小川は車に乗り込み、助手席の茶封筒に目を向けた。
家に帰ってゆっくりと読めばいいと思った。
真夜中だ、この時間なら取り締まりのパトカーもいない。
缶コーヒーを開けて、半分ほど飲み干し、封筒の中身を取り出した。
一枚、二枚、三枚。
長編という程ではない、読み終わるのに時間は、それほどかからなかった。
「岸辺」
思わず若手編集者の名前を呟くとスマホを手にした。
寝ていないと思った。
勘だ、コール二度目で出た。
「小川さん、どうしたんです」
驚いた声だ、無理ない、小川は口元に笑いを浮かべた。
今、自分は駐車場にいると答えた。
「どうでした」
不安と期待の混じった声。
「俺の感想、聞きたいか」
一呼吸おく、明日だと答えた。
野崎が無言になった。
「俺に電話してきたとき、内容を説明しろと言われたら、おまえ、できたか」
小川は言葉を続けた。
「できないんじゃないか」
「はい」
即答だ。
「明日、会社でだ。じっくり読み返したい」
返事を待たずに小川はスマホを切った。
その日、朝から水川は緊張していた。
視察のために人が来る。
それだけなら、取引先の来訪と大きく変わらない。
だが、相手は南城光太郎だ。
南城エンタープライズの社長。
中小企業への人材支援や技術支援で名前を聞く。
写真でしか見たことはない。
だが、業界ではやり手として知られている。
小さな工場や個人経営の会社にも目を向け、支援や人材派遣を行う。
それで立ち直った企業もある。
父親から受け継いだ会社の経営だけで精一杯だった自分とは違うと思った。
工場が始まるのは九時。
それから三十分ほどして、二人はやってきた。
先に車を降りたのは、若い男性、秘書だろう。
工場の入口を一度だけ見上げてから、すぐに後部座席のドアへ回った。
続いて降りてきたのが、南城光太郎だ。
写真で見た印象よりも、少し柔らかい顔をしている。
「今日はお忙しいところ、ありがとうございます」
そう言って頭を下げたのは、秘書ではなく南城本人だ。
水川は一瞬、返事が遅れた。
腰が低い、というのとは違う。
相手を値踏みするような態度もない。
ただ、最初から目線を同じ高さに置いてくる。
それがかえって、水川にはやりにくかった。
工場は、それほど大きくはない。
若い秘書は作業場を確認するように視線を動かしていた。
「もしかして、従業員、増えていますか?」
若い秘書の言葉に、水川は頷いた。
「実は最近になって、求人への応募がありまして」
「ホームページを拝見しました。パソコンとスマホで違っていました。どちらも見やすかったです」
「ありがとうございます。最近入ってきた新入社員が作り直してくれたんです」
秘書はそこで初めて、少し目を上げた。
「社員の方が制作を?」
水川は頷いた。
南城は黙って聞いていた。
工場内の片隅に、秘書が視線を向けた。
デスクとパソコンに気づいたのだ。
「あそこは」
「事務処理です。以前、働いていた人間が、工場内の作業と事務処理の両方をやっていたので」
小さな工場だ。現場の中に置いた方が都合がいいのだろう。
パソコンに向かっている、女性の後ろ姿。
南城は、足を止めかけたが、すぐに歩幅を戻した。
三人がゆっくりと近づく。
キーボードを叩く音、ふいにやんだ。
「Willst du auf die Toilette?」
そろそろトイレに行く?
女性が振り返る。
猫に声をかけたのだと水川は気づいた。
だが、秘書と南城は一瞬、反応できなかった。
工場の中。パソコンの前に座る若い女性。
床に敷かれた毛布の上の黒い塊。
すべてが、南城の中でうまく結びつかなかった。
女性は三人に気づくと驚いた顔になるが、すぐに頭を下げた。
「すみません。トイレに行ってきます」
そう水川に声をかけ、椅子から立ち上がる。
黒い塊が、ゆっくりと顔を上げた。
猫だ。だが南城の想像より、ずっと大きい。
猫は口を開けた。声は聞こえない。
女性と猫がその場を離れると、秘書が水川に尋ねた。
「サイレントキャットですか」
水川は意味が分からなかった。
「鳴かない猫っているんです。完全に声を出さないわけじゃないですけど」
秘書は、女性が消えた方へ視線を向けた。
「聞こえていないのかもしれませんね」
耳が聞こえていない、ということか。
水川は、以前、若い社員が口にした言葉を思い出した。
あのときは変わった猫だ、くらいに思っていた。
だが、今の言い方は違うと思った。
珍しいものを見た驚きではない。
「生まれつきかもしれませんね」
秘書の言葉に、南城が尋ねた。
「分かるのか」
水川は思わず、女性が去っていった方を見た。
「大型の猫は生まれつき、体が弱かったり、病気って珍しくないんです」
秘書は声を落とした。
「女性も慣れている感じです」
南城は何も言わなかった。
「大事にしているんですね」
南城は女性が消えた通路の先を一度だけ見た。
猫を連れて働く。変わった条件だと思った。
ミサキの顔は、彩とは違う。
それは南城にも分かる。
だが、あの一瞬の目の伏せ方は、似ていた。
血が繋がっていないのに。
そう思った瞬間、南城は自分の中に生まれた動揺を押し込めた。
水川はふと気づいた。
木桜ミサキが猫を背中にしがみつかせたまま離れていく。
その後ろ姿を、南城が見ていた。
ただ目で追った、というほど短くはない。
まあ、見るだろう。
背中に大きな黒猫を背負っている。
初めて見れば、誰だって、そう。
だが、南城の視線は少し違うと思った。
「変わった社員でしょう」
水川は、軽く笑うように言った。
南城はすぐには答えなかった。
「ええ」
それだけだった。
その短さが、水川には妙に残った。
ただの視察、偶然だ。
そう片づけたはずなのに、胸の奥に小さな引っかかりだけが残った。
工場内の従業員を見て、南城が尋ねた。
「専門職の方に、高齢の方もいますね」
珍しくはない、だが、気づいた。
「車椅子を使っている方もいる。以前から、こちらで働いていたんですか」
水川は首を振った。
「いえ。ネットの求人を見て応募してくれたんです」
珍しいと思ったのか、秘書が尋ねた。
「ネットを見て応募してきたんですか」
水川は頷いた。
「求人ページを見て、他社と違うと思ったそうです」
「どういったところでしょう」
声が、少しだけ変わった。
驚いたというより、食いついたように聞こえた。
「キャリアや資格があれば、年齢は問わない。募集ページを見て気になった人は、夕方五時から夜十一時まで、担当者が直接電話を受けるようにしています」
南城は、資料から顔を上げた。
「夜十一時まで?工場の業務時間外ですね」
「ええ。作業が終わった後です」
秘書はすぐにはメモを取らない、手が止まっていた。
「最初は、夜に電話なんてと思いました。でも、昼間は電話できない事情ってあるんです。家族の世話。病院や役所の用事、驚きました」
秘書は一瞬、考え込む表情で南城を見た。
「転職を考えている人間なら、職場からは無理です。周りに知られたら、まずいです」
南城も頷いた。
「求人ページを作ったのも彼女ですか」
秘書の言葉に水川は頷いた。
「大変ではないですか」
秘書の言葉の後、南城が口を開いた。
「彼女に負担が偏りすぎていませんか」
水川は少しだけ考えた。
「そう見えるかもしれません。でも、任せきりにはしていません」
「というと」
「電話を受けるのは最初だけです。会うかどうか。面接は俺がやります。判断に迷うものも、俺に回すことにしています」
水川は工場の奥へ目をやった。
「木桜さんは定時で帰ります。件数が多い日は翌日に回す。無理なら出なくていい」
「それで回るんですか」
「回らないなら、やり方を変えます」
水川は少しだけ肩をすくめた。
「人を増やすために、今いる人間を潰したら意味がないでしょう」
「もしかして彼女専門職だったんですか」
秘書の言葉に水川は首を振った。
「知り合いから紹介されたんです。フリーターと聞いてます」
「フリーター、ですか」
秘書は繰り返した。
その声には、驚きはあったが、侮りはなかった。
水川は少し笑った。
「助かっています」
「それは、強いですね」
秘書は小さく言った。
南城は何も言わなかった。