「社長、すみません」
頭を下げた経理担当の従業員に、水川二郎は慌てて首を振った。
「とんでもない。今までよくやってくれた。むしろ、わがままを言っていたのはこっちだ」
従業員が辞めるのは、正直つらい。しかも経理担当者だ。
三か月ほど前から相談は受けていた。理由を聞けば、納得するしかなかった。
田舎の両親が野菜を作っているらしい。その仕事を、娘である彼女に継いでほしいという話だった。
「今、辞めるのはもったいないって父も言うんです。でも、母もずっと頑張っていて」
気持ちはわかる。
水川にも、親を思う気持ちはある。
だが、会社としては痛かった。
水川の工場は小さい。従業員は十人ほど。若手は少なく、四十を過ぎた社員ばかりだ。
帳簿だけではない。仕事の取り次ぎや、取引先への連絡、細かな事務作業まで任せていた。
抜けられると、正直かなり困る。
それでも、引き止めることはできなかった。
その日の昼、水川は近所の定食屋へ向かった。
空いているだろうと思ったが、店内は意外と混んでいる。
そういえば今日は土曜日だ。
頼んだのは鯖味噌定食だった。
家族連れの声が、やけに耳につく。
妻が亡くなって三年。水川はいつの間にか、仕事と家を往復するだけの生活になっていた。
悩んでいても仕方がない。
そう思っても、箸の進みは遅かった。
その夜、水川は友人に飲みに誘われた。
現場で働いている人間なので時間は不規則だが、気分転換にはなる。
そう思い、水川は出かけることにした。
店はチェーンの居酒屋だった。ビールではなく発泡酒。それでも、仕事終わりの一杯には十分だった。
「どうだ、仕事」
友人に聞かれ、水川は苦笑した。
「従業員が辞める。帳簿以外にも、仕事を取ってきたり、色々とやってくれた人間だ。今は募集しても、給料が安いと来てくれる人もいない」
「大変だな」
友人はジョッキを傾け、深く息を吐いた。
「こっちも似たようなものだ。資材も塗料も値上がりしてる。人手は足りても、機械を動かす燃料が高いとな」
「どこも厳しいな」
「帳簿をつけるって、事務職みたいなものか?」
「それだけじゃない。ここならうちの工場と提携してくれるんじゃないかって、飛び込みみたいなこともしてくれてな」
「お前の会社、色々な部品を作っていたよな。専門職の人間じゃなくてもいいのか?」
その言葉に、水川の手が止まった。
「もしかして、アテがあるのか」
「実は、うちの現場で働いている人間なんだが、夕方には家に帰れる仕事を探しているらしい」
「どういうことだ」
「現場の仕事ってハードだろ。きつい。夜の作業なんて、体にくる」
「……そうだな」
「特別な資格が必要じゃないなら、声をかけてみる。帳簿とかパソコンは使えるぞ」
水川は少し驚いた。
「本当か」
「うちでも簡単な計算とか、パソコンで報告書をまとめたりしてた。今は現場でもパソコンくらい普通に使うからな」
「確かに、スマホだけじゃ無理だからな」
水川は考え込んだ。
人手はほしい。だが、すぐに正社員として雇うには危うい。
「条件を出されたらどうする」
「給料か。期待に添いたいところだが、正直……」
「そうじゃない」
友人は首を振った。
「仕事の時間だ。夜遅くならないなら、給料は少し安くてもいいらしい」
「そうなのか」
「いきなり正社員じゃなくていい。一週間だけ試してみて、それで正式に雇うか決めたらどうだ」
確かに、今すぐ決断するのは危ない。
だが、水川は眉をひそめた。
「お試しといっても、無料で働かせるわけにはいかないだろう」
「まあ、そうだな。ちょっと待ってくれ」
友人はスマホを取り出した。メールか、メッセージを送ったのかもしれない。
しばらくして、画面を見た友人が顔を上げた。
「昼飯で手を打つそうだ」
「昼飯?」
一週間、昼飯だけで働かせるなど、いくらなんでも非常識だ。
水川はすぐに首を横に振った。
「それは駄目だ。最低限の日当は払う」
「そう言うと思った。まあ、本人にもそう伝えておく」
友人は苦笑し、それから思い出したように続けた。
「もうひとつ条件がある」
「条件? なんだ」
「猫を連れて行ってもいいか、だと」
「猫?」
「現場にも、たまに連れてきていた。理由は、まあ、色々と」
水川は思わず聞き返した。
「動き回って、あちこちうろついたりしないのか」
「しない。現場でも待合室でも、ずっと寝てた。トイレ以外はほとんど動かなかったな」
猫にも色々あるのだろう。
そう思うしかなかった。
翌日、昼を過ぎた頃。
そろそろかと思い、水川が時計を見たときだった。
「社長、お客さんです」
従業員の表情が、いつもと違っていた。
どうしたんだ、と水川が顔を上げる。
「こんにちは。昨日、連絡をもらった木桜ミサキです」
連絡。
まさか、この人物が。
てっきり男だと思っていた水川は、言葉を失った。
目の前に立っていたのは、まだ二十代に見える女性だった。黒のパーカーを着て、背中には大きなリュックを背負っている。
「一週間、お試しの事務ということですよね」
「ああ。それで……」
ミサキは背中のリュックを下ろすと、ふうっと息をついた。
「仕事はどこですか。すぐにでも取りかかりたいんですが」
声に迷いはなかった。
水川はパソコンのある場所へ案内した。
工場内の隅に置かれた机。鉄粉が舞い、お世辞にも綺麗とは言えない場所だ。
ミサキは机の上を一瞥した。
「ノートパソコンなんですね」
そう呟くと、リュックから使い込まれた外付けキーボードを取り出した。
水川は思わず目を見張る。
本当に仕事をする気なのだ。
だが、驚きはそれで終わらなかった。
リュックの奥から、ずるりと黒い塊が現れた。
猫、なのか。
昨日、友人は確かに「猫」と言っていた。
だが、目の前にいるそれは、水川の知っている猫の大きさを遥かに超えていた。
毛並みの立派な、小型犬ほどの大きさの猫だった。
「Ich arbeite heute hier.」
日本語ではない。
水川が困惑している間に、ミサキは毛布を広げた。
巨大な猫は、当然のようにその上へ座り込む。そして、ゆっくりと目を閉じた。
水川は、しばらく何も言えなかった。
他サイトでも重複投稿しています。
完結させた作品ですが、ハーメルンにUPすることにより少し変更、推敲箇所がアルかもしれません。