作り出したシステムや財閥のアライアンスも、雪乃や陽乃の手によって完璧に回っている。
話題は尽きることなく、気づけば何時間もの時が流れていた。
真の解放
グラスを傾け、他愛のない冗談を言い合い、時には真面目な将来の夢を語り合う。
その瞬間、彼らにあったのは「文部科学大臣」でも「国際弁護士」でも「世界的インフルエンサー」でもなく、ただの――あの総武高校の部室や教室で青春を共にした、ただの友人たちの姿だった。
学生の頃の延長線上にいるような、それでいて誰もが自分の足でしっかりと未来を切り拓いているという確かな現在地。
すべてを背負い、一時は誰よりも冷たい孤独の中で世界と戦っていた男は、今、心の底から実感していた。
(あぁ……俺は、もう何も背負わなくていいんだな)
国を動かす重圧も、自分を狙う敵への警戒も、過去のトラウマも。
すべてはあのシステムと、信頼できる仲間たちの手の中に預けられた。自分の肩にあったはずの重い荷物は、いつの間にか綺麗に、そして完全に降りていた。
心はどこまでも軽く、どこまでも自由だった。
銀髪にピアス、怪しげなサングラスという相変わらずの防衛策の下で、八幡は心から満たされた顔をしてビールを飲み干した。
ロンドンの夜空に浮かぶ星はどこまでも遠く、しかしその光は、彼がこれから歩んでいく世界中のどんな道をも優しく照らし出しているようだった。
材木座の傑作、世に出る
ロンドンでかつての友たちと語り合った夜から、しばらくの時が流れた日本。
一人の男が、締め切りに追われながらも狂気的なまでの熱量を注ぎ込んで書き上げた原稿が、ついに一冊の本として世に放たれた。
タイトルは『戦うリーダー、比企谷八幡の軌跡――システムを超えた男の物語』。
著者はもちろん、気鋭のノンフィクション作家・材木座義輝。
その本は、発売されるやいなや日本中の書店のランキングを瞬く間に席巻し、SNSやネットニュースのトレンドを完全に独占した。
「あの教育改革の裏側には、こんなドラマがあったのか!」
「冷徹な政治家なんかじゃなく、ただ誰よりも不器用で優しい男の生き様だ……!」
材木座の圧倒的な筆力と、登場人物たちのリアリティあふれる人間ドラマは、日本全国に再び大きな感動の嵐を巻き起こした。本は驚異的な大ベストセラーとなり、読者たちの熱狂は冷めやらぬまま、さらに次なる展開へと突き進んでいく。
「なんと……我が叙事詩が、まさか銀幕の画面に映し出されるとは……フハハ、まさに世は満足じゃ!」
自宅のパソコンの前で、材木座は嬉し泣きをしながら両手を突き上げて歓喜に浸っていた。
そう、日本中を感動させたあのノンフィクションの映画化が正式に決定したのだ。
「元・大臣」の気楽な隠居生活
映画化のニュースが飛び交い、メディアや映画業界が「主演キャストは誰になるのか」「監督は誰だ」と大騒ぎしている頃、肝心の主人公である比企谷八幡は、相変わらず世界各地のどこかの街で気ままな旅を続けていた。
「へぇ、俺の本が映画化ねぇ……」
どこかの国のカフェテラスで、現地の新聞(またはスマホのニュース)を斜め読みしながら、八幡はコーヒーを一口すする。
相変わらずの銀髪にピアス、怪しげなサングラスという完全防衛スタイルだが、その表情には微塵も焦りはない。
かつては政治の表舞台で「次期総理」などと祭り上げられ、マスコミに追い回されていた男だったが、すでに文部科学大臣はきれいさっぱり辞任している。
今の彼は、一国の政治家でも何でもない、ただの自由な旅人――いわば「一私人」だ。
映画化されようが、世間でどれだけ自分をモデルにした物語が持て囃されようが、現在の政治的立場や公務には一切の利害関係も影響もない。政治倫理やスキャンダルを追及される筋合いもなければ、マスコミの突撃取材に頭を下げる必要すおろちないのだ。
「まぁ、印税の一部くらいは材木座の奴にご馳走してもらわねぇとな。……さて、次はどこの国に行こうか」
面倒なしがらみから完全に解放された身軽さで、八幡はフッと小さく笑い、コーヒーカップをそっとテーブルに戻した。
日本では、雪乃や陽乃がAIとシステムを駆使して新しい教育の未来を切り拓き、戸部は世界を駆け巡り、葉山は国際舞台で戦い、そして材木座は最高のエンターテインメントとして彼らの軌跡を世に送り出している。
それぞれがそれぞれの場所で主役として輝く世界で、八幡はただ風に吹かれるまま、自分の見たかった「広い世界」を自分の足で歩き続けていくのだった。
銀幕のなかの「本人」
材木座のノンフィクションを原作とした映画の制作が本格化し、キャスティングや演出の打ち合わせが進んでいたある日のこと。
プロデューサーや監督頭を抱えていた最大の悩み、それは「比企谷八幡という唯一無二の存在を、いったい誰が演じられるのか」という問題だった。
あの鋭い三白眼、独特の達観した空気感、そして数々の修羅場をくぐり抜けてきた圧倒的なリアリティ――。どんなに優れた名優を起用しても、どこか本物には届かないというジレンマに現場は頭を悩ませていた。
その話を聞きつけたのは、海外のカフェで相変わらずコーヒーをすすっていた本人だった。
「……は? 俺の役を誰にするかで揉めてる? めんどくせぇな」
スマホでそのニュースを見た八幡は、やれやれとため息をついた。
今の彼は文部科学大臣でも何でもない、文字通りの「無職(プー太郎)」である。時間だけは死ぬほど余っていた。
「……まあ、いいか。ちょうど次の移動の飛行機代が欲しかったところだしな」
冗談半分、暇つぶし半分。
八幡はふらっと帰国し、映画の撮影現場にひょっこり姿を現すと、監督に向かって平然と言い放った。
「あのさ、代役探すの面倒だろ。本人ならここにいるけど、どうする?」
出演料と、プライド
数日後、映画の完成披露試写会やネットニュースの速報は、日本中をひっくり返すような大パニックに陥った。
『映画版『比企谷八幡の軌跡』、まさかの本人(本物)が本人役で出演決定!?』
『元文科相が俳優デビュー? 銀髪・ピアス・サングラスの完全本人がスクリーンに降臨』
スクリーンに映し出されたのは、演技の素人とは思えないほど自然体で、しかし本物の修羅場を潜ってきた者にしか出せない凄みと色気を漂わせた「比企谷八幡本人」の姿だった。映画のクライマックス、暴漢を秒で制圧するシーンや、冷徹に状況を見据えるシーンは、すべてリアルな本人のアクションそのものだったため、観客は息を呑むしかなかった。
「いやまさか、本当に本人が出演するなんて思わないじゃんかよ……!」
試写会を観た戸部は劇場で頭を抱え、材木座は「フハハハーッ! これぞ究極のノンフィクション映画にして最大のメタフィクションなり!」と映画館の席で狂喜乱舞していた。
一方、銀幕デビューを果たした本人はというと、公開初日の喧騒から遠く離れた空港の待合室で、のんびりとスマホをいじっていた。
ポケットに入っているのは、映画の撮影と特別出演によって得た、なかなかの額の出演料のギャラだ。
親の威光でも、比企谷家の莫大な財閥の力でもない。
自分の身体を張り、自分の足で動き、自分が叩き出した「プー太郎としての暇な時間」を切り売りして手に入れた、正真正銘の自分の稼ぎ。
「よし、これで当分は宿代と航空券に困らねぇな」
チケットと財布の重みを確認し、八幡は満足げに鼻を鳴らした。
世間がどれだけ自分の映画で騒ぎ立てようとも、そんなことはどこ吹く風。相変わらずの銀髪とサングラスに身を包んだ「最強のプー太郎」は、身軽なボストンバッグを片手に、新たな世界の空へと旅立っていくのだった。
スクリーンの中の「問題児」
日本国内の映画館は、どこも連日大盛況だった。
『戦うリーダー、比企谷八幡の軌跡』――その話題沸騰のスクリーンに映し出されているのは、ほかならぬ「比企谷八幡本人」その人だった。
公開初日、人目を避けるように最後列のシートに腰掛け、サングラスとマスクで顔を半分隠していた一人の女性がいた。
元・総武高校の教師、平塚静である。
彼女は、銀幕の中で相変わらずの三白眼を光らせ、しかしどこか圧倒的な色気と逞しさを纏って暴漢をいなし、政治の舞台を颯爽と駆け抜けていく教え子の姿をじっと見つめていた。
(……まったく、あいつは……)
上映が進むにつれて、静の表情は呆れから深い感嘆へと変わっていった。
ぼっちを拗らせ、ひねくれた持論を展開していたかつての少年が、いつの間にか日本をひっくり返し、世界を股にかける怪物になり、そして最後にはすべての権力を放り出して自由な旅人へ――。
(教え子の卒業生なんて数え切れないほど見てきたが……こんな過去例、前代未聞にもほどがあるだろうが!)
それはまるで、映画のような、いや、映画の脚本をも遥かに凌駕する痛快なサクセスストーリーだった。
かつてアメリカの大統領となった元俳優の「レーガン」の逸話が頭をよぎる。しかし、八幡の場合はその完全な逆バージョン――「政治の頂点を極めた元・政治家が、気ままな映画俳優(兼プー太郎)としてスクリーンに返り咲く」という、誰も思いつかないような破天荒な大逆転劇だった。
静かなる回想と、誇らしい笑み
エンドロールが流れはじめ、映画館の照明が明るくなる。
周囲の観客たちが興奮冷めやらぬ様子でざわめく中、静は深くシートに身体を預け、小さく息をついた。
呆れ果てて、言葉が出ない。
だが、その胸の奥からこみ上げてくるのは、どうしようもないほどの熱い感動と、誇らしさだった。
あの不器用で、誰よりも傷つきながら自分だけの正義を守ろうとしていた教え子は、自分の力で世界を切り拓き、最高のかたちで自分の道を歩んでいる。
静はふっと口元を緩め、誰もいない劇場の暗がりの中で、どこか懐かしい昔の思い出を頭に思い浮かべた。
「……まったく、あのとき調子に乗ってキスでもしといて、本当に良かったじゃないか」
かつて夜の埠頭で、人生の迷子になっていた教え子にくれてやった不意打ちのキス。
あんな生意気なガキが、まさか数年後に日本中、いや世界中を揺るがす「最高の一等星」に化けるなんて、当時は夢にも思っていなかった。
「大したもんだよ、八幡……」
静はコートの襟を正し、満足げに、そしてどこか誇らしげな笑みを浮かべながら、ゆっくりと映画館の席を立った。
世界を気ままに旅する元・教え子の背中に心の中で乾杯しつつ、彼女もまた、自分の場所へと力強く歩き出すのだった。
スクリーンが映し出した「現在地」
映画館の暗闇の中で、エンドロールを見つめる観客たちの顔は一様に照らされていた。
そこには、かつて八幡と同じ教室で同じ空気を吸っていた同級生たちの姿もあった。
「……あいつ、本当にいっちまったんだな」
当時、八幡の生き方を遠巻きに見つめていただけの者や、関係の薄かったクラスメイトたちも、スクリーンに映る紛れもない「現実の軌跡」を目の当たりにしていた。
画面の向こうで傷だらけになりながらも、決して目を背けず、自分の頭で考え、泥臭く動き続けた八幡の姿。
(あの場面に、あの教室に、俺たちは確かにいたはずだ。同じ時間を過ごしていたはずなのに……なのに、自分はどうだ?)
安定した日常に甘え、何者にもならぬまま日々をやり過ごしているだけの自分と、世界を相手に選び取り、自分の足で歩き続ける八幡。
「運が良かっただけだ」と言い訳しようとしても、映画の中で描かれる数々の選択と痛みを伴う覚悟が、それが単なる幸運などではないことを雄弁に物語っていた。
八幡は本気で生きてきた。そして、今この瞬間も、世界のどこかで本気で生きている。
――ならば、自分は?
――今からでも、遅くはないのか?
伝播する「熱」
劇場の明かりがパッと灯ると、誰一人としてすぐに席を立とうとはしなかった。
観客たちの胸の奥底には、言い知れぬ熱いものがどっとこみ上げていた。
それは、スクリーンの中の主人公に対する単なる憧れやミーハーな感動ではない。
「自分も、自分の人生を諦めたくない」「言い訳ばかりの毎日を、今日で終わりにしたい」という、魂の底から湧き上がるような衝動だった。
かつて奉仕部が救った者たち、すれ違っただけのモブキャラたち、そして劇場を埋め尽くした名もなき観客たち。
誰もがそれぞれの胸の中で、冷めかけた自分の情熱に火を灯されていた。
システムやAIがどれだけ世の中を最適化しても、人はシステムだけでは動かない。
八幡が旅の途中で遺していったもの、そしてこの映画という奇跡が引き起こしたものは、まさにその「人の心を震わせる熱」そのものだった。
観客たちは静かに、しかし力強い足取りで劇場の外へと歩き出す。
スクリーンから零れ落ちたその熱は、日本中へ、そしてそれぞれの明日へと確実に伝播していくのだった。
戸部翔のインタビュー、世界に響く言葉
ロンドン、あるいはワールドカップの熱狂に包まれるスタジアムの記者席。
あるいは、日本国内のスポーツ専門誌や、世界へと配信されるサッカーのドキュメンタリー番組――。
いまや日本代表、あるいは海外リーグのピッチを駆け抜けるプロサッカー選手となった戸部翔は、カメラやマイクを向けられ、いつものように快活に、しかしどこか真剣な眼差しで話し始めていた。
「――俺がいつ、本気でプロを目指したかって?」
インタビューアーの質問を受け、戸部は自分の右膝のあたりに視線を落とし、ふっと懐かしそうに笑った。
その顔には、かつてチャラチャラと軽口を叩いていた高校生の頃の面影を残しつつも、過酷なプロの世界を生き抜いてきたアスリート特有の強さと深い覚悟が宿っていた。
「……たぶん、あの県大会の準優勝の時だな。次の大会で、また決勝まで勝ち上がったあの日のことだ」
戸部の脳裏に、かつての総武高校での光景が鮮やかに蘇る。
あの時、ピッチの上で悪質なタックルを受け、自分の選手生命が文字通り終わろうとしていた瞬間。
「みんなも知ってると思うけどさ……あの時、俺の脚は折られそうになったんだ。恐怖しかなかったし、目の前が真っ暗になった。でも、あいつが止めてくれたんだよ。八幡がな」
静まり返るインタビュールーム、あるいは画面の向こうの視聴者に向けて、戸部は淡々と、しかし熱を込めて語る。
「あいつがどれだけの覚悟で割って入ったか、当時の学校の状況を知ってる奴なら分かるはずだ。下手すりゃ退学のリスクだってあった。まあ、あの時の八幡はそんな損得勘定なんてハナから考えてなかったろうけどさ。……あいつは、俺の夢を守ってくれたんだよ」
夢の価値と、受け取った「熱」
「自分のためにそこまでしてくれる奴がいた。自分のくだらねぇ夢を、真っ向から守ってくれた」
戸部は自分の両手をギュッと握りしめ、前をまっすぐ見据えた。
「その時思ったんだ。この脚を、そして俺が見せてもらった夢を、中途半端なもので終わらせちゃいけないって。もの凄く強い義務感や責任感もあった。だけど、それ以上に胸の奥から……マグマみたいな熱が生まれたんだよ」
『あいつが、俺の夢を応援してくれてる』
その事実が、当時の戸部をどれほど奮い立たせたことか。
「そこからだよね。それまでなんとなくボールを蹴ってた俺が、本気になったのは。今まで以上にサッカーにのめり込んで、死ぬ気で練習した。プロになってからだって、怪我や壁にぶつかって何度も折れそうになったさ」
苦しかった日々の記憶。だが、戸部の表情に暗さはない。
「そんな時でも、不思議と立ち上がれたんだよ。遠くでそれぞれの道を本気で走ってる八幡や、世界を相手に戦う葉山、そして自分なりの物語を書き続ける材木座……あいつらの顔を思い出せば、『俺も負けてらんねぇな』って自然と力が湧いてきた。……うん、俺の原動力はいつだって、あの頃の仲間たちだったんだと思う。そんな感じかな!」
カメラに向かってニカッと笑い、歯切れよくインタビューを締めくくる戸部。
その言葉の端々には、かつて比企谷八幡という一人のひねくれた少年が周囲に撒き散らし、そして世界中へと伝播していった「熱」が、今も形を変えて、確かにこの男の足元で燃え盛っていることが証明されていた。
画面の向こうの「照れ隠し」
地球の裏側か、あるいはどこかの見知らぬ街のカフェか。
木漏れ日の差し込むテラス席で、相変わらずの銀髪とサングラス姿の比企谷八幡は、冷めかけたコーヒーを片手にスマホの画面をスクロールしていた。
画面に映し出されていたのは、スポーツ専門メディアやSNSのトレンドを完全にジャックしていた、戸部翔のインタビュー記事だった。
『プロサッカー選手・戸部翔が語る、原点の記憶――あの日のタックルと、親友の背中』。
見出しをタップし、そこに並ぶ文字を目で追っていくうちに、八幡は思わず片手でこめかみを押さえた。
「……いや、マジで何語ってんだよあいつは……」
記事の中では、かつての県大会の修羅場や、自分の取った行動が、戸部のフィルターを通してドラマチックかつ熱量たっぷりに語られていた。世界中に配信されているそのインタビューには、ファンからの感動のコメントや称賛の嵐がリアルタイムで何千件も寄せられ、ネット上ですさまじい勢いでバズりまくっていた。
「大袈裟だな、まったく……」
八幡は小さく呟き、スマホの画面をそっと消した。
照れくささのあまり、視線を別の方向へと逃がす。
けれど、その胸の奥底では、どこか温かく、そして妙に腑に落ちるような心地よさが広がっていた。
(あいつは、そういう奴だからな)
戸部がどれだけ真剣にサッカーに向き合い、どれほどの泥水をすする思いでプロの世界を駆け上がってきたか。八幡には痛いほどよく分かっていた。
あのとき自分が手を差し伸べたのは、何も見返りを求めてのことではないし、かっこいいヒーローになりたかったわけでもない。ただ、目の前で折られそうになっていた仲間(トモダチ)の夢を、そのまま見捨てておくのが嫌だっただけだ。
そして――もし立場が逆だったなら。
もし自分が折れそうになり、理不尽な何かに押しつぶされそうになっていたとしたら。
戸部は、間違いなく同じことをしたはずだ。損得勘定抜きで、バカみたいに真っ直ぐに、自分の前に立ち塞がってくれたに違いない。
八幡はそれを、誰よりもよく知っていた。
「……お互い、ガラにもねぇこと言ってんじゃねぇよ」
誰もいない空間に向けて小さく毒づきながらも、八幡の口元には、隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいた。
世界中がどれだけ自分の過去や仲間たちの絆を美談として持て囃そうとも、当事者たちにとっては、ただあの頃から変わらない「当たり前の友情」の延長線上にすぎない。
スマホをポケットに放り込み、八幡はもう一度コーヒーカップを手に取った。
どこまでも広がる青空の下、風に揺れる銀髪の元ヤンキー風情は、心地よい気だるさと確かな絆を胸に、また次の目的地へと歩き出すのだった。
国境を越えた「スクリーン」の残響
どこかの国の、赤茶色の屋根がどこまでも続く古い街並み。
石畳の小道に面した小さなオープンエアの食堂で、八幡は目の前に置かれたローカルな肉料理をフォークで口に運び、満足げに目を細めていた。
「ん……うまいな、これ」
異国情緒あふれるスパイスの香りと、噛むほどに広がる肉の旨味。豪華な高級料理ではないけれど、世界を気ままに渡り歩く今の身には、こういう路地裏の食堂のメシが最高に染みる。
相変わらずの銀髪にサングラス、そしてラフなトレンチコートという怪しげな出で立ちで一人静かに食事を楽しんでいた、その時だった。
「――Hey, Are you Hachiman Hikigaya?(おい、もしかして比企谷八幡か?)」
唐突に英語で声をかけられ、八幡はフォークを止めてゆっくりと顔を上げた。
テーブルの脇に立っていたのは、屈強な体格をした、その国の現地人らしき男だった。日に焼けた顔には人懐っこい笑みが浮かんでいるが、その瞳にはどこか興奮の色が宿っている。
八幡は怪訝そうに眉をひそめ、サングラスを少しずらした。
「……人違いじゃねぇの。俺はただの旅行者だけど」
「いや、間違いないさ!」
男は笑いながら、スマホの画面を八幡の目の前に突きつけた。そこには、映画『戦うリーダー、比企谷八幡の軌跡』のワンシーン――まさに日本で大ヒットし、世界中のネット配信でも話題になっていた、あの銀幕のなかの顔が堂々と映し出されていた。
「友達と映画館で観たんだよ! あの暴漢を秒で制圧したシーン、最高だったぜ。まさか本物のあんたがこんなところで飯食ってるとはな!」
男の言葉に、八幡は思わず頭を抱えたくなった。
(……マジかよ。日本国内のヒットだけじゃなくて、配信を通じてこんな地球の裏側の街の住人まで俺の顔を知ってやがるのか……)
自分の過去の泥臭い修羅場や、暇つぶしに出演した映画のせいで、もはや世界中どこへ行っても「ただの一般人」ではいられなくなりつつあるらしい。防衛策のサングラスと銀髪も、この街においては逆に目印になってしまったようだ。
「……見間違いだ、って言いてぇところだけどな」
八幡は苦笑いを浮かべると、フォークを置き、仕方なさそうに両手を軽く上げた。
「サインや写真はお断りだぜ。こっちはただ、静かにメシを食いたいだけのプー太郎なんだからさ」
「ハハハ! 気さくなヒーローだな!」
男は大笑いしながら、グラスに入った現地のビールを八幡のテーブルにポンと置き、「ごちそうさま!」と言い残して軽やかに去っていった。
残された八幡は、目の前に置かれた見知らぬビールを見つめ、やれやれと盛大な溜息をつく。
けれど、その悪くない気分まで隠すことはできなかった。
「……まったく、どこに行っても逃げ場はねぇってか」
苦笑しながらもグラスを傾け、八幡は異国の風に吹かれながら、また一つ予想外の出会いを楽しむのだった。
世界の片隅で語る、いつも通りの答え
気さくな男が置いていった冷えたビールを一口飲み、八幡はふっと息をついた。
まだその場に立って、興味津々な視線を向けている男に向けて、八幡はやれやれといった調子で肩をすくめる。
「……何故あんな大それたことができたのか、か」
映画の中で描かれた数々の狂騒劇や、一国の政治を揺るがした教育改革。世界中の人間から見れば、あれは「選ばれしスーパーマン」にしか成し遂げられない偉業に見えるらしい。
だが、当の本人はいたって冷めていた。
「別に、大それたことなんかじゃねぇよ。お前も目の前に本当に困ってる奴がいたら、自分の出来る範囲で手を貸すだろ? それと同じだ」
八幡はフォークで肉を口に運びながら、ごく自然に言葉を続けた。
「特に、それが自分の大事な仲間(トモダチ)だったり、近くにいる奴だったら尚更だ。見捨てる方がよっぽど後味が悪いし、めんどくさい。だから動いただけの話さ」
「政治家になったのも……まあ、巡り合わせというか、一種の運みたいなもんだったのかもな」
自嘲気味に鼻を鳴らす。
霞が関の重圧も、権力の座も、最初から望んで手に入れたわけではない。ただ、その時々に目の前にある縁や、拾わなければこぼれ落ちていく小さな願いを、一つずつ大事に拾い上げてきた結果が、あの場所に繋がっていただけだ。
「偶然巡ってきた縁を、投げ出さずにテキトーに大事にしてたら、結果的に運も向いてきたって感じか。……まあ、それも結局、俺一人でやったわけじゃないしな」
戸部が現場を走り回り、葉山が理詰めで支え、雪乃や陽乃が組織を回し、材木座が記録に残してくれた。みんながそれぞれの場所で助けてくれたからこそ、形になったにすぎない。
八幡はビールグラスを軽く掲げ、その男に向かってニカッと笑ってみせた。
「だから、過大評価すんなって。俺はスーパーマンでも何でもねぇよ。ただの、そこらへんにいる暇なプー太郎さ」
その飾り気のない、どこまでも等身大の答えに、男はしばらくきょとんとした後、心底面白そうに声を上げて笑った。
「スーパーマンじゃない、か……! ハッ、最高だぜ、ハチマン!」
男が満足げに手を振って去っていく。
賑やかな食堂の喧騒の中、八幡は冷えたビールを飲み干し、ふふっと小さく鼻で笑った。
世界がどう騒ごうと、自分のやるべきことは変わらない。ただ自分の足で歩き、美味いメシを食い、気の向くままに旅を続ける――それが、比企谷八幡という男の、変わらない生き様だった。
スマホの向こうの「素顔」
「なあ、ハチマン。一つ頼みがあるんだが……」
食堂を去りかけた男は、ふと思い出したように振り返り、自分のスマホを軽く掲げてニヤリと笑った。
「いまの話、めちゃくちゃクールだったぜ。記念に、SNSにちょいとアップしていいか? 『世界の裏側で伝説の元大臣とメシを食った』って自慢したいんだよ」
八幡は苦笑いを浮かべ、食べ終えた皿のフォークを置きながら軽く手を振った。
「……好きにしろよ。どうせ俺の顔なんて映画で出回っちまってるし、今さら隠したところで変わんねぇよ。断る理由も特にねぇしな」
「やったぜ! サンキュー、ハチマン!」
男は満足そうにスマホのシャッターを切り、数秒でその投稿を世界に向けて発信した。
異国の路地裏の食堂で、銀髪とサングラス姿の男がローカルフードを頬張りながら「俺はスーパーマンじゃない、ただのプー太郎だ」と語る動画と、現地の人間に気さくに対応するその自然体の姿は、瞬く間にネットの海へと放り出された。
地球の裏側から、再び日本へ
その投稿は、国境や言語の壁を軽々と飛び越えて拡散していった。
そして、その波は数時間も経たないうちに、遠く離れた日本国内のSNSトレンドをも一気に飲み込んでいく。
『おい、今の外国人のSNS見たか!?』
『異国の食堂でくつろぐ比企谷八幡が完全に一般人で草』
『「スーパーマンじゃねぇ、ただのプー太郎だ」ってカッコよすぎだろ……!』
日本中のネットユーザーや、かつてのクラスメイト、そして関係者たちのスマホにその動画が次々と流れ込んできた。
映画のなかの凛々しい姿とも、政治家だった頃の重々しい姿とも違う。どこかの街の片隅で、ただ気ままに美味しいメシを食い、飾らない言葉で自分の生き様を語る「等身大の比企谷八unn」の姿。
その映像は、映画のヒットで加熱していた世間の熱狂を、さらに別のかたちで心地よく煽り立てることになった。
「ははっ、本当にあの男は……どこに行っても油断ならねぇな」
日本のどこかのオフィスでその動画を見た葉山は、思わずといった様子で呆れ笑いを浮かべた。
別の場所でスマホを確認した戸部は「マジかよ、また海外でバズってんじゃん!」と大声を上げ、雪乃はため息をつきながらも、その瞳にはどこか楽しげな光を宿していた。
当の本人はというと、そんな日本国内や世界中での大騒ぎなど露知らず。
スマホの通知音が鳴り止まないポケットをそのままに、異国の心地よい風に吹かれながら、次の街へ向けて軽やかに歩き出しているのだった。
材木座義輝の、熱い独白
『戦うリーダー、比企谷八幡の軌跡』の歴史的大ヒットを受け、数々のメディアや経済誌、文学の特設コーナーから、著者である材木座義輝のもとには連日取材のオファーが殺到していた。
テレビカメラが回る明るいスタジオ、あるいは落ち着いた書斎でのインタビュー。
インタビュアーから向けられた「なぜ、あなたは比企谷八幡という一人の男の本ばかりを、これほどまでに熱を込めて書き続けるのですか?」という定番の質問に、材木座はふっと鼻を鳴らし、しかしいつも以上に真剣な眼差しで答えた。
「……フッ、別に俺が八幡のことばかり書いてるわけじゃないさ。ただ、ね――」
材木座はメガネのブリッジを押し上げ、まっすぐカメラを見据えた。
「俺は、ヒーローが好きなんだよ」
その一言に、インタビュアーがわずかに目を見張る。
「超能力が使えわけでもない、空を飛べるわけでもない。世界を救う大いなる使命なんて最初からない。だけど、目の前で仲間がピンチの時には、損得勘定抜きで体を張って駆けつける。時には自分の身を削るような自己犠牲も厭わない……そんな、あまりにも身近すぎるヒーローが、この世にはいるんだ」
材木座の声には、かつて中二病を拗らせていた頃の気負いは一切なく、ただ純粋な敬愛と切実な想いがこもっていた。
「考えてもみてくれよ。そんな等身大の人間が、泥臭くあがいて世界を変えていく姿がある。……それだけで、なんだか救われた気にならないか?」
彼はふっと柔らかく笑い、自分の胸に手を当てた。
「少なくとも、俺は救われた。あの男の背中を見て、何度も救われてきた。おそらく、ロンドンを飛び回る葉山も、ピッチで戦う戸部もそうだろう。あの教室や、あの場所で彼とすれ違った他のみんなもきっと同じはずだ」
熱を帯びていく材木座の言葉に、スタジオの空気が静かに引き締まっていく。
「こんな胸を打つ物語や、身内だけが知っている感動を、俺たちだけで独り占めするなんて……そんなの、表現者として最大の罪だと思わないか?」
窓の外を眺め、材木座は懐かしむように小さく呟いた。
「出会ったあの瞬間から、あいつは俺の友であると同時に、いつだって俺たちの『ヒーロー』だったんだよ。……だから書くんだ。ヒーローが好きだから、ね」
再び、ネットの海を揺らす熱
そのインタビューの映像や書き起こし記事がネットに放たれるやいなや、日本中のSNSやメディアは再び凄まじい爆発力を伴って沸騰した。
『材木座のインタビュー、ガチで泣けるんだが……』
『「身内だけで独り占めするのは罪だ」ってフレーズ、作家としてカッコよすぎやろ』
『比企谷八幡は、物語の中だけの存在じゃなくて、確かに俺たちの青春の中にいたリアルなヒーローだったんだ……』
理屈や損得ではなく、純粋な「好き」と「リスペクト」から紡ぎ出された材木座の言葉は、映画や本に触れた人々の心にあった感動をさらに増幅させ、日本全国の隅々まで熱い共感の波を広げていった。
すべての始まりは、総武高校のあの狭い部室。
ひねくれたぼっちの少年と、中二病の巨漢、そして不器用な仲間たちが織りなした小さな物語は、時代と国境を越え、いまや世界中の人々の胸を打つ「普遍の叙事詩」として、静かに、しかし確実に燃え盛続いているのだった。
異国の夜、政界の「プリンス」との邂逅
世界を気ままに旅する八幡が、ある国の一流ホテルでбар(バー)のカウンターに腰掛け、琥珀色のグラスを傾けていた時のことだった。
隣の席に座り、同じように酒を飲んでいた男が、ふと八幡の方をチラリと見て、どこか皮肉な、しかし隠しきれない興味の色を浮かべた笑みを向けた。
「おい、まさかこんな寂れたバーで……いや、今のあんたにとっては世界のどこであっても驚きはないか。比企谷八幡だな?」
声をかけてきたのは、洗練されたスーツを纏い、一目で育ちの良さと只者ではないオーラを漂わせる若い男だった。整った顔立ちには疲労の色がわずかに滲んでいるが、その瞳の奥にはギラギラとした強い光が宿っている。
八幡がサングラスを少しずらして顔を向けると、男はグラスを掲げて自己紹介をした。
「……驚くなよ。俺は日本の政治家さ。祖父の代から続くいわゆる『政治家一族』でね、メディアからはよく『政界のプリンス』なんて持ち上げられている。まあ、知ってるか?」
その名前を聞いて、八幡はかすかに眉をひそめたあと、どこか納得したように小さくうなずいた。
「ああ、ニュースで見たことあるな。あんたの祖父も父親も大物だ。……で、たしか俺と同い年か、そのあたりだったはずだ」
「そうだ。年齢も近いし、一度だけ、国内のレセプションの席であんたとすれ違ったことがある」
男は苦笑いを浮かべ、手元のウィスキーをあおった。
「政治家のプリンス」が抱く嫉妬と困惑
「……なあ、比企谷」
グラスをカウンターに置き、男はまっすぐ八幡を見据えた。その声には、単なるファンとしての興味を超えた、重苦しいまでの感情が混じっていた。
「ずっと訊きたかったんだ。……なんで、お前はあの文部科学大臣の椅子を、あんなにあっさり投げ捨てられたんだ?」
「投げ捨てたわけじゃねぇよ。任せたんだ」と返す八幡をよそに、男の声音には熱が帯びていく。
「俺からすれば、信じられない。頭がおかしいとすら思ったね。俺たちはな、物心ついたときからその椅子に座るために、血を吐くような努力をして、家督を背負い、権力を維持するために泥を啜ってきたんだ。なのに、お前は自らその頂点を降りて、世界を放浪するプー太郎をやっている」
男の拳が、カウンターの上でわずかに震えていた。
「嫉妬したことだってあるさ。『政界のプリンス』と呼ばれ、将来の総理確実と持て囃されているこの俺が、お前のような一介の――血筋ですらない、どこからともなく現れた野良犬のような男に、強烈な敗北感を抱かされた。……なんでだ? なんでお前は、そんな簡単にすべてを手放せるんだ?」
八幡の答え、そして「スケール」の違い
男の剥き出しの執念と戸惑いを受けても、八幡は驚く様子もなく、ただ静かにグラスの氷を転がした。
「……別に、大層な理由なんてないさ」
八幡は淡々と、しかし嘘偽りのない声音で答えた。
「俺は、文部科学大臣になりたかったわけじゃない。ただ、目の前にある理不尽や、理不尽に潰されそうになる子どもたちを何とかしたかっただけだ。あの時、大臣っていう立場がその問題を解決するのに一番都合が良かったから、そこに座った」
「それだけか……?」
「ああ。今の俺にやれることはやりきった。俺が作ったシステムや、現場の泥臭い課題は、今や信頼できる仲間たちと優秀なAIが完璧に回してくれている。俺がいつまでも同じ椅子にしがみついてる必要なんて、どこにもないんだよ」
男は息を呑んだ。
権力、地位、名誉、そして一族の悲願。政治家にとってのすべてを、八幡は「目的のためのただの道具」として使い捨て、必要がなくなれば未練のかけらもなく手放したというのだ。
「じゃあ……今のあんたは何なんだ? 一体、どこへ向かっているんだよ?」
八幡はふっと窓の外の夜空を見上げ、どこか遠くを見るような、しかし生き生きとした目を細めた。
「俺はさ、今のままの自分に満足してねぇんだよ。もっといろんなを見て、もっといろんな人間と出会って……今以上の俺になりたいと思ってる。そのために、こうして世界中をまわってるとこだ」
伝播する熱
男は言葉を失った。
自分が命を削って守ろうとしている「権力の座」は、八幡にとってはとっくに通過点にすぎず、彼はすでに「自分自身のアップデート」という、さらに遥か高い次元を見据えて生きている。
(こいつは……政治の枠組みや、家柄の呪縛なんかとうの昔に超越している……!)
自分たちの小ささと、目の前にいる男の圧倒的なスケールの違い。
嫉妬などという感情が恥ずかしくなるほどの圧倒的なスケールの大きさに、男はただ呆然と見つめるしか jurídical なかった。
だが、不思議と絶望はなかった。
むしろ、その胸の奥底から、かつて政治家を目指した頃の純粋な情熱が、冷めかけていたマグマのようにふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。
「……はは」
男は乾いた笑いを漏らしたあと、どこか憑き物が落ちたように、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「敵わないな、本当に。あんたに会えてよかったよ……比企谷」
男は自分のグラスを持ち上げ、八幡のそれにしっかりとぶつけた。
異国のバーの片隅で、日本の政界を背負う若きプリンスもまた、その「怪物」が放つ強烈な熱に感化され、自分の足で新しい明日を歩み出すための覚悟を静かに固めていたのだった。
酒グラスの向こうの問いかけ
「マズローの欲求階層説ってあっただろ」
氷がカランと音を立てるグラスを傾けながら、八幡は静かに言葉を続けた。
「人間の欲求は段階があって、最終的には一番上の『自己実現』に行き着くらしい。……まあ、堅苦しい心理学の理屈はよく分かんねぇけどさ」
八幡はふっと自嘲気味に笑った。
「俺はただ、自分の欲望に、自分の内側にある『熱』に従って動いてるだけなんだと思う。名誉欲とか、世間に認められたいっていう承認欲求は、もともとそんなに薄い質でね。ただ、目の前の大切なものを守りたい。仲間を、理不尽に潰されそうになる奴らを助けたい。それだけだった」
グラスをカウンターに置き、八幡はまっすぐ隣の男を見据えた。
「最初はほんの半径数メートルの範囲だったのが、気がつけば少しずつ広がっていっただけだ。……で、訊きたかったんだが」
「……俺に?」
「ああ。あんたは何がしたいんだ? 家柄も、財力も、政界での揺るぎない権力もあるだろう。その大きな力を使って、本当は一体何がしたいんだ?」
八幡の双眸が、政治家の「プリンス」を射抜くように捉える。
「ただポジションを維持するためだけに力が欲しいだとか、周りにマウンティングするために権力にしがみついてるだけだとしたら――そんなの、あまりにも虚しくねぇか?」
高柳の沈黙と、初心への回帰
その問いは、鋭利な刃物のように「政界のプリンス」こと高柳の胸の奥深くへと突き刺さった。
「……っ」
高柳は息を呑み、絶句した。
口を開こうとしても、喉の奥から言葉が出てこない。
名門の血筋に生まれ、幼い頃から「勝者であれ」「頂点に立ち続けろ」と刷り込まれ、祖父や父の背中を追いかけ、権力を守るすべばかりを磨いてきた。自分がなぜ政治家になりたかったのか。その一番最初の純粋な動機は、いつの間にか日々の政争や保身の泥の中に埋もれ、見えなくなっていた。
力が欲しい。人より優位に立ちたい。負けたくない。
そんな矮小な動機だけで、自分はあの巨大な権力の椅子にしがみついていたのではないか。
八幡の問いかけは、高柳がずっと目を背け続けていた「自分の空虚さ」を容赦なく暴き出していた。
(俺は……何のために、この政治の世界を走ってきた……?)
グラスを握る手が、微かに震える。
頭の中で、政界のしがらみや、祖父の期待、世間の目がすべて剥ぎ取られていく。そのあとに残ったのは、泥臭くも自分の足で未来を切り拓こうとする一人の人間の姿だった。
長い、長い沈黙のあと。
高柳は力を失ったように苦笑し、それからどこか晴れやかな、深い息を吐き出した。
「……参ったな」
彼は視線を上げ、八幡に向かってまっすぐ向き直った。その瞳に宿っていた猜疑心やトゲは、もうすっかり消え失せていた。
「図星すぎて、返す言葉もねぇよ。……いつの間にか、勝つことや、その椅子を守るそのものが目的になっていたらしい。……情けない話だろ、『プリンス』なんて呼ばれてる男の正体は、ただの臆病者だったってわけだ」
高柳は自分のウィスキーグラスを傾け、中身を喉に一気に流し込んだ。
冷たい液体が胸のつかえを洗い流していくような感覚がした。
「……思い出したよ。俺がなんで政治家を目指したのか。あのクソみたいな現実を変えて、誰もが理不尽に泣かされない社会を作りたいって、子供の頃に本気で誓ったはずだったんだ」
初心に帰る。
その言葉の通り、高柳の胸の奥で、長い間凍りついていたはずの熱が、音を立てて再び燃え上がり始めていた。
「比企谷……あんたに会えて、本当に良かった。嫉妬して損したよ」
高柳はグラスをカウンターに置くと、迷いのない、すっきりとした笑みを浮かべて八幡に右手を差し出した。
「俺は俺のやり方で、もう一度自分の足で歩いてみるよ。権力を守るためじゃなく、本当にやりたいことのために、その力を使ってみせる」
八幡はその差し出された手を見つめ、ふっと小さく笑うと、力強くその手を握り返した。
「ああ、せいぜい頑張りなよ。……まあ、お互いにな」
異国の夜のバーで交わされた、二人の若い男の邂逅。
世界を巡る八幡の「熱」は、また一つ、遠く離れた場所で新たな戦士の魂に火を灯し、静かに夜の底へと溶けていくのだった。
別れと、一枚の名刺
「それじゃ、そろそろ行くわ」
バーの会計を済ませ、立ち上がろうとした八幡は、ふとポケットから一枚の名刺を取り出した。それをカウンターの上に置き、高柳の方へと滑らせる。
「……これ、俺の名刺だ。それと、そっちは雪ノ下の親父のやつな」
高柳が怪訝そうに目を落とすと、そこには二枚の名刺が並んでいた。一枚は、すでに何処の肩書も消え去り、ただ連絡先だけが記された比企谷八幡の私的なもの。そしてもう一枚は、日本の経済界の裏表を牛耳る雪ノ下家の当主――雪ノ下父の、極秘裏に信頼できる人間にしか渡されない直通の連絡先だった。
「……何の意味だ、これ?」
「別に、深い意味はねぇよ」
八幡はトレンチコートの襟を直し、サングラスの奥の三白眼を軽く細めてニヤリと笑った。
「お前がこれから本当に自分の力で、そのクソみたいな政界の理不尽と戦おうって言うなら……遅かれ早かれ、壁にぶぶつかる。そういう時に、その名刺の連絡先に連絡してみろよ」
高柳が息を呑む。
「俺のチームや、雪乃や陽乃……あいつらが動いてるシステムやネットワークに、自然と行き着くはずだ。お前の掲げる理想と、俺たちのシステムが噛み合えば、面白いことができるかもしれないからな」
その言葉に、高柳は胸の奥が熱くなるのを覚えた。
ただの気まぐれではない。八幡は、目の前で初心を取り戻したかつての「ライバル」を、静かに、しかし確かな未来へと繋いでみせたのだ。
「……あぁ。ありがたく受け取っておくよ。いつか、あんたの足元に追いついてみせる」
二人は力強く握手を交わし、バーの出口でそれぞれの道を歩むように別れた。
海の向こうの風を纏って
数日後。
日本の政治の中心地――永田町の喧騒の中、一人の男がカメラのフラッシュを浴びていた。
「高柳議員! 先日の海外視察から戻られて以降、何やら政策の方向性が急激に変わったと噂されていますが、一体何があったのですか!?」
「一部では、派閥の重鎮たちと対立しているという話も……!」
マスコミの群がり、矢継ぎ早に浴びせられる泥臭い質問の嵐。
かつては質問をうまくかわし、世間に迎合した優等生的な笑みを作っていた高柳は、いまやそのど真ん中に立ちながら、全く異なる眼光を放っていた。
彼の背後には、雪ノ下陽乃が率いる組織の精鋭たちが、水面下で着々と準備を進めている新しい教育・改革のネットワークが静かに、しかし強固にリンクし始めている。
マスコミの一人が、声を大にして叫んだ。
「一体、何があなたを変えたのですか!? 決定的なきっかけは何だったんですか!?」
フラッシュの光が絶え間なく明滅する中、高柳は足を止め、真っ直ぐにカメラのレンズを見据えた。
その口元には、かつての空虚な笑みではなく、泥臭くも確かな意志を宿した笑みが浮かんでいた。
「理由は一つだけだ」
静かに、しかしハッキリとした声で、高柳は言い放つ。
「海の向こうで……一人の男に出会ったからだ」
それ以上、彼は何も語らなかった。
どよめく記者たちを置き去りにし、高柳は自分の理想を現実にするための戦いへ向けて、力強く一歩を踏み出していく。
世界のどこかを気ままに旅する一人の「プー太郎」が撒き散らした熱は、海を越え、日本の中枢をも巻き込んで、新しい時代を確実に動かし始めていた。
路地裏の交錯
南国の乾いた風が吹き抜ける、異国の観光都市の喧騒。
石畳の小道に面した土産物店やオープンカフェが並ぶ一角で、どこか聞き慣れない強引な言葉遣いが耳に飛び込んできた。
「おいおい、そんな冷たいこと言うなよ。お姉さん、観光の案内してあげるって言ってるんだぜ?」
ふと足を止めた八幡の視線の先に、困り果てた様子の小柄な女の子の姿があった。年齢は十八歳前後だろうか。アジア系か、あるいは日本からの旅行者かもしれない。現地の言葉を喋る男にしつこく絡まれ、明らかに怯えながら身を縮こまらせている。
周囲の観光客は見て見ぬふりをして通り過ぎていく。
――めんどくさい。関わらないのが一番だ。旅の途中で無用なトラブルに巻き込まれるのはごめんだ。
頭の片隅で、そんな「いつもの思考」が冷ややかに囁いた。
だが、その足は勝手に方向を変えていた。
「おい、そこまでだ」
低く、気だるげな、しかし妙に冷徹な響きを含んだ声。
銀髪にサングラス、トレンチコートに身を包んだ怪しげなアジア人の男――比企谷八幡が、ひょいと二人の間に割り込んだ。
「ハァ? なんだお前、邪魔すんじゃねぇよ」
大柄な男が気色ばんで手を伸ばしてきたが、八幡はそれを無駄な力を一切入れず、流れるような最小限の動きでいなすと、相手の急所を突く冷徹な眼光をチラリと向けた。その只者ではない空気感と、ストリートの修羅場をくぐってきた男特有の凄みに、男は気圧されたように一歩下がる。
「……これ以上しつこくするなら、そこの角にいる警察官に声をかけるが。どうする?」
英語交じりの低い脅し文句に、男は舌打ちを一つすると、「チッ、運のいい女だ」と捨て台詞を吐いて足早に消えていった。
「……もしかして、八幡さん?」
「あ、あの……ありがとうございます……!」
男が去ったあと、その女の子はぺこりと頭を下げた。ほっと胸を撫で下ろしているが、どこか落ち着かない様子で、じっと八幡の姿を凝視している。
銀髪、サングラス、そして特徴的な三白眼。
八幡は面倒くさそうに頭を掻き、さて自分も立ち去ろうと踵を返そうとした。その時だった。
「――あの……もしかして、比企谷八幡さん……ですか?」
ピタリと、背後から声をかけられた。
八幡は思わず動きを止める。海外の、それもこんな路地裏で自分のフルネームを日本語で呼ばれるなど予想していなかったからだ。
「……人違いじゃねぇの。俺はただの旅の……」
サングラスを少しずらして振り返ると、女の子はスマホの画面を掲げていた。そこには、世界中で話題になっていた映画のワンシーン、そして最近SNSでバズりまくっていた「異国の食堂で語るプー太郎」の画像がしっかりと映し出されている。
「まちがいない……! 私、日本で友達と一緒に映画館で観ましたし、SNSの動画も見てました! 本物だ……!」
女の子の顔にみるみるうちに驚愕と感激の色が浮かぶ。
八幡は天を仰ぎ、心底うんざりしたように深い溜息をついた。
「……マジか。ここ地球の裏側だぞ。どんだけ俺の顔と動画は拡散されてんだよ……」
思いがけない「奢り」
「あの! 助けていただいたお礼と、ずっとファンだったので……! よかったら、私に何かご飯を奢らせてください!」
女の子は目を輝かせ、必死にお願いするように両手を合わせた。
逃げ出そうにも、これだけまっすぐな目を向けられては、冷たく突き放すのも逆に気まずい。それに――。
(……そういえば、さっきから歩き詰めで腹が減ってたな)
財布の残り具合と、今日の予定を脳内でざっと計算し、八幡はふっと小さく息をついた。
人の好意を素直に受け取るのは少し照れくさいが、奢ってもらえるならそれに越したことはない。
「……まあ、そこまで言うなら、ありがたくご馳走になるとするか」
八幡がサングラスの奥でわずかに目を細めて承諾すると、女の子は「やったぁ!」とパッと満面の笑みを咲かせた。
世界を巡る旅の途中で起きた、ちょっとしたハプニング。
銀髪の元ヤンキー風情(防衛策)と、海外を一人旅する若い女の子の、少し風変わりなランチの時間が、こうして静かに始まろうとしていた。
思わぬ「大物」とのランチ
女の子に連れていかれたのは、路地裏の小さな食堂ではなく、異国の風光明媚なテラス席がある由緒正しい老舗レストランだった。
「あの、私……本当は父と待ち合わせをしていて……」
恐縮しながらも席に着いた女の子の前に、ひとりの初老の紳士が歩み寄ってきた。仕立ての良いスーツを纏い、一目で社会的地位の高さが分かる威厳と知性を漂わせたその男は、娘の無事を確認すると安堵の息をつき、それから隣に座る見知らぬ銀髪の青年へと視線を向けた。
「君が……娘を助けてくれたという青年だな。恩にきる」
流暢な英語、そしてどこか聞き覚えのある日本語のイントネーション。八幡が怪訝そうに眉をひそめると、紳士はフッと柔らかな笑みを浮かべた。
「おや、失礼した。私はこの子の父親だ。そして、どうやら君のことは私もよく知っているらしい」
紳士はスマートフォンを取り出し、画面を八幡に見せた。そこには、世界中で話題になっている「映画のワンシーン」と、つい最近バズったばかりの「異国の食堂で語るプー太郎の動画」が映し出されていた。
「まさか、本物の比企谷八幡君に娘が世話になるとはね。驚いたよ」
名前を明かされた八幡は、やれやれといった調子で頭を掻いた。
「……はぁ。どこに行っても俺の顔はバレるようになってるらしい。どうも、お嬢さんを助けた通りすがりのプー太郎です」
交差する話題と、予期せぬサイン
「プー太郎、ねえ……。世間の連中は君のことを『世界を揺るがす元・大臣』『伝説の旅人』などと持て囃しているが、当の本人は随分と気ままなものだ」
父親は楽しそうに笑うと、ウェイターを呼んで高級な料理とワインを注文した。
食事のテーブルを囲みながら、話題は自然と互いの近況へと移っていった。
「で、比企谷君。君はこの国をどう見ている? 世界を巡る君の目に、この街の空気はどのように映っているのかな」
父親が経済界の重鎮ならではの鋭い視点でこの国の情勢や観光業の裏側について尋ねると、八幡は少し考え込んでから、いつもの達観した調子で淡々と答えた。
「表面上の活気はあるけどさ、結局は一部の資本が回ってるだけで、路地裏の隅っこには恩恵を受けてない奴らも多い。……まあ、どこの国も似たようなもんだろ。綺麗事だけじゃ腹は膨らめぇよ」
その歯に衣着せぬ現実的な見解に、父親は深く感心したようにうなずいた。
「なるほど、表面的ではない『現場の足音』を聞いているわけだ。では、私からも日本の近況について聞かせてもらおうか。君が作り出したあのシステムや、永田町で動き始めた新しい風について……君はどう見ている?」
今度は八幡が、日本国内の教育改革の現状や、かつての仲間たちが回している組織、そして先日出会った高柳のような若い政治家たちの動きについて、飾らない言葉で語っていく。
重鎮である父親は、目の前の若い旅人が持つ圧倒的な解像度とフラットな視点に、終始感嘆の声を漏らしっぱなしだった。
食事が終盤に差し掛かったころ、娘がもじもじしながらノートとペンをそっと差し出した。
「あの……! 失礼じゃなければ、サインをいただけませんか……? 私、本当にファンなんです……!」
父親もまた、面白そうに目を細めて頷いた。
「我が家の恩人だ。記念にねだるくらい、父親としても許してやろう。頼むよ、比企谷君」
「……なんか、サインとかするようなキャラじゃねぇんだけどな」
文句を言いながらも、八幡はペンを手に取り、無造作かつ潔い筆跡で自分の名前をサラサラと書き記した。
日本を包む、変わらない安心感
その日の夕方。
海外にいる経済界の重鎮である父親と、その娘のSNSアカウントに、一枚の写真と短い動画が投稿された。
投稿されたのは、現地の高級レストランで、銀髪のサングラス姿の青年(比企谷八幡)が気だるげにサインを書いている姿と、娘の嬉しそうな笑顔、そして笑顔で見守る父親の姿だった。
添えられた文章にはこう書かれていた。
『旅先で娘を助けていただきました。偶然お会いした比企谷さんは、映画やネットの通り、飾らず、優しく、そして最高にクールな方でした』
この投稿は、瞬く間に世界中のネットユーザーの間で拡散され、数時間後には日本国内のすべてのSNSトレンドとニュース番組のトップを完全に乗っとった。
『待って、一緒にいるのお父さんって〇〇財界の重鎮の会長じゃん!?』
『そんな大物の前でも相変わらずのマイペースすぎる八幡で草』
『世界中どこを旅してようが、相変わらず困ってる奴を助けてるんだな……』
『映画の中のヒーローが、現実でもそのままヒーローやってるの泣ける』
過激なニュースや政治のゴタゴタに疲弊していた日本中の世間は、地球の裏側で相変わらず「人助け」をし、変わらぬ調子で美味しい飯を食い、気ままに旅を続ける比企谷八幡の姿を見て、どうしようもないほどの安心感と温かい感心に包まれていた。
「……まったく、勝手に拡散しやがって」
見知らぬホテルのベッドの上で、自分の名前がトレンド1位になっているスマホの画面を見た八幡は、やれやれと盛大な溜息をつく。
だが、その表情に不快感は微塵もない。
スマホを放り出し、八幡は窓のカーテンを開けた。
異国の夜空に輝く星を見上げながら、彼は次の街へ向かう風を感じるのだった。
どこへ行こうとも、彼の旅と、誰かを救う小さな優しさは、変わらずに続いていく。
紺碧の海と、相変わらずの日常
どこかの南国、あるいは眩しい太陽が照りつける海外の美しいリゾートビーチ。
白い砂浜に打ち寄せる波の音を聞きながら、比企谷八幡はビーチチェアに深く身体を預け、冷えたココナッツジュースを飲んでいた。
旅の途中で立ち寄ったその海で、彼は相変わらずの出で立ちだった。
世界を巡る中で徹底的に鍛え上げられた、無駄のない引き締まった肉体。鮮やかな銀髪に、耳元で揺れるピアス、そして日差しを遮るためのサングラス。海辺の強い日差しに映えるそのワイルドで怪しげなアウトロー風の姿は、周囲の観光客や地元の人々の目をいやが上にも引いていた。
「……あいつ、誰だろ。めっちゃカッコよくない?」
「モデルか何かかな……」
ビーチを通り過ぎる女性たちのヒソヒソ声や熱っぽい視線が向けられていることに、八幡は気づいているのかいないのか、面倒くさそうにサングラスをずらしてため息をついた。
(……絵になるプー太郎なんてガラじゃねぇんだよ。早く宿に帰るか)
そう思いながら立ち上がろうとした、その時だった。
「――っ! 助けて、誰か!」
遠くの海面から、子供の泣き声ともつかない緊迫した叫び声が響いた。
目を凝らすと、岸から少し離れた深い場所で、小さな子供が必死にもがき、波間に沈みかけていた。周囲にいた観光客たちは突然のことにどよめき、何人かが立ち上がったものの、足のつかない深さに足踏みをしている。
八幡は眉間を寄せ、一瞬だけ舌打ちした。
(めんどくせぇ……)
だが、考えるより先に身体が動いていた。
迷うことなく砂浜を蹴り、波打ち際に走り出すすでに鍛えられた肉体。近くのビーチベッドに置き去りにされていた予備の浮き輪をひょいと掴み取り、一気に海へと飛び込んだ。
「おい、無理すんなよ……。自分が溺れたら元も子もねぇんだからな」
口では軽口を叩きながらも、水泳のスキルは旅の中で鍛え直されている。波を掻き分け、あっという間に溺れている子供の元へと到達した。
「ほら、これ掴め」
差し出した浮き輪にしがみつかせ、子供の体をしっかりと確保すると、八幡は自身の足で力強く海底を蹴り、安全な浅瀬へと引き戻していった。
地元のニュースと、日本への波及
数分後、ライフセーバーたちが駆けつけ、子供の無事が確認されたころには、銀髪の男の姿はすでにそこにはなかった。
しかし、その鮮やかな救助劇の一部始終は、リゾート地を訪れていた現地のローカルテレビ局のカメラや、居合わせた観光客のスマホによってしっかりと捉えられていた。
翌日、その国のローカルニュースやネットニュースには、こんな見出しが躍ることになった。
『ビーチの英雄! 銀髪の外国人観光客が、溺れた子供を迅速かつ的確に救助』
『無駄のない動きで危険を回避、「自分も溺れたら意味ない」とクールに去る姿が話題に』
その映像は、当然のように瞬く間に国境を越え、日本国内のニュースやSNSへと流れ込んできた。
遠く離れた場所での反応
日本の政治の中心地、あるいは雪ノ下家の広大な執務室。
テレビの画面やスマホの速報で、海の向こうのビーチで子どもを救助する銀髪の男の姿を見た者たちは、それぞれの場所で絶句し、そしてどこか納得したように笑っていた。
東京の議員会館でニュースを見ていた高柳は、コーヒーカップを持ったまま、呆れたように、しかし深く感心したように息をついた。
「……なるほどな」
先日、異国のバーで交わした言葉が頭に蘇る。
『名誉欲とか承認欲求は薄いんだろう。守りたいんだよ。仲間を。その範囲が広がってるんだろう』
政治の表舞台を降り、世界中を気ままに旅するプー太郎になってもなお、目の前で誰かが溺れていれば、損得勘定抜きで迷わず海に飛び込む。それが比企谷八幡という男の本質だった。
「……こういうことかよ。スケールが違いすぎるだろ、まったく」
高柳は苦笑を漏らしながらも、自分の胸の奥で燃え盛る熱を再確認するように、強く拳を握りしめた。
一方、日本のとあるカフェ、あるいは雪ノ下家のリビングでは――。
「……本当にもう、あの人はどこに行っても……!」
画面に映る、相変わらず目立つ銀髪とサングラス姿で子どもを救助している夫の姿を見つめながら、雪乃は頭を抱えつつも、その頬をほんのりと赤らめていた。
その隣で、陽乃がスマホを覗き込みながら、まるで自分のことのようにケラケラと誇らしげに笑い声を上げていた。
「ねえ、雪乃ちゃん見た? うちの旦那、海外のビーチでも相変わらずキレッキレじゃない! どうよ、世界を救った男にして、海のライフセーバー顔負けのヒーローよ?」
「お姉様、そういう言い方は……!」
「だって事実じゃない! ふふ、自慢の妹の旦那さまでしょ?」
呆れながらも、その瞳に宿るのは、どうしようもないほどの深い誇らしさと愛おしさだった。
地球の裏側の海で、相変わらずマイペースに人を助け、ちゃっかりニュースになっている我が夫。
システムやAIがどれだけ世の中を最適化しても、この男が巻き起こす「熱」だけは、海を越えていつでも大切な人たちの心を温め続けるのだった。
帰国、そして喧騒の夜
旅の空を気ままに渡り歩いていた比企谷八幡が、ふと日本への帰国を果たした。
世間が相変わらず彼の動向にざわめき、SNSが「あの銀髪の救助男が帰ってきたぞ」と盛り上がるよりも早く、八幡が足を踏み入れたのは、静まり返った東京の夜のワンルーム、あるいは雪ノ下家の厳重に守られた私邸だった。
しばらくぶりの帰国だというのに、感傷に浸る暇など微塵もない。
玄関のドアを閉めた瞬間から、彼の予測不能な日常――いや、かつての延長線上にある激しい非日常が、容赦なく襲いかかってきた。
「……お疲れ様、比企谷くん。随分といいご身分ね、世界をまたにかけたヒーロー様ごっこは楽しかったかしら?」
待ち構えていたかのように現れたのは、相変わらず鋭い美貌と底知れない笑みをたたえた雪ノ下陽乃だった。
その背後には、腕を組んで冷ややかな、しかしどこか蕩けるような熱を帯びた瞳を向ける雪ノ下雪乃の姿もある。
さらに――海外での任務や日々の激務を抜け出し、このタイミングを見計らっていたかのように合流していたのは、強気な美しさに磨きがかかった川崎沙希だった。
「遅い……。連絡くらい入れなさいよ、バカ」
顔を赤らめながらも、その声には積もる積もった想いと、抑えきれない熱気が混じっていた。
熱に溺れる夜
「ちょっ、おまっ……急にだな……!」
世界を股にかけ、数々の修羅場をくぐり抜け、どんな強敵や理不尽をも冷徹にいなしてきたはずの比企谷八幡も、この三人の圧倒的なエネルギーの前にあっては、文字通りなす術がなかった。
システムやAIでは絶対に最適化できない、泥臭く、圧倒的で、逃げ場のない「個人の熱」。
それを一身に浴びせられながら、八幡は久しぶりの日本で、文字通り「めちゃくちゃにハッスル」することになった。
海外のビーチで鍛え上げた肉体も、世間を騒がせたアウトローな風貌も、この夜ばかりはただの言い訳にすぎない。
理屈や思考の隙間をすべて奪い去っていくような濃厚な時間のなかで、彼はかつて自分が選んだ、そして自分を選んでくれた者たちの強烈な愛と熱量に、ただひたすら溺れていくのだった。
夜が明け、静まり返った部屋のなか。
散らばった服と、心地よい疲労感に包まれたベッドの上で、八幡は盛大な溜息をつきながら天井を見上げた。
「……やっぱり、日本の湿度ってのは、いろいろ意味で狂ってやがる……」
ぼやきながらも、その顔に浮かんでいたのは、紛れもない充足感だった。
世界中を旅して見つけた景色よりも何よりも、自分の帰るべき場所には、変わらずに熱く燃え盛る「日常」がしっかりと待っていたのだった。
答えの行方と、それぞれの居場所
朝日がカーテンの隙間から差し込む静かな部屋。
心地よい疲労感に包まれたベッドの上で、ふと天井を見上げていた八幡に、隣から眠たげで、しかしどこか核心を突くような声が投げかけられた。
「ねえ、八幡くん」
腕枕をしていた陽乃が、面白そうに彼の胸元をツンとつつきながら尋ねる。
「世界中をあちこち回って、映画の主人公になって、あちこちでヒーロー気取りをしてさ……結局のところ、何か答えは見つかったの?」
少し離れた場所で髪を整えていた雪乃や、キッチンの方で気配を漂わせていた川崎も、ふと動きを止めてその答えを待つように八幡に視線を向けた。
八幡は少しだけ苦笑いを浮かべ、ゆっくりと首を横に振った。
「別にな。そんな大層な答えなんて見つかってねぇよ」
「ふうん? あれだけ世界を渡り歩いておいて、それだけ?」
「当たり前だろ。世の中の理不尽とか問題なんてのはな、一つ解決したところで終わるもんじゃねぇよ。次から次へと湧いてきやがる。だから、俺たちがやれることはただ一つだ」
八幡は起き上がり、自分の胸に軽く手を当てた。
「ただ、目の前のことに向き合って、やり続けるしかない。で、に行き詰まったら立ち止まって考える。自分一人で答えが出なかったら……仲間を頼る」
「……仲間、ねえ」
雪乃がふっと小さく微笑み、川崎が包丁の音を止めずに行儀よく耳を傾ける。
「もっとも」
八幡は照れくさそうに頭を掻きながら、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「たとえ近くにいなくても、時差があって今すぐ電話できないような遠くにいたとしても――俺の心の中には、いつでも頼れる仲間がいる。雪乃、陽乃、川崎……それに、葉山や戸部、材木座の奴らもな」
自分の内側にいる「仲間たち」に問いかけ、そこから導き出した答えを自分のものにする。
「そうやってみんなで出した答えが、俺の、そして俺たちの答えになる。……今回の旅で、ようやくそれが分かった気がするよ」
赤らめる頬と、手料理の祝杯
その言葉を聞いた瞬間。
いつもは余裕の笑みを浮かべている陽乃の頬が、わずかに朱色に染まった。
クールに気取っていた雪乃も、思わず顔を背けて耳まで真っ赤にする。
キッチンに立っていた川崎は、持っていたおたまをカランと落としそうになりながら、「なっ……なにサラッとカッコいいこと言ってんのよ……!」と慌てて顔を隠した。
世界中の男を狂わせ、政界のプリンスすら感化させた伝説の元大臣が、こんな部屋の片隅で、不器用すぎる真っ直ぐな言葉を吐くのだから敵わない。
「……ま、時差もあるし、今すぐあいつらに電話して『愛してるぜ』とか言う気はさらさらねぇけどな」
茶化すように八幡が笑うと、三人は一斉に「バカ!」「空気読みなさいよ!」「最低!」と pillows(枕)を投げつけてきた。
もちろん、その顔には隠しきれないほどの愛おしい笑みが浮かんでいた。
しばらくして、キッチンから美味しそうな匂いが漂い始める。
川崎が手際よく作った料理と、雪乃や陽乃が持ち寄ったワインがテーブルに並べられた。
「さてと……久しぶりの帰国と、世界のプー太郎の生還に」
グラスを掲げた八幡の周りに、三人がそれぞれの笑みを浮かべてグラスを合わせる。
カンッ と、静かな部屋に小気味よい音が響いた。
特別な肩書も、大げさな世界救済の使命もない。
ただ、確かな熱と、かけがえのない仲間たちに囲まれた日常が、ここにある。
比企谷八幡の気ままな旅の途中で見つけたものは、結局のところ、最初から自分の手のひらにあった「最高の日々」そのものだったのだった。
「元・大臣」の帰還と、新たな一言
比企谷八幡の日本帰国。
その情報は、もはや国内外を問わず、一瞬にして日本のメディアとSNSのすべてを駆け巡った。
空港に降り立った瞬間から張り込んでいたマスコミのカメラが、相変わらずの銀髪、ピアス、サングラスというアウトローな姿の八幡を容赦なく捉える。向けられたマイクの群れから、矢継ぎ早に鋭い質問が飛んできた。
「比企谷さん! 政治の舞台へ復帰するのですか!? 次期政権への布石ですか!?」
「世界を巡ったあなたに、いま再び国家の舵取りを期待する声が高まっていますが――!」
フラッシュの嵐の中、八幡は面倒くさそうに片手で目をこすり、マイクの前にぽつりと口を開いた。
「政治に戻るのか、って? ……さあ、まだ何も考えてねぇよ」
その歯切れの悪さと、相変わらずの肩書のなさに、記者たちは一瞬どよめいた。
八幡はどこか遠くを見るように視線を流し、淡々と、しかし妙に納得のいく調子で言葉を続けた。
「俺がやるのは、せいぜい『広告塔』ってやつだな。……昔、うちのじいちゃんが言ってた『広告塔』の意味って、もしかしたらこういうことだったのかもな」
カメラのレンズを見据え、八幡は自分の言葉で紡いでいく。
「世界を自分の足で見て回って、目の前で困ってる奴がいたら助ける。で、助けられた奴が、また別の困ってる奴を助ける。……世の中ってのは、そういう連鎖で回っていくもんじゃねえのか?」
難解な政治理論でも、冷徹な経済システムでもない。
ただの一人の人間が、目の前の誰かに手を差し伸べ、その温もりが次の誰かへと伝播していく。
「まあ、じいちゃんの言いたかったこととは全然違うのかもしれねぇけどさ。少なくとも、今の俺はそう考えてるんだよ。だから、呼ばれたイベントや、ちっとは役に立ちそうな場所に顔を出すくらいは、暇つぶしにしとくさ」
そのインタビュー映像は、瞬く間に日本全国へ中継された。
世間の熱狂と、本家の評価
「広告塔、ねぇ……まったく、最後まであの男らしい答えだわ」
テレビの画面を通してその言葉を聞いた高柳は、思わず苦笑いを浮かべ、しかしどこか清々しい眼差しでうなずいた。政治の枠組みを超え、ただの「個人」として社会の善意の連鎖を回そうとするその姿勢は、もはや彼の最大の武器となっていた。
そして、その波紋は「比企谷本家」の保守的な重鎮たちをも大きく揺さぶった。
かつては一族の異端児として冷遇されていた八幡が、権力にしがみつくこともなく、独自のカリスマと圧倒的な行動力で世間を動かし、いまや「比企谷の名を最も高めた象徴」となっている。
「先代が目をかけ、あの世からでも笑って『宝だ』と言った意味が、今なら痛いほど分かる……」
「政治の椅子に執着せず、世の中の『善意の広告塔』になるか。……流石は八幡だ。我が本家の誇りよ」
本家の会合では、もはや八幡に対する異論や懸念を示す者は誰一人いなかった。彼らはその圧倒的な存在感を心から認め、深く敬意を抱いていた。
静かなる誇り
さらに、かつての高校教師である平塚静もまた、自宅のテレビでそのニュースを見つめながら、深いため息と満足げな笑みを漏らしていた。
「……勝手に『広告塔』などとうそぶいてみせるか。相変わらず、教師泣かせの屁理屈を並べるものだな、あいつは」
画面の中で、相変わらずの反骨精神と優しい眼差しを覗かせる教え子の姿。
教師として教え導いたはずが、気づけば自分たちの遥か先を歩き、世界に独自の「熱」を伝播させている。
「だが――大したもんだよ、八幡。お前は本当に、最高の男になったな」
静はグラスのビールを傾け、画面の中の元・教え子に向けて静かに乾杯した。
政治の表舞台を降り、気ままなプー太郎として世界を巡りながらも、ふらりと現れては困っている人を助け、その背中で世の中に火を灯し続ける男。
比企谷八幡の物語は、肩書や権力というちっぽな枠組みを軽々と飛び越え、今日もどこかで新しい優しい連鎖を巻き起こし続けているのだった。
酒の席の、照れ隠し
東京の静かな夜。心地よい風が吹き抜ける八幡の部屋に、巨体を揺らしながらドタドタとやってきたのは、相変わらず暑苦しいほどの熱量を纏った材木座義輝だった。
「おおい、八幡ぁ! 帰国したって聞いてから、こっちは連日の取材攻勢で目が回る忙しさだったぞ! それで、どうだったんだ海外での珍道中は! あのビーチでの救出劇を生で見たかったぜ!」
大きな身体を小さなソファに無理やり押し込み、材木座は持参した高級そうな日本酒の一升瓶をドカンとテーブルに置いた。
八幡はやれやれといった調子でグラスを用意しながら、ポツリポツリと旅先での出来事を語り始めた。
異国の食堂で気さくな男に絡まれたこと、政界のプリンスとバーで酒を酌み交わしたこと、そして南国のビーチで子どもを助けて勝手にローカルニュースになっていたこと――。
「……ははぁ、どこに行ってもお前は相変わらずトラブルと目立つネタを引き寄せる天才だな! まさに現代のダークヒーロー、いや、光り輝く真のヒーローの生き様よ!」
「ヒーロー扱いはやめろって何回言わせるんだよ。俺はただのプー太郎だっつーの」
苦笑いしながら八幡が酒を注ぐと、材木座はグラスを受け取り、ふと、その熱かった声を少しだけ落ち着かせた。
「……だがな、八幡」
照明の光を反射するグラスを見つめながら、材木座は真剣な眼差しで八幡の顔を覗き込んだ。
「世間がどう言おうと、お前がヒーローだと言われるのは、俺たちにとっては当たり前の事実だ。……それを『やめろ』なんて言うのは、さすがに無理な話だな」
「おい……」
「もし、あの高校の時にお前と出会っていなければ……俺の人生は、もっと違う、かなり悪い方向に歪んでいたはずだ。自分の殻に閉じこもって、くだらない妄想の世界だけで腐り果てていたかもしれない。あの時、お前が俺を引っ張り出してくれたから、今の俺がいる」
材木座はまっすぐに頭を下げた。
「……本当に、ありがとうな、八幡」
まっすぐすぎる感謝の言葉に、八幡は思わず居心地の悪そうに視線をそらし、グラスの中の酒をキュッと一気にあおった。
耳のあたりがわずかに熱くなっているのを隠すように、ボソッと呟く。
「……なんだよ、急に。柄にもねぇこと言うなよ、まったく」
少しの沈黙のあと、八幡はポリポリと頬を掻きながら、聞こえるか聞こえないかの声で付け加えた。
「……別にお前だけじゃねぇよ。……俺も、お前がいてくれて助かったんだからな」
その不器用すぎる「俺もだよ」の返答に、材木座はしばらくポカンとしたあと、豪快に声を上げて笑った。
「ガハハ! 出たな、八幡の照れ隠し! いやあ、最高の酒だ!」
夜更けまで響く二人の笑い声は、かつて総武高校の部室から始まった物語が、形を変えて今もどこまでも温かく続いていることを証明していた。
カメラの向こうの「間違いだらけの答え」
雑誌の特設インタビュー、あるいはテレビの特別番組。
日本に帰国してからも、メディアやネットの喧騒は一向に収まる気配を見せなかった。落ち着いたスタジオのソファに腰掛け、相変わらずのトレンチコートの襟を正しながら、八幡はインタビュアーから向けられた最後の質問に静かに耳を傾けていた。
「――比企谷さん。今やあなたの生き方や哲学を真似しようとする若者や、SNSで『八幡のようになりたい』と公言するフォロワーが世界中に溢れています。その現象について、あなた自身はどのように思われますか?」
カメラのレンズの向こうには、何百万人、何千万人もの視聴者が息を凝らして見守っている。
世間が求めているのは、きっとカリスマ的なリーダーの格言や、完璧な人生訓なのだろう。
だが、八幡はふっと息をつき、いつもの気だるげな三白眼で首を横に振った。
「……真似なんて、しなくていいんじゃないですかね」
その意外すぎる否定から、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「俺の生き方なんて、別にカッコいいもんでも何でもない。ただ、目の前で困ってる人がいたら、自分の出来る範囲で手を貸す。極端に言えば、毎日1個くらい良いことをする――まあ、それはちょっと出来すぎか。でも、そういう小さなことが習慣化していけば、それはもう俺の真似じゃなくて、そいつ自身の中にあるやり方になるはずだ」
八幡は自分の手のひらを軽く見つめ、自嘲気味に笑った。
「誰かの真似をして生きる必要なんてない。俺自身、今まで数え切れないほどの間違いを犯してきたし、今でも後悔することがある」
スタジオの空気がふっと引き締まる。
「たとえば、昔……大事な友人の足が折られそうになった時、俺は迷わず暴力でその場を収めに行った。結果として助けられたかもしれないけどさ……」
遠い昔の、総武高校のグラウンドでの痛烈な記憶を思い出すように、八幡は視線を少しだけ落とした。
「あの時、もっと違うやり方があったんじゃないかっていまでも考える。暴力や荒っぽい手段ってのは、時には必要な瞬間もある。けど、そんなものを使わずに済むならそれに越したことはないし、もっとスマートに解決する方法だってあったはずだ」
力強く、まっすぐにカメラを見据える。
「俺のやり方が、いつだって正しいわけじゃない。むしろ間違いだらけだ。だから、俺の生き方をそのままトレースする必要なんてどこにもない」
飾らない、あまりにも等身大の言葉。
完璧なヒーローではなく、悩み、間違いながらも歩いてきた男の告白だった。
「俺が伝えたかったのは……そんなことじゃない。誰かの真似をするんじゃなくて、お前は自分自身のままでいいんだってことだ。自分の頭で考えて、自分の足で立って、自分の大切なものを守ればいい。……まあ、そんなところだな」
ネットの海を駆け巡る「等身大の言葉」
そのインタビューは、放送されるやいなや、日本中、そして世界中のネットスペースを劇的な勢いで揺さぶった。
『「真似しなくていい」って、最後の最後まで比企谷八幡らしくて泣ける……』
『完璧なヒーローじゃなくて、間違いだらけの自分を認めてくれる言葉に救われた』
『「自分は自分でいい」って、一番欲しかったメッセージかもしれない』
世間が勝手に祭り上げた「カリスマ」「救世主」という偶像の殻を、本人が自らの手で気負いなく脱ぎ捨ててみせた瞬間だった。
カッコ悪い過去も、不器用な後悔もすべて含めてさらけ出すその姿は、かえって人々の胸を強く打ち、無数の共感と圧倒的な称賛の波を生み出していく。
「……まったく、最後までカッコいい男だぜ」
その映像を自宅のテレビで見ていた高柳は、思わず声に出して苦笑した。
遠く離れたロンドンでスマホを覗いていた葉山や、各地でその言葉を受け止めた友人たちも、それぞれの場所で深く納得するように頷いていた。
特別じゃなくていい。誰かのコピーじゃなくていい。
ただ目の前の小さな温もりを拾い集め、自分の足で歩いていく――。
比企谷八幡が世界に残したその不器用で温かいメッセージは、今日もどこかで、誰かの背中をそっと押し続けているのだった。
インタビューのカメラがまだ回っている中、インタビュアーが最後にふとクスリと笑って、場を和ませるようにこんな質問を投げかけた。
「――少し硬い話が続きましたが、最後に一つ。世界中を旅された比企谷さんですが、現地で食べたもので『一番美味しかったもの』は何ですか? よければ、お酒の話もあわせて教えてください」
その瞬間、それまでどこか気だるげにインタビュアーを見つめていた八幡の表情が、わずかに、しかし確実に緩んだ。食の話題になると、この男はなぜか妙に生き生きし出す。
「……メシの話かよ」
八幡は小さく苦笑いを浮かべ、しかし隠しきれない熱を帯びた声で語り始めた。
「一番って言われると難しいけどさ……やっぱり南の国にある小さな路地裏の屋台で食った、スパイスが効きまくった肉の串焼きだな。見た目は焦げてるわ、ハエは飛んでるわで、最初は絶対ヤバい代物だと思ったんだけどさ。ひとくち噛んだら肉汁がジュワッと広がって……そこに現地の地ビールをキュッと流し込む。高級なフレンチとか三つ星のコースもいいけど、あの時、乾いた風に吹かれながら食ったメシの味は、マジで脳裏に焼き付いて離れねぇよ」
さらに、酒の話になると八幡の語りはさらに熱を帯びていく。
「酒で言えば、ある雪深い小さな街の酒蔵で飲んだ、名前も知れねぇどぶろくだな。地元の親父と一緒にカウンターで飲んだんだけど、冷えた体にそれが染み渡るのなんのって。グラスが空くたびに親父が無言で継ぎ足してきやがって、いつの間にか潰れてたっていう……まあ、最高の夜だったね」
飾らない言葉で、旅先での「美味い記憶」を少年のように嬉しそうに語る八幡の姿。
そのインタビュー映像は、テレビの画面を通じて日本中、そして世界中の茶の間にそのまま流し出された。
世界を動かした、小さな「食へのこだわり」
そのインタビューは、それまでの「元・大臣」「世界的ヒーロー」という硬いイメージを綺麗に洗い流し、人々に全く別の影響を与えた。
画面の中で美味そうに現地の飯や酒を語る八幡の姿を見た人々は、不思議な感化を受けていた。
『八幡が美味そうに食ってた現地のスパイス、通販で取り寄せてみたけどガチで美味い』
『ただの観光地巡りじゃなくて、その土地の路地裏のメシを食う旅に出るわ』
『効率とかタイパばっか気にしてたけど、今日の晩飯くらい、ちょっとこだわってみるか』
効率や合理性ばかりが重視されていた世の中で、人々は少しだけ立ち止まり、「目の前の食事をじっくり味わうこと」「誰かと美味しいものを共有すること」の価値に気づき始めていた。
SNSには「#八幡の旅メシ」といったハッシュタグが生まれ、海外旅行や外食、そして日々の「食」に対するこだわりを持つ人が、世界中で少しずつ増えていったのだ。
カリスマとして祭り上げられることよりも、路地裏の屋台で美味い肉にかぶりつき、美味い酒で喉を潤すことのほうが、よっぽど比企谷八幡らしい。
彼のそんな気取らない生き様は、人々の日常のなかに、ささやかで温かい「こだわり」の火を灯し続けているのだった。
懐かしい玄関と、変わらない家族
数々のメディアに引っ張りだこになり、世界中を巡る旅から帰国したとはいえ、比企谷八幡の日常はときどき、ごく当たり前の原点へと引き戻される。
東京の喧騒から少し離れた、見慣れた住宅街。
実家の玄関の引き戸をガラリと開けると、そこには懐かしい匂いと、少し歳を取った両親の姿があった。
「おう、八幡か。……おい、随分と大きくなったな」
新聞を片手にリビングから顔を出した父親が、サングラスを外した息子の姿を見て、ふっと目を細めて冗談めかして言った。
世界中を股にかけ、総理をも動かす男になろうとも、実家の父親から見ればいつまでもただの息子なのだろう。八幡は「どこがだよ、とっくに成長期は終わってるわ」と気だるげに靴を脱いだ。
その瞬間、キッチンから飛んできた母親が、言葉よりも早く八幡の身体をギュッと強く抱きしめた。
「もう……ニュースであちこちフラフラしてるの見てるこっちがハラハラしたんだからね! 生きて帰ってきて本当によかったよ……!」
「ちょっ、母さん、苦い……じゃなくて苦しいっての。子供じゃねぇんだから……」
タジタジになりながら引き離そうとする八幡だが、その表情に拒絶の色はない。
そして、その背後からパタパタと足音が聞こえてきた。
「お兄ちゃん……!」
そこには、すっかり大人の女性の雰囲気を纏いつつも、目を潤ませて鼻を赤くしている小町の姿があった。小町は我慢しきれず、兄の袖をキュッと掴むと、とうとうこらえきれずに出てきた涙を手の甲で拭った。
「おかえりなさい……! お兄ちゃんがまたテレビですごいことになってるから、小町、心配で寝不足だったんだからね!」
「はいはい、ただいま。心配かけて悪かったな」
頭を雑にポンと撫でてやると、小町は嬉しそうに照れくさそうに笑った。
食卓を囲む夜と、ちょっとした近況
リビングの大きなちゃぶ台には、母親が腕を振るった大量の料理が所狭しと並べられていた。
温かい味噌汁の匂いと、実家特有の落ち着いた空気の中で、家族水入らずの夕食が始まる。
「で、どうなんだ八幡。世界中を回って、いろいろ見てきたんだろ」
父親がビールを飲みながら、興味深そうに尋ねる。
「まあ、色々と面倒なこともあったけど、それなりに面白い連中には出会ったかな」
八幡が旅の途中のこぼれ話を適当にいなしていると、小町が箸をピタリと止め、意地悪そうな、しかしどこか茶化すような笑みを浮かべて兄を見つめた。
「そういえばさ、お兄ちゃん。最近、雪乃さんたちとばっかりじゃなくて……時々、あの人とも連絡取ってるんでしょ?」
「……あの人?」
「葉山くん、隼人先輩だよ!」
ピクッと八幡の眉が動いた。
「なんであいつの名前が出てくるんだよ」
「だって、ネットの噂で見たもん! ロンドンにいる葉山先輩が、日本のメディアのインタビューで『比企谷は相変わらずマイペースでやってるよ』って、なんか懐かしそうに笑ってたって。お兄ちゃん、葉山くんとは最近どうなのさ?」
八幡は「どうもこうもあるか、あいつはあいつで自分の戦場で必死こいてんだろ」と、やれやれといった調子でコップの麦茶をあおった。
「でもさ、ライバルって感じでちょっとカッコいいよね。小町、個人的にはあのコンビ嫌いじゃないなー」と、小町がニヤニヤしながら冷かす。父親も「ほう、あの葉山家の息子か。あいつも立派になったもんだな」と感心している。
「まったく、勝手に盛り上がりやがって……」
頭をポリポリとかきながらも、遠く離れた場所でそれぞれの道を歩むかつてのライダースの面々の顔が、ふと脳裏をかすめた。
更けていく夜
テレビのニュースからは今日もどこかで自分の名前が流れているが、この実家のリビングには、そんな世間の喧騒は一切届かない。
母親が持ってきた追加のデザートを突きつつ、小町が他愛のない学校や仕事の愚痴をこぼし、父親がそれをたまに渋い声で突っ込む。
特別でも何でもない、ただ静かで、あたたかい家族の時間が流れていく。
世界中を巡り、数々の理不尽と戦い、多くの人々の運命を動かしてきた男にとって――この実家の匂いと、家族に囲まれる夜こそが、何よりも確かな「帰るべき場所」だった。
「……ま、悪くはねぇな」
グラスに注がれたお茶を飲み干しながら、八幡は小さく呟いた。
窓の外には穏やかな夜風が吹き抜け、賑やかで、そして愛おしい夜は、ゆっくりと静かに更けていくのだった。
墓標の前で
本家の奥深く、静寂に包まれた一族の墓地。
木漏れ日が差し込む石畳の道を歩き、八幡は先祖代々の墓石、そして何よりも、幼い頃から自分に奇妙な哲学と世界の見方を植え付けてくれた「じいちゃん」の眠る墓の前に立った。
両親と小町は少し離れた場所から、静かにその背中を見守っている。
線香に火をつけ、丁寧に墓前に供えると、八幡はふっと息をつき、ポケットに手を突っ込みながら墓石を見上げた。
「……久しぶりだな、じいちゃん」
周囲に誰もいないことを確かめてから、八幡はぽつりぽつりと、まるで目の前に生きている人に話しかけるように言葉を紡ぎ出した。
「じいちゃんが遺した『広告塔』の意味とか、世の中の仕組みとかさ……ようやく、少しだけ分かった気がするよ。世界を回って、色んな奴に出会って、面倒くさいうねりに巻き込まれてさ……まあ、相変わらず散々な目に遭いまくったけどさ」
ふっと自嘲気味に笑い、八幡は静かに首を横に振った。
「……ありがとうな。じいちゃんのおかげで、救われた人達がいる。俺だけじゃ、あんな大したことは出来なかったよ」
自分が成し遂げたことのように持て囃されるすべての実績は、もとをたどればこの頑固で飄々とした祖父が残してくれた言葉や生き様があったからこそだ。その原点を噛みしめるように、八幡はもう一度墓石に目を向けた。
「じいちゃんの教えが、巡り巡って誰かの背中を押してたんだわ。……本当に、感謝してるよ」
権力でも、金でもなく、一人の人間から別の人間へと伝播していく「熱」。
その源泉である祖父の墓標に静かに手を合わせながら、八幡の胸には、言いようのない穏やかな充足感が満ちていた。
一族の誇り
墓参りを終え、本家の広間に集まった親戚一同の前で、八幡は特別な挨拶や大げさな演説をするわけでもなく、ただいつもの調子で茶碗を傾けていた。
「いや、親戚の集まりなんて相変わらず肩が凝るだけだろ」
ぼそりとそう呟く八幡の隣で、小町が「お兄ちゃん、失礼でしょ!」と軽く肘で小突く。そのやり取りを、父親と母親は苦笑いしながら眺めている。
かつては「政治の世界で権力を握った怪物」として恐れや警戒感を持って見られていた者もいれば、「一族の異端児」として腫れ物に触るように扱っていた者もいた。
しかし、実際に目の当たりにした八幡は、どこにでもいそうな、それでいて揺るぎない芯を持った等身大の青年だった。
着飾ることもなく、虚勢を張ることもなく、ただ自分の目の前の「大切なもの」のために泥臭く生きている。
(この男は、権力や肩書で動いているのではない……比企谷の血に流れる本質を、最も自然な形で体現しているのだ)
高齢の重鎮たちが顔を見合わせ、深くうなずき合う。
政界や財界でそれぞれの利権や立場を主張し合ってバラバラになりかけていた比企谷本家は、この一人の青年の飾らない生き様を核にして、不思議な一体感と強い絆でまとまりつつあった。
「……ま、せいぜい一族の名前に泥を塗らない程度に、勝手にやらせてもらうわ」
そう言ってふっと笑った八幡の姿は、間違いなくこの古い一族の新しい「誇り」そのものだった。
世代を超え、家系の呪縛を越えて、比企谷本家は静かに、しかし力強く一つの未来へ向けて歩み出していくのだった。
雪ノ下家の食卓へ
比企谷本家での慌ただしくも温かい時間を経て、八幡が次に足を向けたのは、東京の厳かな空気が漂う「雪ノ下家」の邸宅だった。
政界や財界の重鎮として厳格な威厳を放つ雪ノ下家の当主――すなわち雪乃と陽乃の父親が待つその場所に、八幡は、今や隣に並び立つ雪乃、そして相変わらず妖しげな笑みを湛える陽乃を従えて足を踏み入れた。さらに、その場にはもちろん、娘たちの母親である母の姿もあった。
かつては「厄介な娘の連れ合い」や「一筋縄ではいかない政治の異端児」として警戒と値踏みの目を向けられていた男が、いまや世界を巡り、独自の哲学で社会に影響を与える「等身大の青年」として、堂々と正面から暖簾をくぐってきたのだ。
広大な和室のダイニングテーブルに一堂が会する。
ピリッとした緊張感が走るかと思いきや、そこに漂っていたのは意外なほど穏やかで、満ち足りた空気だった。
「――それで、かの国の砂浜で子どもを助けたら、現地のローカルニュースで盛大に顔が割れたってわけか」
父親が手元のグラスを置き、低く落ち着いた声でからかうように言った。その表情には、かつての厳格さだけでなく、どこか一人の男としての八幡に対する認めの色が浮かんでいる。
「いや、マジで迷惑な話ですよ。おかげで現地の警察に事情聴取されかけるわ、SNS変な連中に特定されるわで散々でしたからね」
八幡はやれやれと肩をすくめながら、旅先でのドタバタ劇を淡々と語る。
その飾り気のない話しぶり、そして過剰にへりくだることも虚勢を張ることもない自然体の振る舞いに、同席している母親もふっと目を細めて柔らかな笑みをこぼした。
「本当に……昔から変わらないわね、比企谷君は。世界中をどこへ引っ張り回されても、あなたらしさは微塵も揺らいでいないらしい」
「まあ、変わっちまったらそれはそれで面倒臭いんでね」
大きくなった背中と、父親の感慨
母親が淹れてくれた温かいお茶を一口飲みながら、八幡はふと、目の前にいる姉妹の父親と母親、そして隣に座る雪乃と、少し離れた席で面白そうにワインを傾ける陽乃の姿を見渡した。
「……にしても、こうやって改めて顔を合わせると、色んなとこで色んな縁があったもんだと思いますよ。まったく、ロクでもねぇ高校生活の延長が、まさかこんなところまで繋がるとは思わませんでしたけど」
ぽつりと言ったその言葉に、父親は深くうなずき、グラスを傾けながらしみじみと呟いた。
「……そうだな。人との出会いの縁というものは、本当に不思議で、そして大切にしなければならないものだ」
政治の損得勘定や、利害関係の打算だけで人と結びついてきた世界に身を置いてきた父親だからこそ、八幡と娘たちが築き上げてきた、泥臭くも純粋な「縁」の重みが痛いほどよく分かる。
「あの時、我が家に関わってきた不器用な高校生が、今や世界を相手に独自の足跡を残し、そしてこうして我が家の一員のように自然に座っている。……八幡くん、君は本当に大きくなったな」
その言葉に、雪乃はわずかに頬を染め、しかし誇らしげに視線を伏せた。陽乃は「お父様、そんなにしみじみ褒めちゃったら、この子すぐ調子に乗っちゃうわよ?」と楽しそうに茶化す。
「調子になんて乗りませんよ。相変わらずプー太郎のままなんですから」
八幡が苦笑いしながら返す。
終わらない夜
特別な肩書も、大げさな世界救済の使命もない。
ただ、大切な人たちに囲まれ、美味しい料理と酒を分かち合い、他愛のない冗談を言い合う。
夜が更けていくにつれて、会話はさらに弾み、外の冷たい夜風とは対照的に、部屋の中は心地よい熱気と笑い声に満たされていった。
「さあ、グラスが空いているわよ、八幡くん。今夜はまだまだ長いんだから、もっと旅の面白い話を聞かせてちょうだい」
陽乃が悪戯っぽくワインを注ぎ足し、雪乃が「お姉様、ほどほどにしておきなさいよ」と呆れたように窘める。
世界の中心で何を成し遂げようとも、彼が最後に帰ってくる場所は、こういう温かく、逃げ場のない「日常」だった。
満ち足りた夜の時間は、ゆっくりと、しかし確実に、かけがえのない未来へと続いていくのだった。
母校の講堂にて
秋の柔らかな陽光が差し込む総武高等学校の体育館、あるいは大きな講堂。
かつては隅っこでひっそりと息を潜め、青春とは無縁の冷めた視線を周囲に向けていた比企谷五番――いや、比企谷八幡が、いまや全校生徒の視線が集まるステージの上に立っていた。
トレンチコートの襟を正し、少し気だるげにマイクの前に立つ姿は、世間を賑わせる「元・大臣」や「世界の旅人」という大げさな肩書など微塵も感じさせない、相変わらずのひねくれたオタクのそれだった。
最前列には、かつて彼を厳しくも温かく見守り続けた平塚静が、腕を組んで面白そうに教え子を見つめている。
生徒会の代表としてマイクを握った生徒が、緊張した面持ちで最初の質問を投げかけた。
「あの……比企谷先輩。先輩は高校時代、この学校でどのように生活されていたのでしょうか? その……私たちに何かアドバイスを……」
会場の空気がわずかに緊張に包まれる。偉大な卒業生から語られるであろう、難解な哲学や重みのある成功法則を、生徒たちは固唾を飲んで待っていた。
しかし、八幡はふっと小さく息をつき、ポケットに片突っ込みながら、天井のあたりに視線を流した。
「楽しかった」の正体
「高校時代、ねえ……」
八幡は少しだけ昔を思い出すように、やれやれといった調子で口を開いた。
「そんな大層なもんじゃないさ。部室でくだらないゲームの新作について熱弁する奴がいたり、急に変な台本を持ち出してくる奴がいたり、無駄にチャラいのに妙に真っ直ぐな奴がいたり……まあ、とにかく『楽しいこと』を探してあちこち走り回ってただけだわ」
ざわつく生徒たちの前で、八幡はぽつりぽつりと、しかしはっきりと名前を挙げていく。
「材木座と馬鹿な話をしたり、戸部や葉山とつるんだり。川崎や……まあ、いろいろ面倒な奴らとも関わった。雪乃や陽乃みたいな、関わったら絶対にロクなことにならねぇ厄介な姉妹にも絡まれたし……平塚先生には何度も鉄拳制裁を食らいかけた」
名前を出された平塚静が、ふっと満足げな笑みを浮かべて鼻を鳴らす。
「俺がやりたかったのは、世界を救うとかそんな大げさなことじゃない。ただ、目の前にある、その『楽しいこと』や、不器用にぶつかり合いながらも積み上がっていった関係を、どうにかして守りたかっただけだ」
八幡は少しだけ言葉を区切り、自分の手のひらを軽く見つめた。
「実際、当時を振り返ってみても、楽しいことばかりじゃなかった。むしろ、めんどくせぇこと、傷ついたこと、逃げ出したくなるような面倒なことだらけだったよ」
それでも、と彼は続ける。
「今になって振り返ってみて、あの高校時代を一言で表現するなら……」
八幡は少し照れくさそうに頭を掻き、どこか懐かしそうな、優しい三白眼で目の前の後輩たちを見据えた。
「――やっぱり、『楽しかった』、なんじゃないかな」
延長線上にある現在
「あいつらと一緒にいられたから。自分の手で、守りたいものを守れたから。……だから、あの3年間は間違いなく楽しかった」
ステージの上の元・問題児は、まっすぐに前を向いて言い切った。
「その延長線上で、俺は今でもあちこち旅をして、美味い飯を食って、新しい『楽しいこと』を探して生きてる。……まあ、お前らもな、誰かの真似をする必要なんてない。自分の足で、自分の目の前にある『楽しいこと』を探して、勝手に生きていけばいいんじゃないかな。知らんけど」
「「「…………」」」
ハッとしたような静寂のあと、次の瞬間――。
講堂を揺るがすような、盛大な笑い声と割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「なんだよ最後、『知らんけど』って!」
「でも、めちゃくちゃカッコいいじゃねえか……!」
生徒たちは一斉に沸き立ち、最前列の平塚静も「まったく、最後まで調子のいい野郎だ」と声に出して豪快に笑った。
そして、この日の母校での講演の様子は、地元の千葉テレビやローカルニュースで瞬く間に放送され、ネットの海へと拡散していく。
『元・大臣の母校講演が神がかってると話題に!「高校時代は楽しかった、知らんけど」でバズる』
完璧なカリスマでも、遠い世界の偉人でもない。
母校の講堂でニヤリと笑い、等身大の「楽しさ」を語った比企谷八幡の姿は、今日も画面の向こうの誰かの心を、最高に心地よく揺さぶっているのだった。
世界を巡る、小さな連鎖の波
千葉テレビのローカルニュースから始まった母校での講演映像は、瞬く間に全国の主要放送局をジャックし、さらにはネットの海を越えて世界中へと拡散していった。
「誰かの真似をするな。自分の楽しいを探せ。――知らんけど」
翻訳されたその飾らない言葉と、どこか気だるげでありながら温かい眼差しをした銀髪の青年の姿は、国境や文化の壁を軽々と飛び越えて人々の胸を打った。
その影響は、驚くべき形となって現れ始める。
「比企谷八幡という人間が育った、あの風変わりで美しい街を見てみたい」と、日本への留学や語学研修を希望する外国人の若者たちが急増したのだ。総武高校の周辺や千葉の街には、バックパックを背負った多様な国の留学生たちの姿がちらほらと見られるようになった。
かと思えば、逆に日本国内の学生たちは、八幡の自由奔放な世界行脚や「路地裏の美味いものを食う」旅のスタイルに刺激され、「自分の足で世界を見てくる」とばかりに海外旅行や交換留学へ飛び出していく。
世界と日本を人と想いが双方向に駆け巡る、そんな巨大な「交流のうねり」が、あの等身大の講演をきっかけに生まれていたのだった。
遠い日の青春と、受話器の向こう
夕暮れ時。高層ビルの執務室、あるいは落ち着いた書斎のなかで、そのニュースの特番をスマートフォンやテレビ画面でじっと見つめていた男がいた。
――高柳だ。
画面の中で飄々と笑う八幡の姿を見終えると、高柳はふっと深く息をつき、手元のグラスに入った氷をカランと鳴らした。
「……まったく、最後の最後まで、人の青春を勝手に刺激しやがる野郎だわ」
呆れたような、しかしどこか底抜けに楽しげな笑みを浮かべながら、高柳は自分の高校時代へと思いを馳せた。
今ほど要領よく立ち回れず、何かに真っ直ぐぶつかっては傷つき、無駄な意地を張り合っていたあの頃の自分たち。あの不器用で、熱くて、どうしようもなく青臭かった日々。
八幡の語った「楽しかった」という言葉は、かつて冷徹な利害関係だけで動いていたはずの政治家や大人たちの胸の奥底にある、かつての「熱」を呼び覚ますには十分すぎた。
「青春、ねえ……」
クスリと笑った高柳は、デスクの端に置いてあったスマートフォンを手に取り、アドレス帳の奥底に眠る一つの名前をタップした。
もう何年も、お互いの利害や立場が離れてからはろくに連絡も取っていなかった古い友人――かつての学友の番号だ。
コール音が数回鳴ったあと、受話器の向こうから不審そうな、しかし懐かしい声が響いた。
『もしもし? ……おい、高柳か? どうした急に』
高柳はグラスを傾け、どこか悪戯っぽい、しかし飾らない笑みを声に乗せた。
「あぁ、俺だ。……いや、ニュースを見てさ。ちょっと昔のことを思い出してな」
『ニュース? ……あぁ、あの例の元・大臣の講演か。あれは確かに傑作だったが』
「どうだい? たまには昔の仲間を集めて、どっかで安い酒でも飲みに行かないか。……あの頃みたいに、馬鹿な話でもしようぜ」
受話器の向こうで、友人が一瞬絶句したあと、やがて呆れたような、そしてどこか嬉しそうな笑い声を上げた。
『……はっ、珍しいこともあるもんだな。いいだろう、付き合ってやるよ』
通話を切った高柳は、窓の外に広がる夕焼け空を見上げた。
比企谷八幡という一つの異端児が撒き散らした小さな熱は、世代を越え、立場を越え、日本中、そして世界中の大人や若者たちの心に、新しい物語の火を灯し続けているのだった。
珍しい依頼と、相棒の特権
静かな夜の喫茶店、あるいは八幡の部屋の一角。
持ち込んだノートパソコンをパタパタと触っていた材木座義輝の前に、八幡は冷めかけたコーヒーカップをドンと置いた。
「おい、材木座」
「なんだよ八幡、今いいところなんだ。俺の脳内ダークファンタジーの新作プロットが――」
「お前に頼みたいことがある」
八幡が珍しく真面目なトーンで切り出したため、材木座は「ほう?」と大げさに眉をひそめて手を止めた。
「俺の今回の旅の話をさ、本にしてくれないか」
その瞬間、材木座の目が丸くなった。
「……は? 本、だと? お前が?」
「あぁ。世間が勝手に美化したり、政治の布石だの何だのと騒ぎ立てたりしてるけどよ、実際俺がロクでもねぇ路地裏の屋台でスパイスまみれの肉を食って、怪しい酒に酔っ払っただけの話をさ。お前のその妙な筆力で、面白おかしくまとめてくれねぇか?」
材木座はしばらくポカンと口を開けていたが、やがて腹の底からこみ上げてくるものを抑えきれなくなったように、わははと豪快に笑い声を上げた。
「ガハハハッ! 面白い! 珍しいこともあるもんだな、あのいつも面倒くさがる八幡が、自ら自分の冒険譚を世に残したいとは!」
「いや、別に残したいわけじゃねぇよ」
八幡は面倒くさそうに頭を掻きながら、ぼそっと付け加えた。
「……ただの『広告塔』だからな、俺は。世間に無駄な幻想抱かせるよりは、俺が旅先で見たリアルなクソ面白れぇ日常をそのまま垂れ流したほうが、いくらかマシだろ。それに……実際、楽しかったしな」
その言葉の裏にある、偽りのない充実感。
材木座はニヤリと不敵に笑うと、胸をドンと叩いた。
「よし、任せろ! お前のその珍道中、この材木座義輝が最高にドラマチックかつリアルに書き上げてやろう! ……で、印税の取り分はどうするんだ? もちろん、大半は執筆したこの俺のものだろう?」
「ふっ、ふざけんな。実際に面倒な取材をうけ、ネタを提供してるのはこの俺だぞ。印税は半分こけ、一歩も譲らん」
「なんだと!? 共同執筆とはいえ、文字を紡ぐ苦労を知らないな! せいぜい四分の一……いや、そこは相棒のよしみで五分五分で手を打ってやる!」
大笑いしながら言い合う二人の姿は、かつて部室でくだらない言い争いをしていた頃となんら変わらない。
確かに、この奇妙な旅の記録を残す権利は、彼ら二人だけにしか無いものだった。
紡がれる物語と、新たなバズ
それからの日々、八幡が語るぶしつけで軽妙な旅のエピソードと、材木座の熱狂的な筆力が組み合わさることで、原稿は凄まじい勢いで形になっていった。
完成した原稿のタイトルは、気取った政治的スローガンでも旅行ガイドでもなく、ただ一言――『間違いだらけの世界旅行と、時々、美味い飯』。
出版されるやいなや、その本は瞬く間に日本中、いや世界中の書店やネット通販のランキングを総ナメにした。
『比企谷八幡の旅の紀行本、ガチで面白すぎるwww』
『カッコいい英雄譚じゃなくて、ただの美味しい飯と酒の話で草』
『材木座との掛け合いが最高すぎるんだが! 次の重版はいつだ!?』
SNSでは「#八幡の本」というハッシュタグがトレンドのトップを独占し、世界中でバズり続ける。
完璧なカリスマの自叙伝でもなく、ただの等身大のプー太郎の日常の記録。しかし、そのページをめくるすべての人が、その行間に詰まった「温かな熱」と「本当の楽しさ」に魅了されていく。
印税の半分をちゃっかり手に入れた八幡は、その一部で相変わらずの缶コーヒーを買い、また新たな「楽しいこと」を探すために、今日もどこかの街の風に吹かれているのだった。
母が読む、娘の男の「旅メシ」
日本中、いや世界中の本棚を席巻した『間違いだらけの世界旅行と、時々、美味い飯』。
その話題沸騰の一冊を、雪ノ下家のリビングで優雅に、しかしどこか面白そうにめくっている人物がいた。――雪乃と陽乃の母親だ。
「……ふふ。まったく、この文章の軽薄さは相変わらずね」
ページを繰りながら、母親は思わずといった様子で小さく笑みをこぼした。
世界を動かす元・大臣でありながら、本の大部分を占めているのは「南国の路地裏の屋台の肉が美味かった」「名前も知れねぇ雪国のどぶろくで潰れた」といった、食い意地と下世話な失敗談のオンパレードだ。カッコいい自己弁護など一言もない。
しかし、その不器用で飾らない筆致の端々から、彼がどれほどその瞬間を面白がり、目の前の人々との出会いを噛みしめていたかが痛いほど伝わってくる。
「……お父様」
ちょうど書斎から戻ってきた夫に、母親は本を片手に声をかけた。
「どうした?」
「この本に書いてある、路地裏の串焼き屋の話よ。なんだか、すごく美味しそうじゃない?」
夫は妻の手にあるベストセラーの表紙――八幡と材木座の名前がふざけたフォントで載っている帯をチラリと見やり、呆れたように、しかしどこか楽しげに片眉を上げた。
「あの小僧の本か。……ほう、お前が外食したいなどと言うのは珍しいな」
「たまにはいいでしょう? あの子がこれだけ夢中で書き殴るような味が、どんなものか少し興味が湧いたのよ。あなたも付き合いなさい」
二人だけの夜と、懐かしい記憶
その日の夜、雪ノ下家の厳格な両親は、高級フレンチでも料亭でもなく、大都会の片隅にひっそりと佇む、ちょっと古びた、しかし活気のある串焼きの隠れ家的な店に並んで腰掛けていた。
炭火の香ばしい煙と、ジューシーな肉の焼ける匂いが立ち込める店内。
政界や財界の表舞台で長年、計算と利害の渦巻く世界を渡り歩いてきた二人が、こうした庶民的な店に並んで座る姿は、周囲の客から見れば少し異質だったかもしれない。
「……どうだ、味は」
串を一口かじった夫が、思わずといった顔で尋ねる。
母親はふっと目を細め、口の中に広がるスパイスと肉汁の旨味をじっくりと味わった。
「……少しスパイシーすぎるけれど、悪くないわね。あの小僧がわざわざ文字にして残すだけのことはあるわ」
キンと冷えたビールと、香ばしい肉。
贅沢なコース料理とは違う、泥臭くて、けれどどこか生々しい「熱」を感じさせる味だった。
料理をつまみながら、二人はいつの間にか、自分たちの若い頃の記憶を語り合っていた。
今みたいに立場や家柄の重圧ばかりを背負う前、ただがむしゃらに、自分の足で未来を選ぼうとしていた遠い日のこと。計算高く生きるしかなかったはずの人生の隙間に、ふと吹き抜けた青臭い風の記憶。
「……私たちも、若い頃はあんな風に、無鉄砲に美味しいものを頬張っていた時期があったかしらね」
グラスを傾けながら、母親が少し遠い目をして呟く。
夫は静かにグラスを合わせ、柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ。……あの不器用な若者のおかげで、たまにはこういう夜も悪くないと思い出させてもらったな」
カランと、グラスとグラスが軽やかな音を立てる。
静かに更けていく夜のなかで、長く連れ添った二人は、かつての自分たちと、そして今を懸命に生きる娘たちの未来にそっと乾杯したのだった。
異色の料理番組、開演
おしゃれなスタジオセット、明るい照明、そしてカメラの赤ランプ。
テレビのチャンネルを回せばどこも似たような情報番組やグルメ番組が流れる中、その日のゴールデンタイムに放送された特別番組は、日本中、いや世界中のテレビの前にいる視聴者を釘付けにしていた。
番組のタイトルは『世界の路地裏を食らう――比企谷八幡のテキトークッキング』。
「えー、なんだって急にこんなところで包丁なんか握らされてんだか……。まあ、印税の足しにしろって編集部に脅されたから仕方なく、ですが」
エプロンをつけるわけでもなく、黒のシャツの袖を無造作にまくり上げた八幡は、気だるげにカメラを睨みつけながらも、手際よくまな板の前に立っていた。
元・大臣であり、ベストセラー作家であり、世界を揺るがせた「世界の旅人」。そんな男が、なぜかスタジオの一角でフライパンを振るうというシュールな絵面だった。
しかし、いざ調理が始まると、その雰囲気がガラリと変わる。
シャツの袖をまくった腕に浮かぶ、旅の苦楽で引き締まった細マッチョな筋肉のライン。大きく開いた襟元から覗く、妙に色気のある鎖骨の影。
カメラがふと捉えたそのアンバランスな「絵の強さ」に、視聴者の第一声はまず「え、なんか意外とカッコいいんだけど……?」というどよめきだった。
語られる蘊蓄と、手際の良さ
「で、今日はあの南国の路地裏で食った、名前もよく分からないスパイス肉の串焼きの再現だな。高級な和牛使う必要は一切ない。むしろ、ちょっと脂身の多い安い肉のほうが、スパイスの暴力受け止められるから相性がいいんだよ」
八幡は淡々と語りながら、手際よくスパイスを調合していく。
「クミン、コリアンダー、あとは適当にそのへんのピリ辛い粉。現地の親父は『企業秘密だ』とか言ってたけど、要するにペッパーと塩を絶妙な配分でぶち込んでるだけだ。料理なんてのはな、科学実験みたいなもんで、理屈さえ分かっていれば大抵のものはそれっぽく再現できる」
独自のひねくれた視点と、旅先で培われたリアルな食の蘊蓄(うんちく)。
ただのレシピ紹介ではなく、どこか生き様を覗き見ているかのような的を射た解説に、画面の前の視聴者たちはすっかり引き込まれていく。
ジュワッと肉が焼ける香ばしい音と、スパイスの刺激的な香りがスタジオ中に広がる。
皿に盛り付けられた料理を、八幡は自分で一口味見し、「……まあ、当時の味の八割ってとこか。合格だろ」と満足そうに頷いた。
視聴率25%の衝撃
その放送の瞬間、リアルタイムの視聴率はグングンと跳ね上がり、最終的には驚異の25%を記録。
SNSのトレンドは「#比企谷八幡」「テキトークッキング」「細マッチョ」「料理の蘊蓄がガチ」といった関連ワードで完全に見事に埋め尽くされた。
『待って、八幡って料理できる系男子だったの……? 腕まくりの破壊力ヤバいんだが』
『ただのグルメ番組と違って、語る言葉がいちいちリアルで草』
『あのスパイスの配合、今夜の晩酌のつまみに絶対真似するわ!』
政治や社会を語る時とはまた違う、路地裏の匂いを纏った等身大の魅力。
カメラの向こうでいつものようにボヤきながらも美味そうに肉を頬張る八幡の姿は、今日も日本中の夜の茶の間に、最高に美味くてシュールな笑顔を届けていたのだった。
スポーツ番組の主役と、不意打ちのゲスト
週末の夜、テレビのスポーツバラエティ番組のスタジオ。
ひときわ明るい照明の下で、今日の主役である男が満面の笑みを浮かべていた。――戸部翔だ。
高校時代はチャラい陽キャの代表格として恐れられ(?)つつも、その真っ直ぐで愛嬌のある人柄で周囲を和ませていた彼は、現在、プロのスポーツ関連の仕事やインフルエンサー的な活動で大活躍していた。今日の特集は「スポーツが繋ぐ青春とリアル」といったテーマで、戸部がスタジオのメインゲストとして呼ばれていたのだ。
MCが番組の終盤、ニコニコしながらこう切り出した。
「いやあ、戸部さんの学生時代のスポーツエピソード、熱いですねぇ! でも、今日のゲストは戸部さんだけじゃないんです。実は、特別に『あの男』にも来ていただいています!」
「えっ、マジで聞いてねぇよ!?」と戸部が驚く中、スタジオの端から、いつもの気だるげなトレンチコート姿の男がひょっこりと現れた。
「……おい、聞いてねぇのはこっちだろ。なんで俺が日曜の夜にこんな見世物にならねぇといけないんだよ」
ぼそりと言いながら現れた比企谷八幡の姿に、スタジオの観覧客から「キャー!」という黄色い歓声とどよめきが同時に巻き起こった。
世間を騒がせた元・大臣であり、ベストセラー作家が、なぜかバラエティのスポーツ番組に引っ張り出されている。そのシュールすぎる絵面に、戸部は思わず立ち上がって八幡の肩をガシッと掴んだ。
「おまっ、八幡じゃねぇか! すげぇな、本当に来てくれたのかよ!」
「離せ、暑苦しい。あとでギャイド(ギャランティ)上乗せしてもらうからな」
ボールを蹴る元・大臣
番組の流れで、スタジオ内に特設された人工芝の簡易ゴールとボールを使った「昔を懐かしむプチ企画」が始まった。
「高校時代、二人でよく一緒にサッカーやってましたよね?」というMCのフリに、戸部は「いやー、八幡は運動神経の塊だったからさ! 見た目はあんなだけど、いざとなるとマジでエグいフェイント入れてくるんだよ!」と懐かしそうに笑う。
「やってねぇよ、お前が勝手にパス回してきて押し付けられてただけだろ」と返しつつも、八幡は転がってきたサッカーボールを何気なく足の裏でピタリと止めた。
カメラがその瞬間をアップで捉える。
軽くボールをリフティングし、そのまま鮮やかな軌道を描いてゴールネットの隅へと突き刺すシュート。運動不足のプー太郎の動きとは思えない、無駄のなさすぎる洗練された足技だった。
「うおおお、相変わらず上手ぇなオイ!」と戸部が絶叫する。
トレンチコートの裾を揺らしながら淡々とボールをさばく八幡の姿は、かつて総武高校の片隅で冷めた目をしていた少年の面影を残しつつも、妙に色気と凄みがあった。
『待って、元・大臣がサッカー上手すぎんだろ……』
『運動神経抜群の細マッチョとか、スペックどうなってんのよ』
『スポーツもできる元・大臣、ギャップがエグすぎて草』
ネットのSNSは、この予期せぬ「八幡のスポーツ無双」のワンシーンで一気に爆発的な盛り上がりを見せ、トレンドの頂点を塗り替えていった。
鳴りやまない電話と、伝説のサイン
番組のエンディング。
興奮冷めやらぬスタジオで、MCが嬉しそうに一枚の色紙を取り出した。
「いやあ、素晴らしい腕前でした! 本日の記念といたしまして、戸部さんと……そしてなんと、比企谷さんの直筆サインをセットにして、抽選で視聴者の皆様にプレゼントしちゃいます!」
「は? 俺のサインとか需要ねぇだろ……」と頭をかむ八幡の隣で、戸部は「いやいや最高だろ! さすが八幡、持ってるわー!」と大はしゃぎ。
その瞬間、テレビ画面のテロップに表示された「プレゼント応募用の電話番号」に向かって、日本全国の視聴者から一斉にアクセスが集中した。
ガチャリ、ツーーー――。
テレビ局の回線は瞬く間にパンクし、スタッフの「電話が鳴り止みません! 回線が完全に落ちてます!」という悲鳴と慌ただしい足音がスタジオの裏まで響き渡る。
「……お前ら、どんだけ暇なんだよ」
呆れたようにため息をつく八幡の横で、戸部は「すげぇよ八幡! 俺たちのコンビネーション、まだまだ現役じゃん!」と満面の笑みでハイタッチを求めてくる。
元・チャラ男のスポーツマンと、元・ひねくれ者の元・大臣。
かつての高校の同級生二人組が巻き起こした予測不能な旋風は、日曜の夜のテレビ画面を通じて、日本中を最高にバカバカしく、そして温かい熱狂で包み込んでいくのだった。
ロンドンの夜と、小さな嫉妬
日本中が日曜の夜のバラエティ番組と、予期せぬ「八幡のスポーツ無双」の話題で持ちきりになっていたその頃。
時差のあるイギリス・ロンドンの洗練されたアパートメントの一室で、その生放送の配信画面をスマートフォンで見つめている男がいた。――葉山隼人だ。
画面の中で、相変わらず気だるげな顔をしながらも鮮やかな足技を披露し、戸部と並んで苦笑いしている八幡の姿が映し出されている。
葉山はしばらくその画面をじっと見つめ、やがて呆れたような、そしてどこか悔しそうな笑みを浮かべながら画面に向かってぼそっと呟いた。
「……なんだよそれ。呼んでくれれば、俺だって帰国して一緒にボールくらい蹴ってやったのに」
「ふふ、隼人くん、今さらロンドンから駆けつけるのは物理的に無理でしょ?」
そう言って隣からクスリと楽しそうに笑い声を上げたのは、画面の横で淹れたての紅茶をマグカップに注いでいる――小町だった。
彼女は現在、留学や現地での仕事、あるいはそれぞれの道が交差するタイミングでロンドンを訪れており、自然な流れで葉山と同じ空間でその番組を一緒に観戦していたのだ。
「まったく、お兄ちゃん相変わらず目立つんだから。日本にいない私たちを置いて、すっかりテレビの向こうの主役気取りなんだからさ」
小町が少し得意げに、けれど嬉しそうにソファに腰掛け、カップを傾ける。
葉山はスマホをテーブルに置き、やれやれといった調子で肩をすくめた。
「敵わないな、相変わらずあの男は。どこにいても、勝手に周囲を巻き込んで自分たちのペースにしちまう」
「でしょ? お兄ちゃんはそういう人なの」
静かなロンドンの夜の部屋で、ふたりは顔を見合わせてクスリと笑い合う。
遠く離れた日本で八幡が相変わらずバタバタと騒動を起こしている中、こちらはこちらで、穏やかで確かな絆――ふたりの未来に向けた愛を、一歩ずつ、しかし着実に育んでいたのだった。
クイズ番組の罠と、元・教師のプライド
テレビのチャンネルを回せば、今やどこを引っ張っても比企谷八幡の名前に行き当たる。
そしてその日、彼が引きずり出されたのは、超難問の知識とひらめきを競い合う全国ネットの大型クイズ番組のステージだった。
豪華な解答者席に、そうそうたる東大出身のタレントや、気鋭のクイズ王たちが並ぶ中、なぜか無造作にトレンチコートの襟を立てた八幡がぽつんと座っている。
MCが興奮気味にマイクを向けた。
「さあ、元・大臣であり、ベストセラー作家でもある比企谷さん! 今回のクイズ、勝算はいかがですか?」
八幡は面倒くさそうにマイクを拾い、三白眼を細めてぼそっと答えた。
「いや、勝算もクソも、こういうの苦手なんですけど……。まあ、一応言っときますけど、俺、高校時代は学年3位でしたからね。地頭の良さじゃなくて、徹夜の暗記と悪知恵で這い上がった3位ですけど」
「なんと、あの比企谷さんが隠れたエリート発言! さすが総武高校の猛者です!」
いざクイズが始まると、周囲のクイズ王たちが早押しボタンを競う中、八幡は難しい文学の引用や、歴史の裏を突くような難問、さらには妙に生活臭のある実用的な問題まで、絶妙なタイミングで淡々と正解を重ねていく。
「ふっ、古典なんてのは出題者の悪意のパターンさえ見切れば大体引っかかるようにできてんだよ。……まあ、勉強なんてしといて損はないってことだな」
涼しい顔をしてポツリと呟くその姿は、かつて補習の常連だった男のものとは思えないほど、妙に説得力に満ちていた。
全国に波及する「勉強し直し」の嵐
その番組をリアルタイムで観ていた全国の学生や、日々の仕事に追われていた社会人たちは、画面の前の八幡の姿に衝撃を受けていた。
『待って、八幡って勉強できるキャラだっけ……? いや、元・大臣だから当たり前か』
『「勉強しといて損はない」って、あのひねくれ者から言われると妙にグサッとくるんだが』
『クソ、来週の資格試験、ちょっと本気で勉強し直すわ……』
スマートなエリートの綺麗ごとではなく、泥臭く机にかじりついて生き抜いてきた男が吐き出す「リアルな知性の価値」。
その言葉に背中を押されるように、全国の書店の参考書コーナーや資格試験の申し込み窓口には、なぜか夜を徹して勉強し直す若者や社会人たちの姿が急増した。
知識をひけらかすわけでもなく、ただ必要な時に必要なだけの知恵をサラリと見せつける。
――なんだかんだ言って、この男の本質は、かつて自分の周りで面倒くさい奴らに勉強を教えていた「元・教師(のようなもの)」だったのだ。
画面の向こうで「あー、肩凝った」と盛大にため息をつく八幡の背中を眺めながら、今日もまた、誰かがそっと参考書を開き直すのだった。
衣替えと、いつも通りの日常
外国の街並みを模したオープンセットや、実際のローカルな路地裏を舞台にした撮影が始まった。
ただ、今回はいつものトレードマークであるトレンチコートではなく、フードのついた無地のパーカーに、少し着古したジャケットという、よりラフで動きやすい格好だった。
監督からは「もっとカメラを意識して!」とか「かっこいい表情で!」といった注文は一切ない。
ただ「はい、じゃあ適当にその辺のテーブルに座って、現地のスパイス肉の串焼きを文句言いながら食ってください」と言われるだけだ。
カメラが回る中、八幡は本当にいつも通り、ポケットに手を入れたまま、やれやれといった顔で椅子に腰掛けた。
「……なんだこの肉。見た目完全に焦げ炭じゃねぇか。絶対腹壊すやつだろこれ」
ボソボソと文句を言いながらも、串にかぶりつき、地元の安いビールをあおる。
その横で、地元の頑固そうな店主が何かをまくし立て、八幡が適当に気の抜けた返答でいなしていく。台本なしの、その場の空気と食の匂いだけで進んでいくシュールでリアルな掛け合い。
それは「演技」などという小手先の技術ではなく、彼が実際に世界を旅し、人とぶつかり、美味しいものと酒を分かち合ってきた日々の「生々しい手触り」そのものだった。
「演技をしていない」という最高の評価
その短編ドラマが深夜枠、あるいは配信限定でひそやかに公開されると、テレビやネットの業界はまたしても静かな衝撃に包まれた。
『待って、八幡のドラマ、ガチでヤバくない……?』
『いつものコートじゃないラフな格好もなんか新鮮でいいな』
『演技してる感がゼロどころか、ただ文句言いながら美味そうに飯食って酒飲んでるだけなのに、なぜかめちゃくちゃ引き込まれる』
プロの俳優がどれだけ練習しても出せない、本物の「自然体」。
計算高さのかけらもない、ただ目の前の面倒くさい現実と美味い飯を受け流していく主人公の姿は、視聴者たちに強烈なリアリティと心地よいカタルシスを与えた。
「――だから、演技じゃねぇっての」
自宅のソファで、自分のドラマがネットのトレンドを総なめしている画面を横目で見ながら、八幡は缶コーヒーのプルタブをプシュッと開けた。
相変わらず気だるげで、ひねくれていて、けれどどこか温かい。
カメラの前で演じなくとも、彼の生き様そのものが、最高にドラマチックな物語として世界を染め上げていくのだった。
聖地となった路地裏
八幡が主演(本人役)を務めた自伝的短編ドラマがネットや深夜枠で大ヒットした結果、撮影に使わせてもらったロケ地の店には、予想外すぎる事態が巻き起こっていた。
「おいおい、なんだこの行列は……」
数日後、ドラマで訪れたあの古びた串焼き屋の前に足を運んだ八幡は、目の前を埋め尽くす長蛇の列を見て、思わずその場で足が止まった。
画面越しに彼が「焦げ炭じゃねぇか」と文句を言いながらかぶりつき、安いビールで流し込んだあの店は、今や日本中から聖地巡礼にやってきた観光客やドラマのファンたちで溢れかえり、開店前からシャッターの周りに黒山の人だかりができていたのだ。
店から出てきた初老の店主は、八幡の姿を見つけるなり、目を丸くしたあと、感極まったような最高の笑顔で駆け寄ってきた。
「兄ちゃん! いや、比企谷さん! あんたのおかげだよ! こんな寂れた裏通りに、日本中どころか海外からもお客さんが来てくれて、もう材料が足りなくて嬉しい悲鳴ってやつだ! 本当にありがとうな!」
両手をガッチリと握りしめられ、店主から深々と頭を下げられる。
八幡は気まずそうに目を泳かせながら、片手で頭をポリポリと掻いた。
「いや、俺はただそこで肉食って酒飲んで文句言ってただけなんで……勝手にありがたがらないでくださいよ」
地域活性化という名の「誤算」
その日の夜、ニュースやネットの経済情報、あるいはSNSのトレンドは、この小さな店の劇的なビフォーアフターの話題で持ちきりになっていた。
『八幡がドラマで食ってた串焼き屋、行列エグすぎて草』
『ただの個人経営の店が一晩でワールドワイドな聖地になっててワロタ』
『政治家や行政が何年もかけてできなかった地域活性化を、プー太郎がただ美味い飯食っただけで成し遂げた件』
狙ったわけでも、政策として地方創生を掲げたわけでもない。
ただ自分が「旨い」と思い、その場の空気を面白がり、不器用な言葉で記録しただけ。しかし、その飾らない熱量が結果として錆びかけた街に新しい血を通わせ、文字通り世界を動かす「広告塔」としての役割を果たしてしまっていた。
その夜、自宅のソファに沈み込みながら、ニュースで自分の顔が大写しになっているテレビ画面を眺めて、八幡は深々とため息をついた。
「……文字通り、地域活性化の広告塔になってるってか。冗談だろマジで」
リモコンを放り出し、テーブルに置いてあった冷めた缶コーヒーを一口飲む。
「……俺はただ、そのへんで美味いメシ食って、適当に酒飲んで生きてるだけなんだけどなぁ」
ぼそりと呟いたその一言は、スマホを通じて瞬く間にネットの海へと拡散され、世界中の人々の笑いと共感を呼びながら、またしても大きなトレンドの波を作っていくのだった。
予想外の「ぷにっ」と、走り出す朝
連日続くグルメ番組や旅先での食べ歩き、そして材木座と共著した本のヒット祝いで美味いものと酒を浴びるように堪能していたある日の朝。
自宅の洗面台の鏡の前で、八幡は思わず自分の腹回りに手をやり、動きを止めた。
「……あれ? なんか、ちょっと……つまめる肉が増えてないか?」
気のせいではない。数ヶ月にわたる「美味いメシ生活」の結果、見事に引き締まっていたはずの細マッチョな肉体には、ほんのりと贅沢な「柔らかさ」が宿っていた。
元・大臣がまさかの「美味いもの食いすぎによる激太り(微増)」――そんな見出しが週刊誌の表紙に躍る未来を想像し、八幡は静かに冷や汗をかいた。
「よし……さすがに、そろそろ体を絞るか」
翌朝。いつものパーカーの上にジャージを羽織り、八幡は運動不足解消のために近所のランニングコースへと足を踏み出した。
ロッキー的狂騒曲の始まり
最初はただ、自分のペースで淡々と汗を流すだけのつもりだった。
しかし、朝の静かな住宅街や川沿いの道を、パーカーのフードを深く被ったあの「比企谷八幡」が真剣な顔つきで走っている。それに気づいた散歩中の住人や、通勤途中の会社員が「あ、八幡だ」「マジで走ってるぞ……?」とスマホを向けた。
さらに、SNSのリアルタイム情報で「今、〇〇の川沿いを八幡が走ってるらしい」と拡散されるやいなや、事態は思わぬ方向へと転がり始めた。
「待てよ、あのひねくれ者の八幡が走ってダイエットしてるなら、俺たちも動かなきゃヤバいんじゃね……?」
「よし、ついていこうぜ!」
映画『ロッキー』の有名なワンシーンの如く、最初は野次馬のようについてきていた学生やサラリーマン、主婦層たちが、いつの間にか八幡の後ろをぞろぞろと大群になって走り出し始めたのだ。
「おい、なんだお前ら!? ついてくんなっての! 俺はただ個人的に腹を引っ込めたいだけなんだよ!」
後ろを振り返り、思わずぼやく八幡。しかし、大勢の群衆を引き連れ、額に汗を浮かべながら街を駆け抜けるそのシュールで熱い光景は、もはや完全に伝説の映画のワンシーンだった。
まさかのスポーツシューズCM
その「朝のランニング大行進」の様子は、偶然通りかかったローカル局のカメラや通行人のスマホによって全国に生配信され、瞬く間にネットのトレンドを制覇した。
『八幡のダイエットラン、もはやロッキーの新作じゃんwww』
『うわ、後ろについて走ってる奴らの数エグいな。謎の宗教の行進みたいになってて草』
『ただ痩せようとして走ってるだけの男が、なぜ街中を巻き込んでるんだよ』
この「意図せず人々を動かしてしまった」シュールな健康ブームに目をつけた大手スポーツメーカーの広告代理店が、すぐさま動き出した。
数日後。八幡はまたしても、見慣れないスタジオの控え室で頭を抱えていた。
「いや、だから、俺はただちょっと体重が増えたから走ってただけで、企業の広告塔になるつもりは――」
「お疲れ様です! 依頼の品、スポーツシューズの新作です! どうぞ!」
半ば強引に手渡されたのは、抜群のクッション性を誇る最新のランニングシューズ。
断る間もなくカメラの前に立たされた八幡は、仕方がなさそうにその靴を履き、いつもの気だるげな顔でカメラに向かって一言放った。
「……ダイエットしてただけなんだけどなぁ。まあ、靴底が厚くて足は疲れにくいから、走る分には悪くない……か」
その飾らない、広告らしからぬCMが全国で放送されるやいなや、そのスポーツシューズの売上は爆発的な記録を叩き出し、日本中の街からスニーカーが消えた。
自分の脂肪を燃焼させるついでに、日本中の購買意欲まで見事に燃え上がらせてしまった八幡は、今日も今日とて、冷や汗をかきながら渋々走り続けるのだった。
招集された隠れ家
スポーツシューズのCMや相次ぐメディア露出ですっかり世間の注目を浴びてしまった八幡が、すべてを忘れてひっそりと息を潜めるように足を運んだのは、総武高校の卒業生たちが時折集まるお馴染みの居酒屋、あるいは隠れ家的な店だった。
暖簾をくぐると、そこにはすでに懐かしい面々が顔を揃えていた。
「いやあ、八幡! お前、最近テレビですげえ走ってたな! あのロッキーみたいな大群、俺も後ろから走りたかったぜ!」
そう言って豪快にビールジョッキを傾けているのは、相変わらずのテンションの戸部だ。
その隣では、新作のプロットの締め切りに追われながらもなぜか分厚いステーキを頬張ろうとしている材木座がいた。
さらに、イギリスから一時帰国したばかりの葉山隼人が涼やかな笑顔でグラスを拭き、その向かいには、制服から大人びた私服へと衣替えした小町、そして相変わらず凛とした美しさを纏う雪乃と、少し遅れて「お疲れ様!」と明るい声を響かせる結衣の姿もあった。
「なんだ、お前らも集まってたのかよ」
トレンチコート(ではなく、例のラフなパーカー)のフードを脱ぎながら、八幡が面倒くさそうに席に滑り込む。
終わらないダイエット談義
ひとしきり近況報告やテレビの裏話で盛り上がったあと、材木座が自分の分厚い腹回りをぽんぽんと叩きながら、深刻な顔でため息をついた。
「いやしかし、八幡よ……お前が最近ダイエットのために走り始めたというニュース、我が魂にも深く刺さったわ。見よ、この我が栄光の巨躯に蓄えられた贅肉を! 我も今日から肉体改造を始めるべきか……」
その言葉を聞いた瞬間、テーブルの空気がピタリと静まり返った。
「ダイエット」という単語に、あの女たちが黙っているはずがなかった。
「……材木座くん。ダイエットというのは、ただ口先で『痩せる』と宣うだけで達成されるものではなくてよ。日々のカロリー計算と、基礎代謝の管理、そして何より強い意志が必要なの。あなたにそれができるとは思えないけれど」
雪乃が冷ややかな、しかしどこか面白がるような三白眼で言い放つ。
「そうだよ、材木座くん! 口だけで『明日から本気出す』って言うパターンでしょ絶対! ね、雪乃ちゃん!」
結衣が楽しそうに笑いながら同意し、小町も「お兄ちゃんだって最近ちょっとぷにっとしてたんだから、材木座さんが本気出したらどうなっちゃうか……」と容赦ないジャッジを下す。
「ひどい! 我への風当たりが強すぎるではないか!」と材木座が頭を抱える中、八幡は「自業自得だろ」と冷めた目を向けてグラスの烏龍茶をすすった。
遠くの空から、そして乾杯へ
「まあまあ、二人ともそこまでにしてあげたらどうだい?」
そう言って穏やかに笑いながらグラスを差し出したのは、ロンドンから帰国したばかりの葉山だった。
洗練された大人の雰囲気を纏いつつも、高校時代と変わらない人懐っこい笑顔で八幡の肩を軽く叩く。
「お前も相変わらずだな、八幡。世界中を巻き込んで大騒ぎを起こしたかと思えば、今度はダイエットで街中を走らせるんだから」
「こっちだって好きで走ってるわけじゃねぇよ。お前こそ、ロンドンで優雅に紅茶でも飲んでろよ」
「あはは、たまにはこうして日本の喧騒に戻ってくるのも悪くないさ。みんな変わらないなと思ってね」
仕事や留学、それぞれの場所でそれぞれの道を歩みながらも、こうして同じテーブルに集まれば、あの頃と何も変わらない空気感がそこにはあった。
世間がどれだけ騒ごうとも、彼らにとって一番大切なのは、この飾らない日常と、くだらない冗談を言い合える仲間たちの存在だ。
「さあ、話はそれくらいにして、みんなグラスを持って!」
結衣の明るい声掛けに合わせて、全員がそれぞれのグラスやジョッキを手に持ち、テーブルの真ん中へと掲げた。
「「「かんぱーい!」」」
カランと心地よい氷の音が響き渡り、笑い声が夜の店内に溶けていく。
満ち足りた楽しい夜は、まだまだ終わる気配を見せず、それぞれの未来へと優しく続いていくのだった。
汗と鉄の匂いの中で
久しぶりの穏やかな日常を取り戻したかのように見えたある日。
運動不足と少し緩んだ体を本格的に引き締めるため、八幡がこっそりと足を向けたのは、かつて何度も世話になった都築の営む格闘技ジムだった。
「お、なんだ八幡か。最近テレビでやたら走り回ってるって聞いたぞ。腹も少し柔らかくなったんじゃねぇのか?」
リングの上でタオルを首に掛けた都築が、ニヤリと不敵に笑いながらミットを構える。
「うるせぇよ、だからこうして基礎から叩き直してもらいに来たんじゃねぇか。手加減なしで頼むわ」
ボクシンググローブを装着し、八幡は構えを取る。
パァン! パァン! と、ミットに重い打撃音が響き渡る。最初は鈍っていた動きも、かつて修羅場をくぐり抜けてきた身体感覚と都築のスパルタ指導によって、徐々にキレを取り戻していく。シャープなジャブ、鋭いワンツー。汗を滴らせながらサンドバッグを追い込むその姿は、バラエティ番組で見せる気の抜けた様子とは打って変わり、男の生々しい色気と凄みを漂わせていた。
――しかし、世間の目はそれを許さなかった。
「おい、あれって……!」
「比企谷八幡がガチで格闘技やってるぞ!」
いつの間にか、ジムの外には嗅ぎつけたマスコミや野次馬のカメラが黒山の人だかりを作っていた。隠れ家的なジムだったはずが、瞬く間に「元・大臣のストイックなトレーニング現場」として中継されてしまったのだ。
意図せぬCM撮影と、NGの嵐
その騒ぎを絶好のチャンスと捉えたのは、もちろんあの強欲な広告代理店とテレビ局のプロデューサーたちだった。
「比企谷さん! これはもう運命です! このジムのタイアップで、本格的なスポーツブランドのCMに行きましょう!」
「は? ジムのCMって……俺はただ個人的に汗流しに来ただけなんですけど!」
逃げる暇もなく、いつの間にかリングの上には本格的な撮影機材が並び、照明がギラギラと照りつける。
カメラの前に立たされた八幡は、グローブをはめたまま不機嫌そうに顔をしかめた。
「……こんなの絶対無理だからな。セリフとかマジで勘弁してくれよ」
「大丈夫です! カッコいいキメ台詞を一つだけ、カメラ目線で言うだけですから!」
監督から渡された台本(というかメモ書き)を一瞥し、八幡は盛大にため息をついた。
「いや、こんな気障(きざ)なセリフ言えるわけねぇだろ……。『守るために強くなろう。自分も、仲間も、愛する人も』ってなんだよこれ、どこの少女マンガの主人公だよ!」
「はい、今の調子で! 本番行きまーす!」
――そこからが地獄の始まりだった。
「カット! 比企谷さん、目が死んでます!」
「当たり前だろ、こんな恥ずかしいセリフ言わされてんだから生気も失せるわ!」
「カット! 今のはちょっと噛みました!」
「もう帰らせろ!」
テイク1、テイク2、テイク3……。
あまりの気恥ずかしさに何度も吹き出し、舌を噛み、スタッフにキレかけながらも、冷や汗を流しながら実に何十回と撮り直させられた末に、ようやく奇跡の一発が収められた。
クールに決めた男の代償
数日後、全国で放送されたそのスポーツジムのCM。
映像のなかでは、激しいサンドバッグ打ちのあと、うっすらと汗を浮かべた八幡がカメラをまっすぐに見据え、低く落ち着いた声でこう呟いていた。
「――守るために強くなろう。自分も、仲間も、愛する人も」
あれだけ何十回もNGを出し、ブツブツと文句を垂れ流しながら撮影したとは思えないほど、鍛え上げられた細マッチョの肉体と引き締まった表情、そして圧倒的な説得力を持ったその「クールすぎる一言」は、映像マジックによって完璧な仕上がりになっていた。
放送開始と同時に、ネットの海は再び大爆発を起こした。
『待って、今回のCMの八幡、ガチでイケメンすぎて二度見したんだが……!』
『「守るために強くなろう」って、あのひねくれ者が言うからこそ重みがエグい……!』
『めっちゃかっこいいけど、絶対撮影の時めちゃくちゃ照れながら何回もNG出しただろこれwww』
「……二度とあんな恥ずかしい仕事引き受けるか」
自宅のソファで、自分のキメ顔がテレビ画面に映るのを直視できずに枕を頭から被りながら、八幡は悶絶するのであった。
世間からの絶賛とバズりの嵐に包まれながらも、彼の心の中は「二度とやらん」という強い後悔と疲労感で満ちていたのだった。
画面の向こうの阿鼻叫喚
全国のお茶の間が、あのスポーツジムのCMでの八幡の「クールすぎるキメ顔と台詞」に熱狂し、ネットのトレンドが歓声とツッコミの嵐で埋め尽くされていたその頃――。
まったく別の場所で、全く異なる理由により、3人の女性が盛大に撃沈していた。
「……は……? なにこれ……っ!」
自宅のリビングで深夜のテレビ画面をぼんやり眺めていた川崎沙希は、画面に映し出された八幡の顔と「自分も、仲間も、愛する人も」という重すぎるセリフを聞いた瞬間、バッと盛大に顔を真っ赤に染め上げた。
「聞いてない……! そんなの、聞いてないんですけど……っ!」と、あまりの直球な破壊力に手元のクッションを顔に押し当てて悶絶する。
一方、都内の高級マンションでワイングラスを傾けていた陽乃も、画面を見た瞬間に「ぷっ……ははっ!」と盛大に吹き出したあと、みるみるうちに耳たぶまで真っ赤に染めてテーブルに突っ伏した。
「……ずるい、であんなの……。あの子、いつの間にあんなキメ顔のスキル覚えたのよ……」
そして雪ノ下家の自室。
課題の資料からふと顔を上げてテレビに目をやった雪乃は、そのセリフと引き締まった肉体の映像を直視した瞬間、手元で持っていたペンをポロリと床に落とした。
「……っ! な、なんという……下劣で、恥知らずな……!」
真っ白な顔が一気にトマトのように真っ赤に染まり、羞恥と動揺のあまり、そのままベッドにバタリと倒れ込んで毛布を頭から被ってしまったのだった。誰一人として、本人からあんなセリフを言うなんて知らされていなかったのである。
雪ノ下家の夜と、思わぬ波紋
その頃、雪ノ下家のリビングでは、別の意味でシュールな嵐が吹き荒れていた。
テレビの画面に映る八幡の凛々しい姿と「守るために強くなろう」という力強いメッセージを、お茶を飲みながらじっと見つめていた雪乃たちの母親。
その隣で、同じくニュースやCMを眺めていた父親は、ふっと小さく苦笑いを漏らした。
「ふむ……。あのひねくれた小僧も、言う時は言うようになったものだな。なかなかの男の背中ではないか」
その夫の何気ない呟きを、母親は鋭い、しかしどこか含みのある三白眼で見据えた。
「……でお父様。あなた、感心している場合なの?」
「ん? どうした急に」
母親はスッと夫に顔を近づけ、じっとその目を覗き込みながら、氷のように冷たく、しかしほんのり茶目っ気を含んだ声で尋ねた。
「あの若者はね、『自分も、仲間も、愛する人も守るために強くなる』と言っているのよ。……それに比べて、あなたはどうなの?」
「私……?」
「ええ。長年政界や財界の荒波を渡ってきたあなただけど最近すっかりお腹まわりが緩んできているし、いざという時に私をそんな風に守ってくれる気はあるのかしら? ……あなたは、私のこと、守ってくれないの?」
突然の直球すぎる妻からの問いかけに、百戦錬磨の雪ノ下家の当主も冷や汗を流しながら一瞬絶句した。
「い、いや、それはだな……! 私だって男としてのプライドがだな……!」
「ふふ、冗談よ。でも……若い世代にあんな真っ直ぐな背中を見せられたら、父親としても負けていられないんじゃない?」
妻のその挑発的で美しい笑みに火をつけられたのか、夫はふっと息を吐き出すと、ネクタイを外し、ジャケットを脱ぎ捨てて立ち上がった。
「……ふっ、いいだろう。世間の若造にばかり良い恰好はさせんさ。今夜から、私もこの衰えた体を徹底的に鍛え直すとするか!」
そう言って、リビングの隅でいきなり腕立て伏せと腹筋をギコギコとやり始めた夫の姿を見て、母親は思わず声を上げて愉快そうに笑った。
比企谷八幡がテレビの向こうで放った「何気ない(けれど本人はめちゃくちゃ恥ずかしがっている)一言」は、海を越え、世代を越え、日本中のあちこちで、予想もしない甘酸っぱくて熱い波紋を広げ続けるのだった。
原点の甘さと、変わらない景色
世間がどれだけ「元・大臣」「世界の旅人」「時代の広告塔」と持ち上げ、スポーツジムのCMやドラマで騒ぎ立てようとも、比企谷八幡の本質はいつだってあの頃と変わらない。
「――で、今度はマックスコーヒーのCMか」
撮影スタジオの隅。
用意された衣装を見て、八幡は珍しく、心底嬉しそうな――しかし相変わらずの三白眼をわずかに緩めた。
そこにあったのは、高級なブランドスーツでも、特製のトレンチコートでもない。あの高校時代に毎日のように着ていた、少し野暮ったい総武高校の制服、そしてあの頃のボサボサの黒髪を再現したヘアスタイルだった。
「いやぁ、オファーを受けた時は耳を疑いましたよ。まさか、天下の比企谷さんがここまで初心(うぶ)な仕事を引き受けてくれるとは」
広告代理店のプロデューサーが呆れ半分、感心半分で笑う。
八幡はふっと鼻で笑い、テーブルの上に置かれた黄色と緑のあの懐かしい缶を手に取った。
「他の企業の案件は全部お断りしたけどよ……これだけは別だろ。なんせ、俺の青春の燃料の大半は、この毒々しいまでの甘さで出来てたんだからな」
台詞のない、ただの日常
撮影が始まっても、カメラの前で派手なアクションや気の利いたキメ台詞を求められることはなかった。
監督からの指示はただ一つ。
「――八幡さん、喋らなくていいです。ただ、いつもみたいにそこにいて、あのコーヒーを飲んでください」
カメラが捉えたのは、かつての総武高校の部室を精巧に模した薄暗い空間。
窓の外には、見慣れた千葉の夕暮れが広がっている。
セリフは一切ない。
ただ、夕方のチャイムが遠くで響く中、八幡がトボトボと歩いて自販機の前に立ち、あの黄色い缶にコインを投入する。
ガチャンと鈍い音を立てて取り出し口に落ちてきたマックスコーヒーを拾い上げ、プシュッとプルタブを引く。
一口、喉に流し込む。
あの頃と変わらない、頭が痺れるほどに強烈で、どうしようもなく甘い味が口の中に広がる。
ふと、夕日に染まる空を見上げる八幡の横顔。
その瞳に、かつての仲間たちの姿――文室でくだらない言い争いをしていた日々や、不器用に笑い合っていた景色の残像が、ほんの一瞬だけ重なる。
彼はただ、クスリと小さく自嘲するように笑い、また一口、甘い缶コーヒーを口に含んだ。
画面の向こうに響く、モノローグ
映像のバックには、低く、どこか気だるげでありながら、不思議な温もりを帯びた八幡のモノローグ(独白)が静かに重なっていた。
『青春なんて言葉は、どこか遠い世界の甘酸っぱい物語だと思っていた』
『間違いだらけで、傷だらけで、どうしようもなく面倒くさいことばかりの毎日だった』
『だけど――』
『あの日の自販機の横で、この泥のように甘いコーヒーを飲みながら、くだらないため息をついていたあの時間こそが』
『俺にとっての、かけがえのない青春だったのかもしれない』
『……まあ、今でもたまに、無性に飲みたくなるだけだけどさ』
最後に映し出されたのは、夕暮れの中を一人、ポケットに手を入れて歩いていく後ろ姿と、『マックスコーヒー。変わらない甘さが、ここにある。』というシンプルなテロップだった。
優しい静寂のあとで
そのCMがテレビで流れた夜。
日本中を席巻していたこれまでのバラエティ的でバズりまくりの喧騒が、嘘のようにピタリと静まり返った。
SNSのタイムラインは、派手なツッコミやミームではなく、ただ静かな感動と懐かしさの共有で埋め尽くされていた。
『ずるい……最後のあのモノローグは反則だろ……』
『結局、八幡の原点はこれなんだよなぁ。なんか泣きそうになったわ』
『あの頃の制服姿を見ただけで、勝手に自分の青春まで蘇ってきた気分になる』
千葉の自宅のソファで、テレビに流れる自分のCMをぼんやりと眺めながら、八幡は冷めた缶コーヒーを一口すすった。
「……はぁ。柄にもなく、ガラにもないこと喋らされたな」
照れくさそうに頭を掻き、ボソリと呟く。
だけど、その三白眼の奥には、どこか満足げな、穏やかな光が宿っていた。
世界を巻き込んだ大騒動の果てにたどり着いたのは、やっぱりいつもの、最高に甘くて気だるい「日常」だった。
水の底の静けさと、予期せぬ歓声
マックスコーヒーのCMが静かな感動を呼び、世間が少しだけノスタルジックな空気感に浸っていた頃。
すっかり秋めいてきた季節の変わり目とはいえ、まだまだ残暑の残る晴れた日、八幡は地元の市民プールに足を運んでいた。
「……はぁ、やっぱり水の中は静かでいいな」
世間の喧騒や、相変わらずスマホの通知を鳴らし続けるメディアの存在を一時的に忘れ、八幡はクロールで黙々とプールを往復していた。
かつての少し緩んだ体も、近頃のランニングと都築のジム通いによってすっきりと引き締まり、水面を滑るフォームには無駄な力が一切ない。元・大臣が一般の市民プールでガチの泳ぎを披露している絵面だけでも、すでに十分シュールだったが、本当の騒動はその直後に起きた。
プールの端で息を整えていた八幡の足元に、ぷかぷかと小さな浮き輪が流れてくる。
顔を上げると、そこにはビート板を抱えた幼い子供たちが数人、申し訳なさそうに、しかしどこか興味津々な目でこちらを見上げていた。
「あ、おじさん……それ、取って……」
「……おじさん言うな。まだ二十代だ」
ボソッと言いつつ、八幡は浮き輪をひょいと拾い上げ、子供たちに放り投げてやった。
しかし、そこからが不運の始まり――いや、必然の連鎖だった。
「ねえ! お兄ちゃん、すごい上手に泳いでたけど、どうやったらそんなに早く進めるの!?」
「いや、フォームとか適当だし、別に早く泳ぐ必要なくね?」
「鬼ごっこしようぜ!」
「は? 待て、勝手にルール増やすな……」
気づけば、八幡の周りにはあっという間に数十人の子どもたちの輪ができていた。
「ただ静かに泳ぎたかっただけなのに……」と遠い目をしながらも、邪気のない子どもたちに押し切られ、八幡は面倒くさそうにしながらも結局相手をしてやる羽目になった。
水中の教育的指導
子どもたちにせがまれるがまま、浅瀬で水遊びに付き合っていた八幡だったが、ふと、はしゃぎすぎて深い方へ行こうとする小さな男の子の姿が目に入った。
「おい、そこから先は足が届かねぇからやめとけ。溺れるぞ」
「えー、大丈夫だよ! 浮き輪あるもん!」
男の子が威勢よく胸を張るのを見て、八幡はスッと真顔になり、その小さな浮き輪の端をピタッと掴んだ。
「バカ。その程度の浮き輪を過信するな。波があったり、急に体力が奪われたりしたら、そんなのただの飾りだ。……いいか、水の中じゃ『過信』と『油断』が一番の死因になる。自分の命は自分で守る前提で動け。知らんけど」
子どもに向かっては少しトゲのある、しかし妙に現実的で核心を突いた「水の怖さと浮き輪の重要性についての講義」が始まった。
その様子を、少し離れた休憩スペースで見守っていた子どもたちの母親や父親たち――そして偶然居合わせた一般の利用客たちが、いつの間にか固唾を飲んで聞き入っていた。
「……あの人、言ってること妙に的確じゃない?」
「あれ、もしかして……テレビでよく見る元・大臣の……!」
「待って、子供の安全に対してめちゃくちゃ現実的なアドバイスしてる……!」
スマホを取り出し、遠巻きにその様子を撮影し始める親たち。
子どもたちは子どもたちで、「なんかこのおじさんの話、説得力あるぞ……!」と神妙な顔で聞き入っている。
プールサイドの特設イベント
「……なんだよ、人の説教に勝手に聞き耳立てるなよお前ら」
気づけばプールのギャラリーは増え続け、フェンスの外側にはいつの間にか野次馬やカメラマン(なぜかどこからか嗅ぎつけたメディアの姿も)まで集まり始めていた。
「比企谷八幡、市民プールで児童にガチの安全指導をする!」という速報が、またしてもSNSのトレンドを駆け抜ける。
「はい、今日の水泳教室はここまで。これ以上絡んできたら、俺はただの不審者として通報されるからな」
子どもたちの頭を雑にポンと叩き、八幡は濡れた髪を拭きながらプールサイドからサッと引き上げようとした。
しかし、集まった親たちやファンからは「お疲れ様!」「いいこと聞いたわ!」「ありがとう、八幡!」と、なぜか温かい拍手と歓声が湧き起こる。
「……ただ市民プールで泳ぎたかっただけなんだけどなぁ」
バスタオルを肩にかけ、びしょ濡れのままトボトボと出口へ向かう背中を見送りながら、その場にいた誰もが思った。
この男が動けば、どんな日常のワンシーンでも、なぜか勝手にドラマやイベントになってしまう――それが「比企谷八幡」という存在の、どうしようもない宿命なのだと。
幼稚園の「銀髪の王子様」
市民プールでの思わぬ「安全指導イベント」がネットで話題になってから数日後。
今度は、地域の保育園か幼稚園から「園児たちの防犯や生活の心構えについて、ちょっとお話をしてくれませんか」という、断りづらい極めてまじめな依頼が八幡のもとに舞い込んでいた。
「……なんで俺が園児の相手をしなきゃならないんだ。不審者に間違われるのがオチだろ」
そうぼやきつつも、引き受けざるを得ない状況に追い込まれ、八幡は渋々その幼稚園の遊戯室のステージの端に立っていた。
服装はいつものラフなパーカーにスニーカーだが、最大の問題は、彼の生まれつきの――あるいは旅の途中で少し色が変わったとも噂される――特徴的な銀髪と、耳元で控えめに揺れる小さなピアスだった。
大人の世界では「ひねくれ者の元・大臣」として扱われる彼も、世間知らずな小さな子供たちの目には全く違って映っていた。
「ねえ、見て! あの人、おとぎ話に出てくる王子様みたいじゃない!?」
「髪がキラキラしてて、かっこいい!」
園児たちの間で、一瞬にして黄色い(あるいはピュアな)歓声が巻き起こる。
最前列に座る女の子たちは目をハートにして八幡を見上げ、ちょっとしたアイドル状態になってしまった。
嫉妬の炎と、謎の人生相談
そんな「王子様扱い」をされる八幡を、一番前で腕を組んで睨みつけている一人の男の子がいた。
――その園児は、ぷくっと頬を膨らませ、明らかに敵意剥き出しの目で八幡をガン見している。
(……なんだあいつ、めちゃくちゃ睨んでくるんだけど。俺、何か子供の逆鱗に触るようなことしたか?)
質問コーナーになり、その睨みつけていた男の子が代表して手を挙げた。先生に促されて立ち上がると、尖った声で八幡に詰め寄る。
「ねえ! なんかカッコつけてるけど、どうやったらそんなに女の子にモテるわけ!?」
その直球すぎる質問に、遊戯室の空気が一瞬でピタリと止まった。
後ろに控えていた園長先生や保母さんたちが「こら、〇〇くん!」と慌てて止めようとするが、八幡はふっと息を吐き、どこか面倒くさそうに片眉を上げた。
「……女の子にモテたいのか?」
「モテたい! ボクだってカッコよくなりたいもん!」
八幡はトントンとステージの端から床に降り、その男の子の目のしゃがみ込んだ。
銀髪を軽く揺らしながら、八幡は低く、どこか達観したような、けれど妙に真面目なトーンでアドバイスを送る。
「モテたいなら、俺みたいに銀髪にしたりピアス開けたりする必要は一切ねぇよ。……そんなのただのコスプレだ」
「じゃあ、どうすればいいの……?」
「簡単だ。もし、お前の近くで転んで泣いてる女の子がいたら、すっと近づいて手を貸してやれ。あと、ポケットからそれっぽい絆創膏でも出して『これ、貼っとけよ』って渡してやればいい。……それだけで、お前は間違いなくそいつのヒーローになれる。知らんけど」
幼稚園を席巻する「紳士ブーム」
八幡のそのアドバイスを、最前列にいた男の子たちは「うん、うん」とものすごく神妙な顔つきで、まるで世界の真理を聞くかのように深く頷きながら聞いていた。
その数日後――。
その幼稚園では、驚くべき現象が起きていた。
園庭で鬼ごっこをしていて転んだ女の子のところに、さっと別の男の子が走り寄り、「ほら、立てる?」と手を差し伸べる。
さらに、砂場で服を汚して泣きそうな女の子の前に、なぜかポケットからキャラクターものの絆創膏を取り出した男の子たちが「これ、使えよ……」と照れくさそうに差し出す。
最初は「どうしたの急に?」と戸惑っていた女の子たちだったが、次々と優しくされるうちに、まんざらでもない顔で頬を赤らめ、「……ありがとう、〇〇くん」とはにかむようになった。
乱暴だったはずの男の子たちがやけに紳士的になり、女の子たちはちょっとおませに嬉しそうにする。
結果として、クラス全体の雰囲気がやけに平和になり、みんな以前よりずっと仲良しになったのだった。
その報告を後日、園長先生から手紙で受け取った八幡は、自宅のソファで頭を抱えながら遠い目をしていた。
「……俺、いったい幼稚園児に何を教え込んでんだよ……」
ため息をつきながら缶コーヒーを飲むその横で、テレビのニュースでは「元・大臣の教育論、今度は幼稚園児の人間関係を劇的改善!」という謎の見出しが流れているのであった。
「小学生からナンパ師養成?」のバズ
幼稚園での小さな一コマが、とある保育士のSNSへのちょっとした呟きをきっかけに、ネットの海へと放り出された。
『今日、例の元・大臣の人が幼稚園児に授けた「転んだ女子には絆創膏」の教えのせいで、園児たちが完全にクラスの女子を落としにかかる小さなナンパ師集団と化している件について。』
そのユーモラスな投稿とエピソードは、瞬く間に全国の親御さんやネットユーザーたちの爆笑と共感を呼び、あっという間にX(旧Twitter)のトレンド上位を占拠した。
『待って、八幡のせいで全国の幼児が将来有望なチャラ男になりかけてて草』
『「下心があろうが無かろうが優しくされて悪い気はしない」って論理が強すぎるだろwww』
『元・ひねくれ者が、気づかないうちに次世代の恋愛マスターを量産してるのジワる』
しかし、事態は幼稚園児だけに留まらなかった。
この「八幡流・スマートな優しさの押し売り(絆創膏戦法)」は、波及効果のように小学生、さらには中高生の男子たちにまで飛び火していったのである。
全国に広がる「絆創膏ドミノ」
「なあ、お前もあのテレビ見た? 転んでる女子に絆創膏渡すやつ、ガチで効くらしいぞ」
「いや、わざとらしくね? でも、確かにされたらちょっとビビるかも……」
学校の休み時間や放課後、ネットの切り抜き動画を見た小中高生の間で、なぜか「困っている女子、あるいは怪我をした女子にサッと絆創膏を差し出す」という謎の紳士的流行(ブーム)が巻き起こった。
もちろん、やっている男子たちの動機の大半は「モテたい」「カッコいいところを見せたい」という、純度100%の下心である。
だが、その下心がどれだけ見え見えであれ、実際に転んで痛がっている時にスッと優しくされ、キャラクターものの絆創膏を「これ、貼っとけよ」と渡されて悪い気をする女子など一人もいなかった。
「……ありがと、〇〇くん。なんか、意外と気が利くんだね」
「い、いや、別に大したことねぇし!」と赤面して逃げる男子。
最初は「何あれ、ちょっとキモいんだけど」と笑っていた女子たちも、いざ真剣に手当てをされると「……まあ、悪くないかも」と、まんざらでもない笑顔を見せる。
その結果、全国の学校のクラスのあちこちで、妙に穏やかでちょっと甘酸っぱい空気が連鎖的に生まれていくことになった。
思わぬ経済効果と、本人の嘆き
この全国的な「絆創膏ブーム」の数字を一番最初に察知したのは、もちろん大手日用品メーカーだった。
「おい、聞いてくれ! 全国規模でキャラクターものの絆創膏の売上が、先月比でなんと150%増を記録したぞ!」
「マジか!? なんだこの急な怪我人急増のトレンドは……?」
「いや、怪我人じゃなくて、みんなストック用にポケットに忍ばせてるらしい! 発端はあの、比企谷八幡の幼稚園でのアドバイスだ!」
「またかよ……!」
数日後、ニュースの経済番組で「元・大臣の恋愛(?)アドバイスにより、絆創膏の売上が爆発的伸びを記録」という特集が組まれているのをテレビで目撃した八幡は、手に持っていた缶コーヒーを思わずテーブルに激しく置いた。
「俺はただ、子供の質問に適当に現実的な処世術を教えただけだろ……! なんで俺のせいで日本中のドラッグストアの絆創膏の在庫が枯れかけてんだよ!」
頭を抱え、絶叫する八幡。
しかし、彼のその「適当な一言」が、日本中の子どもから学生たち、そして女の子たちの日常をほんの少しだけ優しく、そしてちょっとだけめんどくさい恋愛模様に染め上げてしまったのは、もう誰にも止められない事実だったのだった。
提灯の赤さと、くだらない絡み酒
世間が「絆創膏ブーム」やら「元・大臣の謎の教育論」やらに勝手に熱狂しているのなど知ったことかと言わばかりに、その日の夜、八幡は自宅近くの裏路地にある、赤提灯がぼんやりと灯る古びた居酒屋の暖簾をくぐっていた。
テレビもスマホも忘れ、ただ冷えたビールと焼き鳥の塩気で一人ひっそりと現実逃避をする――それこそが、今の彼にとっての唯一の平和な時間だった。
しかし、世間は彼をどこへ行っても放っておいてはくれないらしい。
「おい、そこの兄ちゃん……いや、若いのにやけに冷めた目をしてやがるな」
ググッと生ビールをあおり、すでに出来上がっている様子の隣のテーブルの恰幅の良い中年サラリーマンが、真っ赤な顔をして絡んできた。
スーツのネクタイを緩め、脂ぎった顔でグラスをガチャリと卓上に叩きつける。
「聞いてくれよ、若造……! 俺はなぁ、若い頃から身を粉にして働いて、会社の業績を支えて、家庭のために身を削って……なのにだ! 最近じゃあ、家に帰っても嫁さんは冷たいし、大学生の息子なんて俺の顔も見ようとしねぇ! 『お父さん、邪魔』だぜ!? ひどくねぇか!?」
周囲の客が「また始まったよ」と苦笑いして目を背ける中、八幡は焼き鳥のネギを箸でつつきながら、面倒くさそうに片目を向けた。
居酒屋の説教カウンセラー
「……で、何が不満なんですか」
「あぁ!? 不満に決まってるだろ! 俺があんなに家族のために働いてやってるのに、誰も感謝しねぇんだよ!」
八幡は小さくため息をつき、グラスのビールを一口飲んでから、ボソッと言い放った。
「そりゃ、そうなるだろ。ずっと仕事ばっかで、家庭を放置してたんだからさ」
「なっ……!」
「お前が仕事してる間、嫁さんは一人で家を守って、子供は勝手に育った気になってるんだろ。いざ暇になって構ってやろうとしても、今さらお前の居場所なんて家になぇよ。自業自得ってやつだ」
「なんだとこの野郎……!」と中年男が怒気を含ませて掴みかかろうとするが、八幡は微動だにせず、冷めた三白眼で見据えたまま淡々と正論を突き刺す。
「怒るなよ。そんなに家族が寂しいなら、休めばいいだろ。たまには家族サービスでもしろよ」
「休めるわけねぇだろ! 俺が抜けたら現場が回らねぇんだよ!」
「はあ? お前のその仕事、本当にあんたの代わりはいないのかよ?」
男が言葉に詰まると、八幡はさらに追撃する。
「どうせ、下に面倒くさい仕事を丸投げして、自分だけが『俺がいなきゃダメなんだ』って思い込んでるだけだろ。後輩育ててねぇから、いつまで経っても自分が休めねぇんじゃねぇの。……一日くらい会社休んでも、世界は微塵も傾かねぇよ。令和だぜ?」
――「令和だぜ?」
その現代的すぎるドライな、けれど妙に核心を突いた一言に、店内の空気がピタリと止まった。
中年男は酔いが一気に冷めたような顔で、ポカンと口を開けて八幡を見つめた。
深夜の電話と、涙の帰還
数秒の沈黙のあと、男はガタッと椅子を勢いよく引いて立ち上がった。
「……代わり、か……」
男は震える手でスマートフォンを取り出し、何を思ったか、そのままの勢いで会社の直通電話、あるいは部下の携帯へと発信ボタンを押した。
「あ、俺だ……! 明日、有給取る! ……理由? 知るか、私用だ! あと、来週の会議の資料はお前がまとめとけ! じゃ、お疲れ!」
プツリと電話を切ると、男は呆然とスマホを見つめ、やがて大粒の涙をボロボロとこぼし始めた。
「……俺、何やってんだろな……。家族に嫌われるのが怖くて仕事にしがみついてただけなのに……」
「……泣くなよ、酒がまずくなるだろ」
八幡は呆れたように顔をそむけ、自分の会計を済ませると、「お勘定」と言ってさっさと席を立った。
翌日の答え合わせ
その男が、昨夜の居酒屋で自分に痛いところを突いてくれた生意気な若造の正体に気づいたのは、翌日のことだった。
会社を急に休み、恐る恐る何十年ぶりかに手ぶらで帰宅した男を、妻と子どもたちは最初は驚いた目で迎えたが、男が絞り出すように「……今まで、悪かったな」と頭を下げた時、妻は驚き、そして小さく笑って「……何よ、急に。でも、お風呂沸いてるわよ」とタオルを差し出してくれた。
リビングで久しぶりに並んで食べた夕食の味に、男は涙が止まらなかった。
「あの夜、俺にあんな正論を吐いて、目を覚まさせてくれた若い男は一体誰だったんだ……?」
感動に浸りながらネットニュースを眺めていた男は、ふと画面に映し出された見慣れた銀髪のパーカー姿の男の顔を見て、コーヒーを吹き出しそうになった。
『――元・大臣、今度は居酒屋で中年サラリーマンの人生相談に乗る。酔っ払いを論破して家族を救う』
「……昨日のあの生意気な若造、あの比企谷八幡だったのか……っ!?」
テレビの画面の中で、相変わらず「いや、俺はただ酒飲みたかっただけなんで」とボソボソと言い訳をしている八幡の姿を見て、男は心の中で深く手を合わせたのだった。
世間がどう騒ごうと、今日もこの男は、意図せず誰かの人生を少しだけ変えてしまう――そんな不思議な日常を、相変わらず気だるげに生きている。
錆びたチェーンと、油まみれの手
近所のコンビニからの帰り道、夕暮れ時の住宅街の公園の脇を通りかかった時だった。
ガチャン、ガラガラ――と、耳障りな金属音が静かな夕暮れに響く。
目をやると、自転車のチェーンが外れてペダルが空転し、道の真ん中で途方に暮れている一人の小学生の男の子がいた。チェーンを無理やり手で直そうとしたのか、手のひらは真っ黒なグリスで汚れ、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「……おい、そんな素手で触ったら真っ黒になるだけだろ」
いつものラフなパーカー姿の八幡は、ポケットに突っ込んでいた手を引き抜き、面倒くさそうにため息をつきながらその男の子の自転車の前にしゃがみ込んだ。
「あ……おじさん、これ外れちゃって、動かなくなっちゃったの……」
「おじさん言うな。まだ二十代だ」
ぶつぶつと言いながらも、八幡は慣れた手つきで自転車をひっくり返し、バイクや自転車をいじる時によくやっているように、ペダルを回しながら外れたチェーンを巧みに元のギアへと噛み合わせていく。
キリキリと金属が噛み合う音がして、チェーンはあっという間に元の位置に戻った。
「ほら、直ったぞ。……貸してみろ、手を」
持っていたポケットティッシュを取り出し、男の子の真っ黒になった手を無造作に、しかし丁寧に拭いてやる。
男の子は、目の前で鮮やかにトラブルを解決してくれたその不思議な雰囲気の兄ちゃんを、ぽかんと口を開けて見上げていた。
「すげぇ……! お兄ちゃん、魔法使いみたい!」
「魔法じゃねぇよ、ただの構造上の問題だ。……もう変なとこ触るなよ、危ねぇから」
そう言い残すと、八幡はそれ以上お礼を言われるのも面倒だと言わばかりに、ヒラヒラと手を振ってその場をさっさと歩き去っていこうとした。
背中を向けたその男の頭には、夕日に照らされてかすかに光る、見慣れない銀髪が揺れていた。
男の子はポカンとしながら、「……あのお兄ちゃん、いったい誰なんだろう……?」と、去っていく背中をいつまでもじっと見つめていたのだった。
テレビのなかの「魔法使い」
それから数日後の夜。
テレビのリビングで、男の子は母親と一緒に何気なくバラエティ番組やCMの流れる画面を眺めていた。
すると、次の瞬間。
コマーシャルの合間に流れたスポーツシューズのCM映像に、あの見覚えのある顔が映し出された。
夕暮れの街を、パーカーのフードを被って真剣な顔で走り抜けていく男。
画面のテロップには、大きく『比企谷八幡』という名前が躍っている。
「あっ……!」
男の子は目を丸くし、ソファから飛び跳ねた。
「お母さん、これ! この人、この銀髪のお兄ちゃんだよ!」
「えっ? 何言ってるの、急に……って、これ、今ネットですごい話題になってる比企谷さんじゃない!」
母親が驚いてテレビ画面と息子を交互に見比べる。
「こないだ、ボクの自転車のチェーンが外れて困ってたら、このお兄ちゃんが真っ黒になりながら直してくれたんだよ! めちゃくちゃカッコよくて、すっげぇ手際よかったんだから!」
男の子は大興奮で、あの日の夕方の出来事を身振り手振りをつけて母親にまくし立てた。
「そっかぁ、あのニュースの人がねぇ……。本当に、どこにでも現れるのね、あの人は」と、母親は呆れたような、しかしどこか感心したような笑みを浮かべてテレビの画面を見つめた。
テレビの向こうでは、相変わらず気だるげな顔で汗を拭う八幡の姿が映っている。
街の片隅の小さな日常でも、ふとした出会いの先でも、このひねくれていて少し不器用な男は、知らず知らずのうちに誰かの記憶のなかの「ちょっと特別なヒーロー」として刻まれていくのだった。
静かな夜のカウンター
数々の思いがけない騒動や、ネットのトレンドを総なめにするバズり劇の喧騒から少しだけ離れ、八幡がその日足を向けたのは、かつて自身の政治活動の現場で文字通り泥を被り、酸いも甘いも共にした男――高柳の営む、あるいは根城にしている静かなバー、あるいは隠れ家的な店だった。
「――いらっしゃい。……珍しいな、お前がこんな隠れ家みたいな店に来るなんて」
グラスを磨いていた高柳は、カウンターの端にトレンチコートを脱いでラフなパーカー姿のままぽつんと座った八幡の姿を見るなり、驚いたような、しかしすぐにどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「別に、たまにはこういう静かな酒も飲みたい気分になっただけだ。……お前、相変わらず忙しそうだな」
「お前ほどじゃないさ。最近じゃテレビをつければお前の顔が出ない日はないし、街を歩けばお前のマネをした若造が絆創膏を配ってるって噂じゃないか」
フッと軽快に笑いながら、高柳は氷を入れたグラスに琥珀色のウイスキーを注ぎ、八幡の前に静かに滑らせた。
その手つきは以前よりもどこか洗練されており、政治の修羅場を潜り抜けてきた頃のギスギスした緊張感は綺麗に抜け落ち、大人の余裕と落ち着いた雰囲気が漂っていた。一回りも二回りも人間として成長したその背中に、八幡は心の中で小さく感心しながらグラスを受け取った。
交差する近況と、変わらない距離感
「で、どうなんだ? 政界の裏も表も見て、今じゃすっかり世間の『広告塔』だろ。窮屈じゃないのか?」
ウイスキーを一口含み、氷がカランと鳴る音を聞きながら高柳が尋ねる。
八幡は面倒くさそうにグラスを揺らし、フッと鼻で笑った。
「窮屈つーか、勝手に周りが勝手に騒いでるだけだ。俺はただ、美味いメシ食って、たまに走って、ダラダラ生きたいだけなのに……気づいたら幼稚園児の恋愛相談に乗ったり、自転車直して子供にヒーロー扱いされたりしてるんだから、世の中どうかしてるだろ」
「ははっ、相変わらずだな。お前が関わると、なぜかどんな堅苦しい話もシュールな人間ドラマに変ちくりんに変わっちまう。……でも、悪くない顔をしてるじゃないか」
高柳は自分のグラスを軽く合わせるように掲げた。
「昔はさ、『正しい世界』を作るために必死になって尖ってたけどさ……今は、目の前の面倒くさい現実をただ受け流しながら、たまに誰かの背中を押すくらいが、案外お前の器に合ってるんじゃないのか?」
「……余計なお世話だ」
吐き捨てるように言いながらも、八幡は否定はしなかった。
かつては政治という巨大な歯車の中で、正義や欺瞞と真正面からぶつかり合っていたふたり。しかし、今はこうしてそれぞれの場所でしっかりと地に足をつけ、酸いも甘いも噛み分けた大人として、同じ酒を静かに酌み交わしている。
優しく満ちる夜の底で
店内のスピーカーからは、主張しすぎない控えめなジャズのBGMが心地よく流れている。
外の喧騒が嘘のように静まり返った空間で、ふたりは他愛のない昔話や、最近の世迷い言をポツリポツリと語り合った。
「なぁ、高柳」
「ん?」
「お前のその店、案外居心地悪くねぇな。今度から、面倒くさい仕事のオファーが来たらここに逃げ込んでもいいか?」
八幡のその言葉に、高柳は呆れたように肩をすくめながらも、フッと柔らかく笑った。
「あぁ、いつでも来い。ただし、愚痴の相手をさせる代わりの一杯分の代金は、ちゃんと自分の稼ぎから払ってもらうけどな」
カランと、再び氷が涼やかな音を立てる。
外の世界がどれだけ騒がしく、予測不可能なトレンドを生み出し続けようとも、この静かで優しい夜の底だけは、ふたりの男にとって最高に穏やかで、満ち足りた時間としてゆっくりと流れていくのだった。
病院の廊下の静寂と、冷たい空気
高柳の営む静かなバーで穏やかな酒を酌み交わした数日後の深夜、八幡のポケットの中で、けたたましくスマートフォンが鳴り響いた。
画面に表示されていたのは、他でもない高柳からの着信だった。
嫌な予感を覚えながら電話に出ると、受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもの余裕のある声ではなく、聞いたこともないほど掠れ、震えている高柳の声だった。
『……八幡か。すまない、こんな夜遅くに……。今すぐ、〇〇総合病院に来てくれないか……!』
「……どうしたんだよ、そんな声出して」
『……息子が、事故に遭った。トラックとの接触で出血多量だ。……だが、珍しい特殊な血液型で、病院のストックが今すぐには足りないと言われた。お前の血液型なら……適合するはずなんだ。頼む、息子を助けてくれ……!』
それ以上、余計な言葉はいらなかった。
八幡は着ていたパーカーを引っ掴むと、そのまま夜の街へと飛び出した。
赤い命の受け渡し
病院に到着した時、手術室の前は異様な緊張感に包まれていた。
青ざめた顔で立ち尽くす高柳の姿を見つけ、八幡は息を切らせて駆け寄る。
「……状況は」
「これから緊急手術だ。だが、輸血の量が圧倒的に足りない……!」
「わかった。俺の血で足りるなら、いくらでも持ってけ」
医療スタッフに促されるまま、八幡は処置室へと入り、ベッドに横たわった。
点滴針が太い血管に突き刺さり、自分の身体を巡る赤い温かな液体が、チューブを通って静かに流れ出ていく。痛みはない。ただ、ジリジリと体力が削られていくような気だるさの中で、八幡は天井をぼんやりと見つめながら、「まったく、どこまで他人の面倒を背負い込みゃ気が済むんだか……」と心の中で小さく悪態をついた。
やがて、その血は無事に手術室へと運ばれ、瀕死の状態だった高柳の息子の体へと注ぎ込まれていった。
夜明けの安堵と、父親の涙
どれほどの時間が経っただろうか。
手術室のランプが消え、疲労の色を濃く滲ませた医師が出てくると、深く頭を下げた。
「……輸血も間に合いました。峠は越えました。意識もまもなく戻るでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、百戦錬磨でこれまでどんな修羅場もポーカーフェイスで乗り越えてきた高柳が、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
両手で顔を覆い、絞り出すような声で、大粒の涙をボロボロとこぼした。
「……ありがとう……、八幡……。本当に……、ありがとう……!」
「……やめろよ、みっともねぇ。親父がそんなんでどうすんだ」
点滴の跡をさすりながら、八幡は照れくさそうに顔をそむけ、ポケットに突っ込んだ手でポリポリと頭を掻いた。
ヒーローの背中
数日後。
一般病棟に移り、すっかり顔色を取り戻した高柳の息子――少し生意気盛りだが、どこか芯の強そうな少年のベッドサイドに、八幡はお見舞いとして買ってきたパックのジュースと、なぜかポケットに入っていたキャラクターものの絆創膏を無造作に置いた。
「……おい、もう無理すんなよ。チャリ乗る時は周りよく見ろ」
「あ……、ありがとうございます……」
少年は、目の前に座る少し気だるげで、けれどどこか圧倒的な存在感を放つ銀髪の男をじっと見つめていた。
自分の身体の中に、この人の血が流れている。その事実を知った時、少年の中で何かが大きく変わっていた。
病室のドアの脇で、高柳は我が子の頭を優しく撫でながら、静かに、しかし力強い声で息子に告げた。
「よく見ておけ。……この人こそが、お前の命の恩人だ。いつか大きくなったらな、あんな男になれ。自分のためじゃなく、本当に大事なものができた時に、泥を被ってでも真っ直ぐ前に立てる、かっこいい男に」
少年はしっかりと頷き、病室を出て行こうとする八幡の背中を見つめた。
派手なスーツでも、かっこいい演出のCMでもない。
ただボソボソと文句を言いながら、ポケットに手をついてトボトボと歩いていくその背中には、言葉では言い表せないほど熱く、確かな「本物のヒーローの匂い」が宿っていた。
「……おじさん、ありがとうございました!」
背中に投げかけられた少年の真っ直ぐな声に、八幡は振り返ることもせず、ただひらりと片手を挙げて病室の扉を閉めるのだった。
特ダネと、血の繋がり
高柳の息子が奇跡的な生還を果たした一件は、やがて「政治家秘書(あるいは元・有力者の関係者)の息子が大事故から復活」というニュースとして、いつものようにマスコミの格好の餌食となって世間に拡散されていった。
病院の周辺や、八幡が普段出入りするバーの近辺には、連日のように「命の恩人である比企谷八幡に直撃取材を!」と息巻くテレビクルーや記者たちが群がり、路地裏までカメラを持った人間がうろつく騒ぎとなっていた。
「……まじで、鬱陶しいことこの上ねぇな」
いつものようにコンビニの自動ドアをくぐり、冷えた缶コーヒーを買って表に出た瞬間、待ち構えていた数人のリポーターとマイクを持ったインタビュアーが、一斉に八幡を取り囲んだ。
「比企谷さん! 輸血によって高柳氏の息子さんの命を救ったというのは本当ですか!?」
「当時の心境は!? 政治的な因縁を越えたドラマチックな救出劇だとネットでも大騒ぎになっていますが!」
矢継ぎ早に向けられるマイクと、ギラギラした好奇心の目に、八幡は心底めんどくさそうに三白眼を細め、フッと鼻で息を吐き捨てた。
「ただ、血を分けただけだ」
カメラのレンズが至近距離で顔を捉える中、八幡はゆっくりと缶コーヒーのプルタブをプシュッと開け、一口飲んでから、面倒くさそうに低い声で呟いた。
「……うるせぇな。大騒ぎするようなことじゃねぇよ」
「では、命を救ったことについて、何か特別な感情や意図が――」
「意図なんてあるわけねぇだろ」
インタビュアーの言葉を遮るように、八幡は冷め切った目でまっすぐカメラのレンズを見据えた。
「ただ、足りねぇって言われたから、自分の体を巡ってた赤くて生ぬるい液体をちょっと分けただけだ。……それ以上でも、それ以下でもねぇよ」
「……しかし、いくら適合するとはいえ、他人のために自分の血を――」
言いかけたインタビュアーの言葉を、八幡はさらに鋭く、しかしどこか当たり前のことを言うようなトーンで切り捨てた。
「お前さ」
ふっと口角を片方だけ上げ、八幡は質問者を見据える。
「目の前でガキが死にそうになってて、自分の一番身近な奴が泣き崩れてて、自分の体にそいつを救えるだけの血が入ってたら……。お前、見捨てるのかよ?」
「え……?」
「――あんたもさ、同じ立場なら、迷わずそうしたんじゃないのか?」
絶句と、背中
その一言に、その場にいたインタビュアーはピタリと動きを止めた。
「もし自分がその場にいたら」「自分の大切な人が同じ目に遭ったら」――そんな当たり前の、しかし普段は綺麗事として片付けがちな究極の問いを、このひねくれた男はあまりにも真っ直ぐに、あまりにも冷徹なリアリティを持って突きつけてきたのだ。
カメラマンも、周りで野次馬のように見ていた人々も、全員が息を呑み、言葉を失ってその場に立ち尽くした。
記者は数秒間、目を見開いたまま固まっていたが、やがて乾いた喉を鳴らし、ぐっと唇を噛み締めると、観念したように、しかし深く、小さく頷いた。
「……そうだな、……かもしれないですね」
その返答を満足げでもない、ただの事実として受け取ったように、八幡はふっと視線を外した。
「なら、もういいだろ。取材は終わりだ」
空になった缶コーヒーを近くのゴミ箱に放り込むと、八幡はいつものようにポケットに両手を突っ込み、トボトボと夕暮れの路地裏へと歩き出していった。
背後で、カメラマンやリポーターたちが追ってくることはもう誰もなかった。
ただ、その背中を見送りながら、彼らは誰もが心の中で思っていた――この男は相変わらず不器用で、ひねくれていて、けれどどうしようもなく「カッコいい」生き様をしているのだと。
画面の向こうの波紋と、静かな変化
あの日の夕方の生中継――あるいはその切り抜き動画は、瞬く間に全国のインターネットを駆け巡り、これまでのどんなバズり劇やエンタメ的な騒動とも異なる、深く静かな衝撃を人々に与えていた。
「――お前も、同じ立場ならそうしたんじゃないのか?」
テレビ画面の中で、面倒くさそうに、しかし一切の曇りなく言い放った八幡のその一言は、画面の向こうで視聴していた何百万人もの胸に真っ直ぐ突き刺さった。
綺麗事でも、政治的なパフォーマンスでもない。ただ目の前の「当たり前の救い」を実践した男の言葉には、理屈を超えた圧倒的な説得力があった。
『あのインタビューの八幡、なんかめちゃくちゃ刺さったわ……』
『綺麗事言わないのに、やってることが一番かっこいいってどういうことだよ』
『なんか、自分も何かできることしなきゃって気になってきた』
世間の空気は変わり始めていた。
SNSでは感心の声が広がり、やがてその感情は具体的な行動へと結びついていく。全国各地の献血ルームや赤十字の窓口には、ここ最近では珍しいほどの長い列ができ始めたのだ。
「すいません、初めてなんですけど……成分献血ってやつ、できますか?」
「あ、私も友だちと来ました!」
若い学生からスーツ姿のサラリーマンまで、動機は様々だった。「あのニュースを見てなんとなく」「自分も誰かの役に立てるなら」――そんな、ちょっとしたきっかけと優しさが街中に連鎖していった。
一人の記者の選択
そして、あの日の現場で八幡の問いかけに絶句し、深く頷くことになったあのインタビュアーの男もまた、その変化の渦中にいた。
彼は数日間、あの時の八幡の目と言葉が頭から離れずにいた。
「もし自分がその場にいたら――」
その問いは、マイクを握って他人のドラマを面白おかしく切り取るだけの仕事をしてきた彼の胸の奥に、消えない棘のように突き刺さり続けていた。
「……よし」
呟くと、彼はデスクの上のマイクを置き、自分の足で最寄りの献血ルームへと向かった。
人生で一度も足を踏み入れたことのなかったその扉を開け、緊張した面持ちで受付の椅子に座る。
「あの……初めてなんですけど、お願いします」
針が刺さり、腕から赤い液体がチューブを通ってゆっくりと満たされていくのを見つめながら、彼はふっと苦笑いを浮かべた。
――あのひねくれた男に、見事に一本取られたな。
心の中でそう呟きながら、じんわりと温かくなる腕の感覚を味わう。
その頃、そんな世間の静かな変化などどこ吹く風とばかりに、比企谷八幡は自分の部屋のベッドで、いつものようにぐっすりと眠りに落ちていたのだった。
それぞれの選択と、静かな連鎖
比企谷八幡という一人のひねくれた男が放った「同じ立場ならそうしたんじゃないのか」という一言は、思いがけない形で彼の周囲の人間たちをも静かに動かしていた。
総武高校の卒業生たちがそれぞれの場所で、そのニュースを目撃していた。
「……まったく。相変わらず、面倒くさいことばかり言う人ね」
都内の大学のキャンパスを歩きながら、雪ノ下雪乃はスマホの画面に映るあの日の八幡の姿を見つめ、小さく息をついた。口では呆れたようなことを言いながらも、その三白眼の奥にはどこか誇らしげな光が宿っていた。
そして数日後、彼女は学業の合間を縫って静かに最寄りの献血ルームに足を運び、初めての針が刺さる痛みにも顔色一つ変えずにその役目を果たしたのだった。
その数駅離れた場所では、陽乃がワイングラスを置いたあと、ふっと柔らかく微笑みながらカードケースから献血の予約画面を確認していた。
「もう、あの子ってば……本当に、ズルい生き方をするんだから」
さらに、それぞれの日常を送る者たちも動いていた。
「うおー! 八幡があんなカッコいいこと言うなら、俺も男を見せるぜ!」と意気込んでやってきた戸部に引きずられるように、葉山隼人も爽やかな笑顔で問診票に記入していた。「彼らしいやり方だけど、確かに見習うべきところはあるからね」と笑いながら。
また、川崎沙希も、弟の将来や自分の周りの大切な人たちの顔を思い浮かべながら、静かに腕を差し出していた。
そして、あの巨躯を揺らしながら「我が肉の一滴が世のためになるならば!」と大げさに涙を流しつつ、しっかり成分献血をキメてきた材木座の姿もあった。
「それはお前らだろ」
そんな周囲の密かな連鎖など知る由もない八幡は、相変わらず自分のアパートで平穏な日常――つまり、適当に飯を食い、ダラダラと過ごす日々に戻っていた。
ある日の夕方。
ひょんなことから、またしても例の隠れ家的な店に集まることになった面々。
雪乃、結衣、小町、そして少し遅れてやってきた葉山や戸部たちが、何やら楽しげな、しかし妙に温かい空気を纏ってテーブルを囲んでいた。
「……なんだよお前ら、揃いも揃ってニヤニヤしやがって。気味の悪い」
パーカーのポケットに手を突っ込みながら席についた八幡が、不機嫌そうに毒づく。
すると、雪乃がふっと上品に口元を隠し、意味ありげな三白眼を細めた。
「ねえ、比企谷くん。最近、世間ですごく素敵な連鎖が起きているのを知っているかしら? 誰かの言葉に感化されて、自分の大切な人のために、あるいは見知らぬ誰かのために、そっと手を差し伸べる人たちが増えているそうよ」
「は? 知らねぇよ、そんなの。俺はただ、マスコミがうるさかったから適当にあしらっただけだし」
「ふふっ、そうよね。あなたって人は、いつだって自分は関係ない顔をするんだから」
結衣も「そうだよ! 八幡って、自分がどれだけ周りに影響与えてるか全然わかってないんだから!」と楽しそうに笑う。
小町が「お兄ちゃん、最近みんなから『優しい』って評判だよ?」とニヤリと茶化すと、葉山も穏やかに頷いた。
「そうだね、八幡。お前が撒いたその小さな優しさが、結果としてこの街のあちこちで、誰かを救う温かい行動に繋がってるんだよ」
「……は? なんだお前ら、急に気恥ずかしいこと言い出しやがって。頭でも打ったのか?」
心底めんどくさそうに顔をしかめる八幡だったが、ふと、目の前に座る彼らの袖口やバッグの端に、共通して貼られている、あるいは覗いている「ある小さなシール(献血記念のラバストやカード)」に気づいた。
「……おい、お前ら……まさか」
全員が、どこか誇らしげに、しかし少し照れくさそうに微笑み返した。
「……っ! なんだお前ら、わざわざそんな……!」
図星を突かれたように、八幡の顔が一気に真っ赤に染まった。ひねくれたセリフを吐き捨てて冷静を装おうとするが、耳たぶまで隠しきれないほどの熱が上っているのが丸わかりだった。
「「「だって、教えてくれたからね。――優しい人」」」
口々にそう言って笑う彼らの顔を見て、八幡はもう言葉を失い、自分のグラスの水を一気に飲み干すしかなかった。
世界を巻き込んだ大騒動の果てに、誰もが誰かを想い、誰かのために手を伸ばす。
不器用でひねくれた男が落とした一滴の優しさは、最高の仲間たちの笑顔に包まれて、今日もこの温かい世界を静かに巡り続けているのだった。
グラスに残った水を一気に飲み干したものの、顔の熱はなかなか引いていかない。
からかわれているのか、それとも本気で感謝されているのか分からない居心地の悪さに耐えかねて、八幡はわざとらしく「……あー、喉渇いた」と呟きながら、スッと椅子を半身ほど回転させ、みんなとは反対側の窓の外へと視線を逃がした。
夜の帳が下りた街の景色を眺めながら、八幡はぶっきらぼうに、しかしどこか絞り出すような小さな声で呟いた。
「……お前らの方が、よっぽど優しいよ」
その一言に、先ほどまでからかうように笑っていたテーブルの空気が、ふと穏やかな静けさに包まれた。
誰も遮る者がいない中で、八幡は自分の膝の上でぎゅっと握り締めた拳を少しだけ緩め、さらにぽつりと、誰宛てともなく本音を零した。
「……あのさ。もし、お前らがいなかったら……俺は、どうしてたんだろうな」
ひねくれて、周囲を斜に構えて見てばかりで、一人で勝手に孤立していたあの高校時代。
もしもあの時、あの部室でこの面々と出会っていなければ、今の自分は一体どうなっていたことか。世間の注目を集めるようなインフルエンサーどころか、相変わらず誰とも目を合わせず、ただ孤独に毒を吐き続けるだけの歪んだ高校生で終わっていたに違いない。
その呟きはあまりにも小さく、聞き逃してしまいそうなほど気だるげだったが、そこにいた全員の胸には、なぜか痛いほど真っ直ぐに響いた。
数秒の沈黙のあと、雪乃がふっと柔らかな、これ以上ないほど優しい笑みを浮かべた。
「……それは、私たちもお互い様よ、比企谷くん」
結衣も、少し潤んだ目をしながら「うん、そうだね!」と力強く頷き、小町は「お兄ちゃん、急にそんなこと言うからずるいなぁ」と鼻をすするように笑った。
葉山や戸部、そして少し照れくさそうに頭をかく材木座たちも、それぞれがグラスをそっと掲げ、同じ思いを噛み締めていた。
誰かがいなければ、今の自分たちはいない。
あの場所で、あの歪んだ青春の中で出会い、ぶつかり合い、不器用に支え合いながらここまで歩いてきたからこそ、今の温かい日常がある。
言葉にしなくても、全員の心が同じ場所に帰着していた。
夜の静かな隠れ家で、それぞれのグラスがカランと心地よい音を立てて小さく共鳴する。
世界がどれだけ騒がしく変わっていこうとも、この絆だけは変わらない。
数奇な巡り合わせで結ばれた彼らの、最高に不器用で、どこまでも優しい夜は、静かに、そして温かく更けていくのだった。
クラスの小さな英雄譚
数日後、街の喧騒から少し離れた中学校の教室。
数え切れないほどの特ダネやスキャンダルを追いかけてきたマスコミも、この静かな日常のワンシーンにカメラを向けることはない。けれど、そこにはあの夜から確実に生まれ変わった、一つの温かな世界があった。
高柳の息子――あの日の事故から奇跡の生還を果たした少年の登校初日。
教室の扉を開けた瞬間、クラスメイトたちが一斉に駆け寄ってきた。
「お前、本当に大丈夫だったのかよ!?」
「めちゃくちゃ心配したんだぞ!」
みんなの心配そうな、しかしどこか誇らしげな視線が集中する中、少年は少し照れくさそうに自分の腕をさすった。
「ああ、もう平気だよ。……ただ、輸血の量がものすごかったらしくてさ。なんせ、あのテレビにも出てる『銀髪のお兄ちゃん』の血がこの体を巡ってるんだから、なんかちょっと強くなった気がするぜ」
少年のその少し誇らしげな冗談に、クラス中から「すげぇ!」「マジかよ!」とどよめきと羨望の歓声が巻き起こった。
一瞬にして、少年はクラスのちょっとした「ヒーロー」のような扱いを受けることになった。
「本当のヒーロー」
周りにもてはやされ、少し調子に乗った少年が「へへっ、どうだ。俺の体にはヒーローの血が流れてるんだぜ」と胸を張った時、クラスの隅から一人の女の子がクスリと笑って声をかけた。
「ちょっと待ってよ。それじゃあ、本当にすごいのはその銀髪のお兄ちゃんで、あんたはただ分けてもらっただけじゃない」
「なっ……! それはそうだけどよ!」
言い返そうとした少年だったが、ふと、あの日の病院のベッドサイドで見た、不器用にポケットに手をついて去っていった銀髪の背中を思い出した。
表情を引き締め、少年はクラスメイトたちを見回しながら、少しだけ大人びた、真面目な声でこう言った。
「……でもさ、本当のヒーローってのは、カッコいい顔してキメ台詞を吐く奴じゃないんだと思う」
「え? じゃあどんな奴だよ?」
少年の言葉に、クラス中がふっと静まり返る。
その真剣な空気を察知してか、教壇に立っていた担任の先生も、手にしていた教科書を下ろし、静かに耳を傾けていた。
少年は少し照れくさそうに頭を掻きながら、こう続けた。
「……なんていうかさ。頼まれてもないのに面倒くさそうに文句言いながら、困ってる奴がいたらサラッと助けて、自分のことなんて自慢もせずにただ背中で見せていくような……そんな奴のことなんだと思う。……優しい奴ってさ、そういうやつのこと言うんだろ、きっと」
教室に流れる優しい時間
少年のそのまっすぐな言葉に、教室の空気がふっと温かく、柔らかいものに包まれた。
「……そっか。なんか、それかっこいいね」
「うん、確かにそうだよね」
女子たちも、男子たちも、そして教壇からその様子を温かい目で見守っていた先生も、みんな深く納得したように小さく頷いた。
クラスのあちこちで、あの幼稚園児たちがそうだったように、小学生や中学生たちの間にも「誰かのためにそっと優しくすること」の本当の意味が、静かに、けれど確実に浸透していく。
派手な演出も、バズり狙いのニュースもない。
ただ、一人のひねくれた男が放った不器用な優しさと、ありふれた一言が、巡り巡って子供たちの心を真っ直ぐに育てていく。
秋の穏やかな日差しが差し込む教室のなかで、言葉にできないほど心地よく、最高に優しい時間が、いつまでもゆっくりと流れ続けていた。
予期せぬモテ期と、照れくささの代償
「本当のヒーローってのは、文句言いながらもサラッと助けて、自慢もしないやつのことだ」――そんな少年の熱のこもった語りは、不思議なことに、クラスの女子たちのハートを完璧に射抜いてしまっていた。
以前の彼なら、少し生意気でやんちゃなだけの「クラスの一軍男子」の一人に過ぎなかったはずだ。しかし、生死の境をさまよい、あの銀髪の男の「命の分け前」をもらい、さらにどこか達観したようなクールな一言をクラスで放ったことで、彼の周りの空気が一変した。
「ねえ、〇〇くん、この前の数学のノート、見せてくれない?」
「あ、あとさ、放課後一緒に図書室行かない?」
登校するなり、これまでそこまで親しくなかった女子たちが次々と話しかけてくる。
机の引き出しを開ければ、いつの間にか「これ、美味しかったからお裾分け」と手作りのクッキーやキャラクターものの絆創膏がそっと差し入れられているのだ。
「なっ……! なんだよ急に! お前ら、変なもんでも食ったのかよ!」
顔を真っ赤にし、耳までトマトのように染め上げながら慌てふためく息子。
その慌てっぷりを見た女子たちは「キャー、なにそれ可愛い!」「照れてる照れてる!」とさらに面白がり、教室は毎日が甘酸っぱい黄色い歓声に包まれることになった。
カウンターの片隅で
すっかり「クラスのモテ男」の仲間入りを果たしてしまった少年は、ある日の放課後、父親である高柳に連れられて、あの静かな隠れ家バーのカウンターの端にちょこんと座っていた。
「……で、どうなんだ最近は。学校でモテモテらしいじゃないか」
高柳はグラスを拭きながら、面白そうにニヤニヤと息子の顔を覗き込む。
「うっせぇな! 親父、そういうこと言うなよ!」
少年は真っ赤な顔をして炭酸ジュースを勢いよく飲み干した。
「……でもさ」
少年は少し照れくさそうに視線を落とし、トントンと足のつま先で床を揺らしながら、ぽつりと言った。
「……なんか、最近わかった気がするんだ。あの時のおじさん……比企谷さんが、なんであんなに余裕で、カッコよく見えたのか」
「ほう?」高柳の手が止まる。
「あんな風に、いざって時に誰かを守れて、しかも自分のことなんか全然アピールしねぇからこそ……逆に、周りが勝手にほっとけなくなるって言うか……。いや、まあ、俺はあそこまでひねくれてねぇけどさ!」
照れ隠しにふんと鼻を鳴らす息子の頭を、高柳はふっと優しく、誇らしげにぐしゃぐしゃと撫でた。
「そうだな。あいつは世界で一番ひねくれた救世主だが……その背中は、確かに親の俺が見ても惚れ惚れするくらい、真っ直ぐでカッコいい男の背中だったよ」
伝えられない、本当の気持ち
「今度さ、もしまたあの人に出会ったらさ……ちゃんとお礼、言いたいんだ」
グラスの氷を転がしながら、少年は少しだけ真面目な声で呟いた。
「命を助けてくれたことだけじゃなくてさ……『かっこいい男の生き方』を、背中で教えてくれたことへの、お礼」
その息子の言葉を聞きながら、高柳はカウンターの奥に目をやり、心の中でそっと呟いた。
――おい、聞いてるか、八幡。お前が照れくさそうに撒いたその不器用な優しさは、こうして確実に次の世代の胸に刻まれて、ちゃんと誰かの背中を押してるぞ。
もちろん、あのひねくれた本人がその場にいたら「は? 何気恥ずかしいこと言ってんだ、勝手に美談にすんな」と三白眼を剥いて全力で否定すること間違いなしなのだが。
世間がどれだけ騒ごうとも、一滴の優しさと、そこから生まれた小さな誇りは、こうして静かに、しかし力強く、新しい季節の中へと受け継がれていくのだった。
スケッチブックの中の「ヒーロー」
あの夜の事故と、それに続く学校での怒涛のような変化――。
少しだけ日常を取り戻した休日の午後、高柳の息子はスケッチブックと色鉛筆を広げ、自分の部屋の机に向かって真剣な顔で鉛筆を走らせていた。
何度か消しゴムで線を消しては描き直し、じっと考え込む。
頭の中に浮かんでいるのは、あの病院のベッドサイドでぶっきらぼうに言葉を投げかけ、ポケットに両手を突っ込んでトボトボと去っていった、あの独特な三白眼の背中と、夕日に照らされた銀髪の横顔だった。
「よし……これで、どうだ」
満足げに息をつくと、彼はスケッチブックからそのページを一枚だけ丁寧に切り取り、綺麗に折りたたんでポケットにしまい込んだ。
突然の来訪と、不器用な贈り物
その日の夕方、八幡がいつものように近所のコンビニでいつものマックスコーヒーを買って帰ろうと裏路地を歩いていると、電柱の陰からひょっこりと現れた人影があった。
「あ、いた!」
「……ん? お前、高柳のとこのガキか。こんなとこで何やってんだ」
足を止めた八幡の前に、少し息を切らせた少年が立ち塞がる。
少年は「はぁ、はぁ……やっと見つけた」と言いながら、ポケットからガサゴソと取り出した一枚の紙を、少し緊張した面持ちで両手で差し出した。
「これ……! この間のお礼ってわけじゃないけど、描いたんだよ!」
「……は?」
怪訝な顔をしながら受け取った紙を広げてみると、そこには見覚えのある、しかし実物よりも遥かにシャープで目鼻立ちがくっきりとした、見事なまでに美化された「銀髪のパーカー男」の似顔絵が描かれていた。
鋭い三白眼はどこか少女漫画の主人公のようにクールにキマり、風になびく銀髪はドラマチックに波打っている。
じっと絵と、目の前の少年の顔を交互に見比べ、八幡は思わず乾いた声を漏らした。
「おい……これ、誰だ? ずいぶんとまた、大層なイケメンに描いてくれたもんだな。俺の実際の顔面偏差値からしたら、3倍くらいサバ読んでるぞ」
「うっせぇな! 描いてるうちに自然とこうなったんだよ! でも、かっこいいだろ?」
少年が照れくさそうに頬を掻きながら、えへへと誇らしげに笑う。
その真っ直ぐな笑顔を見て、八幡は小さくため息をついた。
――まったく、どいつもこいつも調子のいいことばかり言いやがって。
文句を言いながらも、八幡は乱暴に、しかしどこか優しく、少年の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「……ま、ありがたく受け取っといてやるよ。絵の腕だけは、少しは褒めてやる」
「やった!」
少年が嬉しそうに飛び跳ねるのを見届け、八幡は「ほら、遅せぇと親に怒られるぞ」と手をひらひらと振って、また自分のアパートへと歩き出した。
部屋の片隅の風景
その日の夜遅く。
散らかったアパートの一室。勉強机の上でも、洒落たインテリアでもない。
八幡は、コンビニで買ってきた惣菜のパックを片付けたあと、ふと手元にあったその似顔絵の紙を見つめた。
「……ほんと、勝手なイメージつけやがって」
ボソッと呟きながらも、彼は部屋の壁の、ちょうどデスクのすぐ上にピンを刺し、そのイケメンすぎる自分の似顔絵をそっと貼り付けた。
ふわりと吹く夜風に揺れる、その少し大げさなイラスト。
世間がどれだけ彼を「世界の広告塔」と祭り上げようとも、SNSがどれだけ「時代のヒーロー」と持てはやそうとも、八幡にとっての本当の価値は、こういう「名もなき日常のワンコマ」や、くだらないやり取りのなかにしかなかった。
「……さてと、寝るか」
電気を消す前にもう一度だけその絵に目をやり、八幡はふっと小さく鼻で笑ってベッドにもぐり込んだ。
部屋の片隅で静かに飾られたその絵は、今日も不器用でひねくれた男の日常に、ほんの少しだけ温かな色を添え続けているのだった。