「小川さん、今度、新刊が出る予定なんです」
野崎がそう言って、にっこり笑った。
入社して三年目だ、まだ若い。
だが、京塚夏彦の担当になってからの野崎は、よくやっていた。
小川は手元の資料から顔を上げ、「良かったな」とだけ返した。
野崎は、嬉しそうに頷く。
若いな、と小川は思った。
それは彼女を馬鹿にしているわけではない。
作家の新刊が出る、担当としては喜ぶべきだ、自分の苦労が報われたのだ。
そのことを素直に喜べるのは、編集者にも確かにある。
だが、小川は違うことを心配していた。
本が出ると聞いても、次のことを考えるようになった。
初版は、重版はかかるか。
次の企画は通るのか。
作家の気力が続くのか、長く間が開けば、離れてしまうこともある。
ネット小説が受けるのは、続きが早く読めるからだ。
連続して5、10話投稿し、初日でプレビューを稼ぐなんて普通だ。
人気が出るならいいが、全てがそうではない。
めでたい話のはずなのに、頭の中では数字と予定と不安ばかりが並ぶ。
悪いことだとは思わないが編集者としては当然だ。
ただ、疲れる。
小川は、今年で五十に手が届く。仕事を辞めるつもりは、まだない。
けれど、最近は自分の中にある熱の量が、若い頃とは違うことも分かっていた。
先日、長く担当していた作家が言った。
――実家に帰ります。
家業である農家を継ぐのだという。
小説は趣味で書く。プロとして書き続けるのは、自分には無理だ。
そう言われたとき、小川は引き止めなかった。
引き止める言葉は、いくつも知っている。
あなたには才能がある。
次の作品で流れが変わるかもしれない。
読者は待っている。
ここでやめるのは惜しい。
どれも嘘ではないが、本当でもない。
書き続けることは、簡単なことではない。
才能や努力だけでは足りない部分もある。
運も、体力、生活、家族の理解、時代との相性もいる。
少し前まで人気のあったジャンルが、数年、あっという間に追いやられることもある。
書き続けるだけの体力や気力。
若いから大丈夫だと自分はいえない。
人気漫画家など良い例だ。
若くして突然、亡くなることも珍しくない。
野崎が京塚夏彦の担当になったとき、社内では少しだけざわついた。
京塚は中堅作家、固定の女性読者もいる。
売れてはいるが、扱いづらい作家だ。
新人なら、編集者のアドバイスを素直に聞くこともある。
だが中堅になると少し厄介だ。
成功体験、プライドもある。
編集者の一言を、助言ではなく否定として受け取る作家もいる。
喧嘩になるだけなら、まだいい。
中には「担当を替えてくれ」と言い出す作家もいる。
だから、野崎が京塚を任されたとき、小川も正直、不安だった。
上からも言われていた。
――それとなく見てやってくれ。
暇だと思われているのだろう。
あるいは、若手の面倒を見る年齢になったということか。
どちらにせよ、嬉しい話ではない。
だが、野崎は思ったよりうまくやっていた。
京塚の機嫌を取るだけではない。
必要なことは言う。
読者の感覚も伝える。
それでも相手の作家としての矜持は折らない。
若いくせに、危ういところで踏みとどまる。
小川は、面白く見ていた。
その日の午後だった。
「小川、少しいいか」
嫌な予感がした。
こういうとき、編集長は面倒な仕事を持ってくる。
しかも、こちらが断りにくいような顔をするから厄介だ。
椅子から立ち上がり、編集長の席へ向かった。 「何ですか」
「今週末、空いてるか」
「空いていません、と言ったら?」
「空けてくれ」
小川は小さく息を吐いた。
「出張編集に行ってくれ。同人誌の即売会だ。規模は小さくない。最近は漫画だけじゃなく、漫画原作や小説の持ち込み相談も増えている」
「そういうのは、若手の方が向いているでしょう」
小川は即座に言った。
若い書き手には、若い編集者の方が話しやすい。
ネット発の作家、同人出身の作家、投稿サイトで読者を抱えている書き手。
自分のような古い編集者より、野崎たちの世代の方が向いている。
だが、編集長は首を振った。
「若手には見えないものがある」
「買いかぶりすぎです」
編集長は机の上に置いてあった資料を一枚、小川に差し出した。
イベントの概要だった。
出展数、来場者数、持ち込み相談の枠。
確かに、小さなイベントではない。
「今はな、入口が増えた」
編集長は静かに言った。
「投稿サイトに書く。SNSで読まれる。電子で売れる。新人賞に出す。漫画原作として持ち込む。同人誌で固定読者をつかむ。昔より、プロになる入口はずっと増えた」
「いい時代じゃないですか」
小川の言葉は半分皮肉だ。
けれど、その皮肉は受け流された。
「才能のある人間が机の引き出しに原稿を眠らせたまま終わる可能性は減った」
そこで言葉が切れた。
「だが、書き続けられる人間が増えたわけじゃない」
その言葉は軽くない。
「ネットに上げれば読まれると思っている者はいる。バズれば書籍化できると思っている者もいる。実際、編集部にも、そういう企画が回ってくる」
「ありますね」
「だが、本になって、作家になることは違う」
小川は顔を上げた。
編集長の声は、いつもより低かった。
「一冊出す人間はいる。二冊目で消える人間、三冊目で折れる人間もいる。読者の声に潰れるなんて珍しくない。書きたかったものと、売れるものの違いに気づいて、耐えられない者もいる」
小川は、先日実家に帰ると言った作家の顔を思い出した。
小説は趣味で書く。
プロとしては無理だと言ったときの顔を。
「今の時代、書籍化は昔より近く見える」
編集長は続けた。
「だが、書ける人間がどこにいるかは分からない」
「それを見てこいと?」
「お前に見てきてほしい」
小川は苦笑した。
「若手に見えないものがある、でしたっけ」
「ああ」
「俺に見えるとも限りませんよ」
「それでもいい」
即答だ、厄介だなと小川は思った。
「上手いだけの書き手、文章が整っている人間、設定が派手な奴。SNSの使い方が上手い人間、色々だ。だが、それだけじゃない」
「何を見るんですか」
小川が尋ねると、編集長は少しだけ笑った。
「折れそうで折れないやつだ」
小川は目を細めた。
「重いですね」
「軽い仕事じゃない」
渡された資料を小川は受け取った。
逃げ場がなくなった気がした。
「暇だと思われてるんだ、そう思ってましたよ」
「半分はそうだ」
「そこは否定してください」
「もう半分は、信用している」
編集長は真顔で言った。
冗談に逃げるには、少しだけ重い声だ。
小川は資料に目を落とした。
出張編集、同人誌即売会。
小説持ち込み相談と発掘。
言葉だけ並べれば、前向きな仕事に見える。
だが、その場に来る人間たちの中には本気の者もいる。
自分の書くものがどこまで届くのか、確かめに来る者もいる。
そして、たぶん大半は届かない。
それを知っていて、こちらは原稿を読む。
残酷な仕事だ、けれど、だからこそ見つけたいとも思う。
小川は小さく息を吐いた。
「分かりました」
「ただし、逸材なんて都合よくいるとは思わないでくださいよ」
編集長は笑った。
「いないと思って行くな」
「難しい注文ですね」
「編集者の仕事、お前ならわかっているだろ」
小川は資料を手に、自分の席へ戻った。
野崎がまだ京塚の新刊のことで、隣の席の編集者と楽しそうに話している。
その声を聞きながら、小川は資料の一行目を読み返した。
書籍化の入口は増えた。
けれど、書き続けられる人間がどこにいるかは分からない。
小川は、胸の奥に小さな重さを感じた。
それは面倒な仕事を押しつけられた不満ではない。
もっと厄介なものだ。
まだ、自分は期待しているのかもしれない。