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「前髪決まんないんだけど」
六月の朝。教室の自分の席で手鏡を覗き込みながら、私は指先で前髪を整えていた。
家を出るときはいい感じだったのに、学校に着く頃には微妙に崩れていた。何度か直してみたものの、どうにも気に入らない。
「だる」
「澪、おはよ! って、また前髪いじってんの?」
「おはよ。今日マジで決まんなくて」
「え、普通にかわいいけど?」
「私が気に入んないの」
「出た、こだわり」
友達が笑いながら隣にやってきた。私はもう一度前髪を整えてから、手鏡を机に置く。
「もういいや」
「諦めるの早っ!」
「疲れた」
「朝から!?」
「今日の私、閉店かも」
「開店すらしてないじゃん!」
笑いながら友達が近くの席に腰を下ろすと、ふと私の耳元に視線を向けた。
「あれ、澪。またピアス開けた?」
「開けたよ」
「やっぱり! 増えてると思った!」
「かわいいっしょ」
「かわいい! てか、痛くないの?」
「そりゃ痛いよ」
「よく開けるよね」
「好きだしね」
すると、もう一人の友達が私の手元を覗き込んだ。
「あ、ネイルも変えた?」
「変えた」
「めっちゃいいじゃん! その黒かわいい!」
「でしょ。今回わりと気に入ってんの」
「自分でやったの?」
「そだよ」
「器用すぎない?」
「いや、昨日やらかしたけどね」
「何したの?」
「乾いたと思ってスマホ触ったら、一本だけヨレた」
「あー! あるある!」
「マジ萎えた。結局そこだけ塗り直したし」
「分かる! あとちょっとで終わるってときにやるんだよね!」
「そうそう。しかも、そういうときに限って綺麗に塗れてんの」
「それな!」
思わず笑いながら、私は自分の爪を眺めた。昨日は面倒だったけど、塗り直した甲斐はあったと思う。
「てか澪、前髪もネイルもめっちゃこだわりあるよね」
「そりゃ、かわいくしたいじゃん」
「それはそう!」
そんな他愛のない話をしているうちに、話題は放課後の予定へと移っていった。
「澪、今日のカラオケどうする?」
「帰る」
「また? 最近すぐ帰るじゃん」
「なんかダルくて」
「いつもじゃん」
「それはそう」
「否定しろよ!」
思わず笑うと、友達もつられて笑い出した。
そのとき、机の上に置いていたスマホが震えた。画面を見るとメールの通知が届いていたけれど、差出人は通販サイトだった。
「あー、はいはい」
「なに? なんか来た?」
「広告」
「なんだー」
スマホを裏返して机に置き、頬杖をつく。
オーディションに応募してから、もう二か月近くが経っていた。
受け付け完了のメールは届いたけれど、それっきり。最初の頃はちょくちょく確認していたものの、最近はもう期待する方が難しい。
まあ、落ちたんだろうな。
別に、絶対に受かると思っていたわけじゃない。そもそもアルバイトを探していたところから始まった話だし、落ちたら別の仕事を探せばいい。
ただ、今になって少しだけ気になることがあった。
あの自己PR動画だ。
自由に話していいと書かれていたから、本当に好きなことを喋った。社会心理学について、特にネットで誰かが批判されることについて。
自分としては、別に変なことを言ったつもりはない。聞かれたら今でも同じようなことを話すと思う。
ただ、オーディションの自己PRとしてどうだったかと言われると。
「初っ端からあの話は攻めすぎたかもな」
「ん? なんか言った?」
「いや、こっちの話」
机に突っ伏しながら、あの日のことを思い返す。
普通にゲームの話とか、好きなものの話とかにしておけばよかったのでは。なんでよりによって、あの話を選んだんだろう。
いや、好きだからなんだけど。
「うあー」
「澪、どうしたの?」
「んー……ちょっとぺしょぺしょ」
「何それ?」
「なんか、しおれた感じ」
「大丈夫? 水いる?」
「いる」
差し出されたペットボトルを受け取り、一口飲む。
「やっぱダメかも」
「えっ、何が!?」
「いろいろ」
「ちょ、何があったの!?」
「いやー、大したことじゃないんだけどさ」
机に頬をくっつけたまま、ペットボトルを返す。
「……あー、やらかしたかも」
「え、何? またネイルの話?」
「いや、そっちじゃない」
「じゃあ何やらかしたの?」
「ちょっとね」
「めっちゃ気になるんだけど!」
友達が心配そうにこちらを覗き込む。
「ほんとに大丈夫?」
「んー、大丈夫。たぶん」
「たぶんって!」
友達の反応がおかしくて、少しだけ笑ってしまった。
まあ、結果が来ないものは仕方ない。そろそろ別のアルバイトでも探そうかな。
そんなことを考えていると、予鈴が鳴った。
「あー、もう始まるじゃん」
「ほら澪、準備しなって」
「分かってる」
「絶対寝るでしょ」
「寝ないし」
「ほんとに?」
「たぶん」
「そこは言い切ろうよ!」
友達のツッコミを聞き流しながら、教科書を取り出す。
あー、帰りたい。
まだ一時間目も始まってないけど。
◇
一方、その頃。
とあるVTuber事務所では、二人の女性スタッフが大量の応募データと格闘していた。
「……終わらない」
若い女性スタッフが、机に突っ伏した。
目の前のモニターには応募者の一覧が表示されている。書類選考はひとまず終わっており、現在は候補者たちが提出した自己PR動画を確認して、次の審査へ進める人材を絞り込んでいるところだった。
しかし、その数が問題だった。
「なんなんですか、この応募数!」
「人気があるってことでしょうね」
隣の席から、先輩スタッフが淡々と答える。
「いや、そうですけど! うち、そんな大手じゃないですよね!?」
「そうね。良くて中堅といったところかしら」
「ですよね!? なのに、なんでこんなに応募来てるんですか!?」
「募集したからでしょう」
「そういうこと聞いてるんじゃないんですよ!」
先輩は涼しい顔でマウスを操作している。こちらはもう何本動画を見たかも分からないというのに、相変わらず落ち着いた様子だった。
「そもそも、こんなに応募が来るなんて聞いてないんですけど!」
「私も聞いてないわ」
「先輩も!?」
「予想を超えたのは確かね」
「なんでそんな落ち着いてるんですか?」
「慌てても減らないもの」
「正論やめてください」
後輩は力なく椅子の背もたれに寄りかかった。
VTuber。まだ生まれて間もない、新しいエンターテインメントの形。
少し前まで聞き慣れなかったその言葉は、今やインターネット上で急速に広まりつつある。先駆者たちの活躍によって注目が集まり、企業や個人を問わず、新たな活動者が次々と現れていた。
その勢いは、彼女たちの予想を大きく上回っていたらしい。
「三期生の募集でこれですよ? 次とかどうなるんですかね」
「次があれば、今回の経験を活かせるでしょうね」
「次も私達が見るんですか?」
「さあ?」
「そこは否定してくださいよぉ」
先輩は小さく笑った。
「ほら、手を動かして。まだまだあるわよ」
「分かってますって」
後輩は渋々モニターに向き直り、応募書類を確認して動画を再生する。一本見終われば評価を記入し、次の応募者へ。そんな作業を何度も繰り返していた。
そして、ふとある応募者の情報が目に留まった。
「……ん?」
黒瀬澪。十六歳、高校一年生。配信経験なし。
未経験者の応募自体は珍しくない。ただ、添付されていた自己PR動画のサムネイルが少し気になった。
長い黒髪に強めのメイクをした少女が、カメラの前に座っている。
「うわ、ギャル! こういう子も応募するんだ」
何気なく再生ボタンを押した。
『どうもー、黒瀬澪です。十六歳、高校一年生です』
ゆったりとした声が流れる。
『んー、何話そっかな。あ、そうだ。今日はちょっと社会心理学の話でもしようかなーって思います』
「社会心理学?」
思わず首を傾げた。
自己PR動画で社会心理学。それも十六歳の高校生が話すというのだから、なかなか珍しい。
最初は少し変わった子だな、という程度の感想だった。
けれど、聞き進めるうちに、その印象は少しずつ変わっていった。
『例えばさ、ネットで誰かが炎上してるのを見たことってない?』
少女は、まるで友達と雑談でもするような調子で話を続けた。
誰かが批判されること。それを見た人たちが次々と批判に加わっていくこと。一人ひとりは正しいことを言っているつもりでも、その言葉が大勢から向けられたとき、受け取る側には何が起こるのか。
難しい話をしているはずなのに、不思議と聞きづらくない。言葉を選びながら、例え話を交えて、ゆっくりと話を進めていく。
『君は、それを正しい行いだと思う?』
『その人が仕事を失って、居場所までなくしたとして。それって、本当に受けて当然の罰だと思う?』
後輩は、いつの間にか手を止めていた。
『ただ、正しいことを言ってるのと、何を言ってもいいのは別じゃん?』
『正論って、正しいからこそ強いんだよね。だから、使い方くらいは考えたいなーって』
動画が終わっても、しばらく画面を見つめていた。
それから、勢いよく隣を振り向く。
「先輩!」
「何かしら」
「面白い子見つけました!」
「そう」
「いや、ほんとに! ちょっと見てくださいって!」
先輩は作業の手を止め、後輩が差し出したモニターに目を向けた。
「黒瀬澪……十六歳、配信経験なし?」
「そうなんですよ! なのに、これなんです!」
「見てみましょうか」
動画が再生される。
先輩は時折わずかに目を細めながら、黙って画面を眺めていた。途中で口を挟むこともなく、最後まで見終えると静かに頷く。
「なるほどね」
「どうです? 逸材だと思いません?」
「そうね。たしかに目を見張るものはあるわ」
「ですよね!」
「話し方は自然だし、難しい内容を自分の言葉で説明できている。少なくとも、話すこと自体には向いていると思う」
「先輩もそう思います!?」
「けどね。この業界自体、まだまだ新参なのよ。何が視聴者に受けるのかなんて、私たちだって分からないことだらけだわ」
「だったら、なおさら試してみる価値があるんじゃないですか?」
「だからこそなのよ」
先輩は静かに首を振った。
「私たちは、先を歩いてくれた人たちの後ろをついて歩いているだけなの。今はそれでもいいかもしれない。でも、同じことを続けているだけじゃ、きっといつかは飽きられるわ」
「はい」
「だから、新しいものを探さなきゃいけない。けれど、まだ新しいこの業界で、何が次の当たり前になるのかなんて、誰にも分からないでしょう?」
先輩はモニターに映る少女へ視線を戻した。
「この子の話を聞いて、考えさせられる人はいると思うわ。でも、それがどれだけの人に届くのかは分からない」
「……」
「社会もろくに知らない小娘が偉そうに語るな。そう思って、真面目に聞こうとすらしない人もいるでしょうね」
後輩は少し考え込んだあと、もう一度画面に目を向けた。
「でも、私はもっとこの子の話を聞いてみたいです」
先輩が後輩を見る。
「そう?」
「はい。なんていうか、聞いてて飽きないんですよね。難しい話をしてるはずなのに、妙にすんなり入ってくるっていうか」
「少なくとも、あなたの興味を引くことには成功したみたいね」
「ですよね!」
「けれど、あなたがそう感じたからといって、ほかの人も同じとは限らないでしょう?」
「それは、まあ、そうですけど」
「もちろん、だから駄目だと言っているわけじゃないわ。むしろ、こういう子が新しい可能性を見せてくれるのかもしれない。けど、それを今ここで断言することもできないでしょう?」
後輩はしばらく黙っていたが、やがてモニターを見つめながら口を開いた。
「いやー、でも、やっぱり私、この子を推したいです」
「ふふ。譲らないわね」
「だって、配信経験ゼロでこれですよ? これだけ自然に喋れて、しかも自分の考えをちゃんと言葉にできるんです。ほかの話も聞いてみたいじゃないですか」
「そうね」
「だから、一度会ってみません?」
先輩は少し考えたあと、評価シートを開いた。
「次の審査候補には入れておきましょう」
「やった!」
「まだ決定じゃないわよ。ほかの応募者も見ないといけないんだから」
「分かってますって!」
嬉しそうな後輩を横目に、先輩はもう一度動画を再生した。
『ネットって相手の顔が見えないじゃん。でも、見えないだけで、いないわけじゃないんだよね』
「まあ、確かに。少し話してみたい子ではあるわね」
後輩は満足そうに頷いたものの、ふと応募者一覧に目を戻して表情を曇らせた。
「あ」
「どうしたの?」
「まだ、こんなに残ってる……」
「そうね」
「先輩」
「何かしら」
「今日、帰れますかね……?」
先輩は時計を確認すると、穏やかに微笑んだ。
「頑張りましょうね」
「答えになってないですよぉ……!」
後輩の悲鳴が、事務所に響いた。