八幡の道   作:tomozow

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広告塔編 後編

職員室の窓辺と、ちょっとした秘密

「――ねえ、ヒッキーってば、本当にそんな顔して描かれてたの?」

数日後、とあるカフェのテラス席。

カフェラテのカップを両手で包み込みながら、由比ヶ浜結衣はクスクスと楽しそうに笑いながら八幡に詰め寄っていた。

「……なんでお前がその話を知ってるんだよ」

「そりゃあ、ユキノから聞いたんだもん! 高柳さんのところの息子くんが描いた似顔絵、すっごくかっこよく盛られてたって。『あんなイケメンじゃないわ』って雪乃も笑ってたよ」

八幡は「あの女、余計なこと言やがって……」と盛大にため息をつき、手元のマックスコーヒーの缶をプシュッと開けた。

そんな八幡の不機嫌そうな様子を面白がりながら、結衣はふと、窓の外を眺めながら柔らかく微笑んだ。

「でもさ……すごく、いい話だねえ」

結衣のその言葉に、八幡は照れくさそうに顔をそむけ、「どこがだよ、ただのガキの落書きだろ」とぶっきらぼうに返す。

しかし、結衣はそれ以上追及せず、ただ嬉しそうに目を細めた。

「ねえ、ヒッキー。その話さ……今度、学校のクラス会か何かで、みんなに話してもいい?」

「……は? なんでだよ。俺の恥ずかしい似顔絵が晒されるだけだろ」

「名前は絶対出さないから! 『知り合いの人がね……』って、匿名にするからさ! だって、すごく素敵なエピソードだし、みんなにも聞いてほしいんだもん」

面倒くさそうに頭を掻きながら、八幡は「勝手にしろよ、どうせすぐに忘れるだろ」と投げやりにつぶやいた。

その返事を「許可」と受け取った結衣は、「やった! ありがとう、ヒッキー!」と満面の笑みを浮かべたのだった。

小学校の教室と、小さな講師

それからしばらくして。

小学校の教師として日々奮闘している由比ヶ浜結衣は、担任を持つクラスの学級懇談会(クラス会)の場で、保護者たちがずらりと並ぶ教室の教壇に立っていた。

学校生活の様子や最近の子供たちの成長についてひと通り話し終えたあと、結衣はふと、優しい笑みを浮かべてこう切り出した。

「あの……最後に、ちょっとだけ、最近私がすごく感動したお話をしてもいいですか?」

保護者たちが「何かしら?」と柔らかな表情で耳を傾ける中、結衣はあの、銀髪の男が不器用につむいだ「優しさの連鎖」の物語を語り始めた。

コンビニの裏路地で自転車のチェーンを直してくれたこと。

困っている人にそっと手を差し伸べ、「本当のヒーローってのは自慢もしないし、ただ背中で見せるものなんだ」と子供が教えてくれたこと。

そして、その大元には、名前も明かさず、ただ自分の当たり前のことをしただけの「ある一人の男性」がいたこと――。

教室の空気が、驚くほど温かく、そして静かに満たされていった。

話を聞きながら、何人かの親御さんたちは深く頷き、目を潤ませてハンカチーフで目頭を押さえている。

「……そのお話を聞いたとき、私、すごく思ったんです。子供って、大人が思っている以上に、ちゃんと大人の背中を見ているんだなって。そして、優しい行動って、こうやって知らないうちに誰かの心にちゃんと届いて、受け継がれていくんだなって」

結衣が柔らかく結びの言葉を述べると、教室中から、温かくて大きな拍手が自然と湧き起こった。

帰り道の親孝行

クラス会が終わり、夕暮れ時の校庭や廊下には、お迎えに来た子どもたちと保護者たちの楽しげな声があふれていた。

その帰り道。

今日、結衣のクラス会に参加していたある男の子が、並んで歩くお父さんの手をふと引っ張った。

「ねえ、お父さん」ん? とかがみこんだ父親に、男の子はちょっと照れくさそうに言った。

「あのさ、今日のお話に出てきた『本当のヒーロー』みたいにさ、お父さん、いつも仕事で疲れてるでしょ? 肩、揉んであげる!」

「えっ……? お、おぅ、なんだ急に……」

驚きながらも嬉しそうに目を丸くする父親の背中に、男の子は小さな両手を精一杯広げ、一生懸命に肩を揉み揉みし始めた。

「うわ、結構上手いじゃないか。ありがとな」

「へへっ、どうだ! ボク、かっこいいだろ!」

その微笑ましい親子のやり取りを、少し離れた場所から見守りながら、結衣は胸がいっぱいになってそっと両手を合わせた。

あのひねくれた男が放った一滴の優しさは、幼稚園児から小学生、そして大人たちの心までをも巻き込んで、今日もこの街のあちこちに、最高に温かい時間を咲かせ続けている。

「……ほんと、ずるいよね、ヒッキーは」

夕日に染まる空に向かって小さく呟きながら、結衣は今日も明日も続く優しい日常へと、軽やかな足取りで歩き出すのだった。

 

女子会のテーブルと、再現された「あの味」

都会の洗練されたカフェの一角。

大きなガラス窓の向こうに秋の夕暮れが広がるおしゃれな個室に、総武高校の卒業生――雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、川崎沙希、そして少し大人びた雰囲気をまとう陽乃、海老名姫菜、三浦優美子の面々が揃い踏みしていた。

「ねえ、聞いてよ! この間さ、また例のあの人が――」

三浦がグラスを傾けながら何かを話し始めようとするが、全員の視線は今、テーブルの真ん中に置かれた大皿へと釘付けになっていた。

そこに並んでいたのは、高級フレンチでも、話題のトレンドスイーツでもない。どこか懐かしく、そして異様に「茶色く」て、男臭いメニューの数々だった。

「……うん、やっぱりちょっと炒めすぎたかしら。あの時の屋台の味を完全再現するのは難しいわね」

雪乃がトングを片手に、少し悔しそうに眉をひそめながら、目の前のおにぎりと厚切りベーコンの炒め物をじっと見つめる。

「え、これ十分おいしいよ! 雪乃、料理の腕上げたよねー」

結衣が一口食べて目を輝かせ、川崎も「……味付け、ちょっと濃いけど、白飯が欲しくなる味だな」と納得の表情で箸を進める。

そう、彼女たちがこの日集まって食べているのは、SNSや目撃情報で断片的に伝わってきた「比企谷八幡が最近どこかで食べて美味いと言っていた(あるいは適当に自炊していた)」という噂の料理の数々だった。

止まらない「八幡談義」

「ていうかさ、なんで私たち、集まってわざわざヒッキーの食べてるメニュー再現してわけ?」

三浦が呆れたようにフッと笑いながら、グラスのストローをくるくると回す。しかし、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。

「だってみんな、気になるでしょ? あのひねくれた人が、どんなものを美味しいと思って食べてるのか」

陽乃がワイングラスを揺らしながら、悪戯っぽく微笑む。

「それにさ、お姉ちゃんたちも知ってる通り、あの子って普段ろくなもの食べてないじゃない? だから、私たちが代わりに栄養バランスを考えて、美味しい形にしてあげなきゃいけない気がしてさ」

「ふふっ、陽乃さん、それもう過保護の域ですよ」

眼鏡のブリッジをクイッと押し上げながら、海老名がニヤリと笑った。「でも、いいよねえ。あの主人公気質じゃないのに、勝手にまわりを巻き込んでドラマにしちゃうあの感じ。腐女子視点から見ても、最近の彼の周囲の人間関係は最高に美味しい素材が揃ってるわ……!」

「ちょっと、海老名さん、また変な妄想しないでよ!」

結衣が頬を膨らませて突っ込むと、その場にいた全員がクスクスと笑い声を上げた。

変わらない距離感と、それぞれの視線

「まあね、相変わらず何を考えてるんだか分からないところはあるけれど……」

雪乃は紅茶のカップをソーサーに置き、ふと窓の外の夕空に目をやった。

「でも、あの人が蒔いた面倒くさくて優しい種は、今の私たちの日常をちょっとだけ温かくしてくれているのも事実だわ。……絆創膏の話にしても、この料理にしてもね」

「ほんとそれ。うちの弟もさ、最近やけに『男は背中で語るんだよ』とか急に大人びたこと言い出すから、思わず笑いそうになっちゃったよ」

川崎が苦笑いしながらも、どこか嬉しそうな顔でそう付け加える。

「ねえ、今度さ、みんなでまたあの隠れ家バーに押しかけない? ヒッキーをギャフンと言い合わせようよ!」

結衣のその提案に、「それ面白そう!」「高柳さんにまた怒られそうね」と、女子たちの賑やかなおしゃべりは尽きることがない。

窓の外では夜のとばりが下り始め、街の明かりが灯りだす。

遠くでどんなに世間が騒ごうとも、彼らを繋ぐ絆と、あの不器用でひねくれた男をめぐる物語は、今日もこうして最高に楽しく、そして温かい笑い声とともに続いていくのだった。

 

静かな実家のリビングと、予想外の告白

秋の風が少し肌寒さを感じさせる夕方。

葉山隼人は、仕事の合間を縫って久しぶりに実家へと足を運んでいた。しかし、今日の帰省は一人ではない。隣には、少し緊張した面持ちで上品なコートの裾をキュッと握りしめている比企谷小町の姿があった。

玄関の引き戸が開くと、息子の帰りを待っていた母親が温かい笑みを浮かべて迎えてくれる。

「あら、隼人。それに……小町ちゃんも、いらっしゃい。わざわざ遠くまでありがとうねえ」

「お邪魔します、お義……じゃなくて、こんにちは!」

小町が勢いよく頭を下げた瞬間、すでにリビングから足音を響かせて出てきていた父親が、フッと目を細めて声をかけた。

「おいおい、そんなに緊張しなくてもいいさ。……それにしても、小町ちゃん。久しぶりに会ったけど、すっかり大人びて綺麗になったな」

「ありがとうございます……!」

リビングのテーブルには、母親が用意してくれた温かいお茶とお菓子が上品に並べられていた。

ソファーに腰を下ろした葉山家の人々に迎えられ、小町は息を整えながら、持ってきた手土産の包みを丁寧に差し出した。

「婚約」という二文字

世間が相変わらず「あの銀髪の元・大臣」の話題でざわついている頃、葉山家のリビングはどこか現実離れしたような、穏やかで落ち着いた空気に包まれていた。

一通り近況報告が終わり、お茶を一口飲んだところで、葉山はふっと息をついた。

そして、隣に座る小町の肩にそっと手を置き、真っ直ぐに両親を見据えた。

「――父さん、母さん。今日、一緒に来たのは他でもないんだ」

「ん? なんだい、改まって」

父親が紅茶のカップをソーサーに置く。

葉山は少しだけ照れくそうに、しかしこれ以上ないほど真剣な眼差しで言い切った。

「俺たち、結婚することになった。……すでに小町のほうのご両親にも挨拶は済ませてある。正式な婚約の報告に、今日こうして連れてきたんだ」

その瞬間、リビングの空気がピタリと止まった。

――わずかな沈黙のあと、父親は目を丸くし、やがてふっと声を上げて破顔した。

「そうか……。あの隼人がねえ。いつの間にか、そんな頼もしい顔をする男になっていたとはな。……いや、本当によく成長してくれた。おめでとう、隼人」

「ありがとうございます、父さん」

母の言葉と、戸惑う小町

そして、母親は少し潤んだ目をしながら、ソファーから立ち上がると、小町の隣へと歩み寄った。

驚いてわずかに身構えた小町の両手を、母親は優しく、まるで実の娘を包み込むようにしっかりと握りしめた。

「小町ちゃん……。あんなに小さかったあなたが、まさか我が家の家族になってくれるなんてね。本当に、嬉しいわ」

「お、お母様……」

感極まったような母親の温かい眼差しに、小町は胸がいっぱいになりながらも、どこか現実感が追いつかないように目をパチクリさせた。

「ねえ、小町ちゃん」

母親は優しく微笑みながら、真剣なトーンでこう続けた。

「これから、この少し頑固で完璧主義なところがあるうちの息子を……どうぞ、よろしく頼むわね。何かあったら、いつでもお母さんに言いつけていいから」

「えっ……あっ、はい! こちらこそ、しっかり者の隼人さん……じゃなくて、隼人くんを……って、ええっ!?」

そこでようやく頭が追いついたのか、小町は真っ赤な顔をして大慌てで両手をぶんぶんと振った。

「ちょっ、お母様、待ってください! 私、しっかり者どころか、お兄ちゃんがいなかったら今でも朝起きられないダメ人間ですし、家事だってこれから特訓ですし、そもそも『よろしくお願いします』って、私の方がお世話になる立場じゃ――!」

パニックになりながら早口でまくし立てる小町の姿に、リビングにいた全員が思わず吹き出した。

「ふふっ、本当に可愛いお嫁さんだこと」

母親がクスクスと笑いながら小町の背中を優しく撫でる。

父親も「似た者同士、いい夫婦になるさ」と太い声で豪快に笑った。

窓の外の夕焼けと、これからの未来

照れくさそうに赤くなった顔を両手で隠す小町と、そんな彼女を愛おしそうに、少し誇らしげに見つめる葉山。

その二人の様子を、父親と母親は最高に温かい眼差しで見守っていた。

かつて総武高校で、それぞれが抱えていた期待や重圧、そして青春の葛藤を乗り越えた彼らは、今こうして自分たち自身の足で、全く新しい未来の扉を開こうとしている。

窓の外では、秋の夕暮れが街全体を優しくオレンジ色に染め上げていた。

世界がどれほど騒がしく変化していこうとも、この家族の新しい物語の始まりには、言葉にできないほどの温もりと、確かな幸せの時間がゆっくりと満ちていくのだった。

 

実家のリビングと、想定外のサプライズゲスト

葉山の実家での温かい報告と挨拶を終えたあと、二人はそのまま比企谷家の実家へと足を運んでいた。

夕暮れ時の閑静な住宅街を抜け、懐かしい我が家の玄関の引き戸を開けると、廊下に漂ってきたのは聞き慣れた夕飯の美味しそうな匂いだった。

「ただいま戻りましたー……って、あれ?」

靴を脱ぎながらリビングを覗き込んだ小町は、そこにいるはずのない人物の姿を見つけて目を丸くした。

ソファーにどっかりと腰を掛け、いつもの気だるげな姿勢でテレビのニュースを見ている――他でもない、我が兄・比企谷八幡その人がいたのだ。

「……ん? なんだ、お前ら揃って。珍しいな」

八幡は渋い顔のまま振り返り、二人の姿を確認した。

すると、隣に立っていた葉山は、なぜか普段の爽やかさとは少し違う、妙に背筋をピンと伸ばした緊張した面持ちのまま、八幡に向かって深く頭を下げた。

「お邪魔します、お義兄(にい)さん」

「……は?」

リビングの空気が一瞬で凍りついた。

八幡は手に持っていたお茶のペットボトルを落としそうになりながら、三白眼を限界まで見開いた。

「気が早えよ」

「おい、ちょっと待て。今、なんて言った?」

「ですから、『お義兄さん』と」

葉山はどこか誇らしげな、しかし真剣な表情を崩さずにきっぱりと言い放った。

「気が早えよ! まだ籍も入れてねぇし、そもそも俺は結婚を許可した覚えも納得した覚えも微塵もねぇぞ!」

「いやいや、お兄ちゃん、もう両親への挨拶は済ませてきたし、決定事項だから!」

小町が顔を真っ赤にしながらツッコミを入れるが、八幡は頭を抱えてソファに深く沈み込んだ。

「はあ……。よりによって、あの完璧超人の葉山隼人がうちの妹を……いや、待て、小町が騙されてるんじゃないのか? おい、葉山、お前ほんとにうちの小町をもらって大丈夫なのかよ……?」

「もちろん。一生かけて幸せにするつもりだよ、お義兄さん」

「その『お義兄さん』呼びをやめろ鳥肌が立つ!」

ジタバタと文句を言う八幡を尻目に、リビングの奥から「あらあら、賑やかな声が聞こえたと思ったら……」と母親がエプロン姿で顔を出した。

台所のドタバタと、男たちの初仕事

「まぁ! 隼人くんじゃない。わざわざ報告に来てくれたのね。おめでとう、本当によかったわぁ」

「ありがとうございます、お母さん」

母親が嬉しそうに微笑むと、小町は慌てて「お母さん、私たちも手伝うから!」とキッチンへと引っ込んでいった。

すると、母親はちらりとリビングのソファーで頭を抱えている息子と、その向かいで澄ました顔をしている葉山に視線を投げた。

「ほら、二人とも。いつまでそこに座ってるの。めでたいんだから、さっさとキッチンに立って料理を手伝いなさい!」

「「えっ、俺(僕)が……?」」

母の鶴の一声に、元・大臣(インフルエンサー)と、完璧超人として知られた男が、揃って顔を引きつらせた。

しかし、逆らえるはずもなく、二人は渋々エプロンを……つけさせられる余裕もなく、そのままの格好で狭いキッチンへと強制連行された。

「おい葉山、ネクタイが邪魔だろ、ちょっと結び直せよ」

「はは、八幡こそ、そのダルそうな格好じゃ野菜も切れそうにないよ。ほら、包丁貸して」

普段のビジネスや世間の喧騒とは全く違う、実家の台所という狭い空間。

ぎこちなくも協力しながらキャベツを千切りにし、お皿を並べる二人の姿に、キッチンの中は妙にシュールで、けれど最高に平和な空気が満ちていた。

父の出番と、最高に温かい夜

その頃、リビングでは父親が「いやぁ、めでたい、実にめでたい……!」と一人で上機嫌になっていた。

「こういう日はな、普段は出し惜しみしてる特別なやつを出さなきゃな!」

冷蔵庫の奥から、いつ買ったのか分からないようなちょっといい日本酒の瓶を引っ張り出し、さらに棚の奥から「来客用」として厳重にしまわれていた、妙に金ピカの装飾が施された謎の高級皿をわざわざ引っ張り出してきて、テーブルの上をせっせとセッティングし始めた。

「お父さん、そんな変な皿出さないでよ! 恥ずかしいから!」

料理を運びながら小町が慌てて制止するが、父親は「いいじゃないか、人生の一大イベントだぞ!」と豪快に笑う。

やがて、手際よく(半分は葉山が片付けたが)完成した料理が大皿に盛られ、テーブルいっぱいに並べられた。

「それじゃあ……、二人のおめでたい門出と、これからの家族の健康に乾杯!」

父親の音頭とともに、全員のグラスやコップがカチャンと景気よくぶつかり合う。

世間がどれだけ比企谷八幡という男を「時代のヒーロー」として祭り上げようとも、この小さな実家のリビングの灯りの下では、彼はただの「不器用な兄」であり、最高に温かな家族と仲間たちに囲まれた、ありふれた一人の若者に過ぎなかった。

グラスの向こうで、相変わらず呆れたような顔をしながらも、どこか嬉しそうに酒を飲む八幡の姿を見ながら、小町も葉山も、そして両親も、心からの笑顔を咲かせるのだった。

 

食卓の向こうのビジネス談義

金ピカの謎の高級皿に盛られた料理をつまみつつ、家族の温かな笑い声が飛び交うリビングの片隅。

ビールを一口飲んだ八幡は、向かいの席でどこか余裕のある笑みを浮かべている葉山に、ふと気だるげな視線を向けた。

「……で、どうなんだよ。最近は海外出張だのなんだのって、すっかりグローバルなエリート街道まっしぐらじゃねぇか。お前のことだから、どうせ裏で泥臭い苦労でもしてんだろ」

八幡のその言葉に、葉山はふっと苦笑いを浮かべ、グラスをテーブルに置いた。

「はは、買いかぶりすぎだよ、八幡。エリートなんてかっこいいもんじゃないさ。最初は本当に大変だったんだからね」

葉山は少し遠い目をしながら、最近の仕事事情を語り始めた。

言語の壁にぶつかり、現地のシビアな交渉相手に冷や汗をかかされたこと、文化の違いからプロジェクトが頓挫しかけて徹夜で企画書を書き直したこと――。完璧超人に見える彼であっても、グローバルな最前線では数え切れないほどの苦難と修羅場を潜り抜けてきたのだという。

「でもさ、そうやって散々苦労した末に、現地のエージェントやクライアントとガッチリ握手を交わして、プロジェクトが成功した瞬間の達成感は……やっぱり、言葉にできないものがあるよ。自分のやってきたことが、世界を少しだけ動かした実感が持てるからね」

「ふーん……。で、苦労話はいいから、肝心の報酬のほうはどうなんだよ。お前のことだから、額にゼロが一個か二個多くついてるんじゃないのか?」

八幡が意地悪そうにニヤリと笑うと、葉山は困ったように肩をすくめた。

「そこはまぁ……それなりに結果を出してる分、会社も評価してくれてるってことさ。今度、美味しいものでもごちそうするよ、お義兄さん」

「だからその呼び方止めろって言ってんだろ!」

――ポンッと、葉山の頭に軽快な音とともに箸がヒットした。

横で聞いていた小町は

「ちょっと隼人くん、調子に乗らないの! あとお兄ちゃん、人の給料事情をしつこく聞き出すのは社会人としてどうかと思うよ!」

いつの間にか料理のお盆を片手に隣へやってきた小町が、呆れたようにジト目を向けながら葉山をピシャリと叱り飛ばす。

しかし、その表情はどこか誇らしげで、時折チラリと婚約者の横顔を見つめる瞳には、隠しきれない信頼と甘い光が宿っていた。

「いや、小町。今の英語でのプレゼンのくだり、かっこよかったろ?」

「ふん、英語くらい小町だってアプリで勉強してるし! ……ていうか、英語といえばさ、隼人くん、この前のロンドン出張の時の電話、めちゃくちゃネイティブっぽくてカッコよかったよね!」

「お、なんだ、小町の前でカッコいいところ見せつけてたのかよ」

八幡が呆れたように冷やかすと、小町は「お兄ちゃんには関係ないでしょ!」とぷっと頬を膨らませた。

苦労話の裏にある確かな手応えと、それを支える圧倒的な成果。そして、その横で愛おしそうに自分を見上げる婚約者の存在。

華やかなエリート街道を歩く葉山の表情には、かつて高校時代に背負っていた重圧や気負いは綺麗に消え失せ、一人の男としての頼もしい自信と優しさだけが満ちていた。

「……ま、せいぜい体に気をつけて稼いできやがれってこった」

八幡はぶっきらぼうにそう言い捨てると、再びグラスのビールをあおった。

最高に賑やかで、少しだけ誇らしくて、そして何より温かい夜は、家族の笑い声とともにまだまだ終わりそうになかった。

 

食卓の未来予想図と、思いがけない「当主」の自覚

賑やかな食卓の空気がふっと緩んだ頃、グラスのビールを飲み干した葉山は、ふと面白そうに目を細めて八幡に向き直った。

「でさ、八幡。世間じゃすっかり『時代の広告塔』だの『孤高のヒーロー』だのって祭り上げられてるけどさ……。当の本人は、これからどうするつもりなんだよ? まさかこのまま一生、アパートでダラダラ過ごすわけじゃないだろ」

その質問に、小町も「そうそう! お兄ちゃん、最近なんだかんだ忙しそうだけど、将来のビジョンとかあるの?」と箸を止めて身を乗り出した。

八幡は面倒くさそうにポリポリと頭を掻き、やれやれと言った様子で天井を見上げた。

「どうするも何もねぇよ……。とりあえず、明日あたり久しぶりに『研究所』に顔を出すかな」

「研究所?」

「ああ。最近集まった俺の変なデータや、世間のバズりトレンドの傾向とかを、あのAIの学習データにまた追加しとかねぇとさ。それに、本チームの連中とも顔合わせしとかないと、また変な仕様書を勝手に作られかねないしな」

相変わらず独自の、しかし最先端の奇妙なプロジェクトに身を置いている八幡の返答に、葉山はふっと苦笑いを浮かべた。

「相変わらず忙しそうだな。でも、お前が関わってるなら、きっとこれからもっと面白いこと、楽しいことが増えるはずだろ?」

「……まあな。退屈しのぎには事欠かないさ」

「比企ヶ谷本家」の顔

そこで葉山は、ふと思い出したようにクスリと笑い、さらに畳みかけるように言った。

「そういえばさ、雪ノ下財閥のほうも、お前の動向にはかなり注目してるみたいだぞ。これからは、雪ノ下と、そして実質的に影響力を持ち始めている『比企ヶ谷本家』の橋渡し役としても、お前がもっと表に出てこなきゃいけない場面が増えるんじゃないのか?」

「……は? なんだよそれ。『比企ヶ谷本家』って」

八幡はギョッとしたように眉をひそめた。

「だってそうじゃないか。お前が街でちょっとボソッと呟いたことや、何気なくやった行動が、今や経済のトレンドを動かして、あちこちで善意の連鎖を生み出してるんだ。まわりの人間から見たら、お前はもうすっかり、一族の旗頭、つまり『本家の顔』そのものだろ」

葉山にそう指摘され、小町も「そうだよ! お兄ちゃん、自覚ないかもしれないけど、最近の親戚の集まりでもみんなお兄ちゃんの話ですごい盛り上がってるんだからね!」と得意げに頷く。

「……うーん」

八幡は腕を組み、渋い顔のまま低く唸った。

「そうかもな……って、おい。俺はただ、自分の面倒くさい日常をいなしたいだけなのに、いつの間にか意図せず『本家』の役に立っちまってるのかよ。割に合わねぇな……」

頭を抱えてガックリとうなだれる八幡の姿に、リビングの全員が思わず吹き出した。

遠い記憶の中の影

ふと、頭を抱えた八幡の脳裏に、今はもう遠い昔の記憶がよみがえった。

――かつて、実家にいた頃の「じいちゃん」。

口数が少なくて、何を考えているのか分からなくて、けれど肝心な時には妙に周囲を巻き込んで、いつの間にか家族や周囲の中心にどっしりと構えていたあの頑固な老人の姿が、なぜか今の自分の状況と重なる気がした。

「……なんだかなぁ。めんどくさい気質まで、しっかり血筋で引き継いじまったってことか」

独り言のように小さく呟いた八幡の表情には、呆れながらも、どこか懐かしさと不思議な納得感が混ざっていた。

「どうしたの、お兄ちゃん?」

小町が首をかしげて覗き込むと、八幡はふっと息を抜き、いつもの気だるげな笑みに戻った。

「いや、なんでもねぇよ。……ほら、皿が空いてるぞ。もっと肉持ってこい、葉山」

「はいはい、お義兄さん」

「だからその呼び方止めろって!」

雪ノ下と比企ヶ谷、そして新しい時代を切り開く若者たちを繋ぐ中心にいながら、本人はあくまでひねくれ者を通す――。

そんな比企谷八幡の、相変わらず騒がしくも最高に温かい夜は、笑い声とともにゆっくりと更けていくのだった。

 

スクリーンの中の「恩師」

数々のメディアや週刊誌、果てはネットのドキュメンタリー番組までが、今や「比企谷八幡」という唯一無二の存在のルーツを追い求めていた。

次々と明かされる彼の伝説や、街に広がる善意の連鎖。その中心にいた男を、かつて一番近くで見守り、指導してきた人物――平塚静のもとにも、ついにその取材の手が伸びていた。

夕暮れ時の落ち着いたカフェの一角。

カメラを向けられた平塚は、愛用のタバコに火をつけたい衝動をグッとこらえながら、少し気だるげに、しかしどこか懐かしそうな笑みを浮かべてインタビュアーの質問に答えていた。

「――比企谷の魅力、ですか?」

インタビュアーの問いに、平塚はふっとグラスの水を一口含み、遠い昔の部室の光景を思い出すように目を細めた。

「あいつの魅力なんてのは、カッコいいところじゃないさ。……なにせ、あいつは自分のために虚勢を張ることをしない。いつだって泥を被り、不器用に損な役回りを選んでしまう。見捨てなきゃいけない場面でも絶対に誰かを見捨てない……いわば、どうしようもない自己犠牲の塊のような男だったからね」

「自己犠牲、ですか。周囲の人間は彼を『ヒーロー』と呼びますが……」

「ヒーローなんて大層なもんじゃないよ」

平塚はふっと鼻で笑い、言葉を続ける。

「ただね、教師として、そして一人の……まぁ、色々と因縁のある女として言わせてもらえば、あんな危っかしい生き様をしてたら、放っておけるわけがないだろう? あいつはいつも一人で全部を抱え込もうとするから、見ていて本当に頭が痛くなる。……だがね、最大の魅力は、その先にあるんだ」

感化させる力

「周りを感化させる力――それも、綺麗事の言葉だけじゃない。あいつの態度や背中が、周囲の人間を嫌でも変えてしまうんだよ」

平塚は窓の外の夕空を見つめながら、かつての教え子たちの顔を思い浮かべた。

「戸部も、葉山も、材木座も……あの連中が、もし高校時代に比企谷に出会っていなければ、今頃あんな風に真っ直ぐ社会で自分の足で立ち、誰かのために動くような人間に成長していただろうかね? いや、きっとここまで世に出ることも、自分の殻を破ることもなかったはずだ」

インタビュアーが息を呑んで聞き入る中、平塚はふっと自分の胸に手を当て、自嘲気味に、しかし誇らしげに笑った。

「……そして、それは私とて同じことさ。あいつの生き方に、私自身がどれだけ救われ、教えられたか分からない。いや、ひょっとすると、比企谷自身が一番、あいつ自身の生き様に感化されながら、不器用に足掻いていたのかもしれないがね」

生涯のリーダー

「あいつの生き方そのものが、ある種の教育者であり……あるいは、既存の枠に収まらない政治家、いや、もっと根本的な『リーダー』なのかもしれないね」

平塚はグラスを置き、まっすぐカメラのレンズを見据えて力強く言った。

「あいつは自分の言葉や大層な演説で人を引っ張るわけじゃない。ただ、目の前の面倒な現実から逃げず、不器用な手で、泥臭い言葉で、そして誰よりも頼もしいその背中で――周りの人間をごっそり引き上げてしまうんだ。……まったく、教師泣かせの、最高に迷惑で愛おしい教え子さ」

最後にフッと魅惑的な笑みを浮かべ、平塚はインタビューを締めくくった。

ネットの奔流と、新たな伝説

数日後、そのインタビュー映像がテレビで放送され、さらにネット上で公開されると――日本中が再び大きな衝撃に包まれた。

『平塚先生の言葉、重みが違いすぎる……!』

『「嫁さん以外で唇を奪った女」ってテロップのせいで別の意味でバズってて草』

『戸部も葉山も、みんなあの人の背中を見て育ったんだな……』

『比企谷八幡、マジで一国のリーダーになれる器だろこれ』

SNSは「#平塚先生のインタビュー」「比企谷のルーツ」といったワードでトレンドの1位を独占し、動画の再生回数は瞬く間に数百万回を突破した。

その頃、そんな世間の大騒動など全く知らずに、いつものようにアパートでゴロゴロと漫画を読んでいた八幡は、突然かかってきた友人たちからの「お前、テレビですげぇ言われてるぞ!」という電話の嵐に、「……は? なんだよ急に、静かに暮らせよ……」と盛大に頭を抱えることになるのだった。

世間がどれだけ彼を祭り上げ、その生き様に熱狂しようとも、本人は相変わらずの三白眼でぼやきながら、今日もどこかで誰かの面倒を仕方がなさそうに背負い続けている――それが、比企谷八幡という男の、変わらない日常だった。

 

三人の女性が語る「あの男」

平塚先生のインタビューが日本中を席巻した余韻がまだ冷めやらぬ中、今度は経済誌や大手メディアの特番として、雪ノ下姉妹、そして川崎沙希という、比企谷八幡の人生に最も深く刻まれた三人の女性たちへのインタビュー企画がひそかに実行されていた。

インタビュアーの前に並んで座ったのは、それぞれの場所で社会を動かす立場となった彼女たちだった。カメラの向こうには、あのひねくれた男が知ったら間違いなく頭を抱えて逃げ出すような、あまりにも重く、そして甘美な「本音」が語られようとしていた。

雪ノ下雪乃:国を動かす異端児

最初にマイクを向けられたのは、雪ノ下財閥の中心で鋭い手腕を発揮する雪ノ下雪乃だった。彼女は上品にカップの紅茶を傾け、静かに微笑んだ。

「――比企谷くんですか?」

問われた雪乃は、ふっと遠い目をしながら、高校時代の部室の光景を思い出すように口を開いた。

「あの頃から、彼は周囲の常識や、我が家の持つような古い財閥の権威など、ものともしない男でしたわ。私自身、ある程度の社会的地位に辿り着くとは思っていましたけれど……まさか、彼が直接的ではなくとも、結果として国や世間の意識そのものを動かすような地位にまで影響力を持つとは、当時から予想もしませんでした」

少しだけ誇らしげに、しかしどこか愛おしそうに彼女は続ける。

「でも、不思議と驚きはありません。彼が変えようとしてきたのは世界ではなく、目の前にいる私たち一人ひとりの停滞した日常だったのですから。今、こうして私も自分の足で立ち、社会の表舞台でやりがいを感じていられるのは……すべて、あのひねくれた男のおかげですわ」

雪ノ下陽乃:呪縛を解き放った存在

次にマイクが向けられたのは、かつて圧倒的なカリスマと家父長制の呪縛の中で孤独に笑っていた雪ノ下陽乃だった。彼女はワイングラスを軽く揺らし、艶やかな笑みを浮かべた。

「あの子の魅力? うーん、そうねぇ……一言で言えば、私の人生の呪縛を完全に解き放ってくれた、たった一人の『救世主』かしら」

陽乃の瞳に、わずかな熱が宿る。

「私を見て、周囲はいつも『雪ノ下家の長女』としての完璧な仮面を期待した。でも、あの子だけは最初から違ったわ。私を特別な何かとしてではなく、ただの『一人の女の子』としてしか見てくれなかった。あんな風に真っ直ぐ、私の内側に向き合ってくれた人間は、後にも先にもあの子だけよ」

彼女はフッと柔らかく、これ以上ないほど優しい表情でカメラを見つめた。

「最高に面倒くさくて、最高にひねくれていて……そして、最高に愛おしい存在よ。ねえ、今度またあのポスターみたいに、あの子の頭をぐしゃぐしゃに掻き回してあげようかしら?」

川崎沙希:「最高の男」を掴んだ誇り

そして最後に、少し照れくさそうに、しかし揺るぎない覚悟を宿した目でカメラを見据えたのは川崎沙希だった。

「比企谷……あいつのことを聞かれるのは、正直ちょっと気恥ずかしいんだけどさ」

川崎は腕を組み、ふっと鼻で笑いながら、あの出会いの夜を回想した。

「出会った時から、他の奴らとは違うオーラがあった。言葉は悪いし、目つきは死んでるし、最低最悪の第一印象だったけど……なぜか、『あの時、この男を逃したら、これ以上の男には一生出会えない』っていう妙な予感があったんだよね」

彼女は力強く、まっすぐ前を向いて言い切った。

「その予感は、間違っていなかった。今、あいつがどれだけ世間でどう言われようと関係ない。……私の選んだ男は、間違いなく世界で一番カッコいい男だし、最高に優しい馬鹿だよ」

最後に、川崎はカメラに向かって不敵に、そして誇らしげに言い放った。

「――うちの旦那は、最高にいい男だろ?」

再びのネット爆発

この三者三様のインタビューが放送されるやいなや、日本中のネットは再び凄まじい熱狂の渦に飲み込まれた。

『雪ノ下社長が「国を動かすとは思わなかった」ってサラッと言いのけるのヤバい』

『陽乃さんの「一人の女の子としてしか見てくれなかった」の破壊力がエグすぎる……』

『川崎さんの「うちの旦那はいい男だろ」で全俺が撃ち抜かれた。最高すぎるだろ沙希さん……!』

『比企谷八幡、前世でどんな徳を積んだんだよ!』

「#比企谷八幡の女たち」「うちの旦那はいい男」「雪ノ下姉妹の告白」といったワードが世界トレンドのトップを独占し、彼をめぐる伝説はもはや神話の領域へと突入していった。

その頃、そんな大爆発を起こしているとも知らず、いつものアパートで「……なんか、最近やけにスマホの通知音がうるせぇんだけど……」と、相変わらずの三白眼で冷や汗を流しながら布団をかぶる八幡の姿がそこにあった。

 

雪ノ下夫妻が語る「比企谷八幡」という特異点

平塚先生、そして雪乃たち三人の女性が語ったインタビューの余熱がまだ冷めやらぬ日本列島に、メディア業界をさらに震撼させる「最終兵器」とも言うべき特番が投下された。

それは、あの絶対的な権力と厳格さで雪ノ下家を統べる雪ノ下母と、現在は一国の政治の舞台で辣腕を振るう雪ノ下父への、異例の合同インタビューだった。

格式高い日本家屋の庭園を背に、落ち着いた着物姿で座る母と、スーツをビシッと着こなし穏やかな笑みを浮かべる父。インタビュアーが恐る恐るマイクを向けると、二人はそれぞれの視点から、あのひねくれた青年について語り始めた。

雪ノ下母:恐怖から「愛しい婿」へ

最初に口を開いたのは、かつて冷徹なまでの合理主義で雪ノ下家を取り仕切っていた雪ノ下母だった。彼女は静かに湯呑みに目を落とし、小さく息をついた。

「――比企谷くんについての評価ですか? 下世話な話をしてしまえば、世の中の人間など、多かれ少なかれ名誉や大金に目が眩むものよ。我が家の財閥が持つ影響力や富を前にすれば、誰もが媚びへつらい、あるいは計算高い顔をするものだと思っていたわ」

その声音には、長年政財界の泥水を見てきた者特有の冷徹なリアリティがあった。しかし、彼女の表情はふっと緩み、どこか苦笑いのような、諦めにも似た光が宿った。

「だが、あの少年は違った。あの子は、徹底して『損得』で動かない。利害関係という人間の最も醜い計算が一切通用しないのよ。……あれは、私のこれまでの常識や人生観を根底から狂わせる、ある種の恐怖の対象だったわね」

インタビュアーが息を呑む中、母はふっと柔らかく、これ以上ないほど温かい笑みを浮かべて言い切った。

「……まぁ、今となっては、我が家にそんな破格の風穴を開けてくれた、最高に生意気で、最高に愛しい婿ですけれどね」

雪ノ下父:男が惚れる男の背中

続いて、隣で穏やかに聞いていた雪乃たちの父親が、ダンディな笑みを浮かべながら悠然と語り出した。

「ハハハ、妻の言う通りだ。だがね、私から見れば、あいつはそんな小難しい理屈を超越した存在だったよ。あいつの本質は、ただ一つ――『ただの良い男』、それにつきる」

父はまっすぐカメラを見据え、力強く断言した。

「男が惚れる男というのは、あのようなやつのことを言うのだろうね。打算ではなく、ただ目の前の現実と、自分の矜持のために泥を被る。政治の世界のどす黒い思惑のなかで、あいつの生き様は眩しすぎた。だからこそ、私としても……あの時に政治生命をかけるだけの価値が、あいつにはあったのさ」

少しだけいたずらっぽく片目を細め、父親は余裕綽々に笑ってみせた。

「もっとも、おかげで色々としがらみは吹っ飛び、紆余曲折あって今はこうして県知事の座にまで押し上げられてしまったわけだがね。……どうだ? 政界の荒波の中でも、私の『鑑識眼』も捨てたものではないだろう?」

日本中を巻き込んだ「大爆発」

この雪ノ下夫妻によるインタビューが全国に流れた瞬間、インターネットはこれまでにないほどの超絶的な爆発を起こした。

『雪ノ下ママが「恐怖の対象」から「愛しい婿」って言うのギャップ萌えすぎて無理……!』

『パパ、サラッと「今は県知事になれたがね」って重大カミングアウトしてない!? すごい人だったんだ父親!』

『「男が惚れる男」「政治生命をかける価値があった」……比企谷八幡、マジメに世界の主役だろこれ』

『雪ノ下家を完全に掌握してる比企谷くん最強説』

「#雪ノ下パパママの告白」「県知事の鑑識眼」「愛しい婿・比企谷八幡」といったワードがトレンドを完全に制圧し、メディアはもはや「比企谷八幡という社会現象」をどう着地させるべきか頭を抱える事態となった。

その頃、テレビの特番の画面に自分の顔がドアップで映し出されていることなど全く知らず、いつものアパートで「……なぁ、小町、最近うちの周り、物々しくないか……?」と、テレビの画面からそっと目を背けながら冷や汗をかいている八幡の姿がそこにあった。

世間がどれだけ彼を称賛し、大物たちがどれだけ彼を認めようとも、本人は相変わらずの三白眼でぼやきながら、今日もどこかで自分の缶コーヒーを静かに飲む――そんな変わらない日常だけが、彼にとっての何よりの居場所だったのである。

 

比企ヶ谷本家のリビングと、テレビの向こうの男

日本中が「比企谷八幡」という唯一無二の現象に狂騒し、ネットやテレビのチャンネルを回せばどこも彼を称賛する声で溢れかえっているその頃。

東京郊外に静かに佇む歴史ある日本家屋――比企谷家の本家のリビングでは、厳かな空気が漂う中、大きな液晶テレビの画面を食い入るように見つめる一族の面々の姿があった。

テレビ画面に映し出されているのは、先ほどから世間をひっくり返している雪ノ下夫妻のインタビュー、そしてその前に放送された平塚先生や雪乃たちの姿だ。

あんなにひねくれていて、面倒くさがりで、いつも家族を呆れさせていたあの八幡が、今や日本中から「時代のリーダー」「男が惚れる男」と祭り上げられている。

テレビの画面から目を離し、一族の長である当主――八幡の祖父の代から本家を支えてきた親族の老人が、しみじみとした声音で口を開いた。

「……まったく。あの当時は、何を考えているのか分からない、ただの扱いにくいひねくれ者だと思っていたがね」

老人はフッと穏やかに目を細め、リビングの壁に飾られた、かつての「じいちゃん」の写真にちらりと視線をやった。

「あの頑固ジジイの目は、やっぱり正しかったということか。『あいつはただの変わり者ではない、本物の器を持っている』と言い張っていたあの時のじいちゃんの眼力には、今さらながら脱帽せざるを得ないな」

その言葉に、周囲に控えていた一族の重鎮たちや親戚の者たちも、深く、そして誇らしげに頷いた。

「一族のため」ではなく

「そうだね。世間は今、あの子のことを『比企谷財閥の旗頭』だの『次代の政治的アイコン』だのと言い立てているが……そんなものは、私たち一族の利害や、組織の論理などではない」

別の親族が、カップの緑茶を静かに置きながら、きっぱりと言い切った。

「私たちが八幡を支え、後押しせねばならないのは、決して『比企谷財閥の利益のため』などではない。……ただ、あの頑固なじいちゃんが、誰よりも深く八幡という少年の本質を愛し、大切に思っていたように。私たち自身も、今のあの不器用で、誰かのために泥を被る八幡という人間の生き様を、心の底から愛しく、誇らしく思うからだ」

その言葉に、その場にいた一同は異議なく、深く、力強く頷き合った。

利害でも打算でもなく、血の繋がりを超えた純粋な敬意と愛情が、この堅苦しいはずの本家のリビングを温かく包み込んでいた。

「それにしても……」

ふと、若い親戚の一人が、テレビ画面のなかに映る、どこか気だるげに頭を掻きむしっている八幡の姿を指差して苦笑いした。

「こうして改めて見ていると……あいつ、めちゃくちゃ男っぷりがカッコいいよな」

「ああ。普段はあんなに面倒くさそうにしているくせに、いざという時には誰よりもまっすぐで、誰よりも頼もしい背中を見せる。……まったく、どこで あんな男に育ったのやら」

「ふっ、そこはまぁ、あのじいちゃんの血筋と、そしてあの周りにいる素晴らしい女性たちや仲間たちにもまれた結果だろうさ」

リビングのあちこちで、感心したような、誇らしいような笑い声が広がった。

変わりゆく世界と、変わらない男

世間がどれほど彼を持ち上げ、一族がどれほど彼を後ろから支えようと決意しようとも、本人はそんなこととは露知らず、今この瞬間も自分のアパートで「……なぁ、小町、なんかテレビ消しても外が騒がしくねぇか?」と、窓の外を警戒しながらマックスコーヒーを飲んでいることだろう。

けれど、それでいい。

華やかな表舞台の裏で、誰もが彼の背中を追いかけ、誰もが彼の幸せを願い、その歩みをそっと後押ししている。

不器用で、ひねくれていて、世界で一番優しく、そして最高に男っぷりのいい「比企谷八幡」という男を真ん中にして、世界は今日も、驚くほど温かく、確かな未来へと進んでいくのだった。

 

静かなる男の背中と、受け継がれる気質

日本中が「比企谷八幡」という唯一無二の存在の話題で持ちきりになり、テレビやネットの向こうで華やかな称賛の嵐が巻き起こっているその頃。

都内にある大手企業のオフィスの一室で、その大騒動をどこか落ち着いた眼差しで見つめている一人の男がいた。

――八幡の父親である。

普段は家庭で妻や子どもたちに軽口を叩かれ、休日はソファーでゴロゴロとテレビを見ている、どこにでもいそうな「普通の父親」。しかし、ひとたび会社での顔に戻れば、その評価はまったく違っていた。

社内の権力闘争や派閥争いなどどこ吹く風とばかりに、彼は常に実利と正論だけで仕事をこなし、どんなに上の人間からプレッシャーをかけられようとも自分の部下やチームの人間を徹底的に守り抜く。そして、巨大なプロジェクトを成功させても、その手柄は自分のものにせず、周囲や若い部下たちへ気前よく譲ってしまう。

「あの比企谷さんだからこそ、安心して背中を預けられる」

「社内政治に一切左右されないのに、誰よりも圧倒的な実績を残す。まさに孤高の仕事師だ」

その揺るぎない実力と人望の厚さはついに経営陣の知るところとなり、社長からの全幅の信頼を勝ち得た彼は、今や次期「役員」への昇進を強く推される存在となっていた。

世間の評価の、はるか前から

夜、自宅のリビング。

ようやく静けさが戻った部屋で、父親はコーヒーを飲みながら、今日のビジネスニュースの経済面――いや、そこに大々的に取り上げられている息子の特集記事にふと目を落とした。

テレビや雑誌は、今や八幡のことを「時代の寵児」「孤高の英雄」「一族の旗頭」と持てはやしている。

世間は後になってようやく、その地位や名声、表面上の輝きに気づき、群がっているにすぎない。

けれど、父親はそんな世間の喧騒をどこか冷ややかに、しかし深く納得したような笑みで見つめながら、心の中でつぶやいた。

――馬鹿野郎。世間が気づくのが、遅すぎるんだよ。

父親にとって、八幡が世間に見つかる前から、あのひねくれた息子はすでに誇りそのものだった。

世間がどう評価しようと、地位や名声がなかろうと、不器用ながらも自分の意志を曲げず、誰かのために泥を被るその生き様を、父親は誰よりも早くから知っていたし、尊敬していた。

(あいつがガキの頃から、ひねくれて毒を吐きながらも、困っている人間を絶対に放っておかなかったことを、俺はちゃんと知っている。……自慢の息子さ。昔から、な)

同じように、妹である小町のことも、父親は心の底から自慢に思っていた。

兄と同じように芯が強く、周囲を明るく照らす太陽のような娘。そして、そんな兄妹を育ててくれた妻への感謝も尽きない。

社内でのもっぱらの噂

そんな父親の姿を、会社の部下や同僚たちは遠巻きに見て、最近になってようやく納得したようにこう囁き合っていた。

「おい、見たか最近のニュース。あの比企谷さんの息子さん、なんか世間でとんでもない英雄扱いされてるぞ……!」

「マジかよ!? あの飄々とした比企谷さんの息子があんな大物って……いや、待て。よく考えたら、あのブレない正義感とか、他人のために泥を被る気質とか、完全に親父さんそっくりじゃないか?」

「なるほどな……。さすがはあの比企谷さんの息子だわ。血は争えないってことか」

社内で「さすがはあの父親の息子だ」と感嘆まじりの噂が飛び交っていることなど、当の父親は知る由もない。

ただ、リビングに戻ってきた小町が「お父さん、またテレビでお兄ちゃんの特集やってるよ!」と呆れたように声をかけると、父親はフッと優しく笑い、淹れたての緑茶をすすりながらこう言ったのだ。

「いいじゃないか。……で、お前の結婚式の準備は順調なのか、小町?」

「もう、そこは関係ないでしょ!」

世間がどれだけ騒ごうとも、一族がどれだけ驚嘆しようとも、この静かで温かい家庭の温度だけは、昔から何一つ変わらない。

我が道を行く父親の背中と、それに似てしまったひねくれた息子の背中は、形を変えながらも、確実にこの世界を少しずつ動かし続けているのだった。

 

静かなる男の背中と、受け継がれる気質

日本中が「比企谷八幡」という唯一無二の存在の話題で持ちきりになり、テレビやネットの向こうで華やかな称賛の嵐が巻き起こっているその頃。

都内にある大手企業のオフィスの一室で、その大騒動をどこか落ち着いた眼差しで見つめている一人の男がいた。

――八幡の父親である。

普段は家庭で妻や子どもたちに軽口を叩かれ、休日はソファーでゴロゴロとテレビを見ている、どこにでもいそうな「普通の父親」。しかし、ひとたび会社での顔に戻れば、その評価はまったく違っていた。

社内の権力闘争や派閥争いなどどこ吹く風とばかりに、彼は常に実利と正論だけで仕事をこなし、どんなに上の人間からプレッシャーをかけられようとも自分の部下やチームの人間を徹底的に守り抜く。そして、巨大なプロジェクトを成功させても、その手柄は自分のものにせず、周囲や若い部下たちへ気前よく譲ってしまう。

「あの比企谷さんだからこそ、安心して背中を預けられる」

「社内政治に一切左右されないのに、誰よりも圧倒的な実績を残す。まさに孤高の仕事師だ」

その揺るぎない実力と人望の厚さはついに経営陣の知るところとなり、社長からの全幅の信頼を勝ち得た彼は、今や次期「役員」への昇進を強く推される存在となっていた。

世間の評価の、はるか前から

夜、自宅のリビング。

ようやく静けさが戻った部屋で、父親はコーヒーを飲みながら、今日のビジネスニュースの経済面――いや、そこに大々的に取り上げられている息子の特集記事にふと目を落とした。

テレビや雑誌は、今や八幡のことを「時代の寵児」「孤高の英雄」「一族の旗頭」と持てはやしている。

世間は後になってようやく、その地位や名声、表面上の輝きに気づき、群がっているにすぎない。

けれど、父親はそんな世間の喧騒をどこか冷ややかに、しかし深く納得したような笑みで見つめながら、心の中でつぶやいた。

――馬鹿野郎。世間が気づくのが、遅すぎるんだよ。

父親にとって、八幡が世間に見つかる前から、あのひねくれた息子はすでに誇りそのものだった。

世間がどう評価しようと、地位や名声がなかろうと、不器用ながらも自分の意志を曲げず、誰かのために泥を被るその生き様を、父親は誰よりも早くから知っていたし、尊敬していた。

(あいつがガキの頃から、ひねくれて毒を吐きながらも、困っている人間を絶対に放っておかなかったことを、俺はちゃんと知っている。……自慢の息子さ。昔から、な)

同じように、妹である小町のことも、父親は心の底から自慢に思っていた。

兄と同じように芯が強く、周囲を明るく照らす太陽のような娘。そして、そんな兄妹を育ててくれた妻への感謝も尽きない。

社内でのもっぱらの噂

そんな父親の姿を、会社の部下や同僚たちは遠巻きに見て、最近になってようやく納得したようにこう囁き合っていた。

「おい、見たか最近のニュース。あの比企谷さんの息子さん、なんか世間でとんでもない英雄扱いされてるぞ……!」

「マジかよ!? あの飄々とした比企谷さんの息子があんな大物って……いや、待て。よく考えたら、あのブレない正義感とか、他人のために泥を被る気質とか、完全に親父さんそっくりじゃないか?」

「なるほどな……。さすがはあの比企谷さんの息子だわ。血は争えないってことか」

社内で「さすがはあの父親の息子だ」と感嘆まじりの噂が飛び交っていることなど、当の父親は知る由もない。

ただ、リビングに戻ってきた小町が「お父さん、またテレビでお兄ちゃんの特集やってるよ!」と呆れたように声をかけると、父親はフッと優しく笑い、淹れたての緑茶をすすりながらこう言ったのだ。

「いいじゃないか。……で、お前の結婚式の準備は順調なのか、小町?」

「もう、そこは関係ないでしょ!」

世間がどれだけ騒ごうとも、一族がどれだけ驚嘆しようとも、この静かで温かい家庭の温度だけは、昔から何一つ変わらない。

我が道を行く父親の背中と、それに似てしまったひねくれた息子の背中は、形を変えながらも、確実にこの世界を少しずつ動かし続けているのだった。

 

提灯の灯りと、予想外の遭遇

週末の夜、静かな裏路地にある古びた赤提灯の居酒屋。

世間がどれだけ「比企谷八幡」という名前で大騒動を巻き起していようとも、本人はそんな喧騒から逃れるように、油揚げと冷えた烏龍茶(あるいはマックスコーヒーを隠し持ったグラス)を前にして、一人ひっそりとカウンターの端に陣取っていた。

しかし、今の八幡を世間が放っておくはずもなかった。

「――あの、すみません。もしかして、比企谷さん……ですよね?」

声をかけてきたのは、今やテレビをつけない日はないほどの売れっ子人気男性アイドルだった。ドラマの主演や大手企業のCMに引っ張りだこで、端正な顔立ちと華やかなオーラを纏ったその男は、なぜか周囲を警戒するようにサングラスを外し、八幡の隣の席にひょいと腰を下ろした。

「……は? 誰だお前。人違いじゃねぇの」

八幡が面倒くさそうに三白眼を向けると、アイドルは苦笑しながらスマホの画面を見せた。そこには、先日ネットやテレビで大々的に流れた、あの「イケメンに盛られた似顔絵」と、数々のドキュメンタリー番組で切り取られた八幡の顔が映し出されている。

「人違いじゃないですよ。本物の『時代のヒーロー』じゃないですか。まさかこんな居酒屋でお見かけするとは思いませんでした」

「やめろ、その変な二つ名で呼ぶな。……で、なんだよ。俺はしがない一般人なんだから、ファンサービスとかそういうのはやってないぞ」

思わず呆れたようにそう返すと、アイドルはフッと自嘲気味に笑い、グラスのビールを傾けた。

「映画やCMにあれだけ露出しておいて『一般人』は無理がありますって。……実は僕、最近すごく悩んでるんです。どんな役を演じても、どうしても『作ってる感』が出ちまって、監督に『もっと自然にやれ』って怒られてばかりで……」

キラキラとした表舞台の人間が漏らした、意外なほど泥臭い悩み。八幡はめんどくさそうにポリポリと頭を掻き、渋々といった様子で口を開いた。

「演技」の本質と、不器用なアドバイス

「……俺に聞くなよ。本業の俳優でもなんでもねぇし、そもそも人前に出るのもお断りしたい人間の意見だぞ」

「それでもいいんです。比企谷さんのあの自然体というか……テレビのインタビューや映像を見てても、全く気負ってないのに、なぜか人の心を抉るような説得力がある。あれは、どうやってやってるんですか?」

八幡はふっとため息をつき、目の前の冷や奴につまようじを刺しながら、ぼそっと呟いた。

「あれはな……俺がすごい演技をしてるわけじゃない。むしろ、監督に『お前は演技なんかするな、ただ普段のそのひねくれたままでそこに立ってろ』って言われたから、そうしてるだけだ」

「演技をしなくていい……?」

「ああ。演技が苦手で、どうしても嘘っぽくなっちまうなら、アプローチを変えろよ」

八幡は面倒くさそうに視線を向け、淡々と言い放った。

「自分がどういう人間なのか、自分の性根の悪さや、くだらないプライド、あるいは譲れない意地を徹底的に突き詰めろ。自分の『本質』を知るんだよ。……で、自分の本質に近い役、あるいはその延長線上にある役だけを選んでやっとけばいい。それなら、わざわざ作らなくても『演技じゃない演技』ができるはずだ。まぁ、その代わり役者の幅はめちゃくちゃ狭まるし、器用な生き方はできなくなるけどな」

「……自分の本質を、突き詰める……」

アイドルの男は、その言葉を反芻するようにじっと宙を見つめた。作られたアイドルとしての笑顔や、求められる完璧なキャラクターを演じることに疲れていた彼の胸に、そのひねくれた、しかし圧倒的な真理をついた言葉が深く突き刺さった。

「幅が狭まったっていい。嘘臭い芝居をするより、よっぽどマシだ……。比企谷さん、ありがとうございます。なんだか、視界が開けた気がします」

「お、おう。勝手に納得してくれ。……で、会計は自分の分は自分で払えよ」

「ヤクザ映画の怪物」の誕生

それから数ヶ月後。

日本の映画界に、一つの大きな事件が起きた。

かつてアイドルとして王子様路線を走っていたその男が、とあるハードボイルドな極道映画で、狂気と冷徹さを併せ持つ「若頭役」として大抜擢されたのだ。

スクリーンに映し出された彼は、これまでの爽やかなイメージを完全に脱ぎ捨て、底知れぬ狂気と、しかしどこか人間臭い哀愁を纏った怪演を見せつけた。そのあまりにもリアルで、生々しい「本物の暴力と孤独」を漂わせる佇まいは、映画館の観客を震え上がらせ、映画賞を総なめにするほどの絶賛を浴びた。

映画業界やネットの映画ファンたちは、興奮気味にこう噂し合った。

『あのアイドル、あんな演技派だったのかよ……!』

『いや、あれはもう演技を超えてるだろ……。狂気とリアルさが凄すぎる』

『ヤクザ映画と言えば、いまやこいつしかいないだろ……! 次の主演も絶対この人だ!』

すっかり日本を代表する「実力派の強面(こわもて)俳優」として新たな黄金期を築き上げた彼は、のちに雑誌のインタビューでこう語ることになる。

――「僕に本当の『自分の表現の仕方』を教えてくれたのは、街の片隅で出会った、一人のひねくれた一般人(?)の男なんです」と。

そのインタビューを見た裏社会……ではなく、いつものアパートの部屋で、八幡はテレビ画面を見ながら盛大に頭を抱え、

「……おいおい、勝手に俺の名前を伝説の演出家みたいに使うなよ……。やめてくれマジで……」

と、遠い目をしながら一人でマックスコーヒーの缶を握りしめるのだった。

 

錆びついた因縁と、変わらない背中

午後の穏やかな陽射しが差し込む大通りから一本外れた、人気のない裏路地。

いつものようにコンビニの袋を提げ、どこか気だるげに歩いていた八幡の進路を、突然、黒いジャケットを着た大柄な男が塞いだ。

「おい……。久しぶりだな、比企谷」

聞いたことのある、しかしどこか澱んだ声。

八幡が面倒くさそうに三白眼を向けると、そこに立っていたのは――高校時代、文化祭の裏で戸部を追い詰め、その足を折ろうとして八幡にタックルで足払いをかけられ、泥水に沈んだあの男だった。

当時から尖っていたその顔には、あれから年月が経った分の焦燥と、やり場のない鬱屈した澱みがさらに色濃く貼り付いていた。

「……誰だっけ。あぁ、なんか昔、変なところで泥遊びしてた奴か」

八幡はわざとらしく首を傾げ、心底どうでもよさそうに息をついた。

「とぼけやがって……! お前のせいで、俺の人生はあの時から狂っちまったんだよ!」

男は歪んだ笑みを浮かべ、バキバキと指の関節を鳴らしながら一歩ずつ詰め寄ってきた。

世間が「時代の英雄」「リーダー」などともてはやしていることなど、この男の耳には届いていないか、あるいはそんな華やかな評判こそが、当時の自分を踏みにじったあのひねくれた男のものだという事実が、余計に彼の怒りを煽っていた。

「あの時、お前が余計な真似さえしなけりゃ……!」

怒号とともに、男の重い拳が八幡の顔面めがけて容赦なく振り下ろされた。

――バキッ。

鈍い音が路地に響く。八幡は防ぎきれずに一発、その拳を頬に食らい、数歩よろめいた。口の端から、わずかに赤い血が滲む。

しかし、二発目、三発目と繰り出される拳は、八幡の体をかすりもしなかった。

「っ……! なんだよ、避けてばかりじゃねぇか!」

「……ふっ、お前と違って、俺は毎日のように不条理な社会の荒波に揉まれて回避スキルだけは上がってんだよ。それに、最初の『一発』を殴らせてやったのは、せめてもの情けだ」

ヒラリ、ヒラリと、まるで子供の喧嘩をいなすかのように相手の攻撃を完全にかわしていく八幡の姿に、男はふと、最近テレビで目にした光景を思い出した。

(テレビの画面で……あいつは言っていた。『自分の本質を突き詰めろ』と……。俺は……俺は何をしてるんだ……?)

後悔と、変わらない答え

男の拳が止まり、息を荒げながらその場に立ち尽くす。

ふと見せたその隙に、八幡は冷ややかに、しかしどこか呆れたような目を向けた。

「……で? 何が不満なんだよ。あの時、お前がやろうとしてたことはただの八つ当たりだろ。お前の人生が狂ったのは俺のせいじゃなくて、お前自身がその時から何も変わらず、自分の弱さから逃げ続けてるからだろ」

図星を突かれたように、男の顔が青ざめる。

「うるせぇ……! お前になにがわかる! 俺だって、あの時は……!」

「ああ、わかるさ」

八幡はポケットに両手を突っ込み、低く、しかしはっきりとと言い放った。

「一発は殴られてやったが……。勘違いするなよ。俺は、あの時に戻ったとしても、やっぱりお前の拳から戸部を守る。……あいつらは、俺の仲間だからな」

「仲間……?」

男は目を見開いた。打算でも損得でもなく、ただ「仲間だから」という理由だけで、全身に泥を塗りたくって他人のために突っ込んでいったあの日の少年の姿が、目の前の男と重なる。

「……お前は、どうしたかったんだよ。あの時、誰かを傷つけて、それで自分の居場所が守れると思ったのか? ……情けねぇな」

八幡のその静かな、しかし有無を言わせぬ正論と、底知れぬ眼差しに気圧され、男は一歩、また一歩と後じさりを始めた。

かつて自分がねじ伏せようとしたはずの相手は、いつの間にか、自分とは比べ物にならないほど巨大な「重み」を背負った男になっていた。

「くそっ……!」

耐えきれなくなった男は、そのまま背中を向け、情けない足取りで裏路地の奥へと逃げ出すように走り去っていった。

日常の続き

静まり返った裏路地。

一人残された八幡は、痛む頬を軽く手で押さえ、やれやれといった様子で大きく息を吐き出した。

「痛っ……。まったく、なんで俺がこんなところでチンピラの相手しなきゃいけないんだか。せっかくの休日の予定が台無しだろ……」

ぶつぶつと文句を言いながら、地面に落ちていたコンビニの袋を拾い上げる。

世間がどれだけ彼を英雄と祭り上げようとも、裏社会の人間が彼を恐れようとも、彼の日常は相変わらず泥臭くて、面倒くさくて、そして少しだけ痛みを伴うものだった。

けれど、ポケットに突っ込んだ拳のなかには、あの頃と何も変わらない、確かな温もりと意地がしっかりと握りしめられていた。

「……早く帰って、冷やさねぇと小町に小言言われるな」

三白眼をわずかに細め、八幡は夕暮れの迫る街の中へと、相変わらずの不器用な足取りで歩き出すのだった。

 

敗北の涙と、残された背中

夕暮れの冷たい風が吹き抜ける裏路地から、ただむしゃらに走り去った男は、人気のない公園の隅に行き着くと、そのまま古びたベンチに崩れ落ちるように膝をついた。

「はぁ……はぁ……っ、くそっ……!」

荒い息を整えながら、男は自分の両手を見た。

あの時、目の前にいた比企谷八幡を警察に突き出すことだってできたはずだ。世間では「時代の英雄」だの「大物」だのともてはやされている男だ。もし自分が不当な暴行を受けたと言いふらせば、あいつの社会的立場を揺るがすことだってできたかもしれない。

あるいは、プロの喧嘩屋のように徹底的にやり返すことだってできたはずだった。

なのに――。

あの男は一切の反撃をせず、ただ最初の「一発」だけを真っ直ぐに受け止め、あとはすべての拳を涼しい顔でかわし続けた。警察を呼ぶどころか、面倒くさそうにため息をつきながら、ただ淡々と正論を突きつけてきた。

(なんだよ、あれ……)

男の中で、怒りは急速にしぼんでいき、代わりに言いようのない熱いものが込み上げてきた。

男として、人間として、器の大きさが違いすぎた。自分がどれほどちっぽけなプライドにしがみつき、過去の恨み言だけに囚われて生きてきたのかを見せつけられた気がした。

「俺は……俺はいったい、何をやっているんだ……っ!」

こらえきれなくなった感情が溢れ出し、男は両手で顔を覆ったまま、大の男が声を殺してしゃがみ込み、ポロポロと涙を流した。悔しさと、情けなさと、そして圧倒的な格の違いへの絶望が、彼の胸を激しくかきむしっていた。

謝罪の行方

それからどれほどの時間が経っただろうか。

冷え切った夜風の中で、男は震える拳を強く握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。

このまま負け犬として逃げ続けるのはもうごめんだ。

あいつの顔に泥を塗り、逆恨みしたまま人生を腐らせ続けるのは、もう終わりにしなければならない。

男は走った。先ほど別れた裏路地へ、そしてあの男が消えていった方向へ、必死の足取りで引き返した。

――だが。

男が息を切らせて元の場所に戻ったとき、そこに広がっていたのは、いつものと変わらない静かな夜の街の景色だけだった。

コンビニの袋を提げ、少し不機嫌そうに頬を押さえながら、トボトボと遠ざかっていくあの三白眼の背中は、すでに遥か彼方の闇の中へと消えかけていた。

追いつくことはできなかった。

言葉を交わすことも、その場で頭を下げることも、今の彼にはできなかった。

けれど、男は遠ざかるその背中に向かって、ぐっと拳を握りしめたまま、震える声で呟いた。

「……すまなかっ……た……っ」

誰に届くわけでもないその謝罪の言葉は、夜風の中にスッと溶けて消えていった。

しかし、その男の胸の奥には、かつて自分を踏み台から救い上げてくれたあの日の少年のように、今度は自らの足でしっかりと前を向いて歩き出すための、小さな、しかし確かな覚悟の火が灯っていた。

 

夜の街角と、予想外の再会

数日後の夜。

仕事帰りの買い出しのついでに、いつものように面倒くさそうな顔で夜道を歩いていた八幡の足を、不意に一つの影が止めた。

「あの……比企谷さん!」

振り返ると、そこに立っていたのは、あの日の裏路地で突っ込んでき、八幡に一発殴られた男だった。

前回のような殺気や澱んだ空気は消え失せ、どこかやつれてはいるものの、その目はまっすぐと八幡を見据えていた。

男は勢いよく頭を下げ、震える声で切り出した。

「この間は……本当に、すまなそうだった……じゃなくて! すみませんでした……っ!」

いきなりの改まった謝罪に、八幡は眉間を寄せ、缶コーヒーの飲み口から目を離してジト目を向けた。

「……は? なんだよ急に。お前、また俺を殴りに来たのか? 警察呼ぶぞ」

「違う! 殴るどころか……その、本当に悪かったと思ってさ……」

男は顔を上げ、苦笑いとも泣き笑いともつかない複雑な表情を浮かべた。

「俺さ、ずっと昔から自分の歪んだ性格を棚に上げて、周囲のせいにしてばかりだったんだ。お前のことも、あの時の一件からずっと逆恨みして……自分のことしか見えてなかった。でも、あの後、ちゃんと考えたんだよ。俺がいかにちっぽけで、恥ずかしい人間だったかってことさ」

一気にまくし立てた男は、どこか怯えるように八幡の顔色をうかがった。

自分がどれだけ醜く歪んでいたかを面と向かって告白するその姿には、かつての突っ張った面影はなく、ただ自分の過ちと向き合おうとする一人の人間の必死さがあった。

「忘れたよ」という答え

男の言葉を聞いた八幡は、しばらくの間、無言でじっとその顔を見つめていた。

そして、やれやれと小さく息をつくと、缶コーヒーを片手で軽く振ってみせた。

「……で? 話ってそれだけか」

「え……?」

「お前が昔どうだったとか、そんなの知ったこっちゃねぇよ。正直、お前に殴られた頬の痛み以外、そんな昔のことなんてとっくに忘れたしな」

「忘れた、って……」

驚きに目を見開く男に向かって、八幡は相変わらずの気だるげなトーンで、けれどどこか核心をつくような言葉をぽそっと落とした。

「だけどよ。自分のそういう歪みや情けなさを、わざわざ他人に――しかも、昔殴り合った相手にこうしてぶちまけに来るってことはさ……」

八幡は少しだけ目を細め、フッと口元を緩めた。

「お前のその歪み、少しはマシになって、まともな方向に直ってきてるんじゃねぇのか? 知らんけど」

その言葉を聞いた瞬間、男の胸の奥で何かが熱く弾けた。

お説教をされるわけでもなく、同情されるわけでもなく、ただ一人の人間として、自分の変化を淡々と認められた気がした。涙がこみ上げるのを必死にこらえながら、男は力強く頷いた。

「……ああ。……ありがとう、比企谷」

新たな歩み

それから、この男がこれからどんな人生を歩んでいくのか、どんな壁にぶつかり、どこへ向かうのかは誰にもわからない。

華やかな表舞台で世界を動かす英雄でもなければ、歴史に名を残す偉人でもない。彼はただの、どこににでもいる一人の人間にすぎない。

けれど、男は確信していた。

人生の曲がり角で、自分のちっぽけさと向き合うきっかけをくれたこの夜の出来事と、あの面倒くさそうにしながらも決して自分を見捨てなかった三白眼の男との出会いを、自分は一生忘れることはないだろうと。

「じゃあな。風邪ひくなよ」

八幡はそれだけ言うと、背中を向け、夜の街のなへと歩き出していった。

遠ざかるその背中は相変わらず頼りなげで、文句ばかり垂れているように見えて、それでもなぜか、誰よりも大きく、温かかった。

男はその後姿に向かってもう一度深く頭を下げると、今度こそ迷いのない足取りで、自分の未来へと続く道を歩き出すのだった。

 

母校の講義室と、予期せぬ登壇

秋の柔らかな陽光が差し込む、総武高校の広い大講堂。

かつて自分が生徒としてサボり場所を探していたその場所に、今や「時代の変革者」「謎多きリーダー」として特設の特別講義に呼ばれているのだから、世間の皮肉とはよくできたものだ。

講堂の雛壇には、政治や教育の未来について熱い議論を交わす大学教授や現役の教師陣、そして目を輝かせた多くの学生たちがびっしりと埋め尽くしていた。中央の演台に立たされた八幡は、窮屈そうに襟元を引っ張りながら、いつもの気だるげな三白眼でフロアを見渡した。

「……あのさ。俺みたいな一般ピーポーをここに呼んで、一体どんな高尚な話をしろってんだよ」

マイクに向かってボソッと呟いたその声に、最前列にいた一人の真面目そうな学生が、すっと手を挙げて立ち上がった。

「比企谷さん! あなたのこれまでの活躍や、世間に巻き起こした数々の影響は、誰もが目を見張るものです。もちろん、そこにはあなたの実力や選択もあったでしょうが……正直、ここまでくると『運』の要素も大きかったのではないかと思います。……その、あなたの言う『運』は、いったいどこからやってきたと感じていますか?」

講堂内が静まり返り、全員の視線が一斉に八幡に集まった。

政治家への道を歩む者、教育のあり方を模索する者、誰もが「時代の寵児」の口から語られる成功の秘訣――あるいは運命の正体を知りたがっていた。

「良い運」と「悪い運」

八幡は面倒くさそうにポリポリと頭を掻き、天井を仰ぎ見たあと、ため息交じりにマイクの前に口を近づけた。

「……運、ねぇ」

ぽつりと呟くと、八幡は教壇の縁に両手をかけ、ぼそりと言葉を紡ぎ出した。

「世の中には、いい運もあれば、当然悪い運もある。トカゲの尻尾切りみたいに理不尽に巻き込まれたり、ろくでもない目に遭ったりする『悪運』なら、俺も高校時代から嫌と言うほど経験してきた。ここにいるお前らだって、多かれ少なかれ、そういう不運には散々出会ってきたはずだ」

フロアのあちこちで、学生や教師たちが深く頷く。

「じゃあ、その運をどうにかできたかって言ったら、そうじゃない。運なんてものは、大抵は自分の意思とは関係なく突然降ってくるもんだよ。……たださ」

八幡は少しだけ視線を落とし、かつての部室や、これまでの選択の数々を思い出すように続けた。

「俺がその時々にやったのは、大層な運を引き寄せようとしたわけじゃない。ただ、目の前で面倒くさいことが起きたとき、あるいは選ばなきゃいけない岐路に立ったとき……『後悔しない選択』をしてきた、それだけだ」

「後悔しない、選択……?」質問した学生が息を呑む。

「満足できる人生」という幸運

「あぁ」

八幡は淡々と、しかし妙に芯のある声で言い切った。

「もし仮に、明日からすべてが元通りになって、世間の喧騒が消えて、俺がただの冴えない一般人に戻ったとしても――いや、極端な話、世間で言うような『大臣』みたいな偉い立場にならなかったとしてもだ。俺は、自分のこれまでの人生や選択に、きっと満足していると思う」

大講堂の空気が、わずかにピリッと引き締まる。

「他人にどう評価されようと、自分が選んだ泥臭い道や、守りたかったものに対して『これでよかった』って思えるならさ……それって、めちゃくちゃ『運が良い』ってことにならないか?」

八幡はふっと自嘲気味に、しかしどこか晴れやかな笑みを浮かべた。

「地位とか名誉とか、世間が持てはやす成功なんてのは、あとから勝手についてきたオマケみたいなもんだ。自分の人生を、自分の足で引き受けて、最後に『悪くなかった』って思えるなら、それが俺にとっての最大の運だったのかもな。……まぁ、知らんけど」

ざわめく講堂と、それぞれの答え

その言葉が終わった瞬間、大講堂は一瞬の静寂のあと、激しい議論とざわめきに包まれた。

「大臣にならなくても満足している……だと……?」

「成功そのものじゃなくて、自分の選択への納得感こそが『運』の本質だっていうのか……!」

「教育者として、この言葉は重すぎる……!」

教授や教師たちは目を見張り、学生たちはノートに猛烈な勢いでペンを走らせる。政治や教育のあり方を議論していたはずの場は、一人のひねくれた若者の「生き様そのもの」を巡る、熱い議論の渦へと飲み込まれていった。

雛壇の端でその様子を見ていたかつての恩師や仲間たちは、それぞれに誇らしげな、そしてどこか呆れたような笑みを浮かべていた。

世間がどれだけ彼を特別な存在として祭り上げようとも、本人は相変わらず「めんどくさい」と言いながら、ただ自分の選んだ足跡をしっかりと噛み締めている。

そんな比企谷八幡の姿は、今日もまた、新しい時代を生きる若者たちの心に、消えない熱を灯し続けているのだった。

 

講堂のざわめきと、本音の着地点

熱を帯びた議論や質問が飛び交う大講堂の中、ひときわ鋭い、しかしどこか率直な声がマイクを通して響いた。

「比企谷さん! あなたは手に入れた莫大な富や遺産の大部分、あるいはその権利を、教育支援や社会福祉の基金へとほとんど全額寄付したと聞いています。……失礼ですが、それほどの額を手放したことに、今さら後悔はありませんか? 正直、男として、あるいは世間の目から見て、『カッコつけすぎた』とは思わないんですか?」

その直球すぎる質問に、フロアのあちこちから「おい、そこまで聞くか……?」というどよめきが起こった。数千億、あるいはそれ以上の経済的価値を生み出す源泉を手放した男への、誰もが心のどこかで気になっていた禁忌の問いだった。

演台の前に立った八幡は、その質問を浴びると、ふっと呆れたように息をつき、頭をポリポリと掻きむしった。

「……まあ、そうだな」

八幡は隠す様子もなく、淡々と言葉を続けた。

「言われてみれば、確かにその通りかもしれない。もう少し手元に残しておけば、高級なコーヒーを毎日缶じゃなくて箱買いできたかもしれないし、将来の不安もゼロだっただろうさ」

会場が「え?」と拍子抜けしたような静けさに包まれる。しかし、八幡はすぐに少しだけ表情を引き締め、まっすぐ前を見据えた。

「だけどさ。自分の稼いだ金が、どこかの誰かの教育の助けになったり、かつての俺みたいにひねくれて行き場のないガキたちの環境を少しでもマシにするために使われるっていうのは――ある意味で、昔からの俺の『夢』みたいなもんだったんだよ」

祖父へ捧ぐ、精いっぱいの背中

八幡は遠い目をするように、ふと天井のほうへ視線を向けた。

「もし俺がこの先もっと成功して、大金持ちになって、白髪の爺さんになって、それなりの遺産を残したとするだろ? ……たぶん、俺はそれでも同じように全額寄付すると思うね。人間、根っこはそうそう変わらないし、自分の性根がどこに向いてるかなんて、だいたい自分で分かってるからさ」

だからこれでいいんだよ、と八幡は肩をすくめた。

「それにさ……」

少しだけ間を置いて、八幡は照れくさそうに、けれどはっきりと付け加えた。

「俺には、どうしてもカッコをつける必要があった相手がいたんだよ。もうとっくにあの世に逝っちまった、うちのじいちゃんにな」

講堂の空気が、ピタリと静まり返る。

「あいつは生前、ろくな遺産も残さず、面倒くさい背中ばかり見せてきた変な爺さんだったけどさ。俺が今さら大金に目が眩んで守りに入ったりしたら、あの世で絶対に『お前も落ちぶれたもんだな』って呆れられる気がしてさ。だから、せめてあの世のじいちゃんが『おいおい、やりすぎだろ』って呆れながらも、ちょっとだけ苦笑いしてくれるくらい……最高にカッコつけてやりたかったんだよ」

八幡はふっと、どこか吹っ切れたような、悪びれない笑みを浮かべた。

「なあ。もし、あの世のじいちゃんが『お前、カッコつけすぎだろ』って呆れるくらいにカッコよかったんならさ――それって、孫の俺の人生としては、もう大成功ってことでよくないか?」

沸き起こる喝采と、静かな熱

その言葉が終わった瞬間、大講堂を埋め尽くしていた学生たち、教師たち、そしてかつての恩師や仲間たちの間から、割れんばかりの盛大な拍手と、どこか涙を誘うような歓声が沸き起こった。

打算でも名誉でもなく、ただ自分の美学と、亡き祖父への意地と愛情のためにすべてを投げ打つその生き様。

「カッコつける」ということの本当の意味を、このひねくれた男は最後まで不器用に、けれど最高に鮮やかに体現してみせたのだ。

最前列でそのスピーチを聞いていた平塚先生は、フッと誇らしげな笑みを浮かべながら、小さく鼻を鳴らした。雪乃や葉山、そして他の仲間たちも、それぞれの場所で深く頷き、その背中に熱い眼差しを送っている。

世間がどれだけ彼を称賛し、時代がどれだけ彼をリーダーとして祭り上げようとも、比企谷八幡の本質は変わらない。

彼はただ、自分の大切な人たちのために、今日も最高に面倒くさく、そして最高にカッコいい「自分の物語」を歩み続けているのだった。

 

講堂の最前列に近い席で、そのスピーチを息を呑んで聞き入っていた一人の若い男がいた。

それは、比企谷本家から「次代を担う若手」として送り込まれ、この特別講義に潜り込んでいた遠縁の親戚の学生だった。

最初は、本家の「顔」として祭り上げられているこの不気味なほど有名な遠い親戚に対して、どこか斜に構えた好奇の目を向けていた。――いくら世間で持たはやされていようと、どうせ実態は作り上げられた偶像だろう、と。

だが、目の前で語られたのは、計算や打算の欠片もない、あまりにも愚直で、あまりにもカッコいい「本音」だった。

(……全額寄付して、残ったのは満足感とじいちゃんへの見栄だけかよ)

その学生は、呆れたように苦笑いを浮かべた。

莫大な遺産や権利をあっさりと手放し、「カッコつけるためだけにやった」と言い放つその姿は、一族の損得勘定や合理性を重んじる大人たちから見れば、間違いなく「大馬鹿野郎」のそれだった。

けれど――。

(……くそ。……確かに、馬鹿野郎だな。だけど……)

胸の奥底で、熱いものがこみ上げてくるのを抑えられなかった。

打算や体面ばかりを気にして生きる大人が溢れるこの社会で、これほどまでに自分の美学を貫き、亡き祖父への意地のためにすべてを賭けられる男が他にいくだろうか。

全身が痺れるような、強烈な憧れと誇らしさが波のように押し寄せる。

(かっこよすぎるだろ……!)

学生は熱を帯びた目で壇上の背中を見つめながら、拳をぎゅっと握りしめた。

あの男が自分の血の繋がった親戚であること、そして同じ「比企谷」の血を引いているというその事実が、これまでの人生で感じたどの栄誉よりも誇らしく思えた。

周りの学生たちが歓声と拍手を送る中、彼は誰よりも深く、そして力強く、その背中に向かって拍手を送り続けるのだった。

 

講堂の締めくくりと、静かな熱の連鎖

割れんばかりの拍手と熱気が渦巻く大講堂の中、八幡は耳障りだと言わばかりに軽く片手を振って制し、もう一度マイクの前に向き直った。

その不機嫌そうな、けれどどこか肩の力の抜けた表情に、会場の興奮がふっと穏やかな静けさへと変わっていく。

「……まぁ、そんな大層な話はこれくらいにしておこうか」

八幡は少しだけ視線をフロアの学生たちに向け、気だるげに、しかしはっきりとと言葉を続けた。

「お前らはまだ、これからだろ。学生なんだから、もっと気楽に今を楽しめばいい。……正直、俺の同年代にこんなガチガチに政治や社会を背負うような大物がいたら、『うわ、めんどくせぇ、自分もなんか頑張らなきゃいけねぇじゃねぇか』って、絶対げんなりして早々に引きこもってたと思うぞ。毎日そんな気負ってたら、身が持たねぇっての」

クスリと、講堂のあちこちから自然な笑い声が漏れた。過剰に神格化されかけていた「比企谷八幡」という偶像が、ほんの少しだけ目の前の「等身大の兄ちゃん」に戻った瞬間だった。

「さっきも言ったけど、俺のこの所謂『成功』の半分は間違いなく運だ。運の巡り合わせが悪けりゃ、今頃どこかで野垂れ死んでるか、別の意味で社会の厄介者になってただろ。だから、俺自身も『もう一回同じことをやれ』って言われたって、絶対に同じことはできない」

八幡は教壇に片肘をつき、ゆっくりと学生たちの顔を見渡した。

「だからさ。無理して無理ゲーを攻略しようとしなくていい。ただ、自分が面白いと思うものに夢中になって、勉強して、遊んで……そうやって過ごしてくれ」

その声のトーンが、わずかに、けれど真剣に響いた。

「その中で、どうしても消えずに残っちまった『熱』があるなら――その熱を大事にしろよ」

「……熱、ですか?」最前列の学生が息をのんで問う。

「あぁ」

八幡は小さくうなずき、最後に不敵に、そしてどこか優しく笑ってみせた。

「自分の内側から湧き出てくるその熱を、うまく仕事や生き方に乗っけられたなら……もしかしたら、人生ってのは案外、一生楽しくなるのかもしれないな。……まぁ、知らんけど」

最後のボソッとした付け足しとともに、八幡は軽く頭を下げ、それ以上話すまいとさっさと演台の脇へと引っ込んでいった。

日本中を駆け巡る「最後のメッセージ」

その日の講義の模様――特に、最後の八幡の飾らない言葉の数々は、リアルタイムで配信され、瞬く間に日本中のスマートフォンやテレビ画面へと拡散されていった。

『「無理ゲーを攻略しなくていい」「残った熱を大事にしろ」って言葉、今の若者全般に刺さりすぎて泣く』

『比企谷八幡、最後はやっぱりいつものひねくれ節なのに、なぜかめちゃくちゃ心に残るのズルい……!』

『「熱を仕事にすれば一生楽しくなるのかもな」……よし、明日からも頑張るか』

『#比企谷八幡の言葉」「#残った熱を大事にしろ」が世界トレンド1位』

社会の頂点に立ちながらも、決して高慢にならず、等身大の視点で若者たちに「自分の人生を生きるための温度」を残していった男の姿は、もはや一つの伝説として人々の心に深く刻み込まれていた。

その頃、すでに控室のソファにドカッと座り込み、「……あー、疲れた! なんで俺がこんな公開処刑みたいなことしなきゃいけないんだよ……!」と、ペットボトルの水を一気に飲み干しながら盛大に愚痴をこぼしている本人は、世間の大騒動などどこ吹く風。

けれど、その不器用な言葉に背中を押された無数の若者たちが、それぞれの場所で熱を抱きしめ、新しい明日へと歩き始めている――それだけは確かな、変えようのない事実だった。

 

 

騒がしい夜と、消えない余熱

大学での特別講義から数週間が経ち、日本中を巻き込んだ喧騒もようやく落ち着きを見せ始めた頃。

都内の小綺麗な居酒屋の個室では、すっかり社会人としてそれぞれの道を歩んでいる面々――葉山隼人、戸部翔、そして材木座義輝が、盛大にビールジョッキをぶつけ合っていた。

「いやあ、お前の母校の講義の動画、ネットでめちゃくちゃバズってたぜ!『熱を大事にしろ』だっけ? まるでどっかの哲学者かよ、比企谷!」

戸部が豪快に笑いながら、八幡の肩をパンと叩いた。

「ハハ、確かに様になっていたさ。お前がそういう泥臭い言葉を吐くからこそ、みんな心動かされるんだろうな」

葉山もスマートな笑みを浮かべ、グラスのハイボールを傾ける。

「ふははは! 我が盟友、比企谷八幡よ! 世間が貴公を『時代の救世主』と祭り上げるのも無理はない! さあ、我が脳内の創作データに新たな神話の1ページが刻まれたぞ!」

材木座が暑苦しく叫ぶのを、八幡はジト目で「うるせぇ、お前ら少しは静かに飲め」と一蹴した。

いつものようにくだらない冗談が飛び交い、昔と変わらない気心知れた友人たちの空間。

しかし、その賑やかな空期のなかで、なぜか今日の八幡はいつになくグラスをいじったまま、黙り込んでいた。

「やり切った」その先の空白

「……どうしたんだよ、珍しくお前が酒が進んでないじゃん」

葉山がふと、八幡の様子のおかしさに気づいてグラスを置いた。戸部や材木座も、ガヤガヤと騒ぐのをやめて八幡のほうを向く。

八幡は面倒くさそうにポリポリと頭を掻き、いつもの気だるげな、しかしどこか答えの出ない悩みを抱えたような声でぽつりと言った。

「……お前らはさ、これから先どうすんだよ」

「急にどうしたんだよ、デスボイスでそんな重いこと聞いてさ」戸部が首をかしげる。

「いや……」

八幡は小さく息をつき、テーブルの木目をじっと見つめた。

「この間、講堂でガキどもに『自分の熱を大事にしろ』とか、偉そうなこと言っちまっただろ。……で、家に帰ってからふと思ったんだよ。じゃあ、俺自身はどうなんだってな」

友人たちは黙って耳を傾ける。

「あのとき、色々と面倒なことに巻き込まれて、結果的に自分のやれることは全部やった。雪ノ下家のことも、街のいざこざも、自分の身の丈に合わないような大役も、なんだかんだでやり切っちまった。……けどさ」

八幡は顔を上げ、少しだけ困ったような、不器用な笑みを浮かべた。

「人生、まだめちゃくちゃ残ってんだよ。下手すりゃ、こっから先の方が長いくらいだ。……なのに、なんかこう、自分のなかにあったデカい熱を全部使い切っちまったような、妙な虚無感があるっていうかさ」

「…………」

「やれることはやった。もう誰も困らせてないし、変な自己犠牲を発動しなくても、世界は勝手に回ってる。……じゃあ、これからの人生で、俺はいったい何をしたいんだ? 何に向かって動けばいいんだ? ……なんてな。考えるだけ無駄なのは分かってるんだけどよ」

いつもは冷めた皮肉ばかり言っている男が、人生の折り返し地点――いや、まだ若いにもかかわらず、すべてをやり遂げてしまった男のような贅沢な悩みを吐き出す。

それは弱音のようでありながら、どこか真っ直ぐに自分のこれからを探そうとする、不器用な足掻きでもあった。

友人たちの答え

少しの静寂のあと、葉山はクスリと小さく笑った。

「なんだ、そんなことか。お前が『これから何をしたいか』で悩むなんて、らしくもないな」

「そうぜぇ、比企谷! 悩む暇があるなら、俺と一緒に新しいライトノベルの原作でも書こうぜ! 題して『俺の青春ラブコメは世界を救いすぎて終わらない』!」

「材木座、お前のそれは絶対につまらないから却下な」

戸部がツッコミを入れると、個室に再び明るい笑い声が広がった。

そして、葉山はまっすぐ八幡の目を捉え、静かに、しかし力強く言った。

「八幡。お前はこれまで、誰かのために自分の熱を燃やしてきた。誰かを救うため、誰かの盾になるために走ってきた。……だったらさ、これからは『誰のためでもない、自分のための面倒くさいこと』を探してみたらどうだ?」

「自分のため、か……」

「ああ。お前が本当に面白いと思えることなんて、きっとまたその辺の道端に落ちてるさ。お前が動けば、どうせまた勝手に周りが巻き込まれて、騒がしくなるんだからな」

葉山や戸部、そして材木座の楽しげな顔を見ているうちに、八幡の胸につかえていたモヤモヤが、少しだけ軽くなった気がした。

「……だな」

八幡はため息をつきつつも、グラスに残っていた酒をグイッと飲み干した。

「自分のためになんて生き方、一番柄に合わねぇけどさ……まぁ、気が向いたら、なんか面倒くさくない程度に探してみるさ。……ほら、お前ら、酒が足りねぇぞ。追加頼めよ」

「おっ、いいですねえ! じゃあ今日は俺が奢るぜ、比企谷!」

「いや、ここは俺に払わせろ、戸部!」

「いやいや、我が軍の勝利の宴なのだから私に――」

またいつも通りの、くだらない、最高に居心地のいい喧騒が戻ってくる。

比企谷八幡の新しい物語の答えはまだ見つからない。けれど、その足元には変わらない仲間たちがいて、彼の人生はまだまだ、思いがけない熱を孕んで続いていくのだった。

 

 

「お悩み相談室」の特設スタジオと、想定外の客

自分のなかにぽっかりと空いた「熱の行方」に悶々と悩んでいた八幡がたどり着いたのは、奇しくも、かつて因縁のあった者たちが集う最先端のプロジェクトチームのオフィスだった。

そこでは、高柳、雪ノ下雪乃、そして雪ノ下陽乃という、考えただけでも胃に穴が開きそうな布陣が、何やら巨大なモニターを囲んで会議を開いていた。

――数々のデータを学習させ、対話を通じて若者や社会人のメンタルケアやキャリア相談を行う、最新鋭の「教育機関・社会支援用対話AIプロジェクト」の実験場である。

「あら、珍しい客ね。あの引きこもり体質の比企谷君が、自らこんな最先端のオフィスに足を運ぶなんて」

ワイングラスの代わりに冷たいミネラルウォーターを手にした陽乃が、妖しげな笑みを浮かべて出迎えた。

「……いや、ちょっと人に言えない愚痴っていうか、暇つぶしだ、暇つぶし」

八幡が気まずそうに目を逸らすと、雪乃は呆れたようにため息をつきつつも、どこか嬉しそうな光を瞳に宿してタブレットを操作した。

「ちょうどいいところに来たわね、比企谷くん。実は私たち、このAIを活用した新しい試みを考えていたところよ。名付けて『比企谷八幡の、人生だいたい面倒くさい相談室』――どう?」

「……は? なんだそのふざけた名前は。即刻ボツにしろ」

「ボツにするわけないじゃない。あなたのその『持て余した熱』と『ひねくれた人生相談』のデータをAIに学習させたら、最高に面白いものができるんだから」

高柳もフッと眼鏡を押し上げながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

こうして、本人の意思とは完全に関係なく、時代の寵児をメインパーソナリティ(兼モルモット)に見立てた、前代未聞のリアルタイム相談企画が突如として開設されることになったのだ。

スクリーン越しに広がる「悩み」の連鎖

特設された配信スタジオ。巨大なスクリーンの向こう側には、オンラインで繋がった無数の一般参加者たちが控えていた。

「――えーっと、なんだこれ。俺がここで誰かの相談に乗れってのか?」

マイクの前で固まる八幡に、AIの音声合成エンジンをベースにした対話システムが、画面越しに平然と問いかける。

『――さて、比企谷相談員。最初の相談者がスタンバイしていますよ。逃げずに画面を見てください』

「……お前の声に変な合成フィルターかけるなよ、気持ち悪い」

最初の画面に現れたのは、就職活動に疲れ果て、将来に絶望しかけている一人の女子学生だった。

「あの……私、やりたいことなんて何もないし、周りはみんな内定もらってるのに、自分だけ取り残されていて……どうすればいいか分からないんです」

スタジオの空気が少し重くなる。誰もが、この「時代の英雄」がどんな大層なアドバイスをするのかと息を呑んで見守った。

しかし、八幡はポリポリと頬を掻き、いつもの気だるげなトーンでボソッと言った。

「……そんなの、やりたいことがないなら無理に見つける必要なくね? 周りがどうこうって言ったって、お前の人生の主役は周りの奴らじゃなくてお前自身だろ。……まぁ、私も昔は『ぼっちのプロ』とか自称して散々腐ってたから人のこと言えねぇけどさ。とりあえず、今日のところは美味いプリンでも食って寝ろ。なんとかなる時はなるから」

あまりにも脱力感のある、しかし飾り気のないアドバイス。

画面の向こうの学生は一瞬ポカンとしたあと、ふっと肩の力を抜き、「……はい、ありがとうございます!」とクスリと笑った。

学生から隠居した老人まで、そしてAIとの対話

それを皮切りに、相談の波は止まらなくなった。

次は、会社で中間管理職として板挟みになり、すり減っているサラリーマン。

「どうすれば上に気に入られ、下をうまく動かせるのか……」という切実な悩みに対し、八幡は「上の顔色なんて窺ってもろくなことねぇよ。自分の守りたい部下だけ守って、あとは会社なんて辞める気構えで適当にサボれ」と、組織の論理を完全に無視した暴論を吐き捨てる。

さらには、人生の大部分を社会のために捧げ、今は定年を迎えて孤独に暮らす老人がAIのチャット経由で参加してきた。

「長年働いてきたが、いざ引居生活になると、自分には何もない気がしてな……」

その言葉に、八幡は少しだけ真面目な顔になり、こう返した。

「……何もないなら、それはそれで自由ってことじゃないですかね。誰かのために無理して背負い込む必要がなくなったんだし、これからは自分のために、面倒くさいことだけ避けてのんびり生きればいいんじゃないですか。……俺も、そのうちそうしたいと思ってますよ」

そのやり取りを、AIがリアルタイムでデータを解析し、過去の膨大なカウンセリング理論や心理学データと照らし合わせながら、八幡の言葉の裏にある「本質的な優しさ」を補足・解説していく。

人間特有の泥臭い不器用さと、冷徹で客観的なAIのシステムが奇妙に噛み合い、スタジオの裏で見守っていた雪乃や陽乃、高柳たちも、その予想以上の化学反応に目を見張っていた。

「等身大の若者」が見せた親近感

この「比企谷八幡のお悩み相談室」は、政府との協働による公的な若者支援プロジェクトの一環としても配信されていたため、瞬く間に日本全国へと中継された。

世間が期待していたのは、圧倒的なカリスマや、社会を導くような完璧な大説教だったかもしれない。

しかし、画面の向こうに映っていたのは、悩みに対して「知らねぇよ」「無理すんなよ」とボヤき、自分の人生の迷いすら隠そうともしない、どこにでもいる「等身大の冴えない青年」の姿だった。

――飾らない。取り繕わない。英雄ぶらない。

そのあまりにも人間臭い姿に、テレビやスマホの前に張り付いていた視聴者たちは、かつてないほどの強烈な「親近感」を抱くことになった。

『この人、国を動かすような大物になったはずなのに、相変わらず言ってることがダメ人間のそれすぎて逆に安心するわ』

『AIと組んで真面目にカウンセリングしてるのに、本人は「プリン食って寝ろ」とか言ってて草』

『でも、悩んでる人に寄り添うわけでもなく、ただ同じ目線で突き放してくれるから、逆に心が軽くなるんだよな……』

SNSは「#比企谷相談室」「等身大の八幡」「プリン食って寝ろ」といったワードで再び大賑わいとなり、彼の存在は「手の届かない神話の存在」から「となりにいてほしい、ちょっとめんどくさい兄ちゃん」へと完全にシフトしていった。

配信終わりのスタジオで

すべての配信が終了し、カメラのランプが消えた静かなスタジオ。

八幡はぐったりとソファに倒れ込み、「……はぁー、死ぬかと思った。もう二度とこんな公開説教番組みたいなのやらねぇからな……!」と盛大に悪態をついた。

そんな八幡の姿を眺めながら、雪乃はフッと誇らしげに微笑み、陽乃は面白そうにクスクスと笑い、高柳は静かにタブレットを閉じた。

「お疲れ様、比企谷くん。あなたのその不器用な悩みこそが、今の殺伐とした社会に一番足りていない『温度』だったみたいね」

陽乃が紅茶のカップを差し出しながら、悪戯っぽくウインクをする。

「……知らねぇよ。俺はただ、自分の持て余した熱の行き先を探してただけだ。……で、この企画、もう二度目はないよな?」

ジト目で念を押す八幡に、雪乃はふっと柔らかく目を細めて言ったさ。

「さあ、どうかしら。世間があなたを放っておくとは思えないけれど……少なくとも、今日のあなたの言葉で救われた人間が何万人もいることは事実よ」

自分の悩みを解消するために始めたはずが、いつの間にかまた誰かの救いになってしまっている――。

どこまでも不器用で、どこまでも逃げられない男の「新しい日常」は、こうして予測不能な笑いと温もりを乗せたまま、少しずつ回り始めていくのだった。

 

スクリーンを越えた「逆転の相談」

特設スタジオのモニターに映し出された無数の参加者たちの顔。

「お悩み相談室」の配信も終盤に差し掛かったその時、八幡はふと、手元のタブレットに流れる膨大なコメントや質問の嵐を見つめながら、妙に真面目な、そしてどこか面倒くさそうな顔でボソッと呟いた。

「……なぁ。ちょっといいか」

スタジオの片隅でモニターを見守っていた雪乃や陽乃、そして高柳の手が、わずかに止まる。

「今まで散々、お前らの悩みを聞いてきたわけだが……ぶっちゃけ、俺も今、めちゃくちゃ悩んでるんだよ」

カメラに向かって、八幡はため息をつきながら自分の胸の内をさらけ出した。

「世間ではなんか『時代の英雄』だの『次代のリーダー』だのって、勝手に神様仏様みたいに祭り上げてくれるけどさ。実態の俺なんて、昔から変わらず、ただのひねくれた一般人だ。やれることはやったつもりだけど、これから先の人生をどう生きていけばいいのか、ぶっちゃけ何もわかんねぇ。……なぁ、お前らだったら、こういう時どうするよ?」

その言葉は、相談される側だったはずの人間が、画面の向こうの一般の若者たちにガチで助けを求めるという、前代未聞の「逆お悩み相談」だった。

一瞬の静寂のあと、スタジオの空気感がガラリと変わった。

神話の崩壊と、等身大の「隣人」

画面の向こうで、全国の若者たちがハッとした表情を浮かべた。

テレビやネットの向こうで完璧な正論を吐き、どんな困難もスマート(に見える不器用さで)に解決してきた「英雄・比企谷八幡」。人々はいつの間にか、自分たちとは違う特別な存在にすべてを預け、依存しようとしていたのかもしれない。

しかし、画面のなかの彼は違った。

彼は隠そうともせず、自分の迷いを、自分の弱さを、同じ目線の高さでそのままぶつけてきたのだ。

『……なんだ、この人』

『英雄なんかじゃなかった。俺たちと同じように、悩んで、立ち止まって、これからどうしようって迷ってる、ただの冴えない兄ちゃんだ』

『でも……だからこそ、こんなにカッコいいのかよ』

チャット欄が、一瞬にして爆発的な速度で流れ始めた。

そして、一人の若い学生がマイクをオンにし、震えながらもまっすぐな声で画面の向こうの八幡に語りかけた。

「比企谷さん……! あなたが今まで一人で全部背負い込んで、勝手に泥被って走ってきたから、みんなあなたに甘えてたんですよ!」

画面の向こうの学生は、フッと笑いながら力強く言い放った。

「これからは、あなた一人が頑張る必要なんかないんです! 英雄になんて任せておけるかよ。……これからは、俺たちがあなたを助ける番だ!」

広がる「熱」の連鎖

その一言をきっかけに、スタジオのモニターを埋め尽くす全国の視聴者たちから、次々と賛同の声が上がった。

『そうだそうだ! 全部比企谷くんに頼るな!』

『私たちがいつでも愚痴聞いてやるから、たまにはこっちに頼りなさいよ!』

『英雄・比企谷八幡を支える会、今ここで結成な!』

それは、かつての一方的な「カリスマへの崇拝」とは全く違う、双方向の、あまりにも温かい「熱」のうねりだった。

誰か一人の特別な人間に社会を背負わせるのではなく、悩める等身大の人間同士が、互いに肩を貸し合いながら歩いていく――それこそが、八幡が望み、そして作り上げてしまった究極の「繋がり」だった。

モニター越しに送られてくる膨大な熱量と、自分を対等な人間として支えようとしてくれる無数の声を目にした八幡は、しばらく絶句したあと、ポリポリと頭を掻きながら、呆れたような、しかしどこか照れくさそうな、これまでにないほど優しい笑みをこぼした。

「……なんだよ、それ。立場逆転してんじゃねぇか」

八幡は小さく息をつき、画面の向こうの全国の仲間たちに向けて、力強く言い放った。

「……まあ、いいさ。お前らがそう言うなら、たまには頼ってやるよ。……せいぜい、面倒かけてくれ」

新たな伝説の始まり

その瞬間、配信の視聴者数は過去最高を記録し、SNSのトレンドは「#比企谷八幡を支える会」「等身大の英雄」「俺たちが助ける番だ」という言葉で完全に埋め尽くされた。

スタジオの隅でその光景を見ていた雪乃は、ふっと涙ぐみそうな目を隠すように紅茶を飲み、陽乃は「まったく……最後まで敵わない男ね」と最高に楽しそうに微笑んだ。

世間が彼を英雄と呼ぼうとも、本人はただの等身大の男のままでいる。

けれど、その等身大の男の周りには、もはや世界中を動かすほどの巨大な「熱」と、決して離れない仲間たちの絆がしっかりと根付いていた。

比企谷八幡の物語は終わらない。

悩みを抱えながらも、誰かと笑い合い、誰かに支えられながら、彼は今日も相変わらずの三白眼で、新しい明日へと歩み続けていくのだった。

 静かなバーのカウンターと、明かされる本音

すべての喧騒が嘘のように遠ざかった夜。

都内の隠れ家のような静かなバーのカウンターには、琥珀色の液体が入ったグラスを傾ける三人の男の姿があった。

高柳、葉山隼人、そして比企谷八幡。

かつては敵対し、利害関係のなかで複雑に絡み合っていた彼らが、今こうして同じグラスを交わしているのは、どこか不思議な巡り合わせだった。

グラスの氷がカランと音を立てたあと、高柳がふっと息をつき、複雑な笑みを浮かべながら口を開いた。

「……いやはや。今日のあの配信には、正直度肝を抜かれたよ。まさか、時代の寵児と祭り上げられている君が、全国の若者たちに逆にお説教をねだるとはね」

高柳はグラスを傾け、どこか感慨深げに八幡を見た。

「認めたくはないが……私はずっと、君のことをどこか『超人的な規格外の怪物』のように見ていたらしい。政治を動かし、社会の澱みをひっくり返すような、恐ろしい変革者だとね。――だが、今日の姿を見てようやく分かったよ。君も、ただの悩める等身大の人間でしかなかったんだな」

その言葉には、からかうような響きはなく、一人の大人として、親としての純粋な敬意と安堵が滲んでいた。

「……まあね。あんな大層なもんに仕立て上げたのは、そっちの大人どもだろ」

八幡は面倒くさそうにグラスの縁を指でなぞりながら、ぼそっと悪態をついた。

「はは、確かにそうだな。だがね、比企谷くん」

高柳は穏やかに目を細め、静かに言い切った。

「君が我が息子の恩人であるという事実は、これからも変わらない。いや、むしろ――等身大の人間である君が、泥臭く足掻きながら助けてくれたからこそ、あいつは救われたのだと、今なら心からそう思えるよ。感謝している」

「ここでは、肩の荷を降ろせよ」

面と向かってそんな改まった感謝を告げられた八幡は、居心地悪そうにポリポリと頬を掻き、「……やめろよ、照れくせぇ」と視線を逸らした。

その様子を見て、隣に座っていた葉山がふっと柔らかく笑った。

葉山は静かに立ち上がると、八幡の背中にそっと手を伸ばし、その肩をポンと軽く叩いた。

「隼人……?」

八幡が怪訝そうな顔を向けると、葉山はどこまでも優しく、しかし確かな重みのある声で言った。

「お前はいつもそうだ。自分のことよりも他人の面倒を背負い込み、気づけば誰もができないような重荷を一人で抱え込んでいる。……だがな、八幡」

葉山はカウンターの向こうに広がる夜景に目をやり、そしてまっすぐ八幡の目を見据えた。

「ここには、世間のカメラもない。お前を『英雄』と呼ぶ観衆もいない。……だから、今夜くらいはいいだろう? ここではその重い荷物を下ろして、ただの『比企谷八幡』として酒を飲めよ」

その言葉を聞いた瞬間、八幡のなかで張り詰めていた最後の力が、スッと抜けたような気がした。

「……おう」

八幡は小さく息をつき、それ以上は何も言わず、ただグラスを持ち上げて葉山のグラスに軽く合わせた。

肩の荷を下ろしたその背中は、相変わらずひねくれていて、不器用で、けれど世界で一番誇らしくて――静かなバーの温かい光の中で、夜はゆっくりと更けていくのだった。

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