明日で一週間、水川は答えを出さなければならないと思った。
友人から紹介された木桜ミサキ。
お試しで一週間だけ働くという約束だった。
給料の代わりに、昼ご飯を出してくれたらいい。
金ではないことに驚いたが、猫を連れて出勤したいという申し出には、さらに驚いた。
彼女が来て二日目、仕事が終わったときだ。
若い社員が「社長」と声をかけてきた。
「聞こえていないんじゃないですか」
意味が分からず水川は社員を不思議そうに見た。
「猫ですよ」
社員は自分の耳を指さした。
水川は、はっとした。
聞こえていないのかもしれない。
そんなこと、気づかなかった。
「完全に聞こえていないのかって聞かれたら、分かりませんが。でも、普通の猫なら、機械音とか、人の声にもっと反応すると思うんです」
予想もしない言葉だ。
ミサキは、工場の隅のデスクでパソコン作業をしている。
周りには機械があり、大きな音もする。
従業員が声をかけることもある。
水川が時折、そちらを見ても、猫は、ほとんど動くことがない。
変わった猫だ、それぐらいの認識だった。
彼女のおかげで、会社のホームページも新しくなった。
社員全員が、自分の仕事の様子をスマホで投稿できるようになった。
水川が当たり前だと思っていた仕事が、外から見れば会社の顔になる。
彼女は、それを形にした。
正社員として雇っていいのではないか。
水川は、そう思い始めていた。
「この猫は耳が悪いから」
そう言えば、自分は最初から断れなかったかもしれない。
だが、彼女は言わなかった。
そこが、水川には妙に残った。
その日、水川のスマホの着信音が鳴った。
メールではない、電話だ、知らない番号なので少し警戒しながらも出た。
「私、南城エンタープライスの者です」
水川は驚いた。
工場を視察したいという申し出だ。
大手企業だ、冷静になれと自分に言い聞かせる。
だが、不思議なことではないと思った。
あの会社は中小企業の支援、人材派遣をしているのだ。
ただ、自分の会社に、それほどの価値があるのかと思ってしまう。
その話を社員たちに伝えると、思った以上に反応があった。
「凄いじゃないですか」
「視察ですよね」
「ああ、ただの視察だ。詳しい話はまだしていない」
水川はそう言ったが、自分でも少し声が硬いのが分かった。
社員たちがざわつくのも無理はない。
普段、取引先が工場に来ることはある。
だが、大手の支援会社から直接連絡が来ることは、そうあるものではない。
「変なこと言わないようにしないとですね」
若い社員が冗談めかして言った。
「いつも通りでいい」
水川は短く返した。
そう言いながら、一番いつも通りでいられないのは自分かもしれないと思った。
秘書から視察の約束をとりつけたと報告を受けた南城はホッとした。
彩の娘が働いている、正社員になったようだ。
だが、驚きもある、若い女性だ。
もっと明るい場所、給料のいい職場、空調の効いたオフィス。
そういう場所で働きたいと考えるのではないか。
水川製作所のような小さな町工場選ぶ理由が、南城にはすぐに思いつかなかった。
そのことを若い秘書に話すと、彼はあっさりと言った。
「人それぞれです。接客業だと、わざとクレームをつけて店員を追い詰める客もいます。土下座させた、なんて話も聞きますよね」
「ああ、ニュースで聞くな」
「男性でも見た目が弱そうとか、相手が若い女性だったり、無理難題をいって、中には“自分に色目を使った”なんて言い出す人もいます」
南城の顔が曇った。
ネットや、ニュースで見たこともあると思った。
「深夜のコンビニ勤務なんて、女性だけじゃなく男性でも用心が必要です。犯罪に巻き込まれることもあります。定時で帰れる仕事を探すというのも何か理由があるんじゃないんですか」
秘書の言葉に南城は無言になった。
現場で働いていた若い女性が、定時で帰れる仕事を探す。
逃げではないのかもしれない。
生活を守るためという理由なら納得できると南城は思った。
イベントが終わりを告げる放送が流れる頃には、小川は少し疲弊していた。
何人もの原稿を見た。
どれも悪くはない、うまい、整っている。努力も見える。
だが、それだけだと思った。
「小川さん、これ、預かった原稿なんですが。持ち帰って読んでもいいですか」
若手の男性編集者が、紙袋を抱えて言った。
「全部か」
「気になるものだけです。正直、その場じゃ分からないのが何本かあって」
「無理はするなよ。最初から全部背負うと折れるぞ」
「はい。でも、捨てる判断も怖いんです」
小川は笑った。
「それなら読め。怖いと思えるうちは、まだ大丈夫だ」
経験だ、そのときは思っていた。
今年入ったばかりの一年目。しかも他社から入ってきた若手だ。
ライトノベルとは無縁のジャンルから来たのだから、持ち込み原稿に過剰に反応することもあるだろう。
その夜。
風呂から上がり、一息つこうと思ったとき、スマホが鳴った。
画面には、若手編集者の名前が出ている。
こんな時間に、どうした。
小川は眉をひそめながら通話を押した。
「気になる、いや、違う。気になるって言い方も変なんですが」
若手の声は、戸惑っているようだ。
「面白いって言われたら正直、困るんです」
困る、妙な言い方、いや感想だと思った。
「最近流行りの異世界転生でも、チートで無双でもない。恋愛者でもないんです」
「現代ものか」
「それは少し。高校生の女の子が、クラスから弾かれている。でも、それだけじゃないんです」
ああ、陰湿ないじめものか。
そう思った、ところが。
「老女がダンスを踊るんです」
スマホを持つ手の力が抜けそうになった。
「……なんだ、それは」
小川は言葉を飲み込んだ。
ギャグか、お笑いかと一瞬思った。
だが、違うと感じた。
それなら、わざわざ、電話をかけてくるはずがない。
「老女は通りすがりの他人なんです。女の子に声をかけて、踊り始めるんですが。そのダンス最初は下手というか」
言葉が切れた。
「少しずつ変わるんです。女の子だけでなく、通行人も目をとめて、見てしまうんです」
「老女のダンスにか」
「ええ。でも、ダンスが終わったとき――」
若手の声が止まる。
「言うな」
小川は止めた、電話の向こうが、一瞬静かになる。
若手が息を呑んだのが分かった。
聞きたくないわけではない。
むしろ、知りたいと思った。
老女のダンス、女の子は見てしまう。
通行人たちもだ、なぜだ。
どうして、足を止めてまで見たのか。
だが、それを言葉で聞いてはいけない気がした。
自分の目で確かめたい。
その原稿が本当にただの奇抜な作品なのか。
それとも、若手が判断できないほどの何かを持っているのか。
原稿は逃げない。
紙に書かれた文字は変わらない。
明日の朝、会社で読んでも同じだ。
小川はテーブルの上に置いたままの缶ビールを見た。
手を伸ばす気はない、代わりに。
「おまえ、今、どこにいる」
「え? 家ですが」
若手の声には、明らかな驚きが混じっていた。
「今から行く」
「今何時だと思ってるんです。明日でも――」
それは建前だろと小川は言いたかった。
「それなら、なんで、電話してきた」
返事はない。小川が自分が笑っていることに気づいた。
通話を切って車のキーをポケットにねじ込む。
何をしているんだ、と自分でも思った。
しかも、まだ一行も読んでいない原稿だ。
読んでもいない、いや、面白いかどうかも分からない。
若手が大げさに受け取っただけ、あり得る。
期待外れかもしれない。
それでも、足は止まらなかった。
小川が本当に驚くのは、原稿を読んだときだ。
だが、このときの彼は知らない。
今から取りに行く紙の束が、ただの持ち込み原稿ではなかったことを。