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2025年11月21日ウェブサイトにて発表
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研究室の扉を叩く音が軽快に響いた。この訪問は決して重要だったり深刻だったりするものではないという空気を演出するかのように軽快で、軽薄な響きをもったノックだった。部屋の中の人間が「Come in」と短く言う。この研究室の所在は日本であり、土地に住む多くの人間は日本語を第一言語としているが、研究室に集うメンバー間では英語を用いることが多いため、とっさに出た返事が英語だったのだ。入室を許可する声を聞いた訪問者は扉から顔をのぞかせ、わざとらしいジャングリッシュ・アクセントで「ハロ〜、千空ちゃん」と手を上げた。“千空ちゃん”は片眉をあげるだけで答えた。「なんだ、ゲン、てめぇか」。
「司ちゃんいる〜?」
ゲンは研究室の中央テーブルにやってきた。大きな設計図の上で計算用の紙をばら撒きながら何やら数式や配線図を書き殴っている千空を覗き込む。
「司? 見てねぇな。バトルチームんとこじゃねぇか?」
設計図から目を離さずに千空は答えた。
「いや、それがいないのよ。最近よくいなくなっちゃうらしくてね。一部がちょっとざわついてんの」
「ほ〜。それでメンタリスト様が直々にお出ましってわけか。メンタリストっていうよかサイカイアトリストだな、もはや」
広くない研究室内をゆっくり歩き回りながら状況を説明するゲンに千空は新たな呼称を授けた。人を探しているとのことだが、研究室の様子、ロケット開発の進捗状況や研究者の心身の健康状態を確認しにもきたのだろう男へのその命名が気に入ったらしい千空は喉の奥を鳴らすように笑っている。
「友達を心配して何が悪いのさ。千空ちゃんだって心配なくせに」
「そりゃ、あいつのパワーとカリスマ性がありゃご都合良いことだらけだからな」
「はいはい。とにかく、司ちゃんに会ったらゲンが探してたって言っといてよね」
「おー、会ったらな」
ゲンが去って少し広くなった研究室を千空は見回した。ロケット開発のための実験器材、過去の実験データ、設計図、計算書で日に日に狭くなっていく研究室において、このストーンワールドでの古い友人であるかの大男がここを訪れた時、それは窮屈そうに、そしてその巨体によって部屋を狭くしていることをそれは申し訳なさそうにしていたことを思い出していた。そして彼がいなくなる、つまり彼が人知れず何かをしていることに対し、敏感に反応してしまう人間が少なくないことも思い出していた。かつて対立し、命のやり取りをした昨日の敵の姿を思い出していた。
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最近よくいなくなるという噂の男、司についての情報はゲンを通して千空の元へ伝えられ続けていた。武術を専門とする人たち、つまりバトルチームでの合同鍛錬の時間が終わると、ふらりと姿を消す。調理担当に聞けば皆と同じ席で昼食を取らず、その日のメニューを簡単な包みにして持っていくことがしばしばある。森に入っていくのを見た者がいる。手ぶらで戻ってくるため、狩猟や採集を目的としているわけではなさそうだ。何をしに出かけているのかと聞いた者に散歩だと答えたという。少なくないが核心的でない情報群だ。心理学や精神分析に長けているゲンはすでにこれらの断片的な情報のパズルを完成させているようだったが、その完成品が提示される前に千空もそのパズルにどのような映像が描かれているのかがおぼろげに見えてきた頃だった。
「よぉ、司。隣座るぞ」
「うん、どうぞ」
夕食の席である。海外拠点の一つから物資をのせた船が到着し、船員や外交員を労う簡単な酒宴が開かれていた。科学王国の主要人物として列席せざるを得ないものの、本来、社交的な性格でないためこのパーティでの時間を持て余している様子の男二人は隣合って座った。届いたばかりの外国産の食材が惜しげもなく使われた料理の数々を一通り食べて腹は満ちていた。もはやすることもなかった。まだまだ盛り上がる宴席を遠巻きに眺めながら、振る舞われる異国の酒の味を舌に馴染ませている千空は、遠い町の香りがする口を開いた。
「ロケット開発も失敗続きだ。もっと改良がいる」
仕事の話だった。気の利いた話題を提供する役は他の人間に任せて生きてきた男らしい切り口だった。とはいえ、つまらない宴会の場繋ぎには気の利いた話題などそもそも必要なく、そして、これはただの場繋ぎの世間話でもなかった。
「改良するにはもっとマンパワーが欲しい。人を増やすからには村を回すサポート人員も必要だ。司、てめぇ、目星はあるか」
大勢の人間が食事と酒にはしゃいでいる。ここにさらに人員を補充する。手当たり次第に復活させても良いのだが、旧知の仲であれば協力を仰ぎやすかろう。という旨の言葉を継ぎ足しながら、千空は司にリクルートの相談をした。表面上は。司は千空の問いの中に含まれる真意に気付いているような気付いていないようなあいまいな表情で微笑みながら、相手を全面的に受け入れる懐の深さをみせる一方で自分の意見を隠匿するあの頷きをもって返答する。
「うん、そうだな、南に聞いてみよう」
想定された返答そのままが返ってきたことに千空は片まぶたを少し動かした。その表情筋の動きに司は困ったように笑うだけだった。
「あぁ、記者様にはさんざ聞いたわ。そんで一通り起こした。てめぇに起こしてぇやつはいないのかって聞いてんだ」
外堀を埋める、遠回りをすることで真意を引き出す、そういった技巧的なことに不得手な男は降参を示すかのように片手をあげながら率直な言葉を口にする。森に入っていく司を見た者たちから聞くに、司は決まった方向に向かっていくそうだった。気に入りの散歩コースがある、という見方もあるが、目的地があり、そこへ日参していると考える方が妥当であろう。司が向かうのは関東方面だという。石化前、格闘家として活動していた司の拠点としていた大都市、東京のある方角。思い出もあるだろう、思い残しもあるだろう。会いたい人間もいるだろう。その会いたい人間は、いまだ、どこかで石像のままである、ということもあるだろう。
「……あんなことをしておいて未来も俺も助けてもらったんだ、これ以上は何も望まないよ」
東京方面といえば、奇跡の洞窟があるあたりでもある。かつて千空と対立した司が築いた“帝国”の記憶がまだ新しい、あの関東平野だ。司は自分が首を突きぐったりとうなだれた少年の姿が思い出された。あの諍いで流れた血の赤が、破壊した石像の破片が脳裏に浮かんだ。全てが過ちだったとは言わない。あの思想に辿り着くだけの理由が自分にはあった。だとして。不幸は暴力の理由として良いはずがなかった。少なくとも、誰かの描いたユートピアのためにこの純情な少年の命が奪われて良いはずがなかったのだ。
神の子の如く復活した純情な少年は、もはや少年というほど若くなく、共に年を重ねた戦友のいまだ遠慮がちな言動に舌打ちをしていた。
「俺たちは全人類助ける。ロケットが飛ぶ前か飛んだ後か、そんな数年、3700年に比べりゃ誤差だ」
今起こそうが、全てが解決してから起こそうが大して変わらないのだから、起こしたい奴がいるならさっさと起こしてこい。てめぇがコソコソしてるのを見せられる方が大いに士気に関わる。そもそも、いまだに負い目を感じているのであれば、これほどの苦難を共にし背中を預けあってきた自分たちへの冒涜ですらある。酒も入っていつも以上に乱暴な言い回しをする千空は細い手で司の広い背を強く叩いた。
「うん」
千空の力程度で叩かれたところでびくともしないほど膂力に恵まれているはずの司はどこか辛そうに微笑んで頷くだけで、森へ消える理由も、起こしたい人間が本当にいるのかも、明言しないままだった。
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青空教室はいまや青空ではなく小さな小屋が教室として設えられ、石神村の子供たちを中心に文字や計算を学ぶ場となっていた。最近復活した元教師の人間が教鞭をとることもあれば、村の人間にとって馴染みのある最初期の復活者が教壇に立つこともあった。今日は後者である。マジシャンでありメンタリストである男がボードゲームを子供たちに教えていた。手製のボードゲームはいわゆる“すごろく”である。出た目の数を数え、マスに書かれた文字を読み、内容を理解して指示に従う。総合的な知育効果を狙った遊びであり、ロケット作りに邁進する科学王国でともすれば後回しにされがちな子供たちへの労いでもあった。そして、子供たちとの雑談から得られる子供だからこそ知る村の情報を収集するのも男の目的であった。
「未来ちゃん。司ちゃんが探してるのって誰だか知ってる?」
一通りルールを説明して子供たちが自分達だけで遊び始めたのを確認したゲンは、まだ順番が回ってきておらず、すごろくを楽しんでいる輪に首を突っ込みながらも手持ち無沙汰にしている少女に声をかけた。この少女の順番が後になるように根回ししたのはゲンだった。ゲンはこの女の子、司の妹の未来に聞きたいことがあったのだ。
「兄さんが? うーん、親戚もおらんしなぁ」
未来は首を傾げる。そもそも兄が誰かを探していると知らなかったらしく、少女は兄との思い出の中に登場する人間を思い浮かべては、わざわざ探し回るほど世話になった人物がいないことを確認するばかりであった。しかしこれは未来から答えが得られると踏んでの質問ではなかった。この質問が未来にされたことが兄の司に伝わること、未来に聞くほど司が時々行方をくらますことへの憂慮が高まっているという事実を司自身が認識することがおおよその目的であった。単に司を憐れんでいたり心配している人間だけならまだしも、何か企みがあるのかと邪推する人間がいないとも限らない。それこそ司帝国の記憶がある人間にとっては武力によるクーデターの可能性が脳裏をよぎることもあるだろう。この問題は少しずつ深刻なものとなっていた。
「友達とかなんかなぁ。でも、兄さんにどんな友達がおったとかうち全然知らんねん、ずっと寝てたから……」
未来は申し訳なさそうに俯いた。病に臥していた未来は石化前の兄の交友関係を知らなかった。どのような仕事をしていて、これほど人から知られるに至ったのかですら。ゲンは慌てた。想定していた効果を得る前に、他者を傷付けるのは違う。子供時代を寝て過ごさざるを得なかった悲しみも、兄を一人きりにしてしまった罪悪感も、今更この少女に思い出させる必要はなかった。急いで口を開く。気をそらさせる饒舌は男の得意とするところだった。
「そ、そうよね〜! いや、いいのいいの。ちょ〜っと気になっただけだから。今度本人に直接聞くから大丈夫!」
「うん、そやね。本人に聞くのが一番や」
すごろくの進捗を横目に確認しながらゲンは思考していた。すごろくが終わらず未来の番が回ってこないようであれば、別の話題を投じる必要がある。近頃、裁縫を習っていると聞いた、その話題について、もしくは今日の夕食のメニューについて、ゲンがくる前に行われていた授業で出た宿題について。最適解を探っていた。そこへ、落ち込ませてしまっただろうかと心配していた少女の明るい声が響いた。
「あ、ちょうど兄さんや!」
教室の外から顔を覗かせている大男が、低い鴨居に向かって腰を曲げ、小さく手を振っていた。司だった。
「未来、これお土産だよ」
「わぁ、キレイなお花!」
建設用の木材の伐採に出かけていたらしい司は、林の中で見つけた花を一枝手折ってきた。妹へのプレゼントだった。未来は兄からの突然の贈り物を喜んで、その白い花に顔を寄せた。香り高い花だった。「俺たちの時代で言うところのバイカウツギじゃないかって」。花の香りを吸い込む妹の姿を、司は微笑みながら見下ろしている。
「なんや懐かしい匂いがすんなぁ」
ひとしきり花の香りを楽しんだ未来が言った。
「えっ」
司が短く声を発した。
「ん? どうしたん?」
未来が司を見上げる。司は明らかに動揺していた。しかし、妹に余計な心配をかけまいとすぐにまた微笑んだ。妹の柔らかい髪をなでる。
「いや、少しびっくりしただけだよ。この花と同じ種類のものを病室に飾ったことがあったんだ。覚えているのかなって」
梅の花に似た丸い花びらがひらりと舞った。香りが立った。ほんのりと甘さのある、柑橘系やハーブに似た香りだった。未来は病室に活けられた切花からこの香りを嗅いでいたのだろうか。それを覚えていたのだろうか。まさか。バイカウツギは香料として香水などにも利用されることがある。どこかで覚えがあってもおかしくない。いや、しかし。司は未来の発した“懐かしい”という言葉を反芻しながら、白い花を見下ろしていた。
「眠っていても嗅覚は働いているっていうものね〜」
二人の会話を聞いていたゲンが付け加える。この言葉に司の顔が今一度少しの動揺を見せる。ゲンはその揺らぎにどのような感情があるのか見極めようと、慈しみ合う兄妹の姿に目を細めながら、司の様子を見守っていた。
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石化前の東京の病院の一室で、司は眠り続ける妹を見守っていた。病室は広かった。最近広い個室に移動したのだ。眺めがよく、日当たりも良い部屋だった。部屋代はもちろん嵩んだ。しかしそれくらいどうということはなかった。たった一人の大切な人のため、稼ぐ金は全て注ぎ込むつもりだったからだ。このところ、大きな格闘技の大会で勝利し、知名度が急激に高まった。テレビ番組や雑誌、ラジオにも呼ばれることが増えた。病院の設定した面会時間内に会いに来れなくなっていた。それもあって全日面会が可能な有料の個室にしたのだった。気兼ねなく妹に話しかけることもできたし、付き添いのベッドで共に眠ることもできた。かつて聞いたかわいらしい寝息の代わりに、生命維持装置が作動する機械的な音が響く病室で、それでも妹がまだ生きていることの証左であるその音に縋りながら、司は眠るのだった。
その日もこんこんと眠る妹に海外遠征の土産を捧げながら、司は初めて行った外国の街の様子を話して聞かせていた。自宅のソファよりも長い時間を過ごしている病室に備えられた丸椅子に腰掛け、小さな声で語りかける。いつか一緒に行こう。一緒に街を歩こう。また、手に手をとって楽しいことをしよう。痩せた手を握ろうとする。しかし、ためらう。伸ばした手が痙攣するように退く。その時、背後で病室の戸が引かれる音がした。ベッドがくぐれるよう間口の大きなその引き戸をくぐってやってきたのは、医師でも看護師でもなく、司のマネージャーだった。
「お疲れ様です。お邪魔でしたか?」
マネージャーは担当タレントである司に挨拶をした。若い女性のマネージャーだった。格闘家としての勝利や成功よりも、さまざまな媒体で活動し、より多くの金を稼ぐことを目的としていた司は格闘ジムではなく、芸能事務所に所属していた。事務所およびマネージャーが試合のコーディネート、テレビ等のメディアとの調整を行う。司にとってわずらわしいだけの事務所同士や権利者間のパワーバランスなどは全てマネージャーが考慮し、仕事を取捨選択する。与えられた仕事の目的はマネージャーから司に伝達される。数年前に担当となったこの女性のマネージャーの仕事には随分助けられていた。
そのマネージャーは時折こうして未来の病室を訪れた。今日は何か大きな紙袋を持っている。司の視線が荷物に注がれていることに気づいたマネージャーは、小さく瞼を動かして微笑みのような表情を作った。これは彼女の癖のようだった。
「花瓶。プレゼントです。病院のものをお借りしていると聞いたので」
少し遅くなりましたが小学校卒業のお祝いに。紙袋から箱が、箱の中から陶器製の花瓶が取り出された。起きていれば小学校を終えていたはずの未来へのプレゼントとして、マネージャーが選んだものらしい。卒入学シーズンはちょうど海外遠征に行っていた。今はもう初夏だ。どんどんと季節が過ぎていく。妹は眠り続けている。ともすれば無力感に押しつぶされそうになりながら、司は花瓶が枕元の棚に置かれる様を見ていた。
マネージャーの女性が未来にプレゼントを贈ることはしばしばあった。誕生日やクリスマス。遠征のお土産など。これまで未来を気遣う人間は自分一人だったところに、未来のためを思って贈り物を選び運んでくる別の人間が現れたことを、司は密かに嬉しく思っていた。とてもありがたいことと思っていた。
眠り続ける妹は司の戦う理由であり、生きる理由であった。妹だけが司の人生のよすがであった。一方で、妹の快癒を望んでいるのは自分一人だけであり、もはや妹の存在を、妹の闘病を知り、応援しているのは自分一人だけでもあった。自分の命と等しい妹がどんどんと世間から置き去りにされている。自分の生きる意味が置き去りにされている。憎むべき資本主義社会に跪いてまで金を稼ぎ続ける意味が、かすんでいく。そこへ、この女性が現れたのだ。自分以外に未来の誕生日を覚えていたり、未来の年齢を数えていたり、旅先で土産を買う相手として未来を思い浮かべたりする人間が、現れた。それが、この女性だった。今の事務所に入所して数人目のマネージャーだった。
「寝ている間も嗅覚は働いているそうですよ。お花の香りで少しでも楽しい夢を見てもらえたら良いですね」
花瓶と共に買ってきたらしい花を手にとってマネージャーは言った。この季節のお花だそうです。なんて名前だったかな。花束の包装を解きながらマネージャーは花の名前を思い出そうとしていた。そうそう、バイカウツギ。良い香りですよね。マネージャーの女性が丁寧に包装を除いていくたび、小さな白い花が揺れては香った。ほんのりと甘さのある、柑橘系やハーブに似た香りだった。
花の名を唱えたマネージャーの手から司は花束を取り上げる。水揚げをしてくるよ。司はベッド脇の丸椅子から立ち上がり、花束を抱えて廊下に出る。歩くたび、胸元で可憐な丸い花弁が揺れ、香りが立ちのぼった。良い香りですよね。マネージャーの言葉に胸中で首肯する。花の香りを快く感じたのは久しぶりのことだった。妹もこの花の香を良い香りと感じてくれるだろうか。
「未来、良い香りだね」
定位置であるベッド脇の椅子に戻った司は、花瓶に活けた花を一枝とって未来の顔に近づけた。人工呼吸器ごしでいかほどの香りが届くのかは分からないが、それでもいつもと違う香りが近くにあることを知って欲しかった。今、外は暑くなってきた。夏がやってくる。桜は散って、木々の葉が青々と茂っている。この花はそんな初夏に咲く花だそうだよ。未来はお姫様に憧れる、かわいいものが好きな子だったから、この花もきっと気にいるだろうな。語りかけたい多くを、一枝を捧げるという行為に集約する。その一枝を握らせてあげようと未来の手に自分の手を伸ばした。しかし、躊躇する。先ほどと同じように。その躊躇する様子を見たマネージャーは、遠慮がちに質問する。
「どうされました?」
「……こんな手で未来に触っていいのだろうか」
司はMP関節、いわゆる第三関節にについた赤黒い傷を見下ろしている。試合でもトレーニングでもバンデージを巻いてグローブをつけてはいるが、仕事柄、傷は絶えない。この傷らだけの手で妹に触れて良いのか。司は躊躇していたのだ。人を殴った手で未来の手を握って、果たして許されるのだろうか。
「次の試合のファイトマネーはこれまでで一番高いそうですね。注目度も上がってバラエティなどの出演料も上がるはずです。治療費、どんどん貯まりますね」
未来ちゃんのために頑張っているこの手が、触っていけないなんてことないですよ。マネージャーは椅子に座る司の背後から自身の手を伸ばし司の手に添えた。そして花のついた枝を持つ司の手を未来の元へ導く。未来のひんやりとした小さな手に司の手が、司の手についた傷跡を覆い隠すようにマネージャーの手が重なった。マネージャーの女性の手は温かく、柔らかかった。
着実に治療費は貯まっていっている。その事実だけにおいて、少なくとも昨日より今日の方が素晴らしい日である。仕事も増えている。まだ稼げる。仕事が増えるほどに疲労もまた増えたとしても、稼いだ金を費やせるような治療法がまだ見つからなくとも、妹の目覚める気配がなくとも、ブラック・ジャックのような名医がいつ現れても良いように金を貯め続ける。その点だけにおいて、司は昨日より、今日の方が、前進している、そう自身に思い込ませていた。
あれほど嫌う既存のシステムの中で暴力を見世物にして得た金で救われたとして、未来は喜ぶだろうか。世界への憎悪を兄妹愛とすり替え、自身の暴力性をショーという仮面で隠して、嫌悪する大人を殴る代わりに対戦相手を殴って、そのために抑圧されそのために蹂躙された金という装置を蓄えることだけを明日への希望としている自分の姿は、未来に慕われる兄の姿と言えるのだろうか。疑問が湧かないこともない。しかし今立ち止まってしまったら、もう、歩き出せない気もしていた。
眠る未来に添えられた白い花を見下ろし、最も恐れている場面が浮かびそうになる。もし最悪のことが起きたら。この眠る少女が花で埋め尽くされる日が来たら。司は想像だとしてもそんな場面を見たくないと、静かに、祈るように目を閉じた。沈痛な面持ちで妹の手を握る司の手を、女性の手が上から握る。司はその握力を感じてマネージャーを見上げた。瞼を少し動かす、あの微笑みに似た表情でマネージャーは司を見ていた。その表情があからさまな憐憫や、あからさまな媚態でないことを確認して、司は人差し指と親指をそっと動かし、重ねられた手に応えた。
「実は獅子王さんにもプレゼントがあるんですよ。あ、同じ獅子王さんですね。司さんに。同じ陶芸家さんの焼いたカップです。病室にいる間にお茶でも飲んでください。一応カフェインの摂取量はトレーナーさんと相談してくださいね」
マネージャーが司に贈ったカップは、花瓶と同じモチーフがあしらわれたティーカップだった。ソーサーがついている。ソーサー付のティーカップで茶をたしなむなど、これまでの生活ではしたことがなかった。自分の大きな手で触れたら折れてしまいそうな繊細なハンドルにおそるおそる指をかける司を見て、マネージャーはくすりと笑った。
「そんなにそっと触れなくて大丈夫ですよ。食洗機もOKらしいですし」
この女性の誕生日を聞こう。そして次の誕生日にはカップを贈ろう。ここで三人でお茶を飲もう。司はこの時そう思ったが、ついぞ誕生日を聞かぬうちに、世界は石化光線に覆われたのだった。
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カップのハンドルに触れた時のように、おそるおそる司は指を伸ばした。細い石の指に触れた。
「誰かと手を握り合ったのは本当に久しぶりだったんだ。未来が眠ってしまったから。対戦相手と睨み合いながら握手をすることはあったけどね」
かつて司帝国の根城としていた洞穴住居の一角に司はいる。ロケット開発拠点としている村からたびたび姿を消してやってきていたのは、帝国時代に司の個室としていた部屋であった。司は部屋に安置されている一体の石像に話しかけている。洞窟に司一人だけの声が響いている。
「手を取り合って他者の体温を感じて、それがただなんかいいなぁって思うなんて久しぶりだった。それと同時に、君の手の温かさを自分の手で感じるほど、それが嬉しいと思うほど、未来が起きる日が遠のくような気がしてしまって、恐ろしくもあった。だって、一度に、そんなにたくさんの幸せなんて、手に入るわけがない、って」
石像はマネージャーの女性だった。司が持ち込んだ衣服を着せられた彼女は、石化時、打ち合わせをしている最中だったのだろうか、何かに腰掛けているような格好をして石になっていた。司はその石像を丸太で作った椅子に座らせている。その横に司も腰掛けている。暗い洞窟から明るい外の景色を眺めるように横並びになって座っている。膝の上に行儀よく置かれた女性の指に触れて、今日も、どこも欠けていないことを確かめる。そして持ってきた昼食を食べたり、これまでの出来事や、今携わっている仕事などについて語ったりする。それがここのところの司の日課になっていた。
「今、すごく幸せなんだ。未来が元気に走り回っていて。頼りになる仲間がいて。頼ってくれる仲間がいて。だから」
一度に多くの幸せが手に入ることはない。そう思っていなければ幸せの重さに押し潰されてしまう。幸福は恐ろしいから。きれいな貝殻を見つけても、それを贈る妹が眠ってしまったように、どれだけ金を稼ぐ才能があっても、金をかけるべき治療法が見つからなかったように。いいこともあれば悪いこともある。それが人生のはずだ。良いことばかりが起こるはずがない。そうあるべきでない。まして、善人の元に数多の幸福が降り注ぐならまだしも、多くの石像を破壊し、多くの人間を殺めた人間の元に抱えきれないほどの幸福が訪れるなどありえない。だから。
「ごめんね、まだ、もう少し」
起こしたいやつはいないか。千空に聞かれた時、明確にこの女性の顔が浮かんでいた。とっくに見つけ保護している女性の石像を思い出していた。起こしたい。もう一度会いたい。もう一度声が聞きたい。もう一度手を握ってほしい。そう思わないわけがなかった。しかし、自分の希望で彼女を起こすことは、今の、すでに多くの幸福に囲まれている司にとって過剰すぎたのだった。
「君は大人として、子供の俺を守ってくれていたね」
マネージャーの女性はよく司を理解し、仕事を選んで取ってきた。バラエティ番組で司の過去や境遇を面白おかしく脚色して放映されそうになった時、普段は温厚な彼女は激昂して、その放映を取り下げさせた。司の嫌う“大人”との対談が組まれたビジネス雑誌の取材は断った。パパラッチや熱心すぎるファンから守るため常に車で送迎をするのはもちろん、擦り寄ってくる女性タレントの対応に苦慮している司の代わりに断りの文句を述べ、嫉妬まがいの平手打ちを喰らうことさえあった。そんな彼女を見て、司は全ての大人に対する不信感を拭いきれないながら、どこか彼女を信頼し、好意的に感ずる自分を認めつつあった。
司が自分の担当するタレントだったから、メンタルケアの一環で優しくしていただけなのかもしれない。未来を見舞ったり、贈り物をしたりすることも仕事のうちだったのかもしれない。妹に寄り添う司の姿が健気だったから慰めただけかもしれない。唯一の家族も失いかけている司が、かわいそうだから手を取っただけかもしれない。彼女が優しいから社会に踏みつけられる少年を放っておけなかっただけかもしれない。
「そろそろ君の年齢に追いつくよ。今度は俺に君を守らせてほしいんだ」
今ふたたび目覚めて、大人になった自分を見て、彼女は守るべき子供だった自分よりも魅力的に感じてくれるだろうか。かすかな期待。もはや守るべき存在でないと離れていくだろうか。勝手な諦念。いろいろなことを経験した人間としての自分に恋情のようなものを抱いてくれる可能性。もうビジネスとしても庇護対象としてもそばにいる必要がなくなった自分から離れてしまう可能性。司が期待して、諦めて、その繰り返しをしているうちに、全人類復活への道は着実に拓けていっていた。もう一度、その体温を感じたい。ただそれだけの本心だけが置き去りになっていく。
「だから、俺がもう少し立派な大人になるまで待っていて」
幸福を恐れないほど立派になるまで。暴力と排除によるユートピアしか思いつけないような稚拙さを脱却するまで。この身勝手な願いも、身勝手な願いに付き合わせて彼女を幽閉し続けることも、全てにおいていかにも幼稚なことであることは司自身、十分理解していた。しかしまだ、彼女に再会するだけの勇気が、この誰よりも強く、誰よりも大きな体に備わっていなかった。
それほど膂力に秀でているわけでも、知能が優れているわけでもない。手先が器用だったり、特別な技能があるわけではない。優しいだけが取り柄の女性。今の厳しいストーンワールドにおいて、わざわざ起こす必要があるような有能な人物ではない。彼女を起こさない対外的な理由、ふけば飛ぶような理論武装をお守りに、司はこの女性の石像を隠匿し続けていた。
彼女は起きたいかもしれない。優しいから。起きて、誰かの役に立ちたいかもしれない。しかし、司には起こすことができない。かといって自分の知らないうちに彼女が起こされて、一番初めに見る顔が自分でないというのも耐えられない。彼女の石像をこっそり隠し置き、日常的に会いに来ては話を聞かせ、不安定な形で石になっている彼女が傷つかないように枯葉を敷き詰めたベッドに寝かせて帰るばかりである。
「これ、いつか君がくれた花に似ていると思って」
司は白い花のついた枝を掲げた。未来に贈った一枝とは別にもう一枝手折ってきたものだ。かつてこの女性が未来に贈った花とよく似た形、よく似た香りの花。その花を彼女の手に握らせる。石の指先は花を取り落とす。うまく握り返せなかったあの日と違い、司はその指を枝ごとそっと包み込む。温かく、柔らかかった彼女の指を思い出しながら、冷たく、硬い石の指を握る。
「未来がね、この香りを懐かしいと言ったんだ。君は、どうかな」
彼女の言葉を思い出す。寝ている間も嗅覚は働いているそうですよ。では石になっている間は。この花の香りは石となった彼女に何か思い起こさせているだろうか。千年単位で月日が流れた今、植生は変化しているだろう。彼女がくれた花と同種のものに見えても、香りや形は異なるかもしれない。しかし、この世界においても武力を自身の特技としている司は、幸か不幸か、植物学に明るくなく、ただあの時と同じ白い花だと、この一枝を幸福な思い出の象徴として大事に握りしめて彼女に会いに来たのだった。
「初夏だよ。夏が来る。木々の葉が青々と茂っているのがよく見える」
暗い洞窟の中から二人は初夏のきらめく日差しに照らされた森を見ている。手元に小さな白い花の香りを感じながら。
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♪ Syrup16g - Reborn