今日は高校の入学式だ。
中学校を卒業してから、およそ三週間。長かったような短かったような春休みも終わり、今日から晴れて高校生である。
「……んぁ、ねむ」
そんな記念すべき日の朝だというのに、私の口から出てきたのは、なんとも気の抜けた声だった。
いや、仕方ないじゃん。眠いものは眠いんだから。
欠伸を噛み殺しながら、洗面台の鏡を覗き込む。
そこに映っているのは、腰まで伸びた艶やかな黒髪と、少しばかり眠たげな目をした少女。
顔立ちは、まあ、整っている方だと思う。
自分で言うのもなんだけど、結構な美少女ではなかろうか。
長い睫毛に、すっと通った鼻筋。輪郭はすっきりしていて、唇も形がいい。ママ譲りの顔立ちは、ありがたいことに今のところ大きく崩れることなく成長してくれた。
「……んー、今日も顔がいい」
鏡に向かって呟く。
別にナルシストというわけではない。
事実を確認しただけである。
というか、自分の顔を見ているのに、いまだにどこか他人の顔を眺めているような気分になることがあるのだ。
なぜかって?
それはまあ、私がいわゆる転生者というやつだからである。
前世の私は男だった。
それも、二十歳を少し過ぎた大学生。
社会学だの心理学だの哲学だの、そんなものに興味を持っては、あれこれ本を読み漁っていた変わり者だった。
友達は少なかったし、彼女なんてものもいなかった。
人間という生き物には興味があったくせに、実際の人付き合いはあまり得意ではなかったのだから、我ながら面倒くさい人間だったと思う。
そんな私が、どういうわけか死んで、女の子として生まれ直した。
……うん。
意味が分からないよね。
私も分からない。
死んだ理由も、転生した理由も、正直よく覚えていない。
ただ、気づいたときには黒瀬澪という女の子になっていて、それから十六年が経った。
最初こそ驚いた記憶はあるものの、今となっては女であることに違和感なんてない。
だって、生まれてからずっと女の子として育ってきたんだから。
むしろ、前世の男だった自分の方が、昔読んだ本の登場人物みたいに思えることすらある。
「……さて、と」
顔を洗い終え、部屋に戻る。
ベッドの上には、昨日のうちに用意しておいた高校の制服。
白いシャツに、落ち着いた色合いのスカート。そしてブレザー。
それらを順番に身につけていく。
シャツのボタンを留めながら、ふと鏡に映った自分の身体へ目を向けた。
「……しかしまあ」
思わず呟く。
身長は百七十センチを少し超えるくらい。
女の子としては高い方だろう。
手足は長く、腰は細い。それでいて、出るところはしっかり出ている。
特に胸。
私は両腕で胸を軽く抱えるようにして、しみじみと頷いた。
「……よくもまあ、こんなに育ったもんだ」
なんというか、立派になったものである。
昔はあんなに小さかったのに。
いや、今でも小さい方が楽だったんじゃないかと思うことはあるけど。
肩は凝るし、走れば揺れるし、下着選びだって面倒だ。
大きければいいというものでもないらしい。
「……なんちゃって」
自分で言っておいて、なんだかおかしくなった。
「……今の、ちょっとおじさんくさかったかも」
十六歳の女子高生が、自分の成長を見てしみじみ感慨に浸るというのも、妙な話である。
まあ、前世を含めれば精神年齢はもう少し上なのだけれど。
だからといって、今の私が大人かと聞かれれば、それは違う気がする。
知識があることと、経験があることは別だ。
前世では大学生だったけれど、社会に出て働いた経験なんてほとんどない。
今世に至っては、まだ高校に入学したばかり。
結局のところ、私は年相応に世間知らずなのである。
「澪ー! 起きてるー?」
そんなことを考えていると、一階から声が飛んできた。
「……起きてるー」
「ご飯できてるよー! 冷めちゃうから早く降りてきなー!」
「……んー、今行くー」
声の主は、私の母親。
黒瀬美咲。三十六歳。
税理士法人に勤める、いわゆるキャリアウーマンである。
そして、元ギャルだ。
いや、元というのは少し違うかもしれない。
本人に言わせれば、今でもギャルらしいので。
そんなママの影響もあって、私も小さい頃からギャルっぽい服を着て育ってきた。
別に強制されたわけではない。
ママが選んでくれる服はかわいかったし、私も普通に気に入っていた。
おかげで、今では自分からネイルをしたり、メイクを研究したりするようになっている。
前世の私が見たら、さぞ驚くだろう。
まあ、前世でもギャルという文化自体には興味があったけどね。
自分とはまるで違う価値観を持つ人たちに、妙な好奇心を抱いていた記憶がある。
まさか自分がその一員になるとは思っていなかったけれど。
「……人生、分かんないもんだねー」
髪を整え、最後に薄くリップを塗る。
校則がどの程度厳しいかは、まだ分からない。
だから今日は控えめにしておこう。
耳元のピアスも、さすがに入学式では外しておくことにした。
準備を終えた私は、鞄を持って階段を下りる。
「おはよ、ママ」
「おはよ。って、あんた今日も眠そうね」
「……いつも通りだよ」
「知ってる。ほら、座って食べな」
ダイニングに入ると、ママが朝食を並べていた。
肩にかかるくらいの黒髪に、整った顔立ち。
仕事に行くときはきっちりした格好をしているけれど、今はゆったりした部屋着姿だ。
若い頃は随分と派手だったらしい。
昔の写真を見せてもらったことがあるけど、髪は明るいし、メイクも濃いし、なかなかの迫力だった。
今ではすっかり落ち着いている。
……まあ、口調はたまに昔のままだけど。
「いただきまーす」
「はい、どうぞ」
席に着き、トーストを一口。
うん。おいしい。
「そういえば澪、制服どう? 着心地悪くない?」
「……ん、大丈夫。結構いい感じ」
「そっか。よかったじゃん」
ママは私の姿を改めて眺めると、満足そうに笑った。
「いやー、それにしても高校生かぁ。早いねえ」
「……そう?」
「そりゃそうでしょ。ついこの間までちっちゃかったのに」
「……十六年経ってるけど」
「そういうことじゃないの」
呆れたように笑いながら、ママがコーヒーを飲む。
「でも、似合ってるよ。かわいいじゃん」
「……ん。ありがと」
「写真撮っとこっか。せっかくだし」
「……えー」
「えー、じゃない。入学式なんて一回しかないんだから」
「……まあ、いいけど」
「よし、決まり」
嬉しそうにスマホを取り出すママ。
こういうところは、昔から変わらない。
私が何か新しいことをするたびに、ママは自分のことのように喜ぶ。
小学校の入学式も、中学校の入学式もそうだった。
運動会だって、授業参観だって。
仕事で忙しいくせに、できる限り時間を作って来てくれた。
女手一つで子供を育てるのは、きっと簡単なことじゃなかったと思う。
もっとも、本人はそんな苦労をあまり口にしないけれど。
「……ママ」
「ん?」
「……今日、ありがとね。仕事休んでくれて」
そう言うと、ママは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「何言ってんの。娘の入学式なんだから当たり前じゃん」
「……そっか」
「そうそう。あんたは余計なこと気にしなくていいの」
「……ん」
なんだか少し照れくさくなって、私はトーストにかじりついた。
ママはそんな私を見て、また笑っている。
……なんだろう。
絶対、何か見透かされてる気がする。
「ほら、食べ終わったら写真撮るよ」
「……はいはい」
「はいは一回!」
「……はーい」
そうして、いつもと変わらない朝が過ぎていく。
今日は高校の入学式。
新しい制服に、新しい学校。
知らない人たちと出会い、これから三年間を過ごすことになる。
前世の私なら、きっと面倒くさいと思っていただろう。
人付き合いは苦手だったし、新しい環境にもあまり積極的ではなかったから。
でも、今は少しだけ楽しみだった。
どんな人がいるんだろう。
どんなことを考えて、どんなふうに生きているんだろう。
そんな好奇心は、前世から変わっていない。
「澪ー、そろそろ行くよー!」
「……ん、今行く」
玄関で靴を履き、ママの後を追う。
扉を開ければ、春の柔らかな風が頬を撫でた。
空は晴天。
絶好の入学式日和である。
「……んー、いい天気」
「でしょ? 最高じゃん」
「……それなー」
ママと並んで歩き出す。
さて。
これからどんな高校生活が待っているのやら。
……まあ、なるようになるっしょ。
そんなことを考えながら、私は新しい一日へと足を踏み出した。